予言なんてクソクラエ

 この小説は、探偵が主人公のミステリーなのですが、世の不思議の解明にも力を注いでいます。しまいには神の正体まで言及するほどの意欲作なのですが、友人に言わせるとその部分がストーリーの邪魔なのだそうです。ストーリーだけを楽しみたい方は、読み飛ばして下さい。でも、もし気が向いたら太字だけ読み返して頂けると嬉しいです。

第一章 目撃

    (一)
 行徳駅南口を降り、右手の商店街の路地を抜けてしばらく行くと、一見してそれと分かる、けばけばしい装いのホテルが見えてくる。周りはビルやマンションが建ち並び、その谷間には板塀を巡らせた民家や古びた木造アパートがひっそりと佇んでいる。
 その人通りのない路地で、民家の門前に寝そべっていた猫が伸びをし、のっそりと腰を浮かせて移動を始めた。真向かいに建つホテルの入り口に背を向け、民家のじめじめとした裏庭へと歩いて行く。しのびやかな足音が近付いてきたのだ。
 男と女の二人連れである。男は38歳、女は少女ような印象を受けるが、26歳。大手生保の支店長とセールスレディで、共に伴侶がある。待ちきれぬ思いがぴったりと体を寄せ合う二人の体から滲み出ているようだ。二人はホテルの門をくぐった。
 二人が消えたホテルの前を、一人の営業マン風の男が、ぶ厚いカバンを肩から下げ、地図を片手に、住居表示をいちいち確認しながら歩いていく。しかし、よくよく見ると左手には小型カメラが握られている。男は二人の後をつけてきた探偵、石井真治である。

 大手生保の千葉南支店は総勢15名のセールスレディを抱え、支店長、支店次長が管理職として彼女達を統括している。支店長はセールスの最前線に立ち、文字通り年中無休でセールスレディ達をサポートする。体力がなければ勤まらない職業である。
 支店長がセールスレディと行動を共にするのは珍しいことではない。ここぞという時、たとえ小さな取引でも同行して頭を下げるのが一つの役割なのだ。石井の今回のターゲットはこの支店長で、依頼主はその夫人であった。

 最初は仕事帰りを尾行したのだが、彼は毎日のようにセールスレディ達を連れて飲み歩くだけで、お開きになれば、一人タクシーで帰る。となれば日中が怪しいということになり、尾行は昼夜継続に変更された。一昨日、石井が有力視していた、見た目が派手なトップセールスの女性が支店長と同行したが、何ごとも起こらず、期待は見事に裏切られた。
 今日の相手は、どちらかといえば目立たないタイプで大して期待はしていなかった。電車の中では上司と部下という接し方を崩さなかったが、駅を下りた途端、二人の態度に変化が見られ、そのままホテルへ直行となった次第である。石井は思わずほくそえんだ。
 首尾は上々だった。二人がホテルに消える瞬間、後ろから来る石井に気付いてちらりと振り向いた。二人の顔はばっちりカメラに映っている。二人がホテルから出てくるまで待たなければならないかとうんざりしていたのだが、その必要はなさそうである。

 ふと、喉がからからに渇いているのに気付いた。背広を脱いで丸めてカバンに押し込み、30メートル先のコンビニへ向かった。店内は閑散としているがセールスマンらしき若者が二人、雑誌を立ち読みしながら涼んでいる。
 石井はすぐにでも水分を補給しようと思ったが、ワイシャツが汗で湿っているので、若者に混じってしばらく涼むことにした。雑誌を見る振りをしながら、何気なく例のホテルに視線を向けた。すると、ホテルから一人の女が出てきた。連れはいない。
 女はサングラスをかけ、帽子を目深にかぶっている。スタイルは抜群でジーンズがその長い脚をぴったりと覆っている。白地のTシャツがゆさゆさと歩くたびに揺れる。重そうなバストだ。女が俯きながら急ぎ足でこちらに近付いてくる。
 女は道の反対側を歩いてくる。大き目のサングラスで顔は良く分からないが、すっきりとした鼻梁から推察すれば、かなりの美人のようだ。その時、ふと、顎の黒子に気付いた。ガラス越しにじっと彼女の顔を覗きこんだ。
 最初は他人の空似だろうと思った。しかしその黒子の位置は同じだし、顔の造作も幾分丸くなった印象を受けるが、思い出の人の面影と重なる。しかし、サングラスでその瞳が隠され、どうしても確信が持てない。彼女が目の前を通り過ぎていく。

 初恋の少女の面影が蘇る。俯いた時の頼りなげな目元、視線をあげた時の涼しげな瞳。そのサングラスに隠された瞳が見たいと思った。石井はその後姿を見詰め、声を掛けたい衝動に駆られた。しかし、女はラブホテルから出てきたのだ。そんな訳にもいかない。
 その初恋の相手を見初めたのは中学1年のことだった。石井はいつものように先生の声を遠くに聞きながら、ぼんやりと朝靄のかかる中庭を眺めていた。靄の彼方に黒い影がほんのりと現れた。石井の視線はまだ焦点も定まらずぼんやり宙を漂っていた。
 ふと、石井は目を凝らした。見たこともない少女が朝靄の中から突然現れたのだ。石井の視線は釘付けになり、移動する少女の姿を追った。少女が目の前を通り過ぎる。教室の窓から見詰める石井など気付かぬ素振りで再び靄の中に消えていった。
 後で知ったのだが、少女は東京から引っ越して来て、その日、一人で登校してきた。群馬の山の中に東京育ちの女が紛れ込んだ。それまで構内で人気のあった女達が急に色褪せ、田舎じみて見え、やはり東京もんは違うという印象を男達に与えた。
 石井は同じ高校に進んだが、結局、彼女とは一言も話すことも出来ず、卒業後、ぷっつりと縁が途切れて、もう会うこともないと思っていた。しかし、石井の心には朝靄の中から現れた少女の姿が神秘的なベールをまとい焼き付けられていた。

 石井は去り行く女の後姿を見詰めた。彼の思い出の女性は東京の短大を卒業して何年かの後、墨田区で社長婦人に納まったと風の便りに聞いた。石井は心のどこかで手の届かない存在となった彼女と再会することを願っていた。それが今日だったのだろうか。
 遠ざかる後姿がしだいに小さくなり、角に消えた。果たして本当に彼女だったのだろうか。浮気?あの彼女が?いや、それより何故連れもなく一人だったのか?それに急ぎ足で何かに追われているような切羽詰った様子が気になった。

 その日、喫茶店でレポートを仕上げるといつの間にかぐっすりと寝込んで、気が付くと午後4時を回っていた。おもむろに煙草に火をつけ、煙を肺に送り込む。ふと、先輩の実家が行徳だったことを思い出し、家に寄って線香を手向けようと思い立った。
 石井は元警察官で、その先輩には在職中なにかと世話になった。先輩は二年前殉職したのだが、当時、石井はアル中で入院しており、葬儀に出席出来なかった。機会があれば線香を手向けたいと思っていたのである。
 先輩のマンションは駅から歩いて5分、総武線の線路と平行に走る細い道沿いにあった。かつて農道であったと思われる道は、一杯飲み屋やスナックが軒を連ねてくねくねと続いていた。先輩である坂本警部と、かつて飲み歩いた道である。
 あの頃、坂本警部はまだ離婚していなかった。奥さんは、二人の酔っ払いに顔をしかめながらも温かく迎えてくれたものだ。しかし、石井が奥多摩の駐在に左遷され、しばらくたって二人が離婚したと風の噂で聞いた。夫婦に何が起こったのか知るよしもない。

 歩きながら、ふと、顔を上げた時、思いもよらぬ男の顔を見出した。榊原警部補である。榊原は背広を肩にかけ両腕を組みながら歩いてくる。石井は思わず立ちどまった。3メートルの距離になるまで、榊原は石井に気付かない。
 榊原警部補は、かつて奥多摩の駐在所に訪ねてきたことがある。石井の関わった事件の再捜査をしていると言った。バーボンウイスキーを二本持って現れ、朝まだ付き合わされた。酔った勢いで何を喋ったのか、まるで覚えていない。
 榊原が目の前に佇む男に気付き、視線をあげた。一瞬、その顔に驚きと喜びの表情を浮かべ、「おい、石井じゃないか。お前もこれから坂本の所にゆくところか。」
と言うと、つかつかと寄ってきて石井の肩をつかんだ。
「ええ、たまたま行徳に来たものですから。線香でもあげようと思って。」
「ワシもその帰りだ。実に奇遇だ。いや、坂本がワシ等を引き会わせてくれたんだろう。おい、線香をあげた後、用事はあるのか。」
「いえ、ありません。後は家に帰るだけです。」
「どうだ、一杯。ワシはこの店で待っている。ちょいと早いが、たまにはいいだろう。付き合え、いいだろう。」
そう言って目の前の居酒屋を指差した。
「ええ、かまいません。しばらく待っていてください。」

     (二)
 石井が店の入り口から顔を覗かせたのはそれから一時間もたってからだ。
「線香一本あげるのに随分と時間くったじゃないか。こっちはそろそろ出来上がりそうだ。あの婆さんにつかまったのか?」
榊原は苦笑いしながら石井のグラスにビールを注ぎ、二人はグラスを合わせた。
「ええ、ちょと驚きました。別れた奥さんの悪口を並びたてて、大変でした。」
「ああ、ワシも聞かされたよ。ワシは2時間、君が一時間。ワシの方が割を食った。恐らくワシが婆さんのガス抜きしたから、君は短くて済んだんだ。」
「あのマンションには、何度か泊まったことがありましたが、嫁姑の仲は悪くないと思っていましたけど。」
「見た目じゃ分からん。坂本も陰では苦労していたんだ。離婚、絶望、そして…。奴の気持ちがようやく分かった気がした。」
榊原は、しみじみと坂本警部のヤクザな顔を思い出していた。誰にもそれぞれ家庭の事情ってやつがある。憮然と宙を睨んでいた榊原が、ふと視線を戻し口を開いた。
「そういえば、お前、今、何をやっているんだ。」
「お恥ずかしい話ですが、探偵をやってます。」
「恥ずかしがることはない。探偵だって立派な職業だ。実入りも良さそうだし。何かあったら協力するぞ、何時でも言ってこい。」
「有難うございます。榊原さんからそのように言って頂くと本当に心強いです。ところで、その後、例の連中が逮捕されましたが、やはり榊原さんが関わったのですか。」
「ああ、関わった。君の証言のおかげだ、感謝している。」
「いえ、とんでもありません。実を言うと、榊原さんに何を喋ったかまったく覚えていないんです。でも、聞き上手の口車に乗せられたか、或いは酔いも手伝って、私も洗いざらい喋ったみたいですね。」
「何も覚えていないのか。」
「ええ、まったく。」
「まあ、それはそれでいい。さっぱり忘れろ。こっちは緘口令がひかれてるから何も喋れん。分かるだろ。俺の言う意味が。」
「ええ、分かります。よくあることでしょう。自分達に都合の悪いことは捜査上の秘密とか何とか。」
「そういうこった。」
榊原は順次、目、口、そして耳を両手で塞いで、泣き顔を作ってみせた。石井は吹き出しそうになるのをようやく堪えた。榊原が真顔に戻り、言った。
「それより、よく立ち直ったな、もう駄目じゃないかと思っていた。」
「ええ、兄貴に精神病院にぶち込まれまして、漸く社会復帰しました。」
「それじゃあ、あんまり酒は飲まんのか。」
「いいえ、そんなことはありません。普通に飲んでます。それより部署とか、お変わりありませんか?」
「ああ、部署は相変わらずだ。携帯番号もそのまま変わらん。警部補もそのまんま。それより飲もう。坂本を酒のつまみに飲もうじゃないか。」
「そうしましょう。あのカーボーイ野郎に乾杯しましょう。」
石井と榊原はその晩酔いつぶれた。坂本警部が一緒に飲んでいるような気がして、なかなか席を立てなかったのだ。

    (三)
 翌日、石井は二日酔いで事務所に出勤した。叔父が経営する探偵事務所は、四谷駅から歩いて2分、外堀通りを渡って路地に入ったところだ。1階は叔母の経営する美容院、2階が探偵事務所、三階は叔父夫婦の住居になっている。
 叔父は所謂婿さんである。夫婦には子供がなく、石井を事務所の後継に据えるつもりなのだ。気の弱い叔父は養子という言葉を口に出せないでいるが、それを望んでいることは確かだ。そんな叔父を可愛いと思うとともに、心の底で尊敬もしていた。

 叔父は、石井の今は亡き父の末弟で、厄介叔父として石井が小学生高学年になるまで家にいた。石井の9歳年上の兄が無難な人生経路を辿るのに対し、叔父は転職を繰り返し、最後に所謂天職を見出したようだ。それが探偵だった。
 今では石井を含め職員3人、アルバイト3人を抱える事務所の経営者ではあるが、根っから探偵という職業が好きなようで今でも現役である。また笑ってしまうのだが、彼は探偵の仕事においても善をなすことを心掛けるという、まさに実直な心根の持ち主なのだ。
 石井はこの探偵事務所に勤めて1年2ヶ月になる。それ以前、警視庁に勤めていたがしくじって、酒に溺れた。見かねた兄がアル中でぼろぼろになった弟を病院に押し込め、回復すると、叔父の経営する探偵事務所に勤めさせたのである。
「だいぶ飲んだようだな。まだ顔が赤いぞ。」
事務所に入って行くと、叔父の篠崎龍二が声を掛けて来た。昨夜、石井が警視庁の刑事と飲むと連絡すると、交際費を使えとさかんに勧める。石井はこれまで刑事時代の交友関係を避けてきたが、龍二はそれが不満だったようだ。警察の力は絶大だ。それを利用したいのだ。
「ええ、朝まで飲み明かしちゃいました。二日酔いです。」
「そうか、そいつは大変だったな。でも、たまにはいい。で、どうだった。」
何がどうだったと聞いているのか意味が分からなかったが、龍二の気に入りそうな答えが頭に浮かんだ。
「何でも言ってこい、協力するって言っていました。」
これを聞いて龍二は相好を崩すと、
「よし、その関係を大事にしろよ。幾ら金掛けてもいい。交際費使い放題、許す。」
と言い放った。これを聞いていた事務員の佐々木紀子が龍二を睨みつけて言う。
「所長。いい加減にしてくださいよ。経理を預かっている者としては聞き捨て出来ませんね。うちにそんな余裕があると思っているんですか。」
龍二が苦笑いして、ソファーに座り込んでテレビに見入る磯田薫に声をかけたのは話の矛先をかわすためだ。
「おい、磯田、もう9時を過ぎているぞ。いつまでテレビにかじり付いているんだ。もし、急にお客さんが入って来たらどうする?」
 磯田と呼ばれた男は龍二の大学の後輩で48歳になるが独身である。龍二に言わせると「事務所に流れ着いて、そのまま居ついてしまった」のだそうだ。磯田は大学卒業後、放浪の人生を送っていたというが、詳しくは誰も知らない。
 龍二と磯田は、大学時代空手部に所属しており、上下関係は厳しかったはずなのだが、人を食ったような磯田にかかっては、龍二も形無しの場面もしばしばである。それは互いに心を許しあった関係だからこその馴れ合いともいえる。
 しかし、その磯田も石井に対してはどこか意固地になっていて頑な態度を崩さず、叔父と甥が仲良く喋っているのを、ちらちらと窺いながらも決して話に加わろうとはしない。石井も最初は気になったが、今ではそんな関係にも慣れてきた。
 磯田はテレビのリモコンを握ったまま立ち上がり、まだワイドショウのニュースに見入っている。佐々木が呆れ顔で龍二に視線を送る。磯田がテレビのスイッチを切ると、ぼそっと言った。
「今、ニュースに映っていた男は2年前、この事務所に来たお客ですよ。」
龍二が叫んだ。
「何だって、何でそれを早く言わないんだ。そうと知っていたら俺だって見たかった。最初に言えよ、最初に。お前はいつだって肝心なことを言わないんだから。」
「いえ所長、見覚えはあったんですが、僕自身、テレビを消すちょっと前まで思い出せなかったんです。」
こう言いながら、磯田は書棚に歩み寄り、「ええと、あいつのレポートは確かこのへんだったかな」などと言いながら過去のファイルを探し始めた。龍二が磯田の背中に苛苛した様子で言葉を投げかける。
「おい、磯田、それより、その男は何をやらかしたんだ?」
「えっ、なんですか?」
磯田はファイルの背表紙をなぞりながら、
「このファイル棚、何とかならないかな。もうちょっと整理するとか、せめてナンバーを付けるとか」
とつぶやき、佐々木にいやみたらしく視線をる。佐々木は佐々木で、ふんと鼻を鳴らし、
「二度と見返すようなファイルじゃあるまいし」
とやり返す。
「現にこうして見返しているじゃないか。」
「事務所開設以来初めてじゃない。」
 磯田は、三歳年下の行かず後家、佐々木に密かに思いを寄せている。しかし、その心情をこうした形でしか表現出来ないのだ。龍二は、自分の質問を無視している磯田に苛苛をつのらせている。石井がそれに気付き、にやりとして聞いた。
「磯田さん、その男は事件の主役ですか?それとも目撃者とか犯人の知人かなにかでインタビューを受けていたんですか?」
いつものように、磯田は一瞬間を置いてから口を開いた。
「まあ、良く分からんが、事件の主役みたいだったな。」
龍二が諦め顔で聞いた。
「だからー、一体全体どういう事件だったんだ。」
「殺人事件みたいでしたけど……考えごとしていましたし……」
磯田は口ごもるばかりで、埒が明かないと思ったのか、佐々木がテレビのリモコンのスイッチを押した。
「どっかのチャンネルでまたやっているかもしれないわ。」
画面が映し出された。次々とチャンネルを変える。その時、突然石井が叫んだ。
「あれっ、ちょっと待って、佐々木さん。チャンネルを前に戻して。」
佐々木は石井のいつになくきつい口調に驚いて、慌ててリモコンのスイッチをいくつか押した。
「そこそこ、その一つ前。」
そこに映し出された場面に、石井は釘付けになった。あのホテルが映っていた。昨日、ターゲットと女が入って行った行徳のホテル。ニュースの音声が伝えていた。
「殺されていたのは政治家秘書の浦辺一郎さん51歳。連れの女性は、14時30分頃、一人でホテルを出たとのこと。歳は三十歳前後。目深に帽子を被り、サングラスをかけ、白っぽいテーィシャツにジーンスという服装だったということです。目下のところ、警察はこの女性を重要参考人として行方を追っています。」
磯田が間延びした声で言った。
「そうそう、僕はこんなことをしている場合じゃなかったんだ。そんなことより、あのレポートを書き上げなくっちゃ。」
磯田は手に持ったファイルを棚に戻し、ぽかんと口を開いて石井を見詰める龍二と佐々木を置き去りにし、さっさと席に着いた。テレビにかじり付いているのを詰られた腹いせに、デマカセを言っただけなのだ。石井がぽつりと言った。
「僕は、この重要参考人の女性が、このラブホテルから出てくるのを目撃している。」
「えっ、今何て言った?」
ひときわ大きな声を上げたのは磯田で、振り向いたその顔には好奇心がべったりとへばりついていた

第二章 予言

    (一)
「お茶でもご馳走したいんだが、これから会議がある。申し訳ない。」
榊原は警視庁正面入り口まで送りながらしきりに恐縮して頭を掻いた。石井は先だってご馳走になったお礼のために榊原を訪ねたのだが、ただそれだけというわけでもなかった。心の迷いを榊原に断ち切ってもらいたかったのだ。

 石井は重要参考人の目撃者であることが心の重荷になっていた。もしかしたら目撃した女性が、初恋の人、保科香子かもしれないという不安を拭い去ることが出来ず、だからといって元刑事である自分が目をつむる訳にもいかなかった。
 とはいえ積極的に千葉県警に出かける気にもなれず、目撃情報を、関係ないと思うが、と但し書き付きで榊原との雑談のなかに紛れこませた。榊原はその場で千葉県警に電話を入れ、石井の目撃情報を提供した。刑事としては当然の行為だった。
 電話のやり取りから、石井の証言が、重要参考人の輪郭をさらにくっきりと浮かび上がらせたことは間違いない。榊原は正面玄関の手前で立ち止まると、そのことに触れた。
「そのホテルの受付の婆さんは、小さな窓から彼女を覗いて見たらしい。だからちらっとしか見ていない。石井君の証言は婆さんのうろ覚えを補強することになった。」
「ええ、あの特徴のある顔、スタイルは忘れられませんから。」
「それじゃあ石井君は、女性がたとえ別の格好で街を歩いていたとしてもそれと分かる?と言うことだな。」
「ええ、分かります。身長が165~6(センチ)、バストはDカップ、外人のような鼻梁と尖った顎が特徴の女が、殺された男の周辺にうじゃうじゃいるとは思えませんからね。」
「まったくだ。千葉県警も飛び上がって喜んでいた。捜査本部が置かれた直後に情報が飛び込んできたんだからな。いずれ呼び出しがあると思うが協力してやってくれ。」
「ええ、そのつもりです。」
と答えたものの、自分が肝心なことを喋っていないことに気付いた。その際立った特徴である顎の黒子のことを話していない。あの女性が保科香子かもしれないという恐れがそうさせたのだ。義務を果たした安堵感とともに、その恐れが徐々に心に広がっていった。
「よし、ここで別れよう。今日は本当にご苦労さん。また一杯やろう、いつでも電話をくれ。でも今度は軽くやろうや。」
「ええ、僕も賛成です。この間はちょっと重過ぎました。」

 榊原と別れると、石井はひさびさに日比谷公園を散策した。9月半ばだというのにまだ残暑が厳しく、公園は人もまばらで、若いカップルが熱い日差しにもめげず二人だけの恋愛物語に思い出の1ページを加えようと木の回りでじゃれあっている。石井は苦い思いとともに二人の姿を見詰めていた。
 この公園を二人で歩いた3年前の情景が目に浮かぶ。石井の前を艶やかな髪の女性が手を後に組んで歩いている。その目は煌いて自信に満ちていた。石井は陸上で鍛えたというカモシカのようなその脚を眩しげに見ていた。突然、振り向いて言う。
「最近の君の行動は理解を超えるわ。前の君とは全然別人だもの。」
石井は押し黙ったままだ。二人が男女の関係になってまだ一月にもなっていなかった。その一月の間に石井の周辺に激震が走ったのだ。勤務する池袋署の副所長の自殺、尊敬する先輩の変節、石井は酒に走るしかなかったのだ。
 彼女は石井を見詰めていた。石井の視界には彼女の赤いウオーキングシューズがぼんやりと映っている。目を合わせるのが面倒だった。ため息をつき、顔を上げた。案の定、彼女の冷たい視線が石井の目を貫いた。
「あの情報を流したのは、石井君じゃないの?週間話題に意味深な記事が出ていたわ。この頃の貴方を見ていると、そうだとしても不思議じゃない。ねえ、どうなの。もしそうなら、私、貴方を見損なっていたかもしれない。」

 石井が組織を裏切る行為に及んだのは組織そのものに矛盾を孕んでいるとつくづく感じたからで、真実をマスコミに流すしかないという切羽詰った思いからだった。彼女がどこまで自分の側にいてくれるか測りかねていた。しかしこの時、石井は彼女が組織の側に立っているのを、ただ酒に濁った空ろな目で眺めていただけだ。
 彼女は今もあの警視庁のビルの中にいるかもしれない。今日、もしかしたら会えるかもしれないという淡い期待を抱いて来たのだ。榊原に彼女のことを聞きたかったが、とうとう口にだせずに別れてしまった。石井は深い溜息をつくと公園の出口へと向かった。

    (二)
 三枝節子と待ち合わせたのは新宿プラザホテルのレストランで、ここで会うのは二人にとって二度目のことである。三枝は、二ヶ月ほど前ふらりと事務所を訪れ仕事を依頼した。仕事の内容はストーカー行為の証拠を揃え、相手と交渉することだった。
 そのストーカーの社会的地位を考えれば当然交渉に乗ってくると思えた。石井は相手に証拠を突きつけ、社会的制裁を匂わせつつストーカー行為を止めることに同意させたのだが、その後しばらくして、三枝は差出人不明の手紙を受け取った。
 三枝は、電話でその手紙が例のストーカーからではないかと不安を滲ませ、石井に話を聞いてほしいと言ってきたのだ。それが一月前のことだ。食事をしながら手紙を読ませてもらったが、そこには8月中旬にミラノで列車事故が起こり、死者は100名を越えるとたった一行書かれているだけだった。
 本人は深刻な顔で悩んでいる風を装っていたが、手紙の内容が自分に関わりがなく、その日はたわいないお喋りに終始し、最後に石井はプライベートの携帯の番号を教えるはめになったのだが、今日、事務所に戻ろうとした矢先、その携帯が鳴ったのだ。
 二通目の手紙が舞い込んだと言う。石井はため息をつき新宿に向かった。三枝は独身の勤務医で、歳は石井より一つ年上だ。美人で魅力的な女性だが、石井にとって、彼女のあまりにあっけらかんとした性格とその積極性にペースが乱されということもあり、苦手のタイプだった。

 レストランに入って三枝の名前を言うと窓側の席に案内された。少し遅れると伝言があった。石井は生ビールを飲みながら新宿の街を見下ろしていた。9月下旬というのに秋の気配はまったくない。今日も観測史上最多の夏日を更新したという。
 三枝は小一時間遅れて席についた。
「ごめんなさい。腎臓に食い込んでいる癌を摘出するのに手間取っちゃって。全部取っちゃえば簡単だったんだけれど……あら、興味ないわよね、こんな話。ほんと、ごめんなさい、遅れちゃって。本当は迷惑だったんじゃありません、お金にならないお相手で。」
「いえいえ、迷惑なんて思っていません。大切な客さんですから。」
「相変わらずガードが固いわね。このあいだはお友達になってくれると言ったじゃない。もう忘れたの。」
「いえ、覚えています。僕はどうも照れ症で、一度食事した程度ではなかなか打ち解けられない性質で。」
「じゃあ、今日はベッドインする。」
石井はどぎまぎし、顔がかっと火照るのが分かった。三枝は石井のそんな様子を、にやにやしながら眺めていたが、すぐに言葉を続けた。
「冗談よ、冗談。安心して。私もそこまで軽薄じゃないわ。でも、がっかりしたな。てっきり貴方のほうからお誘いがくると思っていたのに一月待っても来ないんですもの。そしたら今日二通目の手紙が舞い込んでチャンス到来って思ったの。」
三枝はしきりにワインを薦めたが、石井は生ビールを追加した。前菜がテーブルに運ばれると、三枝は例の手紙をバックから取り出しテーブルに置いた。
「絶対あの男だと思う。だって出だしの言葉、愛しの君にってあるもの。なんとも陳腐じゃない、愛しの君だなんて。」
その手紙は前回と同じ紙に印刷されていて、箇条書きにされた三つの文章よりなっている。一つ目はイタリア、ミラノでの列車事故が実際に起こったことを誇るような文章だ。その予言が的中して石井も驚いたのだが、ただし時期がすこしずれた。
 二つ目は国際航空事故の予言だが、その犠牲者の中に日本人旅行客57人が含まれると具体的な人数と日付をあげている。三つめは、近い将来、世界的な未曾有の大災害が発生するという文章だ。そして最後に「君を救いたい」とあった。
「これどう思う。地面が脈打って1メートルも持ち上げられて、落とされて、それが何度も何度も繰り返す、ですって。」
「まったく不気味な予言だ。それ程の地震に耐えうる建築物などないと思う。」
「だから怪しいのよ。そんな地震なんか起こる訳ないもの。」
「全くだ。ところで、その手紙を書いたのは、恐らく、あの男だと思う。しかし、証拠はない。消印は渋谷、彼の会社も渋谷だ。一致するのはこれだけ。指紋で調べられなくはないけど、我々素人には手に負えない。」
「でも何が目的なの。」
「勿論、君を救うことさ。」
「馬鹿馬鹿しい。救いが必要なのはあの男よ。」
「その通りだ。しかし、最初の予言は当たった。場所もミラノ。僕の記憶では実際に死者の数も100名を超えた。正に当たっている。」
「たまたまよ。それにこの巨大地震が眉唾よ。どうかしているわ。あれで何の会社だか分からないけど、二部上場の社長だなんて笑っちゃうわ。」
「それなりの会社だ。コンピューターのソフト開発をやっている。社員は220名、資本金は一億。もしかしたら、社長は新興宗教かなにかに凝っているんじゃないか。彼にそんな話を聞かなかった?」
「そんな素振りも見せなかったわ。でもビップクラスのお見合いパーティなんてロクな奴がいないわ。もうたくさん。」

 既に手紙に興味を失っている様子だ。さかんに料理にお喋りに興じようと話を向ける。石井はお喋りに相槌をうちながらも、予言のことが気になった。時期が若干ずれたとはいえイタリア、ミラノでの列車事故は起こり、犠牲者の数も一致している。たまたまの一言で片付けられない思いが石井にはある。
 と言うのは、石井の母親は石井が中学の時に癌で亡くなったが、特殊な能力の持ち主だったからだ。その能力の一つは未来を予言する能力だ。未来を夢で見る。
「昨日、こんな夢を見たの。」
と話し、その後、実際にそれが起こる。世界で起こる大地震やその他の大災害に関して何度も言い当てたのである。
 ただその災害が起こる時期についてはかなり幅があり、はっきりとは分からないようだった。母の予言の中で特に印象に残っているものが二つある。一つは、大きな空港で二つのジェット旅客機が噴煙を上げて燃えているという夢だった。
 夢を語った翌日、その夢と寸分違わぬ写真が新聞の第一面を飾った。降下する旅客機と離陸する旅客機が接触した。その二機が炎上している写真だ。航空官制史上ありうべからざる事故として記録されたのだが、まるでその新聞を事前に見ていたような予言であった。
 二つ目は、未だ成就されていないが、近々の中国北朝鮮情勢からして、もしかしたら起こり得ると思うようになった。その日の朝、母は青ざめた顔で語った。「北海道に原爆が落ちた夢を見たの。キノコ雲が大きく傘を広げて、・・・本当に恐ろしかったわ。」
 この二つ目の夢予言は、その禍々しい情景が瞼に焼きつき、鮮明な映像ととして少年の脳に記憶された。原爆の話は未だに成就していないが、いつかそのような事態が出現するのではないかという恐れが心のどこかにある。この予言は母が死ぬ一年前のことだった。

   (三)
 結局、強引な三枝の誘いに乗って、なるようになった翌日、ふかふかしたベッドで目覚めると、すでに隣はもぬけの殻だった。昨夜、彼女は一人でワインのボトルを空けたはずだ。タフな女だと感嘆する間もなく、大変な遅刻だと気付いた。水曜の定例ミーティング、9時始まりで既に9時。

 あたふたと事務所に駆け込むと、磯田の冷たい視線にぶちあたった。ミーティングといっても抱える仕事の進捗を雑談まじりに語るだけだ。経理の佐々木など他人の私生活を覗き見る好奇心を神妙な顔の下に隠している。佐々木がメモをとる手を休め振り返る。
「真治さん、大事なミーティングですよ。寝坊なんて言うんじゃないでしょうね。」
「すまん、その寝坊だ。このとおり、鬚も剃ってない。」
「まあ。」
佐々木の取澄ました呆れ顔を、ちらりと見て苦笑いしながら龍二が言った。
「例の野暮用だな。結局、最後までつきあったのか。」
叔父の龍二は、昨夜、石井が三枝と会うことも、また三枝が石井に夢中であることも知っていた。石井は一瞬躊躇したが、隠してもしかたがないと諦めて答えた。
「まあ、そういうことです。」
 磯田は二人の顔を覗いながら、何が起こったか推し量ろうとしている。以前龍二から聞いた「三枝さんは真治に夢中みたいだ。」という言葉をふと思いだした。まさか相手は三枝ではないかと、緊張気味に石井の様子を覗う。と、思わず、探りを入れるどころか、そのまんまの言葉が吐いて出た。
「まさか、三枝さんと会っていたんじゃないでしょうね。」
佐々木が好奇心丸出しで石井の顔を覗き込む。石井は言葉に詰まったが、龍二が助け船を出した。
「三枝さんならいいが、例の渋谷のご令嬢だ。あの婆さんは朝まで飲んでいてもけろってしている。」
磯田の顔が安堵に緩み、佐々木の好奇心が一挙に萎んだ。渋谷のご令嬢は、やはり石井のファンなのだが、常にストーカー被害を訴えてくる多少ボケの入った老女だ。石井も龍二も何度か朝まで付き合わされたことがある。
 
 それから二週間後のことだ。尾行を終え、満足の行く結果にほくそえみながら帰路についた。その時携帯が鳴った。夜の9時を過ぎている。珍しく磯田からの電話だ。
「ちょっと、東陽町に来てもらえませんか。」
石井は、磯田の妙にご機嫌な声を、いぶかしく思いながら「えっ、東陽町ですか、うーん・・」と生返事を返した。すると磯田が続けた。
「石井さんに見てもらいたい人がいます。もしかしたら、石井さんの初恋の人に似ていたという、例の行徳のホテルから出てきた女かもしれませんよ。」
いっひっひ、と言う磯田のひそやかな笑いに、かっとしたが、石井は溜息をついて怒りを静めると聞いた。
「東陽町の何処ですか?」

