裸でワルサー

 夏の日。目が覚めると汗で溺れていた。クーラーのリモコンを手にしてスイッチを押した。シャーという音がして、冷気が裸にまとわりつく汗を暴力的に吹き飛ばす。昼だというのに遮光性のカーテンのせいで光が全く入らない。闇だ、そう思った。そう思ったことが恥ずかしくなって、チッと舌打ちをした。隣りの女が寝返りをうつ。十八度に設定されているクーラーが、部屋の空気の質をかえていく。暑さという鎖がほどけていく。僕はようやく首をあげ、身体をおこした。女はまだ寝ている。肌寒くなったのか、足元にあったタオルケットをひきあげてくるまった。
 オーディオのスイッチをいれる。ブンッと小さな音がしてYAMAHAのアンプが立ち上がる。僕は身体を起こし、自分の股間を眺めた。だらりと小さくたれているのが暗闇のなかでもわかる。どうしてたちあがっていないのだろう。僕は自分をこすりあげた。物理的な刺激でそれは首をもちあげ天をさした。ははは。お前は勃つことしか能がないんだからいつだってそうしてればいいんだ。僕はそう言ったが、こするのをやめた途端、男らしさは失われていく。再生ボタンを押すと、BOSEのスピーカーから、ブランキーが流れた。モデルガンで頭を撃つまねをしてベッドに倒れこむ、そんなフレーズが六畳の部屋を震えさせる。僕も同じようにモデルガンを手にとった。子供のころルパンⅢ世に憧れて買ったワルサーP38のモデルガンだ。何を手放してもこれだけは手放さなかった。歌のフレーズどおり頭を打ち、ベッドに倒れこんだ。天井を見上げた。僕は今どんな顔をしているのだろう。何かをやることのできる男は何かをやれる顔をしている。有名なロッカーもアーティストも政治家もスポーツ選手もそして犯罪者も何かをやる男は「やる顔」をしている。ベッドから体を起こし姿見を覗いた。暗くてよく見えない。枕もとの電気スタンドをつける。もう一度覗き込む。平凡な顔だった。この顔は犯罪者の顔ではない、ましてや哲学者のそれでもない、ただの世間に置いてきぼりを食った一般人のそれだった。いつのころからだろう。僕は人とは違う自分に憧れた。普通でいたくないのだ。特別な「何か」になりたかった。俳優だとか、ミュージシャンだとか、映画監督だとか、作家だとか、そういうものになりたかった。松田優作とか、ブルーハーツとか、キューブリックとか、村上龍とかそういうものになりたかった。おそらくそれは誰しもが味わう「自意識」の感覚なのだろうと思っていた。一般的にそれを思春期と言うのも知っていた。僕もはじめはそんな普通の子供に過ぎないと思っていた。だが他の友達が現実と折り合いをつけて自分の道を決めていったり、現実を強引にねじ伏せて自分のなりたいものに邁進するのに、僕はいつまでたってもただ「何者」かになりたいだけで、その正体すらわからず、ただ、ただ焦燥感だけを募らせていた。それは他の同世代の奴とは少し違っているように感じた。
 一度だけ僕は「何者」かになったことがあったらしい。母親が僕を刺したときだ。僕はあのときの前後半年をよく思い出せない。ただわき腹のキズアトが、母が僕を刺したという事実を雄弁に語っていて、そのときの僕は母親に殺意を抱かせるほどの何者かであったに違いないってことだけだ。だが、肝心の記憶がない。しかもずっと事故だと聞かされていて、真相を知ったのはつい三年前のことだ。
 視線を感じたら姿見の中に目を覚ました女がいた。
「なにやってるの」
 声を無視してもう一度ワルサーをこめかみにあてて引鉄をひいた。ばあん。そう言って勢いよく倒れた。手の先のモデルガンが女の頬をかすめた。
「純平、ちょっと」
 女の声が聞こえるような気がする。最近の僕は全てにフィルターがかかっている。世界の全てがモノクロの無声映画をみているような感じがして現実感がない。女が何かわめき散らしているのがわかるが、鏡越しに見えるそれはスクリーンの向こう側でわめいているのと同じで、僕を傷つけることがない。何をしているのだろう? 女に言われて自分の姿を考える。裸でワルサー。何か映画か音楽のタイトルのような感じがしてかっこよく思う。でも実際のその姿はだらしなくて無様だ。裸でワルサー。その言葉がかっこよく感じるのはきっとどちらも禍々しいからだろう。いつもは大げさな布でひた隠しに隠した自尊心が、拳銃という凶器をたずさえて露になっている。「俺を見ろ、さもなくば殺す」そう脅迫しているのか、ホモサピエンスの究極の象徴はSEXと暴力であることを象徴しているのか。でも拳銃はモデルガンで、生殖器は射精障害だ。僕の手にあるワルサーも股間にぶら下がっているワルサーも発射することがない。
「死んだんだよ」
 女の腰のあたりに手を伸ばしながら僕は言った。
「ちょっとぉ、腫れたらどうするのよ」
 僕の手が届く前に女は腰を浮かせ、姿身の前に立った。行き場を失った僕の手は宙を掴んだ。女は恨みがましく鏡を覗き込む。
「まえからずっと思ってたんだけどさ」
「カリカリベーコン」
「あのね私たち別れたほうがいいと思うの」
「カリカリベーコン」
「私はあなたに甘えているし、あんたも私に甘えている。普段だったらそれでいいのよ。でも今のままじゃお互いだめになってしまうと思うの。私はね、お互いが成長しあえるような、そんな関係がいいの。聞いてる?」
「カリカリベーコン」
「私たちの一年間ってなんだったんだろうね」
「カリカリベーコンがのったサラダが食べたい」
 女はキッチンに消えた。フローリングを踏み鳴らす足音がやつの不機嫌さを奏でている。映像はソフトフォーカスでスクリーンのなかにいる女のセリフはっきりしないくせに、効果音がいやに鮮明だ。イライラする。気分を変えるために裸のままデスクに向かい、パソコンを立ち上げた。インターネットに接続して、ブログを書きはじめた。
『八月八日。
 みんな心配してくれてありがとう。状況はあまりかわりません。兄貴は相変わらずだし、僕もへそ曲がりだからしょうがないです。オヤジが入院したと連絡があって、あのときの僕は動揺してしまって、らしくない日記を書いてしまいました。なにせ三年ぶりに兄貴から連絡があったんだから。
 動揺したのはオヤジが結核で倒れたということではありません。もちろんこの二十一世紀に結核なんて病気が撲滅されていなかったのにも驚きましたが、オヤジがどうなろうとこうなろうと僕には関係ないと思っていたからです。ただ関係がないと思い込んでいたのはどうやら僕一人で、兄貴はどうあっても僕と親父を会わせたがるものですから、僕もカアっとなって、あのときは冷静さを失ってしまったんです。兄貴と僕は犬猿の仲、水と油、です。僕が何を言っても兄貴は気に入らないし、兄貴が何を言っても僕は気に食わない。それにこの日記をもしずっと見てくれている人がいたならわかると思うけれど、僕は神様というのが大嫌いで、親父も兄貴もその宗教とやらを信じているから、余計に会いたくない。僕が何を言っても最後は神様の話にしかならないからです。』
 僕がここまで書いたときに腹が非常に減っていることと、カリカリベーコンのサラダの幻覚が口に広がった。はやくしろよ。僕はキッチンのほうに視線を向けたが女の姿はなかった。携帯のLEDが点滅している。メールだ。女からだ。『純平。さようなら。この一年ありがとう。本当に好きだった』。あいつは出て行った。僕は再びPCに向かい日記を書いた。
『ここまで書いている途中で、事件がありました。いっしょに住んでいた女が今、部屋を出て行きました。原因はカリカリベーコンです。朝起きたらいつものようなどんよりした気分で自分の世界に浸っていました。そんな状態のときに女が何か大事な話をしていたようです。多分将来のこととかそんなことです。でも女の言うことよりもそのとき頭の中を支配していたのは香ばしいカリカリベーコンでした。返事をするかわりにカリカリベーコンとだけ繰り返し言いました。そしたら女は挨拶もせずに出て行きました。メールが来てひとこと〈一年ありがとう〉とだけありました。
不思議と何の感情もおこりません。悲しみもなければ、重荷をおろしたようなほっとした気持ちも起こりません。ただあっけないと思っただけです。この世のおこる様々な事象はきっといろいろ理由があるのでしょうが、起こってみればあっけないものです。
オヤジが入院して、女を失って思えることは今はそんなことなんです』
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 冷蔵庫をあける。ベーコンがない。いつもあるのに今朝はない。僕は舌打ちをした。そして笑った。笑って冷蔵庫の中身を床にばら撒いた。ビール、ビール、ビール。100パーセントオレンジジュース。マヨネーズ、ケチャップ、ポン酢、和風ドレッシング。豆腐、納豆。ひき肉、鳥の胸肉。豚バラ。キャベツ、トマト、アスパラ、ピーマン。キュウリ。えのき。チーズ、バター、イチゴジャム、マーマレード。卵、卵、卵、卵、卵。だが、ベーコンはない。
 諦めてベッドに戻る。
 セブンスターに火をつけた。煙を肺に思い切り吸い込む。喉が焼けるように痛い。カーテンをあける。強烈な光が僕を露にする。そう言えばまだ裸のままだった。神様、どうか僕にベーコンをください。
 尿意をもよおしてトイレに駆け込んだ。
 便器にベーコンのかたまりが浮いていた。神様ありがとうございます。ベーコンは見つかりました。僕はベーコンに小便を引っ掛けた。このまま流すと詰まってしまうと困るから素手でベーコンを摘み上げた。足早にゴミ箱へ向かう。ベーコンから小便のまじった便所水がポタポタと落ちて床をぬらす。カリカリベーコンがグショグショベーコンになってしまった。部屋からは相変わらずブランキーが「愛はいらない」と叫んでいて、僕はその音にあわせることなく、ベーコンを一枚ずつゴミ箱に落としながらルパンⅢ世のテーマソングを絶唱した。
「ワルサーピーサンジュウハチィコノテノナカアニィ…」
 裸でワルサー、グショグショベーコン。それが暑い夏の始まりだった。

