オフィスの執事とブラックコーヒー

そのオフィスには、一つの可笑しな自販機があった。「あなたへのオススメ」とまるで子供騙しのようなものだったが、その存在に二人の男女が気付く。海堂暁宏《カイドウ アキヒロ》、年齢のわりに老けた顔をしている、幼児用おもちゃ会社、企画部の若手。冲織祐菜《オキオリ ユウナ》、年齢の割に童顔で可愛らしい、営業部の女性。会社内ではなぜかこの二人しか認識できない自販機、彼らはこの自販機を通じて、どのような物語を紡ぎだすのだろうか。

オフィスの執事とブラックコーヒー

 俺の日課は、オフィスの休憩所で飲み物を飲むことだった。
 緑のカーペットが敷かれたわが社のオフィスは、幾つかの自販機が設置されており、多くの社員が談笑、一息に使う場所だ。そこにはベンチも設置されてはいるが、俺はそのベンチが好きではなかった。なぜならそのベンチは自販機の方に向いており、せっかく緑のカーペットが風の流れる草原を創りだしても、雰囲気を壊しているからだ。ならば窓から見えるビル街をせめてもの一つの林として、流れ行く雲たちをぼおっと眺めているほうが安らぐ……少なくとも俺はそうして過ごしている。まあこうやって悪いイメージはあるが、仕事場と比べて相対的に優しいこの場所は中々好きだった。少なくとも手元にあるコーヒーか紅茶か、飲み物を手にしている間は。そしてそう愛着があった俺だからこそ、それは気付くことができたのだろう。
 今日も俺は、上司からのいちゃもんその他もろもろを発散するためにこの場所に来ていた。今日はどういう飲み物を飲もうか、憂さ晴らしに炭酸でも一気飲みしてやろうか、お気に入りのブラックコーヒーをしみじみと飲んでやろうか、そう考えていた時のことだった。
 いつもと休憩室の様子が違うことに気が付いた。いいや、いつもの和気藹々しているかわからない中途半端な空気、それは変わらない。けれどどこか違和感を感じる。どこか脳科学の教授がなんとか体験とか言っていたのを思い出すが、まさにそう。いつもと、どこか違うのだ。間違い探しをするように俺は、休憩室全般を見直す。間も変わらず不親切なベンチ、コンクリート林を映し出すガラス窓、緑色のカーペット、自販機、と気付いた。自販機が一つ、増えている。俺がちょっと上流階級の優雅さを味わうため缶紅茶を買うその自販機は、たしか右端にあったはずだが、さらにもう一つ青い自販機が増えていた。
 内容が季節の変わり目で一新することはよくある。社会人生活二年目の俺でも、ここの自販機が春夏秋冬で商品を変えていることはよく知っていた。だけども、新しく既存の場所に自販機を増やす、という事例は少ない。さらにここはオフィスの休憩室であるが故、そんなことは無いと近似してもいいが。珍しいこともあるもんだ。定年前の懐古を好む高齢社員の真似をしつつ、どんなラインナップなんだろうか、と興味深く近寄ったところ。
 自分で聞いていても馬鹿と思えるような声を出したと思う。だけど目の前にあるそれは、確かにそれを吐かせられるほど異質な光景であった。
 そこには、なんとも可笑しい自販機があった。まず一番目を分捕られるのはその商品、何と一つである。しかもその商品は表題といったものがなく、ただ缶の形をして真ん中にコミカルな「?」マークが描かれてあった。なんだこいつはと動揺を必死に食い止めながら、下へ下へと景色を手繰っていく。元来なればそこに「つめたーい」やら「あったかーい」という子供じみた標識があるのにも関わらず、この自販機はことごとくそれを裏切る。そこには「あなたへのオススメ」と書かれていた。下に備え付けられた値段は、それだけはいつもと変わらない百二十円、逆に違和感を増大させる。また、商品を除く自販機全般の様子は、隣に並ぶものとほぼ変わらない。宣伝広告はないが、飲み物を取り出すところも、千円札を入れるところも、おつり返却のレバーもある。硬貨を入れるところにはいつの話だろうか、新五百円対応と記されていた。その自販機を何か比喩だか揶揄だかするとしたら、夏休みの宿題で考えた小学生の自販機デザイン、それが適当だろう。これは子供がデザインしたものを実現してみましたそういう企画なんです、なんて言われると俺は信じきってしまうに違いない。それほどまでにこの自販機は、どうもこの会社の休憩室には似つかわしくない、なんともコントに近い存在だった。
 俺は、気付いたらこの自販機に金を投入していた。どうしてこんなものに百円玉を二枚も入れているのだろう、とも思えてきた。だけど今更金を取り出すのも億劫だから、たかが百二十円だと自分を慰めつつ、ついに購入ボタンを押してしまった。
 ガタコン、聞きなれたアルミ独特の衝突音。それと同時にチャリチャリとおつりが出てくる。まずは残りの八十円を取ろうと、おつり出口に手を伸ばした。悲しいかな、全て十円玉。豚財布に内心嘆きつつも、肝心の落ちてきた飲み物を取り出そうと屈む。出てきたのは、少し温かめのブラックコーヒー。どうしてまた、と一瞬怪訝な表情をしたと思うが、いざプルタブを開けて飲んでみると、これが悪くない。そもそもこの休憩室にしろオフィスにしろクーラーがきいていて、別に熱い飲み物が苦ではなかった。それどころか温かめの好物は自分の心を落ち着かせてくれ、髪の薄い上司に向けられた憤りもどこへやら。夏にもなろうというこの時期、他の自販機に温かい飲み物が無かっただけに、この感覚は新鮮でもあった。



