金鎖の呪縛

なみえは、その日不思議な人に会った。自分の中学校の近くの塾に勤めているという、広川と名乗る男に。明日誕生日の幼馴染、文菜へのプレゼントを買うために、市街地へ出たときだ。
男は、二十歳過ぎくらいで、肩にかかるややクセっ気のある黒髪を首の根元で結び、細いシルバーフレームの眼鏡をかけていた。目じりは垂れているが、目が悪いからか少しきつい目つきの男。肌は白すぎず黒すぎず、焦った様子で掴んできた手はややごつい。「自分は、本当に怪しいものじゃないから」と言って話しかけてきた。そのときに差し出された名刺を見返しつつ、勉強机とベッドのみという殺風景な部屋でなみえは眠りにつく。

「おはよう!なみえ、学校行こ!」
 朝七時五十分、幼馴染の林文菜がなみえの家を訪れる。文菜は、小さい頃からずっとなみえの近所に住んでいる。髪の毛はやや色素が薄く、日に当たるとほんのり茶髪の、肩にかからない程度のボブカット。彼女は、とても明るく、スポーツ万能で、成績優秀なこともありクラスの中心に立つタイプだ。
でも、スポーツや成績の良さを言うと、なみえのほうが断然上だ。だが、大きく違っているところ…それは性格。明るく、人当たりのいい文菜に比べて、なみえは無表情で口数も少ない。
「おはよう。…今日からテストだけど。」
 なみえは淡々と話す。学校のときのなみえは、黒髪サラサラストレートのロングヘアをポニーテール。色白だが、顔の血色は良く、頬はピンク色。
湊中の制服は、冬はブレザー、夏はグリーンベースのチェックのスカートにシャツにスカートと同じ色合いのリボンタイ。男子は、同じ柄のズボンとネクタイである。なみえは、半そでのシャツだが、文菜は冬用長袖シャツの袖を巻くって着こなしている。合服の季節には、さらにベストを身に着けたりするが、夏本番ともなると、その格好のものは数えるほどだ。
「あ!そっかぁ。三十分遅れでよかったんだった」
淡々と話すなみえに対し、文菜は笑顔で応える。
「うん。」
 なみえが無表情なのには訳がある。
「…今日もなみえ一人?」
家の鍵をしめるなみえを見て、文菜が聞く。
「うん。」
「そっか。…二人ともおえらいさんだもんね。忙しくってあたりまえかぁ!」
そういいながら、文菜はなみえの家を見上げる。木造建築数十年の平屋一戸建て。ちょっとした門構えがあるが、外から中の様子は目隠しのガーデニングで玄関はすぐには見えない造り。文菜はいつも、門構えを越えて、玄関先まで入り込みなみえを誘う。一見、広くて立派な家だが、そこに家族全員がそろうことはほとんどない。なぜなら、なみえの両親は揃って、世界的に有名な会社の社長であるからだ。
仕事が忙しく、家を空けることの多い両親は、なみえを少しでも危険から遠ざけるため、姓は母親の旧姓を名乗らせ、生活させている。そして、母は娘に感情を抑えるように言いつけてきた。何事が起こっても冷静でいられるように。幼少時よりそんな教えを説かれていたら、無表情にもなるだろう。そんなことを考えながら、文菜はなみえの家に背を向ける。
「じゃ!行こうか!」
もちろん、なみえの諸事情を詳しく知っているのは、幼馴染の文菜だけ。幼い頃からの、なみえの家庭の事情を知る文菜は、なみえの唯一の理解者なのである。
「あ!ねえねえ、なみえ!今日ね、違う人も一緒に帰るけどいい?」
「うん」
「じつはさぁ~。昨日同じクラスの中井に告られちゃって、付き合うことになったの!!なみえに電話したかったんだけど、塾で帰りが遅くなっちゃって…」
返事はないが、小さく頷いているのを確認して文菜は続ける。
「あ、塾って言えばさぁ、私Fゼミ行きだしたでしょ?なんか、先生おもしろいし、結構楽しいよ!」
 なみえはフッと思い出した。昨日会った人のことを。Fゼミに勤めていると言っていた。
「あ、でもかなり厳しい先生もいるんだよね。基本的に、事務なんだけど、臨時講師みたいな感じで、たまに授業やるんだど。あ、ほら、なみえ覚えてるかな~説明会のときに話してた人なんだけど!なみえが分かりやすかったって言ってた…」
「…眼鏡かけた」
雰囲気は違ったが、なみえの中で、昨日出会った男性と、Fゼミ講師が一致する。そういうこととは露知らず、文菜はマイペースに話を進める。
「そそ。ほかの子達はカッコいいって騒いでるけど…私はあんまりなんだよね。」
「どうして」
文菜はあまり好きではないなら、いい人ではないのかもしれない。身元は分かったが、自分の今後の参考のため文菜の意見を聞く。
「ん~、話のネタがね。眼鏡かけてて、いっつも表情変えずに厳しいことばっか言ってるくせにあれだもんなぁ…」
話す内容が駄目なのだろうか、なみえは参考にしていいものなのが迷う。
「しかも、私の好きな英語担当のかわいい城川先生といい感じ系の噂までたってるし…。はぁ…」
いつもの事ながら文菜優位で話をしつつ、二人は学校へと歩を進める。

「ちょっと!なんであんたも一緒に帰んのよ!?」
「うるせーなぁ。俺は、中井に用事があるんだよ。」
テストは午前中で終わり、正午をまたぐくらいの時間帯。なみえと文菜、それと中井とともに帰路を同じくするのは、新垣薫。中井の友人でクラスメイトだ。
中井も新垣も身長は百七十センチ以上あり、学年では高いほうに分類される。文菜の彼氏となった中井和哉は、短髪黒髪。陸上部で体を造ってるだけあり、なかなか締まった体をしているが、着やせするため制服の上からでは分からない。また、新垣は陸上部の幽霊部員であるため、茶髪で適度に伸びた髪。にも関わらず、人知れずトレーニングをしているのではないかと思う程度には、筋肉が付いているため、中井よりはがっちりして見えるという出で立ち。
「さいあくぅ…。だいたいなんなのよ、用事って!」
新垣の登場で、文菜はご機嫌斜めの様子である。
「…。明日のテストのヤマ聞くんだよ。てか、舞束さんも一緒に帰ってんじゃん」
新垣は新垣で、ぶつぶつ文句を言う文菜に対して、ふてくされながら、少し反抗的態度をとってみているようだ。
「何言ってんの、なみえはいいの!一人で帰ってて、誰かに襲われたりしたらどーすんの!なみえはかわいーんだから」
文菜は、そんな新垣の態度にクワッと噛み付く。
「うむ…なるほど、舞束ってカワイイよな。おとなしめだけど。」
文菜のひどい態度には反応せず、納得したように新垣は答える。
「確かに。舞束さん、可愛いね」
新垣の言葉に中井は腕を組み深々と頷く。文菜は二人のその反応に、うんうんと、満足げに頷く。そんな文菜を見て、中井はふと、何かを考えるように空を仰いだ後、文菜にそっと耳打ちする。「でも、俺には文菜のが可愛いよ」と。キザな中井の台詞に、文菜は密かに赤面する。
そんな三人のやり取りをよそに、なみえはあっと足を止め、かばんの中に手を入れる。
「文菜。はい、これ。誕生日おめでとう。」
「あ!私もすっかり忘れてた。テストに気をとられ…。なみえぇ!ありがと♡」
差し出されたプレゼントを受け取りながら、文菜はお礼を言う。
「うん」
どんな返事をするときも、なみえは笑わない。二人のやり取りを見ながら、中井と新垣は、そんななみえに違和感を覚える。違和感を覚えつつ、中井はん?と我に返る。
「え!なに、今日誕生日?マジかよ~俺としたことが…おい、文菜!今からちょっとどっか行こう!」
「本当!やったぁ♪そしたら、新垣はちゃんと、なみえ送ってってね!バイバイなみえ!また明日」
唐突な中井の提案に、文菜はすぐに応える。
「バイバイ」
二人は嵐のごとくその場から去って行った。思いついたら即行動なのは、いつもなのだろう。なみえは特段驚いた様子もなく、文菜に手を振る。新垣は、そんな二人の急展開についていけず呆れている。
「なんて、勝手な奴らだ…。あ!テストの山は?はぁ…まぁ、きちんと送らせてもらいます!」
新垣は、ため息をつきつつ、なみえに笑顔を向ける。
「…すいません。勉強しますか」
「え?」
「テスト勉強…」
「え!マジ?嬉しい!それだったら、駅前のファミレス行こう!」
新垣は、鼻歌混じりで歩き出す。

「なにがいい?」
「ん~、指環!」
なみえと新垣と別れた二人は、電車に乗って少し遠出してきた。
「指環…。まぁ、いっか。…ペアにする?」
「え…なんか恥ずかしいって…。でもまぁいっか!」
「おぅ、記念ってことで」
包装を待っている間、中井はふと先ほどのことを思い出した。
「そぉいやさ、舞束さんなんだけどさぁ…」
「うん…?」
「今日、初めて話して思ったんだけど、えらく無表情だな。なんとなく知ってはいたけど、文菜と喋るときも変化ないから驚いた。」
「うん…」
話しを振って、中井は文菜をチラッと見る。少し、文菜の顔が暗くなるのを感じ、中井は少し焦り気味に話を修正しようとする。
「ま、文菜は慣れてるみたいだけど?」
「…そりゃあね!なんたって、幼稚園前からの付き合いだもん♪」
文菜の表情が、明るくなり中井は少しホッとする。
「マジで?すげぇじゃん!その頃からずっと?」「ん~、たまに泣いてたね…で、少したまに無邪気だった」
「そんだけ?」
「そ!小学校上がった時点で、もぅすでにあんなだったよ。」
「ふーん…」
中井はそれ以上追及することなく、そう呟いた。

なみえと新垣はというと、ファミレスで、次の日のテスト勉強を終え、帰路についていた。
「何回も言ったけどさ、マジすげーな!すっげ、わかりやすかったし♪ホント、ありがとう!明日はいい点取れそうな気がする」
「いえ、明日も頑張りましょう」
道中、会話はとても少なかったが、なみえの態度や、ちょっとした言葉に接して初めて、新垣はなみえのことがわかった気がした。
彼女は、顔に表情を出さない分、わずかしか発することのない言葉に、かすかに感情をこめているのだ。
送り終えて、自分の帰路につき新垣はそんなことを考えていた。
「やべぇ…ハマリそぅ…」
新垣は、口を手で押さえて呟く。

テスト明けの次の日の放課後。文菜は自分の所属する吹奏楽部に顔を出した。文菜のパートはパーカッションで、部長をしている。
なみえも、同じ吹奏楽部に所属していて、パートはフルート。だが、受験勉強もあり、顔を出してもすぐに帰ることが多い。
今日は帰る直前に、文菜から部についての相談事をもちかけられて、話をしていた。部での問題ごとは、いつもなみえの的確な意見のために解決してしまうため、影の部長的存在だ。そのため、部内でなみえは密かにカリスマ性を発揮していた。
そうこうして話しているうちに、帰宅時間としては中途半端な時間となり、学校の回りは生徒が激減した中、なみえは一人で帰っていた。
そんな中、人通りの少なくなる公園の前の道に差し掛かったとき、ダークグリーンのスポーツカーのような車が停まった。全面の窓が真っ黒なため、中の様子はうかがえない。
なみえは、自分に対する視線を感じ、車の運転席に目線をやる。だが、自分への悪意を感じなかったため特に気にすることもなく、そこを通り過ぎようとすると、その車のドアが開き一人の男が出てきた。
「こんにちは!俺のこと覚えてる?」
突然姿を現した男は、品のいいスーツ姿に革靴、長髪を首元で一つに結びフレームなしのメガネをかけていた。
「えぇ。Fゼミの…広川さん」
なみえは表情を変えることなく応える。
「そぉ!正解♪今日は一人?」
広川と名乗る男は、先日会ったときの印象とは異なるため、なみえは少しだけ違和感を覚える。
「はい…?」
今日はスーツだからか、となみえは思い至る。
「そっかぁ~、いつもこの道通ってるの?」
そんな、なみえの思考を知ってか知らずか、広川は車にもたれ掛かりニコニコ笑っている。
「はい」
「そうか。俺も、しょっちゅう通るけど、初めて見つけたよ、偶然だね。」
「…」
どうにか言葉のキャッチボールをしようと試みる様子が伺えるが、返事がないため、広川は空を仰ぎつつ、少女のほうに視線をやると、どことなく心を見透かされているような目で見られていることに気がつく。
「あ~ごめんね。また、こんな風に話しかけちゃって。俺、これから仕事だから行くね。」
空回ってる自分に憔悴しながら、広川は車へ向かう。
「あの、塾の説明会で話されていた方ですよね?」
その言葉を聞き、広川はバッと振り返る。
「うん。思い出してくれた?」
「はい。あのときの模擬講習、とても分かりやすかったです。」
広川はこみ上げてくる感情が抑えきれず、片手で口を押さえる。
「あ、りがとう…、思い出してくれて」
「…」
自分に向けられた満面の笑みに対して、なみえは言葉を失い、頬が、胸が温かくなるのを感じる。
「じゃあ…またね!」
そう言い、去っていく広川の車を、なみえは見えなくなるまで見送った。

「今日の午後の予定変更だ。5限目は自習!テスト直しやれ!いいか?6限はホームルームで…来月の修学旅行の部屋割りなどを行う、詳しいことはそん時言うから。はい、じゃあ連絡おわり!」
 午前の授業が終わり、連絡事項を伝えきった担任はそのまま教室を出て行った。文菜は、弁当を手に持って、席を立ちなみえのところへ向かう。
「ねえねえ、なみえ!部屋とか一緒にしようね!」
文菜はなみえの近くの席の椅子を陣取り、せっせと食支度を進める。
「うん」
そう答えながら、なみえもかばんから弁当を取り出し、支度をする。
「よし!んじゃ食べようか。いただきま~す」
「なぁ、俺らも参加していい?」
 なみえの隣の席に中井と新垣が陣取った。
「てか、あたしらの了承関係なしじゃん、すでに座ってるんだから」
「まぁ、そんな冷たいこと言うなよ。いいよな?なみえさん♪」
ニコニコしながら新垣はなみえに話しかける。
「お前のノリってなんでそんな軽いの?」
新垣の言葉に中井が突っ込む。
「まーまー。あ、俺聞いてなかったんだけど、5時間目なにって?」
新垣が中井に向かって問うが中井もちゃんと聞いていなかったらしく、首をかしげる。
「テスト直しだって~」
それを見かねて文菜が応える。
「ぅげっ!マジで!?めんどくせ~…んまぁ、俺よか新垣の方が大変だろうがな」
中井は、弁当を開けつつ、ニヤニヤしながら新垣に視線を送る。
「いや!今回の俺は一味違うぜ!な?なみえさん?」
ふふんといった感じで、新垣は中井を見返す。
「え!なに、どーゆうことだよ!?」
中井の反応をよそに、新垣は鼻歌交じりでコンビニパンを開ける。
そんな会話が繰り広げられている中、なみえは、軽いってなんだろう…と考えていた。
「ってかさぁ、今回ちょっとやばいんだよね~数学、マジむずかしくなかった?」
「あぁ、平均点悪かったね、確かに。」
文菜の問いかけに、中井がさらっと応える。
「…ねぇ、中井って何気に頭良いよね?数学何点だったわけ?」
少しむっとしながら、文菜は問う。それを聞きながら、なみえと新垣は黙々と食事を進める。
「俺?82だったけど。」
それを聞き。新垣はぶっと吹き出す。
「おま、頭良いとは知っていたが、それほどまでとは…数学の平均点40くらいじゃなかったか?」
「うん、でも学年一とかじゃねぇしな~。っつか、別に文菜だって悪かないだろ?」
「でも、中井よか下よお…」
中井の点数を聞き。吹き出す新垣を尻目に、文菜も肩を落としていた。
「何点だよ」
新垣は詰寄るように問いただす。
「75!あの、ケアレスミスがなければ…」
「…お前らなんて嫌いだっ。」
一人で拗ねている新垣をよそに、中井はなみえに視線を向ける。
「舞束さんは何点だったの?」
「…100点…です」
唐突に自分に向けられた質問に対し少し驚きながら、なみえは返事する。
「やっぱり…。」
中井はガクッと頭を抱える。新垣と文菜は何がなにやら分からず、中井の次の行動を見守る。
「大抵の頭いいやつの点数とか聞くけど、一番がなっかなか見つからないな~って思ってたんだよ。後は、まったくこれまで話したことない人だろうな~って思ってたわけ。だって、うちのクラス、絶対一人は満点がいるんだぜ?うちのクラスまでは絞り込んでたんだよ。学年トップは舞束さんっしょ!?」
べらべらと、これまで溜まっていたものを吐き出すかのように喋りつくし、中井は若干満足げになみえに問いかける。
「えぇ…まぁ」
そんな中井に圧倒され、なみえは小さく頷く。
「へぇ~こないだ教えてもらった感じでは賢いとは思ってたけど…やっぱそうだったのか~」
「「教えてもらった?」」
新垣の言葉に対し、文菜と中井が反応する。
「うん、お前らが買い物行った日。俺が中井にヤマ聞こうとしてた日だよ。教えてもらったわけ。おかげで、数学60点あったもんね!」
鼻息を荒くしながら語る新垣を、文菜と中井はニヤニヤしながら眺める。だが、新垣は舞い上がっているため気がつかない。そんな中、なみえがカチャっと箸を置く。
「あれ、なみえどうしたの?」
その言葉に、自然、新垣と中井の視線もなみえに注がれる。
「ちょっと落ち込んでるみたい…今回テストあんま良くなかったの?」
「うん。」
どのポイントで分かったのか理解できず、男二人は文菜に対し、尊敬の眼差しとなる。
「そっかぁ~、あ、ちょっとなみえのとこ親が厳し目なのよ」
事情を知らない二人に解説を入れ、なんとも気の利いた女の子である。
「へ~大変なんだね~。でも厳しいからって、いい点取れるとは限らないし、やっぱ努力してんだよな。すげ~な~。俺も頑張らないとな~。」
しみじみと語る中井に対し、なんとなく文菜と新垣は顔を見合わせつつ話の深追いを避けた。

そのころの、教室の別のところでの出来事。
「ねぇ!あれやばくない!?こんなとこ紫がみたら…」
「え!なにが!?」
「奈美、知らないの?紫、新垣君好きじゃん?」
「うん」
教室の片隅で、二人の女子生徒が文菜らの集団のほうを見て話している。セミロングのふわふわパーマを二つくくりにし、長袖シャツは第二ボタンまで開き、だらしなくリボンタイを結び、今風の堀口奈美。ショートカットで、半袖シャツにリボンタイをしていないさばけた感じの根元沙耶架の二人である。
「…紫、容赦ないのよね…。好きな子一緒になっただけで、いじめにかかんのよ」
「うそぉ!んじゃ、あんな仲良さ気にしてたら…文ちゃんやばいよね!」
「そぉなのよぉ…。って、違うから!やばいのは舞束さん!思わず乗り突っ込みしちゃったじゃん!」
「え!」
四人の方に背を向け、二人向き合って改めて話し始めた。
「だから、文は中井と付き合いだしたじゃん?」
「マジ!?」
「奈美知らなかったの?あの二人の右手の薬指見てみ」
熱く語る、沙耶架は脱力しつつ、もう一度四人の方に視線をやる。
「ほんとだ!ペアリングしてる!羨ましい」
「もう!論点ずれる!」
向けた視線を戻し、話を元に戻す沙耶架。
「ごめんてぇ。それで?」
とくに悪びれることなく奈美は話を沙耶架に振る。
「だから、なんか知んないけど、舞束さんと新垣君仲良さ気じゃん…?そぉいやあたし舞束さんとはしゃべったことないんだよね」
「うそ!奈美ね、何回もあるよ!出席番号前後だもん!すごいいい子!かわいいし」
「そぉよね。おとなしいけど、整っててきれいな顔してるよね~」
そう言って、二人はまた四人のほうに目を向けた。
「ちょっと!なにあれ」
それまでになかった声がして、二人は声の聞こえるほうに顔を向ける。
その先には、四人のほうに闘争心をむき出しにして目を向ける今まさに話題に上がっていた紫の姿があった。
坂井紫は、やや堀の深い顔立ちで、ハタから見るとキツい性格にとられがちである。実際、多少はきついのだが。肩にかかるくらいの長さの髪をサイドアップにしている。制服は半袖シャツに紺のカーディガンをあわせてきている。
二人は、どんなとばっちりがくるのかと待ち構えていたが、紫は四人の集団から視線を逸らすと、それ以上なにも言わなかった。

「じゃあ、まず部屋割りから決めろ。男子も女子も二人部屋だ!それから…自由行動時と、USJでの行動時にいっしょに回る人をこれから回す用紙に書いていけ。何人でもいいぞ。こっちが把握するだけだから。とりあえず、部屋のペアが決まったら俺んとこに来い!」
 先生が話し終わると同時に、教室がざわめく。
「なみえ!同じ部屋にするよ♪」
「うん」
「あ、今日、部活出てく?」
「ううん。…休む…。」
なみえは、そう答えた自分にハッとした。帰宅中に、初めて広川と会ってから、数回同じタイミングで広川と再会している。なんとなく、今日も会えるのではないかと期待する気持ちが入り混じっていた気がする。
「了解!…どしたの?」
なみえの様子に、文菜は違和感を覚える。
「ううん」
少しあわてた様子だったが、いつもどおりの反応に戻ったので、文菜はそれ以上追求せずに終わった。

学校が終わって、靴を履き替え帰路につくなみえの姿がある。
その姿を、部活中の中井と話していた新垣が見つける。
「あ、なみえっち…」
「あ?お、ほんとだ。よく見つけたな。結構距離あるぞ」
「…」
「愛だな…」
「…。は!?」
「俺にはわかる…!!」
腕組みし、大きく頷きながら中井は新垣の肩に手を置く。
「ちげーよ。お前と一緒にすんな!んじ、俺帰るわ」

「…近いうちに、部活顔出せよ」
立ち去る新垣に、中井はそう言った。
「…そのうちな」
その小さな呟きが、果たして中井まで届いたのかは分からないが、新垣は振り向きもせずにその場から離れ、そのままなみえのあとを追った。

一方、なみえはというと、少し早歩きになりつつ校門を出た。出てすぐのところに、ダークグリーンの車があり、なみえは驚く。ゆっくりその車に近づくと、助手席側の窓が開き、広川が顔を覗かせる。
「乗ってく?」
にやりと広川は笑う。
「…はい…」
数回会ううちに二人は少しずつ打ち解けていた。広川は、運転席側から身を乗り出し、助手席側のドアを開ける。
「どうぞ♪」
「ありがとう…」
「うん…あ、誰かいる。ごめん、発進させるね」
「あ、はい」
発進させながら、広川はバックミラーを覗き、あれはたしか新垣だな…あぶねー見られるとこだった、などと考えていた。

なみえを追いかけて校門まで出てきた新垣は、ちょうどなみえがダークグリーンの車に乗り込むところをみた。
「あいつ、お迎えつきか?…いや、あの車どっかで…。気のせいかな?」
そう、ぶつぶつ粒いやいてるうちに車は発進した。

「突然、車で現れたから驚いた?」
「えぇ…どうされたんですか?」
「いや、しばらく午前、午後分けて出勤することになってさ、今空き時間中なわけ。家帰っても暇だしと思って、来てみちゃった。よかった、乗ってくれて。ちょっとしか話したことないし、ちょっとドライブにでもつきあってよ」
ゆっくりハンドルを切りながら広川は言葉をつむぐ。
「あ、ねぇ、部活はしてないの?」
「吹奏楽部です」
答えながら、なみえは広川の運転がとても丁寧だなぁと思う。
「あれ?うちの塾に吹奏楽の部長いたな…」
「文菜ですか?」
「あぁ、そう!林!!仲いいの?」
「幼馴染です」
その返事を聞き、広川は首を傾げる。
「…。ん~…俺、別に先生でもなんでもないし、敬語じゃなくていいよ」
「え、あ…はい」
「ん~、そこはウンでいいかな」
ニコニコしながら、広川はなみえを見つめる。
「はい。…あ…」
突然の提案に、なみえは戸惑いながらも、言われたとおりに振舞おうとする。
「あははっ。少しずつ打ち解けてきたしね。ちょっとずつ、普通に喋れたらと思って」
広川は、明るく笑う。
「…」
広川の笑顔に、なみえはまた、胸の奥が暖かくなるのを感じる。
「ところで、何の楽器やってんの?」
広川は、ハンドルの上に両腕を乗せて少しうつぶせになって、笑顔でなみえに話しかける。
今度は少し動悸と、頬が熱くなるのを感じ、なみえは広川の顔から目を逸らす。すると、視線の先には広川の大きな手があった。きれいな手だなぁと、目を細めながら、なみえは手からも目を逸らす。
「…フルート…」
広川は、突然目をそらしたなみえを不思議に思ったが、また、遠くを見ているなぁと思う。
そして、キレイな瞳だなぁと、なみえの横顔を見つめる。
「あ~なんかわかる。でも、今日も部活やってんじゃないの?」
広川は素朴な疑問をなみえになげかけた。
「3年に入ってからは少しだけ顔を出す程度で…。それに今日は、早く帰ろうと思って…」
「あれ、ごめん、なんか予定があったの?つき合わしちゃったね。大丈夫?」
「いえ…広川さんと、会えるかなって…」
知らない人が自分に近づくことが危険であることは分かっている。だが、何度か会ううちに、少しずつなみえの中の、広川へ対する懐疑心も薄れてきている、というのが事実だ。
「え…、んじゃもしかして俺に会いたかったってこと?」
広川の顔は驚きとともに、心持ちうれしそうだ。
「かな…?」
なみえはわずかに上目遣いになる。
広川はその彼女のしぐさにドキッとする。
「広川さん?大丈夫ですか?顔が赤くなってますよ」
「あ~…」
そう、うなだれながら広川はなみえのほうに向けていた顔を前に向け、そのまま突っ伏した。
「?」
なみえは首をかしげている。
「俺さ…、」
広川は少し顔を上げた。
「どんどん好きになっていってるみたい」
そう言ってなみえに顔を向けた。とても真剣な表情で…。
なみえは、胸がドキッとするのを感じた。
「…」
「初めはね、見た目かわいいなって…この子の笑顔が見てみたいって思ったんだ。でも、それはただのきっかけで、今はそれだけじゃないんだ。もっと、もっと君の事知りたいって思う。」
まだ、動悸が続くのを感じながら、なみえは口を開く。
「…好きって、どんな気持ちですか?」
広川はふっと笑った。なみえは尋ねるとき心持ち上目遣いになるらしい。
「…いつまでも敬語の人には教えません!」
それまでの空気を一掃するように、広川は明るく言う。
「えっ」
「あははっ。うそうそ♪人を好きになったことないの?」
なみえはなにかを考えているようだ。
「う、ウン…」
広川は、なみえが頑張って敬語を抜こうとしていることに気づき、ほんとにかわいーなぁと目を細める。
「ん~そうだね、例えば…その人の事を考えると胸が熱くなるとか、もっともっとその人を知りたい、一緒に居たいとか、気がついたらその人のことばっかり考えちゃったり、その人が他の異性と話したり、仲良くしていたりするととてもいやな気持ちになる、…これは嫉妬っていうんだけどね。たとえばだけど、こんな感じかな?度合いは人それぞれだし、形もそれぞれ違うんだけどね。あと、あえて言うなら…その人に触れたいとか、触れられたいとか…かな。」
広川はなみえのほうをチラッと見る。
「なんとなくわかった?」
「は…。うん…言葉では…。」
「そか。」
広川は、一生懸命考えるなみえの姿を見て表情が和らぐ。
「そぉいやさ、今日なんかあったの?」
「なんか…?」
「うん、嫌なことでもあったのかなって思っちゃってさ」
「どう…して?」
「ん~…なんとなく?」
「あ、成績が少し落ち…、ちゃって」
ためらいがちに話すなみえ。広川はとても柔らかく微笑む。
「点数どのくらいだったの?」
「合計…485点です」
「ん?5科目??」
「は、…ウン」
ガクッと広川はうなだれる。
「いつもどのくらいとってんの?」
「最低495点だったから…」
はぁ~っと広川はため息を吐く。
「いつも学年トップだったのは君だったのね…。今回の試験難しかったんしょ?なにやらうちの塾に通う生徒らが言い訳してたわ。なんか数学が極度に…」
「そう…だったのかな?私は、数学は満点だったんです…だったんだけど…」
「え!?満点って…平均点知ってる?38点だったよね!?」
「は、はぁ…」
なみえは目をパチクリとさせた。
「んじゃ、何がわるかったの?」
広川は脱力気味だ。
「国語です…今回の応用長文がよくわからなくて…」
「あ~、そんな問題あったね!現代小説の恋愛長文だ。俺はおもしろいなぁと思って問題見てたけど」
「う~ん…」
広川はなみえを見た。なみえは少しうつむき加減で悩んでいるようだ。広川に衝動が走る。
教えたい!15歳にもなって恋愛をまともにせず、恋愛に関しては全くの無知である彼女に。人間の醜さ、穢れを知らない彼女にすべてを教えたい!やはりこの瞳の輝きは本物であったのだと、彼は確信した。
「教えてあげようか?」
広川は、自分の言ったことにハッとした。だが、口は欲望のままに動く。
「え?」
「恋愛について…」
そう行った瞬間なみえと目が合った。今度こそ広川は我に返った。なみえの目はすべてを見透かしているようだ。広川の邪念のようなものが一気に引いた。
「あ…いや、勉強!差し支えなければ俺の家とかで」
「…」
「いやならいいんだけどね!ほら、こうやって、車の中で話すよりも落ち着くかもだし、勉強とかしてたほうが得した気分ジャンね♪」
「うん…」
どことなく自然に、なみえの口から同意の返事が出た。

次の日、なみえは新垣と一緒に帰ることとなった。
新垣は、昨日同様なみえを追っかけて、一緒に帰ることに成功した。
一方なみえは、広川が現れないことを疑問に思っていた。
次の日も、広川は現れず新垣と一緒に帰った。
なみえの帰り道には、二日前に車を停めた公園がある。そこにさしかかる少し前に、二人の後ろを車が一台通り過ぎた。特に意識もしていなかったので、二人は振り返ることもせずに、そのまま歩き続けていた。
だが、なみえがふいに立ち止まった。それに気づいた新垣も立ち止まり、なみえを振り返る。
「どーしたの?」
「…」
なみえは車の進行方向を振り向いていた。だが、当然車はすでに通り過ぎてしまっている。
「?なみえっち、どしたの?」
「あ、いえ…」
視線を感じたな、となみえは思った。
「すいません…」
「いやいや」
と、新垣は話の続きをはじめた。
なみえは、家柄的に、とても自分に向けられる視線に敏感だ。特にそれは、外に出ているときに発揮される。
気のせい…かな、と考えなみえはまた、新垣の話に耳を傾ける。

次の日、なみえは部活に出ることにした。
「え!今日なみえ部活出てくの!?やった♪後輩さんたち喜ぶよ!」
「うん?」
「ん?今日なみえっち、部活出るの?そしたら帰り俺一人じゃーん!」
「は!?あんた、なみえと一緒に帰ってたの!?」
「うん?」
この会話は、放課後の靴箱前で行われている。
「…」
文菜はガッと新垣の襟首をつかみ、なみえに背をむけた。
「ちょっ、なんだよ!?」
「あんた…、なみえのこと好きなの?」
文菜は小声で聞く。
「い、いや、よくわかんねーけど…」
新垣は本気で戸惑った表情をする。それと同時に、掴まれた新垣の襟首から文菜の手が離された。
「ふーん…」
文菜は、そう呟いたあとニヤッとした。それと同時になみえが文菜に声をかける。
「文菜、私先に行ってるね」
文菜は普段どおりの笑顔をしてなみえを振り返った。
「あーごめん!そうして!!」
そう答え、文菜はまた新垣に目をむける。
「なみえちんねぇ…、結構モテルノヨ」
「え?」
「部活では、陰ながら至上の人気をほこるのよ」
「マジッすか!」
「うんうん、あのねー…2年の超人気ある垣本君知ってる?」
「あぁ、お前と一緒のパートのやつだろ?女子からきゃーきゃー言われてる」
新垣は明らかに何かを思い出すときの表情をして答える。
「そぉ!あの子ね~何気になみえ狙いよ」
「マジかよ!」
「うんうん~あのね~めちゃくちゃかわいいあの子…裏も表もなく素直でいい子よ」
「そうなのかぁ…」
文菜はチラッと新垣を見て、バンバンと彼の背中をたたいた。
「いってーなぁ!」
なにすんだよという表情で、新垣はをにらみつける。
「まぁまぁ!あんたもいい加減、部活復帰したら?後ちょっとでみんな引退よ」
その言葉をき、新垣は口を閉ざす。今度は、肩をポンポンと軽くたたき、文菜は笑顔を作る。
「じゃあ、あたし、行くね!」
「お、おう。じゃーな」
新垣も閉ざした口を開く。
「ばいばーい」
立ち去る文菜を見送りながら、部活かぁ…と、考える。
新垣は今現在、陸上部の幽霊部員である。中井とは、1年から仲がよく、部に勧誘したのも中井だった。2年の初めの頃に入部した新垣であったが、途中入部に加え、なかなかの好成績を残したため、先輩に目をつけられ、部に居づらくなったことがきっかけで、顔を出さなくなった。先輩の居なくなった今では、部に顔を出さない理由はない。だから、最近になって、中井もすこしずつ新垣に部活へ来るよう促すようになった。正直、ただのサボり癖のようになってしまっているのだ。
要は、後一歩のきっかけがほしい感じなんだよなぁ…。などと考えながら、校門を出て行くと、以前なみえを乗せていた、ダークグリーンの車が見えた。
あれ?なみえっち迎えに来てた車だ。なみえっち部活って知らないのかな?教えたほうがいいのかな…などと考えながら、近づいていくとその車はエンジンをかけ、発進した。
「あれっ?んま、いっか。関係ないし」
遠ざかる、ダークグリーンの車を眺め、新垣はそう呟いてまた歩き出した。

