鏡の向こうと僕の日常 4

 どうも、深く考えずに前回の1,2とタグに〝青春〟を付けておりましたが、3に至って青春とは何ぞや?との疑問に憑かれタグ外ししました。しかし今回(主に前半)は、復活させてもいいのでは、と思っております。大体、一人称〝僕〟のやつが腕っぷし強いわけがない、逆に頭で勝つ人間の一人称は〝私〟だと思う。(勝手な思い込み)
 山砦国、のルビはさんさいこく、です。某サのつくシミュ系ロープレゲーをやった人は分かるでしょう、パクりました、お目こぼしを。

草原の民と神殿と

 それから後、旅は特に変わった事もなく、穏やかに続けられた。山を下り荒れ地を抜け、数日かけて北の森に入ると、タカン族が食べる木の実が手つかずで実っていたので総出で収穫し、時には狩りをして狼の腹を満たしてやりながら更に北へ北へと進んでゆく。猛獣や蟲が襲ってくる事が時々あったが、綱手を出さずとも狼と人が総出で当たれば退治できた。
 アーリットは何の変化を見せる事も無く、唯人に手を引かれ、一日中嫌な顔もせず歩いてくれる。ただ、昼間水を欲しがると唯人が器から飲ませようとして譲らないので、夜になって毛皮の寝床を並べ二人きりになった後、唯人が寝るのを待ってから忍びより、心ゆくまで喉を潤すという何とも困った知恵をつけた。堪りかねて、自分の姿に化けたミラに変わってもらおうとしたら見るなり見抜かれた揚句、一気に機嫌を損ねてしまい平気で何日も水分補給を断ってしまう。結局は、平謝りで気の済むようにして頂くしかない。
 タカンの特に女達からは、何も食べさせなくて本当に大丈夫なのかと心配する声がしきりに上がったが、本人がひもじそうな素振りを見せないし、するなと言われた事をやってしまってひどい結果になるというのは物語のお約束、それをあえてやる愚を犯す気は唯人には無い。ただ、痩せているのが心配なので一刻も早く神殿に行って元通りになってもらい、彼が納得する食事をさせてあげよう、それが一番いいという結論に落ちついた。
 やがて、段々と草の丈が増し、緑が濃くなってきた周囲の様子にもうテシキュルに入ったんだな、と思ったある日、頭上を白い鳥の姿で飛んでいたミラから声がかけられた。
「おーい、唯人!」
「何?ミラ」
 肩の上の標にちょっかいをかけている綱手を引っぱりながら、抜けるような青空を振り仰ぐ。
「やっと、ちゃんとした道が見えてきたよ!テシキュルの人は定住生活をしないから、これは村とかじゃなくて神殿に続く道だ。これからは、この道を行けば迷わずに神殿に着ける!」
 はい後はご自由に、と標は綱手の額に一撃をくれ背の印に戻っていった。タカン族の皆も、目的地が近いと知り一気に活気づく。
 あれから更に話し合い、ただテシキュルに入っても目的地が分からないので、みんなでその神殿に行ってみよう、という事になったのだ。神殿とはちゃんと機能していれば、困っている人を出来る限り受け入れ助けてくれる施設だし、話のとおり壊れているのなら人手を必要としているかもしれない。 荷車には不向きだった草原から土を固めた道に上がると、急に荷車を引くのが楽になったのか、狼達は嬉しそうに一斉に速度を上げようとした。
「あ、こら!荷が崩れるからあんまり走っちゃ駄目だって!」
 タッカが、慌てて離れる荷車を追いかける。それからまたしばらく進み、ちょうど高地の入り口にさしかかったのか森に入る緩やかな上り坂に入ろうとすると、狼達が急にそろって足を止め身がまえた。
「どうしたんだ?みんな」
 唯人が訊ねると、タッカも狼と同じ方向を振り返り、じっと動きを止めた。
「何かが来ます、森の中から」
 すぐに、唯人の耳にも複数の獣が立てる蹄の音らしき響きが届いてきた。タカンの男達が、素早く狼の一部を荷車から解き放つ。人狼一体となって身構える中、やがて大きな獣の姿が森の奥から現れた。
「なんだ、なんだ、お前らは!」
 踊り出てきたのは、馬に似ているが、四肢が太く長い耳が垂れた獣に乗った数人の男達だった。テシキュル人なのか、もうタカン族とは明らかに異なる、中央のユークレン人にかなり似た顔立ちだ。何よりも目を引いたのはその髪で、猫のように細く艶やか、そして綺麗な縞模様になっている、きっと一本の毛に複数の色が出ているのだろう。着ている衣装は厚手の毛織の布でできた上下に皮のベスト、それと皮の股当てを付け丈夫そうな長靴を履いている。見た瞬間騎馬民族だな、と理解した唯人に気付いたのか、男の一人が獣に乗ったまま近づいてきた。
