さすらい又従兄
一.夕暮れの我が家へようこそ
中学校での部活動の光景が、住江の部屋の大きな窓の向こうに見えている。窓際のテーブルに並べたスナック菓子を、椅子に座って優とシノが食べまくっている。住江は、本棚から漫画を何冊か取り出し、テーブルの上に積んだ。
「はいよ。読みや」
優とシノはその本に目を向けず、運動場で繰り広げられるバスケットボールの試合を見ている。
「なあ住江、ここってバスケ強いん?」
シノにそう尋ねられ、住江は、
「知らんわそんなん。興味なし」
と答えた。優は不思議そうな顔をして聞く。
「お兄さんバスケ部やったんじゃなかった?」
「そうやけど、兄ちゃんの中学時代は、まだあっちの家やったから」
住江は懐旧せずに居れない。
六年前まで住んでいた、毛馬町の家。いつも川の匂いがしていた。
思い出すのは夕暮れ頃の光景であった。暑くなってくると学校から帰ると銭湯へよく行った。水風呂で友人達と騒いでいたのだ。その後で、暗くなりかけた道を歩きながら飲むラムネは、格別であった。
そんなことを思い出しながら、住江は提案する。
「ラムネ買うてあるから飲も」
「えっ、ラムネ? 懐かし!」
「プラスチックの瓶のやけどな」
住江は、部屋を出て階段を降りる。
台所に入ると、珍しく早く帰宅した兄が、テレビを見ながらするめを食べていた。
「あれま、もう帰ってたん」
「たまには早よ帰って家族の団欒を楽しむっちゅうのもええかと思てな」
「ほんまかいな。調子のええこと言うてからに」
住江は冷蔵庫からラムネを三本取り出す。
「友達来てんのか?」
「そうや。玄関に靴あったやろな」
「裏から入ったから見てへん」
「もう。お母さん『あっちから入ったりこっちから入ったりしな!』て怒ってたのに」
「やかましなお前は。ほっとけ」
住江はラムネを抱えて逃げ去る。
部屋に戻ると、シノと優は手を伸ばしてラムネを取った。
「大きい声やな住江兄妹は。会話丸聞こえやで」
シノは呆れた様子で言う。優は笑い、それから聞いた。
「なんであっちから入ったりこっちから入ったりしたらあかんの?」
「兄ちゃん、晩あっちで靴脱いどいてな、朝出る時玄関まで行って『靴ない! 取ってくれ!』言うてお母さんに取りに行かすねん。けしからん息子やろ」
「はは、そうなんや。……でも、裏口のある家ってなんかいいよな」
シノはしみじみと言う。住江は、
「そうや、私も昔は憧れとったわ。あっち居った時」
と独り言のように言った。
そう、あの日。と、住江は振り返る。
住江一家が毛馬町から越して来る前、御幸町のその家には、母の従姉の一家が住んでいた。
雨に降られ、「見野」と書かれた表札が濡れていた。
一九八八年三月二十五日。住江一家は、見野一家の引越の手伝いに出掛けたのだ。が、住江は、何をしたのか殆ど覚えていない。ただ、記憶に残っているのは、又従兄の敏行と、その妹・加奈世とのやりとりだけである。
「どこへ引っ越すんやったっけ?」
「なんかめっちゃ田舎なとこ! 畑とかあんねんでー。信じられへん」
「嫌なん?」
「嫌に決まってるやん。梅田まで駅十一個もあんねんから!」
「ええやん長閑そうで」
住江がそう言うと、加奈世は首を傾げて去ってしまった。その時、敏行が呟いた。
「ここも似たようなもんや」
この言葉に、住江は何故か笑ってしまった。敏行の、ズボンのポケットに手を入れて「休め」の姿勢で立つその立ち方、風に吹かれてなびく前髪のそのなびき方、そして口調が、敏行を「さすらいの人」にしてしまっている、と住江は感じたのだ。
げらげらと住江が笑っても、敏行は顔色一つ変えずに佇むだけであった。
という話を、住江はした。敏行のポーズと口調を再現すると、シノと優は大いに笑った。
「どんな人なん、その敏行っちゅう人。めっちゃおかしいやん」
「いや、見ても別におかしないで。写真見したろか」
住江は机の引出しから写真の束を引っ張り出して、その引越の日に撮った一枚を探し……見付ける。
「あったあった」
別段おかしくもない写真であったが、優とシノはそれを見て笑い、住江もそれに釣られた。
「なんか、中学生やのに大人ぶってるっていうか、斜に構えてるっていうか」
「『さすらいの人』っていう感じやろ」
「何やそれは!」
「まさか自分がこんなに笑われてるとは思いもせんやろな」
と言う住江には、成長した敏行の姿が想像出来ない。浪人して予備校に通っているということだが、その引越の日以来会っていないのだ。親戚で集まっても、加奈世は来るが敏行は来ない。そうこうする内に五年の歳月が流れた。
「なあ、ファーストキッチン行きたい」
突然シノが言う。シノはいつも気紛れで何を言い出すか分からない。
「なんや、またピザ?」
「うん、急に食べたなってきた」
「ほなまあ行きましょか」
三人は徐に立ち上がり、シノと優は借りて帰る漫画を何冊も鞄に詰め込む。住江は小さなリュックに財布だけを入れ、二人の荷造りが終わるのを待つ間に部屋を出て、隣の部屋の扉を叩いてみる。
「なんじゃ」
兄はぬうっと顔を出す。
「ちょっと京橋行って来る。晩御飯までには帰るから」
「あっそ。お前の分も食うといたるわ」
シノと優は、部屋の灯りを消して出て来る。
住江は、一階に降りて自転車を外に出す。シノと優と並んで、乗らずに押して歩く。
徒歩で京橋まで行くと、少々くたびれる。べらべらと喋りながら歩いて非常に時間が掛かった。
駐輪場から住江が出て行くと、シノと優は配られたポケットティッシュを鞄に入れている最中であった。住江は、優にそのうちの三個を手渡される。
「もうティッシュだらけや」
「ほんまや、行きも帰りもくれるしな」
三人はぶつぶつ言いながら階段を降り、地下鉄の駅の方へ向かって歩いて行く。
京阪とJRの乗り換えの人々でごった返す中を、三人は擦り抜ける。住江は毎朝毎夕そこを通っているにも拘らず、何度も人にぶつかりそうになる。
人の波を突破して、地下連絡道へ降りる階段に差し掛かった時、何気なく京阪の改札に目を向けた……その時、敏行のような面影の人物が視界に入った、と、住江は前に向き直ってから思う。
すると、既に三段程階段を降りたシノに手を引っ張られる。
「何立ち尽くしてんのんな」
「いや、今、敏行君が歩いてたような気がしてん。気のせいやろな、さっき話しとったから」
と住江は言ったが、シノと優は階段を上って、目を輝かしている。
「どれどれ? どの人よ」
「もうあっちの方行ってしもたわ。見間違いやと思うで、こんなとこ居る訳ないし」
「そんなん分からんやん。追い掛けてみようや!」
何故か盛り上がる二人に促され、住江はもう一度振り返る。人波の中に居て、頭一つ分出ているその後ろ姿……その人物の歩いて行く方向へ足を踏み出し、指で指し示す。
「あそこの背高い人や。上が白で、下が黒の」
「分からんようになるで、早く早く!」
シノと優は、住江の右手と左手をそれぞれ引っ張って走り出す。
住江は、走らされながら後悔した。どうせ見間違いに決まっているのだ。それが判明した時、きっと虚しくなってしまうであろう、と。
その人物は、住江らが歩いて来た道を歩いて行く。
確かに敏行は昔から大きかったが……最後に見た時には百七十五センチくらいであったろうか……前方を歩く人物の身長は、百八十は超えていると思われる。
高い所にある頭で前髪がなびいているのを見ると、人物は敏行に見えてくる。前髪がなびく人など幾らでも居る筈なのだが。
「どうすんのんな、ファーストキッチンからどんどん離れて行ってんで」
と住江は言ってみる。
「ええねんええねん」
シノは、完全にピザを諦めている様子であった。
そんな時、優が言う。
「それはええけど、住江、自転車取って来たら良かったなあ。どんどん戻って行ってるわ」
「住江ん家行くんちゃう?」
「なんでえな。もしあの人が敏行君やったとしても、うちに用事なんかないがな」
と言いながら、住江は自転車を諦めた。翌朝駅まで歩けば済むことだ、そう自分に言い聞かせ、歩き続ける。
三人は、何だかんだと喋りながら、人物を追う。声が耳に届いても不思議ではないくらいに接近しているのに、全く振り返りもせず大股で悠々と歩くその姿は、まさに「さすらいの人」だ、と住江は思った。
「ちょっとちょっと、やっぱり住江ん家行くんやで。もうこんなとこまで来てんし」
ふと気付けば、中学の南東の角まで来ていた。もう住江の家は見えている。
人物は、中学のプールの辺りを通過すると、次第に塀から離れて行った……
「ほら見いや、やっぱり住江ん家行くんやったやろ!」
シノが大きな声を出す。人物は、本当に住江家の前に立ち止まったのだった。そして、インターホンを押す。住江はゆっくりと歩み寄る。遣戸ががらがらと開いて兄が顔を出した。
「なんやお前。何もう戻って来てんねん」
住江を見付けた兄がそう言ったその時、人物は漸く振り返った……成長してはいるが、それはやはり又従兄の敏行であった。
