My Blue Heaven

この作品は、性的な表現を含みます。夫婦間での性描写であり、愛ゆえの行動ではありますが、性的な表現の苦手な方は避けていただけますと幸いです。

第1章

暗い瞳をした人だ。それが、初めて直樹さんを見た時の、私の印象だった。
ただ、直樹さんは他の人がよくやるように、私の体に「あるべきものがない」と気付いた時に、見てはいけないものを見たかのように目を反らしたり、物珍しそうな顔をする、という事がなかった。人間に翼がないのは当たり前、というのと同じ顔をして、私を見た。
「いつ、籍を入れますか」
 食事の約束を取り決めるかのようにいとも簡単に、直樹さんは言った。
「それと、いつから一緒に住みますか」
「あの…」
「あなたは、新居に何か希望はありますか?もしもなければ、ちょうど良い物件を見つけました。家具付きの2LDKです。家具が付いているからすぐにでも住める。会社にも近い。僕は、その部屋に決めたいのですが」
「あの!」
「はい?」
「あの…何で、私なんかと結婚しようなんて考えたんですか?」
「もしかして、体の事を気にしておられますか?」
「…当然です」
 気が付けば私は、左手で右手を隠していた。
「私…結婚なんて、一生縁がないと思っていましたから。第一、初めて会った人から突然、入籍の話をされたら、驚くのは当たり前じゃないですか」
 直樹さんは、右手で眼鏡を抑えた。それは、表情を隠したようにも見えた。
「では、率直に申し上げましょう。あなたと結婚し、あなたの今後を僕が保障するなら、僕は三倉部長に貸しが出来る。三倉部長はあなたの事を、非常に心配しておられますから」
 直樹さんが部長と呼ぶのは、私の伯父だ。そう、伯父さんは私の事をとても心配してくれている。
 私と結婚すれば、伯父に貸しが出来る…という、一見非道な言葉が、かえって私にはすんなりと納得できた。確かに、何かメリットがなければ、私と結婚なんて言うはずがない。
「それと…僕は知らない土地で、違う環境でやり直したい。結婚までしたら、全く違う自分になれそうな気がしました。あなたも…そんな風に思いませんか?」
 直樹さんが、私の瞳を覗き込んだ。こんな至近距離で男の人と向かい合った事がない私は、どうしてよいか分からず顔を伏せた。
「そうですね…違う環境でやり直したいのは、私も同じです」
 俯いたまま、直樹さんの質問に答えた。
「では、利害は一致しましたね」
 心なしか、直樹さんは勝ち誇ったように見える。あまり、接近しないで欲しい。私は男の人に慣れていない。
「結婚しましょ。美緒さん」
 もう一度、私の左手が右の手首を握った。 
 私の右の手首の先に、あるべきものはない。
「親御さんや、御親戚の方は?反対されませんか」
「反対されて、それが?結婚するのは僕です」
 頭の中でいろんな思いがよぎる。いろんな景色もよぎる。
 ふと気付けば、焼け落ちた家の映像が浮かぶ。生まれてからずっと、両親と住んでいた家だった。その家と一緒に燃えてしまった、大切な両親。
 燃えた家の映像が頭に浮かぶと、いつも貧血を起こしそうになる。この時も私はふらつき、直樹さんが支えてくれた。
「結婚しましょう」
 両親は亡くなり、もう私を支えてくれる人はいない。伯父は私の事を心配してくれるが、所詮両親とは違う。伯父には伯父の家族がある。
 目の前にいる直樹さん以外に、私を支えてくれる人の心当たりはなかった。

 先天性欠損。それが私の持つ障碍だ。私は生まれた時から、右手首の先がなかった。
 待望の長女が生まれたのに、右手首の先がなくて、両親はさぞ悲しんだ事だろう。それでも、両親は私が生きていくのに必要な技術と、生きる支えになる愛情を注いでくれた。
―美緒。他人に助けを求めなきゃ生きていけないのは、障碍のあるあなただけじゃないの。健常者だって、誰かに助けて貰わなきゃならない場面は幾らでもあるわ。でも美緒は、健常者よりも、そういう場面は多いの。
―人に愛される人間になりなさい。周囲の人に、この人を助けたいと自然と思わせる人になりなさい。周囲の人にいつも感謝の気持ちを持って接しなさい。
 それが母の教えだった。
 往々にして、障碍を持った子を出産した親と言うのは、子供を不憫に感じて、甘く接してしまう場合があるようだ。私は障碍を持った人間にしては、かなり厳しく躾けられた方ではないかと思う。理に合わない事、礼に反した事をすれば、容赦なく親に叱られた。雨の中、何時間も玄関に立たされた事もあった。   
小さい頃から、出来る限りの事は自分で出来るようにと訓練され、小学生の頃から母に家事をみっちり仕込まれた。
 私は、料理も掃除も針仕事も、全て左手だけで行う。やった事はないが、多分、一人暮らしを始める事になっても、家事で困る事はない。
 大学を卒業したら、当然働くつもりだった。が、思ったよりも就職活動は困難だった。
 一定以上の規模の会社には、障碍者雇用枠というものがある。それを使えば、多分就職できたのではないかと思う。が、堅物の父親がそれを良しとしなかった。
―世の中には、おまえよりももっと重い障碍を持った人がいる。障碍者枠は、そういう人が使うべきだ。
 父が言いたかった事は分からないでもない。私は右手の欠損以外は、全く障碍はなかったのだから。
 けれど、私が大学を卒業した年は、健常者でも就職が大変という年だった。正攻法で就職活動に臨んだ私は見事玉砕し、就職未定という立場で卒業式に出席する事になった。
 就職浪人という宙ぶらりんな立場で、家にいた私を、とんでもない事態が襲ったのは、大学を卒業して数か月後の事だった。
 私は、両親が「人から愛される人間になりなさい」と望んだにもかかわらず、人との付き合いがあまり得意ではない。だから、友達付き合いは深く狭く、だ。ある日、珍しく学生時代の友人に誘われ、夕食を一緒に食べた。
 どこかで消防車のサイレンが鳴っている、とは思っていた。まさかそれが、自宅に向かう消防車だなんて、思いもしなかった。
 隣の家が天ぷらを揚げていて、鍋が火災になったそうだ。隣の炎はあっという間に私の家を飲み込んだ。私が家に戻った時に出迎えたのは、焼け落ちた家と黒く燃え残った柱…そして、家と共に燃えた両親の遺体だった―。
 思い返すと今でも震える。燃え残りのきな臭いにおい、しゅうしゅう言う音、今朝まで日常の匂いを放っていたのに突然燃えかすになってしまった、黒い木材。

 突然家と両親を失い、茫然自失だった私を、とりあえず家に連れて帰ってくれたのが、東京の三倉裕彦伯父さんだった。お父さんのお兄さんに当たる人で、大きい会社の東京本社で部長をしているらしい。
 けれど、最初こそ親切にしてくれていた裕彦伯父さんの家族が、徐々に迷惑そうな顔になった事に私は気付いていた。いつまでもこの家にいる訳にはいかない、でもどこに行くあてもない。両親は、私を厳しく躾けてくれたものの、では独り暮らしでどこかに勤めて…となると、本当に一人でやっていけるのかどうか、自分でも甚だ不安だったのだ。

「ただいま」
「お帰りなさい」
 直樹さんの声が玄関で聞こえ、私はすぐに、玄関まで出迎えた。直樹さんが私に上着を預け、私はそれをハンガーにかけた。
「今日も寒かったでしょう。かす汁、作りましたから温まって下さい」
「かす汁…具は鮭か?豚か?」
「豚の方が美味しいって言ってらしたから、今日は豚にしました」
「ああ、いい匂いがしてる」
 直樹さんの帰宅は、早い日は八時過ぎだが、遅いと零時前になる。繁忙時は相当忙しいらしい。今日は九時帰宅で、まだ早い方だ。
 帰宅時間こそまちまちだが、平日の生活パターンは判で押したようだ。朝は六時半に起床し、新聞に目を通しながら朝ご飯を食べる。メニューはトーストにサラダ、コーヒー。七時四十分の電車に乗る為、七時二十分頃家を出る。帰りの電車に乗る前に、私の携帯に帰宅予定時間をメールしてくれる。私は帰宅時間に合わせて夕食を準備し、帰宅したらすぐに温かいおかずを出せるようにする。帰宅した直樹さんは、湯呑一杯の日本酒を飲みながら夕食を食べ、夕刊を読んでからお風呂に入り、おやすみと言ってから布団に入る。
 毎日私が作る料理を、美味しそうに食べる。
とうとう先日、
「昼を外で食べると、注文が通るのに時間がかかる。これから弁当を作ってくれ」
と言われたので、私の朝の仕事に弁当作りが加わった。
 初めて会った時に、暗い瞳だと感じた。その印象は、今でもそう変わらない。家にいても、どこか冷めた顔をしている。
 けれど不思議な事に、冷めて暗い瞳だけれど、冷たい、とは異なる。無駄口を叩かないけれど「おはよう、行ってきます、ただいま、御馳走様」などの挨拶を欠かさない。
 直樹さんと入籍し、夫婦となったにも関わらず、どんな人なのかは未だに把握できていない。
 今日のかす汁には、野菜をいろいろ入れた。体が温まって栄養価も高い。かす汁と、おかずの筑前煮を肴に、直樹さんはいつも通り、日本酒を熱燗にして飲んだ。
「風呂に入る。今日は疲れたから、もう寝る。おやすみ」
 そう言い置いて風呂に行ってしまった。
 私は、直樹さんが食事を終えてからは後片付けがある。食器を洗い、ゴミを処理し、私も風呂に入る。私が直樹さんの隣に潜り込む頃には、直樹さんはすでに寝息を立てている。
 結婚した男女は、体の関係を持つのが普通だ。私は最初、直樹さんがいつ私に手を伸ばしてくるのかと、常に体を固くしていた。
 けれど、一緒に住むようになって一週間が過ぎても、二週間が過ぎても、直樹さんの手が伸びてくる事はなかった。
 私の事を、好きではないんだろうか。私は直樹さんが手を伸ばしたいと思うほど、魅力的ではない、のだろうか。
 でも、それならそれで良い。私は多分、性的に淡白な人間だ。それに、体の関係を持つならば、私は欠損した右手を、直樹さんに晒さなければならない。
 私は生まれてこの方、両親以外の人に、右手を極力見せないようにしてきた。
 人前で半袖になった事がない。夏でも常に、薄手の長袖を着ている。中学校でも高校でも、学校に許可を貰った上で長袖ブラウスを着ていた。水泳の授業も常に見学だったし、高校はプールのない学校を敢えて選んだ。
 出会って数か月しか経たない男の人に右手を見せるなんて、考えらえない。
 宙ぶらりんな夫婦関係が不安定で、戸惑う一方、この関係でどこかほっとしている自分もいる。
 相手の事が全然分かってないのに、体の関係なんて、無理だ。心のどこかで、そう思っているのだ。
 本当に、何でこの人は、会った事もない私と結婚するなんて言い出したんだろう。

「美緒。おまえと、結婚したいって男がいるんだ」
 東京の裕彦伯父さんの家で、帰宅した裕彦伯父さんがそう切り出した時、私の返答は
「いったい何の冗談?」
だった。
「馬鹿な冗談ばかり言って。こんな私を、どこの誰が貰ってくれるっていうの」
「おい、美緒はすぐそんな事を言うが、おまえは気立ても良くて顔立ちも綺麗だ。料理も掃除も上手だから、おまえを嫁に貰う男は幸せだぞ」
「ありがとう、右手の事さえなければ、伯父さんの言う通りかもね」
 伯父さんは黙った。が、
「でも、本当の話だ。相手は、おまえとすぐにでも顔を合わせたいと言っている」
と言葉をつないだ。
「あらまあ、どこの奇特な人?」
 冗談めかして答え、伯父さんが真顔なのを見て、初めて私も顔を引き締めた。
「本気なんですか?」
「ああ。相手は、俺の部下なんだ。名前は、相模直樹。年は三十だ。少し美緒とは年が離れてるが、七歳違いの夫婦なんて、世間には珍しくない。今は東京本社にいるが、ちょうど静岡支店に転勤予定なんだ」
 私の家は静岡にあった。静岡と聞き、私の胸は懐かしさに震えた。
「相模は、おまえと一緒に静岡支店に行きたいそうだ」
「ちょっと待って。私、その人と会った事もないのよ。何故その相模さんって人は、会った事もない私と結婚なんて言い出したの?」
「ああ、それはその…」
 伯父さんは言いよどんだ。しばらく沈黙してから、
「そうだ、おまえ、直接相模と会え。会ってその理由を聞け」
と言い出したのだ。
 当日現れた直樹さんは、通勤用のいつものスーツ。私と言えば持っていた服は全て焼けてしまい、慌てて購入した青いワンピースを着て、初めて顔を合わせたのだった。

 自分という人間は若さがないと、自分でも思う。ネットよりは本を読む方が好き。テレビよりもラジオが好き。洋服も流行りのものではなく、トラディショナルなものを選ぶ。
 本が好きなのは父譲り。ラジオが好きなのは母譲り。私の両親の行動自体が年寄り臭かった。そんな両親に育てられたら、私が年寄り臭いのも当然だ、と、半ば開き直っている。
 障碍のせいもあるかもしれないが、もし私に障碍がなかったとしても、性格は大して変わっていないようにも思う。
 結婚式も挙げないまま、九月末に直樹さんと入籍し、十月から静岡で暮らすようになったものの、新居を構えたのは自宅があった場所からずいぶん離れている。全く知らない土地だ。
 私の荷物などほとんどなく、直樹さんの荷物も衣類や本くらいで、新居の片づけはあっという間に終わった。専業主婦となった私には、時間がたくさんある。それで、マンション周辺を散歩しては面白そうな場所を探し始めた。
 野菜が新鮮で安いスーパー、コロッケが美味しいお肉屋さん。それから、マンションから歩いて行ける場所にあった、地域の図書館。
 柿や無花果など、果物の木がたくさん植わっている、由緒ありげな家。疲れた時、ふらっと入っていって休憩できるお寺。
 毎日、少しずつ方向を変えて、知っている場所やお気に入りの場所を増やしていく。そうしているとまるで、自分が縄張りを広げていく犬か猫になったような気分だ。
 就職浪人の時は、早く仕事を決めなければと焦り、周囲の景色など、目に入らなかった気がする。直樹さんは
「美緒は、働く心配はしなくていい。美緒の食い扶持くらい、俺が稼ぐ」
と言ってくれているので、その言葉に甘えているのだ。でも、自分は「専業主婦」というより「隠居したお婆さん」のようだとも感じている。