「こいつら、南の荒地の狼人どもじゃねぇか、またこっちに群れなして入って来やがったのか。それでお前は何だ?こんな顔つきの奴は見た事ねぇぞ」
 どうやら、この辺りを群島の人間が訪れる事はほぼ無いようであった。男達の言葉はテシキュル語らしく、ラバイア語よりはユークレン語に近いのが唯人にとっては有難い。周囲のタカン族は、男の言葉が分からないらしくじっと黙って彼等を見つめている。狼が低い唸り声を洩らし始めると、男は嫌悪を露わにしてそちらを睨みつけた。
「おい、どいつか人の言葉が分かる奴はいねぇのかよ?」
「僕が、ユークレン語と、ラバイア語を少し使える」
 唯人が口を開くと、男達は皆ぎょっとなった。テルアにいた頃アーリットから教えてもらった話では、地方のテシキュル人にとってのユークレン人というのは皆洗練された都会の文化人で、憧れと恐れ混じりの存在なのだという。目の前の蛮族の中にいる、謎の人種がそのユークレン語を口にしたのは彼等を相当面喰らわせたようだった。
「お、お前!ユークレン人か?嘘つくんじゃねぇ!」
「誰もユークレン人とは言ってない、立場はユークレンだけど。それで、僕達に何か用があるのか?」
 本場仕込みの唯人のユークレン語に思わず気押されそうになりかけたが、男はおおそうだ、と気を取り直した。
「お前ら、この先に行こうってのか」
「ああ」
「なら、俺達のやり方に従ってもらいてぇ。この奥は俺達の縄張りだからな」
「で?」
「なあに、無茶は言わねぇよ、ちょっとだけ金か代わりの物を払ってくれりゃあ道中、猛獣や蟲から護ってやろうってんだ。この先の森には恐ろしいのがうようよいるからな、ガキなんか頭から丸かじりにされ……」
「そういう話なら間に合ってる、僕達には必要ないから。言葉だけ有難く受けとっておくよ、どうも」
「そうそう、俺達に任しときさえすりゃあ……って、え?」
 最後まで聞かず、さっさと背を向けた唯人の合図でタカンの皆は再び狼を荷車に繋ぎ始めた。もう誰も騎馬の男を見ようとせず、荷台の子供達だけがしましまの毛―とか言いあっている。ちょっと待て、なんで野蛮人どもにこの俺がふられてるんだ、と男は馬で唯人の背に詰め寄ってきた。
「このガキ、こっちが下手に出てりゃあ生意気言いやがって!大人の忠告を無視する奴は、ちょっと痛い目に合わせて躾けてやら……」
 今度も、言葉は最後まで続かなかった。まだ繋がれていなかった狼の数頭が、すぐに駆け寄ってきて男の馬を取り囲んだのだ。荒い息を周囲から浴びせられ、馬は身ぶるいして後じさりした。
「よ、よせ……狼をけしかけようってのか?」
「違う、僕は狼に命令なんてできない、彼等が僕を心配してくれてるだけだ。あなたが僕に何かするなら止めないと、って」
 男が馬を充分な距離まで下がらせると、狼はまた荷車のほうへと戻って行った。分かりましたか、と馬族の連中に笑顔を向ける。
「僕達は獣や蟲は慣れてるし、面倒な人間の相手は僕がするから。もう一度だけ言うよ、護衛はいらない」
「お前ら、後悔するぞ!」
「金を惜しんで死んだ奴は、墓に埋まった後もずっと笑われるんだからな!」
 口々に野次る男の仲間に向け、さっさと消えてくれ、と唯人は知らん顔でスフィ抜きのバレットを放ってやった。勢いよく飛ぶ蟲のつぶてが垂れた耳を霞め、馬が驚き飛び上がる。何が起きたのか理解する間もなく、駆け出した馬にしがみついた男達はそのまま森の奥に消え去っていった。
「何だったんだ?竜人よ」
 近寄ってきたタッカの父親に、なんでもない、と戻ってきたバレットを手で受け止める。
「あの人達はここの地元の人で、慣れない僕達の先導と護衛を報酬を出せばやってやろう、って申し出てくれたんです。でも一本道だし、護衛は僕がやってるんでお断りしておきましたから」
「そうか、随分と怒っているような話り口だったので、我らが何か知らないうちに無礼をしてしまったのかと思った。そうでないのなら良かった」
 荷車の行列は何事もなかったように再度移動を始めた。それに付いて歩き出すと、僕が出るまでもなかったね、と肩のミラが欠伸した。
「唯人、僕の経験から言わせてもらうと、この先は絶対獣や蟲よりガラの悪い人間が襲ってくるよ。僕が一足先に神殿に行って、お迎えを連れてこようか?」
