鏡の向こうと僕の日常 5

 どうも、今回は最後になるほど罵詈雑言濃度が上がります。夜中とかより、読後気晴らしできる余裕のあるときにお読みください。

山砦国にて


 フレンケルシュ家から返事の文が届いたのは、それから数日過ぎた朝の事だった。一同揃って読んでみると、できるだけ丁寧にワイシャルクが事情を説明し、彼等の要望を受け入れるよう文をしたためたにも関わらず、返された文章の内容は〝遠方からようこそ、王子のご友人なら婚約発表の宴に招待しますから、それまでこちらに遠慮なくどうぞ〟という呆れたものだった。おまけに、そちらの家のご事情では、皆さんが長居されるとお辛いでしょうから、と余計なひと言が書き加えられており主人より執事の眼光が増す。客人ももてなす事ができぬ有様ならば、貴族などとうに廃業しておりますでしょう、とつんと肩をそびやかし、彼は既に身分を明かしたサレにいらぬ気遣いはご無用ですから、とあくまで慇懃に言い放った。
 封書をたたみ、おもむろにサレが腰を上げる。周囲でくつろいでいた連中も用意用意、と瞬時に散った。
「さて、お招きに応じるとするか」
「うん、感じ悪いお貴族様から王子取り返しに行こう」
「まあ万が一だけど、王子が婚約発表を受け入れるつもりなら、俺達ちょっと格好悪いけどな」
「何言ってんだよ、王子と付き合い短い僕でも分かるさ。こういう事平気で書いてくる奴を、あの王子が気に入るわけがないじゃないか。きっと今頃、困ってひとり苛々してるよ」
「そうだな、唯人の言うとおりかも。なら自力で逃げ出される前に、迎えに行ってやるとするか」
「そうそう、王子を迎えに行くのはサレの役目なんだから!」
「で、唯人、盛り上がってくれたとこ悪いんだが、お前はここで留守番……」
「嫌だ」
 にっこりと笑い、手をひらひらさせてやる。
「今日だけは僕も行く!王子にだって会いたいし、部屋でじっと待ってろだなんてあんまりだ。置いてったって、こっそり付いて行くから!」
 駄々っ子のごとく宣言した唯人に、ふっ、とサレが鼻で溜息をつく。じゃあいいけど、条件があるぞの言葉に尻尾振って飛び付いた、己の浅はかさを唯人は牛車の中でひしと噛みしめる事となった。
「唯人、そろそろ着くってさ」
 今日は覚悟を決めたのか、これまでシイが着ていたきらびやかなエリテア皇族の正装を纏ったサレが振り返って呼びかけてくる。だが唯人は、道中ずっと暗い顔で自己障壁の中に閉じこもっていた。
「まだ拗ねてるのかー?お前が言いだした事じゃないか、うじうじしてるんじゃないって!」
 なんでこれが僕の言いだした事になってるんだよ、ありったけの暗雲をしょって睨んでやると、ほんとどんな格好しても可愛いよ、とへらへらした笑顔で受け流される。床に拡がる長いつけ毛を踏まないよう引き戸ににじり寄ると、金ぴかの枠に己の顔が映りまた頭がくらくらした。
「ほんとほんと、唯人は可愛い」
「だって、あたしが腕によりをかけたんだもの。まあ素材も悪くは無かったってのは認めるけどね」
 サレの横で、、ようやくエリテアの御仕着せを着させてもらってほっとしているシイと、トウアもくすくす笑いで賞賛を投げかけてくる。このトウアが変装の技を持っているというので、最初は綱手の紋だけ隠してもらうという話で唯人は大人しく彼女に身を預けた。大ぶりな卵の薄皮を取ってきて、肩に貼りつけ上から色粉をはたくと見事に普通の肌になる。すごい、と感心していると、後ちょっとだけお化粧しておこうね、顔がばれない程度にさ、肌の色も濃くしてと軽く言われ……。
 それからあれよあれよという間に付け毛、例の詰め物、いつかハルイ公主が着ていた気がする衣装……といろんな物が目の前を通り過ぎ、はっと気がついた時には、差し出された鏡の中から目をまん丸にしたエリテア娘がこちらを見つめていた。
「な、な、なに……?これ」
『うーん、素晴らしい仕上がりだよ。これ僕の写し姿に貰っていい?』
「やめろ、ミラ!」
『はーい、じゃ、唯人のいる間は秘蔵にしとく』
「駄目だって言ってるのに!」
 いいさ、どうせ僕の言う事なんて誰も聞いてくれないんだし、とやさぐれてみたら、蓋をされて出られない綱手がそんな事ないって!と必死のアピールをしてくれる。やはり、最後に頼れるのは彼だけだ。
「本当だよダトア君、君は磨けば磨くほど光る地中の貴石のごとき存在だな!」
 牛車の隣を老馬にまたがって行くワイシャルクが、多分慰めではない、真顔で賛辞をくれる、それが唯人の心を一番容赦なく掘り下げた。ああ、ほら、途端にトウアの目付きが険しくなるし。
「ほら、恥ずかしがらずとも良いから外を見てごらん、右手に見える白亜の城がフレンケルシュ家の雪冠城だ。うちと違って最先端の素材と建築様式でできている、見事なものだ。バッテンビュルト邸は今ではもう使えない、年代物の寒耐樅をふんだんに使っているから駄目になった時は総入れ替えせねばならない、まだまだ持つとはいえ、今から頭が痛いよ」
「えー?なんか軽くて重みがなーい、あたしはエデル様の黒いお屋敷のほうが好きですぅ」
 もうなんとなく慣れたのか、それとも意識から排除することに決めたのか。とにかく自分に濃厚アピールをくれ続けているトウアがまるで喋る置物であるかのように、ワイシャルクは鉄壁の無反応だ。その彼も、伸び放題だった髪をきれいに整え、やや時代遅れながら(穴が無いという意味で)かっちりしたアシウント貴族の礼装に着替えて見違える様相になっている。そのせいで、その辺の地元娘に目をつけられないかとトウアは気が気でないようだが。
 暖かい厩舎でたっぷり休ませてもらった上、今日は人しか乗っていない牛車を曳いた黒牛が快調に歩を進めたので、急な坂になっている城の門までの道を難なくのぼり、群島連合国エリテア領ご一行(偽)はまばゆいばかりの白く輝く石で築かれたフレンケルシュ家の雪冠城へと迎え入れられた。
 客間に通され、豆茶のもてなしを受けつつ待っていると程なく小姓が呼びに来る。現城主の後継者であり、ユークレン添王子殿下のご婚約者であられるハインスク様がお会いになって頂ける、との事だった。
「あちらがどう出てくるかは分からんが、とにかくまずは冷静に話し合おう。一番大切なのは、添王子の意思だという事を押しだしてな」
「勿論です、それを伺う為にやってきたのですから」
 シイが着ていたときは、明らかにだぶだぶだった総刺繍のエリテア皇衣を優雅に着こなしているサレは、その大柄な体格のせいもあり城の雰囲気に気押されることない輝くような皇族の気を放っている。トウア、シイに続きその後を付いて本当に白い、飾り気のない石造りの通路を歩いていると、唯人は段々自分が病院の中にいるような気分になってきた。あまりに何もかもが白過ぎるのも、ちょっと目が落ちつかない。
「群島国エリテア領よりおいでになられた陽虹皇子殿とその後見人、バッテンビュルト家ワイシャルク様をお連れしました!」
 小姓の呼ばわりに応じ、白塗りの木製の扉が開かれる。中に入ると、そこはうって変わって壁も絨毯も色彩に彩られた、子息の私室のようだった。暖炉では大きな薪が燃え、部屋の中心にユークレン様式の見事な彫刻を施された卓が据えられている。
 その向こうに、ちょこんと懐かしい顔がいた。
「……添王子」
「お久しぶりでございます、陽虹様、そしてエリテアの皆様方」
 さらさらのまばゆい髪を揺らし、立ち上がると優雅に一礼する。島で別れたのが随分昔の事のように感じられる添王子は、いつもの親しみやすい無邪気ななりをちらとも見せないすました顔で訪問者一同を見回した。サレににっこり微笑みかけ、ついで唯人に〝え?そうきたの?まぁお互い様だよね、可愛いじゃない〟と眼で語る。
 いや、添王子、今日の君に比べたら、僕なんて足元にも及ばないなんちゃって女子だよ。
 唯人の前ではずっと少年の格好だったので、それが当前なのだと思っていた。が、今日の王子は本気出せばこうなるのか、と見惚れてしまう程の愛らしく可憐な少女に仕上げられていた。髪は光沢のある赤いリボンで綺麗に飾られて、雪の結晶みたいな白いレースのモチーフでできた裾の長い長衣を身にまとい、肩にはふかふかの毛皮を巻いている。この姿を先に見ていたら、アリュートに連れて行ってと懇願されても断固として置いていっただろうに。そんな事を唯人が思い返している前で、サレは一歩前に出るとユークレン式にきちんと膝を付いた。
「古く貴き銀の血統たるユークレン王族、その十五世王添王子殿下、このエリテア群島国皇子陽虹、恥ずかしながら先日の我が国での事件の折、お救いさせて頂いた貴方を忘れ難く、こうして王の許しを得、遠路はるばる訊ねさせて頂く事となりました。何せ北の国の礼儀など預かり知らぬ境遇ゆえ、無礼もありましょうが広きお心で御許しを願います、フレンケルシュ家御子息、ハインスク殿下」
 言葉の最後は、卓の上座に坐している立派な身なりの青年に向けたものだった。流石に王族の傍流の血筋だけあって、均整のとれた体躯に若木のような活力が満ち、顔も若い娘が見惚れるような金髪王子様系のハンサムだ。男性なのか両性なのか分からないが、少なくとも彼が添王子に対しては男性として接するつもりであるのはよく分かった。とにかくお掛け下さい、と勧められ、一同は並んで席に着いた。
「ああ、お気になさらずに、陽虹殿。我等とてユークレンの歴史の前では山野を駆ける蛮族上がり、なのですし」
 少しも嫌味の無い爽やかな語り口だが、身分の高い人間特有の若干の見下し感が感じられる。こういう人に限って、格下が正論でやりこめにかかってきたら突然激昂し始めるタイプな気がするんだが。
「とにかく、こうして私の招待に応じ来て下さったのですから、婚約発表の日までゆっくり滞在して頂きましょう。添王子殿と積もる話もおありでしょうから、ぜひ」
「すまないハインスク君、好意は有難いのだが、私は彼等の後見人の任を譲る気はないのでね。彼等もそのつもりだと言ってくれている、この街を旅立つその時まで、この人達はバッテンビュルト家の賓客ということだ」
「おや、それは失礼しました。そちらの為と思って申し出たことでしたが」
「私からも弁明させて頂きましょう、慣れぬ文化の地ゆえ、こちらの言葉がうまく伝わらなかった気が致しますが、どうかお気を害さず聞いて頂きたい。私、陽虹は、添王子に求婚させて頂く為にこの場に参りました。貴殿ではなく、そこにおられる添王子殿から返答を頂くその為に、です」
 この流れるような口上に、まだ余裕の表情でハインスクはふむ、と添王子に目をやった。
「それは困ったな、僕はこの国じゅうの候補と充分話し合った上で君の婚約者として選ばれたのだと思っていたが。このように後から突然出てきて名乗りを上げ、それが許されるのを歴史あるユークレンの王が認めたと言うのかい?」
「……他ならぬこの国の王子が、我が国の十四世主王子に同じ事をされましたから。時代が変わったと考えるしかございませんでしょう」
 これは、自らの生みの親、レベン・フェッテ添王の事だ。しれっと呟かれたその一言に、堪らずサレがくっと喉で笑いを噛み殺した。
「そうだったな、では、どうするんだい?礼儀知らずの獅子王子に見染められたお優しくもか弱き白鳥王子と同様に、君もこの異国の皇子に身を任せる気だと言うのかな、いくらなんでも、この目の前でそれをやらせるほど僕は寛大ではいられないと思うんだが」
 この言葉には、それまで薄い愛想笑いを崩さなかった添王子の眉間にくっきりと皺が浮きあがった。
「ハインスク様、もしよろしければお間違えの無きようお聞き届け願います、我がユークレン国十五世王は力に屈し意に染まぬ伴侶を選ばされたのではありません。国を思い、民を思い、何より自分の意思であの御方を選ばれました。でなければ僕が生まれ、ここに在ることは無かったでしょうから」
 とにかく言う事が失言にしかならない、上流階級特有のキレた嫌味の応酬にもならないハインスクをこれ以上会話させるのは面倒くさい、と感じたのか、眉間の皺をすぐに伸ばすと添王子はやおらサレに向き、やんわりと雑談を振ってきた。
「まあ、陽虹様とて今この場で僕をかついで持ち去るような、そんな山賊まがいの行動をされにおいでた訳ではありますまい。あくまで僕の心を確かめに来られたと言われるなら……どうです?今から僕がお二人に幾つか問いを差し上げましょう。その答を伺って、僕は自分の未来を選びたいと思います。僕がどちらの手を取れば、納得できる人生を得られるのかを」
 この言葉にふん、と、あからさまに不機嫌顔になったハインスクと対象に、サレはそれは面白い、と微笑んだ。
「私どもに、公平に権利があるとおっしゃられているのですか?」
「ええ、婚約発表は〝まだ〟成されておりません事ですし」
 あくまで鷹揚に成り行きを見守っているワイシャルクや、その気になれば岩のごとく固まれるシイの隣で、トウアは貴族の言い回しがまだるっこいのか欠伸を必死でこらえ涙目になっている。唯人も、口には出せないが胸の詰め物が予想外にぽかぽかと暖かく、化粧が浮かないか一人冷や汗を吹いていた。その引きつった表情に気付いたのかどうか、添王子がちらとテルアの蒼天のごとき済んだ瞳で流し目をくれる。
「では、お聞きします。まず一つ、貴方がたは、僕にどんな名をくれますか?」
「それは、有識者を集め充分に審議した上で決めましょう。僕が考える事ではありませんから」
 でしょう?と同意を求めるハインスクにあ、そう、と眼を細めると添王子はサレを振りかえった。
「陽虹様は?」
「我が国では、あらかじめ決められてある事ゆえ受け入れて頂くしかありませんが、まず間違いなく〝湖妃〟となられる事でしょう。ユークレンは智国、テルアは湖都と呼ばれておりますから。子ができれば陽湖、そういうしきたりですので」
「はい、分かりました」
 その答から何を得たのかは顔に出すことなく、添王子は次の問いに移った。
「僕は、貴方がたの国でどう在る事を望まれますか」
「勿論、フレンケルシュ家に勿体なき伴侶として、何不自由ない生活を約束させて頂きましょう。立派な後継ぎをもうけ、末長く家を護ってもらいたい」
「……申し訳ありません、添王子殿もご存じかと思いますが、、我が国では皇位を継ぐ者は、二人の妃を娶らねばなりません。両妃は何においても公平であり、一方がより多くを望もうとそれが叶うことはけしてない。その上、我が国はいまだ軍備途上の地。できれば王子には世継ぎ産みの後、正式な武技を身に付けた将としてそれなりの役職に就いて頂ければと願っている次第なのですが」
「なんとまあ、呆れて物も言えないな。麗しき銀の血筋の姫を僻地の島娘と天秤にかけた上、武人として扱うおつもりとは……これはユークレン王に忠言せぬわけにはいかないでしょう」
「今一人のお妃は、星族公主様ですか?」
「はい」
「僕が嫁げば、姉妃に成られるのですね、あのしとやかで気の利く楽も料理も上手い公主様が」
「ハルイも、貴方が来られるなら嬉しいと申しておりましたよ」
「僕の子の世話も任せてよいでしょうか」
「勿論、子供好きな方ですから」
 形の良い眉を吊り上げているハインスクをもう完全に蚊帳の外にして、添王子はくすくす笑いでサレとの会話に夢中になっているようだった。わざとらしい大きな咳払いの音をたてられて、ああまだ居たんだっけ、と面倒くさそうに向き直る。王子の心がもうサレに傾いてしまっているのは唯人の目にも明らかだったが、さて、どうやって角を立てずにこのお坊ちゃんにそれを納得してもらうのか、と案じていると、じゃあこれが最後の問いです、と添王子は二人に微笑んだ。
「もし僕が貴方ではないほうの御方を選んだ場合、貴方はどうされますか?」
 ハインスクはもう我慢の限界、と言わんばかりの表情だったが、なんとか心を抑えサレを睨みつけていた。添王子の気持ち云々より、こんな色黒の島猿に自分が負けそうなこの状況が耐えられないようだ。しかしみっともなく騒いだら余計恥をかくというのも分かっているらしく、あえて余裕の口調で返してきた。
「まあ、そうなればしょうがないでしょう。ユークレンの添王子殿は九代王以来の変わり者、という風評は免れないでしょうが。私も男、貴方が決めたのなら潔く身を引きます、縁はまた訪れるでしょうから」
 あああ、なんでそういう余計な一言入れるのかなこの人。ほら、添王子の笑顔が固まってるって……。
「陽虹様のご意見は?」
 真っすぐな眼でひたと見つめられ、サレはあのくったくのない表情で顔を緩ませた。
「とりあえず、婚姻の式が行われるその日その時その瞬間まで、貴方の気が変わらぬか万策講じてみようと思います。私は重大な局面でつい諦めてしまう悪癖があり、それを正すよう親友に諌められましたもので、こたびは少々足掻いてみようかと」
「なんと、往生際の悪い事だ。エリテアという国は、そんなに皇族の伴侶たる相手が不足しているのかな?」
「分かりました、もうこれで充分です!」
 思わずトウアがびくっとなって周囲を見回した程、添王子は凛とした声音で場を締めくくった。すいと席を立ち、そのままハインスクへと歩み寄る。ほらやっぱり、こうなるんだよと思わず安堵の表情を覗かせた彼に、王子はまるできかん気な子供を宥める乳母の口調でそっと話しかけた。
「ハインスク様、貴方の立場を尊重するという意味で、僕は三連決闘を提案します」
「なんだって?」
「この御方は、話し合い程度では僕を諦めてくれる気はなさそうです。なら、式の当日に僕が貴方の眼前でさらわれ消える醜聞を起こさぬためにも、ここは貴族のやり方で正々堂々雌雄を決する事としませんか?」
「君をここからかどわかすなんて、そんな事を僕が易々とさせると思っているのか?」
「勿論、この雪冠城の護りの重さは重々分かっておりますとも。しかし、わざわざそこまで事を進め、大きくしてしまうよりはただの腕比べ程度の余興で収めたほうが、お互い引き際を付けやすいのではと僕は思っただけですが」
「ほう、流石、智の国の王子はあくまで平和的に事を治めようとしておられる訳ですね。で、三連決闘とは?」
「アシウントに古くから伝わる、家同士の揉め事を手っ取り早く解決する為の一手段だ」
 重々しく、ワイシャルクが説明した。
「互いの一族、家臣から剣術、術式に秀でた者を一名ずつ、そして揉め事の当事者を加えた三人どうしで三回勝負して、多くの勝利を得た方が事を決める。単純、分かりやすくかつ原始的なやり方だ。本来ならば揉め事は、法に訴え正しき判断のもと公正な結果を得なければならないのだろうが、跡目争いとか色恋沙汰などというものは、こういうやり方の方がかえって後腐れがないのだろう」
「しかし、それではな……ここは数百年続く王族の血を汲む我がフレンケルシュ家の居城だ、旅の従者しか連れていないそちらとでは不公平にはならないか?負けた後で言い訳をされても困るのだが」
「その点はお気づかいなく、こちらも道中の護身の為、選りすぐりの者を連れ来ておりますので」
 サレの口調は穏やかだったが、唯人の眼にはアーリットの雷獣のごとき火花が宙に散ったのが見て取れた。よろしい、なら場所はうちの城のひと間を提供しよう。日時はいつに?と軽い調子のハインスクに、そちらさえ良ければ今すぐにでも、とサレは不敵に笑みを返した。
「そこにいる面子でいい、と言うことなんだな」
「はい」
「と言っても、私の眼には咲く花のごとき乙女三人しか映っていないのだが。彼女らを、フレンケルシュ家選りすぐりの騎士と術士に向かわせようと言うのかな」
「ご紹介が遅れました、剣士のトウアに霊獣使いのダトア、それに薬師のシイ、どれも我がエリテアが誇る精鋭にございます」
 うわ、僕、面子に入った、と唯人は内心の動揺を抑えつつ、トウアにならい頭を下げた。ハインスクの背後に立つ王子は〝やったね、これでもう勝ち決定!〟と満面の笑みを浮かべている。では場所の用意をさせる、すぐに済むからそちらも準備をしていてくれと言葉を残してハインスクと添王子が去り、しばらく様子を伺った後、顔を寄せ合ったひそひそ話で唯人はサレに猛抗議した。
「サレ!なんで僕を巻き込んだんだよ、下手するとばれてしまうかも、ってのに!」
「分かってるさ、下手しなけりゃいいだけじゃないか。唯人、言っておくが今からエリテア諸島全部ひっくり返して探したとしても、こっちにはお前どころか俺程度の霊獣使いさえ居やしないんだ。いいから怪我だけはしないよう身を護って、適当な所で負けてくれ、勝ちは俺とトウアで取るから」
「え、そう?」
「ああ、な?トウア」
「殺っちゃってもいいんなら、まず確実なんだけどねぇ」
 突然の低音で囁くと、トウアは紅い唇をぺろりと舐めた。いや、殺るのは無し、とサレに言われ分かってる、と懐から取り出した細くて長い小刀数本を扇状に開いて見せる。痺れ汁とか塗っておく?とシイが荷を探った。
「いーわよ、あっという間に終わっちゃったら面白くないしぃ、剣舞は久しぶりだからしっかり遊ばせてもらおっと。皇子こそ、あのお坊ちゃん叩き壊さないようにね」
「それは大丈夫だと思う、手を見れば大体分かった、あれなら上手く接戦のふりもできそうだ」
「気ぃ使うわよね、お偉いさん相手ってのは」
「添王子の為に持ってきた、干し葡萄の焼き菓子が駄目になる前にカタが付きそうだな、良かった」
「相手がハインスク君だからまだましだった、当主のダンフェイ殿だったら少々やっかいな話になっていただろう。剣技、気性ともアシウントで三本の指に入る大将軍だからな、まあ、だからこそ剣の結果に異を唱える事は無いだろうが」
 サレ達が各々の武器の具合を確かめつつ、ワイシャルクのフレンケルシュ家講義を聞いている間、唯人は自分の素姓がばれない精霊獣の面子を頭で確認していた。綱手は問題外、鋭月とスフィも見たまんま異界仕様なので無理。大丈夫なのはバレットと流と薄荷と……標はいいか、ミラには護ってもらって、厳しいようなら適当な霊獣に化けて加勢してもらおう。
 そういえば、破壊主とかミナク島の時とか、強い霊獣使いと闘ったときは常にアーリットがいてくれて、そちらは任せて自分は剣を揮っていた。今回は初めての、僕の〝精霊獣師〟としての技量が問われる闘いだ。まあ負けていいんだし、サレに恥をかかせない程度に頑張ってさっさと済ませよう。
『大丈夫だよ、唯人。破壊主を退かせた君じゃないか、綱手を差し引いてもそこらの霊獣使いなんて相手にならないよ。僕はどちらかというと、いかに君の本領を発揮せずに事を終わらせるか、ってのが重要だと思うんだけど』 
「そうだな」
 はたらくのか、なにをやる?とうきうきしている薄荷の気持ちが染み込んでくるのを脚の印を軽く叩いて宥めてやる。残る課題は、このひらひらした長巻き薄衣を(はっきり言おう、腰を帯で締めたワンピースの重ね着だ)着た自分がいかに女らしく振る舞えるかだ。正直、これが一番自信が無いのだが。
 そうこうしているうち、二人が退室してそう時間をおく事なく、再び小姓がやってくると一同を城の外の別棟へと案内した。少し時代のある感のそこは、やはり何らかの競技や試合に使われているのか床は石張りで滑らか、がらんとした広い空間を取り囲むように周囲に観覧席が設けられており、話を聞きつけたのか本人が集めたのか、結構な数の見物人が興味津々の眼をこちらへと向けていた。
「うわぁすごーい、完全敵地だわねこりゃ。でもあたしは、エデル様一人の応援があればどいつだろうが勝っちゃうけど」
「大丈夫かい?トウアくん」
 唯人達が入ってきた入り口からちょうど反対側の一番奥に、ハインスクとその彼が選んだ戦士がいる。ひと目で分かる熊みたいな体格の剣士を見たワイシャルクが、心配になったのか初めてトウアに声をかけた。
「はーいはいはい、あんなのぜんっぜん恐くないってゆーか、平気です!むしろ鈍臭そうなんで自分的には愛称いいかなって。皇子みたいに素早い感じのほうが苦手なんですよね、あたしって!」
 そんなに嬉しかったのか、一気に饒舌三割増しになったトウアに落ちつけ、とサレが溜息をつく。錦の皇衣を脱いで軽衣姿になっているその身体は、鍛え上げた筋肉が浅黒い肌と相まって、豹のごときしなやかな均整美だ。
「あちらの術士は……まだ若いな、俺達とそう変わらないくらいか」
「本当の一番の実力者は、城主の許しなくこのような場には出てこないのだろう。貴血のいない国の術士など、若手の腕試しくらいでいいと踏まれたな」
「うわー、舐めてるんだ、いいから勝っちゃえば?タダト」
「やめとくって」
 遠目なのではっきり見えている訳ではないが、向こうがこっちを凝視しているのは感じ取れた。北方人特有の透けるような色の肌に不自然な黒い夜毛、初めて会った頃のアーリットを思わせる鋭利な印象の顔の中の、ごく薄い青灰色の眼がじっと唯人を眺めている。なんだかじんわりと鳥肌を立たせるようなその視線に、つい、唯人は変な愛想笑いを返してしまった。
「どうも、ハインスク殿、御共のためにお手数をかけて頂き恐悦至極に存じます。さあ、互いに遺恨を残すことのなき勝負をいたしましょう」
 言葉と共にサレが深々と頭を垂れると、ハインスク側の観覧席で添王子がぶんぶんと手を振った。こっちにいるけど、僕は君達を応援してるからね、とハインスクの背に向けたふりの笑顔を唯人達へと飛ばしている。勝負の順番は勝手に向こうで決めたのか、まずは熊みたいな剣士がうっそりと前に進み出てきた。
「一回戦、対剣士、バルキア・グランダインとコルチケのトウア、前へ!」
「はーい、さくっとね」
 こちらからも、ゆらゆら歩きでトウアが中央へと向かう。両者が向かい合ったところで、立会人の男がちょっと困ったようにトウアを見た。
「君、剣は?」
「剣?そこのみたいなおっきいのなら持ってません」
 きょとんとした顔で、トウアが熊剣士の腰の大剣を見る。なんだって?と立会人の顔が益々困惑度を増した。
「武器を持たずに、どうするつもりなんだ」
「持ってます、けど、見せないのがあたし流、なの」
 ああ、暗殺者の剣技なんだ。刃を見せるのは、相手に突き立てるその瞬間……しかしそれが分からない騎士の皆様方には理解不能だったのか、周囲が変にざわつき始めた。
「困るな、丸腰の娘を打ちすえたとあっては、勝負ではなくただの乱暴となる」
 熊剣士が、本当に熊かと問いたくなるような重低音で唸った。持ってないって言ってないし!と抗議するトウアの声は聞こえないふりで、仕方ない、と立会人はどこからか差し出されてきた長剣を無理やりトウアに押しつけた。
「それを使いなさい、でないと闘いは認められない」
「こんなの、使えなぁい!」
 トウアのわめき声と共に、ぐだぐだで勝負は始められた。言葉通り剣を持ちあげる事もままならず、刃先を床に引きずったままのぶーたれ顔のトウアに心底呆れた風でバルキアが己の大剣を抜く。本気にならずとも、少々脅せばこんな小娘泣いて逃げ戻るだろう、と思ったのか、ぶんと横薙ぎに振られたそれをトウアは蝶のごとき身のこなしでひらりと避けた。
「おっと、危なぁい」
 続けざまにぶん、ぶん、と刃が空を切る音が響く。
「ほい、よっと」
 本当に、当たるか当たらないかのぎりぎりの回避に見ている方が思わず息をのむ。
「おっさんさぁ、そんなおっきいの振りまわしたって、永久にあたしには当たらないわよ?」
「馬鹿にするな」
 けして遅くはない剣の軌道を、いつもの舞いを踊っているような身のこなしでかわし、トウアはくるくると場内を逃げ続けた。次第に苛立ってきたのか、バルキアの動きが激しさを見せ始める。
「逃げてばかりか、いい加減にしろ、小娘が!」
「いやでーす、やれるもんならさっさとやればいいんです。でもできないんでしょう?そんなに無駄にでっかくなっちゃってさぁ」
 この一言で、もう完全に頭に血が昇ってしまったのか、バルキアは獣のごとく吠えると大上段からトウア目がけ剣を振りおろしてきた。流石にこれは紙一重で避けても、剣圧でトウアが体勢を崩す。してやったり、とバルキアの赤く染まった顔がにやり、と笑んだ。
「もらったあっ!」
「トウアくんっ!」
 轟音たてて刃が迫る、その瞬間、かき消すようにトウアの身体が消え去った。金属がぶつかる凄まじい音と共にトウアの持っていた剣が吹っ飛んで、勢いそのまま壁に叩きつけられる。な、何が起こった…と一同が息を飲んだ、その次の瞬間、再びバルキアが、今度は絞り出すような大声を再度周囲に響かせた。
「お、おおおわっっ!」
 頭を押さえた彼の指の間から、赤い鮮血が滴っている。その肩にまるで重さの無い紙人形のように乗り、トウアはあの細い隠し刀を眼下の喉に突きつけていた。
「はい、終わり、首ひとつ頂きました」
 びーびー泣かないの、おっさんなんだから、と面倒くさそうに呟いて、耳を貫いている細刀をあっさりと抜く。飛び降りついでに手早く相手の肩覆いで刃の血を拭き取ると、トウアは数年ぶりに再会した恋人同士のような笑顔でワイシャルクの元へと戻ってきた。
「見た?見てくれました?あたしの華麗な剣技、決まったでしょ!」
「あ、ああ、すまない……私の眼には、早すぎて何が何だか分からなかったよ」
「えぇーっ!?」
「うん、僕もよく分からなかったんだけど、どうなったんだい?」
 はぁ?あんたはまだ若いのに、と呆れた視線をくれたトウアに代わり、サレが説明してくれた。 
「俺にはもうできないよ、あれは。無茶飛びって呼んでる技だけど、あのバルキアってのが上から斬ってきた後トウアがふらついただろ」
「うん、危ないって思った、ワイシャルクさんも思わず声出てたし」
「あれ、作戦。ああやって向こうが思い切り振ってきた隙に、地に立てた剣の柄を足がかりにして真上に飛ぶんだ。本来は目くらましの逃げ技なんだけど、こいつは更に上から投擲ができる。あんなに大きいといい的だ」
「そ、だからちゃんときっちり耳狙えたってわけ。タダトみたいに細っこくてふらついてたら、頭に当たっちゃうけどね」
「それ、死ぬよ……」
「うん、だからやらない、やるまでもないし」
 とにかくこれで勝ちひとつだね、と安心していたら、向こうでなにやら人だかりができごそごそ話しこんでいる。と思ったら、あの立会人が手を挙げ信じられない言葉を吐いた。
「第一回戦、勝者、バルキア・グランダイン!コルチケのトウアは反則負け!」
「え、えええーっ!?」
 思わず飛び出しそうになったトウアを制し、ワイシャルクが説明を聞いて来てくれた。今のトウアの表情では、刃傷沙汰を起こしかねない。
「いや、何を言い出すかと思ったら、剣の勝負に剣を使わないで勝つのは認められないのだそうだ。確か私の知っている決まりでは、剣士の勝負ではあるが、あくまで剣を使わなくてはならぬと言う話ではなかった気がしたが……」
「……おい、冗談じゃねぇっての、あの食わされ過ぎの白鵞鳥ども。戦場で剣じゃなきゃ勝ちじゃないって道理おかしいだろ、何使おうが死んだ奴の負け。後で相手がどんなに卑怯だったって騒ごうが、死んだのが生き返るわけがない。変な言いがかりぶっこいてると、まとめて潰して肉味噌樽に仕込んじまうぞ」
 地響きのごときこのトウアの呟きに、うわああごめんなさい助けて天国の母さんお爺ちゃんアーリット、的な文句とほぼ同じの内容文が、ワイシャルクの心にも浮かんだようだった。
「わわ、悪かったトウアくん。私の不注意だった、このとおりだ。以後このような事が無いよう気をつけるから、どうか今回だけは抑えてくれないか、頼むから!」
「ああん、そんなぁ、エデル様に言ってるんじゃないんですぅ。あたし、ちょっとイラっときただけなのに、そんな怯えた顔しないでくださぁい!」
 大慌てで愛しい人の懐にすがりついたトウアを眺め、ワイシャルクさん頑張って下さい、貴方の闘いですと眼を逸らし唯人は次の対戦相手の待つ場へと出て行った。次の相手は、やはりこちらを穴のあく程見つめていたあの若い術士だ。生地の厚い上着を着ているのに、背と腰から腿にかけてすっぽりと穴が空いていて、そこから見えている肌が妙に寒々しい印象を与えている。サレのように笑う気にはならないが、それでも変な格好だなとは思えた。ユークレンの精霊獣師正装の方が、ずっと上品で洒落ている。
 さっきまではとっとと負けて引っ込むつもりだったが、トウアが負けてしまった以上そうも言ってられなくなったな、と唯人はいろんな意味で心配そうにこちらを見降ろしている添王子にやや引きつり気味の笑顔を向けた。
「二回戦、対術士、レビス・オノラバル・ゾークベイムとテルアのダトア、前へ!」
「初めまして、よろしく、西の島のお嬢さん」
 手を差し出され、唯人はしょうがなくそれに応じた。アシウント式の握手は唯人の世界のそれと一番良く似ているが、手のひらを押し合わせるだけで握りあう事はしない。冷たく、妙に芯のない感触の手、物腰は柔らかいのに、なぜか背筋をぞくぞくさせる。おもむろにレビスは杖を出し、君も、と促してきた。
「もしかして、君も杖を持ってない、とか言う気かい?」
「持ってないと、負けですか?」
「いや、そんな事はないが……もしかして、杖もいらない程度の霊獣しか持ってないのかな」
 ふふ、と笑う。だがその薄い色の眼は、少しも笑っているようには見えなかった。
「君もだが、他国の霊獣師はせっかくの精霊痕を隠してしまうから強さの度合が分からない。だから、僕が多少手荒なことをやったとしても、それは自分のせいなんだって諦めておくれよ……ね?」
 その言葉が終わると同時に、ふわっ、と霊獣が具現化するときのあの独特の〝気〟が立ち昇った。
「出ろよ、〝冷迫〟」
 杖が床を打ち、ふわりと白い靄が湧きあがる。雲のように濃密に唯人を取り込もうと伸びてきた塊は、音もなく吹き出した透明な壁に遮られた。
「ほう、水精を連れているのかい。では、どの程度のものなのか見せてもらおう」
 レビスが杖をかざすと、流れ続けているはずの水の表面が白く凍り始めた。ばらばらと周囲に氷の塊を撒き散らし、水と冷気がぶつかり合う。隙があればバレットで、と考えた唯人の身体を、出し抜けに一陣の疾風が吹き過ぎた。
「わっ!」
 思わず、男寄りの驚声が漏れる。次の瞬間、唯人の顔からざっと音を立てて血の気が引いた。
「ちょっと、なんてことすんのよこの助平!」
 背後から、トウアの怒声が飛んできた。瞬時に頭の中が真っ白になり、とにかくここだけは、と詰め物製の胸を抱え込む。多分アーリットの泳風連魚と同じ、風精の一種なのだろう。水の壁を易々と通り抜けた風の刃は、一瞬で唯人の衣装を正面から大きく切り裂いていた。肌に少しの傷も与えなかった事からするに、ちゃんと加減して、服だけを裂く目的でやったのだ。
 男としてこの場に立っていたらこの程度の事は気にするものではなかったが、女性の振りをしているせいで、変に周囲の視線を意識してしまう。そのまま動けなくなった唯人を、見えない風精は返すもう一刃で背から襲い、あっという間に衣服をぼろぼろののれん状態にしてしまった。
『ミラ、どうしたんだ!?』
『ごめん、唯人、おかしいんだ。ちゃんと防壁は張ったのに防げなかった、すり抜けられてしまったんだ。急いで原因を突き止めるから、ちょっとだけ辛抱してて!』
『分かった、とにかく胸のあたりだけは何としてでも守ってくれ!』
 とっさに身体から出さずに同調してもらった鋭月に助けてもらい、トウア程とはいかないがどうにか風の刃から身をかわす。裂けた布をひいてひらひらと逃げ惑う唯人の姿に、観衆のはやし立てる声がひときわ大きさを増した。
「こおらぁ!それがお貴族様のやることってぇ?場末の酒場の酔っぱらいジジイ以下じゃない!」
「おや、これは心外なことを。僕はただ、このお嬢さんがどんな綺麗な精霊痕をその肌に印しているのか、それを一目見せてもらおうと思っただけなんだが」
「何言ってんだよこのド変態、ここに何人見物人がいると思ってやがんだ!」
「みんな、それを見たくて来てるんじゃないか、君達が出し惜しみするからさ」
「枯れてそうな顔してるくせに、てめぇ、結構な下衆だなぁ?」
 想い人に甘える娘から、鈍臭い仲間を庇う兄貴分に頭が切り替わってしまったらしいトウアが、今にも突っ込んできかねない勢いで怒鳴っている。それを聞いたら、唯人の頭にもやがてふつふつと熱がたぎってきた。自分だから良かったものの、これが本当にハルイさんみたいな女の人だったらすごく辛い思いをしただろう。卑怯でも勝ちが全てとトウアは言ったが、弱い相手と分かって無駄に嬲るのは、本当に強い人間のやる事じゃない。
 ざっ、と足を止め、自分を睨んだ唯人にレビスはそんな顔しちゃ駄目だよ、可愛いのが台無しじゃないか、とあの鳥肌の立つような気を隠そうともせず放ってきた。
「降参したら?これ以上恥ずかしい目にあう前にさ」
「それはできません」
「やれやれ、あの能天気そうな主人の横恋慕にそこまで献身的に付き合わなきゃいけない理由は何なんだい?その姿だと、君にはちゃんと男属性の恋人がいるんだろう、そいつは、君がこんな辱めを観衆の前で受けている事を知ったら、どう思うだろうねぇ?」
「別に、仕事ですから何も」
「ひょっとして、君の相手ってさ、あの大猿みたいな皇子様だったりして?文明の未熟な地では、権力者はいかに多くの愛妾を持つかに血道を上げるって言うし」
「そんなわけありません!僕はあくまで一エリテア兵として、皇子の力になるべくここにいるんです!」
「ああ、可哀想に、君の周りはあまりに薄情な連中ばっかりだ。僕ならたとえ仕事でも、こんな茶番、けして大事な恋人にはさせないけど」
 うわー粘着質だなこいつ、と改めて寒さのせいではない鳥肌が、さーっと唯人の肌に浮いた。相手が降参できないのを分かった上で、猫が小鳥を弄ぶようにか弱い小娘を手の上で転がして楽しんでいるのだ。
『……本当に下衆ですね、この者。蟲酸が走って錆びそうです』
(あつい)
 しまった、ついむかっとしてしまったせいで、怒りっぽい鋭月と薄荷が先に出来上がってしまった。この陰湿野郎を打ち倒すより先に、二人を宥めないと予想できない惨事を招く。
『唯人殿、この痴れ者、この場にて成敗いたしましょう。このような下衆の血にまみれるのは辛抱ならぬ事ですが、主君の名誉の為と在らば耐えて見せますゆえ』
(あついのはいやだ、あいつのせいだな、はっかがこおらせてやる、こおらせてつめたくしてやる!)
『ちょ、ちょっと待って、落ち付いて……スフィ、流、二人を抑えてくれよ!』
『うわ、おい、俺に振りやがった』
『……』(自分的には、二人に賛成、みたいな)
 あああ、頼りにならない!
『頼るなよ、何考えてんだ、ボスだろてめぇは』
 話はつきましたか?なら出させて頂きます、と唯人の右手があの感覚に包まれる。待て待て待て、と胸を諦め脇腹を抑えようとした、その時、ふう、と溜息が頭の中を吹き過ぎた。
『はいはいそこまで、みんな、あんなつまらないの苛めて唯人を困らせて、もういらないって思われたくないだろ?ちゃんとしようよ、唯人には君らには分かりづらい、人間の立場ってのがあるんだからさ』
 この有難くも的確なミラの一言で、なんとか体内の怒気が治まった。やれやれ、と胸を撫でおろし黙りこんだ唯人の様子が泣きそうになっている、と映ったのか、もう勝者の余裕でレビスは更に言葉を重ねてきた。
「僕はねぇ、君みたいにさ、貴血なのに女々しい姿をしてる奴があまり好きじゃないんだよ。子供を産む為にその状態になるのは勝手だけど、それなら大人しく家に収まってればいいのに。なんでこんな勝負の場によちよちと出てくるんだい?不格好な胸を揺らして、脂たっぷりの身体を見せびらかしてさ……それで、望み通りに晒し者にしてやったらぎゃあぎゃあ騒ぐし、どうしろっていうんだい」
「僕も好きじゃないよ、君みたいなの、お互い様だ」
 疲れているときに聞かされるには、あまりにも無理な言葉だ。これ以上別次元の悶着で消耗しないためにも、さっさと彼には片付いてもらうとしよう。
「うん?まだ何かやるつもりなのかい?」
「ああ、もういい、そんなに見たいのなら見せてやるさ、僕の精霊痕を」
 うんざりした下眼づかいで、だん、と唯人はぼろぼろの裾から脚を前に踏み出した。女性的な丸みが皆無の引き締まった腿を覆うように、凍練獣の精霊痕が輝いている。ぱんと叩いて合図してやると、薄荷はあの雪の結晶みたいな不思議な姿でするりと滑り出してきた。
「薄荷、僕と彼をあの銀粉で包んでくれ。外からよく見えないように」
(わかった)
 レビスの持っている冷気系の霊獣は靄のような様相だが、薄荷にきらきら光る銀粉の冷気を吹きつけられると一気に主の背後まで押しやられてしまった。じわじわと取り巻かれ、これはまずいと感じたのかレビスが杖を上げ霊獣に力を送る。しかしその甲斐も無く、靄は銀粉と混じりあうと瞬く間に薄れて消えてしまった。
「冷迫……?どうした、冷迫!」
「次は風精だな」
 小声で呟くと、かろうじて残っているゆったりした袖の中に通してスフィを出す。そのまま素早く、標が示している宙の一点へと向けた。
『狙う必要なんてねぇぞ、散弾撃ちでしとめてやる』
 引金をひくと、一気に虹色の光輝が放たれた。身を返し、逃げようとしたらしい風精を光が貫き軽やかに四散させる。何が起こったか分からなかったのか、唯人に向けられた薄い色の眼が飛びだしそうなほど大きく見開かれた。
「な、何を……した?」
「分からないなら、それだけって事だよ」
『唯人、いいから直にあのガキ撃っちまえよ、中の奴全部消しちまおうぜ』
『いや、スフィ、そこまではしなくていい』
『けっ、相変わらず甘いな、お前って奴は』
『あまり力をひけらかしちゃまずいんだって』
 すかさず、袖に包まれた銃を小脇に挟む。こんなとこかな、と唯人は小首をかしげ、相手にまとわりつき舌舐めずりしている薄荷を呼び戻した。
「もういいですか?それとも、まだ何かあります?」
 言ってはみたものの、向けられている気味が悪いほど見開かれた目は、自分の負けを悟っているようには微塵も感じられはしなかった。まだ何かあるんだな、と緊張する唯人に向け、形も色も薄い唇ににんまりと不気味な笑みが浮かぶ。
「すごいなぁ、君、驚いたよ」
「そうですか」
「まさか、辺境の西国産でこんな霊獣使いがいたとはね……」
 薄荷の銀粉で二人が外からは見えづらくなっているのか、さっきまで騒ぎ立てていた観衆は息を飲んで状況を見守っている。その只中で、もうそんな事は一切眼中にない、まるでこの場には唯人と自分だけしかいないと言わんばかりの表情で、レビスはこちらににじり寄ってきた。
「欲しいな、それ、欲しい」
「え?」
「僕にくれよ、いいだろ?君には勿体ない」
「何を言って……!」
「たかが僻地の猿相手なんて、僕が出る幕じゃないって断ろうと思ったけど。良かったなあ、こんな面白いのがいるなんて。ああ、恐がる事はないよ、僕は持ち主を殺めて霊獣を奪うような、そんな野蛮な振る舞いはしない。まあ、君の抵抗の度合い次第では、多少精神に傷がつく事も否めないだろうがね……」
 さっと杖を上げたレビスに、嫌な気配を感じたのか瞬時に薄荷が凍気で壁を巡らせた。ミラも、唯人を肌にぴったり密着した防御の膜で包み込む、だのに……。
「うわっ!」
 だしぬけに、唯人の右手が紫の炎に包まれた、瞬時に流の水が吹き出て、炎に降り注ぐが消えない。本物の炎と違って皮膚を焼くことは無いが、無数の針を突き立てられたような苦痛にゆがむ唯人の眼に、手のひらに浮かび上がった炎と同じ色の紋章が飛び込んできた。
「こ、これは……」
『やられた、唯人、あの握手の時だよ!』
 ミラの言葉に、勝負開始の時の光景が頭に甦ってきた。一瞬だけ触れ合った冷ややかな手、それ以後も、ずっと鳥肌を立てさせていたあの感覚。あの時、既にこれを仕込まれていたのか。
『その紋のせいで、風精の攻撃も防げなかったんだ。肌に直接目印付けられたようなものだから』
「……くうっ!」
 炎は、容赦なく手から唯人の内へと喰い込んできた。精一杯の気力の抵抗も意に介していない様子で手首から肘、そして二の腕へと上ってくる。慌てたバレット達が次々と飛び立って、唯人の髪の中へと逃げこんできた。
「へえ、鋼刃蟲か。君、本当に西国の人間なのかい?随分といろんな国の霊獣を持ってるんだ……まあいい、貰うよ」
 激しい痛みと共に腕を上ってきた炎は、一気にバレット達、そしてスフィの精霊痕へと迫ってきた。本能的に理解する、この炎が印を焼けば、唯人の精霊獣はあちらへと奪われてしまうのだ。炎を止めようと思わず二の腕を左手で抑えたら、紫炎は容易く左手にも燃え移ってきた。
「しまった!」
 指先の、小さく繊細な蛍翅の印があっという間に炎に呑まれ、燃え尽きる。だが自分に移ってきたその印を見たレビスは、なんだいこれは、と一瞥しただけで、出てきた青光の蝶を杖の一振りであっさり叩き落としてしまった。
「何するんだ、わざわざ奪って消すなんて!」
「だって、僕はこんなつまらないのはいらないし」
 両腕に拡がった激痛に、思わず膝をついた唯人に凍るようなな笑みを向け、レビスはゆっくりとその前まで歩み寄ってきた。奇しくも、その両方を目にした者はいないが、もしいたら思っただろう。あの深森の領主と同じ表情だ、と。
「さあ、無駄な抵抗はやめて、全部僕に明け渡してもらおうか。見たところ、まだまだ沢山の霊獣を隠し持ってるみたいだし。君はどうやら霊獣どうしの相性を無効にできる、あいつらに格別好かれる素質があるみたいだな。たまにいるんだよ、そういうの。そうだ、なんならこの闘いの後、あのがさつな主人から僕が君を買い取ってやろうかい?空っぽになっちゃもう霊獣師としては使えないだろ、でも僕の役にはたてるからさ。僕の為に国々をまわって霊獣を集めて来るんだ、君が今貰ってる給金くらいは出してやる。どう?ちゃちい西国の霊獣使いには勿体ない、いい話だろう?」
「……いい加減にしろ、どこまでうっとうしいんだお前。もう我慢ならない、踏み……じゃなくて!」
 ついに、唯人の堪忍袋の緒が切れた。というより、紫炎が迫ってきた左の肩に潜んでいる存在、鋭月や薄荷とは比べ物ものにならない、桁違いの怒気に入り込まれてしまった。めり、とごく微かな音をたて、左肩が脈打つごとく盛り上がる。怒りつつも、それだけは駄目、絶対に駄目だからと唯人は必死の意志の力で肩の膨らみを押さえつけた。
『唯人、今僕の言う事聞ける?』
『何?ミラ』
『良かったぁ、完全に綱手に引っぱられてたらどうしようかと思ったよ。で、だけど』
『うん』
『僕が今ちょっと触れてみた印象なんだけど、この炎、明らかに禁呪だよ。なんでこんな普通の人間が大っぴらに使ってるのかな、おチビにばれたら有無を言わさず引っこ抜かれて、持ち主は厳重処罰されて当たり前なのに。この国、どうかしてるとしか思えない』
『こいつが本当に禁呪なら、綱手に壊してもらえるのかな』
『そうだね、唯人、綱手も君が命じるのを待ちかねてる。外に出せないから多少辛いだろうけど、我慢して貰えるかい?』
『ああ、あの気持ち悪いのとの勝負が済むのなら、もうなんだっていい』
 言葉の後、ゆっくりと立ち上がる。もう肩ぎりぎりに炎が迫っていたが、スフィは慌ても騒ぎもしなかった。くわえ煙草で黙りこくって、主の敵に己の一撃を撃ち込む合図を待っている。
『スフィ!』
『おう』
 腕を下げ、滑り落ちた銃の先を手のひらで押し包む。炎が銃口に移るより先に、絞り込んだ虹色の光が唯人の手を貫いた。
「……つうっ!」
 根を吹き飛ばされた呪法が、一気に腕の内で膨れ上がる。痛い、筋肉の隙間を押し広げられ、皮膚が弾け飛びそうだ。だがその感覚は、肩から一気に寄せてきた薄荷とは違う冷たさに、みるみる押し戻されていった。
『綱手……ありがとう』
 唯人の眼にもはっきりと見て取れた、腕を包んでいる紫の炎が、肌に浮かんだ綱手の頭部の模様と同じ青光の線に押し返され、指先から煙のごとく霧散してゆく。やがて輝線に絡みつかれた紋の残骸がちりちりと燃え尽きたのを見届けて、唯人はおもむろに捧げ持ったスフィの照準をぴたり、と正面のレビスへと据えた。
「何をしたんだ、なんだ?それは」