 ある日、少し離れた場所にあるスーパーに買い物に行ったら、日本酒やみりんが特売されており、つい多めに買ってしまって一人でマンションまで持って帰る羽目になった。
 自転車に乗れない私は、自宅にいる時は自分用の軽自動車を持っていたが、それも火事で失った。直樹さんの車は、平日は使われていないが、軽自動車しか乗った事のない私には、直樹さんの普通自動車は怖くて運転出来ない。そもそも、直樹さんの車は健常者用で、私には扱いづらい。その日も歩いて、休み休みマンションまで重い荷物を持つつもりだった。
 途中で川を渡る。その景色が、私は大好きだった。
 歩行者用の橋に並行して、電車の線路がある。夕方は、川の水面や走る電車に夕日がきらきら映えて、とても綺麗なのだ。
 重い荷物を抱えて歩く私の横を電車が通過した。夕日が輝く。
 ああ、綺麗だ。
 私は立ち止まって夕日を眺めた。
 燃えるような夕日の色は、ほんの少し、火事の事を思い出させる。
 あの火事から数か月しか経っていない。
 何もかもなくした絶望の日には、自分がこんな穏やかな生活を送れることになるなんて、夢にも思わなかった。
「何してるんだ?こんなところで」
 突然、後ろから声を掛けられてびっくりした。
 振り向くと、直樹さんが驚いた顔で私を見ている。
「お帰りなさい。今日は早いんですね」
 私は直樹さんの所に走っていった。
「どうしたんですか?まだ、五時じゃないですか」
 直樹さんは、夕日が眩しかったのか目を細めた。
「うちの部署がインフルエンザ大流行で、七人も休んでる。仕事にならないから、今日は早めに終了したんだ」
「直樹さんは?かかってませんか?」
「ああ、俺はかかってない。それより…」
 直樹さんは非難するように、私の大荷物を見た。
「何だって、こんな重い荷物を一人で持ってるんだ。貸せ」
 言うなり、日本酒とみりんの入った大きな荷物を奪い取った。
「すみません。今日、駅前のスーパーに行ったら調味料が特売だったので」
「それで買ってきたのか?俺が通らなかったら、一人で持って帰るつもりだったのか」
「内心、後悔してたんです。直樹さんが通りかかってくれて助かりました」
 直樹さんは顔を反らした。
「こんな重いもの、土日に一緒に買い物に行って買えば良いだろう。無理するな」
「はい」
 顔が綻んだ。
 ぶっきらぼうで口は悪いが、その中に優しさが潜んでいる。一緒に暮らし始めて、少しずつ、その優しい部分に触れる事が増えている。
「そう言えば、おまえは普段、平日は何をしてるんだ?」
直樹さんに尋ねられ
「午前中は家の事を。午後からは、散歩したり、図書館に行ったりしています」
と答えて、内容のあまりの地味さに自分で恥ずかしくなった。案の定、私の返事に直樹さんは目を丸くした。
「図書館?おまえみたいな若い子はいないだろう」
「そうですね。でも、本をのんびり読んでるだけですから、別にかまいません」
「友達と会ったり、しないのか?」
「友達は、少し遠いし、平日はみんな働いていますので」
「…寂しくないのか?」
 私は少し考えてみた。
「寂しいと思った事は、ないです。静かで、落ち着いてる方が好きなので」
「…おまえ、世捨て人みたいだな」
 直樹さんの呟きに私は吹き出した。
「うまい事言いますね」
「それにしても…今度、休みの日に一緒にどこかに出かけるか?」
「え…良いんですか?直樹さんも忙しいでしょう」
 直樹さんは、平日も遅くまで働いているのに、土日もよくパソコンを開いて仕事を片付けている。亡くなった父は、家まで仕事を持ち込むような事はなかった。直樹さんはとてもよく働く人だ…というのが、結婚してからの私の印象だった。
「いつもいつも、土日まで仕事に向かってたら息が詰まる。俺もたまには気分転換に外出したい」
 私は、直樹さんと二人で出かける場面を想像してみた。
「どこに、行くんですか」
「どこって…普通、買い物とか、美味い物を食べに行くとかだろ」
 買い物と言っても、そもそも私は人ごみがあまり好きではない。私の右手首から先が欠損している事に気付いた時の、相手の反応は、何歳になっても慣れる事がない。
 直樹さんのように、最初からごく自然に接してくれる人は、きわめて珍しいのだ。
「…欲しい物は、特にありませんし、食事も…」
「ああ、そうだな。下手な食べ物屋より、おまえの料理の方が上手だな」
 直樹さんの言葉に、私の頬は緩んだ。
 自分の事については全く自信を持てない私が、唯一自信を持てる事。それが、料理だ。
「こないだ、駅前にJ書店の大型店舗がオープンしたって、知ってるか?」
「ああ、新聞に載っていましたね」
「そこなら、行くか?」
 大きい本屋は大好きだ。直樹さんの提案に、悩まず頷いた。直樹さんも私の反応に頷いた。
「本屋に行って、その後ケーキでも食べよう」
「ケーキ?直樹さん、甘いもの好きなんですか?」
「ああ。俺は酒も好きだが甘いものも好きだ。でも、なかなかケーキ屋に入るのは恥ずかしくてな。おまえが付き合ってくれたらちょうど良い」
「じゃ、付き合います」
「頼む」
「直樹さんが、ケーキが好きなら、買ってきていましたよ。欲しい物があれば、ちゃんとそう言って下さい」
「ああ」
「それから、こんなに早く帰ると思ってなかったので、夕食はまだ出来上がってないんです。少しだけ、待ってて下さいね」
と言うと、再度ああと短い返事があった。

 二人で帰宅し、玄関の鍵を直樹さんが締めた。いつものように直樹さんの上着を受け取ったら、直樹さんが
「全部、脱がせてくれ」
と言った。
「全部…って」
「全部だ」
 直樹さんの声が、いつもと違う。
「こんなところで…寒いのに、風邪をひきます」
「おまえ、そこを心配するか」
 直樹さんが苦笑した。
「いいから、全部脱がせてくれ」
 今まで聞いた事がないような低い声。
 直樹さんが、一歩私に近づく。怖いような真剣な顔。私の鼓動が早くなった。
 ワイシャツのボタンを外すと、直樹さんの汗のにおいがした。そこで手が止まったら、直樹さんに「何をしてる」と催促されてしまった。
 私は直樹さんのベルトを外し、スーツの下を脱がせた。
 下着に左手をかけたが、その手は震えている。
 と、直樹さんが勢いよく自分で下着を降ろした。初めて見た男の人の体に、私はどうして良いか分からずただ狼狽えた。
「美緒。しごいてくれ」
「しごいて…?」
「ああ、意味が判らないか」
 直樹さんは私の左手を持ち、直樹さんのモノに導いた。
「美緒の体を使って、俺のココを、可愛がってくれ…という意味だ」
 脳みそが言葉の意味を理解した時、私は耳まで赤くなった。
「口を使っても、胸を使っても良い。でも、おまえはそんな事をした事がないだろうから、まずは手を使ってみろ」
 私は、男性経験がない。でも、それなりの知識はある。
 今、直樹さんが言ったような事が、現実の愛撫の種類として存在する事も知っている。
 私は意を決して、左手で直樹さんのモノを持った。
 ふに、とした、直樹さんらしくない可愛らしさだった。
 左の掌でモノを握り、強く弱く刺激を与えてみた。
 私の知識では、このモノは、興奮すると硬くなる。勃起という状態になる。
 直樹さんのモノは、ふに、から変化がない。
 途中で私は不安になった。
 私の愛撫はそんなに下手なんだろうか。やはり、欠損がある女が愛撫しても、気持ちよくないんだろうか。
「…やっぱりだめか。もういい、美緒。離せ」
 直樹さんは私からスッと離れ、下着を付けた。
「すみません…上手に出来なくて」
「え?」
 直樹さんは驚いた顔になり、それから手を振った。
「違う。美緒のせいじゃない」
「だって…」
「これは…俺のせいだ」
 直樹さんは一度しまったモノを、下着から出して見せた。
「EDだ」
「イー…?」
「勃起不全。病院に行けば、勃起する薬が処方される」
「…」
「結婚前に、おまえに言わなかったのは悪かった」
 直樹さんの目が、いつもより一層暗くなった。
「という事で、俺がおまえを抱くことはない。俺と結婚している限り、おまえに子供は生まれない」
「…」
「悪かったな。こんな、ろくでもない体の俺が、おまえを妻にして」
「…いえ」
 子供を持たない未来。夫に抱かれない自分。
 でも、私の目の前の日常はあまりに平穏だ。
「いいじゃないですか。私、今の生活に満足しています。それで、何を謝る事があるんですか」
 今度こそ、直樹さんの目が驚きで見開かれた。
「美緒、それでいいのか?」
「悪い理由が、ありますか」
 直樹さんは、私の欠損した右手ごと、私を受け入れてくれたのだ。何故私が、直樹さんの勃起不全だけで、直樹さんを拒否するのか。
 直樹さんは、私の肩を引き寄せた。そして、私の頬を両掌で挟み、唇を重ねた。
 赤く染まった耳に、直樹さんは顔を寄せ、「今日…おまえが風呂から上がるまで、寝ずに待ってるから」
と囁いた。

お風呂から上がったら、脱衣所に置いていた筈のパジャマが見当たらない。バスタオルを巻いたままパジャマを探していたら、直樹さんが脱衣所の扉を開けた。
「どうした?」
「あの…」
「もしかして、これを探してるのか」
 直樹さんが持っているもの…それは明らかに、私のパジャマ。
「そうです。持ってきたと思ったけど、忘れてましたか」
「そうじゃない。俺が隠した」
「え?」
 直樹さんがニヤッと笑って…私はまた、赤くなった。
 これからの事を思って。
 どんな顔をしたら良いのか分からない。
 直樹さんが手にしたパジャマを置き、一歩私に近づいた。そして、背中に手を回して、私をそっと抱いた。
 直樹さんの汗の匂い。
 直樹さんは私を抱きしめたまま、巻いてあったバスタオルをほどいた。
 左手は私の背中に回ったまま…そして、右手が私の胸に回った。
「…意外と豊満だ」
と言って、私の胸をむにっと揉んだ。
「あ…やだ」
「何がやだ?」
「だ…だって、こんな…」
「美緒。知ってるか?女のここは、一番大切な仕事は、赤ん坊に乳をやる事、だよな」
「は…はい」
「じゃあ、赤ん坊がいない女はどうだ?赤ん坊がいない女の、ココは、夫のものなんだよ」
 そう言いながら、直樹さんの手が私の胸をむにむにと触り続ける。直樹さんが言うように、私は着やせをするようで、服を着ていると分からないけれど、意外とグラマーなのだ。グラマラスな乳房を、直樹さんの手が揉む。形が変わるほど揉み込んだと思ったら、反対の手が乳首をこする。
「ココは、夫のものだ。だから、おまえは、俺がココを触っても、文句なんか、言えない」
「…あ」
 立ったまま乳房を弄ばれ、私は体の力が抜けそうになった。誰にも触られた事のない部分だ。
「俺は、おまえを抱けないけど、おまえを気持ち良くしてやる」
 直樹さんが耳元で囁いた。私は、脳みそが蕩けたようになって、言葉の意味を理解出来ない。呆けた私を、直樹さんは突然抱き上げた。
「きゃっ!」
「じっとしてろ、寝室に連れて行くから」
「あぶな…こわい!」
「何が怖い。他の女なら、お姫様抱っこされたら喜ぶぞ」
 あっという間に直樹さんは、私を寝室のベッドに転がした。私は少しでも体に布をまといたくて、掛け布団をまさぐった。
「動くな」
 直樹さんが冷めた声で言い放ち、私は魔法にかかったように動けなくなった。
 直樹さんは私の上にのしかかり、さっきのように、胸を揉み始めた。
 直樹さんがわしづかみにした乳房から、乳首が飛び出す。その乳首を直樹さんが舐めた。
「アアアッ…」
「おまえ…男と、したことはないのか」
 直樹さんに尋ねられて、私は大きく頷いた。
「じゃ、ここを触られた事もないんだな」
「は…い」
「ここもだな」
 直樹さんの手が下に移動し、私は反射的に足を硬く閉じた。直樹さんが眉をしかめた。
「力を抜け」
「で…でも」
「抜かなかったら足を開いて縛りつけるぞ」
 私は震え、ほんの少し足を開いた。
「ここが・・・。男の、アレと一緒だ。気持ちが良ければ勃起する」
 直樹さんが耳元で囁く。私は羞恥のあまり、顔を腕で隠した。
「いいか、ココだ。女はココを可愛がられたら、気持ちよくなる」
「…っ」
「俺が、おまえのココを可愛がってやる。おまえを気持ちよくして、悦ばせてやる」
 直樹さんはそう言いながら、私の溝を何度も撫でた。
「ココから、月に一度の出血がある。赤ん坊が出てくるのも、ココだ。でも…」
―赤ん坊がいない女は、ここに夫を受け入れるんだ。ここも、夫のものだ。
「アアッ!」
 直樹さんが深い部分に指を入れ、大きな悲鳴が口から洩れた。
 まだ、硬いな…という呟きが直樹さんの口から洩れ、直樹さんの手は胸に戻った。内心、私はほっとした。下半身を触られるのは本当に恥ずかしい。
 胸を触られる方が、まだいい。直樹さんが胸を揉み、頬ずりし、口に含み、舌で乳首を転がす…。
 私は徐々に、冷静さを保てなくなっていた。
 声が出る。体中に熱がこもる。じっとしていられず、体を捩る。
「アア…っ、あ、あ!」
 直樹さんが、ちゅうっという淫らな音を立てて私の乳首を吸う。その音が耳を突くたび、乳首を刺激されるたび、下腹部を強烈な熱が渦巻く。
 体の熱を持て余し、どうして良いか分からなくなった時に、直樹さんがもう一度、下半身に右の中指を這わせた。
「あう!」
「ああ…濡れてきた」
 中指がぬらぬらとした液体に濡れている。直樹さんは、その中指で私の頬を、次に私の乳首もつついた。
 そして、次にちゅっ…と音を立てて直樹さんが吸ったのは、私の唇だった。
 私たちがキスを交わしたのは今日が初めてだ…何故か私は、そんな事を頭の片隅で考えた。
「初めてだけど…おまえの体はやっぱり女の体だ。美緒…イクってわかるか」
「な…なんと、なく」
「気持ちよくなってきたな。イカせて、やるから」
 医者のように冷静に解説すると思えば、体を熱っぽく触る。直樹さんのギャップに私も振り回される。
 直樹さんの指が、私の突起をまさぐった。足を閉じようとしても、直樹さんが自分の体を足の間に入れているから閉じられない。
「やだ、や…あぁ!」
 直樹さんの左手が伸びて、私の両腕を頭上で抑えた。がら空きになった腋を、直樹さんは舌でなぞった。不思議な感覚に、また声が出る。
「ああっ、あ、あん…」
「きもち、いいか…」
「ん…ん!」
 はっきりと答えるのは恥ずかしい…けれど、その時私は確かに、快感を味わっていた。
「いつでも、イケよ…」
 直樹さんの唇が、乳首を刺激する。かぷっと咥えたと思ったら、舌で転がされる。下半身をなぞる指の動きがだんだん早く、激しくなる。それにつれて、私の上ずった声も少しずつ早くなる。
「アアアア!…っ!」
 私の足が直樹さんの手を挟んだまま、ギュッと閉じた。けれどそれは、さっきまでの恥ずかしさのせいではない。
 足を閉じなければ、下半身の痙攣が収まりそうになかったのだ。足を閉じ、息を整え、痙攣が去るのを待った。
「…イッたな」
 直樹さんは、私の前髪を撫でながら、そう言った。
「これが…今のが、ですか」
「そうだ」
 私たちの肌は密着している。直樹さんの汗の匂いが私にまとわりついている。直樹さんは、今までにない優しい瞳で私を見ていた。
 恥ずかしくて、まださっきの余韻が消えていなくて、けれどそれは嫌な感情ではなかった。私の髪に絡みつく直樹さんの指。激しいけれど苦痛ではない、心地よい嵐が通り過ぎた…ように感じた。
 私の右手は布をまとわず、あるがままの状態で敷布の上にある。
 この人は、何度も私の両手を掴んだ…何度も、欠損した右手が私の視界に入っていた。
 嫌じゃ、なかったんだろうか。直樹さんは私の右手を、何とも思わなかったのだろうか。
「直樹さん…さっき、私を抱く事はないって、言っていませんでしたか?」
「…抱いてないだろ」
「でも」
「普通、抱くって言ったら、コレをおまえのナカに入れる事だ」
 直樹さんの言葉は、一つ一つが論理的だ。けれど、互いに裸で睦みあったさっきの状態を、抱かれた以外になんと表現するのだろう。
 体を丸くして、考え込んだ私の頬に直樹さんが触れた。
「美緒が悪い。おまえが、そんな可愛い顔をするから、触らずにいられなくなった」
「え…」
「こんな事、するつもりはなかったのに…」
 直樹さんは、私を腕の中に抱き寄せた。
 指がまた、私の乳首を触ってきたので身構えたが、今度の触れ方は性的な触れ方ではなかった。
 赤ん坊が、お気に入りの毛布を触るように私の乳首をいじっている。しかも、本人は自分が触っているという意識がなさそうだ。
「変な夫婦だな、俺たち」
「そうなんですか?他の人と結婚した事がないから、分かりません」
「俺もだ、当たり前だろ」
「そもそも、私が普通じゃありませんから。普通じゃない夫婦になっても、仕方ありません」
「おまえが、普通じゃない?」
 直樹さんが乳首をまさぐる勢いが強くなった。私はまた襲ってくるかもしれない、嵐の予感に身構えた。
「俺には、おまえは真っ直ぐに見えるよ。何が普通じゃないんだ…俺の方が、よほど歪んでる」
「直樹さんが、歪んでる?」
 私は、直樹さんの暗い目を覗き込んだ。
「私には…直樹さんは優しい人に見えます」
 直樹さんは苦笑した。そして、私をぬいぐるみのように腕に抱き込み、しばらくごそごそしていたかと思うと、やがて寝息を立て始めた。

