廃館の映写室
馴染みの映画館が取り壊されるというので最後の上映を観に行った。その映画館を訪れるのはずいぶんと久しぶりだった。
経年を感じさせる寂れた外観。白い塗装はあちこちに剥げがある。入り口に書かれた「中央劇場」の文字がすでに懐かしい。幾たびこの下を通ったろう。扉には何十年分かの映画のポスターが上重ねで貼られていた。その猥雑さが一般客を遠ざけてしまっていたようにも思う。僕は扉を引いて劇場に足を踏み入れた。
ロビーはがらんとしていた。誰もいない。案内係も見当たらない。時間を間違えたのだろうか。それにしても上映中であれ人はいるはずだ。おまけに薄暗い。真新しい自動券売機だけが妖しく白色の蛍光で辺りを照らしている。
僕は近づいて画面を見た。学生一枚千円。財布を取り出して、千円札を入れるとチケットが発行された。数年前に導入されたその券売機は、館内では格別異質だった。狭いロビーを見回すと、どこか昭和の遺物のような空気が漂っている。その中で一つだけ、時代を飛躍してきたようにその券売機は存在していた。
受け口からチケットを取りだして、何気なく受付に置いた僕は驚いた。どういうわけか、チケットの半券が勝手にぴりぴりとちぎれていくのだ。改めて見るまでもなく受付には誰もいない。頭が混乱して真っ白になった次の瞬間、僕は扉に向かって振り返った。そのまま足を踏み出そうとすると、後ろから何ものかに肩を掴まれた。恐ろしくなって思わず力が抜けた。僕はその場にへたりこんだ。誰かいるのか。声を出そうにも息が震えるだけで音にならなかった。
耳を澄ますと、場内から微かに漏れ出る音が聞こえる。階上からはフィルムのかたかた回る音がする。映画は上映されているらしい。しかし人の気配はない。
僕はやっとの思いで立ち上がり、館内を出ようとした。するとまた何ものかが後ろから引き留める。今度は右足首を掴まれたようだった。何が恐ろしいかって、振り払おうにも実体がないのである。それでも僕の右足はたしかに掴まれていて、強い圧力がかかっている。一歩として前に進めない。僕は諦めた。この劇場に何が起こっているのか知らないが、きちんと最後の日を見届けてやろう。すると途端に右足の重みがなくなった。
恐る恐る場内に向かって歩き、防音性のぶ厚い扉を両手で引いた。その扉は思ったよりなめらかに開いた。まるで誰かが開けるのを手伝ってくれたかのようだった。
場内に入り、スクリーンを見ると何も映っていなかった。ただ白い光だけが、四角く縁取られて映し出されていた。後ろで扉がぎいと音を立てて勝手に閉まった。僕は最後列の椅子に腰掛けた。
スクリーンは真っ白だが、音声はちゃんと流れている。古い洋画の音声のようだ。若い男と熟年の女の声が聞こえる。話されているのは英語の台詞だった。しかしそれだけでは何の映画かわからない。今日の上映演目が何だったか覚えていなかった。
台詞に混じって静かな泣き声が聞こえた気がした。その声は場内でひびいているように感じられた。席を立ち、無人の椅子の列を眺めながらスクリーンの方へ向かうと、最前列に一人の男の子がいた。
その男の子は椅子の上で両足を抱えながら、顔を伏せてしくしくと泣いている。他に観客はいず、仕方なしに僕は声を掛けた。
「どうしたの。」
すると男の子は顔を上げ、僕の目をじっと覗きこんだ。十歳くらいだろうか。まだあどけない顔つきながら、どことなく知性を感じさせる表情をしていた。泣きはらした目が赤い。
彼は僕の手を取ると、何も言わずに席を立った。そして僕の手を引っ張り、ついてきてと言わんばかりに走りはじめた。向かった先、客席後方の場内の壁には、鉄製の梯子が備え付けられていた。
男の子は梯子を指さして言う。
「登って。」
わけもわからずにその梯子を登り、天井についた扉を押し開けると、そこが映写室になっていた。フィルムが音を立てて回っていた。部屋には熱がこもっていた。僕が梯子を登り終えると男の子が続いた。彼はすばやい動作で器用に部屋の中へ入ると、床の小さな扉を閉めた。
長い沈黙があった。その間もフィルムは回りつづけ、スクリーンには光が投射されていた。僕はぼんやりと映写室の窓から真っ白いスクリーンを眺めていた。
ふと光が途切れて暗くなり、音声が聞こえなくなった。振り返ると男の子が両手で大事そうにフィルムを抱えている。映写機から取り外したらしい。間もなく男の子はリールに巻き付いているフィルムを引き剥がすと、その黒いテープ状のものを自分の首に何重にも巻き付けて、力なく言うのだった。
「絞めて。」
僕は閉口した。何も言えなかった。怯えるように首を横に振ると、男の子は手に持ったフィルムを、首に巻き付けたその両端を、僕の手に押しつけてくる。
「絞めて、絞めて。」
男の子は僕の目をまっすぐに見つめながら言う。
やっとの思いで僕は叫び声を上げた。それはこれまでに溜まっていた恐怖が、一時に放出されたような声だった。
叫び声を上げるのと同時に、反射的に閉じてしまった目を開くと、男の子は目の前から消えていた。室内を見回してもどこにもいない。乱雑に絡み合ったフィルムだけが後に残されていた。フィルムの一部分は、男の子が自分の首に巻き付けた時のまま、小さな輪っかを作った状態で床に落ちていた。まるで男の子だけが空気の中に溶けてしまったかのようだった。フィルムを手に取ってみると、まだ温もりが感じられた。
汗をかいていた。映写室には熱がこもっていた。暑さで頭がぼうっとした。
床の小さな扉を開け、僕は梯子をつたって映写室から降りた。フィルムが止まってしまった今、もはやスクリーンに光は映っておらず、場内は真っ暗だった。前方の席からふたたび静かな泣き声がひびくのが聞こえた。僕はどこかもの悲しさを感じながら、その場を後にした。ロビーへと戻るぶ厚い扉は、入るときよりも幾分重く感じられた。
ロビーの自動券売機の電気も消えていた。しかし今度は僕を引き留めるものはなかった。僕は劇場を出て、外の世界へと帰っていった。
廃館の映写室
2460文字。2013年6月23日筆。