文菜が部活に顔を出すと、部室になみえの姿はなかった。
吹奏楽部では、各パートの練習は学校中のいろんなところに散って行っている。今は6月の末だが、夏休みに行われる地域のサマーコンサートや、コンクール、秋の文化祭に向けた練習を行っている。3年生は、この10月の文化祭の発表で引退だ。なみえの担当するフルートは、部室と同じ階の廊下で行っている。だが、そこにもなみえはいない。
「はぁ。まぁ~たひっぱりだこなわけね」
そう、呟いて文菜は、自分のパート…パーカッションのいる、音楽準備室のドアを開けた。なみえの姿はそこにあった。例の、垣本君と二人でドラムにむかっている。ドラムはコンサートで使う予定だ。賑やかな、ライブのようなものをするつもりでいるのだ。どうやら、他の子達は遅れてまだきていないらしい。
「あ!こんにちは!」
垣本君は、文菜の存在に気がつき挨拶をしてきた。なみえも、文菜を振り返る。でも特になにも言うことなく、また垣本君のほうを向いた。文菜はとくに気にすることもなく、なみえに話しかける。
「どぉ?うまくなった?」
「あと、3歩」
そう言って、垣本君の楽譜に印を入れていった。
「ここがずれるから、気をつけるように」
「あ!はい、わかりました!!」
なみえは荷物を持ち、準備室を出ようとする。どうやらまだ、部室に到着できていなかったらしい。
「ありがとうございます!」
なみえは、足を止めて、垣本君のほうを振り返った。
「ドラムは…演奏の中で、役目としてとても大事な位置にあるから頑張って。あなたならできるよ。前よりも確実に良くなってる」
そう言い残してなみえは準備室を出た。垣本君は嬉しさのあまり、声が出ないようだ。その様子を文菜は見て、ふぅっと鼻で息を吐いて垣本君を振り返った。
「よかったね」
そして、ニコッと笑った。

その後、なみえは行く先々でつかまった。
部室内では、クラリネットパートが練習している。この時期特に、勉強の忙しさや怠け心から、3年の出席率が低く、どのパートも1,2年だけで練習している状態である。
「あ!なみえ先輩こんにちは!!」
「こんにちは」
「みてもらってもよろしいですか!?」
「えぇ」
あまりの勢いに、なみえはノーと言えずにクラリネットパートの練習を見ていた。そして、パートの一人ずつの隣へ行って、それぞれにアドバイスをしていく。そして、1度みんなで合わせてもらって、パート全体へのコメントを終えて、自分のパートのところへ行こうと部室を出ようとしたとき、今度は部室の下の階で練習を行っているはずのトロンボーンパートの子が、なみえの前に現れた。なみえの部活訪問の知らせは瞬く間に広がっていくらしい。
このような形で、なみえはすべてのパートにつかまり、結局自分のパートにたどり着けたときに全体合奏の時間になってしまった。
「なみえ先輩早く来てくださいよぉ…」
フルートパートの子が泣きそうになりながら言ってくる。
「ごめんね」

「では、今日の練習は終了でーす」
「「「お疲れ様です」」」
みんなでそう言い、楽器の片付けに取り掛かる。なみえは、フルートパートの子達を振り返った。
「今日練習見れなくてごめんなさい。それで、今の演奏を聞かせてもらった感想を言います」
「「お願いします!!」」
フルートパートのみんなは声をそろえて言う。
「全体的には、以前よりそろってきていました。ただ、難しい小節でのバラつきが気になります」
そう言って、立ち上がり、なみえはそれぞれの楽譜に印をつけていった。
「それぞれ、リズムの確認を行っておいてください。印のないところはできていました。では、お疲れ様」
「「ありがとうございます!」」
みんな、楽譜を見せ合っている。それぞれ、印のついているところは似通っているが、それは難しいところはみんな一緒、という理由でだが、実際みんな違う。文菜は遠目でその様子を見ていたが、彼女のカリスマ性はここにあるのだろうと、にっこりと微笑んだ。

フルートパートでは、片づけを推し進めながら、会話が弾んでいた。
「あ!ねぇ、話の続きしてよ!」
「ん、城川先生のやつ!?」
「え!なんの話??」
「うちの塾の話だよ」
「Fゼミだっけ?なーんだ、んじゃ、いいや」
「Fゼミ!?なになに??」
どうやら、フルートパート内に三名のFゼミ通塾者がいるようだ。
なんとなしに、なみえは聞き耳をたてている。そこに、帰り支度の済んだ、文菜が現れた。
「どしたの?あ、片してない子は手も動かして」
「あ、えとえと…昨日と一昨日、城川先生が広川先生の車に乗って現れたんです!」
「「え!?」」
その場の全員が固まった。なみえの手も止まる。
「なんか、すごく怪しいですよね!」
「う、うん…」
答えたのは文菜だったが、聞いていたみんながとても驚いている。
「普通にできてるって考えていいよね!!」
「そう…だね~。え~あたし、城川先生好きなのに~あんなののどこがいいんだろ!?」
「ほんとですよね~??」
「え~でも、私結構広川先生好きですよ?」
「マジ!?」
「だって、かっこ良いじゃないですか♪」
「「え~」」
それらの会話を背中に受けて、なみえはガタッと立ち上がった。その音を聞いて、文菜はなみえを振り返った。なみえはそのまま、楽器を準備室に行く。
「なみえ、どーしたんだろ…」
ぼそっと文菜は呟く。後輩たちはまだ、その話で盛り上がっている。文菜的には、なみえの今の行動は不自然だった様だ。そう考えた後、文菜は後輩たちを振り返る。
「はい!じゃあ、そろそろ帰る準備終わらしてねー!」

準備室に楽器を片付けしながら、なみえは先ほどの話を思い返す。準備室には垣本君がいて、彼はなみえの様子をうかがいながら、自分の使った楽器の片づけをしている。
女性の方といたから、昨日も一昨日も…来なかったのかな。そうだったら…
「いやな気分…」
なみえは思わず口に出して言った。だが、そのことにすらあまり気がついていないようで、なみえはまたボーっとしている。
垣本君は、今なみえが口にした言葉が聞こえなかったらしく、なんと言ったのだろうと考える。そこへ、片付けの終わったフルートの後輩さんたちが相変わらず先ほどの話の続きらしいものをしながらやってきた。
「でも、今日広川先生休みじゃない?やっぱ、明日の帰りにしない?」
どうやら、みんなで現場を目撃しようとしているらしい。なみえはその会話を聞いて、急いで準備室を出た。もしかしたら、いるかもしれない…そう思い立ってなみえは、自分のかばんを持った。
「文菜先帰るね」
そう言って、なみえは部室を出た。
「え!?」
文菜は驚いたようだったが、なみえを止める暇もなく走り去ってしまったためそれ以上何も言わなかった。
「どーしちゃったのよ…なみえ…」
ぼそっと、それだけ呟いた。

急いで、校門を出たなみえであったが、いつもの場所にダークグリーンの車はなかった。
はぁはぁ、と息をきらしながら、なみえは絶望感を覚えた。だが、今まであまり味わったことのない感覚なので、なみえはそれがなになのか分からない。とても泣きそうな気分になりながら、なみえはいつもどおりの帰り道を歩いた。
例の公園に差し掛かったときに、なみえの後ろで車が停まった。なみえが振り返ると、そこにはダークグリーンの車があった。助手席側のドアが開き、運転席から広川の顔がひょこっと現れた。
「そこのお嬢さん、乗ってかない?」
あははと笑って広川は言う。
なみえは張り詰めていたものが一気に吹き飛び、なみえもあははと笑った。それと同時に涙がぽろぽろと頬を伝った。
「え!?どしたの!?と、とりあえず乗って!」
広川は予想外の展開にあたふたしている。なみえは、言われるとおりに車に乗り込んだ。
「…」
広川は、なみえの様子を伺い、頭をポンポンと軽くなでて、車を発進させた。車内は無言のまましばらく見慣れた道を進んでいたが、車は超高級マンションと名高いその駐車場に停まった。広川は車を停めると、またなみえの頭をポンポンと軽くたたいた。
「大丈夫?」
なみえはこくんとうなずく。広川は、それを見てウンウンうなづき車から降りるように促した。

「はい、あったかいのコーヒーしかなかったんだけど…飲める?」
「あ、大丈夫です。ありがとう」
その言葉を聞き、広川はなみえにカップを渡し、頭を優しくなでる。
「どしたの?」
「…」
「言いたくない?」
「…えっと…、」
ためらいがちのなみえの様子を見て、広川はだまってなみえの様子を伺う。
「…昨日と一昨日…なんですけど…」
チラッと、なみえは隣に座る広川を見上げる。広川は、そんななみの仕草にドキッとして、パッと目を逸らす。
「う、うん?」
「…何か…あったんですか」
「あ、そうそう!それなんだけど、実はうちの塾の講師の一人が車の故障で、塾までの足なくしちゃったみたいで、俺が迎えに行かないといけなくなっちゃったわけ。そんで、なみえちゃんとこいけなかったんだ。ごめんね?」
そして、逸らした視線を再びなみえへ戻す。なみえはなんとなくぼーっとした面持ちだ。
「その講師って、しろかわ先生ですか?」
「ん?そぉそぉ!あれ、もしや学校でまわってる?」
「はぁ、まぁ。」
広川は、あちゃーと言わんばかりにおでこをたたいた。
「まぁ、俺は別にそういうことで絡まれないしいいか…。」
「…」
無言のなみえを、広川は見つめた。
「あのさ、昨日と一昨日さ、誰と帰ってたの?」
「…クラスメイトです。」
なみえは、なんとなくぼーっとしている。
「…新垣?」
「そう…。」
「なんで?」
そう言った広川は、ハッとした。別に自分の彼女でもないのに、ひどい嫉妬心だなと思う。
「なりゆき…かな。最近ではたまに。新垣くんのこと知ってるんですか?」
「はぁ…。あ、うん、あいつFゼミだしね」
ため息をつき、少し苦笑いをしながら広川は答える。
「どうしたんですか?」
なみえは、広川の異変に気づき顔を覗き込む。
広川は、なみえのまっすぐな瞳に逆らうことができない、そういう自分に気づいた。
「あ~あ。俺ね、かなり君のこと好きみたい。」
「え?」
広川は、少し開き直ったような笑いをする。
「見たよ。二人で帰ってるところ。かなり、やきもち妬いちゃった。」
なみえはまたぼーっとする。
「どうしたの?」
なみえは、広川に視線を向ける。
「…やきもちって?どんなものですか?」
広川は、少しびっくりした風の表情をしたあとすぐに微笑んだ。
「ん~まあ、俺もねあんまり詳しくはないわけだけれども…んとね、前も少し言ったと思うけど。例えばさ、好きな子が、他の男の子と仲よさ気にしてたら…、その男の子に好きな子がとられちゃうんじゃないか、とか、俺といるより、その男の子といるほうが楽しいんじゃないか、とかっていう不安?かな。しかも、結構ドロドロした感じであんまりいい感情じゃないのよ、これが」
はははと、広川は笑う。
「…」
なみえは、無言である。
「どうしたの?」
広川は、なみえを覗き込む。なみえと目が合う。なみえはゆっくりと目を逸らす。
「ん?」
「…。私、やいたかもしれない。」
「え?」
「私、広川さんが、ほかの女の人といるって知って、嫌な気分になったの…。そういう人がいるのに私に近づいてきたのかなって不安になったし、どうしたらいいか分からなくなって…、でも、今日が広川さん休みって聞いて、もしかしたらいつものところにいてくれてるかもって思ったのにいなくて…、悲しくて。今日も、その女の人といるのかなとか、そういうことばっかり考えちゃって…すっごく気持ちがおかしくなって…」
なみえの目に涙が溜まり、瞬きとともに雫が頬を伝う。
「え、あ、えと…」
広川は戸惑い、思わずなみえを抱きしめる。
「もしかしてさ…妬いてくれたってこと?」
広川は放心している。そしてはっと我に返り、なみえをゆっくり放し、顔を見る。涙は止まっている。
「「つまり」」
ふたりの声がダブった。
「私は、広川さんのこと…好きってことなのかな?」
広川は口押さえ、なみえは続きの言葉を紡ぐ。
「…そう…だとうれしい。」
広川の頭の中を、なみえの言った言葉が流れる。そして広川の目の色がふっと変わる。
「…やきもちだけじゃないよ。」
「え?」
「もうひとつ混じってる感情がある。知りたい?」
「う、ん…」
広川はニヤリと笑う。それはいつもの優しい笑顔とは違う。
「独占欲」
悪魔のような微笑。
「俺のこと、自分のだけにしたいと思ったんだ?」
なみえの顔がわずかに熱をもつ。そんななみえをみて広川はクスッと笑う。
「俺も一緒。なみえちゃんを俺のだけにしたい。だから、今日から俺のモノね」
そして、彼はそう言った。

「なみえ、おはよう!」
「おはよう」
文菜は、先日のことがあり、なみえに視線を向ける。特に、変わった様子はないように見える。
「あ、のさぁ、なみえ?」
「なに?」
なみえは、いつもどおり文菜の話に応え、目をあわせる。
「あ、いや、昨日の帰りさ、様子がいつもと違ってた気がするんだけど、なんかあった?」
「…」
なみえは、文菜から目を逸らし前を向く。そして、表情が和らぎ、ふっと笑った。
ように、文菜には見えた。
だが、次の瞬間文菜に顔を向けたなみえの表情はいつもと変わらない表情であった。
「ちょっと、用事を思い出したの」
「そ、そっか」
文菜は、さっきの錯覚のような光景がなんとなく頭から離れず、少し動揺しているのと、なんとなくそっけないような、隠し事をされているような態度をされたような気がして、引きつった笑顔になる。
「…。先生が」
ふいに、なみえが言葉を発する。
「え?」
「先生が迎えに来る日ってのを忘れてて。なにも言わずに帰ってごめんね?」
それは、今までにないなみえの返答だった。
「あ、うん。てか、先生?かてきょかなんか?知らなかったや」
きっと、これまでの話の流れは、文菜以外の人であったら、「舞束なみえはこんな子」ということで、なんてことはない会話であった。だが、相手は10年以上の付き合いの文菜だ。文菜は、ほんの数日前までのなみえと今のなみえが違う気がしてならなかった。
この数日の間に、彼女にあった変化の原因はなんだろう?学校までの道のり、文菜はそのことばかり考えていた。

「なみえ、今日部活どうするの?」
「今日は、帰るね」
「…」
「文菜?」
「あ、ゴメン!オッケィ。気をつけてね」
学校までの道のりだけでなく、文菜は一日中なみえのことを考えていた。
「うん。」
文菜は、なみえからの視線に気がついた。
「あ、どしたの?」
「…。文菜、なんかあった?」
「えっ!?なんにも!幸せボケかな?あははっ」
なみえからの鋭い指摘に、文菜はドキッとする。
「そう。なんかあったら、言ってね。ばいばい」
そう言い残してなみえは帰って行った。その様子すら文菜には、違和感にしか感じられなかった。
「よ!今から部活か?なみえっちは?」
突然、後ろから新垣が話しかけてきた。
「…。帰ったよ」
「お、マジか。んじゃ、追いつけるかな?」
軽い足取りで、薫は靴を履き替える。
「あんた、最近なみえと帰ってんの?」
「んー、途中で会えたらね」
何の気なしに薫は答える。
「それか?」
文菜がポソッと呟いた。
なにやら、さっきから考え事をしていたような文菜の様子に、新垣やっと気づいた。
「え、どしたの?」
「いつも、関わらない人とのかかわりによって、ちょっとした環境の変化が起こり、雰囲気も違った気がしたのかな!?」
「え、なにが?」
「うん!きっとそうだ!すっきりした!じゃーね!薫! 」
そう、言い放ち文菜は場を立ち去った。一人残された新垣は、一体なんだったんだとブツブツ呟きながら帰路についた。

なみえは、文菜に別れを告げ、学校から出ると、いつもの場所にダークグリーンの車がある。なみえは、駆け寄りコンコンと窓をノックし、車に入り込んだ。
「どぉも」
「はーい、いらっしゃい♪じゃあ、発進するね」
車を発進させ、広川はそういえばという感じで話しかける。
「今日はさ、テスト見せてもらおうと思ってるんだけど、どうかな?」
「本当ですか?ありがたいです。」
「こらっ」
広川はなみえの言葉をさえぎる。
「え?」
「敬語!」
なみえは、「あ」と口に手をあてる。そして、なにやら考え込む。
「見て、もらっても…いいかな?」
なみえは無意識のうちに、上目遣いとなる。「あ、うん」
広川は、自分で話を振っておきながら、なみえの上目遣いに照れてしまう。
「実は、まだ問題全部見てないから、一通り見せてもらえたらうれしいな」
「は…。うん…」
はい、と言いかけるが、それを訂正しながら照れるなみえ。少しうつむき加減となる。

それから一週間経ち、何変わらぬ生活が続く。文菜は、なみえのわずかな変化に気づいてはいるが、新垣の関わりによってもたらされているものと思っているため、特に口に出すこともない、といった状況。
今日も、いつもどおりの登校風景。
「なみえ、今日部活どーすんの?」
「今日もちょっと…」
「そっかぁ…うちら一応受験生だもんね…。私も塾にいる日数が増えてきたよぉ」
という話をしていると、なみえが「あっ」といい、立ち止まる。
「え、なみえ、どしたの?」
「…。ちょっと、先に行ってて」
「え!?」
なみえはそう言うと、学校へ向かう順路から少しそれた道へ走って行く。
文菜は気になり、なみえをつけて行く。すると、なみえはダークグリーンの車の前で立ち止まった。そのとたん、車の窓が開く。文菜の位置から、車の主は見えない。
「…だれだろ…」
文菜はぽつんと呟く。そして、目を逸らそうとした瞬間、文菜は自分の目を疑い、もう一度改めてなみえを見直す。なみえが笑ったように見えたのだ。だが、見直した先のなみえはいつもどおりの雰囲気で、車の人と話も終わり、こちらへ歩いてきていた。なみえは、文菜の存在に気づき、少し小走りで、文菜に近づく。
「文菜、ごめん。行こう?」
「あ、うん。」
文菜はなんとなく、相手が誰か聞けない。
「先生。」
文菜のそんな雰囲気を察知したのか、なみえはそう言った。
「え?あぁ、かてきょの先生がわざわざどしたの?」
「今日は、予定だったけど、急遽中止。だから、今日は最後まで部活出るね。」
「そ、か。おっけぃ」
文菜は、車の停まっていた方向を振り返ってみる。車はまだあり、文菜が振り返ると同時くらいに発進してその場からいなくなった。
「あの車…」
文菜はぽつんとつぶやく。
「ん?」
「あ、いやなんでも」
文菜のつぶやきに不思議そうな反応をするなみえに、そう答えながら、文菜はあのダークグリーンの車をどこかで見たことがあるような気がしていた。

「音、きれいにそろってきてるね。」
部活も終わり、なみえと文菜は帰り支度を済ませ、帰路についた。
「だね♪しかも、なみえが部に出た日のみんなの勢いが変わっちゃうしね」
ははは~と文菜は明るく笑う。
「なみえっちはっけ~ん!」
突如、後ろからかけられた声は新垣からのものだった。
「あれ、薫今までなにしてたの?」
「おぅ、林もいたのか。」
「なんだとぅ!」
「うそうそ。今まで、補習~。でも、こないだのテストのやり直しんとき、なみえっちから教えてもらったから、絶好調だったわ♪」
「あ?…あ~!!」
文菜が突然発狂し、新垣となみえは声の発信源へ視線を向ける。
「どした?」
「あたし、今日塾だったの忘れてた!!ごめん、薫!なみえ送ってって!じゃ!」
嵐のごとく、文菜はその場を立ち去った。
「ったく、あいつホント慌しいやつだな。」
「…新垣君は?」
「ん?」
「Fゼミなんですよね?」
「あぁ~、俺はない。あれ、Fゼミって知ってた?言ってたっけ?俺は個人講座だからあいつとは違うわけ」
「そう」
「…ところでさ、いい加減新垣君はやめない?」
「?」
きょとん、という感じでなみえは新垣を見る。
「どうして」
「へっ?」
まさか、そう返ってくるとは思っていなかったらしい。しかも、なんでそう、自分が思ったのかをその一瞬で考えた結果、自分はもしやなみえが好きなのかなと思い至る。
「いや、結構話したりするしさ。呼び捨てでも、下の名前でもさ♪」
「はぁ…」
「まぁ、俺は勝手になみえっちって呼んじゃってるし、林もなんか最近薫で定着してきてるしさ」
ははは~と薫は笑ってごまかす。
「…、薫君は」
「へっ!?」
突然、下の名前で呼ばれ、新垣は驚き思わず、変な声が出る。
「部活はしないの?」
「あ、あ~。実は陸部なんだけど、ちょっと色々あって行かなくなったんだけど、今はその理由もないし…ただの怠けグセみたいな感じになってて」
先ほどからの動揺もあり、日本語が不自由になる。
「そうなの。脚、速そうだよね。」
「そ、かな。」
「うん。」
「…もっかい頑張ってみようかな」
新垣は呟く。

「このところ、なみえさんの交友関係が少しずつ広がってきているようなのですが…」
『中河原』という名札を胸ポケットにつけ、ピシッと整ったスーツを身にまとう男がそう口にする。
「そう…いいことではなくて?それがなにか?」
その言葉の相手は、立派なデスクに座り、綺麗な着物を着た女性である。
「ご学友は、問題ないと考えられますが…一人ちょっと…」
部屋にはこの二人しか存在しない。中河原の名札をつけた男は、そう言いながら数枚越しの資料を女性に手渡す。手渡された女性は、その資料に目を通す。
「この…広川…という男。どういう接点?」
「それが、少々不明でして…」
「Fゼミ講師か…それは問題ないけれども…バックグラウンドが…。なにが目的かしら…」
目を通し、わずかに眉をしかめ、そうコメントする。女性は右手を口に持っていき、考えをめぐらしている様子。男は、普段表情の変化の見られない彼女の感情の揺らぎに、多少驚きつつ、黙って女性の口から言葉が発せられるのを待つ。
「…この女…使えないかしら?」
女性は、もう一度資料に目を通し、ある一点を指差しながら、中河原にそう問いかける。
「はい?」
中河原は、少し首をかしげる。
「この男の真意を突き止めたい。いくつか、協力頼めるかしら?」
「もちろんでございます。」

「講義始めるぞ~。」
「あの、広川先生、文菜が、あ、林さんが少し遅れてくるみたいで…」
「林がか。今日は急ぐ内容じゃないし、5分だけ待つか。今日このページするから、予習しとけ!」
広川は時計を見ながら、みんなにそう伝える。
文菜の通う、Fゼミは個人講座と集団講座(少人数制)で構成されている。そのうちこのクラスは、五人の少人数クラスで、湊中の3年生だけの構成である。文菜と同じクラスの奈美、ゆかりもこのクラスで受講している。後は、吹奏楽部、パートはトランペットの小暮、帰宅部で文菜とはあまり共通点なく、塾で仲良くなった姫川の五人である。先ほど、文菜が遅れてくる旨を伝えたのは小暮。
「文菜ちゃん、部活?」
姫川が小暮に問う。
「うん、部長だしね~。」
「まあ、文菜イコール舞束さんって感じで思い出すんだけどね~。」
どうやら紫は、最近なみえと新垣が仲良くしているシーンを思い出しているようだ。
「それで、さらに新垣君のことも一緒に?」
そこで水を差すのは、奈美だ。
「あ?」
紫の顔が引きつる。
「ちょっ、奈美!」
小暮が、奈美にストップをかける。
「でも、舞束さんと新垣君ホント最近仲良いよね~」
だが、空気の読めない奈美にはなかなかストップがかからない。
「なに、紫、薫が好きなの?」
そこで、文菜登場。
「な!うっさいわね」
うひゃ~マジ?文菜は心の中でそう呟く。
「仲良いからって、なみえに変なことしないでよね?」
どうやら、ゆかりの悪いクセは有名らしい。
「あ~。しないわよ!」
「ふ~ん…、あ!先生すいません!遅刻しました!って、広川先生!!」
ヤバッと文菜は顔をしかめる。
「あ、あ~。さっさと席に付け」
かなり、怒られると思いきや、それだけでスルーしたことに文菜は拍子抜けする。
広川の内心としては、なみえの話題であったことに釘付けとなり、さらにやはり学校でも新垣薫と仲がいいという話を聞き、かなりもやもやしている状態であったため、文菜の遅刻をとがめるほどのゆとりがなかった。
「広川どーしたんだろ…?」
文菜は着席しながら、ぼそっと呟いた。

「それじゃあ、今日はここまで。」
講義が終わり、広川は教材を片付け出す。
「ふぅー。」
息を一吹きし、文菜は伸びをした。すると、なんとなしにゆかりと目が合う。
「それにしても、ゆかり、薫に気があったのね?」
ゆかりは、はぁ~っとため息をつく。
「うっさいわね。悪い?」
「いや、あたしはなみえにさえ手出ししなかったらなにもないわよ。」
次ははぁっと短く息を吐きゆかりは口を開く。
「だから、しないわよ。」
まだ、話が続きそうだったため、文菜はゆかりが話すのを待つ。
「…。新垣君も結構舞束さんのこと気に入ってるみたいだし。だんだん、あきらめモードよ」
文菜はふんふんと頷きながらゆかりの話を聞く。
「だいたい、いつまでも子供みたいなことしないわよ。」
ゆかりは、帰り支度をする手を止める。
「あと、私あの子には借りがあるしね。」
へっ?とその場の一同が目を点にしたとたん、その場にない声がした。
「すいません、広川先生。ちょっといいですか?」
英語講師の城川が、講義が終わったのを見計らって訪れたようだ。
みんなの意識がゆかりからそちらへ移る。
「やっぱあの二人いい感じよね?」
ひそひそと話が始まる。
「今日も、文菜怒られなかったよね!雰囲気変わった?」
う~ん、確かにいい感じだ。文菜はじっと、話をする城川と広川を見た。話は終わったらしく、広川は教室に戻ってくる。他の生徒達は、すでに教室から出ていっている。文菜はみんなの波に乗り遅れたと、席を立つ。
すると、はたっと広川と目が合う。
「あ、今日は遅れてすいませんでした!」
「…いや、」
それじゃっと、その場から文菜が立ち去ろうとすると、広川の視線が文菜の指輪にいく。文菜はそれに気づいた。
「やばい!前にたしか、そんなチャラついたもんしてって、怒られてる子がいたんだよ」
と、心の中で叫び、
「あ!すいません、今度から気をつけます!!」
とあわてて言った。だが、思いのほか、広川は怒っている様子ではなかった。
「あぁ、いやそれはいいんだが、その…」
不思議な広川の様子に、文菜は首をかしげる。
「や、その、指環、彼氏にもらったのか?」
「へっ?」
文菜は予期せぬ質問に、変な声が出た。
「あ、はい、そうです。」
「…。うれしいものか?」
「!?」
次は声も出なかった。
「あ、え~と、はい!うれしいです!!好きな人にもらったものは何でも大切ですし、うれしいです」
文菜は満面の笑みで答えてみた。
「そうか。…じゃあ、気をつけて帰れよ」
「あ、はーい…。相手は城川先生ですか?」
文菜は、ちなみに…という感じで問うてみた。
「城川先生?あぁ。そんな噂がたってるんだったな。いや、城川先生は関係ない。」
お前のよく知ってるやつだ、と広川は心の中で呟き、にやっと笑った。
「ひっ!」
文菜は広川の不敵な笑みに息をのんだ。
「じゃっ!さよならでーす!」
足早に、文菜はその場を立ち去った。
「なんだったんだーあの顔は!」

数日後の放課後。
「なみえ、今日はかてきょだったよね?」
「うん。」
「薫も部活復帰したみたいだし、帰り一人なんだから、気をつけて帰んなよ」
「うん、ありがと。また明日。」
「おう!ばいばーい♪」
そう言って二人は別れる。なみえは足早に校門を出る。周りを見渡し、なみえは外に止まったダークグリーンの車に乗り込む。
「や!」
広川が笑顔で歓迎する。
「どうも」
広川はクスクス笑う。
「なんか喋って♪」
まだクスクス笑いながらそう言い、車を発進させる。
「え!?」
なみえのあわてた様子を見ながら広川はまだ笑っている。
「あ、え~と、数日ぶりですね。」
今度はあははは~と広川は笑い出す。
「もぉ~!数日じゃなくて、3日ぶりだよ!俺は、毎日指折り、なみえちゃんとあえる日を心待ちにしてたのにぃ」
「え、すいません。あ、いや、ゴメン?」
広川はニコニコしながら、うんうんと頷く。
「今日はなみえちゃんにプレゼントがありまーす♪」
「?」
なみえは首をかしげる。
「おうちに着いてからのお楽しみね♪」
広川は鼻歌混じりで車をとばす。

「はい、これ♪」
「?…携帯ですか?」
家に着くなり、広川はなみえに箱を手渡す。
「なんか、色気なくてゴメンね?」
「いえ、でも、なんで?」
「んー、この方が連絡取りやすいし、なんかプレゼントしたいって思ってたし、一石二鳥~みたいな感じかな」
なみえは、渡された携帯をじーっと見つめている。
「あ、迷惑だったかな!?」
あまりのなみえの反応の薄さに、広川は戸惑いを感じる。
「いえ、あ、えと…、すごく嬉しい。」
なみえは頬を染めて、これまでにない笑顔を浮かべた。広川は、そのなみえの姿を見て、心が温かくなる。そして、はぁ~と少し長いため息をつく。
「全く…、かわいすぎるでしょ」
理性との戦いで、広川は悶える。
「?」
「ほら、笑うとこんなにかわいい。まぁ、笑わなくてもかわいいんだけどさ♪」
「え。」
なみえは、右手をそっとほほにあてる。
「ん?どしたの?」
広川は、突然なみえの動きが止まったことに気がつく。なみえは右手をほほにあてたままぼーっとしている。
「なみえちゃん?」
「あ、わ、たし…、」
少し、まだぼーっとした面持ちでなみえは答える。
「え?」
「あ、気にしないでください。」
広川はなんとなく壁を作られたみたいで、少しショックを受けるが、なんとなく踏み入ってはいけない領域な気がしてそれ以上、問うことができない。
「う、うん…あ、でね…実はさ、プレゼントしたのには他にも理由があってね。…うちんとこの塾で、こないだとかもなみえちゃんと新垣が仲いいって話が出てたりしたんだ。」
「私と薫君が?」
なみえがそう問うと、広川の眉がピクッと反応し、目の色が変わる。
「…うん。俺かなり独占欲強いんだなーって思った。そんな話聞くのホントにいやな気持ちになるよ。」
なみえは、なにかを考えているようだ。
「…今も」
広川の間に、なみえは思わず顔を上げる。
「かなり嫉妬しちゃった。」
広川も抱え込んでいた頭を持ち上げ、自然、二人の目が合う。だが、広川の目はいつもと違い、眼光が研ぎ澄まされている。彼の目力は相当なものだ。なみえは、広川の目に圧倒され、ドキッとする。
「なん、で?」
思わず緊張し、なみえはやっと言葉を口にする。
「ん~知りたい?」
「う…ん」
広川は眉根を潜め歪んだ表情で微笑む。
「しょーがないなぁって…、教えてあげたいんだけど…。わからない?」
言葉を発しながら一度、なみえから視線をそらすが、すぐにまたその目はなみえを射る。眼光は研ぎ澄まされたまま。そんな視線に、なみえは胸をわしづかみにされたような、変な違和感を覚え、どうしたらいいかわからない。
「…。仲良いって話し聞いたから?」
そんな中でも、必死に考え、答えを発する。
「うーん。誰と?」
必死に考えているとは分かっているが、広川は抑えられない。
「…薫君…?」
「…君は、本当に俺を挑発してるのか?」
また、広川の視線がなみえに突き刺さる。そのときの感覚はこれまでに感じたことのない刺激的な感覚だ。考えようとするのに、頭が真っ白になる。
広川は、我に返り、なみえがフリーズしていることに気がつく。
どうやら、なみえにはまだ刺激的過ぎたようだ。広川はあたふたとする。
「あ、なみえちゃん、ごめん」
なみえはぼーっとしたまま首を横に振る。
「ちょっとやりすぎちゃった。」
なみえはもう一度首を横に振った。
広川はなみえをぎゅーっと抱きしめる。そして、左手は肩にまわしたままで、右手でやさしく頭をなでる。
なみえは、その広川の行為に心地よさを感じる。そして、そのまま身を任せる。
「ほんとうにごめんね?」
広川は、やりすぎたと思う反面、なみえに愛おしさを感じる。
広川のこれまでの人生を考えると、なみえはなんとも純粋な存在。そんなことをぼーっと考えていた。
「あの、広川さん?」
抱かれたまま、なんの音沙汰もない広川を不思議に思い、なみえは問いかける。
「あぁ、ごめんごめん。ちょっとなみえちゃんみてたら、いろんなこと考えちゃってたよ」
ゆっくりと、抱え込んだなみえを離しながら
「いろんなこと…?」
「…うん。俺は、汚いからね。」
広川は消え入るような声でそう呟く。
「…?」
きょとんとするなみえをみて、広川はクスッと笑う。
「そろそろ帰ろうか?」
「あ、はい…」
「宿題ね。」
「え?」
「さっきの、答え…頑張って考えてみてね。文章読解には経験も大事だし」
広川は悪戯気にニッと笑う。

なみえを送り帰宅した、広川は携帯を取り出す。そして『なみえちゃん、今日も楽しかったね♪また明日ね、おやすみ』とメールを送り、シャワーを浴びに入る。しばらくして、携帯をチェックするとなみえからの返信はなく、かわりにパソコンにメールが届いているという通知がある。
そのまま、パソコンを開きメールをチェックする。
「久々だな。この仕事。そろそろ足を洗いたいが。」
そう呟きながらメールを開く。そして、メールを開いた広川は自分の目を疑う。すぐに眼鏡をかけ、メールの内容を凝視した。
『依頼内容:身辺調査。依頼主:調査終了後まで匿名。詳細:舞束なみえの身辺調査。14歳、女性、湊中学校学生、父親、曹野栄一。Tsukasa代表取締役社長。母親、曹野桜子→Tsukasa-n代表。前金;500万。成功報酬;4500万。期間は十五日間。』
広川は全部読みきることなく、めがねをはずし、椅子の背もたれに身を任せ、頭を抱える。
「Tsukasaっつったら、ITやらなんやらで世界的に規模を広げてる、超有名大企業じゃねーかよ。」
はぁっと、広川は息を吐く。
「そぉか、それがあの子のかかえるものか。」
広川は、ぼーっとする。
「あー、身辺調査か、誘拐でもする気かな。」
そう呟きながら、頭を抱える。
広川の、職業は塾講師。それは、表の顔。表があるということは、裏もある。裏社会には、様々な職種や、取り引きが混在する。
『ピリリリリ~♪』
ぼーっとしている広川に電子音の横槍が入る。
「携帯か…。」
そう言いながら、携帯を開く。
「お!なみえちゃん♪」
メールが届き、受信ボックスを開く。
「…親と、違う姓なわけか…」
ボーっとそんなことを考えながら、メールを開く。
『広川さん。今日はありがとう。おやすみなさい。では、また』
精一杯に打ったであろうというなみえの様子がうかがえる。
広川は、クスクス笑う。そして、パソコンに向き合う。
『前金の入金確認次第、調査報告開始とする。報告間隔は5日毎。』
広川はそう、打ち込み返信する。これで契約が取り交わされる。
メールの送信先は広川の属する組織。今後、組織を媒体としたやり取りとなる。どうするべきか…返信はしたものの、広川には戸惑いが残る。

