アラン

アラン

 昨晩はほとんど寝ていなかった。大体三時間位だろうか。それなのに俺は、早朝からこんな場所で、スコップ片手に穴を掘っていた。

 数人で掘ったからか、三十分程で人が一人すっぽりと収まる位の大きな穴が掘れた。

 俺と妻は手分けして、毛布に包まれたアランを、穴の近くに連れてきた。ゆっくりと穴の中にアランを入れると、しばらくして誰かがその上に土を被せた。俺も手に持ったスコップで土を被せた。何度か土を被せると、アランもアランを包んでいた水色の毛布も土で見えなくなった。

「さよなら」
 
 俺は独り言のようにそうつぶやいた。アランはやがて土に帰るのだろう。これが自然の摂理だと頭では分かっていても、自然と涙が溢れてきた。

 あまりにも突然の死だった。

 昨日朝の散歩の時に、アランは突然ふらふらと崩れ落ちるように倒れた。口から泡を吐いて、よほど苦しかったのか何度ものたうちまわった。普通ではないその様子に、俺はただ呆然とその光景を眺めていた。

 妻に連絡しなくてはとポケットの中をまさぐったが、携帯を持っていない事に気がつく。誰かに携帯を借りようと辺りを見回したが、こんな時に限って辺りには誰も居なかった。自転車で自宅に戻って車を取りに行こうとしたが、倒れているアランを放ってはおけなかった。しばらくしてこれから出勤するらしい女性が近くを通った。

「すいません。うちの犬が倒れてしまったので、自宅に連絡を取りたいので携帯を貸していただけますか?」

 俺がそう言うと、彼女はこころよく自分の携帯を貸してくれた。程なくして妻が車でかけつけた。アランは少し落ち着いた様子だったが、まだ自力では立ち上がることが出来なかったので、俺が抱きかかえて車まで運んだ。普段は抱きかかえると凄い嫌がるのに、この時は身動き一つしなかった。

 車に乗ったアランは、一旦自宅に戻った後、いつも通っている動物病院に診察に行くことになった。

「アラン、病院に行くよ」と俺が言うと、アランは自ら玄関に向かって歩いていった。家族で出かけられる事が嬉しかったのか、それとも病院に行けば苦しいのが楽になると思っていたのか分からないが、彼はふらつく足取りで玄関に向かっていった。

 病院では症状が落ち着いていた。先生もまだ薬を使って痛みを取る程の症状では無いだろうとおっしゃっていたので、呼吸を楽にする薬を貰って自宅に戻った。

 その後俺は、少し遅れたが職場に向かった。

 途中何度かメールでアランの症状を確認したが、とりあえず落ち着いているとの返事だった。貰った薬が効いたのかも知れない。俺は少し安心した。

 自宅に戻ると、アランはいつものようにジャンプして俺に抱っこしてきた。六年間続く俺とアランの儀式の様なものだ。この日はいつにも無く甘えてきた。頭を撫でてやると目をまん丸にして、お手をしてきた。さっき食事をとったばかりなのに、まだ食べ足りないのかと呆れたが、お腹がすいていたのでは無く、最後にいっぱい甘えたいだけだったのかも知れない。

 食事をし、風呂に入り、子供達が寝た頃からアランの様子がおかしくなった。

 苦しいのか、寝たいのに寝れないという状態が続いた。俺が彼の心臓の部分を軽くさすってやると、少し落ち着くが、しばらくするとヒュウヒュウという妙な呼吸をし、時折苦しそうに吐くような素振りをみせた。やたらと水を飲みたがり、おしっこも大量にしていたので「散歩行くか?」と俺が冗談で言うと、彼は一度玄関の方へ歩いていき、じっと俺の方を見つめていた。

「先生から止められているから、散歩は無理だよ」と俺が言うと、居間に戻ってきた。犬にとって散歩は、主人とのコミュニケーションの一つだ。あの時アランは最後に俺と散歩に行きたかったのかも知れない。そう思うと心が痛む。

 俺は明日の仕事もある為、日付が変わる頃に、後は妻に任せて寝る事にした。アランの事も心配だった為、この日は下で寝ることにした。床についてからも中々寝付けずにアランの様子を見ていた。彼は俺を探しているようだった。普段は二階に寝ているからか、二階に行って俺が居ないことを確認して、又一階に戻ってくるという動作を何度か繰り返していた。

