予感
佐久間家の客間で、富岡孝軌は佐久間明梨をほとんど無視し、格闘ゲームに熱中していた。
冷夏のある日の夕暮れ。
明梨は、テーブルの上に放置していたために温くなってしまったスプライトを少しずつ飲みながら、画面を眺めていた。
孝軌は、得意の必殺技を連発している。
……孝軌がレベルを最低に、明梨が最高に設定してみても、孝軌が勝ってしまった、という出来事以来、明梨は孝軌とゲームで対戦しようとしない。
孝軌の操る男が、また勝利のポーズを見せた。明梨は、溜息をつく。
孝軌は突如ゲームを止めた。
「ちょっとスプライトちょうだい」
明梨は黙って座ったままで、缶を持った手を孝軌の方へ伸ばす。
孝軌は、立ち上がって取りにやって来た。
缶を孝軌に手渡すと、明梨は、ワイン色のテーブルに頬杖をつき、窓の外に目をやる。 久しぶりに、空は晴れていた。
「あー疲れた。こんな長い時間やってたら、電気代凄いやろな。これから晩飯でも奢るわ」
「電気代の分っていうこと? 変に気遣わんとってよ」
明梨はそう言うと、大きな音を立ててテーブルを叩き、立ち上がる。
「どこ行くん?」
「トイレ」
乱暴にドアを開閉し、明梨は部屋を出た。
孝軌は、広い部屋の中で、ソファーに寝転がる。
その時、玄関のドアの開く音がして、「ただいまー」と間延びした声が聞こえた。
明梨の姉の瑞帆が帰宅したのである。
明梨が部屋に戻った直後に、客間のドアがノックされ、ゆっくり開いた。
孝軌は、瑞帆に会釈をする。瑞帆は同じように会釈してから、言う。
「私、出掛けて晩御飯食べて来るから、あんたと富岡君で食べときな」
明梨は、頷くだけで何も言わなかった。
一瞬の沈黙の後、明梨は台所に入る方のドアを開け、無言で客間から出て行った。
瑞帆と孝軌は目を見合わせる。
「なんか機嫌悪そうやな、あの子。……ひょっとして富岡君、一人でゲームしまくっとったとか?」
「鋭いですねー、まさにその通り。ついつい集中してしまってね」
「富岡君、上手いからどんどん勝って、やめられへんようになるんちゃう?」
「はは、こんなんばっかり上手なってもしゃあないんですけどねー」
二人が談笑していると、突如ドアが開いた。
明梨は、そのドアを閉めようともせず、孝軌の腕を掴む。
「うお、何や何や」
孝軌は引っ張られるままに歩き出した。
そして、階段を上り、屋上に出る。
明梨は、スリッパも履かずに素足のままで端まで歩いて行き、薄汚れた白い椅子に腰掛けた。
風が吹き始める。
明梨の長い栗色の髪が、乱される。孝軌は、それを静かに見ていた。
明梨は、二人の通う高校の方を眺めている。しかし、遠くて校舎は見えない。
「やっぱり奢って、晩御飯。遠くの店がいい。バイク乗して行って」
孝軌の方を見もせずに、明梨は喋った。
孝軌は、ドアから一歩出た所に立ち尽くしたままで「うん」と答えた。
その時、晴れていた筈の空から雨粒が一つ、孝軌の足元に落ちた。
「あ、雨降ってきた」
「嘘や、晴れてるのに! 行きたないからそんなこと言うてんやろ!」
孝軌の方に顔を向けて、叫ぶようにそう言った明梨の頭にも、雨粒は落ちてくる。一粒、二粒、三、四、五……。
そうして、五メートル程離れて立って互いに凝視し合う二人を、雨は容赦なく濡らしていった。
予感