「あ~もう、あっつ~い!早く夏休みはいんないかな~」
登校途中、文菜はぶつぶつ文句を呟く。
「ってか、ちょっともう、聞いて!中井がさ~ちょっとうるさいんだよね~」
「うるさい?」
「そうっ!あたしさぁ、新垣のこと薫って冗談めかして呼んでたら、定着しちゃったんだけどさ。自分のことは下の名前で呼ばないのに、あいつのことは薫って呼んでって言われちゃってさぁ~。しょーがないじゃんね?」
「…それって、やきもち?」
なみえの導き出した答えに、文菜はきょとんとする。そして、なみえ自身もはっとする。
「あ、あ~そだね。そうか、そうだね…。あたしは、なんだこの小姑は的な感じで受け取っちゃってたけど…あ~そうなんだね。そうだわ。」
文菜は永遠と納得の声を発している。
「そうか~あいつも妬くのか~ふふふ…」
納得の声がいつしか不気味な笑いに変化していくのを聞きながら、なみえは昨日の広川の宿題を考えていた。自分も、薫君って呼んでたけど、もし広川さんが城川先生のことを下の名前で呼び出したりしたら嫌だな。
「そっか。」
なみえはなんとなく答えに近づけた気がした。

「あのっ、」
いつもの場所に停まってある車に乗り込むなり、なみえは勢いよく話す。
広川はニコニコしながら、なみえの言葉に耳を傾けつつ車を発進させようとする。
「うん?」
「…薫君…」
その言葉を聞き、広川は一瞬顔を顰める。
「っていうのがいけなかった?」
「え?」
広川は思わずなみえを見る。なみえは少し戸惑ったような表情で自分を覗き込んでいた。
「宿題…」
目の合ったとたん、なみえは目を逸らし、不安げである。
「頑張って考えたの?」
「…うん。」
「えらいじゃん」
その言葉を聞き、なみえの表情が一気に明るくなる。
「えっと…」
そして、答えを期待する表情へ移ろう。
「うん、正解。」
広川はそう言いながら、なみえの頭をなでる。そのまま、思わず抱きしめる。そして、我に返る。
「あ、ごめん、かわいくて思わず…」
あわてて覗き込んだ相手の少女は顔を紅くして呆然としている。そんな反応に思わずキスしそうになるのを、ぐっとこらえ、結局停車させたままの車を発進させる。
「ね、ね、いつから修学旅行だっけ?」
「あ、えと…7月2日から。」
「来週かぁ~」
広川となみえは、週に3~4日は会う。会うのは、広川の仕事の都合に合わせ、そのときによりけりであるが、校門前で待ち合わせたりなどし、広川の家に行き、勉強したり、本を読んだり、テレビを観たりする。広川は、いちおうほぼ毎日仕事が入っているので、それにあわせて家を出る、というコースである。
今日も、いつもの例に違えることなく、広川の家へ向かっている。
「大阪…だったっけ?」
「うん」
「あ~いいなぁ。俺もなみえちゃんと旅行行きたいな!」
「旅行?」
「うんうん♪夏休み入ったらさ♪…って俺は、夏期講習か…」
広川は、自分で言いながら勝手に落ち込む始末。

「広川先生、ちょっと質問いいですか?」
すべての講義が終わり、Fゼミナール内のオープンスペースになった、講師室にはよく、質問を抱えた生徒や、先生と話すため、人が溢れかえっている。
「片岡か。どうした?」
広川への質問をしにくる生徒は少なくはないが、城川が片岡と呼ばれる生徒にチラッと目を向ける。その、片岡と呼ばれた生徒もそんな城川を見返す。
「あの、ここなんですけど…」
と、テキストを開き、指し示しながら質問を投げかける。彼女は片岡仁美、Fゼミの個人講座に通っている、湊中3年、なみえや文菜のクラスメイトである。
「あ~、わかりました、ありがとうございます。」
「うん。ところで、片岡はもう進学先決まったんだよな?」
「はい。推薦で選ばれて…まだ、決まってはないんで、油断はできないんですけどね。」
「おう、それだけわかってれば大丈夫だろ」
「あの、先生ちょっと折り入って話があるんですけど…ちょっといいですか?」

「なんだ、折り入ったはなしって…」
Fゼミ内は禁煙であるため、外に喫煙場所として使用している場所があり、二人は今そこで話をしている。
「はい、あの!あたし、広川先生のこと好きです。よかったら、そういう風にみてくれませんか?」
彼女はいつも気丈に振舞っているタイプである。だが、やはりそんな彼女も一大決心であったのだろう。わずかに膝が震えている。
「…ありがとう。気持ちは嬉しいが…俺は、それには応えられない。申し訳ないな。」
片岡はギュッと手を握る。
「付き合ってる人がいるからですか?それとも私が中学生だからですか?」
広川の表情がわずかに和らぐ。そんな、広川の表情を見て、大事な人がいるということを悟り、片岡は胸がズキッと痛むのに気づく。
「そうだな。いや、年齢は関係ないぞ。」
片岡はさらに、力を入れる。
「し、ろかわ先生ですか?」
広川はキョトンとしている。
「あ~、いや、違うよ。なんでお前らいっつも城川先生とくっつけたがるんだ」
広川は苦笑いをし、そんな彼の様子を見て、片岡の力が抜ける。
「じゃあ、私達の知らない人ですか?」
「まぁ、この塾の人ではないよ。」
片岡は、広川の手を握り、ぐっと近づく。
「キスしてください。そしたら、諦めます。」
所謂、迫られている状態である。
広川は困った、という顔をする。
「そういうのは、大事にしないと駄目だ。自棄になってするもんじゃない。」
「なんでよ、先生だってその彼女相手にそれ以上のことしてるでしょ?」
片岡は明らかに暴走気味に言葉を発している。
そんな片岡を前に、広川はフワッと、とてもやさしく笑い、首を振った。
「いや。なかなか難易度は高いよ。壊したくないからね…。でも、こうゆうことは、お互い好きであってこそ、意味をなすんだ」
片岡は、広川のそんなやさしい笑顔なんてみたことなかった。片岡はスッと手を離し、少しぼーっとする。
そして、ふっと我に返ったようにまた話し出した。
「分かりました。じゃあ、その彼女、大事にしてくださいね。」
「ありがとう。」
「…。あと、忠告。城川先生に気をつけたほうがいいんじゃない?絶対、先生狙われてるよ」
「そうか?」
広川は苦笑いする。
「うん。城川先生、あたしが、広川先生のこと好きって知ってるから、いつもあたしが広川先生に話しかけると、気にしてこっちばっかみてるもん。」
「そーか?女の子ってすごいな。ありがと」

「なみえ、準備できた?」
「だいたい」
「うそ~。ちょっと足りないものあるから、今日一緒に買い物行かない?」
修学旅行前日、3年は部活が休みとなる。
「うん、いいよ。」
「やったぁ♪」
「文菜、今日一緒に帰っていい?」
そこに第三者の声が登場する。片岡仁美である。
「仁美、どしたの?別にあたしはかまわないけど…」
文菜は、なみえに視線を送る。
「片岡さんが、差しさわりがなければ」
「あぁ、それは全然いいや。舞束さんには関係ない話で、気分を害しちゃうかもしれないけど…」
なみえは、コクンと頷く。

「あのさ、あたし好きな人がいたの。」
「へっ!?」
いつも通りの帰り道、3人並んで帰っている。
「うん、広川先生なんだけど。」
「ぇえ!?」
文菜はそう反応しか出来ない。
なみえが少し、反応する。だが、文菜の注目は仁美にいっているのでそのことには気づかない。
「んまぁ、あんまり驚かずに聞いてってのも無理な話なんだとは思うけど…」
「うん、そーだね!」
「まぁ。そんで昨日、告ったわけよ。」
「マジで!?」
「うん、あたし、推薦決まったし、もう塾やめるから、当たって砕けろ!って思ってね。」
「うへ~だいたーん!」
「う、うん。まぁ、そんでホントに砕けちゃったわけなんだけどさ。」
仁美は苦笑する。
「いやいやいや、その勇気がすごいよ!」
文菜はそうとう気分が舞い上がってきているらしい。
なみえはなんとなくモヤモヤとした気分になり、広川からもらった携帯の入っている、スカートの右ポケットに手を持っていく。
「あ…」
なみえがふと、声をあげ立ち止まる。
文菜も立ち止まり、一瞬遅れて仁美も止まる。
「ごめんなさい、私学校に忘れ物したみたい。先に帰ってて」
ぱたぱたと、なみえはこれまで歩いてきた道を後戻る。
「はいはーい。」
文菜は、なみえを見送り、仁美を振り返る。
「ごめんごめん、ちょっとこの先の公園で待ってよう。続きもゆっくり聞きたいし」
「うん、ありがと」

二人は公園に着くと、ブランコに腰掛ける。仁美は、昨日の出来事を、事細かに説明する。
「な、なんか、仁美、めちゃくちゃ積極的ね」
「う、うん、私も自分で驚いたくらい…。なんか、ほんとどーにでもなれい!ってな感じだったから。」
「んまぁ、人間、そんなもんよね♪」
文菜は、ニカッと笑い、その笑顔を仁美に向ける。
仁美は、その笑顔にホッとし力が抜け、涙が頬を伝う。
「あ、ごめん、結構文菜に言うまで気が張り詰めてたっていうか…」
文菜は初め少し驚いた表情をしたが、とても優しい笑顔になる。
「ううん。私に話してちょっとでもラクになってくれたんなら嬉しいや」
へへっと文菜は笑う。

なみえは、忘れ物をとりに急いで教室に戻る。自分の机に手を入れ、携帯を取り出す。
「よかった…」
なみえは、そっと携帯を抱きしめる。
昨日、そんなことがあったんだ…話を聞きたいと思うが、今日は会うことにはなっていない。
胸がギュッと苦しくなる。
なみえは、こんなときにどんな風に対処すればよいか分からず、モヤモヤした気分のまま、また帰路につく。

「なんかねー、そんとき分かったことが、相手が城川先生ではないってこと。と城川先生の片思いってこと。これは前々から知ってたけど。」
仁美はやさぐれた笑顔になる。文菜はその仁美を見ながら苦笑いをする。
「そだねー、私も前に聞いたけど違うって否定されたし…」
「そうなの?」
「うん、なんかこの指環見られて、怒られる!って思ったら、彼氏からのプレゼントは嬉しいものか~?とか聞かれた。そんで、そんときにプレゼントの相手は城川先生ですかって聞いたら違うって…」
文菜は回想しながら、あのときの広川の不敵な笑みを思い出し顔が引きつる。
「ふーん、すごい広川先生に想われてるのね…」
「私も思った!」
「うん、そんであたしが思ったのは、結構年下の彼女なんじゃないかってこと!」
「え?」
「そんときは、そこまで頭回んなかったんだけど、うちに帰って、難易度が高い相手ってどういうことなんだろって…色々考えてたらね。だって、もし相手が城川先生だったらやることはとっくにやってるっしょ!」
「ん?」
「だから、まだまだ、恋愛経験も乏しくって、そういう経験もないような彼女ってことじゃない?だって、あの広川だし…」
「あ~、そっか…。けっこう普通に下ネタ言うしね。」
文菜は頷く。
「いまどきにして、超純情な子ってこと…か。」
うんうんと仁美は頷く。
「まぁ、ここまで分かっても一応、Fゼミ内にはいないとは言われたし、広川にもいろんな人間関係があるだろうし、別に突き止めたいわけじゃないんだけどね、なんか、誰かに…文菜に聞いてほしいな~って思って、今日は話したのさ♪聞いてくれてありがとうね!あ、舞束さんだ。」
「ホントだ!え?なみえ!!」
公園に差し掛かるくらいのところでなみえがきょろきょろしている。
文菜の声に気づき、ドキッとしながらなみえは足を止め文菜と仁美の居るほうを振り返る。
「待っててくれたの。ありがとう。」
文菜と仁美はなみえに追いつき、3人は揃って歩き始める。
「うん、話も大方終わったしね。」
「そう。」
「なんか、舞束さんちってもしや、厳しい系?」
「?」
「なんかね、お嬢様って感じ!」
「あははっ」
あまりの直球に、文菜はとりあえず笑ってみる。
「いやーなんかさ、さっき言ってた純情な子って、舞束さんみたいな子なんだろうね」
文菜は、なんとなくギクッとするものがありながら、その場は「まぁ、ありえないけどね!」と明るく振舞う。

なみえは、家に帰り、携帯電話を取り出し電話をかける。
「あ、もしもし、」
『あの、なみえちゃんゴメンね!』
「あ、それが、公園で文菜たちが待ってくれていて…」
『そうなのか、良かった。俺も急用頼まれて今車乗ったとこだったんだ…。』
「あ、それで、文菜とこれから買い物行く約束してたの」
『あ~そっか。そしたら…今日8時には仕事終わらせるから、それから大丈夫?』
「うん」
『わかった。また連絡するね♪』
パタンと携帯を閉じ、先ほど文菜らに呼び止められたときのことを思い出す。
携帯をポケットに入れた直後、広川から電話があり、これから会うことが決まり、待ち合わせ場所の公園で広川を待とうとしているときだった。
「驚いた…」
思い出しながらなみえは、ポソッと呟いた。

「ごめんね、こんな時間に…」
「いえ…」
8時半くらいになみえの携帯がなり、家を出て、いつも送ってもらったらおろしてくれる場所にて合流する。
「どうかされたんですか?」
どう切り出そうかと考えている広川に対して、なみえからそのきっかけを与える。
「う~ん、まぁなんというか、ね?別にここまでして言わなくてもいいような…いや、言っておいたほうがいいような…ってな内容なんだけど…」
なみえはじっと伺う。
「いや、昨日ね、なみえちゃんと同じ学校の子なんだけど、告白されたんです。…いや、だからどうってわけじゃないんだけどぉ~」
広川にしては、余裕のない様子である。
「俺、こうゆうの慣れてないんだよ~」
頭を自らくしゃくしゃしながら、唸っている。
「…片岡さんですか?」
「うっ、そう…なに!もう学校で噂になってるの!?」
「いえ、そういうわけでは…。文菜に今日話していたんです。」
「うぅ~そうなのか~。ごめんね?昨日のうちに言おうと思ったけど、時間遅かったから…」
「…いえ…」
なみえは少しうつむく。広川はそんななみえをじっと見つめる。
「嫌な気持ちになった?」
なみえは、少し広川のほうに顔を向ける。
「…なんだか、少しもやもやした感じだったんです…」
「そうだね、今回はそういう話を又聞きって形で聞いちゃって、不確かな情報だったしね…」
少し、なみえのなかの靄が晴れる。
「そっか…」
「あと、独占欲かな?」
そう言いながら広川は、なみえの右手をとり、手の甲にキスをする。
「大丈夫、俺はなみえちゃんのものだから♪」
広川はニヤリと笑みを浮かべる。
なみえが赤面したのは言うまでもない。

広川は家に帰ると、パソコンを立ち上げ、タバコに火をつける。
昨日、前金が振り込まれたということで、本日から報告が開始する。
『7月1日:8時に登校。普段通りの授業を受け、16時半帰宅。その後、近所の幼馴染とともに、二駅先のデパートにて買い物。19時に帰宅し、20時半に外出。知人と思われる人物と接触するも約10分で帰宅。自宅に両親帰宅様子なし。』
そう打ち込み、ふぅっと息をはく。
「うぜ~。なにが、知人と思われる人物だよ…」
最後らへんは心の中での呟きと化す。
ぼーっと画面を眺めながら、広川の目は冷えていく。とても冷たい眼光だ。
そこへ、邪魔するように携帯の電子音がする。ぱっと、広川の目に普段の温かさが戻り、携帯を見る。
『お土産なにがいいでしょうか?』
広川の心が温かさで満たされる。

7月2日。修学旅行1日目。
「今日は、大阪市内の自由行動!あたし、何個か行きたいトコあるんだ♪」
自由行動のメンバーは、もちろん、文菜、なみえ、中井、新垣である。
「おう、んじゃ、そこ行くか♪」
そう、中井が答え、出発する。文菜と、中井はかなりの浮かれ気分で、ズンズン先へ進んでいく。
「おいおい、こちらの言い分は無視ですかい?」
新垣が呆れ顔で言うが、二人はそんなことお構いなしで進む。
「おい!なみえっちこれでいいのか!?」
そう言って、なみえのほうを振り返り、働きかける。
「…あ。」
「ん?」
なみえが、そう呟き文菜と中井がいたほうを指差す。その方向を新垣が振り返ると、すでに二人の姿はそこにはない。
「あ~!!あいつら!」
「…」
新垣はなみえを振り返り、なみえの様子をうかがう。
パチッと目が合う。新垣は、なんとなく照れてしまい目を逸らす。なみえは、少し表情が和らぎ、笑ったような感じになる。
新垣はその変化を見ていなかったが、少し離れた駅の壁の前に長髪にキャップの帽子をかぶり、グラサン、ジーパン、チェックのシャツのとてもラフな格好のお兄さんが1人、なみえの様子をうかがっている。まさしく、広川なのだが。
なみえは、足を止め、振り返る。
「なみえっち、どーしたの?」
「…」
振り返った先を、結構見渡している。だが、そこに広がる風景は人ごみである。
誰かの…広川さんからの視線だった気がする。なみえは、そんなことを考える。
「なみえっち?」
薫の声で、ふと我に返り、そんなことあるわけないか、と考え直す。
「いえ、行きましょうか」
「おう♪」

「あっぶね~、今振り返った?」
俺、今まで気づかれたことないのに。やっぱ、今ちょっと感情むき出しになっちゃったもんな~…だって、なみえちゃん、あいつにむかって笑うんだもん。
そんなことを考えながら、広川は目の色を変えていく。こうやって、またしても、広川の嫉妬心、独占欲が沸きたてられ、彼女の虜になっていく。
はぁっと息を吐き、少し我に返る。
「今日、あいつと行動すんのかよ~この先思いやられるな。」
余裕のない笑顔で呟く。
そして、広川はむむむ~と考え込む。この先のことなど考えながら、また広川の心の中が嫉妬心で渦巻く。
「ちっ、このままだと俺、あいつのこと殺しかねないな。今日は引き上げるか。」
そう言いながら、駅へと向かう。
「だいたい、本来の行動範疇超えてんだから、普通ならこんなとこまで来て仕事しないんだけどな。やっぱ、私利私欲のために、動いちまってたってことか。」
そんなことを、ぶつぶつ言いながら広川は帰路に着く。

「なみえ、今日はごめんね~」
「いいよ。」
修学旅行1泊目のホテルは、2人部屋。女子は3階、男子は5階を貸切っている状態だ。
「これ、お詫びのしるし!ペンダント買ったんだぁ♪はい」
文菜から、なみえに渡されたペンダントはブルーメインの、プレート型で少し鎖の長いペンダントであった。
「ありがとう。ごめん私、なにも買ってない」
「いいよ!2日早いけど、バースディプレゼントってことで♪」
「うん、ありがとう」
「今日、どうだった?」
それはそうと、という感じで文菜は聞いてみる。
「楽しかった」
「そかぁ~♪ねぇねぇ、いつから、薫君なんて呼ぶようになった!?」
文菜はわくわくしながら、問いただす。
なみえは、少し胸がズキッとする。実は、広川に言われてから、気にしてあまり使わないようにしている。だが、またもとの呼び方に戻ったら薫に悪いという思考も働き、現在思考錯誤中である。
「少し前に、…言われてから」
「え!薫になんて?」
「新垣君はやめない?って」
「へ~!!薫やっぱ、なみえに気があるなぁ~」
「き?」
なみえは、首をかしげる。
「うん、たぶんね~」
首を傾げるなみえを微笑ましく見つめる。
「文菜ってヤキモチってやく?」
そんななみえからの唐突な質問。なみえ自身も、自分で驚く。
「え!?どしたの、急にそんな話!びっくり~。ん~どうかな、やっぱ、多少はね。他の女子と喋ってたりすると、ちょっとはムッとするけど、しょーがないじゃん?だから、我慢する。あたしはね!あ~でも、やっぱ、人によっては、結構激しかったりするしね~あれって、やっぱ独占欲の問題なのかね?あはは~。でも、どしたの、ほんとに」
「うぅん、なんとなく。私、ちょっと電話してくる…」
「あ、おばちゃん?」
なみえは、かばんを手に取る。
「…うん。」
嘘をつくことに後ろめたさを感じながら、なみえはそう答えた。
「いってらっしゃい~♪」
パタンと、ドアが閉まり、文菜はにやりと笑った。
「よし!あいつらんとこ行こう~っと♪」

コンコン♪
ドアノックがなり、新垣はドアをあける。
「やほぃ♪」
「おまっ、」
新垣は、驚きのあまり声が出ない。
「おぉ文菜~!来れたのか!」
「うん、来ちゃった♪」
「普通来ないだろ」
新垣は呆れ口調だ。はぁっとため息をつきながら、部屋を出て行こうとする。
「ねぇねぇ!なみえ、今日楽しかったってよ!」
「お、マジか!そうかそうか、それはよかった。じゃあ、俺ちょっとジュース買ってくるわ」
ガチャっと、新垣は部屋を後にする。出て行く姿明らかにうれしそうで、鼻歌混じりだ。
そんな様子を、文菜と中井はほほえましく見守る。
「2人いい感じにいきそう?」
中井が尋ねてくる。
「なみえがね~よくわかんないや。今日、変な質問されちゃったし。」
「なんて?」
「やきもちやく?って」
「で?」
「そりゃ、多少はやくよ~ってね、答えたけど」
「へぇ~、お前も妬くんだ♪」
中井はにやりと笑う。
「中井ほどじゃないでしょ?」
文菜は負けじと、何食わぬ顔して答える。

「あ、もしもし。」
『もしもし~やっほう、なみえゃん♪今日どーだった?』
なみえは、1階ロビーの電話BOXの中から、広川に携帯で電話する。なぜ、電話したかというと、広川からメールが入っていたから。
『ひと段落したら、電話してね♪』と。
「今日は、市内自由行動でした。」
「おぉ~なんか、そんなことを聞いたわ。…だれと回ったの?」
広川はさりげなく尋ねる。
「あ、えと、文菜たちと回る予定だったんですけど、はぐれてしまって、新垣君と…成り行きで。」
『…そか、成り行きね、…しょーがないか。』
「ごめんなさい…」
『ん~いいよ♬俺の言ったことわかってきてくれてるみたいだしね』
「…?」
クスクスっと広川は笑う。
「…」
なみえは何かを考えるような表情をして少し黙り込む。
『?どしたの?』
「あ、いえ、なんでも…」
『何なに、気になるから言って?』
「ん~、今日、広川さんこっち来てないよね?」
『こっちって、そっち?』
「うん…」
『やだなーそんなわけないよ!』
「だから、いいって言ったのに…」
『あはは♪ごめんごめん。でも、俺の会いたいな~って気持ちが飛んでいったのかもね♪』
「あ…」
なみえは顔を赤く染める。

「とりあえず、ジュース買いには来たけど、早く帰っちまっていいのか?いや、むしろ遅くなったらなったでまずいか…」
このままあの二人のいる部屋に帰ってよいのだろうか、と本気で考えながら新垣はロビーにやってきた。
ぼちぼち、消灯の時間が迫る21時半という微妙な時間帯。
他の生徒はお風呂に入ったりしているのだろうか、1Fロビーにはまだらにしか人が居ない。
「あ、売店は2Fか。」
そんなことを考えながら、新垣はふらふらと歩く。
「あれ、なみえっちだ。電話してんのか♪ちょっと待ってよう~っと。」
そう言いながら、電話BOXに近づく。なみえは、新垣から見たら背中を向けた状態である。
ぼそぼそと、なみえの声が聞こえる。
「あ、ちょっと近すぎ?内容は聞こえないけど、声聞こえちゃうや。」
そう呟きながら、少し離れようとした瞬間、かすかに「広川」「塾」というキーワードが聞こえてきた。
「え…?」
新垣は、そのキーワードから連想される人物が1人浮かび上がり、イラっとする。
そして、そのままそのBOXから死角になるところに隠れてしまう。チラッとなみえを覗いてみるが心なしか楽しそうに見えてくる。
「どーゆうことだ?」

電話を切り、広川はパソコンに向かう。
「やっぱ、俺の視線に気づいてたのか。すげ~な。いくら敏感だからといって、これまで俺の尾行がばれた事も、ばれそうになったこともない。」
だって、あの時、新垣に向かって笑うから。つい、感情がむき出しに…。
「まだまだ、だな。俺も」
広川はふっと苦笑する。
『7月2日:湊中学校、行事により2泊3日予定の修学旅行へ出発する。場所、大阪、またその周辺。日常生活外行動。主に行動を共にするのが、幼馴染。他2名。
1両親の帰宅様子なし。
2幼馴染;林文菜、湊中学校学生、3年生。同中学校内、吹奏楽部部長。幼少時代より交流あり、対象と1番交流が深い人物であるといえる。対象は周囲に自分の家庭環境等、内密に生活。だが、林家とは家族ぐるみでの関係。父親はTsukasa系列会社役員である。
3他2名;同中学校学生、3年生。中井修一。林文菜と交際中。
        新垣薫。中井修一と交流深い。
6対象は周囲との関係を極力作らず、一部の人間としか交流が見られない。』
「こんなもんか…。」
カチャカチャと打ち込み、広川は息を吐く。
「明日の分は、部活面から攻めてくか…」
広川はぼーっとする。
「俺は…あの子と関わっちゃいけなかったのかな…」
いつになく悲観的になる。
「きっと、あんなシーン見て、帰ってきちゃったから、負のイメージが強いんだな。なみえちゃんに会えないし。」
広川は、眼鏡を外し、タバコに火をつけ、しばらく物思いに耽る。

「ただーいま♪」
文菜が、中井と薫の部屋から帰ってきた。
「おかえり。」
「ねーねー、なみえ。下で薫と会わなかった?」
「会ってない。」
「そっか~、様子がおかしかったからどうしたのかなって。」
「そう。」
「ま!明日にはなおってるかな?」
なみえの電話場面に遭遇した新垣は、そのまましばらくその場で呆然と立ち尽くしてしまい、気がついたときにはそこになみえの姿もなく、足取り重く部屋にたどり着いたというわけであった。
なんとなく重い雰囲気の新垣の様子を察し、文菜はすごすごと部屋を出てきたわけである。
それにしても、あれ、どういうことだったのかしら?と文菜は思い返す。
すごすごと、部屋を出て行こうとする文菜に対し、新垣はぼそっと、「なみえっちって、Fゼミじゃないよな?」と尋ねてきた。
そんなわけないっての。なんだったのかしら、ほんと…。そんなことを考えながら夜は更けていく。

「きゃー!なみえ、次!あれ行こ!!」
2日目の予定はUSJだ。文菜は、なみえの手を引き次々とアトラクションを回っていく。
普通の平日ということもあって、休日のような込み具合ではない。
そんな二人に新垣と中井は苦笑いで付いていく。
というのも、新垣の様子は昨日の晩同様、なにかおかしく、よくぼーっとしている。
どうかしたのか尋ねても、「なんでもない」の一点張り。
もちろん、新垣は「広川」という名前に引っかかっているわけだ。絶対違うと分かっていても、どうしても「塾」「広川」ときたら、Fゼミの先生を連想してしまう。
そのこともあるし、やはり自分はなみえのことが好きであるのだと、実感する。
例えFゼミの広川でなくても、昨日の電話の相手は男だった、そういう気がしてならない。これはただの男の直感、好きな人相手だから発揮されるものだと感じていた。
ということは、林もなにも知らないのか?あいつらずっと一緒だって言ってたのに…。そんなことを果てしなく考えてしまっている一日だった。

日は長く、18時でもまだ明るい。イベントとして19時半から花火があがる。
なので、4人は見えるのではないかと予測される位置で場所取りをして座っていた。
「疲れたでしょ。あたし、ジュース買ってくるから待ってて!」
「あ、じゃ、俺も行く。」
なみえはコクンとうなづき、新垣も「わりーな」と返事する。
文菜と中井は「これなら大丈夫かな」とアイコンタクトし、文菜と中井がその場をあとにする。
残された2人の間に沈黙の時間が流れるが、口火を切ったのはなみえだった。
「今日は、どうかされたんですか?」
「え?あ、俺か…?ん~いやわりーな、今日ちょっとおかしかった…よな?」
返答に困り、新垣はポリポリ頭をかく。
「というより、なにかを考えているような…」
あらがはぷはーっと息を吐く。
「ん~、ごめん、俺雰囲気悪くしてたな、2人にも謝らないとな!」
少しふっ切れたように薫は言う。
「悩み事は人に言って抱え込まないのが一番だそうですよ。」
「うん…ありがとな!」
少し苦笑いで新垣は答える。まあ、それは当然だろう、悩みの種がこのなみえであるのだから。
そうこう話しているところへ、文菜が帰ってくる。
「お待たせ♪はい、ジュース」
「あれ、中井は?」
「トイレ行ったわよ。」
「そうか、ジュースさんきゅーな」
「はいはい、少し元気でたみたいね。はい!これはなみえの♪」
「ありがとう」
「お、おう、ありがとな」
文菜のさりげない言葉に、少し照れくさくなりながら、新垣はボソッと感謝の言葉を口にする。

「ふぅ~、今日は疲れたぁ…明日で最後か…。結構、京都の観光楽しみなんだよね♪」
ドサッとベッドになだれ込む文菜。
「そうだね」
そう言いながら、なみえも隣のベッドに腰掛ける。
「でも、昼までってのがかなり残念!時間の都合上しょうがないんだろうけどさ!!将来いろーんなトコロに行ってみたいな♪高校入ったら、バイトでお金貯めて~あ、でも、部活もしたいし…」
「文菜はいっぱい夢があるね」
「夢というか…野望?なーんてね♪あ、今日電話はいいの?」
「そうだった。今からしてくるね」
そう言い、なみえは立ち上がる。
「いってらっさい♪」
話を振って、なみえを見送ると、文菜は携帯を取り出し、メールをうった。
『なみえ、ロビー行ったよ』
送信相手は新垣。
「でも、なんで教えてなんてわざわざ言ってきたのかしら?告白すんのか?いやいや…」
文菜はもんもんとそんなことを考えていた。

「もしもし」
『もしもし♪』
「…広川さん、もしかしてお仕事中でした?」
一瞬間があき、なみえはそう尋ねてみる。
『うん、事務の仕事だから大丈夫。そっちはどう?今日はUSJだったんじゃない?』
「はい、よくご存知ですね。楽しかったです。」

電話は5分ほどして切られ、なみえは立ち去る。
「やっぱ、広川って言ってたな…しかも、しっかりは聞けなかったけど、打ち解けた雰囲気だった…」
新垣は身が隠せて、ギリギリ声の聞こえるところで話に耳を傾けていた。
そう決まったわけではないが、もし、Fゼミの広川だったら、なぜ2人は知り合いなのだろうか、つじつまの合わないことだらけだ。でも、なにかがひっかかる…俺は、なにか、あの広川と結びつかせる何かを知っている気がするのに思い出せない。
そんな、もやもやした中で新垣は思考を巡らせ、混乱していく。

修学旅行最終日、貸し切りバスで京都観光を行い、そのまま帰路につく。
学校に戻ってきたのは夕方で、それから生徒は解散した。
「ねぇ~新垣君♪なみえ送ってってくんない?」
満面の笑みを向けてくる文菜に新垣は、やや引き気味となる。
「い、いいけど、お前らは?」
「私は中井んちよって帰るから」
「あーそうかよ。」
少し、げんなりした表情で新垣は答える。
「なみえ、ごめんね~?」
「うん、またね。」
「よし、じゃあ帰るか!なみえっち、荷物貸して?」
なみえは首をかしげる。
「なぜ?」
そして、新垣はクスッと笑う。
「荷物をお持ちいたします♪」
そう言いながら、新垣は手を出す。
「いえ、大丈夫です」
「いいから、男って荷物少ないしさ♪ね?」
「では、お言葉に甘えて…」
しぶしぶ、なみえは荷物を差し出す。
「それでよし!んじゃ、帰るか♪」

