羊は飛び跳ねて空は青く
ほんのわずかな淡い期待は午後の空に消える
しゅんしゅん、かたかた、ざーっ、ざっ
よく晴れた昼過ぎ、洗いものをしながらお湯を沸かす。銀色のケトルがしゅんしゅん湯気をたててたちまち側面の銀色が曇りだす。彼女はそこに顔を近づけてまあるく歪んだ自分の顔に向かって笑いかけたり、へんな顔をしたりして遊んでいる。彼女のおきにいりの遊びだ。僕が「熱いから気をつけてね」というとコンロからぱっと離れて僕の足に膝立ちをしながら顔をこすりつける。いつも通りの日常、何も変わりない。
「もうすぐおやつができるから、手を洗ってきてね」
そう足元にまとわりつく彼女に声をかけると、彼女は、はあい、と元気な声で洗面所にかけていく。僕は靴下にスリッパをはいていて、彼女は裸足だ。僕とお揃いで買ったスリッパは、もうずっと前から玄関の戸棚にしまったままだ。
「あらったよー!」
「ようし、偉い偉い」
そういって駆けてきた彼女のびしょびしょの手をタオルで拭いてやる。拭きながら、この子の前髪を切らなくては、と思う。長い前髪が邪魔そうだし、もうこの子は髪を自然に横に流すことなどないのだから。
「しゅう君、きょうのおやつはー?」
「今日はね、バナナチョコレートマフィン」
「しゅう君の作るおやつ、おいしいからすきー」
そういって彼女はあっけらかんと笑う。チョコレートはビターじゃないと嫌で、チョコチップは大き目で、バターが効いたバナナチョコレートマフィンが好きだった彼女。
「ほら、できたよ。熱いからふーふーして食べてね」
洗い物が終わり、マフィンの粗熱も取れたようなので、彼女の前にランチョンマットを敷いて、皿にもったマフィンを出す。彼女は目をきらきらさせて、胸の前で手を合わせてこちらを見てくる。僕もエプロンを取って椅子に掛け、同じように手を合わせる。
「『いただきます』」
そういうと彼女は大きな口でマフィンにかぶりつく。あぐあぐ、とおいしそうに食べる。口のまわりがマフィンのカスだらけだし、とけたチョコレートがべっとりついている。彼女はべたべたに汚れた自分に気付いたようで、どうしたらいいものかとこちらを見やる。
「しゅう君」
そうやって僕を困ったふうに呼ぶので、僕はマフィンを食べる手を止め、彼女の席にまわりこんで口を拭いてやる。ああ、ひどい、服までベタベタだ。思わず笑ってしまう。
「もう、服におやつ食べさせるの上手なんだから」
「おようふくもおいしいっていってる!」
そういって彼女はふたたび邪気のない笑顔を向ける。
「でもねしゅう君、さち、もうちょっとあまいのがすきかなー…なんかこれおいしいけど大人のあじがする」
ああ、また駄目だったか。そう思いながら彼女の口を拭いてやる。ああ、服までこぼしてネックレスまで汚れてしまっている。僕の左手の薬指には、彼女のペンダントトップと揃いの指輪が光っている。
彼女は僕の婚約者で、僕の上司だった。今年で29歳で、仕事ができる有能な人だった。正義感が強くて、曲がったことが嫌いで、人の為に自分を犠牲にするような人だった。中学時代両親が離婚して、自分を育ててくれた母親も高校のとき他界した。自分の母親みたいに立派に生きるんだと、そう笑っていた。
僕が仕事で留守の日、強盗が入った。抵抗した彼女は、見るも無残な状態で発見された。生きているのがふしぎなくらい、ぐちゃぐちゃだった。病院で生と死の狭間の彼女に、泣きながら目が覚めるとこを祈るしかできなかった。
一週間眠りつづけた彼女は、目をあけると泣き出した。まるで子供のような泣き声だった。痛い、痛い、と繰り返す彼女に疑問を感じて医師を呼ぶと彼は僕にこう説明した。
「出血過多で脳に酸素が足りなかった状態が長かったのと、精神的苦痛で幼児退行や記憶障害を起こしている可能性があります。わたしの口からは、一生このままだという可能性を否定できません」
最初の頃は、それでもよかった。彼女が何も覚えてなくても、僕のことを忘れていても、生きていてくれるだけでよかった。それだけで、よかったんだ。
彼女が退院して、この家で一緒に暮らし始めて最初の頃、一度だけ彼女を本気で怒ってしまったことがある。彼女がまだ治りかけの指のケガがむずがゆくて、左手の婚約指輪をはずしてどこかにやってしまったのだ。僕はその事が悲しくて、どうしようもなくて、必死に彼女に指輪をどこにやったか問いただした。彼女はその剣幕に驚いて泣いてしまった。どうして、あのときも必死に指輪と薬指だけは守ってたんじゃないのかよ、と狼狽する僕に、彼女はただおびえて泣くだけだった。
そうして、僕は気づいた。いいや、諦めたのだ。もう、僕の知っている彼女はどこにもいないんだと、諦めた。
そう思うと途端に楽になった。目の前に居るのは彼女ではなく、「彼女に良く似た小さな女の子」なのだ。女の子はところどころ彼女に似ていて、年頃でおしゃまで、可愛らしかった。僕は自分に子供ができたつもりで彼女に接することにした。そうやって上手くやってきた。
ただ、ときどきふと悲しくなる。悲しすぎて、涙も出ない。虚しさだけがそこに残る。自分の存在があやふやになってしまうような。意味がない行為をずっと続けているだけのような。
「しゅう君、だいじょうぶ?ぐあいわるい?」
そういって彼女は心配そうに僕を見やる、慌てて、大丈夫だよ、と返し綺麗に口も服も拭いてやる。
「みてみて、しゅう君がふいてくれたから、ぴかぴか」
これ大事なんだもんね、そういって彼女は笑ってペンダントトップの指輪を両手で持っておずおずと僕に見せる。過去に叱られて、「これはよくわからないけど大事な物なんだ」そう思っただけかもしれない。いや多分そうだろう。そうに違いない。
だけど。
「そうだね」
僕はときどきわからなくなる。長い間一緒に暮らしても、彼女の記憶は戻らない。とうに諦めたはずだった。でも、こういうことがあるから、まだ、まだ可能性があるような気がして、希望を捨てきれない。ほんの少しの希望に、すがりついてしまう。
すがりついて泣く僕に彼女は「おなかでもいたいの?だいじょうぶ?」と言ってやさしく抱きとめるだけだった。
羊は飛び跳ねて空は青く