第三章 悟道会

    (一)
 東西線東陽町駅で降りるのは久々だった。大学時代、友人の下宿を訪れた時以来で、恐らく10年ぶりだろう。石井は地下鉄の階段を上りきり、様変わりした街の佇まいを眺めた。駅前にあった自転車屋の二階が友人の下宿だったが、そこにでんと建つビルに飲み込まれたらしく、跡形もなくなっている。
 歩いて5分、磯田の指定した喫茶店が見えてきた。禁煙席ばかりで、普段は決して入らない店だが、今日は致し方ない。二階を見上げると、窓際のカウンター席から覗き込むようにしている磯田と目が合った。
 石井が隣の席につくと、磯田が口を開いた。
「ご苦労様です。」
と言ったきり向いのビルをぼんやり眺めている。石井も何気なくそのビルを見詰めた。かなり大きなビルだが社名やビル名らしきものは見当たらない。中層の3フロアのみ明りが漏れているが、窓は遮光カーテンでも使っているのか光はぼんやりしている。
「あのビル、何だか知っていますか。」
沈黙を破って磯田が聞いた。
「いえ。」
「行徳のホテルで殺された政治家秘書の親分は知っての通り自民党の安東勝彦。その安藤を影で操っているのが宗教法人悟道会。悟道会はご存知ですよね。」
「ええ、でも詳しくは知りません。出家するといって家を出た子供を、親達が返すように教団と交渉する様子をテレビで見ましたが、知っているといえばその程度です。」
「まあ、詳しくご存知なくとも当然と言えば当然ですが、私はその教祖とは面識がありましてね。……23年前、カトマンズで出会ったんです。」
「カ、カトマンズ?」

 磯田の語るところによると、悟道会代表、杉田啓次郎はカトマンズで乞食同然の暮らしをしていたという。放浪中の磯田は彼に泣きつかれ少々の金を与えたが、それが仇となった。ずるずると引き込まれ、最終的に二人して乞食同然の生活に入った。
 半年後、磯田はホテルの下働きの職を得て飛行機代を稼いで帰国したが、杉田がその後どうなったかは知るよしもなかった。しかし、数年前、磯田はその顔を週刊誌で発見して愕然とした。「時の人」という特集記事だったという。
「一緒に暮らした半年間に何かあったんですか?」
「・・・・・・」
磯田のいつものだんまりが始まった。都合が悪くなるとまるで聞こえていなかったように口を閉ざす。しかも、その不自然な沈黙を気にする様子は無い。その沈黙がどれほど続いただろう。磯田の表情が変わった。
「出てきた。」
と言うと、バッグから望遠レンズ付きのカメラと双眼鏡を出し、双眼鏡を膝に挟んだ。
「あんたは、これ。」
カメラを構えたまま膝を石井の方に回した。これで見ろということらしい。可笑しな渡し方だが、これが磯田流なのか。手を伸ばし双眼鏡を掴もうとした時、隣にグラマラスな女が座った。思わずその胸に見惚れて、誤って磯田の下半身に触れた。
「いやん。」
磯田の気味の悪い声が耳に残った。

    (二)
 一時間後、磯田が食ってかかる。
「嘘言っているんでしょう。」
石井が言い返す。
「いいや、嘘なんかじゃない。あれは僕が見た女とは全く別人ですよ。」
ここは石井のマンションの一室である。二人はあれから何度も繰り返した問答をまた繰り返している。磯田は石井の答えに満足せず、とうとう高田馬場まで付いてきた。遅くなって帰れないというので仕方なく、泊まらせることにしたのだ。
 しかし、石井の酒に濁った瞼には、正に保科香子の顔が焼きついていた。ビルから50年配の恰幅のよい上背のある男とともにベンツに乗り込む姿が目に浮かぶ。あれはまさしくホテルから出てきた女そのものだった。磯田の言うとおりだが、嘘をつき通すしかない。
「磯田さん、私はこう見えても元刑事ですよ。見間違うはずはありません。ありえないことです。」
「分かりました。でも、僕は写真を撮りました。これを千葉県警に送ります。それはいいですね。」
「勿論、送ってもかまいませんよ。でも、千葉県警から呼び出しがあっても、僕は別人だと証言せざるを得ない。」
磯田に睨まれたまま、睨み返すまま時が過ぎた。溜息をつくと石井が言った。
「もう、1時を過ぎてます。もう、寝ませんか。」
呂律の回らない舌を転がして、磯田が言う。
「このまま寝られますか。やっと、杉田の化けの皮を剥がせるネタを掴んだというのに、あんたの都合で、何で俺が寝なければならないんだ。えー、冗談じゃねえ。」
「僕」から「俺」になった。かなり酔っている。常に、つんとすました受け答えで、これまで自分のことを「俺」と言ったことはない。また下半身を触ってやろうかと思ったが、気味が悪いのでやめた。
「一体全体、二人の間に何があったんですか?二人は、半年の間、乞食同然の暮らしをしていた。半年ですよ、半年。その間、貴方は相当な憎しみを杉田に抱いた。そうでしょう、今の貴方は、杉田憎しに凝り固まっている。何かあったからでしょう?」
またしても、だんまりが始まった。石井にとって磯田の追及をかわすには、そのだんまりの元を突付くしかなかった。

 沈黙は相当長かった。少しの間眠っていたらしく、遠くで磯田の絞り出すような声を聞いた。
「奴は俺の人生を狂わせた。」
寝惚け眼で、額にうっすらと汗を滲ませた磯田の顔を眺めた。
「どんな風に狂わせたんです。」
「人には言えない微妙な問題だ。」
またしても沈黙だ。石井は瞼を閉じてソファに体を横たえた。ふと叔父の言った言葉が甦った。
「奴は痔持ちらしい。手術する前は漏れるんでオシメしてたって話だ。」
薄ぼんやりした意識の片隅に、粗末な小屋の中、磯田が大男に寝込みを襲われ「いやん」という声を漏らし必死で抵抗している姿が浮かんだ。ほんの一瞬だ。
まどろんだと思った矢先、強い衝撃が顎を襲った。驚いて目を開けると、磯田が覆いかぶさるようにして、石井の衿首をひっつかんだ。
「貴様、今、笑ったろう。笑ってただろう。何を笑ったんだ。」
目に涙を浮かべている。顎の痛みがむらむらと怒りを呼び覚ます。思い切り下からパンチを繰り出した。磯田が仰け反ってソファから落ちた。磯田はすばやく体制を整え、構えた。石井も立ち上がり半身になった。
 勝負はあっさりついた。蹴りを入れてきた磯田の足を、体を引くと共に両手で掴み、本来はそのまま前蹴りで金的を蹴る技だが、痔にあたるのを慮って軸足を払うだけに留めたのだ。磯田は横転して床に頭を叩きつけ、気絶した。
 あわてて救急車を呼んだが、救急車が到着する前に、磯田は目を覚まし、振り切るように一人タクシーで帰っていった。翌朝出勤すると、磯田はすでに来ており、冷たい戦争の幕が切って下ろされていた。青痣を作った二人がむっつりと向かい合ったのだ。

    (三)
 あれから10日ほどたったが、千葉県警から再度の呼び出しはない。どうやら、磯田は写真を送ってはいないらしく、ほっと胸を撫で下ろしていた。磯田とは、あれ以来互いに口もきいていない。用事はメールで済ませている。
 事務所内は緊迫した雰囲気につつまれ、龍二がやたらと溜息をつき、佐々木はその雰囲気を和らげようと大声で笑ったりするのだが、その後の沈黙が際立ってしまい、かえって重苦しさが増した。パソコンにメール受信のメッセージが現れる。磯田からだ。
 メッセージはこうだ。「保科香子は毎朝10時、センチュリーハイアットの1Fラウンジでコーヒーを飲みながら新聞を読む。尚、住所・電話番号は以下の通り。」目を上げると、磯田はそ知らぬ素振りでパソコンを叩いている。石井はやおら立ち上がり
「今日は帰ります。」
と言って席を立った。二通目のメッセージなど読んでたまるかと思ったのだ。龍二が慌てて言う。
「おい、真治。飯でも付き合わんか。ちょっと話したいことがあるんだが……。」
「所長、今度にしてもらえませんか。ちょっとよんどころない会合がありまして。それから例のレポートは写真付きでメールしておきました。」
「そ、そうか。」
話とは磯田とのことだろう。龍二に何と言われようと、磯田と仲直りなどしたくはなかった。磯田は石井が保科と会うことを望んでいる。どうせ盗聴器を仕掛けるか、後をつけるかして二人の様子を窺うつもりなのだ。磯田のしらっとした顔にそう書いてある。

 外にでると、携帯をとりだし三枝に電話を入れた。相手はすぐに出た。
「真治さん、大変よ。また予言が当たったわ。たった今、ニュースが世界に配信され始めているわ。」
「例のイランの大地震という予言か?今日だったのか?」
「そうよ、そんなことも忘れていたの。今、インターネットで検索しているけど、死者の数が次々と跳ね上がってゆくわ。あの予言の通り、3万人に近付いていくのよ。まだ1万5千人以上としか報じられていないけど、今後も増える可能性があるって言っているわ。」
三枝の声は僅かに震えを帯びている。石井は押し黙った。なんと答えていいのか思いを巡らせた。

 予言が的中したのは今回で3度目になる。一回目はさほどではなかったが、2回目は衝撃的だった。フィリピ航空の旅客機が墜落し、239名の命が失われたのだが、その中に日本人観光客57人が含まれていたこと、そして日時もぴったりと言い当てていたのだ。
「まあ、落ち着けよ。たった3回だ。3回の予言が当たったからといって、奴が言っている世界を揺るがすような大災害が起こるという保障はない。」
言葉を発してから「保障」という言葉のまずさを思ったが後の祭りだ。
「それを言うなら、絶対に起こらないという保障もないと言うべきよ。私、あの人に会ってみる。会って確かめてみるわ。」
「おい、何を言っているんだ。あのストーカー野郎と会うっていうのか。どうかしてるぜ。」
「あの人は私を救いたいと言っているのよ。その厚意を無視することなんて出来ないわ。」
「かってにしろ。俺を捨ててストーカー野郎に尾っぽを振ろうってわけだ。」
「違うわ、その予言を確かめたいのよ。どうしても確かめずにはおれないわ。」
石井は頭を冷やすために、携帯を耳から離し、深呼吸した。この一月の磯田との冷戦でストレスを溜め込んでいたようだ。「俺を捨てて」などと女々しい言葉を吐いた自分を恥じた。怒りを静め、三枝に話しかけた。
「今日、会いたい。話がしたいんだ。」
三枝は黙り込み、それが思いのほか長く続いた。
「今日、彼と会う約束をしたの。さっき電話を入れたわ。やはり送り主は彼だった。」
石井は携帯切った。
     (四)
 その日、高田馬場のガード沿いにあるバーで、石井は酔いつぶれた。嫉妬と焦燥が強い薬を要求していた。今この時にも、三枝はあのストーカー野郎とどこかで会っている。悔しさが込み上げてくる。
 酒で混濁した頭に、ふと、保科の顔が浮かんだ。懐かしさがこみ上げてくる。会いたいと思った。そう思ったとたん、グラスをカウンターに叩きつけ、背筋を伸ばした。マスターは酔いどれがいきなりしゃきっとした姿をみて目を丸くしている。
「マスター、ジョッキに水をくれ。」
それを渡されると一気に喉に流し込み店を出た。しばらく歩くとむかむかとしたものが腹の底から込み上げて、「うわっおー」という咆哮とともに、水、アルコールそして胃液の混ざった液体を吐き出した。ぜいぜい息をしながら手の甲で唇を拭い呟いた。
「あいつと再会するしかない。再会して自首を勧めよう。黙って見逃すのはやはり卑怯だ。俺の心のマドンナよ、どうか潔白でいてくれ。」
そう祈りながら、ふと、三枝節子の恐怖に歪んだ顔を思い出した。フィリピン航空の犠牲者の中に日本人57人が含まれていたと報じる新聞をテーブルに置いて、「そんな大規模な災害など在り得ない」と言う石井に食ってかかった。
「もう、そんなこと言っていられないわ。どう考えたって、これは偶然なんかじゃない。三通目の手紙に書いてあったイラン大地震が起きて、三万人以上の犠牲者が出たら、あの人の言う世界的規模の大災害もきっと起こるのよ。」
しかし何故、自分ばかりこんな特殊な事態に直面しなければならないのか。池袋署で経験した挫折も、尋常な体験ではなかった。精神の均衡を保つにはアルコールの助けを必要とした。体がぼろぼろになるまで飲み続けた。

 今回も、自分が興味を抱いてきた「予言能力」によって理不尽な局面に立たされ、またしてもアルコールに逃げようとした。しかし、今回、幸いにも保科香子の問題があった。会おうと決心した途端、現実に立ち向かう意欲が沸いた。これはこれでよい。
 しかし、正に尋常な予言ではないのだ。大地が1メートルも隆起し、そして落とされる。それが何度も繰り返されると言う。その衝撃に耐えうる建造物などあろうはずがない。恐怖が背筋を這い登り、体がぶるっと震えた。
 即死であれば楽なものだ。死は一瞬だ。刑事時代、そんな場面を何度も目撃した。そして石井自身が体験した死の境地。その時、死を意識した瞬間に訪れた悦楽に途惑った。そう、死は悦楽を伴うのだ。
 しかし、その後、生きられると心の何処かで感じた瞬間、苦しみが押し寄せてきた。まるで生そのものが苦であるかのように、苦しみは忍耐力の限界を超え、何度ものた打ち回った。並みの苦しさではない。二度とご免だと思う。
 人は死の恐怖を克服出来ない。その苦痛を想像するからだ。出来れば一瞬の死を迎えたいと誰もが思う。その壁さえ越えられれば、『母なる海』が待ち受けている。人間の魂の故郷へ戻るのだ。石井はその「母なる海」の存在を確信していた。豊臣秀吉は死に臨んで辞世の句を読んだ。
  つゆとおち つゆときえにし わがいのち
         おおさかのことは ゆめのまたゆめ 
 秀吉は鋭い感性でこの世の真理をずばり表現している。そして或る作家はこう書いた。「人生は波の飛沫の一滴。一瞬の旅を終え、再び母なる海に帰る」と。これを読んだ時、つくづくと感じ入ったものだが、最近、さらに美しい隠喩に出会った。
五木寛之の「大河の一滴」にそれは書かれていた。
 木の葉から露と落ちた一滴が大地に滲み、その大地から水が湧きだし谷間のせせらぎへ流れ落ちる。そのせせらぎがやがては大河へと連なり、『母なる海』へ注ぎこむ。五木寛之は言う。
『人の死を「海への帰還」という物語として描く。そして、さらに「空への帰還」を想像し、再び「地上への帰還」と空想する。私たちはそれぞれの一生という水滴の旅を終えて、やがては海に帰る。母なる海に抱かれてすべての他の水滴と溶けあい、やがて光と熱に包まれて蒸発し、空にのぼってゆく。そしてふたたび地上へ。』
 美しいと思った。これほどみごとに生命の営みを表現した隠喩はない。しかし、『母なる海』とは何であろうか?単なる隠喩?いや、そうではない。まさにその『母なる海』が存在するのだ。
 石井はその答えを持っている。無限の広がりをもった海の正体を知っている。死後の世界も、予言の秘密も、それが分かれば納得がいく。それを思い、少し救われる気持ちにななって、石井は歩み始めた。

第四章 再会

    (一)
 分厚い絨毯の感触を靴の底で楽しみながら、石井はホテルの奥のラウンジに向かった。普段はラフな格好が多いのだが、たまにはスリーピースで決めるのも悪くないと、鏡に映った姿を横目でチェックする。広いゆったりとしたスペースを眺めた。保科香子はすぐに見つかった。
 やたらひらひらしたドレス風の姿に、住む世界の違いを思い知らされたが、今日のスリーピースはイタリー製だ。気後れすることはない。香子は小さな日本庭園に面した席で一人コーヒーを飲み、秋の気配の忍び寄る庭園をうつろな目で眺めていた。
 ガラス張りのラウンジに臨む小さな日本庭園は、周囲を高い板塀で囲まれている。その裏に回ればビル群が林立しているというのに、塀に遮られた視界には青い空しか入ってこない。その高い空に一本の細長い雲が架かっている。
 
 ゆっくりと近付くが、視界の端に入っているはずなのに、香子は視線を向けようとはしない。しかたなく目の前に佇んで声をかけた。
「座ってもよろしいですか。」
香子が初めて視線をむけた。睨みすえるような視線が一瞬ゆれた。
「石井君?」
「ああ。」
しばらく見詰め合った。懐かしさが溢れて二人を包んだ。
 昔と少しも変わっていない。艶やかな肌はまだ少女のように輝いている。長い睫が何度もゆれてその目に涙を滲ませている。思いがけない再会を心から喜んでいるようだ。その様子がかえって石井の心を重くした。
「何年ぶりかしら。石井君、早稲田に入ったって聞いたけど、やっぱりサッカーで入ったの。例の特待生みたいなやつで?」
二人の時間は一瞬にして高校卒業の頃に戻っている。
「サッカーは高校で終わりさ。スポーツ推薦で入れるほどの才能はなかった。一浪してやっとこ早稲田に滑り込んだ。」
「何年ぶり?」
「12年ぶりだ。確か短大を卒業してすぐ結婚したって聞いたけど?」
「若気の至りよ。10歳も年上の人だった。すぐ離婚したの。でも、もし高校卒業の時、石井君が今日のように気さくに話しかけてくれていたら、私の人生も変わっていたかもしれない。」
「僕に気があったって?」
「学校中の女の子の熱い視線を浴びていたわ。私もそのうちの一人。」
「僕にはサッカーしかなかった。3年最後の試合に負けてから腑抜け同然になっちゃって、女どころじゃなかった。」
「あの試合の時は本当に泣いちゃったわ。貴方は芝生に座り込んじゃって放心状態。仲間から手を差し伸べられてやっと立ち上がった。その姿、今でも目に焼きついているもの。」
遠い昔の悔しさは苦い思を呼び覚ますと言うのに、どこか甘い香りが漂う。しかし、石井はその甘い香りのなかにいつまでも浸っているつもりはなかった。石井の沈痛な表情に気付いて、保科香子が聞いた。
「でも、どうして、どうしてここにいるの。まさか偶然?」
「いや、偶然じゃない。」
「ではどうして。」
「君に忠告をしようと思って。」
「それってどういうこと。」
喜びが一瞬にして不安へと代わり、動揺を隠そうともせず暗く沈んだ瞳を向けた。
「実を言うと、僕はあのホテルから出てくる君を目撃してしまった。こう言えば分かるだろう。警察は君を追っている。君に辿りつくのにそう時間はかからないだろう。まして僕の友人が君に辿りついて、君の写真まで撮っている。」
「その方が、ここを教えたと言うの。」
心なしか声が震えている。
「そういうことだ。」
重苦しい沈黙が二人を包んだ。肩を落とし、一点を見詰める香子の固く組まれた両手は震え、その震えを抑えるために手を組んでいるようだが、力を込めるたびに震えは大きくなった。石井がようやく口を開いた。
「何故あんなことをした。」
予想した通り沈黙がその答だ。石井は俯く香子を見詰めた。香子が顔をあげ、二人は見つめあう。その唇が震えている。
「強請られていたの。体を要求されたわ。だから眠り薬をお酒に入れたの。量が多すぎたって・・・。まさか死ぬなんて思ってもみなかった。」
「量が多すぎたって、誰が言った?」
その答えにはだんまりを決め込むつもりらしい。固く口を引き結んでいる。だが、誰かがそう言ったことは確かなようだ。
「自首しよう。それしかない。」
「そんなこと出来ないわ。」と言うと、両手で顔を覆った。肩が震えている。その頼りなげな肩を見ているうちに、急に愛おしさが込み上げてきた。常に校内でこの女の姿を追い求め、見出だせば狂おしい思いを抱いた中学高校時代。その思いが甦った。
 この女を守ってやりたいと心底思った。しかし、そんなことは不可能だ。殺された政治家秘書から安東代議士、そして悟道会教祖の杉田啓次郎の妾へと警察は辿りつくだろう。その時、石井が警察に嘘の証言をすることなど出来るはずがない。
 そう思った瞬間、思いは一緒だったのだろう、香子の顔が救いを求めて石井を凝視した。辺りを憚って囁くように言った。
「石井くん、お願い。嘘の証言をして、私じゃないって。ホテルから出てきたのは私じゃないって証言して、お願い。」
「それは出来ない相談だ。こうみえても僕は元刑事だ。」
石井の冷徹な視線に一瞬ひるんだが、再び何かを思いついた。涙で潤んだ瞳が必死さできらきらと輝いた。
「いずれ自首するわ。今日は10月20日、そう、12月20日には自首する。お願い、二ヶ月ほど待って欲しいの。」
石井はじっとその瞳を見詰めた。その瞳に嘘がないか見極めようとした。人は切羽詰まると嘘をつく。嘘を見抜くのが刑事の仕事だった。石井は不思議と嘘を見破る能力を持ち合わせていた。その瞳に嘘はないように思えた。声を殺して囁いた。
「分かった。12月20日、再びここで会おう。時間は今日と同じ午前10時。僕は君を信じる。万が一の場合、しばらくの間、君の言うように曖昧な証言をしよう。しかし、何故12月20日なんだ。」
保科香子は一瞬うろたえたが、咄嗟に答えた。
「母が入院しているの。末期癌よ。余命一月と医師に言われている。死に水をとってあげたいの。」
石井は一瞬判断に迷った。嘘が半分、真実が半分といった按配だ。事実、香子の母が癌であること、そして入院していることも事実だった。ただし、それが二月ヶ間自首を伸ばす理由ではなかったのである。
石井は立ち上がりかけたが、座りなおし、
「おい、磯田さん。12月20日まで待て。」
とテーブルの下に向かって言い、立ち上がると、香子に背を向けて歩き出した。
 一方、ホテルの駐車場の車の中で一部始終を聞いていた磯田は、「けっ、格好つけやがって、甘ちゃん野郎が。来るわけねんだろう。」と呟き、ふて腐れてレシーバーを耳から外した。レコーダーのスイッチを切り、車から降り立った。盗聴器を回収するためだ。

     (二)
 少女は恐怖に顔を引き攣らせ悲鳴を上げたのだが、くぐもったその叫び声は誰にも聞こえない。少女の口にはタオルが押し込められ、手足はナイロンの細い紐で縛られベッドの四隅に固定されていた。少年は下半身を少女に突き立てているが、その両手は少女の首を締め付けている。
 首を絞められ、少女の意識は遠のき、死の恐怖も、快楽も、まして魂さえ脳裏から離れてしまっているようだ。尚も少年は腰を律動させ、最後の瞬間を迎えようとしている。次の瞬間、獣の咆哮のごとき声をあげ、少年は果てた。
 ドンドンという扉を叩く音に、少年はぐったりとした体をようやく起し、ゆっくりと振り返った。充血した目には尋常でない光を宿している。すっきりとしたそのマスクは美少年の部類に属す。その顔からは想像も出来ない野太い怒声が響く。
「邪魔するな。邪魔したら貴様らも殺してやる。この女のようにぶっ殺してやる。」
ズドンという一際大きな音と共に、扉が蹴破られ、それが上の蝶番ひとつでぶら下がった。二人の屈強そうな男が入ってきた。少年は少女の体から起き上がり、二人の男に挑むような視線を向け半身に構えた。一人の男が冷ややかな声で言う。
「渥美さんは死んだようですね。」
少年は黙ったままだ。
「あれほど仲良く暮らしていたじゃありませんか。この半年、二人は夫婦のようだった。私達もほっと胸を撫で下ろしていた。」
「黙れ、何が夫婦のようだったって?胸を撫で下ろしたって?貴様らに俺の惨めな気持ちが分かるか。籠の鳥の俺の気持ちなんて分かるわけがない。」
「勿論分かります、でも本来はもっと狭くて汚い場所に押し込められていてわもおかしくないんですよ。それが見なさい。ここには何でも揃っている。プールもジムも映画館も遊技場も、ましてお坊ちゃんの要望通りヘリコプターも買って、空中散歩にもお連れしている。いったい何が不満なんです。」
少年は徐々に間合いをつめていた。その美しい顔には不釣合いなほど、体は筋肉でごつごつしいる。男は素知らぬふりで、もう一人の男に目線で合図を送る。もう一人の男が後ろのポケットから何かを取り出した。少年が吠えた。
「お前らが、ここを檻と呼んでいるのを知っているんだぞ。ここはまさに檻だ。そして俺は動物園の熊のように、この狭い檻の中でうろついているだけだ。いいか、俺はここを出るんだ。そこをどけ。」
少年は躍り上がるようにして男に蹴りを入れた。男は半身になってやりすごし、少年の蹴り出した脚を右脇に抱え込み、捻り倒すとうつ伏せにして床に押さんだ。
「おい、重雄、今だ。」
もう一人の重雄と呼ばれた男が素早く少年の腕に注射針を刺し込む。狂ったように暴れる少年は次第にぐったりとしてきた。少年のか細い声が聞こえた。
「いつか強くなって、お前らを倒して・・・」
二人の男はふーと溜息を漏らした。男が呟くように言った。
「また殺っちまった。これで二人目だぜ。なあ、重雄、こんな奴の後始末をしている俺達は、地獄に堕ちるかもしれんな。」
重雄が答えた。
「地獄なんてある訳ないですよ。この世こそ地獄です。」
「この世こそ地獄か。重雄もいいことを言う。確かにその通りだ。」
寂しげに笑うと男は立ち上がった。
「しばらく独房に入れておけ。」
重雄が答えた。
「独房ねえ、独房ったって俺のアパートの3倍はあるんだから。全く、とんだ野郎ですよ、こいつは。何が籠の鳥だよ。ざけんなって。」
「それと、女の死体の始末をしておけ。」
「えっ、片桐さん、手伝ってくれないんですか。」
「俺には大事な仕事がある。北海道に出張だ。樋口と四宮と三人で始末しろ。おい、いいかきっちりと仕事をしろよ。」
 
     (三)
 三枝節子から電話が入った。いつもなら例のホテルが指定されただろう。しかし彼女は渋谷の喫茶店で会いたいと言う。三枝の意図は明らかだ。待ち合わせ場所にはめずらしく先に来て口を引き結んで控えている。もう結論を聞いたも同じだった。
「珍しいじゃないか、手術が手短に終わったわけか。」
「ええ、・・・」
と言ったまま、俯いている。別れ話を自ずと悟らせようとしているかのようだ。せめて聞くだけ聞いてみようと思った。
「君の態度で、君が僕と別れようと決意していることは分かった。いいだろう、別れよう。電話を貰った時から覚悟は出来ていたから、そのことについては気にすることはない。君の事はきっぱりと諦める。」
「ごめんなさい。まさかこんなことになるなんて……。」
「しおらしい君なんて似合わない。いつものように堂々としていろよ。」
またしても下を向いて、押し黙った。例の件、地球を襲う未曾有の大災害のことに触れられたくないのだ。しかし石井とて心かき乱された。まして付き合い出して間もない恋人を横取りされたのだ。聞く権利はある。
「で、どうだったんだ、例の予言の話は。僕も聞きたい。」
ちらっと視線をあげたが、口元が歪んだ。嘘を言おうとする人間の表情だ。無理に笑顔を作って口を開いた。
「嘘っぱち。あの人の作り話。」
ふふふっと悪戯っぽい表情で笑うと続けた。
「あの人、私にどうしても振り向いて欲しくってあんな嘘を書いたって告白したわ。確かに彼は予言能力を持っているの。だからこそ今日の地位を勝ち得たんですって。それが分かって欲しくてあんなメッセージを私によこしたのよ。馬鹿みたい。」
「他の三っつの予言は本当だったが、地球規模の大災害だけが嘘だと言うんだな。」
またしても悪戯っ子のような含み笑いを浮かべ、目をくりくりさせた。その仕草は三十女には似合わない。
「そ・う・ゆ・う・こ・と。あれは私の関心を惹くための大嘘だったんですって。本当にあの人ったら、最初に会った時のおどおどした態度が嘘みたいで、茶目っ気ばっかりで可愛いいの。急に恋心が芽生えちゃって。本当にごめんなさい。」
 石井は三枝が虚勢を張っているのが分かった。彼女は誰にも打明けられない真実を知った。しかしそれを隠そうとしている。恐らく三枝は、ストーカー野郎に口止めされているのだ。
 間違いなく三枝は、元ストーカー、安東喜一郎から世界的規模の大災害の真実と日時を聞いた。その恐怖が彼女の顔に貼りついている。安東はその災害から逃れる術を彼女に教えた。その見返りは、彼女の心と体だ。姑息な安東の顔が浮かぶ。

 取り繕おうとする三枝の不自然な表情は石井をしらけさせたが、彼女の努力を無にするのも大人気ない。にやりと笑って答えた。
「良かった。三度目のイラン大地震の予言にはびっくりしたよ。世界的規模の大災害が近日中にも起こるかもしれないと、本気で思い込んでしまった。僕もこれからは枕を高くして眠れるってわけだ。」
三枝は、ふと心の重荷が下りたように肩の力を抜いた。石井は立ち上がりかけ、別れを告げようと思ったが、意地悪な気持ちが蠢いて再び腰を落とすと声を殺して言った。
「君は嘘を言っている。」
「嘘なんて言ってないわ、全部本当のことよ。」
「君の彼氏は予言能力を持っているかもしれないが、実を言うと僕は嘘を見抜く能力を持っている。君はまだ僕を愛している。彼なんて本当は嫌いだと顔に書いてある。」
「好きよ、愛しているわ。」
思いのほか大きな声に自分自身びっくりしたようだ。周りの人々の視線が彼女に集まった。三枝は声を低めて再び同じ台詞を吐いた。
「愛しているわ。信じてもらえないと思うけど、急に好きになったの。こんな不思議な体験は始めてだし、その能力を持っている彼を見直したというか、すごいなっていう思いが、好きになった理由かもしれないけど…」
石井は言葉を遮り、
「そうかい、分かった。もう何も言うまい。君の好きにしろ。」
と言うと席を立った。後ろも振り返らず喫茶店を後にした。地球規模の災害は本当にやって来るのか。彼女の目はそれを確信していた。空を見上げると星云が漆黒の闇に煌めいている。その星に語りかけた。
「母さん、本当に破滅がやってくるの?人間の傲慢さを懲らしめるため自然が復讐するってことなの?」
星はまたたくだけで何の啓示も与えてはくれない。
 何故、母と同じ能力が遺伝しなかったのか、我ながら恨めしく思ったものだ。しかし、だからこそ、石井は母の能力の解明に駆り立てられた。石井はこれまで、その究明のためどれだけの本を読んだだろう。夢中で様々な分野の本を漁るように読んだ。

 そしてある時、「集合的無意識」という言葉に出会った。この言葉によって初めて母の能力、つまり予知能力と霊能力が説明できたのだ。この「集合的無意識」とは、個人を超えた、人類の長い経験と知識が蓄積され形成された無意識領域のことで、個人に遺伝的に継承されると考えられている。
 しかし、石井は、母とのコミュニケーションを通じて、個々の心は深奥で繋がっていると確信していた。従って、この集合的無意識は、個々がそれぞれ固有に持つのではなく、実はそれぞれの無意識は絡み合う糸のように繋がっていて、人類という種としての集合的無意識を形成していると解釈した。そしてこの石井の個々の心は深奥で繋がっているという解釈は或る事実によって証明されていたのである。
 最初にこの事実を報告したのは、ニホンザルの研究者達である。在る島で、一匹の子ザルが餌のイモを海水で洗うと砂が落ち、しかも塩が効いて美味いことを発見する。この知識は大人達にも伝わり、島の最後のサルが、これを試した翌朝、海を隔てた隣の島で子ザルが海水でイモを洗い始めたという。
 世界の動物学者を驚かせたこの事実は様々な実験により追認された。一つの例だが、マウスを使った実験がある。
 まずアメリカのマウスのグループに一つの迷路を学習させ、全てが学習し終えたら、今度はイギリスの同数のマウス達に同じ迷路の学習を始めさせる。すると、イギリスのマウスは、アメリカマウスの半分の時間で学習を終えてしまう。
 別の迷路を今度は逆にイギリスから始めると、アメリカにおいて、またしても半分の時間で学習を終える。学習時間が半分になるということは、つまり、その知識が何らかの形で伝わったことを示しているのである。
 これら二つの例は、距離を隔てた種同士が、獲得した知識を伝え合ったことを示すのだが、スマトラ沖大地震では、野生動物はいち早く危険を察知し難を逃れたが、彼らは、彼らの祖先が取得した知識、「地鳴りに続く地震、そして津波」という時を越えた知識を咄嗟に思い出し行動を起こしたのである。
 彼らが、何処からその知識を引き出したかは、言うまでもない。全ての動物は、人間同様、先に述べた集合的無意識を持っており、個々が得た知識はそこに瞬時に蓄積され、どの固体もそこに容易にアクセスし、知識を得ることができたということである。
 しかし、人間は、脳の異常な発達によって自我が肥大化したため、他の動物のようにその能力を十分に発揮出来ない。人類にとって、この種の保存に必要な能力を失ったことは大きな損失と言える。

 さて、この集合的無意識という概念を提唱したのはカール・G・ユングだが、彼に言わせれば、「それは、意識の心から閉ざされていて、心霊的内容、人が忘れ去り、見落としているあらゆるもの、またその原型的器官の中に横たわる無数の時代の知恵と体験を」を含み、人々を導き、役立っているという。そしてユングはこう結ぶ。「我々の意識などは無限の大海(集合的無意識)に浮かぶ小島のようなものである」と。
 ユングは、集合的無意識は祖先にまで遡る叡智を含むと言うが、これが事実なら、そこはまさに知識と情報の宝庫である。ここにアクセスすることにより、地球の地殻の変動周期も、地球物理学、地質学や地震学等の最新の科学情報や知識をも引き出せ、大地震のような災害の発生時期、規模、被害状況の予測も可能となる。
 また集合的無意識という大海に浮かぶ個々人の意識から、世界中で起きている政治的陰謀やテロの情報も事前に入手可能ということになり、偶発的な事故以外の予言は、ある程度理解の範囲内に入ってくる。
 つまり、人間が失ったその能力、勿論その能力の強弱によって引き出せる情報量は異なるだろうが、それを他の動物同様未だに持ち続けている人でいれば予言は可能なのだ。それが超能力者と呼ばれる一群の人々なのである。