第2章

 最初は「引っ越し蕎麦」だった。
「引っ越しの日って言えば、お蕎麦ですよね」
 そう言って、三倉美緒…もう入籍を済ませたので相模美緒になったが…は、俺の前に蕎麦を置いた。
 俺は、蕎麦は好きだ。だが、夕飯に蕎麦は寂しい。気乗りしないまま、箸に手を伸ばした。
 ざる蕎麦に葱、刻み海苔、山葵、すり胡麻が添えられている。薬味の香ばしい香りに食欲がそそられた。
 一旦台所に姿を消した美緒が再度出てきた時、手に持っていたものを見て驚いた。うずら卵、かいわれ大根、スライスされているのは玉ねぎだろうか。これだけ薬味があれば、蕎麦も立派な夕食のメニューになる。
「美味そうだな」
 つい、弾んだ声になった。
「まだ、お鍋と包丁とまな板しかないから、こんなものしか作れなくて」
「こんなものって、引っ越し当日にこんなものが食べられるとは思ってなかった…これ、何だ?」
「ああ、それはミョウガです」
「ミョウガ?」
「少し癖がありますから、口に合わなければ残して下さい」
 俺は蕎麦猪口にミョウガを入れ、蕎麦と一緒に口に入れた。確かに癖がある。独特の香りだが、俺は美味いと感じた。
「美味い」
「本当ですか?良かった」
 俺の妻になった女は、ほっとした顔になった。
 腹も減っていた。俺はどんどん蕎麦に箸を伸ばした。
 残りが少なくなり、もう少し食べたいと思った時に声をかけられた。
「もう少し茹でましょうか?」
「頼む」
 美緒は立ち上がり、ガスの火をつけた。
 その時、俺は美緒が蕎麦に全く手をつけていなかった事に気付いた。
 しまった、と思った。
 美緒の分を考えに入れず、自分だけ食べてしまった事を謝るかー。
 だが、美緒が嬉しそうな顔をしていたので、俺の躊躇は胸の奥に引っ込んだ。
「良かった、美味しそうに食べてくれて」
 美緒ははにかんだ笑顔を見せた。ただ、目は合わせてこない。
―あの子は、純粋培養で育ったような子なんだ。
 三倉部長の声が甦る。
―男と付き合った事もないらしい。障碍を気にして、引っ込み思案なまま二十三歳になった。
―幸せにしてくれ、なんて言わない。でも、可愛い姪っ子なんだ。頼むからあの子を泣かせないでくれ。
 三倉部長は俺の事をなんだと思っているのだ。俺との結婚がそんなに心配か。
 いや…前の件がある。あんなスキャンダルを起こした俺だ。部長の心配も無理はないか。
「おまえも、ちゃんと食えよ」
 ささやかな詫びをニュアンスに加えて美緒に声をかけると、ありがとうございます、と小さい声で返事をした。

 出世の見込みと勃起能力をなくし、何もかも失ったと絶望した俺。
 生まれつき障碍があり、火事で家と親を失った美緒。
 俺達は、そんなでこぼこした夫婦だ。ただ、美緒は俺の細かい事情は知らない。
 俺には性欲は残っている。美緒を裸にして弄びたい劣情はあるものの、挿入行為が出来ないならば、劣情に蓋をした方がましだ。だから俺は、二人で暮らしはじめても美緒には手を出さなかった。
 美緒も、俺が近づくと体を堅くする。遠ざかるとほっと息をつく。
 結婚した男女は体の関係を持つものだ。いくら男性経験がないと言っても、それくらい分かっているだろうに。俺が手を出さない事を、何とも思っていないのか。
 初めて会った時、捨て犬のようだと感じた。拾って連れて帰った今も、この家にいても良いんだろうか、という怯えた瞳をしている。
 俺は、この子がもう少し今の生活に慣れるまで、そっとしておいてやりたかった。
 ただ、この子がこんなに家事が上手というのは嬉しい誤算だった。転勤はただでさえ、心身が疲れる。もし、一人で静岡に来ていたら、新居の片付けや食事、洗濯などの雑事で、もっとヘトヘトになっていたに違いない。二十三歳とまだ若いが、親にみっちり家事を仕込まれたらしい。
 美緒は少しずつ、俺との生活に慣れていった。風呂の前で俺とはちあわせても、以前のように顔を強ばらせて後ずさる事もない。目を合わせて笑顔を見せる事も増えた。俺も、改めて妻となった女をゆっくり観察するようになった。
ー地味な女だな。
というのが、率直な感想だ。
 着ている服は、流行に左右されないオーソドックスな服。パーマもカラーリングもしていない髪は、肩にかかる長さ。今時珍しい、黒く真っ直ぐな髪。化粧も薄いが、若さのせいか肌が綺麗だ。薄化粧が気にならない。
 新聞や本を丁寧に読む。時に、読みながら笑ったり泣いたり頷いたりしている。
整った顔立ちだと、思う。この子が出た女子大は、静岡では名門と言われている老舗の大学だ。俺の部下の椎名が、美緒と同じ大学を出ているが、椎名は頭の回転が早く飲み込みが良い。椎名に仕事のフォローを頼む場面は多い。
 最近思う。この子に、右手の障碍がなければ、この子はもっと、華やかな人生を送っていたんじゃないだろうか―。

 俺が最初に結婚しようと思っていた女は、いつも流行のファッションに身を包んでいた。評判の良い食べ物屋をよく知っていた。
 もし、あの女とあのまま結婚していたら、俺はどんな生活を送っていたのだろう。

 転勤して俺は、それまでの営業部勤務から、事業戦略部勤務に変わった。
 事業戦略部など、営業部の後方支援、大したことなどしていない。以前の俺は、そんな風に他部署を見ていた。
 だが、実際に自分が事業戦略部で勤務するようになり、営業部員だったころ、どれほど事業戦略部の支援に助けられていたか、嫌と言うほど思い知った。 
 営業部が取っていた実績をデータ化し、どこに穴があるか、今後どうすれば営業がもっと効率的に回れるかを話し合う。苦労した作った資料は、営業部員に「俺たち営業部の苦労も知らないで、データばっかり集めてる部署にどうこう言われてもなあ」と陰口を叩かれる。正直、自分で営業に回った方が楽だと思う事すらある。
 早く事業戦略部の仕事に慣れたくて、転勤してしばらくは、土日も仕事用のパソコンに向かっていた。
 俺が土日に仕上げた資料を見て、同僚が目を丸くする。
「相模係長、新婚でしょう?奥さんをほったらかして仕事ばかりしてちゃだめですよ。奥さん、怒りませんか?」
 現在の俺には、どこかに出かけたいとか、何かを見たいとかいう目的もない。俺の妻となった女が、どこかに行きたいと言わない事を良い事に、土日も終日仕事用パソコンと向かい合っていた。自分をほったらかしだ、と気分を害するなら害すればいい…そんな、投げやりな気持ちすらあった。
 いつも通りパソコンに向かっていた、ある土曜日の事だ。
 パソコンの横に、コーヒーが置かれた。
「あ…」
 俺が頭を上げた時、美緒は台所に消える所だった。
「あの、ありがとう」
 美緒は、対面式のキッチンから俺を見て小さく微笑んだ。
 時計を見ると、ちょうど三時だ。ずっと根を詰めているより、少し休憩した方が能率が上がる。俺はコーヒーを一口飲んだ。
 俺の好みの、濃い目のコーヒー。砂糖は少し、ミルクはなしで。美緒はすぐに、俺の好みのコーヒーの味を覚えてくれたようだ。
 コーヒーの隣に、小皿に入った果物も置いてある。
「何だ、これ?ぶどうか?」
「ブルーベリーですよ」
 美緒の返事がキッチンから聞こえた。
「ブルーベリー?美味いのか?」
「ま、好みもありますけど。ブルーベリーは目に良いらしいです。直樹さん、土日もずっとパソコンに向かってるでしょう」
 美緒に言われて、俺は自分の肩や目に意識を向けてみた。なるほど、凝りや疲れがたまっているような気もする。ブルーベリーを口に放り込んだら、それだけで目がリフレッシュしたような気になった。俺の体も単純な作りをしている。
「直樹さん、今日は夕食、何が良いですか?」
 俺は少し考えた。
 この質問に対し、俺は極力「何でも良い」と言う返答を返さないようにしている。過去に付き合ってきた女にその質問を向けて「何でも良い」という返答をする女は多かった。そして、何でも良いと言ったはずなのに、実際に連れて行った店で「今日は和食の気分じゃなかったのよね」と、不満げな顔をされた事も多かった。
「平日はあっさり目の食事が多いから、休日はがっつり肉が食べたい」
「判りました。じゃあローストビーフにしましょうか?」
「ああ、いいな。付け合せの野菜もたっぷり」
「判りました」
 それきり、美緒は俺に話しかけてこない。洗濯ものを畳んだり、夕食の準備をしている。
 テレビをつけてもいいぞ、と言ったのだが、普段からテレビはつけない事が多いですから、と言って部屋は無音のままだった。
 ほったらかされて拗ねる、を想像していたが、美緒は淡々と静かに自分のペースで過ごしており、俺は拍子抜けした気分だった。

 帰り道の足取りが軽い。あんな些細なことで喜ぶ自分は馬鹿みたいだ…そう思いつつも、努力が実ったことがうれしかった。
 今日、営業部長に言われたのだ。
「相模係長の資料はわかりやすいし参考になる。以前営業部にいたから、営業部の内情がよくわかってるんだな。これからも頼むよ」
 俺たちが住むマンションは高台にあり、行きは下り坂で楽に歩けるが、帰りはふうふう言いながら坂を上らなくてはならない。けれど、土日を潰して俺が作った資料が役に立ちそうだ、と思うと、上り坂を歩く足取りが妙に軽い。
 美緒に何を言おう。あの子が文句も言わず、俺に仕事をしやすい空気を作ってくれたのも、良い資料が完成した原因の一つだ。
 何か買ってかえってやろうか、と思ったが、良く考えると俺はあの子の好きなものなど何一つ知らない。本が好きな事は知っているが、妻への土産に図書カードというのも間抜けだ。
 何気なく好きな食べものをリサーチして、突然買って帰って驚かせようか…そんな事を考えながら玄関の扉を開けた。
「ただいま」
「おかえりなさい、今日は早いですね」
「ああ。今日の夕食は何だ?」
「美味しそうな魚が売ってたので、塩焼きにしました」
「焼き魚か」
「新鮮で美味しそうですよ。ポテトサラダもありますから」
 いつも通りに夕食のメニューを伝える美緒が、あまりにいつも通りだったから、俺は美緒の好みをリサーチする事も出来ず、仕事が上手くいったことを伝える事も出来ず、そのままいつもどおりに晩酌をしていつも通りに寝てしまった。

 今まで付き合ってきた女には、いろんなことを尋ねられた…会社での地位や、収入や。社内の子と付き合っていた時は、尋ねられなくても俺の立ち位置は相手に伝わっていた。
 本社での仕事が順調な時は良かったが、地方支店に左遷された今となっては、女に探りをいれられたくもない。
 美緒は、そんな質問を一切しない。公共料金が何日に幾ら引き落とされるかを気にかけていても、給料が幾らなのかと気にかけている様子もない。
 純粋培養で育ってきたような子だ…という三倉部長の話を、俺は少しずつ実感していた。

 ある日、うちの課でインフルエンザが流行し、仕事にならないと4時で終業した事があった。家に着くのは5時過ぎになるだろう。こんなに早く帰るのは久しぶりだ。
 駅を降り、家に向かってゆっくり歩く。
 と、橋の上で見覚えのある人影が立っているのが見えた。
 ぼんやりと夕日を見ている。
―何をしているんだろう。
 よく見ると、随分重たそうな袋を、左手に提げている。
「何をしてるんだ?こんなところで」
 俺の呼びかけにゆっくり振り向いた。
 一瞬驚いた顔になり、その後美緒の顔が嬉しそうな表情に変わった。それから小走りに走ってきた。
「おかえりなさい。今日は早いんですね」
 俺は目を細めた。
 美緒の笑顔が眩しかったのだ。
 美緒が持っていたのは、みりんや料理酒など、何本もの調味料だった。安かったのでつい買いすぎてしまったと、けろりとして言う。
 俺は何故、美緒といて、苦痛でないのか。
 この間から考えていて、答えが見つからなかった。その答えを今、見つけた気がする。
 美緒は俺に依存しない。俺を頼らない。けれど、俺の帰りを待ってくれている。
 整った横顔を見ていたら、一瞬下半身に血液が集まる感覚があった。
 この子は、俺が勃起不全を打ち明けたらどんな反応を示すだろう。
 見栄っ張りの俺にとり、男の機能を失ったというのは、自殺に匹敵するほどの事だ。こんなこと、誰にも打ち明けていない。
 この子は、今まで男と付き合った事はないという。この子なら、他の男と比べる事なく、俺を受け入れてはくれないだろうか―。

その夜俺は美緒を裸に剥き、思うままに肌を貪った―。

男に触れられた事のない美緒の体は、まるでキューピー人形のように幼い体つきだった。けれど意外に胸は大きく、肌はきめ細かかった。乳首は淡いピンク色で、さくらんぼのように小ぶりだった。肌の触り心地があまりに良かったので、俺は美緒が悲鳴を上げてもお構いなしに、美緒の体に掌を、舌を這わせた。
 喘ぎ交じりの悲鳴を上げる美緒を組み敷き、唇を重ねながら、俺は胸のうちで呟いた。
 俺は、美緒の体に、溺れそうだ―。

第3章

 季節は秋から冬になった。私の毎日は穏やかに過ぎていく。最近私は、直樹さんの目を「暗い」ではなく「穏やか」と感じるようになっていた。それが、直樹さんの変化なのか、私の見る目の変化なのかは分からない。
 直樹さんが、私の料理を喜んで食べてくれるのが嬉しくて、私はますます料理のレパートリーを増やす事に熱中した。直樹さんは、仕事が忙しい時には晩酌をしながらの食事を楽しむ。そして、早く帰ってきた日には、私達は寝室で睦みあう。
 土日に、二人で出かける事も増えた。特売の調味料を買いすぎて、重い荷物を持ち帰った次の休日に、私は直樹さんに自動車販売店に連れて行かれていた。
「独身の時は、軽自動車を運転していたのだろう。それなら、普通自動車だって運転出来る。飲みすぎた日や雨の日に、おまえが車で迎えに来てくれたら、俺も助かる」
と言われ、今の車を福祉車両に改造するか、新しい車に買い替えるかの相談に来たのだった。
 店の人は、私の欠損した右手を見て、にこりと笑って
「うちの車は、パラリンピックに出場されるような方が、改造されて乗って下さっています。相模様のお車も、使いやすいように改造できますよ」
と言ってくれた。
 直樹さんの車は、ちょうど三年目の車検前だったらしい。丁寧に乗っており、傷もほとんどないらしく、下取りに出してもそれなりの値段で売れると言われ、その場で直樹さんは新しい車に買い替える事を選んだ。
 私の為に買替なんて勿体ない、という私の抗議は、
「おまえの為に買い替えるんじゃない。俺が、おまえに車の送迎をしてもらいたいからだ。俺の為の買替だ、何が勿体ないんだ」
という直樹さんの理屈に吹き飛んだ。
 私の障碍の度合いに合わせ、補助具をどのように車に付ければ良いかを綿密に打ち合わせ、気が付けば外は薄暗くなっていた。
 直樹さんは、上機嫌で私の前を歩いている。
「新しい車、楽しみだな。今のマンションは、駅から歩く時間が意外とかかるのが難点なんだ。おまえが車に乗るようになって、送迎してくれるなら、俺は安心して外でも飲める」
「ぶつけたらどうしよう…」
「ぶつけたら修理に出すだけの話だ」
 直樹さんは時に、冷淡とも思える態度を取る。でも、私は直樹さんが冷淡に振舞う事で、心の重荷が軽くなる。
「夕暮れに、仰ぎ見る、輝く青空…」
 傍には誰もいなかったので、つい私の口から歌が飛び出した。
「おまえ、よくその歌うたってるけど、何でそんな古い歌を歌うんだ?」
 直樹さんが尋ねてきた。
 この歌は、直樹さんが生まれるより遥か昔にアメリカでヒットした曲だ。原曲は「My Blue Heaven」。
「この歌、母が好きでよく歌ってたんです。母は、英語バージョンで歌うのが好きでしたけど、私は、日本語版の方が好きで。私、そんなにこの歌、よく歌ってますか?」
「気が付いてないのか?台所でもよく歌ってる」
 気づいていなかった。
 この歌は、狭いながらも楽しい我が家…と続く。 
 私たちが住むマンションは、二人で住むには広々とした作りだ。狭いながらも…なんて表現するのは申し訳ない。
 けれどこのごろ、私は直樹さんと暮らす家に対して、深い愛着を持ちつつあった。自分の使いやすい道具が溢れた台所。直樹さんの本が詰められた書斎。睦みあう時間を過ごす、寝室。
 My Blue Heaven…家族の、ささやかな幸せを歌う歌。
「狭いながらも、楽しい我が家…」
 歌いながら私は自分の左手を、直樹さんの右腕にからめた。直樹さんは、ゆっくりと自分の左掌を、私の左手の甲に重ねた。

 最初は気のせいかと思っていた…けれど、やっぱり気のせいではない。
 直樹さんは最近、私にさりげなく触れる事が増えた。
 お弁当を手渡したら右手で受け取り、ありがとうと言いながら、左手が私の頭にぽんと乗る。
 時にはその手が頬に下がり、唇が重ねられることもある。
 最初はびっくりして体が硬直した…けれどすぐに慣れた。
 直樹さんにさりげなく触れられるのは心地好い。性的なキスじゃなくて、触れるだけのキスの方が、私は好きかもしれない。
 触れられたくて、温かさを感じたくて、体温を感じたくて…。
 本当は、自分から直樹さんに甘えてみたくなることも、ある。自分から直樹さんの唇にキスしたくなることも、ある。
 けれど私には、まだそこまで積極的になる事は出来なかった。