「はははは、やっぱり。京橋で見掛けて敏行君ちゃうか思てつけて来ててん。ははははは……」
「さすらいの人」を目の前にして、笑わずには居れなかった。住江の背後では、シノと優が堪え切れずに笑っている。敏行は、何故笑われているのか理解出来ない、と言いたげな表情で立っている。
「きっしょいなーお前ら。人の顔見て笑いやがって。敏行、ほっとこほっとこ」
兄は敏行を家の中へ招き入れる。住江は家に背を向けて、シノと優の背中を押して歩き始める。背後で戸の閉まる音がする。
「もうあかんわ、あんたら。顔見て笑うねんから!」
「何言うてんのよ! あんたが先に笑たんやんか!」
騒ぎながら三人は、ふらふらと歩き出す。
住江は、遊びにやって来た友人達を夕方に地下鉄都島駅まで送って行くのが好きである。その日もシノと優を送って行った。
駅の傍にあるミスタードーナツにいつものように立ち寄ることもなく、シノも優もすぐに駅への階段を降りて行った。
住江は、夕暮れの都島本通交差点で一瞬立ち止まる。ツタヤに寄ってCDを借りようか……と考えたが、やめた。
(敏行君まだうち居るかな。しかし何しに来たんやろ。兄ちゃん、団欒とかなんとか言うてたけど、敏行君が来るからはよ帰っててんやんか)
住江は、歩く速度を次第に上げて行く。中学の角からの残り僅かは、走りさえした。
遣戸を開けると、玄関には明らかに敏行のものと分かる大きな黒の革靴があった。靴を脱ぎ、少々大袈裟にそれを跨いで上がる。
台所を抜けて応接間へ行ってみると、深緑色のソファーに窮屈そうに座っている敏行が居た。ソファーとテーブルの間が狭過ぎて、敏行は長い脚を持て余している。テーブルが低過ぎて、その上に置かれた紙を見るのに身を屈めて背中を丸くしている。「さすらいの人」がこんなことで良いのか? と、住江はまた笑いそうになる。
「なんやお前帰ってたんかい。びびるやんけ、静かに歩いて来てそんなとこ立ってたら。何か用か」
「別にー」
住江はそう言ってくるりと向きを変え、台所を抜けて階段を上って行く。
部屋の電灯のスイッチを入れると、窓際のテーブルの上に、シノと優の食べ散らかしたスナック菓子の残骸が見えた。空になったラムネの、プラスチックの瓶もある。
住江は、それらを片付けようとテーブルに歩み寄ったその時、急にあることを思い出した。
毛馬町の家に居た頃、敏行と加奈世は偶に住江家に遊びにやって来ていた。
住江は、加奈世と銭湯に行くと必ず、硝子の瓶に入ったラムネを一本ずつ買って飲みながら帰っていた。
敏行は、銭湯が余り好きではないと言って、いつも家に残っていたのだが、ある時、
「ラムネ一本買うて来てくれ」
と言って、住江に小銭を手渡したのだった。住江は言われた通り、ラムネを一本買って帰った。
敏行はそれを受け取ると、ぐいぐいと殆ど一気に飲んでしまった。そして、空の瓶を持って、驚きの余り絶句している住江の前から姿を消した。
暫くの間、敏行は家の仕事場に篭って何かしていたが、住江は特に興味を持たなかったので、台所で加奈世と一緒にテレビを見ていた。
テレビに集中し過ぎていて、敏行が台所に入って来たことにも気付かなかった住江は、トイレへ行こうと立ち上がった時に漸くその姿を目にした。右手に瓶を持っている。そして、左手の掌の上には……なんと、ビー玉が乗っているではないか。
「ええっ、敏行君、これをこん中から出したん?」
敏行は自慢気に頷いた。住江は呆然とした。一体何をどうしたのか、瓶は割れても欠けてもいないのだ。ビー玉を取り出す方法について尋ねようと思った住江に瓶だけを手渡し、ビー玉をズボンのポケットに入れて、加奈世に声も掛けず、敏行は御幸町の家へ一人で帰って行った。
テレビに夢中になっていた加奈世は、十分くらい経過してから、
「あーっ、いつの間にお兄ちゃん帰ったん? 実早緒ちゃん(=住江)、言ってくれたっていいやんか――!」
と喚き、すっかり暗くなった道を猛烈な速さで走って行ったのであった。
そんな加奈世の慌てぶりを見た時の笑いが、八年後になって甦ってくる。
住江は、きっと今他人が見たら不気味がるだろう、と思いながらも、一人で笑う。そして、引出しから出したまま放置してある写真の束の中から、八年前の夏に撮ったものを探し出した――「さすらいの人」・敏行が、笑っている! 淀川の河川敷で、釣り竿を持った敏行と、タモ網を持った住江と、バケツを持った加奈世が写った写真を、窓際の椅子に座って眺め、学校へ持って行こうと住江は思う。
窓を開けて見上げると、空は暗さを増していた。
住江家の玄関の遣戸の開く音がする。住江は、窓から身を乗り出して、道を見下ろす。
玄関から出た敏行は、一年間通った中学の塀沿いに、歩いて行く。
「おい、落っこちんぞ!」
玄関から出て上を見上げた兄が大声で叫んだ。
それでも振り向かぬ敏行は、やはり真の「さすらいの人」だ。
二.少女の季節
昼休みの教室で、住江とシノと優は弁当を広げている。
三つくっ付けられた机の上には、三つの弁当箱と、写真が二枚乗っている。又従兄妹と並んで写っている小学四年生の住江と、中学一年生の住江と、そして目の前に居る高校三年生の住江を、シノと優は見比べる。その感想はこうだ。
「……おんなじ顔……」
「あれっ、あんたこのスカートこないだ履いてへんかった?」
シノは、中一の住江の花柄のスカートを指差してそう言う。住江は頷いた。
「あんた、来年大学生やで? ちょっと」
シノは住江の肩をぽんぽんと叩く。
「浪人生かも知れんがな」
住江が呟くと、一瞬沈黙が生まれた。
「この人今浪人生なんやんな?」
優がそう言って、写真の中で釣り竿を持っている、住江の又従兄・敏行を指差す。すると、シノが間を置かず尋ねる。
「どこ受けるん? この人」
住江は勿体振るように少々間を置いてから、
「聞いてびっくり、京大医学部!」
と言った。シノと優が、驚いて叫ぶ。
「え――っ!」
周囲の視線が三人に集まる。
「そこまでびっくりしたら敏行君に失礼やで」
と住江は言い、缶の緑茶を飲む。
「人びっくりさしといて落ち着き払いなや。……ところであんたはどこ受けんのんな」
シノは、突如身近な話題を持ち出した。住江は、腕組みをして考え込む。
「一応、第一志望は摂南って書いた」
「えーっ、私もやで!」
優は箸を置いて大声を出した。
「そんなびっくりしたら住江に失礼やろ」
そういう流れになるのは、優と住江との成績の隔たりが大き過ぎるからだ。
「私、純粋にびっくりしただけやんか」
優は真面目な顔で弁解する。
「二人とも暗喩はやめなはれ。目標を高く掲げてんのですがな、私は」
と住江は喋り、また緑茶を飲んだ。
確かに目標は高いが、それに向けて殆ど努力をしてはいない。
「受験」というものを、まだまだ先のこととしか捉えられていない、高校三年生の六月。
住江は、午後の授業中に、現役で摂南大学に合格して通っている、一学年上の佐久間瑞帆への手紙を書き始める。
佐久間先輩、こんにちは。この前は赤本を下さってありがとうございます。しかし、やっぱり今年のやつを買うかも知れません。地理の問題集は気が向いた時にやっています。なんか趣味と化してます、地理が。英語はあんまりやっていません。
……こんな調子では自分が摂南の学生になれるとは思えません。まあ、いっぱい受けまくるとしますわ。どっか引っ掛かったらいいのにな――と、淡い期待を抱きつつ。
こんな適当やったら全部すべりそうですね。しかしそれでも私は自分が予備校生になったところも想像することができません。ははは、まあ何でもいいです。←別になげやりになってるわけではないです。なるようになるでしょう。
おっともうすぐ当てられそうなのでこのへんで。短いですけど。さようなら。住江より。
と書いた薄緑色のルーズリーフを折り畳み、宛名を書いた封筒にそれを入れ、一息ついた。切手を貼ろうか貼るまいか、と迷っている最中に教師に指名され、教科書を読んでいるうちにチャイムが鳴った。
結局、切手は貼られないまま、封筒は鞄の中に仕舞われた。
六時間目は体育であった。バレーボールの試合が行われた。
試合の順番が回ってくるまでの間、暇なので、住江とシノと優はボールで遊びつつ話をする。住江は、ふと、シノがどこを受験するのか聞いていないことを思い出し、尋ねてみる。
「四大か短大かで迷てんねん」
シノは直上トスをしながらそう答えた。住江は、短大というものの存在に初めて気付いたような気がした。
「住江は短大っていう感じちゃうな」
優がそんなことを言った。住江は、自分でもそう思う。根拠は特にない。
住江は、ボールを抱えて運動場の果てをぼんやりと眺める。
すると、小さく私服姿の人間が見えた。身長百六十センチくらい、髪が肩の下二十センチくらいまであって……瑞帆に間違いない。肩に提げられた鞄には、懐かしさを覚えた。放課後に部室で緑色の鞄の側面にMIZUHOとマジックでレタリングしていた瑞帆の姿が思い出される。
