たんほぽの綿毛についての見解

たんほぽの綿毛についての見解

エリゲンジンとの関係

 無駄っていう言葉が嫌い。

 どんな事でも有益だとは限らない、しかしながら今回は違う。
いつもは寝てばっかりのおじいちゃんが、こんな天気の良い日、
しかも私の大好物のお酒が呑める滅多とない休みに台所へ現れた。
その登場の仕方は、まるで春先に間違って冬鳥が日本へ訪れたようだった。

「食べたのか」

 一言目、いや、何言目なんて関係ない。それより大事なのは私の台所の
奥の奥で煮込んでいる、ぶり大根。愛しのぶり大根が、
おじいちゃんが台所へ登場したことにより、熱くなって悲鳴をいかにもあげそうになっている、それを何とかするのが、私の役目であり、宿命なのだ。


「なにを?」
「エリゲンジン」
「・・・エリゲンジン!?」

 私の脳内は、「エリゲンジン」というカタカナ、濁音、おじいちゃん独特のイントネーションでいっぱいなり、そしてミックスジュースのようにごちゃまぜにされた後、新しい味が発見されたかのようにハッとした。

「あぁ、知らんよ」

 エリゲンジンは、人参でもなく、アウストラロピテクスのように人類を発展させたものでもなく、スーパーに売ってある、エリンギのことだった。
肉じゃがはすっかり汁気をなくし、くたばっていたところを、私が即座に救出した。
まだ、息をしていてた。冷や汗が灰汁のようにポツポツと浮き上がってくるのを体全体に感じた。


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 おじいちゃんは私が中学二年生の夏休み真っ只中の、ある日に自宅で倒れた。脳梗塞だった。脳梗塞のは読んで字のごとく、脳内の血管が詰まってしまう病気だ。しかも、おじいちゃんは脳幹というたくさんの神経を司る、非常に大切な部分にそれができてしまった。
一命は取り留めたものの、日常生活における基本的な動作、言葉があまりうまく話せなくなった。
この病気になる前から頑固な性格だったこともあり、これが食べたいから作れだとか、掃除をしろだとか、自分が行動する前にまず人に命令してしまう。
今回のこともそうだ。

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 さて、ここで疑問なのが、なぜおじいちゃんがエリゲンジンを必要としたか。
いや、エリンギ。エリンギなんて味噌汁にぶっ込むか、いためるか。あるいは鍋に突っ込むか。私の思考回路もなかなかのいもこき状態だ。
いろいろ考えているうちに、どうでもよくなった。おじいちゃんがエリゲンジンをどうしようと、私には関係ない。いや、関係ある。
作った料理を必ず食べろ食べろといい、味はまぁまぁなのだが、問題は時間が経ったものだ。冷蔵庫にラップもしないでいると、ミイラもびっくりの容姿に大変身なのだ。
そのミイラを少なくとも一週間は食すことになる、これは一種のサバイバルだ。

「おじいちゃん、エリゲンジン、どうするの」
「ちょうどええんや。」

 ちょうどいい、という言葉について考えてみた。「ちょうどええ」の、「ええ」とは、大阪独特のイントネーションであり、そんなことはわかっていた。ちょうどいいというのは、日本語において、いろいろな使い方ができる。
例えば、お腹がすいていたときに、そのすき具合によって食べたいという意識は変わってくるだろう。そしてその食べる量によって満腹度は変わってくるであろう。時には足りないと感じたり、時には「ちょうどいい」と感じるだろう。
これは量的な問題であって、他にもタイミングとしてこの単語は使うことができる。「ちょうどいい時に来たね」なんて言葉も時たま聞くことがあるだろう。

さて。ここで問題となるのは、おじいちゃんが発した言葉「ちょうどいい」が、どういった意味で使われたのか。ということだ。
この2つの例から、どちらのほうが似通っているか選択するとしたら、前者になるだろう。
しかし、想定外なことが起こった。おじいちゃんが発した言葉は、どちらとも全く関係なく、未知なる考え方から生まれた意味合いであったのだ。

「ちょうどええ・・・・・・・・・・ん?どういうこと?」
「おじいちゃんは悲しい。わかるか。エリゲンジンがいなくなったんや。でも、おじいちゃんはそれでちょうどよかったと思ってる。ああ、ちょうどええんや。」

