蚊
『超短編シリーズ』第三回。
ぶぅーんという羽音を聞き、俺は目を覚ました。
(くそっ、まただ)
…分かっている。“そういうこと”をしてはいけないということは分かっている。だが…俺にはもう我慢の限界だった。
「あなた、眠れないの?」
妻が俺のひどく苦しむ姿を見て言った。
「あぁ、さっきから飛んでいるんだよ、“アイツ”が」
「そうねぇ、でもしょうがないわ。決められたことですもの…」
「確かにそうだ。だけど、もう我慢ができないんだ」
「まったく、あなたって人は…昔から変わってないわね」
最近の妻は本当に冷たい。俺が何か悪いことでもしたとでもいうのか?俺は思い出そうとしたが、それは一向に思い浮かばなかった。
「第一、俺たちは何故“あんな決め事”に従わなければならないんだ?おかしいだろ、普通」
「仕方ないじゃない、私だって、好きで“こんなこと”やってるわけじゃないのよ」
「じゃあ、なんで“アイツ”なんか飼っているんだ? 虫かごの中が“アイツ”だらけで気持ち悪いんだよ。もういい加減にしてくれないか?」
「だって、あれは…私の“趣味”ですもの…」
「何っ⁉“趣味”だと? お前、遂に“アイツ”と戯れて気が狂ったんじゃないか?」
「違うわよ‼それは絶対に違う。確かに初めのウチは少々抵抗もあったわ。でも、回数が重なっていくにつれて、不思議とだんだん慣れてくるのよ…」
…こいつ、本当に頭がおかしくなったんじゃないか?俺はだんだん、妻にどういった態度で接すればいいのかが分からなくなってきた。結婚してもう十年以上経つというのに…。
「とにかく、“アイツ”をお前のそばに遊ばせておくことだけはもうやめてくれ‼…あ、確かにお前の気持ちも分かる。わ、分かるけどな、俺の気持ちも分かってくれ。本当にもう限界なんだよ…」
…と、俺が妻に諭すようにして言うと、彼女は言った。
「イヤよ」
…い、嫌…だと?俺は意味が分からなかった。しかし、妻はこう続けた。
「私の味方は、もう“あの子”しかいないの。私のことを唯一分かってくれるのは、もう“あの子”しかいないの、だからね、あなた…」
…“アイツ”のことを、“あの子”という呼び方をした妻に、俺は不気味な雰囲気を感じた。妻の周りには、先ほどから“アイツら”が何やら忙しそうに飛び回っていた。まるで妻を庇うかのようにして…。おそらく、虫かごの中にいたやつだろう。妻がまた“わざと”虫かごの蓋を開けておいたのだろう。…そして、妻は一呼吸置いてこう言った。
「だからね、あなた…あなたの事なんて、もうどうでもよくなったの…だから…」
「だ、だから…?」
「“別れてちょうだい”」
俺はその一言を聞いて、久しぶりに腸が煮えくり返った。…コイツ、本当に何を言っているんだ?味方が“アイツ”しかいないから、俺と別れて欲しいだと?分かってくれるやつが“アイツ”しかいないから、俺と別れて欲しいだと?
「冗談じゃない‼さっきから、ふざけやがって!」
そして、俺はそばに置いてあった卓袱台をひっくり返し、妻を睨みつけた。すると次の瞬間、妻の周りを飛んでいた一匹の“アイツ”が、危険を察知したのだろう、俺目掛けて飛んで来たのだ。
「わっ‼な、何をする⁈や、やめろっ‼」
俺は“そいつ”を振り払おうとしたが、“そいつ”は容赦無く俺を攻撃しようとしてくる。妻はその光景を見て、ニヤリと笑っていた。
(やはり、別れるべきだったのか…)
俺はそう思った。第一、“あの決め事”が決められてから、妻は様子がおかしかったのだ。もしかすると妻はもともと、“そういうこと”が好きだったのかもしれない。
俺はもう我慢できなかった。俺は飛んでいる“そいつ”目掛けて、絶対にやってはいけない“あの行為”をしてしまった。
「パチン」
…そう、絶対にやってはいけない行為というのは、“そいつ”を殺すことだった。つまり、“決め事”というのは、「絶対にあらゆる生き物を殺してはならない」ということだったのだ。
俺は手を開いた。開くと、手の平には無残にも“蚊がお亡くなりになられていた”。
妻はそれを見て、一言、「あーあ」と言った。
「お前がやったことは分かっているな?」
「はい」
俺はとある所に連れて行かれ、このようにしてその所の者と話をしていた。もちろん、俺がここに連れて来られたのは、蚊を殺した罪があるからだ。
「では、なぜここに連れて来られたのか、自分の口で言ってみろ」
「…我々の一番大切なお方である、“蚊様”に手をお出ししてしまったためで御座います」
「では、もう、きさまを“生類憐みの令”に背いたということを前提にして、処刑するしかないようだな」
俺はその言葉を聞いて、咄嗟に叫んだ。
「どうか命だけはお助けください、徳川家将軍“綱吉”様‼」
蚊
コンマが多くて、申し訳ございません。