住江は、体育が終わればすぐに放送部の部室へ行ってみることにしたのだった。
シノと優には先に帰ってくれるように頼み、住江は大急ぎで着替え、部室の方へ走って行った。
ノックをすると、「どうぞ」という声がして、住江はゆっくりと戸を開けた。
「やあ、久し振り」
「お久し振りです。何してはるんですか」
「いっぱいCD置きっ放しにしとった奴取りに来たんやけど、どこにあるか分からんようになってて、探すついでに棚の整理までしてしもてな」
住江は、瑞帆の服装を見る。
「何やのんな、じろじろと」
「いえ、先輩も女子大生かーと思いましてね」
「女子大生って女子大の学生ちゃうん」
「女子の大学生でしょう」
「そうか? でも私、自分が女子大生やなんて思たことないで」
と言って瑞帆は首を傾げる。
水色のポロシャツに、濃紺のジーパン。高校の頃と何ら変わりない格好である。人は大学に入ったからといって変化する訳ではないのだ。
放送部の部室の片付けを手伝った住江は、それが終わると瑞帆と共に学校を出た。
そして、瑞帆を自宅へ招いた。
住江は、京橋駅から自転車を押して帰る。のろのろと歩いて家に着いた時には、午後六時になっていた。
遣戸を開けて玄関に自転車を入れる住江の目に、大きな靴が映る。……鞄の中で教科書に挟まれている二枚の写真が思い浮かぶ。……その写真に写っている又従兄の敏行のものなのだ。
瑞帆は、その靴を指差して聞く。
「これ、お兄さんの靴?」
「いいえ。又従兄が来てるみたいです」
と言った住江と瑞帆が台所へ行くと、兄と敏行が何故かラムネを飲んでいた。身長百八十センチを超えている敏行の手に握られたラムネのプラスチックの瓶は非常に小さく見え、住江は思わず笑ってしまった。
「何笑ってんねんお前。きしょいな」
「ふん」
住江は、兄妹喧嘩に到らぬよう適当にあしらって、階段を上がって行く。
部屋に入ると、住江はカーテンを勢い良く開け、窓を開け放つ。中学の運動場は静かな夜を迎えようとしている。
瑞帆は、窓際の椅子に腰掛けて外を眺めながら、住江に聞く。
「さっきの人って、ずっと前に話に出て来た又従兄さんやんな。中学の時、陸上部一週間で辞めたんやったっけ」
「そうです! よう覚えてはりますね」
「私と同い年ちゃうかった?」
「そうですそうです! その通り」
住江は拍手して絶賛した。瑞帆はそんな住江を暫く凝視した後、呟く。
「やっぱり又従兄ともなると似てへんもんやねんなあ」
「……そらそうですよ。あの人、兄ちゃんとも似てないでしょう。大きさからして全然ちゃいますし」
「大きさは関係ないやろんな」
「そうですかね」
そんな会話をしながら、住江は引出しからトランプを出す。長年使っているものだ。住江の兄は勿論のこと、敏行とその妹・加奈世や、シノ、優達も遊んできたそのトランプで、住江と瑞帆は久々に“スピード”の勝負をした。
結果は、二対二の引き分け。
「このトランプ、神経衰弱でけへんな。角曲がってる奴あったで」
瑞帆がそう言った時、それまで忘れていた、その角が曲がった時のことを、住江は突然思い出した。
住江一家が毛馬町に居た頃のことである。兄が小五、敏行が小三、住江と加奈世が小二の、夏のある夜。子供部屋で四人はそのトランプを使いばば抜きをしていた。残り僅かになって、隣の加奈世の持っている二枚のカードのどちらかがばばだと分かっていた住江は、慎重に(とは言え勘だが)一枚選び、抜き取ろうとした。だが、加奈世がそれを離さない。住江は引っ張る。
「なんでくれへんのんなー」
「だってまた負けるん嫌やもん!」
住江と加奈世は綱引きをするように引っ張り合っていたが、やがて敏行が手に持っていたカードを投げて言った。
「もうやめじゃ。つまらん」
住江は、カードを引っ張っていた右手を離した。すると加奈世は後ろにごろんと転がった。住江がそれを見て噴き出すと、加奈世はしくしくと泣き出した。三人は、暫く呆れてものも言えなかった。住江が退屈して
「なあ。どうしよう敏行君」
と言うと、敏行はふんぞり返り、年長者ぶった口調で言ったのだった。
「そっとしといたろ」
その話を聞いて瑞帆はげらげらと笑った。住江は言う。
「下で敏行君見て笑わんといて下さいよ。シノと優が笑てかなんのです」
「へいへい。努力しますわ」
瑞帆と住江は階段を降りて行く。
台所には既に敏行の姿はなく、兄が一人でテレビを見ながらするめを食べていた。
「ちょっと出掛けるで」
「ん」
兄は生返事をした。
住江は、京橋まで自転車を押して瑞帆を送って行き、切手を貼っていなかった手紙を渡して別れ、自転車でびゅんびゅんと風を切って家へ戻った。
台所では、母が夕食の支度をしていた。兄はまだするめを食べている。
「なあ、敏行君何しに来たんな」
「あいつ京大行くからうちへ下宿さしてくれやって。ほんまに受かるんかい」
「なんで京大行くからってうちなん。遠いやん。京大の近くに住めばいいのに」
「あいつ料理も洗濯もせんから親に一人暮しはすな言われてんねんけど、寮は嫌や言いよんねん。それでうちしかないっちゅう訳や。うちやったらまあ京橋まで出さえしたらあとは特急一本で行けるしな」
「なんで寮が嫌なん?」
「人間関係とか面倒臭いから、とか言うてたで」
「何やそら。……で、その、敏行君が受かったらうちへ来るっていうのは決定したん?」
「まあ、お前が良ければな」
「は? 来るんやったら来たらええがな。でも敏行君が家に居るとなると、シノと優が見物しに来そうな気がせんでもないけど」
「お前、大学行くんやろ? みんな一緒んとこ行く訳ちゃうんやから、もう今みたいにしょっちゅうは遊びに来んやろ」
「今日先輩来はったがな」
「あの子大学生なんか?」
「そうや。摂南行ってはんねん」
「ああ、なんや。電車で偶に見るけど、私服やから何してんのか思てたわ」
「……高校生と思てたんかいな」
「おう。でも敏行なんかもっと酷いぞ。お前見た後で『中学生?』って言ってたで」
「えー。私の歳すら忘れてるん?」
「勉強しか頭入ってへんねん、きっと」
と兄は言ったが、住江は賛同出来なかった。敏行にとっては、住江の年齢など記憶しておく必要のないことなのだ。浮世離れした「さすらいの人」であるから。
という結論に達したが、兄にそんなことを言っても理解して貰えないと判断した住江は、黙っていた。
「でも敏行ってガリ勉にも見えへんよな。あれで京大医学部行って医者んなったら、もてまくりそうやな」
兄はそんなことをぶつぶつ言う。
「そうかいな」
「そうかいな、って……お前あいつ見て『かっこえーなー』とか思わんのか」
「別に。『さすらいの人』と思う」
「はあ? 何じゃそれは。お前やっぱり訳分からんわ。あーあ」
兄はそう言って伸びをした。住江は、二階へと上がって行く。
部屋に入って、部屋着に着替え終えた途端に電話が鳴り、住江は廊下に出て受話器を取る。
瑞帆からであった。
「明日また高校行くから、帰る時部室おいでな。手紙渡すわ」
「ありゃ、もう書いてくれはったんですか」
「いや、帰ってから書くねん。お楽しみに」
「分かりました」
会話はすぐに終わった。
住江は、高校時代と変わることのない瑞帆の返事の早さに感心した。大学生になっても何も変わっていない。大学に入れば、兄のようにしょっちゅう繁華街に足を運んで飲み歩かざるを得ない状況に陥ってしまうのであろうか、という心配はどうやらしなくても良さそうだ、と安堵した。
健全な大学生活を送ろう、授業が昼までに終われば早く家に帰ってサイクリングでもしよう、大学に自転車で行ってみるというのも良いかも知れない、……
住江は、ベッドに寝転がって色々と考える。
自転車で大学に向かう自分の姿を思い浮かべてみる。楽し気に漕ぎ進むその道路は、いつしか府道十三号線になっており、左折して見えて来るのは、摂南大学なのだった。
次の想像は下校編で、今度は自転車には乗っていない。優と瑞帆と一緒に寝屋川市駅前でバスを降りて、買い物をする。そして、電車に乗れば、次にどこで降りるか考える。古川橋で降りて何か食べようか、守口市で降りてまた買い物をしようか、千林で降りて商店街を散歩しようか……。
想像はすっかり夢になってしまっていた。住江は目を閉じて眠っていた。
「おい、実早緒! 飯やぞ!」
部屋の扉をどんどんと叩く音と住江を呼ぶ声がした。驚いて跳ね起き、
「はーい!」
と大声で返事をする。
「さっきからずっと呼んでてんぞ!」
一気に現実に引き戻された住江は、大きな溜息をつく。
(あかんあかん、受かりもしてへんのに摂南摂南思てどうすんねん。でも何かの間違いで受かったらいいのになあ。やっぱり通学は京阪がいいよな。守口市とかに寄られへん日々なんか考えられへんわ。なんて言うてたら、もう摂南しかないがな!)