 蝉の音がイライラさせる。
 近所の公園で僕は三脚を立てて写真を撮っている。もうかれこれ二年は続いている。僕は飽き性なのであまり物事が長くは続かない。バンドも演劇もみな中途半端なことで終わった。そんな中でこいつだけが今僕に残った唯一創造的な何かだった。
 同じ場所で同じ時間にシャッターを切る。標的は誰も乗らないブランコだ。
 いいじゃないか。僕の仲間はそういった。やりつづけたらかっこいいよ。そう言った。僕もそうだろ、かっこいいだろうと言っていたが、実際撮ってみると別にかっこいいものでもなんでもなかった。かっこよさを求めるのなら場所はどこでもいいというわけではないのだろう。写すべき場所というものがある。例えば東京の歌舞伎町だったり、大阪の新世界だったり、人が流れ、様々な表情を見せる街はおそらくそうだろう。でも僕はそういう街に三脚を立て一眼レフのシャッターを押す勇気がなかった。本当に何もないただの公園を僕は言い訳のようにシャッターを押しつづけている。それは確かにいい訳だ。シャッターを押すという動作は創造的ではあるけれど、僕は何も創りだしてはいない。しかもこれは『SMOKE』って映画の受け売りだ。本当に僕はカッコ悪い。でも僕は「何者」かになりたかった。
 いくつかの構図をいく枚か撮って、僕はカバンに三脚とカメラをしまいこんで、ワルサーを取り出し標的のブランコに向かってバンバンと撃った。
 蝉の音が僕の身体にまとわりついた。走った。まとわりつく何もかもを振りほどくために、口の中で『太陽に吠えろ』のテーマソングを口走りながら、僕は走った。汗が噴出して蝉の音をひとつずつ剥ぎ取っていく。忘れ去られた公園からみなが集う公園へ僕は走った。公園の中央にある噴水にたどり着くとカバンを地面において、水の中にダイブした。蝉の音はいつのまにか遠くへ去っていって、ビショビショの僕は「誰か撮ってくれよ。シャッターチャンスだぜ」と誰にでもなく叫んでいた。蝉は遠のいてくれたが僕の身体に薄皮のようにまとわりつく非現実の膜は消えてはくれなかった。

 国道沿いにアメリカのロードムービーに出てくるようなカフェがあってそこが僕たちのたまり場だった。メロンソーダとチリドッグを頼むとマスターは「あいよ」と微笑んだ。
カフェの壁は僕たちの残骸で埋め尽くされていた。マスターは僕たちのことが大好きで、チラシやポスターをいやな顔ひとつしないで壁一面に貼ってくれる。その中には僕の作品も混じっている。柱に飾ってあるモノクロの女の乳房のポートレートは一万円で買ってもらった。
「今度いつやるんだい」
 メロンソーダとチリドッグをテーブルの上においてから、バスタオルを僕に投げる。
「なにもないブランコだけの写真なんて面白くも何ともないだろう」
「それもそうだけどな」
「だろ」
 僕はTシャツとGパンを脱いでバスタオルで身体をふいた。
「じゃあ、なんで撮ってるんだ」
 今度は白いシャツとスウェットが投げられた。
「人生のいいわけだよ」
 濡れた服をマスターに投げつけると、マスターは笑って「おまえは自画像を描くのがいいんだよ」と言った。
「こんな平凡な顔描いたって面白くもねえ」
「平凡だからいいんじゃないのか」
「多分、どこかで自分を描くのをやめて、神様にしちゃうよ天子の羽つけて」
「で、いつやるんだい」
「知らねえよ」
 部屋に帰ると女の荷物が全部なくなっていた。
 広くてガランとしている。
 このアトリエ兼自宅は母方から慰謝料を分捕って手に入れた。アトリエと言ってももともとただの住居付倉庫だったので、壁にペンキを原色のまま適当に塗りつぶし、ドアを空色に染め上げそれなりの感じにした。僕はここで何かを作り続けた。でもそれは何かであって、作品と呼べる代物ではなかった。東京中の画廊にそういわれた。
 それでも僕はなにかを作り続けた。ナオが時々女を紹介する。その中で時々女が僕の下らないガラクタに『素敵』を見つける。『素敵』を見つけた女は僕とセックスしたがる。セックスした女は同棲したがる。そして同棲した女はすぐに僕の中に『素敵』がひとつもないことにやっと気がついて出ていってしまう。
 女は男と違って未練がないのかもしれない。彼女のものは跡形もなく消えた。女が買ったものは全て、いっしょに金を出した液晶テレビも持っていかれた。ピンクの可愛いカードに「パソコンよりテレビがないほうがましでしょ」とあった。この部屋にはもうベッドとパソコンとゴミ袋に仕分けされた服たちと全く売れないなにかだけが残っていた。CD。油絵、写真、オブジェ。その他いろいろだ。
『八月十日。
女のいなくなった部屋は広くなりました。こんなに広かったのかと思うくらい何もありません。みんな女が僕のいない間に持って帰ってしまったからです。僕に残ったのは、僕の裸とパソコンとワルサーP38だけ。それはそれでいいとは思いませんか』クリック。以下の内容で作成します。よろしいですか。はい。クリック。クリック。
携帯がなる。
兄貴からだ。
「もしもし」
「あ、おれだけど」
「いかないからな」
「オヤジが会いたがってるんだ」
「会いたくない」
 携帯を切った。

