初恋とは
一.中里菓子店
駄菓子の卸問屋を営む父は、毎週水曜日、幼い私を助手席に座らせて、ライトバンで配達に出かけていた。
何軒かの得意先の中で、私が最も好きだったのは、中里菓子店である。そこには、私と同い年の女の子が居て、何かと意気投合していたのだ。
店から家の中に向かって「ゆうちゃーん」と呼べばすぐに出て来て、そして私達は、父にうさぎ公園へ連れて行って貰う。二人で訳の分からない(当時の私達にとっては大変筋の通った)遊びを作っては、実践していた。
中里菓子店へ戻る頃には、その女の子の姉と兄も大抵帰宅していた。姉の「れいちゃん」は私より三つ上で、兄の「きょうちゃん」は一つ上であると、知らぬ間に覚えていた。
幼稚園の年長組の私の目に、小学三年生の「れいちゃん」は「大人」として映った。「れいちゃん」に背負われている赤いランドセルの傷み具合に、憧憬の念を抱いた。
ランドセルからはみ出ているリコーダーを見て「それ何」と聞くと、「れいちゃん」は覚えたての「一週間」を吹いてくれた。その何とも言えぬもの悲しいメロディーは、私を十分感動させた。
……いざ自分が「一週間」を簡単に吹ける年齢になってみると、そんな曲は陳腐に思われてしまうのだった。
私が小学四年生になると、「れいちゃん」は中学一年生である。中学校の制服を身にまとった「れいちゃん」は、今度こそ間違いなく「大人」だ、と私は確信した。もうランドセルなど背負っていない。それだけでも十分「大人」の条件を満たしている、と思わずには居れなかった。
私は「大人」の「れいちゃん」を見るのが好きであったが、そのうちに殆ど顔を合わすこともなくなった。
「お姉ちゃん、テニスのクラブ入って毎日練習してんねん」
と説明してくれたその次の週の水曜日、「ゆうちゃん」は、お別れ会(小学校では、誰かが転校するとなると、必ずといって良いほど、劇や合奏・手品などをする会をクラスで催したものだ)の練習に友達の家へ出かけており、家に居なかった。しかし、私はただ「ゆうちゃん」に会うためだけに中里菓子店への配達に付いて行っている訳ではなかったので、特に寂しいと思ったり残念がったりはしなかった。車に乗ることに意義がある、と考え始めていたのである。
その日は、「ゆうちゃん」と遊ぶ代わりに、店で地図を広げて、父と「おばちゃん」(三姉兄妹の母)に、自宅からそこまでの道を教えて貰った。何も知らずに車に乗っていると、もの凄い距離があるような気がしていたが、そうでもないと分かった。
急に成長したような気分になって、トイレへ向かう足取りも軽く、私は半ばスキップをするように歩いて行った。トイレへ行くまでに通る居間には、「きょうちゃん」が居た。「きょうちゃん」は、レコードをプレーヤーに乗せようとしていた。私は、「きょうちゃん」が聴こうとしているのはどんな曲なのであろうか、と考えながらトイレに入ったのだが……
始まったその曲は、「一週間」などとは比べものにならないほど良い曲だった。その時私が感じ取ったのは、郷愁というものなのだろうと、今になって思う。小学四年生の私には、そんなものを言葉では表現出来なかった。
私は、トイレから出ると、「きょうちゃん」の傍へ歩み寄って、鑑賞した。
「何か用?」
という無愛想な「きょうちゃん」の声で、目が覚めたような気がした。私は、何も言えずにその場を立ち去った。
帰りの車の中で、窓の外を見ながら、頭の中で曲の一部分を何度も繰り返していると、父は言った。
「この頃時々ゆうちゃん居れへんからしょうもないやろ。無理にお父さんに付いて来ることないんやから、今度からもう家に居るか?」
「えー! 嫌やわそんなん」
確か私はそう言った筈だ。
が、気付いた時には、毎週水曜日の中里菓子店行きの習慣はなくなっていた。
水曜日の夕方に近所の同級生達と遊びながら、もう行かなくなって良かった、時間が増えたような気がする、などと思っていた。
しかし、私は一つ後悔していた。
それは、「きょうちゃん」に、例の曲の題名を聞いておくのを忘れたことである。
題名でなくても、歌手名だけでも聞いておけば良かった、と悔やむ度に、中里家以外でも何回か耳にしたその曲が、途切れ途切れに甦るのだった。断片的過ぎて、歌ってみることも出来なかった。
時が経つにつれて、その断片的な記憶すら次第に薄らいでいき、そして、あの、初めて聴いた日に、この部分だけは忘れられないであろう、と予感した“浅い夢だから 胸をはなれない”という箇所さえも、頭の中からすっかり消え去っていた。
高校生になるまで、その曲を思い出すことはなかった。
*
高校での最初の体育の授業の際、私は初めて隣のクラスの女子達を見た。同じ中学出身の者は見当たらなかった。知らない人間ばかりだ、と考えていると、先生が一組から出席を取り始めた。
先生が「中里」と呼ばれた時、目の前に座る一組で一番背の低い少女が「はい」と返事をした。
背の高い方から順に、各クラス二列ずつに整列しており、一組も二組も人数が奇数なので、最後に一人ずつ余ることになる。私もクラスで一番背が低かったので、「中里さん」同様、その余りであった。腹筋や腕立て伏せをする時には、クラスも違うのに、二人がペアにされてしまうことになる。先生に指示された「中里さん」は、こちらへ向いて歩いて来る。
……「中里さん」の顔を見た瞬間に、思い出した。
(中里菓子店のゆうちゃんや!)
だが、大声を出す訳にもいかず、私は腹筋をする「中里さん」の足を持つ間、黙っていた。
交替する時に言おうと思ったが、先生と目が合ったので、口を開く気が失せた。
私は、大慌てで腹筋を済ませてから、ついに言った。
「お菓子屋のゆうちゃんやんな? 私、スミエ商店の娘」
「やっぱり! スミエなんて珍しい苗字やから、そうちゃうかと思った」
先生は私の名前も呼ばれたのだから、私は無意識で返事をしていても、「ゆうちゃん」はその苗字を耳にして、驚いていたのである。
小学生の頃と同じ顔の「ゆうちゃん」(私も他人のことは言えないが)は、昔、私がうさぎ公園で砂の地面に描いた奇妙な絵を見ていた時と同じ、不思議そうな目で私のゼッケンを見るので、何かと思えば、
「スミエって……ずっと、こう書くと思ってた。勝手に」
と言いながら、「ゆうちゃん」は砂に「墨絵」と指で書いた。
そう言えば、うちの店は「住江商店」ではなく「スミエ商店」で、配達の車にも片仮名で書いてあるのだったな、と、その「墨絵」の二文字を見て改めて思った。
先生に注意されて一旦会話は中断したが、授業が終わると、私達は早速思い出話を始めた。
体育は四時間目だったので、次は昼休み。べらべらと喋りながらのろのろと着替えていると、「ゆうちゃん」の元に、背が高く髪の長い少女がやって来た。「ゆうちゃん」は、その人に私を紹介し、私にその人を紹介する。
「二組の住江さん。卸の店の子でな、昔よう配達について来てやって、一緒に遊んでてん。……これはシノ。中学から一緒やねん」
私としては、「ゆうちゃん」と呼びたいところだが、「住江さん」と言われてしまったことに戸惑い、そう呼べなかった。
と、そこで私は、「ゆうちゃん」の「ゆう」という字はどんな字か、それに「ゆうちゃん」が、「ゆうこ」なのか、単なる「ゆう」なのか、あるいはもっと他の名前なのか、全く知らないということに気が付いたのだった。
昼休みのうちに、疑問は解決した。三人で弁当を食べた後で、名前を紙に書いて見せ合ったのだ。
“住江実早緒”、“中里優”、“向井史乃”。
「ゆうちゃん」は、その紙を適当に折り畳んで胸ポケットに入れると、
「今日の帰り、うちへおいでよ。きっとお母さんびっくりするわ」
と言った。
懐かしの中里菓子店が思い浮かぶ。私は、うんうんと頷いた。
滝井という駅で降りるのは、それが初めてだった。
駅から少しばかり歩いたら、見覚えのある景色が近付いて来て、「ゆうちゃん」は言った。
「ここ、うさぎ公園行く時通った道やで」
ふと時計を見ると、ちょうど、昔うさぎ公園へ向かって歩いていたと思われる時刻だった。素晴らしいタイミングだ。
商店街の中の中里菓子店は、昔と変わらぬひっそりとした佇まいで存在していた。店の奥には、少し服装が地味になった「おばちゃん」が座っている。
「ゆうちゃん」は、店の前でせわしなく手招きをして、「おばちゃん」を呼んだ。「おばちゃん」は、何事かと問いたげな顔でこちらへ歩いて来たが、挨拶する私を見て、急に表情を変えた。
「住江さんとこの実早緒ちゃん? 大きなったねえ、て、そらなるわな、優と同い年なんやから。……どこで会うたん?」
「学校一緒やってん! 隣のクラス。体育で一緒んなってもうびっくりしたわー。お母さん知らんかったん? ずっとおっちゃん毎週来てはんのに」
ほぼ同時に私も同じ疑問を抱いた。父は昔と同じように配達に来ているというのに、娘の進学について「おばちゃん」と話をすることはなかったのか? と。「おばちゃん」は、
「いちいち学校どこやなんて聞かへんやん私。住江さんも聞きはれへんし。『もう高校生になるんやねえ』ぐらいしか言うたことないわ」
と説明した。そして、「おばちゃん」は、私の肩に手を置いて言う。
「さあ、上がり上がり。こんなとこで立ち話も何やし。……優、冷蔵庫にジュース入ってるから入れたげや」
私達は奥へ通された。
「ゆうちゃん」と「シノさん」と私は、ジュースを飲みながら、受験期の生活を比較し合った。そこで、なんと、私と二人は同じ私立高校を併願受験したことが発覚したのであった。その学校の特進コースは毎日七時間授業があるらしい、とんでもない、などと言って盛り上がっていると、不意に玄関(店とは繋がっていない方)の扉の開く音がして、何気なくそちらに目をやった。
肩までまっすぐに伸びた髪、水色のブラウス、少し細めのチノパン、という姿で入って来たその人は、見るからに「洗練された人」という雰囲気であった。ところでその人は誰なのか、と考えようとしたら、
「あれ? 住江さんとこの実早緒ちゃんやんね?」
と、その人は私に言った。……そう、その人は、「ゆうちゃん」の三つ上の姉の「れいちゃん」なのであった。しかし、もう「れいちゃん」と気安く呼べそうになかった。昔から「れいちゃん」は大人だ、と思っていたが、その時には改めて痛感した。あまりにも大人過ぎる。一瞬、大学生にもなると誰でも大人になるのだ、という結論を出しかけたが、
(そんなことは一概には言われへんよな。高校生にでもなったらちょっとは私も大人に見えるんかと思たけど、今んとこ全然やし)
と思い直した。
「実早緒ちゃん、昔よう私に『一週間吹いて』って言うてたやんな」
「れいちゃん」は笑ってそう言った。そんな昔のことを覚えていてくれたとは、と感激せずには居れなかった。
少しばかり懐かしい話をしてから「れいちゃん」が階段を上って去って行った後も、頭の中では「一週間」が鳴っていた。私は考える。
(なんか、もっと、「一週間」よりも衝撃的なもんをここで聴いたことあるような気がするけどなあ。気のせいか? ……いや、確かに何か聴いた筈や。何やったっけ。……分からん、思い出されへん)
「……トイレ貸して」
トイレにでも行って冷静に考えてみることにした。「ゆうちゃん」は、私の後方にある扉を指差した。
「あ、言わんでも知ってるか。何回も行ったことあるもんな」
その通りだ。その扉を目にしただけで、懐かしさが込み上げてくるほどだった。私は、自嘲気味に思う。
(なんでこんなもん懐かしんでんのやろ)
ところが、ノブに手をかけた瞬間に、自嘲している場合ではなくなった。
突如として、ある言葉が閃いたのである。
(“浅い夢”……何やろこれ。うーん……何や何や?)