「アラン、パパはここにいるよ」

 妻がそう声をかけると、アランは俺が寝ている方に来たがったが、怒られると思ったのか途中で止まり、俺の方をそこから見ているだけだった。

「アランさ、もしかして皆にさよならしてるんじゃない?」

 この時の妻の一言が今でも忘れられない。もし、もう彼と数時間でお別れなのだとしたら、眠る事は無かったのにと今更ながら悔やまれる。

「ちょっと起きて、アランがやばいよ」

 そう言われて、俺は飛び起きた。時計を見ると午前二時を少し回った所だった。妻に促され、長男を起こした。少し眠そうにしていたが、「アランが死にそうなんだ」と俺が言うと、二段ベットの上からすぐに下りてきた。

 アランはぐったりと横向きに寝ていた。瞬きもせず、虚ろな目でどこかを見ていた。舌はだらしなく垂れ下がり、口からはよだれを垂れ流していた。

「アラン、大丈夫か?」

 俺がそう言うと、少し俺の方を見た気がした。

「俺、上から毛布を持ってくるよ」

 そう言って、いつもアランが寝ている水色の毛布を二階の部屋から持ってきた。

「アラン、今毛布の上に寝かしてやるからな」

 毛布の上に移動してやろうと、足元の方に移動しようとしたら、アランは俺に離れて欲しくないのか、今まで聞いたことも無い様な切ない声を出した。

 思えば下の子が生まれてから、ほとんどアランに接していなかった。朝の散歩と仕事から帰って来た時に抱っこしてやる位だった。忙しかった。と言い訳する事は簡単だ。だが彼にはそんな事は分からなかっただろう。疎外感を感じていたのかもしれない。家族の中にいるのに、どこかよそ者の様な、そんな寂しさを抱えていたのかもしれない。

 時には、しつけという名の元、怒りにまかせて言葉で罵ったり、叩いたりした事もあった。そんな時彼はいつも尻尾を丸め、部屋の隅で小さくなっていた。どうしてもうちょっと優しく出来なかったのだろう。アランは賢い犬だった。きちんと言えば理解出来たはずだ。俺は粗相をした彼を許せなかった。だから叩いた。それはしつけでは無く、ただの暴力だろう。

「ごめんな。アランごめんな。駄目な飼い主でごめんな」

 俺は泣きながら、何度も何度も彼に謝った。楽しい思い出も沢山あるはずなのに、嫌な記憶ばかりが脳裏を過る。

 毛布の上に横たわっていたアランは、もう一度あの切ない声を発した後、静かに呼吸をしなくなった。アランと呼びかけても、彼が反応する事は二度と無かった。俺と妻はアランが死んだとは思えなかった。まだ身体は暖かかった。涙が後から後から溢れ出してきた。ごめんな。ごめんな。俺は呪文のようにつぶやいた。

 あれからどの位の時間が経ったのだろう。外はすでに明るくなり、雀が鳴く声が聞こえてきた。先程まで暖かかったアランの身体はすっかり冷たくなり、手と足を伸ばしたまま硬直していた。つぶらせたはずの目が、うっすらと開いていた。

 俺はトイレに行こうと重い腰を上げた。ふと目の端に玄関に置いてあった散歩用の帽子が目に入った。散歩中、車から目立ちやすいように、普段は絶対に着用しないような派手な色の帽子だった。

「もう、この帽子もかぶる事は無いんだな」

 家の中にはアランとの思い出がいっぱいだった。アランの冬用の服、雨が降った時のカッパ、リードやケージ、ご褒美のジャーキー・・・・・・。これら全てが、もう二度と使われる事は無いのだ。それら彼との思い出の品の一つ一つを手に取って見てみる。そっと匂いを嗅ぐとアランの匂いがした。

 本当に大切な物は、失ってから初めて気がつく。

 昔どこかで聞いた、そんな言葉が頭をよぎった。あれほどめんどくさいと思っていた朝の散歩も、夜のご飯をやるのも、頭を撫でてやるのも、もうやりたくても決して出来ないのだ。