 私が運転しやすいように改造した車が届いてすぐに、私が出動する事態があった。課内の忘年会で、気分が悪くなった女の子がいるので迎えに来てくれと電話があったのだ。私はすぐに、指定された場所に向かった。
 指定された場所には直樹さんと、若い男性社員が一人、女性社員が二人いた。そのうちの一人の女の子が、道端に座り込んでいる。
 直樹さんが手を挙げて合図し、私は四人が乗りやすい場所に停車した。
「係長、これ、新車ですよね。良いんですか?乗せていただいて」
「遠慮するな、全員乗れ」
 助手席に直樹さんが、後部座席に三人が座った。
「あの、いつも係長にお世話になっております。佐藤です」
「は、はじめまして」
 私はどきどきしながら挨拶をした。女の子たちはそれぞれ、椎名です、森本ですと名乗った。
「あのぉ、奥さん、お料理すごく上手ですよね」
 佐藤くんが話しかけてきた。
「え、そんな事ありません。第一、私の料理なんか食べた事ないでしょう」
「いえ、僕、係長にお弁当を頂いた事があります」
「え…ええ?」
「佐藤!余計な事言うな!」
 私の驚いた声と、直樹さんの声が重なった。
「いえいえ、係長、ちゃんとお礼を言っとかないと。僕ね、一人暮らしなんですよ。それでつい、昼飯はカップラーメンとかになっちゃうんですよね。そしたら係長が、もっと栄養に気を使え、特別に俺の弁当を味見させてやる、買うより美味い弁当だ、おまえも結婚するなら料理の上手な女を選べよ、っておっしゃって、食べてみたら本当に美味いんですよ!係長が自慢するのも判りました。森本さんも一度、お弁当貰った事ありますよ。自分で作る時の参考にしたいって」
「佐藤、おまえな!」
 直樹さんが遮る。椎名さんという女子社員がコロコロと笑った。
「係長、新婚ですもんね。家に帰るの、楽しみで仕方ないって感じ。なのに、佐藤さんがヘマやって、帰れなかったりするんだから」
「椎名さん、人聞き悪いなあ」
 酔ったはずの森本さんも、もたれたまま笑っている。
 直樹さんの部下を全員自宅まで送り、私たちも帰路についた。
「助かったよ、おまえが来てくれて。俺の部下の送迎まで、悪かったな」
「とんでもない、お安いご用です。直樹さん、今日は随分飲みました?」
「量はそう多くもないんだが、いろんな種類の酒を飲んだから、少し回った」
「大丈夫ですか?家に、トマトジュースを用意してます。二日酔いに良いって言いますよね」
 直樹さんの返事が途切れた。眠ってしまったのかと思い、私は黙った。
 しばらくして、直樹さんの声が聞こえた。
「俺は、トマトジュースは、大嫌いだ」
「え?」
 直樹さんは、食べ物の好き嫌いがほとんどない人だ。嫌いな食べ物の事を聞いたのは、これが初めてかもしれない。
「珍しい、直樹さんにも嫌いな物があるんですね」
「ああ…ついでに言うと、グレープジュース、赤ワインも飲めない。赤い飲み物が、駄目だ」
 それは、食べ物の嗜好というんだろうか。赤い飲み物が同じ括りで飲めないなんて、初めて聞いた。
「変わってますね」
 話しかけに、返事はなかった。やはり飲みすぎて、眠ってしまったようだ。私はカーステレオのラジオのスイッチを入れ、小さい音にして聞き始めた。
 駐車場に着くと、直樹さんはすぐに車を降りて、私を待たずに家に入った。直樹さんにしては珍しい。直樹さんは、いつもは黙って私と歩調を合わせてくれるのに。
 車に鍵をかけ、私も家に入った。直樹さんが台所にいる気配がする。お風呂、用意出来てますよ…と言おうとして、私は立ちすくんだ。
 直樹さんは冷蔵庫を開け、未開封だったトマトジュースを取り出していた。キッチンハサミでそれを乱暴に開封し、いきなり排水溝めがけて中身をぶちまけた。
 ぶちまける…としか表現のしようがない。乱暴に、何度もトマトジュースの容器を振る。一リットル入りのジュースは、やがて空になった。
 私は直樹さんの勢いに呑まれ、言葉が出なかった。直樹さんは、今までで見た中で一番暗い目をして
「二度と、買ってこないでくれ」
と言った。
「風呂に入って、寝る」
 直樹さんは私を一瞥もせず、風呂場に向かった。私は言葉も出ず、ただ立ちすくんでいた。

 次の朝。
 いつも通りの時間に起きて、いつも通りにお弁当と朝食を作っていたら、直樹さんがいつも通りに
「おはよう」
と起きてきた。
 昨日の様子があまりにいつもと違っていたので、今朝はどんな顔をすれば良いか、自分でも困っていたのだ。直樹さんのいつも通りの顔を見てほっとした。
「おはようございます」
「今日は、寒さがきつくないな」
「あ…ああ、そうですね。昨日まで、すごく寒かったけど」
「昨日は昨日、今日は今日だな」
 直樹さんの言葉は、気候の事を言っているのか、それとも別の事を指しているのか。
「さ、今日も会議がある。頑張って働いてくるか。もし買い物に行くなら、いつもの日本酒を買っておいてくれるか。もうすぐなくなりそうだ」
「はい、わかりました」
 直樹さんは昨日の暗い瞳をどこかに隠し、今日の明るい瞳を前方に見据えて家を出た。

第4章

 以前の女とのセックスは、自分の欲望を満たすだけの情交だったような気がする。女と向かい合い、裸に剥き、柔肌を味わって挿入し、果てる。
 EDになり、俺にとっての情交の最終目的は、美緒が達する事、だ。自分でも呆れるほど、美緒と絡む時は粘着的だ。
 寝室は、クローゼットも兼ねている。姿見もある。俺は、ベッドの上で半身を起こし、姿見に美緒との絡みを映す。
 後ろから手を伸ばし、胸を、下半身を嬲る。美緒の柔肌が歪む様が、顔を真っ赤にして目を閉じる様が、姿見に映って艶めかしい。
 または、俺の腰を跨ぐような姿勢で膝に座らせるのも好きだ。鏡には、綺麗な背中が映る。ゆるやかにS字カーブを描いた肩甲骨、丸みを帯びた背中が美尻に続く…自分の後姿がこんなに色っぽいなんて、美緒は気付いていないに違いない。俺の目の前には、美緒の顔や胸がある…下腹部に手を伸ばすと、スッと秘部に指が届く。美緒は俺に跨っているから、開いた秘部を閉じる事も出来ず、恥ずかしそうに俯く。
―俺の膝…おまえのアレでびしょびしょに濡れた。すごい…濡れてる。
 勿論、美緒は顔を捩って恥ずかしがる。
―恥ずかしがるな…おまえの体はこんなに綺麗なんだ。
 耳を舐め、わざといやらしい言葉を吐く俺に、美緒はいちいち反応する。
―感じてるんだな。感じて、こんなに濡れたんだな。いやらしい、体だな。
「やだ…っ、やめて、恥ずかし…」
 美緒は、言葉責めに弱い。身を捩らせて恥ずかしがりながら、体は熱く燃えて、奥深くまで入れた俺の指はヒクヒクと締め付けられる。秘所からは愛液がしたたり落ちる。
―何がだ…ココも、ココもこんなに勃ってる。もっと、可愛がって欲しいくせに。
「あ…あ、ああっ!はっ!」
 姿見に映った、俺たちが絡む姿は息を呑むほど淫らだ。体の中心の黒々した繁みは生々しい。美緒が生身の女だという証明だ。
 美緒が半身を起こしていられなくなってから、俺は美緒をベッドの上に倒し、それから更に舌で責める。美緒が腰を動かして、仔猫が啼くような声を出して達し、荒い息を吐くまで、俺の粘着な責めは続く。
 時折、脱力した俺のモノが、ぴくりと反応する事がある。
 男の機能など、とうに失ったと言うのに。俺は助平なヘンタイだな。
 美緒が、男性経験のない処女だから、俺との睦みあいを素直に受け入れてくれるが、これが男性経験が豊富な相手ならどうなるか。ヘンタイの不能野郎…と、罵倒されるに違いない。

 俺は時計を見ながら、少し苛々して美緒を見た。美緒はさっきから、本のページをめくる手を止めない。
 何にそんなに熱中しているのかは分かっている。本の表紙に書いてあるのは、美緒が好きな作家の話題作。
 ハードカバーで上下巻。読みたいけれど買うには高いというその本の入荷を、美緒は図書館でずっと待っていた。それがやっと借りられたのだ。
 読みたい気持ちは分かる。止められない気持ちも分かる。
 だが、今日は久しぶりに早く帰宅したのだ。美緒と一緒にベッドに行きたい俺の下心を理解している気配はまるでない。
「早く風呂に入れ」
「あ、はい」
 また、生返事が戻る。さっきから、この会話が何度繰り返されたか。
 ただ、美緒の手元にある本の残りページはわずかだ。あのページをめくり切れば、腰を上げるだろう。
 美緒はようやく、最後のページを読んで背表紙を閉じた。ふう、とため息をついた。
 俺は苦笑を隠した。ここまで必死で読んで貰えたら、著者も幸せだろう。
 が、美緒は再度、本を表向けて最初のページに戻ろうとした。
 俺はとうとう痺れを切らせた。
「美緒。風呂に入れと言っているだろう」
「あ…すみません」
 美緒は驚いた顔をした。
「直樹さん、先に寝てて下さい」
 俺の眉間に皺が寄る。
「俺は、おまえがベッドに来るのを待ってるんだ。せっかく早く帰った日くらい、おまえとゆっくりしたい」
 美緒が目を見張り、その後で赤くなった。
 やっとわかったか。
 俺はふんという顔をして、風呂を指さした。美緒は本を閉じ、顔を伏せて風呂に向かった。
 二十分、三十分…普段なら上がってくる時間が経過しても、美緒は風呂から上がらない。
 俺は不安になり、脱衣所に行った。
「おい…美緒、どうかしたのか」
 声をかけても返答がない。不安が増幅され、あけるぞと声を掛けてから、風呂場の扉を開けた。
 俺の目に入ったのは、浴槽に体を入れたまま、ぐったりとしている美緒の姿…さらに、風呂場の床に数滴の血が見えた。
 血の気がさっと引いた。
「美緒!美緒、どうした!大丈夫か!」
 俺はばたばたと風呂場に入り、美緒の体を抱えた。
 美緒は顔に手を当てて首を振った。
「おい、救急車を呼んだ方が良いのか?それとも」
「ち、違う…」
 美緒が小さな声で言った。
「急病センターに連れて行こうか?」
「違うんです、直樹さん…のぼせただけ」
「え?」
「鼻血…」
 よく見れば、美緒は顔に手を当てているのではなく、鼻を押さえていた。
 改めて風呂場の床に落ちていた鮮血を見た。
 ただの鼻血だったのか…と思ったら、腰が砕けそうになった。
 俺は改めて美緒の体を抱え、風呂場から連れ出した。バスタオルで体を拭き、そのままベッドに運んだ。それから台所で、氷入りの水を用意して美緒に持って行った。
「すみません…びっくりさせて」
 俺が風呂場に入った時、美緒は茹蛸のような真っ赤な顔だった。それが次第にひいていき、今はややのぼせたような顔色だ。
 俺は、複雑な気持ちだった。
 俺が余計な事を言ったせいか?
 早く上がって来いと急かしたからか?
 それとも、俺が待っていると思うと風呂から上がれないくらい、苦痛だったのか…?
 もしかすると、俺との情交は、この子にとって苦痛なのだろうか。
 俺は指を伸ばし、美緒の頬に触れた。
 美緒の頬はまだ、熱を持っている。
「きもちいい…」
 美緒が呟いた。のぼせた頬には、俺の手はひんやり気持ちよく感じるのだろう。俺は掌全体を美緒の額に乗せた。
 美緒が目を開けた。そして、微笑んだ。
 俺は、どきっとした。何だ、この気持ちは。
「ありがとう、直樹さん」
「あ…いや」
 俺は美緒から目を反らした。
「もしかしておまえ…俺が触るの、嫌なのか…?」
「え?」
「俺が待ってるなんて言ったから…風呂から出られなくなって、のぼせて鼻血を出してても我慢してたのか…?」
「えっ?」
 美緒は身を起こしかけたが、俺が体を抑えた。
「そりゃ…あんなの、普通のセックスじゃないよな…俺が延々、おまえを触るだけなんて普通じゃないよな」
「普通じゃないんですか?」
 美緒の純朴な問いかけに、俺はしまったと思った。
「えっと…他の夫婦は、俺みたいに、EDじゃないから…」
 美緒はじっと俺を見た。それから、ため息をついた。
「私、他の御夫婦の事は分かりません」
「…」
「嫌じゃ、ないです。直樹さんが私を可愛がってくれるの…」
 美緒は体をうつ伏せにし、掛け布団で顔を隠した。
「恥ずかしい…自分が、こんな女だなんて思わなかった。さっきだってお風呂の中で、直樹さんに可愛がられる事を考えたら、どうしようもなくて、早く上がったら、まるで期待してたみたいで、どきどきしたら、鼻血が出ちゃって…こんなの…」
 俺は、バスタオルだけを体に巻きつけた美緒の体を見た。そして、ゆっくりとバスタオルを外した。
 こんもりと盛り上がった美緒の胸は、敷布の上で押しつぶされている。
 俺は、そっと下半身に指を添わせた。
「…本当だ。おまえ、待ってたんだな」
「やだ…」
「風呂の中で、ココを濡らして…俺を待ってたのか」
 美緒が顔を捩った。
「隠せてないよ…濡れてる。おまえが俺を待ってたのが、バレバレだ」
「あ…」
 俺は美緒の体を上向けにして、口づけた。俺が舌を入れると、美緒も舌を絡める。
 最初の頃は、触れ合うようなキスしか出来なかった。
 俺がこの子を、女の体にしていくのだ。小さく強い自尊心が俺の中に芽生えた。
 俺もパジャマを素早く脱ぎ、美緒の体に覆いかぶさった。乱暴なほどの勢いで唇を吸いながら、胸を揉みしだく。美緒が喘ぐ。腰が蠢く。俺の指を待ち兼ね、腰を揺らす…。
 その時だ。
―気持ち良い?直樹、気持ち良いでしょ?私が直樹の事、誰より気持ちよくしてあげる。
 背中に冷水を浴びせられたような気がした。
 何だ、今の空耳は。
 分かってる。あの女だ。赤いドレスを着て、赤いトマトジュースを持っていたあの女だ。
 これ以上俺を苦しめないでくれ。
 俺は空耳に哀願した。
 俺が悪かった。俺は自業自得で左遷された、妻を抱けない体になった。それで充分だろう、俺の罰は大きい。
 頼むから、美緒との情交中に俺を苦しめないでくれ。
「いたっ…」
 美緒の悲鳴に、俺は正気に戻った。
 ふと見ると、美緒の乳房にくっきりと歯形がついている。さっきまではなかった跡だ、俺が力加減をせずに噛んだのだ。
「す…すまん、痛かったな」
 美緒は、笑って首を振った。
 そして、俺のモノが何かに包まれた。
 美緒が上気した顔で俺をじっと見た。
 美緒が、太腿で俺のモノを挟んでいた。
 そんな事をされたら、難なく女に挿入できていた、以前に戻ったようだ。まるで俺のモノが、美緒のナカに入ったようだ。
 一瞬勃起しかけたモノは、空耳に怯え、小さく震えているけれど。
「美緒…」
 美緒の名を呼ぶ。一度では足らず、何度も呼んだ。
 美緒は、一瞬の幻覚には気付いていない。俺の体の下で、俺を待っている。
 俺は体をずらし、美緒の足を大きく広げた。唇が訪れる前から、美緒は悲鳴を上げた。
 この子を静岡に連れて来て良かった。
 そうでなければ、一人で幻覚に怯えながら暮らすところだった。
 一緒に来てくれてありがとう。俺なんかと夫婦になってくれてありがとう。
 この子がいれば、幻覚は寄ってこない。
 指が蜜壺をかき回す。指の付け根で突起を刺激する。俺の動きにつられ、美緒も腰を動かす。悲鳴が少しずつ大きく、早くなっていく。
「ああ…あ、ああっ!」
 絶頂、悲鳴、そして痙攣。痙攣の時、美緒は俺にしがみつくようにして、絶頂の余韻に浸る。俺の指も余韻を味わう。
 美緒は上気した顔を俺の肩に押し付け、俺の肩に腕を回した。

 いつか、もう一度起き上がってくれ。
 俺は、脱力したモノに向かって話しかける。
 俺は、本当は、おまえを美緒のナカに入れたいんだ。あの子の、温かい蜜壺の感触を、おまえで味わってみたいんだ…。