トイレの中でもずっとその言葉が何であるのか考えていた。
が、それは、出ようとして扉を開けた時に、あっさり解決した。居間の隅の方にある、古いレコードプレーヤーが目に留まったのである。
(ああ、そうや、ここで「きょうちゃん」が聴いとったレコードの曲や! 確か“浅い夢だから 胸を離れない”とかいう奴やったよな)
曲の一部分を思い出したまでは良かった。そこで更なる疑問だ。
(あ! その曲の題が分からんかって、気になってたんやった! 歌てる人も誰か知らんままやがな! ゆうちゃんに聞いたら分かるかな)
私は居間のテーブルの所へ戻ると、そのことを尋ねてみた。
「ああ、それ、村下孝蔵の『初恋』やわ。もう何回聴かされたか」
「ゆうちゃん」は全く考え込むことなく、そう答えた。
「そうか、その人の曲やったんか」
と一応言っておいた。「ずっと気になっとってん」とその後に付け加えようかとも思ったが、厳密に言うとそれは正しくない。その日まで、そんな曲のことなどすっかり忘れていたのであるから。
昔あれほど気になっていた筈なのに、その曲の題と歌っている人が分かると、それだけで私は満足してしまって、全部通して聴いてみたいとも思わなかった。思い出せたのは一部分だけであったが、それでもう良いと思った。題と歌手が分かれば、いつでも手に入れることが出来る、という気になったからであろう。
「お兄ちゃん、あればっかり聴いてたから、もう飽きたわ」
「それってどんな曲?」
「シノさん」が聞いた。「ゆうちゃん」は口を開けて歌い始めんとしたが、
「あれ? ド忘れした。あんなしょっちゅう聴かされてたのに。おかしいな」
と言って首を傾げた。そしておもむろに立ち上がり、古いレコードプレーヤーの下の棚の扉を開けて、乱雑に積まれたレコードの中から「初恋」を探し出そうとし始めた。「シノさん」は、そんな「ゆうちゃん」を見て、
「わざわざそんな中から探さんでもええがな」
と言ったが、「ゆうちゃん」は何度も首を横に振り、探すのをやめない。
「私が気になんの。絶対見付ける。……どこ行ったんやろ……」
待つこと十分。結局、発見出来なかった。「ゆうちゃん」は、溜息をつく。
「嫌やわー、聴こうと思ったらないんやから」
「ゆうちゃん」を飽きさせるまで居間で繰り返しかけていたという愛聴盤をどこかへやってしまうとは、一体どういうことであろうか。あの叙情溢れる曲が嫌いになった、即ち、全然違う系統の音楽を好むようになったのか。私は、思いつくままにそのようなことを喋った。すると、「ゆうちゃん」は深く頷き、
「お兄ちゃん、バンドやってんねん。むちゃくちゃ喧しい曲ばっかりやってるバンド」
と、呆れたように言うのだった。そう聞いても、「きょうちゃん」がバンドで演奏している姿はおろか、高校二年生になった姿すら、想像出来なかった。「何か用?」と言った時の「きょうちゃん」しか思い浮かばない。
再び玄関の扉の開く音がして、私はそちらへ目をやった。男の人が入って来た。黄土色のカッターシャツに、膝の破れたジーパンのその人の顔は、やや長めの髪に隠れてよく見えなかったが、ちらりと覗いた無愛想そうな目は、まさしくあの「きょうちゃん」であった。が、とても「きょうちゃん」などとは呼べない状態であるように思われた。何を言っても相手にしてくれそうにないのは昔からであったが、高二の「きょうちゃん」は、完全に別世界の人だった。
「お兄ちゃん、村下孝蔵の『初恋』のレコードどうしたん?」
「捨てた」
「きょうちゃん」は冷たく言い放って、鞄を家の中に投げ込むと、すぐにまた出て行ってしまった。その時に見えた扉の外が暗かったので、私は帰ることにした。「ゆうちゃん」は、駅まで送ると言ったが、道を覚えているから帰れると断って、私は一人で中里菓子店を後にした。
(「初恋」なんていう題やったんか。柄でもないなあ)
予想外に涼しい風を受けて寒気を覚えながら、懐かしい道を歩いた。
二.彷徨セブンティーン
私の趣味は、サイクリングである。淀川の堤防を上流に向かって走ったり、淀川沿いの町の幹線道路を走ったりするのだ。その話をすると、優とシノは是非一緒に出かけてみたいと言った。
かくして三人での第一回目のサイクリングの日はやって来た。六月のある土曜日のことである。
私は、昼に授業が終わると、大急ぎで一旦帰宅し、動き易い服に着替えてから、再び私は自転車で家を出た。
城北公園通を快調に飛ばし、優の家には予定より一五分も早く着いてしまった。早く着いたら家に上がって待っていてくれるようにと優に言われていたので、遠慮なく上がらせて貰うことにした。
「あら実早緒ちゃん、いらっしゃい。どこへ連れて行ってくれんの?」
「連れて行くやなんてそんな。……川原でも沿って走ってみよかと思て」
「そう。あの子が自分から運動しよう思うことあんまりないから、しょっちゅう誘たってな」
店の前で掃き掃除をしているおばちゃんと少し会話をした後で、玄関の扉のノブに手をかけたその時、私は何気なく表札に目をやった。……玲、享、という漢字が目に留まる。私は勝手に「れいちゃん」の「けい」は「玲」、「きょうちゃん」の「りょう」は「享」、驚いてしまった。
驚きはそれだけでは済まなかった。
玄関で靴を脱いで一歩踏み出そうとした足を、私は慌てて引っ込めた。そこには水色のギターが横たわっていたのである。他所見をしていたら踏んでいるところであった。そのギターのボディーにはおどろおどろしい赤の文字が書いてあった。
「FAREWELL!」
単語の意味は分からなかった。ただ、水色に赤という組み合わせは妙だ、という感想を私は抱いた。
ギターを回避して居間の方へ歩いて行き、ある時ふと足許を見ると、そこには手があった。私は転けそうになりながらも足を横へやって、その手を踏まずに済んだ。
そこに横たわっていたのは、「きょうちゃん」=享氏であった。
左手に何かが光っているので、しゃがんで見てみると、それは、蛇がとぐろを巻いている形をした銀の指輪の赤い目であった。不気味というよりは滑稽な顔をしたその蛇を観察していると、突然享氏が寝返りを打ち、私は心底驚いて飛び退き、尻餅を搗いてしまった。
すると、享氏は薄目を開けた。私が起こしてしまったようである。私はその享氏の目を見て、七年ぶりに「何か用?」と言われるのではないかと思いつつ、「こんにちは」と言ってみた。享氏は、表情一つ変えず、
「うす」
と不明瞭に言いながら上体を起こした。そして、テーブルの上に置いてあった薄緑色の数珠を左腕に嵌めて立ち上がり、大きく伸びをした。
「あれっ、住江もう来てたん? 全然分からんかったわ」
優は降りて来るなりそう言い、台所の方へ歩いて行く。……中里家の一階の玄関と台所と居間には仕切りらしきものがなく、がらんとした一つの空間になっているので、居間に座っていれば台所も玄関も見渡すことが出来る。私は、他にすることもなく、優を目で追っていた。
優は、食器棚からコップを三つ取り出した。次に冷蔵庫のドアを開けて、お茶の入った瓶を取り出す……時に、横から享氏が手を入れて、缶ビールを一本取り出した。
優がテーブルの上で丁寧にお茶を注ぐその傍で、享氏はぐいぐいとビールを一気に飲み、飲み終えると、空き缶を二メートル程離れた所に在るゴミ箱へ放り投げた。缶は見事に入ったが、ビールの滴が何滴も床に飛び散ったのが見えた。
享氏はそんなことには構わずその場を立ち去り、ギターも放置したままで玄関から出て行ってしまった。
「もー! 汚いねんから、いっつもほんまにー!」
優は、玄関の扉が閉まってから大声で文句を言い、雑巾で床を拭き始めた。
すると再び扉が開いた。優の文句を聞いて享氏が言い返しに戻って来たのではなかろうかと思いきや、入って来たのはシノだった。「何拭き掃除なんかしてんのんな」
「あの阿呆兄貴がビール零してん。何考えてんのやろ、もう!」
シノは私の方を見た。私は何と言って良いのか分からないので、首を傾げておいた。
そんな私に、シノは手招きをする。行ってみると、シノは私にお茶の入ったコップを手渡し、自らも手に取った。
「貰うで、優。……はよ飲んで行こ」
そうして、私達はほぼ予定通りの時刻に中里家を出発した。
北へ向かって走り、適当な所から堤防に登ると、西へ一km程走った所にある橋の近くで、河川敷に降りて行った。この辺りには、幾つもの湾処(わんど)があり、小学生や年配の男性らが至る所で釣糸を垂れている。私は釣りに興味を持ってはいないが、釣人達で賑わっている湾処が好きである。そんな場所で、一旦休憩することになっていた。私はブレーキをかけて停止し、優とシノの方を振り返って見た。五メートル程後方で、優は斜め前方を指差していた。「何?」と言いながら近付いて行くと、優は言った。
「あそこでお兄ちゃん映画撮ってる……」
指が示す先には、何人かの人間が水際でカメラを囲んで座っているのが見えた。その中に、享氏の姿もあった。
「映画って、何の?」
「文化祭の奴やって。まだまだ先やのに。凝ったことしよう思て」
優はぶつぶつ言った。私は自転車を降りて、リュックからお菓子を取り出し、地面に腰を下ろした。優もシノも並んで座る。私とシノは、お菓子を食べながら、完全に見物客と化していた。
暫く経って、
「もっと近く行って見ようや。なんかおもろそうやわ」
とシノが言い、私とシノは、嫌がる優を無理矢理引っ張って移動した。享氏はこちらを一瞥したが、特に何も言ったりはしなかった。
……打ち合わせばかりして、なかなか撮影を始めようとしない。私は、ばりばりと煎餅を食べながら眺めていたが、そのうちなんとなくその光景が不自然であるように思えてきた。
「男の人ばっかりやがな。男しか登場せえへん映画?」
「男子校やもん、しゃあないわ。でも、ちょっとなんとかならんのかな。むさ苦しい」
と答えたのは、どこから出してきたのか扇子で顔を扇いでいるシノであった。
「そんな。人のお兄さんをむさ苦しいやなんて」
「別に優の兄ちゃん一人でむさ苦しいんちゃうやん。あの集団全体が、や」
シノがそう言い終わった途端に、享氏がこちらを向いた。シノの言葉が聞こえたのではなかろうかと恐れたが、享氏の顔は怒りを表してはいなかった。
享氏のすぐ傍に居る人も、こちらを見た――のではなく、その二人の目は私達よりももっと遠くを見ていた。
「絵里――! はよ来てくれ――!」
と、享氏の傍の人は叫んで、大きく手招きをした。私は首を後ろへ回してみた。
堤防を、まさに「典型的な少女」という雰囲気を醸し出している人物が降りて来ているのが見えた。近付いて来たその少女の顔を見て、享氏の傍の人の顔を見ると、そっくりだった。少女は男の人の集団の方へ小走りで向かって行った。