「俺、これから誰に対しても優しくなるよ。お前が優しかったように」

 あれほど深く掘った穴は、もうすっかり土が被せられ、そこには最初から穴など無かったような錯覚に陥る。

「アランがここに眠っているって事の目印が欲しいね」

 妻が俺にそう言った。

「ちょっと待ってて」

 俺はそう言って、近くに捨てられていたビワの木の枝を持ってきて、アランを埋めた所に差した。

「数年後に立派な実を付けたりしてな」

 きっとビワの実はなると、この時何となく思った。アランは他の犬に牙をむく事は無かった。いやそれどころか、猫にさえ威嚇されると怖がっていたほど優しい奴だった。本気を出したら誰にも負けないくらい、立派な身体を持っていたのに。そんな優しい彼はきっと立派なビワの実を付けて、今度は野鳥達にその実を分け与えるのだろう。俺に優しさを分け与えてくれたように。

アラン

 アランは元々捨て犬でした。サルーキという大型犬でしたので、小さい時は可愛いから飼っていたけど、次第に大きくなって飼いきれなくて捨てたのでしょう。

 殺処分されそうになっている所を、ある方が保護されて、その後ネットの掲示板を通して家に来ることになりました。

 最初は、取っ組み合いのボス争いなんかもやらかしまして、その時に噛まれた傷は今も残っています(笑)でも、その後は私の事を本当の主人だと理解したのか、きちんと従うようになりました。私が仕事から帰ると、嬉しそうな顔をして近づいてきて、ジャンプして抱っこしてきました。仕事に行く時も必ず見送りに来ていました。今でも家に帰るとドアからひょっこりアランが顔を出しそうな気になります。

 色々な所へ家族で出かけました。海や公園、ドックラン等。でも、次男が生まれてからは何処かへ行く時もお留守番が多かったです。彼は座席を一人分取ってしまうので、5人乗りの車にチャイルドシートを付けてしまうと、彼の座席が確保出来なかったのです。でもそれも言い訳なのかも知れません。今まではアラン中心に出かける所も決定していましたが、最近は赤ちゃん中心になっていた事実は否めません。きっとアランも一緒に出かけたかったのに、一人お留守番するのはとても寂しかったんだろうなと思います。そんな時アランは、自分の毛布とかゴミ箱の中のゴミを引っ張り出してきて、それをボロボロにしました。でも、絶対に私の持ち物には手を出しませんでした。主人の物には手を出してはいけないと分かっていたんでしょうね。でもその光景を見て、私は叱りました。作品中にもありましたが、しつけと称して叩いたりもしました。でも、彼の気持ちをもっと良く考えてあげたら、そうした行動も理解してあげられたのになと今でも後悔しています。

 この作品は、アランが亡くなった日に、仕事の合間をぬって一気に書き上げました。今感じている気持ちは、明日になったら微妙に変化してしまうと思いましたし、この時のアランに対する気持ちを絶対に忘れたくないという思いがありました。書きながら涙が溢れてきて、本当に困りました。犬を飼うのは初めてでしたが、彼は色々な事を私に、そして家族に教えてくれました。犬は家族という言葉を心から実感しました。彼の命日である6月22日には、この小説をもう一度読み返して、彼の事を家族で思い起こす日にしようと思っています。

 こんな事を言うと猫好きな人に怒られそうですが、犬は猫よりも深く家族を愛している生き物だと思います。猫は家の中だけでは無く、自分自身の世界を持っています。でも犬は違う。自分だけでは外の世界に出られないのです。どこへ行くにも家族と一緒。だから自然と家族に対する愛が深くなるのだと思います。

 今でも私は、アランの事を時々思い出して泣いてしまいます。この寂しさを他の犬を飼って埋めようとした事もありました。でも、それはやめました。新しく飼った犬はアランでは無いし、誰かの代わりにされるその子も、たまったものではないでしょう。それにきっとその子が亡くなった時、アランの代わりにしてしまった事をとても後悔してしまうと思うのです。

 もし現在犬を飼っていらっしゃる方、私のように愛犬との別れは突然やって来るかも知れません。その時にもっとこうしていれば良かったと後悔しないように、今出来るだけ沢山愛してあげて下さい。   シン

アラン

6年飼っていた愛犬「アラン」は、朝の散歩の時に倒れ、日付が変わってすぐに亡くなりました。あまりにも急に亡くなってしまった為、私はもっとアランとの時間を大切にすれば良かったと後悔しました。この時の気持ちを忘れないために、この時の出来事を一つの作品としてその日の内に書き上げました。犬を飼っている人、これから飼おうと思っている人に是非読んで欲しいです。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-06-24

Copyrighted
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