夢工場

ボーイミーツガール! テーマは「蛍と少女」

 町はずれにある古びた工場は不法滞在外国人ばかり働いているというのが専らの噂で、私は幼心に夢工場と呼んでいた。夢工場は物心ついた時にはすでにあり、幼い時分から何も変わることなくもうもうと得体のしれない煙を吐き出し続けている。そこで働いているという人に会ったことはないし、何の工場なのか詳しい話を聞いたこともない。自分の中で得体のしれないままにしておきたい気持ちがあったのかもしれないが夢工場は私が大人に分類される年頃になっても得体のしれない煙をはきつづけ、私の中での印象は変わることはなかった。いつも視界の端にそびえるそれを見ると昔のことが思い出される様は、夢工場が未知と回顧の象徴として私の心を幼いままで縛りつけているかのようであった。

 もって生まれた性格か、どうも自分は何かに執着するのが苦手なようで、特定の趣味を持たず、仕事以外の空いた時間は何をするでもなく暇をつぶす日々を送っている。日課と言えば飲み物や甘味を買いに近所のコンビニに出向くことくらいである。所帯を持ってもおかしくない年の男が一人で出掛け歩く様など傍からは寂しく映るだろうが、自身としては帰宅してから味わう甘味に心ときめかせている次第である。ある友人が「もうちょっと花のある生活を送ったほうがいいのではないか」と言うので、「青春を謳歌できるほど若くない」と返してやった。若くないとは言いつつも、その言葉裏には大人になりきれていない自分へのあきらめもあった。

 空の色が茜色から黒色へと変わりゆく中、コンビニからの帰り道、袋をぶら下げあぜ道を進んでいた。私は黄昏れるあぜ道の風景が好きなので、仕事終わりであるこの時間帯にコンビニへ出かけることが多い。遠くに家の灯りが見えるだけで付近に民家はなく、周囲には虫の音が満ち夏の訪れを感じさせた。気温もこれからを思うとまだ涼しいほうだが、これまでを思うとずいぶんと暑くなった。
ふと、虫の音に交じって何か聞こえてくる。普通であれば気にすることでもないのだが、次の日が休みであったからか気分も軽く、何の気なしに音のする方を探すと、どうもあぜ道を囲む空き地からのようだ。あぜ道の周りはほとんどが空き地で、空き地のほとんどが雑草の伸びた荒れ地であった。遠くに影を落とす夢工場の雰囲気が「道より外れてはならぬ」と言っているようで、今まで道を逸れて空き地に立ち入ったことはなかったが、謎の音への好奇心によってその言いつけはあっけなく打ち破られた。
 もともと水田だったのか、初めて足を踏みいれた空き地は体重をかけると地面はほろほろと崩れて沈んでいった。当然手入れもされていないので、行く手を背の高い雑草が阻むが、それをかき分けて音のする方へと向かう。雑草の擦れる音と風の音でとぎれとぎれに聞こえていた音も近づくにつれそれが人の声―しかも韻律のある歌であることが分かった。さらに雑草をかき分け進むと、不意に開けた場所へとたどり着いた。この界隈で暮らして長い事になるが、このような場所があることなぞ知らなかった。
開けた場所には大きな石が鎮座しており、その周りを多くの蛍が舞っている。よく目を凝らしてみると光の中心には一人の少女がいるのがわかる。少女は大きな石にもたれかかり、一心に歌っている。蛍はその歌声にあわせ踊るように少女の周り漂っている。少女の歌と蛍が舞う光の軌跡が幻想的な雰囲気をもたらしていた。
 私はその神秘的な佇まいに唖然とする一方、「なるほど、言葉を忘れるとはまさにこのことか」と一人納得していた。神秘的な光景に目を奪われているうちに、少女はこちらの気配に気づいたのか、はっと視線を向けると恥ずかしげに姿を消した。不思議なもので少女が姿を消すと共に蛍も姿を消し、あたりはうす暗い宵闇に包まれた。ついさっきまでとの光景の差に夢かしらんとしばらく茫然としていたが、頬をつねると痛かったし袋の中のアイスクリームは全部溶けていた。