 一部始終を見届けた薄青の眼が、驚愕で見開かれ己に向けられた物を凝視する。
「……僕の杖、さ」
「ああ、やっとお出ましかい、これはまた、随分と不格好な……」
『うるせぇ、そんなの分かってらぁ』
「ほっときなよ、スフィ。君は銃なんだから、杖だと思ってる奴の言葉なんて意味がない。それに、なんといっても君は特別製だし。この台木の事気付いたら、あいつ、どんな顔するだろうな」
『そいつは、トップシークレットって奴だ、これからもな』
 スフィが短くなった吸いがらを飛ばし、ふう、と深呼吸する。すると一気に周囲の霊素が唯人の内へと流れ込んできた。
『やっちまえ、唯人。蝶々の仇打ち、決めてやれ』
「ああ!」
 迷うことなく引金をひくと、一気に派手な光が銃口から漏斗状に広がった。前に立つレビスの身体を余すところなく貫いて、周囲を包む薄荷の銀粉も突きぬけハインスクのいるあたりにまで届き霧散する。何も物理的な干渉はなかったが、声も出せずその場にへたりこんだレビスの元に、今度は唯人が歩み寄った。
「な、な、なんだ?今の……うわっ!」
 自分に向けられた言葉を一片の揺るぎもない無表情で無視し、足蹴り一発で転がしてやる。な、何を!とわめきながら振り上げられた相手の杖をすかさず差し出した銃身で払い、唯人はその足元に落ちていたぼろぼろの小さな欠片を拾い上げた。
「……蛍翅、ごめんよ」
 風のせいかどうか、破れた翅がほんの少し動いたように見えた。まだ両腕から発している青い光に溶け、蟲の姿が消える。おもむろに顔を上げ、唯人は前にいる対戦相手ではなく離れた位置の立会人に呼びかけた。
「すいません、正しい術士戦の決着って、どうやったらつけられるんですか?」
「あ、ああ、それは降参を認めさせるしかないが」
「霊獣でやらなくてもいいですか?」
「え?」
「いいですか!」
「そ、その……」
「何を馬鹿な事を言いだすんだい、霊獣師がそれ以外で勝負の決着を付けようなんて、君は一体何を……」
「だって」
 振り返った唯人の形相に、レビスは軽く息を飲むと言葉をつまらせた。
「お前には、もう何もできない。僕個人はどうでもいいんだけど、皇子の目の前で弱い者苛めはしたくないから。せめて、腕っぷしででも決着つけようって言ってるんだ」
「君のその言葉の意味、全然分からないな、まるで僕がもう何も霊獣を持ってないみたいに……」
「自分の中が、どういう状態なのかもまだ気付けていないのか、お前は!」
 唯人の怒声に、ようやく我に返った様子でレビスが衣服の穴を確認する。さっきまでそこに散りばめられていた紋がきれいさっぱり失われている事が分かると、元々青白かった顔がさらに人間離れした青に染まっていった。
「な、な、なんだよ、これ……分かった、目くらましの術だな?そんなのに引っかかるわけないだろ、この程度の……」
 解呪の術をやろうとしたようだが、それ用の霊獣も消えてしまっている事に改めて気づき愕然となる。もう一度、唯人は言葉を繰り返した。
「お前は、もう一切何もできないんだ、その杖と自分の腕でやれる事以外は。分かったらさっさと立つか、負けを認めろ!」
「うるさいこの島猿!僕を誰だと思ってるんだ、この国の貴血で最も歴史あるゾークベイム家の長子、レビスだぞ!下品な殴り合いなんてできるわけないだろう、お前と一緒になんてされてたまるか!」
 あー来たよ、駄々っ子モード。さすがに王子もハインスクさんも顔、引きつってるし。
「分かった、ならお望み通り霊獣で決着付けてやるから、気の済むまで食らうといい!」
 言葉と共に唯人の周囲で渦巻いた冷気に、レビスがすくみ上がって顔を伏せる。だが座り込んでいる彼に向って放たれたのは、けたたましく羽をばたつかせた派手な色合いの鳥の霊獣一羽だった。
「うわ、な、なんだこいつ、痛い、痛い!よせ、やめさせろ!こんな奴……痛いっ!」
 頭に取り付かれ、容赦のない爪と嘴の集中攻撃をくらいレビスの細い身体が床を無様に逃げまわる。程なく、身も蓋もなく泣きわめきながら、鳥に追われた彼は闘いの場を後にどこかへと逃げ去ってしまった。
「……レ、レビス殿の試合放棄により、勝者をテルアのダトアとする!」
 わぁ、とエリテア陣営と、こっそり王子からも歓声が湧きあがった。ぼろぼろのなりで戻ってきた唯人に、すかさずサレが自分の皇衣をかけてやる。怪我してないか、術の影響は?とシイも薬師の顔でワイシャルクと共に駆け寄ってきた。
「うん、どこも怪我はしてないよ、大丈夫……わっ!」
「ああもう心配させてぇ、こいつってば!」
 背後から、トウアが体当たりで抱きついてくる。よく頑張ったね、えらい!とただでさえ危険な状態の胸部分をもみくちゃにされ、ず、ずれる、と必死で押さえ込んでいたら、両腕の青い光がすうっと肌に染み込み元通りになった。
「タダト、どーにか勝利もぎ取ったね、よくやった!で、それはそれとして、ちょっといい?」
「え?何」
「なんていうか……今のあんた、すっごく男らしいわよ、その辺の娘っ子なら一発で落ちちゃいそう。なんで、その恰好が見るからに〝女装してる野郎です〟ってばればれ、超不自然なんだけど、どうすんの」
 これが吹っ飛ばなかったのは奇跡だったわね、とぼさぼさの付け毛を手櫛で撫でつけられる。裂けた裾から完全に見えてしまっている脚は、さすがにそこまで色粉をはたいていなかったので、さらされてしまうと顔や腕との色の違いがはっきり出てしまっていた。
 うわあ、やってしまったぁぁっ!
「だ、大丈夫、大丈夫だって!遠目だし、ほら、ここの連中ってごついのばっかりだろ。今の唯人でも充分女性に見える、大丈夫!」
 そう言うサレの声まで正直焦り気味なので、相当まずい状態のようだ。とにかく、こうなったらもうさっさとこの茶番仕合を終わらせて退散しよう、とサレは肩から出したタタルタンをかついであたふたと出て行った。
「最終戦、対当事者、アシウント・ル・ハインスク・フレンケルシュとエリテア群島国、陽虹皇子!」
「いや、結局は僕達で雌雄を決する事になってしまったね。でも、これで良かったと思うよ、他人に大事な伴侶の運命を決めさせてしまうなんて、騎士のやる事ではないからな」
 向かい合ったサレに、ハインスクは変わらない芝居がかった口調で語りかけてきた。ふ、と整った顔に苦笑の表情を覗かせて、まさに彼が持つにふさわしい、彼そのものが具現化したような金と純白の鞘の剣を抜く。まばゆい輝きが周囲に溢れ、見守る観衆から溜息が漏れた。それなりの時代がある剣だろうが、物精が現れる気配は無い。無言で、サレが豹のタタルを背後へと退かせた。
「では、勝負を始めよう、互いに悔いの残らぬよう……!」
 カッ、と妙に軽い、短い音がした。
 それだけでもう、何もかもが終わっていた。
「は……?」
 間の抜けた声を漏らし、ハインスクが今捧げ持ったばかりの己の剣を凝視する。
 先が、見事にひん曲がってしまっている。
 うわー、折れないんだ、すごぉい、と呟いたトウアの小声が、痛いほどの沈黙の場に響き渡った。
「……陽虹殿」
 誰も咳払いひとつできない静寂の空気の中、ややあって、ハインスクが絞り出すように囁いた。
「はい?」
「僕は、宣言をした後王子に勝利の約束を捧げるつもりだったのだが、それくらい待てなかったのかい」
「申し訳ありません、呼び合いが済めばもう勝負は始まっていると思ったもので」
「この剣は、曽祖父が王から賜った由緒正しき家宝の逸品なのに。父上に知られれば大目玉だ」
「こちらの思い違いなら詫びますが、それは儀礼用の飾り刀では?なぜそのような物をこの場に携えて参ったのですか、怪我をなさらぬうちに代えたほうが、貴殿の為によろしいかと思いましたもので」
「え?」
「もしや、分かっておられなかったので?」
「い、いや……まあ、これは勝負だが、命を賭けているものではないと思ったのでね」
「そうですか、生涯の伴侶となられる方の為に、貴殿はご自分の命を賭けるふりもできない、あくまでこれはただの見せ物だと申されますか。結構、では、そういうことで」
 あくまでさりげない会話であったが、この短い間でハインスクの整った顔には尋常でない程の汗が浮きだしていた。この白い闘技場の中、この上もなく目立つ浅黒い身体が、全く、完全に見えなかった。手に衝撃を感じさせる事さえなく、気がついたらそこにいて、剣がへし折れていた。
 こんな剣技、知らない。
 曲げられた剣も、本当の事を言えば飾りだとは露ほども知らなかった。父が実戦に持ち出さなかったのは、拝領の剣だからだと思っていた。いつかの御前試合の折、無理を言って借りた時はごく普通に使え、立派に勝利をもたらしてくれたのに。
 側付きの小姓が、そっと予備の剣を脇から差し出してくれる。が、これなら勝てるとかいう希望は、いささかも湧いてきそうになかった。
「では改めて、始めよう……」
 互いに礼をし、打ち合いが始められる。教本に書かれてある型そのままに右、左、上……と剣がぶつかり合い、互いの技がくり出される。剣を知らぬ者が見れば、力の拮抗した者同士の見事な勝負に見えたであろう。が、剣を生業とする兵士の眼から見れば、両者の力量の差は明らかだった。
 ハインスクがどれだけ斬り込もうとも、サレは上体の移動のみで避けほとんどその場を動かない。逆に間合いに入り過ぎたその身体を一刀にできる機会が度々あったが、その時はわざと空いた素手で突き返す。
 ほらほら頑張れ、そんなのじゃ駄目だぞ、という新兵と教官の図、そのものに見えた。
 小馬鹿にされている。
 それが分かっているのに、どうしようもできない。
 その屈辱から逃れられないまま、渾身の力で剣を振り下ろすと待ってました、と言わんばかりに圧倒的な腕力で弾き返されてしまった。
 技は格下、力だと更に下。
 今度こそしっかり握っていたはずの剣を、危うく取り落としそうになりなんとか耐える。自分をおどおどと伺うハインスクに、サレは構えるまで待ってやるとさあ、と言わんばかりにまたゆるい姿勢で剣を上げた。
「もういい!いい加減にしてくれ、これ以上この私に不様をさせて笑い物にさせるのか?なんて意地が悪いんだ、君は。皇族なら皇族の、振る舞いと言うものがだな!」
「ですが、これは見せ物と言われましたので」
 無表情のサレの言葉に、はっ、とハインスクが言葉を詰まらせた。
「飾りの剣を振りまわす、見世物の大立ち回り……なら、観客の皆様方に興じて頂くべく、演者は面白おかしく振舞わねば。さあ、続けようではありませんか」
「そこまで僕を、馬鹿にするのかぁっ!」
 剣を振りかざして突っ込んだハインスクを、また半歩動いただけでかわすとサレは軽く脚を引っかけ床へと転がした。金縁の白い衣装が土埃にまみれ、最初の時の光り輝くような気品がもう今となっては見る影もない。そろそろ降参してくれないかな、と言いたげな顔のサレの頭上で、ふと、ふわりと白い裾がたなびいた。
「あ?え、えええっ?」
 この場に立って初めての仰天顔で、サレがその下へと走り寄る。まるで白い大きな鳥のように長衣の裾をはためかせ、添王子は飛び降りた観覧席の縁からサレのしっかりした両腕に受け止められた。
「ななな、何をするんですか、王子!間に合ったから良かったものの、落ちたら大怪我……」
「大丈夫、サレなら間に合うって分かってたし、そうでなくても僕はこれくらい平気だって」
 あたふたしているサレとは対照的に、つんとした伏し目でその懐から降り、倒れ伏しているハインスクへと歩み寄る。打ちひしがれた若き貴族の子息に、細い腕がすいと差し伸べられた。
「……添王子」
 縋ろうと上げた手に、ぐい、と硬い獣牙の柄が押し込まれる。ハインスクがそれをつかんだのを見届けて、王子は自らの左手から生えたその剣を腕を引く事ですらりと抜き放った。
「こ、これは……」
「これが、僕から貴方への最後の力添えです。我が親、レベン・フェッテ添王がこの国より受け継いだ金獅子の四聖剣が一振り、〝獅子の爪〟。群島での事件の後、また国を出る僕を案じ添王がこの身に授けた、貴き王族の命を護る金獅子の爪、です」
「おぉ……」
 驚嘆の面持ちで、ハインスクが武骨な柄の握り心地を確かめ刃をかざす。一目見ただけで分かる、数え切れない戦さ場で、数えられぬ程の人の命を噛み裂き血にまみれ、なお気高く揺るぎない獅子の気が、その刀身から立ち昇っていた。
「この剣は、この世に生み出された以後、いまだ一度も負けた事がありません。気位があまりに高いゆえ、持つ者が負けると察すればその命を引き裂き喰らってしまうのです。それをふまえた上で、これを使うか否か、貴方自身でお決め下さい」
「えっ?」
 ハインスクの汚れた顔が、ぽかんとなって王子を見た。
「大丈夫です、けして負けぬという強い心、ただそれさえあれば、この剣は貴方に絶対の勝利をもたらします、さあ」
 王子に笑顔を向けられ、剣を手に立ち上がる。だがその腕は、離れた場からもはっきり見て取れる程震えていた。じっと傍らで一部始終を見守っているサレが、無言で己の剣を構え直す。
 痛いほどの沈黙の時が、三人の間を過ぎて行った。
「……もう、許してくれ」
 その重すぎる静寂を終わらせたのは、ハインスクのか細い声だった。
「分かったよ、もういい、降参だ。僕には無理だ、そこまでする度量はない……」
「では、この僕、ユークレン十五世王添王子との婚約発表を、引き下げて頂けると?」
「ああ、僕の手には負えない、君は」
 その言葉を聞き届け、力無くうなだれたハインスクの手からそっと剣を取ると、添王子は優しくその肩を抱きしめた。
「ごめんなさい、ハイン兄さん。小さい頃、あの薔薇の囲いの下で将来を誓い合ったのは、幼い頃のまだ何も知らない僕達だったんだ。でも覚えておいて、僕の血の半分は貴方と同じこの国のもの。僕達がこれからも血縁である事は永遠に変わらないから」
 だから貴方へのはなむけに、これから見せてあげる。北の覇者、獅子の心持つ英雄と呼ばれしアシウント王族。僕がレベン・フェッテ様から見せられた、その真の姿、在り方を。
 獅子の剣を手にした添王子が、すいとその切っ先を己の長衣の裾に突き立てる。そのまま、添王子は繊細な布を一気に腿のあたりまで引き裂いた。
「さあ、陽虹様、これで全てが治まりました。僕が貴方を選んでも、この国はもう一切、何事においても口を挟めはしない。そしてこれが僕、国も地位も関係ない僕自身の最後の願いです、どうかその力強き剣で僕に貴方の真の力を、僕が産む子にふさわしい強さを持ちうる人間なのだと示して下さい!」
 負ければ、持ち主を喰い殺す剣、それが闘いの始まりを感じ取り、闘気を燃えあがらせる。ゆらめく炎を割り現れた霊獣の獅子を見て、サレの背後にずっと控えていた豹のタタルタンがうっそりと身を起こした。
「分かりました、添王子殿下。殿下の御眼鏡にかないますようこの陽虹、全力を持って臨ませて頂きましょう」
 ざっ、と、今まで片鱗も覗かせなかった、張りつめた気がサレの身体を押し包んだ。背後から見ている唯人は、添王子が剣を使っているのを見た事が無い、持っているのは槍状杖だが、それを槍として使っているのさえ見た事が無かった。獅子の剣は、鋭月と同様持ち主が自覚していない潜在的な力を引き出してくれる武器なのか。
 華奢で可憐で口が達者、いつも一歩後ろにいて、戦う皆の補佐をしてくれていた添王子……。
 がっ、と獅子が凄まじい吠え声を響かせる。それを合図に、添王子は長い刀身を振りかざすとサレに向かい襲いかかった。
「……!」
 それを正面から受け止めたサレが、ぐん、と腕に力を込め耐える。信じられないことに、王子の細腕を弾き返せない。しばらく鍔で押し合った後、両者は跳んで互いに距離をとった。
「ちょっと待ってくれ、負けたら死んでしまうんだろ?そんなの持ってこられたら、サレが勝てるわけないじゃないか!」
「でも本気だよ、隊長、さっきとは違って完全に本気の眼だ。あの王子がそれを望んでるから、応えてる」
「え、じゃあ、どうなるんだ……」
 唯人やトウア、それ以外の全ての人間が見守る中、二人は凄まじい剣技の応酬をぶつけ合っていた。いきなり上品な細工の靴の片方がすっ飛んできて、唯人をかすめて背後に消える。隣で猛然と絡みあい、互いを組み伏せ牙と爪を揮っている猛獣達と同様に、これまでの気品や優雅さをかなぐり捨て、その細い体のどこから力を出し続けているのかと思うほど苛烈に剣をふるう王子は、文字通り一体の金色の獣と化していた。
「……はあっ!」
 その鋭い刃を受け止めるサレも、一歩も退く様子はない。明らかに短いタタルタンの刀身を上手く使い、刃先を逸らすと遠慮なく懐へと斬りこんでゆく。ひと太刀でもくらえば、ただでは済まないだろう。
 どちらも本気、本気だからこその見とれてしまう見事な闘いであった。刃がきらめき、空を切る音、ぶつかりあう鋭い響きが計算し尽くされた楽の音のごとく響き合う。
「楽しそうだな、二人とも」
 ややあって、見守るトウアがふと、ぽつりと呟いた。
「見てよ、小隊長、笑ってる」
 言われても、唯人の眼には二人の動きは目まぐるし過ぎてよく分からない。だがさすがに疲れたのか、しばらくするとしなやかな獣のようだった王子の動きが、だんだん勢いを落としてきた。
「ここまで、か……な」
 口の中で呟いて、眼で獅子を呼び戻す。闘気の炎に戻った獅子を刀身に宿らせると、王子は剣を高々と差し上げた。
「行くよ、サレ!これが僕の力の全て、君と君の国が得る力だ!」
 ぐん、と素足が地を蹴った。正面から突っ込む剣を、仁王立ちで迎える金の刃が、逞しい両腕が受け止める。逸らしも、ねじ伏せる事もせず襲いかかる力の奔流に微塵も揺るがず耐えきると、サレはふわりと己の胸に倒れ込んできた王子をそっと抱き止めた。
 辛うじてその金の髪にかかっていたリボンが、はらりと床に落ちる。荒い息を宥めている上気したその顔は、やはり以前の快活な少年のそれではなく、目の前の相手への想いに頬を染める少女の初々しい表情だった。
「あーあ、やっぱりまだまだ敵わないなぁ、サレには」
「そうですね」
 王子の手に握られた獅子の剣が、淡い光に包まれるとそのまま手の内に吸い込まれて消える。サレの足元で、あーやれやれ、と言いたげに豹のタタルが大欠伸すると腰を下ろして毛づくろいを始めた。
「僕、疲れちゃった、もう歩けない、みんなの所に連れてって。あとお菓子が欲しいな、何か持って来てる?」
「はい、そう言われると思って、料理長が王子の為に焼いた干し葡萄の焼き菓子を持って来ておりますよ」
「え?ほんと?やったあ!」
 サレの首に襟巻みたくしがみついて戻ってきた添王子を、どう声をかけたらいいんだ、と唖然顔で唯人は出迎えた。負けた?負けたのか?王子。でも平気そうにしてるし、頭の中はお菓子の事で一杯みたいだ。向こうにいるハインスクも同様な顔なのに気付き、おそるおそる唯人は王子に訊ねてみた。
「お、王子……さ」
「うん?何、唯人」
 いつものいたずらっぽいくるくるした眼、テルアの晴天の色の眼が満面の笑みで向けられる。
「身体……大丈夫、なの?」
「なにが?僕どこも怪我はしなかったよ、足の裏だって、ほら」
 抱きかかえられたままの足がひょい、と顔に突きつけられる。あ、と我に返ったワイシャルクが慌てて靴を探しに行った。
「いや、でも……」
 もごもごと核心に踏み込めない唯人の様子に、ああ、と添王子はサレの懐から降りると背後のハインスクを振り返った。
「ご心配なく、僕は剣に喰われたりしませんから、だって負けてないし」
 え?
「ま、負けてなかった……っけ?」
「勿論!」
 ふん、と鼻息をつき、王子は思い切り胸を張ってみせた。そうだな、とサレも笑っている。
「獅子の剣は、大いなる慈悲の剣。敵に囲まれ手足をもがれ、万策尽きた王に敵から与えられる死という屈辱を受けさせぬよう、英雄の誉れ高き最期を授けてくれる剣さ。僕はまだ、この異国の皇子に対しこれからいくらでも挑むことができる。万策尽きてもいないし手足もあるからね、十年、いや七年後には勝ってやるって。それを待てない短気な剣なら、能天気に使い続けてるアシウント王族なんてもうとっくに滅びちゃってるとか思わない?」
 それに、たとえ一生サレに勝てなかったとしても、僕にとってこの剣は借りてるだけだし。テルアに戻ったらレベン様に返して後は知らないよ、とくすくす笑う。開いた口が塞がらなくなって、サレ、知ってたのか?と聞いてみたらそんなの知らん、とまばゆい笑顔で返された。
 ああもう、お貴族様の世界は異界のド平民には理解不能だよ。
「それでは、アシウント・ル・ハインスク・フレンケルシュ殿下、及びにフレンケルシュ家皆様方、短き間でしたがお世話になりました。僕、ユークレン十五世添王子はここなエリテア群島国皇子、陽虹殿下の意を受け求婚に同意する事となりましたので、これにて失礼させて頂きます。挙式の日取りが決まりましたらまた招待状を送らせて頂きますので、その時はどうぞご遠慮なく」
 大きく裂けた長衣の裾を優雅に引き、添王子はその場全ての人間に深く一礼した。ワイシャルクが差し出した靴を履き、くるりと身を返す。そこにいた全員がまだ唖然状態から抜けだしていなかったのか、声ひとつ起こらない静寂の中の退場であったが、広間を出てすぐの通路に入った時、唯人の世界の拍手に相当する鈴の音が奥から響いてきた。振り返った王子が驚いたように眼を見開き、そのまま腰を折って略式の礼をする。
「よい、添王子、見事な闘いであったな」
「申し訳ございません、ダンフェイ大叔父様、僕の我儘でこの家には多大な迷惑をかけてしまいました」
「いやいや、そなたは我が愚息が晒してしまった醜態を皆の頭から吹き飛ばしてくれた。感謝していい程だ、流石はあの盾王の子、若くとも獅子の黄金の血が巡っておる」
「御二方には、今後誠心誠意を持って詫びさせて頂きたく思います。お願いですから、けしてユークレン王族がこちらを軽んじたとは思われませぬよぅ……」
 王子の傍らで一緒に頭を下げたサレを、ふむ、と見やりかっちりと整えられた顎髭を撫でる。この雪冠城の主、ダンフェイ・フレンケルシュはレベン・フェッテ添王と同じ祖を持つ事をまざまざと表した、しかしずっと親しみやすい印象の強面の顔をふっ、と緩ませた。
「そんな事は気にせずとも良い、あの盾王の子だ、今までが少々大人しすぎると思うていたが、これでかえって安心した」
「恐れ入ります」
「親に決められる人生ではなく、己の伴侶を己自身で選びとったのだな。ならばその選んだ相手と共に血に恥じぬ良い子を産むことだ、一国の支えとなりうる強き人間をな、それが王の一族たる者の役割だ」
「はい」
 再度礼をして、去ろうとした王子にダンフェイはうちの連中も気が効かぬな、と呆れつつ、着ていた毛皮の上衣を取るとその腰に巻いてくれた。そのまま、さりげなく喉声の囁きがかけられる。
「……できれば、一刻も早くこの国を去り自国に戻るがよい」
「はい?」
「この城にそなたを連れて来たゾークベイム家の従者がしておった無駄話を、儂の部下が小耳にはさんでな。何でも、お前を娶ることでユークレン国そのものをアシウントに組み込む算段を陰でしておる者らがいるらしい。主王子の生死もまだ見極められておらぬのに、そのような話をされてはこのユークレン両王子の一連の騒動そのものが、何者かに一から仕組まれておる事のような気がしてな。儂はお前が幼馴染だった愚息を受け入れればそれで良し、後で愚息ごとユークレンにくれてやろうと思いこの縁談を進めたのだが……なあ、西国の皇子よ」
「はい」
「貴殿は、どうされるおつもりかな?もし万が一にもユークレンの世継ぎの王子が失われるような事が起き、この添王子がその座に就いたなら。ユークレン王の伴侶として自国を捨てるか、それとも、歴史ある古の大国をその手中に引き込む好機だと血をたぎらせるかな?」
 王子と同じ、青い瞳が対峙する相手の心中を探るごとく細められる。暗紅の眼は、それを逸らすことなく受け止めた。
「いえ、どちらも私の望む所ではありません。どうしてもと言われれば、添王子殿の子息を養子に帰します。ユークレンの銀の血は薄まりましょうが、それが最善であろうと思いますので」
「もしそういう事になったとすれば、僕は、この西国の雑多に溶けあった強い血は、閉鎖的だった東国王家に新たな力をもたらしてくれると思います。何より彼には北方海賊、さかのぼれば旧きアシウント王族の血も入っている事がはっきりしておりますから」
「そうか、それでそのように大柄な体格をしておったか。いや、これまでに見かけた島国の小物どもと比べて立派なものだと思っていたが、やはりそうであったのか」
 ぱんぱんと肩を値踏みするように叩かれ、サレは恐縮したように眼を伏せた。これまでの彼の人生で、この血は彼を苦しめこそすれ、称えられる事などないはずの呪いのようなものだったのだから。うむ、この身体と先程の剣技、そして頼もしき部下がそろっておれば安心して添王子を任せられよう、王にはこちらから話をつけておいてやる、とっとと去るがよい、とお墨付きを貰い、一同はダンフェイに改めて頭を下げると王子の着替えもそこそこに、牛車に飛び込み雪冠城を後にした。
「あー、このお菓子美味しい!糖蜜の甘さが浸みるなぁ。ねえ、聞いてよ、アシウントの甘い味付けってさ、ほとんどが蟻蜜なんだ。信じられる?あれって甘いと思わせて、後味に変な酸味が残るんだよ。あれで煮詰めた果物がお菓子扱いで、普段の食事は芋ばっかり。こっち来てからずっと長衣着せられてて、最初は嫌だったんだけどすぐに助かったって思ったな、何せ〝おなら〟(←小声)がさ、信じられないくらいねぇ。あれで穴のあいた足通しなんか履いてたら……わー、最悪だ、他の人達ってどうしてるんだろ、聞けるわけないって!」
「王子、話すなら食べない、食べるなら黙る、どっちかにしてくださいよ」
「分―かーってるってサレ!アーテみたいな事言わないでよ、懐かしいなぁ、それでさ……」
「はいはい……」
 牛車に落ち付いて、サレに貰った念願のお菓子を王族らしからぬ勢いで一気食いする間、王子のマシンガントークは一向に衰える気配は無さそうだった。トウアはさっさと〝王子壊れてる〟な顔で遠巻きに傍観を決め込んでいるし、シイはこういう大勢の人間に対峙する経験が初めてだったのか、城を出た直後に緊張の糸が切れて今は奥で一人静かに伏せっている。唯人もその隣で大人しく屍となっていたかったが、王子が許してくれなかった。
「唯人、あれからアーリットと会った?僕が最後に会ったのは、彼がギュンカイの廃地に行く準備してる時だったんだけど。アーリット、もの凄く機嫌悪くてさ、このくそ忙しい時にあの馬鹿、って呪文みたく繰り返してたよ。破壊主の気配さえ無ければ同行させて頂きたかったのですが、って頭下げてきたから僕の事は気にしないで、唯人を助けてあげてって見送ってあげたんだ」
「うん、会ったよ。それから随分と色々あったんだけど」
 まさかそれから延々、頭真っ白のアーリットに絡まれ押し倒され唇を奪われていたなんて、腰布が裂けても言えるはずがない。
「今は彼、主王子の探索の方に入ってディプケースの森にいるよ。アシウントの兵が変に邪魔をしなければ、すぐに手掛かりのひとつでも見つけ出しててくれるんじゃないかな」
「そうだ、兄様……こっちでは、僕に気を使ってほとんど何も教えてくれなかったんだけど。本当に、黒の破壊主にさらわれたって言うのかい?」
「確証は持てないけど、僕とアーリットは違うんじゃないかって思ってる。ギュンカイ山地であいつに会って、一応手傷を負わせたから。時期的にちょっとおかしくなるんだ」
「じゃあ、一体誰が兄様を……」
 きっちりお菓子を食べ終えて、言葉を切り俯いた王子の肩を心配いりませんよ、とサレがその逞しい腕で抱く。
「アーリットが探索に加わったからには、なんらかの進展がすぐに現れるでしょう。添王子はともかく一刻も早くテルアに戻り、王と共に国の民の不安をお静め下さい。王都の民は皆、王子を引きこんだやや強引なやり口や、一方的なあちらからの探索行為のせいで日々アシウントに不満をつのらせています。王子が戻れば、まだ少しは落ちつくでしょうから」
「うん、分かってるよ、街の復興は進んでるの?」
「まあ、それなりには。それにこれは民の間の根拠のない噂話なんですが〝破壊主は襲った場所に二度現れない〟というのがありますから。内心みんなもうこれで大丈夫だろう、ってとほっとしてるんですよ。かえってトリミスとかのほうが、妙に緊張してるくらいで」
「あ、それは僕も聞いた事あるな」
 そういう話をしているうちに、牛車は通りを進み無事バッテンビュルト邸に帰りついた。老執事と使用人一同はユークレンの王子を迎えると知って、残る気力を振り絞って貴賓客用の客室を整えたようだが、王子は皆をねぎらいつつ、あっさりサレや唯人と同じ客用の離れに収まってしまった。
「だって、一人でいたってつまんないし。どうせ明日にはもうこの街を発っちゃうんでしょう?僕、なんなら唯人と同じ寝台でいいよ」
「え?なんで僕?」
「んー、なんて言うか、一番安心感があるっていうのかな」
「じゃあ、そこはサレとだろ!」
「やだ、まだ婚前なんだし、世間体ってものもあるんだから」
 どういう意味だ、と自分を振り返った唯人にサレはふふん、と妙な笑みを浮かべてみせた。
「もしかして王子、僕の事でっかい犬みたいに思ってる?」
「いや、そこまでは言わないけど。唯人ってなんだかお兄さん、って感じの安心感があるんだよね。本物とも違う、兄さんの理想図、っていうのかな」
「だーかーら、僕が言いたいのは、苦労して恋敵から奪い取ってきた恋人は、奪った本人が責任もってしっかり面倒みるべきだ、って事で……」
「ん、まあ、そうだな、じゃあハルイに任せるか」
「違うって!」
「分かってるって、とりあえず今日の夕食とか、な?」
 王子が城からの帰り道、皆に切々と自身の芋への思いを訴えたせいで、その日の夕餉は執事がなんとか融通してきた超貴重な麦と、ハルイが地元の食材で見事に仕上げたエリテア料理が供された。その名目は世話になったバッテンビュルト家へのエリテア側の礼ということだったが、王子があまりに嬉しそうにしたので正直唯人は申し訳ない気分になってしまった。
「僕は芋料理、そんなに悪いとは思わないけど……」
 卓の端であまり相手にされていない、つぶし芋と挽肉を混ぜた揚げ料理を食べてみる。これ、玉葱とパン粉と胡椒とソースさえあれば、立派なコロッケじゃないか?ただそれらが無いせいで、あくまで芋の揚げ物なのだが。こういうのってパンにはさむと美味しいんだよ、と籠に盛られているアシウント独特のもっちりしたパンを取ってみる。が、それだって芋の粉を練って焼いた芋パンというか芋餅だ。炭水化物に含水炭素、うどん定食、という言葉を思い浮かべつつ、唯人はこれ一つで充分満腹になりそうなもちもち芋揚げバーガーをぱくついた。
 夕食後、皆が離れに引き上げたのを確認し、唯人は本宅にいるワイシャルクのもとを訊ねた。相続により雑務が増え、部屋にこもって書類をまとめている時間が多くなった彼だが、訪れたのが唯人だと分かると手を止めて笑顔で部屋に迎え入れてくれる。
 廃地の研究資料はどこに隠したのか、この屋敷に戻ってからはその話をおくびにも出さなくなった。執事に豆茶を用意させ、唯人は勧められるまま箱のような古めかしい布張りの椅子に腰かけた。
「明日、皇子殿一行はテルアに戻るべくここを発つようだな」
「はい」
「気持ちの良い人達だった、君の友人なら間違いないと思っていたが、随分と刺激のある、得難い経験をさせてもらったよ」
「そうですか」
「それで、君の今後についてだが、その事で話に来たんだろう」
「はい」
「先に聞くが、どういう考えでいるのかね?」
 鉱油の灯火に照らされた薄暗い部屋の中、ワイシャルクの淡い色の眼がじっと唯人を見る。背後で、執事が静かに茶を置くと部屋を出て行った。
「僕は、レイオート山の廃地を見に行きたい、その気持ちは今でも変わっていません。でも、ワイシャルクさんやここの人達に迷惑がかかるのなら、一旦僕もエリテアの皆とここを出た風を装って、一人で行動しようかと思っています」
「そうか……」
 ひと口茶を含み、改めて顔を上げたワイシャルクの顔にはなぜか深い苦渋の色があった。
「ダトア君、私の口からこういう事を言うのは心苦しいのだが、できれば皆と共にテルアに戻ってはもらえないものかな、頼むから」
「えっ?何故ですか?」
「理由を聞かなくては君が納得できない気持ちは分かる、分かるが……」
 眼を逸らすワイシャルクの表情に、思わず立ちあがると唯人はその側へと歩み寄った。
「そんなに、山向こうの警備とかが厳しいんですか?僕ならそれくらい……」
「ダトア君、君は前途ある若者だ。自分の国に戻りそこでできる範囲の研究を続けなさい、もうこれ以上、この国にかかわらなくていい」
「どういう意味です?」
「この国の廃地の研究は、この国の者がやると言っているんだ」
「なんで、今更そんな事を。国同士が知恵を持ち寄って、この事態に当たるべきだとおっしゃっていたじゃないですか!」
 食い下がる唯人に、やれやれ、やはり言わないと駄目か、と諦めたようにワイシャルクは溜息をついた。
「……王立研究所から、私宛に令状が来た」
「え?以前言ってた国の研究所ですか?」
 そうだ、と卓上に置かれた封書を目で示す。王立施設からの便りである事の証である、獅子の紋章の封がしてあった。
「人手が足りないから、以前落ちた私を採用してくれるそうだ。私が国を出て何をしていたのかも彼等はちゃんと知っていて、一線を越えないかぎり容認してくれていたらしい」
 一人で自由に研究していたと思わせて、実は国の手の中で踊らされていたわけだ、と暗い自嘲の笑みがその顔に浮かぶ。
「それで一応、先に研究員になっていた友人に連絡を入れてみたのだが、その友人の母君からの返事が先程届けられたんだ。辛い内容だった、家を大事と思うなら、国の要請は拒みなさい。命を大事と思うなら、もう一度ここを出てどこかに移り住むのです、迷わずこの国を捨てなさい、と……」
「どういう意味なんですか?」
「友人は、もう十年前も前に消息不明になっているそうだ。母君は、廃地研究にかかわったものはその多くが消えてしまったと怯えている。調査中、山で事故にあったなら遺品のひとつもあっていいだろうが、研究所はそれさえも無い、煙のごとく消えたと言ったらしい」
〝あの灰色に入って行った人は、誰も帰ってこなかった〟
〝のぞいたり、おしかえそうとしたなかまはみんなとけてきえてしまった……〟
 ぞっと、冷水を浴びせられたような感覚が唯人の背を駆けおりた。
「幸いな事に、私はいまだ独り身だ。家を継いだとはいえ姉上もいるし、国の為にこの身を捧げろと言われれば喜んで従おう。これまで自分でまとめた資料全てを持ってこの役をありがたく受け、粉骨砕身し努めようと思う。だが、ダトア君」
「はい」
「分かるね?君はまだあまりにも若い、君達若き研究者がやるべき事は、私達老いた先達が残す資料を足がかりに更なる真理に近づく事だ。私の研究でなんらかの成果があれば、その時は何としてでも、この命に代えてでもそれを君達世界の同胞に公表しよう。だから今は国に戻って待っていてくれたまえ、頼むから」
「ワイシャルクさん……」
 それは間違っています、と言おうとしたその瞬間、出し抜けに背後の扉がぶっ飛ぶ勢いで開け放たれた。なな何?と振り返った二人の眼に素早い影が飛びこんでくる。唯人の脇をすり抜け、びっくりして動けないワイシャルクの懐にトウアは勢いそのまま、転がるようになだれ込んだ。
「エデル様!そんな……なんでそんな事、ご自分の人生をもう諦めてるみたいに言うんですか。こんなにあたしが焦がれてるのに、分かってるくせに!」
「なんだ、誰かと思えばトウア君か、盗み聞きとは感心しかねるな。今は学者同士の話をしているんだ、騒がしい感情論を持ちこまれては……」
「人間は、元々感情で動いてる生き物なんです!歳とればごまかすのが上手くなるだけなんですから!」
 思い切り言いきられ、思わずワイシャルクのほうが気押され言葉を失った。
「エデル様がいなくなってしまったら、あたし、どうしたらいいんです。これからじっくり策を練って、どうやってものにしてやろうかって考えてる矢先だったってのに!」
 うわあ、言ったよ、すごい度胸。
「ち、ちょっと待ってくれ、君、本気でそのような事を考えていたのか?」
「本気も本気、大マジですぅ!」
 これは本気なのか演技なのか、懐から潤んだ赤紫の瞳で見上げられ、ワイシャルクは冗談じゃない、とその肩をつかみ何とか身を引き離そうとした。
「君は、勘違いしているんだ。たまたま出会った私が落ちぶれているとはいえ貴族で、無駄に広い屋敷と土地を持っているんで王様かなにかのように思えたんだろう。違うよ、私はこの家督という重い荷車になす術もなくつながれた、愚鈍な老いた耕作馬だ。君のような若くて華やかな娘さんには、同じような未来ある若者がふさわしい。なんなら、そういう面倒を見るのが好きな知り合いを紹介してあげるから」
「若いだけ、ただ若いだけのつまらない奴なんてもう充分、腐るほど見てきました。エデル様以上の方なんて、あたしの人生で今後また出会えるなんて奇跡、まずありません、絶対に!」
「そ、そう言われても……」
「この家の事情は伺いました、あたし実は貴血です。あたしならこの家に貴血の子をいくらでも授けて差し上げられます、この家にはそれが必要なんでしょう?」
 まさになりふり構わないという言葉通りに、トウアは乱暴に胸の詰め物を引っ張り出すと投げ捨てた。
「エデル様、どうしてあたしを見てくれないんですか!あたしの何がお気に召さないっていうんです?言ってくださるなら、なんだって直しますからどうかはっきり言って下さい!」
 叫びと共に再度がっちりと腕を巻きつけられ、やれやれ、とワイシャルクは諦め顔で抵抗をやめた。
「君は、歳は幾つかね」
「正確には分からないけど、多分二十歳半ばくらい、ぴっちぴちの盛りです!」
「そうか、亡くなった私の甥も、生きていればそのくらいの歳だったろう。まさか自分の子供ほどの年齢の相手に、とてもそういう気分には……」
「そんなことないです、男は特に!知り合いの両替商のオヤジなんて、十五歳年下の嫁さん貰って鼻の下でろんでろんに伸ばしきってて!」
「そういう話はいいから、はっきり言おう、トウア君。君がこの家に入っても、君が思っているようないい事などひとつもありはしないんだよ。毎日泥にまみれ、城勤めで気をすり減らしそれでも貴族の面目は保たなくてはならん。出たくもない夜会に再三招かれて、延々荒探しのやり玉にされ笑いものにされる。君のような容姿の違う異国の人間は、彼等にとって格好の退屈しのぎの標的だ。私は、自分以外の誰をも、そういう境遇に置きたくはないんだよ。ましてや若く快活で魅力的な、これからいくらでもいい相手に巡り合えるだろう君をだな……」
「そんなのが、エデル様の思う〝嫌な事〟なんですか」
 ふいに、トウアの声から熱っぽさが退いた。
「その程度の事を聞かされて、あたしがひるむとでも思ってたんですか。可愛い方、そんな事で」
 くくっ、と喉の奥で含み笑いの音を響かせる。急に何十歳も老けこんだような面持ちで、トウアはワイシャルクがやがて溶け消えてしまう雪の彫像であるかのように、まわした腕に力を込め、細い身体を押し付けた。
「じゃあ、あたしの嫌な話をしてあげましょう。エデル様には想像もできないくらいの、あたしのうんと深く暗い昔話」
「……え?」
「あたしが覚えている一番古い記憶、それは真っ暗な深い穴の中、時々ぽっかり天井が開いてそこから腐った残飯の塊が降ってくる。周りには同じくらいの子供が沢山いて、みんなでそれを奪い合っていた。誰も自分が生きる事だけ考えていて、弱い者はすぐに食いはぐれて背後で朽ちて消えてゆく。自分以外の生きてる奴はみんな敵、早くいなくなれって思ってた。そうやって、生き延びることができた者達だけ引き上げられて、相応の資格……人を傷つける技を教えられ、また生き続ける事が許された。でも、やっぱり満足に食べられる日はそれからも来なかった」
 広い胸に顔を押し付けたまま、くぐもった声の呟きは続く。一度吹き出した感情の吐露は、もう自分でも抑えきれないようだった。
「来る日も来る日も陽の射さない、暗い夜の世界で沢山の人を傷つけて。それで与えられる粗末な食事は生きていく為の最低限、自分の取り分がはっきりしただけの事。それさえも、奪う奪われるは日常茶飯事の世界だったし。仕事中に街で見る、窓の中の人達、机に並んだ御馳走を笑顔で食べてるその光景は、あたしの中では変な夢、触れれば消える別世界の情景だった」
「それは、辛かっただろうな」
 ワイシャルクにとっては、トウアの言葉は初めて聞く、遠い国の悲劇じみて響いたようだった。
「そんな生活を十何年も続けたとある日、突然にそこを抜けだせる日がやってきて、あたしは仲間に助けられ施設に逃げ込みました。眼が陽の光に慣れてないからと最初は地下の個室に入れられて、同じ出自の連中と一緒にやったのは、まず普通の暮らしをする訓練。自分のぶんの食事を詰め込んで、すぐに誰かのを奪い取ろうとするあたしを、シイやミレル母さん、そして施設の年下の子までが辛抱強くまわりで諭してくれました。もっと欲しいならおかわりは充分にある、明日もちゃんと食事はできる。だから落ち付いて、あるだけを食べ尽くさなくていい、他人のぶんを取っちゃいけない、って。頭では分かってるのに、身体がどうしようもなくて食べて食べて、気持ち悪くなってそれでもまだ満たされなくて、気がついたら女性化し始めてるし。それで挙句の果てにある夜、抵抗のできないシイを押さえつけて事に及ぼうとしたら、あいつ、あの眼であたしを見上げて一言ぽつり、と言ったんです。おまえのその飢えは、全部腹の子に引き継がれるだろう。今のお前そのものの子を、お前は親として慈しむことができるのか、って」
「……そんなことを」
「そう言われて、一気に眼が覚めました。怖くなった、いてもたってもいられなくなるくらい。子供ってものを意識した瞬間、自分を客観視できたんです。そうだ、あたしは、あたしの人生は最低で最悪で獣以下だったけど、あたしの子には断じてこんな思いはさせられない。普通の、ごく当たり前の人の生活、朝起きて、陽を浴びながら働いて、夜にはお腹一杯ご飯を食べてあったかい布団で眠ったらまた朝が来る。あたしの中の嫌な記憶のほうが、ただの悪い夢になるような日々をあたしはこれから送るんだ、いつか抱く子供の為に、って思ったんです」
「その普通の日々が、私との暮らしにあると思ったのかね」
「作物をつくる農民になるのは、最初から決めてました。テルアで傭兵をやってお金を溜めて、土地を買うのにどうせなら両性を大事にしてくれるアシウントがいいなって思ったんです。たとえこの国の人がどう思おうと、エデル様はあたしにとっての理想です。代々続いた広い立派なお屋敷に住んで、みんなの為に土を耕し野菜を作る。素晴らしいじゃないですか、エデル様を相手にしないこの国の女どもは、一体それ以上の何を望んでいるんですか?あたしには全然分かりません、こんな立派なエデル様の伴侶になれるなら、誰に何言われようがどう見られようが、どうって事ありません。あたしが辛いだろうなんて、エデル様なんかに気を使ってもらう程あたしは弱くないんです、エデル様よりずっとずうっと強いんですから、分かりましたか!」
「ああ、よく分かったよ、君は強いな、すごいものだ」
 ついに懐でわんわん大泣きを始めてしまったトウアを最早どうすることもできず、ワイシャルクは誠にすまない、話はまた明日にしよう、と傍らにいた唯人に眼で詫びた。今晩がこの人の人生の分岐路だな、と心の中でエールを送りそっと部屋を後にする。離れに戻る途中の中庭に来ると、何をするでもなくサレが立っているのが目に留まった。
「あ、サレ」
「おう、唯人」
「何してるの?」
「いや、お前が意中の相手の部屋に忍んで行くのを見て焦った誰かさんがこっそり後を追って行ったんで、修羅場になりそうならその前に止めておかないと、って思ってな。あいつはまだ、これからテルアに戻るまで王子の護衛で居てもらわなきゃならん。傭兵の契約は今季で終わるらしいから、その後は好きにしてくれていいんだが」
「大丈夫、トウア、僕とワイシャルクさんの色気のない会話を聞いてたから、僕の事なんてこれっぽっちも眼中に無かったよ。ただ一心にワイシャルクさんだけ見てた、あんなに誰かに必死になれるってすごいな」
「ワイシャルクさん、どうだった?まんざらでもなさそうだったか?」
「困ってた、でも、押しの強い相手に押し返す性格じゃないから」
「そうか、トウアって、へらへらしてて一見軽そうに見えるけど、根は一途でこうと決めたら絶対譲らないからな。俺もシイも、できるならあいつにはうんと平凡で、ありふれた幸せに満ちた暮らしを送って欲しいって願ってたんだ」
「僕は、トウアがワイシャルクさんの資産だけ見て好きになったのなら嫌だな、って思ってたんだけど。そうじゃないみたいだったから安心した」
「では、腹ぺこの島犬がでかい山の羊をしとめるのを、このまま見守る事といたしますか」
「うん、それでいいと思うよ」
 二人して肩を並べて歩くと、蒸気管を張り巡らされていないバッテンビュルト家の農地から吹いてくる冷えた夜風が頬を過ぎる。空は、雪こそ降っていないが、厚く垂れこめた雲に街の燈火が映り、ぼんやりと薄明るかった。 
「サレは明日、みんなとここを発つんだよね」
「ああ、急げってフレンケルシュ家の当主様にも言われたしな」
 ぐずぐずすればする程、上の賢い連中に話が届いてあれこれ暴きたてられないとも限らないから、と視線を上げる。もともとがごり押し承知の計画だけに、つつかれれば幾らでも埃の出る身だ。まあ、帰路は延々下り道だから行きよりは楽だろ、と肩をすくめるサレの顔を、ふと唯人は眺め上げた。
「サレ」
「ん?何だ」
「すまないけど、僕はここに残りたい、いいかな」
「アーリットから、何か指示があったのか?」
「ううん、これは僕自身の気がかりっていうか、確かめておきたいことなんだけど」
「そうか、俺の方にもお前を絶対連れ帰れって指示は来ていないが、さすがに指名手配の本拠地に置いて帰るのはどうかと思うし。王子は完全に一緒に帰るつもりだぞ、納得する説明をしてやらないことにはな」
「それこそ、アーリットの指示だって言っておけばいいよ。大丈夫、用さえ済めば僕もすぐに後を追いかけるから。もし追いついてもディプケースまではあえて別行動にして、トリミスで落ちあおう。アーリットはディプケースにいるから、また連絡くれるかも知れない」
「お前の気がかりに、俺が何かやれる事はあるか?」
「いいよ、サレは王子をしっかり護って無事にテルアに連れて帰って欲しい、それだけだ」
「分かった、任せとけ、兄弟」
 ごく自然に手が頭に被さって、髪をもさもさ掻き回される。アーリットとはまた違う、包みこまれるような安心感。
「あ、それと一応言っておくけど、今回の女装、アーリットにはぜぇったい秘密、内緒だから!みんなにもそう伝えておいて、もしばれたら絶対突きとめた上で竜にかじらせてやるから、そのつもりで!」
「おいおい、それって王子にもか?ちょっと無理って気がするんだが。じゃあ大事な伴侶を竜に食われないよう、ここで災厄の芽は摘んでおくとするか」
 言葉と共に回してきた腕でぐい、と首を締めあげられ、ちょっと待て、待てってば!とじたばたする。気がつくともう離れの建物に着いており、階上の窓から添王子が不思議そうにこちらを見下ろしていた。
「何やってんの?二人して」
「いや、王子に仇なす悪い輩をこらしめているんですよ!」
「ふうん、そう。じゃ、頑張ってね」
 あっさり言われ、つまらなそうに頬づえした眼が細められる。
 おいおいおいーっ!
 ……添王子、もしかしてついに本性見せ始めた?