「そういう話なら、アルを連れて行きなさい!」
 随分と久しぶりに出て来て、アーリットの傍らに付き従っている銀枝杖がすごい眼付きでミラを睨む。
「はいはい、君のおチビが唯人と離れて大人しくしててくれるなら、僕は喜んで連れて行くんだけど。この間どうしても、って君が言うから鷲獣になっておチビだけ乗せた時の事、忘れちゃったの?暴れるおチビを落とさないよう地面に降りるわずかの間に、僕、首のあたりの羽毛を思いきりむしられちゃったんだよ……」
「アルは、元々貴方にいい感情を持っていませんですからねぇ」
「あーあ、まだ言葉も話せないくらい小さかった頃、せっせと面倒見てあげたの何だったんだろ。とにかく、唯人と一緒でなきゃ僕はおチビは乗せないから」
「あ、銀枝杖、すまないけど僕は先には行くのは無理だよ。知らない場所で何が起こるか分からない、さっきの連中が戻ってこないとも限らないし」
「というわけ」
「分かりました、貴方達自分勝手馬鹿にはもう何の期待もいたしません!」
 怒られるのは嫌だが、言っておいた方がいいのだろうか。銀枝杖、そんな顔ばかりし続けているからアーリットが怖がっているんだと。
「銀枝、あんまり怒ってばっかだと表面に小ひびが入っちゃうよ、ただでさえこのところおチビに手入れしてもらってないんだろ?」
「あの……僕でよければやろうか?手入れ」
「触らないで下さい、馬鹿が染み込むから、触ったら折れてやる!」
「よし、触っちゃえ唯人、僕が護ってあげるから」
「やめてって言ってるでしょうにっ!!」
 自分にしか聞こえない熱いやりとりに(いや、アーリットにも聞こえている、頭に届かないだけで)心底疲労しつつ、唯人は手を伸ばすとアーリットの腰に差してある、今にも端が地面に触れそうな杖をおそるおそるつかんで引きあげた。彼自身は邪魔なこれが嫌いなので、隙あらば抜いて捨てようとするので眼が離せない。
「で、話戻るけど、僕行ったほうがいい?」
「その前に、森の広さと神殿まで後どのくらいなのかを見てきて欲しいかな、近いならもうこのまま行くから」
「分かった」
 肩の白い獣にすいと翼が生え、羽音と共に空へ舞い上がる。みんなが森に入る対策として、できるだけ荷車同士を寄せ、その周囲を屈強な男で囲んで進むことにした。そうすると結構大型の獣でさえ、こちらに気付くとすぐに木々の奥へと逃げ込んでいった。
「やっぱり、肉食の獣は腹が減っていればまず食べ慣れているこの森の獣を襲うだろうし、人を狙うのはもっと人数が少ない時だろうな。あの馬族の連中、それを知ってて騙そうとしたんだ」
 どちらにしろ、あんまり頭のいい人達じゃないんだな、とあからさまに怪しい脇道と、そちらにに立てられた〝この先神殿〟と書きなぐってあるらしい標識に苦笑する。お約束だがこの字を読める人間はこの場にいない上(唯人も、言葉を聞けば分かるだけで話すのと字は分からない)嘘の標識は許しておけないのか、標が飛び出しひと蹴りで壊してしまった。ぞろぞろと正しい道をゆく一行に、奥の茂みからなんとも悔しそうな気配が漂ってくる。道の奥に網とか落とし穴があったら、もう、時代遅れのコントだ。
 緩やかながら、ずっと登りなので地味にきつい道を荷車を押しながら進むと、ついに木々の向こう、彼方の山腹に白い石造りのかなり大きな建造物の姿が見えた。神殿と言っても一つの集落と呼んでもいいくらいで、崩れた本殿を中心に、大小さまざまな建物が薄く平たく広がっている。わあ、と皆で歓声を上げ、丁度見えてきた森の終わりから陽の当たる場に出たその途端、眼下に広がる草原とそこで待ちかまえている複数の人影に気付き、先頭にいたタッカが唯人を振り返った。
「唯人さま、さっきと同じ人達、ですか?」
「恰好は同じだな、でもここからじゃ顔はまだ分からない、とにかく進もう」
 森を抜けると、道は緩やかな下りになった。ゆっくりと進む荷車の一団を、騎馬の連中はじっと動かず見守っている。やっと顔が分かる距離まで近づいて、先程難癖をつけてきた男達が中にいるのを確認し、唯人はこれはただでは通して貰えないかな、と先頭に進み出た。向こうの中心にいるのは、一段と見事なキジ猫じみた縞毛を持ったシェリュバンくらいの歳に見える男だ。明らかに、犬か野の獣を見るような眼でこちらを伺っている。歓迎はしてないな、とすぐに理解できた。