 休日ともなれば、友人とデパートへ出かけたりもする。友人の直は自分とは性格も見た目も正反対でよく喋る大男であったが、変わり者同士気が合うのか、彼これ20年近い付き合いになる。自分が無口であるから直が一方的に喋っているばかりだが、話し方が上手く、聞いているだけでも面白い。以前このことを褒めてみると、「話好きなのは結構だが、以前誰も聞いていないのに一時間くらい一人で喋り続けたことがあってなぁ」と、当人なりの苦労が有るらしい。
 昼時の少し前、デパート内のフードコートで「昼飯は何食べる?」とこちらに問いかける直の前にはすでにいくつかの丼物が並んでいる、本人いわく別物らしい。適当に自分の分を見繕い、何気ない会話をしていたが、ふと、話題に困ったこともあり先日見た少女の事を話してみた。この大食漢はそういった類の話が好きらしく、興味深そうに耳を傾けていた。
「―よし、その件の女性を“蛍火の君”としよう」ひとしきり話を聞いていた直は唐突に口を開いた。よくもまぁそんな形容詞が出てくるなぁと感心したものだが、“蛍火の君“、代名詞として悪くない表現である。
「万が一、偶然でもまた会えたらいいなぁ」などと冗談めいた口調でさらりと言うと、直は別の料理を買いに席を立った。その後も二人で本屋を見たり電気屋を見たりと充実した午後を過ごした。ちなみに直はその後四度も昼飯を食べていた。

 直と別れ家に帰りついたのが夕方頃。特にすることもなく相も変わらず甘味を求めてコンビニへ出かけた。直の言葉どおり、再会するのは万が一の話である。あんな所にいたということはこのあたりに住んでいるのだろうが、不意に再会した場合に私は彼女だと気づくのだろうか、何と声をかければいいのか。私は額に汗をかきながらも頭の中で無意味なシミュレーションを繰り返している。時折耳をすますが、虫の音以外は聞こえず、遠くに見える夢工場は静かにそびえ立っている。ふと、何の気なしにあぜ道から逸れ、空き地へと足を踏み入れた。あの時一度たどり着いただけにも関わらず、迷うことなく蛍火の君と遭遇した大きな石のある開けた場所に出た。
 背の高い雑草で囲まれ、周囲から切り取られたようなこの場所は、子供のころ遊んだ秘密基地のようであった。子供のころは明日のことも考えずただ一生懸命生きていた。だが何も考えないうちに月日は流れ、私も周りも大きく変わってしまった。変わらないのは夢工場の無機質さだけというのも不思議な感覚であった。
 感傷に浸っていると不意に雑草の揺れる音がした。驚いて視線をやると、思わず「あ」と声が漏れた。先ほどまでうるさいくらいに聞こえていた虫の音は意識の向こう側へ飛び去り、少しだけ時間が止まった気がした。なぜなら雑草をかき分け顔を覗かせたのは、まぎれもなく蛍火の君だったからだ。今日も歌いにきたのだろうか、と考えると時間が動き出し、頭の中で何か考えるよりも、真っ先に私の唇が言葉を発した。
「また、歌を聴きにきてもいいですか?」
まるで意識の外からやってきたような言葉に自分自身で驚いた、相手にしてみればなおさらのことである。蛍火の君は一瞬呆気にとられたが、すぐさま雑草の中へ姿を消した。私はもっと気のきいた言い回しが有っただろうにと思ったが、宵闇の向こう側に溶けゆく少女が、微笑むのを私は見逃さなかった。突如訪れては数秒の間に過ぎて行った展開に心臓は遅れて加速した。気づけば虫の音に囲まれ、なんというか、ただただ恥ずかしかった。