 結局、その夜トウアが戻ることはなく、翌日、朝食の席に姿を現さなかったワイシャルクは皆が発つ準備を終えた頃、究極の二日酔いみたいな面持ちでよろよろしながら離れへとやってきた。以前あれほど酒に耐性のあるところを見せたばかりなのに、起きていたらまずいんじゃないかと思わせるほど傍目に見ても顔色がすごい。泣きじゃくるトウアに一晩じゅう付き合っていたせいなのか、それ以上の事があったのか。当のトウアのほうはいつの間にか皆の中にいて、泣き腫らした眼を化粧でうまくごまかし知らん顔で作業をこなしている。
 そんな様子ながら当主としてサレと互いに礼を交わし、今後の末長い付き合いを約束すると、その傍らからシイが小さな包みをうやうやしく差し出してきた。
「こたびのバッテンビュルト家当主様の我らへの厚情への礼として、どうかこれをお受け取り下さい。確かこの地では、香辛料が採れないという話をお伺いしましたが」
「ああ、あれはそもそもが暑い国の産物だからな。このような寒冷地ではまず無理だ、全て他国から高値で仕入れているよ」
「この種は、群島国産の赤焼けの種。赤焼けは我が地ではごくありふれた辛味の香辛料ですが、やはり北の土地では育ちません。ですがこれは、山の高地に自生している亜種でかなり寒さに強い品種です、ここの農地の温室ならばきっと立派に育つでしょう」
「それは本当かね、赤焼けの粉といえば肉の味を上げ、保存にも重用される贅沢品だ。それを我が国で育てられるとなれば……」
「それで、この種はただ植えるだけでは伸びる一方で、なかなか実を付けません。少々の手順があるのですが、それは他に漏れぬよう口伝で伝えられており書いて残す事は許されていないのです。よろしければ今ここでお伝えしましょうか?一応トウアも知っておりますが」
「あ、うん、そうか、それならいいよ、うろ覚えで大事な種を無駄にしてはいけないし、急ぐ君達の手を煩わせても悪いからな」
 シイのさりげない鎌かけに、見事なまでにワイシャルクはひっかかって見せた。きちんと磨きあげられ艶々の牛車にサレやハルイ、添王子らが乗り込み一行が動き出す。街の麓まで道案内してくれるバッテンビュルト家の老使用人を先頭に、去っていくその後ろ姿の中、ふと振り返ったトウアが昨日までの小娘のごとき秋波ではなく、妙に透明感のある笑顔を見せた。
「エデル様、さようなら、どうかお身体に気をつけて、お仕事頑張って下さい!」
「ああ、君もな」
 よく見ると、ワイシャルクが唯人と巡り合うきっかけとなった、あのごつい鼻眼鏡。小さなクリップで襟からぶら下げる仕様になっている、あれの鎖がトウアの胸元で揺れている。本人用にあつらえたと言っていたし、とても大事にしていた物だから安易に譲るような事はしないはずだ。預かった者が、ちゃんと返しに戻ってくる約束代わりなのかも知れない。
 楽の音を響かせる集団が緩やかな曲線を描く道路を進み、建物の陰に見えなくなる。それまでなんとか我慢していたのか、はあ、と特大の溜息をつくとワイシャルクは影のように付き従う執事を背に、ふらりと本宅へと向きを変えた。
「ダトア君、すまないが、今日は一日休ませてもらっていいだろうか?明日にはきっと気分も治る……」
「はい、どうか無理なさらないで、ゆっくり休んで下さい」
「何があったか聞かないのかね」
「僕は、本人が言わない個人の事情には興味はありませんから」
 言葉と共に精一杯の慈しみを込めた目で見上げると、見下ろす灰緑の目が感謝する、と細められた。
「色々あって君も疲れているだろう、今日はのんびりしているといい」
「そうですね、僕は離れの片付けとか手伝うことにします」
「何を言ってるんだ、君は客人なんだから、いつまでもそんな使用人の仕事をさせるわけにはいかないだろう。ああそうだ、良かったら、午後にでも私の資料を王立研究所に届けてきてはくれないか?君が廃地の研究者だという事は伏せて、私の小間使いだとでも言えばいい。運が良ければ、中に通してくれるかも知れないぞ」
「え?いいんですか?」
「まあ、そう期待はしないでくれ、普通は資料だけ受けとって帰されるさ。異国人禁制の王立研究所がどのようなものか、見ておくだけでも話の種にはなるだろう、くらいの気分でな。オクスネル、昼食の後にダトア君をうちの書庫に連れて行ってやってくれ」
「はい、ご主人様」
 ワイシャルクを自室まで送り届けた後、すっかり気に入られた屋敷の老使用人達に教えられ、唯人は絵画が飾られてある部屋をいくつかはしごして昼までゆっくり絵を見て過ごした。アシウントの絵画は、写実的で超精密な風景及び人物画と派手な色遣いの静物、抽象画の差が極端だ。堅実な性質が緻密な絵に、雪だらけの暗い景色への反発が極彩色の絵にそれぞれよく現れている。それらをじっくり堪能した後、ユークレン同様量の多い昼食を済ませ、唯人は約束通り執事に本宅の一室にある書庫へと案内された。
「資料は棚にございますが、私共はそれに触れる事を許されておりませんので。そちらでお願いします」
 それと、これを持参されるよう賜っております、とバッテンビュルト家の紋章である小花模様(芋の花だそうだ)の封がされた手紙を渡される。多分、今日行けない事への詫びとかが書かれてあるのだろう。快く受け取ると一礼して執事が去り、唯人は薄暗い部屋に一人残された。
「ワイシャルクさんって、僕が指名手配されてる身だって知らないからな。でも考えてみたら、これは山向こうを知る為の千載一遇の機会かも。なんとか研究所に忍び込んで、そこの人にこっそり同行できたら」
『うん、その考えはいいかもね』
 まずは資料を見つけよう、と室内を見渡してみた。高々とそびえる壁一面の本棚にずらりと本が並べられている光景はいかにも貴族、といった感だ。しかしミラに本の題を読んでもらったら、そのほとんどがひと昔前の農業と歴史の専門書であった。
「あ、ワイシャルクさんの資料、こんな所に隠してた」
 眼に留まった、隠すというより棚の隙間に無理やり押し込んである資料の山に思わず笑みが漏れる。確か、ライレムの借家から持ち出した分はもっと量があった気がしたが、あれから自分で整理したのだろうか。
 窓際の卓の上にあの大きな鞄があったので、それに資料を詰めこむとよいしょ、と唯人はかなりの重さのそれを背に負った。
『唯人、頑張って、屋敷の外まで出れば僕が持ってあげるから』
『うん、ミラ、これくらいは大丈夫なんだけど、上り坂がさ……』
『分かってるって』
 薄暗い書庫の扉をちゃんと閉め、もう覚えた屋敷の通路を抜け外に出る。今日は雪がちらついているので、毛皮の帽子と顔当てですっぽり顔を覆っても不自然じゃない。助かったなと唯人は周囲を見渡して、葉が針みたいな生垣の木の陰に身を寄せるとミラに出て来てもらおうとした。
 その肩に、ふいに背後から伸びて来た手がぽんと乗せられた。
「え?ええ!」
 びっくりして大袈裟に飛びのき身構えた唯人の様子に、背後の相手の方がぽかんとなった。しばし無言で見つめ合い、そんなに驚かせたか、すまん、とあのぶっきらぼうな声で詫びる。久しぶりに会った感の縞の毛が、なぜかすごく違和感を持って唯人の目に映った。
「いや、西国の連中が今しがた街中を通って行ったから、軽く挨拶したついでに寄ったんだ。ダトア、お前は残っていたのか」
 変わらない暗灰色の目が、不思議そうに細められる。サレと一緒の道中になってからも、空気のごとく付いて来ていたテシキュル人のグリヴァは、ここザイラルセンに入った後は古い知り合いがいるから、とバッテンビュルト家には世話にならず一人別行動をとっていた。彼には彼の、良い馬を仕入れるという目的があるから別にそれはいいのだが、唯人にとっては彼はこの地で唯一の〝得体が知れない半端に知り合いの人物〟だ。いつ唯人がお尋ね者だと気がついて、まっとうなアシウント寄りテシキュル人のやるべき行動に出ないとも限らない。
 とにかく、ミラが出てくるその場を見られなくて良かった、と内心ほっと胸をなで下ろした唯人の表情に気付くでもなく、グリヴァは相変わらずの煙管をふかし煙を吐いた。
「あ、ああ、随分久しぶりなんでちょっと驚いただけです。すいません、グリヴァさん、僕、ちょっと用事があるんで残ったんです。馬は、いいのが見つかりましたか?」
「うむ、ちょうど若馬の競り市の最終期に間に合ってな、最高とはいかないが良いのの目星は大体付けた」
「今日は、ひまなんですか」
「おう、だからエデルの顔を見に来たんだが。あいつ、当主になったんだと?」
「はい、そうですけど……あ」
「ん?」
「ワイシャルクさん、今日は行っても会えないかも。今朝からちょっと体調悪くしてるみたいで」
「そうなのか、で、お前は何をしてるんだ」
「僕は、彼に頼まれてこれを城の研究所に届けに行くんです」
 言ってから、しまった、といつもの後悔が唯人の胸中を通り過ぎた。このグリヴァという男は、結構な歳で渋い落ち付いた風貌にもかかわらず、好奇心が強く珍しいもの、目新しい事に目がない。ほわんと大きな煙を吐き、あくまで表面は無表情の目がひた、と唯人の腰の大鞄に据えられた。
「それ、重そうだな」
「そうでもないです」
「お前の腕では持てあますだろう、なんなら持ってやろうか?」
「いいですって、僕の仕事がなくなります」
「そう言わずに遠慮するな、ラバイアのごうつく張りじゃないんだ、後で金よこせとか言わんから。エデルに会えないならやる事もない、ならお前に付き合ってやろう」
 いや、結構って言うかいらないし、正直困る、付いてこなくていい!という叫び一切を口から出す事ができず、成す術もなく唯人は荷を取られ、機関車のごとく煙を曳いたグリヴァに客車状態で連れられ登り坂を進んで行った。この街の造りでは、とにかく上に向かう道を選んでいれば城に着く。石段やただの坂、さまざまに状態を変える道を、最後にはグリヴァに負けないくらい白い息を吐きながら登りきると、ついに巨大かつ頑丈な、アシウント王城、尖天宮の正門に到着した。
「おーい門兵殿、王立研究所ってのはこの中か?」
 いかにも田舎者丸出しの様子でずかずかと近づいたグリヴァを、かなりな巨体の門兵は胡散臭そうにじろりと見た。バッテンビュルト家の使いだが、とあの封書を見せると一応門の中の小部屋に連れ込まれ、簡単に身体検査される。唯人は肩の偽装をずっとそのままにしてあったので、襟を引いてちょっと肌を見せると門兵は何も言わず二人を研究所まで案内してくれた。
「帰りもまっすぐ同じ道を戻ってこい、くれぐれも自分達だけでの行動は慎むようにな。ほんのわずかでも、ここと門をつなぐ道から外れた場所にいたらその場で捕えて投獄する、よく肝に命じておけよ」
「はい」
「お手数かけました」
 城の右手奥、岩の崖と黒い針葉樹が迫るいかにも切り開かれた土地、といった場に王立研究所は建てられてあった。街中の今風の建築物とは違い、バッテンビュルト邸に近い前時代の様相を呈している。雪が吹きつけて凍りかけている扉を開くと、重い色調の内装もやはりバッテンビュルトのそれに似通っていた。受付くらいいてもいいはずだが、がらんとした玄関には人の姿は無い。誰かいないかと見渡すうちに、二人の足音を聞きつけたのか奥の扉から慌てた様子で一人の男がやってきた。
「なんだ?君達は、何の用なんだ、ここは職員以外立ち入り禁止だが」
「あ、すいません、僕達はバッテンビュルト家の使いで来たんです、資料とお手紙を……」
「分かった、そこに置いてさっさと帰ってくれ、こっちには来ないように!」
 予想していない訳ではなかったが、思った以上につっけんどんな対応だった。何なんだ、とグリヴァと顔を見合わせ仕方なく鞄をそばの卓に乗せる。まぁこんなもんだろ、とみやげ代りに中の景色を頭に焼きつけようとしているグリヴァの隣で、唯人はなんとかここで彼を撒けないか、と周囲を見渡した。
 その眼が、ふと、ある一角に留められた。
「グリヴァさん、ちょっとだけ、お手洗いに行ってきていいですか?すぐ戻って来ますから」
「おお、見られるもんは全部見ておかないとな。よし、行くか」
 来るなってのに、な唯人の心が伝わるはずもなく、男二人でいそいそと手洗いに向かう。さすがにここまでは来ないだろう、と個室に入ると唯人はすかさず自分そっくりのミラに出てもらい、彼にグリヴァと帰ってもらう事にした。
『頼むよ、ミラ』
『任せて、唯人も僕が戻るまであんまり大っぴらに動かないようにね』
『ああ』
 身代わりの自分がグリヴァと出て行ったのを見届けて、慎重に、物音を確かめながら外に出る。標に先行してもらって人目を避け、手近な空き部屋にもぐり込むと唯人はそこで研究員の制服らしい上着と帽子を見つけ、かなり大きいそれを身に付けた。
「さて、これからどうやって廃地を調査する人達を探そうか」
(なかまたちのけはいがする)
 ふいに、薄荷が唯人の中で身じろぎした。
(なかまたちがちかくにいる、ひとにつかわれないとこんなところにいない、みんな、ひとになにかやらされている)
『仲間って、凍練獣かい?』
(はっかとおなじばかりじゃない、きたのつめたいせかいにくらすなかまたち。ゆき、こおり、かぜ、みず、みんなみんな)
 とにかく、先に進むのは姿を隠してくれるミラが戻ってからにしよう、としばらく待っているとやがて小さな白い蟲がすいと部屋に入ってきた。真っすぐ唯人のいる方に飛んできて、そっと耳にとまる。お帰り、と目線を向けると蟲は蟲らしからぬ大きな溜息を吹いた。
「上手くまけた?」
「うーん、一応はね、けど面倒くさい人だったなぁ。こんな明るいうちから飲みに誘ってくるし、ワイシャルクさんにお薬買うから薬屋に寄る、ってやんわり断ったらまた付いてこようとするし。うっとうしいから、途中で断りなしに消えてやった、次会ったら怒ってるかもしれないけどいいよね?唯人」
「うん、僕も正直もう会うつもりはないから」
 本当に、悪い人じゃないんだけど、と一応心で詫びて腰を上げる。ミラに姿を消してもらい、唯人は思いきって人の気配のする方へと近づいて行った。玄関のひと気の無さとは対照的に、奥へ行くほど何人もの人間がせわしなく行きかう足音が響いている。交わされる言葉は皆、ひどく切羽つまった様子であった。とりあえず人のいるらしい部屋の外に張りついて、聞き耳をたててみる。
「……まずいな、どうしても霊獣師の数が不足している」
「しかし、手を抜けば一気に越えてくるぞ」
「ゾークベイムが使えなくなったのが痛いな、なんで、この大事な時に」
「全くだ、あれだけ大きな顔をしていたのがあのザマさ。今が今じゃなきゃ笑い飛ばしてやるのによ」
「お隣のユークレンにはあいつ並みの霊獣使いがわんさといるってのに、指一本も貸してもらえないのが歯がゆいな。国もさっさと諦めて、この事態を公表してしまえばいいのに」
「馬鹿な事言うな、そんな事をしたら一気にこの王都が恐慌に包まれる。もう、我々には後が無いんだ」
「聞いたか、所長補佐の奴、ここ数日見えないと思ったら、自分と身内だけでこっそり逃げ出そうとしてたらしい。まあ、あっさり見つかって連れ戻されたから後は最前線送りになって消えちまうだろうな、馬鹿な奴」
「馬鹿な奴、か……明日の俺達かも知れんがな」
 そこで、言葉は途切れてしまった。やっぱり、何か尋常でない事態、大量の霊獣使いと霊獣が必要とされる事態がこの王都の向こうで起こっている。更に耳をすますと、通路の奥のほうから覚えのある声が響いてきた。
「うるさいな、行くって言ってるだろう!」
「し、しかし、貴方はもう……」
「馬鹿にするな、霊獣の一匹や二匹、今日の内に捕まえてきてやるさ。僕を誰だと思ってるんだ、霊獣が無くなったらそこまでの三下霊獣師と一緒にするんじゃない、僕は、ゾークベイム家のレビスだぞ!」
 うろたえる職員らしき人物を従えて、通路をやってきたのはあの、昨日戦った霊獣師のレビス・オノラバル・ゾークベイムだった。身を包んで外気から守ってくれる霊獣を失ったせいか、今日は穴のあいた寒々しい衣装ではなく鎧みたいなぶ厚い生地の外套を着こんでいる。何となくの虫の知らせで、唯人は身を隠したまますれ違った彼の後を追いかけた。
「寒地の霊獣を捕えに行かれるのなら、充分な準備をされませんと。最近は、近場の霊獣は捕え尽くして凍海の東の方まで行かねば使えそうなのはおりませんから」
「分かってる!くそ、なんでこんな事に……いくら格上であるフレンケルシュ家の命だからって、あいつの誘いにはもう二度と応えないからな、僕は!」
「はあ……」
「リベルを呼べ、あいつの白点獣を足に借りる」
「あのう、リベル様は、貴方の欠けた領域を補う為、昨日から不眠不休で働かれて……」
「僕が戻ればその分の埋め合わせはする、いいから連れてこい、何度も言わせるな!」
「は、はいっ!」
 苛々が目に見えているレビスの怒声に追われ、職員はあたふたと通路を去った。そのまま突き当たりの扉から外に出ようとしかけ、寒かったのか、慌てて引き返すとレビスは内側でぶつぶつ独り言の文句を呟き始めた。分かりきっていたがそのほとんどがハインスク及び唯人やサレ、そしてここの職員への恨みつらみ、不平の垂れ流しだったので聞く義理は無いな、と唯人は傍らで中の薄荷に呼びかけた。
『薄荷、いいかい?』
(なんだ)
『ちょっと頼み事なんだけど、僕達が初めて会った時』
(あついばしょで?)
『うん、あの時くらいの小さな姿に、今なれるかい?』
(なれる)
『なら、その姿であいつを外におびき出してくれるかな。つかまえてやる、って思わせて』
(つかまらないよう、にげまわればいいのか)
『ああ、できるだけひと気の無い場所に誘い出してくれ』
(わかった)
 話を終え、唯人はさっきの閉まりが浅かった、というふりでこっそり扉を開け放った。ひょう、と雪交じりの突風が吹き込み鬼の形相でレビスが扉に飛び付き閉めにかかる。何気なく外の景色を映したその色の薄い目が、宙をふわふわと飛ぶちっぽけな白い塊をとらえた。
「凍練獣の幼体?なんで、こんなところに……」
 一瞬躊躇したようだったが、唯人の思惑通り彼はすぐにその後を追いかけた。杖を出し、つかまえる気満々のオーラを放っている。薄荷がまた上手に、杖の届くぎりぎりの高さを力なく飛んで見せたので、面白いように彼は研究所の木々の奥へと誘い込まれていった。
「おい、逃げるなチビ!僕のものになれば、すぐに霊素を充分与えて立派な成体にしてやるぞ。だから降りてこい、こっちに来るんだ!」
 怒鳴り声と共に振りまわした杖の先が掠めたのか、白い塊は急にひゅんと飛ぶと雪の積もった枝に引っかかった。よし、これで手に入った、と欲丸出しの笑みを浮かべレビスがその下ににじり寄る。
 杖を持った手を伸ばし、背伸びした……その不安定な背に一気に駆け寄ると、唯人は相手を突き倒し腕をねじ上げ雪の上に押さえ込んだ。
「な、なんだ!」
「騒ぐな、大きな声を出すと……」
 襟元から飛び出したバレットが、レビスの見開かれた目のそばに張り付き鋭い内翅を開いて見せる。息を飲み、レビスは口を閉ざした。
「山向こう、廃地の調査をしている場所に案内しろ」
「……」
 ぐい、と締め上げる腕に力を込めると、ひっと息を飲む声が弱々しく漏れる。結構小心者なのか寒いのか、すぐに痩せた身体は小刻みに震え始めた。
「お、お前、昨日の奴だな?やっぱり群島の間者だったのか!」
 その問いには答えず、力を緩めない唯人に分かった、分かったからとにかく雪から起こしてくれ、このままじゃ凍え死ぬ、とレビスは弱々しく呟いた。
「薄々そうじゃないかとは思ってたさ、僕だって分かってる。ここがあまりに排他的になり過ぎて、かえって他国に怪しまれてるってこと。もうザイラルセンは限界だ、今の状態を知られるのは時間の問題だろうってな」
 諦めきっているようなその口ぶりに、一瞬考えると唯人は手を離し、彼の身体を起こしてやった。代わりに、脅しの意味でバレットを全部その襟から中に這い込ませてやる。鋼刃蟲は単体の威力はそう強いものではないが、数で襲われると命の危険も充分にある蟲だ。昨日までの自分ならこんな奴なんか、と思ったのか薄い唇を悔しそうに歪めると、レビスはくるりと向きを変え、物も言わず歩きだした。
「兄上!」
 数分も歩かないうちに、斜面の上から鹿に似た白い斑の獣に乗った人物がこちらにやってきた。雪と見まがう白い肌、それと不釣り合いな長い黒髪に薄い青の眼。一目でレビスの身内と分かる、まだ若い女性的な容姿の両性だ。ひどく疲れているような様子ながら、獣から降りると彼女はごく自然に彼に向かい雪の中、膝をついた。
「お探ししました、なぜ、このような場所に……」
「うるさいな」
 一切の感情の無いその一言で、相手は言葉を切り俯いた。
「妾腹の身分で、僕に文句を言うつもりか」
「……いえ、そのような」
「今日は霊獣狩りに出るつもりだったが、気が変わった。〝境界〟に行く、お前がちゃんと僕の代わりを務めているのか見る為にな」
「はい、し、しかし……」
 困惑の表情で何か言いかけた、その言葉は火のような癇気の怒声に封じられた。
「しかし……?しかし、どうだと言うんだ。霊獣をひとつ残らず消された役立たずは、邪魔だから屋敷で震えていろとでも言いたいのか?僕がこんな事になって、もう勝った気でいるんだな。そうだろう、リベル!」
「違います、信じて下さい兄上。ここ数日ずっと〝靄〟の勢いが強くて……かなり危険な状態なんです、私も、できるだけ早く戻らないと」
「そうだな、僕が霊獣を捕えて以前の力を取り戻すのに手を貸すよりは、放っておいてその隙に自分を売り込むほうが大事だろう。こすっからい妾腹の考えなど、その程度だ」
「そんな、私はいつだって、兄上や、本家の為……」
「お前の同情なんて、屈辱だ」
 雪よりなお蒼白な顔で唇を噛みしめる兄弟に一瞥もくれず、レビスは傍らの獣に歩み寄るとその背に飛び乗った。その後ろにリベルが乗り、雪の斜面を駆け上がる。隠れていた唯人も、大きな白い豹似の獣の姿になったミラの背に乗ってその後を追いかけた。
「風が、強くなってきたな」
「うん、向きも変わったみたい」
 木々の間を行くうちに、それまではひっきりなしに向きを変え、好き放題に吹き荒れていた雪混じりの風が下から上へ、斜面をさかのぼる流れになってきた。背を押される感じで、しっかりミラにしがみついていないと前に飛ばされそうになってしまう。そんな大河の流れにも似た中をひたすら走るうち、ふいに、白く霞んだ景色の先に多数の集団がいるのが見えてきた。
「唯人、姿は消してあげてるけど肩とかぶつかると分かっちゃうから、周囲には気をつけて動いてよ」
「うん、向こうには行かないよ、ここからでも見えそうだ」
 正直、人混みに入り霊獣を下りたレビスにもう近づく必要はなかった。ただでさえ身体にこたえる寒さを倍増するように、周囲では猛風が吹き荒れている。何十人もの霊獣師がそのただ中に立ち、一心に霊獣を使ってある行為を行っていた。
 その先にある、山の頂上をほんのわずか越した先の光景が、唯人を総毛立たせた。
「こんな……こんな事って……」
 ザイラルセンから、そして麓のはるか離れた街々から眺めた大レイオート山脈。テシキュル南部のギュンカイ山地とは比べ物にならない大きさと規模の峰々が、まるで芝居のはりぼてのごとくごっそりと海側の裾を失っていた。こちら側と同じように、急斜面ながら海に降りていただろう山裾はえぐれた崖になってばっさりと終わり、その下に広がる凍った海は灰色に霞んで全然見えない。ギュンカイはまだ、山の形を保ったまま灰色の靄に覆われていたが、ここは風が強いせいで靄は崖を吹き上がって削り、濃密に立ち込める灰色の渦となっている。
 その全てを包み、侵食してしまう靄をアシウントの霊獣師たちは風精を使い、大風をぶつけてなんとか食い止めているのであった。もし彼らがいなければ、靄はあっという間に峰を越えザイラルセンに流れ込んでくるだろう。まさにここは、廃地の靄という滅びと人間がしのぎを削る戦さ場であった。
「ワイシャルクさん、こんなの、調査なんてやってる段階じゃない……」
 まぎれもなく、この世界は終末の縁に差しかかっている。
 アーリットは、これを知らないんだろうか、それとも知っていて見ぬふりをしているのだろうか。
 もし僕が創界主だというのなら、僕はこれに対する答えを持っているというのだろうか。
 分からない、何も分かるはずがない。
 言葉もなくただ目の前の光景に圧倒されていると、やがて人溜まりの中からレビスが戻ってきた。落ち付かな気にきょろきょろしているので、さりげなく枝の雪を落として知らせてやる。すぐに気付き、そばまでやってくるとわざとらしく鼻をすすりながら、レビスは独り言を装い話しかけて来た。
「どうだ、理解したか?」
「……」
「大したものだなお前、アシウントでも指折りの霊獣師が見張っているここにすんなり入ってきて、誰にも気づかれないなんて。僕をやり込めるだけの力量はあるって事か」
「……」
「お前にほんの少しでも、僕の立場をこれ以上悪くさせる気がないなら、僕に手引きされた事は伏せておけよ」
「……分かった」
「用が済んだのなら、この機密を持ってとっとと自国に帰れ、僕の身体に張り付いてる汚らしい蟲も連れてな」
「ああ」
「で、次に来るときは使える霊獣師の百人でも率いて来てくれると助かるんだが。ああ、群島にはそういうのはいないのか、お前がユークレンの間者ならまだましだったのに、がっかりだ」
「この状況はいつからだ、対策は見つかっているのか?」
「ここまでになったのは十年程前だが、僕が生まれる前から廃化はこの国目指して進んでいた。それで今になってさえもこんな対症療法しかやってないんだから、分かるだろ」
「どうして、他国に助力を乞わない」
「だって、廃化への完璧な対処なんて、どこの国もまだみつけていないだろう?なら公表するだけ損さ。下手するとザイラルセンごと見捨てられ、国の象徴たる堅牢な砦がそのまま災厄ごと街を封じる檻になる。ザイラルセンを失えば、アシウントは数百年前の戦国時代に逆戻りだ、血と闘いと略奪の時代にな」
「だから、最後の逃げ場としてユークレンを得ようとしたのか?」
 この唯人の言葉に、一瞬虚をつかれた表情になりレビスは眼を見開いた。
「え?なんだ、それはどういう意味なんだ?」
「お前の家の下人がしていたという話だが、ユークレンの添王子をアシウントに嫁がせて、主王子になんらかの不慮の事態があれば添王子はユークレンの全権限を受け継いだアシウント王族の一員となる。アシウント側が王子のユークレンへの帰属を認めず、養子にする子息もできなければ……」
「お前の言う事は、理にかなってるな」
 この一言と表情で、唯人はゾークベイム家はどうだか知らないが、少なくともレビスはこの件に関して何も知らなかったのを理解した。
「僕の知らない事を、なぜ僕の家の下人がこっそり話している……?」
 薄い色の眼を細め、雪の上に立ち考え込む。まあじっくりやってくれ、と唯人はそろそろこの場を去る事にした。
「僕はもう行く、安全な場所に逃げられるまで蟲はつけておくから、余計な事はしないように」
「分かった、今回は見逃してやる、次は別の奴を当たれよ」
 ふいと身を返し、雪の上を数歩進んだ……その唯人めがけ、思い切り何かが振り下ろされてきた。瞬時に気付き、紙一重でかわした足元に鋭い錫杖の先端が突き刺さる。迷いの無いその攻撃に、雪の足跡を見られてるんだ、と唯人は大きく飛びのくと襲ってきた相手と距離を取った。
「リデル、何をする!よさない……か……」
 慌てて止めようとしたレビスの声が、ふいに力なく途切れた。ほんの寸前までの苛々と眉間に皺を寄せていた表情がすとんと落ち、作り物めいた無表情へと変わる。義兄弟と何も言葉を交わさぬまま、まるであらかじめ打ち合わせでもしていたかのごとき身のこなしで、レビスは唯人が飛びのいた位置に駆け寄ると全身で体当たりをかましてきた。
「……わっ!」
 なんとかそれもかわしたものの、ついに錫状の一振りが身体に当たり叩き伏せられてしまう。上から馬乗りにのしかかってきたレビスの袖口からはバレットがやったのか赤く血が滲み出していたが、その無表情はそれを全く意に介していないようだった。
『〝竜の器〟よ』
「なに?」
『よくぞ、ここまでやって来た』
 見えない相手を見下ろす二つの口から、まるで一人の人間が語っているかのように全く同じ言葉が漏れた。
『我の策に導かれ、この深き手の内に』
 違う、この二人が喋っているんじゃない。誰かがこの二人の口を借りて、僕に話しかけている、誰なんだ。
 黒の破壊主、という呪句並みの名が頭に浮かんだその瞬間、唯人は全身の力でレビスをはねのけ飛び起きようとした。なんだかおかしい、ミラが守ってくれている感覚が弱い、なにか圧倒的な力が自分に向けられようとしている。
「バレット、戻ってこい!」
 どうにかして逃げないと、と思ったその瞬間、凄まじい衝撃と痺れが唯人の身体を貫いた。銀枝杖があれだけ唯人を嫌っていたにもかかわらず、一度もやらなかったせいで知らないままになっていた杖の最強奥義〝拒否〟それをくらわされたのだ。駄目だと分かっているのに目の前が暗くなり、成す術もなく意識が遠ざかる。
「アーリッ…ト……」
 砂漠の街での闘いの時のように、その顔が浮かんだが、一瞬後には闇の中へと霞んで見えなくなってしまった。
 雪に倒れ込み、動かなくなった身体を抱え上げ、二つの影はすぐに雪に霞む木々の奥へと消えていった。



