リコーダーの音色
雲ひとつない青空。誰もいない肌色に乾いたグランド。
風に吹かれてざわざわと音を立てる木々。
高さの違う三種類の鉄棒。
控えめな大きさのアスレチック
三階建ての細長い建物。
グラウンドと建物の間に張られた緑色の防護ネット。
“キーン、コーン、カーン、コーン”
“キーン、コーン、カーン、コーン”
とても懐かしい光景だ。僕が卒業した十年前と比べて、変わっているところはほとんどない。職員室も一フロアに六つある教室もプールも校庭も校舎の裏にある花壇もうさぎ小屋の大きさも木でできた下駄箱も本当に何も変わっていない。
ここは母校の小学校。僕の心の中に、あの時から色褪せずにずっと変わらずに大切にしまっている思い出がある。
山口さん、あなたは今どうしていますか?
小学五年生の六月に転校生として山口さんは僕らのクラスにやってきた。背は僕よりも少し高く、髪の毛は腰のあたりまでのロングヘアー。大きな瞳がとても印象的で、服装はいつも白のブラウスとピンクや薄い水色のなどの落ち着いた色のスカートをはいていた。
きっと、一目惚れだった。クラスにかわいい子はほかにもいたけど、山口さんのようなタイプの子は一人もいない。とても物静かな大人しい女の子で、転校してきて一か月が経ってもクラスの女子の輪に入ることはなく、休み時間などはいつも静かに自分の席で本を読んでいた。そうかと言って、クラスメイトを拒絶しているわけでも、冷めているわけでも、暗いわけでもない。誰かに話しかけられると笑顔で返事をしていたし、授業中に先生に指された時でも、しっかりと通った声で発言をしていた。
ちょっと大人びていて、穏やかな雰囲気が僕の心を惹きつけている理由だった。でも、気が弱くて人見知りな性格の僕が気軽に話しかけられるような空気はそこにはなかった。
山口さんは僕よりもずっと高い空を優雅に羽ばたいて飛んでいて、僕はそれを見上げながら、低い空を障害物にあたらないように必死に避けながら飛んでいる。そんな感じだろうか。
でも、あの音楽の授業が終わった後の休み時間。あの時のほんの一瞬の出来事。そして山口さんが去っていった、あの時のこと。それは僕の心の小さな部屋の中にずっと、壊れないように大切に閉まわれているものだ。
僕は音楽の授業がとても好きだった。歌を歌うのはあまり得意ではなかったが、楽器を扱うのはとても好きだったし、得意な方だった。特にリコーダーを吹くのがとても好きで、難しい曲でも何度も練習をして一度も支えずに完璧に演奏できたときは、この上ない充実感を味わうことができた。
“Are you going to Scarborough Fair?
Parsley, sage, rosemary, and thyme
Remember me to one who lives there
She once was a true love of mine”
スカボローフェアという曲の冒頭の歌詞。僕はこの曲が大好きだった。リコーダーで演奏すると、心がすっと落ち着いて洗われていくようだった。
歌詞の意味はその時の僕にはもちろんわからない。先生にこの曲はどういう曲なのかを聞いてみたら、昔の恋人のことを想っている男の人の曲だと教えてくれた。
音楽の授業は四時間目だ。先週の授業の時に次は僕がスカボローフェア―をみんなの前で演奏するとのだと先生から聞かされていた。僕は朝起きてから、ずっと緊張していた。大好きな曲だから、普段からたくさん練習をしていて完璧に演奏できるはずだ。そうは思っても、みんなの前でとなるとやはり怖気付いてしまう。朝ごはんの食パンは半分も食べられなかった。母さんが心配そうに具合が悪いの? と聞いてくる。
「大丈夫」ぽつりと一言言って、僕はランドセルを背負って玄関を出て行った。