「どしたの、なみえっち?」
いつもの道をたどりながら、二人は帰っている。なにか考え事をしているように見えたのか、新垣は尋ねる。
「あ、いえ。なぜ、男の子はそんなに荷物が少ないのですか?」
思いもよらない返答に、新垣は噴出す。
「いや~なんでだろうね。あはは♪」
そんなに面白いことを言ったのだろうかと、なみえは考える。そして、ふと視線を落とす。
「薫君、靴紐がほどけていますよ」
「あ、ほんとだ。ん~じゃあ、ちょっと休憩ついでに、公園よっちゃっていいかな?」
ちょうど、いつもの公園にさしかかったところであった。
「はい」
そう言い、二人は公園の中に入っていく。
新垣は、公園内にあるベンチ椅子に荷物を置き、靴紐を結ぶ。
「ちょっと待ってて!」
そして、そう言って公園内にある自販機に向かう。
なみえは、その様子をなんとなく見ながら荷物の横に座る。なみえがぼーっとしている間に新垣は、戻ってくる。
「はい、これ」
そう言い、ジュースを差し出す。
「あ、りがとうございます。」
少し呆けていたので、なみえは驚いた面持ちで答える。
「おう♪」
そう返事しながら、薫はなみえの隣に座る。
「お金…」
「あぁ、いいって。修学旅行だから、親からいっぱいお金もらったし♪」
「ありがとう、ございます。」
「はいはい♪またなんか、考えてた?疲れてんのかな?」
「あ、いえ。薫君は、もう大丈夫なのかなと…」
なんと言っていいのか分からず、なみえは口ごもる。
「あ~昨日ね」
そう答え、新垣はチラッとなみえを見る。それに気づきなみえも新垣を見上げる。
視線の先の新垣はぱっと目を逸らし、息を整える。
「実はさ…」
そう、切り出し、黙ってしまう。なみえは、どうしたのだろうかと考えながら、新垣が話しだすのを待つ。
新垣は、ひざの上で握りこぶしを作り、さらにグッと力を入れる。
「実はさ、俺少し前から気になる人がいてさ…。こないだの期末あっただろ?そんくらいから…」
なみえは、何も言わずに新垣の話に耳を傾けている。
「初めは、ホントに気になるだけ…だったんだけど、気がついたらよく、その子のことばっか考えてる自分に気がついたわけ。そんで、俺はその子の事が好きなんだって気づいたんだ。」
新垣は、パッとなみえの方を向き、握ったこぶしを開き、なみえの手首をつかんだ。
「俺は、舞束なみえが好きだ。」
「えっ…」
なみえは驚く。真剣な新垣の目と視線が合わさり、なみえはその勢いに圧倒される。そして、ふと我に返り、なみえは顔を横に向け、熱い視線から目をそむける。
視線を逸らされ、新垣は静かにショックを受ける。そんな中、遠くに車の音が聞こえ新垣はハッとする。
「そういえば、なみえっち、前にダークグリーンの車に乗った。広川もダークグリーンの車…しかも、あの車種にダークグリーンはないから、特注だって、金持ちかよって思った。なんで、そのときに気づかなかったんだ。やっぱ、電話の相手はあの広川じゃないのか!?」
この一瞬で、新垣の思考回路がフルに回転し、その結論に至る。そして、彼の中の理性がプツンと音を立てて切れる。
新垣は、つかんだなみえの手首を引き寄せ、強引に抱きしめる。
なみえは、なにが起こったか理解できずに目を見開いている。
そして、新垣はそのまま、なみえに口づけをする。それは、口づけと言うほど甘いものではなく、なみえの頭の中は真っ白になる。
ブルルルーン…と車が近くを通る音がした。その音で、2人は我に返る。
なみえは、新垣を突き返し、荷物を持ってそのまま立ち去った。新垣は突き返され、しりもちをついた状態で、呆然としていた。
「くそっ、なにやってんだ俺は…」
そう呟きながら、地面を叩く。
 「なみえっち、もしかして初めて?…いや、あいつなんかが手をつけずにいるわけがない。」
そんなことを考えながら、行き場のないイライラをもう一度、地面にたたきつけた。

家に帰ったなみえは、急いで洗面所に行きうがいをした。
「口の中に…。」
先ほど新垣にされたことを思い出す。
「気持ち悪い…」
頭をかかえながら、なみえは自分の部屋に行く。
しばらく、なみえは呆けていて、ふと我に返り、広川の顔がよぎる。
「私、広川さんとお付き合いしているのに…。広川さんに合わせる顔がない。どうしよう…」
行き場のない、なんとも言いがたい感情を抱きながら、なみえは絶望に支配される。

本日の広川は、なみえが帰ってくる時間帯を見計らって、迎えに行こうと画策していた。
そして、彼はなみえが新垣に唇を奪われる瞬間を目撃してしまった。そう、そのときちょうど通った車は広川のものであったのだ。
広川は、その後そのまま塾へ向かい、やりきれない怒りで珍しくイライラしていた。だがまぁ、周りからしてみれば特に変化はうかがえないのだが…。
そこへ、塾のドアが大きく音を立てて開いた。それと同時に一人の青年が塾内へ入ってきた。
「おい、広川。ちょっといいか?」
それは紛れもなく、新垣であり、新垣は広川に近づきながらそう怒鳴った。
新垣の声を聞くやいなや、広川はするどく眼光を研ぎ澄ませ、新垣を見た。
そして、何を応えるでもなく立ち上がり、二人で例のごとく、塾内暗黙の了解の喫煙所へ向かう。
「…」
喫煙所まで出てきた広川は、新垣に背をむけ、何も言わずタバコに火をつける。
広川の後ろに突っ立った新垣は、奥歯をかみ締め、ぎゅっと手を握り締める。
「お、まえさ、うちの中学の舞束って知ってるか?…いや、知ってるだろ?」
広川は、直球で来たな、と思いながらタバコを吸い、煙をゆっくり吐く。そして、ゆっくり新垣を振り返る。その目つきはもはや堅気のものとは思えない。
「知ってたらなんだ?」
広川の眼光は鋭く、そして冷たい。
「いや、付き合ってんのか?」
新垣はどう反応していいか分からず、少したじろぐ。
そんな新垣を横目に、広川はため息をつき答える。
「付き合ってたらなんなんだ?」
新垣の頭の中が真っ白になる。
「…本気か?」
新垣は少し震えて言葉を発する。広川は、何も答えずタバコだけをふかす。
「なぁ、おい、答えろよ!」
新垣は広川につかみかかる。その弾みで、広川はタバコを手放してしまう。
「俺は、本日非常に虫の居所が悪い。心当たりはあるか?」
その言葉を聞き、新垣は血の気が引き、つかみかかった広川の服を手放す。
広川は、落としたタバコを拾い、灰皿に捨てる。
「俺は、まだちゃんと把握できていないが、彼女の状況によっては、お前、覚えとけよ。」
それだけ言い残し、広川はその場を立ち去る。
残された新垣は、その場に立ち尽くすことしか出来なかった。

塾内に戻った広川は、平然を装いながら席に戻るが、周りは何があったのだろうかと、少し緊張しながら広川に目線をやる。
その視線に気づき、広川は「いやぁ、思春期の悩みってヤツですね。あいつも難しい年頃なんですよ」と、コメントし、その場はまるく収まる。

広川は、仕事を早めに切り上げ、車の中からなみえに電話をかける。だが、すぐに留守電になり、何度かけてもなみえはでない。
「…」
広川は、タバコをふかす。そして、そのままハンドルにうつぶせになる。ゆっくり目を開きエンジンをかけ、車を発進させる。向かう先はもちろん、なみえのもと。

家に帰った新垣は、部屋に閉じこもり、ベッドに横たわっている。
頭の中をグチャグチャといろいろなことが駆け回る。
「俺ってさいてーじゃん」
ボソッと、呟いた声が部屋に溶け込む。

ピルルル…
携帯の着信音が鳴り、ワンコールだけなのでメールか…と思いながら、なみえは携帯をみる。
先ほどはしばらくなり続けていたので電話がなっていた。この携帯にかけてくる人は1人だけ。広川さんだけ。でも、今は彼と喋れない。そう思ったら、なみえは携帯を見ることもできなかった。今回はメールなので、いちおう目を通してみる。
『今、なにしてるの?外でまってるから、少しだけ出てきて』
「どうしよう…」
メールをボーっと眺めているとまた、携帯がなる。
『出てくるまで待ってるからね♪』
「出て行くしかない…」
鉛が乗っているのではないかと思われるぐらい重く感じる体をもち起こしながら、なみえは立ち上がり、広川がいると思われる場所にまで赴く。
思ったとおりの場所にダークグリーンの車はあり、なみえは助手席側の窓をコンコンとたたく。
ドアがあき、広川が迎え入れる。乗り込むなみえは、うつむき広川と目をあわそうとしない。
「ごめんね、強引に出てこさせちゃって。じゃないと、話が出来ないと思ったわけ」
「え?」
なみえは、訳がわからず目を見開き広川を見る。
「今日、辛いことがあったんだよね?大丈夫?」
苦笑い気味で、広川は話しかける。
「な、んで…?」
そう、答えながらなみえの頬を涙がつたう。
広川は黙って、なみえの肩を抱き寄せて優しく抱きこむ。
なみえは、余計に涙が止まらなくなり、わずかに声を上げて泣く。
「守ってあげられなくて、ごめん…」
広川は心の中で呟く。この子は、俺が来るまで泣きもせずにただひたすらに絶望と戦っていたのだろうか…。強いのに、なんてもろい子なんだろうか。そう思いながら、広川はいっそうなみえのことを強く抱きしめる。
「君の事、これから絶対守っていくから」
今度は、声に出して広川は呟いた。
その言葉がなみえの心の中に優しくしみこんでくる。
それと同時に、広川に対して申し訳ないという気持ちがよりいっそう強くなる。
「あ、の…。私、広川さんに…」
なんと言っていいかわからず、なみえはそこで言葉を詰まらせてしまう。
「俺に悪いとか思っちゃってるんだろ?…だれが悪いかってゆうと、あいつなんだから、なみえちゃんが俺に罪悪感を抱くことはないよ。確かに、俺もなみえちゃんにキスなんてしたことないんだからかなりの勢いで妬けちゃうけどね。」
「…あぁいうことってするんですか?」
広川は、なみえを抱く力を緩める。
「キスのこと?」
「…そう。それに、舌まで…」
なみえはうつむき加減で、心ここにあらずな表情で話すが、話すにつれそのときのことを思い出したのか、右手で口を押さえる。
「舌って…」
あいつ!ディープまでしやがったのか!遠目じゃそこまで分からん。一発くらいお見舞いしときゃよかった!広川の顔が引きつる。
「ん~色々かな?お互い好き同士だったらしたくもなるだろうし…したくなかったら無理にすることではないと思うよ。」
広川が、表情が引きつり気味に答える中、なみえは顔をしかめていく。
その表情の移ろいを広川は切ない表情で見つめる。そして、息をふぅっと吐く。
「まぁ、でもあいつのやったことはお互い好き同士でもなきゃなんでもないんだから、一方的にあいつが悪いんだ。気にすんなってのも無理な話だとは思うが…」
そこまで話して広川はなみえを見る。なみえはしかめた表情から、また遠い目をしていた。
「…広川さんも」
「え?」
そんななみえの口が突然開き、そう言葉を発する。
「広川さんも、あぁいうこと…」
なみえはどこか、男を、いや人間を軽蔑するかのごとき眼差しを広川にむける。
広川の目の色が少し変化する。どう答えることが彼女の成長を促すことの出来る正解なのかと考える。
考えている中、なみえと目が合う。
「…、そりゃあ好きな子が相手だったらしたいと思うよ。人間だもの。」
なみえは、広川と合った目を逸らす。
「でも…」
広川はポソリと付け加える。なみえはその声につられ、広川に視線を向ける。
「なみえちゃんが求めないなら、俺は絶対にしないよ。好きな子を傷つけるのは、俺のポリシーに反するからね。」
広川は苦笑気味に応える。
なんの打算もない答えだった。なみえを目の前にすると、広川はどうしても素直にならざるを得ない自分を身にしみて感じる。
「…帰ります。」
なみえはそういうと、車のドアを開ける。
「ごめんなさい。また、連絡します。」
「うん。じゃあね」
バタン、とドアがしまる。遠ざかるなみえを広川は窓越しに見送る。
「はぁ…俺のすべては、なみえちゃんを中心に回ってるんだよ…」
広川は、ため息をつきタバコを取り出し火をつける。
ハンドルに突っ伏しつつ、タバコを持った逆の手でグーを作り、ハンドルに叩きつける。
「くそっ。全部あいつがわりぃんだよ」

休日あけの月曜日、文菜と中井は…というよりクラスの一部のものは何事だと目を疑った。
新垣がなみえを避けているのだ。そして、非常に暗い。なみえはいつも通りなのだが…その二人の関係はいつもと違っていた。
「なんなの?なんかあったの?」
文菜は中井にこそっと問いただしてみる。
「知るかよ。この休み新垣と連絡とってねぇんだから…」
中井もこそっと応える。
「修学旅行の帰りが怪しいわね。まどろっこしいからいくわよ!」
文菜は言うと同時に新垣のほうに向かって歩き出す。
中井は「へっ?」と間抜け声を出しながら文菜についていく。
文菜は新垣の前に仁王立ちになる。
「兄さん、ちょっとご同行願おうか?」
「お前、その言い方…」
中井は口の中でぼそぼそ突っ込むが文菜はお構いなしの様子で、新垣の前に立ちはだかる。
「はぁ…」
新垣は、重いため息を一つつき、席を立ち上がる。
そんな三人が教室から出て行く様子を見ながら、ゆかりはなみえのところに近づいていく。
「舞束さん、ちょっといい?」
ゆかりが廊下のほうを指差しながら言ってきたので、なみえは外に行くのかと理解する。
「はい」
そういいながら立ち上がり、先に歩き始めるゆかりについていく。
クラスの一部はそれらの出来事をなにごとだ?と思いながらも、そっと見守っていた。

「なにー!なみえにキスしただぁ?」
校舎裏の非常階段に拉致られた新垣は、やっと重い口をひらき、ある程度のことを話した。
聞いたうえでの文菜の反応。中井は言葉を失っている。
新垣は話したあと、頭を抱え込む。広川のことだけ、言いづらくて伏せて話した。
「でも、なんでそんなことになったの?」
新垣の肩がピクっと反応する。そして頭を上げる。
「中井、ちょっとだけ席はずしてもらっていいか?確実じゃないし、これはなみえっちと林の問題になってくるから…」
「あ、あぁ」
中井は返事しながら、その場から少し離れる。
「実はさ…」
中井が離れていくところを見ながら、新垣は口を開く。

「新垣となんかあったの?」
連れ出されたなみえは、ゆかりとともに体育館裏のテニスコートのベンチに座っている。
ちょうど、木陰になっていて涼しい場所だ。
「急に…好きだと言われて…、口に…」
なみえは話しながら、両手を口にあてる。
「まさか、キスしてきたの!?なにも返事してないのに?」
「はい…」
ゆかりは呆れ顔だ。
「舞束さんは、新垣のことどう思ってるの?」
「…あの、私お付き合いしている方がいて…」
「ぇえ!?」
呆れ顔がかなりの驚き顔になる。
「あぁ、そうか。んじゃ、困っちゃうよね。…以外にやり手ね。」
最後の一言は、心底な感想だ。なみえは、とくに何も発さない。
「それにしても、あいつ最低ね!ちょっと前まで好きだった自分が恥ずかしいわ!」
「そうなんですか?」
「…知らないのは、あんたぐらいよ?」
ゆかりは苦笑いする。
「…そういうの…わからなくて…」
なみえは遠い目をする。そんななみえを横目で見つつ、ゆかりは大きく伸びをする。
「ふ~ん…。その…付き合ってる人ってのは、どーなの?この学校の人とか?」
「…この学校の方じゃないです。」
「…年上?」
「はい…」
「いくつ?じつは、あたしも最近気になりかけてる人が年上なんだ!」
なみえは、ポカンとする。
「あ、歳は知らない…」
「え、マジ?それありなわけ?」
ケタケタとゆかりは笑う。
「何してる人?学生?」
「…お仕事。塾の先生」
「えっ?」
ゆかりはドキッとする。
「実は、あたしが好きな人も塾講!Fゼミ行ってんだけど、そこの広川先生って人!」
塾講師という共通でゆかりは驚きながら、ストレートに言う。
今度は、なみえがドキッとする。
「あ…」
なんと言っていいかわからず、なみえは口ごもる。
そんななみえの様子を見て、ゆかりはハッとする。
「え?まさか…舞束さんの彼氏って…」
「…広川さん…です。」
「うわっ…あっぶねー…」
ゆかりはポカーンとする。胸が傷つくのを感じながら、そういう。
「好きにはなってなかったからセーフ!」
「え?」
「あんたは、ことごとくあたしの恋路を邪魔しちゃってくれるのね」
「あ、ごめんなさい…」
「いやいや、あたしに魅力がないのが悪いのかな」
あははとゆかりは明るく振舞う。
「…」
「ねぇ、そのこともちろん、文菜は知ってんでしょ?」
なみえは首を振る。
「それは~マズイんじゃない?そういうことは自分からちゃんと伝えないと!文菜と付き合い長いんでしょ?」
「はい…」

「え…?」
「いや、だから…その…」
絶句する文菜に対し、新垣はあたふたとしてしまいどうしていいかわからない。
新垣は推測の範囲で文菜になみえと広川のことを話してみた。
「大丈夫か?林。まだ、確定ではないんだけどもだな…」
そう言いながら、ほぼ確定ではあるけどな…と思う。
文菜は、頭の中が真っ白になっていくのを感じる。そのまま、文菜は何も言わずにその場を立ち去る。
新垣はどうすることも出来ず、そのまま文菜を見送る。

予鈴がなり授業が始まる。
教室には、すでになみえとゆかりは帰ってきており、そこへ放心状態の文菜が帰ってくる。
文菜が放心状態で席に座るくらいに、次の授業の教諭が入ってくる。その少し後くらいに、新垣と中井が教室に入っていく。
何事もなかったかのように授業が始まる。
文菜は、ぼーっといろんなことを考える。
『ショック…は、かなり受けた。でも、あの子の立場に立つと…あの子は自分から言える子じゃない…。でも、相手が広川だって事を差し引いても、ショックのがでかい…。…ん?待てよ。違うな…なみえが悪いわけじゃない。でも、この湧き上がるイライラ感。これは確実に広川に向けられたもの。と、いうことは、私はなみえに隠し事されてたこともショックだが、同時にあの広川に対するこの爆発的な怒りも抑えられないという、なんとも言いがたい感情に支配されているわけだ!なんか、この感情の正体が分かってきて、ちょっとはすっきりしたぞ。』
ふーと、いきを一息吐く。そして、黒板と時計に目をやる。授業の半分が過ぎている。
「げっ…」
文菜はかなり小さい声でつぶやく。
『うわ~やる気なくなった。もぉ今日のこの授業いいや。』
落書き程度にノートは写しとこうと思い、ペンを握る。そして、ふと自分の指に目が行き、自然と左手にはめた指環で視線がとまる。文菜はぼーっと、指環を眺める。
『そういえば…プレゼントを貰ったらうれしいか?なんて聞かれたな…あれは勝手に城川先生が相手だ、なんて思っちゃったけど、違ってたわけで…その相手はなみえだったってこと?』
それからまた、文菜はぼーっとする。
『仁美と話したとき…広川に想われてる子は相当幸せだなって思った。それが、なみえ?』
文菜の、黒板の文字を写していたては自然と止まり、頭を抱え込んだ。
「…い、おい。林。」
文菜はハッとする。
「気分が悪いなら、保健室行っとけ?」
この授業の教諭は、先ほどから様子のおかしい文菜を気遣いそう言う。
「あ!すいません、大丈夫です。」
「それならいいが…」
そんな様子を文菜より後方の席から、なみえは伺い、一瞬二人の目が合う。

「文菜、大丈夫?」
授業が終わり、同時に終礼も終わった。
なみえは席を立ち、文菜の元へ行く。
「あ、うん。…えと、今日」
「クラブ出るけど、文菜は大丈夫?」
珍しく、なみえは文菜の言葉をさえぎるように話す。
なみえはなみえで、少しテンパっているようだ。
「うん。じゃあ、行こうか!」
荷物をまとめ、二人は教室を後にする。
そんな二人を、新垣と中井は遠目で見送る。

部活が終わり、なみえと文菜は帰路にある。
「あのね、文菜。話があるの。」
なみえは、ゆかりに言われたことを思い出し、一生懸命自分を震え立たせてそう切り出す。
「へ?」
「私、お付き合いしている人がいるの」
「…」
文菜の足が止まる。それに気づき、なみえも足を止め、文菜を振り返る。
「…広川さん…。Fゼミだから、たぶん文菜がたまに名前を出す先生だと思う。」
文菜は、頭の中が真っ白になる。うっすらと…だが、確実にこういう展開を予想していた。それでも、脳みその情報処理は追いつかない。
二人のあいだに沈黙のときが流れる。
その間、文菜は一生懸命また授業中に考えていたことを思い出していた。
「なみえって、付き合うって言うのがどういうことかわかってるの?」
文菜の口から、あまり思ってもいない言葉がこぼれる。
「ちょっと待って!応えないで!あたしだって、そんなこと分かってないから!今のあたし、頭ん中ヤバイから!ちょい待って」
頭が混乱したまま言葉を口にした自分に気づき、文菜は慌ててそう言う。
「…」
なみえは黙って、文菜の口が開くのを待つ。
文菜は、ゆっくり頭の整理をする。
「最近」
文菜は整理をしながら、ぼそっとつぶやく。なみえはそんな彼女に視線を合わせる。
「最近、あいつ。広川さ、前と違ってきてて…なんつーか、丸くなってきてるってか…」
うつむき加減で話し出した文菜であったが、顔をおもむろに持ち上げる。
「よし、うちで話そう!それまでにちょっと整理するからさ」
文菜はにかっと笑う。
「うん」

道中、文菜はいつも通り他愛ない話を続けた。
文菜の家に着き、なみえは文菜の部屋に通され、ちょこんとその場に座る。文菜はお茶を注いでくるといい、部屋から出る。
久々にきた幼馴染の部屋。自分の部屋と違い、女の子らしい雑貨などがたくさん置いてある。
そういえば、自分は他人の部屋を文菜と広川の物、二つしか知らないけど、広川さんの家はどらかといえば自分の部屋と近く殺風景であるなと感じる。
そんなことをぼーっと考えていると、文菜が戻ってくる。
「そぉいや、なみえがうちに来るの結構久々ね」
あははと笑いながら、文菜はテーブルにお茶二つを置き、なみえの向かい側に座る。
「なんか、改めて話すのって緊張するもんね」
今度は苦笑いをする。なみえは表情を変えない。
「…今さ、広川のこと考えてた?」
「え!?」
表情を変えないなみえを見て、文菜は思ったことをそのまま言った。
「さっきさ、広川が丸くなったって言ったけど、あんたも変わったのよね。」
「?」
なみえは首をかしげる。
「あんた、表情が柔らかくなったのよ。たぶん、長年なみえのそばにいたあたしだから分かるんだと思うけど。」
「…」
「あたしは、広川が嫌い。でも、最近変わったことは認める。それは明らかに女が絡んでるなとは思ってた。プレゼントすると、相手は喜ぶか?とか、めちゃくちゃ優しい顔で聞いてきたのよ。」
そういえば、このとき、相手は城川先生か聞いたら、「違う」とか言いながらあたしに不敵な笑みを浮かべてたけど、あれってもしかしてあたしへの挑戦!?
いいながら、そんなことを考え、文菜はふつふつとイライラが増す。
「なみえ!もしかして、あいつ、あたしとなみえが仲いいって知ってる?」
「うん」
「やっぱりか!なにかとむかつく奴ね!」
「どうしたの?」
「あいつは、知っててあたしに挑戦的な挑発をしてきたのよ!ほんとむかつくわ!!」
「?」
「まぁいいわ!はぁっ…」
文菜は息を整える。
「前に、仁美と一緒に帰ったとき、あの子広川に告ったって話を打ち明けてくれたんだけど」
なみえはコクンと頷く。
「あんとき、あんた途中でいなくなったから話が中途半端だったと思うんだけど、あいつの仁美の振り方は、とても今付き合っている相手を大事にしてるなって印象を受けたわ。それが…その相手がなみえ、あんたなのね」
切ない表情をうかべ、文菜はそう語る。
「…」
「ちゃんと、なみえの口から打ち明けてくれてありがとね」
「うん、でも今、どう広川さんと接していいかわからなくて…」
文菜はきょとんとする。
「なんで?」
「…あの、新垣君のこと…」
「あ…」
そおいや、そうだった!文菜は広川のことでいっぱいいっぱいになりすっかり、新垣となみえのあいだに起こったことを忘れていた。
「知ってる?」
「あ~あいつが一方的にってやつでしょ?」
文菜はげんなり顔で尋ねる。
「うん…」
「それと、広川となんか、直接関係ある?」
「あ、えと、ちょうどそのとき、広川さんに見られて…その話を広川さんとしてたんだけど、なんか…怖くなって…」
なみえにしては珍しく、どういっていいかわからず躊躇いがちに話す。
「なにが?」
「…」
なみえの返事を文菜は気長に待つ。
「…っ、男の人と付き合うってこと?」
なみえの言葉に、文菜は若干ガクッとなる。
「もはや、薫のことはもう、どーだって言い訳ね。」
と、文菜は口には出さず、心の中でいいながら、うーんと考える。
「大丈夫よ。」
考えた割りに、ケロっと文菜は答えを出す。
「え?」
「さっき言ったでしょ?広川はあんたのこと、大事にしてるって」
「…」
「男と女が付き合うってことは、キスのひとつや二つはもちろん、それ以上だってあるもんよ?」
「そうなの?」
文菜の言葉に、なみえはポカンとなる。
「そう!」
「それ以上って?…舌とかもってこと…?」
なみえの口から発せられる言葉に、文菜はやや赤面する。
「う、うん、まぁそんなの序の口ってか…」
「そうなの?私、新垣くんにされるまでしらなくて…驚いてしまって…」
「…」
あいつのしたキスってディープか。文菜は顔を引きつらせる。ってことは、ほんとに広川なみえにほとんど手出してないのか。
「まぁ、それは置いといてさ、悔しいけど、相当広川はあんたのこと大事にしてると思うわよ」
「…そうなの?」
なみえは、きょとんと文菜を見つめる。
「…ちょっと!あんた、いつもそんなことすんの!?」
「そんなこと?」
文菜は、頭を抱える。この子、ただでさえ可愛いってのに、質問するときこんな上目遣いして…天然にもほどがあるでしょ!?
「はぁ~…ほんとに、広川頑張ってると思うわよ?」

文菜の家を後にして、なみえは家に帰る。といっても、徒歩1分の距離だが。
歩きながら、文菜に言われたことを思い出す。
  「広川は、あんたに触れたいって思いを最大限に抑制して、あんたと接していると思われる!それって、すごいことよ?薫がしたことは、抑制し切れなかった結果なんだから…。本当は、広川だってなみえにたくさん触れたいし、キスしたいって思ってるはずなんだから。そんな、大切ななみえに、冷たくされたら可哀相よ?」
なみえは、玄関の鍵をあける。
「広川さんの気持ち…」
玄関のドアを開けながら、なみえは呟く。
そして、自分の部屋へ行き、そのままの格好でしゃがみこむ。
「…私が、広川さんの立場だったら…。他の女の人にキスされていたら…それを見てしまったら…」
なみえは、ぼそぼそと呟く。
「嫌…」
そう言い放つと、なみえは立ち上がり、机の上におかれた小さな紙袋を掴み取り、家から飛び出した。

「はぁ…」
「…」
新垣は中井の部屋にいた。中井はじ~っと、というよりは、じと~っと新垣を見る。
「お前さ、何も言わないなら帰れよ?」
と、言っていいのか考えながら。
チャラッチャラッチャ~♪
そんなところに、場の空気を乱すメロディーが流れる。
ウワッ、と思いながら中井はズボンのポケットに入った携帯を取り出す。
そんな中井を、今度は新垣がじと~っと見つめる。
「林だろ…」
「おう」
久々に発するセリフはそれかよ、と思いつつ中井は答える。
「はぁっ」
今度は、短くため息をつく新垣を横目で見つつ、中井は電話に出る。
「もしも~し。おう。今?あぁ、いるけど。…あいよ。」
「なに、来んの?」
「ん~、あぁ…」
中井は携帯をいじりながら返事する。
「帰れってか?」
ふてくされながら、新垣は尋ねる。
「いや、お前に会いに来るそうだ。から、居ろ。むしろ、帰るな」
「…帰ろうかな…。」
ぼそっと、新垣はつぶやく。
「駄目。」
「だって、俺怒られるもん。」
新垣は、遠い目で怒られるところを想像したのか、顔が引きつる。
「知らん、お前が帰ったら俺が怒られるんだよ。むしろ、もう向かってて着くそうだ」
がくっと、新垣はうな垂れる。
―ピンポーン―
がさっと、中井は立ち上がり、部屋から出る。
部屋に人が入ってくる足跡が聞こえ、どーせ怒ってる文菜だろうと思い新垣は顔を上げずにいたが、足跡が止まっても、なにも言葉が発されないため、新垣は頭を上げる。
「…っ」
「こんばんは」
息を呑む新垣の前に立ったのは、なみえ。
「…」
まさかの展開に、新垣はついていけずに、言葉を発することができない。
「あの…」
「…はいっ」
なみえに話しかけられ、新垣は思わず裏返った声で答える。
「お話をしに来ました」
「…」
新垣はなんといっていいか分からず、少しうつむく。そんな彼に対し、なみえは堂々とした態度で向き合う。
「私には、好きな人が…お付き合いしてる人がいます。…なので、私は新垣君の気持ちにはお答えできません。」
「…あ、いや。うん。俺は、正直何といったらいいか…。きっと、謝っても謝りきれないことをしてしまったから…。ほんとに、ごめん。」
「正直、あんなことをされたのは初めてだったので、とても困惑しました。男の人が怖くもなりました。」
「…」
新垣は、だまってなみえの言葉を聞く。
「でも、終わってしまったことなので。」
まさかの言葉に、新垣は思わず顔を上げる。
「それに、今謝ってもいただきましたし、攻めるつもりはありません。」
「…」
「私は、新垣君を尊敬しているところもありますし。」
新垣は、なみえを見つめる。と、いうより、ぽかんとしている。
「…では、私からのお話は終わりましたので、この辺で。」
ぽかんとした、新垣をよそになみえはそう言い、部屋から出ようとする。
そんななみえの様子が突然視界に入ってきて、新垣は慌てる。
「あ!ちょ、待って!」
なみえは、足を止め、新垣を振り返る。
「あ、えと…」
慌てて引き止めたが言うことをがまとめられていないため、新垣は口ごもる。
「…」
なみえは何も言わずに、新垣の言葉を待つ。
「えと…。あの、ほんとに、ごめんな。んで、ありがとう。できたらでいいけど、またこれまでどおりに喋ってね」
「はい…。では」
そう返事し、なみえはその場から立ち去る。
数秒たってから、中井と文菜が部屋に入ってくる。
「よぉ。仲直りはできたか?」
「…てか、聞いてただろうが?お前らは。」
「あはは♪ごめんね。だって気になるじゃん!ね!?」
そう、いいながら、文菜は中井に同意を求める。中井はうんうんと頷く。
「…まぁ、仲直りができたかはわかんないけど、ちょっとほっとしたかな」
新垣は安堵の声を漏らす。
「まぁ、俺は、舞束さんに彼氏がいることに驚いたが…」
話の急展開に頭をぽりぽり掻きながら中井は呟く。その言葉に、新垣と文菜はピクッと反応する。
「けど、相手があいつかぁ~と思うと、なんかがフツフツとくるな」
新垣の顔が引きつる。
「それは、あたしだって一緒よ!なんで、あたしがあいつと付き合うためのアドバイスしなきゃなんないのよね?」
「そんなことしたのか?」
「ん~、フォーロってか…。だって、あの子があんな顔するんだもん」
「そうなんだよな。途中から、あいつが相手ってのを忘れてしまうんだよな」
「そうそう、ふと改めて考えてみると、相手はあいつだった!みたいな?」
中井は、ふむふむと二人の話に耳を傾ける。
「お前ら、ほんっとその広川ってのが嫌いだな~」
「「そりゃそうでしょ!?」」
中井の言葉に対して、文菜と新垣がはもって答える。
「なんでなわけ?」
二人の勢いに圧倒されつつ、中井は尋ねる。
「「だって、あんのエロ講師っ!!」」
「そうなの?さっきの会話ではそういうイメージは受けなかったけど」
またしても、二人はハモルが同時にはっとする。
そんな二人の様子に、中井は首をかしげる。
「ん?」
「あ、いや…確かに。と、思って…」
「だよね?だって、広川って人、舞束さんにまだ、一回も手だしてないんでしょ?」
「なんで?」
ばっと、薫は中井に強く視線を向ける。
「え、いやほら、新垣にキスされたの初めてって言ってたじゃん?つまりは、ファーストキスだったってことでしょ?」
「え、それ、ディープをってことじゃないの?」
水をさすような文菜の言葉。その言葉を聞き、中井は顔を引きつらせる。
「おまえ…最低だな…あんな純粋そうな子になんてこと…」
新垣はいっきに変な汗をかく。そして、ガクッと頭を落とす。
「いや、まぁ…ファーストキスを奪ったわけでないならいいんじゃない?」

新垣の家を出たなみえは、そのままFゼミのあるほうへと走り出す。
なみえが、Fゼミに着いたとき、ちょうどひとつの授業が終わったところで、広川は一服のため外へ出たところであった。
目の前に息を切らしたなみえがいて、広川は一服しようと思って、持っていたシガレットケースをポロッと落とす。
「なみえちゃん…」
「はぁはぁ…あの…」
なみえの声を聞き、広川はハッとわれに返った。
「あっ、ちょっとあっち行こうか…」
Fゼミの玄関のまん前だなんて、いいネタの餌食になってしまう…。そう思いながら、広川は落としたタバコを拾い、駐車場のほうを指差す。
「あ、はい。…あの、ごめんなさい。職場に押しかけてしまって…」
「ん、大丈夫だよ。」
広川は満面の笑みで答える。そして、なみえの肩に手を回す。
そんな様子を塾内の数名が見ていた。その数名の生徒が、きゃーきゃー言いながら騒ぐ。
「今、広川先生めちゃくちゃ微笑んでなかった!?」
「うっそ、マジで?あれ、だれ??」
「それが見えないの!!うわ~行っちゃった…」
「広川先生も笑うんだね。」
「ね~本当にビックリした」
そう話しながら、その二人の生徒はその場から立ち去る。
「…」
そんな二人の生徒の話を聞きつつ、広川の様子を伺う姿がもうひとつ。
城川だった。
「あれが…彼女?」
城川のつぶやきは、他の者の耳に触れることなく空気に消えた。

肩を抱かれたなみえは、広川にエスコートされるがままに広川の車に乗り込む。
なみえを助手席に乗せ、ドアを閉めた広川は反対側に回り込み、運転席に乗り込む。
乗り込んだ広川は、先ほど吸い損ねたタバコに火をつける。車内に煙が入らないように、窓を開け外に煙が行くようにする。
なみえは、何も喋らずじっと座っている。
「ごめんね、横でタバコ吸っちゃって。いつも、授業終わったら一服するからつい癖で…」
「構わないです。こちらに来ないように、気をつけていただいてますし。」
「うん、すぐ終わるから」
広川は、なみえの様子を伺いつつ話す。
「…、あの。すいません、本当にお仕事の途中で…」
なみえは、いつもの上目遣いになる。
「…」
広川は、なみえの久々の上目遣いに赤面する。
「広川さん?」
「あ、いや…。どしたの?」
「んと…、なんだろう…とにかく、会って謝ろうと思って…」
いざ、用件はなにかと聞かれると、どういえばいいのか分からず、なみえはしどろもどろする。
「謝る?」
「この間、新垣君の件の話をしたとき、私頭が真っ白になって…広川さんにひどい態度をとってしまっていたんじゃないかと思って…」
その言葉を聞き、広川はふっと優しく微笑む。
「いや…。これまでに知らなかったことを、いきなり体当たりで知ってしまったんだ。怖くなったんだろ?」
なみえは、まさかそこまで言い当てられるとは思わず、目を見開く。
広川は、そんななみえの頭をポンポンとたたきつつ、そっと撫でる。
「…」
なみえは、ホッと安堵の表情をもらす。と、同時になにか煮え切らない切ない表情になる。
「あと…」
「ん?どしたの…」
広川は、なみえの表情を見て、泣き出してしまうのではないかと思い、少しあわてる。
「他の人と…あんなことしたのに、責めずにいてくれてありがとう…」
「…っ」
広川はポカンとする。
「私っ、自分のことばっかり…で…きっと、広川さんのこと…」
なみえの頬を涙が伝うが、表情は変わらない。広川はハッとしなみえを抱きしめる。
「もぅ、いいよ!」
「いっぱい…傷つけ…」
広川は抱きしめる力をさらに強くする。
「…ありがとう。」
「…ッ」
なみえの言葉が止まる。広川はそっと、なみえの頭をなでる。

