公衆トイレよ。顔を真っ赤にして立ち尽くしている、あの娘の元へ飛んで行け!(10)

十 午後十一時三十三分から明け方まで オラは酔っちまっただの男

 またか。Cは呟いた。時計を見る。最終電車は十一時半。今は十一時三十三分。三分遅れた。カップ麺が出来上がるのを待つくらいわずかの時間だ。もちろん、Cがカップ麺が出来上がるのを待っていたために、電車に乗り遅れた訳ではない。
 Cは、最終電車には必ず乗ろうと飲み会は十一時に切り上げた。居酒屋から駅まで十分間。駅まではちゃんと歩いて来た。無性に喉が渇いた。駅前のベンチに座った。駅の構内に入ろうと思ったけれど、最終便には大勢の人が乗る。顔見知りも多い。顔が真っ赤で、千鳥足の姿を見られたくない。Cは、缶コーヒーを飲んで、酔いを少しでも覚ましたかったのだ。
自動販売機に近づく。
「もう、ホットコーヒーが販売されているのか」
 季節は秋。日中は、日差しに当たれば、暑いものの、太陽が沈んだ朝晩は冷える。温かい飲み物が欲しくなる頃だ。だが、Cにとって、今は違う。アルコールの力で体中が燃え盛っているのか、熱い。夜の風がひんやりとして心地いい。だがこれくらいでは、酔いは冷めない。体の芯から表面まで、アルコールのマグマが噴出している。いくら体の表面から冷まそうとしても冷めない。周囲から冷やそうとしても中までは届かない。それならば、直接、冷却物を投入するしかない。
 Cは、冷たい缶コーヒーのボタンを押す。
「ガシャン」目当ての物が取り出し口に落ちる。
 Cはいつも思う。普段の状態ならばいいけれど、酔ってふらついている時には、しゃがんで缶コーヒーを取り出すのには、よいしょがいる。そう「よいしょ」という掛け声が必要なのだ。
Cは膝を折り、腰をかがめ、背中を曲げ、右手で缶コーヒーを掴む。掴んだ後は、背中を伸ばし、腰を伸ばし、膝を元の位置に戻す。酔った状態では、この一連の動作が苦痛なのだ。まさに、酔って  缶コーヒーは飲むなと言わんばかりの仕打ちではないか。
お金の投入口は腰高なのに、缶の取り出し口が膝の辺りとは、納得がいかない。これが反対に、お金の投入口が膝下辺りで、缶の取り出し口が腰高だったらどうなるだろう。わざわざ、腰を曲げてまで、お金は投入しないだろう。当然、自動販売機の売り上げは大幅に減少する。金さえもらえれば、それでいいのか。利用者の気持ちを考えていない。
 全国の自動販売機業者に告ぐ。今すぐに、缶の取り出し口を腰高の高さにしろ。そうしなければ、俺は、もう、二度と、金輪際、最後に、最終で、決して、缶コーヒーを購入しないぞ、とCは思ったけれど、今は酔いを醒ますのが先決だ。ここは、折れるしかない。
 再び、「よいしょ」の掛け声で、缶を取り出し、ベンチに座る。今、時間は十一時十五分。まだ余裕がある。駅の中に入るのは五分前でいい。残り十分間は、ゆっくりとコーヒーを飲み、このフォッサマグマを氷づけにはできないけれど、温泉並みの温度には下げられるだろう。
 Cは両手両足をだらんと投げ出し、腰と椅子の背もたれの間に三角形の空間を作った。Aにとって、この態勢が一番楽な姿勢なのだ。何もかも投げ出しながら、口腔から喉に、食堂に、胃に、冷たいコーヒーを流し込む。美味しいというよりも冷たいと言ったほうがいい。コーヒーを飲みたいのじゃなく、ただ単に、酔いを覚ましたいだけなのだ。体の中を冷やしたいだけなのだ。
 筋肉を弛緩させた姿勢のまま、目を閉じた。頭の隅では、後、八分だぞ、五分だぞ、三分だぞ、ともう一人の自分が目覚し時計として囁やいてくれる。しかし、耳の穴にダイナマイトをぶち込んだほどの音ではないために、頭脳は睡眠を加速させる。後、一分だぞ、という声が聞えた瞬間、意識がなくなった。
 Cがそれから四分後の世界に登場した。ズボンのポケットから携帯電話を取り出し、時間を確認した。十一時三十三分。
 急に、だらんとした体がシャキッと立ち上がり、駅の改札口に向かうが、最終便が出た駅は閉鎖されていた。奥の事務所で、駅員がCと目を合わさないよう顔を下に向け、慌ててボールペンを握り、ノートに何かを書き付けている。いや、振りをしている。Cは駅員の姿を見たが、声を掛けなかった。
やってしまった。今年に入って三回目だ。Cは元のだらんとした状態に戻り、先ほどの椅子に戻った。
 帰る手段は、タクシーかテクシーしかない。タクシーは金がかかり、テクシーは時間がかかる。どちらも嫌だ。どちらも選ばないのならば、今宵一晩、駅のベンチで過ごすしかない。だが、このベンチで横たわる訳にもいかない。駅員に追い出されるし、ぶっそうだ。金もかからず、安全に一晩を過ごす場所はないのか。
