猪瀬和也の日常

 今日も笑子は僕の夢の中にやってくる。彼女の夢はいつも、「生き返った彼女が僕に会いに来る」ものだった。どうやら僕の中で、彼女の死は正しく認識されているらしい。今日の夢では、笑子は彼女のお母さんに連れてこられた。荼毘に伏され、骨と灰になったはずの彼女が、どういうわけかどこかで息を吹き返し、実家で傷を癒していたというのだ。
 しかし彼女は、お義母さんの後ろにぴったりくっついて、姿を見せようとしてくれない。まるで幼子のようである。僕は、お義母さんの後ろに見え隠れする彼女の腕に痛々しい火傷の痕を見つける。
 あぁ、何だそんな事か、と僕は得心する。すると同時に、彼女にも僕の思いが通じたのか、「きれいに治してから和君に会いたかった」という。僕は彼女の手を引き、その手の甲に軽くキスする。えみちゃんは、顔にもいくつか火傷の痕があった。おでこと、左頬。少し紫色で、大きく肉が盛り上がっている。元々白かった彼女の肌に刻まれたそれらの傷は、痛々しくはあるが、とても愛おしいものに感じる。僕が左頬の火傷跡にそっと手を触れると、彼女ははにかみをもって返してくれる。
 目が覚める。彼女がいない。時計に目をやると、もう午後一時である。今日は日曜日。図書館のバイトに出かけているのか、と思い、ダイニングに向かう。食事の支度はされていない。家事は分業の筈だ。死んだからって、ひどいなぁと思いながら一人分の食事を作る。焼うどんを作ることにする。キャベツを取ろうと冷蔵庫を開ける。少し甘酸っぱい臭いが鼻を衝く。スイカが腐っているのである。えみちゃん、自分で買っておいてひどいなぁと思う。生ごみは明日月曜日だ。少し迷ったが、臭いの事を考えると、ぎりぎりまで置いておいた方がいいだろうと思いそうすることにした。後でちゃんと言わなけりゃ。そんなことを考えながら食事を採る。
 食事を終えて、ソファに横たわると、自然と明日からの仕事の段取りなんかが浮かんできて、慌てて何か考えを変えようとテレビを点けたり、テレビゲームをしてみたりする。それでなければ、部屋に散らばっている本を片付けたりして時間を潰してみる。時計を見ると、午後三時。えみちゃんの仕事は午後四時に終わるはずだから、今日はえみちゃんを迎えに行って驚かせてやろうと思う。
 府中駅から電車に乗る。電車に揺られながら、この間病院にえみちゃんを訪ねた時のことを思い出した。えみちゃんだと思った人が、えみちゃんじゃなかった事。いつになったら僕は本物のえみちゃんに会えるのだろう。
 つつじが丘駅から徒歩一五分。ここにえみちゃんが勤めている大学の図書館がある。時計を見ると、まだ一五時四〇分。少し早く着きすぎたようだ。自分のことを大学生というには少し年齢的に無理があるな、と感じ、僕は少し気恥ずかしくなり早足で図書館に向かう。途中、二、三人の学生が通りすがりに振り返った気がするが、気にせず足を進めた。
 図書館に入ると、えみちゃんの同僚の鈴木さんがカウンターに居た。鈴木さんも僕に気付いたようで、目深くお辞儀をしてくれた。僕は鈴木さんに声を掛ける。
 「お世話になっております、猪瀬笑子の夫の和也です。お葬式でお会いしましたね。迎えに来たつもりが少し早く着いてしまいまして。」
 鈴木さんは、少し悲しそうな笑顔を顔に貼り付けて僕に言った。
 「猪瀬さん、最近来られてるって、他のスタッフの方から聞いてます。お気持ちは分かります。ですが、何度も訪ねて来られても、こちらとしても対応に困ってしまいます。」
 「え…っと。どういう意味でしょうか?」
 「ですから、笑子さんはもうお亡くなりになったじゃありませんか。」
 鈴木さんの声は静かだが、だからこそ厳かにも聞こえた。僕は不思議に思った。
 「亡くなってから、笑子はここに来ていないんですか?」
 「は?」鈴木さんは、僕の質問の意味を理解できないようだ。
 「ですから、亡くなってから、笑子はここに来ていないんですか?」
 「それは…それはそうでしょう。猪瀬さん、少しお休みになった方が良いですよ。」
 鈴木さんの表情が、最初の悲しそうな笑顔と変わってきている。奇異なもの、おかしなものを見る目。えみちゃんが亡くなってから何度も向けられて来た目。僕は失望を覚えながら、もう一度だけ聞いた。
 「笑子はここにいないんですね?」
 「ええ。そういうことです。」
 鈴木さんは短く答えた。
 僕は、今日は居ないなら居ないと早く言ってほしかった、と思いながら、図書館を後にした。
 しかし、そうするとえみちゃんはどこに居るんだろうか。そう思いながら家に帰る。やはりえみちゃんは居ない。
 「どこにいるんだろうね、えみちゃんは。」
 遺影のえみちゃんに聞いてみても当然返事は無い。僕は部屋を飛び出し、街に探しに出る。
 行き慣れていたコーヒーショップ。たまにお土産にすると喜んでいたファーストフード店。居ない。どこにも居ない。
 焦り、道に飛び出したのがいけなかった。僕めがけて車が突進してくる。かわせない、と認識してこわばる僕の体を誰かが引っ張った。僕は尻餅をつく形で倒れ込んだ。車から「気を付けろ!」と怒声が聞こえ、そのまま走り去っていく。振り返った僕を、えみちゃんはいつもの笑顔とは違う厳しい顔で迎えた。
 「和君が死んだら私は悲しいよ!」
 えみちゃんは確かにそう言った。僕達は人目も憚らずに抱き合って声を上げて泣いた。
 やがて警察がやってきて、ガードレールの支柱にしがみつく僕を引き剥がした。警察の事情聴取の間、僕は明日の朝スイカを捨てるようにえみちゃんに言い損ねたな、ということを考えていた。

猪瀬和也の日常

猪瀬和也の日常

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-06-28

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