「あ~あ…大ッ嫌いな広川の弁護をする私…」
「マジ、俺って最低だよな~…」
「…あのさ、君たち…どーでもいいけど、俺の部屋で暗くなるのはやめてくれない?」
なみえが、中井の部屋から立ち去った後も、居座り、意気消沈する二人を見ながら、中井は怒鳴り散らす。
「いいじゃない?あんた、あたしの彼氏じゃん?」
「いいじゃん?お前、俺の親友じゃん?」
中井のイラッと度が増す。
「「はぁ~っ」」
3人同時にため息をつく。
「でも…だいっきらいな広川以上に、あたしはなみえが好きだからね…。あの子が傷つくことは出来ない…。そう思って、改めて考え直すと、あんたが一番、あの子を傷つけてんのよね!?」
「…承知しております…」
思ったことをそのまま口に出していきながら、イライラの標的を自分自身と広川から、一気に新垣に持っていく。
「…でも、ここに来た、なみえの様子をみたら…もう吹っ切ってる感じだったわね。」
「…」
新垣は言葉に詰まる。
「まぁ、お前はまず、なみえちゃんの様子を見て、出来るだけ普通に接していくことだな。」
はぁっと小さくため息をつき、中井は見かねた新垣に対しそう言う。
「お、おう…」
「ただし!なみえちゃんに悪いことをしたなって気持ちは忘れないこと!この先ずっとな!」
小さく頷く新垣に対し、中井はダメ押しする。
「…もちろんだ」

「大丈夫?落ち着いた?」
「…うん。ごめんなさい。」
ゆっくり、広川はなみえを離し、表情を伺う。そして、なみえの目じりに溜まった涙を吸い取るように優しくキスをする。
それと同時に、なみえは赤面する。
「あ…」
そして、我に返り、ポケットに入れてあった小さな紙袋を取り出す。
「ん?」
「あの、お土産…」
紅潮したままのなみえがそっと、広川に渡す。
「あけていいかな?」
満面の微笑みの中、広川は問う。
「うん…」
小さな紙袋の中身は、ブルーとグリーンの互い違いの色合いのクローバーのストラップ。
「お!ストラップ?ありがとう。早速、付けようっと」
そういいながら、広川は、ズボンのポケットから自身の携帯を取り出す。そして、鼻歌交じりに結びつける。
「あの、色違い買ったんです」
「付けた?」
ストラップをつけ終わり、広川はなみえの言葉に食いつく。
「付けていい?」
なみえは、広川を見上げる。広川はフッと表情を和らげる。
「ほら、これ見て。俺の携帯」
「あ、一緒」
なみえは、ポケットに入った携帯を取り出す。
そのまま、広川はその携帯を取り、自分の携帯と見比べさせる。
「ストラップ、つけてるじゃん。全部おそろいになったね」
広川の笑顔に、なみえは、照れたように頬を染める。

それから、何事もなかったかのような日々が続く。
「明日、終業式だっけ?」
「うん、明後日から夏休み」
「…」
数日前に、調査報告は終了し、20日…つまり明後日に後の報酬が振り込まれるというメールが入った。つまり、なにかが起こるとすれば、明日に決行されるはず…。そう、広川は考える。
「広川さん?」
なみえは、黙り込んだ広川の顔を覗き込む。なみえと目が合い、広川は我に返る。
「いや?ごめんごめん。終業式は、午前中で終わるんだよね?」
「はい。お昼には帰ると思います。」
「そかそか♪そーいやさ、どこの高校受験すんの?」
「…、M高を考えてて…。」
「そっか、そりゃそうだね。このへんのトップ高っつたら、そこになるもんな」
そういや、新垣も最近成績伸ばしてきてて、M高第一希望とか言ってたな…あいつ、まだ狙ってんのかよ…。広川はそんなことを考えながら、顔が引きつる。

家に帰りついたなみえは、ポストに手紙が来ているのを見つける。
「…」
差出人不明だが、なみえ宛の手紙であった。そっと、封を切り、なみえは手紙を読む。
「え…?」
読みきったなみえは、手紙をくしゃっと握り締める。
「どういうこと…」

終業式がある…ということは、きっと狙うならその後だ。そう考えた広川は、終業式にあわせて、校門前に待機する。
「…守ってみせる。」
広川はそう呟きながら、ぎゅっと手に力を入れる。
ちらほらと、校門から生徒が出てき始める。
しばらく経ち、生徒の波が引き始めたころ、新垣や文菜が校門から出てくる。だが、そこになみえの姿はない。
「どういうことだ…?」
広川は呟き、車から飛び出て文菜のもとへ向かう。
「うわっ!なによ!?」
突然の広川の出現に、文菜は思わず声を大きくする。
「あの…あの子は…?」
駆け寄ってきた広川は、文菜に詰め寄る。
「なみえ?あの子は今日休み。」
「なんだと!」
広川は動揺を隠せず、掴んだ文菜の肩を突き放す。
中井は、訳も分からず自分の彼女に手荒なまねをする男に対し、イラッとしながら、突き放された文菜を優しく受けとめる。
「くそっ、なんだよ…?」
そのやり取りを見ながら、隣で新垣も眉間にしわを寄せる。
「あの…、昨日なみえから電話があって…休むって」
初めは、文菜もイラっとするが、あまりにも、取り乱した様子の広川に対し、文菜は違和感を覚える。
「休む…どういうことだ…」
広川は呟く…。ピリリリリリ…携帯がなる。
「広川…。携帯なってるけど。」
呆然とする広川に、文菜は呼びかける。
「あ、あぁ…」
我に返った広川は、携帯を開く。そして、目を見開き、慌てて電話に出る。
広川の携帯を見て、新垣はハッとする。
「もしもし!なみえちゃん?どこにいるの?…え?うん、わかった…」
広川は早々に踵を返し、車へ戻る。そんな、姿の広川を見て、やはりただ事ではないと文菜は確信し、そのまま広川の後を追う。
「あ、おい、文菜!」
一緒にいた中井と新垣は目を合わせて、文菜を追う。
文菜は、広川の車の助手席に乗り込む。そのとたん、車は発進する。文菜を追っていった、中井と新垣はそれに追いつけず、目の前で発進していく車を見送る。
「なんなんだ、一体…。」
中井は少しだけ、息を切らし呟く。そして、呆然とする新垣に気がつく。
「新垣、どうした?」
「いや、どうでもいいけど。あいつの携帯のストラップみて、改めて付き合ってんだな~って…」
そう呟く新垣を、中井は首をかしげる。

「電話しました…よ」
なみえは、昨日ポストに投函されていた手紙に従い、終業式を休み、今ここにいる。家から近い、港の古いコンビナートの中だ。
呼び出された場所にいたのは、一人の女だった。
その女は、城川明子と名乗り、もう広川には近寄らないよう言ってきた。そして、この場に広川を呼び出すよう要求され、なみえは言うとおり広川に電話をした。
「あなた…一体…。」
「私はたくさん、広川さんのことを知っているわ」
「…っ」
この人、よく聞く城川先生?なみえは、そんなことを考える。
「彼の黒い…裏の部分も…」
「うら…?」
「そ。ほら、これを御覧なさい。」
明子は、そう言い手に持った資料をばら撒く。
なみえは、その資料を拾い、目を通す。
「これ…」
それは、広川が行ったなみえの身辺調査の調査報告書であった。

「お前、なに乗ってんだよ。」
発進してから、広川はわずかに我に返り、助手席に乗り込んだ文菜に呆れ顔を示す。
「なんか…ただ事じゃないと思ったから…」
「…それは、行ってみないとわからない。」
広川の運転する車は、尋常ではないくらいのスピードが出ていた。

「あれが、例の広川?」
「おぉ。」
車に乗った文菜に追いつけず、新垣と中井は帰路にあった。
「ふーん…なんか、かなり取り乱した感じだったけど?」
「今日、なみえっちが休んでることとなんか関係がある、みたいな雰囲気だったなぁ…。てか、あんな広川はじめて見た」
「そーなんだ?」
「おう、冷徹で、血なんて通ってない人間なんだと思ってた。あいつ、笑わないんだぜ?そのくせ、平気で下ネタ言うっていう意味わかんねぇヤツ」
「へぇ~。言葉だけで聞いてたら、舞束と似てるなぁ。下ネタは別として。」
「え?」
「いや、舞束さんも笑わねぇじゃん?無表情っての?なんか、そういう根本的なとこが似てるのかな~って」
「…」

広川のダークグリーンの車が古びれたコンビナートの出入り口を入ってすぐのところで止まり、エンジンを切る。
「なみえ、こんなとこいんの?」
「あぁ、そうらしいんだが…」
広川はシーベルトをはずしながら答える。
「あ、ねぇ…あそこに、いるのって…え?」
文菜は言葉に詰まる。
「…」
広川はそんな文菜の様子を見て、コンビナートの奥の様子を覗き込む。広川ははっとし、呆然としている文菜に話しかける。
「お前は、しばらくここにいろ」
「…」
文菜からの反応はなく、聞こえてんのか?と思いながら、広川は車から降り、コンビナート奥の人影があるところへ向かう。
「なみえちゃん、大丈夫?どうしたの?」
なみえは、地べたにぺたんと座り込んでいる。
「あ、えと…急にお呼びだてしてすいません…」
戸惑いがちに、なみえは喋る。広川は、そんななみえに近づき、寄り添う。
「なにがしたいのですか?城川先生?」
寄り添い、肩を抱きつつ、もう一人この場所に存在する人物、城川明子に視線を向ける。そして、すぐになみえのほうへ視線を戻し、立たせてあげようとなみえを支える。
「大丈夫?立てる?」
そっと声をかけながら、視線がそのまま床へ移る。床に散らばった紙…それには見覚えがあった。自分の作成した調査報告書であった。広川はハッとし、城川明子を睨み付ける。
「どうかされたんですか?広川先生」
「いや…」
広川は躊躇いがちに、なみえへ視線を落とす。
「これ…広川さんが書いたって言われるんです。」
なみえは、広川に支えられながら立ち上がり、広川にまっすぐな視線を向ける。
なみえと視線が合い、広川はぐっと言葉に詰まってしまう。だが、一呼吸置き、改めてなみえを見つめる。
そんな二人のやり取りを、城川は冷めた瞳で眺める。
「あぁ。その通りだ。」
広川は、目を逸らさずに応える。
「塾の講師は、表の姿だって言うんです。」
「あぁ…そうだ。」
広川は、ゆっくり頷く。
なみえは、わずかに足元が震え、立っているのがやっとの状態になる。
「…あなたは誰…なんですか?」
そう言いながら、なみえは支えてもらった手をゆっくり突き放し、広川から一歩距離を置く。人と関わるということはこういうことなのかと、それだったら関わらなければよかった、そういう思いがなみえの中をよぎる。だが、表情に移ろいは見られない。
城川はゆっくりと口の端を持ち上げる。
突き放され、広川は胸が痛むのを感じる。
「俺は、広川だ。ただ、職業は塾講師以外にもある。それを、君には話していなかった。」
「…これは?」
なみえは、床に散らばった紙面に目を落とし問う。広川もそれにつられ、床に目を落とす。
「…その、塾講師以外の仕事の調査報告書だ。」
「塾講師以外の仕事って…なんですか?」
なみえの言葉に距離を感じ、広川は顔を上げる。とても辛そうな表情で。なみえは、紙面に視線を落としたままだ。
「俺は、物心ついたときにはもう、その組織にいた。やってることは、薬の売買から、世の重要人物の身辺調査・誘拐の手引き、殺人…その他、表ではできないことを担って、それを商売としている闇組織だ。そんな所に属している。」
ふと、広川は喋りながら落ちてしまった視線を、なみえの表情に向ける。
すると、なみえと目が合う。いつからか、なみえは広川を見ていたようだ。まっすぐな、瞳で。
「…」
「それで…?」
言葉を失った広川に対し、なみえは話の続きを催促する。
「普通の…塾講師という、肩書きを手にして、普通の生活を送っていた。たまぁに、組織の仕事も回ってきていたが、以前とは比べ物にならないくらい数少なかった。そんな中、久々に舞い込んできた仕事が『舞束なみえの身辺調査』だったってわけだ。」
クスクスクスッ…
その場に笑い声が響き渡る。笑いの主に、なみえと広川は視線を向ける。
「それで、仕事のためにその娘に近づいたの?罪な男ね」
なみえは、また紙面に視線を落とす。信じた人に裏切られることがいかに辛いことか、身を持って体感する。広川は、どう言われようが自分がやってしまったことは、なみえを裏切る行為でしかないため、なにも言えず、ただ城川を睨み付ける。
バンっ!車のドアがしまる音がその場に響く。音のしたほうに3人の視線が向く。
「違うでしょ!なんか、あるでしょ?言い訳しなさいよ!」
車の中で呆けていた文菜は、いつからか三人の話を聞き、車から飛び出してきた。
「なに、ぼーっとしてんのよ!」
「あ、えと…」
広川は、どう答えていいか分からずたじろぐ。
「あんた、さっきまでむちゃくちゃなみえの心配してたじゃん!だいたい、なみえが…。大嫌いだったあんたと付き合ってるって知って、すっごく嫌だったけど、でも!あんたに想われてる子は幸せなんだろうなって…思うようになってたから、だから!なみえの相手があんただって知って、ちょっと安心したのよ。そんな私たちまで裏切るの!?違うでしょ!それでも、なみえが好きだったのは本当でしょ?なみえ、あたしはあんたにも言ってるの。あたしが、あんたに広川を信じていいって言ったのは、勘でもなんでもないわよ。だから、言い訳するように広川になんか言ってやりなさい!」
文菜は一気に怒鳴り、ハァハァと息切れしている。
「…」
広川は、なみえのほうを見る。また、同時になみえも広川を見る。
「広川さん。あなたが私の身辺調査を、仕事を全うしたのは事実でしょう。でも、私と出逢ったのは依頼以前ですよね?」
なみえの瞳は相変わらずまっすぐしたものだ。
「…あぁ、そうだ」
広川もまっすぐな瞳で応える。城川の表情が一気に険しくなる。
「信じてもらえないかもしれないが、俺と君が出逢ったのは、決して作為的なものではない。君と出逢ってから、仕事の依頼が来た。きっと誘拐目当てだろうと思い、仕事が終えたら俺が守ろうと心に誓い、割り切って、仕事を全うした。」
なみえは、コクンと頷き一歩広川に近づく。城川はハッとし、慌てて言葉を捜す。
「でも…あんたは、裏切られたのよ?許すの?」
その直後、なみえはパシッと広川の頬をビンタする。
「えッ?」
誰がそう呟いたかわからないくらい、その場にいたみんながポカンとする。
「許しはしません。でも、今のでチャラ…ってことで。辛い話をさせてしまって、ごめんね?」
広川は、なみえの言葉遣いにハッとする。そして、一気に涙ぐむ。
「あ、りがとう…」
そして、瞬きとともに大粒の涙が、叩かれた頬を冷ますように伝う。そして、なみえはそんな広川にそっと寄り添う。
城川は、チッと小さく舌打ちし、その場から立ち去ろうとする。
「待って!城川先生。」
城川は、文菜の言葉に苦笑いで振り返る。
「まだ、先生って呼んでくれるんだ。大丈夫よ、逃げないわ。警察でも呼べば?」
「いえ…なにが目的だったんですか?」
その会話に、なみえと広川も、城川のほうに視線を向ける。
「…最初は、よくわかんない。なんか、広川先生に彼女が出来たって噂聞いて、広川先生が最近変わったのも感じてたから、本当なんだろうな~って思ってた。んで、失恋かぁって思ってた矢先に…変な男に、広川さんの裏の仕事教えてもらって、『舞束なみえ』を身辺調査するよう依頼するように言われたの。訳わかんなかったけど、報酬もあったし、依頼料も負担するからとか言われちゃったから…」
「言われたとおりにしたの?」
文菜は問う。
「そ。途中で、広川さんの彼女が『舞束なみえ』なんだって知って、5日ごとにくる調査報告みながら、なんかチャンチャラおかしくなってきちゃって…私から広川さんを奪ったんだから、私も広川先生を『舞束なみえ』から奪ってやろうと思ったの。なんか、冷静になって考えると馬鹿げてるけど、やっぱそのときは頭イッてたのね。しかも、結局失敗だしね」
城川は、開き直った笑顔で3人にそう話す。広川となみえはパチクリと目を見合わせる。
「城川さん、その男って?」
広川は、今の話で気になったところを尋ねてみる。
「本当に、知らない人。スーツ姿でお堅い感じだった。塾終わって、帰るときに突然声かけられたの。名前も…なんだったかな…中、河原って人だったかな。」
なみえはピクっと反応する。
「その男の目的は一体なんだったんだ…」
広川は腕組みしながらそう、呟く。
「城川…さん、私は警察に通報もなにもする気はありません。文菜は、あなたのことが好きだと言ってました。きっと、他にも慕っている生徒はいると思います。また、もとの先生に戻られてください。」
なみえは、そう城川に伝える。
「無理よ、かわいい生徒に醜いところ見られちゃったわけだし。警察呼ぶ気がないなら、私はここから消えるわ。それじゃーね」
城川は、切ない表情を必死に堪え、そう言いながらその場から去っていった。

「とりあえず、一件落着かぁ…」
城川が去った後、広川となみえと文菜は、広川の車にて家まで送ってもらっているところだ。なみえは助手席に座り、文菜は後部座席にいる。
「そうね、文菜。色々ありがとう」
「いいってことよ!」
そういう会話をしながら、後ろから広川となみえを客観的に見てみる。
「なみえちゃん、けがとかしてない?」
「うん、大丈夫」
なみえは、運転している広川のほうを向いて、ニコっと笑う。
うわっ、なみえが笑ってるよ。すげ~。しかも、敬語じゃないし…。なんか…
「変な感じ~」
文菜は、途中から声に出していることに気づく。
「なにが?」
なみえは振り返りながら唐突に発言された文菜の言葉に問いかける。
「ありえない二人のツーショットを、ありえない位置から見てるから…しかも、なんでちゃん付けなわけ?なみえも、広川さんって苗字だし…」
「…こんなにかわいいのに、呼び捨てになん出来るか」
広川は明らかに照れ隠しのため、顔に力を入れている。
「あーはいはい」
文菜は、それ以上は突っ込まないことにする。
「…私、広川さんの下の名前知らない…」
なみえはポカンとしている。
「マジ!なんじゃそりゃ。」
「ちなみに、俺の下の名前は倞吾。人偏に京都の京と…漢数字の五の下に口で倞吾。教えたんだから呼べよ?」
「うん…倞吾さん?」
「はい!」
「あ、呼んでみただけ…」
「おいこらっ」
「ちょっとそこのバカップル、あたしの存在忘れてない?」
後部座席にて、文菜はじと~っとした目で、二人を見つめる。
「おぅ、わりぃな!」
「バカップル?」
文菜は相変わらず、じと~っとした視線で、腕組み足組みをしながら二人を見ていたが。ふいに思ったことを口に出して言う。
「そういや、どうやって知り合ったの?」
広川はギクっとしたようなそぶりを見せる。
「なみえ?」
広川の様子が怪しいと思いながら、なみえに話を振ってみる。
「ん~と、文菜の誕生日プレゼント買いに出てたときに、突然話しかけられたの。」
・・・
「ねぇ、それって…ナンパよね?」
その後、広川は後部座席より首を絞められたのは言うまでもなく、また、それを一生懸命なみえが止めようとしたのも言うまでもない話である。
城川明子は、塾からも町からも姿を消し、現在行方不明となっている。とりあえず、事件は丸く収まった形で幕を落とす。

「城川明子…ですが、任務遂行ならず、現在行方をくらましています。追いますか?」
広い、社長室。大きい背もたれのある椅子に腰掛ける、桜子に対し、中河原が黒い、分厚い手帳を片手にそう報告する。
「いえ、いいわ。そう…なみえにばれちゃったかもね。」
その報告を聞きながら、桜子はキイキイと小さく椅子を揺らしながら呟く。顔には表情がなく、どういった心境なのかうかがえない。
「今日は帰ります。」
桜子はそう言うと同時に立ち上がる。すると、社長室のドアがノックされる。桜子と、中河原はドアのほうに目を向ける。
「はい?」
応えたのは、中河原。
「あの、社長の知り合いとおっしゃる舞束様という、学生さん…が来られていて…」
ドアの向こうから伝える秘書は、戸惑いがちに話す。
中河原は、社長に目を向ける。
「私が確認して、お通しします。」
「えぇ、お願い…」
桜子はため息混じりにそう応え、また椅子にバタンと座る。
中河原は、桜子の返事を聞き、そそくさと踵を返し、社長室を後にする。
「私が、対応する。」
ドアが閉まるまでのわずかな時間で、そう秘書に伝える中河原の声を聞きながら、桜子は今度は深いため息をついた。

なみえは、広川に家まで送ってもらった後、すぐに母の経営する会社にまでやってきた。家からの距離はかなりあり、車で一時間弱、電車では乗り継ぎをあわせ四十分ほど。なみえはもちろん、電車で向かっていたわけだが、その道中、今回の出来事を初めから考え直すことにした。
あれこれ考えているうちに、すぐに乗り継ぎの駅に着き、一時考えを中断しつつ、気がついたら会社の前まで到着していた。到着したはいいが、社長に会うことは容易ではなく、受付の女性に自分の身分を隠してどう取り次いでもらうのか、あれこれと試行錯誤をする。やっとのことで、社長の秘書らしき人への連絡を行ってくれ、それだけでなみえは気疲れしてしまった。連絡が取れたところで、会社の玄関フロアに用意された来客用のソファで待つよう言われ、なみえは促されたとおり椅子に腰掛ける。
ふぅっと、軽いため息をつき、改めてこの会社を見渡す。
都会のオフィス街に聳え立つ、ビルの一画。一体、何十階建てなのだろうかと高い天井を見上げる。このオフィス街の中ではやや飛びぬけた存在感を放つビルの高さ、設計である。
そこへ、中河原が近づくが、なみえは気疲れも手伝ってか、それに気がつかない。そんな、なみえの様子に中河原はフッと表情を和らげる。
なみえは、ハッと我に返り、すぐそばまで来ている男性の存在に気がつく。黒いスーツに身を包み、短髪で縁のあるメガネをかけ、手には分厚い手帳を持った、隙を感じさせない男である。その表情には冷たさすら感じられ、先ほどの和らいだ表情が嘘のようである。
「舞束…なみえお嬢様。お久しぶりです。」
なみえはパッと、首から青い紐を垂らし、左の胸ポケットにクリップでとめられた役員章兼ネームカードへ目をやる。
「社長、第一秘書の中河原です。」
「お久しぶりです。」
なみえは立ち上がり、頭を下げる。
「私のことをお覚えですか?」
驚いたように言うが、表情は全く動かない。
「えぇ、いつも母がお世話になっていますし…私もお世話になっていますので…」
「光栄です。」
今度はにっこりと笑って、そう応える。そんな中河原に対し、なみえはどのように接していいものか非常に戸惑ってしまう。
「では、こちらへどうぞ…」
中河原は、そんななみえの心中を知ってか知らずか、もとの表情に戻り淡々となみえを誘導し始める。なみえは、だまって後を付いていく。
なみえをエレベーターの中へ誘導し、後から中河原は乗り込み、エレベーターの行き先階のボタンを押す。自然、なみえは中河原の背中を見る位置に立つことになる。
エレベーターに乗り込み、狭い空間の中で二人きりとなる。なみえは特に、沈黙状態に苦痛は感じずにいたが、中河原のほうが口火を切る。
「…6年前。」
「え?」
「6年前ですね、初めてお会いしたのは。」
そう言いながら、中河原は笑顔でなみえを振り返る。なみえは、不意打ちの笑顔にドキっとする。
「そう…ですね。確か、私が4年生の時だったかと…」
「あの頃も、とても落ち着いてらっしゃいましたが…大きくなられましたね。」
中河原は、またなみえに背を向ける。
「…」
「あ、すみません。お綺麗になられていて、とても驚きました、というのが本音です。」
つっと、中河原は中指でメガネを押し上げる。
「…いえ…」
小学校4年生のときに、当時二十歳の中河原誠一を母、桜子より紹介されてからというもの、母と会うときはたいていの場合、中河原も一緒であったため、顔を合わせたことは幾度となくあったが、二人きりで話をしたのは初めてだった。なので、余計になみえは誠一との接し方に戸惑いを覚えた。
そんな、なみえの様子を感じとり、中河原はなみえに背を向けたまま、フッと表情を和らげる。その次の瞬間、彼の表情は一気に冷え切る。

「社長、舞束さまが見えられました。」
エレベーターを降り、広いフロアから秘書室を経由し、ひとつの部屋のさらに奥の部屋へ続くドアを、中河原がノックする。
「はい」
ドアの向こうから返事があり、中河原はなみえを振り返り、「どうぞ」とドアを開ける。
「わたくしは、こちらに控えておりますので、御用があればいつでもおよびだてください。」
恐る恐る部屋の中へ入るなみえに、中河原はそう言いなみえの背中を押す。
「ありがとうございます。」
なみえは振り返り、頭を下げる。
それを見届け、ドアは閉まる。
なみえは頭をあげ、椅子に座る母の方に向き直る。
「お忙しいところ申し訳ありません。あと、会社へ来たことも…申し訳ありません。」
桜子は、椅子を回転させなみえに背を向ける。
「そうねぇ…非常に危険なので、あまり褒められる行為ではないですね。でもまぁ、社長の娘であることを言わなかったことは、褒めるべきところかしらね。」
地上何十階、全面ガラス張りの、窓の外へと目を向けながら、桜子は囁くように呟く。そんな、表情の伺えない母親に対し畏怖の念を抱く。
「ありがとうございます…」
「それで?そんな危険を冒して一体何かしら?」
なみえの緊張はピークにまで達しており、ドクドクと心臓の鼓動が耳のそばで聞こえる。
「…私は今日、誘拐されました。未遂ですけど。」
桜子は、微動だにせずなみえの話に耳を傾ける。
「それで、その誘拐しようとしていた人は、文菜の通う塾の講師でした。」
「…」
なみえは、グッと手を握り締める。
「その、塾の先生は中河原という男にその話を持ち出されたと、出資金も出すと言われたそうです…。」
「それで…?」
桜子は、なみえに背を向けたままそう問う。
「…お母様に…、なにか心当たりはありませんか?」
その言葉を聞き、桜子はクスクスと笑い出す。そして、椅子を半回転させ、なみえの方に向き直る。
「直球ね」
「すみません…」
「いいわ、なぜそう思うの?」
桜子は無表情に、なみえに尋ねる。
「…中河原という姓…。出資金もそこらの人では用意できないような金額…それを容易に出来てしまう。今回の誘拐の目的を考えると…」
「目的とは?」
なみえは言葉に詰まり、パッと顔を上げて桜子を見つめる。
「あなたの話に抜けてる人物がいるでしょう?」
「…」
「広川倞吾。あなたに近づいた彼の経歴を洗ったわ。まぁ~黒い黒い。彼の属する組織はね、通称“ヴァスト”。うちくらい、表で大きくなったら、耳に入ってくるような巨大な裏の組織。やってることは、薬の密売から、殺しの請負、人身売買…金さえ積めばなんだってやる。警察すら手を出せないような組織。ど?すごいでしょ?」
「…」
なみえはなんと言っていいか分からない。
「親心としてはそんな男信用ならないでしょ?だから…真意を確認したかったの。」
「…それで…確認できたんですか?」
なみえはやっとの思いで声を発する。パタッと、桜子は立ち上がる。
「そうねぇ…一応、人としては合格かしら。でも、お付き合いを許すレベルまでには達してない…と、思わない?」
ゆっくりと、なみえに近づきながら問いかける。
「どういう…」
「あんな組織と関わりがあれば、いつ、あなたに危険が及ぶか分からない。わざわざ、危険なところに置いとく馬鹿な親はいないでしょ。今回は、守れたからいいようなものの…」
桜子は腕組みをし、ふぅっとため息をつく。
なみえは、なにをどう言葉にすればいいか分からず、その場に立ち尽くす。
「正直な話、もう会わずに関係を絶ってほしいところよ。」
そう言いながら、桜子はなみえにチラッと目をやり、また元いた椅子に座る。
「私は、中河原をあなたの婚約者にと、考えているわ。」
「え…」
ボソッと呟くように言う桜子の言葉に、なみえは反応し身構える。だが、それを遮るように桜子はドアに向かって今までよりも少し大きめの声を出す。
「中河原!」
「はい」
呼ばれるとすぐに、なみえの後ろのドアが開き、中河原が姿を見せる。
「なみえを送っていって。」
「はい。」
呆然とするなみえをよそに、中河原は桜子に対し一礼し、なみえを部屋の外へ誘導する。
なみえは、結局桜子に対し何も言うことができずに、部屋を後にする。

「大丈夫ですか?」
中河原に車の後部座席に誘導され、なみえは助手席の後ろに座り込む。そして、母から言われたことを考える。「お母様は、この人を私の婚約者にと考えているのか…」と、今までそんな風に見たこともなかったため、なんとなく中河原を意識してしまう自分に気がつく。どことなくボーっとしていたなみえは、中河原の言葉でハッとする。
「はい…」
「私は、社長の秘書なので余計なことは言えませんが…親というものは、子供が思っている以上に子供のことを心配しているものです。たとえ、目に見えていなくても…」
なみえは、この中河原という男性の経歴を思い出す。6年前、事故で突然両親を亡くし、両親共TSUKASA役員であったことから、母・桜子が援助をするようになったのだ。早くに両親を亡くした彼が、親について語るのは、非常に説得力があった。
なみえは、何も言わず小さく頷いた。その様子を、バックミラーで中河原は確認し、フッと笑顔をこぼす。
それから、「今回の一件にはこの中河原さんも関わっているから、ある程度のことは知っているのか…つまり、広川さんのことも。私は、今日初めて、この人が婚約者だなんて言われたけど、この人はお母様になにか言われているのかな?」
なみえは引き続きもんもんと、そんなことを考えていた。
すると、中河原がクスクスと笑い出した。なみえは、それに気がつき、それまでの考え事を一時中断し、パッとバックミラー越しに中河原のほうを見やる。パチッとミラー越しに目が合う。
「あ、すみません。」
なみえはキョトンとしている。
「社長に、私のことなにか言われましたか?」
「えっ…?」
笑いを収めて、投げかけてくる質問になみえはドキッとする。表情は変えていないつもりだけど…となみえは考える。
「たったの六年間ですが、私はあなたを見てきたので…ご学友の文菜さんほどではないですが、わかりますよ。でも、間違っていたら申し訳ありません」
中河原は、車を停車させ、降車した。そして、なみえのそばのドアまで回りこみそっとドアを開ける。気がつけば、舞束家の前まで車は到着していた。
「大変なご無礼…お詫び申し上げます。」
車から降りるなみえに対し、中河原は丁寧に頭を下げた。
「いえ、その通りでしたから…驚きました。」
「それでも、他人の心を覗くような行為…やってはいけないことです。」
中河原は、まだ頭を上げずそのままでいた。
「あの、大丈夫ですから…頭をあげてください。」
その言葉を聞き、中河原はゆっくりと頭をあげる。そして、じっとなみえを見つめる。とても、優しい表情で。
「…ありがとうございます。」
頭を上げた中河原を見届け、なみえは会釈しながら「送っていただき、ありがとうございました」と伝え、背中を向ける。
「社長から、なみえさんを婚約者に…と、仰せつかっております。」
なみえの背中に向かって、中河原はそう呟く。それを聞き、なみえは顔だけ振り返らせる。
「初めて出会ったときから、少しずつ…あなたへの想いを、募らせてきました。ずっと、お慕いしています。それが、私の気持ちです。では、おやすみなさい。」
中河原は、思いのたけを述べ、頭を下げる。それを聞き、なみえの頭は真っ白になった。
「おやすみなさい…」
そういい、なみえはすぐに向き直り家への扉を開け、バタンと玄関へ上がりこんだ。その少し後に、外で車の発車する音を聞き、なみえはその場に座り込む。
「おし…たい?私への想い…?」
なみえはなかなかその場から立ち上がれず、しばらくの時間が経った。

「お慕い…してますよ。六年前のあのときから、ずっと見てきたんだ。それを、あんな男にとられてたまるか…」
なみえを送った後、もう一度社に戻ろうとする道中、中川原誠一は、搾り出すようにそう呟く。信号停車にて、ブレーキを踏んだ後、彼は両手拳を振り上げ、ドンっとハンドルに叩きつける。彼もまた、なみえに魅せられたうちの一人であった。

気がつけば、なみえの足は広川の家に向かっていた。なみえは、携帯のバイブレーションがなっていることに気がつき我に返る。
「あ…」
もう、すでに目の前には広川の住むマンションがあった。
「もし…もし」
『あ、もしもし。ごめんね、今電話大丈夫?あれ、てか今外?』
なみえの周りで車やバイクなどが行きかう音を聞き取り、広川は尋ねる。
「はい…今、状況を言うと、広川さんの家の前まで来てます。」
『そうなの!?ちょっと待って!迎えに行くから!』
広川は、なみえの状況を聞き慌てて外へ出る身支度をし、家を飛び出る。