 家に着いて自分の部屋に入るなり、私は枕に顔を埋めて唸った。もちろん、気恥ずかしさや後悔からくる唸り声である。過ぎたことはどうしようもないということは十分に分かっているが、自分の言動を振り返り、ああすればよかったこうすればよかったと後悔し続けるのは私の悪い癖で、後悔から自己嫌悪に陥り、果ては人類の存在意義にまで及ぶのがいつものパターンである。
 唸る程の気恥ずかしさが峠を超えると次第に冷静さを取り戻し、台所の冷蔵庫からよく冷えたサイダーとバニラのアイスクリームと取ってくると封を開けた。蒸し蒸しとした暑さが、クーラーをつけようか迷わせる。額の汗よりも先にサイダーにまとわりついた水滴をぬぐうと、「“歌を聴きにきてもいいですか?”なんて不審極まりない、そもそも相手が自分を認識していることが前提ではないか」と一人毒づいた。不安に駆られる一方で、去り際に蛍火の君が見せた表情を思い出し、心躍るものを感じた。歓喜と不安、後悔と期待がない交ぜになり、胸がつかえるくらいであったが、溶けかけのアイスクリームとサイダーで流しこみ、人類の存在意義を考えながら床についた。

 仕事は繁忙期を過ぎ、自身の情熱の無さも手伝って定時に帰ることができた。そもそも仕事に打ち込める心理状況ではなかった。家に着くなり軽装に着替えると、そわそわと家を出た。空には夢工場からもうもうと立ち込める煙がそのまま空に残ったような重々しい雲が浮かんでいた。夕暮れの風が通り抜け、ざわざわと空き地の雑草が音を立て揺れる中、歩きながら何度も「期待などしてはいけない」「いないことを確認するために行くだけ」と念じ続けた。この考え方は私の癖のようなもので、期待しないことによって落ち込まないようにするものである。「あまり予防線を張りすぎるのもいかんぜ」と直は言うが、世の中思い通りにいかないことばかりであるからして、この思考法は思いのほかいいのではないかと自負している。

 そんなことを考えながら足は無意識に目的の場所を目指し動いている。足を止め空き地の方を向くと夢工場を正面から捉える形になり、夕陽に黒くくりぬかれた影が番人の様にそびえ立っていた。気持ちを静めるために何度目かの溜息をついた。雑草をかき分け大きな石のあるところに出ると、石の前に蛍火の君が立っていた。何度も自分に言い聞かせたのが功を奏したのかしなかったのかはともかく、私の心臓は衝撃を受け脈を早める。冷静を装い「こんばんは」と声をかけると、こちらに気づいた向こうもあわてて「…こ、こんばんは」とぺこりと頭を下げた。初めて聞く地の声は歌声とは違い、繊細で透きとおるようであり、歌声とは違ったまるで鈴のような声に緊張はさらに高まった。何と言葉を発しようか考えあぐね、形容しがたい気まずい空気が流れる中、蛍火の君はよいしょと大きな石によじ登り定位置らしき箇所に腰かけた。空を見上げ何度か咳払いをすると、静かに息を吸い込み歌いだした。
 力強い歌声に聴き入っていたが、ふと周りを見るとどこからともなく蛍が現れ彼女の周りに漂った。すると途端に幻想的な情景が厳かな空気に包まれた。当然ながら伴奏も何もないアカペラで、日本語とも英語ともいえない言語で歌が紡がれていく。歌は私の耳から背骨を伝い全身を沁み渡り、その神秘的な光景も相まって、私は寒気にも似た感動に包まれた。
 永遠に続いてほしいとさえ願ったが、やがて歌は終りを迎えた。私は意識を現実に戻すとすぐさま拍手をした。蛍火の君は「お粗末さまでした」と照れくさそうに微笑んだが、お互いそれ以上言葉が出ず、再び気まずい空気が流れた。蛍の光がちらちらと舞う中、このままではいけないと自分を奮い立たせ、なんとか生み出したが言葉が「感動しました」という他人行儀極まりない言葉だということに心の中ではのたうち回ったが、彼女はうれしそうに微笑んだ。彼女を見送ると、ぽつぽつと蛍も姿を消し聞きなれた静寂に包まれた。それでも私はしばらくの間は心地よい余韻に浸った。気付いたころには夢工場も見えぬほどすっかり暗くなり、帰るのに一苦労した。