 以降、俺はその自販機にとり付かれていった。休憩所に来たときは必ずこの自販機を使い、あなたへのオススメを飲み干しては仕事場へと戻っていった。仕事が上手くいって調子が良かった時、自販機は冷たいカフェオレを出してくれた。上司達から下らない揶揄をぶつけられた時、自販機はブラックのホットコーヒーを出してくれた。どこか気だるくやる気が起きない時、自販機は冷たい炭酸ジュースを出してくれた。
 もちろん、何も感じずにその自販機を使っていたわけではない。俺の調子に合わせて品定めをしてくれるこの自販機を、時々訝しく思うことがある。だから俺は、この自販機を知ろうとした。仕事を蔑ろにするわけにいかないから、一日中張り込みをしたわけではないが。
 さて、この自販機は他者に認識されない。一般化するとよくわからないから、具体例。先日、特に親しかった先輩にこの自販機のことを訊いた。これだけ可笑しな自販機があるのだから、オフィス内の小話題になっていても何ら不思議ではない、というかそうならないと駄目なのだ。しかしその先輩は笑い声を上げるだけだった。そんな自販機があるわけないだろう。言われてみればそうだった。自分の飲みたいものが出てくる自販機なんて、可笑しな夢を見たときの登場人物だ。だけど諦めきれない頑固な俺は、その先輩そのほか何人かと休憩室に行ったとき、例の自販機を指差してこれだと大声を張り上げた。だけどよくわからないような顔をして、先輩はコーヒーを買おうとした。ただし、使ったのはその「あなたへのオススメ」がある自販機だった。先輩は何の疑問も抱かずお金を入れ、何の疑問も抱かずたった一つのボタンを押し、何の疑問も抱かず取り出し口から甘いコーヒーを手に取ったのだ。先輩の連れも何人かは彼と同じように、まるでいわくの自販機を普通のそれと同様に扱ったのだ。その瞬間に俺は、彼らにはこの自販機の特異性がわからないのだと思った。そして噂にもならないこの自販機を見て、これを認識しているのは俺だけだと、どこか勝ち組のような誇らしい気持ちになった。
 だけど、この自販機の存在を知っている人は、もう一人いた。