「…」
マンションを出たすぐのところで、なみえを見つけることが出来た広川は、そのままなみえを家へ誘導する。その間、なみえは何も言葉を発さず、その後もしばらくソファに腰掛けたままの状態であった。広川は、少しの間そんななみえを心配そうに見つめていたが、ふと何かを思いついたかのようにキッチンへ行った。
「…」
広川がその場からいなくなったことにも気がつかず、なみえは放心していた。
相変わらずななみえの目の前に、広川はコトッとマグカップを置いた。それに気がつき、なみえは広川と目を合わせる。
「ホットミルクだよ。これ飲むと気持ちが落ち着くから」
ぼーっと見上げてくるなみえに対し、広川はニコッと笑う。
「あ…の…」
「ね、隣…座ってい?」
少し、広川は躊躇いがちに尋ねる。
「あ…うん…」
なみえは、なんの躊躇いもなく応える。その様子に、広川はホッとしてなみえの右隣に座る。
「よかった。俺、嫌われちゃったかと思った」
広川は独り言のように呟く。
「え…?」
少し戸惑うなみえの反応を見つつ、広川は左手を伸ばしなみえの肩を抱く。
「ほら、俺の…正体を知って…さ…」
なみえは、肩を抱かれる力が少し強くなるのを感じる。
「…倞吾さんのこと、ちゃんと知りたいです。」
そう言い、なみえは目の前に置かれたマグカップに手を伸ばす。それを見て、広川はスッと手を伸ばし、先にマグカップを手にとり、なみえに渡す。
「ありがとう…」
その間も広川の左手はなみえの肩から離れることはなく、お礼を言いながら広川の顔を見上げたなみえは、顔の近さにドキッとして、パッと顔を逸らす。
そんななみえの様子を微笑ましく見ながら、広川は肩にまわした手で、頭をそっと撫でる。
なみえはその心地よさと、ホットミルクの温かさで胸がぽかぽかするのを感じる。
「うん、俺ももう一回ちゃんと話そうと思ってたんだ。」
広川の手はまた、肩に戻っている。なみえは、広川の言葉を聞きパッと広川を見る。
「あの話したくないこと…また話させようとして、ごめんなさい!」
広川は、そのなみえの勢いに少し驚いたが、フワッと笑顔になり、そっとなみえの額にキスをする。
「そう言ってくれてありがとう。でも、本当にもう一回ちゃんと話そうと思ってたんだ。だから、大丈夫だよ。」
広川の言葉よりも、その前のキスに対しなみえは呆然としていた。
「あ、ごめん、嫌だった?」
なみえは、ハッとし首を振った。その反応を見て、広川はフッと表情を和らげる。そして、パッと立ち上がる。
「ちょっと待ってね。俺もコーヒー飲もうと思ってお湯沸かしてたんだった」
なみえはコクンと頷き、キッチンへ向かう広川を目で見送りつつ、広川にキスされたところをそっと指で触れる。
広川は、キッチンへ行き、点けていた火を止め、ふぅーっと息を吐く。
「あのままあそこに居たら…ヤバイ…」
そう言いながら頭を抱える。よく、あれだけで止めれたと思うよ…と心の中で呟く。
広川はもう一回はぁっと息を吐き、マグカップにお湯を注ぎ入れる。
それから、少しして広川はなみえのもとに戻る。
「俺は、物心ついたときには“ヴァスト”に居た。」
そう言いながら、広川はキッチンからダイニングに続く壁に寄りかかる。
なみえは声のしたほうに目をやり、広川を見つめる。広川は遠い目をして、話を続ける。

「後に聞いた話では、俺は親に売られたらしい。親ってのは、結構優秀な学者かなんかだったらしいんだけど、なんらかの理由で金が必要になったってことで、俺は売られたんだと。でも、あくまでも噂だけど。億単位だったって話だ。そんな人間はたくさんいたが、組織にはいた亜年齢では俺が最年少だったようだ。それから、とにかく色んな知識の習得、各種格闘術、拳銃の扱い、機械類の扱い…とりあえず、あの世界で生き抜くために必要なものの教育を受けた。初めての仕事は、十五のとき。政界の重要人物からの依頼で、その人にとって邪魔になったジャンキー女の抹殺。なんでも、過去の清算だと。女は、三十代後半で、その重要人物の愛人。愛人であったことを隠す代わりに多額のお金を要求していたそうだ。それで、要求した金で手に入れた薬で、薬漬けになってた…殺したのに、最後は嬉しそうだった。人が死ぬときってさ、普通は、苦しんで死んでいくものだと思っていたのに、初めて殺した相手が喜んでた。俺の感覚はおかげでおかしくなった。」
ただひたすらに、広川は話し続け、なみえは広川のことをじっと見つめながら聞き続ける。広川は、一度そこで話を中断し、手に持ったマグカップのコーヒーを一口、口にする。そして、自分を見つめるなみえと目が合い、広川はフッとそれまでには見せたことのない切ない笑顔を見せ、そのままなみえの横に座る。それから、カップをテーブルに置き、肘を自身のひざの上に置き手を組んだ。そして、話を続ける。
「それからというもの、俺の仕事っぷりはかなり組織に評価されていった。初めての仕事から数年たったある日、二十歳前の女の子から俺は命を狙われた。あまりの不意打ちに、思わず俺はその子を返り討ちにしてしまった。その子が身につけていたものを調べると、日記があった。日記には、自分の母親が、殺された旨が書かれていて、その殺された母親というのが…俺が初めて殺したあのジャンキー女。殺されたとわかってからの、その女の子の行動、心情が事細かに書かれた日記を読んで…、残された者の痛みを初めて知った。人が死ぬこと…それは、その人のそれまで犯してきた罪の清算。俺はそれを助けてやってるつもりでいたのかな。周りの人のことなんて考えたこともなかった。実際、俺が死んでも悲しむものの存在なんて皆無だったから…。」
広川はそこで、話を止める。自分の左手に温かみを感じたから。ふと、自分の手元に目をやると、なみえが広川の手を優しく握っている。広川は泣きそうになるのを堪えながら、なみえに微笑みかける。
「そのことがあって、もっと世間を知りたくなって、組織の上層部に掛け合い、表での居場所を手に入れた。それが今の塾講師だったってわけ。まだ、3年足らずだな。」
広川は、右手でなみえの手を包み込む。そして、なみえの頬を一筋の涙が伝うところを見て、広川はがばっとなみえを抱きしめる。
「やっと、知ったんだ。人が死ぬことの重みを。君のおかげだ。何があっても、俺は舞束なみえを守っていくよ。」
そう言い、広川はなみえの涙を吸い上げるように、目元に優しくキスする。
「大丈夫?」
「はい…」
なみえは、ゆっくり頷く。
「私って…なんて、薄っぺらに今までを生きてきたんだろう…って…。」
広川は、優しくなみえのことを見つめ、話をする前にしていたように左手をなみえの肩に回し、ゆっくり頭を撫でる。
「ありがとう、ちゃんと聞いてくれて…」
なみえは、首を横に振る。
相変わらず、広川はなみえの頭を撫で続けている。

文菜は、家まで広川に送ってもらった後、中井の家に来ていた。中井の家には、新垣も来ていて、文菜はことの大筋を二人に話した。
「すごいな…なんか、スケールが違う…」
あらすじを聞いた二人は、呆然としている。呆然としながらも、新垣はそう口にした。
「…でも」
そう口にしながら、中井はぼーっと何かを考えるしぐさをする。
そんな、中井の様子を、文菜と新垣は不思議そうな面持ちで眺める。その視線に気がつき、中井はフッと笑う。
「あ、いや…なんか、その広川って人と舞束さんって、やっぱり似てるな~と思って…」
「「…似てる?」」
文菜と新垣は首を傾げながら、顔を見合す。
「うん。二人は、形は違っても孤独だったんじゃないかな…。」
文菜は、息をのむ。新垣は、なんとなく話を飲み込めずボーっとしている。
「そう…なのかも…」
文菜は何かをつかみかけたように、中井を見上げる。
「広川の笑ったところなんて、私見たことない。」
それを聞き、新垣が顔を上げる。
「あぁ!それ言ったら、なみえっちもだな!でも、それと関係あるか?」
文菜の表情に暗い影がさす。
「…やっぱり、なみえは孤独だったと思うわよ。素直に感情表現できないことは…辛いことだけど、次第に自分が孤独であることすら、気がつけなくなる。当たり前すぎてね。広川なんて、物心付いたころから、闇社会にいて、まともな愛情を受けずにきているんだもの…」
新垣はそれを聞きながら、そうなのか…と何度か小さく頷いている。
「それでも、そんな舞束さんは、文菜の存在に支えられてたんじゃないかって思うよ?」
中井のその言葉に、文菜は涙目になった顔をパッと明るくさせる。
「お互い、そういうところに魅かれていったんじゃないかな。だから…、良い連れ合いになれるんじゃない」
それを、聞き文菜と新垣は少しふてくされ顔をする。どうやら、受容までにはもう少し時間がかかりそうだ。
そんな二人を見て、中井は苦笑する。

なみえは、ホットミルクを一口飲み、テーブルに置く。
「私の、父と母の社会的役割については、知ってると思うんだけど…、その社会的地位のため、私は幼いころ幾度か誘拐されたりということがあったの。それで、あまり目立たないよう私は母の旧姓を名乗り、あの家に住んでて。父は忙しさのあまり、あの家に帰ってきたことはほとんどなくて、私も年に数えるほどしか会えずにいて、母は月に何度かはあの家に帰ってくるんだけど、私にとってはとても怖い存在…。小さい頃から母の教育は厳しくて、感情を出さないようしつけられてきたの。私は、母の笑顔を見たことがない…母も感情を出さないようにしてるのかな。」
なみえは、そう口にしながら少し考え込む。
「林は?」
広川はフッと笑ってなみえに問いかける。なみえはパッと、広川と目が合い、話を続ける。
「文菜は、幼稚園からずっと一緒。今の家に越して来たのは、小学校に上がってからなんだけど、文菜の親が父の会社の重役ということもあって、幼稚園のときから付き合いがあったの。小学校に上がってからは、ずーっと一緒にいてくれてるの。」
広川はコーヒーを飲み、コクンと頷く。
「林は、ホントにずーっと一緒なんだな。なみえちゃんのことを、本気で心配するわけだよ。面倒見がいいんだな」
「…うん…」
なみえは、コクンと頷きながら、手をぎゅっと握る。なみえに一気に緊張感が走ったことに気がつき、広川は首をかしげる。
「あの…私、あとお話があって…」

「なみえ様、お送りしてきました。」
先ほどまで、なみえがいた社長室。中河原は、なみえを送り終え再び桜子のもとへ戻ってきていた。
「そう、ありがとう。…、なみえは何か言っていた?」
桜子は、立派な椅子の背もたれにもたれかかりながら尋ねる。
「はい、私との婚約のことについて気にされているご様子でした。」
「そう。今日、そのことを伝えたから…。」
「…ですが、なみえ様は、広川倞吾と…」
桜子は、バッと立ち上がる。
「私は、認めてないわ。あの子の婚約者はあなたよ。明日、その男呼び出してくれない?」
「はい…それでしたら、明日の役員会議の後でしたら、わずかにお時間確保できそうですので、その時間に。」
中河原は、いつも持ち歩いている黒い分厚い手帳を開きながら答える。

「ところで、中井なにみてんの?」
新垣は帰り、文菜はずっと本を読み続けている中井を覗き込む。
「あぁ、これこれ。」
そういいながら、中井は文菜に本の表紙を見せる。
「花言葉全集?」
「おう、俺んち花屋じゃん?たまに、店の手伝いしててさ、知ってて損はしないから」
「ふーん、勉強熱心ですなぁ」
そう言いながら、文菜は本を受け取りパラパラめくる。
「あ、ほらそこ。その花」
パラパラの途中で、中井が本のページを止める。
「ん?キングサリ…?」
「うん、金鎖。花言葉は、哀愁の美。舞束さんにピッタリじゃない?別名、黄花藤って言って、黄色の花が連なった綺麗な花だよ。孤独が生んだ美しさって感じがさ。今日の話を聞きながら、そんな風に思ったわけ。」
キングサリのページを見ながら、文菜は中井の話しに耳を傾ける。
「…好きで孤独だったわけではないけど、その中で生まれた儚さに、広川って人の孤独が激しく反応したんじゃない?」
「…あんたって、ほんとキザよね~そうやって、他の女口説くんじゃないわよ?」
「また~すぐ、ヤキモチやくんだから。ちなみに文菜はね~」
そういいながら、また中井が本をパラパラしだすところを文菜は静止する。
「あ~もういいから!恥ずいわ!」

「母の…秘書に、中河原誠一という方がいるんだけど…」
「っあぁ~、いたねぇ。それが…?」
「あの…っ、城川先生の…」
戸惑いがちに口にするなみえを見ながら、広川はハッとする。
「あのっ…!」
「今回の一件は、母が仕組んだことだったみたい。だから、直接的に動いていたのは、その秘書の中河原…。」
広川は珍しく、呆然としている。
「…目的は…俺?」
なみえは、微動だにしない。
「そうなんだね?」
なみえは、チラッと広川をみて、頷く。
「真意を…確かめたかったと…。本当に、ごめんなさい!」
なみえは、ガバッと頭を下げる。
「いや、なみえちゃんが謝ることじゃないよ。ほら、頭あげて?」
広川は、そう言いながら、なみえの肩をつかむ。なみえは、それを聞きゆっくりと頭をあげる。だが、まだ伏せ目がちである。
「その…中河原誠一という人のこと、調べた?」
広川の動きが一瞬止まるが、ゆっくりと話し出す。
「確か…若くして、社長の第一秘書まで上り詰めた、優秀な人材だとか。社内では、やっかみの声が多くあるみたいだな。でも、優秀であることは確かなため、元よりの重役達もしぶしぶながら存在を認めている。そうか、名前を聞いて引っかかったのは、そういうことだったのか…」
広川の言葉が止まり、なみえは広川を見上げる。
「終わり…?」
広川は、なみえの頭をゆっくり撫で始める。
「いや、まぁ、あまりそれ以上は調べてはないんだけど、いくつかの噂は立ってたかな。どれも、事実関係が確認できてないから、ほんと噂程度なんだけど。」
広川はやや言いにくそうに、頭をぽりぽりかく。
「どんな…」
なみえは、ぽそりと呟く。
「ん~、そだね~中河原は社長と出来てるとかいうわけわかんないやつから、社長令嬢との婚約者であるとか…なんとか…まぁ、様々。」
なみえは、ピクッと反応する。その反応に広川は気がつき、なみえの様子を伺う。
「中河原は、二十歳のときに両親を、不慮の事故で亡くしていて、それから母の援助のもとで学校を出て、母の会社に入社しました。私が、初めて会ったのが十歳のとき。彼が、両親を亡くした直後でした。」
広川は、撫でていた手を止めて、なみえの肩に持っていく。
「母は、どうやら彼を私の婚約者にと、考えているようです。」
広川は、顔をしかめる。
「で?」
なみえはまたわずかに、ピクッと反応する。
「彼も、そう考えているようで…」
広川の目が冷たく光る。
「それで…?」
なみえは、広川のほうを向けずに、じっと俯いている。
「それで…」
なみえはどう応えていいのかわからず、自然と目に涙がうかぶ。
「それで、なに?俺と別れるの?」
広川の喋り方は冷たく、なみえのことを突き放しているようである。だが、なみえからしたら胸を抉られるように突き刺さる言葉で、目に溜まった涙が一気に溢れ出す。
それに気がつき、広川はバッとなみえを抱きしめる。
「ごめん、違うんだ。つい、むきになっちゃって…冷たい言い方した…」
なみえは、ヒックと声を押し殺して涙を流す。
「ごめん、そんな泣き方したら苦しいだろ。本当にごめん!」
なみえの涙はなかなか収まらず、そのまま広川は抱きしめたままでいる。
「っぅ…ぅっ…」
押し殺した泣き方にも変化が見られないが、少しずつ落ち着いてきた印象があり、広川は抱きしめていた力を緩め、ゆっくりなみえの両肩をつかむ。自然、なみえと目が合う。だが、なみえの顔はこれまでに見たことがないくらい、くしゃくしゃになっている。
「キス…していい?」
なみえは未だ嗚咽が見られる。広川の質問に反応しない。
「嫌だったら、跳ね除けて?」
聞こえてないかも…そう思いながら広川は、ゆっくりなみえの唇に口付けをする。
離れると、なみえは呆然としている。勢いで涙も嗚咽も止まっている。
「あ…」
「ごめんね、いきなりこんなことして…」
広川はなみえの様子を伺う。なみえは、ゆっくり手を自身の唇に持っていく。と、同時に顔が真っ赤になる。
「あ、えと…」
広川は、なみえの頭を撫でる。
「落ち着いた?」
なみえは、戸惑いながら頷く。
「ごめんね、酷い言い方をして。」
広川は、涙に濡れた顔を手で拭いながら謝る。
「…」
なみえは、小さく首を横に振る。広川はホッと笑顔になり、なみえの頭をポンッと軽くたたく。
「大丈夫、この先、例え何があっても、俺は舞束なみえを守るから…。信じてね?」
広川に触れられたすべてのところに、温かみを感じなみえの心も暖かいもので満たされていく。

「広川様ですね。これから少し、お時間いただけないでしょうか?」
翌朝、広川は出勤しようとマンションの駐車場に降りてきていた。車のドアを開け、これから乗り込もうとしようとしたとき、黒いスーツに身を包んだ男が現れた。
「…知らない人にはついて行くなって…よく言うよね?」
広川は、開けたドアに手をかけ、無表情で応える。
「大変失礼いたしました。わたくし…」
「中河原って秘書っしょ?」
頭を下げる、男に対し、広川は言葉を遮る。
「はい、お察しの通りです。」
中河原は、下げた頭を上げ、メガネをキュッと左手中指で押し上げる。
「なにか用でしょうか?」
広川は、車のドアを閉め、はぁっと短いため息をつく。
「はい、これから少しお時間いただきたく存じます…。うちの社長が、あなた様にお会いしたいとのことでして。」
話が早いと言わんばかりに、中河原は話し出す。
「それって…どのくらい、俺に拒否権が与えられてるわけ?」
広川は、それまで塾用にかけていたメガネをはずし、ポケットに入れながら、中河原の様子を伺う。
「…」
中河原は、ニコッと微笑む。目は決して笑っていないが。
「わかった…何時にどこに行けばいい?」
こりゃ、時間も少しじゃないな…と考えながら、広川は尋ねてみる。
「いえ、お手を煩わせることは出来ません。お迎えに上がりました。」
逃がさないってか?広川はチッと心の中で舌打ちする。
「…今から、少し塾寄っていいか?十五分でいい。」
「かしこまりました。では…」
中河原は、かしこまりつつ車の後部座席のドアに手をかける。
「いや、塾までは俺の車で行かせてもらう。夕方、四時には戻らないと、こちらも商売上がったりなんでね。」
「は、では、Fゼミナールの近くでお待ちさせていただきます。」
中河原は、もう一度頭を下げる。
それをなんとなく視界に入れながら、広川は車に乗り込み、すばやくエンジンをかけつつ、タバコに火をつける。
「ち、塾までも後つける気かよっ」
ボソッと呟きつつ、車を発車させる。

塾に着いた広川は、デスクに向かい、尋常ではないスピードでパソコンに入力していく。十分ほど経ち、広川は立ち上がり、プリンターの前まで行き、塾の事務担当の女性、柊和音に話しかける。
「あの、今から出てくるプリント、俺が今日担当する授業の生徒分の部数コピーしててくれません?」
広川は伝えながら、荷物をまとめだす。
「あ、はい…広川先生は…?」
柊は、慌しくする広川を疑問に思いながら尋ねる。
「すいません、所要で…しばらく離れますが、何かあれば連絡ください。ちゃんと、俺の事務作業は残しといてくださいね」
広川は、わずかに微笑みながらその場を立ち去る。
事務の女性は、圧倒されたように頷きながら、広川を見送る。その様子を見ながら、他の授業を担当する講師が柊に話しかける。
「広川先生って、本当謎が多いですよね。」
「そうですね。でも…最近、表情が丸くなった気がします。」
柊は、プリンターから排出されるプリントを眺めながら応える。
「あぁ、確かに。例の彼女が出来たってのですかね?」
「そうかもしれませんね。それにしても、この量…今の短時間でやったんですかね…」
柊は苦笑いする。
「あ~、城川先生の穴を広川先生が突然埋めることになった授業のプリントかぁ~。すげ~…」
その講師は排出されたプリントの一枚を手に取り、マジマジと感心する。

塾での用事を十分足らずで終わらせた広川は、いそいそとしつつ、非常に足取りが重い状態で、秘書中河原の車へ向かう。車は、Fゼミ玄関を出てすぐのところに停められていた。それを見つけ、広川はその車の助手席に乗り込む。
「後部座席に乗る習慣はないもんで…」
「かしこまりました。では、少々お時間頂きます。」
ふてくされ顔で言う広川に対し、中河原はそう応えながら、車を発車させる。
「すいませんねぇ、お手間取らせて。なにせ、突然一人欠員が出たもんで。」
と、言いたいところを広川はぐっと堪える。
しばらく、車内は沈黙のまま時間は流れる。そんな中、口火を切ったのは広川だった。
「あんた…彼女のこと、好きなの?」
広川は、ぼーっと窓越しに外を眺めながら、そう口にする。
「…彼女とは、なみえ様のことでしょうか?」
中河原は、顔色一つ返事をする。
「あぁ。」
そんな中河原に、イラッとしながら広川は反応する。
「えぇ…以前より、お慕いしておりますが…、まさかこんな虫がつくだなんて…」
中河原は、チロっと広川に視線をやる。
「虫…ねぇ…」
バチッと合った目を、お互いスッと逸らし、それから会社に到着するまで、車内には再び沈黙が戻る。

広川は、腕時計に目をやり、はぁ~と長いため息をつく。
TSUKASA本社の応接室に通され、中河原より「しばらく、お待ちください。」と言い残されてから、かれこれ1時間が経った。かろうじて、お茶は出されたものの、なにもない部屋で、なにもせずの1時間は非常に長く感じる。
「なんなんだ、いったい…格の違いでも見せつけられてるのか?」
ぼそぼそと呟きながら、タバコを口にくわえ火を点ける。
灰皿には段々とタバコの吸殻がたまっていく。
ふーっと煙を吐き出したところで、ドアのノック音が聞こえ、広川はタバコの火を消し、立ち上がる。
ドアを入ってきたのは、黒地に赤の花の柄が栄えるきれいな和服を着た婦人であった。その婦人は、ゆっくりと頭を下げる。
「初めまして。私が、TSUKASA代表の曹野桜子。なみえの母です。お呼びだてしていて随分、お待たせしてしまって…申し訳ございません。会議が長引いてしまい。この度の非礼、お詫び申し上げます。」
そう言いながら、もう一度頭を下げる。
「いいえ、社長ともなればご多忙のことかと存じます。ご挨拶が遅れました。初めまして、広川倞吾と申します。なみえさんと、お付き合いさせていただいております。」
広川は、丁寧に頭を下げる。頭を上げると、桜子の後ろに控えた中河原と目が合う。
「まぁ、おかけになって?」
そう言われ、広川は失礼と一言呟きソファに腰掛ける。
「あなたは、下がっていて。」
その言葉と同時に、中河原は一礼し、部屋を後にする。
桜子は、つかつかと広川の目の前のソファに腰掛ける。
「さて…今日は、本当にわざわざ来てもらっちゃって、ごめんなさいね。あなたと、直接お話がしたくてね。」
「いえ…」
表情を変えず、話す桜子を見ながら、広川は小さく頭を横に振る。次、どう話を切り出してくるのかと、神経をピンと張る。
「あなたについて、調べさせてもらったの。ちょっと、出すぎた真似だとは思ったのだけどね。」
「…いえ、お子様のことを心配されるのは当然のことです。」
「そうなのよ。特に、あの子は立場上、とっても危険なことが多いの。だから、小さい頃から護身術から何から何まで叩き込んでるの。だから、そういうの結構敏感なの。なのに、あなたみたいな素性真っ黒な方に引っかかるなんてね。」
「…」
相変わらず、桜子の表情に変化は見られない。広川は、伏せ目がちに頭を少し下げる。確かに、自分の尾行の際の視線に気がついたなと、修学旅行時のことを思い出しながら。
「あら、ごめんなさいね。つい、本音で。」
ケタケタと笑い出す桜子の目を見て、広川はゾクッとする。目が笑っていない。広川は、それまで好かれようと思って人と接したことがない。なので、人からの憎悪の目には何も感じなかった。だが、彼女の身内であることから気に入られたいという感情が自然と湧き、それに反した感情をもたれているという、悲壮感、焦燥感のようなものが現れる。
「私は、認めないわ。別れていただきたいの。」
一気にまた、もとの無表情に戻ってそう言う桜子に、広川は恐怖心を持ってしまうが、萎縮してしまった気持ちを一気に奮い立たせ、口を開く。
「僕は、決して邪な気持ちでなみえさんと付き合っているわけではありません。」
まっすぐと、桜子の目を見て広川は言葉にする。
「…じゃあ、なんのため?」
一応、と言わんばかりに桜子は尋ねる。
「…」
広川は一度目を閉じ、一呼吸する。息を吐ききったところで、広川は目を開く。
「自分の…ためです。」
「?」
桜子は、確かな意思をもった目で語る広川の様子と導き出された答えがかみ合わず、首をかしげる。
「彼女といると、僕という存在が、本当の人間になれる気がするんです。人に、必要とされることで、人間としての存在を実感できる。彼女といて、僕はそのことを痛感しました。僕は、彼女に出会うまで死んだも同然だったんだと。」
「…」
桜子は、じっと広川の目を見る。
「それは、つまり…あの子があなたを必要としているということかしら?」
「…えぇ、言葉で確認したことはありませんが…」
広川は、ひざの上で組んだ手をギュッと握る。
「そう…それは、つまりあの子のことを考えると…あなたと付き合っていたほうがいいということになるわね。」
「…」
「でもね、あの子の母親として、あなたみたいな危険な組織と関わりのある方とお付き合いさせるのは…。だから、あの子のことを思うのなら、手を引いていただけないかしら…」
桜子の表情は、これまでの無表情とは違い、真剣そのものである。
「お願いです、ヴァストとの関係を一切絶ってみせます。それまで、なみえさんとは会いません。なので、それから…また、検討願えないでしょうか?」
広川も、これまでにない真剣そのものの顔で、桜子に語りかける。
「…」
桜子は、ゆっくりソファから立ち上がる。
「まぁ、最初から言ったようにしてくれるとは思っていないわ。…その組織と、関係を絶つことは絶対条件、とさせてもらうわ。」
広川は、桜子を見上げる。
「はい!」
「まぁ、こちらもなにもしないわけじゃないから、覚悟することね。」
「もちろんです。」
受けてたちますといわんばかりの広川の態度に、桜子はフッと表情を和らげる。広川に見えないように。
「私からの、用件はそれだけです。今日のところはお引取り頂いて結構よ。」
広川は立ち上がり、自分に背を向ける桜子に頭を下げる。
「今日は、お招きいただき、本当にありがとうございました。」
踵を返そうと、頭を上げ、広川はもう一言付け加える。
「僕は…なみえさんと出逢えて本当に良かったと思っています。…では、失礼いたします。」
もう一度軽く頭を下げ、広川はドアを開ける。
「あと、タバコもやめることね。これは必要条件。」
桜子は、灰皿に目をやり、呟くように付け加える。
「はい、失礼します。」
深々と頭を下げ、広川はドアを閉める。
閉まったドアを見つつ、桜子は受話器を手に取り、内線番号を押す。
「中河原、彼を送って差し上げて。」
『かしこまりました』
ガチャっと、受話器を置き、桜子は元いたソファに腰掛ける。
「自分のため…ね…」

広川は、電車の窓から外を眺める。
まず、どうするべきかを考える。腕時計を見ると、14時に差し掛かるところ。このまま、塾に戻れば余裕がある。
とりあえず、俺のすることは自分の仕事を全うすることか、そう考えながら、強い意思をもった目で外を眺める。

「あら、お送りするよう言ったのに。」
「はい、広川様がご自身で帰られるということでしたので…」
TSUKASA社長室にて、中河原は報告する。
「そう…それならしょうがないわよね。ところで、私はあなたとなみえの婚約について、話を進めていきたいのだけど…、まぁ予定より早まってしまうけれど、いいかしら?」
「…はい、承知しました。」
「明日から、なみえの送り迎えをなさい。」
「かしこまりました。」
椅子に座り、背を向ける桜子に対し、中河原は頭を下げ、部屋を後にする。

中学校は夏休みに入ったが、3年生は半ば強制で補習があり、いつもよりは少し遅めになみえは家を出る。玄関の鍵を閉めていると、家の前に車が停まる音が聞こえ、なみえは振り返る。
「おはようございます、なみえ様。本日より、送り迎えをさせていただきます。」
「…そんな話は聞いていませんが…」
なみえは、中河原とどう接していいか分からず、すこし戸惑いながら応える。
「昨晩、急遽決まりまして…。」
中河原は少し、頭を下げながら、だが表情は変えずに口を開く。
「…朝は、文菜と行くことになっていますので…」
「これは、出すぎたまねをいたしました。お帰りのほうは…?」
帰りは、もしかしたら倞吾さんと…。どう、答えよう…そんな考えがなみえの頭をよぎる。
「帰りは…部活にも参加するので何時になるのか…」
「さようで…では…」
「おっはよー!」
話に割って入るように、文菜が登場する。
「あれ、なみえの知り合い?」
キョトンと、文菜は尋ねる。
「うん。おはよう。文菜、行こうか」
「あ、なみえ様。お待ちしていますので。」
なみえは、会釈をし文菜とともにその場を後にする。
「ね、なみえ、あの人…」
「…お母様の秘書。」
「…何しに来てたの?」
少し遠慮がちに文菜は尋ねる。しばらく、なみえは黙り込む。文菜は、なみえが話を整理しているのだと理解し、口を開かず、二人で黙々と歩く。ちょうど、半分くらい来たところでなみえは口を開く。
「婚約者…なんだって。」
「え?」
なみえは、立ち止まる。それを見て、文菜も自然立ち止まる。
「彼、私の婚約者なんだって。お母様が。」
「なんで…」
文菜は明らかにパニくっている。
「広川のことは?言いなよ!そういう存在がいるって!」
「…知ってる。全てを知ってて、婚約者だって…」
文菜は絶句する。
「…、大丈夫…だから、心配しないで」
なみえは、文菜に微笑みかける。文菜は初めて見るなみえの笑顔に言葉を失い、やっとのことで首を縦に振った。

その前日、広川は仕事を終えるとそのまま、家へ帰らず車を国道沿いに東へ1時間走らせ、途中のインターを出て、さらに三十分田舎道を走らせる。ちょうど寂れた社が見え、車を停める。車を降り、閉めたドアに寄りかかりながらタバコに火を点ける。
「おっと…これで最後にしなきゃな…」
タバコも、ここに来るのも…そう思いながら、ポケットから携帯灰皿を取り出し、吸っていたタバコをポンと中へ捨てる。そして、社の中へ向かう。
入り込むと、中は全く寂れているわけではなく、むしろ黒張りの床に壁、高級感溢れるつくりである。
その廊下をゆっくりと歩き、一番奥の部屋を入り、さらに奥へと歩を進める。そして現れる鉄のドアの前で立ち止まる。そして、左斜め上を見上げ、わずかに見える監視カメラと目をあわす。
すると、ドアが開き広川は中へ入る。
「K、どうした?」
「お久しぶりです、ボス」
だだっ広い、部屋の中にポツンとデスクがあり、その向こうには部屋の大きさに見合った、巨大スクリーンがある。そこに映し出されているのは、社の前や入り口、ドアの前や廊下の要所、広川の降りたインターまで映し出されている。
広川に語りかけた男は、デスクの椅子に座っていて、広川が返事をすると立ち上がった。スラッとした体格で、スーツ姿、オールバックという面持ち。
「本当だな。どうだ?表は…」
広川はバッと頭を下げる。
「お願いします。俺を解放してください。」
ボスと呼ばれた男は、葉巻を取り出し、火を点ける。
「よっぽど、お気に召したらしいな…」
ふーっと、煙を吐きながらそう呟く。そして、デスクに座り、机上にあるPCのボタンを押しながら、「おい」と呼びかける。広川はそれを聞き、頭を下げたまま顔をしかめる。
すると、広川が入ってきたドアとは別のドアが開き、3名のスーツ姿の男が現れる。
「つれてけ。顔は駄目だよ。」
3名のうち二人は、広川の両肩をつかみ、もう一人はボスに頭を下げ、また違うドアをあけ、その部屋から広川を引きずり出した。

「あれ、今日広川先生いないんですか?」
文菜は、学校での補習が終わり、部活へは顔を出さずに、Fゼミへときていた。なみえの、婚約話を知っているのかを確かめるために。
「う~ん、今日はちょっと…体調崩したみたいで」
応えたのは、事務の柊であった。
「マジすか!大丈夫かな~」
「あれ、広川先生とそんなに親しかった?」
柊はニヤリと笑う。
「いや、だいっきらいです!」

「ごほっ…」
広川は、ひゅーひゅーと息をする。さすがに、意識が朦朧としてきた。今のみぞおちは効いた…そんなことを考えながら、自分への覚醒を促す。昨晩から、半日、広川は連れて行かれた部屋に監禁され、両手を縛られ吊るされていた。それが、ここ…ヴァストでの罰だった。自分も幾度となく、罰を与える側へも受ける側にもなった。
そんなところへ、昨日ボスと呼ばれた男がやってくる。
「お、まだ意識あんのか?すげーな、お前ら、あれちゃんと打ったか?」
「打ちました、通常の五倍は…」
3人のうち、リーダー的存在の男が応える。
「うーん、ま、いっか。お前ら、もう下がっていいよ。」
3人は会釈をし、部屋を後にする。
「久しぶりだろ?ここ…。」
広川を眺め、ボスは語りかける。
「…」
広川はやっと、目を開けている。
「あの注射打ってるのに、お前元気そうだな。痛み倍増して、逆に気持ちよかった?マゾだったっけ?」
ボスはクククと笑う。
「昔は、少しの量でも、逝ってたのにな。そうそう、この一晩でお前の処分考えたぞ。」
それを聞き、広川の目が光る。
「お、一気に生き返ったな。さっすが。…本気だな」
最後の一言は、聞き取れないくらい小さく呟く。
「えーと…お前を買った金額から考えると…まぁまぁ、それに見合った働きはしてくれたから最初の要求どおり、お前の仕事を減らして、表での居場所を与えた。だが、買ったからにはさらに利益が欲しいもんだろ。さらに、養育費やら、もろもろの諸経費あわせて…あと、これだけだ」
と、男は、手を広げてみせる。
「とりあえず、それで98%手を切ろう。百%と言わないのは、保険だ。どうだ?」
ボスは手に持った資料をペラペラめくりながら、チラッと広川を見る。
「…わかっ…た…」
広川は朦朧とする、意識の中やっと返事をし、吊るされていた鎖から自らを解放した。
「ふん、逃げれるのにあえて、罰を受けたのか…いやらしいやつ。」
地に足をついた広川は、ごほごほと咳をしながら、フラフラと歩き出す。
「すんませんでした…」
「これからの仕事は全てPCで連絡する。タイミングよく、お前への依頼がいくつか来てる。…倞吾!お前の名づけの親は俺だぜ!忘れんな!」
ボスに一礼し、部屋をあとにする広川に対し、男は叫ぶ。
「お前を捨てた親も…俺だ…」
こんな世界に引きずり込んで悪かったな…そう、心の中で呟きながら、彼は葉巻に火を点ける。