「あの子、辻田さんの妹ちゃうん。出演させられんのか」
シノは、そんなことを言った。
享氏の傍の人=辻田氏は、その妹=絵里氏を監督らしき人物の所へ連れて行った後で、今度こそは本当にこちらを向いて、軽く手を上げ、小走りでやって来る。優は会釈をする。
「優ちゃん、見に来る暇があるんやったら出てくれたっていいのに」
「絶対嫌です、映画なんか。それに、中学生の役って言ってたじゃないですか」
「うん、優ちゃんなら十分中学生に見えるからな」
辻田氏は失礼なことを平気で言った。優は、明らかにむっとしていた。無頓着な私にならばともかく、実年齢より三つ位下に見られることを非常に気にしている優に、そんなことを言ってはならない。
辻田氏は、今度は私の方を見て言った。
「初めて見る子やな。名前何て言うん?」
「住江と言います」
「スミエ? え?」
「尚矢、何やってんねん! 始めんぞ!」
享氏が叫んだ。辻田氏は「おう」と応えて、駆け戻って行く。
「多分あの人、住江ってどう書くんか分かってないし、苗字か名前かも分かってないで」
とシノは分析した。分かってくれなくて結構であった。辻田氏の、「そこらの気のいいお兄さん」然とした態度には、到底馴染めそうにもなかったからだ。
撮影はいつの間にか開始されていた。
享氏は、ジーパンを穿いたままで、透明度の低い淀川の水の中へばしゃばしゃと入って行く。
「あーもう嫌やわ、あのジーパンでまたうちへ帰って来るんやから」
一応撮影中ということを考慮してか、優は小さめの声で文句を言った。
享氏に続いて、辻田氏も水の中へ入って行く。享氏は、蛇指輪と数珠もどきの左手に、白いフリスビーを持って走っている。どんな内容の芝居なのか、全然分からない。
絵里氏は、川岸に残ったままである。川の方を向いていて、顔は見えない。享氏がこちらを向いたが、遠くて表情はよく見えない。いつになれば台詞を言うのだろうか、と待っていると、やがて辻田氏が第一声を発した。
「いい加減に返せよ! お前がそんな物を持ってたって、意味ねえんだよ!」
という台詞は、東京弁であった。この、大阪を代表する川・淀川でロケをしておきながら。私は思わず噴き出してしまった。そんな私に、
「声入んであんた。笑ったりなや。真剣にやってはんねんし」
と言うシノの口調は、明らかに撮影している人達に対する軽蔑を表していた。
次の台詞は享氏。
「ったく、分かったよ! 返せばいいんだろ! 返してやるよ、ほら!」
享氏がフリスビーを勢い良く岸の方へ向けて投げたその数秒後に、撮影していた人々も、私達三人も、周囲で見物していた関係のない人々も、殆ど同時に「あっ」と声を上げた。フリスビーが、辻田氏の手の届かない所を通過して、岸に居た絵里氏の顔に当たったのである。関係者が皆、顔を覆ってしゃがみ込む絵里氏に駆け寄って行く。
「おい、絵里! 大丈夫か!」
辻田氏が真っ先に絵里氏に辿り着く。
その後、少しの間、そこに人だかりが出来ていたが、それがばらけると、絵里氏を負ぶった辻田氏が走り出した。物凄いスピードで堤防を登って行く。
一方、ぶつけた享氏は、岸で立ち尽くしていた。
「おい、享! 一緒に来い!」
と辻田氏に怒鳴られて、享氏は漸く走り始める。
皆、ただ呆然と遠ざかる三人を見送っていた。
一つ妙だったのは、絵里氏が白いフリスビーをしっかりと抱えていたことだ。
ざわめきが治まった後で落ち付いて考えてみると、絵里氏がフリスビーを避けられなかったこと自体も変なのだが、勝手に「絵里氏は見かけによらず鈍いのだ」という結論に至り、疑問を優やシノに投げかけることもなく、一人で解決してしまったのだった。
それからは、とてもサイクリングを続行する気にもなれず、三人で元来た道を帰ることにした。そして、なんとなくうさぎ公園に寄った。
入口のうさぎ像をぺちぺちと叩いて、私はブランコの方へ走った。自転車をその辺に止めて、ブランコをびゅんびゅんと漕ぐ。優とシノは、のろのろと公園内へ入って来て、私の自転車に並べて自転車を止め、ブランコの傍にあるコンクリートのベンチに並んで腰を下ろした。シノは、再び扇子を取り出して、ぱたぱたと扇ぎ始める。そして、私を呆れた表情で見て、言った。
「……あんたは元気やなあ」
二人が落ち着いて座っているというのに、私は小学校低学年位の子供と並んで、必死にブランコを漕いでいる。ブランコの囲いには、幼稚園の制服を着た子供が二人凭れて、私を羨ましそうに見ていた。
シノに呆れられたからではなく、その子供達に譲るべく、漕ぐのを止めて、暫く待ってから飛び降りた。
「辻田さんの妹、大丈夫かなあ。顔に当たってたよなあ……」
優の呟きが聞こえる。私はその時になって、事件のことを思い出した。
(……そうか、大変なことになったんやった……)
じっとしていても暇なだけなので、帰ろう、と提案した。二人はゆっくり腰を上げる。
急に空は暗くなり始め、商店街に入るや否や、雨が降り出した。
優の家に戻ると、おばちゃんは、
「ちょうどええ時に帰ってきたねえ」
と言って迎えてくれた。
雨が降りそうだから戻って来たと誤解されるのは、好都合であった。享氏のフリスビー暴投事件を告げ口する気にもなれないからである。小学生ではあるまいし。優もきっと、安堵していたことであろう。家に入ると、優は大きな溜息をついた。
居間を見ると、「れいちゃん」=玲氏が座ってテレビを見ていた。
「お帰り。えらいタイミング良く帰って来たな。どうしたん?」
玲氏は鋭い。私達が空模様を注意して見たりはしないと分かっているのである。優は、仕方なく小声で玲氏に河川敷での出来事を語った。玲氏はうんうんと頷き、そして言った。
「そうやったんか。さっき享が深刻な顔して帰って来て財布だけ持ってまた出て行ったんは、それやな。あの子も阿呆やなあ」
実に気楽そうな口調だった。私は、そんな玲氏の反応に、拍子抜けした。
「でも、顔に当たったっていうのは問題やな。怪我の程度によっては、お父さんとお母さんにも言わなあかんかもな。謝りに行くとか、治療費出すとか、そういうことも考えなあかんやろし」
玲氏は、あくまで冷静であったのだ。
ふと私は、玄関から入った所に立てかけてある水色のギターに目をやった。享氏は、バンドもして、映画も作って、多忙な人だ、と一人感心していると、シノが言った。
「あの子、顔怪我したんやったら映画出られへんよな。優に出てくれって言うかも知れんで、辻田さん。どうする? また頼まれたら」
「嫌や、絶対出えへん。……住江っていう手もあるやん」
「私に役者なんか出来る訳ないがな。顔見たら分かるやろ。頼みはれへんわ絶対」
いつの間にか「絵里氏の代役は誰がする」という話題に移っていた。
ギターを眺めながら私は、享氏のバンドは喧しいと優は言っていたが、どのようなバンドなのだろうか、と考え始めた。村下孝蔵の「初恋」を聴いていた「きょうちゃん」が……。
レコードプレーヤーの方を見ると、十分テープが乗っていた。十分テープ? と目を疑い、身を乗り出してよく見ようとすると、玲氏は私の視線を追って、「これ?」と問うた。私が頷くと、玲氏はそれを私に手渡してくれた。
「享のバンドのデモテープらしいわ。聴いたこともないけど」
ケースから取り出して見てみると、A面には「SEVENTEEN」、B面には「BLUE SKY」と書いてある。爽やかそうな題だった。が、優は、
「頼むから『聴きたい』とか言わんといてよ。それ、前にどれどれと思って聴いてみて、えらい目に合ってんから。聴かん方がいいで」
と言って、テープを眺め回す私に、嫌な顔をして見せる。
私とシノと玲氏は、優の顔を見た後で、顔を見合わせた。玲氏は言った。
「そんなこと言われたら気になるやん。聴こ。あんたは耳塞いどき」
優は「え――」と抗議したが、玲氏は取り合わず、テープのA面をセットした。再生ボタンが押される。優は、曲が始まる前に、慌てて音量を下げた。
数秒間の短いイントロは、ギターがぽろんぽろんと鳴っているだけで静かであったのに、歌が始まると、急に重低音が響き始めた。歌までもが重低音のようだった。何と歌っているのか、全く聴き取れない。十七がどうしたのだろう、何が言いたいのだろう、という疑問だけが渦巻く。
優は耳を塞いでいたが、私もシノも玲氏も平気であった。そう酷いものでもなかった。玲氏は、暫く聴いてから言った。
「これ、英語? 今、“wandering”とか言ってるように聞こえたけど……」
私にはさっぱり分からない。……テープのインデックスの内側に文字が書いてあるのを見付けた。それは、バンド名と、メンバーの名前であった。
バンド名は、“ERASER”。「消しゴム」とは、一体何を消すのだろうか。
メンバーの中で知った名前は二つあった。“G. 中里 享”、“B. 辻田尚矢”。念のため、
「このベースの人って、さっきの辻田っていう人と同一人物?」
と尋ねると、優は頷いた。そして、辻田氏→河川敷での事故、という具合に誰もが思い出したらしく、沈黙が生まれた。
それでも、ラジカセからは相変わらず重低音が流れており、部屋の中は騒がしかった。
間奏に入る。間奏のギターソロだけは、叙情的であった。ギターの人は二人居るので、それが享氏が弾いたものなのかどうかは、分からない。
不意に、曲の中に「がちゃ」という音が混ざった、と思ったが、それは玄関の扉が開いた音であった。
憔悴したような顔つきの享氏は、玄関で足を止めてこちらを見て、
「……それ……」
と言った。勝手に聴いてはいけなかったようだ。
「あー、もうこんな時間。帰らな。住江、あんたも帰るやろ」
シノはわざとらしく時計を見てそんなことを言って立ち上がり、享氏が立ち尽くしている玄関で慌ただしく靴を履きいて、出て行った。
「では私もこれにてさようなら」
私は誰に向かって言うでもなく変な挨拶をして頭を下げ、シノを追って外へ出た。既に自転車に跨っていたシノは、
「ほなまた月曜な」
とだけ言って、私を置いて商店街を北へ走り出した。私もそちらへ向かうつもりだったが、何となく気まずくなって反対側へ漕ぎ出したのだった。
三.駅前にて
高二の晩秋のある日のことである。
準急を守口市で降りて、シノはそのまま帰り、私と優は向かい側に止まっている普通に乗る筈であった。
ところが、私と優は、突然背後から肩を掴まれた。
「なあ! ちょっと買いもんついて来て。手袋欲しいねん、手袋」
私と優は、シノに腕を引っ張って行かれる。よくあるパターンだ。