 夜、ライヴハウスの熱狂の中にいた。若い男女がタイトなドラムのリズムに躍らされていた。フロアの一番後ろでセブンスターを肺の奥まで吸い込んだ。女は大きな尻を揺らせ、男は頭を振る。スポットライトの点滅が熱狂に拍車をかける。拳銃があればな、思う。拳銃があればちょうどいいタイミングで、そうだ、この切れのあるベースに合わせて三発撃とう。そうしたらここはどうなる? 銃声はこの熱狂を止めることができるのか、それともさらなる熱狂を生み出すのか。馬鹿馬鹿しいな。そう口の中でつぶやいて短くなったセブンスターを捨てた。
 目を閉じると意識が何かに吸い込まれそうになる。そうするともう夢なのか、現実なのか、わからなくなる。現実の出来事夢の出来事とが区別できなくなる。現実のどんな記録も全くそんな事実は「ない」と主張しているのに僕には確かに経験したと感じる出来事がたくさんあった。例えば戸籍には何も書いてないのに、駅を降りると確かにここに住んでいたという実感がわいたり、結婚していたわけでは決してないのに、自分に生き別れた子供がいるという記憶に悩まされたりもする。もう何がなんだかわからなくなっていた。でもそのせいで何かが困るというわけではない。ただ、混乱している。ただそれだけだった。
 母に刺された前後の半年間の喪失がそうさせているのか、混乱しているから半年間がなくなったままなのかわからない。いつどうやって母に刺されることになったのか、僕は覚えていない。僕は自分の腹の傷がどうしてできたのか、知ろうとしなかった。「事故だったのよ」というみんなの言葉はそれ以上聞いてはいけないという拒否を感じた。
 自分の腹に今までなかった傷がなにか勲章のように思えた。他人とは違う特別なもののような気がした。傷をさわると仮面ライダーの変身ベルトのように特別な何かにしてくれるような気がした。きっと自分は悪の組織か宇宙人に改造されたんだ。そして正義の味方が自分を助けてくれたんだ。母さんはきっと自分を改造した博士の娘でこの特別な身体を守ってくれているんだ、と無邪気に考えた。
 母がいないこと以外何も変わってないような気がした。
 母がいないこと以上に何かが違う気もした。
 それから十年、僕は好きな絵を描きバンドをやり芝居をやった。兄は受験勉強をして国立大学から一部上場のメーカーに就職した。そのあいだオヤジは無口で、母さんのことは何も言わず、ただ神に祈っていた。二十歳の誕生日に通帳と印鑑を差し出してオヤジは言った。
「おまえの腹の傷は母さんがつけた。母さんはそれで今心の病にかかっていて入院している。この金は母さんの実家からおまえへの慰謝料だ。ここから引かれている金は美大の入学金だけだ。もうおまえは二十歳だから後は自由に使いなさい」
 僕は通帳と印鑑をふんだくってそのまま家を出た。
 地面がユルユルと溶けるのがわかった。オヤジの言葉で何かを思い出すかと思ったが何も思い出せなかった。誰もが誕生の瞬間を記憶していないように、僕の母親は本当に僕を刺したのだろうか。そうよ、わたしが刺したのよと言ってくれる母もどこにいるのかわからない。どこをどう走ったのかわからない。気がついたら兄貴が横にいて、「帰ろう」と言ったのだけは覚えている。それからだ。僕がどこにいるのかわからなくなったのは、それからだ。
 僕は帰らなかった。しばらく友達の家を泊まり歩いた後、このアトリエを見つけた。あれから三年たつのに、まだ僕はどこで何をしているのか、頼りなくなってしまう。
「何笑ってるの」
 目の前に女がいた。
「また混乱してるのね、ジュンペイ。さ、こっちに戻ってきて」
 女は僕の唇に自分の唇を重ねた。口の中に氷が押し込まれる。冷たさと同時にギターのひずんだ爆音が耳を襲った。そこはさっきのライヴハウスで、ステージにはさっきと違うバンドが騒音をかき鳴らしていた。
「おかえり」
 目をこするとナオを抱いていた。慌てて手を放そうとすると、ナオのほうから抱きついて耳元で「今度はどこ行っていたの」と囁いた。
「いいよね。薬なしでいけちゃうんだから」
「狂っているだけだ」
「あたしも狂いたい」
 黙っているとナオは手を解いて甲高い声でシャウトするボーカルを見つめた。ボーカルは金髪でガタイがよく何やら愛について歌っていた。
「ロックは好き?」
「嫌いじゃない」
「こういうのは?」
「好きじゃない」
「何が好きなの?」
「ブランキー」
「ふうん。ねえ、煙草ある?」
「ブランキーの初期が好きだ。移籍してからもソロになってからも好きじゃない」
「ねえ、煙草」
「セブンスターは吸えないだろ」
「セッタ? 親父臭い」
 そう言いながらナオは手を差し出した。煙草を一本差し出すとナオはセブンスターをふんだくると乱暴に火をつけた。
「作品、売れてる?」
「売れるわけないだろ」
「そうよね」
「否定しろよ」
「だってあなたのガラクタには事件がないもの」
「事件?」
「舌出して」
 ナオは僕とキスをした。ナオの舌にはカプセルみたいなものがあってそいつが溶けるまで舌を絡ませ続けていた。
「こんな事件がないでしょ」
 目が覚めると自分のアトリエで仰向けに自慰をしていた。それをナオはおもしろそうにスケッチしていた。ナオのスケッチが僕のどのガラクタよりも事件性があった。
「才能ないのかな」
「才能を語るには早すぎる」
「才能を語れるころには遅すぎる」
「こんなもんギャンブルよ。固いところ狙ってデザイナーになるか、二科展が喜びそうな絵を描いて町の絵画教室を開くか、大穴狙いの前衛に走るか。わたしたちみたいなのはねどれかに賭けるしかないのよ。全財産を一点買い。予想屋はいろんなことを言うわ。前走の成績、最近の馬体重まで、もちろん血統が一番大切よ。わたしたちはいつもいつも走らされている。いつもいつもよ。レースは生きているうちに終わるとも限らない。売れないときはみな自分がゴッホだと思って走るんだから」
 ナオのキャンバスには暖色の丸がいっぱい描かれていて、画面の下のほうで僕が幸せそうな顔をしていた。
「タイトルは」
「もちろん自家発電」
「やな奴」
「そ、わたしは偽善者」
「俺は」
「無邪気なバカ」
「なんで」
「わたしが紹介した女全員に愛想つかされるなんてね」
「はい、はい、わたしがわるうございました」
「イメージが違うのよ」
「イメージ」
「友達から聞くあんたのイメージとわたしが思うあんたのイメージが」
「踏み込まれたくないところに踏み込んでくるからだよ」
「母さんのこと」
「そ、家族のこと全般」
「土足で踏み込むような奴じゃないと思うんだけどな」
「違うよ。チャンと手順を踏むよ、彼女たちは」
「じゃ、なんで」
「おまえみたいに土足で踏み込んでくれないと本当のことなんて言えないだろ」
「ふううん」
「そうだよ」