「この紺色、良いと思います」
「うん」
「こっちの方が、柔らかい感じになります」
「そうか」
「あ、でも私の趣味だから…直樹さんが気に入らないなら、別のを選んでください」
「分かってるよ」
「そうですか?…ああ、やっぱりこっち、良いです。若く見えます」
「…ちょっと待て。俺はそんなに老けて見えるのか?」
 俺の情けない問いに、美緒はいたずらっぽい笑みを返した。
 ある土曜日。俺は美緒をつきあわせて、デパートにネクタイを買いに来ていた。
 美緒が選んだネクタイの支払いをカードで済ませ、二人で並んでデパートの中を歩く。俺は、自分の左手で美緒の右手を取った。美緒の目が見開かれる。
「あ…あの、直樹さん。手を、繋ぐなら、こっちで」
「右手を触られるのは、いやか?」
「嫌じゃありません。でも、直樹さんが、嫌でしょう」
「何故いやなんだ」
「だって…」
 俺は、左掌で美緒の右手を包みこむような位置を取った。もしも美緒の右手があるなら、指を絡ませることができるような、位置。
 俺の左掌は、美緒の右掌と繋がっている。
 俺はそのまま、以前から目をつけていたブティックに美緒を連れて行った。
「美緒。ちょっとこの服試着してみろ」
「え?何故?」
「何故って…おまえに、似合うと思うから」
 ブティックの前に飾ってある、オフホワイトの上品なワンピース。飾りはないが、布をふんだんに使ってギャザーを出してある。光沢があり、仕立ての良さが伺える。
「ええ?駄目です、こんな高い服」
「俺のスーツより安いだろう」
 以前、たまたまこの店の前を通り、飾ってあったワンピースを見た途端思ったのだ。
ーあのワンピースを美緒が着たら、きっととても似合う。
 俺が美緒と結婚して驚いた事。それは、美緒が驚くほど、自分の物を買わない事だった。
 俺は、女と言えば誰もが、洋服や靴やアクセサリーを欲しがったり、美味い物を食べに行きたがったり、遊びに連れていけとせがむものだと思っていた。
 美緒は実家の火事で、ほとんどの持ち物を失っている。だから、新たに買わなければならないものは幾らでもある筈だ。なのに、結婚して新しい生活が始まっても、新しい洋服は増えない。どこかに行きたいとねだられた事もない。
 よく観察すると、美緒は数種類のカットソー、スカート、セーターをローテーションして着回しているようだ。
 こんな地味な服ばかり着ていたら、せっかく上質の素材が勿体ない。
 本当は、下着ももっと大胆な物を着けて欲しい。どうして白いショーツばかりなんだ、ピンクや紫や、面積の少ない黒いショーツを着けてみろと言いたい。
 さすがの俺も、まだそこまで美緒には言えないが。
「このワンピース、綺麗でしょう。お値打ちですよ、どうぞお気軽に試着してください」
 店員が声をかけてきた。俺はさっさと服をハンガーから外し、美緒を試着室まで連れていった。
 美緒は、少し恨みがましい目をしたが、観念したのか試着室に消えた。
「お客様、お似合いですよ。サイズもぴったり」
 店員に言われるまでもなく、俺は自分の見る目が高かった事に満足していた。やはりこのワンピースは美緒に似合う。ほっそりした手足と、ボリュームのある胸を、嫌味にならない引き立たせ方をしていた。ふんわりしたラインなので、美緒が気にしている右手の欠損も目立たない。俺は絶対に、このワンピースを買おうと思った。が、本人が抵抗した。
「こんな綺麗なワンピース、一体いつ着るんですか」
「土日に、俺と出掛ける時に着れば良い」
「それなら、こちらのカットソーとセーターにしてくれませんか。私は、普段着の方が欲しいんです」
と、別の服を示された。それも美緒に似合いそうな洋服だ。俺はそのセーターも美緒の体に当ててみた。
「ああ、これも似合う。両方買おう」
「直樹さん!」
「美緒。うちの、世帯主は、誰だ?」
「な…直樹さんです」
「おまえ、世帯主の言う事に逆らうのか?」
「あ…でも、私は、大蔵大臣ですよ」
 目の端に、店員が笑いを堪えているのが見える。ああ、傍から見たら馬鹿みたいだろう。
「おまえが大蔵大臣なら、俺は内閣総理大臣だ」
 勝負はついた。俺は、持っていた洋服を丸ごと店員に渡した。
「優しいご主人さまですね。お客様、もしかして新婚さんでいらっしゃいますか?」
 さっきから笑いを堪えていた店員が、洋服を畳みながら尋ねた。
「はい」
 俺は、何故か自慢げに答えていた。
「奥様、うちの洋服と相性が良いですね。うちの洋服は、奥様みたいなふんわりしたイメージの方に、贔屓にしていただいているんです。今後も、どうぞお気軽にご来店下さいませ」
「ありがとうございます…」
 美緒は、左手で右手を覆う仕草をして店員の言葉に答えた。
 美緒がこの仕草をする時は、気後れしている時。もっと言うなら、自分の障碍を引け目に感じている時、だ。
 何故、そんなに障碍を気にするのか。どんなことでも左手一本でこなすおまえが、たかが右手がない事を、そんなに気にするな。
 俺のEDの方が、遥かにみっともないというのに。俺のEDは、他人に見えないだけなのに。
 俺は、美緒の服を入れた袋を右手で持ち、再度左手を美緒の右手とつないだ。
「直樹さん…ありがとうございます」
 美緒が、小さな声で言った。
「いつも、上手にやりくりしてくれてるだろ。ちゃんと礼をしなきゃと思ってたんだ」
「上手にやりくり?そうですか?」
「俺は独身時代、家賃と公共料金を払ったら、残りは綺麗に使ってしまって、全然残らなかったんだ。貯金はボーナス月しか出来なかった」
「ええ?どうして?」
「毎日、外食してたからな。外での飲み会も多かった。今は、ほとんど外食してないだろ。飲み会も、必要最小限しか行ってないし」
 美緒と結婚してから、給料口座の金は、毎月少しずつ余る。一人暮らしの時より、二人暮らしの方が金がかからなくなったのは驚きだ。
 やはり、美緒がきちんと管理してくれているのだろう。
 俺は、おまえと結婚して良かった。そう、言いたかった。
 けれど、男は見栄っ張りな生き物だから。服のプレゼントなんて方法でしか、気持ちを伝えられない。
「よく、私が好きなデザインが判りましたね」
「ああ…不思議なもんだな。あの服を見た時に、美緒が好きそうな服だ、美緒に似合うだろうって思ったよ」
「ありがとうございます。袖を通すのが楽しみ」
 柔らかな笑みを浮かべ、美緒が言った。
 また、美緒はちゃんと自分の気持ちを伝えてきた。
 俺は美緒の、この素直さには勝てない。
 いつ、俺は、美緒に、自分の素直な気持ちを口に出して伝えられるだろう。

第5章

―おまえ、体つきが変わってきたな。
―俺が、可愛がってるからか?俺に触られて、おまえの体は色っぽい体になったのか?
―知らなかったよ、女って、男に触れられてここまで変わるんだな。
―でも、おまえがこんなエッチな体だなんて、誰も気づかないだろ。俺しか、知らない。おまえの体を隅から隅まで知ってるのは、俺だけだ―。
 直樹さんが乳首をまさぐりながら、耳元で囁く声に、快感が増す。
 直樹さんの言う通り、私の体はどんどん柔らかくなっている。直樹さんが触りだすと、その後に訪れる快感を予想して体が熱くなる。力を抜けと言われなくても、直樹さんが触りやすい角度まで足を開く。恥ずかしがりながらも、気持ちの良い場所に直樹さんの手が触れるよう、自分の体勢を調整する。
 でも、私を触るだけで、直樹さんは良いのだろうか。直樹さんだって、気持ちよくなりたいんじゃないんだろうか。
 そう思って、一度聞いた事がある。そしたら直樹さんは苦笑し、
「気持ちよくなりたいのはやまやまだ。でも、EDの俺が、どうやったら気持ちよくなる?」
と言われ、その上
「おまえのヨがる顔を見てると、俺は気持ちが良い。もっと、色っぽい顔を見せてくれ」
と言われて、足を大きく開かれて舌を這わされる羽目になった。
 直樹さんのモノは、いつも、脱力している。近頃私は、直樹さんが私に触れてくる時、直樹さんのモノに触れるようになっていた。体が重なった時、自分の太腿でモノを挟む。左手で握った事もある。
 モノが脱力しているのは変わらない。でも、直樹さんは私がモノを触ると嬉しそうな顔になる。
 私はどんどん変わっていく。直樹さんに触発されて、自分の体が変わっていく。
 どこまで変わっていくのだろう。

 先月、直樹さんが
「今度、支店で大きな会議があるけど、その時三倉部長も来られるんじゃないか?」
と言っていた。案の定、会議の数日前に伯父さんから連絡があった。
「美緒、元気か?今度、静岡支店での会議に出席するんだが、ちょっとマンションに寄っても良いか?」
「どうぞ、私、駅まで迎えに行くわ」
「あ、相模には内緒だぞ。抜き打ちでマンション検査してやる」
 抜き打ち、という言い方が可笑しい。私は伯父さんに言われた通り、マンションに伯父さんが来る事を言わなかった。直樹さんは
「部長は金曜に来られるらしい。金曜の夜、ちょっとうちによっていただくか?」
なんて言っている。
 当日、私は駅まで伯父さんを出迎えた。伯父さんは私の姿を見て目を細め、
「元気そうじゃないか、美緒」
と言ってくれた。
「どうだ?こっちの生活には慣れたか?」
「はい。ここ、とっても暮らしやすいわ。直樹さんが車を買ってくれたから、いろんなところにも行けるし」
「そうか…」
 マンションに案内すると、伯父さんは周囲を見回して
「さすが美緒だな、掃除が行き届いてる」
と褒めてくれた。
 直樹さんは出勤前に
「今日は早めに帰れると思う。先週はずっと、会議の資料作りで遅かったしな」
と言っていた。そうしたら八時前に電話があった。
「すまん、雨が降り出しただろう」
「え、雨…ああ、本当ですね、今降ってますね」
「悪いけど、駅まで迎えに来てくれないか?」
「いいですよ、少し待ってて下さいね」
 私は車で駅まで向かった。後部座席にこっそり、伯父さんに乗って貰って。直樹さんの驚く顔を想像したらおかしくなる。
 駅に着くと、直樹さんは濡れながら私が来るのを待っていた。慌てて車を停め、助手席に乗ってもらう。
「ごめんなさい、待たせてしまって」
「いや、大丈夫。今日は何?」
「牛肉のしぐれ煮とサーモンマリネ、それとサラダにお味噌汁です。今日は簡単です」
「ああ、あれか。あのしぐれ煮は美味いな。あれは時間がかかってるんだろ?簡単ではないだろ」
 直樹さんは毎日、帰るとその日の夕食を尋ねる。小学生の男の子みたいでおかしくて、私は笑いをこらえきれなくなった。
「何だ?何が可笑しいんだ?」
「後ろにオバケがいるから」
「はあ?…は?部長!」
 直樹さんが飛び上るほど驚いた様子を見て、私は運転しながら大笑いしていた。

「仲、良さそうにやってるな」
 夕食には、伯父さんにも加わって貰った。
 伯父さんは直樹さんと熱燗を飲みながら、しみじみ呟いてくれた。
「直樹さんには私、とても良くしてもらってます。最初は、結婚話があんまり急で、どうしようかと思ったけど、今の生活は私には勿体ないくらいです」
「いや…その」
 直樹さんは困った顔をした。
「俺も美緒に餌付けされたって言うか…毎日美味しいもの食べさせて貰って、ありがたいよ」
「直樹さん、餌付けって変でしょう」
「美緒、それだけ、ちょっと気になるんだが」
 伯父さんが真面目な顔になった。
「おまえ、相模とそれだけ仲良くやってて、何で未だに敬語なんだ?」
「俺も、それが不思議だ。何で美緒は俺に敬語を使う?」
 二人に尋ねられ、私は困った。
「何でって…もう、癖になっちゃったから。最初に会った時、七歳も年上の人なんだから、きちんとしなきゃって思って、それで敬語を使い出したら、もう抜けなくなっちゃった」
「もう、敬語は止めてくれ。普通に話してくれ」
「わかりました…」
「いや、わかってないだろ!」
 夫に敬語で話す事は、そんなに変なのか。サザエさんのお母さんのフネさんは、夫の波平さんに敬語を使っているけれど。
「あと、相模。もう一つ気になる」
「はい…」
「おまえ、太ったんじゃないか?」
 直樹さんが右手で眼鏡を直した。表情を隠したい時の癖だ。
「お分かりですか」
「何キロ太った?」
「結婚して…四キロ」
「ええっ!」
 これには私が驚いた。
「結婚して、まだ半年も経ってないだろ。美緒、餌付けのしすぎだ。ちょっとダイエットさせろ」
「わかりました」
 直樹さんは顔を真っ赤にして俯いている。でも、私だって直樹さんが美味しそうに食べてくれるからこそ、料理に張り合いがあるのだ。ダイエットの協力なんて、出来るだろうか。
「しかし、東京本社のやつらが見たら、きっと驚くぞ」
 伯父さんがしみじみ言った。伯父さんも少し、お酒が回っている。
「こいつ、東京本社にいる時は刀みたいなやつで、切れるけど傍の連中まで怪我しそうで、周囲がいつもピリピリしていたな」
「…はぁ」
「静岡支店長が、相模は部下の面倒見も良くて、慕われてますって言った時、俺はびっくりしたよ。何かの間違いじゃないかって言ったくらいだ。でも、今のおまえを見ると、静岡支店長は間違った事は言ってなさそうだな。おまえ、美緒と結婚して良かったんだな」
「はい」
 直樹さんは即答してくれた。私の胸に、幸福感がじわりと広がった。
「そうか。それなら、前の事、あれはあれで良かったんだな。前の事がなかったら、おまえは美緒と結婚してなかっ…」
「部長」
 直樹さんが鋭い声で伯父さんの言葉を遮った。
「え?…相模。まさか、まだ話してないのか?」
「話します」
「おまえな、あの事は…」
「話します、自分の口から」
 二人の緊迫したやり取りに私は口を挟めず、おろおろするだけだった。
 このやり取りは何だろう。何の事だろう。
「部長。ホテルまでお送りします。あまり遅くなると、明日の会議に触ります」
 直樹さんが、否と言わせない口調で言った。直樹さんがこの口調になると、誰が何を言っても聞かない。
 伯父さんが、刀みたいなやつ、と言っていたのは、何となく分かる。結婚して丸くなったらしいけど、根は頑固で、自分をしっかり持っている人だ。伯父さんも渋々腰を上げた。
 直樹さんも伯父さんも、お酒が入っている。直樹さんを迎えに行った時のように、私が運転して直樹さんが助手席、伯父さんが後部座席に座った。
 しんとした雰囲気が嫌で、私はカーステをかけた。ラジオから、聴いた事のある歌声が流れてきた。
「We’re happy in my Blue Heaven…」
 私の胸が騒ぐ。母がよく歌ってくれた、My Blue Heavenの、英語バージョンの歌声。
 今の精神状態で、この思い出深い曲を聴くのは辛い。私の手が震えそうになった時、直樹さんが手を伸ばし、ラジオからCDに切り替えてくれた。CDから流れ出したのは、これも私の好みのカーペンタース。
 私は直樹さんに、目礼をした。
「…もう一つ、大事な事を言い忘れる所だった」
 伯父さんが言った。
「美緒。晴彦と美智子さんの一回忌の事。ちゃんと考えないと」
「え?」
 いっかいき。それが、亡くなって一年後に行う法要だという事に気付くまで、少し時間がかかった。
「場所とか、来てもらう人とか、考えないと。これは、本当は娘の美緒がすべきことなんだぞ。葬式の時は、おまえ、正気じゃなかったから、全部俺がやったんだが」
「正気じゃなかったって…美緒がですか」
 直樹さんが尋ねた。
「ああ。今でも、美緒は自分の両親の葬式の事、覚えてないだろ」
「はい…」
 両親の事、火事の事で、頭に浮かぶのは、焼け落ちた自宅の光景。それだけだ。
 その後、両親の葬式をどうしたのか、全く記憶にない。
「おまえが幸せそうにやってるのが、一番の供養だと思う。でも、まあ、一つの区切りとして。節目の法要はやらないとな」
「それは、俺たちがやるのが当然です。あと、位牌とか、どうしてるんですか」
「おまえんとこには、仏壇もないだろ。うちに位牌もお骨も置いてるよ」
「じゃ、納骨もしなきゃ駄目じゃないですか。仏壇だって、うちでちゃんとするべきだ。部長、また美緒と二人で、部長のお宅に伺って良いですか。一度そこらの話を相談しましょう」
「ああ、相模がそう言ってくれるのなら。うちに来るのはいつでも良い」
 自分の両親の話なのに、私の頭に現実感がなかった。忙しい直樹さんに、私の事で負担をかけてしまう事に対してだけ、罪悪感を持った。