「俺の名づけ親…だぁ?初耳だよ…あのおっさん…」
ぶつぶつ呟きながら、広川は車までたどり着き、途中で割ったガラス片を左手でぎゅっと握り、滴る血を見ながら手や殴られた箇所への痛みでどうにか覚醒しながら、車を発車させる。
「ったく、あの薬めいっぱい使いやがって。どうりでいつもよりきついと思った…」
のろのろと走らせる車の中、広川はタバコをくわえ、火を点けようとする。
「あ、もう吸わないんだった…」
広川は、点けかけた火を消し、とりあえずくわえたままで車を走らせる。腕時計を見ると、14時過ぎ。頑張ったら、塾に間に合うか、そう考え広川は気合を入れて車をとばしだす。

「なみえっち!」
部活を終え、靴箱にいる自分を後ろから呼ぶ声がし、なみえは振り向く。
「薫君。部活終わったの?」
新垣は、大きく手を振りながらなみえに近づいてくる。
「おう。それにしても暑いな。」
「うん、音楽室もムシムシして、暑かった。部活、頑張ってるね。」
「ま!この夏ちょっと頑張ってみて、最後の記録会挑戦してみようと思ってね。」
手団扇で、パタパタしながら、新垣は自然と喋れている自分にガッツポーズする。
「ただ、俺勉強も頑張ろうと思って!見守っててね!」
「うん…」
「て、ことで今から塾なんだわ!」
「そう、頑張ってね」
そんな話をしながらちょうど、二人で校門を出たところで、スーツ姿の男性がなみえに近づいてくる。
「なみえ様…」
新垣は首をかしげる。
「なみえっち知り合い?」
「うん…。」
「お迎えに上がりました。」
男は、チラッと薫のほうへ目をやり、なみえを誘導しようとする。
「え、ちょっ」
新垣は、どうしていいか分からずあたふたとする。
「大丈夫、また明日ね。」
なみえは、わずかに表情を和らげる。
「お、おう…じゃーな」
いつも無表情ななみえの表情の変化には、新垣も敏感であり、あまりの不意打ちに赤面する。
そんな新垣の様子を、中河原はチラッと横目で見つつ、なみえを車へ誘導する。
車の助手席になみえを誘導し、中河原も乗り込む。
「実は、今日社長がお食事をということですので、約束の場所にお連れしますね。」
助手席に誘導されたなみえは少し戸惑いの色を示す。
「あぁ…やはり、婚約者…という立場上、こちらの方がいいかと思いまして…」
「あ、いえ…」
なみえはなんとなく、目のやりどころがなく外を眺める。
「そういえば、先ほどの彼は…」
「?」
「学校から一緒に出てきた…」
中河原はメガネを押し上げつつ問いかける。
「薫君ですか?彼は、クラスメイトです。」
「そうですか…」
一瞬、中河原の目が冷たく光る。

「なんだったんだ…。あ…」
新垣はぶつぶつ呟きながら、Fゼミにさしかかったところで、広川の姿を発見する。というか、目が合う。
「…ちわっす…」
新垣は一応、小さい声でだが挨拶をする。すると広川は、「おう…」と聞こえるか聞こえないかくらいの声で返事し、塾に入っていく。口には火の点いていないタバコをくわえている。
なんとなく違和感を覚え、追いかけるようにして新垣は塾へ入る。
「広川先生!大丈夫なんですか?」
事務の柊が広川に駆け寄る。
「大丈夫っす…遅くなってすみません…」
広川は、若干かすれ声で応えつつ、自分のデスクへ向かう。
「というより、今日休みって連絡されたじゃないですか!」
それを聞き、広川は一瞬ふらつく。
あんのくそじじ、連絡入れてやがったのか…そう思いながら、広川は拳を握る。
「どしたんすか?」
新垣は、柊に話しかける。
「あら、こんにちわ。新垣君。いや、広川先生体調悪いみたいでね。」
「マジすか。」
そんな会話をしながら、二人で広川を眺める。
広川は、自分のデスクに座るなり、猛スピードでPCへの打ち込みを始める。
しばらくして、柊は広川のデスクにお茶を持っていく。そして、PCに集中する広川を横目で見て、柊は息をのむ。あまりの脂汗に。
思わず、柊はハンカチで額の汗を拭こうと手をさしのばすと、すごい勢いで、広川の手に撥ね退けられる。
「あ…」
「あ、すいません…集中してたので驚きました」
ハッとした、広川は慌てて柊に謝る。
「いえ、私こそ…」
「あれ!広川先生?」
二人の話にまた違う声が割り込む。
「林か…」
うんざりそうに、広川は声のしたほうに目をやる。
「体調悪いんじゃなかったの?ま、いいや!ちょっといい?」
軽く舌打ちしつつ、広川は席を立つ。
「柊さん、このページまでプリントアウト頼んでいい?」
「あ、はい…」
柊は頼まれた作業をするため、PCの画面を覗き込む。城川先生の穴埋めのための授業内容の資料プリントがほぼ作成されている。柊は、唖然としたため息をはぁっとつき、作業を始める。

「なんだ?」
「いや、あの…なみえのことなんだけど…」
いつもの喫煙所で、二人は話し始めるが、広川は腕組みをし、タバコを吸う様子はない。
「お前からの話なんてそれしかないだろ、簡潔明瞭に頼む。」
文菜は、広川の額の脂汗に気がつく。
「あ、えと…婚約者のこと知ってる?」
「…おととい、聞いた」
婚約者という響に、広川は若干イラッとする。
「そっか…なんか、今朝送り迎えするって、なみえんち来てた!そんだけ、報告!」
広川は、はぁ~と重いため息をつく。
「そうか…」
「たぶん、そいつ…学校帰りも迎えに来てたぞ」
突然違う声がして、二人は振り向く。そこには新垣の姿があった。
「お前か…」
「ビックリした~」
広川と文菜は胸をなでおろす。
「いや、二人が出てくとこ見えたから気になって…」
「そっかぁ…帰りもきたか…」
そう言いながら、文菜はチラッと広川の左手に目がいく。ハンカチのようなものを巻いているが、紅い雫が滴っている。
「え、それ…血!?」
文菜の視線が、左手に注がれていることに気がつき、広川も、左手の痛みを思い出す。
「あぁ…たいしたことない。大丈夫だ。パソコン打ったら、傷が開いただけだ」
「いやいや、ちょっと見せて!血止まってないじゃん!」
はむかう気力もなく、広川はその場に座り込み、文菜のなすがままに左手を預ける。
「きゃー、なにこれ、なにで切ったの!深いんですけど!」
「うわっ、俺、見れない…」
新垣はその場から、若干距離を置く。
「はぁ…」
文菜が、左手を自身のハンカチで縛り上げているところをボーっと眺めながら、広川は、初めてなみえと出会ったときのことを思い出す。
「よしっ、できたよ!広川先生?」
手当てが完了し、広川の顔を見上げるが、反応がないため、文菜は呼びかける。
「…。一目惚れだったんだ…たぶん。」
突然の、広川の言葉に、文菜と新垣は耳を傾ける。
「俺は、やっと表での仕事がもらえて、この職に就いたが、初めはただのバイトで、慣れないビラ配りからだった。落としたビラ一緒に拾ってくれた上に、拾ったビラで切った指に傷テープを巻いてくれた女の子がいた。初めて、人に優しくされたんだ。彼女は、まだまだ幼い雰囲気なのに、どことなく大人びていた。」
淡々と語る、広川の言葉を、二人は身動きせずに聞き入る。
「それから、町で雰囲気の似た女の子に目が行くようになって、そしたら去年、湊中の近くでその子を見つけた。うちの、説明会を聞きにきた。それで名前を知った。まさか、中学生だなんて思わなかったけど…」
なみえとの出会い…私が、Fゼミ連れてったやつだ。今年の3月だったかな…文菜は、ふと考える。
「いつ見ても、表情はなかった。ただ、笑顔が見たかった。また、町で見かけた。目が合ったと思ったら、すぐに逸れた。心が騒いで、気がついたら、声をかけていた。ナンパだけど、この想いは3年前のあのときから、積み重ねてきたんだ。そう、ただ、笑顔が見たかった。彼女の笑顔を守るためなら、俺はなんだってやる。」
そこまで喋ると、広川は立ち上がる。
「喋りすぎた。忘れてくれ。」
突然立ち上がった広川にハッとするが、なんと言葉を発していいかわからず、文菜はただ、広川を見上げる。
「…ところで、手は大丈夫?」
「…大丈夫だ…ありがとうな」
広川は自分を気遣う、文菜の頭をポンと軽くたたきその場から立ち去る。
そのしぐさに、文菜は思わずドキッとする。
「惚れるわけだ…」
「え?」
新垣はよく聞こえず、聞き返すが、文菜は笑ってその場をごまかした。

「中河原さんは…」
車内、ずっと沈黙のまま走行する中、ふとなみえは口を開いた。
「はい?」
「母の笑顔を見たことがありますか?」
「…いえ…」
なみえは、小さく何度か頷く。
「誠一と…お呼びください。」
「え…?」
中河原は、ニコッとなみえに微笑みかける。
「是非」

「広川倞吾とはしばらく会わないように。」
「え…」
食事は、行きつけの中華料理店で済ませ、帰る間際になり、桜子はなみえにそう伝える。
「彼がそう言ったの。彼の意思を尊重するためにもね、あなたにも伝えておこうと思って。」
「…会ったんですか?」
「えぇ…。ま、そういうこと。じゃ、中河原、送ってあげて。私は、一回社に戻るわ。」
「かしこまりました。」
「…おやすみなさい。」
有無を言わさずな口ぶりの桜子に、なみえはただ呆然とし、そう口にしていた。
桜子は、そんななみえをチラッと横目で見つつ、その場を離れる。
「なみえ様、どうぞこちらへ…」
なみえは、ただ誘導されるがまま中河原の車に乗り込む。

車が家の前まで着くと、二人の影があった。
「おや、林さんと…薫さんでしたか…」
「えぇ…。あ、中河原さん、今日はありがとうございました。」
なみえはそう口にし、車を開けようとドアに手をかけようとすると、右手を握られ中河原のほうを振り返る。
「なみえ様、明日の朝も林さんがご一緒ですか?」
とくに、中河原の表情からはなにも伺えない。
「はい」
なみえがはっきり返事すると、中河原は明らかに残念そうな表情を浮かべる。
「そうですか…では、またお帰りの時間にお待ちしていますね。」
そして、握る手に力をこめる。
「あ、はい。では、おやすみなさい…」
なみえはパッと手を離し、車から降りる。
降りて、なみえが運転席を見ると、中河原は一礼し、車を発車させる。
それと同時に、新垣と文菜がなみえに近寄る。
「お疲れ!なみえっち、大丈夫?」
「うん、どうしたの?二人とも…」
「あ、う~ん…」
と、二人はなんとなく罰が悪そうな感じで顔を見合わせる。
「?」
「ね、どっか行ってたの?」
「お母様とご飯に…」
「あ~そっか。なに、結構今の婚約者とくっつけようとされてんの?」
「…たぶん…」
「やっぱ、あんたのお母さんは手強いわね。道理で、電話しても出ないわけだ。」
「どうかしたの?」
「いや…、実はね、広川先生具合が悪そうだったんだけど、あんた知ってるかな~と思って。」
「え…」
なみえの動きが止まる。
「俺は、ただ単に林にくっついてきただけなんだけど…。あいつにしては余裕なかったっつーか…」
顔をぽりぽり掻きつつ、なみえのことを横目で見る。
「…」
呆然とする、なみえを見て、二人はやっぱ言わないほうがよかったかなと、目を合わせる。
その瞬間、なみえはパッと顔を上げる。
「ありがとう、ちょっと行ってみるね!」
「あ、ちょっと早めに帰ったみたいだから、家にもういると思うよ!」
言うなり、走り出すなみえに、後ろから文菜
は叫ぶ。なみえは振り返り、手を挙げる。
「めっちゃくちゃ、相思相愛じゃんね~」
文菜も、なみえに手を振りながらそう呟く。
「…おう…」
なみえを好きな気持ちは変わらないが、なみえが幸せそうなのは自分にとっても喜ばしいことだ。そんなことを考えながら、若干複雑な気持ちで新垣は返事をする。

「なみえちゃん…」
なみえが呼び鈴を鳴らすこと約5分、玄関は開けられ、広川が顔を見せた。仕事から帰り、まだ着替えておらず半袖Yシャツを着たままである。
「あの…具合が悪いって聞いて…」
顔や首筋を汗が伝っているのを見て、広川はなみえが走ってきたことを悟る。
「うん、でも大丈夫だよ。」
「嘘…顔色が悪い。」
広川は、朦朧とする意識の中、桜子との約束を思い出す。だが、このまま、帰したほうがいいのか、うちにあげるのか、うまく判断が出来ない。自分の弱った姿を見せるのは嫌、それでも逢って顔を見て、声を聞けることへの安堵の気持ちが広川の中でいっぱいになる。
「ありがとう、なみえちゃんが風邪ひいちゃうよ。おいで」
広川は、うちの中へ招き入れる。
なみえは、広川の様子をじっと見つめる。そして、胸元の開けられたシャツの隙間に真新しい痣を見つける。
ドキッとして、なみえはとにかく広川に座ってもらおうとソファへ急ぐ。
部屋は、今まで広川が帰ってきてそのまま倒れこむようにソファで寝ていたことが伺える。
「ごめんね、散らかってて…」
「ううん…、早く座って?あの…休んでるときに、押しかけてごめんなさい…」
「…顔が見れて嬉しいし、声が聞けて嬉しい。それが俺の心からの感想。」
二人で、ソファに腰かけ、広川はなみえの頭を撫でる。
「その痣…」
なみえは、服の中に見える痣を目で示しながら、問いかけようとすると、他にも痣が見え、思わずシャツに手をかける。
「おっと…俺は、どっちかって言うと、脱がすほうがお好みなんだけど」
広川はそう言いながら、なみえの手をつかむ。
「え…?」
なみえはどういうことだろうと、少し考えるが、ハッと我に返り改めて、シャツに手をかける。
「これ…」
なみえは唖然とする。その様子を見ながら、広川はふーっと息をはく。
「あー、俺かっちょわりー」
なみえは、広川の目を見つめる。
「…、ちゃんと話すよ。」
それから、広川はヴァストと手を切るために、直接組織へ赴いたこと、そこでの罰を受けたことをなみえに話す。
「…これ、注射の痕?」
するどいなあと思いながら、広川は説明に付け足す。
「うん、あそこでの罰は、普通の拷問プラス、その拷問が効果的に行えるように、痛覚の域値がぐっと低くなる…つまり、通常よりも痛く感じやすくなる薬を注射するんだ。組織で開発した薬だから、違法になるけど。」
「そうしたら、今も痛いの?」
なみえは、心配そうに広川を見上げる。
「いや、薬はだいぶ抜けたよ。いっぱい飲んで、いっぱい出したから」
ハハハと笑いながら、広川は話す。
「今は、睡魔みたいなのが襲ってきててね。」
なみえは、なんとも言えぬ感情が沸き起こり、そっと広川に抱きつく。
「…」
広川は一瞬頭が真っ白になるが、フッと表情を和らげ、そっと抱きしめ返す。
「…俺を信じて…」
広川はそう呟くと、ぐっとなみえにのしかかる。
「広川さん?」
広川からの反応はなく、なみえは寝ちゃったのかと呟く。さすがに、ベッドまで運ぶことは出来ないため、そのままソファに寝かせ、なみえは寝室を探し、失礼しますと囁きながら、ベッドの上にある掛け布団を手に取り、そっと広川にかぶせ、部屋を後にする。玄関に鍵をかけ、ポストの中に鍵を入れて。

それからの日常は、朝文菜と学校へ行き、部活を行い、中河原の送り迎えのもと、帰宅をする…ということの繰り返し。広川は忙しいようで、連絡もつかず、その後の体調は一度メールで回復を知らせるものが着たきりであった。桜子からのいいつけの手前、何度も広川の家へ行くこともはばかられ、2度ほど行ってはみたが留守で会えずじまい。文菜いわく、塾のほうも授業の時間しか塾にはおらず、なかなかつかまらないようであった。
「なんか、ほんっと最近忙しいみたいよ。」
登校中、文菜は手をパタパタしながら言う。
「うん…」
お母様が絡んでる気がする。なみえはそう思いながら、返事をする。
「大丈夫?こんなに会えなかったことないんじゃない?」
「…大丈夫。」
そう答えるなみえの表情は、以前文菜に見せた安心させるようなものではなく、どこか余裕がなく、不安がにじむ笑顔であった。

広川は、自宅にてPCと向き合いながら、ひと段落したところでふと携帯に目をやる。
「…」
連絡をとりたい…、声が聞きたい、逢って…抱きしめたい、そんなことを想い、机に拳を突きつける。
「はぁ…」
一つ、ため息をつき、PCの横へ目をやる。そして、そこに置かれたガムに手を伸ばす。
減らしてもらえる以前の仕事量へまた戻り、むしろそれより多いくらいで、プラス塾の仕事があるため、かなりのハードスケジュールとなっている。さらに、桜子からなみえと会わないように言われていることもあって、なかなかなみえへ連絡も取れずにいた。また、それは自分への戒めでもあった。
なにがあっても、やり遂げる。広川の目は強い意思で満ちていた。

「なみえさん、勉強のほうはいかがです?」
「えぇ…それなりにという感じです。」
8月中旬に入り、なみえは明日から学校も、部活も休みに入る。本日も、いつものごとく、部活終わりに中河原が送り迎えを行っている。
「良かったら、明日一緒にドライブに行きませんか?」
「え…」
「たまには、息抜きも必要でしょう。私も明日、休みなので…」
ニコリと中河原は、なみえに微笑みかける。なみえはふと、今倞吾さんはなにしてるのかな、と考える。
「なみえさん?」
「あ、すいません…。あの、いつも送り迎えしていただいて、中河原さんは仕事のほう大丈夫…なんですか?」
「…私は、大丈夫ですよ。それで、明日どうです?」
「あ、はい。わかりました…」
「では、明日の1時にお迎えにあがりますね。」
なみえはコクンと頷いた後、窓の外へ目をやる。中河原は、チラッと横目でなみえのことを見つつ、運転を続ける。

「おはようございます、なみえさん」
翌朝、中河原はいつものスーツ姿と打って変わって、Tシャツにチェックで薄手の半袖シャツ、ジーパンといういでたち。
「おはようございます…」
なみえのほうは、膝丈の白スカートにロングTシャツを合わせた、カジュアルな格好である。そして、制服のときはいつもポニーテールにしているところをおろしているので、ストレートヘアーのサラサラ感がよりいっそう伝わってくる。
中河原は、なんとなくなみえの様子に違和感を覚えたが、いつもと違う格好であるからかなと、思い過ごす。
それから二人は車に乗り込み、ゆっくりと車は動き出す。
しばらく、車内は沈黙のまま時間が流れる。耳に入ってくるのは、FMラジオから流れる音楽やDJの声のみ。
中河原は、チラッとなみえを見る。なみえは、それに気がつく様子もなく、ずっと外を眺めている。
「そういえば、部活のほうで、なにか夏にイベントが?」
フッと、なみえは我に返ったように、中河原のほうへ視線を向ける。
「えぇ、有志でサマーコンサートをするんです。1、2年生を中心に。」
「では、なみえさんは参加されないのですか?」
「はい…私は、アドバイスするためになるべく参加してたんです。3年生になると、みんな不参加気味になるので。」
なみえは、なんとなくラジオに耳を傾けながら応える。
「そうですか…では、なみえさんはもう演奏しないのですか?」
「いえ、私は九月の文化祭が最後です。」
「…では是非、観に行かせてください」
まさかの展開に、なみえは驚き中河原のほうを向く。
「え?」
「駄目ですか?」
中河原はノーとは言わせない笑顔をなみえに向けながら問う。
「あ、いえ…」
「では、約束です。」
クスリと笑いながら、中河原はハンドルを切る。

二人は、車で2時間ほどの、あまり人気のないビーチに来ていた。
「やはり、まだ夏真っ只中ですね。日差しがきつい…。」
「そうですね…」
「なみえさん、こちらです。岩場で少し足元が危ないので…」
中河原はそう言いながら、笑顔でなみえに手を差し伸べる。彼の言動は、どうしても有無を言わさない強さがあり、なみえは、少し躊躇うが、言われたとおり手をだす。すると、中河原はゆっくりと手を取り、しっかりと握る。
海水によってスカスカになった岩場をいくつか越え、なみえがつれてこられたのは、木陰に池くらいの広さの水溜りが出来たところであった。
「ここは、引き潮のときにだけ出来る穴場なんです。この時期、くらげが多いですしね…あちらに座りましょうか」
誘導されるまま、なみえは座る。そして、なみえは、サンダルを脱ぎ、水面に足をつける。
「冷たい…」
フッと、表情を和らげ、中河原はなみえの横に座り、横顔を覗く。その視線に気がつき、なみえが視線を上げると、中河原と目が合う。
「?」
なみえは、なぜ彼がこちらを向いているのかを理解できずに、首をかしげる。
そのしぐさに、中河原はドキッとする。顔が熱くなるのを感じ、キュッとメガネを上げる動作で顔を隠す。
「いえ…少しは気晴らしになってるかな~と思って…」
いつものかしこまった言葉でなかったため、なみえはきょとんとする。
「あ、私服のときくらいはいいかなと思って。駄目…かな?」
「いえ、かまいませんよ。」
その返事に中河原は胸をなでおろす。
「よかった。俺ってもともと、普通のサラリーマンの家の子だから、普段からかしこまった言葉って、使い慣れてなくて…。社長に引き取られてから、一生懸命いろんなことを覚えたんだ。義務的だったけど、すごく楽しかった。それまでにはない世界が、たくさん見えてきて…、自分にも出来ることがあるって、実感できたんだ。…あ、ごめん、こんな話…面白くないね。」
いつもより、饒舌気味な自分にハッとし、苦笑する。
「いえ…。私は話すことが、苦手なので…」
それから、しばらく二人は、その場に座って他愛ない話を続けた。

ふと、中河原は腕時計を見る。
「そろそろ、潮が満ちてきますね。帰りましょうか…」
立ち上がり、なみえに手を差し伸べる。
「危ないですので…」
戸惑いがちななみえに対し、付け加えるように中河原は口にする。その、大義名分により再び、なみえは中河原の手をとる。
「帰りに、晩御飯もご一緒願えますか?」
「はい…」

海岸を出て、帰り道にイタリア料理の店へ立ち寄り、家の前まで着いたのがちょうど19時になるというところ。
「今日は、ありがとうございました。楽しかったです。」
そう言い、なみえは車を降りようとする。
「なみえさん…」
呼び止められ、なみえは振り返る。そこには、中河原の真剣なまなざしがあった。
「今日ずっと、いえ…もっと以前から、あなたは広川倞吾のことを考えてた。」
あまりのストレートさになみえはどうしたらいいか分からない。
「忘れられないなら、それでもいい。彼を想うあなたごと、俺は受け入れる。」
そう熱く語りながら、中河原はなみえの手をつかむ。
「彼は、社長に、属していた組織と手を切ることを、条件付けられました。やくざよりも性質が悪い、きっと彼はただではすまない…。俺は…彼と関わって、傷つくあなたを見たくないんです。俺は、いつでもあなたのそばにいます。」
そこまで言い切ったところで、中河原はハッと我に返り、つかんだ手をゆっくり離し、なみえの顔を見る。
なみえは、呆然として言葉を失っている。
「あ…えと、すいません…ありがとうございます。では…」
意識は混乱したまま、なみえは車のドアを開ける。
「明日からはゆっくり休んで…」
その言葉を聞き、なみえは一礼し、駆け足でうちへ駆け込む。その後姿を、中河原は眺めながら、はぁと短いため息をつく。

『現在、おかけになった番号は、電波の悪いところにあるか、電源が入っていないため、かかりません。しばらくして…』
ピッと、電話の通話オフのボタンを押し、なみえは携帯を閉じ、はぁっとため息をつく。そして、ぼーっと携帯を見つめる。広川から初めてもらった物。形のないものも、たくさんもらった…人を好きになるという感情、嬉しいという気持ち、大事な人が出来たために抱いてしまう寂しいという孤独。そんな想いがなみえを駆け巡り、一筋の涙がなみえの頬を伝う。
「逢いたい…」
怪我を負った広川と、最後に会ったときから約半月が経った。それから、初めて流した涙。なみえはハッと我に返る。
知らなければ良かったのかもしれない…。何にも知らなかったら、こんなに辛い感情を抱くことはなかった。忘れなければ…もっと、強くならなければ…。そんな想いが巡り、なみえはそっと流した涙を拭う。

それから、なみえは家から外出することはなく、1週間が過ぎ八月も下旬を向かえていた。お盆休み以降、学校の補習講座はなくなり、学校への用事は部活のみとなる。
だが、残りの部活になみえは姿を現さなかった。
「なみえ先輩、ずっと来てくれてたのにね~」
「まぁ、でも受験生だからね!また、九月なったら来てくれるよ」
フルートパートの2年生が片づけをしながら会話をする。
そんな会話を横目で見つつ、文菜は指揮台に立ち、部室内を見渡す。
「片づけ中、ごめんね~。」
ぴたっと、部室内の雑音が止む。
「みんな、夏休み中お疲れ様!こないだのサマコンもかなりの好評でした!ってことで、校長から差し入れがありまーす!」
その言葉に、部屋中が湧く。
「は~い、そんで、それはまた後で渡すからね。あと、こっからは真面目な話なんだけど、やっぱ今年の夏も3年生の参加率が一番低かったことは、謝ります。でも、私たちの最後の舞台の文化祭は、参加するからには、ちゃんと全力でやりきります!だから、最後までよろしくね!」
「「「よろしくおねがいしま~す」」」
文菜の、呼びかけに、再び部室中が湧く。
「はいは~い、ところで…みんな!宿題は終わった?」
先ほどまで湧いていた部室中が静まる。
「うん、たぶん、みんなが終わってないわけではないと思うんだけど…部活ばっかやってて、宿題できてない…じゃ、先生に顔向けできません!なので、明日から始業式まで部活休み!ってことでよろしく!」
そして、再び部室内が湧き、文菜は自分の片づけしに席へ戻る。
自分の楽器を磨きながら、文菜はなみえのことを考える。お盆休みを明ける前日、なみえから部活を休むという連絡が入ったきり、音信不通である。自分自身も、部活と塾との両立で忙しかったため、家を訪れることも出来なかった。
広川先生も、本当に最近見かけない。全く、授業をしていないわけではないようだが、城川先生の穴埋めで授業をやっていたのも、代理も見つかったらしい。
「なんか、広川先生九月からお休みらしいよ!」
「え、マジ?」
「え、マジ!?」
Fゼミ組みの会話が聞こえてきて、文菜は思わず駆け寄り、話に乱入する。
「あ、はい…今も、かなり授業数とかも減ってて…9月からは本格的にお休みらしいです。」
「そうなんだ~ってか、なんで知ってんの?」
「あ、私、個人講座、広川先生なんですよ!だから、残念…」
「なに、好きなの?」
「憧れですよ♪なんでも、体調不良が理由とか…」
「あ~…」
そういえば、あんとき以来だな~と思いつつ、文菜は話を切り上げる。
「そっかそっか、ありがとう」

まさか、なみえは広川につきっきりで看病してるとか?など考えながら、文菜は校門を出る。すると、そこには何度かなみえの家の前で見た車が停まっていた。なみえに用か?と思いながら、横を通り過ぎようとすると、運転席のドアが開き、見覚えのある顔が出てくる。
「お久しぶりです、林さん。」
「あ、こんにちは…えぇと…」
「中河原です。」
戸惑う文菜に、男はニコリと笑顔を見せる。
「あぁ…なみえなら、今日もきてませんよ?」
文菜はあっけらかんと応える。なんとなく、この男に良い感情を持つことができない。
「…」
返事を聞き、中河原は左手で右肘を持ち、右手をあごに持っていき、なにか考える動作をする。そんな中河原の様子を見ながら、文菜はもう帰って良いかな?と、覗き込む。すると、中河原と目が合う。
「あぁ、大変失礼いたしました。実はそのことで、お聞きしたいことがありまして…」

「何を、考えてらっしゃるんですか?」
思わず、尋ねてしまった自分に中河原はハッとする。ここ最近では、なみえの様子やしぐさから、何を考えているのかなど、本当になんとなくではあるが、感じられるようになっていた。だが、今の様子からはなにも読み取れず、少し焦りを感じてしまい、思わず口を開いていた。
「なにも。」
なみえからの返事も、そっけなく言葉からもなにも感じ取ることができない。一瞬、中河原のほうを向くが、すぐにまた窓の外を眺め始める。
「そうですか…。部活は明日からですか?」
「…はい。」
なみえは、外に目を向けながら応える。
「では…」
「行きも帰りも文菜と一緒ですから、しばらくお会いできません」
「左様で…」

中河原は最後に、なみえと行ったやり取りを思い出す。そして、ふっと我に返り、隣に座る文菜へ問いかける。
「なみえ様は、お盆休み明け、あなたと学校へ登下校ともにするとのことでしたが、休み明け以降なみえ様は?」
「…」
とりあえず、言われるがまま車へは乗り込んだが…文菜は、なんとなく好意を持つことのできないこの男に真実を話すべきであるか、考える。
「私に真実を話すべきか迷っていますか?」
考えていることをあてられ、文菜はドキッとする。
「残念ながら、なみえ様が広川氏と一緒にいることは考えられない。」
「どうゆうこと?」
「やはり、その可能性を考え、口をつぐまれているのですね?」
文菜はわずかに顔をしかめる。
「あなたは、広川倞吾の正体をご存知でしたね。」
文菜は小さく頷く。
「…社長…なみえ様のお母様ですが…、彼の正体をお知りになり、お二人に会わないように言われまして…。さらに、広川氏に組織と手を切ることを条件付けられまして、おそらくそのためにかなり忙しくなっていることが考えられます…」
文菜はその話を聞き絶句する。
「ここからが本題になりますが…私が、なみえ様にお会いしたのが、休みの最終日なのですが、林さんは…最後、いつお会いになられました?」
「あ、え~と…会ったのは休み前の最後の部活で、その休みの最終日…17日に、部活は休むって連絡があったっきり…連絡とってない…です。」
ポカンとしつつ、文菜は必死に思い返しながらそう応える。
「そうですか…なみえ様の行きそうなところに、お心当たりはありませんか?」
「なみえ…いないの?」
少し間をおき、中河原は口を開く。
「連絡が…とれずにいます」
「家に電話しても出ないってこと?」
あわてる文菜に対して、中河原はゆっくりと頷く。
「広川のところにはいないってなら…なみえんちは?」
「家にかけても出られませんし、しばらく家の前にいましたが…ここ数日、人が出入りした様子がありませんでした」
それを聞きながら、文菜は腕組みをし、右手を口元にやり、黙って考え込む。そこへ、車の窓をコンコンと叩く音が聞こえる。外を見ると、中井と目が合う。
それに気がつき、中河原は助手席側の窓をあける。
「こんなとこでなにやってんの?」
窓が開くなり、中井は苦言を呈し、運転席に座るスーツの男ににらみをきかせる。
「ちょっと待って、考え事してるの。後ろ乗って。訳は話すから。」
文菜の真剣な様子に、中井は少し驚き、運転席の男に目をやる。
「鍵は開いてます。どうぞ。私、中河原と申します。林さんのお父様と同じ会社の者です。決して、怪しいものではありません。」
中井は、小さく何度か頷き、言われるとおり車の後部座席に乗り込む。車のふかふか具合に驚きつつ、中井はシートベルトを締める。律儀な男だ。
「…一回、家に行きましょう。居なくても手がかりがあるかも。」
「分かりました。」
文菜の言葉に、中河原は大きく首を縦に振り、車を発車させる。
「ってか、どんだけ考えても、家しか考えられないのよね。」
口にあてた指をグッと噛みながら、文菜は呟く。そんな文菜の様子を、じっと中井は見守る。文菜がこんなに真剣に考えるってことは、舞束さんになにかあったのかな…そう考えながら。

「郵便物が結構たまってる…確かに、人がいた気配がないわね…一番古いので、十日配達分がある…」
中河原とともに郵便物を手に取り、文菜は呟く。つまりは、その一週間後に連絡はあったけど、家にはいなかったってこと?いや、もしかしたら、玄関から外には出てないだけ?そう考える文菜の思考を遮るように中井の声が耳に入る。
「1箇所、窓開いてるぞ。」
パッと、文菜は振り向き、声がしたほうへ走る。
中河原も一緒に駆け寄る。
「ここだけど…どーする?一応不法侵入ってことになるわけだけど…」
指をさしながら、中井は文菜の表情を見る。
「どうって…入るわよ。」
そう言いながら、文菜はそっと窓をあけ、靴を脱ぐ。
「あんたは?」
社長宅へ不法侵入…その言葉が頭の中で駆け巡らせながら、中河原は一歩を踏み出せずにいる。そんな、様子を見透かしたように中井は問いかける。
そうこうしているうちに、家の中から叫び声が聞こえる。文菜のものだ。
「なみえ!なみえ!」
パッと、外にいる二人は目を合わせ、家の中へ駆け込む。
駆け込むとそこには、横たわったなみえを抱きかかえ、泣き叫ぶ文菜の姿がある。
中河原は、すぐに駆け寄りなみえの呼吸と脈の状態を診る。
「脈も呼吸も弱いが、確かにある。とりあえず、救急車を呼びます。」
そう言いながら、胸ポケットに入った携帯を取り出す。その横で、文菜は、なみえのことを揺さぶりながら叫んでいる。
痛々しい文菜の姿に、中井も胸を痛めそばによろうと一歩踏み出す。すると、部屋の横のキッチンのテーブルの上にある瓶を見つけ、バッと手に取る。それをじっと見つめ、中井はそれをポケットに入れる。大量服薬の可能性がある。瓶の中身はほんの数錠。服薬してからどのくらい時間が経っているか分からないし、飲んだ量も不明。十時間以内だったら胃洗浄が有効…でも、救急車がおそらく数分で到着するから、余計なことはせず専門家に任せるべきか…そこまで思考をめぐらせ、中井は文菜のもとへ急ぐ。
「5分以内には着くそうです。」