台所へ降りると、夕食の準備は完了していた。住江は慌てて手を洗い、椅子に座る。
食べ始めてすぐ、兄は住江に尋ねる。
「大学どこ受けるか決めたんか?」
「まあ一応。摂南が第一志望」
と住江が答えると、住江の成績など全く把握していない兄は、
「摂南か。そんなんなったら俺もお前も敏行も京阪で通学か。帰りに京橋で出くわしたりしてな」
と呑気なことを言った。
「今も私京阪やんか。でも兄ちゃんと帰りになんか全然会わへんで」
「大学の方が終わんの遅いやろ」
「何言うてんのんな。授業終わった後で遊びに行って毎晩遅うに帰って来といてからに。あーおっさんくさー」
「昨日と今日ははよ帰ったやろが」
「はよ帰って来たかて、台所でずっとするめばっかり食べてるやん。おっさんおっさん」
「言わして貰うけどな、この歳んなったらもうおっさんで結構じゃ。お前こそ何やねん、え? 敏行見てもかっこええとも思わんし、こないだねり消し買うてたやろ、このガキ」
「ガキとは失礼な。せめて少女って言うて欲しいな。兄ちゃんはその少女の兄やのに、青年じゃなくて、もうおっさんか。ははは」
「ごちゃごちゃ言うてんとはよ食え! お前の分のなすび食うてまうぞ」
「あかんあかん、これだけは!」
住江は必死に茄子の入った鉢を手で覆う。そこで母が言った。
「あ――うるさ。たまに総二郎がはよ帰って来た思たらこれや」
住江は母のぼやきには耳を傾けず、自分で発した「少女」という言葉の持つ響きを楽しんでいた。
少女。少女。私は少女。春も夏も秋も冬も、住江は楽しく過ごす少女なのであった。
三.プラネタリウム気分
六時間目が終わると、隣の教室からシノと優がやって来る。住江がリュックに荷物を入れているところへ、二人は大声で話をしながら近付いて来る。
「あっそうそう、ちょっと放送部の部室ついて来て。佐久間先輩に手紙貰いに行くから」
と住江が言っているのに、二人は全く耳を貸さず喋り続けている。
「何を議論してんのんな」
と言いながら住江が間に割って入り、漸く二人は一瞬黙る。
「優が絶対四大にせえ言うねん」
とシノは言う。優は、
「せえ、なんて命令してへんわ。勧めてるだけやんか」
と反論するのであった。
「そんなんシノが決めたらええがな」
と住江が言うと、優はこう言った。
「シノが決められへんって言うから考えたってんのに」
「……難儀やなあ」
住江は溜息をついて呟いた。
「あんたはほんまに呑気やな。ちょっとは受験のこと考えてんのかいな」
シノは住江の肩をつかんで揺する。
「なんでもええがな。ようけ受けたらどっか引っ掛かるやろ。……ちょっと先帰っといて今日は。放送部の部室寄って行くから」
住江は二人の議論から逃れて放送部の部室へ向かうことにした。深刻な話題は苦手なのだ。
部室の前では、瑞帆が塵はたきの柄で座布団を叩いていた。住江が呼ぶと、瑞帆は塵はたきを揚げて応えた。
「悪いなあ。また森野さんと秋山さんに先帰って貰たんか」
「ついて来て貰お思てたんですけど、二人が真剣に議論してるから逃げて来たんです」
「何についての議論?」
「シノが四年制大学と短大とどっちを受けるかについてですよ。参ります」
「あんたはそんな議論に参加出来そうにないわな」
「そうなんです。……受験なんかまだですしねえ。急いで決めることないでしょう」
「そうなこと言うて、もう摂南って決めてるんちゃうんかいな」
「別に摂南一本ではないですよ。色々いっぱい受けまくったるんです」
「でも、法学部に絞ってんねやろ。それはなんでや」
「法律に郷愁を覚えるからですよ」
「わははは。そんなことやろ思たわ。でもなあ、法学部言うたらそんなようけないで」
「えっ、通学可能なとことなると限られてきますかね」
「そらなあ。通学出来る限界はまあ、神戸学院大ぐらいかな。最寄駅は明石」
「ひええ、明石。遠そうですね」
「法学部に絞らんといたら色々あるで。商学部も郷愁ちゃうん。阪南とかはどう。最寄駅は河内天美。名前が摂南に似てるし」
「そんな。私は『南』より『摂』が好きなんですよ。それに、法学部ったら法学部です」
「あんたも頑固やな」
「はあ。でもその根拠が先生や親には分かって貰われへんので困るんです。法学部って決めてる理由が……」
「『法律に郷愁を覚えるから』ではなあ」
「地方受けたくない理由が……」
「『大阪を極めたいから』やろ」
「そうです。……ああ、私も結局受験の話してますねえ」
「ほんまや。逃げて来たのに。それにこんなとこで立ち話やし」
「済みません、お掃除を中断さして」
「いやもうこれでしまいやからええねん」
「もう帰りはるんですか」
「うん。ちょっと待っててや」
瑞帆は部室内に入り、塵はたきと座布団を鞄に持ち替えて出て来た。
「まあ受験なんかまだ先のこっちゃ。なんとかなるわな」
瑞帆はそう言って住江の肩をぽんと叩く。
住江は、そんなことを言われなくても、最初から「受験はまだまだ先」と思っている。しかし、「なんとかなる」と確信は出来なくなりつつあった。
住江と瑞帆は、受験とは無関係の話をしながら、未だ明るい道を駅に向かって歩く。
「それで、その又従兄さんはほんまにあんたんとこへ下宿しに来るって決まったんかいな」
「京大に受かったらの話ですよ」
「京大か。京都なあ。京都の大学行きたかったわあ」
「へ? 京大に?」
「そんな訳ないやろ。京産や。政経で受けたん失敗やったわ。回答欄に幾つ『ルソー』って書いたか」
「それはあきませんね!」
「そうやがな。……あれ? 結局また受験の話してしもた。まあ楽しみな。受験はゲームや! ということで。これ返事。バイバイ!」
「さようなら?」
瑞帆は、住江に手紙を手渡して、上りホームへ向かう。住江は、下りホームに入って来た電車に飛び乗るべく、走り出した。
ごちゃごちゃと考えごとをしていると、いつの間にか電車は京橋に着いていた。
住江は電車を降りると、元気良く階段を駆け降りて行く。
「お――い! 実早緒!」
聞き覚えのある声で呼ばれて振り向くと、兄が疲れた顔と足取りで階段を降りて来つつあるのが見えた。
「何なん、大声出して」
「俺の鞄持って帰ってくれや」
「は? なんで?」
「肩凝ってんねん、頼むわ。今日雨や思たからチャリで来んかってん」
「何やそれ。私に荷物持って帰らして、兄ちゃんは後からのろのろ歩いて帰って来るんかいな」
「そうそう。頼むで」
「なんぼくれる?」
「金取るんかいや」
「ロイヤルミルクティー一本で負けといたるわ」
「よっしゃ。ホットか?」
「あかんでそんなん買うて来たら!」
住江は、前の籠に兄の鞄を入れ、自分のリュックは背負ったままで、軽快に自転車を漕ぎ出す。
(そう言や兄ちゃんと帰りに会うなんて無茶苦茶珍しいな。何か変なことでも起こらんかったらええけど)
そんなことを考えながら、北へ向かって進んで行く。
風を切って走ると爽快である。一瞬の不吉な予感など遥か彼方へ吹き飛んでしまった。
中学からは、部活動中の生徒達の掛け声が聞こえている。
水を与えられたばかりの住江家の朝顔は、西日に照らされて輝き、風に戦いでいた。住江は、そんな時間帯が非常に好きである。
玄関に自転車を入れて、足元も見ず乱暴に靴を脱いで台所へ行くと、そこには母と、又従兄の敏行が居た。まさか三日連続で敏行が訪ねて来ていると思わなかった住江は、驚きのあまり静止してしまった。
「実早緒、あんたあの空いてる部屋にようけ物置いてんの何とかしいや」
「……もう敏行君来んの?」
「まだやけどやな。あんたなかなかせえへんやろ思て今から言うてんねやん」
「あーびっくりした。まだか」
「早い目に片付けてや」
「国立大学の受験なんかずっと先やん」
「何が。あんたかって受験生やないの」
「……」
「はよ片付けて、勉強せなあかんねんで!」
「分かってる分かってる?」
住江は適当に返事をして二階へ上がって行った。
そして、久々に、兄妹の物置となっているその部屋の扉を開けてみる。
(うひょー、埃だらけや。きちゃなー)
住江はスリッパを履いて部屋に入る。巨大な白いおもちゃ箱の中身を、恐る恐る出してみる。
まず、中学校で使ったアルトリコーダーが出て来る。そして、小学校のソプラノリコーダー。「住江実早緒」と名前が彫ってある。 次に、薄緑色のケースに入ったハーモニカが出て来た。油性ペンで書かれた「すみえそうじろう」の字が消え掛かっている。
(えらい古いもんがあるなあ)
プラスチックの赤いバットに青いボール、淀川の川原で父が拾って来た汚らしい硬球、柄の曲がったバドミントンのラケット一対、びりびりに破れたシャトル、錆びたヨーヨー、ピンクのビニールの跳び縄、達磨落とし一式、遠足の時に何度も使ったキキララのレジャーシート……
次々に色々な物が出て来て、漸く底が見えた、と思いきや、それは星座盤であった。星が蛍光塗料で塗られている。住江は、それを引っ張り出して自分の部屋へ持って行き、電気スタンドのスイッチを入れてその星座盤をくっ付ける。暫く待ってから、電気スタンドを消し、真っ暗な部屋の中で星座盤を見てみた。
(うわっ、綺麗過ぎる!)