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 大切なものがなくなるということについて。
私はこれまでにたくさんのものを失ってきた。例えば、ハワイへ行ったときに買った貝殻のネックレス、お母さんに15歳の誕生日に買ってもらったカバン。これらは「物」なのだが、物はいつか失ってしまう。そうだと私は思っている。これが「生き物」になってくると、絶滅してしまった生き物もいるだろうし、逆に生き残ってきた生き物は姿を変えて現在も姿を現しているのであろう。しかし、人間にとって、どんなに大切な「物」を失い悲しみに暮れてしまったとしても、それは一時の感情にすぎない。大切なのは、自分自身の中にある「心」なのではないかと思う。どんな時に「心」を失ってしまうのか。
まさに今、おじいちゃんがその状況になりつつあったのだ。

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「おじいちゃん、エリゲンジンやんね、スーパーで買ってくるから、待っててね。」

 おじいちゃんは、この私が発した綿毛が飛んでいきそうな声をつかまえることが出来たのか、わからないけれどおじいちゃんの頭の中は、タンポポがもう今から種を飛ばすぞと言わんばかりに真っ白に、はじけ飛んでしまいそうだった。

「エリゲンジン、買ってきたよ」

 買ってきて私はそれをおじいちゃんに渡すと「ありがとう」とは言ったものの、あれはきっと心の底から言っていないだろうな、ということは目をみるとすぐに分かった。おじいちゃんは、本心から思っていないことを口から発すると、絶対に下を向いて話すのだ。そして、遺伝の影響かもしれないが、少なからず私もそうである。しかしそういったマイナスの部分を指摘されると、否定してしまうのは人間のあれであり、あれだ。うまく言えないが、そのあたりは想像してほしいのと、遺伝だからという理由で納めてほしい気持ちもある。

 おじいちゃんは。その「エリゲンジン」なるものを、味噌汁へぶっ込むでもなく、はたまた鍋へ突っ込むでもなく、さりげなく部屋の隅にある仏壇へ飾った。7月10日。本当に暑かった。


私は、大切なことを忘れていた。そしてそれは、まさしく今目の前に飾られている「エリゲンジン」によって思い出すこととなった。2005年7月10日午後14時26分。おばあちゃんの命日だった。
おじいちゃんは、脳梗塞になってしまい歳のこともあり結構な物事を忘れてしまう。というか、消え去ってしまう。なのに、毎年この日に、おじいちゃんは仏壇の上に「エリゲンジン」を飾るのだ。


「そういえば、今日、おばあちゃんの日だったね。おじいちゃんごめんね忘れてた」
おじいちゃんは黙ってうなずいた。

 おじいちゃんは、病気になってしまってから体がうまく動かない。そういった点で「体の自由」を失ってしまったのかもしれない。けれど、おじいちゃんにとって忘れられない、忘れてはいけないのは、ずっと「忘れない」ままであるのではないだろうか。

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 エリンギをこよなく愛したおばあちゃんは、いろいろな料理にそれを登場させ、家族の期待という調味料と、笑顔というエッセンスとを加え、本当の意味で「幸せ」を食卓まで運んでくれた。
 癌だった。
 幸せというものは、もしかすると、一時の感情なのかもしれない。幸せという言葉ひとつにしても、「ちょうどええ」と同じように人それぞれ感じ方は違うのだ。おじいちゃんにとって一番の「幸せ」だという気持ちはきっと「おばあちゃん」であって、「エリゲンジン」である。

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「また、おいしい料理を作ってください。楽しみにしています」
 独り言のように仏壇の前で唱えるおじいちゃんの姿は、世紀末にお経を唱えるお坊さんのようであった。3日ほど遅れており姫様と彦星さまが見事に結ばれたかもしれない。


 決して、生きていく上で無駄なことはこの先もないだろう。確かにどんなことも有益であるとは限らない。しかしながら人はみな「無駄」といわれることから「有益」なものを手に入れているのだ。

 たんぽぽの綿毛は、一本の柄から大体60~80の冠毛が生えており、セイヨウタンポポで約200ほどの種子をスタンバイさせている。全部がはじけ飛んだ時は、その一本のタンポポは種子から成長し、黄色い花を咲かせたこと、犬におしっこをかけられたこと、ハチがやってきて花粉を黙って持ち去っていったことすべての記憶がなくなってしまうことに等しいかもしれない。しかし、爪の端先ほどの種子たちはどこかで新しい記憶を生み出し、定着させているのかもしれない。

 タンポポの綿毛が夏の風、料理のにおいとともに舞い降りてきたように感じた。幸せだった。

たんほぽの綿毛についての見解

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  • 小説
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  • ミステリー
  • 成人向け
更新日
登録日
2013-07-02

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