 やがて、道を塞いで立っている騎馬の連中と、タカン族の荷車団は向かい合う形になった。先頭の狼らが足を止め振り返り、タッカが唯人を見る。軽く頷いて、唯人はアーリットを残すと騎馬の男達へと近づいて行った。
「すいません、通してもらえますか」
「何だよ、お前ら」
 どうか通して下さい、と媚びへつらうのがスジだろ、と言わんばかりの感じの良くない表情だ。さっきみたいに全員追い払ってやろうかとも思ったが、目の前に広がっているこの草原に住んでいる騎馬の民だと一目で分かったので、彼等を驚かし必要以上に警戒させてしまうのもどうかと思い、ここはまず話をすることにした。
「僕達は、この先のエクナスの神殿に向かっているのですが。何か用がおありですか」
「〝おありですか〟だと、本当にユークレン語だな、びっくりだ」
 そんな事いいだろう、通すのか通さないのか、と苛立った気分が顔に出たのか、縞毛の男は変な笑いで唯人の顔を覗きこんできた。
「お前ら、俺の仲間の道案内を断りやがったってな」
 さっき狼に脅された男が、こちらを睨んで舌を鳴らす。
「いらないから、そう言っただけですが」
「俺達の親切を無下にする奴は、俺達の土地を通すわけには行かねぇんだよ」
「でも、道をひとつの部族が占有することは、どの国だろうと認められていないはずでしょう。百歩譲ってもこの道は君達の部族の土地じゃない、神殿の為の道なのだから」
「うっせーよ、ガキ」
「言い負けして、悪口返すほうが子供だと思うんだけど」
 騎馬民族ってみんなこうなのか、と呆れた唯人に背後の連中までがざわつき始めた。
「おい、くそ生意気なガキ、どうしても通りてぇ、ってんならお前がここで俺を押しのけてみな。言っとくが俺はさっきの奴とはちょっと違うぜ、俺をどかせばお前ら好きに通っていいが、俺の馬の蹴りがその面に決まればお前らは全員回れ右して禿の荒れ地に帰ってもらう。それと……ついでに、その場違いな美人をこっちによこして貰うとするか」
 ぴしり、と差された指の先にはきょとんとしたアーリットがいる。なんとまあ命知らずな、と耳を疑った後、唯人はおもむろに左の袖をちょっとだけたくし上げた。
「馬に乗って丸腰の人間とやり合おうとしてる自分を、恥ずかしいとか思わない?」
「全然、俺達騎馬民族にとって、馬は身体の一部なんだ。持ってないお前が恥ずかしいんだよ、なんならそこの狼にでも乗ったらどうだ?」
 げらげらと男達の笑い声が響いた……次の瞬間、跳ね上がるように縞毛男の馬が棹立ちになった。前に立つ唯人が、その蹄にかけられ無残にも踏み潰される……と周囲の誰もが思った時には、馬の背からその乗り手が振り落とされていた。
「うわあっ!」
 流石騎馬の民、そういう事態にも慣れているのか、完璧な受け身で男が地に転がる。背後の連中が逃げる馬を取り押さえようと大慌てするのを尻目に、唯人はおもむろに地で眼を白黒させている男に歩み寄った。
「怪我はしてない?」
「な……何が、起きた……?」
 唯人の手を借りることなく飛び起きて、呆然と呟くその様子に大丈夫そうだ、と安堵する。いざ馬を下りたその身の丈を見たら、東国人種でも背が低い方だと言われるとおり、唯人に偉そうに言えるほどの差は無いように思えた、まだサレやシェリュバンのほうがずっと長身だ。さっき素早く伸びて、馬の鼻先に軽く噛みついた綱手がこの人間にも噛みつく?と唯人の肩に絡んできた。
「俺の馬が、俺を振り落とすなんて……」
「さて、これで対等な勝負ができる状態になったけど。どいてくれる気になったかい?それとも改めて僕とやりあうのか」
 馬の事がよっぽどこたえたのか、唯人の挑発じみた言い方に男は心底悔しそうな表情を見せた。とは言っても、ここであっさり引いてしまっては後ろの連中に示しがつかないのだろう。これでは負けてもしょうがない、という状況にしてあげないと悪いな、と唯人はおもむろに身体から鋭月を取り出すと、半身程抜き刃を見せつけた。馬でさえ軽く断ち斬れそうなそのすらりと伸びた刀身に、ようやく、これはちょっと相手を間違えたかも、な空気が背後の連中の間に満ちてくる。それでも退く事はできないのかよほどの自信家なのか、男は両の腰に下げたナタみたいな刀を抜くと半ばヤケクソの勢いで唯人に飛びかかってきた。
『鋭月!』
『分かっています、お戯れですね』