小規模なプラネタリウムを見ている気分であった。
しかし、どれが何座であるのかは、字が見えないので余り分からず、仕方なく蛍光灯の紐を引っ張った。
星座の名前を見るために部屋を明るくしたが、住江の目に留まったのは、右下に貼ってある白いシールに書かれた文字であった。
六年三組 見野敏行
住江は、その星座盤を両手で持ったまま、記憶を辿る。
未だ毛馬町に住んでいた頃のことだ。
一九八六年、ハレー彗星が七十六年振りに地球に接近するということで、天文ブームが起こった。
住江家には父の双眼鏡があったので、小五の住江はそれで夜空を見てみたが、彗星はおろか見えるべき恒星もあまり見えず、そのことを学校で担任に話すと、大阪では無理ではないかと言われ、肩を落とした。
そんなある日、見野家から電話が掛かってきた。敏行と加奈世を月食観測に河川敷へ連れて行くが、総二郎と実早緒も一緒に連れて行こうか、と、見野兄妹の父が提案したのであった。
住江は喜び勇んで出掛けた。兄は、住江に双眼鏡を壊されては困るので監視するために出掛ける、と言いながらも、少しは浮かれているように住江には見えた。
堤防に上がると、敏行は鞄から双眼鏡と星座盤と懐中電灯を取り出した。
「月食と彗星がおんなじような方角に見えるんやぞ」
と見野兄妹の父は言い、東南東の方を指差した。月は既に赤味を帯び始めており、四人は代わる代わる双眼鏡で月を見たが……ハレー彗星らしいものは見えない。
「ねえお父さん、ほんまに彗星見えんのー?」
月食の観測に飽きた加奈世は、そのうち不機嫌になって地面に座り込んでしまった。月は幾ら待っても赤黒くなるだけで消えはしないし、ハレー彗星は見えないし、と文句を言っていた。
見野兄妹の父は、本を広げて「おかしいな」を連発し首を傾げるばかりで、次第に「ハレー彗星が月と同じ方角に見える」という確信を失いつつあった。敏行と住江と兄は、空を見ることに飽きると、双眼鏡で色々な所を見始めた。
「うわっ、家ん中丸見えやぞ」
「兄ちゃん何見てんのんな」
「テレビ何見てんのかな……」
「敏行君まで。どれどれ、私も見よか」
「お前人のこと言われへんやろ、阿呆」
ハレー彗星のことなどすっかり忘れてはしゃいでいると、やがて見野兄妹の父は本を閉じて言った。
「もうあかん。分からんわ。帰ろ」
既に十時を回っていた。
静かな夜の道を、見野兄妹の父が、拗ねている加奈世の手を引いて歩く。その後に三人が続く。双眼鏡を覗きながら歩く、というくだらないことをして怒られたりしながら。
毛馬町の住江家に着き、住江兄妹は見野兄妹の父に挨拶してから中に入ろうとしたが、扉を閉める前に住江は大声を出した。
「敏行君! 星座盤入れた?」
敏行は、慌てて鞄を開けて探し始める。
「……ない。置いて来てもうた」
「何? こないだ買うたとこやないか!」
見野兄妹の父も大きな声で言った。
「明日探しに行ってみるわ」
と住江が言うと、
「多分もうないと思う」
と敏行は力なく呟いたが、住江は
「私はあると思うで」
と言った。慰めで言ったのではなく、本当にあるような気がしたのだ。
果たしてそれは堤防の上に残されていた。
住江はそれを走って持って帰り、敏行に電話で知らせたが、敏行は次に行った時に貰うと言い、……それからなかなか来ず、来てもすっかり忘れ切っていて、そのうち来なくなり……見野家は引っ越して大阪市を去り、住江はその星座盤をがらくたの下敷きにしたまま御幸町に引越して来て、五年が過ぎたのだ。
住江は、埃だらけの星座盤を持って階段を駆け降りる。
「ありゃ? 敏行君は?」
「さっき帰ったけど」
母の言葉を最後まで聞かずに台所を出て、星座盤を籠に放り込んで自転車で出発した。
地下鉄の都島駅に向かって走って行くと、幹線道路沿いに出るうどん屋の角を曲がろうとする敏行が見えた。住江がベルを鳴らしながら接近して行っても、敏行は振り返りもしない。
「敏行君!」
と呼ぶと、敏行は漸く立ち止まって住江の方を見た。星座盤を敏行の目の高さまで上げて言う。
「これ、これ! ずっと忘れてた奴!」
しかし敏行は不思議そうな顔をする。
「月食見に行った時に堤防へ忘れたん、私が明くる日に取りに行ったやんか」
それでもピンと来ない様子である。
「ひょっとして、月食見に行ったことも忘れたん? ハレー彗星見えるかも知れんっておっちゃん言いはったけど見えへんかったことも」
「……全然分からん。……これ、俺の?」
「そうや。ほら、六年三組見野敏行」
「ほんまや。じゃあ持って帰るわ。有難う」
敏行は最後まで思い出せてはいない様子だった。
それでも住江は大いに満足して、
(さすが『さすらいの人』。要らんことは全然覚えてへんねんな)
などと思いながら帰る。
家に戻ってから、住江は瑞帆からの手紙がリュックのポケットに入っているのを思い出し、取り出して読んだ。文面はこうだ。
やあ住江どん。もっと参考書あげよか。いっぱいあるで。インテリアにどうぞ(なんでや)。法律の本はインテリアに向かへんのが多くて残念やわ。
急に話変わるけど、一回プラネタリウムでも行かへん? 今プラネタリウム気分やねん。別に受験生でも出掛けられるやんな。とか言わんでもいっぱい出かけてそうやけどな。私、昔天文好きやってん。小一の冬に月食観測したん懐かしいわー。月食終わってからたいやき食べて美味しかった。
何が言いたいのか分からん文やけど、とにかくプラネタリウム行こ。住江の都合に合わせまする。
ということで返事を宜しく。さいなら。佐久間瑞帆より。
住江は、その手紙を読んで、プラネタリウムを見に行きたい気分になった。早速ルーズリーフを取り出し、返事を書く。
素早い(?)お返事有難うございます。負けずに私も書きます。
ところで、せっかくのお言葉ですが、参考書はもういいです。置くとこないので。
さて! プラネタリウム行きたいです! 次の日曜日にでも行きましょう。すぐお電話下さいませ。待ち合わせ場所や時間を決めましょう。いやー楽しみですねー。
実は面白い話があるんです。敏行君の、天文に関係ある話です。書くとごちゃごちゃになるので口で言います。もし私が忘れてたら「又いとこの話って何?」とおっしゃって下さい。
それではさようなら。受験まだまだですけどこれからたまには勉強でもしよーかなーと思てる住江実早緒より。
四.そうめんの夜
放課後、住江とシノは優の家に寄った。
優が台所で麦茶をコップに注ぐ間に、住江とシノは勝手に奥の居間へ上がり込み、鞄を下ろし、腰を降ろした。
住江は、前日の夕方にシノと優がシノの進学について議論していたことを思い出し、シノがどういう結論を出したのかを尋ねてみたいという衝動に駆られたが、その話題に触れたところでまた深刻な議論が再開されても困るので、聞かないでおいた。
ところが、住江が思い留まったというのに、何も質問されずともシノの方から言い出してしまったのだった。
「私やっぱり四大にするわ」
住江は、どう反応すべきか分からず、
「ふうん」
とだけ言っておいた。するとシノは、
「何よそれ」
と不服そうに言う。そこへ麦茶のコップを載せた盆を持って優がやって来る。
「シノ四大受けることにしてんで」
と優は麦茶を配りながら言った。
「今もう聞いたがな」
住江はコップを手にしながら言った。
そして、シノと優は議論をし始めたのだった。四年制大学を受験するとは決めたが、具体的に学部は絞れていないのである。二人は真剣な表情であったが、しかし嫌々喋っているようではなかった。
(充実してる顔やな二人とも……)
住江は、喋る二人を眺めていた。会話の内容を気にせずに。
二人の方も住江には構わず熱弁を振るっていた。大きなコップの麦茶を飲み終えると、何もすることがなくなり暇になってしまい、住江は「帰ろかな」と立ち上がった。
「え? まだ来たとこやん」
と優は言ったが、「まだ居り」とも言わなかったので、住江は鞄を持って優の家を出た。
混雑した電車に乗り、扉の所に立って景色をぼんやりと眺めていると、突如頭をはたかれた。そんなことをするのは兄ぐらいである、と思いながら振り向くと、やはり兄であった。
「今日も敏行来るんやってよ」
「また? 四日連続やん。うちへ来てる場合なんかいな。勉強忙しい筈やのに」
「人のこと言えんのか?」
そう言われてみればそうだ、私も受験生なのであった、と思い出した住江は、頭を掻いて誤魔化しておいた。
京橋駅で降りると、兄は駐輪場とは反対の方へ歩いて行った。路上にずらずらと止められた自転車の群れの中に、兄の薄汚れた緑の自転車はある。面倒臭がりの兄は、家と反対方向にある駐輪場まで行こうとしないのだ。住江は素早く自転車を出して、漕ぎ出す。
そして、少しばかり走った所で、最早兄に追い付いた。がに股でのろのろと漕いでいる。
住江が追い抜くと、兄は対抗意識を燃やして住江を追い抜いた。
「おっさんはあんまり頑張らん方がええでー。ほなお先にー」
住江は猛スピードで兄をかわす。それ以後兄はどんどん後方へ遠退いて行った。
家に帰り、玄関の戸を開けると、また大きな靴があった。住江は、台所に顔を出す。
「ただいま。こんにちは」
母と敏行にそう言ってから、二階へ上がった。
