ボートと屋形船

 真歩は小さな手漕ぎボートで、大きな川を渡っていた。
 周りにはいろいろな船があった。高速で水面を走るモーターボートや、屋形船、公園の池で泳いでいる、アヒル型の足漕ぎボートなどがある。
 川の流れに沿っていけば、いずれ海へ出る。だれもが、脇目も降らず、船を漕ぐ。

 真歩は、ボートを漕ぎながら、友達のモーターボートや、屋形船を羨ましげに眺めていた。
 同じボートなのに、どうしてこんなに違うんだろう。やっぱりあの子の船の方が早く海に辿り着くのかな。

 青く霞んだ海は、巨大な灰色の雲がかぶさって、はっきり見えなかった。しかし、川が海へ流れるので、海へ向かうしかなかった。
 真歩は、横を向いて岸を眺めた。三日前はビルが建ち並んでいた。昨日は、瓦屋根が多く、今日はオレンジのコスモスが咲き乱れている。
———わあ、きれい。ちょっと寄っていこうかな。
 真歩は方向を変え、岸に近づいた。コスモス畑はどんどん近くなり、甘い香が漂ってくる。
 あんな訳のわからない海へいくより、ここで暮らした方がいいかもしれない、と、思った。

 後ろから、真歩ちゃーん、と呼ぶ声がした。
 小学校五年の時に仲良しだった由美子ちゃんが、心配そうに見ている。
「早く戻っておいでよ。皆においてかれちゃうよ」
 真歩は手を大きく縦に振って答えた。
「ねえ、海にいくより、こっちの方が、楽しそうよ。一緒にこない?」
 由美子ちゃんは、一拍、黙り込んだ。そして、真歩を軽蔑するように見た。
「真歩ちゃん、岸には人喰い狼がいるの、知らないの?」
 さっきまで、軽やかに弾んでいた気持ちが、急にこわばった。
「狼?」
「先生がこの間、言ってたじゃない」
 咎められているような目つきに、真歩はたじろいだ。
「知ってなきゃいけないことなの?」
「あたりまえじゃん。喰い殺された人いるんだよ。自分の身を守るのは、自己責任だって、あたし、おかあさんにも、先生にも、言われたよ」
 そういって由美子ちゃんは、ボートを漕いで行ってしまった。
———先生、そんなこと、いってたっけな。
 真歩は何度も何度も、思い出そうとしてみたけど、そんな記憶は出てこなかった。
 急に自分の記憶力が不安になる。それよりももっと不安なのは、軽蔑したような視線を投げて、真歩を見捨てていった由美子ちゃんだった。自己責任という言葉が、重く、冷たく、真歩の胸に響いた。

 急に辺りが暗くなり、雨が降ってきた。雨脚はだんだん強くなり、屋根のついていない小さなボートを漕いでいた真歩は、たちまちずぶぬれになった。
真歩は、まわりを見渡した。屋根付きのボートに乗っている人は、何の心配もなく進んでいたが、真歩と同じ、屋根無しのボートに乗っている人は、頭の天辺を手で覆って川面に浮かんでいる。

 一際大きな屋形船が視界に入った。屋形船の中は、ちょっとしたお座敷になっていた。船主らしい女の子が、数人の友だちを、座ぶとんに座らせていた。外には、お友達のものらしい屋根のないボートが五、六隻、繋がれている。
———いいな、雨宿りさせてもらえて。
 本当は、雨宿り支えてもらえる子よりも、数人の友人をのせるだけの船を持っている船主の女の子が、うらやましかった。真歩は自分の、誰も乗せることができない、嵐に遭ったら沈没しかねない屋根無しボートが情けなかった。
 あんな立派な船に乗っていたら、軽蔑されたり、見捨てられたりすることはないだろう、と真歩は、窓に並ぶきれいな赤提灯を見ながら思った。

 屋形船に向かって、さらに何隻かのボートが向かっていた。
「濡れちゃうんです。どうか乗せて下さい!」
 屋形船から、船主の女の子が出てきた。近づいてくるボートに向かって叫んだ。
「こないでください。もう、定員いっぱいです!」
 すでに屋形船は、十数隻のボートに囲まれていた。皆屋根のないボートで、頭からずぶぬれになりながら、懇願するように、屋形船を眺めている。
「そんなこと言わないで乗せてよ。僕らのボートに水が貯まってきて、沈没しちゃいそうなんだよ」
 屋形船に辿り着いたボートから、人が乗り移り、屋形船の中に人が増えていく。乗員人数を超えた屋形船は、ずしっと水面に沈んだ。
「無理です! お願いだから降りてください!」
 船主の女の子は、持てる限りの声を使って叫んでいた。しかし、命からがら屋形船に乗り移った人達は、女の子の声など気にもせず座敷に入いりこみ、座ぶとんを取り合っている。
 雨脚はどんどん強くなり、風も出てきて、重くなった屋形船が、ゆらゆらと揺れた。人が乗り込んでくる屋形船は、ずしりと川面に沈み、もうすこしで、座敷に浸水しそうだ。それなのに、屋形船に近づいてくるボートが後を断たない。