「仕方がない。また、あそこで過ごすか」
 Cは立ち上がり、駅を後にする。駅は二階だ。階段を降り、コンビニに入る。売れ残っていたスポーツ新聞と夜中に目覚めた時に喉が乾かないようにお茶のペットボトルを購入する。
コンビ二を出た所で、明日のゴミ収集に備えてか、新聞紙と段ボールが積み重ねている。その中から、手頃の大きさの段ボールを一枚抜き、バスターミナルに向かう。
 ターミナルには、人はほとんどいない。既に、バスの最終便は出発している。だが、自分と同じような酔っ払いが、最終便の電車やバスに乗り遅れたことも知らずに、ベンチで酔い潰れている。Cは「自分は、ああいう風にはなりたくはないぞ」と、ガンガン鳴り響く頭の中の鐘を静めて、ターミナルの隅にあるトイレに向かう。
 Cは、吐きたいわけでない。今日の飲み会も、固形物はろくに喰わずにビールばかり飲んでいた。こうした飲み方は体によくないのだが、一旦、飲みだすとやめられない。アルコール中毒症気味だと感じる理性は頭の隅っこに追いやられ、アル中魂が脳の中心部を占拠し、アルコール、アルコールというアジテーションが声高に叫ばれる。
 味もなにもかもわからずに、ただ、ビールだけが喉に、胃に流し込まれた。その結果、最終便の電車も駅から流れていった。
 Cはトイレのドアを押した。いつものように空いていた。意外な穴場である。いつも、通勤でこのトイレの近くを通っているが、このトイレの存在には気が付かなかった。朝は、遅刻しないように、早足で、また、通勤通学の人々に押し流されているため、周囲を見渡す余裕がないのだ。
 たまたま、最終便で乗り遅れ、バスターミナルをうろうろしていた際に、トイレの存在に気付いたのだった。それ以来、このトイレの愛好者になっている。いや、別に愛好している訳ではない。たまたま最終電車に乗り遅れて、タクシーに乗る金やホテルに泊まる金もなく、歩いて帰るだけの体力もないことから、公衆トイレで夜を過ごしているだけである。
 朝、一番の始発電車に乗れば、自宅に帰って、シャワーが浴びられ、汗とアルコールが適度に混合された臭いが、少しは消し飛ばされだろう。昨日の蛮行も、会社の同僚からは、品行方正名に夜を過ごしたと思ってくれるにちがいない。そのためにも、早く寝るぞ。そして、早く起きるぞ。それこそ、朝一番の始発電車に乗り遅れたら手遅れだ。
 Cは段ボールを便座に置く。断熱材変わりだ。寒い冬の到来はまだだが、秋に入って、朝晩の冷え込みがめっぽう厳しくなった。段ボールを引くのと引かないのとでは、寒さの感じ方は全く違う。それに、段ボールをタンクにまで伸ばせば、背もたれにもなる。ちょっとしたリクライニングシートだ。しかも、個室トイレ付。
 どうだ、いい思い付きだ。これで、トイレ発、大阪行き、いや、東京行き、いや銀河行きの鉄道に乗れそうだ。今から、わずか六時間で、宇宙の果てまで行って、しかも、無料で、帰って来られるのだ。
 足を延ばす。足が壁に突っかかる。膝が曲がる。自分の足の長さに驚く。何だか、自慢したくなる。だが、電車に乗っていて、たまに、小学生が横に並ぶときがある。小学生は、自分よりも頭一つ分背が低いにも関わらず、腰の位置は同じだ。つまり、自分の足が、小学生に比して短いということだ。自尊心が崩れた。こんな時に、自分の足に長短について、冷静に分析しても仕方がない。
 Cは眼を閉じた。瞼には、星がきらめいている。カシオペア座に、北斗七星、北極星も見える。知っている星座を全て並べた。大熊座も小熊座も、はくちょう座も知っているぞ。星座の名前は覚えているものの、大人になってからは、特に、会社に就職してからは、夜空を眺めることなんてなくなった。
 さあ、寝るか。Cはトイレの明かりのスイッチを消した。天井には、まだほのかに明るい蛍光灯が白く浮かび上がり、男の夢を応援しているようであった。
 

公衆トイレよ。顔を真っ赤にして立ち尽くしている、あの娘の元へ飛んで行け!(10)

公衆トイレよ。顔を真っ赤にして立ち尽くしている、あの娘の元へ飛んで行け!(10)

十 午後十一時三十三分から明け方まで オラは酔っちまっただの男

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-06-29

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