 その日、俺の発案した企画書が上司の目に触れ、会議に出してみないかと言われた。上機嫌な俺は年甲斐も無く笑顔を綻ばせて、いつもの自販機へと向かっていった。オフィスの休憩所は相も変わらず国立公園の雰囲気で、というか地面が緑色だとかクーラーの風とかで、まさにだだっ広い公園のように思えてきた。これで景色がビル街じゃなければなとぼやきつつ、俺はいつもの自販機へと小銭を投入する。
 この自販機と過ごしてからしばらくするが、なんとなくこれの性格はわかってきた。まずこれは、五十円玉を出さない。二百円を入れて買えば、必ず十円玉八枚が出てくる。おかげで最初は財布が無意味に太るだけだったが、そうとわかればこちらのもの。今日も然り、きっちり百二十円を入れて、おつりは出さないようにする。またこの自販機は、あまり連続で硬貨を入れると、おつり入れに出して受け取ってくれない。だから、一枚ずつゆっくりと入れるのがコツだった。いつだったか、先輩がこの自販機に対して使いにくいとか言っていたような。素性がわかってしまえばこんなに便利なものだというのに、優越感に浸る。
 今日は仕事でいいことがあったから、甘いカフェオレが出てくるかと思った。大体調子の良いときは、甘い飲み物が出てくる。アイスココアなんて出た日もあったか。だけどその自販機が出したのは、以外にも温かいブラックコーヒーだった。それはいつも落ち込んでいただとか、暗い気分の時に飲んでいたものだったから、気分とコーヒーとの齟齬が輪郭を乱す。人生こんなに上手くいくことないぞこれでも飲んで現実を見ろ、という自販機からの忠告と受け取っておくことにした。
 ブラックはいい。ほんわか広がる苦みの波が心地よく、かといって砂糖独特の甘ったるさもない。苦いものが飲めない人もいるが、おそらくそれは苦味の旨味を知らないからだ。ブラック好きにピーマン嫌いはいないと思うし、つまり苦味の良さを知っている奴だけがブラックを好きこのんで飲んでいるのだと思う。上司からお前は老け顔だとよく言われるが、俺にはそれがちょうどいいと思う。なんていつものビル街を眺めながら物憂げに酔いしれていた。
「あの、その、ちょっといいですか……?」
 その女性に話しかけられたのは、これが初めてだった。黒、いやほんの僅かに茶色がかったセミロングの髪の毛に、穏やかで軟らかそうな童顔。現役大学生か、下手すれば高校生でも通用しそうな、なんとも幼い人だった。
「はぁ、どうしました?」
 女性は俺が話しかけた瞬間にうつむいた。どうした、何か俺が悪いことでもしたのだろうか。それとも重度の人見知り、か。あるいは、俺の顔がよほど怖かったか。そもそもどうして上司からよく怖いと言われる実績付きの俺に話しかけてきた? 話し出さないのを怪訝に思っていると、ふと彼女が何か手に持っていることに気が付いた。ブラックのコーヒー。ちょうど俺が飲んでいたやつと同じものだ。待て、俺はある違和感に気が付いた。
「私、カフェオレが飲みたかったんですけど、ボタンを押したらこれが出てきちゃって……多分業者の人が間違えたんでしょうけど、私ブラック飲めなくて、もしよかったらいかがですか?」
 そう言って女性はブラックコーヒーを差し出してくる。まるでラブレターをじかに渡されているようで一瞬ドキッとしたが、そんな青春は無かったなと肩を落とす。いや、問題はそこじゃない。俺はとりあえず女性からコーヒーを受け取る。夏に似つかわしくない、ホットのブラックコーヒー。俺はある確信に到った。
「野暮なことを訊くんですが、そのコーヒー、どの自販機で買いました?」
「これ、ですか……?」
 何ともまずい質問をされたような顔をする女性。
「そう、そのコーヒーです」
「えと、えと、その……ここの一番端っこのやつです」
 彼女が指差したのは、図体だけは普通のものと変わらない、例の自販機だった。相も変わらず俺には、「あなたへのオススメ」なんて子供だましの商品が一つあるだけ。
「なるほど。いや、ありがとうございます、こんな当たり前の質問に答えていただいて」
「……はい」
「では、僕はそろそろ仕事に戻りますね」
 俺は飲み干したコーヒー缶を捨て、彼女からもらったコーヒーをポケットに入れて、休憩室を出て行こうとする。すると突然、何者かに手首を掴まれるような感触がしていた。振り返ると先ほどの女性が、顔を上げてこちらを見つめていた。その表情には、やってしまえ、という意が汲み取れた。
「……わかるんですか?」
「何がです?」
「……端っこの、自販機。あなたへの、オススメ」
 少し役者ぶってしまったかもしれない。けれど彼女があの自販機の正体を本当は知らない可能性だってあった。俺はまた恥をかきたくなかったから、キザったらしくなってしまったが。まあ、もういいだろう。
「知ってますよ、あなたへのオススメ。この会社に相応しい、子供のおもちゃみたいな」
 女性は何か確信に到ったらしく、手首の拘束を(ホド)く。俺は掴まれた左手を(ホグ)しながら、そんな彼女の様子を見ていた。
「明日、また来ますか?」
 デートのお誘い、とは少し違う。告白と表現しても構わないような声色。
 確かにたった一人の秘密でなくなったのは寂しいが、それ以上に好奇心が勝った。俺はこういう性格なんだな、と再認識する。
「ええ、この時間にはいますよ」