家を出ると、晴れていて天気は良いのだけれど、かなり強い風が吹いていた。家の目の前にあるイチョウ並木から、黄色い扇形の葉っぱがつぎつぎと舞い散ってくる。その光景に僕は釘付けになった。とても綺麗だった……ただの植物の葉っぱなのだけれど、まるで自分を励ましてくれているようなそんな感じがする。すると不思議とさっきまでの緊張が感じられなくなった。絶対にうまく演奏できる。そんな気持ちになった。
三時間目の授業が終わり、音楽室へとみんなが移動を始めた。僕は机の引き出しからリコーダーを出して、音楽の教科書と一緒に右手に持ち教室から出た。僕は最後に教室から出る格好になった。廊下に出て、クラスメイトの背中を見ながら歩いて行く。音楽室についてみんなが中に入っていくときに、山口さんが僕の方を振り向いた。彼女は少し微笑み、うなずくように顔を下に向けた。
授業開始のチャイムが鳴り、音楽の先生が教室に入ってきた。いよいよ、演奏の時がやってくる。でも、僕はとても落ち着いていた。先生が僕の名を呼んだ。僕はリコーダーをカバーから出して、立ち上がった。
最初の音に合わせて、リコーダーの穴に指を置く。そして深呼吸をして、演奏を始めた。一つ一つ、正確に音色を奏でてゆく。自分で吹いているスカボローフェアの旋律が耳から入り、心の中と頭の中を往復する。とても心地が良い。僕は本当にこの音色が大好きだった。気が弱くて、自己主張がなかなかできない僕が唯一、自信を持ってみんなの前で自分を出せる時だった。
“Are you going to Scarborough Fair?
Parsley, sage, rosemary, and thyme
Remember me to one who lives there
She once was a true love of mine”
最後の部分を吹き終わり、ぼくは胸を張って前を見た。先生はすごいという顔をして、僕に拍手をした。クラスメイトからはオーッという歓声が上がった。そして、右の方から僕に向けられた一際強い視線を感じた。
ものすごく興奮した。今まで生きてきて、ヒーローのような気分になったのは初めてだった。間違いなく、十年ほどの僕の人生の中で一番の喜びの瞬間だった。
演奏を終えて、椅子に座る。僕をじっと見る視線がある。でも、その視線の方に目を向けることは怖くてできなかった。山口さんは間違いなく僕を見ていた。僕の演奏に感動してくれたのだろうか? そうだとしたら、とてもうれしい。それだけで充分だとそう思った。
授業が終わり、音楽室から自分のクラスの教室へと戻る。僕はわざと最後に音楽室を出た。クラスメイトはほとんど廊下を曲がって見えなくなっている。でも、一人だけ角を曲がらずに立ち止っている女の子がいた。少し驚いて僕は立ち止った。山口さんだった。彼女は僕の方に近づいてきた。
「スカボローフェア、すごく良かったよ。あんなに綺麗な音色は初めて聴いた」
山口さんは微笑み、それだけを言うと教室に向かって走って行った。うれしいと感じる間もなく、返事をする間もなく、山口さんは走って行った。でも、教室に戻る途中の廊下で、僕の心の中にさっき感じたものとは別の何とも言えない喜びがじんわりと広がっていった。
家の前のイチョウの葉っぱがすべて枯れ落ち、庭の土に霜が立つようになった。冬は朝日が入らなくなる僕の部屋はとても冷えて差すような空気に支配されている。目が覚めるとすぐに布団の中で寝たまま、暖房のスイッチを入れる。部屋が暖まるまで、そのまま布団の中で丸くなる。十分間ほどのその時間、僕はいつも山口さんのことを考えていた。
あの音楽の授業の後に僕に声をかけてくれたこと。あの時の喜びはいまだにハッキリと心の中に刻み込まれている。