第6章

「人って、変わるもんだな」
 ビールを前にした三倉部長が呟く。
 前日、俺に内緒でマンションに来た部長は、帰る日の晩に今度は「新幹線の時間まで飲もう」と誘ってきたのだ。
「驚いたよ、相模。おまえがこんなに、美緒と上手くいくなんてなぁ。また、美緒も綺麗になっててびっくりした。元から美人だったけどな」
「あの子は、良い子です。俺には勿体無いくらい。俺達が上手くいってるように見えるなら、それは美緒のおかげです」
「そうだろ。俺の可愛い姪っ子だからな」
 俺は部長の身びいきに満ちた発言を無視した。
「俺のうちにいた時より、表情が柔らかくなった。少しは落ち着いたかな」
「少しは。でも」
 俺は、以前から気になっていた事を部長に打ち明ける事にした。
「あの子、今でも寝ながら泣いてる事があります」
「…そうか」
「結婚したての時は、ほとんど毎晩でした。唸り声の時もあります。多いのは、泣きながら、お父さんお母さんごめんなさい…って」
 三倉部長の顔が歪んだ。
「可哀想に」
 部長は目の前のビールを煽った。
「あの子はなぁ…警察で両親の遺体を見たときに、黒焦げになった様にショックを受けて、その場で吐いたんだ」
「え」
「ただでさえ、自分だけが生き残っちまったって自分を責めてたのに、親の遺体に対して、きちんと向き合えなかった…それが余程負い目になってるんだろうな。それで、自分の記憶に蓋をしたんだろう」
「…」
「可哀想な事をした。俺の家だって家族四人でマンション住まいで、美緒が来てから嫁の機嫌は悪くなってな。浪人生の次男もソワソワして、勉強どころじゃなくなったから、余計嫁はカリカリ来て…」
「美緒は…あの子は本当に真っ直ぐな子だ。どうやったら、あんな素直な子が出来るんだろうと思いますよ。自分をやたらと卑下するけど、あの子より出来が悪いのにふんぞり返ってる女の子なんてゴマンといるのに。美緒に、あの障碍がなければ、あの子はもっと華やかな生活を送っていても不思議ではなかったでしょう…」
「そうだろ。本当なら、おまえみたいなロクデナシなんかと、結婚させたくなかったよ」
「部長、それはあんまりです」
「本気だ」
 ビールを煽るペースが早い。部長、かなり回ってきた。
「成績も良かった、気立ても良くて、おまけに美人。家事も完璧。皇室から求婚されてもおかしくなかった」
 なのに、俺みたいなEDの男と結婚か。その自嘲は勿論、口には出さない。
 初めて部長から、美緒の話を聞かされた時の記憶がふと蘇った。あの時の俺は、ただ打算しか考えていなかった。今思い返すと反吐が出そうだ。
…静岡の弟夫婦が事故で亡くなってな。忘れ形見の姪っ子が今、家にいるんだが、どうも、居心地が良くなさそうで。
…うち以外、あの子を引きとれそうな親戚がいないんだ。でも、うちもそんなに広い家じゃない。最近、あの子がいるって事で、嫁の機嫌が悪いんだ。
…生まれつき右手首から先がないんだ。でも、障碍はそれだけだ。何でも左手だけでこなしてる。器量も性格も良い子なんだ。なのに、去年は就職超氷河期だったろ。大学を出て就職がなくて、その上、家も親も失って、あんまりだ。この世には神も仏もいないのか。
 あの時も部長は酒を飲みながら、そんな風にこぼしていた。
…じゃ、俺がその子、引き取りましょうか。
 そう言ったら部長は冗談と思ったみたいで
…ああ、いいぞ。おまえにはもったいないくらい、良い子だ。
と言ったのだ。
…いつ、会わせてくれますか。せっかくだから、一緒に静岡に行きますよ。何なら、静岡に行く前に籍を入れてしまいましょう。
 そこまで言ったらさすがに部長の顔が青ざめた。
…冗談だ。やめてくれ、おまえみたいなロクデナシに、可愛い姪っ子をやれるもんか。
…なぜですか。その子の生活は俺が保障しますよ。部長の家で肩身の狭い思いをするより、俺の妻になって静岡に来た方がその子も幸せじゃないんですか。
…おまえと結婚したって、不幸になるだけだ。
…じゃ、このまま部長の家に居候してたら幸せなんですか?ねえ部長。もし、半年後に息子さんが志望大学に入れなければ、その時また、その姪御さんを責めませんか?この子が来たせいで、息子は勉強に身が入らなかった、って。そうなったらその姪御さん、気の毒ですね。
…一度、会わせて下さい。その時、その子が決めればいい。俺に付いてくるか、そのまま部長の家に残るか。
 その時、俺が思っていた事は。
 俺が妻帯者であれば、例の噂の本人が俺だと、転勤先に気付かれる事はない。その子を、煙幕に使えばいい。
 そう、思っていたのだ。
 何て汚い男だ、俺は。
「まぁ、あんまりおまえを責めても仕方ない。相模。子供は作るつもりか?」
 突然、核心を突いた質問をされて、俺はむせそうになった。
「いやっ、あのっ」
「美緒の子供か…さぞ可愛いだろうな。父親がおまえっていうのが何だが、美緒に似ることを祈ろう」
「あの、部長…別に避妊してるわけじゃないんですが、何故か、なかなか…」
「え?出来ないのか」
「はぁ」
 今時、こんなにストレートに尋ねられるとは思わなかった。普通はこの手の質問は遠慮するだろう。酒のせいか、それとも姪の事だからか。
「おまえな…もし、子供が出来たら…」
 部長はその後の言葉を小さく呟き、さっさとレジに立って会計を済ませた。
 店を出ると、部長の後ろ姿が見えた。
「…伯父さん」
 俺も酒が入っていた。部長の後ろ姿に
「伯父さん。ご馳走様です」
と声をかけたら、部長が怖い顔で踵を返してきた。
「相模!人の話聞いてないのか!」
 俺は笑って部長の怖い顔を受け流した。
「まったく!美緒は何だって、おまえみたいなロクデナシになついてるんだか!いいか相模!子供が生まれたら俺の事を伯父さんと呼べ、とは言った。今はまだ駄目だ!」
「伯父さん、俺の事は直樹と呼んでください」
「このぉ!」
 酔ったふりをして、俺は笑った。
 
 美緒はいつでも、感情表現が素直だ。嬉しい時は、表情でも言葉でも表す。謝る時もストレートだ。
 俺も、美緒の影響を受けてきている。そして、美緒のようになりたいと欲している。

「美緒、これ、佐藤からおまえに預かった。この間のぶり大根の、礼だそうだ」
 俺は佐藤に渡された、美味いと有名な菓子店のチョコレートを美緒に渡した。
「ご丁寧に。じゃ、私がお礼を言ってたって、直樹さんから伝えて下さい」
「ああ」
 この間、佐藤と同じ電車で帰ったら、電車の窓に雨が当たりだした。
 佐藤の家は、俺の家から二駅先だ。だが、駅から家まで歩いて十五分以上かかる。俺は佐藤も一緒に俺の最寄駅で降りるように言って、美緒に駅まで迎えに来てもらった。
 そうしたら美緒が
「佐藤さん、もしかして夕食まだですか?今日、ぶり大根を炊いたんですけど、よかったら一緒に食べていきませんか?」
と言ってきたのだ。
「山田錦も、昨日買ってきたんです」
 美味しい日本酒の銘柄を言われ、佐藤は遠慮のえの字もなく「お邪魔します!」と即答していた。
 美緒のぶり大根は、山田錦とよく合った。おまけにその日は金曜日で、ここぞとばかりに俺と佐藤はしこたま飲み、結局美緒は酔いつぶれた佐藤を自宅まで乗せていく羽目になったのだ。
「佐藤は、おまえの料理のファンだからな」
「やだ、大げさな」
「大げさじゃない。もしおまえが店でも出すなら、アイツ毎日でも来るんじゃないか?」
「何を馬鹿な事を」
「そうだな、俺が定年退職したら、おまえ小料理屋でもやるか?万が一、俺が先立つような事があっても、おまえならその料理で、ちゃんと生計が立てられるぞ」
 俺は軽口を叩いた…つもりだった。
「俺のおかげで、おまえ、美味しい日本酒を覚えたろ?カウンターに日本酒がずらっと並んで、おまえが料理を作ってる。何人も贔屓客がつくな」
 俺は着替えをしながら、馬鹿な与太話をした。そして美緒を振り返り…
「美緒?」
「なんで、そんなこと、言うの」
 俺は、言葉を失った。
 蒼白になった美緒が、無表情なまま、俺に詰め寄る。
「何で?誰が、先立つって?何で?直樹さんまで、私を置いて逝っちゃうって?」
「美緒、おい、冗談だ…」
「いや!」
 美緒が突然叫んだ。
「いや!いやだ!もう、置いてかないで!」
「美緒!」
「いや、ぜったいに、いや、もう、置いて、いかないで…」
 俺は美緒を胸に抱きしめた。
「置いてかない、絶対だ、俺だって、おまえに置いてかれたくない」
「ぜったい、ぜったい、置いてかないで。置いてかないでぇ!」
 美緒が号泣した。子供が泣くように、身も世もない泣き方だ。
「お父さん、お母さん、何で、美緒を置いて逝っちゃったのぉ!」
「美緒!俺は、おまえを置いて、どこにも行かない!」
「お父さん!お母さん!」
 俺は、心から後悔した。
 美緒。おまえの心の傷は、ここまで深かったのか。この傷に耐えられず、おまえは普段、両親の記憶に蓋をしているのか。
 俺の腕の中で、美緒は過呼吸を起こしていた。咄嗟に自分の胸に美緒を押し付け、背中を撫でた。
「吐いて…吐いて…吐いて」
 俺も敢えて、深呼吸をした。美緒が呼吸しやすいように。
 俺の呼吸に合わせ、美緒の呼吸が正常に近づく。そのまま美緒の体はずるずると崩れ、俺は美緒をベッドまで連れて行った。
 美緒は体を強張らせ、小刻みに震えていた。
 俺は美緒をいつものように抱き寄せ、丸くなった。
「美緒…もう、寝ろ。今日は今日、明日は明日だ。目が覚めたら、また良い一日が始まる。目が覚めたら、俺が、いるから…」
 EDで、見栄っ張りで、意地っ張りで、ろくでなしの俺だ。
 でも、俺がおまえを、一生守るから。俺はおまえを泣かせるような事は、しないから。
 この時俺は、はっきりと意識していた。
 もう俺は、美緒なしの人生なんて考えられない。俺は、美緒を、愛している…。
 美緒はやがて俺の腕の中で寝息を立て始めた。
 俺はそっとベッドを抜け出し、美緒が俺に準備してくれていたロールキャベツを皿に入れて一人で食べた。その後、皿も自分で洗った。
独りで食べる食事は味気ない。ほんの数か月前までは、一人で食事をしていた筈なのに。
 俺がベッドに入った時に美緒の顔を見ると、また、眠りながら涙を流していた。俺は寝ている美緒の頬に顔を寄せ、そっと口づけた。

 朝になって美緒が小さく動いた。俺はすぐに目を開けた。
 と言うより、昨夜はあまり眠れなかったのだ。
 ごそごそ動いてから、美緒の目も開いた。
「美緒…気分、どうだ?」
「気分…あまり、良くない…」
 美緒はゆっくり体を起こした。
「私…何で、昨日の服のまま寝てるんですか?」
「え?」
 美緒の目が虚ろだ。俺は、美緒の顔を覗き込んだ。
「美緒…昨日の事、覚えてるか?」
「昨日…?」
 美緒はまた、自分の記憶に蓋をした…そう思った。
 こうやって、自分を傷から守っているのだ。
 よく考えると、俺のEDも美緒の健忘症と同じかもしれない。人間は無意識のうちに、自分を守ろうとするのだ。
 俺は医者ではないから、美緒のこの症状が健忘症に当てはまるのかどうか、よくわからないが。
「昨日、泣いた事…覚えてないか」
「泣いた…私が?」
「佐藤から、チョコレートを貰った事は?」
「覚えて…ません」
「俺が言った事も、覚えてないな」
「す…すみません」
 俺の手が美緒の頭に乗る。
 普段なら、俺が美緒に触れると、美緒は喉を撫でられる猫のような表情をする。だが今日は、美緒の表情から不安の色が消えない。
「いいさ、気にするな。そろそろ起きよう。気分が悪いなら、弁当は作らなくても良いぞ」
「いえ、それは大丈夫です」
 美緒は体を起こし、台所へ向かった。
 慣れた手つきで卵を焼き、ほうれん草を茹でている。
「美緒、俺が出かけた後で、ちゃんと朝飯食えよ。昨日、夕飯食べずに寝たんだから」
「は…はい」
 美緒は不安そうな顔で返事をした。そして
「すみません、直樹さん…こんなの、気持ち悪いでしょう」
と小さな声で言った。
「気持ち悪い?何が?」
「私…時々、こんなことがあるんです。記憶がすっぽり抜け落ちちゃって…両親のお葬式も、こんな風に記憶が抜けてて…」
 すると、自分の健忘症の自覚はあるのか。
 美緒が完成した弁当と、コーヒーが入った水筒をテーブルに置いた。
「美緒。昨日、言った事、もう一度言うぞ」
「は、はい」
 俺は立ち上がり、美緒の体をふわっと抱いた。美緒の体が一瞬強張る。
「俺は、おまえを、一生守る。俺は絶対、おまえを置いてどこかに行ったりしない」
「な…」
「なぜなら、おまえは、俺にとって、誰よりも大切な女だからだ」
「…」
「美緒…愛してる。一生、傍にいてくれ」
 ああ、やっと言えた。この俺が、意地っ張りの見栄っ張りの、この俺が。
 こんな風に、素直に気持ちを口に出来るなんて。
「私も、ですよ、直樹さん。私も、直樹さんの事、愛して、いますから」
 美緒が首を傾け、俺の目を覗き込んでそう言った。
…また、やられた。
 俺が、さんざん苦労して、やっと口にできた言葉を。美緒は、何のてらいもなく口にして。
 まったく、この子は、どれだけ素直なんだ。
 美緒の唇に俺の唇が触れた。背中を強く抱き、美緒の唇を味わおうとした…その時、テレビから聞こえる言葉に驚いた。
「時刻は七時二十五分です。各地の天気をお知らせします」
「もうそんな時間なのか!」
 俺は慌てた。普段ならもうとっくに、家を出ている時間だ。
 ばたばたと弁当箱を持ち、玄関に向かった。
「直樹さん、駅まで送りましょうか」
「朝は駄目だ、かえって時間がかかる。駅まで走っていくから大丈夫」
「気を付けてね」
「帰ったらディープなキスをしてやる」
 玄関が閉まる寸前、美緒が小さく「ばか…」と呟くのが聞こえた。

第7章

 直樹さんが買ってくれた綺麗なワンピースの出番が決まった。
 新聞に載っていた、絵本の原画展。新聞を読みながら「わあ、この原画展、見てみたい」と呟いたら、直樹さんが「行くか?」と言ってくれたのだ。
 二人で買い物は、よくある。ケーキ屋に入る事も、よくある。けれど、こんな風に出かけるのは初めて。
 デートみたい…という言葉が、恥ずかしくてどうしても言えない。だけど私は、馬鹿みたいにうきうきしている。
 土曜日は雨が降ると天気予報で言っていたから、原画展は日曜日に行く事にして、土曜日はいつも通り本屋とスーパーマーケットのはしごをする事にした。
 昼ご飯を食べてから出かけて、書店で一時間ほどを過ごし、その後買い物をするのがいつものコースだ。
 直樹さんがビジネス書のコーナーに行っている間、私は料理本のコーナーに行った。面白そうな料理本をチェックするのは、既に習慣だ。
 料理本の前に、賑やかな女の子二人組がいた。
「もっちゃん、こっちも良いんじゃない?」
「それ難しそうなんだ。こっちの方が簡単で見栄えしそう」
「本気で、あの彼の事、料理で落とす気?」
「本気だよ。シーナちゃんも思わない?うちの係長、完全に奥さんの料理で落とされてるじゃん。あれ見てさ、料理で男を落とすなんて古典的だけど有効だと思ったんだ」
 この子達、前に私が車で送っていった直樹さんの部下の子達だ、と思った。確か、椎名さんと森本さん。私は正体がばれないよう、首に巻いていたマフラーを顔半分まで覆った。
「それにしても、あの東京本社の人が言ってた話、気になるわあ」
「シーナちゃん、まだ言ってんの?絶対あれ、うちの係長じゃないって」
「だってさ、条件はうちの係長にバッチリ合うんだよ。秋に本社から支店に転勤、年は三十になったばっかり。仕事はバリバリ出来る」
「で、女にだらしなくて社内で二股かけて、結婚式に乗り込まれて破談になった?うちの係長、奥さんにメロメロじゃん。違うって」
「まあねえ。その係長は、部下にもすんごい厳しくて、その係長のせいで何人も異動願い出して、よそに移っていったって話だし。うちの係長、仕事では厳しいけど、よそに移りたいとまでは思わないよね。実は、陰でしっかりフォローしてくれてるし」
「そうそう、私の先月のミス、あれ係長がかばってくれてなかったら、始末書ものだったよ。あれに気が付いた時、真っ青になったもん」
「もっちゃん、帰りの電車で号泣してたもんね」
「だーかーら、その噂のトマトジュースは、ぜったいに、うちの係長じゃない!」
 トマトジュース。その言葉の不吉さに、動悸がした。
 今の会話。直樹さんの部下。東京本社。二股。トマトジュース。トマトジュース。
 脳裏に、トマトジュースの赤い染みが広がった。