買い物の前に、まずは東口の階段を降りた所にあるロッテリアへ入った。守口市で降りるとほぼ毎回寄ることになっているのだ。私達は、隅の方に席を確保する。そして、食べたり飲んだりする間は、あまり喋らない。
大抵最初に何か言い出すのは、シノである。シノは、紙コップの蓋を開けて、ジュースが残っていないのを確かめてから言った。
「手袋も欲しいんやけど、スカートも欲しいねんなー。あんまりお金ないのに」
「手袋は来月にすればいいやん。まだそんな寒くもないし」
と助言するのは優である。この二人は、しょっちゅう互いに助言し合っている。
「どっち買うか、インジャンで決めたらええやん。私、手袋の方担当したるわ」
と、ろくなことを言わず話を無茶苦茶にしてしまうのが、私である。
「インジャンなんかで決められるか! もう、服に決めた」
私達は、ロッテリアを出て、駅に隣接する百貨店へと向かう。
シノは、歩きながら私の質問に詳しく答える。厚手の紺のタイトスカートが欲しいとのことであった。
百貨店一階を端から端まで見て回ったが、納得のいくものがないと言って、シノは結局何も買わなかった。
その代わりに、私が靴下を買ってしまった。いつも誰かの買い物に付き合うと、浪費をしてしまう。
「あかんわー、なんかイメージとちゃう奴しかないわー」
「今度梅田でも見に行ってみる?」
「梅田は私パスな。大都会は苦手やから。二人で行ってらっしゃい」
などと言いながら外へ出た。
私は、予想外の寒さに思わず身震いした。そろそろ通学にコートが必要な時期になる、と考えていると、隣を歩いているシノが、私の肩を手の甲でせわしなく叩いた。「何?」と聞くと、
「あそこ歩いてんの、優の兄ちゃんと辻田さんちゃうか、ほら、あれあれ」
とシノは小声で言って、私の首を後ろへ向けさせた。
文化センターの方へ歩いて行く二人の男の人は、ギターケースを肩から提げていた。片方の人のギターケースは、もう一人の物より長い。ベースが入っているようである。
ということは、ギターの享氏と、ベースの辻田氏か。優が、後ろを見ている私達の方を振り返る。
「あれ、優の兄ちゃんと辻田さんやんな?」
とシノが尋ねると、優は頷いた。文化センター内のスタジオを借りてバンドの練習をしているらしい、とのことであった。高校三年生の秋にそんなことをしているのは、即ち高校卒業後はバンドを本職にして生活していくつもりであるからかと思えば、そういう訳でもなく、大学受験はするそうだ。
「あんな調子じゃ滑ると思うけどな。滑ったらどうするんか、とかお父さんに最近よう聞かれて喧嘩になってるわ。何も考えてへんねんから」
私は、自分の家が平和過ぎるために、親子喧嘩なるものが想像し難かった。父と息子、ともなると、壮絶な戦いが繰り広げられているのだろう……と想像すると、恐ろしくなった。
駅前で解散し、シノは自転車で帰って行った。私と優は、電車。準急には乗らず、優と一緒に普通に乗った。
優は、電車の中で享氏の悪口をまくし立てた。何の連絡もなしに外泊するとか、ギターをそこら辺に放っておきながら、誰かがそれを蹴ってしまうと怒るとか、挙げていくときりがない程、腹の立つことがあるらしい。しまいには、
「見てない間にギター踏んどいたんねん」
などと言うのだった。
「踏んでも何もならんやんか。音狂わしといたったらどうや?」
と私が言ったところで、電車は滝井駅のホームに入っていった。優が立ち上がり、扉の方へ歩いて行こうとした時、私はその扉の前に立っている人物を見た。一瞬、目が合った。その直後に、それが誰であるか思い出した。
電車が止まって、優は私に「バイバイ」と言おうとしたが、私は扉が開くと立ち上がり、優をホームへ押し出した。優は私に押されて行って、狭いホームの柵にぶつかった。そんなことをしている間に、扉の前の人物は、電車を降りて、すたすたとホームを歩いて行ったのだった。
優は体勢を立て直した後、目を見開いて私に言った。
「いきなり何すんのよ、痛いなあ」
「いやいや」と私は苦笑し、今にも階段を降りようとしている人物を指差して、ほぼ無声音で言ってやった。
「あそこに居る人……さっき電車ん中で戸のとこ立っとった人、辻田氏の妹やがな」
「え――っ!」と驚いて叫ぶ優の声は、向かい側のホームで電車を待つ人々をも注目させる程大きく、辺りに響き渡った。
「嘘や、あの子中学生やのに、こんな時間にあっちから電車乗って来るなんて」
「中学生かて電車ぐらい乗るわな。どんな用事があるか分からんやろ」
私達は、絵里氏の後をつけることにした。ホームから姿が見えなくなったので、もう見失ってしまうのではないだろうかと心配したが、駆け足で降りて行くと、すぐに発見出来た。
絵里氏は、優の家へ行く時に通る道を歩いて行った。初めは偶然かとも思ったが、商店街に入られた時には、「これはただの偶然ではない」と思い直していた。
絵里氏は中里菓子店に目を向けはしたものの、そのまま前を素通りして、北へ歩いて行った。
私達は立ち止まり、顔を見合わせる。何のために後を追って来たのか、理由が分からない。絵里氏がたとえ私達の話を全部聞いていたとしても、それを享氏に告げに家にやって来る、などということがあるものか。……と虚しさを覚え私達は立ち尽くした。そんな時、不意に背中を叩かれ、驚いて振り向くと、玲氏が立っていた。
「何二人ともびくっとなってんの。何か後ろめたいことでもあんの?」
あると言えばある。私と優は、再び顔を見合わせ、「うーん」と唸った。
私と優は、中里家で一部始終(という程大袈裟なものでもないが)を玲氏に話した。玲氏は、それを聞いて「ははははは」と笑い飛ばしたのだった。
「後つけたも何も、あんたの帰り道やねんから、びくびくせんでええやん」
それで全ては解決した。享氏の悪口がどうした。妹が兄の文句を言うことなど、何も珍しくはない筈だ。絵里氏にしても、どうせ辻田氏の文句を言っていることであろう。と、私達は妙に強気になったのであった。
玲氏が淹れてくれた温かいココアを飲んでいる時、例のレコードプレーヤーの上に、白いフリスビーが乗っているのが目に留まった。一年五か月前に、享氏が誤って絵里氏の顔面にぶつけてしまった、あの白いフリスビーであろうか。
私は、つい二十分程前に間近に見た、絵里氏の顔を思い起こす。
「そう言えば、辻田氏の妹の顔の怪我、跡は残らんかったんかいな?」
額に擦り傷が出来たそうだが、大した怪我ではなかったということと、ぼんやりしていた絵里氏も悪い、と辻田兄妹の両親が認めたので、享氏が謝るだけで済んだ、ということは聞いたのだが、その後のことは聞かされていなかった。
「どうもないらしいで。フリスビーがなんぼ硬い言うても知れてるし。ふわーんと飛ぶもんやしなあ」
と優は言ったが、手に取ったフリスビーは、思ったより硬かった。それに、端の方は傷だらけで、樹脂が捲れて鳥の爪のようになっている。
「でもこれ、ここが引っかかったら無茶苦茶痛そうやけど」
と私が言うと、玲氏は笑いながらこう言ったのだった。
「ああ、それ。あの後享がフリスビーの練習してそうなったんよ。河川敷で毎晩一人で投げてたらしいで。めっちゃ暗い奴やろ」
孤独! と私は思った。高校生の男子が、暗い淀川の河川敷で、一人フリスビーを投げては拾いに行き、また投げて、している姿は、寂し過ぎる。
その練習の現場を通りかかってずっと眺めたりしようものなら、享氏は一言、「何か用?」と言うのであろう、と勝手に想像する私であった。
*
次の日の昼休み、私と優は、絵里氏追跡の虚しさについて、シノに語った。
シノは、一通り話を聞いてから、「ぱん」と手を打って、
「いや、それは偶然じゃないと思うで。辻田さんの妹は優の兄ちゃんに気がある」
と、得意気に言った。その言い方があまりにも自信に満ち溢れていたので、私と優はげらげらと笑ってしまったのだった。
「いきなり何? 何を根拠にそんなこと」
「なんで気があったら家の前素通りせんならんのんな!」
と私達が笑いながら言うと、シノは、「笑いな」と私達を制してから、解説した。
「家の前素通りしたのは、そういう気分やったからや。守口で練習するっていうのを辻田さんから聞いてて、見に行ってたんかも知れんで。陸橋の上からな、文化センターへ歩いて行く優の兄ちゃんの小さい後ろ姿を見送るねん。こういう風に。『享さん……!』ってな」
シノの発言に身振りが加わり、おかしさは極限に達した。教室の隅の方で笑いまくる三人を、誰もが訝しそうに見た。
「なんかその、『享さん!』っていうのが、演歌の世界やなあ。変やでそれ」
「それより、何を根拠にあの子がお兄ちゃんに気あるって言うんか、説明してよ」
「話は去年の夏に遡るけどやな。……あの時、辻田さんの妹が、フリスビーをずっと持っとったやろ。きっとあれを今も大切に持ってんねん。机の上にでも飾って、毎日眺めてるかもな。『享さんのフリスビー……!』って」
「お言葉を返すようですが。今そのフリスビーは中里家にありまっせ」
私は得意気なシノの肩をぽんと叩いて、真実を述べた。シノは、口をぽかんと開けて、暫時絶句していたが、溜息をつくと、残念そうに言った。
「……ちゃうんかー。なーんや。せっかく思い付いたのにな」
そこで予鈴が鳴ったので、私と優はシノのクラスの教室から出て行こうとして、立ち上がった。すると、シノは大声で言った。
「あっ! 今日こそスカート買う。京橋行きたいから付いて来てな」
私達は了承して、その教室を後にした。
という訳で、その日の放課後、今度こそシノはスカートを買った。今度こそ私は何も買わなかった。
ダイエーの専門店街から出た頃には、外は完全に夜になっていた。歩道橋の上で私は首を竦める。吹き抜ける風が冷たい。駅から自転車で帰らねばならないということを考えただけで、憂鬱になった。駐輪場の前で、駅に向かう二人に「バイバイ」と言おうとしたが、シノは、駅前の広場の方を見て立ち止まり、こちらを向いてくれない。
「なあ。帰るで私。ちょっとちょっと、何見てんのんな」
シノの鞄の紐を引っ張ってみたが、シノは広場を見たままだった。
いつしか優も同じ方を向いていた。私も見てみる。すると、優は言った。
「げ! お兄ちゃん、あんなとこでギター弾くん?」
「やっぱりそうなん? あれ、あんたの兄ちゃんと辻田さんやんな?」
とシノが指差すその先には、水色のギターを持った享氏と、フォークギター(と言うのだろうか?)を持った辻田氏が居た。
その広場では、毎日のように誰かが何かを演奏しているのだが、まさか享氏と辻田氏が居ようとは。
それに、享氏と辻田氏だけ、というのが妙だった。いつもバンドをしているのに、たった二人で何をしようというのだろう?