 ここには、何も無い。
 光も風も、温度も音も。
 鼓動、苦痛、自分がここに在る、ここに闇以外の何かがあるという証。
 だんだん、遠く薄れていく。
 闇が、自分を溶かしてゆく。
〝アリュート、駄目〟
 呼びかけてくる、手を差し伸べてくる、あれは誰の声だったろう。
〝消えてしまっては駄目、こっちに来て、私の中においでなさい〟
 ああそうだ、あの女が。
 この鼓動を、声を、暖かな肌を感じる身体をくれた。
 ……そして、求めたものを成す術なく失うという、耐えがたい痛みも一緒にくれた。
 この痛みが大切な身体を侵す前に、心を引き裂いてある誓いで封をした。
〝二度と、誰かを求めはしない〟
〝この痛みは未来永劫古い身体の奥底に封じ込め、共に朽ちる日をただ待とう〟
 だのに。
 それから時は、止まったまま。
 あまねく人が生まれ、老い、消えていって。ただ一人、自分は残る。
〝アーリット〟
 ふいに、彼がやって来た。。
 出し抜けに訪れた、新たな出会い。新鮮な日々、変わらなかった日常が揺れ動く、不思議な感覚。
〝アーリット、僕は何も分からない、君しか頼る人がいない〟
 大きな子供、何も知らない、そのくせ無茶ばかりする。
〝僕は君のそばにいたい、君が邪魔だって思っても〟
 俺を呼ぶな、触れてくるな。
〝僕が、百年そばにいるよ〟
〝僕達の子供は、もっとずっと君の側にいるだろう〟
 そんな事。
 そんな事を望んでいるんじゃない。
 俺の永遠を、理解なんてしてくれなくていい。
 世界を全て消し去って、創り換えるという創界主。
 ……お前が、この古い世界と共に、俺を、俺のこの痛みを消し去ってくれるのか?
 ふと、闇が動いた。
 闇色の存在が、傍らに居る。身体が持ちあげられた感触があり、規則正しい振動で揺れ始める。
 運ばれている。
 何となくそう感じたが、それに対する反応は一切出来そうになかった。
 全身に纏いついている微細な粒子、それに対するあまりにも強い怖れ、正気を揺らがせる程の恐怖が意識を凍りつかせている。
 どのくらい、などと考えもできないうちに、身体が何かの上に乗せられた。柔らかく暖かい、そこに〝在る〟物の上に。
 何か聞こえる。
 でも、分からない。
 世界は、はるか彼方でただ、この自分を冷ややかに見つめているだけだ。



 久しぶりの、あの夢だった。
 錆びたような夕暮れの赤、音も風も匂いも無い。
 少し離れた先で、うずくまった小さな背中が震えている。
 その悲痛な慟哭の叫びさえ、何も自分には聞こえない。
〝どうしたんだ、アーリット〟
〝何がそんなに悲しいんだ〟
 すぐに駆け寄り、この腕で小さな身体を抱きしめたい。
 僕がいる、ここにいるからと安心させてあげたいのに。
 近づけない。
 見えない壁に遮られ、どうしても進めない。
 なんとか、こちらに気が付いて欲しいのに。
 でも、手が、足が、動かない。声さえも出せはしない。
〝アーリット、僕はここにいる〟
 ……君のそばに、いるんだ。
「……ん」
 重い瞼を開くと、眩しい光に眼が痛んだ。
 光を避けようと腕を上げようとして、それがかなわない事に気付く。衣服を剥がされた腰布ひとつ状態の身は、寝台に首以外動かせないようがっちりと縛りつけられていた。
 仕方なく、周囲に視線を巡らせる。
 真っ白い部屋、何もない、照明だけがやたらと眩しい。
 反対側に向くと、壁の上部にごく小さい横長の窓があるのが見えた。ぼんやりとした頭に〝うんと昔の特撮ヒーローが悪の組織に改造されるの図〟が浮かぶ。窓の向こうには、見えはしないが、息を殺してこちらを伺っている多数の人の気配が感じられた。
「綱手……?」
 肩を見ると、偽装が剥がされ、代わりに封印の術式の呪句がびっしりと書き込まれた札が貼られてある。他の連中も誰一人反応が無いところを見るに、この寝台か、もしくは部屋そのものが強力な封印としてしつらえられてあるようだった。
 つかまってしまった、完全に。
 ここは一体どこなのだろう、多分ザイラルセンからはそう離れてはいないだろうが。
 同じ状況でも、手配犯としてアシウントの兵につかまえられたのなら、研究資料として扱う上で必ずユークレンからアーリットが呼ばれるだろう。しかし、レビス達を操る謎の相手がそれらと無関係なら、どうされるかは全く分からない。
『ミラ?……ミラ!駄目か……』
 心で呼びかけたが返事は無い、いくら最古にして最高位の物精だと言っても、駄目な時は駄目なのだろう。
 とにかく、いつまでもここに放っておいて干からびさせるのが目的ではないはずだ。無駄なのは分かっているが、ぎゅっと首に力を込めて上げ見える範囲を見渡して見る。
「え……?」
 何の気配も感じさせず、足の方の壁際にふたつの影が現れていた。人形というよりもっと堅い、木の細工のような棒立ちの姿勢でじっと動かない。一人はレビス、そしてその隣、唯人からより離れた位置にいるもう一人は、唯人にとってあまりに意外な、場違いの人物であった。
「グリヴァさん……なんで、貴方が……?」
「目覚めたか、竜の器、少しばかり仕置きがきつすぎたようであったな」
 姿勢も表情もそのままに、レビスの口から言葉が漏れてきた。
「このテシキュル人か?これは、儂のあまたある〝目〟のひとつよ」
 声は若い、だがその口調に、彼特有の居丈高な調子や常に苛々としている感情の響きは微塵も感じられはしない。
「儂の杖より聞かされたお主という存在に、いささか興味が湧いてのう。しばし見守らせてもらったぞ、〝竜の器〟よ。で、見ていたところあまりに俗人めいておるので、儂の采配でこの〝籠〟と勝負させてみたが……流石に籠ごときでは、竜に敵うはずも無かったか」
 こやつ、きれいさっぱり空にされてしもうたのう、まあ収める禁呪はまだまだあるからまた代わりを入れておけばよいが、と溜め息交じりで身体を撫でる。なんとか緊縛の隙を探そうと身をよじる唯人に、すうっと近づくとレビスの奥に潜んでいる存在は、その薄い色の眼越しにじっと唯人を眺め下ろした。
「ふむ、改めて見てもただの西系人にしか見えぬわ。異界人というからには、どこか違う部分があっても良いものかと思うたが」
「お前は、何者なんだ」
「名乗ったところで、貴様には何の意味もなかろうて。まあ分かるよう言うてやるなら、あの黒の破壊主の持ち主よ」
「何……!?」
 そんな事、破壊主にまだ上の存在がいたなどと、夢にも思わなかった。
 こんな事、アーリットだって知らないはず。
 焦る唯人の表情にいささかの反応も見せることなく、レビスはふいと顔を上げると、傍らで微動だにしないグリヴァを振り返った。
「〝目〟よ、お前はもうよい。用を済ませ国に戻り、その後はエクナスに向かえ、あの杖はまだまだ尻が重そうなのでな」
「エクナス?あの神殿に、何の用が?」
「お主の知るよしではない……行け」
 命じられるまま、グリヴァの長身はくるりときびすを返すと壁に唐突に開いた扉から出て行った。部屋の外の闇にその背が溶け、足音が遠ざかってゆく。得体の知れない相手と二人きりにされる気味悪さに、唯人は精一杯の力でもがき続けた。
「竜の器よ」
 何の手当てもしていないのか、袖が乾いた血で貼り付いている手が差し伸べられてきて、冷たい指が肌に触れる。
 気持ち悪い、触られたくない、やめろ。
 引きつっている唯人の表情に、ああ、昨日の禁呪か、怯えずともよい、ここでは半端な術式は使えぬからな、とレビスは囁いた。 
「だが言っておくが、逃げようと思ってもそれは叶わぬぞ。その寝台も身を縛る綱も、儂が編んだ最高位の封印術を織り込み内からの術を完璧に抑え込むようしつらえてある。更にこの地下の秘密部屋は、王立研究所の最奥というこの国一厳重な警備に守られている場の中だ。一級精霊獣師級の存在ならともかく、お前程度にはここを抜け出すのは無理であろう」
「僕を、どうするつもりなんだ……」
 肌をすべる指が、肩の呪符の上でふと止まった。
「そうさのう……まず、竜を取り出すとしようか」
「えっ!?」
「儂はそのようなものはどうでもよいが、俗な王族どもがどうしても欲しいそうでな。お主に付けたままでは抵抗されて厄介なので、腕ごと切り離して飢えで弱らせ処理させよう。ついでだ、この際もう一方の手と両脚も取って逃げられぬようしておくか。研究者どもは資料が増えて喜ぶであろうて、お主には必要となれば、手頃なのを見つくろってまた別のを付けてやる」
「嫌だ……」
 さあっと血の気が引いた唯人の表情に、益々興が乗ってきた感で無表情の顔は更に言葉を続けた。
「なあに、怯える事は無い、間違っても死なせたりはせぬ。お前はあの唯一無二の奇跡の存在程ではないが、滅多に得られぬ貴重な素材だ。使い道は山ほど用意してある、まず最初は廃地に置き、ギュンカイのように周囲を実体化させる事ができるか試してやろう。あともろもろの検証に使い、その後はあまり老いぬうちに〝あれ〟と繁殖させねばな」
「繁殖……?なんなんだ、〝あれ〟って!」
「不思議なものよ、人ではない、人に懸想することなどないと思うておったあれが、お前だけに心を開きおった。ちゃんと見させてもろうたぞ、あれがどのような眼でお前を見、身をすり寄せ仔獣のごとくその懐に甘えたか。この奇跡を捨て置く愚は犯さぬ、儂の為、ひいてはこの世界の為、あの希少種はできうる限り増やしておかねばならぬでなぁ」
「アーリット……アーリットの事を言ってるのか?」
「ああ、そのような呼ばれ方をしておったかの」
「お前、本気で何を言ってるんだ、僕ならともかく、アーリットをそんな風に言うなんて。アーリットがお前の意のままになるような、そんな事あるわけがない、レビスやグリヴァみたいな、普通の連中とは違うんだ!」
「おお、おお、確かに普通とは違う。お主の言うとおり、一緒にされては困るのう。だから儂も万策を講じ、特製の檻をあつらえたのだ。今、あれはその中で無力で従順な存在となり、儂の迎えを待っておる。お前の処理を済ませれば、すぐにでも戻るつもりよ」
 その言葉が耳に入った瞬間、唯人は今出せる限界を超える力で身を起こそうと踏ん張った。しかし当然の結果というか、紐が喉に食い込み息がつまって派手にむせる。咳が治まるまで冷ややかに見守って、おもむろに視線を壁の小窓に向けるとレビスは眼で合図した。
「儂は術式の使える部屋で待っておる、全て終わればまた会おう、竜の抜け殻となったそなたとな」
 外套の裾を翻してレビスが去るのと入れ違いに、扉の向こうの暗闇から数人の人影が入ってきた。皆一様に灰白色の長衣ですっぽりと身を包み、顔も目しか出ていない。ぐるりと寝台の周囲を取り囲むと、最後に沢山の器具を乗せた台車が入ってきた。鋭い小刀に骨を切る鋸、瓶入りの薬品もずらりと並べてある。
 まな板の上の魚の図、が頭に浮かび鼓動がいきなり速さを増す。震える声で、唯人は見下ろす白づくめ連中に呼びかけた。
「本当に、僕を……?」
 まるで、屠殺前の獣が鳴いただけ、と言わんばかりに無視された。あくまで互いの確認の為、お前には聞かせていない、という風の会話が頭上で交わされる。
「これより、四肢を取り外す。左腕はゾークベイムに、残りは標本にする」
「了解」
「了解しました」
「よろしいですか、執刀長」
 台車を押して最後に入ってきた白づくめが、柔らかな声で質問した。
「何だ」
「ユークレン側は、異界人の研究について共同で行う事を要求しておりましたが、構わないので?」
「竜、特に瑠璃鉱竜とあっては、そもそもが我がアシウント王国五世王の所有であったと記述がはっきり残っている。まずそれを確保し、危険の無いよう完全に処理を済ませた後で連絡をつけても遅くはないとの決定だ。頭と胴体のみでも、別に研究に差し支えはない」
 質問はもう無いか?なら始める、と白手袋の指にきらめく小刀が握られた。
「この室内ではたとえ医療用途であっても術式が一切使えないからな、全てを手に頼らねばならん。しかしこれは医術の研修としてはまたとない機会だ、異界人とはどのような身体の仕組みをしているのか、しっかり学ばせてもらおう」
「嫌だ、やめろ!僕は実験動物じゃない!」
「うるさいな、おい、誰かこれの口を塞いでくれ、舌を噛まないように布かなにかで」
「それより、手っ取り早く麻酔を効かせるというのは?」
「ああ、それがいい」
「早くしろ」
 あの台車の人物が、瓶のひとつを取りその中身を布に含ませる。それをぐい、と顔に押し付けられ、必死で息を詰めて拒んでみるものの、やがて限界が来てすえた臭いの混じった気を吸い込んでしまう。すぐに意識が薄れ、霞む視界の中、自分に布を押し当てている白い顔当ての隙間からのぞく眼が、ふとくるりと色を変えた。
〝唯人、お休み〟
「ミ…ラ……?」
〝何も心配しなくていいよ、君にひどい事なんてさせないから〟
 薬を効かされた眼がとろんと潤み、寝台の綱に食い込んでいた肩から力が失せる。軽く頭を揺さぶって、反応がないのによし、と改めて白づくめ達は寝台に詰め寄った。
「さ、手早く済ませるぞ、別室でゾークベイムを待たせているからな」
「では、まず左腕から……」
 強い照明に照らされた小刀が光を放つ、眼下の皮膚に押し当てられようとしたそれが、なぜか張りつめた紐の一本に触れ、ばちん、と音を立て断ち切った。
「お、おい、何をする!」
 小刀を持った手は、素早く背後から伸びてきた別の腕に手首を取られていた。振りほどこうとする相手からあっさりと刃物を奪い、横薙ぎで紐を全て一刀両断にする。どよめく一同の視線を意に介せず、柔和な声のその人物は横たえられた肩に近づくと、貼ってある札をあっさり引きはがした。
「な、何を!お前……!」
「出ておいで、綱手。随分我慢したね、もういいよ」
 呼びかけに応えるかのように、肩の石を中心に皮膚が盛り上がり、するりと白く長い身体が這い出してきた。既に三対の金目を見開いて、隠しようのない怒気を放っている。逃げる素振りをしただけでもただでは済まされないだろう、と思えるその様相に、白づくめ連中は息を飲んで硬直した。
「まったく、人間、ってさ」
 あーこれうっとおしかったんだよね、と顔当てを引きはがした下から銀髪に縁取られた顔が覗く。ぐったりとした主の身体をそっと抱き上げて、ミラはふ、と微笑んだ。
「竜を人間の持ち物だって思ってる、それが間違いだってなんで気付いてくれないのかな?人が竜より強かった事なんて、創世から今までただの一度だってあった事無かったってのに。君達の王様やこの子のほうが、竜の持ち物なんだってこと。自分が選んだ大事な器を、人ごときが勝手に壊そうとしたらそりゃ怒るって」
 この腕を切り離すだって?爪のひとかけだって許さない、って言ってるよ、とあくまで口調だけは優しく言葉は続く。
「竜は、つまらないのが大嫌い、己を興じさせてくれる時代、騒乱のただ中に在り続ける人間にしか惹かれない。この子くらい面倒臭い運命の人間じゃないと、あっという間に飽きられてひねり潰されちゃうけど。そんなの受けとる覚悟のある馬鹿、用意してるっての?」
「わ、我々は……やれと命じられただけで、それ以外の事は……」
 引きつった声を返した執刀長に、分かった、無力な君達の立場を尊重しよう、とミラはふいと身を返した。
「お、おい、どこへ行くんだ!」
「心優しい僕の主なら、きっと君達にこう言うかな。早く逃げた方がいい、竜の怒りにさらされここは崩れ落ちるから、ってね」
 そのまま悠然と部屋を出ると、その背後で慌ただしく白づくめ全員が部屋を飛び出した足音が遠ざかって行った。あんなのでも潰れちゃったら気に病むからね、この子は、と腕の中で揺られている顔に苦笑する。
 階上に向かう出口とは逆の、地下空間の最奥に向かうとそこは剥き出しの岩肌の行き止まりになっていた。前に立つと、力無く垂れている腕に白い長蟲状の身が巻き付いて、持ちあげた手のひらを壁に押し当てる。光輝が走り、一気に浮かび上がった紋の青い光に周囲が明るく照らし上げられた。
「綱手、できるだけ唯人を悲しませないよう、人はあまり壊さないようにね。それ以外は好きにしていいから」
「好きにだと?貴様……何者だ、何をするつもりなのだ」
 背後からの乾いた声にミラが振り返ると、幽霊のごとく無表情のレビスが立っていた。間髪いれず降られた杖から光輝が放たれその身に迫る、だがしかし、届く前に光は見えない障壁にぶつかって散った。
「ごめん、君に説明する義理も時間もないんだ」
 柔らかなその声音に合わせ、障壁が相手めがけ膨らんでゆく。それが通り抜けた途端、何かどす黒い靄のようなものがレビスから押し出された。すぐに糸が切れたかのごとく倒れ伏した身体にミラが歩み寄る、ほっとこうか、どうする?と背後の相手に問いかけた後、おもむろにその細い身体も担ぎあげられた。
「そうだね、君だって被害者なんだ」
 壁からぬっと頭を突き出して、ミラと二人を口に収めると綱手は鋭く長い吼え声を響かせた。自分はここにいる、逃げるならさっさとしろと周囲に知らしめるかのように。その余韻が去ると、おもむろに足を踏ん張り地下空間の天井を押し上げにかかる。みるみるうちに石で支えられた天井に亀裂が入り、崩れた土砂が降り注ぐ。さっきの処置室もそれ以外も、地上の施設さえも傾かせ、怒りに満ちた瑠璃鉱竜は地上にずいと頭を突き出した。
 周囲には、異変に気付いて集まってきた城の兵や霊獣師が唖然となって、突如現れたこのありえない存在を見上げていた。みんな、どうしたらいいのか分からない。それでもありったけの勇気を奮い起こして剣を振り上げ向かってきた兵士や、知りうる中で最強の術を放つ術師を完全無視し、竜はまず、荘厳な造りの王城へと迫っていった。数回の体当たりで精緻な彫刻で飾られた正面門が崩壊し、国の民の拠り所であるあの金色の天蓋が派手な音と共に落下する。まるで塚を崩された蟻のごとく中から一気に人間が溢れ出してきて、王宮の敷地内は土ぼこりと悲鳴と逃げ惑う人々の怒声が混じりあう、阿鼻叫喚の場と化した。
「あーあ、落ちついて逃げればいいのに。慌てると階段転げ落ちちゃうよ」
 四方へ散ってゆく人の波を見送る綱手の口から、ミラは鷲獣に変じるとその腕に主を抱えて飛び立った。ついでに放り出したもう一人は、すぐによく似た顔の人間がやってきてあっという間に連れ去っていった。そのまま一気に城の一番高い場所、あの太陽の天蓋が据えられていた城の最上部へと舞い降りる。
 少し風が冷たいけど、ここからの眺めはすこぶるいい、街が全部見渡せる。
 眼下では、綱手が崩した城の破片が転がり落ちて、成す術の無い商店や貴族の豪邸を次々と押し潰していた。
「仕方ないよね、こういう街の造りにしちゃったんだから」
 ねえ、唯人、と虚ろな眼の顔に囁きかける。
 人の姿に戻り、懐に主を抱いたまま粉じんを巻きあげる大都市の惨状を眺めていると、胸元で小さなくしゃみの音が漏れた。寒いの?じゃあちょっと暖かくしようか、と力なく垂れているその腕を持ち上げてやる。
「火種、消えてしまう前にその子の姿、貰っちゃいなよ」
 支えられた唯人の手のひらの上、そこにふわりと青光りの蟲が現れた。しかしその姿は変わらないぼろぼろのままで、ぴくりとも動く気配はない。
 ふと、風にあおられたのか破れた翅がぱたりと開く。その端に、ちかっと小さな火花が散った。
 音もなく、蝶が燃える。
 小さな姿を包む、ごく小さな炎。
 すぐに燃え尽きてしまうだろうと思われたそれは、逆にみるみる勢いを増すと手の上でばっと細かに四散した。
 周囲に散る、数え切れないほどの炎の蝶。
 大火から巻き上がる火の粉のごときその群れは、吹き荒れる強風をまったく意に介することなく赤く輝く靄となって眼下の街へと降りて行った。ほどなく、瓦礫に襲われていないあたりの街並みから次々に閃光と火の手が上がる。砦の狭い門に押しかけている人々の絶望的な面持ちを、炎は熱く、明るく照らし上げた。、
「これでちょっとはあったかくなったかな?まあ周囲は雪ばっかりだから、みんなが落ちついて力を合わせればすぐ消せるよ、頑張ってね」
 そう、これは、この街が生き延びる、その為に必要な試練。
 唯人、大切な僕の主。
 ここからは、僕がやってあげるから。
 僕達がやらなくちゃいけない、君には到底できないこと。
 僕が、大事な人と約束したこと。
 僕が何をしているか、知った時君は絶対に怒るだろう、すごく怒って悲しんで、僕を受け入れた事を心底後悔するだろう。
 でも、これはやらないといけないんだ。
 全ては、この世界の為に。この世界を見守り、慈しんだあの人の遺志。
 だからせめて、僕は君の持ち物として、出来うる限り君の代わりをしてあげる。
 大丈夫、僕は辛くない。
 君に嫌われる、君を泣かせて辛い思いをさせても平気、僕はどうってことない。
 僕は物、自分の心なんて無い物、だから。
 ……でもね、辛くは無いけど、かといって楽しい眺めでもないよ。
 崩れ落ちる建物の壁、燃えさかる街路樹や花々、そして響き合う人々の悲鳴。訳が分からず、ただ皆で右往左往して駆けまわっている。
「こんなのを、ずっと見てきたんだ、君は」
 僕とラシュ、双界鏡と共に、主と悠久の時を過ごした君。
 世界と、あの人の為にこの役を引き受けて、ちゃんとやり続けた。
「僕には、ちょっと無理だなぁ」
 それを分かって、僕にこちらの役を譲ってくれた。
 そう、いつだって黙って気を使うんだ。君ってほんと不器用だから。
 不器用で真面目で僕とは真逆、それが君。
「本当に、ミストって僕等に無茶言ってくれたもんだよ。早く全部終わっちゃえばいいのにね」
 面倒事は好きじゃない、僕達は、あくまで人に使われる物。
 千年を生きた彼が、僕達に託した緻密な未来図、それに合わせ、時間を縦糸、場所を横糸、そこに人という色糸を織り込みきちんと真似て仕上げてゆく。
 もうすぐだ。
 もうすぐこの織物は、彼が思い描いたとおりの素晴らしい一枚になる。
 そしたら僕は、もう何も考えなくていい。
 ただの物として、文句だけはぶーぶー言いながら持ち主に楽しく使われていよう。
 それが僕達〝物〟なんだから。

 

「なぜ〝それ〟を連れ出してきた、この大事の時に!」
 猜疑と欺瞞、その心象を具現化した面のごとき面持ちで自分を睨む老人の幻に、黒づくめの長身は振り返ることなく呟いた。
「これが必要となる〝時〟が来たのでな」
「必要?必要だと?儂以外の何者がこれを得ようというのだ、そのような事、許されるはずがないであろう!」
「この世界の存続にかかわる事だ、個人の許す許さぬの次元の話ではない」
 感情の無いその声音に、はぁ?と幻は理解不能の表情で空を滑り相手に詰め寄った。
「世界の存続だと?なんだそれは、儂は知らぬ。そのような下らん理由でなぜこの世界でひとつの宝をくれてやらねばならぬのだ、ならんならん、今すぐ戻せ!」
「これ以上これをあの穴に置けば、身は残ろうが精神が崩れ、もろとも腐り落ちると思うがな」
 傍らの寝台に横たわる、傷だらけの痛ましい裸身に眼を向ける。四肢の爪は全て剥がれ、その手で更に顔を掻きむしったのか乾いた血で瞼はふさがってしまい、叫び続けた喉は低い呻き声を漏らすしかできない有様だ。さすがにここまでの状態は予想していなかったが、可哀想と言うより大切な素材が傷んでしまった、以上の感覚は起こしていない面持ちで幻はふん、と鼻を鳴らした。
「ふーむ、なぜこのように己を痛めてしもうたか……暗示の術を使っておれば、いらぬ苦しみを感じずとも良かったものを」
「分からぬか、これは、落ちる前に杖を手放した。それに暗示の術は廃地に入る前に、その影響を受けつけぬ身の内に備えてこそ意味のある式。一切の術式の聞かぬ穴の底で、どうする術があったというのだ」
 押し殺した感情を秘めた声に、一瞬老人の顔がぽかんとなった。
「ま、まあ、このくらい……研究に差し支えぬ程度であれば、別に良い」
「それで、世界の滅びも意に介さぬお前はこれを調べて何を得る」
 たたみかけるような破壊主の言葉に、老人の眼が更に苛々と落ち着きを失った。
「それは、調べてみぬ事には分からぬだろう。これから、儂の全ての知恵、全精力を注ぎ込んで……」
 ふうっ、と長い溜息の音が、仮面の下で響いた。
「潮時だ、老ディプケースよ」
「なに?」
「レイオート山の氷結神殿でお前に見つけられて以来、永きに渡りその使役に甘んじて来たが……我〝この世あらざる黒〟はこの場この時を持って、貴様の物である事を終わらせる。この身は、唯一にして絶対の主の元へ還らせてもらうとしよう」
「な、な、な、何だと?お前、一体何を言って……」
「真の主の命により、素姓を伏せ、自由に動く為にはお前は悪くない寄り主であった。アシウント、ユークレン両国に処刑される場面では替え玉を使い、お前は見捨てられた己の古城の地下で我の封印の内、眠りに着いた。外の事は全て、己の領民に仕込んだ支配の術式の力で得てな。力を抑え、ただただじっと眠り続けた。そして今では……」
「ああそうだ、儂の知恵あってこその素晴らしき不死の術、この一級霊霊獣師とて気付く事の無かった究極の御技よ!」
「そう思っているか、幸せな事だ、お前の思考はもう完全に止まっているのに気付きもできぬ」
「どういう意味だ、なぜ持ち杖の分際でそのような事を!」
 怒りのせいか、老人の幻はふるふると震え輪郭が危うくなり始めていた。ま、待て、すぐに術を効かせた人間を来させて芯にせぬと……とぶつぶつ呟く姿にもうよい、と破壊主が背を向ける、その態度が益々気に障ったのか、ふわりと宙に浮き相手の正面にまわるとディプケース老はぜいぜい喉を鳴らしてがなりたてた。
「儂の意思ひとつで千を超す人間が意のままに動く、ユークレンの添王子をアシウント王族に嫁がせて、実権を得たらテルアじゅうに入り込んでいるアシウント兵がすぐにでもあの国を支配下におくだろう。儂の末裔であるゾークベイム家の者は、今やしっかりアシウント王族に喰い込んでおる。いずれ両国は儂のものだ、堅く閉ざされた宝物庫の奥のユークレン王族門外不出の歴史的秘宝も、儂がすべてこの手中に収め好き放題に調べ尽くしてやるわ!」
「……もう一度聞く、それを得て、滅びの迫った世界でお前は一人、何を成すというのだ」
 あくまで静かに、つまらなさそうに問われ、ぐ、と老人の喉から押し殺した呻きが漏れた。
「うるさいうるさい、わずらわしい、そういう事はそれが確実になってから考えるものだ!確証とてありはせぬ事をうだうだ儂に言って来るな!お前は儂の為、封印を保ち続けておればそれで良い!杖の分際で、偉そうに主に物申すとは片腹痛いにも程があるわ!」
「そうやって言葉に詰まり、癇癪を起こす事こそ考える事ができなくなっている証だ。世界の滅び……その意味、未来に向いた思考力が失われてしまっている。この世の知恵を追い求める者の根源、この世のまだ分かり得ていない事象を調べ、真理をみつけ万人に役立つものとし、あまねく広め文明を更なる高みへと押し上げる、その気高き理念がもうお前には無い。今のお前はただ知りたいと言う欲望が妄執となり果てた、力だけは有り余る幼な子だ。中を見ようと手当たりしだいの蟲や獣の腹を裂き、精緻な機械を粉々にばらし呆けている、おぞましき存在よ」
「う……うぬ……」
 ゆらゆらと、熱の無い炎のごとく揺らめくだけの幻にもう視線を向ける事もせず、黒い仮面はふとおもむろに暗い宙を振り仰いだ。
「今更だが、もうひとつ、お前に言っておくべき、お前が気付いておらぬ事がある」
「なに?」
「そう大したことではない、この世界の人間なら誰もが理解し、あまねく知れている事だ」
「だから、なんだと言っている!」
「人は、人ならば、人であるゆえにけして死を免れる事は出来ぬ」
 何を、と苛立った顔が訝しむように歪められた。
「そ、それを覆すのが、千年を生きし彼の者の術具であった、貴様の技であったと……」
「ああ、言ってなかったか、千年の君とて、時が至れば滅するのだという事を」
「なに?」
 老人の、萎びた肌の中のそこだけは暗く輝く眼が驚愕に大きく見開かれた。大きく開いた足の下の落とし穴に、今気付いたと言わんばかりの表情だ。
「い、今この大事に、なぜそのような事を。も、もしや……」
「お前は、自身の仮説による綿密な計算のもと、我の結界は我がお前を通じて取り込む霊素で永劫まかなえると思っていた。しかし永き時を経る間に、進んだこの地の廃化は周囲の霊素を薄め、それを取り込むお前の身もごく僅かずつではあるが、徐々に衰えていったのだ。この界において最高位と自負しようが、我とて一介の物精、糧がなくては役も果たしようがない」
「で、では……」
「お前には二つの選択ができた、我を手放し不死の夢から覚め人として終わるか、不死には及ばぬが人には余る時を細々と無駄に長らえやがて成す術なくたち消えるか。我はそれとなく幾度も問うた、返事はいつも同じであったがな」
「そ、そうだ、我の望みを満たすには、まだまだ時が、これからが……」
「無理だと言っている」
 まるで駄々っ子に言い聞かせるような口調で、ぴしりと破壊主は相手の言葉を遮った。
「結界に身を閉ざして以降、他者より情報を得るのが当たり前となって、己自身を一切顧みなかったのが迂闊であったな」
「なんだと?」
「ここ数十年程、お前からの霊素が足らぬので、仕方なくその身を糧にさせてもらった。重要でない部分から徐々に霊素に還して使っていったが、もう残りもほとんど無い。最後の欠片は、我にとって最後の大役のための糧として頂くこととしよう」
「き、貴様……」
「強大な力を揮おうとする者は、その力の本質について微塵も知らぬ領域があってはならぬ。お前は、我を自身の欲望の為に使役していたつもりだったであろうが、結局はただ我の為の体の好い餌とされていたということだ」
「貴様あああっ!」
 しゃがれたわめき声をたて、襲いかかってきた幻に黒い姿は蝿相手程の反応も返しはしなかった。幻は幻、現し身に触れることもできずただ騒ぎ、じたばたするだけしかできない。ひとつ溜息をつき、黒の破壊主はおもむろに闇に溶け込む黒づくめの衣装の内から何かを取り出した。黒い気に包まれている、大きな胡桃を半分に割ったような、椀状の器の中に灰白色の塊が詰められている物体。よくよく見てみると、それは鋭利な刃物ですっぱり切り分けたかのような、人の頭部の上半分だった。
「随分と節制し、もたせるのに苦心したが、ついにここまで喰い尽くしてしまったな」
「そんな……馬鹿な……」
「分かるか?これがお前、これだけになりなお尽きぬ妄執に満ち溢れた、かくも醜くかくも憐れな生物の在り様よ」
「よせ……やめろ……そんな、そんな……!」
 恐怖に歪む幻の顔の前で、数百年を経て生き続けた肉体の最後のひと塊は、ふわりと立ち昇った黒い炎に包まれた。乗せられた手の上でまるで蝋細工のようにぐずぐずと溶け崩れ、細かい塵となり燃え尽きる。それをただ見るしかない断末魔の顔も、静かに闇に溶け消え失せた。
「大レイオートの氷結神殿より我、〝この世あらざる黒〟を見い出した偉大なる智恵の探究者、深森の超術士と呼び称えられし、ル・ノウェイン・ディプケース」
 呟く声音に、ごくわずかの憐憫が宿る。ただ気付きさえすれば、人としての穏やかな生涯と最期は常に傍らにあったのに。
「主よ、永き夢は終わったのだ」
 お前は、もうとうに死んでいたのだから。



「ねー、なんでさー、なんでよー?」
「だから、ずっと言ってるじゃないですか、アーリットに任された用事なんでしょうって。俺も知らないんですってば」
「ねえ、ほんとーに何か僕に隠してない?」
「ないですよ」
「ほんとにほんと?」
「ええ」
「僕の眼を見て返事してよ」
「はーい、今日もいい青ですねぇ」
「嘘臭い……」
「そうですか?」
「うん、ちょっと臭う、昨日お風呂使わなかったの?」
「すいません、面倒だったんで……」
「うわ、信じられない、なにそれ」
 疲れた。
 これが自分の部下だったなら、もうとっくにぶん投げてるぞとサレは伏し目で溜息をついた。唯人が同行しない事については、ザイラルセンの外側の城壁を越えるあたりまで繰り返し説明し続けた。が、アーリットの指示です一点張りでは到底納得がいかないらしく、添王子はそのアーリットの指示の内容について延々ぐだぐだとサレに絡み続けた。
「だって、おかしいじゃない。いくらアーリットでもさ、敵地のど真ん中に大事な唯人ひとり置いてけってさぁ、そんな事言う?それに唯人ってザイラルセンは始めてなんだから、ここの事全然知らないじゃない、見つかったら言葉通り袋の中の豆蟲だよ?」
「大丈夫、その豆蟲はちゃんと隠れる技や袋を破る顎を持ってますって」
「サレは、唯人の事心配じゃないの?」
「……添王子」
 いくら王族の一員、人の上に立つべき者だといっても、この子はまだ十五歳なのだ。特定の人物に入れ込まない、全ての人間は国という盤上に乗せられた駒であるという王の思考に至れていない。すいません、お菓子が足りないから機嫌が悪いんですね、もっと持ってくれば良かった、とあえて軽口を返してやると、なにそれ、と添王子は愛らしくぷっと膨れて見せた。
「俺は唯人の事、別に心配はしてませんから」
「へえ、そうなんだ」
「昨日の勝負を見たでしょう?剣を使わないであれなんだから、文句なしの二級精霊獣師ですよ。ユークレンに四人しかいない四方護国霊獣師、西方護が去年高齢の為一線を退きましたから、もし竜持ちの唯人がそこに加わるとしたらもう限りなく一級に近い二級です。この界に並ぶ者無き一級精霊獣師アーリット・クラン、その域にある人間を俺が心配するなんて、そんな事恐れ多くてできませんって」
「うーん、でもさ、唯人って強いのは分かるんだけど、いつもどこか抜けてるっていうか」
「ああ、まあ、隙だらけってのは正直否めませんか」
「本気に入るとすごいけどさ、そこまでが結構かかるってのかな……」
「この国じゃ本気出しちゃ駄目っての、そこは分かってるんでしょう」
「昨日は、ちょっと危なかったよね。あの姿が目に焼きついちゃった人って結構いるだろうし、これからどんどん話に尾ひれが付いてすごい事になっていっちゃうかも」
「エリテアまで探りが来たら、しらばっくれてやりますって」
「サイダナも頼むね、僕は軍の精霊獣師団から替え玉候補を探しておくから」
 そんな事をひたすら話しているうちに、道はどんどん下り周囲は大型の家畜の放牧地へと様子を変えていた。アシウント産の毛長牛達が通りかかった異国の同類を物珍しそうに眺め、柵の向こうで並走しながら口々に鳴いて呼びかけてくる。そのあまりのうるささに耳を塞いで黙りこんだ、添王子がふと、何気なく小窓を振り返った。
「なんか、変な音しなかった?」
「風の音じゃないですか?」
 ずっと黙して二人のやり取りを聞いていたハルイ公主が、同様に小窓に顔を寄せ外の様子を伺おうとする。
 その時、ふいに牛車が停まった。
「どうした?トウア」
「隊長っ!」
 サレが輿の引き戸を開けると、同じタイミングでトウアが駆け寄っていた。
「遠くてよくは分からないんだけど、城で何か起きてるみたい。土ぼこりが上がって人が騒いでる、どうする?」
「どうするも何も、気にはなるがこっちには好機だ。このまま一気に国境に向けて……!」
 瞬間、その場にいたほぼ全員、ハルイを除いた両性一同の動きが停まった。
 もやもやと揺れる黄色い靄、それがゆらりと膨れ、みるみるある姿を形作ってゆく。
 大きな、あまりにも巨大な金色の獣。薄暗い灰色の空の下、燦然と立つその姿がぐいとこちらを振り向いた。
「あ、あれは……」
「あれは、ザイラルセンの都市精……〝鋼纏いし金色(こんじき)の雄獅子〟!」
「えっ?それって……おわっ!」
 言葉の終わるその前に、背後からどんと背を押されサレは危うく輿から転がり落ちかけた。自分を押しのけて外に飛び出した王子が、眼を見開いて獅子の眼差しを受け止める。誰かつかまえろの声も間に合わず、添王子は若鹿のごとき身のこなしで今来た道を引き返し駆け出した。
「待ってください王子!戻っちゃ駄目ですって!」
 慌ててサレと、トウアもその後を追いかける。王子の足だけならすぐにつかまえられただろうが、走るその傍らにふわりとあの金獅子が現れて、すかさず王子はその背に飛び乗った。
「駄目なんだサレ、金獅子が四聖剣の持ち主を呼んでる。僕、行かないと!」
 その言葉と同時に獅子は一気に速度を上げ、あっという間に見えなくなった。ちっと舌打ちしたサレの背後で、トウアはもうワイシャルクの屋敷がある辺りを不安そうに見上げている。
「戻ります?隊長」
「仕方がないな、ハルイ達はこのまま先に行かせるとして……トウア」
「はい」
「ひとつ確認しておく、俺はユークレン兵として王子の捜索、確保という任務を果たすべく戻るが、お前はそれを最優先できるか?途中で私事にかまけて勝手に動く気なら、皆の護衛に戻ってもらうが」
 トウアの襟の鎖が、揺れて微かな音を響かせる。んー、と鼻声を漏らし、ぴしりと顔を引き締めるとトウアはサレにテルア兵の敬礼をした。
「隊長が命じるなら、自分は何であろうとそれに従うのみ、です。テルア守備軍第六小隊副隊長として」
「よし、同行を認める」
 ざっ、と二人の足が地を蹴った。



