青春、朝露の如し


 六月だというのに青く澄み渡った空の下で、女子はハンドボールのラインを引き終え、とうに試合を始めていた。
 緑は揺れる、風に揺れる。少年少女達にとって、今は日傘として働いている楠。その木蔭に向かってボールは転がって行った。荻野美和子はそれを追い掛けたが、ボールに追い付くことなど到底不可能であった。二百メートル走のスタートを待ち構えている男子の群れの中にボールは転がり込み、笹口成治の踵に当たって向きを変え、宮谷直幸によって拾われることとなった。
「有難ーう」
 宮谷の手から離れたボールは放物線を描き、荻野を歩かせることなく見事に彼女の手中に収まった。宮谷はそれを見届けて心から満足し、走って試合に戻って行く荻野の後ろ姿を見送るのであった。
 
 笹口が走る番だ。見る限りでは速そうにないのだが、皆の予想に反して素晴らしい速さで遠ざかって行く。そしてトラックを回り、みるみる内にゴールインしてしまった。一緒にスタートした者に、五メートルほども差を付けて。笹口は疲れているであろうか。体育教師にタイムを聞かされているその姿は、走り始める前と何ら変わったところがなく、これからまだまだどこまでも走って行けそうにすら見えるのだ。
 が、いつまでも羨望の眼差しで見詰めるのは止めよう。宮谷にも順番は回って来る。そして、走る。一緒にスタートするのは、走るのが遅い水沢だった。水沢より速くたって、何の自慢にもならない。笹口より速く走ることが俺には可能なのであろうか。

 走り終えた7組の連中は、女子のハンドボールコートのずっと向こうで歓声を上げながらバレーボールの練習をしている。二百メートル走るだけで、あの集団に混じることが出来るのだ。
 なんだ、たったの二百メートルではないか! あの集団は何も凄いことをしてはいない。ただ、言われるままに走って、コートへ歩いて行き、そしてバレーを始めただけだ。 誰にでも出来る筈なのに、何故か宮谷は不安を感じずには居れないのであった。それは緊張とも違う、純粋な不安で、何に対するものであるのか追及すればするほど曖昧に溶けてしまう。
 あえて言うなら、小学校の給食の時間に感じた、コーンサラダに袋いっぱいのマヨネーズを全部ぶっ掛けてどろどろになった気味の悪い物を食べ切ることが出来るのだろうか? という幼稚な不安に、似ている、いや、これでも表現は的確でない。
 そして、ついにスタートの時は来た。水沢は平然としている。余裕があるのか、それとも諦めているのか。宮谷は、位置に着いた……トラックを回る時に転倒しやしないか。

 荻野は試合をしていた。シュートしたその瞬間、ゴールの向こう側に、スタートしたばかりの宮谷の姿を捉えた。シュートは、キーパーに阻止されずに右下の隅に決まった。同じチームの者達が彼女の背後で歓声を上げる。荻野は振り向き、その中へ飛び込んで行く。
 校舎の方を見る。時計を見るついでにトラックも見る。宮谷の姿が過ぎて行く。水沢を七、八メートル離しているのだった。荻野は思わずその姿を目で追った。あんなに速かったか? 目を疑ってしまうほどの速さであった。
 やがて宮谷はそのスピードを保持したままゴールを駆け抜け、十メートルほど余分に走ってようやく立ち止まった。
 宮谷が振りかえった時、ちょうど水沢がゴールに入ったのだった。
 荻野は今やもう、彼を見ていない。

 呼吸を整えるべく、宮谷はゴール付近をうろうろ歩き回っていた。しかし教師に早く行けと命令され、仕方なく足を引き摺りながらバレーコートへと向かった。
 男子達は好き勝手なことをやっていた。早く走ってしまう方が得だったのか、と宮谷は思い直した。
 最初はそんな風に思いはしなかった。緊張感が急激に高まり、それを抑制する時間が少なければ、頭の中が混乱状態に陥ったままで二百メートルを走破する羽目になるだろう、と思い込んでいたのであるが、どうやらそれは大きな誤りであったようだ。初めのうちなら、緊張感が高まるどころか、何の感情もなくして走り切ることが出来たはずである。そして、走り終えると暫くの間――それはかなり長い時間、教師の命令に縛られもせず、自分達だけで自由にバレーボールを楽しめたのだ。
 そんなことに気付いたところで、それは反省にも後悔にもならない。先に走れば得だ、と言ったって、五十音順に最初から決まっているのだから、どうしようもない。勝手にばらばらに並んでも、無秩序になるだけだ。しからば、教師に決められた順番に従うしかないではないか。
 完全に定着している慣行、それを覆そうとしても空回りしてばかりで、その上周りはぐちゃぐちゃに混乱してしまうだけ。そう、覆そうとしても誰も褒めてくれはしない。貶す人は居るとしても。
 覆すべきか覆すべきでないのか、その判断を誤らずに生きて行く自信が宮谷にはない。何故か、周囲の人間は自信に満ち溢れているように見受けられるのだ。そんなはずはないのだが、確かめてみる手段は何もない。
 それに、そんなものを探し回っていると、道からどんどん逸れてしまって、遅れをとることになる。

 宮谷の不安は膨張していく。
 小学一年生のある日、遠足から小学校に戻り、バナナと牛乳を出された時のことを思い出す。
 皆が帰る準備をし始めているというのに、宮谷は未だバナナを半分持っていた。早く食べなさい、と教師に急かされ、急いでバナナを詰め込み牛乳で流し込もうとした時に込み上げてきた、あの嘔吐感を伴う不安、あるいはその嘔吐感が併発する不安に似ている!  などと説明しても、誰も理解してはくれないだろう。幼稚な、馬鹿馬鹿しい! と言って突き放すだけであろう。
 だがしかし、小学校低学年の頃の純粋な不安が自分の中で蘇生するのを感じ、宮谷は不安の原点に一瞬にして帰ってしまう。それは彼の精神的な未熟さを表しているのだろうか、それとも誰にでも起こり得ることに過ぎないのか。
 そんなことについて色々考察していると、気が付けば誰も居ない、などということになるのだった。
 今やもう誰も彼を見ていない。

 試合終了を知らせる笛の音が鳴り響き、荻野は溜息を漏らした。一点差で負けた。悔しいのか悔しくないのかよく分からぬうちに彼女はそうしていたのだ、無意識に。
 惜しかったね、などと口々に言い合いながらコートから出て行き、ふと校舎の時計を見やるついでにバレーコートに目をやった、ほんの一瞬、視界に入ったのは体操服姿の男子がうじゃうじゃ居る光景だった。誰が誰なのか分かりはしない。確かにその中に宮谷は居たのだ。
 もしその画像を一時停止させて分析することが可能ならば、彼女は分析するであろうか。

 宮谷は、神山和輝と一緒にバレーボールをしていた。そして苦い思い出の中に浸っていた。
 ……バナナを早く飲み込まなければ、早く、早く!
「早く! 早く!」
 宮谷の、声にならない自身へ向けた独り言と、神山の肉声は、その時奇しくも一致していたのだ。神山は笑っていた。宮谷は「お前は食べ終わってるからいいよな!」と言いたかったが、言えなかった。何とか苦労して飲み込んだ時、神山はもう教室から出るところであった。
――ボクヲオイテイクノカ。
「かず君、待ってえや……」
 宮谷は、楽しげに歓声を上げる神山の顔を見ながら、そんな昔を回想していたのだった。
 体育の授業は、まだまだ続く。

青春、朝露の如し

青春、朝露の如し

設定:1992年

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-08-03

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