 直樹さんは私にはいつも優しかった。口では随分な事も言う。皮肉な笑みを浮かべる事もある。けれど、気が付けば私はいつも、直樹さんに庇護されていた。
 車の買い替えはおまえの為じゃない、俺の為だ。そんな事を言っていたけど、結局車は平日の私の大事な足となっている。
 おまえがケーキ屋に付き合ってくれたら俺が助かる。そう言いながら、ケーキ屋に入ったら、まず私が好きなケーキを選ばせる。
 おまえがヨがる顔を見るとそそられる。もっといい顔をして俺を楽しませてくれ。そう言いながら…。
 私は料理本のコーナーを出て、ビジネス書のコーナーに向かった。直樹さんは、一生懸命本を読んでいる。
 直樹さんの横顔をこんなに真面目に見たのは初めてだ。
 一生懸命、仕事の本を読む直樹さんは、素敵に見える。きっと、私の欲目だろうけど。
 さっきの言葉が蘇った。
 二股。
 直樹さんが顔を上げ、私と目が合った。直樹さんの目が細められ、本を棚に戻して私の方に寄ってくる。
「…どうしたんだ?」
「え」
「痴漢にでもあったか?怖い顔になってる」
 私の表情は、そんなに読みやすいのか。何かあると、すぐ直樹さんに伝わってしまう。反対に、私は直樹さんのポーカーフェイスが読めない。
「家に、帰りたい」
 私はそれだけしか言えなかった。あとは、涙が一粒こぼれた。

「東京本社から静岡支店に異動になったきっかけと、トマトジュースが嫌いになったきっかけを、教えて貰えませんか」
 私の問いかけに、直樹さんの顔色が変わった。
「何か聞いたのか」
「断片的な噂です。でも、噂は、どこまで本当か判りません。だから、私は、直樹さんの口から、ききたいんです」
 たぶん、裕彦伯父さんが「まだ言ってないのか」と言っていたのはその事だ。
 直樹さんは顔を歪ませた。
 そして台所に向かい、冷蔵庫から缶ビールを取り出し、プルトップを起こしてごくごくと飲んだ。
 あっという間に三百五十ミリリットルの缶が空になり、直樹さんは二本目を取り出した。
「駄目です、やめて」
 私は直樹さんの右手を押さえつけた。
「離せ」
「駄目!そんな飲み方したら、体に悪い」
「放っとけ!」
 直樹さんが大声を出した。
 結婚してから、そんな大声を出された事はない…と言うくらいの大声だった。
「こんな話、素面で出来るか!」
 私は直樹さんから取り上げた缶ビールを胸に抱き、しばらく黙った。
 それからダイニングに戻り、いつも直樹さんが座る席にビールを置いた。
「判りました…じゃあ、直樹さんが話しやすい状態にしてください。飲んだ方が話しやすいなら、飲んでください」
 直樹さんは、私につられるようにいつもの椅子に腰を下ろした。
 私は、椅子に座った直樹さんの足元に座り込んだ。そして、直樹さんの足に頭をもたれかけた。
 こうすれば、互いの顔が見えない。でも体温が感じられる。
 直樹さんは、私が置いた缶ビールには手を付けなかった。
 窓の外でポツ、ポツと雨音が聞こえた。それはすぐに、パタパタと激しい音に変わった。
 雨音が響く静かな部屋の中で、どのくらいの時間が過ぎたのだろう。やっと、直樹さんは重い口を開いた。

「俺はな、同期入社の中でも出世頭だったよ。自分でも自惚れてた。でな、結構女の子から、言い寄られたんだよ」
 仕事がバリバリ出来て、女の子から言い寄られていたという直樹さん。それは何となく、想像がつく。そもそも、何でこの人が私なんかと結婚したのかという疑問は、いつまで経っても私の胸から消える事はなかったのだ。
「ある時、社内の子と付き合ってた時期が重なってたことがあったんだ。ところが、片方の子が、資産家の子でな。都内に大きい家を持ってた。俺は、この子と結婚したら逆玉だ、そう思って、大した罪悪感もなくもう一人の子と別れて、資産家の子と結婚準備に入った。いや…俺は別れたつもりだったけど、実際の所、二股かけた揚句に捨てたって事だよな」
 直樹さんの口調が、自嘲じみてきた。
「俺の親、親戚、相手の親に親戚、東京本社の上司…盛大に式を挙げようと思ったからな。大勢呼んだよ。花嫁も綺麗だった。人形みたいだった。人生で最良の日だと、思ったよ…」
 私はそっと頭を上げて、直樹さんを見た。
 直樹さんは項垂れて、人生に疲れ果てた老人のように見えた。
「花嫁がお色直しで、赤いドレスに着替えた時、別れた筈の子が、式場に入ってきた。その子も、赤いドレスを着てな。手には、トマトジュースの瓶を持ってた。それを…」
―俺に投げつけた。俺は頭からトマトジュースをかぶって、まるで血まみれだったよ。
―花嫁は悲鳴を上げて倒れるし、向こうの親は俺を攻め立てるし、上司は冷ややかに俺を見るだけ。親には…泣かれた。
「という事で、親には勘当を言い渡された。東京本社にもいられなくなった。たぶん、もう本社に戻る事はない。それからだよ、トマトジュースを見るのも嫌になったのは。EDも、それがきっかけ…」
 俺は歪んでる…と言った直樹さんの言葉が蘇った。
「美緒。おまえは俺の事を優しいなんて言うけど、おまえは何も知らない。社内で二股かけて、結婚式を台無しにされた俺の、どこが優しい?」
「…」
「それにな。俺が何で、おまえと結婚しようと思ったか。三倉部長に恩を売りたかった。まだある。俺の事は、社内で大スキャンダルになってた。静岡支店に、俺が妻帯者として転勤すれば、噂の間抜けな男は俺じゃないって、周囲は思うだろう。そういう打算もあった。それから…初めておまえと会った時。おまえは、まるで捨て犬みたいに見えた。おまえを見た時、この犬を拾って帰ろうって…俺は内心、そう思ったんだよ。俺は、おまえの事を、犬扱いしてた…」
 言葉の語尾が消えた。
 静まった部屋に、直樹さんの嗚咽が響いた。
 私は、男の人が泣くのを初めて見た。直樹さんの傷の深さを思い知った。
 私は立ち上がり、直樹さんの頭をそっと抱きしめた。
「…可哀想に。直樹さん、傷ついたでしょ」
「え?」
 この人には、成熟した大人の部分と小学生のような子供っぽさが同居している。プライドが高くて、自信家で、それでいて自分が傷つく事を恐れている。
 そんな直樹さんにとって、その出来事はどれほどショックだったか。
 ようやく、直樹さんの傷が見えた。この人はこの傷を、誰にも見せず、奥底にしまい込んでいたのだ。その傷からは今でも、血が滲んでいる。
 私がその傷を舐められるのなら、舐めてあげたい。直樹さんの傷を癒してあげたい。
 直樹さんが可哀想で、そして愛しくて。
 この間…突然私を抱きしめて「愛してる」と言ってくれた。
 あの時私は混乱して、ぐるぐる頭の中で思考が巡って、そんな中咄嗟に思いついた言葉が「私も直樹さんの事を愛しています」だった。
 そうだ、私は直樹さんが愛しい。愛おしくて愛おしくて、胸が震える。
「私が捨て犬みたいに見えたって…正解です。あの時、直樹さんが私と結婚するって言ってなければ…今頃私は多分、自殺してました」
「何で…親の後を追ってか?」
「それもあります」
 普段、私が夜に外出する事なんてほとんどない。本当にたまたま、あの日私は外出したのだ。その日を狙い澄ましたかのように、家に火事が起きた。
「いつも通りなら、私も家にいて、家族三人で死んでいたところだったんです。なのに私だけ生き残って、おまけにショックのあまり、両親の葬式の事も覚えてなくて、こんな自分が何で生きてるのか、そればかり考えてました」
 私は大きく息を吸った。直樹さんが血のにじむ過去を見せてくれたように、私も血が滲む過去を話そうと思った。
「今から言う事は、誰にも言った事はありません。だから直樹さんも、胸にしまっておいてください」
「…ああ」
「東京の、裕彦伯父さんの家には、私の従兄弟に当たる男の子がいます」
 そこまで言って、息継ぎをした。次の言葉を紡ぐのに、私は呼吸を整えなければいけなかった。
「手を…」
 口を開くが言葉が出ない。私の様子に、直樹さんの方が反応した。
「まさか、その子…」
「もう少しで、手を、出される所でした。その従兄弟に。あの家を出なければ多分、手を出されてました」

 動悸が激しくなる。誰にも言えなかった、黒い思い出。
「最初は、下着がなくなった事でした。でも、私の勘違いかとか、どこかに紛れたのかとか、思ってました。それが、私が一人でいる時に、突然後ろから近づかれたり…」
「…」
「直樹さんと、初めて会った日。あの前日には、お風呂を覗かれそうになったんです」
「…美緒」
「小さい頃から知ってる従兄弟です。でも、年頃になっていきなり私が同じ家に住み始めたら、向こうだって困ったでしょう。突然裕彦伯父さんの家に転がり込んだ私が悪いんです。でも、従兄弟にあんな目で見られて!嫌だったけど裕彦伯父さんにこんな事言えないし、どこにも行く所なんてないし、でも、あれ以上伯父さんの家にいたら、あの子間違いなく、私の布団に入ってきてました。そんな時…」
「…」
「直樹さんが、結婚しましょうって言ってくれたんです」
「ああ…」
「人間の運命なんて、人間にはどうしようもないんです…私だって、この右手がこんな風じゃなかったら、多分違う人生でした。突然両親と家をなくしたことだって、私にはどうしようもない事です。私は今まで何度も、自分でどうしようもない事に直面してきたんです。直樹さんと結婚した事も、どうしようもない事だった、でも直樹さんと結婚して、私は幸せです。直樹さんは歪んでなんかいない、私を、幸せにしてくれたんです!」
 直樹さんの目が泳ぐ…信じていない。この人は私の言葉を信じていない。何故、分かってくれないんだろう。
「信じられないの?私、直樹さんと結婚して幸せなのよ!」
「な…何で…俺はおまえに優しくないし、こ…子供だって、作ってやれない…」
「私が何を望んでいると思ってるの!」
 私の剣幕に、直樹さんがたじろいだ。
「私が欲しかったのは、安心して暮らせる家庭だけよ!誰もお風呂を覗かない、私がいる事で不満そうな顔をしない、安心して夜に眠れる、安心できる生活が欲しかった!あなたとの生活は、心から安心できる!何も心配する事なんかない!私が、心配なのは…」
「…」
「あなたが、お父さんやお母さんみたいに、突然私の前から、姿を消す事だけ…」
「美緒」
 直樹さんが立ち上がって、私の肩を抱いた。
「直樹さんを、愛して、いるんです…」
「美緒…」
「見栄っ張りで、意地っ張りで、女たらしで、わがままで子供っぽくて…そんな直樹さんが、好きなの…」
「美緒」
「EDがなによ…そりゃ、子供がいたら楽しいでしょうけど、二人の生活がこんなに楽しいのに、これ以上何を欲しがるの。私…これ以上、何もいらない…直樹さんと、これからもこんな風に、暮らしていきたい…」
 私の作った料理を食べて貰って。休日には一緒に車で出かけて。本屋に行って、時々ケーキ屋に寄って。
 日曜の昼下がり、私が新聞を読む向かいで、直樹さんがパソコンに向かう。仕事をしている時もあるし、ネットで仕事に関する情報を集めている事もある。
 三時になったらコーヒーを入れる。部屋の中に満ちる、カフェインの匂い。お米の炊き上がる匂い。味噌汁の匂い。
 そんな日常の匂いを、私は心から愛している。
 直樹さんの汗の匂い…それが濃くなると、夫婦の濃密な時間の合図だ…直樹さんの顔を見られなくて、腕で顔を隠して、けれど快楽の期待は隠しきれなくて、目ざとい直樹さんにニヤリとされて。
 直樹さんのモノは脱力したまま。けれど、脱力したモノも、私には愛しいのだ。脱力したモノを見る度、私がこの人を守りたいと、思わずにいられないのだ。
 これが私達の日常…これが私達の、普通の生活だ。
 直樹さんの唇が近づく…それよりも、私が直樹さんの唇を吸う方が早かった。直樹さんの髪に左の指を絡め、右腕で背中を撫でる。
 愛してる、愛してる。あなたの事を、心から愛してる。
 そして、多分あなたも、私を愛してくれている…。