 それからのこと、彼女とはこの休憩室でよく会うようになった。まあ今までも時間が重なったことはあるだろうが、残念ながら俺は窓のビル街をよく見ていたので、彼女のことはよく知らなかった。
 話していてわかったことは、いくつかある。まずは彼女が、冲織祐菜(オキオリ ユウナ)という名前だということ。そして子供向け玩具の開発をするわが社の、営業部の人らしい。歳は二七歳、俺が二三歳で、人生的にもこの会社的にも先輩だった。もちろん歳に関しては俺から訊いたのではなく、名前と一緒に教えてくれただけだ。そんな失礼な真似はしない。
「僕は、海堂暁宏(カイドウ アキヒロ)です。企画部の方で新入りをやらせてもらってます」
「あれ、後輩だったんですか。雰囲気がとても大人びているので、てっきり先輩なのかな、って思ってました」
 俺は、誰かと話すときはいつも一人称が「僕」だった。その方が見た目的にも大人しく見えるし、まあ上司他人に向かって「俺」と言うのもどうかと思うから、癖で誰にでもそうなってしまった。そうなって嫌になった思い出はない。
「やっぱり、年齢の割に少し老けて見えますかね」
「会社の人にも言われたりします……?」
 沖織さんは、訊いていいものか、という困ったような表情を浮かべる。
 別に俺は構わなかった。むしろ自虐ネタとして先輩たちを笑わせられているから、誇れる特徴である。
「そうですね、よく言われますよ、お前は前までどこで働いていたんだ、って。僕は正真正銘の新社会人だってのに……一番ひどかったのはあれかな、この前三歳児を持った母親にインタビューしに行ったとき、子供に『おじいちゃん』って言われたんですよ。おにいさんは諦めてますけど、せめておじちゃんくらいにして欲しかったなぁ」
 俺は微笑む。そんな俺を見て沖織さんは、安心しきったように、
「ふふっ、大変ですね。でも私は、落ち着いて見えるから嫌いじゃないですよ? なんか、頼りがい溢れてます」
「そう言ってもらえると、大変嬉しいです。……ところで沖織さん。僕に対しては別に気遣う必要なんてありませんよ?」
「そうですけど、なんかそっちの方がしっくりくるんですよね。嫌でしたら、何とか頑張ってみますけど」
「とんでもない」
 元々から敬語であったし、この外見だから仕方ないのかな、と思う。そうしたら沖織さんに向けてタメ口をはたけば、典型的な先輩後輩の図になるだろうか、なんて思ったりもして、失礼だと思ってやめた。
 また、沖織さんは独身であるらしい。失礼なことをお聞きしますが、という接頭語を付けてそのことを尋ねてみると、彼女は、
「夫ですか? いませんよ。私は、少女漫画とかはよく読みますけど、実際に恋愛をしてみるとなぁ、って。いつかはしないとーって思う時もあるんですけどね、いつまでも身内が親だけってのもどうかと思うし」
 なんて思わせぶりな回答が返ってきた。
 沖織さんは、少し子供っぽい見た目はしているが、悪くない外見と性格をしている。そうしたら誰か沖織さんを狙っている男性もいるとは思うのだが、その辺りはどうなのだろうか、俺には分からない。まあ少なくとも、休憩室に入る沖織さんを付け狙うストーカーはいないらしいが。
 ちなみにその後、海堂さんはどうなんですか、なんて訊かれたのはお約束の展開で。嘘をつく必要もないし、強がるのも面倒なので、いないと答えておいた。


