橙の夢

 眼鏡が重い鼻に乗つかる異物感が気に障るこうなるともう本も読めない。僕は眼鏡を外し膝の上にそつと置く途端にぼやける両の視界手元の文庫本をふたたび開く。けれどやつぱり文字が追えない諦めて顔を上げる目の前にはスカアトから生える足がある。細く伸びた足そのまま視線を上に移動するすると清楚な風のセエラア服つつましやかな胸の膨らみ長い黒髪文庫本僕は眼鏡をかけ直す。本が邪魔して顔が見えないああじれつたいと思いつつ目に入るのは谷崎の文字谷崎潤一郎痴人の愛。読んでいるのは痴人の愛あの性倒錯の悲惨な男の奔放な少女の話をセエラア服の女の子が読んでいる痴人の愛を読んでいる僕は僅かに昂奮を覚える。
 この目の前のセエラア服の細足の黒髪の女の子顔は未だ見えない声も聞いたことがない名前も知らないまして話したこともない女の子。僕は夢見る車窓から見える橙の夕陽を見つめながら夢見る。四つん這いになつてこの女の子の馬になつてこの僕の背中にこの女の子を跨らせてぱからつぱからと部屋の中を歩き回つてみたいこの女の子に脇腹を蹴られながら乱暴な言葉遣いで罵られながらああ蹂躙されてみたい。僕はこの女の子にナオミと名付ける。
 駅に着いて席を立つ僕はナオミを横目に名残惜しく電車を降りる。降りてから駅のホオムからじつとナオミを眺めているとナオミはハツと気付いたように顔を上げるホオムの駅名表示を見るそしてあわてて電車を降りようとするけれど目の前で扉が閉まる。電車は発車するナオミは何事もなかつたように扉の前でふたたび痴人の愛を開くナオミがナオミになる。ナオミの顔。一瞬覗けたナオミの顔あわてながら一歩を踏み出す扉が閉まつて失敗したような誤魔化すような豊かな表情を示すナオミの顔ふたたびすまし顔で本を開くその顔は猫つぽい子供つぽいそれでいて大人びた両極性。僕は胸打つ鼓動を自分で聞き瞳に焼き付いたその顔を思いだす思いだすとまた心が震えるもう駄目かもしれない。ホオムでナオミを待とうかと考え考え直す。何をできるわけでもない話し掛けられない目も合わせられないだとしたら夢は夢のまま心に温存してこのままこの場を去るのがいちばん美しい。
 ホオムから階段を上ると駅舎には橙した光が射し込んでいる僕は思わず身体を乗り出してその色を眺める窓越しに橙が僕を照らす。曇り空から漏れる光と言えど裸眼で直視した僕の目を暮れなずむ陽光は燦々と照らすその光に容赦はない。愚かしい夢も収まらぬ動悸もすべてすべて白日の下に晒け出されてしまいそうな羞恥を覚える僕は瞼を閉じるまた開くまた閉じる時が過ぎてゆく永遠とも思われるような時がここにある。
 振り返るとナオミがいるセエラア服の細足の黒髪のナオミが突つ立つているそしてぼうつと窓の外を眺めている。僕と同じように橙に夢見るかのようにその猫つぽい子供つぽいそれでいて大人びた両極性を持つ顔を照らしつけられながら眩しそうにその猫つぽいおおきな眼を細めながら夕陽を見つめている。僕が窓の側から離れるとナオミは足を進めてもと僕がいた場所へと歩みゆき僕と同じように窓から身体を乗り出してめいつぱい乗り出して一心に僕が見た景色を見つめはじめる。橙に照らされるナオミのその細足の黒髪の後ろ姿の加わつた景色をぼんやりと見ながら佇む風に揺れるスカアトを見るただようやわらかな匂いをかぐ瞼を閉じるまた開くまた閉じる時が過ぎてゆく僕は橙に夢見る。

橙の夢

文体は当初谷崎を意識したわけではなかったのだけれど、なんだか偶然にも痴人の愛が思いついてしまったしそれで句読点をなくしていったら案外面白い文章になったので、たまにはこういうのもありかなという感じです。1397文字。2013年6月25日筆。

橙の夢

ホオムから階段を上ると駅舎には橙した光が射し込んでいる僕は思わず身体を乗り出してその色を眺める窓越しに橙が僕を照らす。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-06-25

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