 ふと、あのストーカー野郎の顔が浮かんだ。一瞬、頭に血がのぼった。あの野郎はその能力を悪用し恐怖という餌で三枝を釣った。しかし悔しいという思いより未曾有の大災害に対する恐怖の方が勝った。恐怖に顔を引き攣らせた三枝の表情を思い出したのだ。
 あの顔は何かに怯えていた。それを必死で隠そうと演技を続けていた。石井の心に三枝の恐怖が伝染し、いつもなら暖かく包み込んでくれるはずの煌く星々さえ無慈悲に人間達を見下ろしているように感じた。

第五章 失踪

    (一)
 考え事をしていると、突然、パソコンの画面にメール着信メッセージが映し出された。石井は目の前でうごめく磯田を無視し、アウトルックを開いてメッセージを読む。そこにはこうあった。
「保科香子が失踪した。新宿のマンションは売り出されている。」
あまりのショックに、冷たい戦争を忘れて思わず目の前の磯田に声を掛けてしまった。
「えっ、これって、本当ですか?」
石井がごく普通に話しかけるものだから磯田も、
「おお、それが・・うっ、うっ」
と咄嗟に答えてしまって、しまったというように顔をしかめ舌打ちした。そして、キボードに何かを打ち込み始めた。二人の沈黙に恐れ慄いていた龍二と佐々木が、ごくりと生唾を飲み二人の成り行きを見守る。石井は肩を落としぽつりと呟いた。
「やはり騙されたか。」
保科香子が懇願した時に見せた必死の形相を思い浮かべた。次の磯田のメッセージは辛辣だった。
「お前は騙されたんだ。もう、彼女との約束を守る必要はない。元刑事が聞いて呆れる。黙って見過ごすのか。千葉県警に報告すべきだ。」
石井はキーボードを叩きつけ、反論する。
「僕は彼女を信じる。彼女とは12月20日に再会する。」
「けっ、彼女は北海道、富良野に行ったはずだ。三日前、教祖の杉田啓次郎がお忍びで旅立った。おそらく一緒だ。富良野に雲隠れするつもりだろう。」
「よく、そんなことまで調べたもんだ。磯田さん、あんたは異常人格だ。」
「ああ、異常だ。ここ数日睡眠時間は3時間。あいつの身辺を探り続けていた。」
石井は腕を組んでしばらく考えたが、顔を上げ磯田を睨みつけながら龍二に言った。
「今日から三日休暇をとります。後の仕事は磯田さんが引き継いでくれるはずです。そうでしょう、磯田さん。」
むっとして磯田が答える。
「・・・やれることは、やります。しかし、やれないことはやれません。」
二人のやりとりを、まるでテニス試合を観戦するかのように、首を左右に振って見ていた龍二が厳かに仕事の指示を下す。
「分かった、磯田、やれることは代わりにやってくれ。やれないことはそれはそれで仕方がない。」
石井は憤然と立ち上がり事務所を後にした。

 石井はそのまま羽田に向かった。富良野という地名は知っていたが詳しくは知らなかった。とりあえず札幌に飛べばいいと高をくくって飛行機に飛び乗った。午後1時には千歳空港の地を踏んだ。
 空港職員に富良野まで行きたいと言うと、パンフレットをよこした。そこに載っている地図を見ると北海道のど真ん中である。「おいおい・・・」と呟きながらタクシーを拾い、札幌市内に向かった。富良野行きのバスが出ているという。
 結局、バスに乗ったのは3時半を過ぎていた。コットンのジャケットでは薄ら寒いのでデパートでセーターを買った。約二時間半の道のりだ。さすがに北海道である。東京はまだ秋の気配に乏しいが、こっちは既に紅葉のまっさかりである。
 
 まっすぐな道が何処までも続く。この大地の大陸性気候は日本とは思えない雄大な風景を生み出した。枯れかけた草原は風にたなびき、その波のようなうねりは夕日に映え、黄金のきらめきを以って眼前に迫ってくる。
 バスのフロントガラスから見える真っ直ぐな道が空と接し、その空の高みまで進むと眼下には草原の輝きがはるか地平線まで続く。ぽつりぽつりと見える家はどれも冬篭りに備えているかのようにひっそりとしている。「しかし」と石井は呟いた。そして目まぐるしく思考が回り始めた。

 特殊な能力を持つ人間は、世の中に掃いて捨てるほどいる。石井のこれまでの人生でも不思議な能力の持ち主の何人かと出会った。人の心を読む人、未来を予知する人、霊に敏感な人。そして、石井の亡き母はそれら全ての能力を持ち合わせていたのだ。
 あれは小学校3年生のことだ。学校から家に帰ると、母が言った。
「今日、明人君と喧嘩したでしょう。顔に書いてあるわ。」
明人とは友達になったばかりで、母はその名前さえ知らないはずだ。
「どうして分かったの、ママ。明人君はまだ家に連れてきたことないよ。」
「今ねえ、真治が、遠ざかってゆく友達に、明人の馬鹿野郎って叫んでいる姿が突然浮かんだの。どう当ってた?」
石井はいつものことながら母の不思議な能力に驚嘆したのだが、その時、ふと、母と自分の意識は繋がっていると感じた。このことがあったからこそ、世の中には集合的無意識に瞬時にアクセス出来る人が稀に存在するという事実を素直に受け入れたのだ。
 そして後年、石井は20世紀の最も偉大な神秘的霊能者と言われたエドガー・ケイシーに興味を抱いた。何故なら、彼は明らかに、個々の無意識が深奥で繋がって形成される集合的無意識にアクセスしており、しかもそこに霊が関係していると感じたからだ。

 石井が最も興味を抱いたのは、ケイシーのフィジカルリーディングと呼ばれるものだ。このフィジカルリーディングとは、彼の息子、ヒュー・リン・ケイシーが彼の著作の中でこのように表現している。
「1910年10月9日のニューヨークタイムスの記事にこうある。
     無学の男、睡眠下で医者となる!
        エドガー・ケイシーの披露する
            不思議な力に医師ら茫然」
 つまりフィジカルリーディングとは、病気に苦しむ人々に対する処方箋のことで、彼は寛いで横たわり、妻の暗示によって眠りに入った後、静かに患者の治療法を語り始めるのだが、リーディングとはその言葉を書きとめたものなのである。彼はこれにより多くの難病患者を救ったのだ。
 確かに彼は故郷のケンタキー州ホプキンスビルで6年間学校に通っただけの学歴しかない。しかし睡眠下で語られた心理学的用語や神経解剖学的表現は、どれも難解で発音しにくいものだが、その分野の専門家を唸らせるのに十分な正確さを以って発せられていたのである。そして、覚醒した彼は睡眠中何を語ったか全く覚えていない。
 そのリーディングに際し、彼に与えられた情報は患者の名前と住所のみである。睡眠下の彼は、その患者を探し出しその体にアクセスする。
「我々(常にこの表現が用いられた)はここにその体を捉えた。今、部屋を出てエレベータで下に下りようとしている」と、彼の意識が患者の周囲に存在して見ているように語る。そして病巣を見つけ出し、続ける。
「我々はこれらの症状が腸管自体というより十二指腸下部に起きた腫れからきているものであるのが分かる。」と、彼の目は患者の内部にも入り込み症状の原因を指摘し、その処方を語るのだが、その中には彼の生きた時代の最先端医療知識を超えたものまである。
 前述のごとく、ケイシーは睡眠下で語ったことを全く覚えていない。つまりその時点では無意識状態にいたことになる。睡眠下の彼自身の言葉を借りれば、
「彼自身(ケイシー)の潜在意識が他のあらゆる潜在意識と直接交わ」ることが出来、そして「この方法で何千何万という他人の潜在意識の有する知識の全てを収集する。」つまり、彼の情報の源が集合的無意識であることを自ら語っているのである。

 エドガー・ケイシーのこの言葉を知って、母親は集合的無意識に瞬時に入り込み石井の意識にアクセスしているのだと理解した。実際に繋がっていたからこそ、母は、見たこともない石井の友人の名前と出来事を言い当てたのである。
 石井は、母親のその能力を見て育っていたから、生来予言を信じる性質の人間だが、この度の世界的規模の大災害という予言には、何かしら胡散臭さを感じている。しかし心の片隅に或いはという恐れもある。
 石井は、刑事時代に一度死の淵をさ迷った経験から、それほど死に対して恐怖心を抱かなくなった。たとえ、大災害が起こって死ぬことになったとしても、それは運命として受け入れる心の準備は出来ている、と自分では思っている。
 しかし、それを三枝に説得することなど不可能であることも分かっていた。誰を差し置いても自ら助かろうとするのが本能なのだ。悟りきったことを言う石井でさえ、恐怖に駆られパニックに陥れば、どんな行動をとるか分かったものではない。

   (二)
 いつのまに寝入ったのか、ふと目覚めると、先ほどまでのうっそうとした草原に代わって、道の両側はちらほら潅木散在し、それが後方へと走り去る。荒涼とした景色は火山が作り出した風景だろうか。名も知らぬ山の影を見ながら再びまどろみへと戻った。
 富良野の町へ着くと、すでにとっぷりと日は暮れていた。荒涼とした町並みを思い浮かべていたが、それがとんでもない間違いだということに気づいた。街は煌々としたネオンに満ち、街を行き交う人々は地元と言うより観光客の方が多いようだ。
 とりあえず駅前のビジネスホテルにチェックインしてネオンの街に繰り出した。居酒屋で腹ごしらいをしてネオンの街の奥底へと脚を運ぶ。10分ほど歩いてバーやスナックが密集する地にたどり着いた。情報収集にはこういう場所が最適である。

 そのバーは五階建ての雑居ビルの4階にあり、ドアを少し開け中を覗くと客は5~6人入っている。ママと思しき女性も美人だ。石井はドアを開け中に入って行った。初めての客に一瞬警戒の色を見せたが、一人のホステスが直ぐに対応し席に案内する。
「お客さん、ここは初めて?」
「ああ、富良野も今日初めて来た。」
お絞りを差し出しながら、
「お仕事なの?」と聞く。
「いや、ふらっとね。浮世から逃れたくて。」
ボトルを頼むと、鈴のような声を響かせ注文した。
「私、理沙。お客さんは。」
「長瀬だ。」
と偽名を名乗った。いつもの癖だ。
「東京からですね。」
よくよく見ると三十歳をすこし過ぎたくらいの、どこか凛とした美しさを漂わす女だ。
「私も一年前、ふらっと東京から来たの。おんなじみたいね。」
ほほえみながら水割りを作る。石井は女のうなじに見惚れた。細いしなやかなうなじは透き通るようだ。安い香水の香りに満ちたこの場の雰囲気に馴染まない。石井は聞いた。
「何故、東京から富良野くんだりまでやって来たんだ。」
「いろいろあったから。」
含み笑いをうかべ「どうぞ」と水割りのグラスを差し出す。その眼差しは石井に対する好意がにじみ出ていた。
「景気はどう?」
「どうしようもないわ。ここはそうでもないけど、どこの店も閑古鳥がないているの。」 とりとめのない話がとぎれ、ふと顔をあげると理沙の絡みつくような視線に捕らわれた。余裕でその視線を受け止め微笑んだが、実を言えば生唾を飲み込んでいた。「と、ところで、甥っ子が悟道会に入信して行方が分からなくなった。探しているんだが、悟道会の噂、聞かないか?」
すると理沙は、
「悟道会ですって、それなら聞いたことある。」
ねえねえと、隣で接客していた女に聞いた。
「美和ちゃん、あなたの山の中の実家、あの近くに大きな建物が出来たでしょう、あれ悟道会だっていう噂聞いているけど・・・?」
美和と呼ばれた女が答えた。
「山ん中は余計だけど、噂よ、噂。高い塀を巡らしているし、管理人がいて中には入れないから確かめようがないもの。管理人は悟道会との関わりを否定しているそうよ。」
 隣の客が割り込んだ。恰幅の良い50年配の男だ。
「いや、あれは絶対悟道会だわ。だってたまたま車で通りかかった時、ほら、テレビで報道されていた通りの、あの白いお仕着せを着た女がチラッと鉄の扉越しに見えたんだわ。あっ、やっぱりと思ったんだ。」
 石井は場所を確認し、明日訪ねてみると言って話題を変えた。これだけ聞けば十分だと思って腰を上げる準備に入ったが、理沙の熱い視線が絡みつく。女には懲りたはずなのに、またしてもやに下がる自分が悲しかった。

第六章 二人の逃亡者

    (一)
 ホテルのベッドで目覚めた。昨夜、あやうく難を逃れたことを思い出し、ほっと胸を撫で下ろした。しつこく誘われあわやホテルへという雰囲気になった時、漸く理沙の喉仏を見て男だと気付いた。閉店直前、理沙が着替えに行った隙に逃げ出したのだ。
 煙草に火をつけ、煙をゆっくりと吸い込んだ。そして今日の計画を思い描く。問題はビルの建つ敷地には高い塀が巡らせてあり、門には管理人がいて人・車のチェックが厳重だということだ。保科も教祖もあの中にいる、そう確信していた。
 とりあえずその周辺を探る必要がある。石井は遅い朝食をとると駅前のレンタカー屋で車を借り、地図を頼りにそのビルを目指した。道は碁盤の目のように東西南北へと真っ直ぐに伸びている。
 街は南北に長く、東西は短い。車で10分も行くと町並みは途切れ、千古の謎を秘めると言われる大樹海へと続く。その道を進むと、なるほど樹海にへばりつくように25階建ての真四角なビルが建っている。地図を確認するとビルの両側に道がある。
 石井は日産サニーの速度を下げ、ゆっくりとその前を走った。異様なのはその広大な敷地が高さ3メートル近いコンクリート塀で取り囲まれていることだ。施主は要塞でも作ろうとしたのか、確かめようもないのだがビルの壁も分厚いように感じる。
正面の入り口は幅5メートルもある鉄製の観音開きの門扉、その右扉に切り戸があり、人はそこから出入りするのだろう。ビルは、同じ大きさのガラス窓が縦横びっしりと連なっている。塀が途切れたところで左に折れて、砂利道に入った。
 サニーは車体を上下させながら移動する。ビルの西側面も正面と同様、同じ大きさのガラス窓で仕切られており、どうやら幾つもの個室がびっしりと並んだような造りのようだ。やがて塀が途切れるが、うっそうと茂る樹木を隔てた裏側も塀を巡らせてある。
 樹海のなかをしばらく進むと、T路地にぶつかり、そこを左折して砂利道に出る。ビルの東側の塀には巻き上げ式のシャッターが備え付けられており、進入路が傾斜しているところを見ると、ビルの地下駐車場へと通じているようだ。
 ちょうどその斜め20メートル先に、3台の廃車が樹木の間に突っ込むように放置されている。そこまで確かめと、砂利道を抜けて通りに出た。監視されている可能性もあり長居は無用だ。
 石井はしばらく走り回り、後をつけられていないことを確認すると、車をレンタカー屋に戻した。昼食をとり、買い物をしてビジネスホテルに戻った。そこで事務所に電話を入れた。出たのは佐々木だ。
「真治さん、いったい今何処に行っているの。仕事が溜まり放題よ。お客の苦情を処理するのは私なんだから。あの飯森さんの件はどうなっているのよ。」
「あっ、いけね。レポート、昨日までだったよね。飯森さんの奥さんに電話いれて三日延ばしてくれるように頼んでくれないかな。」
「ご安心下さい、身内の不幸とか何とか言って、一週間もらっておいたわよ。有難いと思いなさい。それより何なの。」
「僕のノートパソコンとそれからカメラ一式送ってほしいんだ。ノートを送ってもらえれば飯森さんのレポートは直ぐにでも送れる。」
「真治さん、あなた、三日間の約束でしょう。明後日には顔を見せるんじゃないの。」
「いや、それが、どうも・・・」
「分かったわよ、それじゃあ、住所を言って。」
「そうこなくっちゃ、明日の10時着便でお願いします。今すぐ航空便の受付所に持って行けば間に合うと思う。ええと、住所は北海道・・・ちょっと待って、ホテルのマッチがあったはずだ・・・」 
「何ですって、北海道、まったく、もうっ…。」

    (二)
 監視を始めて二日目の夜を迎えた。深夜二時をまわったところだ。おんぼろの軽自動車を借りて、夜中に樹海のとばくちに置き去りにされている三台の廃車の間に紛れ込ませ、そこに身を潜めた。
 最初は塀からの進入を考えていたが、角度をもった1メートル幅の忍び返しと、無線式の警報感知装置を見て、すぐに諦めた。買い込んだアルミニウム製の脚立は樹海の中に捨てるしかなかった。残るは搬入口からの進入である。
 東側搬入口は思いのほか車の出入りが多い。シャッターが開いた僅かの隙に入り込たもうと考えていたが、昼夜を問わず二人のガードマンが厳重に監視している。なす術もなく終いには寝袋に包まって寒さをしのいでいた。
 石井は次第に無駄なことをやっているという思いが募り、嫌気がさしていた。忍び込めないのであれば、ここで見張っていても意味はない。教祖の愛人であれば搬入口からではなく、正面の門から出入りするだろう。
 まして、彼女がここにいるという証拠を掴んだとしても、彼女と連絡がとれるかどうか疑わしく、たとえ連絡がとれたとしても、末期癌の母親がこのビル内の病院に入院していると言われれば、はいそうですかと引き下がらざるを得ない。
 諦めようと、寝袋から這い出し車のエンジンをかけようとしたその時、通りから車が入って来たらしく、ライトが塀を照らし出した。そしてシャッターがガラガラと音をたてて上がり始めた。
 トラックが消え、再びシャッターが降りてくるのを見守っていた。シャッターが地面の50センチまで降りてきた時、突然、白と黒の二つの塊が転がり出て来た。どうやら人間らしく、立ち上がると泳ぐように通りに向かって走り出した。ついで、シャッターの内側からドンドンと叩く音とともに、「早く開けろ」という怒鳴り声が聞こえた。
 石井はエンジンを駆け、バックで急発進して砂利道に出た。シャッターが開き始め、その下から男達の脚が照らし出される。「おい、車の音がするぞ。」という声とともに、一人が地面にかがみこんだ。石井はアクセルをふかし通りに出た。
 右手に白っぽい後姿が見え、必死で走っている様子だ。近付いてゆくと白く見えたのはジャージだと分かった。もう一人は闇に溶け込むような黒い服装をしている。ライトを点灯すれば追っ手と間違える。無灯火で近付いて声をかけた。
「おい、おい、随分と酔狂な人達もいたもんだ。こんな夜更けにジョッキングかい。」
刺激しないように冗談めかして言った。それでも相当に驚いた様子で、
「おじさん、悟道会の人。」
と聞いた声が震えている。ライトを点灯すると、一人の少女の顔が浮かび上がった。見ると、まだ幼さの残る少女だ。15・6歳だろうか。もう一人は20代前半で、黒のジーンズとジャケットを着込んでいる。なかなかの美形だ。
「悟道会、何だそれは。俺はカメラマンの長瀬だ。深夜の樹海を撮影した帰りだ。」
ジーンズの女が振り向いて、顔を恐怖で引きつらせた。バックミラーで見ると、大型のバンが通りに顔を出したところだ。石井は後ろのドアを開け怒鳴った。
「早く乗れ。」
二人は飛び乗った。見ると少女の方は部屋履きだ。アクセルを全開にして街に向かった。軽自動車を借りたことを後悔していた。スピードの差は如何ともしがたい。直ぐに追いつかれた。バンは前に回り込もうとする。そうはさせじと行く手を阻む。
 そんなことを繰り返しているうちに、バンが暴挙に出た。ドンと車ごと突っ込んできたのだ。弾かれて危うく電柱にぶつかりそうになるのを漸く堪えた。今度はぶつけられないように必死でハンドルをさばく。
 ジーンズの女は何度も悲鳴をあげ、後部座席で「捕まりたくない、逃げて、逃げて」と叫ぶ。少女が手を背中に回しそれを宥めている。街並みがまばらながら見えてきた。石井は一気にスピードを上げた。バンが迫ってくる。ハンドルを切ってオカマを避ける。後輪が流れ慌ててブレーキを踏んだ。
 車がスピンし、バンが前に出た。これ幸いと来た道を引き返す。さっきは気付かなかったが、細い道が左側にある。急ハンドルで左折して、猛スピードで50メートルほど進むと、バックミラーにバンのヘッドライトが映し出された。
 畑の中の農道だ。暫く走り、十字路を左折して街中に向かう。エンジンが唸りを上げる。次第に民家が見えてきて、そして住宅地にはいった。バンが猛然とスピードを上げてくる。石井も負けじとアクセルをふかす。
「よし、あった。」
石井は思わず声を上げた。軽自動車がやっと入れるような路地である。両側に民家が密集している。車を急停車させ、ゆっくりと路地に回した。大型のバンでは進入不可能だ。そろりそろりと車を進めていたが、バンが止まって、中から人が何人も降りてくるのをみて、「ままよ」とばかり、アクセル全開で走り出した。

    (三)
 車を大通り手前の路地に乗り捨て、リュックをジーンズの女に預けると、少女を背負ってビジネスホテルまで歩いた。そんな異様な三人を怪しむ人影さえない。それでも追っ手の男達に用心しながら、漸くホテルにたどり着き、非常口から中に入った。
 そのビジネスホテルは零時には鍵を閉める。石井はカメラマンと称し、深夜の樹海、そこに蠢く動物達の生態を撮りに行くと説明し、非常口の鍵を借りておいたのだ。部屋に入ると二人の女はベッドに倒れ込んだ。石井が、
「寒いだろう。二人とも風呂に入れ。」
と言うと、少女とジーンズの女は顔を見合わせ、先を譲るような仕草でぐずぐずしている。石井は笑いながら言った。
「おじさんは気が短いんだ。一人一人じゃなくて一緒に入っちゃえよ。浴槽は十分に広い。それに、覗いたりしないから安心しな。兎に角、冷え切った体を温めないと。話はその後で聞こうか。」
風呂にお湯を張ると、二人にガウンを放り投げた。少女はにっこりとしてベッドから立ち上がった。ジーンズの女もその後に続く。

 暫くして、少女がガウンの紐をきっちりと結んではにかむ様子で風呂から出てきた。もう一人は胸元を覗かせ、熟れた肉体を誇るような表情で石井をちらりと見た。よほど安心したのか、もうおどおどした様子はない。石井はソファーで煙草の煙をくゆらせていた。
「どうだ、少しは落ち着いたか。もう大丈夫だ。鬼どもに、僕達が何処に隠れたかなんて分かりっこない。かくれんぼの極意はそこを動かないことだ。」
にっこりと笑った少女の顔に笑窪が浮かぶ。可愛らしい笑顔だ。
「まず、君達の名前と歳を教えてくれる?」
少女が先に答える。
「大竹清美、17歳。」
「あたし、坂口さくら、年齢は不詳よ。」
「年齢不詳か、まあいいだろう。大体想像できる。」
「幾つに見える?」
「うーん、23~4だな。」
「残念でした。こう見えても二十歳前よ。そう言うおじさんはどうなの。」
「歳は30歳、名前は長瀬、おっとこれは偽名だ。本名は石井真治、探偵だ。」
さくらがすぐに反応した。
「マジッ、探偵?カメラマンっていうのは嘘?本当。何を調べていたの。」
「ある人を探している。教祖の愛人だ。名前は保科香子。知ってる?」
「さあ、清美は?」
「もしかして、あの美人秘書じゃないかしら。」
「スタイル抜群で、顎に黒子がある?」
「そうそう、黒子、あるある。本部ビルでは何度かみたことあるけど、でも、あそこでは見かけなかった。」
ふーむと考え込んだが、すぐに頭を切り替えた。
「それより君達は何故あのビルから逃げ出した?奴等は血相変えて追いかけて来たが。」
さくらはしばらく俯いていたが、顔を上げてぽつりと言った。
「私、監禁されていたの。それを清美が助けてくれた。私には、やらなければならないことがあるから、逃げてきた。あの人たちは私を黙らせたいのよ。」
「殺してもか。」
「そこまでする気はないわ。」
「そいつは結構。面白そうな話だ。聞かせてもらおうか。」
「私、誘拐されたのよ。」
清美は既に知っているらしく、頷きながらじっと石井の目を見た
「誘拐とは穏やかじゃないな。何時、何処で、誰に。」
「面白い、まるで英語の授業みたい。いいわ、順番に答えてあげる。最初は何時ね。そうあれは9月初めの頃、石神井公園で、最後が問題ね。実は悟道会の奴らによ。」
「いかん、最も重要なことを聞き忘れた。何故?」
「うーん、どうしようかな。そこが微妙なのよ。」
「おい、助けてくれた恩人にそれはないだろう。」
「分かった、話すわ。それは私が悟道会の秘密を握っているからなの。その秘密っていうのは、悟道会が或る少年を軟禁していること。逃げようとしても屈強な男達に見張られているから逃げようがない。」
「何故、何処に軟禁されている?」
「これ以上は言えないわ。」
さくらはきっぱりと拒絶した。石井も黙らざるを得ない。しかし引っかかることがあった。
「しかし、あの時、僕が警察に行こうと言ったけど、君はそれを止めた。もし、警察に行けばその少年の救出を訴えることが出来たはずだ。何故止めたんだ。」
さくらは下をむいてだんまりを決め込んでいる。清美が口を挟んだ。
「兎に角、複雑な事情がからみあっているの。私もさくらさんから事情を聞いたけど何とも言いようがないわ。事実は小説より奇なりって言うし。たまたま私はその少年の同級生で・・・」
清美が急に口をつぐんだのは、さくらが肘でつっついたからだ。石井の瞼が重く伸し掛かる。まあ、話は明日、ゆっくり聞き出せばよいと思った。
「よし、今日のところはもう寝よう。君らはそのベッドに寝なさい。」
そう言うと、石井はごそごそと寝袋にもぐり込んだ。視線を感じて振り返ると、清美とさくらがにやにやしながら石井を見ている。清美が言った。
「おじさん芋虫みたい。」
「はいはい、芋虫おじさんはもう寝ます。おやすみなさい。」
キャッキャという笑い声を聞きながら、石井は心の中で毒づいた。「冗談じゃねえよ。ホテルに泊まって、何で寝袋に寝なければならないんだ。それは俺のベッドだぞ。」などと思う間もなく石井は深い眠りに陥った。

第七章 逃避行

    (一)
 翌朝、目を覚ますと既に10時を少し過ぎていた。ベッドメイキングの時間である。未成年の少女を連れ込んだとなれば問題になる。慌てて飛び起き、ベッドを見ると一人分のふくらみしかない。そっとシーツをめくると清美が静かに寝息をたてている。頬を突っついた。
「おい、さくらはどうした。部屋にいないぞ。」
清美は、寝惚け眼をこすりながら今の状況を飲み込もうとしている。ようやく昨日からの記憶の回路が繋がったのか、息堰切って叫んだ。
「さくら、何処にいっちゃったの。まさかあの人たちに連れていかれたの。」
「まさか、この部屋には誰も入ってきていない。ということは自分から出て行ったってことだ。まてよ…」
石井は脱ぎ捨ててある上着のポケットを探って財布の中を検めた。案の定、一昨日銀行で下ろした10万円がない。3人で動けば人目につくとでも考えたのだろうか。
「どうやら、一人で出て行ったようだ。」
「一人で大丈夫かしら。」
「三人でいるより目立たない。そう思ったんだろう。」
こう言うと、清美は不安そうな表情のまま頷いた。微笑もうとするのだが、顔が歪んだだけだ。清美にもさくらの行動は納得できなかったのだろう。暫くして「覗かないで」と言い残し、バスルームに消えた。
ふと、車のことが気になり、携帯でレンターカー屋に電話をいれた。すると、昨夜路上に駐車してあった軽自動車に追突したと、大竹と名乗る女性から電話があって、弁済手続きについて石井と話したいと言付かったと言う。軽乗用車の借主の名前は明かしていないとのことだ。
石井は清美の母親だとピンときて、すぐさま聞いた電話番号をダイヤルした。
「もしもし、長瀬といいますが、大竹さん、お願いします。」
相手はすぐに出た。電話機の前で待っていたかのようだ。
「もしもし、大竹でございます。長瀬さんと仰るのね。昨夜はさぞ驚かれたことと思います。本当に心からお詫び申し上げます。行き過ぎのあったことは重々承知しておりますが、それもこれも娘を思う親心、どうかお怒りを納めて頂きとうぞんじます。誠に申し訳ございませんでした。」
「全く、ちょっと度を越していましたね。走行中に後ろからぶつかってくるなんて、一歩間違えれば大事故だった。清美さんに、相手は君の命を狙っているのかと聞いたくらいですから。」
息を呑む気配が感じられた。その様子から相手が清美の母親であることは間違いない。
「何ですって、車が接触したと聞いていましたが、わざとぶつけてきたとお仰るの。それ本当の話ですか。もし本当ならとんでもないことですわ。」
完全に頭に血が上っている様子で、その声は裏返っていた。ヒステリックな性格は隠せない。石井はにやりとし、きっぱりと答えた。
「勿論、意識的に突っ込んできましたよ。」
激しい息遣いが聞こえた。冷静さを取り戻そうと息を整えているようだ。ようやく落ち着くと、再び静かに語りかけてきた。
「長瀬さん、あの子は、何か勘違いしているのです。貴方に何を喋ったか存じませんが、兎に角、あの子はまだ17歳の子供でございます。母親が保護したいと言うのに、まさか反対はしませんよね。」
「ええ、まあ、母親の貴方がそう仰るのは当然のことです。」
いきなり携帯が取り上げられた。清美が携帯に怒鳴り声を上げる。
「お母さん、私はそこにいたくないの。悟道会なんて私は信じない。お母さんは騙されているのよ。それに、私はお母さんの持ち物じゃあない。私は私。兎に角、お父さんの所に戻るわ。」
 暫く母親のヒステリックな声が洩れ聞こえていた。それに対しあくまでも清美は拒絶しているが、静かになった。清美が途方に暮れたように石井を見詰めた。そして携帯を差し出す。どうやら石井を出せと言っているらしい。石井が携帯を耳に当てた。
「長瀬さん。清美は未成年ですよ。まさかホテルに連れ込んだなんて言うんじゃないでしょうね。もしそうなら、今から警察に電話します。よろしいですね。」
反応をみようと押し黙った。
「ちょっと待って下さい。」
ヒステリックな叫び声が響く。
「待てないわ。いいから直ぐにでも清美を引き渡しなさい。さもないと大変なことになるわよ。それでもいいの。一生、悔やむことになるのよ。今すぐ清美を解放しなさい。」
勝ち誇ったような有無を言わせぬ物言いに思わず、石井は熱くなった。
「冗談じゃねえ、この野郎。こっちはホテルの床に寝袋敷いて寝ているんだ。指一本触れてなんかいねえ。それに昨日は危うく殺されかけた。清美さんは、そんなことをする新興宗教団体から逃れたいと言う。警察に訴えるなら訴えてみろ。昨日は一歩間違えれば三人ともお陀仏だった。清美さんが訴えれば、そっちこそ殺人未遂だぞ。分っているのか。」
ぜいぜいという息遣いが聞こえる。うろたえているのだ。
「いいか、よく聞け。これから清美さんに児童相談所に電話させる。そっちの訴えが勝つか、こっちの訴えが勝つか、二つに一つだ。清美さんがこっちにいるんだ。どう見てもこっちに分がある。俺を淫行で訴えるというなら勝手に訴えろ。」
 石井は携帯を切った。右手の親指を立てて、清美が飛び上がった。
「おじさん、かっこいい、最高、歳の差、忘れて惚れちゃいそう。104で児童相談所を調べて、私、電話するわ。」
「いや、その必要はない。相手だって自分達が不利なことは分っている。それより問題は、この小さな町からどう抜け出すかだ。相手は大勢、こっちは面が割れた少女が一人いる。恐らくJRもバスも見張られている。」 
「どうしたらいいの。」
「何とかする。安心しろ。」
外で女達のけたたましい笑い声が聞こえた。パートの小母さん達が仕事に精をだしている。ドアを開けると向かいの部屋はベッドメイキングも済み、ドアは開け放たれていた。幸い彼女達は廊下の外れの部屋に入っている。清美を呼んで囁いた。
「俺は君の着る物を調達してくる。申し訳ないが、その間、向いの部屋のクローゼットにでも隠れていてくれ。この部屋のベッドメイキングが終わったら戻って内側から鍵を掛けるんだ。わかった?」
「うん、分かった。ねえ、私、お腹すいちゃった。お願い、何か食べるもの買ってきて。」
「ああ、たっぷり買いこんでくるよ。」
石井はカメラやがさばる寝袋を梱包して荷札を貼り付ける。そしてリュックを背負い、何食わぬ顔で部屋を出ると、エレベーターに向かった。