 迫りくる男に、鋭月は一動作で刃を鞘へと戻した。斬りかかってきても、剣を投げつけられてもいいよう見極めて、ひと飛びで身をかわす。そのまま背後にまわると、振り上げた鞘で無防備な頭のてっぺんに強力な一撃を叩き込んだ。これは大怪我こそしないが、くらうととんでもなく痛い上にかなり屈辱的なやられ方だ。おわあぁ、とか訳の分からない悲鳴を上げ、道の端へと転がっていった男を見届けて唯人はさて、と道を塞いでいる残りを振り返った。
「……あれ?」
 もうほとんど逃げ腰の男達の向こうに、砂煙をたててやってくる一騎が見える。やべぇ、と誰かが叫んだと思ったら、男達は泡を食った様子で縞毛の男を拾い、一気に道を下り草原に散ってしまった。今度は何だ、ととりあえず鋭月を収めた唯人に、駆けつけた壮年の人物が慌てた様子で走り寄る。薄い青を基調とした簡素なその装いは、懐かしい、テルアの聖堂で見た神殿務めの精霊獣師の装いによく似ていた。
「ユークレン国一級精霊獣師、アーリット・クラン様の御一行でしょうか?」
「あ、はい、僕は同行の二級精霊獣師扱いの阿桜 唯人です」
「お伺いしております、どうも。私はエクナス神殿に仕えております神殿長の四級精霊獣師、ヘイイン・ナシェルと申します」
 久しぶりに聞いた、少しの訛りもないユークレン語だ。ここの人ではないのですか?と訊ねると、世界中どこにあるのでも、世界主の神殿はユークレンの精霊獣師が管理しておりますよ?と不思議そうに返された。
「私が遅れてしまったせいで、騎馬の民に難癖をつけられたようですな。申し訳ない、彼等はけして悪人ではないのですが、どうしても余所者には警戒心が強いもので、タカンの民が最近次々とこの地に入ってくる事を訝しんでいるのですよ。さあ、ここからは私が責任を持って皆さんを神殿までご案内致しましょう、もうすぐですから」
 背でまとめた銀灰色の髪に、濃青色の眼。細身の長身が、優雅な仕草で己の持ち獣であろう角馬の霊獣に乗って微笑むその様子は、本当にテルアの聖堂に仕えている聖職者そのものだった。負の印象を相手に持たせない、あくまで穏やかな容貌だ。
「おーい、唯人!」
 足元からの声に振り返ると、いつもの小さい獣の姿のミラが嬉しそうに肩に飛び上がってきた。
「ミラ!君が彼を連れて来てくれたのかい?」
「うん、空に上がってすぐ、森のこっちにテシキュル人がいるのが見えたから、喧嘩になる前に神殿の人に収めてもらうのが一番いいかなって行ってみたんだ。けど、神殿長のあの人にまで話が通るのがえらく時間かかっちゃって。僕の見たところ、もうひと悶着は終わったってとこ?」
「うん、ちょっと間にあわなかった」
「まあいいさ、先に強いんだぞって見せつけておけば一目置いてくれるだろ」
 もう夕暮れが近づいた草原に長く伸びる影を引き、最後の難関である神殿に至る坂を昇りきる。二本の石柱の門をくぐり、ついに唯人とタカンの一族は目指していたエクナスの神殿にたどりついた。森の中から見た印象そのままに、エクナスは山の中腹の平らな地にそう高くない石積みの壁を巡らし本殿、そのまわりの幾つかの施設、人が暮らす畑や家畜のいる場を仕切って整然と築かれてある。ぞろぞろと敷地に入ってきた集団に、たまたま通りかかった、明らかにタカン族に見える赤い差し毛の男が驚いて駆け寄ってきた。
「おお!長老の一族ではないか、ついにここへやってきたのか!」
「お前は先に発ったウラシェンナブリュイノ!皆ここにいたのか!」
「そうだ、待っていろ、すぐに皆を呼んでくる!」
 久方ぶりの再会に大喜びする人々を見て、良かった、と安心しているとヘイインが貴方達はこちらへ、と唯人とアーリットを崩れかけの本殿へと呼び寄せた。
「使いの方に伺った話では、一級精霊獣師殿は記憶を封じる暗示をご自身に施されたとか。何ゆえそのような事をなされたのか……ともかく、この神殿であらせられるエクナス様にお会いになって、詳しい事情をお話し下さい」
「え、会えるんですか?」
「ええ、エクナス様にはここに来られた方、どなたでもお会いすることができますよ。一級精霊獣師様とは特に知古の仲であられますからね、奥で待ちかねておられます」
 ヘイインに導かれるまま神殿の通路を進みながら、唯人はここはアリュートとはちょっと違うな、と修理跡も生々しい壁を見渡した。人が入る事が許されない、霊獣のみが住まう冷たく暗いアリュートと違い、ここには大勢の人が住み、その日々の営みを取り込んで成り立っている〝生きている〟感の満ちた神殿だ。
