屋上少女の(非)日常
――どれだけの人間が、この世界で幸せを感じているのだろう。
ビルの屋上から町を見下ろし、わたしはそう呟いた。
その呟きには意味は無いし、特に意識して声にしたわけでもない。
精神病院の屋上は人がいないこともあり、静かな空間だった。風の流れる音だけが聞こえ、口元から煙草の煙が風に流されていく。
わたしは目の前の飛び降り防止フェンスにもたれかかる。体重を預けたフェンスは少し揺れただけで、壊れる様子もなく仕事を果たしていた。
今このフェンスが壊れれば、わたしはビルの屋上から飛び落ちる。しかし不思議と恐怖は無く、惰性でそのまま背中を預け続ける。
ふと上を見上げると、フェンスの上部分には棘状の鉄線が巻き付いており、自殺志願者の希望を奪い取っている。
快晴の空に似合わないその景色に、つい笑ってしまった。
「何してんの、危ない」
そう声をかけられ、視線を水平に戻すと、わたしの主治医が溜め息をついていた。
女のわたしから見ても美人と言えるその見た目は、睨むような鋭い目付きで相殺されている。
「サボタージュですか先生、不真面目ですね」
そう言いながらわたしは後ろに預けていた体を戻し、前へと歩く。
そのままベンチに座り、先生の言葉を待っていたが、どうやら向こうは話題を提供する気が無いらしい。
「わたしって、何年前からここにいるんでしたっけ」
「二年前。何、記憶障害でも起こしたの?」
そうでは無いが。時間が止まったような空間にいると、感覚が鈍る。
記憶と言うなら、何故こんな病院に入院することになったのかが思い出せない。
忘れた記憶なら、たいしたことは無いだろうが。
わたしは先生を残して屋上を後にし、食堂へと移動した。少し遅い昼食だ。
何かに挑戦でもしているのかと疑う程に薄味な料理をゆっくりと口に入れながら、わたしは目だけで周囲を見渡した。
いつも通りの顔触れが並ぶ光景も、注意深く見てみると微妙な差異を発見出来る。初めて見る顔が二つ、いつもの男が一人いない。
暇潰しの一環だが、毎日続けるうちに特技と化した行為。もちろん意味などないが、今のわたしにはお似合いと言えるだろう。
翌日、屋上に向かうと先客がいた。
「先生、珍しいですね」
わたしのそんな言葉にも反応せず、先生はベンチの隣に立ち続けていた。
ベンチに座り、無言で空を見上げる。何かあったのか気にはなるが、わざわざ聞き出すほどの興味があるわけではない。
「戻ってきたのよ、今日」
先生が呟いた。
「私が担当していた患者なんだけどね。症状が落ち着いたからって、二日前に家族が引き取りにきたの」
その呟きは、わたしに向けたものらしい。
黙って話を聞く。
「たった二日で再入院だって。笑えるわ、私は医者なのに、何も治せてない」
顔こそ笑っているが、わたしには先生がどんな気持ちなのか、読み取ることができない。
「――わたしは」
数分の間を開けて、口を開く。
「心の傷は治らない、治せないものだと思います」
「なに、いきなり私の職業全否定?」
「いや、たとえば心って物体が胸の中にあるとして、心の傷が物理的に見えるものだとして。
傷の付いた心には欠けができますよね。その欠けは、何であろうと埋めることはできないんです」
「じゃあなに、私のカウンセリングには意味がないってこと?」
「もちろん意味はありますよ。先生のカウンセリングは、心を磨いてくれてるんだと思います。傷跡が目立たないように、丁寧に。
だから傷跡はいつか見えなくなるし、それは傷が治ったと言えるかもしれません」
「あー、あぁ。あんたはこう言いたいわけか。傷は治せるけど、それは見た目だけ。傷は残ったままだし、なにより――」
心は、薄くなる。
「実際、先生は凄いと思いますよ。丁寧に、丁寧に、ガラスみたいに綺麗になるまで磨き続けてます。
でも、そんな脆い心で生きていける場所なんて、この病院位でしょう。外は、危険です」
わたしはそう話すと、先生の返答を待った。ただの持論だし、ふと思ったことを言ってみただけだ。
先生は考え込むように首を傾げた後、ああ。と呟き。
「なに、慰めてくれたの?」
笑顔でそう言い放った。
「さあ、どうでしょう」
わたしはそうとしか言えなかった。
「先生、明日の昼って空いてます?」
「二時からなら。どうしたの、いきなり」
「いや、なんだか久しぶりに先生のカウンセリング受けたくなりまして」
先生はまた笑顔になった。
口元に指を運ぶ。
どうやら、わたしも笑っているらしい。
屋上少女の(非)日常
患者と医師の一ページ。
或いは日常。