    (二)
 ロビーに下りると案の定、いかにも宗教オタクっぽい若い男がラウンジでコーヒーを飲みながら目を光らせている。素知らぬふりで外へ出た。背中に視線を感じるが、追ってはこないようだ。ふと肩の力が抜ける。いずれにせよ面は割れてはいないのだ。
 駅前に行き、辺りを見回した。やはり怪しげな男達が三人ほどいて、目配りしながらうろついている。その男達をすり抜けて、若者達がたむろする広場の一角にむかい、目星をつけた二人連れの少女に近付き声を掛けた。
「ちょっと良いアルバイトがあるんだけど、やってみる?」
「良いアルバイトって?」
二人は意味ありげに笑いながら目配せした。
「ちょっとの時間で一人一万だ。」
太目の少女が顔を歪めながら答えた。
「冗談じゃねえよ。二人いっぺんに相手にしたかったら、金、出し渋るんじゃねえよ。しみったれたこと言いやがって。」
もう一人は金髪を掻き揚げそっぽを向いた。この金髪の少女の体型はまさに清美のそれとぴったりと一致する。濃いアイシャドウに彩られた瞳には精一杯背伸びした幼さが見え隠れする。
「実はそっちの方じゃない。別のことを頼みたい。一人の少女がある宗教団体から追われている。その子をこっそり逃したい。少女はジャージのまま逃げた。だから着る物が必要だ。少女の身長、体重、スタイルは君と同じだ。君の名は。」
金髪がにっこりと微笑み答えた。
「梓よ。宗教団体って、森の近くにできた悟道会ね。」
「ああ。」
「あいつら、人を馬鹿にしたような目で見やがる。」
「宗教やっている奴は皆そうさ。心の中で自分が特別だと思っている。猫撫で声で寄ってくるのは、勧誘する時だけだ。」
「ふふ、本当にそう。で、私の体に合う服を調達すればいいのね。そして、もしかしたらその子を変身させる、でしょ?」
「梓、君は頭がいい。その通りだ。君たちの服装のセンス、髪の色、化粧も同じにしてほしい。そうそう靴も必要だ。」
太目が話を引き取る。
「いいわ、面白そう。たまには人助けもいいわね。それなら服装費とアルバイト料含めて10万円ってとこね。ねえ、頂戴。」
『安物を着ていやがるくせに、何が10万だ、この野郎』と心の内で毒づいたが、顔には出さずそれで手を打つことにした。
「よし交渉成立だ。おっと、銀行にいかないと一銭もない。ちょっと付き合ってくれ。」
歩き出すと、二人はのそのそと付いてくる。知り合いなのか、花壇に座った少女達が声を掛けてきた。
「どこにしけこむの。」
二人の少女はそれには答えず、ふんと鼻を鳴らしただけだ。
銀行で20万円下ろして、梓に10万円渡した。
「俺はこれから一仕事ある。君たちは用意ができたらホテルマロウド508号室に行ってくれ。ホテルのフロントには電話しておく。1時間で準備してくれ。少女にも君達が行くことを電話しておく。少女の名前は清美だ。そうそう、忘れていた。清美が腹をすかしている。食い物も頼む。」
そう言い置いて、石井はタクシー乗り場に急いだ。
「どちらまで?」
「この辺で、長距離トラックの溜まり場は?」
「朝日食堂ってのが、ここから2キロ先にありますが、そこまで行きますか?」
「ああたのむ。」
車が走り出す。ホテルに電話を入れた。
「もしもし、長瀬です。これから1時間ほどしたら少女二人が、僕の部屋に行きます。鍵を渡してください。えっ・・・。何を馬鹿なこと考えちゃって、そうじゃないって。僕の部屋の荷物をちょっと片付けてもらうんです。」
相手はなかなか信じてくれない。
「本当ですって、僕はこれこら一時間後に戻ります。フロントで清算したら、そのまま部屋には行かずに出発します。ええ、部屋には行きません。とにかく部屋にダンボールがあるはずですから、それを後で発送しておいてください。」

    (三)
小一時間ほどしてホテルに電話を入れた。
「清美さんか?」
「ええ。」
「変身した?」
「まるで自分じゃないみたい。」
「よし、それでいい。いいか、これからが勝負だ。俺はこれから1分後にフロントで清算をすませる。フロントには奴らの見張りがいる。俺はこいつを外に引っ張り出す。君たちは今から10分後にその部屋を出るんだ。そしてタクシーを拾え。」
「何処へ行けばいいの。」
「朝日食堂だ。タクシーの運ちゃんにそう言えば分かるはずだ。俺は後から行く。」
電話を切ると、ホテルに向かった。自動扉が開き、ちらりとラウンジに視線を向けた。男はコーヒー一杯でまだ粘っている。
「可愛い子達でしたよ。」
親しく口をきくようになったフロントがにやにやしながら軽口を飛ばす。
「そんなんじゃないって。」
などと言いながら清算をすませ、出口に向かう。あくまでも男を無視していた。自動扉が開いた瞬間、後ろに首を回し、男に向かって笑いかけた。男ががばっと立ち上がる。石井は走った。男は追ってくる。
 振り返ると、案の定、男は走りながら携帯に何かがなりたてている。仲間に連絡しているのだ。おっつけ、駅前の三人も追っ手に加わるだろう。いずれにせよサッカーで鍛えた脚がある。タクシーを待たせた場所まで一気に駆け抜けた。
 バックミラーで石井が走ってくるのを見たのだろう、タクシーのドアが開いた。飛び込むようにしてシートに乗り込み、後ろを振り返った。4人の男達は立ち止まり、地団太踏んでいるのがみえる。へたり込む者、両手を膝に当て、肩で息をしている者、相当疲労困憊している。
「へん、ざまみろ。」
と言ったつもりがぜいぜいとしか響かなかった。石井も息が上がっていた。
「お客さん、本当にこっちから回っていいんですね。」
息を整えつつ答えた。
「ああ、そうして下さい。こっちの行き先を気取られないように、遠回りすします。」
10分ほど迂回して朝日食堂に到着した。三人のど派手な少女がたむろする。石井はタクシーの清算を済ませると息を弾ませ駆け寄った。清美と思しき少女がにこにこして歩み寄る。
「さて、私は誰でしょう?ふふふ。」
濃すぎるアイシャドウがまるで狸を思わせた。
「清美か、これは驚いた。まるで別人だ。駅前で見張っていた奴らもこれじゃあ、清美だとは気付かなかったはずだ。」
後ろに控える二人の少女に声を掛けた。
「君たち本当にありがとう。助かった。」
少女達は嬉しそうに微笑み頷いている。汽笛のようなクラクションが聞こえ、振り返ると話を付けておいたトラックの運転手が既にエンジンを吹かして待機している。
「よし、清美。あのトラックで東京までひとっ走りだ。」
二人に別れを告げ、石井と清美はトラックへと向かった。清美は何度も振り返り手を振って、最後に叫んだ。
「家に着いたら必ずメールする。」

第八章 悪夢

第八章 最後の審判

    (一)
 時として訪れる静寂は、収束するかもしれないという淡い期待を何度も裏切り続け、人々の心に暗い予感を抱かせるに十分な不気味さを湛えていた。地の底から響いてくる地鳴りは日本列島全体を覆い、頻発する地震はそのつど人々を恐怖のどん底へと突き落とした。
 テレビでは24時間体制で緊急特番を組んでいるが、地震予知連絡会も大学の教授達も打ち続く地鳴りの原因を説明できない。人々は恐怖に震え、眠れぬ夜をすごし、ようやく朝を迎えた。政府も非常事態宣言を発し、人々はそれぞれの避難所で肩を寄せるようにうずくまっている。
 これは日本ばかりではない世界中、というよりヨーロッパ及び北米でも同じ様に地鳴りが頻発していたのである。避難所でテレビを囲う人々は、時折襲う地震が、映像がやや遅れるものの各国ほぼ同時であることに気付いていた。一人が呟いた。
「この世の終りかねえ。」
無精ひげを手で触りながらサラリーマン風の男が
「子供の前で変なこと言わないで下さい。」
とたしなめてみたものの、傍らで父を見上げる少女以上に不安げな目で周囲を見回した。押し黙る人々には、それぞれ心の許容度に応じた形で諦めの表情が浮かんでいる。無精ひげの男は少女の肩を引き寄せぎゅっと抱きしめた。
 2日目に入り地鳴りはほぼ連続して、大きいもの、小さいもの、それぞれがうねりのように共鳴して鳴り止む暇もない。人々の心は恐怖にうち震え、何時起こっても不思議のない大災害の不安で、誰もが発狂寸前の状態に陥っていた。
そして突然長い静寂が訪れたのだ。テレビのアナウンサーも沈黙した。あたりをきょろきょろ見回している。日本人が一斉に息を飲んだ。何かが起こる。或いは、収束を迎えたのか?人々の心に期待と不安が渦巻く。そしてその淡い期待は見事に裏切られたのだ。
 未だかつって誰も聞いたことのない、いや正確にいうなら耳で聞くというのではなく、体の芯を揺るがすような轟音が地の底から響いたのだ。一瞬にして避難所の床が1メートルもせり上がった。人々が宙に舞う。次の瞬間床は地面に叩きつけられた。と同時に壁も天井も粉砕され、雪崩をうって人々に降り注ぐ。再び床がせり上がる。また落ちる。そしてまた…。一瞬にして避難所は瓦礫の山と化した。
 都心のビルで原型を留めるのは稀で、ビルと言うビルが倒壊し、のっぽビルの殆どは途中から折れた。その中に閉じ込められた人々の悲鳴は聞こえてこない。破壊の凄まじい轟音、そして地鳴りにかき消されてしまったのだ。
 道路はあちこちで寸断され、道に沿って大きく口を開けた地割れに数十台の車が落ち込んでいる。一瞬の静寂の中に人々の助けを求める声や、呻き声が聞こえた。次の瞬間、ゴーという地鳴りと共にその口が閉じられた。
橋は倒壊し、或いは途中で折れ、何十台という車が橋の残骸と共に川面に叩きつけられ、水中へと没していった。周りのコンクリートの堤防もあちこちで寸断され、家々を、そして倒壊した家から逃げ出した人々を押し流した。
 この1分ほどの巨大地震で東京の街は壊滅した。あちこちで火の手が上がり、紅蓮の炎が天を焦がし、渦をなしている。生き残った人々は火を避け逃げ惑う。傷を負い血だらけの体、それでも生きようと必死で駆ける。しかし、彼らは突然立ち止まった。
 巨大な壁が迫っていた。それは海の壁だ。正に悪夢としか言いようがない。100メートルを超えると思われる津波が太平洋側から押し寄せていた。ある者は立ち尽くし、ある者はへなへなと崩れ落ちた。逃げようとする者はいない。無駄だと分かっていたからだ。
 津波は東京の街を飲み込んだ。全てを破壊しながら怒涛となって突き進む。人々は潰され、或いは流され、一瞬にして命は奪われた。さらにこの地獄の使者は川と言う川から容赦なく内陸深くに向かって遡っていったのだ。
 少年はこの地獄絵図を上空から見ていた。目を輝かせ、どこか恍惚とした表情をし、ずたずたに寸断される日本列島を眺めていた。小一時間ほどして津波が静かに引いてゆく。瓦礫を引きずりながら海へと戻ってゆく。しかし、その流れは途中で堰き止められた。
 新たな津波が来たのか?いや違う。海がゆっくりと日本列島を覆っているのだ。平野を埋め尽くし、緩やかな山並みは掻き消え、そして静寂が訪れる。かつての連峰の頂が島となって残された。日本列島の殆どが沈没したのである。
「これは夢なんかじゃない。現実に起きることなんだ。あと一月半後、必ず起こる。」
少年は夢の中で確信をこめてそう呟いた。

    (二)
「なに、DNA鑑定で一致したって。そいつは本当か、間違いないんだな。」
受話器に向かってがなりたてる田村警部に捜査本部の刑事達の視線が集中し、互いに目と目を合わせ頷きあった。ここ綾瀬警察署に置かれた捜査本部にひさびさの活気が漲ろうとしていた。
 女性の死体が発見されたのは、五反田のビルの工事現場だ。コンクリート打ちの直前、現場監督が掘り返された跡を認め、何かが埋められたと直感した。こうして死体発見に到るのだが、綾瀬警察署の捜査本部もまさか、この死体が自分達に関係してくるなど思いもしなかった。
 捜査本部は1年2ヶ月前に設置された。連続して三人の少女が暴行され殺されたのだ。その体に残された体液から同一犯と断定された。そして4人目の犠牲者が長いブランクを経て突然現れた。犯人は犯行を控えていたのか、或いは死体が発見されていなかっただけなのか?
 捜査員達は警部の指示に従いそれぞれに散った。綾瀬警察署の女性刑事、五十嵐昌美は警視庁捜査一課のベテラン、小林刑事とともに現場検証を行った品川警察署に赴くことになった。五十嵐はB5版のノートパソコンをカバンに押し込み、小林の後を追った。
 
 その日、五十嵐がアパートにたどり着いたのは夜の11時を少し過ぎた頃だ。昼間五反田の街を散々歩き回って体はくたくただ。つくづく今のアパートを移ってよかった思う。署からバスでうつらうつらして20分。これが有難かった。
 五十嵐はシャワーを浴びて一日の疲れを癒すと、ソファに凭れてコンビニで買った梅酒ソーダを口に運んだ。そして大きな溜息をつく。会議では捜査の進展に結びつくような情報は皆無であった。ましてこれまでの3件とはどこか異なる。
 殺された女性は16歳から20歳前後で、絞殺されていたことは以前と同様だが、全裸で、しかも歯は全てへし折られいたこと、また死体が巧妙に隠されていたことが前の3件とは異なる。果たして犯人は一人で死体を埋めたのだろうか。
 犯人は、深夜、或いは未明、車で遺体を運んだ。そして工事現場に穴を掘り、そして巧妙に地均しした。真っ暗闇では出来ない芸当だ。深夜であれば明りが漏れていた可能性があり、未明であれば立ち去った車が目撃されている可能性がある。
 五十嵐は、一日、周辺をしらみつぶしに聞き込みを行ったが、何の手掛かりも得られなかった。忽然と現れ、そして忽然と消えてしまった。そう、単独犯ではないような気がする。足跡さえ消しているのだ。
 田村警部の苦虫を噛み潰したような顔が浮かんだ。妻帯者のくせに自分に言い寄るずうずうしさに虫ずが走る。警部補への昇進試験にかこつけ何かと便宜を図ろうとするのだが、その見え透いた誘惑を匂わす言葉。
 確かに捜査に専念すればするほど試験勉強の時間などとれない。セクハラで訴えようかと悩んだこともあるが、それをすればいらぬ波風を立てることになる。組織にがんじがらめに縛られ、真綿で首を絞められる思いを感じて初めて父親の思いが理解できるようになった。そして石井のことも。
 何故あの時自分は石井の内面をもっと知ろうとしなかったのだろう。いや、石井が酒で自分を誤魔化そうとすることが許せなかった。その姿が父親のそれと重なった。五十嵐は物心ついた頃から父親を軽蔑していた。男は何事にも毅然としているべきだと思っていたのだ。
 ふと、手にしたグラスに視線を落とした。桃色の液体の中で細かな気泡がはじけている。最近、これなくしては眠れない。酒の飲めない体質なのに、やはり今の五十嵐の脳はアルコールを欲している。五十嵐はふと呟いた。
「ごめんね、真治。でも、いまさら遅いか・・」

    (三)
 その頃、石井は田園調布の瀟洒な住宅の前でタクシーから降り立った。清美はすでに門に駆け寄り、インターホンに声を張り上げている。
「パパ、清美、開けて、清美よ、帰って来たの。ねえパパ、開けて。」
既に12時近くだろう、あたりは森閑として物音ひとつしない。清美の何度目かの叫び声と同時に、玄関のドアが開いて男が飛び出てきた。「清美」とひとこと叫んで駆けてくる。
 男は門扉を開けると、清美を抱き寄せた。
「しばらくだったな、清美。元気にしていたか。えー、どうしたんだ、その顔は、格好は。まるで不良じゃないか、眉なんか剃っちゃって、で、母さんはどうした?一緒じゃないのか?」
「ママは置いてきた。私はパパと一緒にいる。」
感動の対面に置いてきぼり食ったような気分でいる石井に、男はふと視線を止めた。
「このひとは?」
「この人は、石井さん。私立探偵なの。詳しくは家の中で話す。石井さん中に入って。」
石井はどうするか迷っていた。このままマンションに帰りたい気もしたのだ。
「さあ、どうぞ。」
男の強い口調で石井の迷いが吹っ切れた。
 居間で、コーヒーを啜りながら、石井はこれまでの経緯を話した。そのたびに清美が合いの手を入れ、さくらにくすねられたり、二人の少女に払わされた金額に言及する。清美は石井に気を遣って、父親にそれなりの謝礼を払わせるつもりなのだ。
 父親の大竹良蔵は、年の頃、50代初めで、見るからに気の強そうな雰囲気を漂わせているが、どことなくやつれている。話を聞きながらしばしば清美に愛しそうな視線を走らせるが、その視線は時として虚空をさ迷い、不安そうな色を帯びる。
 しばらくして、清美は良蔵の膝で寝息を立て始めた。石井は良蔵の不安が、あのことに違いないと思った。帰りのトラックの中で、清美は悟道会の予言をぽつりぽつりと語った。石井はその話を聞いて思わず絶句した。それは三枝節子がもたらした予言とそっくりだったからだ。
 三枝の彼氏の予言は、恐らく悟道会の受け売りだろう。結局、三枝から地球的規模の災害が、何時、どんなふうに起こるか聞き出せなかったが、期せずして、清美からその概要を聞くことになった
清美の話によると、その地球的規模の大災害は、日時ははっきりしないが二月以内に確実に起こり、富良野は日本で最も安全な地域だというのである。
「もしかしたら、お嬢さんを、あちらに置いておきたかったんじゃありませんか?」
「えっ?」
「予言の話は、清美さんから聞きました。」
一瞬、押し黙ったが、ふーと吐息を漏らし答えた。
「馬鹿な親だとお思いなんでしょうね?」
「いえ、そんなことはありません。私も三つほど、その教祖の予言が当たったのを確認しています。例のイラン大地震には度肝を抜かれました。」
「そうですか。私は、この二年ほど彼の能力を目の辺りにしてきました。ですから教祖のいう日本沈没の予言も現実になるのではないかと思っています。」
「では、何故、東京に残ることにしたんです。」
ふっと笑顔をみせ、静かに口を開いた。
「教祖は、あの富良野のビルを聖書に書かれたノアの箱舟に位置づけています。大災害後、僅かに生き残った人間たちが、新たな大地で日本人の祖となるべく歩み出すというわけです。私が納得出来なかったのは、あそこにはお金持ちしか入れないということです。何千万円もの寄付をして漸くあそこの居住権を得るのです。どこか変じゃありませんか?」
「それでは大災害は一般信者には秘密にしているとでも?」
「秘密です。大災害が起こるという予言はしていますが、教祖は時期については口を鎖しています。限られた人々だけにそっと『貴方は神から選ばれた』と耳打ちして、ノアの箱舟造りの資金を集めました。そして私達も選ばれたという訳です。」
「つまり、潔しとしなかったというわけですね。或いは、予言がはずれるかもしれないと考えた?」
「そうした期待もあります。いずれにせよ、どちらに転んでも清美だけは助けたかった。しかし、清美は私といることを選んだ。清美のように、そんなこと起こるわけがないと言下に否定できればいいのですが。」
こう言うと、大竹は力なく笑った。石井も同感だった。
「それに・・・」
と、大竹が言って言葉を飲み込んだ。
「それに、何ですか?」
石井が促すと、
「どうせ信じてもらえません。」
「そんなことはない。何でも話して下さい。」
「実は、悟道会の信仰によって妻の癌が消えてしまったのです。これは真実起こったことなんです。」
「そんなことは、よくあることですよ。」
そっけなく答えた石井の反応に、大竹は怪訝な表情を浮かべた。
「お題目は唱えますか?」
「ええ、般若心経を唱えます。」
「なるほど。その般若心経を、声をだして朗々と唱え、それをエンドレスに繰り返すんじゃありませんか?」
「ええ、その通りです。」
「こうした奇跡の例は医学会でも精神医学会でもよく報告されていることです。特別なことではありません。」
「妻はそれで教祖の虜になってしまいました。」
「なるほど。でも、宗教を少しでもかじった人間なら、そうした奇跡が祈りによって時として起こることを知っています。お題目は、般若心境でも南無阿弥陀仏でも何でもよいのです。要は熱心に繰り返し唱えればいいのですから。」
「石井さんも宗教に入れ込んだことがおありなのですか。」
「いいえ、宗教に関する本を読んだだけです。」
「つまり、お題目を熱心に唱えていれば、奇跡だって起こり得るということですね。」
「ごく稀に、起こることもあるということです。ところで、大竹さん。エドガー・ケイシーはご存知ですか。」
「はい、教祖が何かの折に言及したことがあります。夢で難病に苦しむ人々にその処方を語ったとか。」
「ええ、彼は多くの難病患者を救いました。彼の知識の源は集合的無意識だと言われています。実は、この集合的無意識こそ、すべてを解く鍵なのです。」
「つまり、お題目を唱えて奇跡が起こったことと集合的無意識が関係しているというのですか?」
「つまりこうです。集合的無意識にアクセスするには無我の境地に到らなければなりません。エドガー・ケイシーは妻の導きでその境地に達しました。この無我の境地に至るには、瞑想、座禅もこれを可能にするのかもしれません。しかし、凡人がこの境地に達するには、お題目を必死に唱えるのが一番の早道なのです。それも集団で行うのが理想的です。」
「集団で?何故、集団で唱えるのが理想的なのです?」
「共鳴です。声が重なり共鳴します。実は集合的無意識は人々の想念波動の集合体なのです。従って、集団で読経すれば声が重なり共鳴しますが、これが、この集合的無意識の波動に幾ばくか近付くことになります。」
「エドガー・ケイシーはその集合的無意識から情報知識を得た。では妻はその集合的無意識から何を得て癌を消滅させてしまったのですか。」
石井は、言うか言うまいか迷った。しかし、誰にも口にしたことのない自ら構築した理論を披瀝したい衝動にかられた。しばしの沈黙の後、おもむろに口を開いた。
「実は、エドガー・ケイシーはこうも言っています。『顕在意識(自我意識)は外界からの印象を受けて、その想念の全てを潜在意識に移すが、これは顕在意識が滅びても残存するのである。』とね。」
「ど、どういうことです?」
「つまり、人は生きている間にその全ての想念を潜在意識に移しますが、その人が死んでもそれは存在し続ける。つまり、死んだ人の想念波動は集合的無意識に残されているということです。これはあくまでも僕の私見なのですが、所謂、霊界とは、この残された想念波動の集合体で、それが集合的無意識の中に存在すると考えています。」
「……」
「この霊界には、大竹さんの奥様が前世で功徳を施した人々がいたとします。奥さんの悲痛な叫びが霊界にいるその人々に届き、彼らの慈しみの波長と奥様の癌を治したいという波長がさらに共鳴し、奇跡が起こったとは考えられませんか?」
と言って、石井は「しまった」と思った。いきなり「霊界」などという胡散臭い言葉を吐いてしまった。まず、「輪廻転生」について十分に説明すべきだったのだ。論理の展開が性急過ぎた。案の定、大竹の顔に困惑の表情が浮かんでいる。笑いで誤魔化すことにした。
「はっはっはっは、ちょっと奇抜過ぎますよね、これって、はっはっはっはっは。まあ、そんな考え方もあるっていうことで。いや、はや。そろそろお暇しなくては。清美さんは良く寝ていらっしゃる。僕が宜しく言っていたと伝えて下さい。」
冷や汗を拭いながらソファーから立ち上がる石井に、困惑顔のまま大竹が問いかけた。
「連絡先を教えて下さい。このまま帰したら清美に叱られてしまいます。お名刺があればそれを頂けませんか。」
石井は名刺入れを取り出し、大竹に一枚を渡した。大竹がそれをじっと見詰めて、
「すいません、長瀬とありますが。」
と名刺を差し出す。慌ててインチキな名刺の方を渡してしまったようだ。かなり動揺している。石井は探偵事務所の名刺と取り替えた。
 そそくさと大竹家を辞したが、石井の動揺は、今日はじめて他人に口にした理論が到底人々の共感を得られるほどに達していないと感じていたからだ。霊界が集合的無意識の中に存在するなど、一般の人にはあまりに唐突過ぎる。
 まして、輪廻転生を前提にして、いきなり前世やら霊界やらと言われたら誰しも戸惑うであろう。石井はタクシーを拾い家路についた。タクシーの中で深いため息をつき、調子に乗りすぎた自分を恥じた。

    (四)
 石井は悟道会が般若心経を唱えていると聞いて不思議なめぐり合わせを感じた。何故なら、般若心経の「色即是空、空即是色」という言葉の「空」こそ、石井が今抱える難問を解く鍵だと思っていたからだ。ここで言う「空」とは、そのものずばり「空っぽ」のこと、そして「色」とは「形のあるもの」を意味する。
 この「色即是空、空即是色」を説明するとこうなる。我々の体は分子によって、またその分子は原子によって構成される。その原子は、原子核、それを中心として回る電子、そして両者の間を占める空間により成り立つ。しかし、我々の身体の物質としての実体(原子核と電子)を集めると、小指の先ほどの大きさにもならない。つまり、この体の殆どが空間ということになる。まさに色即是空(形あるもの、即ちこれ空なり)である。
 次にこの原子は更に微小な素粒子によって構成されるのだが、現代物理学はこの素粒子が空から突然存在するようになること、そして空が無限のエネルギーの宝庫であることを発見してしまったのである。つまりこれが空即是色(空、即ちこれ形あるもの)となる。
 さて、石井が今抱える問題であるが、それは、神の存在をどう証明するかということである。霊界の存在及び輪廻転生の仮説はエドガー・ケイシーの「地上界で生涯を終えるいかなる霊魂もこの世界(集合的無意識)に魂の想念波動を残す。」「再び地上に受肉する時にはこの同じ想念波動を帯びることになる。」という言葉を参考にすればよい。
 問題は、ケイシーが熱心なキリスト教徒(輪廻転生はキリスト教の教えに反するのだが)であり、これらの言葉はキリスト教の神の存在を前提にして語っているのである。従って、無宗教の石井としてはキリスト教とは関係なく、論理的に神の存在を明らかにしたいと考えている。これが石井の抱える難問である。
 この難問を解く鍵は、やはり空なのではないか?我々の体を構成する原子も電子も波動であり、集合的無意識も波動の集まりである。これらは、空に包まれ空に内蔵されている。「無限のエネルギーを秘める」空も何やら怪しい。空が何らかの形で神と繋がっているのではないかと思えてならないのである。

第九章 悟道会教祖

    (一)
 カタカタとせわしげにキーボードを叩く音が響く。目の前にはうずたかく資料が積まれ、その陰に隠れて磯田が何やら蠢いている様子だ。しばらくして、メール受信のメッセージが届いた。磯田からだ。そこには、こうある。
「おい、奴等の様子がおかしい。あのビル全体がどよめいている。何かが起こった。これは間違いない。これについて情報は?それと、あいつら信者の間に妙な噂が広がっている。この日本に近々大災害が起こると言う。これについて、何か聞いていないか?」
石井は立ち上がって磯田に話しかけた。
「磯田さん。もう、止めにしませんか。お互い、あの日のことは忘れましょうよ。ちょっとコヒーでも飲みにゆきませんか?今の質問に対する情報は盛りだくさんです。」
 磯田が山積みされた資料の山からぬっと顔をのぞかせた。その目に猜疑の色を浮かべている。龍二がにこっとして二人に割って入った。
「そうだ。何があったか知らんが、コーヒー一杯で片がつくのなら、時間など気にせず行ってこい。おい、磯田、すぐにでも行け。」
二人が連れ立って事務所を出ると、龍二と佐々木はほっと胸を撫で下ろし頷きあった。それほど石井と磯田の冷たい戦争は二人にとって心の負担となっていたのだ。
 近所の喫茶店に入りコーヒーを注文した。ウエイトレスが去ると、石井が聞いた。
「あのビルで何が起こっているのです?」
「よく分からんが、四日前、教祖の杉田が戻った。残念ながらあんたの初恋の人は一緒じゃない。」
石井がむっとして黙っていると、磯田が続けた。
「兎に角、普通ではない。あのビルから何人もの若い男が何処に行くのか飛び出して行った。そのうちの何人かをつけてみたが、あの様子だと、どうやら誰かを探しているらしい。誰を探しているのかは分からない。」
石井は凡その筋書が読めた。何も隠すつもりはない。真実を語ろうと思った。
「実は、あのビルに一人の少年が軟禁されていました。恐らくその少年があのビルから逃げだしたのでしょう。富良野で出会った少女が少年を救い出すと言ってましたから、多分それが成功したんだと思います。」
その経緯を、石井は正直に話した。磯田は石井の語る一言一言を脳の襞に刻み込むかのように聞き耳をたてていた。石井が語り終えると、
「それと、石井さん、予言の話はお聞きになりませんでした?」
と、妙に丁寧な口調で聞き、探るような目つきでじっと見詰める。深い溜息とともに石井は、三枝節子のことはふせたが、耳にした全ての予言、フィリピン航空やイラン大地震、そして日本を襲う未曾有の大災害についても語った。生唾を飲み込む音が何度か聞かれた。磯田はその日一日そわそわと過ごしていたが、翌日姿を消した。
 それでも、試験で休んでいた大学の空手部の後輩二人を駆り出すという手際をみせ、その一人の山口が「磯田さんは、しばらく放浪の旅に出るそうですよ。」といって翌朝事務所に現れた時、石井の顔に思わず苦笑いが浮かんだ。富良野に逃げたのだ。その日以来、磯田の携帯は留守電になった。

    (二)
 片桐の拳が若者の顎に炸裂し、若者の体がその場に崩れ落ちた。血の滲んだ唇を歪ませ片桐を恨めしげに見上げた。そこは白い壁に囲まれ、何台ものテレビモニターとコンピューター機器が並ぶ10坪ほどの事務所である。どすのきいた唸り声が響く。
「なんだ、その面は。俺に逆らおうっていうのか。えっ、おい、どうなんだ、重雄。」
重雄は視線を落とし、押し黙っている。その腰を片桐が蹴り上げた。重雄は這いつくばり壁側に逃れた。
「この新聞記事を見ろ。五反田で発見された女性の遺体は連続殺人魔の犠牲者ときた。死体は発見されるわ、小僧に逃げられるわ、いったいテメエ等は何をやっていたんだ。おい、四宮、樋口。」
直立不動で立ちすくむ二人の男達の脚は震えている。
「二人がついていながら何だこのていたらくは。」
四宮がごくりと唾を飲み込むと答えた。
「まさか死体が発見されるとは思ってもいませんでした。それほどきっちりと地均しをしておいたんです。本当です、樋口も俺もそれこそ真剣にやりました。」
「馬鹿野郎。それでも発見されたんだ。まだ十分じゃなかたってことだ。いいか、言い訳はたくさんだ。小僧のことだってそうだ。厳重に見張っていればこんなことにはならなかった。気が緩んでいた証拠だ。」
コツコツコツと靴音を響かせ、片桐は部屋を横断して壁際にある覗き窓の蓋を開けた。眼下には100畳敷きの道場で瞑想する信者が列をなしている。中には憑き物にでも憑かれたかのように全身を痙攣させている者もいる。
片桐はふんと鼻でせせら笑い、振り返って言った。
「今、何人動いている。」
「親衛隊員が全員ですから32名です。」
「よし、口の固い出家信者をもう30人ほど動員しろ。それから、女の写真はかまわんが、小僧の写真は見せるだけだ。頭に記憶させろ。いいか、分かったか。」
三人の男達がそそくさと部屋から出て行った。その時、電話のベルが響いた。
「はい、片桐です。」
「こっちに来てくれ。」
悟道会教祖、杉田啓次郎のお呼びである。
 重厚なドアを開けて部屋に入ると、正面には大統領執務室にあるような豪華な机、その前に牛革製のゆったりとしたソファーが置かれている。杉田は例の手紙を片手にかざし、葉巻の煙に顔をしかめソファに腰掛けていた。
 近付いてゆき、その横に立つと、目顔で前の席に座れと言う。片桐はゆっくりとソファーに腰を落とし、教祖を見詰めた。かつての脂ぎって精気に満ちた顔が、今は見る影もなく干からび、不安と焦燥にかられる小心な男のそれがあった。手に握る手紙が小刻みに震えている。
「何度も聞くが、この手紙を読んだのはお前一人なんだな。」
「そうです。いや、うーん、こっちに戻ってすぐに重雄と二人で檻に入りましたが、最初に手紙を発見したのは重雄です。しかし、重雄が手紙を手に持って読んでいたのは数秒です。すぐに奪い取りましたから。少なくとも後半のあの部分は読んでいないと思います。」
「さて、それはどうかな。もしかしたら読んでいるかもしれん。それとなく重雄を見張れ。とにかく、問題はその後半の部分だ。」
「全く頭が混乱するばかりです。」
「今、人を動員して満を探している。もし、満を発見したらどうしたらいい?」
「そのことが問題です。もし拘束したりすれば、だんまりを決め込むでしょう。」
「つまり、満が手紙に書いた筋書きを反故にするということか?だが、それでは満も座して死を待つばかりだ。」
「私は彼を良く知っています。彼の狂気は死の恐怖にもまさります。彼は絶望の淵をさ迷っています。まして我々は……」
と言って片桐は口をつぐんだ。
「はっきり言っていい。我々は満をここに置き去りにした。満は心の底では私を許していないと言いたいのだろう。分かっている。」
「はい、彼を拘束するのは愚の骨頂です。彼の思い通りやらせましょう。ですから、見つけたら、見張ります。そして守るのです。」
「どういう意味だ?」
「つまり、警察から守るという意味です。警察に逮捕されれば、彼は来るべき日にここに戻って来られなくなります。だから警察から守るのです。」
「そうだな、それしかないかもしれない。よし、それでいい。こうなったら、なんとしてでも、満を警察の手から守りぬけ。いいな、片桐。」
片桐が部屋を去ると、杉田は深いため息を吐き、両手で顔を覆った。何もかもちぐはぐだった。富良野に落ち着き、これで満と縁が切れると思ってほっとしていた。満といると心がかき乱され、一時として心安らぐことはなかったのだ。
あれは、満が中学生になったばかりの頃のことだ。 猫を惨殺する光景を目撃したのだ。思い出すだけで身の毛がよだつ。血だらけの猫は恐怖と怒りに毛を逆立て、必死に抵抗するが、鎖に繋がれているため身動きできず、その体は満のナイフで切り刻まれていった。
満をこのビルに置き去りにしたことに何の後悔もなかった。来るべき時を、息を殺してじっと待っていた。そんな時、樋口から緊急の連絡が入ったのだ。満が逃げ出したという。だから片桐を帰した。
 しかし、片桐はここで満の残した手紙を発見した。その手紙に書かれていたことは、まさに衝撃的だった。それは、天変地異の起こる時期と安全な場所の情報がまったく出鱈目だったということだ。いや時期については幅をもたせてあるだけだが、富良野は、少しも安全な場所ではなかったのだ。何ということだ。「くそっ」と呻き、机を思い切り叩いた。コーヒーカップが音をたてた。
富良野のビルに湯水のように投じた莫大な金と最新の科学技術が一瞬で瓦礫の山になるということだ。しかし、考えてみれば、それも生きていてこそ価値がある。死んでしまっては元も子もない。
満は杉田や片桐が自分を捨てて富良野に逃げたことを知っていた。それでも許しくれた。しかも、今度こそ確実に安全な場所に案内するというのだ。満とは一蓮托生なのかもしれない。こうなるよう運命付けられていたのだ。