 暑くてたまらない。蝉の音がまた僕の身体にまとわりつく。こんな日にはマスターのカキ氷を食べないわけにはいかない。
「マスター、カキ氷、メロン」
「あいよ」
 夏休みはこの店は暇だ。まずいが量だけが多くて安い。これは学生にとっては天国のような場所でいつも満員だ。だが学生には夏休みが二ヶ月もあってこのあいだはポツンと取り残されてしまう。まるであの公園のように。
「で、いつやるの」といつもの調子でバケツ半分くらいはあるようなカキ氷とお変わり自由のメロンシロップをテーブルに置いた。
「なにを」
「さあ」
「ねえ、マスター」
「なんだい」
「俺のガラクタに事件ってあるかい」
「ないよ」
「やっぱりアーティストは事件がなきゃ駄目なのかなあ」
「勘違いしてるみたいだからさ、言っておくけど」
「なんだよ」
「事件を起こしてもジュンちゃんの作るものに事件は起きないよ」
「よくわかんないよ」
「そうかい」
「なあ」
「普通さ、ここでドラマとかじゃマスターの昔話とかが聞けるはずなんだけど」
「ドラマじゃないからなあ」
「なあ」
「なんだ」
「やっぱこのカキ氷多いよ」
「じゃ、頼むなよ」

 今日も蝉がうるさい。僕はまたあの公園でブランコを撮った。何もなかった。空色のベンチに座って空を見上げたけれど女の子は落ちてこなかった。代わりに猫がじゃれてきた。白地に茶色や黒の斑がまだらにある雑種の猫だ。どこから何を食べているのかはわからないが、野良猫であるにもかかわらずやせ細ってはいない。僕以外の誰かがここで餌を与えているのかもしれない。
 コンビニへ行って猫缶を買った。戻ってきたらせっかく買ったのに猫はいなかった。猫缶のふたを開けてセブンスターを吸っていると遠慮がちにあの猫がやってきてチロチロと下を出して食べ始めた。この猫に名前をつけなかった。名前を付けずにただ「猫」と呼ぶことにした。
 僕はブランコに乗ることにした。
 大の男がこぐと結構怖いことになる。遠心力はすぐに遊具の限界を超え、運動神経の鈍い僕はバランスを崩して転げ落ち、勢いのついたブランコは僕の背中に襲い掛かった。「猫」が馬鹿にしたような目でこっちを見るので僕は身体中が痛いのを我慢して「猫」に襲い掛かろうとしたが、さすがに野良の獣だ。俊敏さが違う。カバンのワルサーで撃ってやりたいが残念なことにモデルガンでは銀球ひとつ撃てやしない。
 誰もいなくなった公園で僕は大の字になって寝転がっていた。何もかもが面倒くさくなっていた。「特別」であろうとすることも、「普通」でいようとすることも、かたくなに「家族」に会わないでいようとすることも。蝉がうるさい。今日も僕の身体にまとわりつく。
「黙れ!」
 一瞬蝉の音がやんだ。僕を包んでいたあの薄膜も吹き飛んだ。
 僕は笑った。まるでそれが合図だったかのように蝉の音はまた僕の身体中にまとわりついた。もちろんあの薄膜も。

「こんにちは、土足で上がります。お兄さんとお父さんに会ったほうがいいと思います。なんでしたら今から車を出しますので連れて行きます」
 国道沿いのカフェでドライカレーを食べながらマスターに父親のことを相談していたらナオが突然、本当に土足で踏み込んできた。
「いいんじゃない」
 ちょっとマスター。そりゃあないよ。さっきまで自分が思う通りにしたらいいっていってたじゃないか。
 襟首をつかまれて僕はナオのワンボックスカーの助手席に放り込まれた。
「いくよ。市民病院だっけ」
「そうだよ」
「なんでいかないんだよ」
「いったら絶対聞いちゃうからさ」
「母さんのこと」
「そうだよ」
「根っからマザコンだな」
「そうだよ、文句あっか」
「あるよ」
「なんで」
「ママには勝てないだろ」
「なんだそれ」
「ねえ、ジュンペイ」
「マスターが赤軍の生き残りって知ってる?」
「知ってる。このへんで事件があると必ず警察に連れて行かれるんだ」
「そっか」
「おまえはどうなんだよ」
「こんなことに土足で踏み込んでくる奴は大体なんかあるんだよ」
「ないわよ」
「ある」
「たぶん、オヤジだ」
「ちがうわよ」
「オヤジがなんかしたんだろ」
「土足で踏み込まないで」
「手順を踏んだら、礼儀正しく帰されるんだろ」
「お父さんがゲイなのよ」
「え?」
「満足した」
「腹いっぱいだ」
「デザートあるよ」
「今度にするわ。まだ僕のメインディッシュがあるからな」
「そうね」
 坂を上りきったところに市民が病院があった。オヤジの面会を頼むと隔離病棟に案内された。
「結核ってやっぱり大変な病気なんだね」
「そりゃそうさ。昔は結核ってだけで文学できたんだから」
 病室に入るのも消毒をしたりマスクをしたりして大変だ。オヤジは寝ていた。僕は小さくなってしまった親父を見て、なんだか笑いそうになった。オヤジは予想以上に痩せていた。もともと細身の人だったがあれじゃまるで骸骨だ。危篤だというのは兄貴の嘘だ。どうしても僕とオヤジをあわせておきたかったらしい。
「ジュンペイ」
 見舞いを枕元に置こうとしたとき、オヤジが目を覚ました。
「なんだよ」
「ありがとう」
「どうも」
「こちらのかたは」
「ジュンペイ君の友達です」
「いつもありがとうございます」
「いえいえ」
「いつ死ぬの。兄ちゃんが危篤だっていってたから」
「もうすぐ退院だよ。今じゃ結核で死ぬ人なんて少ないよ」
「やっぱり。じゃ、帰るよ」
「ジュンペイ」
「なに」
「母さんを許してやってくれ」
「わかんないけど、たぶん難しい」
「ねえ、ジュンペイ君のお父さん」
「はい」
「ずっと聞きたかったことなんだけど、どうしてジュンペイ君の母さんはジュンペイ君を刺したの。殺したかったの」
「おい」
「わからないんです」
「やっぱり病気だったのかなあ」
「違うと思うんです」
「だったらどうして」
 僕は声を荒げた。
「だから父さんは母さんを理解するためにあの宗教にのめりこんだんだ。わかってくれ」
「ねえ、父さん」
「なんだ」
「もし父さんに僕を刺せって御告げがあったら刺すかい」
「刺せるわけないだろ」
「母さんは刺したんだ」
「ああ、その場にはいなかったけどな。確かに母さんがおまえを刺したんだ」