……と、遠くに居る二人を見ながら色々考えていると、シノが「見に行こう」と言った。私は賛同した。優は嫌がったが、二人で無理矢理引っ張って行った。だが、あまりにも優が嫌がるので、少し離れた所で見る(聴く)ことにした。
駅前広場の時計の下で、二人はパイプ椅子に腰かけている。「弾き語り」をしようというのか。何人かの人が、足を止めてその周辺で二人を見ている。そんな中で、辻田氏は「ちゃらららららん」とマイナーコードを奏でた。
そうして、哀愁を帯びた曲が始まる。辻田氏が「じゃんじゃんじゃんじゃん」と伴奏をし、享氏が旋律を弾く。前奏を聴いただけで、タイムスリップしたような気分になってしまった。
その内、二人は歌い始めたが、ギターの音が大き過ぎて、何と歌っているのかあまり聴き取れなかった。落ち葉がどうのこうの、と言っているようであった。
享氏は相変わらず蛇指輪と数珠もどきを左手にしていた。長い間砂に埋もれていたのを引っ張り出して来て軽くはたいたような、変な色をしたデニムの古臭い上着を、黒いセーターの上に羽織り、焦茶色のコール天のズボンを穿き、黒い厚底の靴を履いている享氏の横には、灰色のトレーナーに、深緑色のスタジアムジャンパーを着て、カーキ色のズボンを穿いて、薄汚れた上履きのような運動靴を引っかけている辻田氏。そんな二人が、悲しげな暗いメロディーを奏でているその辺りは、空気が淀んでいた。享氏は、下を向いていて、少し長めの髪の毛を垂らし、沈鬱な雰囲気を醸し出していた。
しかし、一つだけ爽やかな色をしている物があった。水色のギターである。それだけは、輝いて見えた。そして、そのボディーに書かれた赤い文字“FAREWELL”は、一段と鮮やかに見えていた。
「じゃららららん」と最後の音が響いて、曲が終わる。周囲で聴いていた人々は、拍手をした。
優は溜息をついて、
「あー鬱陶しい曲やった。帰ろ帰ろ。バイバイ、住江」
と早口で言って、改札口の方へ歩き出した。
その時私は、機材の傍に立っている絵里氏を発見した。「あっ」と言おうとしたが、シノに先を越された。
「あっ。……優、優! ちょっとちょっと! ほら、あの子、辻田さんの妹!」
シノは半分無声音でそう言い、優の顔をそちらへ向けさせた。優は、
「シノの言う通り、やっぱりあの子、お兄ちゃん好きなんかな」
と呟いた。
私には、一心に(かどうか知らぬが)享氏を見詰める絵里氏が、酷く大人びて見えた。とても私達より二歳も年下(=中学三年生)だとは思えなかった。その表情は、「時代錯誤の悲劇的な恋愛の渦中に私は居るのだ」と主張しているかの如く、造ったように翳っていた。
私は、二人にそのことを説明した。すると二人はげらげらと笑い、「時代錯誤の悲劇的な恋愛って何」と私に聞いた。私は少し考えてから、答えた。
「昼間シノが言うてた、『享さん……!』っちゅう奴やがな」
二人は余計に笑った。
それだけ笑って、絵里氏がこちらを見ない筈がない。絵里氏と私の目が合う。
絵里氏は、私達の方へ歩いて来て、言った。
「何がおかしいんですか。さっきから私のこと見て笑って!」
演技をしているような口調で言われても、何も怖くはない。私達は、「別に?」と適当に誤魔化し、解散した。
その後、享氏と辻田氏がいつまでそこで演奏していたのか、絵里氏がいつまでそこに居たかは、知らない。知り得ないのだ。
私は、自転車で帰ったのだが、遠回りをしてツタヤに寄り、予定外の出費をしてしまった。
享氏と辻田氏の演奏する曲を聴いて、村下孝蔵のCDを借りずには居れなくなったのである。
「初恋」の収録されているアルバムを借りて帰った。
その日は、夜寝るまでずっとそのCDをリピートで流していた。
聴きながら私は、様々なことを考えた。
享氏は、一年五か月前に、「初恋」のレコードを捨てたと言っていたが、捨てたレコードの代わりにCDを購入して、今も愛聴しているのではなかろうか。それでなければ、あのような曲を演奏しようとは思わない筈だ、と。実に勝手な想像ではあるが。
やはり「初恋」は名曲である。改めてそう思った。
“浅い夢だから 胸をはなれない”という部分が、暫くは頭の中を巡ることになるだろう、と考える私であった。
四.急浮上
推薦入試が終わると、途端に遊びまくる人が居る。合格通知が来たら、次の日は学校で大騒ぎした後、放課後は街へ繰り出すのだ。特に、クラスの中でも目立つ三人が、その典型であった。
始業式が始まる前に、その、川越さん・稲沢さん・相良さんとだけは話が合いそうにもない、と顔を見た瞬間に思ったが、式の後でその内の一人の川越さんが突然、
「なあなあ住江! 私のこと覚えてへん? 前の苗字、奥畑やってんけど」
そう言いながら駆け寄って来て、大変驚かされた。近所に住んでいたが小学校五年生の時に転校して行た麻耶なのであった。
麻耶と私は、思い出話をした。そこへ稲沢さんと相良さんもやって来たりして、結局その三人とは、遊びにこそ行かなかったものの、よく言葉を交わした。
しかしやはり、推薦入試合格後の後の三人には圧倒されてしまって、何日かは話をすることもなかった。
そんな初冬のある朝、私が教室に入るなり、麻耶がポニーテールを揺らしながら駆け寄って来た。それに続いて、稲沢さんと相良さんも走って来たので、私は思わず身構えてしまった。
「なあ、住江、あんた、中里さんと仲いいやんな?」
私が「うん」と答えると、麻耶達は目を輝かせた。何事かと思えば、
「中里さんのお兄ちゃんってバンドやってて、むっちゃかっこいいやろ?」
などと言うのだ。私にそんなことについて同意を求めても無駄である。
「私はどんな人がかっこええんか分からんっちゅーてますやろ、前から」
「あかんわ住江! あの人むっちゃかっこええって!」
麻耶は主張する。麻耶が言うには、三人で大阪城公園で色々なバンドが演奏している所(通称・城天)へ見に行った際に、享氏達のバンド・ERASERに惹かれたそうだ。
五人居るメンバーの中でも、終始俯き加減で面倒臭そうにギターを弾く享氏が一番気に入った、とのこと。
「俯いとったらかっこええもなんも分からんのちゃうん?」
という疑問を投げかけると、三人共否定した。
「その妖しさがええんやんか。それにな、時々ちらっと見える顔がかっこええねん! なあ!」
と言って、三人は同意し合う。
だから何なのだ、と聞こうとすると、麻耶は言った。
「あんな、実はな、今度ライブあるらしいねんけどな、内輪でしかチケット回れへんって聞いてんやん。……中里さんから三枚回して貰われへん?」
麻耶も稲沢さんも相良さんも、「お願い!」と言って、私を拝んだ。
必死に頼まれて、私は困惑した。優にそんなことを言っても、「えー嫌やわ」と言って、とても善処してくれそうにないからだ。
暫く考えて、麻耶達の居る所で言ってみよう、と思い立った。そうすれば優も何とかしてくれるのではないだろうか、と考えたのである。
そこで私は、休み時間に隣の教室から優を引っ張ってきて、麻耶達の居る所へ連れて行った。そして事情を説明した。説明し終えた頃には、麻耶達は優を拝んでいた。
優は私に、
「お兄ちゃんに頼んでも、『知らん』とかで終わってまうんちゃうかな」
と言った。確かに、享氏なら言い兼ねない。
二人で悩んでいると、いつの間にか傍にやって来ていたシノが、次のように提案したのであった。
「辻田さんに頼めばいいねん。辻田さんやったら、優が頼まんでも、直接電話とかで言ったらなんとかしてくれると思うで。あの人女の子好きやし」
それは名案だ。私と優はシノに拍手をした。
不思議そうな顔をしている三人に、優は生徒証を開いて、以前辻田氏自らによって勝手に書かれた住所と電話番号を見せる。「女の子なら誰でも教えてOK!」と書き添えてある。
麻耶達は、目を丸くしてそれを暫く見ていたが、急に大声を出した。
「え! 辻田尚矢って、ベースの? 凄い!」
大騒ぎをしながら辻田氏の電話番号を書き写す麻耶達を、私と優とシノは呆れながら眺めていた。麻耶達は、優に何度も礼を言った。
チャイムが鳴り、優とシノは教室から出て行き、私は席に着いた。私の後ろの麻耶が、背中をばしばしと叩いてきた。振り向くと、元々細い目を更に細めて笑っている麻耶の顔があった。
「有難うな! 今日帰ったら電話してみるわ!」
「……なあ、なんで優の兄ちゃんやって分かったん?」
と、私は聞いてみた。麻耶は、私の肩をばんと強く叩いて言う。
「情報集めまくってんやんかー。苦労してんから!」
それだけ苦労していながら、辻田氏の電話番号を知ることが出来ていないというのが、不思議であった。
*
数日後の朝、私は教室の前で、麻耶に出迎えられた。「おはよう」と言おうとしたが、麻耶の大きな声に負けて、言えなくなってしまった。
「チケット、ぎりぎりで手に入ってん! 住江のお蔭やわー、むっちゃラッキー!」
私は、教室の一歩手前で停止してしまった。
麻耶は、私の眼前に黄色いビラを突き出した。手にとって見てみると、ライブの告知のようなものであると分かった。
そこにはメンバーの名前も書かれてあったが、
G. Kyo
B. Naoya
というのには笑ってしまった。ちゃんと苗字があるというのに。
麻耶は「何笑ってんの」と言った。麻耶達にとっては、享氏は「中里享」ではなく、「Kyo」なのだ。二年前に見たテープのインデックスには、姓名が漢字で記されていた筈だ、と思い出す。
……ビラの下の方には、場所が載っていた。十三のライブハウスにて行われるのであった。
六時間目が終了すると、麻耶達はすっ飛んでライブハウスへ向かうらしい。京阪とJRと阪急を乗り継いで行かなければならない。大急ぎで移動するにしては、気の遠くなりそうな道程である。
「乗り換え面倒臭そうやなあ」
私は呟いたが、麻耶達は少しも面倒がってはいない様子だった。
そのようなことを帰りの電車の中で話すと、優は「ようやるわ」の一言で終わらせた。
優は推薦で合格しているので、ライブを見に(聴きに)行ってはどうかと私が勧めると、優は激しく首を横に振って嫌がっていた。
私はその日、まっすぐ帰る予定であったのだが、優が要らなくなった赤本をくれるというので、貰いに行くことにして、滝井で降りた。
優の家に着いて、赤本を受け取ればそれでさようなら、と言いたいところだが、そういう訳にもいかず、私は赤本を受け取ることをすっかり口実にしてしまって、優に紅茶を淹れて貰い、長居した。
私と優は、居間のテーブルで神経衰弱をしたが、私の記憶力があまりにも悪く、優の三分の一程度しか獲得出来なかったので、二人で大いに笑っていると、店へ通ずる方の硝子の引き戸が突然音を立てて開いて、私は驚いた。
おばちゃんが、
「実早緒ちゃん、優と一緒に遊んでてええの? 一般入試まだやろ?」