    (三) 
 こうした偶然もあるのかと驚き呆れながらも、石井は迷った。ターゲットである不倫カップルは高円寺駅を出て雑踏に紛れようとしている。一瞬、龍二の苦虫を噛み潰した顔が浮かぶ。しかし、石井はこの偶然に引き寄せられた自らの運命に心惹かれた。
 カップルとは逆方向に歩む坂口さくらを発見したのだ。石井の財布から10万円をくすね、ホテルから消えた少女だ。少女は監禁された少年を救い出したらしい。石井は不倫カップルの尾行を諦め、踵を返しさくらの後を追った。
 さくらは、行き交う人々をきびきびと避けながら歩いてゆく。買い物袋が重いらしく肩を大きく傾けている。石井は顔を知られているが、つけるには楽な相手だ。さくらに警戒心はない。
 しかし、石井は、自分以外に、さくらをつける二人連れの若い男達がいようなど思いもしなかった。二人の男達は距離を置いてつけていたのだが、後続の一人がさくらの後を追う石井の存在に気付いた。そして男は石井の後ろにぴったりと張り付いた。
 さくらは10分ほど歩いて木造の二階建てアパートの一室に消えた。石井は正面に出て灯かりのついた部屋を見上げた。さくらが入り口のドアを開けた時、部屋から灯かりが漏れていた。誰かが部屋にいたことになる。あの少年がいるのだろう。
 石井は後悔していた。さくらや少年の居所が分かったとして、それが何になるのかということである。悟道会にとって少年がどんな存在だったのか、また悟道会が少年を監禁したという事実が何を意味するのかも全く分からないからだ。
 だとしたらビジネス対象である不倫カップルの写真を撮ることの方が今の自分には重要な仕事だったのではなかったか。予言のことなど忘れようとしながらやはり予言に関わることを優先させてしまった。苦笑いして呟いた。
「今の俺には関わりのないことだ。」
石井は歩き出した。深いため息をつき、そして母に語りかける。
「母さん、本当に予言は当たるの。この日本で、生き残れるのが稀だという大災害が本当に起こるの?どんなの?」
深い紺色の夜空は星星が煌き、魂が吸い込まれてしまうような深深とした天の海が広がっている。その彼方に母親の面影を求めた。ふと、母親が死ぬ前に語った言葉を思い出した。
「死後の世界は本当にあるのよ。私の方が先にあの世に行くから、そこから真治のことをずっと見守ってあげる。」
今も見守ってくれているなら、予言の真実を知らせてくれてもよさそうなのだが、秘密の門はぴったりと閉ざされたままだ。いったい何時それが起こるのか、それが問題だった。そういえば、ふと、母が霊とやりとりする姿を思い出した。
その時、確かに母は霊の姿を見ていた。小学生5年のある日、家に帰ると、母がソファに座り、目を閉じて誰かと話している。部屋には誰もいない。
「そうなの、自殺したの。神様はそれを一番嫌うのよ…。でも大丈夫。一生懸命祈りなさい。祈りによってその袋小路にも道が開けるはずよ。うーん、祈りの言葉は、何でもいいの。ようは自分の非を認め神様に許し請う必死な気持があればいいのよ。きっと道が開けるわ。うん…うん…」
目を見張って母親を見ていた。しばらくして、話が終わったらしく、目を開け石井に視線を向けた。石井は今日こそ聞いてみようと心に決め、待ち構えていた。
「お母さんは幽霊が見えるの。」
「ええ、見えるわ。」
「怖くない。」
「怖くなんかないの。だって幽霊だって人間と殆ど変わりないもの。」
「でも、幽霊は人に取り憑いて悪さをするって本で読んだことあるよ。」
「そうね、そういうこともあるかもしれない。でも心のしっかりした人には霊は取り憑けないの。」
「何で?」
「悪い霊は、悪い思いを抱いている人に乗り移るの。だから悪い思いを抱いていない真治には乗移れないわ。だから人を憎んだり、恨みを抱いたりしてはいけないのよ、分かった。」
 確かに母はあの世のことを知っていた。でもこうも言っていたのである。
「あの世は、あの世の人しか分からない。でも、あの世の人も本当のところは何も知らないの。詳しく聞けば聞くほど、困ったような顔をして曖昧に笑うだけ。まして生きている人間には知りようがないのよ。」
 しかし、その後、石井はあの世を実際に見てきたように語った人物のことを知った。大学時代、石井は彼の著作に夢中になった。彼の残した膨大な著作は、この日本において数多く邦訳され、その真価を問われ続けている。
 彼の名は、エマヌエル・スエデンボルグ。彼は終生政治家として過ごしたが、科学者としても様々な分野において先駆的な業績を残した。しかし、彼の人類に対する最大の貢献は、あらゆる分野の先駆的人々、例えば宗教家、思想家、科学者、小説家等に多大なインスピレーションを与えたことである。
 科学者としての彼は当時でも高く評価されていたが、現在に到って18世紀最高の科学者として再評価されている。それは図書館に奥深く眠っていた彼の著作が現代語訳され、彼の研究が当時の科学レベルを遥かに超えていたことが今日の科学者達を驚かせたからである。残念ながら、当時、彼の研究を引き継ぐ者はいなかったのである。
 しかし、彼の「人類に対する最大の貢献」は、奇妙なことなのだが、彼の残した霊界に関する膨大な著作によって為されるのである。彼は56歳にして、生きながらにして死後の世界を探訪する能力を得て霊の世界の様子を語り始める。そして死後の世界を科学者の冷静な視線で観察し続け、緻密で整合性をもった霊界を描いた。
 実は、スエデンボルグの語った霊界はユングの集合的無意識に繋がるのである。石井は霊界がユングの言う集合的無意識の中に存在すると考えた。そしてある時、そう考えたのは石井だけではなく、ユング自身もそう考えていた節があることに気付いたのである。
 実は、カール・G・ユングは、医学生の頃からスエデンボルグの著作を読みふけり、彼に心酔していたのだ。そして彼はその著作の中ではっきりと「集合的無意識は、」「心霊的内容」を含むと明言しているのである。
 ユングは明らかにスエデンボルグの語る「霊界」から「集合的無意識」のインスピレーションを得ており、石井と同じようにスエデンボルが語った「霊界」が集合的無意識という大海に存在すると考えていたと考えられるのである。
 そう、大河の一滴が戻るべき『母なる海』とはこの集合的無意識なのだ。人は長い旅路を終え、この無限の大海に身をゆだねる。多くの縁のある者たちに囲まれ、静かな穏やかな日々を送る。
いや地獄界ではそうもいかないかもしれない。罵りあい、憎しみあい、傷つけあう日々なのだろう。そしてある日、宿縁によって結ばれた人々が、天界から或いは地獄界から、新たな魂の修行の旅に出る。「オギャア」と産声をあげるのだ。
石井はこの考えを誰にも話してはいない。いや大竹にその一端を話した。大竹の反応は芳しくなかったが、それはそれで致し方ない。誰も見たことのない霊界の話など、まともに聞く気にはならないだろう。
ああでもないこうでもないと熟考する石井は、若者が後をつけているのに全く気付いていない。若者はさくらの後をつけていた二人の内の一人で、石井が何者なのかを探ろうとしている。思考を重ねる石井は大災害のことはすっかり忘れていた。
 

第十章 神と霊

    (一)
「いったい磯田の野郎、何処をうろついているんだろう。7年前、ここにたどり着く前は中国にいたらしい。いい年こいて、何を考えているのやら。」
龍二がお茶おすすりながら言った。石井は3件のレポートを仕上げるため徹夜した。朝方、龍二の自宅でシャワーを借り、朝食をご馳走になった。事務所では、いつものように龍二がお茶を入れ、そういえば、と磯田のことを思い出したのだ。
磯田は石井から大災害の予言を聞いて姿を消した。富良野に逃れたのは確かだ。苦笑いしながら石井が答えた。
「本当に変わった人ですよね。」
「ああ、全く。大学時代、鎖に繋がれた犬と鼻をつき合わせて唸りあいしている磯田に遭遇した。何やっているんだと聞いたら、胆力をつけているんですと言う。犬と鼻を突き合わせて唸りあって胆力がつくと思うか?」
「さあ、分かりません。彼には彼の考えがあったんでしょう。」
「そんなものあるもんか。あいつはいつでも思い違いをしながら生きている。確かに探偵としては一流だ。だが、人間としてはどこか欠陥がある。」
ドアががばっと開いて、佐々木が大声を張り上げた。
「おはようございます。あら、真治さん、今日は随分お早いご出勤ですね。ご苦労さまです。」
「よく言うよ。3件とも昨日じゅうに仕上げてくれっていったじゃないですか。だからしかたなく徹夜したんですよ。」
「あらそうでしたかしら。」
などとすっとぼけて視線をテレビに向けて言う。
「あらまた強姦殺人ですって、全くこの頃こんな事件ばっかり。」
石井は何気なくテレビを見た。ニュースキャスターが語る。
「被害者は坂口さくらさん21歳。昨夜12時頃、短い悲鳴を聞きつけ、外に出た隣の住人が階段を駆け下りてゆく二十歳前後の男性の後姿を目撃しており、警察はこの男性の行方を追っています。」
石井の視線はテレビに映し出された坂口さくらの写真に釘付けになった。まさしくあの黒いジーンズのジャケットを羽織っているさくらの写真なのだ。驚愕で息が詰まりそうになる。
「僕はこの少女を知っている。つい最近会ったばかりだ。」
佐々木が着替え室のカーテンから首だけ出して言った。
「このあいだもそんなこと言って騒いだけど、結局何にもなかったじゃない。」
「冗談じゃない。僕が富良野に行ったのも、磯田さんが放浪の旅に出たのもみんなあの事件と関係しているんだ。」
「おい、真治それはどういう意味だ。」
石井は迷った。大災害の情報は二人にも知らせておくべきかもしれない。などともっともらしく考えたが、その実、心の不安を一人で抱え切れなかったのである。
「それじゃあ、僕が体験した不思議な話をお二人にします。佐々木さん、着替えるまで待ってますから。」
カーテンの奥から「はーい」という間延びした声が聞こえた。
 二人が揃って前に座ると、石井は話しはじめた。三枝のことも予言のことも全て正直に話した。二人はじっと耳を傾けている。話しおえると、石井はおもむろに茶碗を取り上げ冷えたお茶を啜って、二人の反応を窺った。最初に応えたのは龍二だ。
「それで磯田は東京を離れ富良野に向かったのか。奴らしい。しかし、そんな兆候はどこにもない。」
「そんな兆候とは。」
石井が聞くと
「つまりそんな大災害が起こるのなら、動物がまず察知する。彼らはそうした本能が、我々みたいに退化していないから、敏感に反応する。反応すれば何処か安全な場所に避難しようとするだろう。鎖に繋がれた犬は半狂乱になって吠えまくるはずだ。」
と答え、それに佐々木が応じた。
「そうよ、それに女は男と違って本能をすっかり退化させてはいないわ。こういう私も実は感が鋭いの。もしこの二月の間にそんなことが起こるとすれば、何かしら胸にざわついたものがせり上がってくるはずよ。そんな兆候全くないもの。」
石井はおやっと思った。予言の話のインパクトが弱かったのか、ふと語った内容を振り返った。二度目だし、磯田に語った時より真に迫っていた。しかし二人の反応は磯田に比べて鈍すぎる。不思議に思っていると、龍二がおもむろに口を開いた。
「なあ、真治。まさか真治もそんな大災害が起こると信じているんじゃないだろうな。あのノストラダムスの大予言を信じて人生を狂わせた人も相当いるっていう話だ。真治がその手の話に乗るとは思わなかったな。」
佐々木がまるで合いの手を入れるように話を引き取った。
「まったく、その悟道会にうん千万円の金をつぎ込んで、世間を置き去りにした人達は、どの面下げて世間に戻ってくるのか見ものだわ。」
石井はあっけにとられた。こうゆう冷静沈着な人達もいるのだという驚きだった。龍二がにやにやしている。佐々木も同じだ。二人は見合わせ微笑んだ。
「実はな、真治。俺と女房とこの佐々木さんの三人は体験者なんだ。予言という世迷言に振り回された体験者ってことだ。俺がまともな職業につかなかったのもノストラダムスの予言を半分信じていたからだし、女房と一緒になったのも、長野で開かれた日本のある預言者の会で一緒になったからなんだ。行きも帰りも同じ電車だった。」
「げっ、それって本当ですか。」
佐々木が答える。
「本当よ。私もその会に出席したわ。もっとも三人ともその会の集会に参加したのは、大災害が予言された日の二週間前、その時が最初で最後。でもあの時は驚いたわね。その預言者、一人一人の悩みを、顔を見ただけで言い当てて、こうしなさい、ああしなさいってなんて助言するんだもの。」
「そうそう、あの付近の何とか岳とかいう岩山が崩れて、女性ロッククライマーが転落死するという予言が二日後に実際に起こって、新聞記事に載った。本当に驚いたよ。」
石井が息せき切って聞いた。
「でも、その大災害の予言は当たらなかったわけですね。」
「ああ、当たらなかった。でもその不安たるやなまじっかなものじゃなかった。だからといって逃げる訳にもいかず、そのXデイも会社でひやひやしながらその時を待った。しかし、何ごともなく通り過ぎたんだ。その預言者だって何度も未来を予言して的中させていたんだ。だけどその予言だけは外れた。本当に不思議だった。」
「本当ね。結局、未来は神の領域だから人間や霊が関わってはいけないのよ。」
石井は佐々木の言葉に、一瞬息を呑み、目を丸くして訊ねた。
「佐々木さんの今の言葉、予言は神の領域だっていうのはどういう意味ですか。」
「どういうってこともないけど、その預言者はある霊から未来を見せられていたの。でも、本当の未来は神のみぞ知るってことよ。あの日、その人が私達に言った言葉はこうよ。皆さんは私も含めて神に試されてるってね。つまり神は霊の上にいるってことよ。」
龍二が合いの手をいれた。
「そうだ、あの人はこうも言っていた。その時、つまり大災害の時、何をするか、人のために何をしてやれるかでその人間の価値が決まるってね。神はそれを見ているって。あの人は神が宇宙そのものだと言っていたが、本当にその通りだと思う。」
「神が宇宙……?」
「うん、そう、神イコール宇宙。」
「宇宙を創造した神が、宇宙そのもの?うーん、分かったような分からないような。でも、それを聞いて僕もすこし気が楽になりました。僕らは神に抱かれているって訳ですよね。よし、死ぬ時はご一緒しましょうか。」
佐々木がちゃちゃを入れた。
「真治さんの側で死ねるなら本望よ。」
「あれ、俺より真治のほうがいいってわけか。」
ガハハハハという佐々木の笑い声で、真治の心に重く立ち込めていた暗雲がすっかりと消えてしまった。龍二が真顔に戻った。
「おい、予言の話はこれくらいにして、その坂口さくらと一緒にいたかもしれないという少年の情報を警察に知らせなくては。」
「そうですね、榊原警部補に電話してみます。」
石井は携帯をとりだし、その場でかけた。何度目かの呼び出し音の後、
「はーい、榊原です。どうした石井、何かあったか。」
と間延びした声が響いた。
「今、よろしいですか。」
「ああ、かまわん。一人で一杯の個室にいる。」
トイレだとすぐに分かったが、それまでの三人の和んだ雰囲気が口を軽くしていた。
「えっ、個室ビデオですか、榊原さんも歳の割りに好きですね。」
「馬鹿野郎、俺がそんな辛気臭い所になぞ行くか。」
その前を通る度にちらりと看板を盗み見ている榊原が怒鳴った。

    (二)
 書類を仕上げようとするのだが、五十嵐昌美は先ほどから何度も同じミスを繰り返していた。そわそわと心が落ち着かす、胸の動悸が耳にまで響いてきそうだった。「あの人に会える。」その思いは自分でも信じられないほどの動揺をもたらした。
 先ほどの電話が脳裏に繰り返し甦ってくる。警視庁の捜査一課で同じ釜の飯を食った榊原警部補からの電話だった。
「おお、マドンナか、どうだ元気にやってるか。おいおい、なんて悠長なこと言ってる場合じゃないんだ。大変な情報提供者がそっちの捜査本部に向かっている。そいつから話を聞いてくれ。そいつの名前は石井真治。元池袋署の刑事だ。今は、探偵をやっている。」
「……」
「高円寺のアパートで殺された坂口さくらも連続暴行魔にやられたって聞いた。そうだろう?」
「……、は、はい。」
「坂口さくらのアパートから出てきたのが二十歳前後の男ということだったが、石井が言うには17歳の少年で悟道会に関係しているらしい。その少年は悟道会に監禁されていたとも言っている。まあ、とにかく石井がそっちに行くから、頼んだぞ。」
「は、はい、分かりました。」
受話器を置いてからもしばらくぼんやりとしていた。そしてようやく自分の役割に思い当たった。指揮をとる田村警部のもとへ報告に走った。
 五十嵐の動揺は石井に会えるということだけではなかった。悟道会という言葉が頭の中でこだましていた。小林刑事とコンビを組んで追い詰めた、悟道会教祖、杉田啓次郎の長男、杉田満、当時15歳。
 殺害された二人の少女の交友関係から浮かび上がってきた容疑者だったが、上からの圧力に屈した田村警部の横槍でなかなか核心に迫れなかった。恐らく杉田教祖が子飼いの安東代議士を通じて金をばらまいたのだ。
 手をこまねいているうちに、教祖一家のクルーザーが八丈島に行く途中転覆し、満一人行方不明となってしまった。何か作為があるのではないかと小林刑事と葬式に出かけたが、母親の悲しみようは芝居とも思えず、二人、重い足取りで帰路についたのだった。
 しかし、つい最近にになって、捜査本部の空気はがらりと変わったのだ。何故なら先週の日曜日、渋谷で杉田満を見かけたという人間が現れたからだ。かつて五十嵐が情報を得ようと接触した満の遊び仲間の証言である。彼は渋谷の雑踏で満を見かけ呼び止めた。すると満は逃げるようにその場を去ったというのだ。
 死んだはずの人間が生きていた。その人間はかつて捜査線上に浮かび上がったことがある。とすれば、父親である杉田啓次郎が息子の事故死を装ったという疑いが生じる。刑事達が杉田宅と悟道会ビルを訪ねたが、夫婦共々姿を消していたのだ。
 そして、満と思しき人物が坂口さくらのアパートにいたという証言者が、あの石井真治なのだ。この偶然はいったい何なのだろう。自分の熱意が石井に乗移ったとでもいうのだろうか。
 五十嵐は、肩肘を張っていたあの頃の自分を思い出し、思わず赤面した。本庁の刑事に抜擢されたのが自分の実力だと思い込んでいた。しかし、今にして思えば当時の捜査四課長、失脚した駒田課長の単なる思い付き人事でしかなかったのだ。
 出世を気にする駒田課長は田村警部ほど露骨な態度はとらなかったが、彼の視線には卑猥な色が見え隠れしていた。結局、自分は思い上がっていた。それに石井がまさかあんなにもあっさりと自分の元を去るとは思ってもいなかったのだ。
「どうして、どうして、別れなければならないの。」
五十嵐の必死の抗議に、石井は酒に酔って呂律が回らず、訳の分からないことを呟くばかりだ。受話器を通してあの厭な臭いを嗅いだような気がした。それは父親の臭いだ。酒に酔って自分を誤魔化す。やはり刑事だった父を一瞬思い出した。
「いいわ、それなら、別れてあげる。貴方がそれを望むのなら、きっぱりと貴方を忘れる。さようなら。」
ガチャンと受話器を置いて泣き伏した。
 
 捜査本部の緊迫した空気が不意の闖入者を認めて淀んだ。はっとして振り向き、部屋の入り口に目をやった。石井がそこにいる。石井を知らぬ綾瀬署の刑事が立ち上がり声を掛けた。
「すいません、ここは一般の方は立ち入り禁止なんですが。」
石井はにやりとして答えた。
「そうですか、それは失礼しました。でも私のことは警視庁捜査一課の榊原さんから伝わっていると思いますが。」
「あっ、あの情報提供者というのはあなたでしたか。どうもすいません。てっきり受付を通して来られると思っていたものですから。」
奥の部屋からずんぐりとした背の低い男が顔をだし、慌てて近付いてくる。石井も良く知った男だ。ろくな男ではない。榊原から聞いていたが、すすんで証言するのが厭になるほどこの男には足を引っ張られ辟易したものだ。
 田村警部はそんな過去など置き忘れたかのように親しげに微笑んでいる。
「そいつは元刑事だ。受付など通るわけがない。おい、石井元気でやっているか。」
握手せんばかりの勢いだ。刑事達も立ち上がり、石井に近づいてくる。ふと若い刑事の後ろに見え隠れする女性らしき髪が気になった。ちらりとその顔を覗かせた。困ったような顔をして微笑んでいる。
石井の心は一瞬にして歓喜でいっぱいになって、思わず微笑んだ。二人の視線は刑事達のいる空間とは別の空間であるかのようにからみあった。石井は田村を無視して五十嵐に近付いた。二人の視線に気付いた若い刑事が道を開けてくれた。石井が声をかけた。
「久しぶりだね。まさか君に会えるとは思いもしなかった。そうだ、君に証言しよう。君に供述調書をとってもらおう。」
田村警部が慌てて石井の肩に手を置いて
「いやさっきから部屋で君を待っていたんだ。さあ、こっちで頼む。」
石井は田村を無視して歩を進め五十嵐を促した。五十嵐は戸惑いながらも石井の誘いを受け入れ、傍らの刑事に声をかけた。
「小林さん、いや部長、取調室へお願いします。私はノートパソコンを取ってきますので。」
「お、俺も・」
と言う田村に、
「お偉いさんは、奥にでんと構えていて下さい。こんな仕事は下っ端の仕事です。」
と言って、石井は手で制した。小林と呼ばれた初老の刑事が頷いて、石井に目顔で合図し先にたって歩き出した。五十嵐が部長と呼んだのは、職階が巡査部長ということだ。取調室に入ると石井が言った。
「小林さん、呼ぶまでしばらく二人にしてもらえませんか。」
一瞬、憮然とした顔をしたが、にやりとして答えた。
「いいでしょう。」
 小林が部屋を出てしばらくして五十嵐が入って来た。小林から事情を聞いたようだ。二人は机に向かい合い、見詰め合う。石井は微笑むが、五十嵐の表情は固い。彼女にとって別離の瞬間と今とは連続しているのだ。石井は、話のきっかけを作った。
「あの小林刑事は残り少ない本物のデカだな。」
五十嵐が漸く口を開いた。
「ええそうよ。あの人のおかげで犯人と思われる杉田満に行き着いたの。」
「なに、捜査本部は杉田満に行き着いていたのか?」
「いいえ、捜査本部ではないの。私達、いえ、本当は小林刑事よ。でも政治的な力が加わって、少年法やらなんだかんだで横槍がはいってしまった。あの教祖は、息子を死んだと思わせて捜査の目から逃れさせようとしたの。きっとそうよ。」
石井は笑いながら言った。
「おい、待ってくれ。せっかく小林刑事にお願いして二人きりにしてもらったのに、仕事の話が先じゃ、俺の立つ瀬がない。」
五十嵐が苦笑いを浮かべる。石井が優しく話しかける。
「元気だった?ずっと会いたかった。」
 石井は五十嵐の手を握った。五十嵐はその手をじっと見詰める。石井の優しい眼差しが、意固地に傾く心を溶かしてゆく。自分に正直になれ。五十嵐は自分を諭す。視線を上げ、そして答えた。
「私もよ。」

 小林刑事が部屋に呼ばれたのは10分もたってからだ。石井は迷ったが、保科香子のことは触れないことにした。何故なら12月20日までまだ間があるからだ。そう決意するとすぐさま供述に入った。
 ようやく語り終え供述調書に署名した石井は、ほんの少し前の濃厚なキスの味を思い出しながら、既にこの場では、自分が部外者であることに気付いた。五十嵐もそのことを思っているようだ。五十嵐には、これからやるべき仕事が山とある。石井は立ち上がり、二人に声をかけた。
「これで全てです。後は警察にお任せます。二人とも頑張って下さい。」
部屋を出ようとすると、五十嵐が近付いてきて、そっとメモを手渡した。
小林から話を聞いた田村警部は、部下達をがなりたて、怒鳴りまくりながら、指揮をとる自分の姿を、警視庁の落ちこぼれの石井に見せ付けている。鼻の穴を膨らませ、ちらりちらりと視線を石井に投げかける。田村警部は石井と同期だ。
 石井は皆に一礼して捜査本部を後にした。署の門を出るとすぐさま五十嵐に渡されたメモを広げた。そこにはこうあった。
「ご免なさい。さっきは言い忘れました。仕事中に電話をもらっても出られません。それにこちらから電話する暇もないと思います。夜11時過ぎに電話下さい。」

第十一章 落ちた偶像

    (一)
 石井が五十嵐のアパートを訪ねたのは捜査本部で証言した翌々日のことである。五十嵐の仕事が忙しすぎたのだ。午後10時を過ぎていた。アパートのチャイムを押すと、ドアが中から開かれ、彼女は周りも気にせず飛びついてきた。石井は軽々とその体を抱き上げそのままベッドまで運び倒れ込んだ。
 二人は失った時を取り戻そうとするかのように濃厚なキスで互いを求めた。二人は時のたつのも忘れた。何時の間に時が過ぎ、石井がその体を離した時、五十嵐は朦朧とした意識のなか、心の内で呟いた。
「不思議な偶然がこの現実を運んでくれた。偶然って、本当に単なる偶然?」
 もし彼女がこの問いを石井に発したなら、石井はこう答えたであろう。「偶然なんてこの世にあるわけはない。全ては必然なんだ。偶然は、人間に神を感得させるための、神の配剤なんだ」と。彼女がこの言葉を石井から聞くのはずっと後のことである。
石井が目覚めて時計を見ると8時15分を少しまわっていた。彼女が出勤するおり、一度起こされたのだが、また寝入ってしまった。昨夜は夜が更けるまで話しあった。そしてもう離れないと誓いあった。恐らくこのままゴールまで突き進むだろう。
昨日の幸福な余韻にひたっていた石井は、ふと現実に引き戻された。寝過ごしてしまったという現実である。事務所まで急いだところで遅刻は免れない。佐々木の嫌味は何とかやり過すとして、客が来るという9時半までには出勤しなければならない。
急いで着替え終えた時、携帯のベルが鳴った。
「もしもし、石井ですが。」
「・・・・・」
相手は押し黙ったままだ。
「もーし、もーし。」
暫くして囁くような声が聞こえた。
「もしもし、わたし、保科香子。」
石井は驚いて思わず携帯を取り落としそうになった。
「保科さん、今何処?」
「貴方と初めて会った場所で、コーヒーを飲んでいるわ。約束の日より随分前だけど、貴方との約束を守ろうと思って。今日、大丈夫?」
「ああ、勿論大丈夫だ。すぐ行く。」
 事務所に電話をいれると佐々木は既に出勤していた。
「どうしたの、今日はお客さんが来るって言っていたでしょう、ええと、苗字は確か相沢さん。とにかく9時半までには来てもらわないと。」
「それが、急用が出来た。どうしても行けそうにない。」
「そんなの困るわ。龍二さんは出張だし、あとはアルバイトばっかりよ。どうするつもりなのよ。」
「山口は来てる?」
「えっ、ええ…、ちょうど今来たところ。」
「山口を上の叔母さんのところに連れてって、龍二さんの背広を着せるんだ。奴は見た目がオジンだから、とても大学生には見えない。何とかなる。俺の名刺を持たせて、俺になりきって相沢さんに会ってもらおう。」
「でも上半身はぴったりだと思うけど、脚がちょっとねー…、短すぎるわねー。」
山口を上から下まで仔細にチェックする佐々木の顔が浮かんだ。受話器の向こうで山口の抗議する声が聞こえる。
「そんなものは、ズボンの裾を糸でちょこっと止めれば大丈夫だ。何とか間にあわせてくれ。」
そう言って携帯を切ると、アパートを飛び出した。