 どんな神殿精だろう、これまでに会った都市精は性格とか見事にばらばらだったな……とか思っていると、やがて本殿の中心である大聖堂に着いた。残念な事にここは一番の被害を受けたのか、四角い広間の壁の一面が崩れ天井が半分落ちかけている。仮屋根を乗せようにも、土台が危ういので近づく事さえ難しそうだ。本気で直すにはすごい人手と資材が必要だろうな、と眺めていると、床の上にぽつりと座っている人影が眼に留まった。
「エクナス様、一級精霊獣師殿とそのお連れの方が到着されました」
「ありがとうヘイイン、貴方には客人の滞在のご用意をお願いしてよろしいですか?」
「勿論、では、ごゆっくり」
 床の敷物の上に座りこちらを見上げているのは、射し込む月の光をその身から放っているような、長い銀髪を床に広げている少女の様相の両性だった。底の見えない印象を与える濃い紫の瞳に透き通るような白い肌、額には精巧で緻密な銀糸細工の額飾りを付け、その中心に結構な大きさの空青石が淡青の輝きを放っている。手に持った物で床に何かを描いていたのか、一旦それを置くと彼女は唯人に眼を留めながら、立ち上がりアーリットへと歩み寄ってきた。
「アル……久しぶりの再会が、まさかこのような形になってしまうとは」
 アーリットの緑の瞳は、目の前に立つ相手を映してもなんら反応を示さなかった。そっと手を取られ、困惑の眉を寄せた表情が唯人へと向けられる。振りほどかないだけましだなと思いながら見守っていると、ふわりと銀枝杖が姿を現した。
「ああ、お会いしたかったですエクナス様!」
「あら、リスキュイ、お久しぶり」
 見たところ、ほんの数年程度の歳の差に見える少女二人が寄りそいひしと抱き合う。やっと頼れる相手の元にたどりつけた、と銀枝杖はこれまで溜まりに溜まった不満を一気に爆発させた
「もっともっと早く、エクナス様の御許にアルをお連れしたかったのに。私の力が足りず蟲けらに任せるしかなく、このように時間がかかってしまいました。でも、もうこれで安心です、早くアルが自分に掛けた暗示を解いて、元の強く偉大な彼に戻して差し上げて下さいな。彼が元に戻りさえすれば、こんな下等生物にもう二度と従わなくていいんですから!!」
「まあ、ちょっと落ちつきましょうよ、リス」
 炒り豆が弾けるごとく喋る銀枝杖を、エクナスは笑い半分で押し止めた。
「まず先に、この〝下等生物〟さんの名と事情を教えて貰えませんか?アルが、完全に無防備な自分を預けようと思う人間がいるのも、無防備なアルを連れてちゃんとここに来られた人間というのもすごい事ですよ」
「その夜毛の蟲けらは、双界鏡様の糧(かて)です。そちらにお尋ね下さいまし」
「ミラヴァルト?貴方も随分と懐かしいこと、悠久の時を連れ添った主を、何故この時になって変えたのかしら」
 嬉しそうな呼びかけに、背後で全く気配を断っていた人型のミラは軽く肩をすくめて見せた。
「色々あってね、エクナス、銀枝杖と話すとうるさくなるから今は黙ってる。とりあえずお久し振り、その姿、よく似合ってる、可愛いよ」
「私も色々あったもので、偶然とはいえこのユークレン王家の血の濃い器が在ったおかげで、神殿がこのような有様でもどうにか己を保つ事が叶いました。世界主様の御技に感謝しております」
 ミラと銀枝杖とエクナス、三人が並ぶとまるで雪人形か銀の絵付けが施された蝋燭が並んでいるようだった。そばにいる、タカン族の中では透き透るようだったアーリットの淡い黄褐色の髪がやけに色濃く感じられる。しばらく唯人とアーリットを蚊帳の外に置いて、三人で話を済ませると(わめきたてる銀枝杖に、ミラは良く我慢した)分かりました、とエクナスはその濃紫の眼をじっと唯人に据えた。
「旧き友、アーリット・クランの窮地を救うべく、私、エクナスはできうる限りの尽力を致しましょう。しかし、見てのとおり私は今、万全とは言えない状態です。古式術式を張り巡らせた壁は崩れ、回路の半分が未だ切れたまま……完全に粉々になってしまった箇所からこうして床に描き起こしてはいますが、修復はそれこそ数十年単位の話です。せめて、大きな塊状で残されている壁を組み上げるだけでも、随分違ってくるのですが……」