 それから私と蛍火の君との奇妙な集まりが始まった。時間を決めているわけでもなく、大抵私が仕事を終えて大きな石のある所に向かうと大抵蛍火の君がいる。彼女の歌はいつもよくわからない言語で構成されていたが、曲調は実に様々で、荘厳で神々しいものもあれば、明るく激しい曲、暗く悲しい曲もあった。だがどの歌も私の心に響き、ひとしきりの感動に打ちふるえた後、ちょっとした感想を告げる彼女の気分次第で歌い終わると互いに家路につく。私も彼女も互いのことを訊こうとも喋ろうともしなかったものだから、蛍火の君のことについて名前すら知らなかったし、彼女の後を付けようという気にもなれなかった。私の中にある彼女の神秘性のようなものを侵したくなかったのだ。その得体の知れない集まりがあるだけで毎日が輝き、それまでの漫然と連続していた日々が嘘のように気分が軽かった。
 ある日、事の進展をデパートへ向かう車内で直に話すと、「それは専門用語でいう所の恋というやつだ」と言う。恋に専門も何もないとは思ったが黙っていると「名前も知らずただただときめいている今が一番心躍るものさ」と続けざまに出た言葉にはどこか共感できたので、小さくうなずいておいた。直はコンビニの握り飯の包みを慣れた手つきで解くと、「くれぐれも後悔のないように、とりあえず来るべき日に備えて今日は服を買いに行こうではないか」と握り飯を頬張った。