「……今日も、ブラックコーヒーかぁ」
 いつもの時間、いつもの休憩室、俺と沖織さんは例の自販機の前で(タムロ)していた。今日の休憩室は大分と賑やかだった。
「ブラック、嫌いですもんね」
 沖織さんのさらさらした茶髪が、彼女の綺麗な首筋を撫でる。沖織さんは、首を傾げていた。
「海堂さんはいいですよね、ブラック飲めて」口を尖らせながら。「私、苦いもの全般が苦手なので。ピーマン食べれませんし」
 ピーマン嫌い申告は何とも可愛いものだったが、まあ仕方ない。俺だって好き嫌いの一つ二つくらいある。
 どうぞ、と場所を譲る沖織さん。もはやこの光景は日常茶飯事だった。俺は硬貨を入れていく。そして一つしかない、押す意味があるのかわからないボタンを押して、下の出口から取り出すと、
「ちょうどオレンジジュースが飲みたかった、さすがだな……」
 いつものことながら、この自販機の性能には驚嘆するしかない。そもそも原理がどうなっているのかわからなく、得体のしれない所で飲み物を買っている俺たちだが、不信感はいつの間にか消えていた。
「海堂さんにはオレンジジュース、私にはブラックコーヒー……じぃやは私を贔屓(ヒイキ)してるのかなぁ」
「じぃや?」
「あ、この自販機の名前です。じぃや。私たちへのオススメを考えて出してくれる、執事。だからじぃやです」
「なるほど」
 言われてみれば確かに執事らしい。ご主人様が飲みたいものを察し、即急に出してくれる。まさにどこか金持ち屋敷の執事みたいな存在だ。沖織さんに対しては冷たいようだが。
「その依怙贔屓(エコヒイキ)な執事に、どうしてまだ沖織さんは通ってるんです?」
 沖織さんは指の関節を唇に添えて、首を傾ける。相変わらず少女のような仕草がかわいい人だ。
「なんででしょうね、私にもよくわかりません。ただ一つ言えることとしたら、この自販機が何を思ってブラックコーヒーを出しているのか、気になるから、かもですね」
「自販機が何かを意図している、と?」
「もちろんただじぃやが意地悪してる可能性もあるんですけどね、あはは」
 腰をほんの少し傾ける沖織さん。
 まあ確かに、この自販機には謎が多い。そもそもどうやって俺の気分を伺っているのだろうか。仕事場に監視カメラでも仕込んでいて、管理人が色々入れ替えているのか? 管理人はもしかしたら同じ仕事場の人間かもしれない。しかしそれだと、他の人に認識できない、という謎が残る。俺と沖織さんをドッキリに仕立て上げるために、社内の全員で気づかないふりをしているのなら納得はできるが。しかしあの石頭課長がそんな遊びに付き合うとは思えない。
 やっぱり不思議だ。俺には望み通りの飲み物が出てくるのに、沖織さんには嫌いなブラックコーヒーばかり。まるで自販機に心たるものがあるようで、そんな不思議な自販機を当たり前のように使っている俺が、少し可笑しく思えた。
「あれ、ブラックコーヒー飲むんですか?」
 沖織さんがブラックコーヒーのキャップを捻ろうとしていた。
「うーん、もしじぃやが私にブラックコーヒーを差し出すのなら、何かしらの意図があって、私は飲むべきなんじゃないでしょうか?」
「でも、嫌いなものをそうまでして飲む必要はありませんよ。今は仕事じゃないんですから」
「でもまあ、飲まず嫌いって可能性もあるし、何よりチャレンジですよ! チャレンジ!」
「はぁ」
 沖織さんは確かそんな人だったかなんて考えつつ、俺は沖織さんが恐る恐る飲み口に唇を添えるのを眺めていた。缶を傾け、傾け、傾け、
「あっ、ごほっごほっ」
 咳き込む沖織さん。まさかの気管に入ったらしい。
「大丈夫ですか!?」
「ごほっごほっ、うえぇ、苦い……」
 苦悶の表情を浮かべる沖織さんへ、思わず自分の持っていたオレンジジュースを差し出す。ありがと、沖織さんは口直し。
「すいません、オレンジジュースちょっともらっちゃって」
「いえ、いいんですけど……そんなことより大丈夫ですか?」
 沖織さんは唇をハンカチで拭きながら、
「大丈夫、さっきので根性はつきましたよ、あはは」
 笑ってみせた。俺は安心してオレンジジュースに一口つけた後、恥ずかしくなった。
 それ以来、沖織さんは休憩時間にブラックコーヒーを飲むようになった。