    (二)
 考え事をしているうちにコーヒーはすっかり冷めていた。保科香子は苦いコーヒーをすすり、再び物思いにふけった。何故なのか、何故教祖はあんなに動揺していたのか、保科にはそれが不思議でならなかった。常に自信と威厳に満ち溢れたあの教祖と同じ人とは思えなかったのだ。
教祖の声が裏返った。唾を飲み込む時「ウエ」という音声を発した。ましてその日、教祖は最上階に篭り、大災害の被害を少しでも和らげるために祈りを捧げているはずなのに、東京からの電話だった。
教祖の予言では10月25日から12月25日までが大災害の起こる期間としており、その日は危険な時期に入って三日目だった。
 保科は頭の中で、教祖の言葉を何度も反芻していた。
「新たなイメージが波のように押し寄せて来る。新たな局面が現れたに違いない。そのイメージに圧倒されて目が眩むようだ。それがまだ完全に映像として見えてこない。これまでのように君が側にいてくれればきっとはっきりと見えてくるはずだ。とにかく直にでも東京に来てくれ。」
「でも、何度も言うように母が一昨晩亡くなったの。その母の亡骸を置いて出てゆくわけにはいかないわ。荼毘にふしてあげたいの。今日役所に行って手続きをして来る。」
「分かった、とにかく早急に東京に帰ってくるんだ。」
「奥さんも呼んだの?」
あのビルには教祖の妻も移り住んでいた。一瞬教祖は口ごもった。そして答えた。
「いや、君だけだ。乗る飛行機はこっちで手配する。帰れる日を連絡してくれ。」
詳しく聞かれるのを避けるように教祖は電話を切った。
 幸い二日後には母を荼毘にふすことができた。しかし、人々の思いもかけない反応に途惑った。母はあの強固なビルが完成して直ぐに入った。末期癌とはいえ普通に生活していた。だから多くの友人に囲まれ楽しそうに過ごしていたのだ。
 それが、ビルの住人の中で、一人として火葬場まで付き添い見送ろうという者はいなかった。保科は母の骨を一人で拾うしかなかったのだ。すでに危険時期に入り、誰もがビルから出ることに恐怖を抱いていた。あの最新の耐震設計のビルにいるかぎり安全だと聞かされていたからだ。
 しかし、それではあまりに母が可哀想な気がした。あのビルに来て初めて親友に出会ったと嬉しそうに話していた母の笑顔が浮かんだ。その大親友でさえビルから一歩も出ようとしなかったのだ。
 保科は冷えて苦いだけのコーヒーを一気に飲んだ。ふつふつと怒りが込み上げてくる。誰に対する怒りというのではない。その怒りは自分に向けられていた。何故自分はあんな人々と関わってしまったのか。自分のことばかり考えている人々。そして何故自分はあんな男を好きになってしまったのかということである。
 しかし、その答えは最初から分かっていた。それを引き寄せたのは己自身だと言うことを。最初の結婚も男の持つ資産に惹かれた。しかし、母一人子一人の恋人のような二人に入り込む隙はなかった。そしてこのたびは教祖の能力に惹きつけられたしまったのだ。
 まして殺人まで犯してしまった。その原因を作ったのは教祖の息子だ。殺人の嫌疑をかけられるほどの不良息子なのだ。教祖はその息子を警察の目から逃れさせるため、息子の事故死を偽装した。そして息子を何処かに隠したのだ。
あの脂ぎった顔が浮かぶ。議員秘書の浦辺一郎だ。
「坂口さくら君が私を頼ってきてね。彼女が言うには、満君は生きているらしいじゃないか。これってどういうことかね。」
「えっ、私、知りません。」
慌てて受話器を押さえて振り返った。ベッドで煙草をくゆらす教祖が怪訝な顔で見詰める。浦辺が言ったことを小声で伝えると、驚愕の色を浮かべ、
「俺はここにはいないことにするんだ。まず奴の話を聞け。」と言う。受話器にむかった。
「どういうことでしょう。」
「だから、満君は生きている。ついこの間まで坂口さくらは満君と一緒に生活していた。彼女は満君がいる秘密の場所から逃げ出してきた。つまり、ヨットの遭難事故は偽装工作だってことだ。」
「待って下さい。そんなこと私には関係ありません。そういう話なら教祖に直接お話して頂けませんか。」
怒鳴り声が響いた。
「教祖に話す前にアンタに会って話がしたいって言っているんだ。教祖が困るということはアンタも困るということだ。そうじゃないのか。」
受話器に耳を寄せ、話を聞いていた教祖が、保科に向き直って大きく口を開閉させた。最初は分からなかったが、「会え」と言っているのだ。しかたなく会う約束をした。電話を切ると、教祖が言った。
「奴の狙いは君の体だ。会うだけ会って話を聞いてくれ。何も寝ろとは言ってない。まずは会って話を聞くんだ。恐らく金の話も出るだろう。」
「でも、ホテルに連れ込まれたらどうしたらいいの。話を聞くだけでは済まないわ。」
「大丈夫だ。あんな男に、指一本だって君の体に触れさせるものか。私に考えがある。ただ・・・」
「ただ、何なの?」
 約束の日、教祖は睡眠薬を用意していた。そして、眠らせたうえで浦辺の物を勃起させろと言う。卑猥な行為に耽る姿を写真に納めろと指示したのだ。浦辺の脅迫に対抗するためだと言ったが、薬を飲んだ浦辺は意識を失い、いくら勃起させようともがいてもそれがそそりたつことはなかった。そして死んでいることに気付いたのだ。
 本当に教祖は薬の量を間違えたのだろうか。もしかしたら最初から殺す気でいたのでは?つと、涙が頬を伝う。それを拭うと、後はとめどなく、嗚咽を堪えきれなかった。己が哀れであった。場末のホテルの一室で死体のものを口に含む自分の姿が哀れだった。
 石井に会おうと決心したのは正しい選択だと思う。石井の言うように自首するのが一番だ。また一から出直すことにしよう。そう思うことによって漸く自分を許す気になれた。石井にホテルから出てくる姿を見られた。その偶然が新たな道を用意してくれたのだ。
 ふと見上げると、かつての憧れの君がラウンジを歩いて近づいてくる。何の屈託もないその笑顔は、自分の門出を祝ってくれているように思え、思わず微笑んだ。
「どうした、随分と急じゃないか。」
立ち上がり、微笑みながら石井を迎えた。ウエイトレスがオーダーを聞き終えて去ると、口を開いた。
「ごめんなさい、前もって電話すればよかったかしら。」
「別に、今日でも一週間前でも同じことさ。僕にとって急なことには違いない。お母さんの具合はどうなの。」
「10日前に亡くなったの。」
「そう、それは、どうも、どうも。本当にご愁傷さまです。」
「少しも苦しまずに眠るように逝ったわ。私も母にあやかりたい。でも、ようやく貴方との約束を果たせるとおもうと気が楽になった。人一人殺しているのですもの。」
「もしよければ事情を詳しく話してくれないか。」
「ええ、いいわ。今はもう何も隠すこともないもの。」
 保科は全てを語った。悟道会教祖と知り合った経緯から、殺人に至るまで。恐ろしい予言についても語り、初めて石井に会った時、石井と二度と会うことはないと思っていたことも。語り終えて、照れくさそうに笑った。
「馬鹿な夢、そう馬鹿な夢を見ていたの。たとえ大災害で死んだとしても、それはそれで仕方がない。でも、こうしてまた会えて良かった。会えなければ・・・私・・・きっと地獄に落ちたかもしれない。」
「地獄なんてあるものか。」
「いいえ、あるわ、私にはわかるの。あの世にも、この世にも、地獄はあるの。それってすごく似ているんだと思う。」
石井は、きっぱりと言う保科の目をじっと見詰めた。その確信に揺るぎはなかった。視線を外し、保科が言った。
「さあ、これでお別れしましょう。この後、千葉の捜査本部へ向かうわ。さあ、握手。」
保科の笑顔には何の屈託もなかった。もじもじしている石井に向かって保科が少女のようにはしゃいだ声で言った。
「何だか、いい年して照れちゃうわね。」
石井は沈んだ声で答えた。
「ああ、ちょっとね。」
保科の不幸な巡りあわせが心を重くしていた。それでも笑顔を作って手を握った。掌は柔らかかった。強く握った。保科はそれに応えた。すっと立ち上がり、背中を向けて歩き出す保科を、石井は見送った。
憧れの東京女が霞の中から現れ、そして靄に消えていった17年前を思い出していた。胸のポケットに忍ばせたラブレターを渡す機会を何度も窺った。しかし最後まで一歩前に踏み出すことができなかった。ほろ苦い思いが胸にいっぱいに広がった。

 ホテルを出ると、石井は五十嵐に電話を入れた。
「僕だ。今何処にいる。」
「悟道会のビルよ。今朝早く、捜査令状がおりたわ。家宅捜索の真っ最中よ。」
「教祖の杉田啓次郎は殺人の疑いも出てきた。杉田の愛人がそう証言した。」
「それってどういうこと。」
「国会議員の安東代議士の秘書が殺された事件は知っているだろう。」
「ええ。安東代議士は杉田啓次郎の資金援助で議員になったわ。」
「杉田の愛人が、その秘書に睡眠薬を飲ませた。その睡眠薬は杉田から渡されたそうだ。そして秘書はそれを飲んだ後、あの世に旅立った。」
「いったいどういうことなの。どんな事情でそうなったの。」
石井はその経緯を詳細に語った。勿論杉田の愛人が石井の初恋の人だというのは伏せた。聞き終えると五十嵐が言った。
「その杉田の愛人は、こっちでもそう証言してくれるのかしら。」
「その愛人は今、千葉県警の代議士秘書殺人事件の捜査本部に向かった。彼女の証言は千葉県警から貰えるはずだ。ところで、今日もアパートに行く。」
「ええ、待ってる。でも、遅くなると思う。電話する。」
 石井はホテルの玄関でタクシーを拾って四谷に向かった。今日来ることになっていたお客、相沢のことが気になったからだ。どうも相沢が石井を名指してきたのが気にくわない。煙草を吸おうとポケットに手を入れた。
 固い手触りがあった。それを掴み目の前にかざした。盗聴器だ。あっと思い当たった。ホテルのラウンジに入る直前、若い男とぶつかった。あの時、盗聴器が石井のポケットに落とされたのだ。石井が叫んだ。
「おい、運ちゃん、新宿に戻ってくれ。」
センチュリーハイアットを通り過ぎ、タクシーは新宿駅に向かった。最初の十字路に人だかりがしている。最悪の事態がそこにあった。タクシーを降り、ゆっくりと人だかりに向かって歩いた。人々の足元の先に赤黒い血溜まりが見えた、石井の頬に涙が伝わった。
 保科の額には銃弾の丸い穴が穿たれ、その艶やかだった髪は、植物が根を張るように血の海に広がっていた。石井は自分の不甲斐なさを呪った。自分が見張られていたことを今始めて思い知らされたのである。石井のポケットに落とされた盗聴器によって保科の証言は杉田に筒抜けだったのだ。
 杉田は愛人の裏切りを許せなかった。だから殺した。この推測に間違いはない。自分の気の緩みが、保科を死なせることになったのだ。石井は、保科の遺骸に向かって手を合わせた。そして語りかけた。
「また何処かで会おう。今生では縁はなかったけど、また会えるはずだ。さようなら。」
 石井はその人だかりに背を向け、涙を拭い歩き出した。拭っても拭っても涙が溢れた。しかし、石井は確信していた。死による別れは悲しいものだが、いつか再びめぐり合えることを。

    (三)
 保科は、この世にもあの世にも地獄があると語った。実は石井も同じ真理を確信していたのだ。同じ真理に到達した二人が、人生と言う旅路のほんの一時会いまみえた。不思議な縁としか言いようがない。この世でも愛の欠落した人々が相集えば、その空間は地獄の様相をおびるであろう。あの世の地獄も同じようなものだ。
 石井の霊界のイメージはスエデンボルグの著作の影響で形作られた。彼はこの世と隣り合わせでもあり、しかし人間世界とは明らかに次元を異にするあの世の様子を微にいり細にいり語っている。
 彼が言うには、霊界は「天界」、「地獄界」、「霊たちの世界」という三つの領域から成る。すべての人々は死後、「霊たちの世界」に入り、その人の帯びた愛の度合いに応じて「天界」へ或いは「地獄界」へと進んでゆくと言う。従って輪廻転生は否定されている。
 スエデンボルグの語る地獄には奇妙にも刑罰的な色彩はない。悪人は自ら好んで地獄界に入る。自らの穢れが地獄界の腐った臭気を求めさせるのだ。天界には天界の、地獄界には地獄界の波長があり、霊達はそれぞれの波長に引き寄せられるのである。
 この世の人間は天界とも繋がっているが、同時に地獄界とも繋がっている。時として沸き起こる崇高な思いと悪魔的な思い。こうした迷いは誰もが体験していると思うが、人間は常に、隣り合わせに存在する霊界の霊達の思いに晒されているのである。
 しかし、人間には自由意志があり、両者を選択する能力を有するとスエデンボルグは言う。
 保科香子はこの世の地獄から抜け出してきた。恐怖は人間の心を凍てつかせる。恐怖の呪縛から逃れるのは至難の業だ。しかし、何が彼女をそうさせたのかは分からないが、彼女は悪霊たちの誘惑に打ち勝ったのだ。
 石井はそのことを思って涙を拭い、良かったと心の底から思う。何故なら、再びあの世で会えるからだ。霊界では類似は結合し、異種は分離すると言う。彼女は教祖の力を目の当たりにしてきた。恐怖の度合いは石井の比ではなかったはずだ。石井は彼女の勇気を心から祝福し、そして、少しだけそれを貰ったような気がした。

第十二章 連続暴行魔

    (一)
 石井は再びタクシーを拾い四谷に向かった。山口のことが気になった。石井は見張られていた。となると石井を名指しで指名してきた相沢という依頼者がますます怪しく感じられたのだ。万が一のことを思うと心が急いた。
タクシーの中で五十嵐に電話を入れたが留守電になっている。兎に角、全ては事務所に帰ってからだ。本来であれば千葉県警に保科香子のことを知らせなければならないのだが、何故かそうする気が起きない。教祖に対する闘志が心に渦巻いているのに何処から手をつけてよいのか分からない。苛立ちが体中を駆け巡る。
 二階の事務所に駆け上がりドアを開けた。佐々木が応接のソファの背もたれ越しに振り返った。その唇に煎餅の欠片がはさまっている。急なご帰還に驚いて目をまん丸に見開いたが、すぐさまテレビの画面を消し、前かがみになり、もごもごと声を掛けてきた。
「随分早かったじゃないですか。急用が出来たっていうからてっきり帰りは午後になると思っていたわ。」
石井が自分の席につくと、佐々木も資料を抱えて事務机に戻った。普段一人の時は、そこが定位置らしい。石井が伸び上がり応接のテーブルを見ると下の棚に菓子入れがそっと隠されている。それを見る石井をものともせず、佐々木が声をかけてきた。
「やっぱり何かが起こるわね。」
「何かって?」
「大きな地震だと思う。ここ二三日妙に胸騒ぎがするの。勿論、真治さんから話を聞いたことで心理的に不安になったということもあるけど。でも、犬の遠吠えもここのところ激しくなっているわ。」
「犬の遠吠え?ちっとも気が付かないけど。」
「真治さんのように何の屈託のない人はバタンキュウで寝入ってしまうんでしょう。私なんか独り者で不安な夜を一人過ごしているの。眠れない夜もあるのよ。」
ふーっとため息を漏らし、しんみりとした顔を取り繕った。佐々木はワイドショウを見ながら仕事をしているのを目撃され、その話題にふれさせまいとしている。そんな佐々木の思惑など無視して石井が言った。
「お客さん、ええと、そう相沢さんに対して、山口はうまくやってくれた?」
その時、事務所全体がミシミシっという音を立てて揺れた。長い横揺れだ。二人は見詰め合う。「ほら、やっぱり来たわ。」
地震が止むと、何事もなかったように答える。
「ええ、万事うまくいったわ。相沢さんの娘さん、高校3年生なんだけど、ストーカーに付きまとわれているの。だからしばらくガードして欲しいっていう依頼。山口君ったらすっかり鼻の下伸ばして、ほいほい付いて行ったわ。山口君こそ何か変なことしでかさなければいいけど。」
「その家に行ったのか。」
「ええ、一刻も早いほうがいいって。」
石井は思い出した。相沢が石井を名指しで電話を掛けてきたのは、石井が綾瀬署の捜査本部を訪ねた日の午後6時頃だ。厭な予感が当たっているような気がした。
「佐々木さん。相沢の書類を。」
「何ですか、お客さんを呼び捨てにするなんて。」
書類を受け取ると、家と会社の電話番号にかけたが、両方とも出鱈目だった。
「相沢って男、どんな男だった。」
「そうね、がっちりとした体格で、そう、真治さんくらいの上背かしら。ちょっと苦みばしった50男、髪は短かくて角刈りより少し長め。上等な背広を着ていたわ。」
「佐々木さん、実は山口君は誘拐されたらしい。僕と間違われて。」
「うそっ、本当。じゃあ早速警察に届けなくちゃ。」
「いやいい、相手は分かっている。」
猛烈な闘志が沸いてきた。杉田啓次郎、預言者かなにか知らないが、貴様だけは許せん。何処にいるのか知らないが、絶対に捕まえてやる。そう決意した。その時携帯が鳴った。五十嵐だった。
「そっちの状況はどうだ。」
「さっぱりよ、ビルの中はまるで迷路。何がなんだかさっぱり分からない。施工業者を呼んだけど、分割して発注されていて、まして肝心なところは信者の業者が請け負ったみたい。そこの社長も姿を消しているわ。恐らく富良野よ。」
「そのビル以外は?」
「8箇所の道場も虱潰しに調べている。でも、捜査本部は全く別の所に隠れ家があるってことも視野入れ始めたわ。入念にチェックしたけどこのビルに、教祖はいそうもないもの。」
「ところで、さっき話した教祖の秘書、というか愛人だが、彼女が新宿で射殺された。」
「なんですって、さっきその新宿の射殺事件の情報、無線で流れていたけど、教祖の愛人だったの。」
「ああ、俺が馬鹿だった。悟道会の奴に盗聴器を仕掛けられ、彼女の証言は奴らに筒抜けだった。彼女はだから殺された。」
受話器を押さえて五十嵐が何かを叫んでいる。今流した情報を皆に伝えているのだ。佐々木が顔を引き攣らせ聞き耳をたてている。五十嵐が受話器を押さえていた手を離したらしく、背後で田村警部の怒鳴り声が響いた。田村警部のその言葉が気にいらなかった。「おい、石井を出頭させろ。」と吼えていた。捜査協力者を呼び捨てにしやがって、と心の中で毒づいた。五十嵐が声を低めた。
「真治、署まで出頭して。どうしても供述をとる必要があるわ。あっ、地震。」
強い揺れだった。ふたりは押し黙り揺れが止むのを待った。
「今日、二度目よ。悟道会の予言のことを思うと、不気味な感じがする。」
「あんなもの当たるものか。」
「だといいんだけど。それより、ねえ、出頭して証言して。」
「それが、そうもいかなくなった。尻に火がついた。」
「いったいどういうこと。」
「事務所のアルバイト、山口信一郎という学生が誘拐された。僕と間違われたんだ。じっとしてはいられない。まして供述するとなると時間がかかる。」
かいつまんで山口が誘拐された経緯を語った。五十嵐はすぐさま言う。
「兎に角、そのことも含めて話してもらわないと捜査は袋小路よ。その山口さんを捜索するためにも出頭すべきよ。そこのところはちゃんとしておいて。貴方は元刑事よ。」
「いや行く気はない。だけど情報は伝えよう。その山口君を連れ出した男を事務所の佐々木という者が見ている。まずその佐々木に当たったほうがいい。」
「まったくもう、言い出したらきかないんだから、もう何も言わないわ。」
「とにかく、全力で杉田の居所を探るしかない。忙しくなるね。暫く会えそうもない。」
「残念だけど、しかたないわ。」
もう一度あの東陽町の悟道会のビルを見ておく必要がある。顔を知られている以上、中には入れないが、せめて周辺を探っておこうと思った。目をまん丸にして驚愕の表情を浮かべる佐々木に声を掛けた。
「佐々木さん、ちょっと出かける。今日、綾瀬署の職員が君に相沢のことを聞きに来ると思うから、対応してください。今日は戻りません。」
佐々木が慌てて立ち上がり、石井を捕まえようとするが、一足先にドアにたどり着いた。
「兎に角、頼みます。」
後ろで、「愛人が射殺されたって言っていたけど、それってどういうこと?それに警察に何を言えばいいの?」という叫び声が聞こえた。
 階段を駆け下りた。まずは見張りをまくことだ。石井は辺りを見回した。いるいる。男が慌てて電柱の陰に隠れた。石井はほくそえんだ。
 この日は、午前中に2回、午後に5回の地震があった。石井の不安は五十嵐や山口の安否だけではなくなった。やはり、大災害はおこるのだろうか。悟道会ビルの周辺の暗がりを選んで歩きながら、石井の体がぶるっと震えた。

    (二)
 翌日の午前10時、捜査本部は色めき立った。とんでもない情報がもたらされたのだ。それは大竹清美の父親からの一本の電話から始まった。杉田満が清美に会いたいと連絡してきたという。清美は満の誘いに応じるふりをした。今日の昼、12時、大竹家に程近い公園で会うことになっていると言うのである。
 その場にいた21名の刑事たちが一斉に立ち上がった。その中には出かける直前の五十嵐と小林もいた。誰もが興奮し、奮いたった。警視庁から戻ってきた田村警部は顔を真っ赤にしてまくし立てた。正に正念場だった。失敗は許されない。
1時間後、公園には、刑事達が、浮浪者に身をやつし、或いはうな垂れベンチに座る失業者を演じ、それぞれ工夫をこらして集まっていた。住宅の敷地に隠れている者もいる。五十嵐は咄嗟の判断で、コンビニで弁当を買い、若い桜田刑事とベンチで昼食をとるカップルを装うことにした。
 桜田は26歳で五十嵐より2つ年下だが、なかなか堂にいった演技を続けている。
「五十嵐先輩とこうして一緒に弁当をつっつくなんて本当に光栄です。でも、この間捜査本部にいらっしゃった石井って人、恋人なんでしょう。」
「そんなことどうでもいいでしょう。それより、そんなにぱくぱく口に入れたら直ぐに食べ終わっちゃうじゃない。後15分もあるわよ。もっとゆっくり咀嚼して食べなきゃ。」
「いっぺんに胃に送り込まないと食べた気がしないんです。食べ終わったら、お茶でも飲みながらお話をすればいい。二人きりでお話したのは初めてじゃありません?」
「そうね、初めてかも。」
と言って笑ったが、無線で満が公園へ入ったと情報が入り、思わず体を強張らせた。見ると公園の入り口から、何度も写真で見た杉田満があたりを見回しながら歩いてくる。警戒する素振りはまったくない。
「振り返らないで。」
「僕の後ろ方面?」
「ええ、田村警部と西野警部補が後方からついてくる。みんな偽装を解いているわ。いい、杉田満があと10メートルの所にきたら、立ち上がって前を塞ぐのよ。合図する。」
「緊張しますね。あとどのくらい。」
「まだよ、まだ、まだ」
「……」
「……」
「もういいかい。まーだだよ。」
「馬鹿、こんな時に。・・・・あと数秒よ。・・・・さあ、立ち上がって。」
二人は杉田満の前に立ちはだかった。田村警部も後方15メートルまで近付いてきて、ちらりと鋭い視線を五十嵐に送った。それ以上、満に近付くなと言うのだ。小林刑事も、逮捕の第一声は田村警部に任せろと目配せした。これが大人の社会というものだろう。
 杉田満は声もでなかった。突然、ベンチに座っていたカップルが立ち上がり道を塞いだのだ。すぐに大竹清美が裏切ったことを悟った。信じられなかった。呆然と刑事達が近付いてくるのを見ていた。
 しかしここで捕まるわけにはいかない。満は奇声を発して若い女に飛び掛ったが、隣の男に脚を払らわれた。地面に叩きつけられ、男に腕をねじ上げられた。別の男が満をフルネイムで呼んだ。見上げると、でっぷりとした男が立っている。
男は逮捕状をかざし、御託をを並べている。どうやら年貢の納め時らしい。低く声を出して笑った。周りでは殺した女達がぎゃあぎゃあ喚いている。一人一人の顔を眺め、その場面を思い出し、笑い続けた。
 次の瞬間、バンバンという銃声と「ぼっちゃん、こっちです。」という叫び声が聞こえ、腕を捻じ曲げていた若い男の強い力が、ふと消えた。そして傍らに倒れこんだ。
夥しい血が流れ、満の顔にも注がれた。
次いで女の悲鳴、「桜田さん、桜田さん」と呼びかける声、ふと周りを見回すと男達が地面に臥せ、或いは木の陰に身を寄せている。再びあの声が聞こえた。「坊ちゃんこっちです。」
 入り口とは反対方向の公園内の道に黒いバンが留まっていた。その側面のドアが開かれていて、銃を構える片桐と樋口が見えた。満はおもむろに立ち上がった。満の後を追おうした男達の前の地面に銃弾がうちこまれる。満はバンに向かって走った。
 急発進するバンに刑事達は追いすがった。中でも五十嵐は男どもを追い越し、狭い道とカーブに手間取るバンに追いつき、バンの車体をどんどんと音を立てて叩いた。その時、バンが急停車し、あっという間に五十嵐を中に引き釣り込んだのだ。
 息せき切って駆けつけた刑事達は急速に小さくなって行くバンを見送るしかなかった。待機していたパトカー3台が漸く公園入り口からやってきて、二台が逃走した黒のバンの後を追った。一台残ったパトカーの無線機に田村警部ががなりたてる。
「緊急手配、緊急手配。黒の大型のバン、等々力方面に逃走中。ナンバープレーは外されナンバーは不明。二人の男が拳銃を所持。それから至急救急車を手配願います。刑事一名胸に銃弾をうけ、かなり出血で重症。場所は・・」
 ぜいぜいと息をしながら、小林は何かあった時にと五十嵐から聞いていた石井の連絡先に電話をいれた。あいにく石井は不在だったが、刑事だというと石井の携帯のナンバーを教えてくれた。捜査上の秘密にあたるが五十嵐に頼まれたからにはしかたがない。電話は一回の着信でつながった。
「石井君か、小林です。実は五十嵐君が職務中誘拐された。」
「なんですって。誰にです、それに何処で?詳しく聞かせて下さい。」
「あんたも元刑事なら、捜査情報をぺらぺら喋れんことは知っているはずだ。ここで言えることは、五十嵐刑事が杉田の一派と思われる複数の男達に車で連れ去られたということだけだ。我々も全力をあげて探す。ところで出頭を拒否したと聞いたが、こうなっては、その方が良かったかもしれん。君は君の思う通りやれ。」
「分かりました、有難うございます。それと小林さん、小林さんの携帯、非通知設定になっていますけど、番号を教えて下さい。何かあったら連絡したいのですが。」
小林はあっさりと番号を教えてくれた。
 石井はすぐに事務所に電話を入れた。幸い龍二は出張から戻っていた。
「おいおい、いったいどうなっているんだ。佐々木に聞いたんだが、山口が誘拐されたって?何でまた山口が。」
「私もうかつでした。どうやら奴らはずっと僕を見張っていたらしいんです。」
「おいおい、待て待て。いったい奴らってえのは、何処のどいつだ。」
そういえば龍二は何も知らないのだ。石井もどうかしていた。「実は」と今日起こったこと、そしてこれまでの経緯を順を追って話した。龍二が唸った。
「いったいどうゆうことなんだ。教祖は愛する息子を守るためだけに行動しているわけではなさそうだ。まさに悪意を剥き出しにして動き出したってかんじだ。真治の恋人、その五十嵐っていう刑事はどこで何をしていたんだ。」
「そこまでの情報はもらえませんでした。」
「まあいい。今日は閉店休業だ。その東陽町のビルを見張ることだ。今どこにいる。」
「その東陽町です。双眼鏡も用意してあります。でもなかなか手頃な見張り場所がないんです。」
「俺にまかせろ。1時間後どこかで待ち合わせよう。」
駅前の喫茶店を指定した。石井はそこに早めに行くことにした。見張り所を探して午前中いっぱい歩き回り脚が棒のようだった。その時、その日4度目の地震が石井の脚を止めた。一歩一歩、不気味な現実が忍び寄る気配がした。
 
 コーヒーをすすりながら、石井は死と生まれ変わりついて考えた。石井は一度死を覚悟したことがある。体からドッ、ドッと心臓の鼓動と共に血が湧き出ていた。このまま死ぬかもしれないと思ったのだ。次の瞬間、石井は強烈な恍惚の中にいた。えも言われぬ悦楽が体全体を包んでいた。
 これは担当医師に言わせれば、脳内麻薬物質が大量に放出されるからだそうだが、、この体験は死に対するイメージをがらりと変えてしまった。死は状態の変化の一過程に過ぎないと誰かが言ったが、まさにその変化の一過程に入り込んだ、そんな印象をうけたのだ。
 スエデンボルグは輪廻転生を否定している。しかし、石井はこの体験により輪廻転生を受け入れた。その後、かのエドガー・ケイシーに乗移る霊が輪廻転生を語っていることを知り、それを確信するに至ったのである。
 輪廻転生のリーディングは、病気の処方箋であるフィジカルリーディングに対し、前世に照らして今生を如何に生きるべきかを教示したライフリーディングと呼ばれるものである。ケイシーは同じ人間に何度もライフリーディングを行っているが、その本人に数年前に語ったのと同じ、常に一貫した前世を語って、その生き方に助言を与えたのである。
 ケーシーは言う。「肉体の世界、宇宙的世界、幽界の三者は一体である。」と。これは、「肉体の世界」と「幽界」について説明するなら、この世もあの世も何ら変わりはなく、死を断絶ではなく生の連続とし、この二つは一体だという意味だろう。
 次いで「宇宙的世界」とは他の銀河系から地球に転生する者もあり、地球的に見れば「肉体の世界」と「幽界」とは別の世界ということになる。これはスエデンボルグも同じ見解をとっていて、地球には他の銀河系から来ている人がいると認めている。
 そして魂は「物質界に現されている宇宙緒力の創造エネルギーと一つになるまで、その一体性の中に留まらなければならない」と説く。つまり「肉体の世界」、「宇宙的世界」、「幽界」の三者のどこかに生まれ変わり、そこで成長し、魂を磨き、天に戻る(宇宙緒力の創造エネルギーと一つになる)よう努力すべきだと言う。
 まさに、スエデンボルグの天界への道と同じことを、つまり魂の成長を説いている。スエデンボルグは輪廻転生を否定しているが、ケーシーは輪廻転生を何度も繰り返すとし、その中で魂を磨くことが生の目的であるとしているのである。
 一つ気になるのが、ケーシーの「物質界に現されている宇宙緒力の創造エネルギーと一つになる」という言葉である。現代物理学によれば宇宙には四つの力が働いていると言う。それは素粒子相互間の強い力と弱い力、そして電磁力及び重力の四つである(五つ目が最近話題になっている)。
 この四つの力はケイシーの言う創造エネルギーと同じものなのか?もし、同じであるとするなら、波動として霊界に存在する霊魂は、この四つの力と一つになることによって物理学的にどう変化するのか?また、神はこの力とどのような関係にあるのか?いずれにせよ、ケイシーはこれらの疑問に対し何も語ってはいない。

第十三章 仮面

    (一)
 龍二が現れたのは40分後である。まるでプロのカメラマンのようで、どんな格好をしてもぴたっと決まる。石井は何も考えず双眼鏡一本を持ち出したが、龍二のカバンには3本の望遠レンズが収められていた。龍二が言う。
「尾行はまいたか?」
「大丈夫、最後にはこっちが相手を見張っていました。いかにも信者っていう若者が、あたふたきょろきょろしていて笑っちゃいました。」
「よし。それじゃあ出かけるか。実はな、真治、建設中のビルが悟道会ビルの斜め前にある。そこの現場監督と話がついているんだ。直ぐに行こう。」
石井は龍二をせかせて建設中のビルに向かった。その建設中のビルの現場監督は龍二から封筒を受け取ると、用意してあった場所に案内した。悟道会の18階建ビルの三階に位置し、出入りする車と人が手に取るように見える。
 打ちっぱなしのコンクリに突き出た鉄筋。何とも殺伐とした空間だが、今は、ここしか五十嵐と山口の捜索の糸口を探る場所はないのだ。龍二が悟道会のビルを見上げて言った。
「何だあれは。とってつけたようなビニールシートの壁があのビルの屋上にある。ちょっと屋上に行って見てこよう。」
カメラをセットする石井にそう言うと、龍二はその場を離れた。セットし終わって、しばらくしてぐらぐらっと横揺れが2分ほど続いたが、何事もなくおさまった。冷や汗を拭い、ほっと胸を撫で下ろしていると龍二が戻ってきた。
「随分長い地震だったな。どうやら本当に来るかもしれん。」
「大災害ですか?」
「ああ、昨日今日の千葉沖を震源とした地震が、こうも頻発するのは観測史上初めてらしい。何かの前兆としか思えん。ところで人の出入りはどうだ。」
石井は二日間新聞もテレビも見ていない。その時は、何気なく千葉沖が震源というのが気になったが、すぐにそれも忘れ答えた。
「ひっきりなしです。でも、そうとう警戒が厳重です。敷地に隣接した駐車場はさほどでもないですけど、地下駐車場に入る車は警備室から警備員が出てきてチェックしています。さっき一台追い返されていました。」
「そうか、恐らく地下駐車場に何かある。よく注意して見ていろよ。俺はちょっと出かけてくる。あのビルの屋上に何かが人の目を避けるように置かれている。悟道会ビルのより高いビルから確かめてくる。」
と言うと、カメラマンバッグを開けて巨大な望遠レンズを取り出した。
「じゃあ、よく見張れよ。」

     (二)
 五十嵐は暗い倉庫に押し込められた。後ろ手に縛られたまま、呆然とあたりを見回した。仏像や段ボール、機械らしきもの、あらゆる雑多なものが隅に積まれていた。ここに押し込められるまえ、五十嵐は教祖の前に連れて行かれた。
 教祖を見るのはこれで二度目だ。最初は杉田満の葬儀の時。あの時の教祖は、脂ぎった顔をてかてかに光らせ、流れる汗を白いハンカチで何度も拭っていた。しかし今日見た教祖は、同人物とは思えないほど痩せ衰え、干からびたような印象を受けた。
 教祖は五十嵐を上から下まで舐めるように眺め、五十嵐の横に立つ男に声を掛けた。
「よし、いいだろう。下に連れてゆけ。」
何が「いいだろう」なのか分からなかったが、対面は数秒にしか過ぎなかった。そして同じ階のこの倉庫に入れられたのだ。ふと見ると、仏像の脇からもぞもぞと何かが這い出してきた。驚いて身構えたが、見るとやはり後ろ手に縛られた若者が立ち上がろうとしている。山口だとすぐに気が付いた。
「山口君?」
「えっ、僕のこと知っているんですか。」
と言うなり床に倒れ込んだ。慌てて近付いたが両腕が不自由なので如何ともしがたい。山口は自力でようやく立ち上がったが、よく見るとズボンの裾がすっぽりと足先を包んでいる。ズボンの裾を踏んでづけて転倒したのだ。五十嵐が笑いをこらえながら話しかけた。
「ちょっとパンツが長すぎるみたいね。」
「まったく佐々木のばばあ、いえ、この佐々木ってのはアルバイト先の事務員なんですが、こいつが、まあ、いい加減なばばあで、事務所にあった両面テープでパンツの裾上げをしたもんだから、このざまですよ。せめて糸で縫ってくれれば。」
「とにかく、石井さんも探してくれているわ。ふたりで頑張りましょう。」
「あれ、石井先輩の関係ですか。まったく先輩は持てるから。」
「そんなことはどうでもいいから、このロープを何とかしましょう。」
「僕もさっきから必死でやっているんですが、なかなかどうして上手く縛ってあります。敵ながらあっぱれってやつで。」
「ねえ、こっちにきて、背中あわせになって私のロープを解いてみて。」
二人は30分ほどで互いの手を開放することができたが、それから後はなす術もなかった。扉は鉄製でびくともせず、窓一つない構造だったからだ。

