藤色ノスタルジア
それは、すだれだった。心を覆う、すだれ。壁だと思うほど厚くも堅くもないはずなのに、どうしてもその向こう側に手を伸ばすことはかなわない。
それは、優しくて甘い拒絶。
「藤はまだ咲きませんね」
男の言葉に、彼女は見上げた。藤棚はまだ空色を切り取るのみで、花はおろか、葉さえ満足に広げられてはいなかった。
「まだ少し、藤の季節には早いでしょう」
つぶやいた彼女は、つないだ手に力をこめる。そうしなければ、震えてしまいそうだった。
「いつになったら、咲きますか」
男の問いかけは、はたして彼女に向けられていたのかどうか。
「藤」にこめられた真意を、彼女には測れなかった。ただこの男の――どうしたって自分の知りえない――過去に、女の影があることは確かだった。
自分を愛してくれる男は、たびたび「自分ではない誰か」を、自分の向こう側に見ている。振り返ったところで、決してその姿は見えないのだ。名伏し難い悔しさが、胸を占めて。
「他の花ではいけませんか。桜、たんぽぽ、すみれ。春の花なぞ、山のように……」
彼女の弁を遮るように、男は手を握りしめる。その力は、少し痛いと感じるほど。
「藤の花でなければ、意味がないんだ」
すがるようにも束縛するようにも見えるその手を、振り払うなぞ永遠にできないのだろう。
藤は決して近づくことを許さない。こちらから向こうが覗けないように、あちらからも外を見ることは不可能だけれども、彼はそのすだれに固執する。盲目なのだ。なにも見えなくてもいい、これさえあればと目を閉じる彼は。
――ああ、これは悋気ではない。悔しさと切なさ、それからほんのひとつまみの虚しさ。
それらをぐちゃぐちゃに詰め込んだしずくを喉の奥まで飲み込んだ。
そうしてまた、手を握り返す。私にはあなただけなのだと、そう伝わらない想いをこめて。
雪の匂いは薄れてく。春には及ばず、冬にも遠い。
狭間に立ち止まって、今。
花の香りはまだ届かない。
藤色ノスタルジア
「源氏物語」のオマージュ小説。