山口さんは相変わらず、皆の輪の中に入っていくこともなく休み時間も下校の時も一人だった。いじめられっこでもないのに、いつも一人でいるのがとても不思議だった。いや、みんなと会話をほとんどしないのにクラスから疎外されないことがとても不思議だった。おそらく、みんな山口さんに対しては友達とは違う何か特別な感情があったのかもしれない。
僕はやっぱり、山口さんのことが好きだった。でも、付き合いたいだなんて思わない。そんなことはとても現実離れしたことだと、どんなに祈っても叶わないことなのだろうとそう思っていたからだ。
あの音楽の授業以来、山口さんと話したことは一度もなかった。僕は気づかれないようにそっと、休み時間に読書をしている山口さんの顔を見ることしかできなかった。なんでもいいから話がしたい。ずっと、そう思っていたが、何もできないまま二学期が終り、冬休みをむかえてしまった。
何も変わったことがないまま冬休みも半分が過ぎ、大晦日を迎えた。除夜の鐘が鳴り響く中、僕は家族で近所の大きなお寺に初もうでに出かけた。昼間は雨が降っていたのだが、夜には雨が上がり、空はすっかり晴れて星がたくさん光っていた。空気も澄んでいて、鐘の音がおなかの底まで響いてくる。
お寺に着くと、もうたくさんの人がお参りに来ていた。この地域に住んでいるほとんどの人はこのお寺に初詣に来る。クラスメイトももちろんこのお寺に来ていて、すでに三人の友達と会った。そして短い参道を通って、本堂まで来た。賽銭箱の前にはお参りの行列ができている。
どのくらい待つのかなあと思い、賽銭箱の方を見上げた。するとそこに背の高い男の人とやはり背の高い女の人に挟まれた山口さんを見つけた。きっと家族でお参りに来ているのだろう。僕と山口さんの間にはたくさんの人がいるので、声をかけることはできない。いや、たとえ、自分のすぐ前の列に山口さんがいたとしても、話しかけることなんてできないだろうけど。
山口さんは隣にいる背の高い女の人から小銭を受けてとって賽銭箱に投げ入れ、両手を合わせて少しうつむいてお祈りをした。一瞬、横顔が見えた。その顔はなんだか寂しそうに見えた。
なかなかお祈りを止めない山口さんに隣の背の高い男の人が、もう行くよと言うように肩を軽く叩いた。御堂の左の通路の方に歩いて行った山口さんの顔はすぐに人ごみに紛れて見えなくなった。それまでワクワクしていた僕の心は一瞬にして、暗くなった。
御堂の中に入って賽銭箱の前に着いた。お母さんから五円玉を受け取って、賽銭箱に投げ入れる。僕は山口さんが元気になりますようにと、神様にお願いした。
冬休みが終って二日目のホームルームの時、先生がみんなに話しがあると言った。今月末に山口さんがお父さんの仕事の都合で引っ越すので転校するとのことだった。山口さんは先生の横に立って、みんなと過ごすのはあとすこしだけど、最後までよろしくお願いしますと言った。
山口さんはあまり感情を出さずに、誰の顔も見ずに、教室の後ろにある掲示物のあたりをじっと見つめていた。僕は山口さんの顔から目を逸らし、うつむいた。でも、すぐには寂しいとか悲しいとか思わなかった。山口さんがもうすぐいなくなってしまうんだという事実は、僕の脳みその表面に張り付けられただけで、まだ中までは沁み込んでいなかった。
それからの数日間はあっという間に過ぎ去った。僕はまだ山口さんがいなくなることが本当のことだとは思えずにいた。今日の授業が終ったら、もう会えなくなるんだとそう思っても、どうしても実感がわかなかった。
山口さんとは一言しか話していない。いや、あの音楽の授業の後に話しかけられただけで、僕の方からは何もしゃべっていない。どうしてそんな女の子を好きになったのか?