 ナオのワンボックスで僕はセブンスターを吸った。
「ねえ、ジュンペイ」
「なんだよ」
「あんたが家族に会いたがらないの何となくわかる気がする」
「そうか」
「うまくいえないけど」
「そっか」
「ねえ、ジュンペイ本当は何がしたいの」
「母さんに会って」
「会って」
「本当のことを知りたい」
「知って」
「え」
「知ってどうしたいの」
「本当のこと言って引かない」
「引かないわよ」
「殺したい」
「そりゃそうだ。殺されかけたんだもん」
「会いなよ」
「うん」
「どうするかはそれから決めなよ」
「うん」
「でも個展は開きなよ」
「なんで」
「マスターが喜ぶ」
「どこでやるんだよ」
「自分のとこでやればいいじゃないか」
「そっか」
「ところでデザート聞く?」
「今度にするわ」
「ふううん」
「あ、ちょっと寄り道していいか」

 コンビニで猫缶を買うと、いつもの公園に向かった。
「ここ、公園だったの」
「回りみんな木で埋め尽くされてるから外からじゃわかんないんだよね」
 空色のベンチに座って、足元に猫缶のふたを開けて置いた。
 その間にカバンから三脚とカメラを出してブランコを写した。気づいたらあの猫がいて僕は猫を撮った。そのあいだナオは空色のベンチで空を眺めていた。
「ねえ、ブランコに乗っていい」
 ナオがブランコに乗った。僕はブランコに乗ったナオを撮った。サーカス団の空中ブランコの乗り手のように美しい振り子だった。
「でね、デザートなんだけどね。わたしのお母さんはずっとお父さんを愛してたの。ゲイだってわかってからもずっとずっと愛してたの。甘い話でしょ」

 チキンライスとアイスコーヒーが今日の昼飯だった。
「で、いつやるんだい」
「もうすぐさ」
 僕がそういうとマスターはすごくうれしそうな顔をした。僕はブランコと猫を撮っている。からっぽの公園を埋めるたった二つのもの、ブランコと猫。いいモチーフだ。女の子みたいだけど。そう話すと、なんだという顔で頼みもしないメロンソーダをテーブルの上に置いた。
「ジュンちゃんは自画像がいいって」
「でも、何もしないよりましだろ」
「そりゃな」
「オヤジに会ってきた」
「すごいね、それ」
「母さんにも会うべきだと思うんだ」
「やっぱり自画像描きなよ」
「そうかな」
「そうだよ」

 僕はキャンバスと姿見を用意して、自画像を描き始めた。僕は裸になって左手にワルサーを握った。マスターが描けっていうんだ、買ってくれるかも入れない。窓から光がさして、僕のワルサーも左手のワルサーも少しはかっこよかった。
『八月十日。
女のいなくなった部屋で自画像を描き始めました。まだデッサンも終わってないのに僕はタイトルだけは決めてあるんです。変でしょう。でもこればっかりは譲れないのです。タイトルは「裸でワルサー」。いいでしょう。誰が僕のものをもってどこかに行ったとしても、僕の裸とワルサーP38だけは絶対に僕の手の中にあると信じているからです』
 確認画面。クリック。以下の内容で作成します。よろしいですか。はい。クリック。クリック。
 キャンバスに勢いよく自分を描いた。わき腹のキズアトに手を添えてワルサーを構えた。もちろんセブンスターをくわえて。まるでB級映画のポスターのようだった。マスターに見せたら「へたくそ」といわれてメロンソーダをおごってくれた。

兄貴に電話した。「明日あえないか」

 最近は僕が来るころには「猫」は出迎えるようになっていた。すぐにでも猫缶を上げたい衝動を抑えて、空色のベンチに座る。猫はおとなしく待っている。猫缶をあけて目の前においてはじめて愛くるしい顔を見せて缶詰に顔をうずめる。僕はその間いつものようにブランコを撮った。
 僕はもう一度ブランコに乗ることにした。ブランコに乗りながら揺れる空を撮った。飛び降りて揺れるブランコを撮った。ブランコにワルサーを置いた。電話がかかった。兄貴だ。場所がわからないらしい。線路沿いをキョロキョロしながら歩いている兄貴がいた。三年前とは比べ物にならないくらいに太っていたけど、ひと目で兄貴だとわかった。
 僕はなるべく明るい声で「おおい」と言った。兄貴はびっくりしたような顔をして僕を睨んだ。「もっとわかり安い場所にしろ」現実の声と携帯の声がずれた。
「ここで何してんだ」
「写真を撮ってるんだ」
「写真?」
「そ、ブランコの」
「へえ」
「父さんにあったよ」
「そっか」
「知ってたの」
「父さんからきいた」
「元気みたいじゃん」
「そうでもないんだよ」
「なあ兄ちゃん」
「なんだ」
「ブランコにのってくれないか」
「あれにか」
「写真撮ってるんだ、ブランコの」
 兄貴は恥ずかしそうにブランコに乗った。たち漕ぎだった。
「こがなくていいから、空をみててくれよ」
そういったら少し斜めになって、兄貴は必死にバランスをとった。僕はいつもの位置で何枚か撮った。
「母さんの居場所知ってるんだろ」
「ああ」
「会いたいんだ」
「会ってどうするんだ」
「どうして僕を刺したのか本当のところを知りたいんだ」
「知ってどうする」
「わからない」
「そっか」
「うん」
「なあ」
「なに」
「降りていいか、ブランコ」
「いいよ」
「おれもいっしょにいく、それなら母さんに会わせてやる」
「わかった。じゃ、また連絡して」
「メシでも一緒に食おう」
「ゴメン、兄ちゃんそのまえにやることがあるんだ」
 僕は兄貴の腹を殴った。
「ゴメン、十年分の鬱憤晴らしちゃった」
 その日の僕は空色の絵の具だけで自分を描いてみた。一筆書きのように。ふざけて明るくていやじゃなかった。

 アトリエのガラクタ一切合財をワンボックスに押し込んだ。
「期待すんなよ」
 僕は自分の作品を置いてくれる画廊を探すためにナオに車を出してもらった。
「あんた車ないの」
「ごめん」
「あんた免許持ってないの」
「ごめん」
 ナオはパーラメントに火をつけてハンドルを握った。
「あんたほんと駄目駄目だね」
「駄目駄目さ。しょうがね」
「なんかふっきれた」
「ふっきった」
「へえ。今なら抱いてあげてもいいよ」
「なんていった」
「なんでもない」
 どこへいっても断られた。僕よりもナオが熱心に売り込んで、僕よりもひどく悔しがった。
「兄さんに会ったんだ」
「すごいね」
「兄さんを殴ってやった」
「すごいね」
「今度母さんにも会うんだ」
 ナオは車を止めて僕にキスをした。
「あたしがついていってやろうか」
「だいじょうぶだよ。ありがとう」
 十時から回って午後六時八時間労働の結果はリサイクルセンターでしょうがなく引き取ってもらった五千円だった。
「ほい、約束のパーラメントワンカートン。ほんじゃマスターの店いってなんか食うか」
「あんたかわったね」
「かわったんじゃないよ。かわることにしたんだ」
「今のあんたならだかれてもいいや」
「なんだって」
「なんでもない」
「ナオのいうとおり、あの家の一階を半分画廊にしようと思うんだ。僕だけの画廊。僕がいいと思った作品をいいと思うやりかたで紹介したいんだ。だからあのガラクタはいらなかったんだ。捨てるつもりだったから、金になっただけ、ラッキーだったんだよ」
あのガラクタは僕にまとわりつくガラクタだ。きっとそうだ。
電話があった。兄貴からだ。
「明日、空いてるか、母さんに会える」
 その日書いた自画像は油蝉にまとわりつかれた男を書いた。