「あの船、乗れそうもないな」
 真歩は絶望的な気持ちで、岸へ向かって漕ぎ出した。岸には、コスモス畑はなく、ただ広い草原が広がっているだけだ。しかし転覆するよりはましだ。
 川の流れは異常に早く、どんなに漕いでも、岸につくことができない。だんだん腕が痺れてきた。
 歯を食いしばって、血豆ができたてでオールを動かした。近づいてくる岸を見て安堵のため息が出た時、岸にうごめいている黒い生き物に目が止まった。
 狼だ。口のまわりを血だらけにして、獲物を食いちぎっている。よほど飢えているらしく、獲物の肉を引き裂く時の荒い息がこっちまで聞こえてくる。
 由美子ちゃんがいったことは、本当だった。
 ひどく失望しながら、真歩は、狼たちにめちゃくちゃにされている白いものに視線を移したとき、おそろしさのあまり、オールを川に落としそうになった。
 それは、中学一年の時に一緒のクラスだった山田君だった。活発で明るくて、ときどきピントのずれたことを言う、面白い子だった。真歩と同じような、屋根のないボートに乗っていた。
 雨宿りするために岸に辿り着いた所を襲われたのだ。彼のものらしい、ちぎられた腕が、無惨な形で岸辺に転がっていた。
 真歩は血豆の痛みも忘れて、オールを握りしめると無我夢中でばたつかせ、岸を離れた。黒い空に雷鳴が轟き、白波の逆巻く川は、小さなボートを、あっという間に河口へ押し流していく。

 いつの間にか、海がすぐ目の前にあった。
 どっぷりと深い紺碧を激しくうねらせ、小さなボートを呑み込もうとしている。
 もう雨宿り所じゃなかった。早くこの嵐が過ぎてくれるのを願いながら、転覆しないよう、バランスを保って漕ぎ進むだけだった。

 誰かの悲鳴が聞こえた。
 屋形船の方からだ。真歩は、額を流れる、しょっぱい雫を拭って目を見開いた。
 さっきから、もう乗らないで、と叫んでいた、屋形船の船主の女の子が、川に投げ出されたのだ。
「助けて。誰か助けて」
 女の子の顔と左手が水面に、浮いたり沈んだりしている。
 真歩は、オールを握りしめたまま、女の子を見守った。飛び込もうか。しかし、この船が、流されてしまう。
 真歩は屋形船に向かって、叫んだ。
「誰か彼女を助けてよ!」
 屋形船から身を乗り出した人達は、溺れている女の子を傍観している。自己責任よ、といって去って行った由美子ちゃんの視線にあまりにも似ていて、真歩は凍り付いた。
「ねえ、助けてもらったんでしょう? 彼女を見殺しにするの?」
 屋形船に乗っている人の多くの視線がこっちに向いた。迷惑そうな、怯えたような、敬遠するような、軽蔑するような視線に、真歩は突き飛ばされた。
———そんなこと、できないよ。
———じゃあ、あんたはなんで、助けないのよ。
———私まで突き落とされる。
———あたしだって、生きたいんだよ。

 屋形船の船頭に、男の子がいた。
 他のボートから友だちを屋形船に乗せていた。
「この船。いいぞ。中はお座敷だし、鍋も食えるぞ!」
 真歩は、目の前の恐ろしい光景に、声を失った。
 あの男の子が、突き落としたのだ。屋形船を乗っ取るために。

 真歩は、ボートを必死で漕いで、溺れている女の子に近づいた。
「がんばって! 今いくからね!」
 川の流れは速く、ボートをいくら漕いでも、女の子はまったく近くならない。ついに、女の子の手が濁流に飲まれ、見えなくなってしまった。
 真歩は泣いた。自分の無力さと、女の子の悲運と、男の子達の強欲を嘆いて泣いた。雨が激しく頭から叩き付ける。塩っぱい涙が、服をつたって川に流れていく。

 突然、突風が吹いた。ものすごい飛沫を上げて屋形船が転覆した。乗っていた人たちが川に投げ出され、屋形船を乗っ取ったあの男の子も、川面に顔を突き出して、必死で助けを求めている。
 真歩は、男の子が水面に沈んだり浮かんだりしているのを、冷めた目で見下ろしていた。すると、真歩ちゃん、真歩ちゃんと、呼ぶ声が聞こえた。
 川に投げ出された人が、助けを求めて、こっちへ泳いでくるのだ。
「こないで! こんなちっちゃな船、あなたたちなんか乗せられない!」
 真歩は、やみくもにボートを漕いだ。海へ進むことよりも、助けを求めて寄ってくる人たちから逃げるために。どこへいくかなんて、もうどうでもよかった。
 
 

ボートと屋形船

ボートと屋形船

真歩は、ボートを漕ぎながら、友達のモーターボートや、屋形船を羨ましげに眺めていた。 同じボートなのに、どうしてこんなに違うんだろう。やっぱりあの子の船の方が早く海に辿り着くのかな。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-06-26

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