 沖織さんと出会って一ヶ月したほど、彼女からこんな話を聞いた。その日は珍しくも、休憩室に誰もいなかった。
「海堂さんは、自分の先輩のこと、どう思ってます?」
 沖織さんはブラックコーヒーの一口目に顔をしかめた後、そんなことを訊いてきた。唐突な質問だった。
 俺はいつも怒っている石頭課長の顔を思い浮かべる。
「沖織さんが上司であってほしいですね」
「私は別に大した人間じゃないですよ。それほどひどいんですか?」
「まあそうですね、純粋に笑った課長の顔を見たものはいません」
「それはひどい」
 沖織さんはいつも通り、くすっ、と笑う。だけど今日の沖織さんは、どこか乾いた笑顔をしていた気がした。
「私、親馬鹿なんです」
 沖織さんが窓の外に広がるビル街を眺めながら、そんなことを呟く。
「親馬鹿、とは?」
「怒れないんですよ、私」
「それは、上司なんたらの話ですか?」
「そうですね。私、部下を叱ることができなくて」
「なるほど」
 確かに、沖織さんが怒る叱る情景は想像できない。いつものんびりしてて笑顔で、(ナゴミ)、という一文字が似合うほどだからだ。
「海堂さんの上司が羨ましいです。人を叱るって、相当の愛がないとできないことですよ」
 うちの課長に関しては叱るというよりも、「怒る」「鬱憤を晴らす」と表現したほうが的確かもしれないが、黙っておいた。
「私、どうも叱る勇気か、愛がないんだと思うんです。いつも後輩の為に為にと思って行動してたつもりなんですけど……なんですかね、つもり、だったのかもしれません」
 沖織さんが悲しそうな、自分を責めるような瞳をして俯いていた。童顔と重なり、どこか幼い子供を泣かせてしまった申し訳ないような気分になり、いてもたってもいられなくなって、
「沖織さん」
「なんですか……?」
 沖織さんはこちらを見上げる。
「沖織さんは、叱る愛しか見てないんですよ。そりゃ確かに、叱るということが一つの愛であり、可愛い部下の為には必要なことかもしれません。……でも、きっと、それは沖織さんの役目じゃないんです。僕は沖織さんが誰かを叱っているところなんて想像できません。なぜなら沖織さんには、沖織さんらしい優しさ溢れる雰囲気があるからです。……沖織さんは決して、無愛を偽っているわけじゃないはずです。ただ、ベクトルが違うだけなんです。だから沖織さん、あなたは、それでいいんですよ」
 若造が何を知ったように言うか、そう野次られても仕方がないのかもしれない。そもそも俺は、沖織さんがどうしてこんな落ち込んでいるのか知らない。だけれど今まで休憩室で沖織さんと一緒にいた、自販機の秘密を共有した俺だから、わかるものもあった。
 沖織さんの頬に、一筋の水滴が伝う。涙だった。泣かせたのが申し訳なくなって、何か謝ろうと口を開こうとしたその瞬間。沖織さんは俺の胸元に身体をうずめてきた。
「あ、あの……」
「すみません、もう少しこのままでいさせてください」
 沖織さんを柔らかく抱きしめた。沖織さんは温かかった。俺は目線に困り、窓からビル街を眺めていた。