部屋に入ると、住江は制服を家着に着替え、それから鞄の中の物を机の上に出していった。封筒が出てくる。瑞帆への手紙だ。
(しもた、出すん忘れたがな)
住江は、それをポストへ出しに行こうと階段を駆け降りた所で、兄と正面衝突してしまった。
「痛いのう! 走んなこら! ガキは落ち着きがないから困るわ」
「えらいすんませんなあ」
などと言い合っていると、母の声がした。
「ちょっと実早緒、もう外行かんといて。御飯出来てんねんから」
「もう晩飯?」
「お父さんまだ帰って来てへんやん」
「私とお父さんは後で食べんの。先に子供だけで御飯」
「子供だけ」という言葉を耳にし、住江は兄の顔を見て噴き出した。
手を洗って椅子に座ると、住江は非常に懐かしい気分になった。夏休みに見野家へ遊びに来て、よくこの台所でこういう具合に「子供だけ」で座って晩御飯を食べたものだ、と思い出す。
昔、加奈世はピーマンが嫌いであったが、母に「食べなさい」と言われ、それでも大皿のピーマンを取ろうとしないので、敏行が加奈世の皿にピーマンを入れた。すると、加奈世はそれを大皿に戻そうとするので、住江の兄が大皿を持ち上げて戻させまいとした。
と、今度はそのピーマンを住江の小皿に入れようとする。
「あかんわ加奈世ちゃん、自分で食べえな、私そんな余分に要らんねんから」
そう言って箸でピーマンを摘んだ加奈世の右手を住江が左手で払い退けた瞬間に、ピーマンは加奈世の麦茶の中にぽちゃんと落ち、加奈世は大声で泣き出した。
「どうしたんな加奈世ちゃん。……ちょっと、誰がしたん、これ」
泣き声を聞き付けてやって来た住江兄妹の母は、ピーマンと麦茶の入ったコップを指差して言った。三人はくくくくと笑い、ついに敏行が言ったのだった。
「自業自得や」
住江は、敏行の小学生らしからぬその言葉を聞いて爆笑した八年程前の夏の夜を思い出し、ふふふと笑った。
「なんやお前一人で笑って。きしょ」
と兄が言うのを遮り、住江は言う。
「加奈世ちゃんのピーマン事件」
兄は首を傾げたが、住江が麦茶のコップを指し示すと、思い出して、
「あーあああ、はいはいはい。ぽちゃんと入った奴か。あん時笑ったな」
と言ったのだった。
深い透明な皿に素麺を盛ってテーブルに置き、母は
「何? 加奈世ちゃんのピーマンって」
と不思議そうに言うので、住江は全てを説明した。母の感想はこうだ。
「そんなことあったんかな。忘れてしもたわ。……ふふふ、敏行君、その頃から理知的やったんやなあ」
「理知的」という言葉のおかしさを住江と兄は笑った。
ふと住江は敏行に目をやった。敏行は鼻で笑っていた。
(『さすらいの人』でも笑うんやな。でも何について笑てんのやろ? 自分が八年前に言ったことかいな、それか今お母さんが言ったことか……まあ何でもええわ)
住江は色々考えながら麦茶を飲んだ。
そうして子供だけでの夕食は始まった。敏行が上手い具合に素麺を食べるのを見ると、住江は自分のもぐもぐやっているのが煩わしく思われてきた。
隣で兄は、落語家が扇子で蕎麦を食べる真似をする時のような音を立てている。
一息ついて、兄は敏行に聞く。
「それでどうやねん、京大受かりそうなんか」
「うん、まあ……」
敏行は軽く言ってのけた。兄はうんうんと頷き、住江の方を見て言った。
「お前はどうやねん、摂南は」
住江は返事に窮してしまい、
「ほっほっほ、鋭意勉強中」
と有耶無耶にした。
「はあ? ……うちへ来るんはええけど、こいつは相手にせん方がええぞ。いっつも訳分からんことばっかり言いよるしな」
兄は箸で住江を指して、敏行に言う。
住江は、敢えて文句を言わないでおいた。そのまま話が大学受験から逸れてしまえば良いと思った。子供だけでの夕べのひとときを穏やかに過ごしたかったからである。
しかし、敏行が住江家を訪ねて来たのには受験が関連しているのだから、受験の話になっても無理はない、と覚悟し掛けた住江であったが、次の瞬間にその翳りは吹き飛んだ。珍しく、兄が思い出話を持ち出したのである。
「そう言や素麺でも似たようなことなかったか?」
「ああ、あのインジャンした奴」
兄と住江は、そのことについて話した。
ピーマン事件と同じ年の夏のことである。
その日は皆でおやつを食べ過ぎた為に、夕食の時に素麺がなかなか減らなかった。とうとう最後の一掬い程を残して全員が箸を置いてしまった。
しかし、そんな少量を置いたままその場を去れる筈もなく、四人は顔を見合わせ、ジャンケンをした。加奈世が負けた。だが、加奈世はなかなか取ろうとしない。そしてこう言うのだ。
「だって私小さいのに、いっぱい食べさすなんて猾いわ」
「インジャンで負けてんからしゃあないやろ」
と住江の兄は言った。住江は、
「もう兄ちゃんも敏行君もようけ食べてんから」
と言った。すると加奈世は素麺を掬い上げたかと思うと、住江のつゆの中に入れたのだった。
「何すんのんな!」
「だって実早緒ちゃんあんまり食べてへんやろ!」
「なんでえな、ようけ食べたがな」
住江は、素麺の入ったつゆの鉢を擦り替えた。加奈世はいつものように泣き出した。
また親が来るのではなかろうかと思い、住江はきょろきょろと辺りを見回したが、敏行は落ち着き払っていた。そして、言った。
「食べるまで待とう」
真顔で、親が言うようなことを言っていた小学五年生の敏行の姿を思い出して住江はげらげらと笑った。敏行も、
「そんなこと言ったかなあ」
と言いながら笑っていた。
(言ったかなあ、て、言うたこと忘れてんねんなあ、やっぱり。うちへ来たらもっといっぱい昔の敏行君の変な発言の話したろ)
住江は人知れず決意する。
夕食の時間は和やかに過ぎていった。
住江兄妹の母は、ちょうど素麺が尽きた頃に台所に再び姿を現した。敏行は母に「ごちそうさまでした」と言うと、立ち上がった。そして玄関へと向かう。
(あれま、もう帰るんかいな。食べてすぐ歩きまくったら横っ腹痛なるで……いや、敏行君に限ってそんなことはないか。いつでもびしっとしてそうやし)
敏行を見送ってから台所に戻った母は、兄妹に、
「敏行君居ったらあんたらもめへんな、昔から。何や知らんけど」
と言った。住江は、椅子に座って缶ビールを飲み始めた兄を見て、
「そうかなあ」
と呟いた。最近遊び人となって余り家に早く帰って来なくなったが、一緒に懐かしい話を出来るとは、と住江は兄を少しばかり見直した。
兄の方は、見直されていることなどつゆ知らず、ビールを飲み終えると、「あ゛――」と父のような声を発して、缶をテーブルの上に置き、「ごっつぉさん」と言って去って行った。
(でもおっさんなんは確かやなー)
住江は、兄の置いて行った空缶をゴミ箱に投げ入れながら思った。
住江も台所を去ろうとした。するとその時母が「あっ」と声を上げたので、振り返ると、母は子供だけでの夕食の時間に一つだけ空いていた椅子の上を指差して言う。
「敏行君これ置いて行ってるわ」
住江は、母の指差すものを手に取ってみた。黒い革の表紙の、小さな手帳であった。「どれどれ」と言ってそれを開いて中を見ようとすると、母に
「これ! 見てる暇あったら追い掛けて渡して来てえな!」
と言われ、住江は玄関へ向かい、前日と同じように自転車に乗って敏行を追い掛けた。今日来るのであれば昨日無理に追い掛けて行くこともなかったのに、などと考えていると、速度が落ちていった。
これではいけない、と速度を上げたが……幹線道路に出ても敏行の姿は見えない。更にその道を進んだが、ついに見付からぬまま、地下鉄の都島駅への階段の所に到達してしまったのであった。
(歩くん早過ぎまっせ、ちょっと)
自転車を止めて階段を降りて行く気にもなれず、住江は引き返した。
家に戻ると、母は台所で大人の分の夕食の準備をしていた。
「もう居てへんかったで。電話して言うたらまた明日取りに来るんちゃう?」
と住江が言うと、母は「そうやな」と言った。住江は、椅子に腰を下ろして手帳を開いてみた。
「模試」の二文字が目に留まった。頁をめくろうとした時、背後に人の気配を感じて振り返ると、玉杓子を持った母が手帳を覗き込んでいるのだった。
「そうや、あんたも模試ぐらい受けといでえな」
住江は「うーん」といい加減に返事をし、頁をめくった。
今度は、「夏期講習申込み」というのがあった。
「そうそう、夏期講習も受けに行き。お金出したるから」
と母は言って、住江の肩をぽんと叩く。住江は再度「うーん」と言って手帳を閉じ、立ち上がった。
(えらいもん見してしもたなあ。……敏行君が置いて行くから悪いねん。びしっとしてると思たら抜けてんねんから。かなん人やなーもう)
「ちょっと。勉強の話したら逃げて行くんやからあんたは」
という母の声を聞きながら、住江は階段を上がろうとしたが、ふと何気なくテーブルの端の方に目をやった。
「しまった! 手紙ついでに出して来たら良かった!」
住江は頭を抱えた。
「何やのんな、大きい声出して。そんなもん明日出しいな」
母はぶつぶつ言う。住江は手紙を右手に持ち、それで左手の掌をぱんぱんと叩きながら階段を上って行った。
(模試か、面倒臭そうやなあ。なんかそのうちシノか優かが受けよーとか言い出しそうやな。どうやったら受けられんのか分からんけど、あの二人のこっちゃ、調べて来るやろ。まあ任しとこ。私は知らんでー、と)