 それより数日、夏らしい激しい雨が降り続いた。当然雨が降っていようが歌を聴きに行く心算であったが、しばらく定時で帰ったツケが回ったのか、残業が続いていたこともあり、歌を聴きに行けなかった。残業の間も窓を打つ雨音を耳にしながら、今すぐ飛び出し見に行きたい気持ちを抑えていた。
数日ぶりに雨が上がり、晴れとまではいかない曇りの日が訪れた。残業をなんとかかわし、すぐに大きな石のある所へ向かおうとしたが、ふと飲み物でも買っていこうと思いついたので先にコンビニへ行くことにした。最近はクーラーをつけるのになんの躊躇いもなくなるほど暑くなり、歌ったあとはさぞのどの渇くことだろうと思ってのことだ。当然、家からタオルを持参してきている。私は蛍火の君の好みを知らないので、緑茶、水、それと私の好きなミルクティーを買った。
 財布にレシートをしまいながらコンビニのドアをあけると、雨上がり特有の湿気を含んだ空気が纏わりつく。歩き出そうとすると少し先に蛍火の君が見える。むこうはすでにこちらに気づいていたらしくい。「こんばんは」と私が歩み寄ると向こうも挨拶を返した。当然ながら蛍火の君が視界に入った段階で私の心中は驚きと喜びに混乱していたが、臆することなく対応できた自分に賛辞を贈りたい。
「雨が上がったので今日は歌えますね」と私が言うと彼女は「もしかして雨の中来てくれていたのですか」と尋ねるので「いえ、それがたまたま仕事があっていけませんでした」と笑った。蛍火の君は「よかった、雨の中待って下さっていたらどうしようかと思っていたのです」と安堵の表情を浮かべた。どうやらさすがの蛍火の君も雨の中は歌いに来なかったようだ。
 目的地が同じである上、ここでいったん別れるのも妙な感じである。この機会を逃すこともないので「では一緒に行きましょうか」と蛍火の君に同行を申し出た。緊張する間もなく「ええ、そうですね」と蛍火の君は微笑んだ。そのやり取りはまるで英語の教科書のように単調であったが、私にとっては大きな一歩である。さらりと提案できた自分に称え、今日を記念日としたい。
 「その前に飲み物を買おうかと…」と彼女が言うので、すかさず私は買ってきた飲み物を差し出した。さすがに最初は遠慮したものの、さらにどうぞどうぞと勧めると申し訳なさそうにミルクティーを手に取った。
 喋りながら二人並んであぜ道を歩く。話しながら視線を向けると、吸い込まれそうな瞳は宝石の如く輝き、陶器のような白い頬は柔らかな曲線を描き、星のきらめきを纏う夜空の様な黒髪が肩のあたりで揺れている。視線を落とすと白い足はすらりとしながらも、あぜ道を踏みしめている。湿気のせいか不思議なよい香りが鼻をくすぐり、蟲惑的なその香りに鼓動は加速した。悟られまいと視線を外しさらに会話を続けた。蛍火の君の手にあるミルクティーから始まり、互いの好物、嗜好、それらに纏わる思い出話を互いに話した。
 蛍火の君と話を交わすとやはり変わった人物であることが分かった。諸々のエピソードから伝わるその言動が、物事の考え方が、どうにも自分の内に自然と作られた一般的な女性像というものから大きく外れており、それが美しい容貌と相まって魅力的であった。
 しばらく歩きいつもの場所に向かおうとしたが、雨に濡れた雑草が乾いておらず、いつものように分け入っては大変なことになるだろうと、結局その日は夢工場を背に終始他愛のない会話で夜が更けてしまった。
 去り際、何が私に積極性をもたらしたのかはわからないが、意を決して「今度の日曜にでも今日の分、歌いに行きませんか」と提案してみた。断られる覚悟で様子をうかがっていたが、蛍火の君は少し考え「ええ、いいですよ」と了解した。私は嬉しさのあまり小躍りしそうなるのを必死に抑え込み、冷静を装った。
「では朝9時に駅前で」
「9時に駅前ですね」
 互いに時間と場所を確認すると、それを別れのあいさつにそれぞれ帰路についた。家に帰るなり、抑え込んでいたものが爆発し、思わず小躍りしてしまったため家族に怪訝な顔をされた。自分でも信じられないようなことが立て続けに起きている。直にでも言わせれば「運命ってやつ」なのかもしれない、と一人呟いては笑った。

 約束の日、緊張した面持ちで待ち合わせ場所に向かうと、そこには蛍火の君の姿があった。動機が激しくなるのを抑えつつ車から降りて、声をかける。彼女はいつもとは違う装いで、白と青を基調とした服装は夏らしい爽やかな印象を与え、繊細な上品さを際立たせた。「おはようございます、なんだかいつもより素敵な格好ですね」と彼女が言うので「それはよかった、変な格好だと思われないか心配していました」と素直に告げた。着ていたのはいつぞや直と買いに行った服で、この時ほど直の助言に感謝したことはない。服を選ぶ際には「君の星座からすると色はこれがよい」だの「柄物はささやかなものをつけろ」だの言われ、この男はなぜそんな些細なことを気にするのかしらんと思ったものだ。彼は普段から「実は未来予知ができるんだぞ」とうそぶいていたが、あながちまったくの出鱈目でもないのかもしれない。そんな友人の功を称え「服装にうるさい友人がいましてね」と素直に打ち明けると、彼女は「素敵なご友人ですね」と微笑んだ。
 車に乗り込みシートベルトをかけると、私は大事なことに気がついた。色々なことを語り合って一緒に出かけるというのに互いの名前を知らないのである。そのことを彼女に告げると奇妙な状況に二人とも笑いだした。私が恭しく自己紹介をすると、蛍火の君も改まって名乗った。
それはそれは美しく素敵な名前であった。