 崩れかけた王城を前に、二体の霊獣は睨み合っていた。
 一方は、地中で幾歳月育まれし、堅牢たる青き結晶の竜。
 古き時代より呼びかわされし、その名は〝瑠璃鉱竜〟。
 今ひと方は、都市の象徴として称えられ、その崇拝で身を成り立たせし意志の具現。
 偉大なるその名を〝鋼纏いし金色の雄獅子〟という。
 金緑の三対の眼と、この時期、天に時たま覗く空の青の両眼が、見えない火花を散らした。吹きすさぶ風のごとき獅子の咆哮が、そびえたつ山肌に響き渡る。
〝貴殿の器を壊さんとした、この国の民の非礼は認めよう〟
〝だがしかし、我もこの街の守護霊獣、尾を巻き、ただ街が蹂躙されるのを見過ごすわけにはゆかぬ!〟
〝なら、その身で我を止めよ〟
〝この怒りが絶えるまで、我を押し止めてみるがよい!〟
 どのような生き物の吠え声にも例えられない、金属音に近い竜の雄叫びが空を震わせる。それだけで城の晶板が一気に砕け、吹きとんだ。
 既に完全に臨戦状態で、ゆらりと立つ竜に獅子が頭を低く下げ身構える。
 どう、と地と、空気が重く揺らぐ。巨大な獣は一気にぶつかり合い、互いを組み伏せようともつれあった。若干竜が押され、城の敷地から人も建物も無い山肌へと押しだされる。だが獅子の肩にも、がっぷりと竜の鋭い牙が食い込んでいた。両腕で金色の胴を抑え込み、ぎちぎちと音をたて光る牙が皮を裂き深々と肉に沈められてゆく。生えている棘のせいで竜の腕に噛みつく事が出来ず、獅子は代わりに斧のごとき爪を振り上げると竜の頭を殴り付けた。がし、と嫌な音をたて、断固として口を開く気の無い竜の額の石に数本の溝が刻まれる。なおもがんがん引っ掻かれ、苛ついた竜の尾が雪の斜面を打つと積もった雪が震え、やがて徐々に崩れ始めた。
「あーあ、下に牧場が広がってるってのに、金獅子くんももうちょっと考えてあげられないのかな」
「……唯人」
 荒れ狂う二体の最高位の霊獣、その闘いをよそに、崩れかけた城の屋上ではもう一つの戦いが繰り広げられていた。アシウント王族に伝承せし四本の聖なる剣、それを身に持つ四人の騎士。〝獅子の牙〟を持つ、現アシウント王であるザグエイン王。〝獅子の眼〟は王立軍の最高指揮官であるフレンケルシュのダンフェイ大将軍。〝獅子の咆哮〟を手にしているのは王の従兄弟であるエンダイル、そして……。
 親であるアシウント現王弟、レベン・フェッテ添王より〝獅子の爪〟を預かるユークレン十五世添王子が、この騒乱の元凶であろう異界人を取り囲んでいた。
「本当に、君がやったの……?」
 すがるような視線、どうか間違いだと、僕じゃないと言って欲しい。だがしかし、炎を背に薄く笑むその顔は、あっさりその願いを否定した。
「そうなるかな、だって、ここの人がさ、僕を縛りつけて解体するって言ったんだもの」
「そんな事……」
「そこにいる誰かに聞いてごらん、ユークレンの研究者を呼ぶ前に竜だけは確保しておく、って上の人が決めたって話してたよ」
「本当に?」
 思わず振り返った添王子の視線に、エンダイルがほんのわずか視線を泳がせた。
「も、もしそうだったとしても、だからと言って、街を破壊されて黙っている訳には……!」
「これは、僕が決めたことじゃない、竜の意思さ」
「ならば、この街を護る為、竜を止めるその為に、その命ここで頂かせてもらおう!」
「そう、そうするのが普通だよね」
 王の一言で、ざっと三本の剣が構えられた。崩れかけた城の屋上、落ちればまず命の無い高台で、多勢に無勢の剣劇が繰り広げられる。何故か己の得物を出す事はせず、繰り出される剣をただひらひらとかわすと唯人は一人動けない添王子の前にひょい、とやってきた。
「た、唯人……!」
「斬れ!」
「斬るのだ、王子!」
「このままでは、ザイラルセンが跡形も残さず滅ぼされるぞ!」
 思わず、ぐっと手の剣を構え直す。だが、その大ぶりな刃は微塵も動きはしなかった。
「駄目だよ、唯人、僕には……」
「やれないの?これは国の民の為、王族たる者の義務だよ?」
「そんなの、そんなの……僕は!」
「そう、仕方ないなぁ、ここは君にやって欲しかったんだけど。じゃあお子様は眼を閉じて、嫌な事は見ないでおくといいさ」
 何を言っている。
 一体、何を言っている。
 正面に立つその顔、何ひとつ変わらないその優し気な顔。
 その口の端から、ふいにつうっ、と赤い糸が垂れた。
「唯…人……?」
 ごふっ、と籠った音が漏れ、血の飛沫が吐き出される。赤く濡れた刃先がその腹部からせり出してきたと思ったら、素早く引き抜かれた。
「唯人、唯人っ!」
 思わず手を伸ばしたがどうすることもできず、血にまみれた薄笑いのまま、その身体はふらりとひび割れた垣の縁を越え、土煙で霞む遥か下へと落ちていった。
「唯人ぉぉぉっ!!」
「思ったよりあっけないものだったな、竜の器と言うからどれほどの強者かと思ったが……」
「我ら四聖剣の使い手が揃えば、何であろうと負けはせぬということだ!」
 紅に染まった剣を振り、妙な朗らかさで宣言したエンダイルを、王は厳しい面持ちで睨みつけた。
「エンダイル、あの者が残した言葉、一応調べおくとするぞ。事と次第によっては、貴様であろうと責の一端を負う者として追及せずにはおかぬからな」
「王よ、あのような人外の戯言を信じると?」
「……人外?」
 強張った顔でうずくまり、下を覗いていた添王子が、びくり、とその言葉に反応して振り返る。
「人外だって?唯人の事、そんな風に思ってたの?大人しくて親切で、僕達と何も変わらない、僕やテルアを必死で助けてくれた唯人を!研究って、珍しい蟲みたいにばらばらにしていじりまわすって事だったの?もし、それが本当なら……」
 街を焼く炎を背に、その灼熱に染まった華奢な身体がゆらり、と武骨な剣を差し上げる。何も言わず、横から割って入ったダンフェイがその腕を取り、無理やり剣を下ろさせた。
「大叔父様、放してください!」
「収めろ、添王子、そんな事をしている場合ではない。ここも大分足場が悪い、まず下りて身の安全を確保するべきだ。街はまだ混乱の極み、我らにはやるべき事が山とある!」
「そうだな、甥よ、あの者がお前とそれほど深き縁があったというのであれば、せめてここが崩れる前にその亡骸を見つけてやるがよい。神聖なる竜を怒らせ、あまつさえその器に手を下した。我らは等しく天に牙むき大罪を犯したのだ、国の為、民の為、もとより言い訳はせぬが、せめてその骸は我が国最高位の礼を尽くして弔ってやろう」
 王の重々しい言葉に添王子が唇を噛み、眼を伏せる。その時、彼方でまたひと声竜が吠えた。獅子に喰らいついていた口を離し、尾の一撃で吹き飛ばすと急にものすごい勢いで山の斜面を掘り始める。ざっくり掘られた大穴にその身が消えると同時に、上から崩れて来た雪の塊がその穴にはまり見事に留まった。
「竜が、消えた……」
「本当に、死んだ、か……」
 呟いた身内達を捨て置いて、一動作で身を返すと添王子は呼び出した獅子の背に乗り、城を一気に駆け降りた。街の煙が全て昇ってくるせいでもうもうと霞んでいる視界の中、倒れ伏しているであろう人影を一心に探す。これだけの惨事にもかかわらず、崩れた瓦礫の中には人らしき影はひとつも見当たらなかった。人が皆逃げ出した後で、本格的な破壊が行われたのだ。立ち込める煙と土ぼこりにむせながら駆けまわる王子の前に、ふと、人影が近づいてきた。
「……誰?」
「添王子、俺です」
「サレ?」
 土ぼこりで艶やかな髪や肌を灰褐色に染め、瓦礫を登ってきた相手に王子は慌てて駆け寄った。なんで追いかけて来たの、と呆れ顔を向けると何言ってんですか、俺は王子を連れ戻しに来たんですから、と苦笑される。僕がここにいるってことよく分かったね、と言いかけて顔を強張らせた添王子に、その事なんですが、とサレは空を振り仰いだ。
「添王子……唯人を探しているんですか?」
「え、なんで?」
「唯人が、ここに落ちたって思ってるんですよね?」
「だから、何で!どうしてサレがそれを知ってるの?」
「俺、見たんです。今さっき、この眼で」
「唯人を?」
「うん……」
 生返事で、サレは王子に視線を戻し、もう一度上を向いた。
「王子、ちょっと前の話になるんですけど、覚えてます?エリテアで俺達が裁判にかけられた時、アーリットの偽物がいた事」
「ああ、唯人の霊獣の、鏡精とか言ってたよね。あんなにそっくりでちゃんと会話もできるって、すごいなって思ってた……」
 そこまで話した、添王子の眼が瞬時に目一杯見開かれた。
「え?え?それって、もしかして……?」
「見たんですよ、上から人が落ちてきて、唯人みたいだなと思ったら、地に着く前にひらりと白い鳥になって飛んでいってしまいました。今、トウアが後を追ってるんですが」
 埃まみれの顔で安心させるように笑う婚約者の広い胸に、添王子はどっと涙の溢れだした顔を押し付けた。
「良かった、良かったぁぁ……!」
「とりあえず、その事は今は内緒にしておきましょう、できますか?王子」
 遅れてやってきた王族達の気配を感じ、サレがそっと添王子に囁きかける。安堵の叫びを飲み込んで、添王子は鼻声で頷いた。

追憶~最古の神殿

 垂れこめた雲の向こうで陽が山に沈み、空がこの地独特の青味がかった灰に染まる頃。兵や市民の尽力によって火の手は徐々に勢いを弱め、そこここで細い黒煙を立ち昇らせるだけとなっていた。こういうときだけは、街の周囲に余りある厄介者の雪が水代わりとなって役に立つ。竜さえいなくなれば逃げる理由もないので、火事が消えると人々は徐々に市外に戻り、崩れた道路や石段をなんとか昇って自宅や家族の安否を確かめるべく各々散っていった。
 その誰もが、まだ気付いてはいなかった。
 煙は、まっすぐ昇り低い雲に混じってゆく。
 街じゅうを吹きすさぶ風が、いつの間にかやんでいた。
 強弱はあるものの、けして絶える事の無かった山に向かう風。それがぱったり止まっている。昨日までの街だったなら、その静けさで皆その異変に気付いただろうが。
 今、街は異常な喧騒に溢れている。
 城の敷地から転がり落ち、倉庫街に直撃して数棟を下敷きにしたあの太陽の天蓋に、人が集まり始めていた。
 これは、偉大なる街の象徴。
 なんとしても、街じゅうの眼に触れるあの場に戻さなくてはいけない。
 皆の眼が、崩れかけた王城を振り仰ぐ。
 大丈夫、と誰かが言った。
 大丈夫さ、と声が上がる。
 大丈夫、我らは強い。この回円主界最強の民族なのだから。
 さあ、街を建て直そう、そして竜に耐えた街だと誇りを持ってこの太陽の象徴を再び天に掲げよう。
 誰ともなく、歌が始まった。
 この街でごく普通に、誰もが仕事の合間、そして夜の酒場等で歌う古い勇壮な歌。元々は戦の前に己を鼓舞する戦士の歌だった。
 やがてそれに応えるように、別の場所からも同じ歌声が響く。あちこちで声が上がり、最後にはまるで街そのものが歌っているような勢いになった。武骨で荒く、飾り気のない彼等そのままの調べが空気を震わせ、背後の山肌にいんいんと響き渡る。
 その生命力そのものの歌声を眼下に聞きながら、傾いた城の屋上で、唯人は一人力なくうずくまっていた。
「唯人、身体の具合、どう?」
 差し伸べられてきた手を、緩慢な動きで避ける。本当は力一杯撥ねつけてやりたかったが、腕がまだ上がらなかった。半裸だった身体は既に地下から回収してきたもとの衣服に包まれている。あくまで献身的に、不自由なく面倒を見てくれる彼。成す術の無い自分を助けてくれた、それは分かっているが、唯人の心中はどす黒い怒りと混乱で煮えくりかえっていた。
「寒くない?毛布でも持ってこようか?」
「……」
「もう少ししたら、何か食べる物探してきてあげるから、お腹空いてるよね」
「……そんな事、どうでもいい」
 顔を上げ、覗きこんでいる顔にまるで醜悪な化け物でも見ているような嫌悪の視線を向ける。それに対し、相手はいささかも怯む事の無い微笑を返してきた。
「あれ?まだちょっと怯えてる?無理もないよ、ひどい扱いされたものね」
「ミラ、僕が、この状況を、喜んで、受け入れるような、人間だと、思っていたのか?」
 ミラにこの場に運ばれた後、アシウント王族がやってくるのに気付いて奥に身を隠された辺りから、唯人はぼんやりと意識を取り戻していた。竜の怒りに触れ燃えあがる街、自分を信じてくれた王子の悲痛な叫び、人々の混乱と恐怖……それが自分、全て自分から出た事なのだと理解すると、動けない事が、この事態を招いてしまった己の責任が背後の山のごとき重圧でのしかかってきた。右手だけでも動かせたら、この場で左腕を斬り落とし、眼を抜いてしまいたい程だった。
「うーん、申し訳ないけど、ここの人間は君を捕えて傷つけようとした。それに対する落とし前、ってのはつけさせてもらわないとさ。その辺は君の良く知らないここの世界の道理なんで、僕に任せて貰ったんだけど」
「僕は、それに対して口を挟む権限は一切無かったと言ってるのか?」
「まあね、縛られてあっさり寝ちゃったし」
 ふふ、と含み笑いされ、今にもこぼれおちそうな涙をぐっと堪えると、唯人はゆっくり壁に手をつき立ちあがった。すぐにぐらりと傾く上体を慌ててミラが支えようとする。それを今出せる全力で避け、がっくりと膝をつくと唯人は絞り出すような叫びを吐いた。
「もう……もう沢山だ、これ以上流されて、どんどんいいようにされて……信じてたのに、ミラ、君だけは!」
 激情のまま、鋭月を出し逆手に持つと切っ先を己の左目に突きつける。強張った声で、唯人は上目の視線をミラに向けた。
「……出て行ってくれ、今、ここで」
「唯人……」
「君だけじゃない、みんなだ、みんな僕から消えろ。僕はいらない、もう誰もいらない!!」
「唯人、ちょっと落ち着いて、僕はしょうがないかも知れないけど他の子はいいじゃない。今一人きりになって、どうする……」
「うるさい、僕に話しかけるな!!」
 まだ力の入らない手が大声で震え、揺れた刃先が頬を浅く削いだ。びっくりして飛び出した綱手が鎌首を上げ、おずおずと首に絡もうとする。傍らに現れた鋭月は、眉を寄せた物言いたげな表情をしたが、黙して主の意に従った。
「唯人殿が、そう望まれるのであれば」
「しゃあねぇか」
 バレット達と火種を連れ、スフィも出てくると恨めし気な目付きでミラを睨む。標、、流、そしてどうしたらいい、と困っている薄荷……綱手は最後まで渋っていたが、唯人が本気で自分を削ぎ落そうとしているのだと分かると、のろりと這い出し足元の地に消えた。
「唯人、怒っててもこれだけは聞いて、君はおチビを見捨てるの?」
「……」
「おチビは、得体の知れない相手に捕まって君が助けに来るのを待っている。そこには確実にあの破壊主がいるよ?たった一人で向かっても、まず相手にならないだろう。君は、あいつと対等に闘えるよう世界を巡って僕達を得たんだ。ここでそれを全て捨てて、おチビも捨ててしまうってのかい?」
「アーリット……?」
 まるで今初めてその名を聞いた、と言わんばかりに唯人の口から虚ろな声が漏れた。のろのろと身をかがめ、今自分から出て来た太刀と銃だけを拾い腰に差し、背に負う。その他はもう目にも耳にも入らないといった面持ちで、ゆらりと身を返すと唯人はかなり危険そうな崩れかけの階段へ歩いて行こうとした。
「え?ちょっと待って、そこは危ないって!そんなとこ使って降りるなんて思ってなかったから……」
 まいったな、こんなに拗ねちゃうなんて、と何とか説得を試みようとする。
 その二人に向かって、ふいに物影から何かが勢いよく飛んできた。
「唯人っ、危ない!」
 すぐにミラが防御を張り、向かってきた何かを弾き返す。瓦礫に当たって落ちたのは、見覚えのある小刀だった。
「……これは」
 すかさず、全然違う方向から次々と刃が浴びせられてくる。姿の見えない殺意に向け、唯人は震える声で呼びかけた。
「トウア、トウアなのか?どうして僕を……」
「どうして?どうしてって?」
 姿の無いまま、物影から感情の無い声音の返事がかえってきた。しかし次の瞬間、まったく別方向からまた刃が向かってくる。ミラの防御に卵の殻状態で全身すっぽり覆われて、唯人は必死で相手を探そうと周囲を見渡した。
「出てきてくれ、トウア!」
「やだ、なんで殺る相手の前にのこのこ出なきゃならないの」
「僕を……殺す?」
「うん」
「君が……?」
「そう、あの人の為なら、あたしはあんたでも始末する」
「違う、僕は!」
「分かってるって、あんたが望んでやったんじゃあないって事。でもね、あたしみたいな小物が竜を倒そうと思ったら、やっぱやれるのはあんたの命を獲るしかないの。あんたは竜を抑えられない、ならまた竜が気まぐれで暴れ出す、エデル様のお屋敷がどうにかなっちゃうその前に、なんとしてでもあんたを片付けなきゃ。あのお貴族様連中よりずうっとあたしの目鼻は利くんだから、逃げようったって無理よ?どこだろうが追い詰めて、その喉を斬り裂いてあげるから」
 姿の無いままぐるぐると周囲を巡る声に、もう、とミラが腰を上げた。
「随分とうるさい小鼠だな、うっとうしいったら。あのね、今日の騒ぎは全部僕がやったんだ、唯人は関係ない。文句や苦情は僕が受け付けるから、とりあえず他所で穏便に話し合わない?どうしてもこの子の命じゃないと納得しない、って言うんなら、僕は彼を護る精霊獣として君に接せざるを得ないんだけどさあ」
 ミラの言葉が終わると同時に、また返事代わりの刀が飛んできた。ああそう、じゃ、ちょっと遊ぼうか、といつもの笑顔のままの姿がゆらり、と大型の獣に変わる。まるで重さを感じさせない動きでひらりと瓦礫の向こうに飛んだその後を、慌てて唯人も追おうとした。
「やめろ、やめてくれ、二人とも!」
 すかさず狙ってきた刃が、またも背で跳ね返る。振り返ろうとして、まだしっかりしない足取りがぐらり、とかしぎ……。
 あっけなく、その身は崩れた床を踏み外した。
「わあっ!」
 ぐるりと周囲が回り、浮遊感が身を包む。瓦礫の山に叩きつけられる…と身を固くした、その腰が宙でがっしと何かにつかまれた。
「……え?」
 ばさばさと黒い巨大な翼が羽ばたいて、一気に外へと急上昇してゆく。上から伸ばされてきた腕に引き上げられ、鳥の背に乗ったその相手が誰なのか理解した瞬間、唯人の全身から一気に音を立てる勢いで血の気が引いた。
「毎度の事ながら、命を粗末に生きているようだな、創界主」
「破壊主……?」
「これは、妙だ、お前は本当に創界主なのか?ギュンカイでまみえ、まだそう経っていないはずだが。病んで死ぬ寸前の獣のごとき気の色をしている」
 こちらを向いている黒い仮面。
 その変わらない様相に向かい合い、最初の条件反射的な衝撃が過ぎてしまえば、今の唯人の心に怖れとか闘志とか、彼に対するこれまでのような心の動きは一切何も起こりはしなかった。
 僕にはもう、彼を悪と決め付け、断罪する資格は無い。
 他でもない、この僕自身が同じ事をしてしまったのだから。
 ここで彼が僕を殺したとしても、それはいわゆる同志討ちで、それはそれで良いのかもしれない。
 そうだ、最初から聞かされていた事じゃないか。
 僕もまた、創界主という名の災厄だったんだ。
 ふいと相手から眼を逸らし、唯人は彼方の景色に向かってぽつりと囁いた。
「僕を、殺しに来たのか?」
「いいや」
「なら?」
「創界主、我が主がお前を望んでいるのは聞いたであろう。翆眼鬼も手に入れた、見たところ、お前はもう我の遊び道具には成らぬ、なら我にはどうでも良い。翆眼鬼に会いたいと願うなら来るがよい、我が主の研究の材となるために」
「翆眼鬼……アーリット?」
 アーリットに、会いたい。
 淀んだ水の中に注ぐ一筋の清流のようなその思い、今の唯人には、もうそれしか縋れるものはなかった。
「うん、行くよ」
 垂れこめる雲を抜け、もう暗くなった空へと高度を上げる。山と、街が全て見渡せる高さに至った所で、虚ろな視線をぼんやりと飛ばしているだけの唯人に、破壊主がふと、独り言じみた声をかけて来た。
「まるで、蟲の抜け殻のごとき有様だな、少し触れれば崩れ散りそうな」
「……お前と同じ、もう何もかも、どうでも良くなったんだ」
「我は、別に何もかもがどうでもいいと言った覚えは無い、我を知ったような事を言われては気に入らぬな」
「ごめん」
「見るがよい、創界主」
 促され、眼下を見下ろすとちょうど真下にレイオート山の頂があった。街を舐め、山肌を吹き上がった煙はそのまま頂上のあの〝境界〟に向かったのか、沢山いた霊獣師達は全て避難しその姿は一人もいない。
 だのに、山向こうで隙あらばなだれ込んで来ようとしていたはずの靄は、嘘のように静まり逆回しの映像のごとくもやもやと海の方へ沈みつつあった。まるで、街からの煙に怯えているかのように。
 どんどん離れてゆく、その不思議な光景がやがて山向こうに消え、唯人は傍らの破壊主の黒い仮面を振り仰いだ。
「理解したか?人々の怖れ、嘆き、苦痛、混乱を乗せた風が〝虚無〟に向かって吹きつける。それがあれに抗ずる唯一の手段だったということを」
「そんな事って……」
「あの街は、小国同士の小競り合いの期を終えてより、平穏が続き過ぎた。平穏とは変わらぬ事、変わらぬ物にはやがて飽きが来る。世界を保ち続ける存在に飽きられれば、それは忘れられ、虚無となってしまうのだ。そこにどれ程長く貴い歴史があり、無数の命が存在していたとあってもな」
「黒の破壊主、お前はやはり、この世界の国々、そこに暮らす人々の為に、破壊行為を続けていたのか……?」
「さあ」
「なぜ、これまでアシウントだけを避けていた?」
「我が主が、それを望んだのだ。過去、己を捕え、裁き、処刑の憂き目にあわせたとて、やはり故郷の地という意識は捨てられぬものであったらしい。その陳腐な感傷が、結果としてより重い災厄を招くことになったとも知らず」
「じゃあ、僕は……僕のやった事は……」
「お前は何もやってはいないだろう、何も知らぬ身なのだから。知ろうとする事もせず、眼の前の事実に怯え、耳と目を閉じ引きこもってしまった水底の貝と等しき存在だ」
「……だって」
「まあ、その堅い殻の内に籠った軟弱な身を、欲しいという者もいる」
 ごうっ、と、黒い翼が風を切る。二人の乗った黒い巨大な猛禽は、明らかに鷲獣や他の飛ぶ生き物とは段違いの速さで空を進んでいた。もう大レイオート山脈は遥かに霞み、歩きだと数日かかるトリミスの街の光が近づいてくる。それも一気に通り過ぎ、彼方にテルアを望むキントの上も過ぎ……。
一体どこまで行くんだろう、と唯人が漠然と思い始めた頃、ついに鳥が高度を下げるべく両の翼を傾かせた。もうすっかり暗くなった空の下、視界の先に、明るい月光を受け砂漠の砂が白く輝いている。眼下は一面の漆黒の森、これは、この構図は……。
「アリュート……?」
 斜めに円を描くように回り込むと、本当に塗りつぶした暗色の森の中、あの石を敷き詰めた広場が見えてきた。みるみるうちに高度が下がり、広場にでも降りるのかと思ったら、鳥はその隣にあるラリェイナを戻した〝道〟を開く為の遺跡に迫り、唐突に不思議な鳴き声を響かせた。
「あ……」
 鳥の声に応えるように、平らな場にゆらゆらと光の金糸が生え、編み上がって縁あり皿みたいな輪を形作る。淡い光に満ちたその中心に、鳥はくるりと宙返りすると頭から、真っ逆さまに突っ込んだ。
「……わあっ!」
 地に叩きつけられる、と思わず唯人は目を閉じた。ごうっと風が耳元で鳴り、次の瞬間ふっと静寂に包まれる。少しの浮遊感があり、堅く閉じていたおそるおそる開いてみたら、既に周囲の景色は一変していた。
「こ、ここは?」
「お前が知る場の、知られていない空間だ」
 傍らに立つ破壊主の声に、慌てて自分も立ちあがる。既に鳥の姿は無く、唯人は壁も天井も床もはっきりしない、薄赤い光を含んだ空間にいた。透けているのか本当に無いのか、質感のつかみづらいもやもやした周囲を赤黒い管が縦横に走り、その中を微かに光る点が巡っている。入ってすぐのアリュート内部に似ていなくもないが、何となく、生き物の体内を思わせるやや気味の悪い光景だった。
「僕が知っているという事は、ここはやはり、アリュートなのか?」
「そう、その最深部、この神殿の中で一番重要な間だ」
「こんな所に、お前の主人がいるのか?」
 なんだかおかしい、自分に向けられた顔に、黒い仮面は応える事はせず歩きだした。
「知ろうと努力もしない、って僕に言ったな。なら聞かせろ、それまではここを動かない!」
「少しは、賢くなったようだな」
 カッ、と足を止め、仮面が振り返った。
「結論から言うなら、我が主はここにはおらぬ。もうこの世界におらぬ、というべきか、お前と話した直後に死んだのでな」
「え?」
「しかし、翆眼鬼は間違いなくここにいる。会いたいとお前が望んだのだ、来い」
 もう本当に、心底訳が分からなかった。
 破壊主を使っているという存在がいて、あのアーリットを容易く拉致したと言ってきた。
 そいつが自分も手に入れて、実験に使うとかで。破壊主が迎えに来たのに付いて行ったらもう死んだと言われた。
 もしかして、死んだのは中核でまだ上がいるとでも言うのだろうか。
 頭がぐらぐらしたが、唯人はアーリットの事だけを考え破壊主の後を追った。
 何だか、ひどく口が乾いてしょうがない。そう思った後で、ああ、流がいないんだと気付く。
 ここには、誰もいない。
 みんな置いてきた、本当に僕一人。
 もしまた騙されたとしても、辛い目にあうのは僕だけ。
 僕一人で選択した、僕の結末だ。
 腰と背、武器二つの重味がずっしりと上体にかかってくる。自分と共に、自分を全力で助けてくれる武具ではなくなってしまったから。ただの手入れされた古刀、それと弾の無い銃。
「やっぱり、これも置いてくれば良かったかな」
 自嘲気味に呟き顔を上げた、その瞬間……。
「アーリッ…ト……?」
 暗い中、ふいにぽつんと倒れている白い身体が目に飛び込んできた。
「アーリット、アーリット!!」
 白く長い手足を小さく丸め、そこだけ濃い靄に埋まるように一人横たわっている。その身体には薄青の布が一枚掛けてあるだけで、顔は伏せられここからは見えない。しかし闇に馴染む事の無いその褪せた金髪を見ただけで、唯人の身体はそちらへと駆けだそうとした。
 その足元に、ざん、と黒い鎌の刃が突き立てられた。
「お前、アーリットを……お前がやったのか?破壊主!」
 震える声で問いかけても、やはり、黒い仮面は何も応えはしない。
「翆眼鬼に会い、少しは気力が戻ったか?では、あれをこの刃の錆とせぬよう我と戯れる事もできような」
「何故だ…」
「……」
「こんなの、何の意味がある…」
「……」
「僕とアーリットに、どう在れと言いたいんだ、お前は!言ってくれ、言えってば!」
「……ゆくぞ」
 鈍い赤に縁取られた長身がゆっくりと得物を構え、鎌の刃がぼんやりと光る。自暴自棄になりかけていた頭に黒雲のごとく湧き上がった激情そのままに、唯人も太刀を抜き放った。
 許さない。
 消えろ。
 消えてしまえ。
 もう沢山だ、何もかも。
 いつもの鋭月との一体感は、もう伝わってこない。よそよそしい感触の刀身はずっしりとした重さを手に与えてくる。しかしそれに構わず、唯人は眼の前の相手に一気に斬りかかった。
 黒の破壊主。
 強い敵、みんなの力を集めてようやく立ち向かえる災厄の具現。
 いつだって、怖かった。
 それは、死にたくなかった、生き延びたいと思っていたから。
 百年を約束した、あの人の為に。
 今、僕は一人、誰も助けてくれはしない。
 僕が助けるんだ、あの人を。
 その唯人の心を見透かすように、破壊主が言葉をかけてきた。
「創界主、我が何ゆえ、お前をこの場に連れて来たか分かるか?」
「分からない!」
 薄い刃と鎌がぶつかり、鋭い音と火花を散らす。曲った刃先が唯人の鎖骨の辺りをかすめ、一筋の赤い線を引いた。
「ならば教えてやろう、ここは翆眼鬼の忌まわしき記憶を封じた場、世界の滅びの始まりの場よ。貴様の死を間のあたりにし、怒りで狂気に堕ちた翆眼鬼が封じられた己を呼びさまし、世界に呪いをぶちまけるのだ」
「そんな事、アーリットがやるはずが……ない!」
「やるとも、今の翆眼鬼ならば確実にな。そして呪いで腐り、溶け崩れ生命の欠片ひとつ残さず滅んだ世界に世界主は新しき創界主を招くのだ。何ひとつ無駄のない、素晴らしき筋書きであろう?」
「それっておかしい、矛盾してるじゃないか、世界を滅ぼす気だったなら、なんで廃化を抑えようとしてたんだ!」
「破壊は、けして〝無〟ではない、再生の為の初期化だ。無の中にお前がいくら虚像を築こうとも、それはあくまで幻に過ぎぬ。もとあった物を屠り、崩し、その残骸を敷き詰めた苗床から新しき世界は芽吹くのだ。さあ、死ぬがよい、世界の意に沿わなかった創界主よ、翆眼鬼の目の前でその命を華々しく散らすのだ!」
 声と共に、ぐん、と振り上げられた刃が迫る。辛うじてかわしたが、今の唯人にはもう彼に互角に立ち向かう力は無かった。
 ……ミラ。 
 君の筋書を、最後の最後で僕は壊してしまったのか。
 僕はここで、君達と共に破壊主と闘い、打ち倒さねばならなかったのか。
 間違えた僕とアーリットは、この世界の贄になる。
 ここで殺され、壊れ、新しい世界の大地の塵のひとつとなる。
〝世界と君が、良い結末を迎えられるよう願っている〟
 でも僕は、世界に声を、願いを届ける事はできなかった。
 ごめん、アーリット。
 好きだった、本当に大好きだった。
 少し神経質そうなその面持ち、見とれるような緑の眼とくせのない金の髪、僕の為に、本当に変わった体つき。
 意地悪で皮肉屋、とてつもなく口が悪い。でも本当は、心配性で寂しがり。
 僕のこの気持ちは、全て君を追い詰める為、大切な存在をまた失い、正気を捨てさせる為に精製されたとろけるように甘い猛毒だったんだ。
 でも。
 そうだ。
 だったら、僕は死ねない。
 何がどうあろうと、僕はけして死んではいけない。
 君のため、ただそのために。
 ぼんやりと赤い暗がりの中、倒れている白い身体がふと、微かに身じろぎした。
「破壊主、僕は断じてお前の思い通りになりはしない」
「そうか」
 必死で気力を奮い立たせてみたが、すでに身体の至る所に深い傷が刻まれ、血を吹き重く疼いていた。息は荒く、吹き出す汗が目に入って視界が揺らぐ。
 どうあっても、差しの接近戦ではかなわない、悔しいが格の差があり過ぎる。まったく変わる事のない相手の様子がそれを物語っている。
 ……なら、もうこれしか道は無い。
「アリュート!」
 ぼんやりと暗い周囲に向け、唯人は大声で呼びかけた。
「聞こえるか?アリュート、お前が過去のアーリットだと言うのなら、どんな事でもいい、僕達を助けてくれ!」
 その言葉を終えた瞬間、何かが起こるのを待たず唯人はある一点、倒れているアーリットに向け駆け出した。破壊主と打ち合っている間に、上手くアーリットのいる方に位置取りする事ができたのだ。ここはアリュートの内部、アーリットの意識さえ呼び覚ます事ができたなら……。
 距離感の分からない空間の中を、全力で駆ける。
 その時、足音でも響いたのか、ぴくりともしなかった顔が出し抜けにくるりとこちらを振り仰いだ。乾いた血で塞がってしまっている眼を、爪の割れた指先でこすり無理やり開こうとしている。ぽっと薄暗がりに微かな緑光が灯り、片方だけ薄く開いたアーリットの眼が、まっすぐ唯人に向けられた。
「……ぁ」
 掠れた、吐息同然の声。でも僕を見て、僕を呼んでいる。
 行くよ。
 もう少し、もう少しだから。
 遅いぞ、っていきなりぶん殴られるかな。
 あと数歩、もう手が届く…。
「……!」
 え?
 ひゅん、と鋭利な気が脇の下あたりを吹き過ぎた。
 ふわ、と身体が軽くなる。まるで背に翼でも生えたかのように。
 軽い。
 飛んでしまう。
 周囲が、なぜか唐突にスローモーションになった。
 ゆっくりと、迫ってくるアーリット。
 もの凄く緩慢に身をおこし、両腕を開いて迎えてくれる。
 その懐に、軽やかに飛び込んだ。
 暖かい、柔らかい、そしてあのいい匂い。
 アーリットだ。
 ああ、やっと会えたんだ。
「……ぅ」
 また、あの変な掠れ声でアーリットが呻いた。
 分かった、喉を潰しているんだ。
 指先も血だらけで、片方の目は赤黒く固まってまだ開かない。
 可哀想に、どんな目に合わされたんだろう。
 どんなに、心細かっただろう。
「……?」
 あれ、変だな。
 僕も、声が出ない。
 どうしたんだろう?
 アーリットが、待ってるのに。
 早く、言ってあげなくちゃ。
〝もう大丈夫だよ〟って。