と呑気に考えながらベッドに寝転がったが、すぐに跳ね起きた。
(そうや、模試受けるっちゅうことは、判定が出んねんな……摂南って書いたはいいけど、合格の見込みなし、って出たら嫌やな。いや、見込みなしなんは分かってるけど、そうやって判定されるとちょっと参るわ。困ったな)
再び住江は寝転がった。
天井を見上げながら、春の食卓を思い浮かべてみた。また「子供だけ」の夕食は実現するだろうか、などと考える。大学生の兄と、敏行と、そして自分は一体何なのか? 大学生なのか、予備校生なのか、……と想像してみたが、住江はそれを自ら打ち消した。兄はそれ程毎日早く帰宅しないのだし、それに敏行も遠い所から帰って来るのだから遅くなるかも知れないのだ。
遠くで電話の鳴る音がして、住江は、敏行からであると察した。
暫くすると、母に大声で呼ばれた。
「ちょっと実早緒、敏行君の手帳持って上がったん?」
そう言われたので、住江は机の上に置いた手帳を持って台所へ降りた。
「何してんのあんた」
「だってここへ置いといたらまたお母さんこれ見て私に模試受けやとか夏期講習受けやとか言うてかなんもん」
「もう見いひんがな。あんたが持っとったかってあかんやん。明日の夕方敏行君が取りに来た時にここになかったら探し回らなあかんねんから」
と住江と母がまくし立て合っていると、のしのしと階段を降りて来る音がして、兄が姿を現した。
「何その手帳」
「敏行君の忘れ物」
と住江が答えると、兄は言った。
「あっほやなーあいつは」
「京大生になろうとしてる人に阿呆とは何やの、失礼な」
と母は真顔で言ったが、それが冗談であることはとぼけた口調から明らかであった。
「何しに兄ちゃんまで降りて来たん?」
「しょんべんじゃ」
兄は吐き捨てるように言って、トイレの方へ歩いて行った。住江は、母の顔に目をやった。母は眉間に皺を寄せていた。
「嫌やなあ総二郎は下品なんやから。育て方が悪かったんかなあ。……敏行君うちへ来るのはええけど、総二郎のがうつって下品になったらどうしょう」
と母はぶつぶつ呟いた。
「丸聞こえやでお母さん」
住江は、台所を出てすぐの所にあるトイレの方を指差して言った。するとすぐに兄は出て来たが、鼻歌を歌いながら住江と母の前を通過して行った。
「聞こえてなかったんやろか」
「言われ慣れてるから怒る気もせんねやろ。……そやけどなあ、どうしょう」
と母は未だこだわっていた。
「兄ちゃんなんかどうせあんまり家に居らへんねんからうつらへんて。私は上品やから問題ないし」
と、住江は胸を張った。
「あんた……上品?」
母は心配そうな顔である。
「上品やんか」
住江は、母の肩を両手で掴んで揺さぶった。
「あいたたた……そこ凝ってるわ。ちょっとついでに叩いて」
住江は仕方なく母の背後に回って肩を連打した。母は肩を叩かれながら、
「親孝行してや、実早緒」
と言うのだった。住江は、その言葉の意味を考えてみる。今更、良い大学を目指せという訳でもないだろうから、浪人するなということか? しかし住江は母に真意を問わない。また勉強の話になり兼ねないからである。
「まあなんとかしますやん」
住江は適当に返事をしておいた。
そして、これからも適当にやっておこう、と思った。
五.都島本通の静止画像
夕方、住江はシノと優と共に電車を乗り継いで、河合塾へ夏期講習のパンフレットを入手しに赴いた。
三人はそのパンフレットをロビーで広げて見た。住江は、一応眺めはしていたが、上の空であった。制服姿の自分達の周囲を、私服姿の人々が行き交うのを見ながら、予備校生というのは思ったより毎日を楽しく過ごしていそうだな、などと考えごとをしていると、シノに肘で突付かれた。
「なあ、ここやめとこっか」
シノは、ひそひそと無声音で言った。
「なんで?」
「なんか難しそうと思わん?」
「難しないのもあるやろんな。別に難しいてもええんちゃうん、当てられるもんでもなし」
と住江が意見を述べると、シノと優は一瞬唖然とした後で、
「あんた……勉強しようと思てないんやな?」
「自分と合ったとこじゃないと意味ないやん」
と口々に言った。住江は、二人の顔を交互に見て、呟くように言う。
「二人ともすっかり受験生の顔ですなあ。私はまだまだ必死にならへんで。適当にやっときま」
するとシノが口を開いた。
「あんたそんなんでは摂南は……」
「別にええねん、摂南でなくても。どっか受かればそれでええねん」
シノの言葉を遮って住江はそう言った。シノと優は納得のいかない様子であった。
(なんで人のことやのに不満そうなんやろ。まあ私の知ったこっちゃないか)
パンフレットを鞄に仕舞うと、三人は河合塾を出た。
出た所で、住江は地図を取り出し、シノと優にどこから帰るのかと尋ねた。二人は、当然のように来た道を帰ると答えた。住江は言う。
「私、バスで帰ろかな」
「えっ、この辺のバスってどこ行くんよ」
というシノの問いに対して住江は、地図を見て暫く考えてから、
「さあなあ」
と答えた。シノと優は顔を見合わせ、呆れたような表情をする。いつものパターンだ。ついには優が、
「じゃあ住江はバスで帰りいよ。私とシノは電車で帰るから」
と言い、三人は一人と二人に分かれ、別々の方向へ歩き出した。住江は一人でバス停を目指しつつ、あの二人も最終的には私にどこを受験せよと命令したりはしないであろう、現に今こうして別々の道から帰るという結論に達することが出来たのだから、と考えるのだった。
少しばかり歩いた所に、ポストがあった。それを見て住江は、漸く瑞帆への手紙がリュックに入っていることを思い出した。手に持っている地図をポストの上に置き、手探りで手紙を引っ張り出した。封筒の四隅が惨めに折れ曲がっている。住江はそれを必死に伸ばし、更に差出人の自分の名前の下に文を添える。
――ぐにゃぐにゃですみません。
そんな言葉はなくとも瑞帆は怒りはしないと分かっていたが、書かないと失礼だと思い、書いた。
摂南大学に入学出来たら毎日のように瑞帆に会えるから切手が不要になるのに、という考えが頭を過ぎったが、それ以上摂南について考えるのはやめておいた。
住江は、手紙を投函し、再び歩き出す。
バス停は案外遠かった。未知の土地を歩いたからそんな気がしたのかも知れないが。
住江は、経路図を見て思わず声を上げそうになった。そこへやって来るバスは、住江がかつて住んでいた毛馬町へ向かうものだったのだ。
バスは間もなく車体をゆさゆさ揺らしながらやって来て、住江を乗せるとまた大儀そうに発車し、走り始めた。
住江は、窓外を流れて行く見慣れぬ景色をぼんやりと眺めながら、それが懐かしいものに変わるのを心待ちにした。
暫く走って、見覚えのある橋に差し掛かると、左手に閘門が見えてくる。船が停泊している川を見下ろし、住江は、昔、兄と敏行と加奈世と共に船を見るために訪れたことを思い起こす。
一番船に凝っていたのは、兄が小六、敏行が小四、住江と加奈世が小三の夏だ。
四人は、夕方に毛馬橋を訪れては、船を見ていた。
そのうち、誰が言い出したのか、気に入った船に勝手に仇名をつけることになり、それぞれ一隻ずつ船を選び、帰宅してから仇名を吟味した。
発表は翌日、毛馬橋にて行われた。
ジャンケンをして、負けた者から言うことになり、兄、加奈世、住江、敏行、という順番に決まった。
兄は、巨大な船を指差し、「ポチ」と言った。
「そんなんやろーと思たわ、兄ちゃんのことやから」
加奈世は小さい船を指差し、「ルル」と言った。
「風邪薬やないんやから」
住江の選んだ船は、「あんこ」である。餡のような色をしていたからだ。
最後に敏行は、中くらいの大きさの、錆び掛かったような船を指し示し、言った。
「ブラッド」
「何それ。どういう意味?」
と住江は敏行に聞いた。敏行は数秒間黙っていたが、やがて言った。
「知らん」
懐旧しているうちに、毛馬橋東詰で降り損なってしまった。毛馬橋から遠ざかって行こうとするバスの中で、住江は慌ててボタンを押した。
「次は、毛馬町二丁目です。次、止まります」
と、車内放送が流れた。
すぐにバスは止まった。
住江は、料金を支払って歩道に降り立つと同時に、周囲を見回した。そこが、昔住んでいた家の最寄のバス停であった。
夕焼けに彩られた毛馬町をてくてくと歩き回る。自分が通った小学校、兄が通った中学校、よく足を運んだ銭湯、そして、昔住んでいた家。それは、外装工事が為され、ケーキのような美味しそうな家に生まれ変わって間もない様子であった。壁は薄いピンクに塗られ、扉はチョコレート色の荘厳なものに取り替えられていた。
毛馬町全体は、六年前と違うような違わないような――変わっている気もするが、変わった点を指摘出来はしない。
一通り見終えると、住江はすっかり満足して、毛馬町を後にした。
毛馬橋東詰へと歩いて戻り、そこからは川に沿って行った。
これまたよく赴いた公園が川沿いにあったが、様子がすっかり変わっていた。サイクリングロードは近年にも通ったことがあったが、自転車走るのではなくゆっくりと歩くと趣深かった。
並木を見ていると、蝉だらけになる季節までもう少しだ、と思わずには居れない。