「俺が、救急車に乗る。あんたは文菜を連れて来てくれ。」
救急車には2名までということを言われ、中井は冷静に中河原にそう伝える。
中井は車を運転することは出来ない。動揺する文菜を乗せるより、少し距離をとり落ち着かせたほうがいいだろうと、中河原も思い至り、頷く。
救急車に乗り込んだ、中井は救急隊員に向かって言う。
「この薬を飲んだ可能性があります。いつごろのんだかまでは分かりません。」
その言葉を聞き、救急隊員は少し驚いた様子を見せるが、「分かりました」と応え、搬送先の病院に連絡する。

「中河原、これはいったいどういうこと?」
病院に駆けつけた、桜子は中河原を叱責する。まだ、なみえの状態は分からず、処置室の前で中井は文菜に寄り添いながら、初めは着物姿の婦人の登場にわずかに驚いていたが、じっと二人のやり取りを見ている。
「…」
「はい、ですから…お電話でお伝えしたように…」
「それは、わかったから…なぜ、このような状態になるまで気がつかなかったのか聞いているの」
「は…」
たじろぐ中河原を横目で見つつ、中井は痺れが切れ、口を開く。
「おかしくないすか?」
バッと、桜子と中河原の視線が中井の方へ向く。
「普通駆けつけたときの、第一声って…子供の安否を確認するものだと思うのですが」
冷たい目で、問いかける少年の声が桜子の胸に突き刺さるが、とくに表情に変化は見られない。
「どなたでしょうか?」
「舞束さんのクラスメイトの中井といいます。」
「…そう、初めまして。なみえの母です。ご心配いただきありがとうございます。」
そんな会話をしている中、処置室から一人の医師が出てくる。
「えぇと…舞束なみえさんのご家族の方ですか?」
「はい」
そう返事する桜子に医師は向きなおす。
「一応、処置は行いました。おそらく、状態としては…ここ十日ほど何も飲まず、食べずの状態で、かなりの脱水傾向が見られ、さらに…おっしゃっていたトランキライザーの大量内服が確認されました。」
その言葉に、桜子と中河原が驚きを隠せず、「え?」と声が出る。
「あ、俺が伝えました。キッチンに瓶があったから」
中河原は、チラッと中井に目をやる。
「えぇと…胃の中への残留もみられるため、まだ薬を服薬してからの時間は浅いことが考えられます。そのため、まず胃内洗浄を行い、現在出来るだけ多くの点滴を行い様子を見ています。目が覚めれば問題ないと思いますが、今はなんとも言えません。一応、状態は安定していますのでこれから、病室へ移動します。5階の病棟になります…」
医師は、そこまで言い切ると、「では…」とその場を後にする。
その場に、桜子と中河原は立ち尽くす。中井はそんな二人を客観的に眺める。
「くすり…」
ぼそっと、中井の隣から声が聞こえる。桜子と中河原に向けていた視線を、そのまま中井は隣に座る文菜に向ける。二人も、自然文菜に視線を向ける。
「ねぇ!どうゆうこと!?睡眠薬かなんかをいっぱい飲んだってこと?それって…じさつ…」
文菜は、中井に勢い良くとびかかる。そして、自分の中で結論に至ったとき、文菜は勢いをなくす。
「大丈夫、助かったんだし。未遂だ。目が覚めたら、みんなで話を聞いてやればいい。」
そう言いながら、中井は文菜のことをゆっくり抱きしめる。そして、立ち尽くす二人へチラッと目線をやり、文菜に立ち上がるよう促す。
「病室行っとこうか。面会時間終わったら帰るよ。」
頭を抱える桜子とそれを支えようとする中河原にも聞こえる大きさで、中井は文菜に言い聞かせる。

ゆっくりと、言われた病室へ着くと、すでになみえは到着していて、看護師が点滴の調節を行っている。文菜は、ベッドに駆け寄り、なみえに抱きつく。そんな文菜を見つめつつ、中井は部屋から出て行こうとする看護師に声をかける。
「すいません、面会時間て何時までですか?」
「20時までです。それまでに、目が覚めましたらナースコールでお呼びください。」
看護師は丁寧に応えると、そのまま部屋を後にする。時計に目をやると、18時半。
中井は、やっと気が抜け呆然と部屋を眺める。なみえが搬送された病院は、近所の中でも比較的最近に立替を行っているため、病院くささもなくとても綺麗な造りをしている。中でも、なみえが通された部屋は個室で、部屋内にトイレも付いている。
ふーっと、中井は息をはき壁にもたれかかる。大体、なんで舞束さんは自殺未遂なんて…てゆーか、俺なんにも知らないんだけど…と考えながら、苦笑いする。
スッと、病室のドアが開き、桜子と中河原が入ってくる。
「文菜さん、ありがとうね、見つけてくれて…」
文菜は、桜子へ目をやる。いつも、無表情なおばさんが、明らかに動揺の影が見え隠れする。でも…
「おばさんが…、なみえを追い詰めたんです。」
中井は、まさかの展開に文菜に駆け寄る。桜子は、文菜の言葉をゆっくり受け止めている。
「広川は…確かに、背景とか…真っ黒なやつだけど…あたしも、大っ嫌いだけど!でも、なみえを好きな気持ちは本物で…なみえはあいつを頼りにして、これまで自分だけで支えてたものを、広川にも支えてもらって…広川も、なみえと出会ってやっと人間味が出てきて…それは、なみえも一緒で…あーもう!何言ってるか分かんなくなってきた!でも、二人は本当にお互いを必要としていたんです!」
文菜はあまりに、ヒートアップし、桜子のそばで泣き叫んでいた。桜子は、どう応えようかと、頭を巡らせる。
「どういうことだ?」
その場にはなかった声が突然入り口から聞こえ、4人はバッと声のしたほうへ顔を向ける。
「あなた…」
桜子の呟きを聞き、文菜は心の中で絶叫する。十年ぶりくらいだろうか…。紺のスーツに、スラッとした印象の強いお兄さん…までは行かなくても、おじさんとは呼びがたい若さの男性がそこに立っている。
「おや、文菜ちゃんだね、お久しぶり~十年ぶりくらいかな…すっかり、美人になったものだね」
あなたと呼ばれたその男性は、ニコニコしながら文菜に話しかける。
中井は、その男を見ながら、舞束さんは父親似か…と納得する。というより、母親と対照的に軽い印象なことに驚く。
「はじめまして、舞束さんとクラスメイトの中井といいます。」
「お!もしかして、文菜ちゃんの彼氏?お年頃だね~林君は知ってるのかな?」
「父には言ってないです。秘密ですよ?」
林君?と中井が首をかしげていると、文菜がすかさず応える。
「そっかそっか~、んでなみえを見つけて冷静な対処をしてくれたのも君なわけだね?ありがとう。自己紹介が遅れたね、僕は曹野啓三。なみえの父だよ」
啓三はそう言いながら、手を出す。中井はポカンとしながら、手を出し、握手を交わす。
「あ、なみえはね、桜子の旧姓名乗ってんの。色々危ない世の中だからね。離婚とか、そんなんじゃないよ」
心を見透かしたように、啓三は笑顔でそう口にする。
「君は、かなり頭の切れる人間のようだ。将来僕の会社に是非来ていただきたいね。」
そこまで言い切り、おっとと我に返る。
なみえのそばまで寄っていく。
「う~ん、久々に見た我が子がベッドの上だなんてね…。」
そう呟きながら、なみえの頭を撫でる。
「今日のところは、もう僕らがついているから、大丈夫。本当にありがとうね。疲れただろう。帰ってゆっくりするといい。中河原君、お二人をお送りしてもらえるかな。」
突然、話を振られ、中河原はハッと桜子の様子を伺う。すると、桜子は小さく頷いており、中河原もそれに対して頷き返す。
「分かりました。林さん、中井さん、ではお送りいたします。」
文菜は、なみえのそばから離れることへ不安を隠しきれず、中井の顔を見る。中井は文菜の視線に気がつき、にっこり微笑む。
「大丈夫だって。俺らは帰ろう。また、明日お見舞いに来よう」
中井の落ち着いた態度に、文菜はホッとし促されるまま部屋を後にする。
3人が部屋を出て行くのを、見送り啓三はなみえの頭を撫でながら、桜子に話しかける。
「君も、疲れたろう。お座りなさい。」
桜子は何も応えることができず、その場に立ち尽くしてしまう。
その様子を見て、啓三は桜子のそばまで行き、ベッドの横にある椅子まで誘導する。
「なにを怯えてるの?悪いことでもしたの?」
啓三の表情は、いたって穏やかである。
「大丈夫。僕は、君になみえのことはまかせっきりだ。でも、君だって忙しいんだ。君だけのせいになんてする気はない。状況をちゃんと、隠さずに話してごらん。」
桜子は、頭を抱え込む。
「…あの子が、交際しだした男を調べました。広川倞吾という名前で、あの組織の一員だった。」
「もしかして、ヴァスト?」
桜子はコクンと頷き、啓三はそれを見て腕組みをする。
「そのことをなみえに伝わるように細工して、引き離そうとしたけど、なかなか思うようにいかなくて…だから、直接二人に会わないように言ったの。」
啓三は何も言わず、桜子の話に耳を傾ける。
「だって…ヴァストだなんて…許せない…」
桜子は、涙を流し訴える。啓三は、桜子をゆっくり抱きしめる。
「あぁ…わかってる…でもね、あそこは世代交代して、僕らが恨んでいたころの組織とは違う。」
「それは分かっているわ!それでも、危ない組織に変わりはないし、そんな組織と関わりのある男と付き合うだなんてっ!」
啓三は、立ち上がりなみえの顔を見る。そして、涙の止まらない桜子にそっとハンカチを手渡す。
「でも、それによってなみえは追い詰められちゃったわけだね。今回のことは、君だけが悪いわけではない。だが、少し君が行き過ぎた点があったのは事実だ。君は、広川君と話をしたんだろう?どうだった、印象は」
「年齢にしては、落ち着いていて…好感をもてる青年でした。」
桜子は、渡されたハンカチで涙を拭きながら応える。
「ほう…君が、好感をもてるだなんて、興味深いな。僕も、一度会ってみようかな。」

「あ、あれ、携帯忘れてきちゃったかな。ちょっと戻ってくる!」
病室を後にした3名は、少し重たい空気の中、ゆっくり病院の廊下を、出口に向かって歩いていた。唐突に、文菜はそう口にすると、踵を返し、ぱたぱたと来た道を戻っていく。
「あ~、またか…」
文菜の後姿を見ながら、中井はクスリと笑う。
「また?」
「あ、いや、文菜ってしっかりしてそうで、変なとこ抜けてて。案外、かばんの中に入ってたりするんですよ」
「なるほど…」
二人は、ゆっくり文菜の後を追うように歩き出す。
「あんたって、舞束さんのこと好きなの?」
唐突の質問で、中河原は少しドキッとする。
「えぇ、お慕いしておりますが。」
「ふーん…。でも、結構義務的だよな。なんつーか、あんたって、本当はあのお母さんに気に入られたいだけなんじゃないの?違ってたらわりぃけど…」
中河原の足が止まる。
今まで、自分では避けてきた思考。自分は舞束なみえをずっと好きでいるという、思い込みに近い、強迫観念。自分ではない、他人から言葉にされ、中河原は自分の足元が崩れていくような錯覚に陥る。

「ところでさ」
啓三は、ベッドのなみえから、桜子に向き直る。
「はい」
なにを言われるのだろうと、桜子少しドキッとする。
「君、まだ薬がないと眠れないの」
「…どうして」
「なみえの飲んだ薬って、君が飲んでるやつでしょ?」
「どうしてそれを…」
「君が、わざわざ海外の安定剤を手に入れて、使っていたのは知っているよ。…すみれが亡くなってからだ。」
病室の前にたどり着いた文菜は、漏れ聞こえる話しに中に入れずにいた。すみれって誰だろう?そんなことを考えていると、かばんの中で携帯のバイブレーションがなっていることに気がつく。
「あ…」
かばんの中だった。それに気がつき、振り返ると、廊下の向こうで中井が笑顔でいる。中井が、自分の携帯を鳴らしていることに気がつき、文菜はそっとその場を後にする。

「はぁ…」
時計を見ると、8時。すっかり辺りは暗くなってきている。
まさか、尾行対象が国外逃亡するとは…そんなことを考えながら、広川は苦笑いする。口にはパイポを銜えている。
かれこれ、ここ上海まで来て2週間ほど経つ。5日程前から、同じホテルに滞在していて、行動パターンも一定化してきた。まぁ、あと数日もすれば依頼者が抑えに来るかな。そう考えながら、対象が自室へ入っていくのを見届けてから、隣にとった自室へ戻ろうとする。
部屋に入るとすぐ、呼び鈴がなり、広川は覗き穴から外を見てみる。一人の男性が、向こう側から覗き穴を覗き込んでいる。あれ?と思いながら、広川はドアを開ける。男性はドアが開くと素早く、部屋に入り込む。
「いやぁ、すまない。怪しいものじゃないよ。曹野啓三といいます。初めまして、広川君。」
ポカンとする広川に対し、啓三は淡々と自己紹介し、右手を差し出す。
「あ、はじめ、まして…広川倞吾です。」
差し出された右手を握り返しながら、広川は挨拶し、部屋の中へ誘導し椅子を差し出す。
「ごめんね~びっくりしたでしょ。しかも、仕事中なのにね。」
「いえ、わざわざ遠いところを…というより…」
広川は2つのコップにお茶を注ぎ、テーブルを挟んで啓三の向かい側に腰掛ける。
「あぁ、すまないねぇ…」
差し出されたお茶に対し、啓三は詫びを入れる。
「いえ、こんなものしかありませんが…というより、晩御飯は食べられました?よかったら、ルームサービスでなにか頼みますが…」
「お、本当かい?実は腹がへっていてね。一緒に食べよう。お酒は飲めるかい?」
「あ、はい…」
話の主導権を握った状態で、啓三は部屋の電話をとり、食事を頼みだす。広川は、あまりの展開に頑張って頭を整理している。曹野…なみえちゃんのお父さんだ…写真で顔は見てたけど、もっと堅苦しい人かと思ってた。というより、若くないか?そうこうしているうちに、ルームサービスが届き、少し遅い晩御飯が準備される。
「いや~お腹すいた!まずは、乾杯かな。」
啓三はそう言いながら、グラスにワインを注ぐ。
「あ、ありがとうございます…」
「うんうん、かんぱーい!頂きます!」
チンと、グラスをあわせ、二人は料理に手をつける。
「いや~本当にすまないね~あ、てゆうか僕が誰か分かってるよね?」
「…なみえさんの、お父様…ですよね」
正直、口にするものすべてに味を感じない状態で広川は応える。
「うん。あ、緊張してる?大丈夫だよ。僕は君と話がしたくて来たんだから。いや~探したよ~まさか、海外にいるなんて思ってなかったからさ~」
ケタケタ笑いながら、啓三は広川に話しかける。
「えっと…どうやって…」
なにから聞いていいか分からず、とりあえず話の流れから、尋ねるが啓三はフッと笑っただけで、特になにも応えない。
「桜子と話をしたんだよね?」
「はい…」
とにかく、向こうの話しにあわせるしかないなと思いながら、広川は応える。
「なんだか、やっかいな条件出したみたいだね。大丈夫?」
「いえ…僕は、なみえさんとのことは真剣なので…当然のことだと思っています。」
確かな意思を持って、広川は答える。その表情を見て、啓三はまたニッコリする。
「そっか…僕は、その…仕事関連のことは別として、会ったりするのはいいかなとは思ったんだけど…君はどう考える?」
「今、組織を出してもらう条件として、多大な仕事量をこなしています。その合間で、会ったりすることはもちろん可能ですが…やはり、裏の仕事をしている分、リスクもありますし、なみえさんを危険な目に合わせたくない、ということと…やはり、多少なりとも疲労が隠せないことも考えられる…僕は、好きな女の子の前で惨めな姿は見せたくない。まだ、付き合って間もないですし…カッコいいところを見せたいってのが本音です。」
苦笑気味に、広川は答える。
「うん、そっか。わかるよ~やっぱ、女の子の前ではいいカッコしたいもんね~。ちゃんと、なみえのことを考えてくれてるんだね。よかった。」
これまでの、ニコニコした表情から一転、啓三から哀愁が漂う。そして、カチャリとナイフとフォークを皿の上に置く。
「実はね、なみえがこないだ自殺未遂を起こしちゃってね。体のほうは、もう大丈夫なんだけど、心のほうがね…。」
「…」
広川は言葉を失っている。
「だから、君の真意を確認して、心のほうも大丈夫にしてあげようと思って、君と話をしに来た。君がいかに、なみえを大事に思っているのか分かったよ。きっと、君を連れて行くのが手っ取り早いんだろう…でも、大丈夫だ。僕は君を信じる。だから、なみえにも君を信じて待つように伝える。…それでも、だめなら会ってあげてくれ。」
やっと、浮かべた笑顔で啓三は語る。広川はまだ、言葉を失っており、どう答えていいのか分からない。
「大丈夫。君もなみえを信じてくれ。」
広川は、やっとの思いで小さく頷く。それを見て、啓三はフッと表情を和らげる。
「桜子のこと…冷たい人間だって思った?もうちょっと、お手柔らかに~みたいな…」
啓三は、いたずらっぽく広川に尋ねる。
「…ちょっと…」
広川は、右手でちょっとというのを表しながら、苦笑いする。
「あはは、正直だね。…昔はね、あんなじゃなかったんだ。」
広川は、注がれたワインを一口飲む。
「なみえには、4つ上の姉がいたんだが…11年前に亡くなったんだ。それから…あの子は笑わなくなった。周りにはね、桜子はなみえに表情を出さないように教育してるって言ったりするんだけど…たぶん、なみえ本人もそう思ってる。でも、本当はね、幼いながら無理に笑顔を向けようとするあの子に、笑わなくていいよって言ってあげたんだ。それから、桜子も笑わなくなっちゃった。」
フッと、啓三は苦笑する。広川は何も言えず、黙って話しに耳を傾ける。
「なんで、亡くなったのかと言うとね、ちょうど僕たちの立ち上げた会社が軌道に乗り始めたその頃、まぁ…おそらくそれを良く思わないどっかの会社かどっかのやったことだとは思うんだけど、娘二人が誘拐されてね~そのとき、実行犯だったのが、ヴァストの現在のボス。まだ、下っ端だった彼もまた、お金のために組織に入ったばっかりだったらしい。現場に突入した警官に驚き、銃を暴発したんだ。その弾道が、娘二人に向いて…上の、すみれがなみえをかばって…なみえの目の前で…。」
気がつくと、啓三は目頭を押さえている。
「いや、すまないね。そんなこともあって…桜子は、ヴァストの名前が出てきた時点で、君の事を目の敵みたいに扱ったんだと思う。でも、あいつだって我が子の笑う顔が見たいんだ。あの子は…君の前では笑っているかい?」
すがるような目で問われ、広川は思わずコクンと頷く。それをみて、啓三は少し驚いた表情をするが、ゆっくりと表情を緩める。
「そうか…」

フッと目が開き、ぼやけた視界が徐々に晴れていく。真っ白の、知らない天井がそこにはあった。身近な人の声がする。文菜か。なんだか、長い夢を見ていた気がする。何が、どうなったのか…あぁ、そうか。私はどうしたらいいのか分からなくなって、お母様の部屋にあった薬を飲んだのだった。お母様に…怒られる。しょうがないか…でも、まだ起きられない。うっすら、醒めた意識の中で、なみえはそんなことを考えながらまた、夢の中へ意識を引きずられる。

「なみえは、目を覚ました?」
お父様の声が聞こえる気がする。
「一回、少しだけ目を開いたんですけど、すぐに閉じちゃって…」
文菜だ…。眩しい。
「あ、なみえ!!」
目覚めたなみえに文菜が駆け寄る。
「文菜…わたし…」
起き上がろうとするが、眩暈がしてそのままベッドに横たわる。
「しばらく、眠ったままだったんだ。まだ、様子を見ていたほうがいい。とりあえず、看護師さんを呼ぼうか。」
文菜は言われたとおり、ナースコールで看護師を呼ぶ。
「お父様…」
「うん、大丈夫かい?」
啓三の優しい笑顔に、なみえは安心感を覚える。
「すみません…私…」
頭はきちんと働かないが、気の抜けた返答になる。
「いや…君は、まだ子供なのに、しっかりしているから、ついつい僕らは頼ってしまっていた。申し訳ないね。桜子はずっと付き添っていて、さっき休んだところなんだ。しばらく、休ませてあげよう。なみえはね、丸5日は昏睡状態だったんだよ。目が覚めて本当に良かった。」
「…」
文菜は、なみえが目覚めたことに対する歓喜の涙が流れ、その場から立ち去る。
「文菜ちゃんも、昼間はずっと付き添ってくれててね、助かるって桜子が言ってたよ。」
部屋から出て行く、文菜を見送りながら啓三は口にする。
「…」
文菜の出て行ったドア、部屋のソファで眠る桜子をゆっくりと視線で追い、ベッドの上で気のない表情をするなみえで止める。
「広川君にあったよ。」
気の抜けたなみえの瞳に生気が宿る。
「え?」
コンコンとノック音が聞こえる。
「失礼します。舞束さん、お目覚めになられたんですね。」
看護師が、部屋へ入ってきて、話が中断される。
「お気分悪くないですか?」
「さっき、起き上がろうとしたら、ちょっと眩暈がしたみたいなんだ。」
すかさず、啓三が答える。
「そうですね、眠ったままの状態が続いていたので、まだしばらく横になったままでいてください。先生が今、急患の処置に入っていて、もう少ししたらまた来られると思うので、それまでに気分が悪くなったりしたら、すぐにコールで呼んでください。」
看護師は、なみえの顔色を看て、点滴のチェックを行い、部屋を後にする。
「もう少ししたら、先生が来てくれるって。」
出て行く看護師を見送りながら、啓三はなみえに微笑みかける。
なみえは小さく頷く。そんななみえを見て、啓三は思わずなみえの頭を撫でる。突然のことでなみえは少し驚くが、そのまま啓三のされるままに身をゆだねる。
「さっきの続きだけど…。」
啓三の言葉になみえの体がわずかに反応するのを、啓三は撫でる指先から感じ取る。
「彼はね、今…組織と手を切って、けじめをつけようとしているんだ。なみえと、正面から向き合っていくために。桜子に無理な条件を出されたからなわけじゃないんだよ。」
無言でいるなみえを見つめながら、啓三は話を続ける。
「連絡したかったみたいなんだけど、ここ数週間海外に行ってたみたいでね、無理だったみたいだよ。なみえのことを話したら、すっごく心配していた。もちろん、僕も心配した。桜子だって、文菜ちゃんだって…。心配を押し付けるつもりはないけど、これだけ、なみえを想う人がいるってこと、忘れちゃ駄目だよ。確かに、桜子は多少強引なことをしようとしたかもしれない。でも、それもなみえのことが大事だから…行き過ぎはよくないけどね。」
啓三はニコッと笑う。
「こんな形にはなっちゃったけど、どれだけなみえが広川君のことを想っているのかわかったから…、もう無理に引き離すことはしないよ。…それと、これ。」
本当に、聞こえているのか分からない反応を示すなみえに、そっと一通の便箋を手渡す。
なみえの意識が、その便箋にいく。
「広川君からだよ。」
なみえは大きく目を見開いて、そっと便箋を受け取る。そして、ゆっくり開け、中から二つ折りにされた紙切れを取り出す。その、二つ折りにされた紙切れを開き、中を目にすると同時になみえの目に涙が浮かぶ。そして、そっとその紙切れと便箋を胸に抱く。
『好きだよ。だから、信じて。』
それだけ、書かれた紙切れを、なみえは大事に包み込み、そしてその言葉を頭の中で反芻し、表情を和らげる。
この笑顔を彼は彼女の中から引き出してくれたのか…そう思いながら、啓三は再びなみえの頭を撫でる。

「それからね、なみえ。桜子のことだけど…」
「…はい」
ほどなくして医者が訪室し、目が覚めたのであれば、様子を見て一日、二日後の退院許可を出し、出て行く。そして、ゆっくり、ベッドを起こしなみえはすわった状態となる。
そして、父の口から母の名前が出て、なみえは足元のソファに横になる母へ視線を向ける。
「君には、三歳年上の姉がいた。覚えているかな?」
それを聞き、なみえは目を見開く。
「…きみが今年で十五歳だから、もう十年以上前になる話なんだが…」
そう切り出し、啓三は広川に話した話をそのままなみえにも聞かせる。
「それから、きみは心にぽっかり穴が開いたように表情を見せなくなった。僕たちは、怖くてさっき問いかけた質問を出来ずに今まで来た。やっぱり、君は辛い記憶を消していたんだね。それと同時に感情表現も忘れちゃったんだ。」
それらを聞きながら、なみえはそうだったのかと、母を見つめる。
「桜子は自らの戒めのように、笑わなくなった。無理して笑う君に、無理に笑わなくていいと言った。…笑える君は、もう素直に笑っていいんだよ。そうする事が桜子の呪縛を解くことにつながると思う。」
そう言いながら、啓三も桜子へ視線を向ける。そして、なみえに近づきこそっと耳打ちする。
「桜子は、けっこう広川君のこと気に入ってると思うよ」
「え?」
目を見開き、なみえは父と目を合わせる。そして、おどける父に対し、なみえは笑顔をこぼす。
「なみえ、起きたなら教えなさい。」
先ほど眠っていた母親が、父の後ろから顔を覗かせる。
「あなたもあなたですよ。どうせ、私の悪口でも言ってたんでしょ」
そう、小さく呟きながら、髪の毛を整える。
「あぁ、目も覚めたことだし、様子見て二日ほどで退院だそうだ。」
ニコニコしながら、啓三は答える。なみえは、どう接していいか分からず、下を向く。
「まぁ、それなら良かったわ。…私の娘なんだから、もっと心は強いかと思ってたわ。」
そんななみえを見て、ふうっと溜息をつきながら、桜子はベッドに腰掛ける。
「なに言ってるの、君の娘だから繊細なんじゃないか」
ふふふ、と笑いながら啓三は桜子を覗き込む。
「あなた!」
表情を引きつらせ、桜子は叱責する。
「あの、すいませんでした」
なみえは、二人に対し頭を下げる。そんな様子を見て、桜子はふぅっと小さく息を吐く。
「本当よ。驚くじゃない。広川君のほうがよっぽどたくましいわよ」
桜子の口から、広川の名前が出て、なみえは顔を上げる。
「まだ、認めたわけじゃないわよ?」
その言葉をきいた瞬間啓三と目が合い、そして啓三はこそっとウインクする。なみえは表情を緩める。そんな様子を見て、桜子はまた、顔を引きつらせる。
「あなたたち!」

「あ~、実感ねぇな~」
「そぉ?私、思わず泣いちゃったよ~だって、送辞読んでくれてたの、うちの部の子だったし。」
翌年3月。卒業式が終わり、体育館から出てきたなみえ、文菜、新垣、中井は自然と4人で集まる。
「お前らはいいよな~みんな、推薦で合格してんだもん…俺なんか、一般の入試来週だぜ。卒業ってゆう実感マジないっての。」
ふて腐れたように、新垣はぶつぶつといい続ける。さすがに、この言葉には文菜はなんとも言えず、苦笑いする。
「ま、でも、俺らと同じとこ受けるんだろ?お前、だいぶ成績上がったよな。」
ニカッと笑い、中井は新垣の肩をバシっと叩く。そしてそのまま、肩を組み、わずかになみえと文菜から距離を置く。
「やっぱ、舞束さんと同じ学校に行くためかな?」
ウシシという具合に笑いながら、中井は新垣の出方を伺う。
「おっま…ッ!」
顔が熱くなるのを感じながら、新垣は自分の反応を見て、喜ぶ中井に対しイラッとする。
「おい、俺がその学校に行きたいのは…お前がいるから…だよっ」
わざと恥らいながら言う新垣に対し、中井は鳥肌を立たせる。
「…ッ!?いや…すまないが…俺は…ふみな…ッ」
本気で反応する中井の胸倉をつかみ新垣は揺さぶる。
「本気にすんなぁ~!」
そんな二人のやり取りを遠目で見ながら、文菜はため息をつく。
「なにやってんだか…」
「ん?」
4人が自然と向かっていた体育館裏のテニスコートには、式後写真を撮ったりするため、先生や学生が入り乱れており、にぎやかである。そんなところにいるため、なみえは文菜の呟きが聞き取れなかった。
「いや、アホやってるな~と思って…。そーいやさ、おばちゃんとおじちゃん来てなかったね?」
「ううん、ちょっとだけ来てすぐ帰ってた。二人とも別々で。」
いくら、感情表現を出来るようになったからといって、なみえに劇的な変化はなく、文菜たちと居るときは、表情が柔らかくはなっていた。そんなことを考えながら、文菜はなみえを見つめる。
「広川…」
思わず口をついて出た言葉に、文菜はハッとする。そして、なみえと目が合いあたふたしてしまう。
「あ、いや…今頃なにやってんだろうね~って…連絡はとってんでしょ?」
あの夏休みから、半年が経ち、卒業を迎えているが…その間、広川は塾にも顔を出しておらず、ただ、資料関係では作成に携わっているらしく、辞めてはいないようだ。なみえには聞きづらく、あれ以来、今初めて名前を出した。
「え、そうなの?」
文菜の声が聞こえたらしく、新垣が離れたところから突然話しに割って入ってくる。
「うん。まだまだ忙しいみたい。」
「そっかぁ…」
さっきより、ずっと儚い表情を見せるなみえに対し、文菜は辛くなる。
「よし!もう忘れちゃったら!?」
なみえの隣までやってきた新垣は、なみえの肩を抱きながら唐突に提案する。
苦笑するなみえを見ながら、文菜はカッと新垣に飛び掛かる。
「あんたって奴わ~!!」
「え、冗談だって冗談ッ!」
バッと新垣はなみえから離れて、中井を盾に隠れる。
「まぁまぁ、文菜。冗談にしないと言えないんだって。俺にしとけよってね。」
「お前なぁ~」
新垣は真っ赤になりながら、中井に飛び掛かる。その隣で文菜は笑っている。
なんとなく、三人から離れたなみえは周りを見渡す。
「あの!なみえ先輩!写真撮ってくださいっ!」
吹奏楽部の後輩が十人くらいのグループでやってきて、勢い良くなみえに話しかける。
「あのっ!文菜先輩もいいですか?」
声が聞こえて、文菜は振り返る。後輩達に囲まれて、戸惑っているなみえを見て文菜は噴出しそうになる。
「はいよ」
「あ、俺、撮ってやるよ」
「ありがと」
そんな中井と文菜のやり取りを、後輩たちはキャーキャー言いながら見ている。そんな中から、一人の男の子がなみえの隣にまで来る。
「あのっ、なみえ先輩…後で、二人で…撮ってもらってもいいですか?」
赤面しながら、そう言う垣井君に、勢いでなみえは頷く。
その垣井君の勇気ある行動に対しても、周りのみんなはきゃーきゃー言って盛り上がる。
そんな様子を少し遠いところから眺めながら、新垣はフッと微笑みなんとなく後ろを振り返る。
テニスコートの周りにはフェンスが敷かれており、その向こう側は学校の外の敷地となっている。そして、ちょうど新垣の位置からは校門が見える。新垣は校門付近から近くのコンビにのほうへ徐々に目が移っていく。そこで、視線がピタッと止まる。
「え…」

一通り、写真を撮り終え、なみえは人のたくさん集まったところから少し距離を置く。そして、ふと自分を呼ぶ声が聞こえ、なみえは振り返る。
振り返ると同時に、ガバッと後ろから抱きしめられる。
「なみえっち~!」
「薫君?」
「お疲れ~写真撮影大変だったっしょ~。そんな、なみえっちに特別ゲスト!」
「え?」
呟きながら、なみえは新垣が示すほうに視線を向ける。
「お前、いい加減離れろよ。俺のだぞ」
少し離れたところに、顔を引きつらせた広川の姿があった。いつものように、スーツを着ていて、とくにやつれた感じもなく、最後に見たときから何も変わっていなかった。唯一つ、髪の毛はわずかに肩にかかるくらいだったのが、短髪になっている。
「倞…吾…さん…」
放心状態のなみえをそばに感じながら、新垣はなみえを広川のほうへ押し出す。
「ほらっ、早く行けよ!」
広川のすぐ近くまで押し出されたなみえは、いまだに呆然としている。
「よ、久しぶり…」
広川もどうしていいのか分からず、少し戸惑っている。
「あ…おひ…さしぶりです…」
広川の登場に、近くにいる吹奏楽部のFゼミ生が反応する。
「あれ、広川先生だ…」
「え、あ!本当だ!元気になったのかな?」
「ってか、なんでなみえ先輩と一緒にいるの」
それに似た会話は、広川を見つけたFゼミ生の間で瞬く間に交わされる。
「なんか、俺…悪目立ちしてる気が…。はぁ…てか、おいで。やっと、けじめついたんだ…だから、さらいに来た」
少し冗談めかして言う広川に対し、なみえはフッと表情が和らぐ。
「はい。」
それから、なみえの笑顔に周囲は驚き、また広川となみえが付き合っていることに対しさらに驚き、みんなの視線から逃げるように二人は学校を出て行った。
「本命登場ね」
文菜は、見送りながら、新垣に呟く。
「かなわねーよ。素で俺のとか言うんだから」
「文菜は俺のだぞ」
中井のその言葉に、文菜と新垣は赤面する。
「お前は!」
そうやって、じゃれ合う中井と新垣を見守りつつ、文菜はなみえと広川の去って行った道を振り返る。
それから、広川はFゼミに以前のように職場復帰するが、塾内でも広川に関する噂はあっという間に広まり、周囲の広川に対する見方も変化していった。

同じ孤独を知りながら、全く別の道を歩いてきた二人の道がひょんなことから交わり、そして絡まりながら一本の道へとなっていく。この物語は、そんな二人の始まりに過ぎない。

金鎖の呪縛

金鎖の呪縛

主人公のなみえは中学生。一般の公立中学に通う彼女は家庭の事情で表情が豊かではない。その彼女が、ある男性と出会い、心を開く。そんな二人を描いたお話です。

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-06-22

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