 夢の中で僕は汗で溺れていた。昨日描ききった自画像はマスターに「ちょっといいね」て言われたはずなのに真白なままで。姿見で自分の身体を映すとのっぺらぼうだ。夢の中でも僕は三脚とカメラとワルサーと猫缶をもって公園に行った。いつものように何もないはずだった。ベンチに猫缶を置いて、そのあいだにいつものように揺れないブランコを撮って、猫がきたら、猫を撮る。それだけのはずだった。割の合わない人生が今日も始まるはずだった。母親に殺されかけたのにアーティストの「ア」の字もない、割に合わない今日が始まるはずだった。でも公園についてみるとブランコが揺れていた。少女が裸足でブランコをこいでいた。白いワンピースでこいでいた。ゆらゆらとこいでいた。身体を振り子の慣性にまかせていた。それは危うい繰り返しのように思えた。少女のスカートがひらひらと舞い、どこかにいってしまいそうで、それをギリギリのところで引き返そうとするそんな繰り返しのように思えた。繰り返しを僕は追った。催眠術にかかったみたいだ。いつのまにか蝉の音が聞こえない。少女は揺れている。僕は自分を思った。ああ僕は揺れているのだと思った。僕はブランコだ。どこにもいけずただいったり来たりしているブランコだ。確か高校の物理で習った。振り子は常に進行方向とは反対の力が加わる。だからいつも引っぱられている。いつもいつも引っぱられている。単振動。たしかそうだ。はは、笑えるな。僕は単振動。いやな思い付きだ。
 ファインダーを覗き、少女をとらえようとした。少女はフレームにあらわれたり、外れたりしている。表情をとらえようとした。泣いていて欲しい。僕は勝手にそう思った。そう思って少女の顔をみたが、もちろん泣いてなどいない。ああ、やっぱり僕は陳腐だ。少女がひとりブランコに乗っている。その姿に天使と涙を想像するなんて、いまどきちゃちな恋愛ドラマでもやりはしない。少女はただ、ただこいでいた。それだけだった。
 どのくらい時間がたったのだろう。
 僕はファインダーを覗いて、少女はブランコをこいでいる。僕はシャッターを押さなかった。なぜか、押さなかった。むしろ僕はブランコに乗っていた。実際にはブランコをこいではいないけれども、少女とシンクロしてこいでいる感じがしていた。僕は揺れていた。それで十分な気がしていた。どうせ、写真なんて僕にとっては生きるいい訳だ。こんな気分がいいのにシャッターを押すなんて馬鹿げている。僕は単振動。ブランコも単振動。少女も単振動。いつもいつも引っぱられて揺れるだけ。
 本物はここでシャッターを押すのだろう。
 だけど僕はシャッターを押せない。いや押せるのだろうけれど、押したところで結果はどうしようもないものが写るに違いない。そう考えると押せないんだ。
 そろそろ気づけよ。
 僕は揺れながら自分に言い聞かせた。
 そろそろ気づけよ。おまえは何者かにはなれやしない。矮小なおまえでしかないんだ。なりたいものなんかないのだろう。ただおまえはちやほやされたいだけだ。そろそろ諦めろよ。みんな幻想だ。今朝も鏡の中の自分を見ただろう。おまえは何かをやる顔なんかじゃない。何もできない顔だ。おまえはこうして揺れるしかないのだ。いや正直に言えば揺れてさえいない。揺れているのは少女であっておまえではない。おまえは揺れることすら出来ずにただ揺れるのを眺めて疑似体験をしているのにすぎないんだ。おまえはニセモノにすらなれない。母さんがおまえを刺したのはおまえが特別だったからじゃない。おまえの母親が特別だっただけだ。おまえが刺されたのは偶然だ。思い出してみろ、肝心なことは何一つ思い出せないじゃないか。ホンモノを思い出せないおまえはニセモノですらない。そうだ。僕はニセモノですらない。高校のとき、みな単車に乗った。もちろん無免だ。浮かれたように爆音を鳴り響かせて国道を走った。命が揺れるんだ。そんな風に友達は言った。僕は命を揺らせたかった。でも僕は自分の家の前をジグザグに蛇行する友達の姿を見ているだけだった。
 きっと治安の悪い街の学校ではどこでもあるように同級生が単車で事故って死んだ。みんなは泣いていた。でも僕は羨ましかった。あいつは向こう側を越えたのだ。僕が超えたい超えたいと思っている向こう側を誰よりも先に飛び越えたのだ。そう思うと憎たらしいほどに羨ましかった。僕はあれから、母に刺されてから、これっぽちも超えていない。単車にも乗らず、ブランコにも乗らない。そして超えたことも覚えていない、超えた事実すらついこの間まで知らなかった間抜けだ。
 僕は知っている。もう終わりだということを知っている。特別であることに意味を持たせてはいけない。下らない僕は下らなく生きていくしかない。
 そう思うのに、なんだこの胸の痛みは。なんだ、このやるせなさは。もうファインダーは覗いていない。僕がこうやって自分を責めていたら突然、少女が消えた。少女はブランコから飛んで、宙を舞った。
 それはまるで自殺のようだった。
 同じ場所を繰り返し繰り返し揺られていた身体が突然引力を失って引きちぎられるようにブランコから飛び出した。少女は放物線を描いて地面に落ちた。主のいないブランコが不規則にゆれている。僕は恐る恐るブランコに近づいた。
 少女は黙って走り去った。
 僕は揺れるブランコをこぎ始めた。大人が全力でこぐとブランコはすぐに悲鳴を上げた。空はひっくり返った。僕は空に投げ飛ばされた。背中に強くて重い痛みが走って目の前が真暗になった。

 目をがさめるといやになるくらいの夏だった。

『八月十六日。
 僕を刺した母親はきっと僕が超えられない何かを越えたのだと思う。
 明日、母親に十三年ぶりに会いに行く』

 空が泣きそうだった。空色のドアを開けるとナオがワンボックスの前で立っていた。
「送ってくれるのか」
「まさか、あんたが断ったんじゃん」
「じゃ、なに」
「営業」
「営業?」
「知らなかった、うちの実家工務店なんだよ、ほいデザイン画」
 ナオがデッサンしてくれた画廊は僕の予想してた通りのものだった。
「頼むよ」
「予算は」
「ナオが適当だと思う範囲で」
「金あるの」
「母さんがくれた金、まだあるんだ」
「じゃ、はじめるよ」
 その一言で、パネルやら足場やらの建材が運び込まれた。
「いってくる」
「いってらっしゃい」