 笑ってる。
 笑ってる、こいつ。
 何が面白いってんだ?
 俺は今、お前のせいで最悪な気分だってのに。
 ああ、終わったよ、何もかも。
 腕の中にお前がいる。
 阿呆面で、俺を見上げてる。
 馬鹿が、綺麗な肌を傷だらけにして。
 勿体ない、俺なんかの為に。
 お前の背中にざっくりと開いている、赤い断面。
 繋がってるのは、衣だけか良くて皮一枚ってとこだろう。
 溢れ出す、生温かく濃いお前の命。
 俺の腹に、膝に流れ、まとわりついて広がってゆく。
 眼は、綺麗だ。
 まだ、俺を見ている。
 黒い両の眼の中に、歪んだ俺が映っている。
 抱え上げ、きつく唇を重ねてみた。
 温かい。
 まだ、こんなに温かいってのに。
「……死んだな」
 ああ、言ってくれなくても分かるって。
 死んだんだ、こいつ。
 護れなかった。
 俺は、何をしてたんだ?
 何も。
 何もしなかったんだ。
 この界最強なんて言われ。
 長い事生きてて。
 何も。
 何ひとつやらなかった。
〝あの時と、同じ〟
 ほら、俺の中の。
 屑が。
 俺を壊しにやって来たぞ。
〝死んだ〟
 どくん、どくん、と鼓動と同じ調子で周囲の輝点が怪しく巡る。
〝死んだ〟
 俺に、ありったけの憎悪をぶつけたいのか。
 いいさ、来な。
〝死なせた〟
 好きなだけ吼え、わめけ。
 俺を、断罪するがいい。
〝死なせたな〟
〝死なせたな死なせたな死なせたなしなせたなしなせたなしなせたなしなせたなしなせたなしなせたなしなせたなしなせたなしなせたなしなせたなころしたなころしたなころしたなころしたなころしたなころしたなころしたな殺したな殺したな……殺したな〟
 殺したな。
 また、殺したな。
 死なせないって言ったのに。
 忘却と引き換えに、繰り返さないと誓ったのに。
 お前は、何も変わらなかった。
 なら、罪を戻してやろう。
 お前の罪だ。
 受けとれ、そして思い知れ。
 どれだけ逃げても、忘れたつもりだったのでも、罪はお前自身の中に埋まっていたのだという事を。
 思い出すがいい。
 お前が自身で封じた、その全てを。
 腕の中の、死んだ眼に映っているその顔。
 お前と同じ顔、お前を産んだ。
 その娘に、お前が何をしたのかを。
 蓋が開く。
 堅く閉ざされていた禁忌の封印。
 その向こうにいるのは。
 ……懐かしい顔。
 お日様みたいに輝いていた、生命そのものの姿。
〝初めまして、よろしく、アリュート……?〟
 あれは……あの娘は……?。
〝私の名はマーリャ、みんなは痩せっぽちのマーリャ、って呼んでた〟
 初めて見た生き物だった、獣としての基本形は満たしているが、毛の生え方が極端で手足は変に長く、生物的に不自然な姿勢に進化してる。
 創界鏡から吐き出されてきた時は、言うとおりひょろひょろしててびしょ濡れで。でも落ちつくと、嵐の日の木々のごとく賑やかになった。許してもいないのに神殿の中に勝手に住みついて(駄目だとも言わなかった気がするが)そこらの獣の食べている物を毎日集めてひとつずつ口にして、いちいち派手に反応した。美味しい、甘い、辛い、酸っぱい、渋い、臭い、不味い……お腹一杯、満足。
 味、自分達にはない感覚。歌、自分達にはできない行為、それを、必死で教えようとしてくれる。
 他の獣を見るよりは面白かったので、双界鏡と一緒に毎日眺めていた。飽きもせずに日々喋り続けながら、枯れ草で寝床、石でかまどを作り、穂綿を集めて衣服を織って……やがて、神殿の一角は彼女の作った物で一杯になった。
 そんな彼女が、来た時より少し太くなり、すっかりここの暮らしに馴染んだ頃。知り合いのミストウェルが、彼女を世界主の元に連れて行くと言ってきた。
 ミストフェルは、星の外から来た訪問者。何でも知ってて何でもできて、世界主に絶大な信頼を持たれている。その彼の言葉は、何であろうとこの世界のものにとって絶対だ。
 世界主は、今のこの世界にもう飽き始めている。マーリャの世界を伝え、新しくこの世界を再生しよう。
 世界主が、一定の期間を過ぎると自分の世界に飽きてしまうのは、初代神殿の自分が生み出された時からの決まりごとだった。その度に、ミストフェルが自分の知っている様々な世界を教えてここを再生してきたのだ。長年続いてきたこのやり方だったが、ミストは世界主にできうる限り優しい、穏やかな世界を選んで与えてきたので、ついにそういう類いのネタが尽きてしまったらしい。
 そこで一計を案じ、双界鏡の力を借りて連れてこられたのがマーリャであった。
 マーリャの星、水気星。
 星のほとんどを占める大海に大きな石が降り、そのせいで襲ってきた大波に飲まれ彼女は死の縁にいた。
 世界主は、世界と引き換えに願いをひとつだけ叶えてくれる。
 彼女は、自分の世界を教える代わりに終わる運命を書き換えてもらう、そういう約束だった。
 そう聞いていた。
 だから。
 自分は、主のいなくなった部屋を眺めながら、廃地の処理をやっていた。
 世界が入れ替わる間際には、廃地は必ず世界の縁から広がってくるものだったから。
 新しい世界に移るまで、〝靄〟を式で防いで足止めして、時には世界主の退屈を晴らす為にわざと派手に地面を破裂させて騒いでみたり。そんな事をしていたら、ミストとマーリャが戻ってきた。
 ん?その膨れ上がった腹はどうしたんだ?
 赤ん坊?おお、増えたのか。
 その時は、マーリャが赤ん坊とやらを増やすのに、相手が必要などと知る由も無かった。雑草と同じ、時がたてば自然に増えるのだと思っていた。
 赤ちゃんは、小さいもの。わたしよりずっと小さいけど、鳴き声はうんと大きくて、ほとんど寝てばかりいるの。
 ずいぶん違うんだなと呆れたら、わたしもみんな、そうだったのよと彼女はまた笑った。
 じゃあ、しばらくしたらマーリャが二人になるんだな。
 ああ、また神殿の中の物が増えるのか。
 でも、楽しいとか思ってる。
 このままどんどん増え続けたら、いずれここだけじゃ狭くなるとか思っていたら、ミストががっかりさせるような事を言ってきた。
 彼女は、世界主に望みをかなえてもらったら自分の世界に戻る、そういう決まりになっている。
 なんだ、せっかく楽しくなったのに。
 でも、次の世界はマーリャの世界、ならきっとまた楽しくなるだろう。
 そう思って、廃地の処理を続けた。
 気付けば、なんだか、随分迫ってきた気がする。
 なんで、世界は変わらないんだろう。
 いつしか、マーリャはあまり笑わなくなっていた。更に大きくなってゆく腹を抱え、ただぼんやりとする日々が増えた。
 彼女は、悩んでいた。
 自分は、約束通り運命を変えてもらって自分の世界に戻ってゆく。
 でも、この子は?
 ここで授かった、私の世界にはいないはずのこの子はどうなるの?
 実は、世界主に会い自分の世界を伝えた時、マーリャはすぐに自分の願いを言わなかった。しばらく考えさせてもらいたいと告げ、アリュートに戻ってきたのだ。
 子供がどうなるかという事など、ここにいる誰にも分からない。そんな事を聞く為に、世界主の報酬は使えない。
 悩んでいる間にも、廃化はどんどん進む。
 そして、唐突に。
 世界の大規模な崩壊が、予想を上回る速さで始まった。
 けしてやって来るはずの無かった〝虚無〟が、周囲全てを灰色に染め、迫ってくる。
 消えてゆく、草木の緑。流れる水、生き物たち。
 ああ、でもマーリャだけは護らないと。
 大事な〝赤ん坊〟を産むんだから。
 ありったけの式を使い、神殿の重要度の低い部分から景気よくぶっ壊して騒ぎ立てた。
 それは、自分自身を崩壊させる最終手段。
 残った本殿の奥底にマーリャを隠し、ひたひたと迫る〝無〟を残る力で防いでいたら、彼女が呼びかける声がした。
 アリュート。
 決めた、私の願い。
 私、もう戻らなくていい、ずっとここにいる。
 この世界に産まれるこの子を、新しい世界の一員にして。
 でも、もしかしたら。
 私に何かあった時、この子にも悪い事があるかもしれない。
 だからアリュート、あなたが。
 この世界に最初からずっといたあなたが、この子と一緒にいてあげて。
 今の世界と神殿が壊れ、あなたが危うくなってしまったのは、私が迷ったせい。
 だからあなたに、この子という新しい器をあげる。
 わたしがあげられるのは、この子しかないから。
 その願いが世界主に届いた。
 その瞬間、世界は再生した。
 水気星の世界そのものを写し取った、新しい世界。
 新しい木々、草花、獣、魚、蟲……そして新しい人間。
 甦った世界の中、甦らなかった神殿のあの一画で、マーリャの子として生まれ、初めて彼女と同じ感覚で世界を知った。
 見る事、聞く事、音で通じあう事。
 物の手触り、色、香りが全て違う事。
 己を取り囲む〝実感〟にただ翻弄される日々。
 ただ何も言えず、何もできず日々が過ぎてゆく。
 その日もそんな、変わらない朝のごくありふれた光景だった。
 冷える季節になる前に、穂綿の産着を作らなきゃ、と彼女が呟いた。
 含んでいた乳を外され、またお昼にね、と寝かされ籠を持った背が外へと向かう。
 ミラ、おむつが濡れたらお願い。
 教えたの、ちゃんと覚えた?
 出入り口を抜け、逆光になった彼女の背が、突然押し寄せた幻の水に包まれた。
 宙に浮く身体、緩慢にもがく腕、揺らめく髪……吐き出される泡。
 ミラが驚いて駆け寄ったが、既に次元が分かれているのか、どうする事もできない。
 見るしか、見ることしかできない自分の前で。
 彼女は幻の水に翻弄され、暗い水底へと沈み、そのまま消えて行った。
 それが、彼女の運命。
 残酷で、でもありふれた死。
 避けなくてはならなかったはずの、この世界と引き換えるはずだった運命。
 こんな。
 こんなのって。
 こんな事になるなんて。
 何がいけなかったんだ。
 一体、どこから間違ってしまった。
 マーリャを好きで、護りたかった。
 その思いが、間違いだったのか。
 いない、マーリャはもういない。
 考えても考えても、どうすれば良かったのか、正しい結論が出てこない。
 それでも闇雲に、ただただ考えて続けていた。
 ミストとミラが、しきりになにか仕掛けてくる。
 鬱陶しい、ほっといてくれ、思考がまとまらない。
 まとまらないのは、お前が弱っているせいだ、アリュート。
 その脆弱な身体で、食べも眠りもしないで考えて。
 これ以上それを続けたら、死んでしまう。
 死ぬという事が、分かっているか?
 お前に託された、もう一人のマーリャをも死なせてしまうのか?
 そう言われても、まだこの悲しみを納得させられる結論を得ていない。
 それを得ないと、何もできない、進めないんだ。
 なら、その事実すべてを封じてしまうしかない。
〝今、これから〟のために〝過去〟を消す。
「そう、俺は……ここに在る俺は、生き続けるという目的の為、忘却と言う刃で二つの死を消したんだ」
「そして今、その刃で屠った三つめの骸を抱いている。お前と関わり、お前に惹かれ、お前を求めた者の成れの果てを」
「……何故だ」
「何故、と?」
「何故、何故なんだ。こうならない為に、俺は過去を、自分を消したんだろう?なのにどうして、こいつはここで死んでいる。あの痛みを忘れたせいだと言いたいのか?また、また俺は間違ったっていうのか?」
 先程まで、唸るしかできなかった喉から溢れる叫び声、それを発している本人は、その事に気付いていなかった。はらはらと眼窩から砕けた血片が散り、両の翆眼が感情の昂るまま見開かれる。
 床に不確かにわだかまっている、細い赤光を巡らせた組織がゆらゆらと伸び、分かたれていた小さな端末を己の内に取り込もうとし始めていた。
 ここは、神殿の頭脳。
 封じられていたアリュート、機能、記憶、その能力。
 己が起動する為の、自我という鍵を求め、ゆるゆると、緩慢に包み込んでくる。
 傷ついた部位を急速に修復されつつ、じわりと懐に這い込んできて抱えた塊を押しのけようとされ、アーリットは無意識の動作で腕に力を込めた。
「どうあろうと、何をしようと俺は逃れる事はできないのか、もしあの時過去を手放さず、挙句弱り死んでいれば今のこの痛みは避けられただろう。でもそうすれば、今度はマーリャの残したこの身体を見捨てた痛みが神殿の俺を未来永劫苛んだ、どうしようもない、どうしようもないだろう!」
 そうだ、やっと分かったか。
 どうしようもない、という結論に。
 もうこれ以上、生き続けても意味などない。
 この懐の骸は、お前の四百年の逃避の結果。
 また次の骸を抱く前に。
 死ね
 もう死ね
 死んでしまえ
 抱えていた呪いの毒を全て飲み干し、狂いながら死ね。
 死ぬべきなのか。
 俺の腕で死んでくれた、この馬鹿のために。
 この崩れた廃墟の奥底で、罪で出来た身を腐らせて。
 待てど来ない死を、こちらから手繰り寄せて捕まえて。
 ……死ぬのだ、何としても、あらゆる手を尽くし。
「……おい」
 真っ暗な眼。
 細い緑線に縁取られた、深淵の黒の瞳。
 もやもやとした組織に沈みかけ、瞳孔の開ききった眼で、アーリットは前に立つ黒の破壊主をぼんやりと見た。
「……何だ」
「まだ、話が終わっていない」
「俺に……?」
「お前こそ、創界主を斬った我を討たぬのか」
「ああ、そうだったな」
 でも。
 今更、転がる死体をひとつ増やそうが、それに何の意味がある?
 俺は、もう死ぬんだから。
 すかさず、その思いを見透かしたかのように、破壊主が重々しく口を開いた。
「アリュート、この星最古の世界主の神殿よ」
「……」
「取り戻したのか、星と匹敵する記憶全てを」
「さあな、お前がミラと違って付き合いの悪い、偏屈だったことくらいは思い出したが」
「そうか」
「……ミストはどうした?」
「知らぬ、それを知っているのは双界鏡だ」
「じゃあいい、もういい、どいつも消えろ、いなくなれ。俺を消したいのならさっさとやれよ、神殿をぶち壊したいならそれでもいい、好きな事なんでもやって、気が済んだら出てけ、俺の知った事じゃない」
 感情の失せた声で呟いて、周囲にただ呑まれゆく相手にしかし動こうとはせず、破壊主は言葉を続けた。
「我が主が何処でどうしているかは預かり知らぬが、何を望み、何を行おうとしているかは聞かされた。その為にお前を捨て、この世界から去ったという事も」
「何?」
 しきりに腕の中の〝異物〟を排除しようとされ、子供のように抱きしめ続ける顔が、またふいと上げられる。
「我が主、永劫の時を与えられしミストフェルは、この世界、回円主界の滅びを望んでいた」
「嘘つくなよ」
「嘘ではない」
「俺が生みだされる前からこの星にいて、世界主に気に入られてたあいつがそんな事考えるわけがないだろう」
「共に在ったからこそ、その歪みを見過ごす事はもうできなくなったのだ」
「歪みだと?」
「お前も聞かされたはず、ミストフェルはあの星々の散る天を飛び、渡りゆく〝星渡り〟。幾千、幾万の星を巡り、幾つもの世界を見知っていた。たまたま立ち寄ったこの星が、星の夢で世界を生みだす仕組みである事。そして上手く夢を紡ぐ事が出来ず、荒れ地とわずかな蟲だけの世界しかない星として永く在ったことに同情し、自らの知る世界を教え与えてしまったそのことを」
「ああ」
「星は喜び、新しい世界に夢中になった。新しい環境に生きる、新しい沢山の命達……しかし夢中になり過ぎたゆえ、飽きが来るのも早かった。生き物たちは互いの領分を住み分け、子孫を増やし見事に調和した世界を星の上に築きあげ、そして、退屈という滅びに呑まれあっという間に消え去った」
「仕方ない、世界主ってのはそういうもんだろ」
「憐れな事よ、お前はこの星に紡がれ、産まれ、この星以外の世界を知らぬ。ここがどれ程異様で、いびつで、住まう者にとって過酷な世界なのか気付く事さえできぬ。幾度も幾度も生まれ、栄え、消えて行った者達……今のお前の苦しみさえ、この星の歪みのせいだと何故分からぬか。それを気付かせるため、主はこの星を去ったのだ」
「ミストが……俺に?」
「お前は、この星最古の世界主の神殿、世界主に接触できる唯一の存在だ。ゆえにお前が世界に疑問を抱き、生み主に牙を向けるような事態になった時は、すかさず自滅するよう星の負の事象……廃化や禁呪を処理する役を任せられている。今お前に滅べ、消えろと罵声を浴びせているのはお前が知らずに切り離し、四百年の長きにわたり封じてあった神殿のお前に組み込まれた滅びの呪句だ」
「……なに?」
「屈するな、怒るが良い、その怒りは正当なもの。眼を開け、四百年で培った自我でその呪いを押し返せ。一体誰のせいであの娘が死ぬ事となったのか、もう一度最初から思い返すのだ。護れなかったお前か、呼びこんだ双界鏡か、それとも世界を与える事を拒んだミストフェルか、そもそもこんな、飽きるばかりの繰り返しな世界しか生みださぬこの……」
「世界……そのものが、間違っていた?」
「それこそが、我がミストとこの星を見続け、紡ぎだした結論だ」
「世界主を消せ、と俺に言うのか」
「そう、お前が己を滅ぼす為に抱え込んでいる呪いを、全て外に向かって放ってやれ。お前が受ける傷と苦痛を、世界に肩代わりさせるのだ。美しいまま消えて来た世界を、醜悪で腐った〝負〟で覆い尽くし、世界主を怯え、震えあがらせてやればいいのだ」
 俺の苦痛を、世界に?
 頭の中で、がんがんわめいてる俺を責め、糾弾してるこの怒声。
 過去の俺。
 世界にただ従順だった、世界主の神殿、アリュート。
 世界の為に、俺に消えろと命じ続ける。
 この声を押し返す自我を俺が持つ為に、師匠……ミストは俺の元を去ったのか?
 俺に、世界を壊せと。
 マーリャの悲劇を繰り返さぬよう。
 これ以上、世界の贄を生まぬよう……。
 そこまで考え、腕の中に視線を落とす。
 おかしい。
 おかしいじゃないか。
 なら、なぜこいつはあっさり見殺しにされたんだ。
 こいつだって、マーリャと同じ犠牲者だ。
 なんで、こいつの死は容認された。
 俺の為?
 俺が、全てを思い出す為の捨て駒か?
 そんな不条理を、ミストは俺に差し向けたのか?
 なら。
 俺は。
 俺の望む事。
 唯人。
 ……お前は、俺のもの。
 俺もまた、お前のもの。
〝そうだね、アーリット〟
 俺が、お前を戻してやる。
 お前の世界。
 俺にとって未知の世界。
 お前みたいな、ふやけた甘いのでも生きていられるぬるい世界。
「ああ、戻してやるさ」
 そう、俺はこいつに誓ったんだ。
 ……この俺、アーリット・クランが。
 ぱあっと、空が開けた気がした。
 答えが、出た。
 すうっと、底なしの暗黒だった瞳が緑光で満たされる。
 もうほとんど呑まれかけていた周囲から一動作で抜け出すと、抱きしめていた腕の中の身体をそっと下ろし、ぎこちない動きで立ち上がる。
 下半身、腕の先、まるで子供が適当に塗ったかのごとく紅を身にまとった姿で、アーリットは胸を張ると嫌な相手に向けるあの綺麗な笑みを浮かべて見せた。
「頭がすっとしたぞ、てめえのおかげでな」
「ほう」
「その前に、危うく忘れかけてたが、俺はお前が嫌いなんだった」
「そうだったな」
「師匠もミラの野郎も、みんなみんな大嫌いだ。俺が好きな、俺が望むのは、唯一、足元のこいつだけ」
「ふん、だが、死んでしまった者をどうしろと?」
「分からないのかよ、世界を壊すなんてとんでもねえ、砂の一粒になろうが持ちこたえてもらう。この俺が双界鏡で異世界に飛び、新しい世界を仕入れて来るまでな」
「何?」
「次の創界主に、この俺が成るんだ。世界主は、新しい世界をくれてやりゃあ願いを叶えてくれるんだろ、何だって。だから俺はこいつの命を望んでやる、できなきゃその場で潰してやるさ。だが可能性があるうちは、俺はそれに賭けるって決めた!」
「……ほう、世界を残し、前に進む、というか」
「おうよ」
「お前を壊そうとする記憶も呪いも、全て身に受け、乗り越えるというのだな」
「俺を潰そうとする呪いなんぞ、こいつを取り戻せるかも、って希望に比べりゃあ靴の中の石みたいなもんだ。この希望が潰えた、その時こそ俺は世界を道連れに、笑ってこの世から消えてやるさ!」
「師の意思をも、継がぬと」 
「知るか、何百年もほったらかしといて、今更師匠面しようなんて甘いんだよ。で、一応聞いてやるが、てめえは俺が乗らずとも、まだ世界を潰そうって気を変えるつもりはねえんだな?性悪師匠の言葉を糞真面目に護ってよ」
「それが、物精の性分なのでな」
「分かった、なら、ぶっ潰す」
「できるのか」
「やるさ、神殿の記憶を取り戻した俺に、もうてめえごときのへぼい攻撃が効くと思うなよ。ああ、そういや、てめえの主を気取ってた糞ジジイはどうした?」
「あれは、もうおらぬ」
「だよな、そもそもあいつの手に負えるお前じゃねえし。体よく踊らされたな、可哀想なジジイだよ」
 おもむろに、足元の赤染めの布を拾い雑に身にまとう。割れた爪は再生し、新しく生えた爪に押し出されはらはらと散った。
〝死ね〟
〝死んでしまえ〟
〝死ぬかいい〟
「いい加減にしろ、ごちゃごちゃうるせえんだよ屑が!たかが世界の分際で俺に指図できると思うな、俺はこの界唯一の異端、アーリット・クランだ。俺の事は俺が決める、俺のしたいようにできないんなら、そんな世界が存在する意味なんかねえ!!」
 その言葉が終わると同時に、ばん、と周囲の気が弾けた。暗く不確かな周囲の靄に張り巡らされた線にまばゆい光が送り込まれ、周囲を明るく照らし上げる。
 流れ込んでくる嵐のごとき勢いの自我、過去、その全てを受け止め、呑み込みねじ伏せる。と、ふと、脳裏に澄み渡った青空の下、向けられた陽光のごとき笑顔が甦った。
〝アリュート〟
〝わたし、幸せだった、本当よ〟
 マーリャ。
 お前という痛みから、もう俺は逃げはしない。
 罪も罰も贖罪も、全て合わせて今、俺の力に変えてみせる。
 この腕の中に抱いた、俺の大切な存在の為に。
 ゆっくりと足を踏み出すと、アーリットはおもむろに落ちていた鋭月を拾い、背に垂らした髪の房をふつり、と切り離した。ぶわ、と膨らみ吹き出そうとする濃密な呪法を、周囲に溢れる光が微細な粒子となって降りそそぎ、包み込んで細かに分解してゆく。
 それを余さず取り込んで、やがて、全身くまなく、毛の一筋までほの白く発光した姿に変じると、アーリットは己の影のごとく黒々と立つ相手に向かって静かに術式を喉の奥で呟いた。その瞬間、まるで火花が弾けたかのごとく床に無数の術式の陣が展開する。連鎖する陣は、次から次へと宙にも走り、二人の周囲を埋め尽くした。
「覚悟しろ、それくらいの間は与えてやる」
「……」
「……喰らい尽くせ、星より産み出されし二十三の狂気。ここなる我あらざる存在を、千の牙、万の爪、億の絶望にて貫き引き裂かん」
 まるで獲物に舌舐めずりするがごとく、光の帯がするりと伸びると破壊主の持つ鎌に絡みついた。さしたる抵抗もされず奪ったそれを、まるで飴細工のようにかりかりと貪り喰らう。次はどこをもぎ取ってやろう、と言わんばかりに光の帯は次々と伸び、獲物をぐるりと取り巻いた。
「どうせ本体はディプケースあたりに隠れてやがるんだろ、だが無駄だぞ、この呪は虚像の臭いを嗅ぎ分けて本体を探し、喰い尽す。てめえの主のジジイ、先に逝って良かったって胸を撫でおろしてるだろうさ」
 ゆらゆらと、今まさに触れんとする距離に光が迫る。
 そのただ中に立つ黒い影、ただ黙して立つその腕が動き、ゆっくりと手にした黒い塊を差し上げた。
「本体なら、ここにある」
 ちょうど肘から先ぐらいの長さの黒い棒、それが、少し見ただけでは分からない程に静かに縦に割れ、左右に開いた形状をとる。どういう仕掛けなのか、びりびりと細動しているそれを破壊主は無造作にアーリットの正面へと向けた。
「討つがいい、外しはするな」
「てめえ、何企んでやがる?」
「……何も」
「まあいい、何だろうがぶっ潰す」
 無表情のアーリットがぐん、と、頭をそびやかした、その時……。
「ちょっと待って、アーリット!」
 ふいに、叫び声と共にその場に白い光珠が割り込んできた。くるりと膨れ、人の姿になる。背後の人物を庇うように両腕を広げると、暗い紅の眼がまっすぐアーリットへと向けられた。
「何だ、腐れ鏡、今頃何しに来やがった」
「怒ってる?そりゃあ怒ってるよねおチビ。でも一言だけ、これだけ聞いて!」
 なんの心の動きも見せようとせず、アーリットの唇が式にとどめを命じようとする。それより一瞬だけ早く、ミラの必死の呼びかけが空間に響き渡った。
「その子、唯人さ、死んでないよ、まだ死んでない!」
 ぴくり、とアーリットの動きが一瞬止まった。
「よりにもよって、下らねえ嘘吐きやがるな、ど腐れ鏡。いいからそこ動くんじゃねえぞ、まとめて仕留めてやる」
「確かめてごらんよ、血が出過ぎちゃって気絶しかけてるだけだから、本当だって!」
 食い下がるミラに、面倒臭そうに眉を寄せると式はそのままにして、アーリットは傍らに置いた唯人の身体を見下ろした。溢れ出た血と臓物がはみ出して、とても正視に耐える状態ではない。畜生が、と呟き座り込むと、頬に手を入れ頭を起こしてやる。
「……?」
 顔が、少し、ごく僅かだが反応したように見えた。そんなまさか、と薄く開かれた眼を覗きこんで見る。
 眼が、死んでいない。
 周囲を満たす光に、茶色に透けた虹彩の奥の瞳孔が反応して収縮している。
 見ている。
 瞳が動いて、自分を捕えている。
「……唯人!」
 瞬時に放棄された式が、微細な光の粒となってざっ、と周囲に散った。もう他の何事も見えていない顔で、飛びつく勢いで抱え上げる。奇妙な事に、周りに流れ出て広がっていた血がまるで溶けたゴムか何かのように、ぞろり、と傷口に引かれて付いてきた。
「これは……」
 深く開いた傷口に、ごくゆっくりとだが、血が吸い寄せられ戻っていく。少し覗いている心臓も、変わらずことことと脈打っている。
 アリュートの治癒術が効いているのか、いや、自分ならまだしも、その前に普通の人間なら即死、もしくは失血死している。
 この異常な光景に、つい見入ってしまったアーリットの傍らに、白い姿が駆け寄ってきた。
「触るな、触ったらぶっ壊す!」
「そう言わずにさ、おチビ、お前のせいでこの子の痛い思い長引かせちゃあ可哀想だろ?死なないって言ったけど、痛いのは痛いんだから。早く助けてあげようよ」
「俺が連れて行く、てめえら指一本触るな!」
「そんな事わめいてるうちに、急がないと本当に死んじゃうかもよ?」
 この一言に、ぎくり、とアーリットの端正な顔が強張った。手早く唯人の裂けた衣装を脱がし、はみ出した内容物をかき寄せ押し込むと布できっちり縛り上げる。随分と華奢になった身体には重さがきついのか、ややふらついたがそれでもアーリットはミラの助力を断固として拒み、駆け足で以前銀枝杖との騒動があった治癒の間へと移動した。本来の力を取り戻したそこは、エクナスでアーリットが己にかけた封印を解く為に使われた場と同じ、床の上の窪みに帯状に流れ込む術式が溜まっている空間になっている。その中に傷ついた身体を沈めると、部屋は生きている者に対する反応を示し、すぐに治癒の為の式を織り始めた。
「どういうことなんだ、普通、死んでるよな……?」
「うん、普通じゃないのは、君だけじゃなかったって事だよね」
「よし、それについては、後でてめえを締め上げたっぷり聞かせてもらうって事で。まずはそこの黒い腐れ野郎を仕留めておかないとな」
 なぜか付いてきて、背後に無言で立っている姿に遠慮のない殺気を向ける。アーリットに、ミラは慌てて再度割って入った。
「ねえ、おチビ」
「黙ってろ屑が、こいつの始末をつける間、邪魔にならないよう隅で縮こまってやがれ。言っておくが出入りできる門、転移壁、穴は全部閉じてやったからな。逃がさねえぞ、てめえも」
「あのさ、どうしても暴力に訴えたい、って言う気持ち、分かるから諦めてもいいんだけどさ。ここはひとまず落ち着いて、僕等から事の次第をしっかり問いただすってのが流れなんじゃない?」
「黙れ、まだそのうぜえ顔拝ませようってのか、俺は御免だ、今すぐ潰す!」
「分かった、分かったって、じゃあ君の癇癪を破裂させるためのミストの壮大な悪だくみを全部話してあげるから。それ聞いたら、この中の誰が可哀想で誰をぶん殴るべきなのか、聡明なおチビならきっと分かるよ」
「我は、己の役はもう終えた。お前に壊されるのも想定の内だ、別にかまいはせぬ」
「分かってるんならいい、てめえには唯人をぶった斬りやがった責がある。最低でも倍、四つ切くらいにしてやらねえと俺の気は治まらねえぞ」
「……やれ」
「おう」
 ゆっくりと腰を上げ、破壊主に向き合ったアーリットにああもう、いい加減にしてよとミラが必死で割って入る。
「〝この世あらざる黒〟君も終わった気になっちゃ駄目だってば、いい?落ちついて、しっかり聞いて。おチビ、それを彼にさせたのも、突き詰めればそこで寝てるその子なんだって」
「はぁ?てめえ、一体な何を言いだしやがる」
「だから話すよ、とにかく聞いて。おチビ、いや…アーリット!」



「……うん?」
 半覚醒の穏やかなまどろみの中、何かがそっと意識に触れてきた。
 気が付くかつかないか程の、ごくささやかな刺激。
 薄目を開け、ぼんやりとした視界に浮かぶものを認識する。
 丸い、緑の輝線で描かれた印。
 霧の中のネオンのように、繊細で綺麗だ。
 呼んでいる。
 誰かが、その向こうから自分に呼びかけている。
 思い浮かべた手で、そっと触れてみた。
 ぱあっと広がる白い光。
 その向こうから、伸びてくる手。
 長く、ほっそりとした腕が自分に触れ、撫でまわし、ぎゅっと抱きしめてくる。
 柔らかな感触、懐かしい。
 荒れ地の旅で、こうやってしがみつかれて眠れない夜を過ごしたっけ。
 思い出し笑いすると、耳の側に寄った指先から聞きなれた声が響いて来た。
〝そうだね、時間はあるんだし、最初の最初、星渡りの話からしてあげよう〟
 ミラの声。
 側にいるんだ。
 聞いてるのは、アーリットなのかな?
 ゆるゆると自分に寄りそっている、彼の意識に自分のそれを重ね合わせる。
それはそれは長い、種明かしが始まった。



 星渡り。
 その存在が、いつ、どこで生まれ、どこから来たのか知るものはいない。
 彼ら自身の特性である〝始まりより全てを保っている〟記憶によると、それはあるひとつの想いから始まった。
〝この世の全てを、知りたい〟
〝他の星、他の世界、あらゆる事象、現象を得たい〟
 その思いを持った何者かが、己の身を無数の欠片に変え、暗い宙へと解き放った。
 彼等は飛んだ。
 暗い無の空間を、星々のただ中を。全てを見、記憶に留め無限の時を飛び続けた。
 穏やかな気候の惑星があれば降りて景色を堪能し、そこに生物がいればその様を見物する。
 やがて身が傷つき古びれば、生物に同化しその身の内で再生する事もできた。
 落ちついた主星を巡るちっぽけな惑星に降り立った、後にミストフェルと呼ばれた存在もその星渡りの一体であった。
 彼等は、旅の間に様々な生物と巡り合い、時に共に連れ添うこともある。
 ミストも、己を強固に保護してくれる有機鉱物と、異なる空間を繋ぐ力を持つ魔具を連れていた。
 もともとは、別の存在。住んでいた星もそれぞれ違う。
 しかし好奇心という、互いに通じる想いの元、彼等は星渡りの旅に同行した。
 彼らが降りた辺境の星、後に回円主界と呼ばれた星は、寂しく、面白みのないつまらない星だった。
 大地は存在していたものの、地衣類と苔ばかりが寒々と茂り、それを蟲や菌の集合体が細々とあさって生きている。
 水も大気も母星の恵みも充分にあって、なぜこの状態なのか。
 彼等を客として迎え入れてくれた星に問うと、こんな返事が返ってきた。
 この星の環境は、自分の夢の具現化である。
 かつてこの星には、ささやかながらそれなりに栄えた生物がいた。
 しかしそれらは種に分かれ、互いを襲い傷つけあい、最後にはみんな滅んでしまった。
 生物は、好きにさせていると星を痛め、やがて自らいなくなってしまう。
 だから、自分の夢で何も争わない穏やかな世界を築き、静かに過ごそうと思った。
 その結果が、今のこの状態である、と。
 気の毒だね、と魔具が言った。
 穏やかで優しくて、でももう少し綺麗な世界を僕等は結構知っているよ。
 ここに来たのも何かの縁だ、望むのなら教えてやろう、と鉱物も言った。
 それから後、星の世界は一変した。
 生い茂る草木、たわむれる蟲、空には空、陸には陸、海には海の綺麗な命。
 どこか遠くの宙に浮かぶ星の、けして知る事のない景色の写し。
 地味な光景からのあまりにも斬新な変化に、星は浮かれ、夢中になった。
 楽しい、見るたびに変わってゆく。
 進化する生物たち、しかし互いを滅ぼし合うようなことはせず、きちんと互いの領分を住み分け栄えてゆく。
 そして、それらは完全に究極の状態へと落ちついた。
 もう、今までのような勢いで進化する事は無い。
 産まれ、消え、生物の営みを繰り返す。
 それをしばらく見守っていた星の心に、ふと、とある影が差してきた。
 …なんだか、面白くない。
 もう、飽きた。
 新しい世界の事を知りたいという星の申し出を、その時のミストは深く考えはせず受け入れた。
 実際、遥か昔の思い出の世界がここで箱庭のように再現されるのを、自分も楽しんでいたのだから。
 そうか、なら、今度はあの星の事を教えてあげよう。
 その後、星に在った調和した世界は一気に溶け崩れた。
 新しい世界の苗床となるため、全ての命の火が吹き消されてしまった。
 これはおかしい。
 こんな事を、延々続けるわけにはいかない。
 今度こそ、今度こそを幾度か繰り返した後ついにミストもそう思うようになった。
 もう、他の星の話は尽きてしまったよ。
 もういいだろう、今の世界を大事にしてあげなさい。
 そのミストの記憶から出た最期の世界が、前期王国と呼ばれた時代だった。
 大地と自然と、獣と蟲、そして精霊獣の世界。
 この世界を最後に、彼はこの星を去ろうと決めていた。
 思えば、随分と長居してしまった。
 身体も、随分と古びている。
 次の星で、また生物に入って再生しよう。
 そう思っていたら、また世界が徐々にほころび始めた。
 もう駄目だ、そう言ったはずだ。
 媚びるように訴えてくる星の呼び声を無視していたら、星はなんと、己の分身である神殿に据えてあった双界鏡と名付けられた魔具を勝手に使い、他星から生物を呼び寄せた。
 何という事を。
 すぐに戻そうとしたが、彼女の命のかかった契約が生じてしまっていた為、許さざるを得なかった。
 何も知らず、無邪気に笑い、過ごし、屈託なく世界に馴染む少女、水気星のマーリャ。
 神殿のアリュートも、彼女を気に入っている。
 そうだ、ちょうどいい。
 この生物の体内には、命の素が沢山ある。
 その一つを貰って再生しよう。
 彼女が産む生命の一生分の時間を貰い、生涯を終えた肉体から再生した身となって飛び立ってゆく。
 丁寧に説明すると、うん、いいよ、と彼女は素直に応じてくれた。
 赤ちゃん、欲しかったし。
 産むなら絶対若いうち、っておばあさん達が言ってたから。
 その行為が、後にどれだけの悲劇へと転じたか。
 彼女は、間違えた。
 自分と世界と、アリュートの間で。
 消えかけた世界は寸前で移り、マーリャの見知った前期王国は微妙な匙加減で次の世界へと引き継がれた。水気星には存在しない精霊獣、彼等は霊獣、物精、そして人間と交わり両性となって世界に溶け込んでいっだ。
 だが、この世界もそう持ちはしないだろう。
 ミストには、もう分かっていた。
 マーリャが、命と引き換えた水気星の世界。
 そして、引き継いだ自分の記憶もろとも全てを封じ込めてしまった無のアリュート。
 この状態は、自分の責。
 再生するべく、自身の大部分をアリュートの身に移してしまった残り滓の自分には、もうできる事はほとんど無い。
 でも。
 まだ自分には、力を貸してくれる仲間がいる。
 ミラヴァルト、そして〝この世あらざる黒〟
 この世界を持たせて欲しい。
 自分が戻る、その時まで。
 君はどうする?と二人が問うた。
 別の星、別の世界に行くよ。
 その世界で、次にこの星に呼ばれる生物になる。
 命のかかった契約をして、でも実は死なない生物。
 今の自分でも、それくらいはできるから。
 後は、アリュートの凍ってしまった時間を溶かす策も考えよう。
 怖れと悔恨で、閉ざされてしまった彼の心。
 暗闇の中、じっとうずくまって動けないあの子の前に、未来という存在の、一番分かりやすい、魅力的な姿で訪れる。
 欲しいものの為に、もう一度手を伸ばす事を思い出させてあげるんだ。
 その為に、どれ程辛く痛い思いをしたとしても、それはただ過去に過ぎないのだということを。
 必ずの帰還を約束し、その時点で一番近く、なおかつ生物の様相が酷似している星を見つけて旅立った。
 水気星に良く似た、水の多い青い星。
 この星は、自分の抱えている生物にそれほど入れ込む事をせず、遅くとも着実に進化する様をほぼ放任主義で見守っていたので、生物はてんでに進化し、増え、適当に争いそれなりに栄えていた。
 星に降り立ってすぐ、新しい世界の情報をできるだけ取り込む為、生物の集まる建物と同化した。
 ぞろぞろと出入りを続けるマーリャによく似た〝人間〟の言葉を覚え、会話に耳をすませていると、ここが〝神社〟と呼ばれる彼等の架空の創造主に祈る場であるという事が理解できた。
 ここを基点に力を溜め、時には遠い異国を巡り、時代の、人の営みの移り変わりを眺めつつ、数百年、存分に見識を広め過ごした。
 たとえ残り滓でも、元々は死の概念すら無い存在なのだから、あの世界の次の滅びの時まで待てる自信は充分あった。
 そして待ち続けたある時、ついに、残してきた仲間の言葉がこちらの片割れに届けられてきた。
〝あれ〟が始まった、と。
 ちょうど頃良く、神社の自分の元にある人間が通い詰めていた。
 二つの小さな命を宿した、まだうら若い母親。
 小さな命の片方は、その胎内で何の問題もなく育っていたが、もうひとつのほうは未熟で不完全。やがて成長を止め、溶けて片割れと母体に還るだろう事が見て取れた。
 母親は、病院でこの事実を聞かされていた。が、それでも一縷の望みを捨てきれず、社に子の存命を願い通っていたのだ。
 小さな、頼りない命。
 いずれ、失われるのが決まっている命。
 ……なら、貰ってもいいだろうか。
 自分の意識も、持って後数十年。覚悟を決め、数百年を過ごした神社を離れ小さな命の中に潜り込んだ。
 ゆっくりと溶け、ひとつになり、ある部分の損傷で全体が巻き添えにならない肉体……非常時には細胞のひとつひとつが独立して生き続ける事のできる組織へと変える。
 気性は人懐こく穏やか、でも意識せず無茶をする。放っておけないと、何となく他者に思わせてしまうように。
 そして、遠からず不慮の死に逢う。
 そう定められ、組み上げられた存在。
 異界人、阿桜 唯人。

 

「だーっ、なんだそりゃおい!ふざけるにも程があるぞ!」
意識の内側と耳、両方で凄まじい怒声が響き渡った。思わず見開いた眼に、覆い被さるように横たわっている紋様だらけの身体が飛び込んでくる。ぐるりと寝返りし、自分に向けられている視線に気付くとアーリットは見開いた眼で唯人を睨みつけた。
「こん畜生、師匠に会ったら死ぬ寸前までぶちのめしてやるって決めてたのに。俺か、俺とこいつかよ!なんてこった!!」
 ゆっくりと上げられた、震える拳が唯人の頭上にぴたり、と据えられた。ごくゆっくりと額に降りてきて、渾身の全力と拮抗した制止力のつり合った、ちょっと痛いな程度のぐりぐりをかまされる。まだ声が出せない(多分横隔膜を損ねた)ので、やめてくれ、と唇で囁くと、唯人はふいと横を向くことでそれを避けた。
「唯人、てめえ、師匠の自覚はあって、俺に隠してやがったってのか?」
 いや、ないない!
「おチビ、それは無いよ、その子の中のミストはもう亡くなる寸前の昏睡状態みたいなものさ。後数十年もすれば、今度こそ完全に消滅する。まあこの子自身の寿命とどっちが先か、ぐらいだからいいんじゃない?」
「じゃあ、俺の方はどうなるってんだ。アリュートの記憶を取り戻した上に、師匠のぶんまでしょい込めってのか?」
「いやいや、星渡りの記憶ってね、純粋に知識だけなんだよ。今現在の君のその意固持で凶暴で意地悪な自我は、ミストとマーリャの子として在るその身体のもの。星渡りだって事を思いだした以上、これからその身体っていう蛹は歳をとる。身体の寿命が尽きたその時、そこから再生した星渡りが孵化するってわけさ」
「俺は、もう数百年も生き続けたぞ。後どれだけ生きられるってんだ」
「お前の数百年は、ただ止まってただけの事。見た目、そこの唯人とそうは変わらないよねぇ。じゃあ、余生の長さもそう変わらないんじゃない?」
 水気星人と唯人の世界の人間の違いって、僕の知ってる限りではほぼ無いよ?と安心させるように微笑まれる。さて、と唯人の顔を覗きこもうとしたミラに、アーリットは仔を護ろうとする母獣のごとく毛を逆立てて唯人に覆い被さった。
「唯人、これで僕の話は終わったんだけど。ひとつ聞いてもらっていい?」
「却下だ!」
「おチビ、お前に聞いてるんじゃないの」
「うるせえ黙れ、黙れって言ってんだろうが、聞きやがれ腐れひん曲り鏡!」
「はいはい、子供返り始めちゃった甘ったれはほっといて。そろそろ戻っていい?」
「なに抜かしてやがる、てめえらは野垂れ消えろってんだ!こいつをさんざ振りまわしやがって、今更どのツラ下げてそんな台詞吐いてやがんだ!」
 わめきたてるアーリットの下で、ちょっと静かにしてくれ、とも言えないので唯人は重い腕をなんとか上げ、ミラに向け差し伸べた。彼は彼のやるべき事をやった、それは過去の僕自身が指示した事、破壊主を演じた彼の杖も、任された辛い役目をやり遂げただけ。
「あの後、自由になりたいならここで解散、って一応言ったんだけどね。みんな君がいい、離れたくないんだって。だから霊素の石の力を借りて、綱手の中にいさせてもらってたんだ」
 その言葉と共に、開いた唯人の手のひらにするりと青い光が巻き付いた。すかさずぶん、と横薙ぎに払おうとしたアーリットの手を避け、光が手の中に吸い込まれる。お前は甘い、甘過ぎる、ちょっと精霊獣にぶち込む仕置きのやり方ってのを教えてやる、と息まくアーリットにそ知らぬ顔でミラは駄目押しのひと言を言い放った。
「そんな事してていいのかなー?おチビ、今、君には手持ちの杖が無い。さっさと代わりを探さないと、大変な事になるんじゃない?」
「生憎だな、この俺、アリュートには三大霊樹っていう最高位の霊素収集器官が備わってんだ」
「だから、それを利用するつもりなら、ずっとここに張り付いて動けなくなっちゃうじゃない。あ、そういやちょうどいい杖を僕あっちで拾ったんだ、ほら、これ……」
 どう?と白々しく差し出された黒い棒、先程の開いた状態からもうただの棒に戻っているそれを、アーリットは間髪いれず弾き飛ばした。壁に当たって跳ね返ってきたのを拾い上げ、絶対に折る、折ってやる!とがんがん床に叩き付ける。背後で、無言のままの破壊主が小さく溜息をついた。
「だから、壊すならさっさとやれと言ったのだ。我の外殻は、強固すぎて己自身で開こうとすれど、その時点での全精力を使い果たさねば叶いはせぬ。先程まで耐えてはいたが、もう閉じた。次はまた、数十年は待たぬと無理となってしまったぞ」
「聞いた?おチビ」
「知るか!」
「もう、まだ思いだしてないみたいだから教えてあげるけどさ、〝この世あらざる黒〟って代物は、本当の事言うと杖なんかじゃない。気の遠くなるような時間、宙を旅する僕やミストを護ってくれた結晶生物なんだ。幾度となく天と星の大地を行き来してもびくともしない、半端なく頑丈な存在なんだから」
「そんな事、分かってる!」
 傍目にも分かる渾身の八つ当たりをすべてぶつけた後、アーリットは乱暴に黒い物体をミラに蹴り返した。身を返し、どさり、と唯人の傍らに倒れ込むとぐいと懐に顔を押し付け、細い手足を絡ませる。汗混じりのあの香りと、ちょっと速めの彼の鼓動が肌越しにはっきり伝わってきた。
「もういい、疲れた。しばらく寝る、どいつも消えろ」
「うん、そうだね、ご苦労さま。おチビ、唯人」
「……以後、〝この世あらざる黒〟の本体はアリュートが管理する。黒の破壊主を俺が血祭りにする猿芝居を披露し終えたら、この身体から星渡りが孵化するその日までここで封印しておいてやる。もう二度と、一歩もたりとも外には出さないからな」
「それで良い」
「ミラ、てめえもだぞ。手が空いたらあの樹から引っぺがしてここに移してやる、好きにさせるのもこれまでだ!」
「ひどーい、おチビの怒りんぼ!」
 それから、昼も夜も分からない薄暗い神殿の奥底で、唯人とアーリットはしばし穏やかな時を満喫した。夢かうつつかはっきりしないまどろみの中、あの互いを繋ぐ式で心を重ね合い、これまでの事を、最初から全て思い返し語りあった。
 


 その後、唯人の状態が安定したのを確認し、先に復調したアーリットは己の客人であった竜人を無断で拉致した上、正式な裁きも受けさせず処分したという大義名分を振りかざし、ザイラルセンの事後処理になかば強制的に介入すると、廃地の秘密を暴きたて後は容赦なくユークレン側の調査陣をねじ込んだ。一方でエクナスには使者を送り、ユークレン主王子の無事を確認する。その次は、言葉通りトリミスを舞台に黒の破壊主と大立ち回りを演じた挙句、観衆の目前で超大技の術をかまし完膚なきまでに粉砕してカタを付けた。
 山積みの仕事を日々嵐のようにこなしつつ、少しでも時間が開くととんぼ返りでアリュートの唯人の懐に戻ってくる。そこで気合いの入った世話を焼きまくり、後は時間の許す限り愚痴を浴びせながらの添い寝。そんな日々を過ごしていると、半月ほどで唯人は声が出せるようになり、二月を過ぎた頃にはなんと背骨が繋がって身を起こせるまでになった。もっとも最初に起きあがったきっかけは、下半身の感覚の戻り具合を確かめるという名目で、アーリットに言いたくない部分をつつかれたせいだったりするのだが。
 その時、飛び起きたせいで背の痛みに悶絶させられたのと恥ずかしいので、遺憾の意を示すべくミラの最大級防御壁に籠った唯人の姿に若干反省したのか、アーリットはあれ程毛嫌いしていたミラの介護を、ほんの少しだけ見逃してくれるようになった。
「おい、これ」
「え?何?」
 いつものように戻ってきて、うつ伏せの唯人の背の傷の具合を見てくれていたアーリットが、ふと指先で傷痕を掻く。ちょっと引っかかりを感じ振り返ると、毛を数本まとめて抜かれたような痛みが皮膚を走った。
「……痛っ!」
「だよな、ほら」
 言葉と共に、差し出してきた小さな欠片を手に乗せられる。乾いた体液で固められた、なんてことない砂粒の塊だ。
「それ、俺がお前の中身をかき集めて詰めこんだ時、一緒に体内に入っちまったんだろ。ちゃんとより分けて、いらないって出してるんだ。そういう事できるのって、沼に浮いてる微生物の塊くらいかと思ってたが」
「じゃあ、僕もそれでいいよ……」
「おう、なら好き嫌い言わず虫の料理も食うんだな」
「それは嫌だ、芋虫の串焼きなんて絶対無理」
「何がいけないんだ、栄養はあるし消化もいい、療養食にはうってつけだってのに。案外、口じゃなくてこの辺りに穴開けて押し込んだほうがいけるんじゃないか?」
「ひどいこと言うなぁ……」
 遠慮のない指を脇の奥に這わされ、くすぐったいよ、と身をよじる。唯人にだけかどうか分からないが、アーリットは以前にも増して暴力も含め、よく触れてくるようになった。ミストに向けるはずだった鬱憤を小出しでぶつけているのもあるだろうが、唯人の印象としては、アーリットが彼なりに自分に甘えているのと、身体のみならず徐々に思考も女性化しているんだと感じられた。
 そしてユークレンの季節が巡り、国の民にとって大晦日にあたる冬至の日、アーリットは唯人が完璧に元通りになったのを確認すると、千年樫の住処にずっとしまってあったあのTシャツとスエットの下を持ってきて着換えさせた。
「これを着て、何をするんだい?」
「おいおい、何言ってるんだ、世界主に会いに行くんじゃないか」
「え?世界主に?」
「ああ、世界主への道を開けるのは、この俺、アリュートだけだからな。その為に俺は、死ぬ思いして全てを思いだしたんだ。さあ、お導きさせて致しましょう、世界に呼ばれし創界主殿」
 芝居じみた仕草でうやうやしく手を差し出され、そっと己の指を添える。二人で神殿の外に出ると、またあのラリェイナを戻した石造りの舞台に向かう。お前の声も記録されてるから、今後は広場の石門じゃなくこっちから入れと言われ、唯人はアーリットに手をひかれるまま、丸い舞台の中央に立った。
「始めるぞ」
 アーリットが、澄んだ声色で歌い始める。そういえば、これまで鼻歌程度くらいしか歌っているのを聞いた事が無かった。話すのは男性と女性の中間音より少し下、な印象だったが、いざ本気で歌うと低音から高音、全てが自由自在の喉だった。言葉の無い、旋律のみの歌。複雑極まりない調べを鳴き鳥のごとく高らかに歌い上げると、あの立体的な術式の印がゆらゆらと円を描いて立ちあがってきた。
「……わぁ」
 唯人の周りが、繊細なレース編みのごとき光糸の網にゆっくりと覆われてゆく。そこでふと、唯人はアーリットがその式の外にいる、自分の傍らにいない事に気が付いた。
「アーリット?」
「なんだ、情けない声出すなってんだ、世界主の元にはお前一人で行く決まりなんだ。さっと行って済ませて戻ってこい、俺はここで待っててやるから」
「分かった」
 朗々と響いた歌が終わり……ゆるゆるとレースの幕が引いた後、周囲の様子は一変していた。
「これは……」
 その光景は、唯人にとってあまりにも懐かしい、ありふれた路地の景色だった。夕方の陽が斜めに差し、買い物帰りの母親と小さな子供が楽しそうに喋りながら脇をすれ違ってゆく。
 今はもう無い、記憶の中だけの過去の風景。
 祖父母と母と幼い自分、四人で暮らした田舎町。
「ただいま、母さん!」
 懐かしい家が、眼の前にあった。玄関脇の前庭で、母さんが乾いた洗濯物をとり込んでいる。家も、母さんもすごく大きく見えるのは、今の二十歳の自分がこの身体のまま、十歳の自分の世界に入っているからだと理解できた。
『お帰りなさい、たっくん』
 天をつくような長身で、母さんが笑いかけてくる。うっすらと、その身体の周りを青い竜の姿が覆っているように見えた。
『おやつは棚に入ってるから、手を洗ってから食べなさい』
「はぁい」
 家に入り、これも懐かしい茶棚を開くと、小さな菓子パンが五個並んでひと袋になっている大好きなおやつが入っていた。お爺ちゃんにひとつ、お婆ちゃんにひとつ、母さんにひとつ、自分に二つ。ひとつを食べ、残りの中から二つをお皿に乗せて縁側に行くと、ちょうど仕事の終わった母さんが庭から戻ってきたところだった。
『どうしたの?たっくん』
「うん、お母さんと食べたいな、って」
『あら、ありがとう』
 二人して縁側に腰かけると、お婆ちゃんがお茶を淹れて持って来てくれた。半透明に霞む紅く長い尾を引いた後ろ姿が、ゆっくりと奥の部屋に戻りこたつに潜る。自分を見下ろす母の顔、若い時のままのそれを、唯人は切ない気持で眺め上げた。
『あれ?なんだか楽しそう、今日はどんなことがあったのかな?』
「うんとね、いろんな事、すごく沢山の、いろんな事があったんだよ!」
『そうなんだ、お母さんにも聞かせてくれる?たっくん』
「うん、勿論!」
 夕陽に染まった景色の中で、唯人はこれまでの自分が見知ったありとあらゆる事象、過去から現在、二つの世界の全てを母に語って聞かせた。途中からは、もう話している実感も無い、頭に浮かんだ事全てが相手に伝わって行くような。堰を切った怒涛のごとき情報の奔流を、全て語り終わるとふう、と口から大きな溜息がひとつ漏れた。
「……というわけ」
『すごいねぇ、そんな事があったんだ』
「うん!」
『たっくん、大活躍じゃない、偉いなあ』
『そんなのじゃないよ』
 穏やかに笑む母の顔、大きな手が伸びてきて、頭を優しく撫でられた。
『たっくんのお話、母さんすっごく楽しかった。お礼に、たっくんのお願い何でもひとつ聞いてあげようか、何がいい?』
「え?いいの?」
『うん、欲しい物があるなら言ってごらん、それとも何かして欲しいのかな?』
「うん、なら、叶えて欲しい事があるんだ!」
『なあに?』
「あの、僕……」