 俺が、沖織さんの転勤を聞いたのは、その翌日のこと。



 沖織さんが、この会社に来る、最後の日。俺は相変わらず、休憩室に来ていた。
 一斉の、社員移動らしい。営業部だけでなく、企画部もその対象で、仲の良かった同期が何人か散らばっていった。俺はここに残ることになった。沖織さんは、移動の対象人物になった。この大阪本社から関東の方面に行くらしい。会おうと思えば会えるかもしれないが、俺たちはそれほど暇じゃなかった。実質上の別れだった。
 俺は休憩室のベンチに座っていた。今日だけは、あの無限に広がるビル街を見たくなかった。ただ、彼女がじぃやと笑顔で、時々頬を膨らませて呼んでいた、この自販機を眺めていたかった。
 沖織さんは来るだろうか? いいや、彼女は営業部へのあいさつ回りで忙しいはずだ。来るはずがなかった。だけど僅かな可能性を信じずにはいられず、自販機では何も買わなかった。
 結局、彼女との関係とは何だったのだろうか。そりゃあ、初恋の相手に結局告白できず、そのまま学校が離れてしまったことはある。だけどそれは、沖織さんとは違った。彼女とこの自販機を共有してから、俺たちは仲良くなっていって、どこか繋がり……そう、彼女曰く「じぃや」という繋がりがあった。だけど彼女がこの会社を去ってしまうということは、その繋がりもあっけなく断ち切られてしまうことになる。明日にでもそうなってしまう俺たちの関係とは、何だったのだろうか。赤い糸、なんて夢物語な絆があれば、きっと俺たちはいつまでも繋がっていられただろう。皮肉な話だ。俺たちの間には、それしかなかったんだ。

「海堂さん!」

 だからこそ、いつもの、軟らかく可愛らしい呼び声が聞こえたとき、俺はじぃやが最後の力を振り絞っているのだと思えた。
「沖織さん! どうしてここへ!?」
 俺は思わず立ち上がる。
 彼女は、転勤前の挨拶で忙しいはずだ。ここへ寄る暇などないはず。
「あ、いえ、すいません。ちょっと抜け出してきました、あはは」
 沖織さんは、いつも通りの和やかな笑顔でそう答える。僅かに茶色がかった黒髪セミロングの童顔。それは、沖織さんだった。
「それより海堂さん。今日も一緒に何か飲みませんか?」
 そして、その言葉を待っていた自分もいた。ああ、そうだ。この展開を俺は待っていたんだ。断絶という絶望にうちひしがれながらも、心の底ではこうなって欲しいと願っていた。
「海堂さん……?」
「ああ、いえ、すいません。まさか来てくださるとは思ってもいなかったので」
「海堂さんだって、私がお世話になった人の一人です。きちんと挨拶しないと、って思って」
 昔、感情が無いと言われたこともあった気がする。俺もそれが乏しいということはなんとなく分かっていた。だけど、この時だけは、嬉しさのあまり滑稽に踊りたくなった。ああ、沖織さんが来てくれた!
「さて、じゃあ立ち話もなんだし、何か飲みましょうか。……うん、じぃや、あなたともお別れだね」
 自販機の前に立ち、首を傾けて笑顔を浮かべる沖織さん。黒髪が彼女の右肩をスーツ越しに撫でた。
 沖織さんは、ゆっくりと十円玉、十円玉、百円玉と自販機のスロットに入れていく。そして一息入れたあと、口を結んでたった一つのボタンを押した。沖織さんが屈んで取り出すと、それは沖織さんがいつも飲んでいるブラックコーヒーだった。
「海堂さんもどうぞ」
 俺も沖織さんと同じように繰り返す。出てきたのは、やはりブラックコーヒーだった。
 彼女と横並び。俺はプルタブを開け、ブラックコーヒーを少し流し込む。苦い、苦いからこそ美味しい、苦味の奥底にあるうまみが引き立つ。俺は、この味がダイス下った。
「あの、海堂さん」
 沖織さんが横目使いに俺を覗いてくる。ほんの少しばかり、口角が上がっているような気がした。
「どうかしました?」
 沖織さんは何も語らず、ブラックコーヒーのプルタブを開ける。そして小声で、よし、と呟くと、一気に口の中へと流し込んだ。ごくごく、喉を鳴らしながらブラックコーヒーを一気飲みする光景は、なんとも可笑しなものだった。
「……ふぅ」
 缶の中身を見事に飲み干した沖織さんは、一瞬顔をしかめたあと、一息ついて、
「どうですか、海堂さん。私、ブラックコーヒーが飲めるようになりましたよ!」
 したり顔でこちらに振り向く沖織さん。
 俺の中のどこかにある母性が、すごい、と褒めてあげたかった。だけど俺はそう言わないことにした。なぜなら、すごいと言ってしまえば、それまでになってしまうからだ。きっと俺は、彼女と何かで繋がっていたくて必死だったのかもしれない。だから俺は得意顔の沖織さんに対して強がって、
「一気に飲んで苦さを克服しているのは、僕としてはまだまだ飲んだとはみとめられませんね」
 沖織さんは口角を一度下げたあと、思いっきり上げて笑った。つられて俺も笑った。二人で笑い合っている光景は、なんとも可笑しな光景だっただろう。だけどまあ、俺は楽しかった。沖織さんはどうなんだろう、そんなことを考えようとしたらまた笑いの波が来てどうでもよくなった。しばらく笑い合った後、息を整えて、
「好きでした、沖織さんのことが」
 抱き寄せて、キスをした。