 事前に色々な場所を調べてはあったが、その日は開店直後のカラオケへ向かい丸々一日歌って過ごすことにした。提案したのは彼女の方であったが、私もその方が分かりやすくてよいと賛成した。街中でよく聞くような流行りの曲であっても、彼女は曲を自分のものにし歌いあげていた。選曲か歌声かが琴線に触れたのか、私は歌を聴きながら涙することもあり、彼女はひどく驚いていた。もちろん彼女に負けじと私も歌った。一人で過ごすことがほとんどなので流行りの歌など歌えもせず、誰も知らないような歌ばかり歌ったが、蛍火の君は興味深げに目を輝かせながら聴き入っていた。
 ひとしきり歌い日が落ちたころに店を出た。夕飯にはいい時間帯であろう。私が「何か食べたいものは?」と訊くと「なんでもいいよ」と言う。思いつく限り食べ物の種類を上げていくと焼肉で目を輝かせたような気がした。女性に“焼肉が食べたい”と言わせるのも悪い気がして、あたかも私が食べたいという体で以前直に教えてもらった焼肉屋へ向かった。
 食事をしながら先日のように他愛のない話に花を咲かせる。その中でふと私が夢工場の名前を出すと「夢工場?」と彼女が首を傾げた。
「あぜ道から見える工場のことだよ、昔からそう呼んでいるんだ」というと、彼女は得意気のような、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「至って普通の工場ですよ、持ち主はよく変わっているみたいですけど」
彼女の言葉に私は衝撃を受けた。夢工場について知っている人に初めて会ったのだ。私は夢工場についてあれやこれやと蛍火の君に質問した。真剣に質問を続ける様子が物珍しいのか、彼女は私の満足行くまで付き合ってくれた。
 生まれて初めての恋とともに、私の追憶の象徴ともいうべき夢工場の霧は晴れた。子供をしつけるためのおとぎ話の真実を知ったかのような気持ちだ。夢工場の真実を教えてくれた蛍火の君は差し詰め英雄のような気さえした。
 長年の疑問の霧が晴れて何とも言い難い気持ちを「もしかしたら大人になるってこういうことなのかも知れない」と感慨深げに言葉にすると、「大げさだなぁ」と蛍火の君は笑った。

 それからも私と蛍火の君との不思議な関係は続いた。仕事終わりには歌を聴きに行き、時折一緒に出かけては歌ったり食事をしたりした。どんなことでも会話の中から彼女の事を知るとうれしかったし、時分の事をもっと知ってほしかった。直の言うとおり恋というやつなのだろうということは誰に教わった訳でもないが確信していたが、関係が壊れてしまいそうで想いを告げることは躊躇われた。だが、日に日に大きくなってゆく恋愛感情はいつか吐き出さなければならないのである。
 人間とは欲深いもので現状に満足しているはずにも関わらず、それ以上を求めようとする。私も人間での一人であることから、心躍る現状から一歩踏み出したいと思うのは仕方のないことなのかもしれない。
 初めに出会った時のことを思えば現在の境遇は奇跡だ。そう思う一方で、最初は名前も知らず歌を聴いているだけで幸せであったのに、さらにそれ以上を求めている自分がいる。直の「後悔のないように」という言葉の意味を改めて感じた。関係が壊れるのを恐れて想いを告げないままにするのか、感情のあふれるままに想いを告げた方がいいのか、どちらが後悔しないか。
 直にでも相談すれば、どのように気持ちを整理すればいいのか教えてくれるかも知れない。だが、こればかりは自分で決めねばならないような気がした。