蝉の脱け殻を収集し、一つあげようと言って加奈世の目の前に突き出すと、加奈世は「ぎゃ――」と悲鳴を上げながら逃走して行った、そういう場面が鮮明に甦る。
そんな毛馬町時代の数々の出来事は、昨日のことのような、遠い昔のことのような――夢のような。住江の足取りは軽い。
(前も楽しかったけど、今も楽しいなあ。私って幸せな人間やなあ)
川沿いの道で蚊に幾つか刺されつつもそんなことを思う住江であった。
そうして住江は都島橋東詰に到達し、左折した。
橋の続きの坂を下っている時、ふとあることを思い出した。
(ああ、そう言や、敏行君、手帳取りに来たんかいな……)
日差しの弱くなり始めた都島通で、住江は腕時計を見る。前日に敏行が素麺を食べてから家を出た時刻まではまだ二時間程あったが、敏行はもう家を出たであろう、と思った。そして、もう受験期かあるいは翌年の春まで敏行と顔を合わすこともないだろう、と予想した。
住江は、それについてどんな感情も抱きはしなかった。会わないから寂しいとか残念だとか、そういうことは全く頭になかった。
(敏行君は、私にとってはそんなもんを超越した存在やな。『さすらいの人』は目の前に居っても居らんでも、単なる『郷愁の人』なんやなあ。妙やわ。生きた人間をそんな風に捉えてええんやろか……まあ、ええな)
住江はのろのろと家に向かって歩いて行く。自分の影が前に長く伸びていく。住江は空腹を覚えた。
(うわあお腹鳴るー)
「ぐう」という音は、次々と住江の右側を追い越して行く車の音に掻き消される。「子供だけ」での夕食の時刻が懐かしくなるばかりであった。
いつしか道は平坦になり、都島本通の交差点が近付いてきた。そこに、地下鉄都島駅に降りる階段がある。住江が前日に手帳を持ってやって来た所である。
交差点までの距離が縮まっていくに連れて、敏行がまだ都島駅への階段を降りていないという気がしてきて、住江は前方を目を凝らして見た。
(まだ帰ってなかったら何やっちゅうねんな)
と自分に問い掛けながら歩いて行く住江の視界内に、左の方から長身の青年の姿が入って来た。……敏行である。
きっと階段しか見ていないから私に気付くことはないだろう、と住江は予想した。
しかし、階段に差し掛かる一歩手前で、敏行は横断歩道を渡る住江に気付いて立ち止まった。そして、わざわざ階段から離れ、信号の所まで移動して住江を出迎えたのであった。
敏行の予想外の行動に、住江は大いに驚いたが、、
「もう忘れもんない?」
と普通の声を発した。敏行は黙ったまま頷き、一瞬の沈黙の後、
「受験頑張ろな」
と言ったのであった。住江は噴き出しそうになりながらも「うん」と答えた。
そうして二人は「じゃあ」などと挨拶を交わしてから、敏行は階段を降り、住江は左に曲がって幹線道路沿いの歩道を歩き出し、離れて行く。
住江は、地下鉄の入口から遠ざかりつつ、笑いを堪えていた。
(受験頑張ろなやって、気取っちゃって。あれはいわゆる社交辞令っちゅう奴やな。大人みたいに)
もう辺りは薄暗くなっていた。うどん屋の看板が光を放っていた。
住江家の前の中学からも余り声は聞こえて来なくなっていた。住江はゆっくりと遣戸を開ける。
ふと足元に目をやると、靴が妙に多かった。焦茶色の革靴は優の、紺の運動靴はシノのものだと分かったが、白い革靴は誰のものか……と考えていると、足音がして、エプロン姿の母が玄関まで出て来た。
「自転車は?」
「置いて来た」
「また? ……変な子やなあ、あんた。さっきからずっとみんな待ってくれてやるで」
母はそう言うと台所へと戻った。
住江は、台所を通過して応接間へ行った。すると、シノと優と、そして瑞帆がソファーに座り、談笑しているのであった。
「もう、おっそいなー、何しとったんよ」
シノは住江の顔を見るなり立ち上がって文句を言った。優が、
「やっぱりもうちょっと夏期講習のこと考えよってなって、もう帰ってると思て寄ったのに居らんねんもん」
と説明した上で文句を言った。住江が瑞帆に目を合わせると、瑞帆は、
「ええもん見付けたから、京橋へ来たついでに持って来てん」
と言って、テーブルの上の紙を指差した。それは、偏差値の高い順に大学名が並んでいるものであった。コピーしたものに、色ペンで印がしてある。
「これ法学部の奴な。丸付いてんのが通学可能なとこでな……まあ、こんな上の方に印付いてんのは笑といてやな……緑の線引いてあんのが地理で受けられるとこやねん。あんまりないやろ」
住江は、予想外の少なさに目を見張った。
「ええっ、こんだけしかないんですか……」
「そうやねん、よう考えたら住江、地理で受ける言うとったしなー、思てな」
「地理はあかんわ住江、世界史にし」
と優は言う。住江は首を横に振る。
「無理や、世界史なんて。なんやら帝国とか全然覚えてへんもん。しかしこんなんでは……浪人かなー」
住江は特に絶望してはいなかったが、そう言って腕組みをした。
「浪人したら、あの又従兄の人に家庭教師してもろたらええやん」
今から浪人覚悟なんて、と咎めることなく、シノがそんなことを言ったので、これは真剣にならなくて済む、と安心して住江は言った。
「敏行君理系やで」
「理系って言ったって、京大やろ? 京大。センター受けるから世界史もやってるやろし、暗記法教えて貰えそうやん」
「ちょっと。センターでも社会は選択やで。みんな世界史せえへんやん」
「うっそー、ぜーんぶ受けなあかんのちゃうん?」
「ちゃうわ、何言うてんのよ」
シノと優はいつもの調子で言い合いを始めた。
しかし、結局三人が住江家を出るまで、深刻な話にはならなかった。
すっかり暗くなった表に出て三人の姿を見送りながら、
(手紙出したん失敗やったな。まあ、来はるとは思わへんかったし、しゃあないけど)
と住江は思った。
が、手紙を投函したことなど、二日くらい前のことのように思われるのであった。朝学校へ行ったことなど、更にその二日くらい前のようである。
・学校行った
・河合塾行った
・バス乗った
・散歩した
・敏行君に会うた
・三人うち来た
と、頭の中で箇条書きにしてみた。五つ目だけが一瞬の出来事であったが、他の五項目と同じくらい、あるいはそれ以上に重要なものであると住江は認識した。
さて家の中に戻ろう、とした時に、ベルの音が接近して来た。兄であった。兄はがに股でのろのろと漕いで家の前に辿り着くと、「よっこらしょ」と言って自転車から降りた。
「やかましなあ、りんりん鳴らしてからに」
と住江は文句を言ったが、兄はそのことには触れず、
「もう敏行手帳取りに来たか?」
と聞いた。住江は頷く。すると、いつの間にか台所から出て来ていた母が、
「あれ? 実早緒、敏行君来た時居った?」
と不思議そうに言った。
「そこの交差点で会うてん」
住江が説明すると、母は
「敏行君何か言うとった?」
と問うた。住江は半ば笑いながら言う。
「『受験頑張ろな』やって」
それを聞いて兄は「わはは」と笑った。兄にはその敏行の言葉あるいはその言葉を発した敏行のおかしさが分かったのだ、と住江は嬉しく思った。しかしながら母は至って真面目な顔で、
「何がおかしいんよ。頑張ろな言うてくれてんねんから、あんたもちゃんと頑張らなあかんねんで」
と住江を咎めるように言った。
「うんうん、頑張る頑張る」
住江は笑いながらそう言って台所へ入って行った。
「あっそうそう、敏行君がお土産持って来てくれやったから二人とも食べや」
母がテーブルの上に置かれた箱を指差して言った。兄が尋ねる。
「何これ」
住江は包みを開けてみて、声を上げた。
「千鳥饅頭!」
饅頭のとぼけた千鳥の姿が敏行に余りにも不似合いであると思われた。兄は饅頭を手に取りつつ、
「渋い土産やのう」
と呟いた。住江にはとてもそうは思えなかった。饅頭は今にも「ぴっぴっ」などと声を発しそうな顔をしているのだ。
住江は、リュックを左肩に引っ掛け、饅頭を三つ持って、二階へ上がって行った。
部屋の窓際の椅子に腰掛け、饅頭を食べ始めた。
宵闇に包まれた中学の体育館を眺めていると、何故か窓際のテーブルに地理の参考書を広げて勉強したくなった。
そこで住江は本を運んだり筆記用具を出したりして勉強の体勢を整えたが、二つ目の饅頭の頭を齧った時に、ふと、敏行が住江家に下宿するというのは決定したことなのかどうかを知らないと気付いた。
敏行は京都大学に合格する自信を持っているが、ひょっとすると不合格となるかも知れないし、それはないとしても、合格後、敏行がどうしても京都に下宿したいと言い出すかも知れない。そうなると当分の間――住江家が毛馬町から引越して来た時以来五年間会っていなかったことからも分かるように――住江と敏行が顔を合わす機会もなくなるであろう。
しかし、やはり住江はそのことについて、寂しいとも残念だとも思わないのであった。社交辞令を言うような年齢となった今、これから先に、昔のようなおかしな出来事は起こりそうにもないからである。
が、住江は嘆きはしない。懐かしき思い出はもう十分過ぎるくらいに蓄えられているからだ。
「実早緒ー! 飯やぞ!」
兄の声がして、住江は我に返る。
(もう、せっかく勉強しょう思たのに、これで中止やな。まあええわ)
住江は勉強への意欲をすっかり失い、空腹を満たすために台所へ降りて行った。
さすらい又従兄