    (三)
 片桐は心の動揺を抑えながら、信者達を睨みつけている。今日、十二回目の地震が部屋全体を揺るがしていた。片桐の横にいる樋口、四宮、そして何故か名前で呼ばれる重雄が信者達と緊張した面持ちで対峙している。
 居並ぶ16人の信者のうち12人は片桐が選りすぐった親衛隊員だ。片桐はこれまで彼らを一般信者とは隔離して、どんな危険な任務も平然とやってのける人間に仕立てようと教育し洗脳してきた。しかし、1年という期間はあまりにも短すぎた。
満探索に、親衛隊員だけではなく一般信者も動員した。両者が親密になり過ぎるのを多少懸念してはいたが、緊急時ということもあり、放置してきた。それが今回の事態を招いたのだ。
 恐らく親衛隊員は、一般信者から家宅捜査のことを吹き込まれ、煽られたのだ。しかし、あの公園から親衛隊員を引き上げさせたのは正解だった。いくら満を守るためとはいえ、やり方が乱暴過ぎた。問い詰められれば答えに窮しただろう。
 それに動揺するのは当たり前だ。この群発地震に恐れをなしているのだ。誰だって不安に駆られる。長い沈黙にたまりかね、信者の一人が声を発した。
「片桐さん、噂では北海道のどこかにノアの箱舟が建設されたと聞きました。主だった人達はみんなそっちに行っているって。もうそこまで迫っているんじゃありませんか?本当のことを教えて下さい。」
とうとう来たかという思いが片桐を落ち着かせた。それがこの騒ぎの原因だったのだ。ふんと鼻で笑って答えた。
「主だった人達に、俺が入っていないってことだ。」
「いえ、そんな意味では・・・」
「じゃあ、教祖様はどうだ。教祖様は主だった人じゃないのか。」
片桐はつかつかと電話機に近付き受話器を取り上げた。教祖が出た。
「教祖様、ちょっとよろしいでしょうか。モニターをつけさせて頂いても・・・。」
「かまわん。」
パチンとスイッチをいれると教祖の部屋で受話器を握る男が映し出された。片桐が皆に見るように顎で促した。皆、ぞろぞろとモニターの前に集まってくる。そして片桐と教祖が騒動について話し合う画面に見入った。教祖が受話器を置いた。片桐が皆を振り返った。
「お前らは、何度も教祖様の部屋に入ったはずだ。」
親衛隊隊員はみな頷いている。
「だったらモニターに映し出されたあの部屋がこのビルの教祖様の部屋だってことは分かったはずだ。後ろの窓から見える風景も同じだった。」
親衛隊の隊員の一人が答えた。
「でも、警察が一日がかりで捜したが見つからなかったと聞いています。その時、教祖様はいったい何処にいらしたのですか?」
片桐がにやりと笑った。
「教祖様は何もかもお見通しだ。今日の事態も予想されていたのだ。教祖様の千里眼は君達が一番よく知っているはずだ。そのための準備も怠りなかった。ここまで事態が逼迫したのだから君達にもこのビルの仕掛けを知っておいてもらう。後で重雄が説明する。」
重雄が頷いた。皆が一様に胸を撫で下ろしているのが分かる。もう心配はない。片桐が皆を睨め回す。一様に俯いて、自らの動揺を恥じ入り、ちらちらと上目遣いに片桐を見る。片桐が声を張り上げた。
「もしそんなノアの箱舟が建設されて、大災害が迫っているなら教祖様がこのビルにいるのをどう説明する?」
片桐は親衛隊員一人一人の目をじっと見つめる。身も世もないほどに身を縮めて顔を伏せる。そして続けた。
「教祖様は、ご子息の無罪を信じて権力と戦おうとしておられる。君たちはその教祖様と共に戦う戦士なんだ。その誇りと自覚を持ってくれ。」
感極まって泣き出す者が現れた。涙は伝染する。親衛隊には最後までその役割を果たしてもらわねばねばならない。片桐は皆を見回して言う。
「権力はどんな嘘も真実に変えてしまう。いいかこれは罠なんだ。権力が悟道会を潰そうとする罠だ。その罠にはまって君らは教祖様を裏切ろうというのか。」
自分の不明を恥じ、誰もが涙を流し始めた。片桐は声を振り絞り、感極まった素振りで言った。
「もういい、君たちのことはよく分かっている。教祖様がさっき話された通り、誰もが試される。その時どう行動するかで、その人間の価値が決まると。神はそれを見ている。さあ、今、満さんに4人の仲間が張り付いている。そろそろ交代の時間だ。」
メンバーは、涙を拭い、「はっ」と言って部屋を退出した。一般信者数名もぞろぞろとそれに続いた。一安心という表情を浮かべている。片桐は額に浮いた脂汗を手の甲で拭った。 
 片桐の心は恐怖で震えていたのだ。巨大地震が迫っている。満は父親宛ての手紙の中で、この群発地震の始まる日時を言い当てていた。ということは、その手紙に書かれるように、地鳴り、次いで震度6強の直下型地震が起これば、最後に地面が1メートルも波打つ巨大地震が間違いなく現実のものとなるということだ。
もし、そんな巨大地震が起これば、最先端の耐震装置を導入しているこのビルとてひとたまりもない。生き残る者は皆無であろう。ぞくぞくという恐怖が背筋を這い登る。満がこのビルに帰ってくるその時こそ巨大地震の正に直前なのだ。
 満を公園で救い出し、別の公園で車を乗り換えたとき、満は一緒に来ようとはしなかった。その場を離れる寸前、片桐の耳にそっと語りかけた。
「大災害は僕があのビルに戻ってから30分後に起こる。何日に戻るかは教えられない。いずれにせよ近いうちだ。あのビルで待つように親父に言うんだ。」
 片桐はかつて公安の刑事だった。潜入捜査が専門で悟道会に信者として入りこんだ。まさにミイラ取りがミイラになったわけだが、それにはそれなりの理由があった。ある日のことだ。教祖が近付いてきてこう言ったものだ。
「どうだ、捜査の方は順調に進んでいるかね?」
見破られた知って声も出なかったが、教祖の次の言葉は驚愕以外の何ものでもなかった。
「君は腕力がありそうだから、僕のボディガードをやってくれんかね。警察には何でも報告してもかまわん。僕の近くにいたほうが情報は取り易い。そうだろう。」
そして、側に仕えて初めて教祖の偉大さに触れることになった。何でも知っているのだ。片桐の記憶にしかないはずの事実を指摘されたのは一度や二度ではない。小学生の頃、凧揚げしていて肥溜めに落ちたことまで知っていた。
 財界人、政治家、文化人、ありとあらゆる人々が相談に訪れる。何も聞かずに、相談者の悩みを言い当て、そして助言する。そんなことは朝飯前なのだ。まして言い当てた予言の数々は誰もが驚嘆するほど正確無比だった。片桐は教祖に仕えて1年で警視庁を辞めた。 しかし、満をこのビルに監禁して一月で教祖の化けの皮が剥がれた。
秘密の階に設けられたモニター室は、片桐の自慢の作だった。ビルの50箇所にカメラが設置され、モニターテレビで昼夜覗けるようになっていた。設計も片桐に任された。秘密の階にも五箇所カメラが設置されていた。
その日、完成間近のビルに泊まりこんだのは、最後の調整にてまどり二日も徹夜したソフト会社の社員が床に寝ると言い出したからだ。帰るのも面倒だったし、長い付き合いだったこともあり、壁に二台のベッドが収納されている片桐の執務室に案内した。
 夜中の12時過ぎ、眠れずにいた片桐は、秘密の階に侵入者が入ったことを示すサイン灯を認めた。片桐は起き上がり部屋を出ると、満が監禁されている階の五つのモニタースイッチをいれた。その中の一つの画面に片桐の視線がくぎ付けになった。
 満のベッドルームに侵入者がいた。警棒をつかみ満の部屋に駆けつけようと立ち上がったその時、侵入者の横顔がちらりと見えた。その侵入者は教祖だった。ほっとして椅子に腰を落とした。
普段、息子に少し冷たいのではないかという印象をもっていたが、やはり親子なのだと思うと心が和んだ。このまま覗き見するのは失礼だと思いモニターのスイッチを切ろうとした矢先、眠りこける満に教祖が話しかけた。
「深い深い眠りの中で、あなたの魂はさらに深い深淵に落ちてゆく。そこであなたはアカシックレコードにアクセスすることができる。さあ、アクセスを開始して下さい。今日のターゲットは文京区に住む赤井次郎。彼の悩みは何か?また彼の心の恥部はなにか?あなたは詳細に述べることが出来る。」
その後に起こった光景に、片桐は度肝を抜かれ、ただ呆然とモニターに見入るばかりだった。満が目を閉じたまま喋っている。まるで地獄から響いてくるようなその声に背筋が凍った。なんども生唾を飲み込んだ。
片桐は、その日、区議会議員、赤井次郎が無理矢理予約を入れてきたのを丁重に断っている。教祖の面会は一週間前と決められていたからだ。しかし、何らかの事情で教祖は片桐を通さず、赤井と会う約束をしてしまったのだ。
 教祖は、誰か大物から要請があり、引き受けざるを得なくなった。やむなく車を飛ばしてここまでやってきたのだ。モニター装置作動が一週間も早まったことも、片桐が泊り込んでいることも知る由もなかったのだ。

第十四章 地獄からのメッセージ

    (一)
 モニターから満のしわがれた声が響いていた。まるで地獄から聞こえて来るようだ。
「赤井次郎の相談は一週間前に家出した次女の行方だ。彼女は結婚を反対され家を出た。今、その次女の実体を捉えた。彼女は横浜の関内にある如月コーポ305号に若い男とベッドに寝ている。彼女の体内にもう一つの生命が宿っているのが見える。若い男の種である。」
教祖は握ったポケットレコーダーを口に近づけ質問する。
「分かりました。次に赤井の秘密、弱みもしくは不正な行いについてお教え下さい。」
レコーダーのマイクを満に向ける。
「もともと赤井次郎は利権政治屋で不正を上げればきりがないが、最も直近の不正は東京都発注の補助105号電線共同溝事業に関するもので、㈱早坂組から一千万円の賄賂を受け取っている。受け取った場所は赤坂の料亭、浜櫛屋。同席していたのは早坂組専務、早坂貢、代議士、坂部潤一郎である。そして次に直近の不正は広域河川改修事業・・・」
地獄からの声が次々と赤井の不正を述べてゆく。教祖は30分ほどで引き上げたが、片桐はモニターに映る満の邪気のない寝顔を呆然として眺めていた。この少年が全ての源だったのだ。あの恐ろしい予言も今目撃したようにあの小さな口から出ていたのだ。
 異常な出来事を目撃した者は、時としてその異常な出来事から目を逸らそうとする。今見ている実際の光景にさえ目をつぶり見えないと言う。しかし、片桐はそうした人間ではない。見たものを見たと言える人間なのだ。従って、説明しようのない不思議な出来事を事実として認めた。認めるには理性をかなぐり捨てねばならない。
 モニターに映る満を見続けていた。あれほど尊敬していた教祖が薄汚いペテン師であったことも忘れて見入った。教祖に対する憤懣のあらかたは異常なものを目撃した異常な興奮によって胡散霧消していた。
 片桐はふと我に返った。執務机に置かれたコーヒーカップが地震の揺れに合わせてカタカタと音をたてている。ゆっくりと腕を伸ばし、コーヒーカップを掴んだ。するとそれまでより激しく音をたてた。片桐の手が恐怖で震えていたのである。

    (二)
 雲間から顔をのぞかせた月がその淡い光を投げかけ、コンクリートの壁に凭れて佇む石井の長い脚を照らし出した。双眼鏡のレンズには6人の精悍な男達が正面玄関から出て行く姿が映し出されている。
 突然、大きく突き上げるような揺れがおこり、思わず壁から突き出した鉄筋につかまった。いよいよ来たかという思いで冷や汗を滲ませたが、揺れは短時間でおさまった。ひょいと龍二が姿を現した。
「今のは凄い揺れだったな。縦揺れだからとうとう来たかと思って覚悟したよ。」
「僕もです。本当にいよいよなんでしょうか。」
「俺は預言者じゃない。それより、屋上に隠しているものが何か分かったぞ。」
「いったい何でした。」
「ヘリコプターだ。アエロスパシャルAS350B、最大127ノットだから、時速240から250キロ。6人乗りで、航続距離740km。富良野まで一っ飛びってなわけにはいかないが、そうとう遠くまで行ける。」
「大災害発生の前に飛び立つ。そして地震が収束したら安全な場所に降り立つという寸法ですか。」
「まあ、そんなところだろう。とにかく教祖があのビルにいることは確かだ。恐らく満も一緒だろう。」
「ということは、やはり、あのビルに侵入するしかない。しかし、警備が厳重で入り込む隙もない。さっき昼間から詰めていた警備員全員が交代した。ってことは、警備は24時間体制ってことです。」
「つまり地下駐車場には絶対秘密がある。警察が見逃した何かだ。」
うーんと二人で唸った。腕組みして考えた。何かよい知恵はないものか。まてよ、と石井は思う。すっかり忘れ去れていた磯田薫の顔が突然浮かんだ。
「叔父さん、磯田さんに知恵を借りたらどうでしょうか。あの人、そうとう詳しく教祖の動向をつかんでいました。もしかしたら上手い方法を見つけたのかもしれません。」
「そうだ、あいつなら抜け道を探り出したかもしれん。早々に電話しろ。」
「でも、づっと留守電で返事もないって山口が言っていました。」
「よし、真治の携帯を貸せ。」
磯田の番号を押して携帯を渡すと、例のごとく音声が留守電話であることを告げている。苛苛としながら、龍二は出番を待っている。そしてピーという音とともに怒鳴った。
「この馬鹿野郎、すぐさまこの番号に電話してこい。いいか、よく聞け。もし電話してこなかったら、今度戻ってきても、絶対に事務所に入れんからな。よく覚えておけよ。」
携帯を切ると、にやりとして言った。
「あいつは間違いなく頻繁に留守電をチェックしている。そういう奴だ。すぐにでもかかってくるはずだ。どっちに転んでも生き抜くつもりだ。つまりゴキブリ野郎さ。」
そう言うと立ち上がりバックを肩にかけた。
「またどこかに行くんですか。」
「いや、家に帰る。女房が怖がっている。一人にしてはおけない。真治に付き合えるのもここまでだ。後は真治だけで五十嵐さんを何とか助け出せ。」
「ええ、そうします。すっかり叔母さんこと忘れていました。ここまでお付き合いいただきまして有難うございました。」
「おいおい、他人行儀なことは言うな。全てすんだらその五十嵐さんを家に連れてこい。一緒に一杯やろう。」
さっと背中を向けて歩き出した。今生の別れかもしれない。そんな思いが二人にはある。もう一度顔を見たいという思いを募らせたが、涙もろい龍二はそうした愁嘆場を常に避ける。龍二の気持ちを汲むしかない。声を掛けたい気持ちをぐっと抑えた。
 しかし、大事なことを思い出した。しかたなく、声をかけた。
「叔父さん、大切なことを忘れてました。」
ぴたっと足を止めた龍二だが、振り向きもしない。
「ちょっと待ってて下さい。今小林刑事の携帯の番号をメモします。ヘリを用意しておいてもらった方がいいと思って。」
はっとして龍二も振り向いた。
「いい考えだ、追跡用のヘリを用意しろと言えばいいんだな。任せておけ。だけどお前が電話した方がいいんじゃないか。」
「ええ、でもヘリのことは叔父さんほど詳しくありませんから、叔父さんの口から詳しく話して下さい。ヘリは用意した、でも追いつけなかったなんて洒落にもなりません。」
「よしそれなら任せておけ。何と言っても俺はヘリ博士だからな。」
そう言って、石井のところに戻ってきた。
「そうだ、真治、最後まで教祖と満を追い詰める。これがお前に与えられた仕事だ。しっかりやれ。しかし、いつ飛び立つとも分からんのに、警視庁はヘリを用意してくれるだろうか?」
「ええ、大丈夫だと思います。彼らは満を逃がすという大失態をしでかしたうえに、怪我人まで出した。やれることは全てやる気になっているはずです。満を捕まえなければメンツがたちません。」
「いや、もう怪我人はいない。その撃たれた警官は死んだ。とにかく、その小林刑事に掛け合ってやる。お前もしっかりやれ。」

 それから一時間、苛苛しながら磯田の連絡を待った。しかし、なかなか掛かってこない。焦ってもしかたないと、肩の力を抜き、ふーと長い息を吐き、思った。叔父の言った通りだ。自分に与えられた仕事に最善を尽くす。これが一番大事なのだと。
 石井の顔が自然とほころぶ。スエデンボルグの逸話を思い出したのだ。詳細は忘れたが、こんなエピソードだ。神に近づくために何か修行しなければならないかという問いに、彼はこう答えている。修行など必要ない。それより与えられた仕事に専念しなさいと。
 彼に言わせれば、仕事は何らかの形で人の役に立っている。人のために役立つことが最も価値があると。これを読んで石井はスエデンボルグが好きになった。石井が今、何をすべきかも教えてくれている。
 石井の顔が真顔に戻る。そうだ、せめてあの問題を解決していたら、どんなにすっきりしただろう。ケーシーもスエデンボルグもキリスト教をその思想の基盤としており、キリスト教が世界人口の35%でしかないことを思えば、彼らの言う神は世界の人々を納得させるだけの普遍性に欠ける。誰もが神を感得できる別の論理が必要なのである。
 石井が思索を重ねる。人の喜びや悲しみ、哲学的思考から享楽的な感情まで、全ての想念波動は地上空間に残される。その人間が空間的に移動すれば想念波動もその軌跡を残しつつ移動する。これが個々の心を繋ぐ糸というわけである。
 この想念波動は瞬間瞬間に発生した空間に留まり波動し続ける。人が悲しみの場に再び立つ時、その悲しみは瞬時に蘇る。それは過去の波動がそこに残存しており、同じ波長だからすぐさま本人の波長と重なるのである。
 輪廻転生を考慮するなら、人は同じ波長で人種を越えて生と死を繰り返し、さらに太古から人類が地球的規模で移動したという事実を踏まえるなら、同じ波長は地球全体に広がり、その個々の振動の軌跡は縦糸と横糸が織りなす一枚の布のように地球を覆っている。
 その一枚の布とは、無限の、感情、思索、知識が詰まった集合的無意識であり、その中に高レベル(天界)から低レベル(地獄界)まで段階的な振動的階層を形作る。その秩序を作り出す源は物理学でいう宇宙を支配する四つの力なのか、或いは空の内蔵する無限のエネルギーなのか?
 やはり無限は神を連想させる。
 世界的な量子力学の権威であるデイビッド・ボームが言う。「1立方センチの中のエネルギーは、宇宙の今までに知られているあらゆる物質の総エネルギー量をはるかに超えている」と。つまり1立方センチの空は宇宙を創造するほどのエネルギーを秘めていると言うのである。この膨大さは尋常ではない。何か意味があるはずなのだ。ん、宇宙を創造するだって?
 
 突然携帯が振動し、驚いて思わず手から落した。携帯がアスファルトに叩き付けられる寸前、両手でつかんだ。ほっと胸を撫で下ろし、携帯を耳に当てた。磯田の「どうも」と言う微かな声が響いた。
「もしもし、石井です。磯田さん、どうしても力になって欲しいことがありまして。お願いします、ご協力下さい。頭をさげます。」
石井は本当に頭を下げていた。切羽詰っていたのだ。
「それより先輩は何であんなに怒っていたんです?」
「いえ、怒ったりしていません、安心してください。」
「別に心配して電話したわけじゃないけど……。何だか調子がいつもよりキツかったような気がする。本当に怒っていない?」
「ええ、ちっとも。」
「今、九州をほっつき歩いています。いつもの放浪癖が出て、どうしようもなくなって出奔したってわけです。」
「ええ、龍二さんから磯田さんの性癖は聞いていましたから。ところで磯田さんはかなり悟道会に相当食い込んでいましたよね。もしかしたらビルの内部にまで入っていたんじゃありませんか。そうとしか思えない情報を持っていましたから。」
「ええ、地下駐車場まで入っていました。」
「どうやって地下駐車場まで入ったんです。だってあそこは24時間体制で警備しているでしょう。」
「まあ、そうですが、何にでも抜け道はあるもんなんです。蛇の道は蛇。分かりました。教えましょう。ペンはありますか。電話番号を教えます。ええと、03の」
「ちょっと待ってください。今、用意します。03の・・」
メモを取り終わり、聞いた。
「どこの番号ですかこれは?」
「石井さん、あのビルには二百人近い人間がいます。その食料はどうしていると思います?三階に食堂があるんですが、調理するには材料が必要でしょう。その食材を都内の業者、コスモフーズから買い入れています。そのコスモフーズの配送所が練馬にあります。そこの横尾という運転手に5万円包んでください。地下駐車まで運んでくれます。」
「有難うございます。本当に感謝します。」
「それより龍二さんによく言っておいて下さい。僕の放浪癖もこれが最後になると思います。では、この辺で。」
石井はすぐさまそのコスモフーズの番号を押した。
「はい、コスモフーズです。」
「もしもし、運転手の横尾さんの友人の磯田と申しますが、横尾さんをお願いします。」
「生憎、もう帰りましたが。」
「もしよろしければ、家の電話番号か住所をお教えいただけませんか。」
「申しわけないですね。個人情報は本人の承諾がないと教えられないんですよ。明日朝には出勤します。明日電話してもらえませんか。」
あっけなく電話は切られた。104で探そうかとも思ったが、横尾という苗字は何千となく登録されているだろう。まして東京都内とは限らない。千葉、埼玉、神奈川、どこから通っているかもわからないのだ。がっくりと石井は肩を落とした。

第十五章 地獄への誘い

     (一)
 サウナを出て、練馬駅前で立ち食い蕎麦を五六口で胃に流し込むと漸く力が湧いてきた。いかなる時も食欲は衰えない。どんな按配であんなに線の細いお袋からこんな男が生まれたのか不思議に思いつつ急ぎタクシーに乗り込んだ。
 昨夜のうちにコスモフーズの配送所の場所は確かめてある。駅前からワンメーターの距離だ。配送の仕事は朝が早いと思い、サウナの従業員に6時半に起こしてもらい急ぎ着替えて出てきたのだ。
 結局、横尾が出勤してきたのは8時半で1時間半以上も手持ち無沙汰な時間を過ごすはめになったが、出勤してきた横尾の反応は頗るよく、待った甲斐があったと言える。
「あんた磯田さんの友人だって。それはうれしいね。あの人は金払いが良かった。あんたもそうだと嬉しいけど。」
すぐさまポケットから封筒をだして手渡した。横尾は中身を確かめると、
「じゃあ、乗ってくれ。そういえば磯田さんはいつも防寒着を用意していたけど、そんな格好でだいじょうぶ。この車だけど。」
と言って、二台並ぶ一方の冷凍車を指差した。石井はしまったと思ったが後には引けない。後ろに回ろうとすると、横尾がにこりとして言う。
「冗談、冗談、今日、あそこに行くのは11時だ。それまでは助手席でいいよ。さあ乗ってくれ。」
配達の手伝いをしながら、辛抱強く時の経過を待った。焦っても始まらない。石井は煙草を一本取り出し、火をつけた。深く吸い込む。車が信号で止まった。横尾が大口を開けてあくびをし、そして涙を拭いながら言った。
「しかし、この群発地震、どうなっているんだろう?観測史上初めてらしいね。いよいよこの世の終りかね?」
「そうですね、でも世界的規模で起こっているんですから、この世の終りでもお互い恨みっこなしで、いいんじゃありませんか。」
横尾が怪訝な顔で石井を見た。
「世界的規模?それってどういう意味?」
「いえ、いえ、三日間新聞もテレビも見ていませんから詳しくは知らないのですが。」
石井は悟道会の予言が頭にあり、世界的規模と言ったのだが違うのか?
「日本だけですよ。」
「げっ、それって本当ですか?」
龍二の言葉が甦った。千葉沖を震源にしていると。地球的規模の大災害にしては規模が小さすぎる。笑いながら横尾が言った。
「世界中が注目していますよ。いよいよ日本が沈没するんじゃないかって。小松左京の日本沈没って本、知りません。テレビで取り上げていましたよ。」
石井は思わずうなった。すっかり忘れていたのだ。
「さあ、これから悟道会ビルにひとっ走りだ。直前に冷凍庫に入ってもらうよ。」
石井は頷きながら、記憶の糸を丹念にほぐしていった。そうだ、似ている、確かに似ているのだ。あの今世紀最高の霊能者と呼ばれたエドガー・ケイシーの予言にである。そして彼の予言はことごとくはずれたのである。 
 石井はエドガー・ケイシーを高く評価するあまり、その否定的側面を記憶の外に追いやっていた。エドガー・ケイシーは、1998年までに日本は沈没すると予言し、それを下敷きにして小松左京は日本沈没というSFを書いたと言われるが、未だ日本は無事である。
 これだけではない。第二次大戦における日本の軍事行動に関しても、オーストラリアを攻撃するとか、米国本土を爆撃するとか、その殆どの予言がはずれているのである。まして日本人を蔑称であるジャップと呼称した。
 明らかに、その時、エドガー・ケイシーの口を借りた霊は日本人に悪意を抱いている。もしかしたら、教祖の予言の源も同じような霊なのではないか。であればまたはずれる可能性がある。いや、今度が本番で、ケイシーは時期を間違ったのか。
 もう一つリーディングが裏目に出た事例がある。それは、エドガー・ケイシーの能力に目をつけた資本家が、共同事業や多額の報酬を持ちかけ、油田発見、投資、不動産投機についてのリーディングを依頼したのだ。この時、彼のリーディングはことごとく外れて資本家の目論見は頓挫してしまった。
 このことがあってケイシーは「私はすべてのひとを助ける得るようだが、自分だけは・・・」つまり、その能力にによって自分を利することは不可能であること、そして人を助けることと「物質的利益を得ることは両立し得ないことを悟るに至った。」と語っている。
 とは言え、油田発見や投機のリーディングの時にも、間違いなく眠れるケイシーに霊は降りてきて、どこそこを掘れとか、あの株は間違いないぞとか発言したのだが、その霊がフィジカルリーディングやライフリーディングの霊と同じとは思えない。
 スエデンボルグはこう言う。「この世の人間は天界とも繋がっているが、同時に地獄界とも繋がっている。」と。エドガー・ケイシーの「予言」を語った霊はどちらから来たのか。人々に恐怖の種を撒き散らしたとうことを考えれば地獄、或いはそこに近いところから来ているのではないか?
 ふと佐々木が言った一言が脳裏に浮かんだ。「未来は神の領域」という言葉だ。そうだ、未来は神の領域であり、霊の領域ではない。憤然とそう思った。神は万物を創造されたのだ。霊は、スエデンボルグも言っているが元々は人間である。天使も悪魔もである。
 元来、人も動物も神から出たのだ。だとしたら、個の生き死に、或いは種の滅亡、全ては神の領域に属する出来事だ。その時に誰が死に、誰が生き残るかは神が決めることだ。霊やまして人間が関わることではない。
 すーと肩の力が抜けていった。そうだ神に委ねればいい。死ぬまでせいぜい全力を尽くす。五十嵐に会えるか否かそれは分からない。でも、今の石井は五十嵐を探し出すことに全力を尽くせばよいのだ。
 いきなりトラックが止まった。見ると寂れた倉庫の一角だ。横尾が降り立った。
「さあ、ここで冷凍庫の中に入ってくれ。中に入って外から見えない所に身を隠すんだ。万が一にも奴らが中を覗くことだって考えられる。」
 石井は冷凍庫の中に入った。横尾がドアを閉めた。中は真っ暗闇になった。冷気が肌を刺す。乱暴な運転で積んである荷物が滑って落ちた。しばらくして、車が止まった。恐らく悟道会ビルに到着したに違いない。坂を下る。キキキーといタイヤの軋む音がして、完全に止まった。
 ドアが開かれた。横尾がにやにやしながら片目をつぶった。どうやらOKらしい。ゆっくりと車から降り立った。広い駐車場だ。その割りに駐車する車はまばらだ。横尾が言うには在家信者たちが使用するスペースだという。
「上手くやれよ。納品はあのドアだ。あそこから忍び込むのは難しい。警備員が常に二人張り付いている。磯田さんはこの駐車場で過ごし、翌日、また俺が拾って引き上げた。あんたはどうする。」
「明日、僕がこの時間に現れなかったらそのまま引き上げて下さい。」
横尾が台車に荷物を載せ納品所に向かった。今のところ人の気配はない。磯田が言っていた。「教祖が帰って来た。」と。ということは、教祖はここから出入りしている。ここの出入り口を見張ることだ。ぐるっと辺りを見回した。30メートル先にエレベーターがある。
 よし、あそこだ。エレベーターに近付いた。大型のトラック、今時珍しい幌付きが好都合にも置いてある。恐らく磯田もあそこにもぐり込んだに違いない。車のエンジン音が響いた。急いで幌の中に飛び込む。
 幌の隙間から覗くとジープから坊主頭の3人の精悍な男達が飛び降り、エレベーターへ駆けつける。先に乗った男がボタンを操作した。ドアが閉まる。エレベーターの行方を視線で追う。6階、7階とボタンの光あがってゆき突然消えた。8階のボタンに明かりが移らない。
 何かがある。その何かを確かめるしかない。何度も揺れが襲ったが、それほど恐ろしくはなくなっていた。神にゆだねると心に決めたからなのか。また車が入ってきた。二人の若者がなにやら喋りながらエレベーターに向かった。
 ひ弱そうな若者達だ。エレベーターに乗り込む。また観察する。一人は7階で、もう一人は8階で降りたようだ。7階と8階の間に何かがあると見当をつけた。しかし、そこに行き着くためには何かしら操作があるはずだ。それを探るしかない。
 
    (二)
 杉田啓次郎は知らせを聞いて、屋上に出た。いよいよ迫っている。最後の時が。屋上から東京の街を見下ろした。これで見納めだと思うと一抹の寂しさが心をよぎった。この喧騒と猥雑さに満ちた街、それはそれで楽しみもふんだんにあった。
 待ち受ける未来は決して甘いものではないが、何とか生き抜いてみせる。声がして振り向くと片桐が、後ろ手に縛られ、猿轡を噛まされた女を連れて走ってくる。
「教祖さま、ヘリにお乗り下さい。それと、この女を見張っていて下さい。」
杉田の視線は女のつま先からゆっくりと上に向かい、胸の膨らみで止まった。恐怖で男が駄目になってしまったかと思っていたが、今はそれなりに欲情を覚えた。覚悟ができたのか、杉田は恐怖が少し和らいでいるのを感じた。女の腕を掴んでヘリの後ろ座席に押し込み、自分も続いて乗り込むと思い切りドアを閉めた。
 もうすぐ満がやってくる。ぞくぞくと背筋に嫌悪感が走った。あの野獣のような声、あの美しい顔から信じられようなしゃがれた声を発する。野獣としか思えない行為、殺戮を楽しんでいるのだ。
 しかし、今しばらくは付き合うしかない。予言と言う大いなる神秘に触れる喜びは、満と向き合わねば得られず、常に重苦しさとおぞましさを伴った。予言の鍵は満の心の中に秘められており、あの小さな口を通して語られるのだ。
 満の口から天の声が届いたのは満の声変わりがはじまった頃だ。その声は自らをペトロと名乗った。ペテロという名は、キリストの12使徒の一人だということぐらいしか知識はなかった。満の性癖が性癖だけに最初は疑ってかかったものだ。
 しかし、ペトロは言う。邪悪な精神に宿る純粋な魂、それが満だと。その魂があるからこそペトロは降りてきたという。半信半疑であったのは一月ほどに過ぎない。ペトロの予言は正確だった。未来の出来事を、場所、日時まで言い当てたのだ。ペトロに対する疑いはそれが金につながると確信したときから消えうせていた。
 信者は飛躍的に増えていった。それに伴いお金が入ってきた。次第にそれは膨大な金額になっていった。信じられなかった。巨額な資金が出来、その資金を市中金融に流した。もはや何も恐れるものはなくなった。
 しかし、おかしなことだ。そのペテロの正確無比の予言に恐れを抱くことになるとは。日本、米国、そして欧州で地殻に大変動が起こり、陸地はその姿を変え、多くの民族が海の藻屑と消える。僅かに生き残った人々がその血脈を残すことになる。
 満を富良野に連れていかなかったのは、新たな大地で再出発する人々から満の犠牲者を出したくなかったからだ。予言能力は最後の予言を境に失われたと言っても尊敬を失うことはないと判断した。
 それが思ってもみない事態に陥った。なにもかも、予想を超えていた。あのこともそうだ。ふと涙に滲んだ。何故、香子は自分を裏切ったのだ。信じられなかった。自分を心から尊敬し愛してくれていた。それが何故。
 あんな卑賤な職業の男に会って心を奪われた。だから殺した。殺されて当然だった。思わす興奮して指に持っていた煙草を握りつぶした。悔しさで目に涙が滲んだ。しかし、それも一瞬だった。重い現実が目の前に横たわっている。
 満は最も肝心な時期と安全な場所を変えて杉田に伝えたと言う。そんなことが本当に可能なのか?あのペトロがそれを許したというのか?ふと、そんな疑念を抱いた瞬間、何かを感じた。ゴーという地鳴りが腹の底に響いた。肌が粟立った。
 まさに今日なのだ。満の言う通り地鳴りが響いた。心のどこかに巣食っていた不安、満に対する不信が嘘のように消えていた。ゴー、ゴーという不気味な地鳴り。青い空にオレンジ色の光が何度も瞬く。稲妻が天から地に走る。もう間違いない。破滅はそこまで来ている。
 