「え」
 私と直樹さんの声が同時に出た。
 何かが、私の腰のあたりに当たっている。
 私は驚いて、直樹さんの下半身を見た。そして、無言で直樹さんのズボンと下着をおろした。
「あ…」
 初めてだった。直樹さんのモノが、上を向いていた。
 私は深く考えず、直樹さんのモノに顔を近づけて、ぱくりと咥えた。
「み…美緒」
 直樹さんが慌てた声を出す。直樹さんに構わず、私は直樹さんのモノに愛撫を加えた。
 もちろんこんな事、した事がない。でも、やり方は分かる。直樹さんが私にしてくれたように、すればよいのだ。
 モノに舌を這わせる。口を動かして、出し入れするような刺激を加える。強く吸い、また舌を這わせる。
 口腔内のモノは勢いよくうごめいている。直樹さんが呻く。声を聞けば分かる、直樹さんは感じてる。
 直樹さんの腰も、動いてきた。モノに、塩気が混じる。
「ア…美緒、駄目、も…う」
 直樹さんが、モノを口から抜こうとした。私は直樹さんの腰を固定して、その動きに逆らった。
 直樹さんの腰が激しく動いた。そして、私の口の中でモノが爆発した。
「う…」
 直樹さんが呻く。荒い息を吐き、それから私の体から離れて、ティッシュを私に手渡した。
「悪かった、おまえの中で出すつもりはなかったんだ。大丈夫か?」
「…うん」
「ものすごく久しぶりだから…たまってた分、濃いと思う。ごめんな」
 私は口の中の白い液体をティッシュに出した。
 誰が、性的に淡白だって?自分から夫の股間に唇を寄せた私が、淫乱以外の何だっていうんだろう。急激に恥ずかしさが押し寄せた。
 けれど、直樹さんは嬉しそうだった。そりゃあそうだろう。長い間直樹さんを悩ませていたEDが、解消されたのだから。
 直樹さんはもう一度私の背中に手を回し、ゆっくりと唇を重ねた。
「美緒、ありがとう」
「そんな…」
「寝室に…行こう」
「え?」
「美緒。朝まで寝かせない。覚悟しろ」
「え?」
「今の俺なら、おまえを朝まで抱く事が出来る。覚悟しろよ」
「ちょ、ちょっと…」
 直樹さんは私を抱き上げた。前に言ってた「お姫様抱っこ」という姿勢だ。
 ベッドに下ろされ、直樹さんはたちまち私の衣類を剥いだ。耳の後ろから首筋、腋を通って胸に行く…いつもの、舌の動きだ。
 私の体を横向きにすると、豊かな胸が重力に従ってぽろりとこぼれる。こぼれた胸を掬うように、直樹さんの掌がうごめく。強く揉まれ、私は抗議の声を上げた。
「な…なおき、さん、ちょっと激しすぎ…」
「覚悟しろって言ったろ」
「だ、だからって…アアッ」
 性急に私の体に唇が降り注ぐ。白い乳房は強く吸われ、たちまち赤い跡がついた。唇は首筋に移動し、首筋まで強く吸われる。
「だ、だめだって!」
 私の体に硬くなった直樹さんのモノが当たる。さっき出したばかりなのに。
「美緒。その従兄弟は、おまえの体に触れてないんだな」
「触れて…ない」
「体も見られて、ないんだな」
「見られて、ない」
「命拾い、したな」
 直樹さんが、ニッと笑った。
「その男がもし、美緒に指一本でも触れてたら、今頃俺、そいつをぶち殺してた。肌を見てたら、目をくりぬいてた」
「直樹さん…」
「もう、絶対、美緒は、俺だけの、ものだ。ぜったい…」
 直樹さんの唇が下がり、私の溝に舌を這わせた。ナカにも指を入れられ、私は喘いだ。
 ぴちゃ、といういやらしい音がしばらく響いた後、直樹さんは私をうつ伏せにし、後ろから私の体に手を回した。手が胸を這い、下半身を襲う。背中を唇が這い、お尻まで狙われる。右手が秘所をまさぐりやすいよう、左手は私の足を広げる―。あまりの激しさに、私は悲鳴を上げた。
「あああっ!や、やぁっ!」
「何がだ、ぐちゃぐちゃに濡れてるぞ」
 直樹さんの言う通り、私の秘所は濡れそぼっていた。
 直樹さんはいつものように、半身を起こして姿見に映す余裕もないようだった。
 自分たちが睦みあう姿を、直樹さんは姿見に映すのが好きだ。私は、恥ずかしくて姿見を直視する事は出来ない。でも私を愛撫して、姿見に映っている姿を見て、直樹さんが興奮しているのが分かっていた。吐息が、体が熱くなるからだ。直樹さんは私の体を見て興奮している…そう思うと、私の快感も増し、じわりと下半身が濡れていたのだ。
右手の指が秘所をいやらしく突き、足を広げる左手の指が伸びて勃起した部分を弄っている。
「ああ、や…」
「そう言えば…おまえってよく考えたら、バージン、なんだよな」
 直樹さんがくすくす笑いながら言った。
 そんな事、考えた事もなかった。直樹さんと数えきれないくらい裸で睦みあい、何度も指でイカされた、この自分が処女だなんて。
「バージンなのに…いやらしい美緒ちゃん」
「ばか、誰のせいだと…」
「俺のせいか?俺は、悪い男だな。純情な美緒ちゃんを、こんないやらしい女に変えて」
 直樹さんのふざけた口調が、出し入れする指が、気持ちの良い場所を触る手が、私を翻弄する。
 直樹さんのモノが私のアソコに入ったら、どうなるんだろう。
「そうだよ…直樹、くんの、せい」
「…美緒」
「直樹くんが、私をこんな、風に、しちゃった…もう、直樹くん、以外の人になんか、触られたくない…触られても、きもちよくなんか、ない…」
「ああ」
「直樹くんが触るから、きもちいいっ。直樹くんだから、かんじて、おかしくなるっ…」
「可愛い…美緒ちゃん。もっと、もっと喘いで、悶えて、可愛くねだってくれ」
 直樹さんのいやらしい言葉に、下半身が熱を帯びる。
「もっと、もっと、きもちよくして…美緒の事、いっぱい可愛がって…」
「気持ちよくしてほしい、んだな」
「うんっ…」
「いっぱい…可愛いがってやる。失神するほど…気持ちよくしてやる」
 直樹さんが私の足を大きく広げた。そして、蜜が溢れる秘所に熱いモノを挿入した。
「アアアッ!」
 違和感に腰が跳ねた。指と違う太さに、私の秘所が悲鳴を上げた。
 直樹さんのたくましい腰が、私の下半身を何度も突く。
「や…裂けそう」
「裂けるもんか」
 直樹さんが苦笑した。
「美緒ちゃんのナカ…温かくて、ヌルヌルしてて、すごい、きもちいい…」
 私の方は、違和感の方が勝っていた。
「美緒ちゃん…キツいか」
「す…少し」
「痛い?」
「ん…」
 直樹さんは一度動きを止め、ゆっくりと花芯を愛撫した。
 その動きは、これまでに何度も味あわせてくれた、何度も私をイカせてくれた、直樹さんの動きだった。弧を描くようにソコを弄る。そして、人差し指と薬指で秘唇をめくって露出させた花芯を、中指でいじった。
「っ…!」
「すご…締め付けられた」
 直樹さんに言われなくても、強烈な刺激に蜜壺が収縮した事に気付いていた。どくん…と脈打ったものが、直樹さんのモノを締めつけた事も。
 直樹さんの唇が胸に下がり、乳首を転がした。胸を舌で、ナカを直樹さんのモノで、突起を指で刺激された私は、悲鳴を上げ続けるしかなかった。
「あ…っ、はぁ、は…ん!ああっ!なおき、くんっ、だめっ!」
 何度も私の「どくん」が、直樹さんのモノを締めつける。
「美緒ちゃん…かわい、すぎ…」
 直樹さんは腰を振りながら、強く私を突いた。腰を動かした時、大きく刺激されたのか、強い快感が私を襲った。
「ああっ!」
 指しか受け入れた事がないナカは、直樹さんのモノに侵入され、悲鳴を上げているというのに。どうして私は喘いでいるのだろう。
「美緒…今はきつくて、狭くて、気持ち良く無いかもしれないけど、きっとすぐに、気持ち良くなる。すぐに、俺に入れられるのが好きになる。すぐに…腰を振りながら、入れてくれって、可愛く自分からせがむように、なるんだ…」
 直樹さんの予言は私の脳裏で具体的な姿に結び付いた。その姿は淫ら過ぎて私を感じさせ、また蜜壺は直樹さんのモノを締めつけた。
 直樹さんの腰の動きが激しくなった。もしかすると、また果ててしまうのかもしれない。
 できれば、私も直樹さんと一緒にあの感覚を味わいたかった。私は獣のような声を出して、直樹さんにしがみついた。
「直樹くん、私も…私も、イキたいっ」
 直樹さんがより一層、腰を強く振る。直樹さんのモノが私の蜜壺を、勃起しきった花芯を刺激する―。
「アアアアアッ!」
 あまりの刺激に私も大きく腰を振っていた。草叢同士がこすれる音が、妙に淫らに聞こえた。
 初めての感覚。直樹さんのモノが、私のナカに入り、射精される感覚。
「だめ、ああ…い、イク、いっちゃう…っ!」
 私は直樹さんの背中に両手を回し、しがみつくように悲鳴を上げた。私が達した数秒後に、私の奥底で放出された感覚があった。
 私の上で、汗にまみれた直樹さんが、荒い息を吐いている。そういう私も汗まみれだけれど。シーツの上は、恥ずかしいほど、違う液体にまみれている。
 私は掛け布団の中にもぐりこんだ。
「何だ?何を隠れてる」
「恥ずかし、すぎ…」
「俺は、嬉しい」
「…」
「おまえが、感じまくってる可愛い顔を見られて。色っぽい顔をたくさん見られて、嬉しい」
「直樹さんも…ED、治って良かったね」
「おまえの話し方が、敬語じゃなくなったのも、嬉しい」
「あ…」
「普段から、直樹くんでも良いぞ」
「それは駄目です。普段は、ちゃんとしないと」
「おい、また戻ってる」
「もう、癖ですから」
「その癖が取れるまで、ヤルか?」
「何を馬鹿な事…えっ?」
 直樹さんがニヤッと笑った…そして、私の顔が引きつった。
「何で?」
「だから、覚悟しろって言ったろ」
「二度も出したじゃない!」
「たまってたんだ」
「本気で、私、壊れちゃう!」
「壊れないよ」
「ばか!」
 私の抵抗は無力だった。再度、私は直樹さんに押し倒された―。

 直樹さんが、ベッドの中で、すうすうと寝息を立てている。私は直樹さんを起こさないように、そっとベッドを抜け出した。
 朝まで寝かせない、というのは大げさとしても、たまっていたというのは、本気だったのだろう。いったい何度、私は突かれただろう。腰が抜けても不思議ではなかったけれど、何とか歩けた。
 明日は、約束の原画展の日だ。ワンピースを着る日だ。
 直樹さんを振り返ると、直樹さんは子供のような顔で眠っていた。
 いつもの皮肉そうな表情や、精悍さは影をひそめ、穏やかで気持ち良さそうな顔だ。
 やっと、この人と、夫婦になれた気がする。
 体が繋がったから、だけではなく。
 互いにみっともない所も、弱みも見せた。きっと、他人には決して見せない顔だ。
 こうして、私たちは本当の夫婦になっていくのだろう。
 でも、明日から本当にこの人を「直樹くん」なんて、呼べるのだろうか。
 そう考えたら恥ずかしくなり、私は台所に逃げ込んだ。明日の朝食用に、お米を洗っておくために。
 汚れたシーツも、明日洗濯しなくては。今日は雨が降っていたけれど、明日は晴れるだろうか。
「昨日は昨日、今日は今日…」
 気づけば、そう呟いていた。

最終章

 電車が通る。川の上に風が吹く。
 この町で、一番気に入っている場所は、今でもここかもしれない。
 この町に住むようになってから見つけた、綺麗な景色の場所。
 夏の日暮れは遅い。もう7時を越えているのに、まだ空は薄明るい。
 今日は、直樹くんはきっと、早く帰ってくる。この二週間、ずっと帰宅が零時を過ぎていた。やっと一段落ついたから、今日は早く帰れると思うと、そう言って会社に行ったのだ。
「おーい」
 果たして、後ろから直樹くんの声がした。私は振り向いて手を振った。けれども、私よりも先に小さな影が飛び出していた。
「おとうさん!」
 直樹くんは相好を崩し、駆け出した未希を抱き上げた。
「未希、迎えに来てくれたのかぁ」
「おかえりー」
「未希、今日は良い子だったか?」
「いいこだったよ。おとうさんもいいこだった?」
「お父さんも良い子だったよー」
 そして未希を肩車した。未希は直樹くんの肩の上で喜んでいる。
「ただいま」
 私に向かっては、冷静な笑顔だ。私はほんの少し、未希にやきもちを焼きそうになった。
 未希が生まれた時、名残惜しそうに私の胸を触り、
「しばらくはこの胸を、この子に取られてしまうんだな。早く断乳して、俺におまえの胸を返してもらうぞ」
と馬鹿な事を言って、私に叱られたのに。
 今では未希にメロメロの、ただの親ばかだ。
「で?今日は、どこのスーパーで安売りだった?」
「あ…S町のスーパーで、砂糖が…」
「貸せ」
 直樹くんは、私の左手からスーパーの袋を取り上げた。今でも調味料の安売りがあれば、つい確保してしまう。
「直樹くん、ただでさえ鞄が重いのに。砂糖くらい、自分で持てるわよ」
「無理はするなと言っているだろ」
「大丈夫だって、二度目なんだから」
「俺がいる時くらい、俺が持ってやる」
 直樹くんは未希を肩車して、左手でビジネス鞄と砂糖の袋を持った。それから右手で、未希の体が不安定にならないよう、未希の足を抑えた。
 私は、大きくなりかけたお腹をさすった。一人目ならともかく、二人目なのに直樹くんは過保護だ。普段の私は、未希に付き合って走るわ、六キロを超えた未希をだっこするわ、とても妊婦とは思えない生活なのに。
 未希を妊娠した時、生まれてくる子に私と同じような障碍があった時の事を心配しなかった、訳はない。自分と同じ苦しみを味あわせたらどうしようと悩んだ。
 どんな子供でも、俺たちの子だ。何で、産む事を悩む。俺は、おまえと俺の子供が欲しい。直樹くんがそう断言し、未希は幸い障碍を持たずに生まれた。
 今お腹にいる子供もそうだ。出生前診断は受けていない。
 裕彦伯父さんは
「直樹に似なくて良かったな。小さい頃の美緒にそっくりだ」
と言い、孫を見るような目で未希を見つめてくれる。
「美緒。関西支社の話、本決まりになった」
「本決まり?じゃあ引っ越しね」
 直樹くんの声が弾んでいる。私もつられて弾んだ声になった。
 一か月前に、支店長から内々で打診があったそうだ。関西支社に異動になっても大丈夫かと。
 静岡支店から関西支社というのは、どうやら栄転らしい。東京本社に戻る事は出来なくても、関西支社で働けるなら、自分の力を試せると、直樹くんはかなり乗り気だった。
「あとは、家族の承諾だけだ。美緒が、ここを動きたくないなら、俺は単身赴任になる」
 直樹くんの言葉に私は怒った。
「どうして直樹くんを一人で関西になんか、行かせなきゃいけないの。私と未希と離れて、あなたが暮らせる訳ないでしょう」
「そうだよ。俺、美緒や未希と離れて生活なんか、したくない」
「未希はまだ、幼稚園にも行ってないし、出産だってこれからだし、向こうで生活の基盤を作ればちょうどいいじゃない。ここも確かに暮らしやすいけど、住めば都よ。転勤が出たら、みんなで引っ越しましょう」
「じゃ、ついてきてくれるんだな」
「当たり前よ!」
 私も強くなった。今では直樹くんを怒鳴る事も、叱る事も日常茶飯事だ。
 この町で暮らした数年間で、結婚出産と、人生の節目を迎えた。この町に愛着はある。
 でも、それは家族で過ごした年月だからだ。
 直樹くんは、肩書は係長のままだけれど、静岡支店の部下は随分増えた。
 そして先月、初めて持った部下同士…佐藤くんと椎名さんが結婚したのだ。
 二人は人前結婚式を選んだ。式では直樹くんに立会人になって貰いたいと、二人で挨拶に来た。ゆっくり話を交わした時に分かったのだが、なんと椎名さんと私は同い年で、しかも同じ大学だったのだ。椎名さんは英文科、私は栄養学科で、在学中は顔も知らなかったが、絶対どこかですれ違っていたに違いない。
 せっかく来てくれた二人に夕食も食べていって貰おうと、私は二人に料理をふるまった。椎名さんは私が左手だけで料理や洗い物をする様子を目を丸くして見守り、
「係長の奥さん、とてもきちんと、お母様に躾けられたんですね。羨ましいです」
とつぶやいた。
 私は、誰かに羨ましいなんて言われた事がなくて、どうして良いか分からなかった。
「俺は、係長が羨ましい。こいつが係長の奥さんくらい料理が出来るようになるまで、何年かかりますかね?」
と佐藤くんが呟き、椎名さんに
「うちはしばらく共働きだからね、あなただって家事を分担して貰うわよ!」
と叱られていた。
「しかし、女は怖い。結婚当初はあんなに可愛かったのに、子供を産んだらすっかり強くなって、俺は家で叱られ続けだ」
と呟いた直樹くんの声もしっかり私の耳に届き、
「聞こえてるわよ!」
と怒鳴っておいた。
 佐藤夫妻は、直樹くんの事をとても慕っている。直樹くんが転勤でいなくなったら、さぞ寂しがるだろう。
 と言うより、佐藤夫妻と離れるのは私が寂しい。直樹くんには部下だろうけど、私にとっては心強い友達のように感じていたのだ。
 電車が通り過ぎる。がたんごとんと揺れる音が聞こえる。
 未希が直樹くんの肩の上で「せまいながらもたのしいわがや」と歌い出した。ぴょんぴょんと体を揺らせながら歌う。
「愛の日陰の差すところ」
 直樹くんが、未希に続いて歌う。
 私達さえ生まれる前の流行歌。私の母が私に歌ってくれた歌。それを私が未希に歌うから未希も、いつの間にか直樹くんまで覚えてしまった。
「未希、動くと危ない、じっとしてろ」
 直樹くんが笑いながら言うから、未希も言う事を聞かない。未希の足を抑える直樹くんの右手の脇が開いた。
「え?」
 直樹くんが笑って、開いた右肘を私の方に差し出した。私は直樹くんの意図を汲み取り、左手で直樹くんの肘を持った。
 影が伸びている。直樹くんの肩の上に未希、右腕に私がくっついている。
 夏の影は長い。親子三人の影は、実際よりもずいぶん長く伸びている。
 一年後には、この影は四人になっている。
 影は静岡ではなく、関西で伸びている。
 この町で過ごすのもあと少しだ。
 ようやく日は落ち、白い月が浮かんでいる。未希の歌声に包まれながら、私たちは帰路についた。

                                                     終わり

My Blue Heaven

「互いの事を何も知らずに結婚した二人」というキーワードを思いつき、そのあとは何かに憑りつかれたように話が完成していきました。意地っ張りで見栄っ張りの直樹くんも、料理上手な美緒ちゃんも、自分の中ではとてもお気に入りのキャラクターになりました。自分で書いていて、こんなに楽しい話は初めてです。読んだ方にも楽しんでいただければと思います。

My Blue Heaven

生まれつきの障碍があり、人見知りで奥手の性格の美緒。両親とひっそりと暮らしてきたが、ある日実家の火事で、家も両親も失ってしまう。そんな美緒にプロポーズしてきたのは、伯父の部下である直樹。直樹もまた、心の底に癒えない傷を抱えていた。互いの事を何も知らずに結婚した二人。けれど、一緒に暮らすうちに少しずつ二人の間に温かいものが生まれていた。ある日とうとう、直樹の過去が美緒に伝わってしまう。その時に美緒が取った行動は…。

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • 成人向け
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2013-06-23

Copyrighted
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  1. 第1章
  2. 第2章
  3. 第3章
  4. 第4章
  5. 第5章
  6. 第6章
  7. 第7章
  8. 最終章