「そういえば、壊されて一年が過ぎているというのに、修理がほとんどされているように見えませんね」
 銀枝杖が、簡単に布で覆われただけの屋根の穴を見上げ不思議そうに呟く。吹き込む隙間風にアーリットが少し身震いし、唯人に身を寄せてきた。
「ここは、あまりにもユークレンから遠いもので。技術も人も、なかなか送られて来ないのです。小規模の修復はタカンの方達が手助けしてくださりなんとかなっていますが、この本堂の大穴は、ちゃんとした建築学を修めた方の指示の元、大勢の人が力を合わせ行わなくては修復は叶いません。先日やっと、テルアから技術者が来てくれると文が送られてきたのですが、今度は王都が襲撃されたとかでその話も途絶えてしまったようで」
 ここまで聞いて、突然、綱手が脇から唯人の耳を〝かぷっ〟と甘噛みした。油断していたせいで少々びくっとなった後、無言で視線を重ね合う。
「えーと、すいません、ちょっといいでしょうか」
「はい?」
「もしよろしければ、瑠璃鉱竜が壁の瓦礫を積めるそうです。向きとか、細かい指示を頂ければ」
(いしをかためたいなら、はっかがこおらせてとめてやる。みずのせいれいのちからをかりろ)
『ありがとう、助かる、薄荷』 
 これが、僕の出来る事。
 大切な人を助ける為の、僕の精一杯の力。
 唯人を見つめる優しい光に満ちている紫の瞳が、ゆっくりと嬉しそうに細められた。
「それは有難い話です、頼りにさせて頂いてよろしいのですね?阿桜殿」



 次の日の朝から、作業はすぐに始められた。
 まず壁の瓦礫を積み直すにあたって、屋根が落ちないように薄荷と流の氷柱でがっちりと固定する。地に転がされたままの大きな壁の塊を口で持ち上げられない事が分かると、綱手はしばらく考え込み、すごく嫌な記憶を掘り返して臨戦モードになるという荒技を繰り出した。そうすると前脚が手になって使えるのだが、一体何を思い出したのか、もの凄い形相で一気に岩塊を積み上げたらそれを内側から薄荷が氷で固定する。そうしておいて外側から隙間にかませ石や漆喰を塗りこんで固め、しっかりすれば今度は氷を溶かして内側を仕上げて出来上がり。数日で穴をとりあえずだが塞いで終わる頃には、見物人が騎馬の民からもやってくるまでになった。
「唯人さま!」
 外壁の修理が程なく終わり、内側に刻んである術式の修復はエクナス自身がやるしかないので、それ待ちで時間か空いたある日、タッカが唯人を訊ねて神殿へとやってきた。
「あ、タッカ!久しぶり、あれからみんなどうなったんだい?」
「はい、みんな、先に来た仲間の住処に入れてもらって一緒に荒れ地ソバの育て方を教えてもらえる事になりました。後いくつかの作物の事も勉強してここでうんと種を増やしたら、西の海沿いの山向こうを切り開いてそこで暮らしていいそうです。テシキュルの人はほとんど海の魚を食べないから、俺達が魚を採っても気にしないって。ソバの粉で作ったものって美味しいですね、薄焼きもいいけど俺はお団子が大好きです。魚の汁に入れたらもちもちしてていい匂いで、ほんとにこんな美味しい物をずっと毎日食べられるんだって……」
 神殿の周囲に散らばっている瓦礫のひとつに腰かけ眼を輝かせて話していたタッカだが、ふいにそこで言葉を切った。
「……だけど、一つだけ困った事があるんです」
「何が?あ、そういえば今日はハルアジャがいないな、どうしたんだい?」
 唯人の問いかけが的を射ていたのか、赤みの強い褐色の顔がちょっと困った表情でそらされた。
「神殿の人に、ここでは狼は放しちゃいけないって言われたんです。下に住んでる馬族の人が、羊を襲ったら許さないって言ってるから。ハルアジャもみんな、一日中せまい檻の中に入れられてます。タカンの狼は絶対他人の羊なんか襲いません、ってお願いしても聞いてくれない、しょうがないから俺や何人かの人達は夜、檻に入って兄弟と寝てるんです。叔父さんが、ずっとこのままの扱いなら自分一人で狼を連れて南に戻るって怒ってて、俺、どうしたらいいか……」
「狼は家畜を襲わないって、本当に自信を持って誓えるかい?」
「今だって、兄弟達はみんな満足できるだけの肉を貰ってません。檻はいい加減な造りだからみんなが本気になったらすぐに壊して出て行けます、だけど俺達人間の家族の為に我慢してくれてるんです。タカンの狼は野の獣じゃない、タカン族なんです」