と、心配そうに言うのだった。私は、「大丈夫です大丈夫です」と言っておいた。何がどう大丈夫なのか、自分でも説明は出来なかったのだが。
神経衰弱を再開し、前回よりは多く獲得すべく意気込んでいると、今度は電話が鳴った。おばちゃんが取るだろうと思っていたが、ふと店の方を見ると、接客中であった。そこで、優が出た。
「…………えっ! ……お母さん、大変! お兄ちゃんが事故って、救急車で運ばれたって!」
「ええっ!」
私は衝撃を受けた。おばちゃんと優は、ばたばたし始めた。私は一体どうすれば良いのだろう、とおろおろしていると、
「実早緒ちゃん、ちょっと店番しといて! 頼むわな!」
おばちゃんはそう叫ぶように言って、優と一緒に駆け出して行った。
(店番なんて急に言われても……)
などと頭の中で呟きながらも、私は店に出てみた。
少し前までの慌ただしさを忘れさせる程、店は静かであった。ストーブに当たっていると、眠気がさしてくる。
いよいよ本格的な眠りに入りそうになると、お客が来た。
誰もが、制服姿で店番をしている私を物珍しそうに見た。中には私を優と間違える人も居た。大きさが同じ位なので無理はない。
その、間違えた人が店を出たのとほぼ同時に、玲氏が入って来た。そして、私を見ると目を丸くした。
私は、事情を説明しようとしたが、どこで何をしていて、どのような事故に遭って、どのような怪我をして、どこの病院に運ばれたのか、という重要事項を全く知らなかったので、玲氏の質問に首を傾げるばかりで、殆ど役に立たなかった。
玲氏は、家への上がり口に腰を下ろし、白い帆布の鞄を膝の上に乗せて溜息をついた。
「……あの子も、ことごとく阿呆やなあ」
確か、二年前のフリスビー暴投事件の時も、玲氏は「あの子も阿呆やなあ」と言っていた筈だ、と思い出した。その「阿呆」に、新たに「ことごとく」を冠せられてしまった享氏。一体どのような失態を積み重ねてきたのか、と聞きたいのは山々であったが、ただの野次馬のようなので、やめておいた。
暫しの沈黙の後、玲氏が突然立ち上がったので、私も驚いて一緒に立ちあがってしまった。
玲氏は、私を見て少し笑い、言った。
「ごめんごめん、私が店番するから、帰ってくれていいよ」
私は、居間へ上がり、トランプをケースの中に片付けてから、中里家を後にした。
そして、滝井駅に着いた時に、私は重大なことを思い出したのだった。
(そう言や、ライブ明日ちゃうかったっけ? 享氏、どうするんやろ?)
*
翌日、私と優は準急で一緒になった。やはり、享氏の話になった。
……事故が起こったのは、中里家の西約二百五十メートルの、国道の路上。辻田氏と享氏は、オートバイで走っていた。辻田氏が前、享氏が後ろを。後方で大きな音がして、辻田氏が停止して振り返ると、車に追突されて享氏が転倒していた。享氏は、右腕から出血していた。……
「あいたたた。そんなん聞いたら力抜けてくるわ」
「なんで住江が力抜けなあかんのよ、関係ないのに」
「しかし、ひっくり返って腕切っただけでましやったな。骨折してはれへんのやろ?」
「そうやねん。どういうこけ方したんか分からんけど」
「怪我が軽かったんはええけど、今日ライブちゃうんかいな」
「問題はそれや。辻田さん、お兄ちゃんの怪我のこと心配するより、ライブどうする、ばっかり言うてんで。弾けそうにないし」
と二人で喋っていると、いきなりリュックを引っ張られた。麻耶である。
これは、「券買ったのにライブなし?」などと、優に構わず言い出すのでは、と覚悟したが、麻耶は、
「Kyoさんが怪我って、酷いん? 大丈夫なん?」
と言うだけであった。私は、優を突付いた。私が説明して良いのか判断し兼ねたからである。
優は、全く間を置かずに、麻耶にこう告げた。
「ライブはちゃんとやるって言ってたから、心配せんでいいって」
直前に「弾けそうにない」と言っていたのだが。……享氏の他にもう一人ギターの人が居るので、その人が享氏のパートも弾くなどして、四人でライブを敢行するのか、それとも、享氏が無理をして弾くのか……と考えると、また手の力が抜けてきた。
六時間目が終わると、麻耶達は走って出て行った。
私は、その日こそは真っ直ぐ家に帰ることにした。優の家に寄ろうという気にはとてもなれなかった。おばちゃんが嘆いている顔を見たくなかったからだ。
電車の中では色々なことを考えた。
麻耶達は、開演時刻に間に合ったのであろうか。
否、そんなことよりももっと重要な問題があるではないか。
享氏はどうしたのであろうか。
明日、学校へ行けば、聞かずとも麻耶達の方から話をし始めることは間違いない、と私は確信した。
*
案の定、朝、私が教室に入るや否や、麻耶と稲沢さんと相良さんが駆け寄って来た。
三人は、口々に「有難う」「良かったわ」と言いまくった。
お礼なら優に、と言おうとした時、稲沢さんが髪の毛を掻き上げながら言った。
「そうそう、Kyoさん、怪我してんのに全部弾いてんで、むっちゃ感動した!」
「ちょっと痛そうにしてたけどなあ。ちゃんと弾いててん。凄いと思わん?」
麻耶が嬉しそうにそう言うのを聞いて、またしても手の力が抜けた。本当に「ちゃんと」弾いていたかどうか分かる位、曲が頭に入ってはいまい、と私は批判的な意見を抱いたが、話の腰を折っても仕方がないので、言わないでおいた。人の感動をぶち壊すべきではない。
と自分に言い聞かせていると、いつの間にか、ライブ終了後の話になっていた。
「私らライブ終わってから出待ちっていうか、外で待っててんやん。そん時一人で立ってる女の子がずっと居ってさ、その子、Kyoさん一人で出て来たら、一緒に歩いて行ってん! ……あれって、Kyoさんの彼女かなー言うててんけど、住江さん知らん? Kyoさんに彼女居るかどうか、とか」
と、相良さんが言い終わるのとほぼ同時に先生が入って来たので、稲沢さんと相良さんは、私の傍から去って行った。
後ろの席の麻耶は、暫くすると、ルーズリーフを私の机の上に放ってきた。
それには、こう書いてあった。
その女の子→高校生と思う。身長は160ぐらい。けっこうかわいかった。髪は肩らへんぐらいまで。
それを読んだ直後に、閃いた。その女の子とは、絵里氏のことだ!
しかし、そんなこと(その女の子が辻田氏の妹であるということ)を軽々しく教えて良いものかどうか私には分からなかったし、絵里氏だという確証もないので、私は何も返事せずに、チャイムが鳴るのを待っていた。
授業終了後、黒板を写している麻耶を放っておいて、私は一人、廊下に飛び出した。隣の教室から優の腕を引っ張って私の机の所に連れて行った。そして、ルーズリーフを見せた。
優は、いつの間にか周囲を取り囲んでいた麻耶と稲沢さんと相良さんが見守る中、おもむろにルーズリーフに絵を描き始めたのだった。
それは似顔絵で……出来上がった顔は、まさに絵里氏の顔であった。
私は、優の画力に感心したが、他の三人は、それどころではなかった。
「そうそう、この顔! この子誰なん、中里さん!」
「……辻田さんの妹」
優は答える。
一瞬の沈黙の後、稲沢さんが問うた。
「辻田さんって、あの、ベースの? チケット回してくれた、Naoyaさん?」
優が頷くと、三人は大騒ぎし始めた。私と優は、そんな三人から逃れて、教室から出た。
「やっぱりそうやったんか。前からそうちゃうかと思ててんけど」
と優は誰に言うでもなく呟いた。
そこへちょうどシノがやって来たので、私は、
「凄いでシノ、去年『享さん……!』言うとったん、ほんまらしいで」
分かり難い言い方をしてしまった、と一瞬反省したが、シノには通じた。
「え! 何、付き合ってんの? 優の兄ちゃんと辻田さんの妹」
「そうみたいやな。でも、なんでこそこそしてんのやろ。分からんわ」
と優は首を傾げた。
そこで、私は実に勝手な推測をしてみた。
「実はよう見な分からんぐらいの傷が絵里氏のでこに残っててな、表向きは絵里氏は優の兄ちゃんを恨んでることになってるっちゅうのはどう?」
シノと優は、顔を見合わせ、きょとんとしていた。
やがて、シノが口を開く。
「表向きって何や。誰がそんな風に思い込んでんのんな」
「そんなもん、辻田氏が、に決まってるがな」
私の主張には無理があると自分でも思った。
絵里氏が享氏を見ている時、いつも辻田氏が一緒に居るのではないのか。駅前の広場でも、ライブハウスでも。享氏が辻田氏の家に遊びに行く時も。それでも辻田氏が気付かないのだとすれば、辻田氏は……鈍過ぎる、ということになる。
その日の放課後、何故か無性に村下孝蔵の曲が聴きたくなって、帰りに遠回りをしてツタヤに寄り、一枚借りて帰った。
「落葉」という曲が入っていた。一年前、京橋の駅前で、落葉がどうのこうのと歌っていた享氏と、その享氏をじっと見ていた絵里氏の姿が甦る。
好きな人の後を付いて行く、というような内容の詞が、絵里氏の心情に重なるのではなかろうか……などと、専門外のことに考えを巡らしていると、疲れてしまった。
うつらうつらする私の耳には、メロディーだけが入って来る。
そして、夢を見た。享氏と絵里氏がドライブに出かけている夢だった。私は、出て来ない。
五.砂に埋もれた遠い日々
大学に入学すると、私は討論のサークルに入った。
私は、頭の回転が遅く、何回か討論に参加しても、殆ど発言出来ていなかった。先輩方のように熱弁を奮えないのだ。
しかし、笹口成治という先輩は、私と同じようにあまり発言せずぼんやりと座っているだけであった。
ある初夏の日の午後、三限の空いている私は、サークル員達が屯している屋外のベンチだらけの所へ足を運んだ。
が、椅子のくっ付いた机には、皆の鞄が幾つか乗っているだけで、誰も居ない。財布など貴重品はないのであろうか、と心配しつつ近付いて行くと、突然ぬうっと笹口先輩が顔を上げた。机に伏せていたために、鞄の陰に隠れていたのである。
「わー! ……寝てはったんですか」
「いや、サイクリングのコースを考えとったんや」
「サイクリングしはるんですか。マウンテンバイクですか?」
「うん。でも、山とかは行かへんで。大阪市内ぐるぐる回ってるだけや」
笹口先輩の話には、耳慣れた地名が次々に登場した。城北公園通は大変走り易い、快適だ、というような話になった時、笹口先輩は、
「城北公園の近所の辻田いう奴の家に、よう立ち寄んねん」
と言った。……城北公園の近所の、辻田? 私は、辻田氏を思い浮かべる。一歳上なので、笹口先輩とは同い年だ。しかし、辻田氏と笹口先輩が友達同士だとは思い難い。それでも私は、思い切って尋ねてみることにした。
「その人って、ひょっとして、辻田尚矢っていう名前ですか?」
「あれ。なんで知ってんの。そうそう、辻田尚矢。バンドとかしてる多忙な奴な」
「その辻田氏と一緒にバンドやってる人の妹、私の友達なんですよ!」