 沖織さんが出て行った後のこと。相変わらず俺は休憩室でのんびりしに来ていた。まずは自販機……じぃやに硬貨を入れて飲み物を買う。出てきたのは、俺の好きなブラックコーヒーだった。
 沖織さんは遠くにいってしまった。だけど俺は、悲しくなかった。もちろん少しは悲しいというか寂しい気持ちもあるが、そんなことは些細なことだ。
 俺は、彼女との繋がりを見つけた。電話はもちろんできるが、あえてしないことにした。この繋がりの大きさを、脆くさせたくなかった。その繋がりは、彼女とキスをしてようやく気がついた。そしてその繋がりをくれたのは、
「ありがとうな、じぃや」
 静かに佇む自販機を眺めながら、俺は沖織さんの転勤先について想像を膨らませる。あの場所にはじぃやがいないだろうが、ブラックコーヒーくらいは売っているだろう。沖織さんは、このくらいに休憩時間をとるだろうか。だとしたら、いいな。
 俺はブラックコーヒーを飲み干し、ゴミ箱に捨てる。つい先日、俺の企画案がプレゼンを通して認められ、俺はその開発監督みたいなことをさせられるようになった。人事移動で来た俺より職場経験が浅い人が中心に部下として就くらしい。俺は温かな彼女の笑顔を思い出し、くくっ、と笑いながら休憩室を出て行った。

<END>

オフィスの執事とブラックコーヒー

 こんにちは、はじめましての人ははじめまして。以前まではとある投稿サイトでも活動していたので、そこで僕の作品を読んだ人も、もしかした~らいるかもしれません、こんにちは。あるいは、リアルで顔見知りの人もいるかもしれません。ネットって案外狭いよう。
 さてさて、このあとがきはネタバレを含みません。だからあとがきから読む人も大丈夫です。どうぞこのままお読みください。
 僕がこの作品を思い浮かんだ経緯でも話しましょうか。とある駅でリアルゴールドを買おうとしたら、まさかのブラックコーヒーが出てきたってやつです。それにインスピレーションを受けたのか、はたまたそのブラックコーヒーが130円で、10円得をしたからテンション上がって思いついたのか、それは誰も知りません。僕も知りません。
 実は僕、いつもは高校生が主人公の作品を書いています。今回、企業に勤める大人の人が主人公ですね。不得意ですね、どうしましょう、って話ですよ。知りませんよ。ってことで迷走しながら書いたのがこの作品です。
 さてさて、まだ読んでないよって人は、是非読んでくださいな。そして僕に感想を下さい。あなたの一言で、僕という一人の人間の人生を揺らがせるチャンスですよ。こんな機会めったにありませんよ。
 そして読んでいただいた方には、まず謝辞をば。ありがとうございます。感想をくれるとさらに嬉しいですよ、酷評でも僕のマゾヒスト精神がはたらいて部屋で踊り始めますよ。よろしくお願いします。

 では、次の作品? この作品? 次に会うのはいつになりますか? とりあえず、また会う日まで!

オフィスの執事とブラックコーヒー

とある会社に、可笑しな自販機があった。「あなたへのオススメ」。これはその自販機によって出会う、男女の物語。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-06-30

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著作権法内での利用のみを許可します。

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