 ゆらゆら揺れる術式の網が周囲で薄れ、消え去った後。戻ってきたその場には、本当にアーリットがそのままの顔で一歩も動く事無く待っていてくれた。
「ただいま、アル」
「おう」
 どのくらい経ったのか分からないが、周囲はほとんど変わっていない。おだやかな陽光の下、アーリットは緑の眼をじっと唯人に据えた。
「ちゃんと、全て済ませてきたよ」
「ああ、見りゃ分かる」
「でさ、僕、多分、今から僕の世界の、弟に殺されたあの夜に戻るよ。死なないって分かったから、安心して弟をごまかして彼がやった事、なかったことにしてくる。その後は、僕の世界で今日の今この時までにこっちに来る準備を済ませておくから。で、アーリット」
「うん?」
「君はこれから千年樫の森に行って、ミラの鏡から僕を呼んでくれるかい?向こうの時間とこっちの時間の具合がどうなのか、僕にもよく分からないから」
「……」
「いいだろ?」
 笑顔の唯人に、アーリットはちょっと伏し目になって頬をかいた。
「唯人、それって……どうしても、今すぐじゃないと駄目か?」
「え?な、何かいけない事でも?」
 まさかそう返してくるとは思わず、びっくりした唯人に違う、とアーリットは口ごもった。
「後数月で、俺は完全にお前に応えられる身体になる。そしたら、お前の世界の作法にのっとり指輪か?それを持って親族に挨拶に行くべきだと思うんだ。お前を貰う、ってちゃんと言いにな」
 いや、それをやるのは一般常識的には男の僕のほう、と言いかけて、唯人は言葉を飲み込んだ。アーリットには、世界中のどこにも、ただの一人だって親族など居はしない。
「そうだね、僕の世界を見においで、アーリット」
「よし、それでいいな」
「うん、待ってる」
 自分に向けられた唯人の笑顔に、アーリットは最初の印象からは想像もできないような満面の笑みを返して見せた。ごく自然に腕が伸びてきて、ぎゅっときつく抱き締められる。今お前がその気になって俺をものにすれば、呼ぶのがぐっと早まるんだがな、と挑発的に囁かれ、思わず鼓動を速めてしまった唯人の唇をアーリットはもう慣れた風で優しく塞いだ。
「……ん」
「ほんのわずかの間だ、指くわえて待っていろ。とびきりの俺の胸で腰抜かさせてやるからよ」
「うん、それは、絵で見た……」
「馬鹿、絵なんて平らなだけの写しで何が分かるってんだ。触って揉んで、揺らして感触楽しんでこその胸だろうが」
「ぼ、僕……楽しんでいいの……かな?」
「当たり前だ、お前の為のものなんだから」
「アー……ット……」
「おう」
「僕、君……い好き……よ……」
「知ってるさ」
 切れ切れの声が完全に途切れ、腕の中で徐々に霞んでゆく身体はやがて完全に周囲に溶け、消えてしまった。一人佇む姿が名残を惜しむように己の胸をしばし抱き、その残り香を追う。やがて顔を上げると、緑の眼はふいと流れゆく雲を振り仰いだ。
「やっぱり、我慢なんてしないで一回くらい味わっておくべきだったかなぁ」
 いや駄目だ、それをやってしまえば、もう後は手放せなくなる。我慢はここ一回きり、ならせいぜい、この小娘のような胸の熱っぽさを楽しむとしよう。
 これまで生きてきた、気の遠くなるほどの時間。
 それよりも遥かに長い、濃密な日々が始まる。

僕の世界、僕の日常

〝死んじまえ、兄貴!〟
「俺が、消してやるから!」
 喉に食い込み、絞め続ける指からやがて、力が抜けた。
「……兄貴?」
 見開いた眼を宙に向け、驚愕の表情で凍りついている同じ顔。力無く伸ばされた腕、止まった呼吸。
「兄貴、兄貴っ!!」
 こうしたかった、こうなるとは思わなかった。これをやるために来た、こんなはずじゃなかった。
 これは、違う。
 これまでに幾度と見た悪夢のひとつだ、そうだ、と言わんばかりに中腰のまま、よろよろと後じさる。
 なんでこうしたんだ。
 そうだ、俺が兄貴に。
 阿桜 唯人になってやろうと…。
 いい目ばかり見てきた、兄貴の人生を俺のものにしてやる、って……。
 冗談じゃない。
 俺が、兄貴になれるわけないじゃないか。
 たとえ顔が同じだろうと。
 俺は、兄貴の事何も知らないのに。
 これから、知るはずだったのに。
 兄貴。
 たった一人の、俺の兄弟。
「嫌だ……」
 俺を、一人にしないでくれ。
 不安なんだ、恐いんだ。
 やっと巡り合えたのに。
 混乱する頭で突っ伏して、ただひたすら泣き崩れる。
 どれだけの時が過ぎたろう。
 その頭に。
 ふと、差し伸べられた手が触れた。
「……不二人?」
「うわああああっ!!」 
 ものすごい絶叫が、暗い部屋中に響き渡った。ち、ちょっと、アパートだよ、そんな大声出されちゃ……と慌てきった声音と共に口がふさがれる。その手を振り払い、どたばたと部屋の隅に逃げた弟の姿にどうしたんだい?と唯人は小首をかしげて見せた。
「夢でもみた?」
「あ、あ、あ、兄貴……?」
「うん?」
「お、俺が……あの……」
「相当、怖かったみたいだね」
「怖い……夢?」
「僕も小さい頃はよく夜中に泣きだして、母さんに宥めてもらったりしたけど。そういうのって、昼に強烈な経験をしたり寝床の環境が変わると起こるんだって。不二人、まだ緊張してるんだよ」
「夢……」
「ほら、顔拭いて、ぐずぐずだ」
 怯える動物に接するように、そうっと、ゆっくり近づいて、タオルで顔を拭ってやる。その感触にようやく現実感が戻ってきたのか、不二人は潤んだ眼でじっと唯人を凝視した。
「兄貴……生きてる」
「うん、お前に起こされて今ちょっとびっくりしてる」
「生きてる、生きてるんだ……!」
「もしかして、僕、死んだのかい?お前の夢の中で」
「ああ……夢、夢だったんだ、夢か……」
 唯人が立ち上がり、部屋が照明の光で満たされる。そのタイミングで、ドアからノックの音が響いてきた。
「阿桜ー、起きてるのか?」
「あ、はい!」
「何時だと思ってんだよ、何かあったのか?」
「ごめん、たいした事じゃないよ、弟の顔にゴキブリがさ!」
「はぁ?騒がしいと思ったら、そういう理由?」
「ごめん、本当にごめん!」
「いいけど、ちゃんと退治しとけよ」
「ああ!」
 ドアの向こうの足音が去り、部屋に静寂が戻る。まだ震えている弟の側に寄り、唯人は安心させるように囁きかけた。
「寝られそうかい?」
「あ、ああ」
 首に残っている痕を気付かれないよう、さり気なく襟を立てる。朝までにはきれいに消えているだろうから。
「不二人、僕、明日は大学に行かないといけないんだけど、できればここで待っててくれないか?昼から一緒に母さんのお墓参りに行こう」
「……墓?母さんの?」
「うん、そこから近いからお祖母さんにも会いに行こうよ、僕達が小さい頃の話を聞かせてもらいに」
「……うん」
 朝になって、憑き物が落ちたようにぴくりともせず寝入っている弟を残し、唯人は大学に向かった。残念だが、美大生生活はここで終わり。退学の手続きをして、私物を全部引き上げる。画材など、使える物を友人に分けていると皆口々に事情を訊ねてきた。
「うん、僕、好きな人ができてさ。外国人なんだけど、その人の国に行くって決めたんだ」
「えぇーっ?だって、唯人。お前昨日まで、全然そんな話してなかったじゃないかよ!」
「それは、急に決まったから」
「ええい、お前の事情なんぞどーでもいい!彼女、外国人の彼女っての紹介しろよ!び、美人なのか?」
「ああ、すっごい美人だよ、こっちに来たら連れてこようか?」
「何ぬけぬけとほざいてやがる、何様だよお前、唯人のくせに!」
「そうだそうだ、この顔で金も無いお前にどうやって美人が口説けるってんだ!」
「お前、絶対騙されてるぞ、確かめてやるから俺に譲れ!」
「馬鹿野郎、貴様じゃなにも変わらん、俺だ!」
 はにかみながらのろけた唯人に、男達の悔し涙の鉄拳が容赦なく降りそそいだ。よれよれになって下宿に戻り、大家の小野坂さんに大学は辞めるが引き続き居て良いかおそるおそる伺ってみる。事情を聞き終えた老婦人は、あなたが前に進む為に何かをやり続けたいのなら、ここはその為のあなたの家よ、と微笑んでくれた。
 自室に戻ると、不二人は唯人が置いていった食事をとり、また布団に戻って眠っていた。相当疲れてたんだな、とそのままにして室内干しの彼の衣服の乾き具合を調べてみる。厚手の上着がまだ湿っているので、小野坂さんにアイロンを貸してもらおうか、などと考えていたら不二人が目を覚ました。
「……兄貴?」
「起きた?出かけられそうかい?」
「うん」
 乾いていない上着は諦めて、そう数の無い自分の服を貸してやる。当然ながら、サイズはぴったり合った。外に出ると、同じ顔が二つ並んで歩いているのが珍しいのか、通りかかった女子高生らが遠目にくすくす笑いを交わしている。電車を乗り継ぎ一時間程の町に着くと、唯人はまず駅から近い、祖母のいる老人介護施設へと向かった。まだ寝たきりとまではなっていないが、最近足腰がめっきり弱った祖母は週の数日を施設で過ごしている。久しぶりに訊ねてきた孫の唯人が、不二人を連れて来た事に祖母は驚きを隠せないようであった。
「まあまあ、ふっくん、大きくなって……」
「お祖母ちゃん、何言ってるんだよ、僕と同じなんだから当たり前だろ」
「ああそう、そうよね」
 車椅子の上から差し出された腕に不二人が身を預け、ぎこちなく抱き締められる。顎の傷に気付いた時、祖母の顔がほんの少しだけ陰ったように見えた。
「司朗さんは元気?」
「あ、は、はい」
「新しいお母さんは?」
「い、いえ……」
 ごめんなさい、あまり聞いちゃだめよねと言葉を切り、お菓子でも食べる?と棚の缶に手を伸ばそうとする。すかさずそれを先に取り、振り返ると不二人は思い詰めた表情で、ずっと聞きたかったらしい問いかけを口にした。
「お祖母さん、俺、ひとつだけ、どうしても聞きたい事があって……」
「あら?何かしら、お祖母ちゃんに分かる事なら何でもどうぞ?」
 不二人の眼が、ちらと唯人に飛ぶ。気を利かし、僕、お茶でも淹れてこようか?と部屋を出ようとしたら引きとめられた。
「聞いてもしょうがないって分かってるんだけど、どうしても知りたくて。どういう理由で、親父が俺を、母さんが兄貴を引き取ったのか、って事。親父は、何度聞いても教えてくれなかったから」
 その問いに、それまでにこにこと微笑んでいた祖母の顔がふいと引き締められた。
「そうね、言ってもしょうがない事よ、でも、聞きたいのね?」
「……うん」
 頷く不二人の表情で、祖母は大体の彼の状況を察したようだった。
「これだけは約束して、あの時は誰も、今のあなたがそうなる事を分かってはいなかったの。誰のせいだとも思わないで」
「うん、分かってるから」
 低く相槌を打った不二人に、祖母は手を伸ばすとまた頭を撫でた。
「そう、ふっくんは元気な子だったわね。明るくてやんちゃで、少しもじっとしてない。それと反対に、たっくんは大人しくて人見知りで、一日中母さんに張りついてる子だった」
 同じ顔なのに、皆不思議がってたわ、とふっと笑いが洩れる。
「お父さんもお母さんも、そんな二人が大好きで、うんと可愛がってそれは毎日楽しそうだった……あんなことが起こる前までは」
「あんな事?」
「なんだ?それ」
 二人とも、特に何があったという記憶は無い。まだ小さかったからね、と祖母は不二人の傷を見た。
「二人が四つのときの春、家族でお花見に行ったの。その時野良犬に襲われて、ふっくんが顔に大怪我してしまってね」
 ああ、それが、と不二人が自分の顎を撫でる。てっきり親父にやられたのかと思ってた、と喉声の囁きが漏らされた。
「でもそれよりみんなが驚いたのは、そこにいたたった四つのたっくんが、大人が来るまで身体を張ってふっくんを犬から庇い続けてたって事。二人とも救急車で病院に運ばれて、たっくんはふっくんの倍以上背中や足を縫ったんだけど、退院は二人一緒だったのよ」
「え?」
「お医者さんも本当にびっくりしてたわ、たっくん、一生痕が残るだろう、下手すると生活に支障が出るかも、って言われてたのに。みるみる治って退院する数日前には、ふっくんのベッドにたっくんが遊びに行ってたって。それ以来、ふっくん犬が大嫌いになっちゃってねえ……」
「今は、もう平気だから」
 ぶっきらぼうに呟いた不二人の隣で、唯人はこの間知らされたばかりの己の身体の特異性に思いを馳せていた。異界の存在が溶け込んでいるこの身体は、死なないだけではなく治癒力も並はずれて早いようだ。幸いその後は、記憶にある限り大怪我をしていないので気がつかずにいたようだが。そういえば、破壊主に斬られた肩の傷も、もう痕も残っていない。
「そういう事があった後、司朗さんが段々たっくんを気味悪がり始めてしまったの。元々、たっくんはお母さんのお腹の中にいた時から危ない、って言われてた子でね。神社の桜の古木にお参りしたら助かった、ってお母さんは有難がってたんだけど、その話を聞きつけた変な新興宗教の教主だって人が訊ねてきて、ぜひ息子さんをうちに預けて欲しいとか言われて。そういうのが続いて、司朗さん、ついに耐えきれなくなってふっくんを連れて家を出てしまったの。こいつはちゃんとした普通の人間、俺の息子だ、ってひどい言葉を残してねぇ……母さん、戻って来てからもしばらく隠れて泣いてたわ、たっくんも、普通の子なのに、って」
「……」
「……」
 何があったかは知らないけど、こうして二人とも立派な大人になれたんだから、これからは仲良く助けあって生きてゆきなさい、と笑顔で言い聞かされ、二人は施設を後にした。
「親父が、俺を選んだのか。母さんが俺を捨てたんじゃなくて……」
 山手にある墓地に向かう道すがら、不二人が呆然とした面持ちでぽつりと呟いた。
「捨てられたのは、僕と母さんだったんだ」
 どっちが良かった、とは言える事ではない。人は、先の事など分からないのだから。
 万感の思いを互いに巡らしつつ、やがて二人はうらぶれた墓地にたどり着いた。
「ここだよ、不二人」
 小さな墓石に、阿桜家と刻まれてある。二人で掃除して買ってきた花を生け、手を合わせると不二人は目を細め、何かを思いだそうとしているような顔をした。
「母さん、なんで亡くなったんだ?」
「うん、運転手が発作を起こして暴走した車にはねられたんだって。僕も、学校にいたらお爺さんが迎えに来て、病院に着いた時にはもう母さん亡くなってた。顔はそのままだった、それ以外は……見ていないから」
「そうか、ごめん、嫌な事聞いて」
「ううん、大丈夫。不二人は母さんの事、覚えてる?」
「いいや、なんかいた、くらいだな」
「そうだよね、僕も、父さんのことあまり覚えてない」
「そのほうがいい」
 急に声のトーンを落とし、不二人が唸った
「あんな奴、記憶に残す必要なんてない」
「不二人……」
「……」
「僕も、聞いていいかな、父さんはどうしていなくなったんだい?」
「知るかってんだ、詐欺師に騙されて起業して、借金まみれになってどこかに逃げちまいやがった。うんと立派な会社にして、お前に継がせてやるって夢物語を聞かせ続けてな。そりゃもうご大層な借金を、俺に残してくれたってわけだ。そいつを詐欺師の元締めの暴力団が肩代わりして下さったんで、俺はめでたくそこの下っ端って奴隷にされたんだ」
「……不二人」
「とても言えないような事、沢山やって。心が麻痺しかけてたけど、人に手をかけるのは……それだけは、何があってもしちゃいけないって決めてたんだ。だから、ついにその状況になって、もうどうしようもないって思って後先考えず逃げ出した。あいつらが俺をどうしようが、俺は絶対、誰一人手にかけない、そう思ってたのに!」
「そうだ、お前は正しいよ、不二人」
「だのに、何であんな夢見ちまったんだろうな?俺、負けてたんだろうか、誰かを消したら楽になる……そう思うようになってたんだろうか」
「夢だって、不二人。悪い夢は誰でも見る、大丈夫、僕はここにいる」
「兄貴……」
 顎の傷のせいで、少し引きつる笑顔。自分と似て非なる笑みを浮かべ、不二人はゆっくりと唯人に背を向けた。
「そろそろ俺、帰るよ、俺の居た街に」
「大丈夫なのか?」
「一人だけいるんだ、俺を本気で心配してくれた、少年課の刑事のおっさんが。俺、叩けばホコリどころじゃないのが溢れ出す身だから、ここは一発おっさんのいる警察に特攻して洗いざらい吐いて捕まってやる。刑務所の中で身の安全を確保してもらって、何とかあいつらと縁を切れるよう足掻いてみるさ。途中であいつらに見つけられちまったらどうなるか分からないけど、その時はその時だ。兄貴や母さんにも会えたし、楽になったから俺はもういい、この顔をひとつ押さえときゃ、奴らが勘違いして兄貴に手を出すことは無いだろうからな」
 そのまま歩きだそうとする、弟の背を唯人は呼びとめた。
「不二人!」
「うん?」
「良かったら、ひとつおまじないを教えてやるよ。どうしようもなくなった時、お前の力になるような」
「なんだ?おまじないって、女子供じゃあるまいし」
「いいから、ちょっとだけ眼を閉じて」
「……うん」
 変な顔になったが大人しく従った弟の前で、唯人は素早く自分の服の裾をめくると黒鞘の刀身を取り出した。鞘に巻きつけてある紐に、異界の硬貨とあの虹色の小石が並んで輝いている。腕を取って手のひらに押し付けてやると、刀は抵抗なくするりと沈み込んでいった。
「何やってるんだ?兄貴」
「お前を護ってくれる神様をここに入れた、名は鋭月だよ」
「えいげつ?」
「ああ、鋭い月、って書く。覚えるんだ、大事な事だから」
「あ、ああ……?」
「この神様は、本気で信じて願えば、何があろうと、誰からだろうとお前を護ってくれる。でも、ひとつだけ覚えていて欲しい。これに願っていいのは自分の身を護る、そのことだけだ。けして自分の欲や、弱い者苛めの行為を望んじゃいけない。それを破れば……」
「何か分からないが、大変な事になるんだな?お約束の」
「うん、そう」
「分かった分かった、もう、眼、開けていいか?」
「ああ、いいよ」
 鼻で溜息をついた表情で、彼がこんな子供だまし、でもまあいいやと思っているのが分かった。自分とは違う世界で生きてきた兄の無邪気な行為をありがたく受けとって、いい思い出にしてしてやろう、と。
『鋭月、弟を頼んだよ』
『……話に聞かされたとおり、ほんに、よく似ておられますことで』
 心の呼びかけに、すいとあの黒羽織姿が現れる。深々と一礼し、鋭月は自分が見えていない不二人の傍らに立った。
『唯人殿、長きに渡り世話になりました事、心より感謝いたします』
『こちらこそ、ずっと助けてくれてありがとう』
『弟君の御身、変わらぬ忠心にてお守りさせて頂きますゆえ、ご心配の無きように』
『できれば、今後はこれまで以上に人死には避ける方針で頼むよ』
『分かっておりますとも』
『不二人は、僕以上に素人だと思うけど、大丈夫かい?』
『そうですね、最初からよく慣れた仔犬を躾けるのは楽ですが、人慣れしておらぬ野良の仔を宥め、餌で釣り、時には力で従わせるのもまたそれはそれで一興かと』
 では、鉄砲殿にもよろしくお伝え願います、と黒眼がちの暗い眼がふっ、と笑い、そのまま消える。
 ううん、僕、またやってしまったかな。すまない、不二人。
 陽が落ちてきたな、そろそろ本当に戻らないと、と空を見上げた弟に、唯人はもう一晩泊まっていくかと訊ねてみた。いいや、と笑顔で被りを振られ、じゃあこれ、と大学帰りに下ろしてきた、今自分が出せるだけの金を差し出してやる。いいよそんなのと一応遠慮し、その後に足代だけ貸してくれ、と不二人は申し訳なさそうにそれを受け取った。
「もし全部片付けられたら、絶対返しに行くからな」
「ああ、待ってる。ちゃんと戻しにまた訊ねて来てくれ、不二人」
「勿論だ、兄貴!」
 夕陽に染まった田舎道、二人で肩を並べて他愛ない事を語り合いながら駅へと戻り、別々の方向に向かう電車に乗る。
 窓からじっと自分を見つめ、発車と共に消えていった弟の顔を唯人は無理の笑顔で見送る事ができた。
 不二人、本当の僕。
 お前が思ったとおり、僕の人生はお前のものであるはずだった。
 僕があらかじめ決められていたとおり、お母さんの中で消えていれば。今の僕みたいな穏やかな、ごく平凡な人生を送っていたはずだろう。
 僕達、後戻りはできないけど。
 せめてお前のこれからに、僕の人生を返すから。



 季節が巡り、一年があっという間に過ぎた。
 唯人は、美大を辞めた後、バイトの数を増やし貯金をしながら独学で調理の勉強を始めた。開業するため免許を取ろうとかいう気は無いので、居酒屋のバイトで先輩に包丁の扱いを教えてもらったり、ネットで調べて食材の知識やベースとなるソースやスープのレシピを頭に叩き込んだ。
 上手い絵をいくら描いても、あの人を心から喜ばせる事は出来ない。
 だから、いろんな食材の味と特徴を覚えて、向こうの世界で似たのを探して僕が美味しい料理を作ってあげよう。
 お茶とか酒の良し悪しを分かってたから、彼にはしっかりした味覚がある。
 美味しかったら、喜んで食べてくれるだろう。
 そして、ずっと素敵なままでいてくれる。
 男をやる気にさせるのは、いついかなる時でも下心なんだと悟るに至ったある日、唯人に待ちかねた瞬間が訪れた。
 それは、桜が咲く前のまだ肌寒い夜。
 唯人が調理に入れ込んでいるのを知った小野坂さんに、材料費を出すからと下宿のまかない担当にされてしまい、日々ちらしを眺めて安売りの店をまわって食材を買い集め、新しいスープに挑戦してみようとレシピを眺めていたら。
 無人の部屋なのに、何故か視線を感じた。
 同居人の異国人は、ちゃんと学業を修め一足先に母国に帰り、今ここには自分しかいない。そのはずなのに、どこからか見られている気配がする。
 カーテンを開き外を伺い、戸も開けてみた、しかし誰もいない。頭をかきつつ部屋に戻り……ふと、何かが視界の端で動いた。
「……!」
 一気に部屋を突っ切り、奥に置いてある鏡に走りよる。自分と、今ひとつ、別の影がぼんやり浮かんでいるその様子に、慌てて唯人は
部屋の灯りを消してみた。
「アーリット!」
 映っている室内が消えると、鏡の向こうのもうひとつの光景がはっきりと見えた。大樹の太い枝に腰かけて、アーリットが、あの懐かしい姿がじっとこちらを見つめている。唯人が自分に気付いたのが分かると、彼は何か喋り、音が伝わっていないのを確認してちゃんと用意していたらしい石板を傍らから取り出し、すらすらと文字を書いて見せた。
〝さっき、お前がそちらに戻った〟
 ああ、今日があの日なのか、長いようで早かった。
〝俺は、言ったとおりちゃんと身体ができたらそっちに行くから。これからは、時々顔くらいは見せてやる、分かったか〟
 分かった、と返事をするべく部屋を駆けずり回り、やっと残っていたスケッチブックを引っ張り出して必死で消えかけた知識を絞り出す。しかし唯人の全身全力の回答に、アーリットは〝はぁ?〟の表情で失笑した。
〝本当に過去に戻ったんだな、分かった、って書いたつもりなのか?沸いた、になってるが〟
 うわー、恥ずかしい!駄目駄目だな、僕。
 それからすぐに鏡を森から神殿に移したのか、背景の変わった鏡像の中、時々アーリットはそこに姿を見せるようになった。時間も本当にばらばらで、唯人が部屋にいない場合は石板にメッセージを記し残してゆく。主王子がエクナスで手当てを受け無事に戻ってきた事や、ついに堪忍袋の緒が切れた銀枝杖に絶縁されたとか。たまに運よく顔を合わせられたら、その時はたわいない話を延々続けて楽しんだ。
〝今日は、滝魚のいいのが獲れたんで焼いて一人で全部食ってやった〟
「え?あの大きいの、一人で?」
〝脂がのってて、そりゃあ美味かった。お前が獲って焼いたのなら、二匹はいけた〟
 思わせぶりに覗いた舌が、ゆっくりと紅い唇を舐める。精霊獣師正装をまとった状態でも何となく分かるようになったメリハリのついた身体を揺らし立ち上がると、アーリットは徐々に目立ってきた胸をことさら見せつけるような挑発的な姿勢でこちらを覗き、唯人の鼓動を早くさせた。
〝本当に、眼付きが変わりやがったなぁ〟
 筆談でなく、口がそう動いた。ふっと笑い、そのままいつものように鏡の外へと姿を消す。
 その後ふっつりと姿を見せなくなってしまい、サレと王子の婚約発表の日取りなど情報だけが残されるようになった頃、なんとなく唯人はアーリットが自分の眼をわざと避けているのでは、と思うようになった。どんどん変わってゆく自分の姿に戸惑っているのか、それとも髪を切った女性のようにいきなり唯人に見せてびっくりさせてやろうともくろんでいるのか。多分後者だな、と唯人は微笑ましく思いつつ自分からもメッセージを返し続けた。
 最低、いつ来るかくらいは教えてくれると思っていたのだが。
 季節が巡り、花が咲き、緑が萌えそして雨が訪れる。
 不二人が唯人の元にやってきた、あの梅雨の始めと同じ頃。
 中休みに入ったとかで、降り続いた雨がふと止んだ午後のある日、唯人が下宿に戻ると入り口のドアが薄く開いていた。
「あれ?」
 腕に抱えていた袋を下ろし、そっと室内を覗いてみる。鍵は確かにかけて出た、中に不審者がまだいたら……。
「……」
 見える範囲、人のいる気配は無い。なぜか卓上に置時計やハンドクリームのチューブ、テレビのリモコンなどが散らかされていて、その脇に、見慣れない布が雑に置かれてある。
 白地に赤で模様が染め抜かれた、けれどけして派手さを感じさせないその布。それが目に入った瞬間、唯人は飛び付く勢いで駆け寄っていた。
「アーリット!」
 間違いなく、あの一級精霊獣師正装の衣だった。よく見てみると、奥に干してあった自分の服から上下ひと揃いと、靴が一足消えている。それで全てを察し、一動作で身を返すと唯人は外へと飛び出した。階段の上から周囲を見渡すと、下で小野坂さんが日課の庭の手入れをやっている。
「すいません、小野坂さん!」
「あら、阿桜君、なあに?」
 いつもの品の良さを感じさせる笑顔で、彼女は唯人を振り仰いだ。
「あの、僕の部屋から人が出てくるのを見ませんでしたか?金髪の、お、女の人……」
「金髪の?うーん、見なかったわねえ。大分前に誰かが降りてきて、商店街の方へ向かったのは見たけれど。あなた達、しょっちゅういろんなお友達を連れてくるものだから」
「はい……」
 その人物がどの部屋から出てきたのかは分からないという事で、証言は何の頼りにもならなかったが、他にあてもないので唯人はとりあえず近所の商店街へと向かった。そう長くない通りの中に、金髪の姿は見当たらない。きょろきょろしながらうろついていると、馴染みの惣菜屋のおばさんが声をかけてきた。
「あれ、阿桜君、さっき帰ったばかりじゃないか、どうしたんだい?」
「あ、おばさん、人を探してるんですけど。金髪で、僕くらいの背格好の」
「金髪?あんたんとこの下宿の音楽やってる誰だったかね。あの子なら、今日はまだ見てないけど」
「違います、外国の女の人で」
「ふーん、外国人の娘さん、そういや……」
「通りました?」
「うん、金髪ってんじゃないんだけど、見慣れない別嬪さんがさっき通りかかったよ。えらくきれいな顔してるのに、随分はじけた格好しててさぁ」
「え?で、どこに行きました?その人」
「面白い娘さんでね、檻の熊みたいにその辺うろうろしてたから、ひとつお食べ、ってコロッケあげたらさ、取らずになんかぴいぴい喋って公園の方へ逃げてっちゃった。綺麗な眼してたねえ、阿桜君の彼女?どこの国から来た娘だい?」
 うわさ好きのおばさんの詮索はうやむやでごまかして、道一本奥に入った公園へと向かう。すると、今度はそこであった事が手に取るように分かる状況が繰り広げられていた。泣いている男の子、その足元に散らかっている何か。男の子の手には虫取り網と籠があり、彼がついさっきまで何をやっていたかは明らかだった。
 推測するに、アーリットが公園を通りかかる、ふと見ると、少年が虫取りをやっている。それは彼にとっても馴染んだ光景、彼の世界では蟲はありふれた子供のおやつ、自分で獲って家に持ち帰り、親に調理してもらって食べるもの。
 見たところ、成果はあまり芳しいものではなさそうだ。慣れていないのか、手つきがおぼつかない。
 こちらの世界の子供にとって、虫取りはただの遊びなんだとは彼は知らない。
 ああ、生きたままの蟲をいくつも籠に入れている、すぐに処理しておけば痛まなくていいのに。まだ蟲のばらし方を知らないのかな。
 よし、教えてやるとするか。
 ここからは、子供目線。
 公園に来て、いつものように虫取りを楽しんでいたら知らないお姉さんがやってきた。にこにこして籠の虫を見せて、という素振りをする。はい、と渡した次の瞬間、お根さんは笑顔のまま、虫を取り出すとあっという間にばらばらに解体してしまった。
 子供、ぽかーん、そして号泣。
 たじろぐお姉さん、自分が何悪い事したのか分からない。
 泣きわめく子供、いたたまれずにお姉さん逃走。
 状況が状況でなければ、腹抱えて笑い転げたい衝動をなんとか抑え、唯人はぐずっている少年におそるおそる近づいた。
「ぼく、どうしたんだい?」
「へ、へんなひとが……虫、取って、そんでぐちゃぐちゃって……!」
 ああ、予想的中。
「よ、よし、お兄ちゃんがその人にこら、って怒ってきてあげるよ、どっちに行ったのかな?」
「そんなの知らないぃ!」
 叫んで逃げ帰ってしまった少年に代わり、遊具で遊んでいた別の子供らが河の方に行ったよ、と教えてくれた。
 アーリット、知らない場所でこんなに遠出をしてしまうなんて。
 彼でも、初めての場所で迷ってしまったのかな。
 向こうの世界にいたら、少し迷ったらすぐに飛んで上から見れば地上の事は把握できたが、ここではそうもいかない。
 早く、見つけてあげないと。
 可愛いな。
 土手を登りながら、そんな思いで胸が一杯になった。
 ここの事は何も知らない、僕しか頼れないアーリット。
 僕を拾ってテルアの街に連れて行った時、彼はこんな気分だったんだろうか。
 息を荒げて一気に土手を登り切り、眼下に開けたその光景が目に入ったその途端、唯人は言葉を失い思わずその場にしゃがみこんだ。
「そうだ、今日だったっけ……」
 河川敷いっぱいに広がる色彩の乱舞、そこを行き交う人の波。地元の水神祭りとやらで、普段はひと気の無い川岸が今日は人でごった返していた。
「うわぁ、これ、見つかるかな」
 前言撤回、アーリットは迷ってなんかいない。面白そうな事、雰囲気を嗅ぎとりそこへ自ら攻め込んでいる。星渡りの血がそうさせるのだろうが、右も左も分からなくて呆然としていた僕とはやはり格が違う。
 流石だな、と感心して唯人は腹を決め、人混みの中へと分け入った。出店の派手な色使い、甘いのや辛いの、さまざまな食べ物の香りが一気に押し寄せ包み込んでくる。一気に通り抜け、なんとなく視線が河の縁へと向いた。屋台で買った物を食べている数人の子供達、親子連れにカップル、降りそそぐ陽光の下、皆笑い、語り、おのおの祭りを楽しんでいる。
 その只中に、ぽつりと一人立っている背中があった。ありふれた服と背格好、少年みたいに髪を短く切りそろえた後ろ姿。
 懐かしい名が、意識に浮かび静かに響いた。
 マーリャ。
 こんな所にいたのか。
 探した、随分と探したよ。
 もう会えないかと思っていたが。
 ……一目でも、君を見る事ができてよかった。
 陽光のような、咲く花のようなその笑顔を。
 淡い花火のように開いて消えた、その心の声が届いたかのように、離れた場にある背がくるりとこちらを振り返った。
「やっと、見つけたか」
 形のよい唇がにっと笑い、伏せていた眼が、すっと見開かれ金色の輝きを放つ。
 懐かしい、この香り。
 自分に向けられた、自分だけを惹き付ける彼からの音の無い睦言。
 一気に駆け寄って、何も言わずぎゅっと抱きしめると、媚薬のごときその濃密さで頭の芯がくらくらした。
「アーリット……」
「よさないか、こんな往来で」
「会いたかった、ずっと会いたかった、僕……!」
「俺もだ、落ちつけ」
 足早に人目の無い場所に移動して、夢に見た、とびきり柔らかな唇の感触を確かめる。腕の中にすっぽり収まったアーリットは、唯人の思った以上の変化を遂げていた。本当に、見た感じは唯人ら日本人とほとんど相違は無い。茶がかった黒っぽい頭髪に馴染む淡褐色の肌、金色の眼がはまった顔は変わらずの美貌だが、最初の頃よりはずっと角が無くなってふっくらと愛らしい。
 それに胸、どうだと言わんばかりに唯人にその圧倒的な存在を誇示している。唯人が男女を胸で見分けている、と言ったのがよほど心に残ったのか。よりにもよって、干していた服の中で一番スリムな綿シャツを一枚、素肌にまとっているだけのその姿は、どんな男の眼も釘づけにせずにはおかない状態だった。透けてはいけないものが両方くっきり透けている上、はち切れそうな胸ボタンの間から、谷間の線が覗いて見えている。
 テルアには、女性が胸に付ける下着って無かったな……無かったよ、精霊獣師は布巻いてりゃ良かったし。
 下着を買わなきゃ、嫌だけど僕が。
 腰布(ふんどしみたいなの)って、わりとボリュームあるんだけど。まさかまさか、下着無しでこのジーンズ、はいてないよなぁ?
 下のやつは、ど、どっち用……あああああ。(思考放棄)
 頭が煮えくりかえりそうになり、重ね合った唇をやがておずおずと離すと、唯人は改めてアーリットを爪先から頭のてっぺんまでじっくり眺め回した。今気付いたが、眼の位置、背丈まで自分が少し高くなっているような気がする。一年長く過ごした分、こちらが伸びたのか、まさか相手が縮んだのか……自分の常識で出来た世界に戻って、彼がどれだけ非常識な存在なのかまざまざと思い知らされてきた。
 言葉の出なくなった唯人の腕の中、いいぞ、好きなだけ妄想しやがれ、と言わんばかりにアーリットはどや顔で〝唯人のもの〟である己の胸をこれでもかと擦り寄せてくる。
 唯人の妄想はもうとんでもない領域へと踏み込んでいたが、流石に昼間の往来でこれ以上は駄目だろ、と己を叱り飛ばし、ふらりと向きを変えるとアーリットを連れ帰路の徒に着いた。公園を通るとまだいた子供らにひそひそ陰口され、商店街に逃げ込んだらあの惣菜屋を見たアーリットが試食という習慣を知らず、差し出された料理を食べたかったが金を持っていなかったので遠慮した、と聞かされる。そこで店に立ち寄りコロッケを買ってあげることにした。
「おや、彼女見つかったんだね、やっぱりその子だったのかい」
「はい、お手数かけました。彼女、試食って知らないんで遠慮したみたいで。本当は欲しかったって言ってるから、肉コロッケとハムカツ下さい」
「あらあ、そりゃ悪かったね、じゃ、阿桜君にはいつもご贔屓にしてもらってるから、今日はおばちゃん二人におごってあげちゃおうか。はい、お嬢さん、できたてをどうぞ、火傷しないよう気をつけて」
 差し出された熱々のコロッケを受け取って、アーリットは相手がおばちゃん、すなわち女性であることを確認すると、おそるおそるひと口かじり、後はふた口で平らげてしまった。唯人のハムカツも横取りし、びっくり顔で棚に並べられた何種類もの惣菜を眺めまわす。お前の世界の食い物は質が高いな、と眼を輝かせているその傍らで、すれ違った男性の表情を見てしまい、唯人はまたぞろさっきの難題を脳内でこねくり回し始め虚ろな眼になってしまった。
「阿桜くん」
「は、はい?」
「彼女、日本は初めてかい?」
「はい……」
「日本のこと、よく知らないみたいだねぇ」
「そうなんです」
「そりゃあ、、ちゃんと説明しておかなかった阿桜君が悪いんだけどさ。女の人のことなんか分からないよねぇ、おばちゃん、まだ辛うじて女の崖っぷちに踏みとどまってるもんで、今阿桜君が困ってる事の助けになりそうな話してあげられるんだけど、聞くかい?」
「え?な、何です?」
「その子連れて斜向かいの泉洋品店さんに行って、カップ付きインナー下さい、ってお言い。サイズは……うーん、LかLLだね、最近の娘さんはさ、ちゃんとした下着よかそういうの着るんだよ、楽だからって」
 かかか、と笑うおばちゃんの背に、はっきりくっきり後光が見えた。ち、超能力者?と思ったのがまた表情に出てしまったのか、これが人生経験ってやつだよ、と軽くいなされる。
 とにかく言われたとおりの物プラス女性の衣服あれやこれやを汗だくで仕入れ、なんとか下宿に辿りつく。初見のそれを間に置き、膝付き合わせて出来うる限り懇切丁寧に説明したにもかかわらず、アーリットはぬけぬけと甘ったれて、エクナスの時みたくお前が着せろと絡んできた。それを全力で説得し、輝かんばかりの立派な代物をどうにかインナーのカップに収めてもらう。その後、唯人は既に精神ぼろぼろ状態で夕餉の支度に取りかかった。
「突然来るから、何も準備ができてないよ。なんなら、今からでも珍しいもの食べに外に行ってもいいんだけど?」
 その唯人の言葉に、テレビに見入っていたアーリットがチャンネルを目まぐるしく変え続ける手をふと止め、振り返る。
「飯の事なんか適当でいい、それは明日からだ。今宵はまず、この世界で随一、とびきりの美味をとことん味わうつもりなんでな」
「世界一の美味?なんだい?それ」
 僕なにかそういう話したっけ?と記憶を掘り返す。またチャンネルを変える作業に戻り、アーリットは横目で唯人に意味ありげな視線を向けた。
「頭に黒い綿毛を付けてる、呆れるくらい鈍臭いが肉はいい感じに締まった雛鳥だ。酒で仕込むと少々暴れだすが、そのほうが食い易いかもしれん」
 テレビの音楽が鳴り響いている室内に、たん、と包丁の音がやけに大きく響いた。ゆっくりと振り返ると、金色の眼がじっとこちらを見つめている。薄く開いてある窓から吹き込んでくる風に混じり、もうすっかり意識に馴染んでしまったあの香りが甘く緩やかに唯人をとり巻いた。
「ここに、酒はあるか?」
「う、うん、でも、料理用だから君の口には合わないと思う」
「なら、何か適当なのを買ってこい。俺はいらない、お前の好みのでさっさと酔っぱらえ。あのサイダナの浜辺で、俺を容赦なくひん剥いた時みたいにな」
「ごめん、それ、僕、覚えてないかも……」
「お前の嘘は、声だけで分かる」
 ふふっ、と含み笑いされ、うん、自分でも声が上ずってるって分かる、と震える腕でフライパンの中身をかき混ぜる。バターの焦げる香ばしい匂いが広がって、アーリットが眼を細めて鼻をひくつかせた。
「はい、きのこのチーズオムレツだよ、このケチャップてのは野菜の煮たの、黒いソースは香辛料、好きなほうをかけて」
「卵料理か、これが俺をその気にさせるお前からの餌、ってんだな」
 渡されたフォークで混ぜ込んだしめじを突っついて、王宮並みのお上品さだ、とまた笑う。
「ほんの二百年前までは、あのユークレンの王族でさえ、見染めた相手の前に仕留めたばかりの獣を投げ渡して〝これを食って俺の子を産めるようになれ〟って口説いてたんだぞ。ま、お前にそんな甲斐性を求める気は無いがな」
「やって欲しいなら、やるけどさ」
「無理するなって、そんな事でまた待たされるよりは、俺はこのお前らしい手料理で腹を満たすほうがいい」
 絶対そうするだろうと分かってはいたが、紡錘形の両端に赤と黒、それぞれを垂らすとアーリットは機嫌よくそれを頬張った。唯人の知る限り、子供並みの小食だった昔が嘘のように、城の料理長並じゃないか、見直したぞと褒めつつ綺麗に平らげる。
 食後にはお茶を淹れ、昼に屋台で買ってきた、アーリットが多大な興味を示した綿菓子の袋を開けた。本当に綿だ、どう見ても綿だ、なのに甘いとはしゃいでいるその様子に、得体の知れない汁食べさせられてヘコんでた僕と大違いだろ、と無言のアピールをしてやったが、当然のごとく無視された。
 向こうの世界での仏頂面が何だったのかと思わせるような、上機嫌の恋人に見とれつつ、命じられたまま料理用のワインを引っぱり出して口にする。悪酔いした友人が大変な事態になったのを幾度も見ているので、程々にしておこうと少しずつやりながら後片付けを済ませると、今度は雑誌の写真に見入っていたアーリットがやがて手を止め、薄く開けてある窓の外に視線をくれた。夜が更けても、煌々と輝く灯火に照らされ外はほの明るい。
「この星は、雷精の星だな」
「雷精?電気のこと?」
「この星で一応最高位であるお前らと、雷精の蜜月でこの文明は築かれてる。お前らの祖が雷精を選び、契りを交わし、生き物に張り巡らされた血の通りのごとく雷気を星に行き渡らせたんだな。星渡りの記憶には、ここは〝雷巡星〟と刻まれるだろう」
「雷巡星……?僕らは地球って呼んでるんだけど」
「馬鹿、どこの星の奴でも大体は自分の星の事をそう呼ぶんだ。〝地〟の〝球〟であることは生き物が暮らせる星の大前提だからな、それを言うなら回円主界も水気星も全部〝地球〟だろうが」
「あ、そうか」
 納得、とぽんと手を打ったところで、唯人は窓際でこちらを振り返るアーリットの顔に、いささかの不機嫌が滲んできているのに気が付いた。あーそうだ、早く酔っぱらわないと、と馬鹿正直に卓上のグラスに伸ばそうとした腕が、すかさずがっし、と取られてしまう。そのまま一気に床に引き倒され、腹の上に馬乗りされるとぐいと顔を覗きこまれた。
「もういい、そんな安酒の臭いをあまり嗅がされたらこっちが萎えちまう」
「ア、アーリット……」
「お前なぁ、いつまで俺に堅っ苦しい無駄話させてるんだ?まさか焦らしてやがるってるのか、てめえごとき雛鳥がよ」
 押し殺した囁きが、跳ね上がった鼓動の音と混じり合う。唯人を下に組み伏せ、捕食者の光を宿した金の眼がふっ、と嘲笑った。
「お前抜きでこの胸をでかくするために、今日この日まで、俺がどれだけ頭の中でお前を可愛がってやったと思ってる。俺はもう、お前の身体の事はなんだって知り尽くしてるんだからな」
 掴まれた手がぐいと引き寄せられ、その妄想の産物に押し付けられる。圧倒的な存在感が、ずっしりと指の間を埋めた。
 これが、僕のもの、僕の為だけにある身体。
「分かってる、全部任せておけ、こっちは四百年生きてるんだ。ぴいぴい鳴くしかできん雛鳥なんぞ、いつ絞められたか気付く間も無いうちに綺麗にさばいて骨も残さず味わい尽くしてやるさ……」
 熱っぽい囁きが、麻酔のごとく耳から入り込んで意識を霞ませ、四肢から力を奪う。身動きできなくなった肌に、あの温かな手、常に自分より少しだけ体温の高い指が、柔らかに、緩やかに絡みついていった。
 