「辻田とバンドやってる人……中里君っちゅう人なら辻田の家で会うたことあるけど」
「その人です! でも、なんで辻田氏と友達なんですか? 高校違いますよね?」
「知らんの? 辻田って、ここの学校やで。去年ゼミが一緒でな」
私は硬直してしまった。入学して一月半になるが、一度も辻田氏の姿など見たことがなかったのだ。てっきり享氏と同じ大学へ行っているものと思っていた。
「おお、噂をすれば影。おーい、辻田やい」
と、笹口先輩に呼ばれて振り返った人は、確かに辻田氏であった。こちらへ歩いて来ながら、私が誰であるのか思い出そうとしているのが伺えた。
「あれっ、スミエちゃんここやったん? 全然知らんかったわ」
どうやら辻田氏は「住江」というのを名前だと思い込んでいるようであったが、面倒なので指摘しないでおくことにした。そして、何となく聞いてみた。
「今もバンドしてはるんですか」
「いや……もう解散してん。なんか予定とか合わんようになってきたしな」
笹口先輩は聞く。
「なんや、あんな力入れとったのに? もう一切活動なしかいな?」
仲間割れでもしたのであろうか、と考えたが、飄々とした態度の辻田氏によって発せられる言葉からは、そのような意味は汲み取れなかった。
*
その数日後の土曜日、私と優とシノの三人で、ボーリングに出かけることにした。前日までにどこへ行くのかが決まらず、当日の朝相談するため優の家に集合、となった。
私が到着した時、ちょうど中里菓子店のシャッターががらがらと開いた。おばちゃんに挨拶しようと思い店の方へ顔を向けると、なんと、シャッターを開けたのは意外にも享氏なのであった。私は、驚きのあまり「あわ」と妙な声を発してしまったが、すぐに「おはようございます」と言った。享氏は、
「うす」
とだけ言った。
私は、そんな享氏がどのように店の準備をするのかということに興味を持って、少しの間観察してみた。
すると、今度は手を止めて、
「何か用?」
と言われてしまった。私は、「いえいえ」と言ってから扉を開けて、入って行った。享氏の「何か用?」という言葉を聞いたために、私の頭の中では「初恋」がぐるぐると回り始めた。
台所にはおばちゃんが居て、「上がり」と言ってジュースを出してくれた。
私が居間でジュースを味わっていると、だだだだと誰かが階段を降りて来る音が聞こえてきた。音の主は玲氏であった。久し振りに見る玲氏は、髪の毛がくりくりと巻いてあり、白地に水色の縞の、襟と裾にフリルの付いた提灯袖のブラウスを着て、白いハートの真珠が金で囲んであるネックレスをして、という具合に、「高級感溢れる人」になっていた。私は、思わずまじまじと眺めてしまった
玲氏は、私に「おはよう」と言った後、ばたばたと洗面所の方へ走って行ったかと思うと、直後にゆったりとした足取りで、「あったあった」と言いながら居間の方へ来た。
「これ、どこ置いたか分からんようになってん。焦ったわー」
とネックレスと揃いのイヤリングを見せて苦笑した。私は何と返して良いのか分からず、「はあ」と言った。
「なあなあ実早緒ちゃん、享が店開けてんの見た? なんか最近変やねん、いきなりバンド止めるし。学校もちゃんと行ってるみたいやし。それで店手伝うとか言い出すねんで。なんか気色悪いと思わへん? どういう風の吹き回しやろ」
私は、玲氏の饒舌さに圧倒されて、沈黙した。が、玲氏が何か回答を求めていそうな顔で私を見るので、仕方なく、
「真っ当に生きたい年頃というものに差しかかられたんではないですか」
と適当なことを言っておいた。
玲氏は、それを聞いてげらげらと笑い、落ち着くと、「じゃあバイバイ」と言って、慌ただしく出て行った。
ややあって、優が降りて来た。優は、玲氏が行ったことを確認し、
「お姉ちゃんやたら喧しくなかった? この頃ずっと変やねん。なんか浮かれ過ぎっていうか」
と喋った。そこで私は、玲氏が享氏のことを変だと言っていた、と報告した。
「そうそう、お兄ちゃんも変。なんか知らんけど、ボーリング場まで車で送ったる、言うねん。大学行く途中にあるからって」
私は目を見開き両手を上げて驚きを無言のままで表現した。
その時、扉が開いて、シノが入って来た。シノは、万歳の私を目にし「何やってんの」と言いながら上がり込んで来て、「どこにする?」と聞いた。優が、それに対する答えとして、私に言ったこととほぼ同じことを言った。
シノがそれを聞いて「え!」と叫ぶと同時に、店に商品を並べ終えておばちゃんと交代した享氏が店の方から入って来たので、私達は注目した。享氏は、有無を言わさず、こう宣言するのだ。
「布施のボーリング場でええやろ。帰りは迎えに行かれへんけど」
とても頷かずには居れない雰囲気だった。
私達は、享氏の三メートル程後ろを「どこよ布施って」「近鉄沿線やん」「帰れんの」「地図持ってるがな」などと無声音でぶつぶつ言いながらモータープールまで歩いた。
享氏の車は、一体いつ買ったのか知らないが、学生らしからぬ大層な車であった。後部座席に三人座っても十分余裕があった。
さて、いよいよ出発。車は、国道を南に向かって走って行く。享氏は、信号待ちの時に助手席との間にある箱を開け、カセットテープを取り出してセットした。
一瞬見えたラベルの文字は「村下孝蔵」であった! 叙情的な「初恋」のイントロが流れ始める。優は「うわっ」と言った。この部分だけは忘れられないであろう、と配達の車の中で予感したことが甦る。私は、初めて聴いた日のことを思い出そうと試みた。が、「初恋」は短く、すぐに終わってしまった。
次に始まった曲は、知らない曲だった。どうやらアルバムのダビングではないようだ。ということは、享氏が色々なアルバムから選曲してテープ編集をしたのか……ひょっとしたら、享氏は、もう重低音を響かせるバンドに疲れ果てたのかも知れない、そして、バンドを辞めて、自己変革? と、私は窓の外を見ながら推測した。真相は分かる筈もない、と思いながらも。
そうして、いつしか車は私の行動範囲から完全に抜け出していた。窓の外を過ぎて行く風景は、見たことのないものに変わっていた。私は自分の居る場所がどこであるのか把握出来なくなると気分が悪くなるので、早く着くように願いたかったが、村下孝蔵の曲が聴けなくなることを惜しむ気持ちが、そう簡単に着いて貰っては困る、と主張して、私の頭の中は複雑になり始めた。
そんな矢先に、車は停止した。テープは、歌が一段落したところで止められた。
降り際に私とシノがお礼を言うと、享氏はまたもや、
「うす」
とだけ言った。
そして車は去って行く。
私達は、精一杯力を発揮したつもりではあったが、結果は惨憺たるものであった。三ゲームもしたのに、私のスコアの合計は二百四十にしかならなかった。シノと優は更に不振で、それをも下回る成績に終わった。二人は不本意なスコアの紙を私に押し付け、捨てる気にもなれず、私は九枚共リュックに詰め込んだ。
ボーリングの後は、下のゲームセンターでゲームをして、そのビル内で食事を済ませ、昼過ぎにさて帰ろう、という時になり、私達は外に出て立ち尽くした。
「……ここどこ?」
「住江、地図地図! 私ら帰れんの?」
優とシノはうろたえていた。私は、二人をまあまあと宥めて、リュックから地図を引っ張り出す。
通って来た(と思われる)道を落ち着いて辿って行くと、無事そのボーリング場に至った。最寄の近鉄俊徳道駅までの道で、優は文句を言った。
「もう、ろくなことにならんよな。こんな歩かされるなんて」
「そら大体車で来るとこなんやから、ちょっと駅から遠てもしゃあないわ。まあ、土曜日にしては空いてて良かったがな。送ってくれはっただけでも有難いと思うで」
と私が意見を述べると、優は私の顔を凝視して、言った。
「なんでお兄ちゃんの肩持つんよ」
肩を持つというのとは違う。私は、十分に言葉を吟味して、言う。
「感謝してるっちゅうんや、こういうのは」
近鉄で上本町まで出て、乗り換えにこれまた延々歩いて、地下鉄で帰った。
(あーしんど。三ゲームの後にこの道程はちょっときつかったかなあ)
と考えながら地上へ出ると、「ぱふぱふ」という耳慣れない不真面目な音が聞こえてきた。
何事かと思い、音のする方へ顔を向けてみた私の目には、配達用と思われる自転車を必死に漕いでこちらへ向かって来ている笹口先輩の姿が映った。「ぱふぱふ」という音は、その自転車にベルの代わりに付いているパフパフホーンのものであった。家業の手伝いで川の向こうから遥々配達でこんな所まで、大変ですね、と思ったが、後ろの荷台に米は乗っていなかった。サイクリングならば、マウンテンバイクがあるのに、何故大きく重い配達用なのか? と、短い時間に私は色々考えた。
笹口先輩は、私の「こんにちは」という挨拶を遮って、
「ちょうどええとこに居った。今から家へ行こう思てたとこや」
と言った。そんなに慌てて何の用なのかと尋ねようとしたら、また遮られた。
「辻田から電話かかってきて、なんか辻田の妹と中里君が駆け落ちしたとか言うて、もう大騒ぎや。そんなこと僕に言われてもなあ、て言うたら、『住江ちゃん連れて来てくれ! 朝、享がボーリング場へ送って行ったから何か知ってるかも知れんねん! もうそろそろ家帰ってるやろうから、自転車に乗して来てくれ!』て電話切られてな。マウンテンバイクでは乗せられへんから、これや。とにかく乗ってくれい」
「……私が行かんでも、優がもうすぐ家着くから、優に聞いたらいいと思いますけど」
「そんなこと言われても困る。僕の運動にもなるし、まあええがな」
「……私は重りですか」
一斗缶を平らにして鉄の棒の荷台に乗せてくっ付けてある所に、私は恐る恐る座った。端の方が少しぎざぎざしているので、ジーパンの膝の裏が切れはしないか心配になったが、横向きに座って考え込んでいる間に、笹口先輩は漕ぎ出してしまった。
「がちゃこんがちゃこん」と、壊れそうな音がする。私は、その音に負けぬように大声で言った。
「言うときますけど、私、何も知りませんよ! 何も聞いてませんからね!」
「まあええがな! 連れて来い言われたから連れて行くで!」
私は、前の鉄の棒を捕まえてはいたものの、座っている所は椅子ではなく荷台の上という不安定な所であったので、何度も体が浮いて、落ちるのではないかと冷や冷やした。
橋を渡る時には、重いであろうから降りようとしたが、笹口先輩は、私を乗せたまま越えてしまった。
辻田家が見えてきた所で、笹口先輩は、パフパフホーンを何度も鳴らした。
すると、家の中から辻田氏が飛んで出て来て、歩道で両手を大きく振った。その右手には丸い円盤のような物体がつかまれていた。次第に近付くにつれて、その物体の形は明らかになっていく……フリスビーなのだ。傷だらけの白いフリスビー!