 駅前で待ち会わせた僕らは新幹線にのって大阪へ向かった。お盆の真っ最中で僕らは自由席で据わるところもなく、ただ立ち尽くしていた。それから何度か電車を乗り継いで、僕らは山奥の小さな町に降りついた。雨が降っていた。兄貴に言われるがままタクシーに乗り、三十分ほど走ったら、「ここだ」と兄貴が言った。そしたら太陽があった。

 雨の中で太陽が光っていた。

 気がついたらアトリエのベッドで仰向けになって寝ていた。僕には母親に会いに行こうとしてから今までの記憶がない。思い出せるのは雨が降っていた。それだけだった。雨が強くて、靴下までびしょびしょになるような雨だった。そうだ、雨だった。
「母さんに会いに行ってぶっ倒れたんだよ」とナオがいった。
 そうだ。僕は兄貴といっしょに母さんに会いにいったんだ。母さんは教団の本部で修行していると聞かされたんだ。教会の門はきれいに掃き清められていた。僕は教会のシンボルマークらしい太陽をかたどった黄金の紋章に心を奪われた。最近できたであろうこのオブジェは安っぽくてただ光っていた。
「いらっしゃい」信者の声に誘われて門をくぐろうとしたとき僕のイメージがひっくりかえった。僕は突然過去にいた。母親から刺された事実を知ったとき、母からもらったお守りをどぶに捨てたあの情景が蘇る。お守りの中身は太陽だった。太陽はどぶの中でじっとしていた。流されていくものだと思っていた僕は動揺した。全てを捨てるというのはきれいに流れ去るものだと思っていた。でもお守りはどぶの底にべっとりひっついて流れていかない。僕はペットボトルのコーラを買ってきて、流れろ、流れろ、そういいながらお守りにコーラを流した。でもお守りは流れていかない。どうしても流れていかない。
「なんで流れないんだ」
 僕は叫んだ。叫んだら、空がひっくり返って地面にぶつかった。雨が僕の頬をうった。信者の誰かの身体をゆさぶった。見慣れない足が見える。聞き慣れない声が聞こえる。境界線がどんどん曖昧になっていって、いつのまにか目だけになってしまった。目だけになった僕はさらに過去へと向かう。
 目に見えるのは十三年前の実家だ。あのときだ。母さんが僕を呼ぶ。「あなたの幸せのためなんだからね」と僕を抱きしめた。うれしくなって僕も力いっぱい抱きしめた。激痛が走った。僕は母さんを見た。「あなたのためなんだからね」そういってまた強く抱きしめた。その顔はすまないとも悲しいとも優しいともとれる能面のような顔だった。僕は「助けて!」と叫んだ。叫んだ拍子に僕はまたブラックアウトした。
 目が覚めても力が抜けてしまって僕には何もできなかった。ただ太陽を見ていた。時間がふやけている。僕の部屋で僕の時間はふやけている。空気は暖かい液体のようで僕の精神と身体は浮力を得てふわふわしている。目が太陽を追う。南東に開いた窓から光が差し込み、南側の出窓にうつり、いつのまにかフェードアウトして暗くなる。僕はこんなにも一日を感じて生きた日々はなかった。
 一日は確かに二十四時間あるらしく、昼は確かにあるらしく、夜は確かにあるらしく、朝は確かにあるらしい。今まで僕は太陽の動きとは関係なく生きていた。ああ、そういえば昼だったとか、いつのまにか夜だったりして学校の先生が一日は地球が一周まわることで、二十四時間あるんだよ、と教えてくれたから僕は一日というものを知っているだけで、本当に太陽は東から昇って西へ沈むのか知らなかった。
 太陽も実は「もうやめた」と全てを投げ出したくなるんじゃないかと毎日、毎日、太陽の行方を見ていたが、やはり太陽は毎日東から昇り西へ沈んだ。
 僕は何もしなかった。もしかしたら呼吸もしてないんじゃないかと、呼吸の数を数えようとしたが、意識するとどうやって息を吸っていいのかわからなくなって僕は苦しくなって咳き込んだ。咳き込んだと同時に身体に神経がもどって僕は起きあがった、ふらふらして倒れるとテーブルの上の何もかもを落とした。ガシャンと音がしたら作業着姿のナオが飛んできた。
「起きたの」
「うん」
「わたしわかる」
「ナオだろ」
「よかった」
「なにいってんだよ」
 このアトリエには兄貴とナオが連れ帰ってくれた。僕が倒れてしばらくすると僕の携帯が鳴って兄貴が出たらしい。ナオはあのワンボックスですっ飛んできたらしい。その後の僕の記憶はあいまいでナオや兄貴のことすら認識できなかったそうだ。
「動けるなら、風呂入ってきなよ。身体中変な文字が描いてあるから」
 鏡をみたら僕の身体じゅうに太陽の文様が描かれてあった。腕にも背中にも顔にもみな太陽が描かれていた。
「なんだこれ」
「神様の文字だって」
「神様の文字」
「そ。笑っちゃうよね。神様ってバカなんで、自分が話す言葉じゃないとわかんないんだって。もっと勉強しろってんだよ、なあ」
 シャワーを浴びた。タオルでゴシゴシ洗うと存外取れた。顔は洗顔用の石鹸で洗っても取れないので、女が置き忘れたクレンジングオイルで落とした。
 階段を下りると小粋な画廊ができていた。「あとは電気関係とかだね。外装はそうする、あのままにしておく、それに看板とか」
「看板ぐらい自分で作るさ」
「そうだね」
 その夜、コンビニで猫缶を買った。ベンチに座ると、「猫」は安心して僕に近づき、膝の上に飛び乗った。僕はびっくりした。今まで「猫」は野良とただの通りすがりの男という関係が崩れることはなかった。一生崩れることはないと思っていた。だが、突然「猫」はその関係を飛び越えてきたのだ。僕は初めて「猫」に触った。恐る恐る触った。思ったよりヒンヤリしていた。肩甲骨なのだろうか、肩の骨が隆起している。その隆起したところを触ると気持ち悪くなって、膝の「猫」を放り投げた。「猫」はなんでもない顔をして足元におかれている柔らかいえさを食べ始めた。食べ終えると、僕は右足を振り上げ「猫」を思い切り踏んだ。「猫」が逃げる。僕は「猫」を追いかけた。最初の一撃でどこかを傷めたのか、「猫」はすぐに捕まった。「猫」は抵抗した。爪をたて、僕を引掻く。僕は後ろ足を持って「猫」を振り回し、力任せに地面にたたきつけた。

 その日書いた自画像はナイフを持っていて、まとわりつく薄い膜を切り裂いていた。

 目が覚めるとナオが僕の上で腰を揺らしていた。「鍵、あいてたから」と言い訳にもならない言葉で激しく上下運動を繰り返す。ナオは何度も何度も達したが僕は固いままだった。「あんたセックスでいかないって本当だったのね」
「誰がそんなこというんだよ」
「あんたと付き合った女全員」
「しょうがねえな」
「あんたがいかないとオナニーしてるみたいだ」
「それも聞いてたんだろ」
「やってみなくちゃわかんないだろ」
「それで、どうだった」
「いわれたとおりだった」
 ナオは僕のものを抜くと、シャワーを浴びに、立ち上がった。僕は試しにワルサーP38を手にしてバアンと撃った。ナオは「やられたあ」といってもう一度ぼくのベッドに倒れこんできた。僕は欲情した。ナオを後ろから強く抱きしめて僕のものを強く侵入させた。ナオはそれに応えて僕はすぐに自分の中の何もかもを吐き出してしまった。