 あくる日、いつもの歌を聴いた後のことである。私は勇気を振り絞り、蛍火の君に想いの丈を伝えた。しかし、その返事はとても悲しいものであった。言葉の意味するところを遅れて理解した時、世界から色が消えていくかのような感覚に襲われた。私の遅蒔きの初恋は呆気なく見事無惨に破れたのである。
 その場では何事もなかったかのように冷静を装い、家に帰るなりすぐに自分の部屋へと飛び込んだ。蒲団を頭からかぶり悲しみに打ちひしがれた。「もうだめだ」と自分の心境に近い言葉を口に出してみたりした。
 心に穴が空いたような喪失感が襲う。心から気力や希望といったものが流れ出ている気がするのでおそらく本当に空いたのだろう。初めての失恋で味わう絶望はそれまで経験したことのないものであった。その上、喪失感が今まで見て見ぬふりをしてきた将来への不安と共にのしかかり、えも言われぬ絶望を生みだすのである。これが大人になると言うことであるのなら、生きてゆくということに私はとても耐えきれる自信がない。
 郷愁の象徴としての夢工場は蛍火の君との交わりの中で神秘性を失い、その印象が薄らいでいた。現実として夢工場で何が作られ、煙突から立ちこめる煙が何なのかを知っているが、今や夢工場は失恋の喪失と結びつき、あの煙は絶望と不安で構成されているような気さえするし、夢工場の落とす影は奈落へとつながっているのではないかとさえ思う。これから先、夢工場を見る度に絶望と不安の渦の中に陥るのかと思うと気が重い。生きてゆくのは、大人になるということは、こういった象徴が増えてゆく事なのかと思うと恐怖さえ覚える。


 たかが失恋くらいで、と笑うだろうか、死ぬなんてバカだと怒るだろうか、

 だが、静かに恋に燃え、命を焦がしていたとは、まるで蛍のようではないか。

 そうだ、生まれ変わったら蛍になろう。同じように恋に身を焦がしながら彼女の歌を讃えようではないか。

 最期の言葉にしてはずいぶん長い手紙を読み終えると男は目を伏せた。男の様子を向かいに座る老夫婦は無言でじっと見つめている。湿っぽく重々しい雰囲気のことを比喩表現で“葬式のような”というが、今まさに葬儀の後なのである。男は着慣れていないのか窮屈そうに喪服に身を包んでいるし、老夫婦の沈痛な面持ちは喪主のそれである。
「僕の知る限りここに書いてあるのは事実です」と男の言葉に老夫婦はため息を漏らした。
 男の元に友人の訃報が届いたのは突然の事であった。つい最近まで遊んでいた友人の事であったが男は悲しむ暇さえなかった。一通りの葬儀が終わり、友人の両親である老夫婦に声をかけられたのが今し方のことである。老夫婦にしてみれば遺書に唯一名前の出ている男に、少しでも話を聞きたかったのだろう。
 男は友人との思い出を振り返りながら率直な思いを口にした。
「彼が自ら命を絶ったのは仕方のなかった事かも知れません。彼は無口でしたが熱い男でした。ですから”失恋などで”と言わないで下さい、彼の一生懸命な行動の結果を笑わないでやって下さい」
渦巻く思考を何とか言葉に練り上げてみると、男は自身の感情を冷静に受け止めることができた。男は理解したのである、生きることに無気力であった友人が、心の限り生きた結果を友人として泣くことも笑うこともできなかったことを。
 顔を上げると老夫婦は声も無く泣いていた。慰める言葉もなく居たたまれなくなった男は深々と頭を下げその場を後にした。

 男が外に出ると日は傾いていた。黄昏れる風は冷たさを帯び始め、あれだけ暑かった夏も終わろうとしている。あぜ道をとぼとぼ歩きながら「今頃、蛍火の君もどこかで歌っているのだろうか」と呟いたが、それは秋風と雑草のざわめきに散った。

 何度かあぜ道を通ったが、結局、歌声が聞こえてくることはなかった。

夢工場

読んでいただきありがとうございます。

読み手の記憶や感情を引きずり出すことのできる文書を目指しています。
少しでも心揺らすものがあればしてやったりです。

夢工場

ある日、”私”は美しい歌を聴いた。 それは冷光の中で厳かにつむがれ、”私”の心を虜にした。 ”私”は心に纏わりつくような想いを拭うために思い悩む。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-06-29

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1
  2. 2
  3. 3
  4. 4
  5. 5
  6. 6
  7. 7