自転車が止まると、辻田氏は、私の眼前にフリスビーを突き出した。
「これ……これ見てくれ! どういう意味やと思う?」
フリスビーの裏側には、少女らしい細かい文字で、次のように書いてあった。
わたしは、このフリスビーの持ち主の人と、旅に出ます。
恋をして淋しくて
五月雨は緑色
悲しくさせたよ 一人の午後は
私は、真剣な辻田氏の顔を見て、そのメッセージを読み、「享さん……!」という言葉をシノが身振り付きで言ったことを思い出して、不謹慎にも笑いそうになってしまった。どういう意味も何も、歌詞ではないか。
「知ってんねん、これが『初恋』の歌詞の一部やっていうことは。でも順番が変やし、なんか暗号みたいや……ん? 恋、五月雨、悲しく……こ、さ、か。……そうか、分かったぞ! 小阪や! 小阪に居るんや!」
辻田氏は、一人で推理をして、興奮していた。笹口先輩が、白いフリスビーを手に取って眺め、言った。
「まさか、そんなんちゃうやろ。頭文字で自分の行き先を知らせるなんて。それに、『旅に出ます』て書いてんのに、なんで小阪やねんな。ここから小阪までなんて、自転車でも行けるがな。そんなとこ行くのに、旅するやとか言うかい」
私も笹口先輩と同意見であったので、頷いた。が、辻田氏は全く聞き入れない。
「小阪にバンドのもう一人のギターの奴が住んでんねん! そいつんとこへ転がり込むつもりなんや!」
と叫んだかと思うと、辻田氏は家の中へ駆け込んで行った。
何をするのかと覗いてみると、電話をしていた。
「笹口先輩、もう帰りませんか? 私ら関係ないですし。……辻田さん、もう私も笹口先輩も帰りますよ!」
と言ってみた。辻田氏は、受話器を置いて嘆願してきた。
「頼むから待ってくれ! 一緒に探してくれよ!」
何を待つのかよく分からぬままそこに立っていると、暫くして赤い軽自動車がやって来て、辻田家の前に止まった。運転しているのは、高級感溢れる格好のままの玲氏であった。後ろには優も乗っている。玲氏は辻田氏と交替し、後ろへ回った。
私も笹口先輩も乗れと促され、笹口先輩は助手席に、私は後ろに、それぞれ座った。
三人が三人とも小柄であると言っても、軽の後部座席は幾ら何でも狭過ぎる。しかし、文句を言う間もなく、辻田氏は車を発進させたのであった。
今度こそ私は車酔いしてしまいそうだった。おかしな話が出来る状態でもなく、当然音楽も流れていない。辻田氏の運転は乱暴であった。
やがて近鉄の高架に突き当たる。辻田氏は、おんぼろアパートの傍の路上に車を止めた。こんな所に止めてはいけないのでは、と言いたかったが、とてもそのようなことを言える雰囲気ではなかった。辻田氏は、私達に降りるよう指示した。仕方なく外に出ると、辻田氏は腕組みをして、
「俺が部屋へ行ってみる。享と絵里が飛び出して来た時のために、玲さんと優ちゃんは下で待ち構えててくれ。スミエちゃんと笹口は裏手な。窓から出る可能性もあるから」
などと探偵気取りで言い出したのだった。私は、それを聞いただけで疲れ切った。
辻田氏に急かされて、嫌々アパートの裏手へ回った。笹口先輩は、タオル地のハンカチで額の汗を拭い、それで顔をぱたぱたと扇ぎながら、言う。
「なんじゃいな、ほんまにもう。なんでこんなことせなあかんねんな」
「全くです。私らには関係ないですよね。享氏と絵里氏がどこへ行こうと」
それは、辻田氏に言いたかったのであって、何故か優と玲氏には言ってはいけないように思われた。
辻田氏は、本当に妹を心配しているのであろうか、単に騒いでいるだけなのではないのか、と私は疑った。やはり私はどうしても辻田氏には馴染めないのだった。
ややあって、辻田氏が裏手へ回って来た。そして、
「あかん、誰も居らんわ。でも、また帰って来そうな気配はあるから、ひとまず腹ごしらえしよう」
と言うのだ。私達は、また車の中に入れられた。
車は、東向きに少し走って、ファミリーレストランの駐車場に入って行った。辻田氏は大雑把に車を止め、目まぐるしい程の動きで車から出て、すたすたと歩いて行ってしまった。優と玲氏は、慌てて後からついて行く。
私と笹口先輩は、のろのろと歩き出した。
「もう帰りませんか。私、ちゃんとお昼食べたし、全然お腹空いてないんですよ」
「別に本格的に食べんでも、ケーキか何かにしといたらどうや。奢ってくれるかも知れんで」
「そんな太っ腹なんですか、あの人」
「あいつなら奢るやろ。僕は何かごっついもん食べたろかいな」
と笹口先輩が言うので、私も入ることにした。
私は、ふと何気なく駐車場の隅の方に目をやった。そこには、見覚えのある車が止まっていた。
(ありゃ? 享氏の車ちゃうん?)
そう思ったが、私は車に関する知識を持っておらず、似ている車を判別出来ないので、それが享氏の車であると断定は出来なかった。
そのなにわナンバーの車から目を逸らし、階段を上りながら、こう考えた。
(まさかここに享氏と絵里氏が居る、とか、そんな都合のええことはないよな)
ところが、入口の扉を開けた瞬間に、とんでもない光景が視界に飛び込んできた。窓際の席に居る絵里氏と享氏の腕を、辻田氏が一人で引っ張っていたのである。三人は無言で綱引きをするようにふんばっていた。笑ってはいけないと思いながらも、私は噴き出してしまった。
「なあ、手伝ってくれ! 玲さん、優ちゃんも! なんとかしてこいつら……」
玲氏は、平和な解決策を提案したが、辻田氏は賛同しない。
「話は帰ってからや! ……お前ら、なんでそんなこそこそと! 昨日も帰って来んかったし」
「分かったからお兄ちゃん……痛いから放してよ! 帰るから!」
セーラー服姿の絵里氏はそう言った。
辻田氏は、絵里氏の腕をつかんだ手を放す。享氏の腕は掴んだままである。が、綱引きのようなことはやめた。享氏が立ち上がったのだ。辻田氏は、犯人を連行するようにして、享氏を引っ張って店から出て行った。絵里氏がそれにくっ付いている。
優と玲氏は、やや遅れて後から出た。私と笹口先輩も後に続かざるを得なかった。
連れて帰ると言うのは、どちらかの家へだろうか? だとすると、モータープールにもう一台余分な車を止める場所はあるのだろうか? という疑問を抱きつつ階段を駆け下りて行くと、既に軽自動車の運転席に辻田氏、助手席には享氏、そして後部座席には優と玲氏と絵里氏が収まっていた。
優が、こちらを向いて手を合わせ、「ごめん」と口を動かしている。辻田氏が、窓を開ける。
「享の車は後で取りに来るから。笹口とスミエちゃんは電車で帰ってくれ。すまん。……これ、電車賃な!」
辻田氏は、そう言って五百円玉を連続で二枚、上投げで投げてきた。
私は恐怖のあまり飛び退いたが、意外にも(と言っては失礼だが)、笹口先輩は右手と左手でそれを受けた。
それを見届けると、辻田氏は窓を閉めた。往路と同じようにぎゅうぎゅうに人間の詰まった軽は、駐車場を出て行った。
「凄いですねえ。ぱしぱし! と受けはりましたね」
「卓球部でスマッシュ練習のピン球を素手で受けてたからな」
と言いながら、笹口先輩は私に五百円玉を手渡した。
そこへ店の人が降りて来た。手にはカセットテープを持っている。
「これ、さっきのお客様のお忘れ物なんですが……」
笹口先輩がそれを受け取る。
A面には、「'93.12 ライブ at ファンダンゴ」と書いてあった。享氏のバイク事故翌日のライブのことだろう。
裏返してみると、B面には、「村下孝蔵」と書いてある。それは、朝、車の中で享氏が流していたテープなのだった。
その曲を聴いたのが同じ日の朝だとは思えない程、随分前の出来事であるような気がした。その裏に入っているライブも、半年前だとは思えなかった。そうなると、小学四年生の「きょうちゃん」が居間で「初恋」を聴いていた事実など、砂に埋もれた化石だ。
私がそのテープを眺めていると、笹口先輩は、
「おお! これはひょっとして、『初恋』っちゅう曲を歌てる人か?」
と大声で言った。私はその大声に驚いて一瞬たじろいだが、負けじと大きな声を出した。
「そうですよ、ご存じなんですか! 名曲ですよね!」
「これ、持って帰ったろ。あー懐かし」
「持って帰りはるんやったら、ダビングしといて下さい。聴いてみたいんです」
などと言いながら、私と笹口先輩は、駅へ向かって歩いて行った。
私は、電車の中で、その曲にまつわる話を全て笹口先輩に喋ろう、と思った。享氏のことも、辻田氏のことも、絵里氏のことも、喋っても構わないであろう。この、白々しい出来損ないのドラマのようなあらゆる出来事を!
「中里君が村下孝蔵聴くとはなあ。いつからなんやろ。バンド解散してしもて、こういう気分になったんかいな?」
「いいえいいえ。それはですね」
私は、早くも駅の外から語り始める。
テープのお蔭で、辻田氏に対する腹立たしさは、跡形もなく消えてしまっていた。
時計を見ると、遠い昔、うさぎ公園へ行っていた時刻であった。途端に、急激に幼い日々に押し戻されたような気分になった。 私が幼稚園児であった頃など、ついこの間ではないか。あれからたったの十三年しか経っていないのだ。私の精神年齢は、あの頃のまま止まっている。今すぐにでもうさぎ公園に遊びに行きたい、などと思うのだ。
そんな私には、享氏と絵里氏の心情が理解出来ない。二人は一体何をしようとしたのか。
もやもやとした頭の中で、“浅い夢だから 胸をはなれない”と、「初恋」が巡り始める。それによって私の心にもたらされるのは郷愁であって、初恋の記憶ではなかった。
私は未だに初恋なるものがどういうものなのかすら、分かってはいない。一体いつになればこの歌詞を真に理解出来るようになるのやら、全く見当がつかないのであった。
初恋とは