    (三)
 三人の若者が車を降りた。一人はぐずぐず迷っているらしく、それを二人が促している様子だ。
「この群発地震だって教祖は予言していた。君も不安で僕らの誘いにのったんだろう。教祖はこう言っている。信じることだ。信じて祈ることが唯一の救いであると。信じる者だけが救われるとね。さあ、道場に案内しよう。」
躊躇していた若者も意を決したようにエレベーターに向かって歩み出した。その肩に手を置いてさっきの若者が語る。
「初心者は7階、僕らのいる8階は上級者用だ。最初は7階で始めるといい。指導者がいるからまず彼に紹介しよう。」
この時、ゴーっという地鳴りが響いた。幌付きトラックにいる石井も驚きのあまりちびりそうになったほどだ。冷や汗が頬を伝う。若者三人は地べたに這いつくばり、ひーっと悲鳴を上げた。
「さあ、早く、上に行こう。このビルは最高水準の耐震構造になっている。震度8まで持ちこたえるんだ。」
あたふたとエレベーターに乗り込んだ。エレベーターは7階、ついで8階に止まった。やはり7階8階の中間に何かがある。何故なら、10分ほど前、二台目のジープが乗り付け、精悍な若者達二人がエレベーターに乗ったがやはり7階を通過し次の8階のボタンは暗いままだった。エレベータの位置を示す灯かり消えるのだ。
 次に精悍な若者が現れたらドアの閉まる寸前で乗り込むつもりだった。石井もそう若くはないが、まだあんな若造に負ける気はしない。何としても秘密の階に行く気になっている。次の車が来るのを待った。入り口を見詰めた。
 その姿を認めた時、子供が走って来たと思った。小さな人影が走りこんできた。子供だった。身長は150センチにも満たない。しかしその顔には無精髯が蓄えられている。その目は血走っていた。少年はすぐさまエレベーターに直行した。そしてボタンを操作した。石井はトラックから飛び出し、ドアが閉まる寸前飛び込んだ。
「おじさん誰?」
「誰でもない。ただ秘密の階に行きたいだけだ。」
「あの階のこと知ってるの?」
「ああ、知ってる。」
「それじゃあ、一緒に行こう。」
エレベーターが上昇していく。8階の手前で止まった。やはりと思った。ドアが開く。石井はあっと声を上げた。精悍な男達が10人も控えていた。少年がエレベーターから降り立った。
 リーダーと思われる男が口を開いた。
「満さん、お待ちしておりました。今から屋上にお連れいたします。少しお待ち下さい。」
そう言って、男が満を迎え、そこに佇む石井に向かってにやりと微笑んだ。
「石井さん漸く現れましたか、お待ちしておりました。すっかり偽者をつかまされてがっくりですよ。私は相沢、いや片桐と言います。さあ、そこから出てきて下さい。」
石井は仕方なくエレベーターから出た。その瞬間精悍な若者達が石井を襲った。石井は取り囲まれ袋叩きにあって悶絶した。石井が倒れたのを確認し、片桐が怒鳴った。
「お前達は駐車場と正門玄関を見張れ。サツの奴らを何としても阻止するんだ。我々は教祖さまと満さまを秘密の場所にお連れする。」
はっという男達の声が響いた。それを石井は遠くで聞いたような気がした。片桐が最後の指示を直属の三人の部下達に伝える。
「お前達三人は、この男を見張れ、決して逃がすんじゃないぞ。いいか、分かったか。もし、警察がこの階をかぎつけたら、指示通り教祖の部屋にある金庫のスイッチを押せ。全てが灰になる。そして逃げるんだ。」
はっという三人の声が響いた。

第十六章 破滅

    (一)
石井は意識を失っていた。数分なのか数秒なのか分からない。朦朧とした意識の中に男達の争う声が入り込んできた。覚醒するに従い体中がずきずきと痛み、呻き声を上げそうになったが、漸く堪え男達の声に耳を澄ませた。
「おい、重雄、何処に行こうってんだ。俺達はここでこの階の秘密を守るんだ。それが役目だ。持ち場を放棄しようってえのか。」
「いや、ちょっと……。」
「いや、ちょっとじゃねえよ、この馬鹿野郎。」
別のもう一人が怒鳴った。石井は薄目を開け、様子を窺った。茶髪の後姿が見える。仁王立ちしている。その前に坊主頭が重雄と呼ばれた男の襟首をつかんで、今にも殴りかからんばかりの勢いだ。
 石井はすっと立ち上がった。仁王立ちした男の陰で、三人は気付かない。さっきのお返しとばかり、石井は茶髪の股間を後ろから思い切り蹴り上げた。茶髪は突然の激痛に悶絶した。はっとして坊主頭が重雄の襟首から手をはなし、石井に突進してくる。石井は引き下がらず前に出た。
 拳が飛んでくる。当たっても構わない。そのくらいの気構えがなければこの技の効き目はない。拳が頬を打った。距離が狭められた分、ダメージは半減している。石井はそのまま頭から突っ込んだ。強烈な頭突きで坊主頭が後ろに吹っ飛んだ。
 重雄の姿がない。屋上だ、エレベーターのボタンを押した。反応がない。いくらボタンを押しても一階からそれは動こうとしない。ロックされている。石井は廊下を走った。ドアがいくつもあるが全て鍵がかかっている。
 廊下のはずれに非常階段があった。耳を澄ますと足音がする。重雄も屋上を目指しているのだ。石井も階段を駆け上がった。途中で小林刑事に電話を入れた。小林はすぐ出た。
「満は今屋上にいます。私も階段で向かっているところです。ところでそっちは随分騒々しいですね。」
「ああ、我々も満を追ってビルの地下に入ったところだが、信者達の抵抗にあっている。結構、強面がそろっている。」
「そんなことより、ヘリの用意は出来ているのですか。はあはあ。」
「ああ、大丈夫。すでにこっちに向かっている。」
「とにかく、早く屋上に来て下さい。はあはあ。」

    (二)
 地鳴りが止んだ。時折空をオレンジ色に染めていた発光がなりをひそめ、雲ひとつない秋空が広がっている。嵐の前の静けさか。杉田はいよいよかと身構えた。その刹那ぐらぐらっと揺れた。強い揺れで、ヘリの四つロータが大きく傾きギーギーと音をたてた。
 戦慄が走った。満の手紙に書かれていた通り強烈な縦揺れだった。この後にくる巨大地震まで殆ど間がないと言う。満は間に合うのだろうか。手すりにしがみつき脚を踏ん張って耐えた。一分ほどで揺れはとまった。慌ててラジオをつけると、アナウンサーが今の地震について話している。
「いやー、凄い地震でしたね。モニターが飛んで床にはガラス片が散乱しています。恐らく震度6以上と思われますが、被害の状況など、これからお伝えしようと思います。」
杉田は苛苛しながら待った。次にもっと大きなのが来る。それが地面を1メートルも持ち上げるという巨大地震なのだ。血走った目で階段のドアを見つめた。そのドアが開いた。満と片桐が走ってくる。杉田は歓喜の声を上げた。
「間に合った、良かった、良かった。早く、早く。」
片桐がヘリのドアを開け、満を前の座席に座らせ、自分も操縦席についた。満が後ろを振り返って声を張り上げた。
「パパ、会いたかったよ。いったい何処に行っていたの。本当に長い出張だったね。」
その表情は何の屈託もなく無邪気な子供のそれで、まして声が子供の頃に戻っている。杉田は背筋に悪寒を感じながら、へどもどして答えた。
「ああ、ああ、長い出張だった。」
その時、片桐がエンジンをかけながら叫んだ。
「満さんの話では、邪魔が入って時間をとられたそうです。巨大地震まであと5分です。11時26分が運命の瞬間だそうです。」
ロータが唸りを上げ始めた。杉田が叫んだ。
「よし、飛びたて。」
ヘリは何度乗っても気持ちの落ち着かない乗り物だった。しかし、と杉田は思う。満の声が昔のそれに戻っている。かつて妻と満を名古屋の実家に残して東京に2年ほど単身赴任していた。そこで会社をクビになったのだが、確か満が声変わりする前だ。顔もその頃のように幼い印象を受ける。
突然、窓ガラスに人の顔がへばりついた。驚いて見ると重雄だ。何か叫んでいる。片桐が窓を開けて怒鳴りつける。轟音で何も聞こえない。片桐が胸から拳銃を取り出すのが見えた。青い煙が上がった。顔を血にそめた重雄が後ろに飛んだように見えた。いや、ヘリが飛び立ったのだ。
 ヘリはホバリングしながら方向を変えた。その時、石井はようやく屋上にたどり着き、ヘリコプターのなかに五十嵐がいるのを認めた。石井は全力疾走でヘリに向かって駆けた。途中で若い男の死体が転がっていたが気にもしなかった。浮き上がる寸前、石井は着陸用のパイプに取り付いた。思いのほか太い、十分に握れない。
 片手が離れた。もう終りかと思った。ふと見ると、ヘリは屋上のフェンスの上を通り過ぎようとしている。石井はそのフェンスを思い切り蹴って、パイプに両手両脚を巻きつけた。徐々に前方に移動し、交差するパイプに手を伸ばし、体を起した。
 ヘリは思ったより大きい。ドアの取っ手をつかもうとするのだが、とても届かない。いろいろやってみたが体を支えるのがやっとのことだ。ふと眼下の光景を見て、尻の穴がむずむずして下半身が縮みあがった。石井は思い出した。高所恐怖症だったのだ。それに加え、刺すような冷気が体の体温を奪って行く。ヘリは高みへ高みへと上昇していった。
 キャビンの中では、満が秒読みを始めていた。
「39、38、36、35、・・・」
杉田と片桐は息をひそめてその瞬間を待っていた。11時26分まで、あと
「30、29、28・・・・・・・」
この数年、彼等を恐怖のどん底へと陥れた最悪のシナリオが今現実になろうとしていた。じっと眼下を見詰めた。ビルと言うビルが倒壊し、ついで襲う大津波、生き残るのは僅かな人々だけだ。そしてその僅かな人々に自分が選ばれているのだ。恐怖と恍惚、戦慄と歓喜、奇妙に交錯する感情をもてあましていた。満の声も興奮してきている。
「7,6,5,4,3,2,1、ゼロ」
杉田と片桐は息を殺し、何事も見逃すまいと眼下を凝視した。その瞬間、満が歓喜に満ちた叫び声をあげた。あのしわがれ声だ。
「やったぞ、やったー。あれを見ろ。ビルというビルが崩れてゆく。街が波打っているのが分かるだろう。どうだ、俺の言ったとおりだ。そうだろう。わっはっはっは」
二人は必死で目を凝らした。しかし何も起きてはいない。遠くにみえる新宿の高層ビル群も、眼下の街並みも何ごともなく、静かに佇んでいる。
杉田と片桐が呆然として顔を見合わせた。
 しかし、二人には見えなくても、満には見えていた。何度も何度も夢に現れた未曾有の大破壊、満の復讐心を満たしてくれたあの日本沈没の序曲が始まっだ。満のしわがれた叫び声が響く。
「大竹清美、思い知ったか。俺はお前に救いの手を差し伸べた。しかし、お前はこの俺を警察に売った。バイタめ。お前の体はいまごろずたずたになって瓦礫の中に埋まってしまっただろう。ざま見ろ。渋谷で俺を馬鹿にした女達もしかりだ。」
満の吼える声は続く。杉田の顔が歪んだ。途方に暮れているような、泣き出しそうなその目は現実を見ようとはしていない。現実はあまりにも残酷すぎる。杉田は目を両手で覆い、大きな唸り声をあげた。片桐が左手で満の頬を打った。
「何も起こってはいない。大災害なんて起こってなんかいない。」
しわがれた声が轟く。
「お前には見えないのか。眼下で繰り広げられている地獄絵図が見えないのか?ほら五度目の大振動だ。見ろ、見ろ、あの東京都庁が崩れる、倒壊し始めた。」
満は歓喜の声を張り上げる。片桐はあんぐりと口を開けて満を見詰めた。
「こいつ、狂ってやがる。11時26分ってのは、自分が壊れる時間だってことか。」
そう呟くのがせいぜいだった。がくっと肩を落とした。こんな現実が待ち受けていようとは思いもしなかった。「なんてこった、なんてこった。」とつぶやき、次の瞬間、片桐は狂ったように笑い出した。
 満の恨み節、杉田のうめき声、片桐の高笑い。その空間は狂気が支配していた。猿轡を噛まされた五十嵐は、狂気の嵐のなか、ただ目を見張るばかりだ。
 暫くして片桐の高笑いが止んだ。操縦桿を握りながら後ろを振り返った。後部座席と格納スペースにぎっしりと積み込まれたありったけの食料と水。誰にも頼めず教祖と二人で運んだ。満の指示が性急過ぎて、十分に用意は出来なかったのだ。
これのために重雄を殺した。息子同様散々殴りはしたが、どこか捨ててきた息子の面影を求めていた。しかし重雄が自分達に加わろうとした時、無性に腹が立ったのだ。四人がようやく三月食いつなぐ程度の食料だったからだ。
ぎっしりと詰め込まれた食料、そこにどう紛れ込んだのか赤い靴下が一足垂れ下がっている。それが舌のように見え、まるで自分の浅ましさをあざ笑っているかのようだ。ぐったりとするような虚無、冷や汗が滲み出てきそうな羞恥、死んでしまいたかった。
 突如、片桐の心にふつふつと怒りが沸き起こった。そして教祖を睨みつけながら叫んだ。
「おい、教祖さまよ、どうする警視庁のヘリが追ってくる。逃げ切れない。おい、どうするつもりだ。えっ、どうなんだ、教祖さまよ。」
教祖は頭を抱え、下をむいたまま顔をあげようとはしない。教祖の口からもう呻き声は聞こえない。絶望を吐き出し終えたのか。片桐は、頭を抱え込み、がたがたと体を震わせている教祖を憎憎しげに睨みすえた。片桐がまたも吼えた。
「こんな男のために、俺は人生を棒に振ったのか。こんなクズみたいな男のために。」
惨めさを怒りに変えて叫んだ。
「女房も子供も捨てた。こんな男のために。」
叫んでさらに惨めさが増した。理不尽な思いが拳を動かし、その拳は唾を飛ばして喚き続ける満を殴りつけた。満はそれでも狂ったように喚き続ける。狂気は伝染する。片桐が怒りを爆発させた。
「教祖様よ、どう始末をつけるつもりだ。えっ、どう責任をとるつもりなんだ。俺がけりをつけてやろうか。この胸の拳銃で。えっ、どうなんだ。その取澄ました顔に風穴をあけてやろうか。」
 杉田がひょいと顔を上げた。その目は血走り、狂気と憤怒に満ちている。そして満に向かって突然叫んだ。
「貴様のせいだ。貴様が全ての元凶だー。」
いきなり後ろから満の首を絞めて強引に揺すった。満が喚きながら必死で抵抗する。杉田は右手で満の顔面を殴り始める。
「貴様が、貴様が、俺を破滅へと導いた。思い知れ、思い知れ、殺してやる。殺してやるんだ。いつかこうしようと思っていた。お前は俺の可愛い息子の体を乗っ取った。お前は俺から息子を奪ったんだ。何がペテロだ。貴様がペテロでないことなど最初から分かっていた。」
杉田はぐったりとした満を脇に押しやり、身を乗り出して前のロックを解除しドアを開けた。強烈な風がキャビンを吹き抜ける。両手で満の体を抱き起こし突風に晒した。
「何故、何故、お前は俺の前に現れた。お前のためにこんな現実に向き合うはめになった。殺しても飽き足らない。」
ぐったりとしていた満が目を開き、にやりと笑った。あのしわがれた声が響く。
「お前が、俺を呼んだ。あの日、会社をクビになった日、お前は絶望の淵で泣き喚いた。何とかしてくれってな。魂を売ってもいいって。だから俺が来てやった。俺を忘れたのか。あの世で一緒だった俺を。だからいい夢を見させてやった。お前は何もかも手に入れた。もう思い残すことはないだろう。」
一瞬、杉田の顔に怯えの色が走った。しかし怒りの方が優った。
「訳の分からないことを言いやがって、貴様など殺してやる。」
杉田は満のジャケットの襟首をつかみ、キャビンから落そうとする。満が振り返り叫ぶ。
「そうか、俺を殺すのか。それもいいだろう。あの世で待ってる。お前も早く来い。はっはっはっはっは」
「黙れ、黙れ、黙れー」
次の瞬間、満をキャビンから突き落とした。すぐさま後方のドアを開けると落下してゆく満に向かって叫んだ。
「ざま見ろ、ざま見ろ、地獄に落ちろ。はあ、はあ、はあ・・・ん、何だ?誰だ貴様は。」

    (三)
 石井は恍惚の中にいた。その恍惚は・・あれに近いと思った。と言うことは、死に近づいているということか?かつて石井はナイフで刺されて死にそうになったことがある。心臓の鼓動とともに肩から血が噴出していた。その時、石井は朦朧とした意識の中で強烈な恍惚感を味わっていたのだ。
 医者に言わせると、それは脳内麻薬物質が大量に放出されるために起こる現象ということになる。しかし、石井はあの微妙な感覚は単にそれだけのものではないと確信していた。その微妙な感覚とは、がんじがらめに縛られた物質から、つまり自らの肉体から徐々に開放されてゆくという感覚なのだ。
 この悦楽は肉体のあらゆる快楽とは異なる。しかし、ある時、・・あれに似ていると思った瞬間がある。それは一日ゲレンデで滑って、あのきつく締め付けていたスキー靴を脱いだ瞬間だ。足全体に感じた開放感がその悦楽にほんの僅かに似ていると言えないこともない。
 その微妙な開放感を千倍にも、万倍にも増幅させた感覚なのだ。肉体とその周辺の境が次第に希薄になって、体が溶け出すような感覚。肉体と言う重い鎧を脱ぐことによる開放感をも含んで、空と一体化するような感じがした。
 そして思った。神は優しいと。たとえそれが脳内麻薬物質によって引き起こされた現象であったとしても、死を迎える人間に苦痛を和らげる仕組みを作っている。そのことが神は優しいという、その証左としか思えなかったのである。
 視界に影が走る。石井の視線は一瞬、声は聞こえないものの、けたたましく高笑する満の顔を捉えた。落下してゆく満の顔には恐怖の色はない。何が可笑しいのか小さく遠ざかる顔はまだ笑っていた。
 ふと気配を感じて見上げた。髪を振り乱した男と視線が合う。目は血走り頬が風圧を受けて小刻みに震えている。何かを言ったがその声は聞こえない。誰なのか思い出そうとするが朦朧とした脳髄は何の反応も返してはこない。
 男は消えたかと思ったらすぐ姿を現し、憎々しげに睨みすえ、腰を落とすと脚でパイプにつかまる石井の拳を蹴り始めた。痺れかけた手には痛みは感じないものの、パイプを掴んだ指が徐々に力を失ってゆく。ずるずるパイプから指が滑る。
 渾身の力を込めて握ろうとするのだが、指先が震えるだけだ。一瞬、走馬燈のようにこれまで歩んできた人生の断片が浮かんでは消えた。これがあれか!と思った瞬間、手が完全にパイプから離れた。体が完全に宙に浮いた。
 腹にどすんという衝撃を受け我に返った。まだ体はヘリコプターから放たれてはいない。少し前、手元があやしくなってきたので、ベルトをパイプに通していたのだ。体はそのベルトによってヘリコプターと繋がっていた。
 男は舌打ちして、腰を浮かせてパイプに脚を掛けた。両足を器用に操り、ベルトをはずそうと試みている。しかし、石井の全体重を支えるベルトはそう易々とはずれるものではない。男は意を決してパイプに降り立った。朦朧とした意識の中、石井は覚悟を決めた。

 その少し前…。
杉田は、満をキャビンから突き落とした。すぐさま後方のドアを開けると落下してゆく満に向かって叫んだ。
「ざま見ろ、ざま見ろ、地獄に落ちろ。はあ、はあ、はあ・・・ん、何だ?誰だ貴様は。」
杉田が振り返り片桐に言った。
「片桐、銃を貸せ。もう一匹地獄に叩き落してやる。石井だ。香子をたぶらかした奴だ。殺してやる。おい、銃をよこせ。」
片桐が答えた。
「お前の命令は聞かん。それに重雄を撃ったのが最後の弾だ。そんなに殺りたければ蹴落とせばいいだろう。その自慢の長い脚でよ。」
二人は睨みあった。教祖は力なく笑い、背中を向けしゃがみこんだ。片桐が五十嵐に声を掛けた。
「おい、お嬢さん、恋人が下にいる。」
五十嵐は驚いて片桐を見た。片桐がにやりと笑う。意味が分からない。首を左右に振って意味を問う。片桐が顎をしゃくった。五十嵐は片桐が示した方を見た。教祖が手すりにつかまり、片足で何かを蹴っている。片桐が言った。
「教祖を蹴落とせ。恋人が危ない。」
はっとして教祖の後姿を見詰めた。教祖は下にいる石井を蹴落とそうとしている。思わずかっと血が騒いだ。教祖は両側にある手すりにつかまって、右足で石井を蹴っている。しばらくして、下に降り立った。五十嵐は咄嗟に手すりを握る教祖の右手を蹴った。教祖の右手がはずれ体が前に傾いた。
 すかさず思い切り左手を蹴った。その手が手すりから滑った。くるりと体をこちら側にむけた。一瞬途方にくれるような表情を浮かべ、ついで恐怖に顔を引き攣らせた。ゆっくりと落ちて行く。五十嵐は呆然と立ち尽くしていた。
「おい、ロープを切ってやる。こっちに腕を向けろ。」
後ろで片桐の声が聞こえた。

 石井は飛行するヘリと一心同体になっていた。パイプと平行に吊られている状態で飛んでいるような感覚を楽しんでいた。空気が薄く、さらに冷気が体の体温を奪い、意識は朦朧としていた。しかし体全体は恍惚に包まれていた。
 このまま死を迎えてもよいと思った。口を大きく開けると強烈な風圧が唇をぶるぶると震わせ体の中を空が通り抜ける。地平線は丸みを帯びその周辺は雲に覆われその輪郭は定かではない。
 左に島影が見える。伊豆七島だろうか。右には雲のまにまに富士の頂が顔をのぞかせている。ふと、石井の視線は眼下の雲をとらえた。雲が踊るように波打ったからだ。雲の波は渦を巻きそして一瞬にして消えた。その直後、同じ位置に再び雲が現れたのだ。その雲は今度はゆっくりと波打ちながら舞うように移動を始めた。そして一瞬のうちに再び消えしまった。まるで魔法でも見ているような光景だ。ふと、何かがすっと脳膜内に入り込んだ……。
 衝撃が走った。雷にでも打たれたような衝撃だ。思わず叫んだ。
「何てこった、何で、何で、こんな簡単な理屈が分からなかったんだろう。神がこんなに身近に潜んでいたなんて思いもしなかった。何のことはない、空が神じゃないか。今、神が見せてくれた。今、空が雲を作ったように、空が宇宙を創造したんだ。ってことは、空が神ってことだ。そして雲が波打ったように、空も波打っていたんだ。」
全てが一瞬にして見えた。歓喜が石井の体内に入り込んできた。心の底から歓喜がこみ上げてきて、そしてはじけた。石井は恍惚として笑い続けた。その笑い声は強烈な風圧によって瞬時に掻き消された。しかし歓喜はそれを押しのけ後から後から湧き出てくる。
 ふいに五十嵐が顔をのぞかせた。何か叫んでいる。石井は我に返った。五十嵐は聞こえていないと分かるとヘリから身を乗り出してくる。石井もパイプに掛けた手に最後に残った力を振り絞り、体を持ち上げた。二人の顔と顔が近づく。
「上がってもいいって。」
「何だって?」
「片桐さんが、中に入りなさいって言っているわ。」
朦朧とした意識に安堵感が広がった。途端に恐怖が襲ってきた。体中が震えていた。今、自分の置かれている危険な状態を意識し、高所恐怖症が甦った。五十嵐が叫んだ。
「さあ、この輪に体を通して。」
ロープの先になるほど丈夫そうな皮の輪が繋がっている。それを体に巻きつけ、そしてベルトをはずした。ロープがぴんと張り、石井の体は持ち上げられた。キャビンの中に引っ張り込まれ、石井は五十嵐の体を抱きしめた。五十嵐の柔らかな体がその体温を伝えてくる。片桐が声をかけてきた。
「下に取り付いたのは分かっていた。よく落ちなかったな。」
張りのある大きな声だ。
「ああ、まだ死にたくなかった。」
震えながら答えた。
「お前さん、優秀な刑事だったらしいな。昔の仲間に調べさせた。」
五十嵐が聞いた。
「ということは、片桐さんも警視庁?」
「昔のことだ。もう、忘れた。それよりお似合いだな。」
「・・・・」
「二人のことだ。」
石井は五十嵐を強く抱きしめた。暖かい肉体だった。
「結婚するのか。」
「ええ、そのつもりです。」
石井が答え、五十嵐はにこりと微笑んで石井を見上げた。
「まったく見せ付けるね。」
これまでのドタバタ劇が嘘のようにゆったりと長閑な時間が流れている。石井がふと思い出したように聞いた。
「さっき落ちていったのは教祖ですか?」
「ああ、このくそ寒いのに海に飛び込んだ。」
「あれがやはり教祖だったんだ。その前に満が落ちていったようだけど?」
「ああ、教祖が突き落とした。満は生きたままあの世の地獄に落ちていった。俺は生きたままこの世の地獄にいる。似たもの同士ってことさ。」
 片桐がことさら大きな声を上げて笑ったが、二人は黙ったままだ。
次第に体温が戻ってきている。石井は五十嵐を抱きしめ、瞑目している。言葉が途切れ、片桐は操縦桿を握り前方を見詰める。石井に話しかけてきた時、片桐は一度も振り向かなかった。それに無理に声を弾ませているように思え、もしかしたら泣いているのではないか、石井はそんな気がしていた。
 石井は五十嵐を抱く腕に力を込めた。五十嵐は石井の胸で寝息をたてている。ふと安堵の内にあの歓喜が蘇る。石井は思う。真理は単純であればあるほど気付きにくい。しかし、眼下に見えた雲の動きは、石井にインスピレーションを与えてくれた。
 世界的な量子力学の権威であるデイビッド・ボームが言う。「1立方センチの中のエネルギーは、宇宙の今までに知られているあらゆる物質の総エネルギー量をはるかに超えている」と。つまり1立方センチの空は宇宙を創造するほどのエネルギーを秘めていると言うのだ。
 つまり、空は無限のエネルギーを有する。星や銀河が生成と消滅を無限に繰り返す宇宙も、或いは無限に膨張する宇宙も、無限のエネルギーを有する者のみが創り得るのである。つまり宇宙の創造者は空だ。そして全ての宗教に共通する教義は、神が宇宙を創造したということ。だとすれば、宇宙を創造したのは空なのだから、空こそが神ということになる。
 物質の本質についても、石井の得たインスピレーションは非常に単純なものだった。物質は突如何もない空から生じる。どのように?実は空自らが振動して素粒子へと変貌するのである。物質の最小単位と言われるクオークは空の振動によって作られる。
 我々の体を構成する全ての原子は空の波動によって生じる。つまり我々は空から生じたというより、実は、空がその姿を変えているに過ぎず、物質化した空なのである。
 この事実は、我々の心或いは意識というものも説明出来る。つまり、我々が空そのものであるなら、そこから生じる想念波動もやはり空ということである。物質化した空から生じた想念化した空であり、心とも意識とも呼ばれる魂そのものである。それが絡み合い縁を形成しながら集合的無意識を構成する。
 現代物理学によれば、宇宙は四つの力によって支配されていると言う。ケーシーの「物質界に現されている宇宙緒力の創造エネルギーと一つになる」という言葉は、この四つの宇宙諸力の創造エネルギーの源である空、すなわち神の元に帰るという意味となる。その時、個としての波動は止み、空と一体となるのである。
 ふと、石井は苦笑いを漏らした。自分の勘違に気付いたからだ。実は、集合的無意識は仮の宿にしか過ぎず、人類が真に帰るべき『母なる海』とはこの「空」であったのだ。物質化した空、つまり堕ちた天使が、物質から開放され、天(空)に帰るには純な魂となって昇華するしかない。『母なる海』はそれを心待ちにしている。
 黙想する石井の顔に満足げな笑みが浮かぶ。その時、片桐が再び大きな声を響かせた。
「さあ、ビルに着陸する。降りる用意をしろ。キャビンのドアのロックを外せ。おいおい、ポリ公がうようよいやがる。まさに大捜査線だな。」
高らかに笑っている。ヘリが屋上へ下りてゆく。警官が着陸地点を取り巻くように集まってきた。
 ヘリが警官達が作る輪の中心に着地した。エンジンが切られた。ロータはその回転速度を急速におとしてゆく。警官達が近寄ってくる。

 片桐が始めて振り返り微笑みかけた。
「これも何かの縁だな。」
「ええ、私もそう思います。きっと前世でも会っていると思います」
片桐の視線が揺れた。そして僅かに頷くと、微笑んだ。石井も片桐を見詰めたまま笑顔を返した。

石井は立ち上がり、
「それじゃあ、先に下ります。」
と言うと、五十嵐の手をとりキャビンのドアを開けた。
 田村警部が前の窓ガラスをドンドンと叩いた。前のドアはロックされたままだ。片桐が待っていろとばかり、田村に手をふる。そして足元に置いてあるアタッシュケースを開けると、拳銃のカートリッジを取り出して装着した。
 それに気付きもせず、田村警部がまたドンドンと叩く。石井と五十嵐が降り立つと、後部座席に入れ替わるように小林刑事が入っていった。
 五十嵐の肩を抱き、歩き出した直後、田村警部の悲鳴のような声、続きバンという銃声が響きわたった。驚いて二人で振り向く。しばらくして小林刑事が顔を血だらけにしてキャビンから降りてきた。その足取りは覚束ない。
 一瞬、胸が凍るような感覚に襲われた。田村警部が恐怖に顔を引き攣らせ後退りする。その時、小林と同年輩の初老の刑事が近寄り、その体を支えようとした。小林刑事はその手を振り払い、尻のポケットからハンカチを取り出し、血だらけの目の辺りを拭った。そして言った。
「野郎、死ぬのは勝手だが、人様の迷惑も少しは考えろってえの。血を浴びせやがって、何も見えやしねえ。それに一張羅がだいなしだぜ。」
 ほっと胸をなでおろし、石井は五十嵐を抱き寄せ歩き出したが、ふと、足を止め振り返ると、血に染まった風防ガラスに向けて合掌した。五十嵐も慌ててそれにならう。その頬を涙が伝う。
 二人は再び歩き出すが、五十嵐の涙は止まらない。石井は立ち止まり、その肩に手を置き語りかけた。
「いいか、片桐さんはようやくこの世の地獄から逃れられたんだ。今はきっとほっとしている。それに男としてケジメをつけたかったんだ」
「それは分かっている。でも、何であんな教祖と出会ってしまったのかしら。もし、出逢わなければ、きっと立派なデカとして、人生を全うできたはずよ」
「それはね、神様から与えられた試練なんだ」
「神様?」
「そう驚くな、俺は神様を信じているんだ。その試練に、片桐さんは押しつぶされてしまった。でも、きっと次はウマくやると思う」
「次って、つまり、輪廻転生ってこと?」
「ああ、その通り。人生は一回こっきりじゃない、何度でもやり直せる」
「ふーん、でも、そうかもしれない。そう思ったら何だか気が楽になったみたい」
「そうだ、そう思えばいい。人生に失敗はつきものだ。でも、生きている限り、やり直しはきく。たとえ死んでもまたチャンスはある」
「分かった、そう思うことにする」
二人は頷き、ほほえみあい、そしてまた歩き始めた。


 屋上のドアの手前で来て、五十嵐が「あれっ、いけない」と言って立ち止まった。石井が何事かと顔を向ける。
「忘れてた、山口君、倉庫に監禁されたままだわ。助けてあげないと。」
にこりとして石井が答えた。
「よし、二人で助け出そう。」
「でも山口君、真治のこと分かるかしら。ひどい顔よ。」
「そんなにひどいか。」
 二人は笑いながらエレベーターに向かった。

 石井の前に、足早に階段を駆け下りる五十嵐がいる。ちょっとびっこを引きながら石井がその後を追う。五十嵐の後ろ姿を見ながら、石井は思った。「空」のことは五十嵐だけには話そうと。
 笑われるかもしれないが、それはそれでかまわない。あの時、神が富士山頂で見せてくれた光景、雲が波うち、舞い踊り、そして消えた。再び現れると今度はゆっくりと舞い、そして一瞬にして消失したのだ。
 単に水蒸気の気温による変化と気流の悪戯に過ぎないのだろうが、それは神が石井に真理を感得させるために起した現象なのだ。石井は一人で納得し、にこにこしながら何度も頷いた。窮地を脱した安堵感と難問を解いた爽快感が心を満たしていた。
 しかし、石井は、遅れてくる石井をちらりと見上げる五十嵐の目に猜疑の色が宿っているのに気付いてはいない。五十嵐の脳裏には教祖の言った言葉がこびりついている。
 教祖は、石井が香子をたぶらかしたと言った。「たぶらかした」とは、いったいどういうことをしたのか?嫉妬が渦巻いている。どうやら、二人の間に、ひと波乱ありそうである。

予言なんてクソクラエ

予言なんてクソクラエ

主人公、石井は探偵職員だが、元は警視庁の辣腕刑事。とはいえ、今の仕事の大半は浮気調査。ある日、石井は殺人現場から立ち去る女を目撃する。それが初恋の人と判明し、容疑者として浮かび上がる。彼女と接触し自首を勧めるが、彼女の答えは11月20日まで、待って欲しいというもの。実はその日付は新興宗教教祖の恐怖の予言、日本列島壊滅の日であった。教祖一味と探偵石井の熾烈な戦いが始まる。

  • 小説
  • 長編
  • アクション
  • サスペンス
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-06-28

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 第一章 目撃
  2. 第二章 予言
  3. 第三章 悟道会
  4. 第四章 再会
  5. 第五章 失踪
  6. 第六章 二人の逃亡者
  7. 第七章 逃避行
  8. 第八章 悪夢
  9. 第九章 悟道会教祖
  10. 第十章 神と霊
  11. 第十一章 落ちた偶像
  12. 第十二章 連続暴行魔
  13. 第十三章 仮面
  14. 第十四章 地獄からのメッセージ
  15. 第十五章 地獄への誘い
  16. 第十六章 破滅