 その日書いた自画像は薄い膜が少しへばりついた裸の男でワルサーを持って勃起していた。

『八月三十日
 明日はいよいよ僕の個展です。タイトルは『ブランコと猫と自画像』全然関係性が見えないでしょう。でも僕にとってみればこれは僕の今年の夏の全てでした。それに会場は僕の画廊だ。WEBにMAPをあげといたんで来て下さい。初日はパーティもするんでただ酒のみたい人もどうぞ。少し気遣う人は簡単な差し入れをください。
それと、報告です。結局僕はあれ以来、母に会いに行きませんでした。多分僕は母を殺したかったのだろうと猫を踏んで気がついてしまったからです。猫ですらあれだ。実の母を刺したらどうなることかわからない。そして多分僕を刺した母もどうなってしまったかはわからない。これでいいんだ、多分と僕は自分に言い聞かせています』
 確認画面。クリック。以下の内容で作成します。よろしいですか。はい。クリック。クリック。

 展示の準備は日が変わるまで続いた。ナオと僕とで意見が少し、いや大きく違ったからだ。僕は時系列に沿ってブランコと猫の写真を並べ、自画像のコーナーは別に分類すればいいというのだが、ナオは「そんなの面白くない」と言って聞かない。ブランコにも表情があるから、表情にあわせて猫といっしょに展示して合間に自画像を貼り付けるべきだという。
「あなたにはわからないでしょうけど、あなたの自画像と猫やブランコの写真はリンクしてるの」
 展示の順番はナオに押し切られることになったが、中央のメインのオブジェのアイディアはナオも諸手を挙げて賛成した。
 朝があけて、僕は裸になった。ワルサーP38を手にして。画廊の真ん中の高台に僕は座った。タイトルは『裸でワルサー』。
「時間だよ」空色のドアをあけるとマスターが「あいよ」とワインを片手にやってきた。笑いそうになるのを必死でこらえた。昔の友達がただ酒を飲みにやってきた。芝居仲間も、バンドの連中もアートの連中も、みんなやってきた。兄貴もやってきた。律儀に花束と一升瓶と寿司折をもってきた。昔の女もやってきた。俺と別れた女はなぜか皆友達になるらしい。僕のあそこを指差して「発射不能」と笑った。裏できりもりしていたナオが「今は発射可能」とでかい声をあげるから恥ずかしくてまた笑いそうになった。
「主役、なにやってんだよ」
 マスターがいう。
「俺が降りると作品がなくなるだろ」
「もうしゃべったんだから作品じゃねえよ」
「あたしやる」
 ナオが裸になって僕からワルサーをうばって高台に上った。みんなは「おお」と声を上げてナオの上向きの乳首を肴に酒を飲んだ。俺はその間にトイレに行って、ビールを飲むと顔が赤くなるので水で喉をいやして、兄貴の持ってきた海苔巻きを食った。
「おめでとう」
 兄貴が言った。僕も小さく「ありがとう」と言った。
「ジュンペエ!」
 ナオが俺を呼んでいる。
「あたし、飽きたあ」
 おいおい、まだ十分もたってないぜ。わかったよ。僕は彼女の脱ぎ捨てたパンツやらブラジャーやらGパンやらTシャツを投げた。僕はまた裸になって高台に上った。「どうせ冗談なんだから」とマスターにいわれ僕は高台の上で酒を飲んだ。友達としゃべった。から揚げを食った。ビールを飲んだ。兄貴がひとりでポツンとしているので「あの美味しい寿司と酒を持ってきてくれたのはあそこでひとりで絵を見てる僕の兄ちゃんです」といったら、みんなで兄貴のところに乾杯しにかけよった。「あのブランコのモデルおにいさんっすよね」「ええ、まあ」とかいってんだろうな。いつまで人見知りなんだよ。入り口の脇の椅子でいつでも帰れる様にスタンバっている。それじゃいつまでたっても彼女なんかできないぜって思ったら、入り口に女性が立っていた。
 スカート姿だったので多分女性だ。僕の視線に気づいてマスターが「どうぞ、どうぞ気兼ねするところじゃありませんから」と中に誘った。
 母さんだった。
「母さん!」
 僕は叫んだ。でもそれだけだった。僕は裸で高台に上がって見世物のように性器を顕にして立つ下らない男だった。
「母さん!」
 僕はまた叫んだ。でもそれだけだった。母さんは何かを「やる顔」じゃなかった。ただの老婦人だった。
「お父さんのところにお見舞いに行ったらあなたが個展をやるって聞いたから、母さんそれで」
「黙れ!」
 ナオが叫んだ。
「母さんずっとあやまりたくて、でも先生や教団のみんなが」
「黙れったら、黙れえ!」
ナオの一声は僕にまとわりつくなにもかもを吹き飛ばすような力だった。
「ジュンペイ、やりたいことがあるんだろ。やれ!」
 僕は一瞬何のことだかわからなかった。
「車の中でいったろ。会ったらどうすんだ」
「母さん、本当のことを教えてくれよ。どうして僕を刺したんだい」
「季節はずれのイモリが窓を這っていたの。母さんこわくなって教団に御告げを頼んだら、あなたに悪魔がついてるって言うの。このままじゃ不幸になるから悪魔ごと刺しなさいって」
「それで死んだらどうするんだよ」
「それでも魂は救われるって」
 僕は裸でワルサーP38を母親に向けてこう叫んだ。
「ふざけるな!」
 バン、バン、バン、バン、バン、バン、バン、バン、バン、バン、バン、バン、バン、バン、バン、バン、バン、バン、バン、バン、バン、バン、バン、バン、バン、バン、バン、バン、バン、バン、バン、バン、バン、バン、バン。火薬が続く限り僕は撃った。火薬が切れてトリガーを弾いても撃鉄がカチカチとなっても僕は撃ち続けた。母親はどうしていいかわからず「ごめんね」を繰り返していた。ナオが「やられたあっていうんだよ!」と叫んで、僕はありったけの声で「バアン」と言った。ナオは「やられたあ」と言って倒れた。俺はまた「バアン」と言った。マスターが「やられたあ」と言って倒れた。俺はまた「バアン」と言った。何度も何度も「バアン」と言った。みんな「やられたあ」といって倒れた。兄貴も「やられたあ」と言って不器用に倒れた。
「母さん、母さん、母さん」
 僕は三回母さんを呼んだ。
「ごめんね」
「あやまるな。あやまるな」
 僕はありったけの空気を吸い込んで、絞るように大声で叫んだ
「バアン」
母さんは「やられたあ」といった。
もう一度撃った。
「バアン」
「やられたあ」
「バアン」
「やられたあ」
「バアン」
「やられたあ」
 母さんは僕に近づきながら倒れた。僕は叫んだ。蝉が鳴いていた。うるさいほど鳴いていた。夏の終わりだった。
〈了〉

裸でワルサー

裸でワルサー

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 青年向け
更新日
登録日
2013-06-22

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著作権法内での利用のみを許可します。

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