 ……お前の子を、産んでやるよ。
 溶けて消えるはずだったお前という命、しっかりと未来に繋いでやる。
 俺の、この身体でな。
 あの何もかもが夢で出来た幻の世界に、異界の存在同士で紡いだ生命を放ってやろう。
 夢が終わっても、消えない生命。
 そいつらが、あの星にうんとはびこりやがて新しい歴史を刻む。
 それが、師匠の願った〝あの星の滅び〟
 俺と、この馬鹿に託された途方も無い約束だった、ってわけだ。
 


 夜明け前。
 眠るというよりほとんど気絶同然で終わった一夜が明け、微かに響く物音に重い瞼をこじ開ける。薄暗い視界の中、この見知らぬ世界に来たばかりのはずの後ろ姿が、ごく自然に台所に立ち湯を沸かしてお茶を淹れていた。
「起きたか」
「……」
「お前も飲むか?」
「う、うん……」
 やかんとポットは合っている、けどお碗に注いでしまったのは愛嬌だな。横たわったまま手を伸ばすと、指に見慣れない物が付いているのが目に留まった。
「うん?」
 一目で素材の分かる、細い繊維で編まれた指輪。半分ずつ、褪せた金と艶のある黒褐色に分かれている。これって……。
「指輪だ、お前の世界では伴侶と決めた相手にくれてやるのがしきたりなんだろう」
「これ……髪、だよね、君の」
「ああ」
 あえて意識してやったのか、今のアーリットの髪形は金色の部分を全て切り落としてすごく短くなっている。その前に、境目のある毛を抜いて集めて編み上げたのか。まるで存在感を感じさせずぴったりはまっている指輪を、唯人は不思議な気分で眺めた。
「お前を知る前と、知った後が見て分かる。面白い代物だろう?」
「うん、素敵だ、ありがとう」
「ついでに一本だけ、禁呪の染みてるの混ぜておいてやったからな。不貞を行ったときは呪が発動してアレが腐るぞ」
「えええっ?」
「馬鹿、嘘に決まってるだろ、分かれっての。俺にとっては、ちゃちい不貞よりお前の身が腐るほうが数倍困る」
 喋りながらテレビを付け、早朝なので何も映らないのにがっかりしたのかおもむろにこちらに戻ってきて、お茶で暖まった唇を重ね合う。
 ああ、そういう性格だよ、君って人は。
 意地が悪くて辛辣で、でもそれ以上に甘え性で寂しがり。
 僕の伴侶。
 生涯を、共にすると決めた人。



 それからは、まさしく〝蜜月〟の名のままに、アーリットは唯人とこの世界を存分に楽しんだ。
 唯人に連れられ行く先々の景色を眼に収め、気を使った訳でもなかろうが、駄菓子やジャンクフード等、安価で奇抜な食べ物により強い興味を示し味を確かめたいと訴える。その中でも一番気になったのはスナック菓子の存在とその種類の多さらしく、二日で一袋、それ以上は体に悪いと唯人に止められつつ、買い漁るまま日々あれこれ食べ続けた。
 約束通り美大に連れて行ったら、皆の羨望を一心に集めぜひともモデルにと乞われ、なんのてらいも無く衣服を脱ぎ始めたのを慌てて引きとめればまた野郎どもに制裁をくらわされる。それを見たアーリットが制裁返しに及び、結局しっちゃかめっちゃかで大いに祝福され大学を後にした。
 興味は、周囲に溢れかえる自動車にも向けられた。あれはなんだ、仕掛けで動く箱車か。お前は使えないのか、九級霊獣師程度の資格が要る?何故そのくらい取っておかない、つまらない奴だ、今から取れ。
 いやいや、向こうに行ったらもういらないし、車を買うのにも結構お金、かかるしさ……。
 その埋め合わせとして、祖母に挨拶に行く日、唯人はわざわざ電車、バス、タクシ―を全て乗り継ぐ行程を取ってあげた。途中、きちんと挨拶できるよう唯人と日本語のレッスンをする。
『唯人を、私に下さい、一生満足させて面倒見ます、だ』
「ええと、それはね〝ただとさんと、しあわせになります〟だよ」
『やけに短いな、本当にそれでいいのか?』
「うん」
『てめえ、騙してる時の声してないか?正直に言わないと身内の前で恥かくぞ』
「本当だって、そんなに疑うんならユークレン語で押しとおせばいいじゃないか、お祖母ちゃん、雰囲気で分かってくれるよ」
『開き直りやがったな、お前』
 信じていないのがありありの顔だったが、アーリットは教えられた文句を真面目にぶつぶつ呟きつつ伯父の家の門をくぐった。甥っ子が結婚相手を連れてくるという大事に、阿桜家は普段はいない従兄弟達まで集まって賑やかに迎えてくれた、その中心に鎮座する祖母に、アーリットは正座して深々と頭を下げた。
「まあまあ、綺麗なお嬢さんだこと。こんな大人しいたっくんをよく選んでくれたわね、アーリットさん?」
「はじめまして、あさくらのおばあさん」
 アクセントは変だが、言葉の不自由さが際立って日本語無理感が感じ取れていい。一同が微笑ましく見守る中、アーリットは顔を上げると朗らかに一言、言い放った。
「ただとさん、わたしがもらいます、だいじにします、ください」
 ええええっ?
 瞬時に、場の空気が固まった。
 どどど、どこで覚えたその言葉、ていうか、なんなんだ、そのしてやったり顔……。
〝俺を騙す気なら、身内の前で恥をかくと言っただろう?〟
 何とも言えない空気の中、やがて祖母がくしゃくしゃの顔でぷっ、と吹き出した。
「そう、大事にしてくれるのね、じゃあいいわよ、たっくんをどうぞ」
「唯人君、婿養子になるのか?」
 幾分心配げな声音で、伯父がおそるおそる聞いてくる。いえ、この人本当に言葉がよく分かってなくて、と引きつり笑顔で言いわけしていると、祖母がな何やら小さな物を懐から出し、アーリットに差し出した。
「何もないけど、これを持っていって、たっくんのお嫁さんにあげようと持っていたの。これはね、美代さん……たっくんのお母さんの指輪よ。貴方が使ってくれてもいいし、いらないならお金にして生活の足しにしなさいな」
 アーリットの金色の眼が、金の台座に付けられた赤い石をじっと見る。にっこりと満面の笑みで、彼はそれを受け取った。
「ただとさんと、しあわせになります」
「はい、お祖母ちゃんが元気なうちに可愛いひ孫を連れて来てちょうだいね」 
 その後夕食を御馳走になり、従兄弟の兄達にさんざいじり倒されるわアーリットの頓珍漢な日本語に翻弄されるわで(言葉は、唯人の買い物時の店とのやりとりで覚えたらしい)最後は逃げるように家を後にした帰り道、アーリットがおもむろにポケットにしまってあった指輪を取り出した。
「この中心の石、なんて言うんだ?唯人」
「それは、珊瑚だよ。海の中で何百年も生きる小さな虫の殻の塊、っていうのかな」
「そうか、硬化藻みたいなもんだな。この世界のはこんな綺麗な代物なのか、俺と同じ長生きする生き物なんて洒落てるな」
 指にはめてみようとしたが。小さすぎて小指にしか入らない。いくら俺でも指まではそう細くはならないからな、と言い訳ぽく呟かれ、じゃあ売ってお金にする?と冗談で返したら、もの凄い剣幕でどつかれた。
「馬鹿かお前、何で親の形見を金なんぞにできる!」
「だって、今初めて見た物に思い入れなんてあるわけないし!」
「分かった、これは俺がお祖母様から頂いた俺のものだからな、お前は一切関係なしだ」
「はいはい、好きにしていいから」
 その後、服役中の不二人にも面会に行き、アーリットを紹介してこの人の国に行くから、と待てない事を謝った。出所後の事でがっかりさせてしまうかと気になったが、弟は意外にあっさりした顔でいいよ、兄貴の人生だし、と喜んでくれた。またいつか帰ってくるんだろ?その時は絶対連絡くれよ、と連絡先を阿桜家に伝えておく事を約束し、弟は笑顔で扉の向こうへと戻って行った。
 母さんがお参りに行ったという神社の桜の大木は、アーリットと来た頃には残念ながらもう花の時期を済ませ、青々とした葉を一面に茂らせていた。回円主界なら、立派な樹精が居るだろうなとアーリットが伸ばした手で幹に触れる。
 二人で引いてみたおみくじは中吉、願望は強く願えば叶う、転居は早い方が良し。
 帰り道、高台から眼下の景色を二人で見た。
 ごちゃごちゃと雑多で灰色にくすみ、でもそこに暮らすあまたの人々を抱え進み続ける世界。
 僕の世界。
 異端の僕を、許しここまで育んでくれた。
 ありがとう、忘れない、ずっと。
 そして、さようなら。

僕の日常、そして君


「……なんだよ、ひどいと思うだろ?サレだって」
「あー、そりゃ、まあなぁ」
「まるで猫だよ猫!僕、世界最強の人格者を伴侶にできた、って思ったのにさ。暮らしてみたら、でっかい猫だったなんて……」
「女って、どれも大なり小なり猫の要素があるもんだって思うがな」
「僕、その辺よく分からないんだけどさ。女の人って、産んだ赤ちゃんをその日に屋根裏に隠して、夫が見せてくれって言ったら威嚇してくるものなのかい?」
「あ、うん、ちょっと気が立つってのはあるかも」
「僕、自分の子をまだ一回も見せてもらってないんだよ?もう半月もたつってのに。この間なんて、部屋空けた隙にこっそり覗こうとしたら、屋根裏の入り口に〝これまでの人生で一番恥ずかしい記憶がよみがえる呪〟が貼られてて、丸一日立ち直れなかったんだから……」
「そりゃお気の毒(何思いだしたんだろな)」
 最後の方は涙声になり、卓に突っ伏した弟分にやれやれ、と背を撫でてやる。今や正式に継承の式を終え、名実ともにエリテア群島国陽皇帝となった元陽虹皇子は、彼には不釣り合いなうらぶれた路地の飲み屋の奥で、旧知の友のいつ果てるともない愚痴に付き合っていた。
「大体さ、前もそうだったんだよ、僕が季節ごとにちゃんと仕込んで香草味噌は肉、練り卵油(マヨネーズ)は野菜、海藻塩は魚に付ける、って何度も言ってさ、全然聞いてくれないから紙に書いて貯蔵室に貼ったんだけど……」
「うん」
「そんなの一切無視で、お酒のあてにして一人でこっそり味噌の瓶を空けちゃった。あれの香草、秋にしか採れないから大事に一年持たさなきゃね、って約束したのに。何やったのか貯蔵室の番してくれてる薄荷をすっかり怯えさせて、文句言ったら逆ギレするし!」
「あ、この間くれた味噌か?あれ美味かったな、皇宮のみんなで焼いた肉に付けてその日の内に食っちまったよ」
「え?もうないの?」
「ああ」
「残ってたらちょっと返してほしい、って思ったんだけど……」
「すまん」
 笑顔のまま眼を逸らしたサレに、がば、と唯人はまたも卓に突っ伏した。
「なんだよそれ、どいつもこいつも、もっと大事にしてくれよ!」
「そうか?俺はうまいもんはぱっと食っちまうほうが性に合ってるんだけど」
「僕は、大事に長い間楽しみたいんだ!作ったの僕なのに、僕だけがほとんど食べられなかったって、何なんだよ!」
 ああ、泣き上戸ってうっとうしいな、まあこの弟分に関してはそこが可愛いんだけど、と空いた杯に酒を注ぎたしてやる。癖が悪い上にいつも早々に潰れるので、酒の相手にはいまいちなのだが、言ってくる事が面白いのでサレは彼からの誘いは出来うる限り応じると決めていた。
「唯人、だいぶ遅くなったけど、もう一軒くらい行くか?それともシメの麺でも食いに行く?俺としては、自力で歩けるうちに帰っといたほうがまだ細君の怒りが浅くて済むと思うんだけどな」
「多分、もう寝てるよ、僕が何時に帰ろうがどうでもいいんだ。僕、ご飯作る為だけにあの家にいるんだから……」
「そんなわけないさ、もう少ししたらちびっこくてうるさいの押し付けられて、やれおむつだ湯あみだって大変になるって」
「サレのところももうすぐだよね、やっぱり乳母さんとかいてちゃんと面倒見てくれるって感じ?」
「いや、妃の体調が戻らないときはそういうのに任せる事もあるが、基本は自分で世話するしきたりみたいだな。エリテアは族意識が強い国だから、妃が自分の一族の地位を少しでも上げられるよう、皇子に自分が何族の出であるかきっちり叩き込むんだ。俺の場合は、お袋が頭お花畑な性格だった上早死にしちまったから、そういうのはほとんど記憶にないんだが」
「あ、ごめん……嫌な事聞いて」
「なにが?」
 そ知らぬ顔で、この銀イカの糸作りすっげえ細いな、とつまんで卓の上からジト目でこちらを見上げている口に入れてやる。もぐもぐと咀嚼し、僕、サレと結婚した方が幸せになれたかな、と唯人はつい涙交じりの弱音を吐いた。
「今でさえ辛いのに、今後、もしかしてアーリットが赤ちゃんを更に僕の知らないところ……アリュートの奥、とかに隠してしまったらどうしようかって思ったら、不安でいてもたってもいられなくなるんだ、情けないよ」
「理由を聞いても教えてくれないのか?」
「うん、何度聞いてもうるさい、って、それだけ。屋根裏からは赤ちゃんの声が毎日してるから、元気なのは分かるんだけど……あ」
「ん?」
 唐突に身を起こすと、唯人は懐から財布を取り出し石貨を数えて卓に乗せた。陽皇帝ともあろう御方は小銭など持たせてもらえないので、僕が誘ったからという名目で、払いはいつも唯人が請け負っている。その代わりに事あるごとに米とか干物とか果物とか、食べきれない程の量を家に送ってもらっているのだが。
「忘れてた、明日は朝いちで乳を買いに行く日だった。夜ふかしして寝坊すると大変だ、アーリット、三日でひと瓶空けちゃうからな。僕の予想だけど、赤ちゃんきっと一人じゃないよ。ああ、見たいなあ、ちらっとでいいのに」
 ふらふらながら、辛うじて自分で歩けるくらいの唯人の様子に大丈夫か?家まで送ろうか?と訊ねてみる。いいよ近いし、それより家に招待できなくてごめん、アーリットがどこに何仕込んでるか分からないからと謝られ、今度ラナイ義姉さんでも連れてくるよ、母親同士なら気安く話せる事もあるだろうからとサレは笑顔で会話をしめた。
 店を出て、少し離れた所にある鷲獣の係留場に向かい繋いである自分の獣に歩み寄る。これは、ユークレン添王子改め湖妃が嫁入り道具のひとつとしてアシウントから連れてきたつがいの雄で、大柄な自分が乗ってもびくともしない体格と見事な翼を備えている。来たその日から湖妃みずからがまさしく鬼のごとく、アーリットなど及びもつかないくらい厳しさでしごいてくれたおかげで、なんとか一人で乗れるようになった。見送ろうとする唯人にいいから帰れ、と促してやる。
「じゃあお先、ありがとサレ、次は僕がエリテアに行くから」
「おう、塩巻貝の毒が抜ける頃になったら連絡するから皇宮に飲みに来いよ、ザル一杯茹でておいてやる。両妃もお前に会いたがってるからさ」
「分かった」
 ばさばさと力強く羽ばたく翼が一気に舞いあがり、夜空に溶けて消えるのを唯人は帰路の上で見送った。アーリットとこの世界に戻って来て、早や一年が過ぎつつある。唯人が今、居を構えているこの地は、一年前には存在していなかった。エリテア群島国とその南にあるア―ジ群島国のちょうど真ん中に位置する場所、以前シェリュバンに誘われラバイア国に赴いたとき、ここは無人の小さな島がごく稀に点在するだけの大海原だった。
 それが今や、ここにはエリテア本島並の大島を中心とした広大な群島国家がひとつ栄えている。名は、ニホン群島領。大きな四島と小さな数十の島で構成され、水や湯で戻す保存食や、雷精を動力源とするさまざまな器具を作りだすのに長けている国で、群島国には珍しく両性に肯定的な気風を持っている。その他にも、タカン族の地あたりに亜熱帯の湿原、生き物の姿など無かったアシウントの凍結海には白い大熊や飛ばない鳥など、ごく自然に廃化で欠けた地に唯人の世界が織りこまれ、先に居た者らはそれを元からあったものとして受け止めていた。
 唯人の知識で再生した世界、そのニホン群島領の本島である、ホンシュ島の片隅に唯人とアーリットはささやかな居を構えていた。そもそも一級精霊獣師の客人としてこの地にあった阿桜 唯人は一年半前にザイラルセンでアシウント王らに成敗された事になっているので、今の唯人の立場は、最近ここに移住してきたごく平凡な群島人の新婚夫婦、となっている。ちょっとテルアで暮らしてました、程度の説明で、充分話が通って今の職、ニホン群島民の地場産業である、雷気器具の動力源である雷精を捕まえる仕事に就く事ができた。世界主に合ったあの日以来、綱手とアーリットの輝華は共に姿を消してしまったが、ミラや他の連中はまだ居てくれているので生活になんら不自由は無い。
 アーリットはと言えば、テルアの人々に伴侶を迎える事は公にしたが、相手の素姓などは一切の非公開とし、詮索好きの連中の為に金髪の頃の自分に化けたミラと今の黒髪の自分が並び、黒髪の自分が伴侶です、とお披露目した。その後は、ミラを自分の影武者にたて、ユークレンの揉め事はよほどの大事でない限り王族に任す事とし、家の屋根裏に籠ってひたすら子供の世話を焼いている。毎日穴開きザルのごとく獣乳を摂り、そのせいで自身がかなり乳臭い上、たまに夜中に人肌が恋しくなって唯人の寝床に潜りこんできて、寝ぼけて唯人にまで己の乳を含ませようとしてくるので、今では唯人までもが若干乳臭くなってしまった。
「やっぱり寝てるな、アーリット……」
 民家が密集した住宅街から、更に奥に入った山の手の中腹にぽつんと建つ一軒の旧家。そのささやかな己の城の窓に、灯りは点いていない。音をさせずに門を開けようとして、唯人はふと、自分に子供が生まれたあの半月前の日の事を思い返した。
 さんざテレビで見せられたお約束の寸劇、妻の突然の不調、タクシーを呼んで手を握り、病院に着いたら分娩室の前で熊みたいに行ったり来たりして。やがて部屋から響く産声、おめでとうお父さん、元気な××の子ですよ……とか。
 そんなの、一切無し。
 現実は、いつも腹が立つくらいそっけない。
 あの夜も、丸々となったお腹の中で動く命を肌越しに感しつつ、並んで寝ていたらふいとアーリットが起きて部屋を出て行った。ああ、この頃トイレ近いからな、とか夢うつつで思っていたら、ひと眠りした後の朝にはもう一部の隙も無く屋根裏に籠城してた。治療院とかにも行かず、一人でどこかで生んで持って帰って隠したらしい。唯人に任されているのは定期的に隣島の農場に乳を買いに行くのと、仕事の無い日の掃除洗濯、そして毎日食事を作る事。とりあえず、食事の時だけは降りてくるが、それこそ仔持ちの猫同然にぴりぴりしていて話しかけるのも地雷地帯に踏み込むような心境だ。
「父親って、こういうものなのかな……」
 そうだよな、鳥や獣でも父親は餌を運ぶだけ、ってのが普通だし、と自分で自分を納得させる。うん、僕はこの世で唯一の存在を伴侶にしたんだ、僕の先入観に合わないからって落ち込んじゃいられない!
「ただいまー」
 帰ったのが自分である、と知らせるべく、小声で囁き家に入る。そこら中にうじゃうじゃしているアーリットの霊獣らを踏まないよう、千鳥足でリビングに向かうと卓の上にカップがひとつ乗っていた。
「あー、もう、乾くと固まっちゃうからすぐに水につけておけ、って言ってるのに」
 日々、浴びるがごとく乳を摂っている伴侶が置いていったのかと嘆息しつつ手に取ると、中でたぷん、と液が揺れた。
「あれ?」
 器にぴったり寄りそって、暖めていたらしい小さな熱属性の霊獣が唯人を見上げ、お駄賃貰うよと言わんばかりに中に口を突っ込むと膜で白くなった口を舐めつつ去ってゆく。時々、瓶が空いたのを知らせる為、中をすすいだ薄い最後の一杯を(濃いのを唯人が飲むとお腹を壊す)こうして自分に残してくれることがあるので、いつものように唯人は酒のシメには少々キツいが温かい乳を有難く頂いた。
「ん?甘い……?」
 口に含むとただの乳でない、甘味と独特の風味がある。これは唯人がこちらの世界に来る時、甘い物好きなアーリットに捧げようと買って持ってきた巨大チョコレート塊の味だ。再生した世界に生まれたニホン国にもないこれをアーリットは大事に大事に食べ、時には乳の風味づけにして飲んでいる。言うなれば、これはアーリットにとって金にも等しい、いやそれ以上に貴重で大切な物なのだ。それを、なぜか今、自分に振る舞ってくれた……。
 なんとなくな胸のざわつきを感じ、唯人は寝室へと向かった。そこの天井裏にもう半月、アーリットは赤ん坊と立てこもっている。天井板をずらし、そこにかけた梯子を自分が使うときだけ下ろし、それ以外の時は引き上げ布一枚で蓋をしてある。一見、ちょっと頑張れば入れそうに見えるが、この穴には史上最強精霊獣師が微塵の容赦も無く組み上げた、背筋の凍るような術式が貼り付けられており、侵入しようともくろむ若干一名を心身共々ずだぼろに苛んできた。数日前にくらわされた式の泣きたくなるような恥辱の記憶がまたぞろ甦りかけ、逃げ出したくなる気持ちを歯を食いしばって宥めると、唯人はおもむろに穴の下へと歩み寄った。
「……アル」
 もう夜中なので、いつも漏れ聞こえている赤ん坊の声もしない。小声で、もうひと声呼びかけてみる。
「アル、もう寝てるのかい?」
「起きてるぞ」
「はいっ?」
 不意打ちのごとく、全く予期していない方向から声がした。寝室に置かれてある大きめの寝台、そこの布団が動き、ひょっこりと頭を覗かせる。な、なんだ、寝台で寝てたのかい、と近づこうとした。唯人の足がぎくり、と止められた。
「え……?」
「遅かったな、もう酔いは冷めてるのか?」
 寝台から半身を起こしたアーリットの胸に、もぞもぞと動く影がある。え、え、え、と更に硬直した唯人の様子に、なぜか緊張した面持ちでアーリットは赤ん坊を差し出した。
「ほら、見たかったんだろガキ。見ろよ、触っていいぞ」
「え?あ、うん、うえ?ち、ちょ、ええと……」
 驚きのあまりまともに喋れない懐に、小さな身体が預けられる。灯りの無い薄墨色の室内で、唯人は小さな、本当に小さい命を不器用に抱えこんだ。
「僕の、赤ちゃん?」
「ああ」
「男の子?女の子?」
「どっちでもない」
「そうなんだ、名前は?もうつけたのかい?」
「今のところ、ヴェルツ(4)だ。四番目に出てきたからな」
「え?四番目?」
 じたばたしている可愛らしい足の裏にでかでかと記されてある〝4〟の字を見つけ、唯人はちょっと眼を泳がせた。四人?四つ子か……頑張ったなぁ、アーリット…。
 その表情を上眼で見つめ、心を読んだかのごときタイミングでアーリットは黙したまま更にもう一人差し出してきた。
「……ん?」
 両手に二人抱え、眼に入ったのは〝6〟の字。ちょっと待て……。
「え、えっと、聞いていい?何人いるんだい?」
「7匹だ、こいつが末のルーア(7)、数えてみろ」
 〝匹〟は止めなさいって、と苦笑しつつ灯りを付ける。アーリットが布団をめくった寝台の上には、ころころとしたおむつ姿の赤ん坊が本当に5人、獣の仔のごとくまとめられていた。
「すごいよ、よくこれだけ入ってたなあ」
「俺が自分でそうしたんだ、一国に一匹ずつばらまく為にな」
「あれ?それじゃ二人多いけど……」
「だから、喋る前にちょっとは考えろ、っていつも言ってるだろ、ほら、こいつとか!」
「あ、一人昼毛だ」
 大きさも顔形もそっくりな赤ん坊たちの中で、一人だけ色合いの違うのがいる。黒髪に淡褐色の肌の中で目立つ金の髪と眼の子を、アーリットはひょいと抱き上げ唯人に向けた、足裏にはきっちり〝1〟の文字。
「こいつはアリュートだ、俺の後任の神殿護り。とりあえずもう一回だけ人の器を持って、その間に人として、実体のある生物として在り続けるか、神殿を本体とする物精に戻るか自分で決めさせる。今度こそ、何のしがらみも無しでな」
 生み親の豊かな胸に抱かれ、金色の眼が不思議そうに唯人を見る。ぷっくりとした頬を指でつついてやると、アリュートは機嫌よくきゃらきゃらと笑いこけた。
「じゃ、もう一人は……」
「お前の世界、雷巡星に帰すぶんだ、そっちはまだどいつにするかは決めてない、育ってから自分で決めさせる」
「え?帰さなくちゃいけないのかい?」
「ああ、星渡りの記憶が戻ったんでな、星の決めごと、ってのも思いだしちまったんだ。星が紡いだ命はその星のもの、出て行ったぶんはできるなら戻しておくのがいい。お前達にとってはささいな事でも、いつか星を不安定にさせちまう要因になることだってあるからな」
「僕は、元々死んでるはずの人間だった、その僕がいなくなっても駄目なのかい?」
「勘違いするな、死んだ、ってのは消えるって事じゃない、生物として在った星の一部がまた星に戻るだけの事だ。お前は死んで星に還らずこっちに来た、もう戻らない。だから代わりを一人帰す、それで両の星は安定する」
 その一言で、ふと唯人の頭に弟に殺されそうになったあの夜の光景がよみがえった。真っ暗な部屋の中、自分に向かって伸びてきた謎の光……あれは、人である事が終わった部分を星が回収に来た姿だったんだろうか。
 思わず考え込みそうになりかけたものの、眼の前の愛らしい光景に勝るものではなかった。おっかなびっくり二人を抱いたまま、全員の顔を眺めてみる。本当に似てる、赤ん坊だからというのもあるだろうが、平べったい系の自分にそっくりだ、いずれアーリットの綺麗な顔に似てくれればいいんだけど。
「なんで、今になって見せてくれる気になったんだい?」
「明日は、お前の仕事が休みだし。確かめておくべき事がはっきりしたんでな、下ろしてきた」 
「なに?それ」
 もうすっかり赤ん坊に心奪われ夢心地の唯人の問いに、アーリットは若干渋面になったが仕方ない、とこの半月の事を語りだした。
「お前も知っての通り、俺という存在は普通ならまず交わる事の無い三種族が合わさってできている。水気星の人間と、星渡りとこの星自身の一部。そこから生まれるガキがどういう存在なのか、俺自身にも分かるもんじゃなかった。俺の中からは水気星の血が一番濃く出るだろうという確証はあったが、勿論確実であるわけじゃない。そんな得体の知れない、物騒な生物に不用意にお前を近づけるわけには断じてならなかったんでな」
「え、僕の為、だったのかい?」
「当たり前だ、俺はガキとお前、どっちかを選べと言われたら、万策考え抜いた上で最終的にはお前をとると決めている」
 迷いの無い口調で言い切られ、ちょっと複雑な気分になる。
「一番危険なのは星渡りの血だ、まっとうな星渡りってのは、先代の記憶を引き継いで再生するからそもそも幼少期、ってのが無い。あらゆる生物と融合する特性ゆえ、生まれた後親が面倒見ないって事態は当然で、だから親っていう存在を認識する、親に頼るって本能がない。生まれた後は蟲の幼虫みたく自力で勝手に生きてゆく、お前がどんなに愛情を注いでも、それを分かる事はない上、下手をするといい餌だと思われる事態だってありうるんだ……」
 そこまで語ったところで、ふと、唯人が抱いている〝6〟のセフがぐずりだした。どれ、とアーリットが引き取りおむつに手を差し入れ湿ってないのを確認し、はだけた乳房を含ませる。ちゅうちゅうと音を立ておっぱいを吸うその光景に鳥肌めいた感覚を覚え、唯人は呆然とそれを見守った。
「俺は、こいつらを産んだ後、式の囲いに閉じ込めて万が一にも星渡りの性質が出ていないか慎重に見守った。こいつらが人の姿をしてはいるが、中身は得体の知れない存在だったらお前が悲しい思いをする前にアリュートに移し、そこで育てよう、ってな」
「それだって、悲しいよ」
「知らない悲しみと、知った悲しみは質が違う。前者は不安、後者は絶望、なら前者の方がまだマシだ。代わりに、孤児のガキでも一匹譲り受けてごまかしておけばお前は分かりゃしない、それで充分だっただろ」
「それは分かるよ、僕だって」
 夢中で乳を吸っていた音がやがて止み、満足したのか、大人しくなったセフを返してもらい懐に抱きしめる。
「子供がどうって言うより、君を見てたら分かると思う。僕は、これでも君の伴侶なんだから」
「それを確かめる機会は、残念ながら今日で無くなったな。半月じっくり見守ってやったが、こいつら一匹残らず腹が減りゃあ泣き、眠いとぐずり、おむつが濡れたとわめき、俺がほっとくと不安なのか階下のお前の気配を追ってやがる。自力で生きる気なぞカケラもない、只のありふれた人間のガキども、どいつもお前に似て緩そうで何よりだ」
 抱えていたセフは話の間、まん丸な黒い眼を見開いてじっと唯人の顔を見ていたが、やがて満腹のせいかうとうとし始めた。慌てて唯人はもう片方のヴェルツ共々、寝台の上の兄弟達の中に戻してやった。他の五人は、アリュート以外大人しく眠っている。
 明日からは、こいつらを陽に当ててやらないとなの一言で、唯人は昨日まで一人寝だった大きめの寝台をあっさり伴侶と子供達に奪い取られた。うん、いいよ、僕は明日から居間の長椅子で寝るから、と溜息交じりで呟くと、それじゃ俺が寂しいだろうが、と怒られる。どうやら、アーリットの頭の中ではもう、家族全員ひとつ寝台寝の位置配分ができているようだ。
「そんなの、赤ん坊が心配で僕が寝られないよ、敷いちゃったらどうするんだ」
「気にしなくていい、俺が間に入るしお前は寝てる時はほとんど動かない、俺がちゃんと確認した」
「あ、そう……」
 広々とした寝台の上、左から赤ん坊群、アーリット、そして唯人と並び、ものの見事に体形を戻したしなやかな肢体がぴったりと擦り寄ってくる。久々に腕枕してあげた懐の中で、アーリットは小さく安堵の息をついた。
「どうしたんだい?」
 無邪気に問いかけてくる伴侶の声、本当は、産まれてすぐの赤子を見せたくない理由はもうひとつあった。必要だったとはいえ、七つもの命を胎内に入れておくのは正直きつかった。だから常識的な大きさに育つ前に、随分小さい状態で産んでしまったのだ。それを見せられたら、いくら彼でも驚いて違和感を持たずにいられなかっただろう。
 だが、半月焦らしに焦らしたせいで、この物知らずの伴侶はやっと見せられた人並みの大きさの我が子を前に、半月前はどれくらいの大きさだったんだ、とかいう疑問は露ほども頭に浮かんでいないようだ。
 そういうところがいい、緩くて鈍くて、あくまで優しいお前だから。
「……いや、この一年と、それ以前の四百年の事を思い返してたんだ。小国に王が現れ君臨し、互いにせめぎ合い駆け引きし、安定するまでの長い長い時間、そしてお前とガキどもの事だけ考えてこの狭い場に籠って過ごしたこの一年。俺の人生の中、長さだけで比べりゃあこっちはほんの一瞬みたいなもんだ。だが、密度にすれば例えるならこの一年は濃い乳、それ以前は霧同然の薄さになっちまった。この濃い日々が、後数十年続くんだな」
「うん」
「お前がいて、美味い物を食ってガキの面倒を見て。あっという間にガキがでかくなってまたそいつらがガキを産んで……そいつらがいなくなるのを、もう俺は見なくていい、そいつらが、俺を看取ってくれるんだ」
「そうだね」
「いい気分だ」
 暗闇に浮かぶ緑の光、そこだけは変わらない眼が真っすぐこちらに向けられる。
「アーリット、教えてあげようか」
「ん?なんだ」
「それが〝幸せ〟ってことなんだよ」
「ほう」
「ちゃんと覚えておくといい、大事な事だからさ」
 なんだそのどや顔、俺に言ってやった、って思ってるのか、馬鹿。
「うるさいぞ、調子に乗るなこのガキの筆頭が、いいか、明日からはこいつらの世話をしっかり覚えてもらうからな。来月あたりから城勤めを再開しろって城の奴らがうるさいんだ、俺が家開ける時はお前が責任持って面倒見ろよ」
「え?ミラは?手伝って貰っちゃ駄目なのかい?」
「何言ってんだお前、父親だろうが。最初から楽しようとするな、俺はあいつが嫌いなんだって言ってるだろう、万が一にもガキがあいつに世話されて、似ちまうような事になっちまったらそいつ捨てるぞ、俺は」
「えええ、そんなぁ!」
 焦って裏返る伴侶の声、それを含み笑いで聞き流す。
 ああ、これが〝幸せ〟そうなのか。
 失う事が恐ろしくて、触れる事も出来なかったひと匙の蜜。
 もう心配しなくてもいい。
 果ての見えた生涯の終わりまで、このとろけるような甘さが尽きる事は無いのだから。



 僕は、幾つになったんだろうか。
 微かに浮かんだ、泡のような問い。
 それに応えてくれた、内なる朋友は今はもう誰もいない。
 静かな、一人だけの時。
 あと一期ほどで、百歳になるんだよ、と世話をしてくれている馴染んだ声が語ってくれた。
 あれは、いつだったんだろう。
 思いだそうとしたけど、無理だった。
 何だか、とても眠い。
 もう少し、眠っていよう。
 傍らの愛しい人を、起こさぬように。



 翌朝。
 朝の光に包まれて。
 老いた手が、同じく深く皺の刻まれた頬に添えられた。
 もう動かない。
 ありとあらゆる生き物が、等しく迎える穏やかな終わり。
 ありがとう。
 今まで、共にいてくれて。
 その一言だけ呟いた。



 全ての〝祖〟たる老人が、静かに息を引き取った。
 その、三日後の夜。
 あまねく世界に散る子らを集めたその中心で、老人の伴侶が自身の最期を迎えていた。
 普段は、人の姿など無い森の奥、古木を掘り抜き造られた住処の奥で。
 老いた二人は、ごく静かに、ひっそりと睦まじく暮らしていた。
 生涯の内に何十人もの子をもうけ、その子らがそれぞれまた多数の子を持ったので、古木の周りには小さな集落ひとつ分もあろうかという老若男女がひしめいている。末端になると顔形や色もさまざまに移り変わってしまったが、祖に近い者は皆、黒髪と黒い眼、そして淡褐色の肌を持っていた。
 静かに、もう息をしているだけの生み主の床の周りに立つのは〝初子の六人〟
 神殿のアリュート。
 湖畔のジェン(2)
 山間のヴェルツ(4)
 群島のアッソ(5)
 草原のセフ(6)
 砂漠のルーア(7)
 三番目のエイゼは、唯三(ただみ)と名を変え異界へと発ち、それきり戻らない。
 互いに何も言葉を発する事無く、ただその時を待つ一同に、離れた位置の窓枠に腰かけていた白づくめの人物がふと顔を上げ呼びかけた。
「そろそろいいよ、外に出してあげて」
 その言葉を合図に、六人の手が敷き布を持ち床上の身体を外へと運ぶ。外にいた人の群れは、出てきた老人が地面に置かれるとそのまわりを円状にぐるりと取り巻いた。
「回円主界に満ちし異端の一族よ、我らの〝祖〟が旅立つ。しかとその眼、その心に焼き付けよ」
 老アリュートの言葉がいんいんと森に響き渡る。その後ろからすいと進み出たミラが、眼下の節くれだった手に黒い棒状の物を握らせた。
「さあ、行こうか、果ての無い宙へ。僕等の旅を再開しよう」
 その言葉がかけられた瞬間。
 ふわ、と月明かりも無い暗い場に、不思議な輝きが溢れ出た。
 まるで光で出来たつる草のように、横たわる身体から幾本もの光の帯が生えてくる。伸びるというより、今まで堅い殻に押し込められていたのが殻が割れて弾け散るように。びゅるびゅると勢いよく吹き出す光は、居並ぶ人達の間を潜り、伸び、小さな子伴らに嬌声を上げさせながらやがて半球状の大樹の枝の様に広がった。
「うん、綺麗に再生したな。これでまた、悠久の時間、星の旅を続けられるよ」
 じゃあ、僕等はこれで行くから。みんな頑張ってこの星で末長く栄えてね、との別れの言葉を残し、光の球に変じた白い姿が開いた黒い棒状物体の内へと消える。樹状に広がった光も、一気に映像巻き戻し状態でするすると吸い込まれて消え、周囲は元の薄暗がりに戻された。
「……我ら一族、最後の命絶える日まで、貴君らの旅のあらゆる幸いを願わん事を」
 森から神殿に移されていたあの大鏡は、老夫婦がここに住むようになった日から既にこちらに移されてあった。少しも変わる事の無い、何の変哲もないその鏡面に、ぽうっと周囲と異なる景色が映る。ふわりと浮きあがった黒い棒は、そのまま真っすぐ鏡面に向かうとなんなくそれを突き抜け向こうの異世界へと飛び去っていった。直後に、あれほどしっかりと存在していた鏡体も、薄い銀紙製だったと言わんばかりに一気にくしゃくしゃと丸まり、小さくなって跡形も無く消えてしまう。
 目の前で繰り広げられた不思議の余韻に皆が浸る中、おもむろに腰を折ると〝初子の六人〟は今はもう鼓動を収め、長い長い生を終えた骸をそっと敷き布に包みこんだ。それを合図に、二日前に亡くなった伴侶である老人を包んだ布が同じ場に運ばれる。
 ごう、と風が吹きつけて、夜空の一点から紅と青、二体の竜が舞い降りてきた。おもむろにそれぞれの主を取り、連れだって再び暗い夜空へと羽ばたいて消える。
 無数の眼が、それを黙して見送った。
 穏やかで物静か、全てをその懐に受け止めていた祖の父。
 常に気高く揺るぎなく、傲慢な程に強く在った祖の母。
 人は誰でも生まれ、育ち、老い、そして地に還る。
 その巡り続ける輪の中へ、二人は手を取り合い、戻って行った。



 この世界、回円主界のけして人に知られる事の無い聖域。
 木々がうっそうと茂り、護られたその地に。
 金の実を付ける霊樹の若木が、ひっそりと一本育っている。
 その根に抱かれ、二人は互いに寄りそい、朽ち、ひとつになって安らいでいる。
 空から降りそそぐ雨が地に染み、二人を大地に溶かす。水の循環に入ったその身は、いつか星じゅうを包む。
 星は、それを見守っている。
 約束したから。
〝願いをひとつ、叶えてあげる。なんでもいいよ、ひとつだけ〟
 なら
 大好きな人と、共に居たい。
 ずっとずっと、いつまでも。
 身も心も、どれだけ微細になろうとも。
 この星の上で、共に。



 それが僕の、唯一つの願いなんだ。 
                                       

 ( 終 )

鏡の向こうと僕の日常 5

 こんなオチでごめんなさい(震え声)後日談とか、中編程度でぼちぼち書くかも知れないからアテにせずにいて下さい。皆さん、お疲れさまでした。

鏡の向こうと僕の日常 5

世界と自分、そして君。どれ一つとして、欠けてはならない約束の小片(パーツ)。そして僕は、君と共に。 5です、最後を読んでおいて初めから、っての、それもありですがまあできれば1からどうぞ。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • 青年向け
更新日
登録日
2013-06-29

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 山砦国にて
  2. 追憶~最古の神殿
  3. 僕の世界、僕の日常
  4. 僕の日常、そして君