本当に自分は山口さんのことが好きなのか? 僕はわからなくなった。きっと、これは先生に聞くことでもお父さんやお母さんに聞くことでもないのだろう。
でも、今日の帰りのホームルームが終ったら、山口さんとはお別れになるのだ。ずっと、心の中で望んでいた会話をするということが完全にできないままになるのだ。今、思うと僕は山口さんのことを考えるとき、普段の自分とは違う不思議な感覚に包まれていた。友達と何も考えずに遊んでいるときとは全く違う。自分が少し大人になったような……それがどういう感覚なのかもわからないのだけれど、なんだか普段はあまり考えないような難しいことを考えているようなそんな感じがしていた。
今日の最後の授業が終わり、後はホームルームを残すだけとなった。山口さんがお別れの挨拶をした。
「短い間だったけど、みんなとすごした時間はとても楽しかったです。このクラスの雰囲気がとても好きでした。みんな元気で頑張ってください。わたしもあたらしい学校で頑張ります。ありがとうございました」
クラスメイトのみんなから拍手が起きた。でも、山口さんに声をかけるクラスメイトは誰もいなかった。もちろん、嫌っていたわけではない。なんて言って良いのかみんなわからなかったのだ。
山口さんが自分の席に戻った。そして引き出しの中にメモ紙があることに気づき、その紙をみた。山口さんはその紙の内容を読んだ後に僕の方を見た。僕は勇気を出して、山口さんの目を見て、無言で自分の気持ちを送った。
音楽室の前の廊下は日の光も入ってこずにとても寒かった。外はどんよりと曇っている。1月の終わりなのだから寒いのは当たり前なのだけど、心の中にある寂しさや不安が余計にそう感じさせるのかもしれない。
“伝えたいことがあるのでホームルームが終ったら、音楽室の前の廊下にきてください”
メモ紙にはそう書いた。山口さんはきてくれるだろうか? 不安だったけど信じるしかなかった。
階段を上がってくる足音がした。たった一人だけの足音だ。この階には誰もいないのでよく聞こえる。
山口さんは来てくれた。
「伝えたいことって……」
山口さんの言葉を遮るように僕はリコーダーを自分の口元に寄せた。そして、気持ちを込めて、自分が大好きなあの曲を吹き始めた。
“Are you going to Scarborough Fair?
Parsley, sage, rosemary, and thyme
Remember me to one who lives there
She once was a true love of mine”
誰もいない廊下にリコーダーの澄んだ音色が響き渡った。音楽室で演奏した時よりもエコーがかかって、本当に綺麗な音色に聞こえた。途中で顔を上げて、山口さんの顔を見た。その時に目から涙が零れ落ちた。悲しい涙なのか、寂しい涙なのか、それとも山口さんの前で自分の気持ちを伝えている嬉しさからくる涙なのかわからなかった。
スカボローフェアの曲を演奏し終えた。山口さんは僕の目をじっと見ていた。目に涙がたまっていた。そして、僕の方に向かって歩いてきた。ゆっくりと数歩、そして小走りになって僕との距離が詰まっていく。
その数秒後、山口さんは僕にキスをした。そして微笑んだ。三秒間。その後、何も言わずに僕のそばから離れて行った。
「さようなら」と小さな声で僕は言った。でも、きっとその声は聞こえなかっただろう。
結局、僕は一度も山口さんに話しかけることはできなかった。でも、最後に自分の気持ちを伝えることはできた。
さっきまで暗かった廊下に外の光が少しだけ、差し込んできた。
※ ※ ※
職員用の通用口から校舎に入り、二階にある職員室へと向かう。この学校に音楽教師として赴任してから、三か月が経った。もう、懐かしさには慣れて心地よさへと変わっていた。昔から変わらない校舎には穏やかで心を落ち着かせる空気に満ちている。
今日の音楽の授業はリコーダーの時間。課題曲はスカボローフェアにした。先週の授業の時に一人の児童に演奏してもらうことを伝えてある。
授業が始まり、その児童が演奏する時になった。児童は緊張のためか、リコーダーの穴を抑える指がおぼつかない。メロディはとぎれとぎれになり、綺麗な音色には程遠かった。でも、だんだん慣れてきて、演奏は落ち着いていき最後の一節はミスすることなく綺麗に演奏することができた。
「最初はすこし支えたけど、最後の方は良く演奏できていたぞ」
僕は微笑んで、その児童に言った。児童は緊張から解き放たれて笑顔になった。
授業が終わり、廊下に出る。僕の頭の中にはあの時のことがよみがえっていた。職員室に戻り、教科書を机の上に置く。
授業を終えて、僕は無性にあの音色を奏でたくなった。学校を出て、裏にある河原の土手に上る。ズボンの後ろポケットからリコーダーを取り出し、何度も何度も演奏したあの曲の音階の穴に指を置く。目を瞑り、曲を演奏し始める。心が洗われて、懐かしい思いがよみがえって、切なさが押し寄せてくる……。
もうすぐ、曲がおわる。その時に誰かの足音がした。風が吹いて女性の匂いがした。
そして、目を開けるとそこには白いブラウスに水色のスカートをはいた髪の長い女性が僕の目を見つめて、優しく微笑んでいた。
リコーダーの音色