「そうか、だったら一度直接馬族の人と会ってみたらいいのかもな、互いの言い分を納得するまで話し合うってことで。ちょうど今夜、ふもとの草原で暮らしてる騎馬の民のアハリテケ族から挨拶に来いって招待が来てるんだ、タッカも一緒に行こう」
「え、い、いいんですか?」
「うん、ハルアジャも、ちゃんと洗って綺麗にすれば」 
「分かりました、今から洗って櫛も入れます!」
 突然シャダンの下人だった頃を思い出したかのように、ぴんと背を伸ばすとタッカは一目散に居留区のほうへと駆け戻っていった。少し離れた場所で、色とりどりの蝶にまとわりつかれていたアーリットがこちらに戻ってくる。もう少しかけてエクナスが割れた壁の回路を繋ぎ終わったら、いよいよアーリットの為の〝鍵〟を編む作業が始まるのだ。待ち遠しいのと惜しいのが、少しずつ混じり合った不思議な気分。
「駄目だよアーリット、これからは君一人でエクナスにいなきゃいけないんだから、もう僕から水を飲むのは無し。ほら、なんでそんなに怒るんだよ!」
 わざわざ、スフィから出した水を手で受けて口に注いであげているのに嫌そうに顔を背けられ、結果胸元がびしょ濡れになってしまう。そうなると、次は濡れた布の感触を嫌って上衣を脱ぎ捨て上半身裸で徘徊、という銀枝杖に叱りとばされる事態へとつながるので、慌てて唯人はその手を取ると腰を上げた。
「もう戻ろう、今日はこれからちゃんとした格好で偉い人に挨拶しなきゃならないんだ。君は出来れば留守番してて欲しいんだけど無理だろうから、せめて大人しくしててくれよ」
 大人しくして欲しいなら気持ちよく水を飲ませろよ、と伏し目の顔が言っているように見える。分かったよ、じゃあこれで最後だからな、というのが日課になってしまっているのが地味に辛い。
 夕方、神殿に馬族の迎えが来る前に、ヘイインは唯人を、ここに一頭だけいる耳の長い馬似の獣の元へと連れて行った。
「阿桜殿は、この羊馬に乗られたことは?」
「いいえ、僕は鷲獣と砂走鳥にしか乗った事はありません」
「そうですか、お気づきとは思われますが、テシキュルの騎馬民族は馬に乗れない人間をそれだけで軽んじますのでね、今から少し練習してこの子に乗れるようになりましょう。羊馬は頑固で人見知りな獣ですが、この子は年寄りなのでまだ少しはましですよ」
「いいや唯人、君はそんなのに乗る必要はない」
 いつもの獣の姿で、割り込んできたのはミラだった。
「聞いたかい?テシキュルの馬乗り達ってさ、偉そうにしてるけど乗りまわしてるのは羊馬ってゆーか、馬っぽい羊なんだ。本物の馬ってのはユークレンの角馬と農耕用の大脚馬、それと群島の固有種数種にアシウントの寒丘馬だけ。テシキュルにいるのは全部アシウントから入ってきた丈夫でごつい寒丘馬。唯人、ここはひとつ羊乗りの皆様に中央産の優雅な馬ってのを見せてあげようよ」
 ヘイインの霊獣の角馬は、騎馬の民の眼に映らないので普段は彼もこの羊馬を使っているそうだ。確かに、ミラならその姿を見せつける事はできるだろうが……。
「いいよ、そんな見栄はらなくたって」
「見栄の社会ってのも勉強しておくといいって、人ってこんなに変わるんだ、って笑えるからさ」
 結局口上手のミラに逆らえるはずもなく、唯人は尾の先まで純白の角馬にアーリットと二人で乗り、すごく怯えた表情の馬族の男に案内され彼等の集落へと迎え入れられた。羊馬に乗ったヘイインと徒歩のタッカが同行しているが、集まってきた人達は皆ミラの角馬に文字通りの釘付けとなっている。染みひとつない白い毛にすらりとした体躯、引き締まった四肢、そして大きく巻いた角……確かに、傍で見比べれば馬っぽい羊とは大きさもオーラも格が違う、たとえは悪いが軽トラックと外国のスポーツカーのようだ。
 一面の草原の中、砂漠の民の天幕に似た感じの皮製のテントが立ち並ぶ集落で、一番大きく丈夫そうな一軒にたどりつき男は馬を停めた。
「ここが、アハリテケの族長、ノイタン・ノル・オウェの住居です。初めての相手にはとにかく無茶を言ってきますが、試されていると思ってはっきり自分を示して下さい。下手に遠慮したり譲れば、どんどん攻めてきますからね」
 ヘイインの忠告が終わったところで、テントの中から恰幅の良い男数人が姿を現した。先頭に立つ、ひときわ大柄な人物が歩み寄ってくる。
「よう、神殿長とその客人、やっと来たか、この俺を待たせるとは何様だ!」
 言い方は乱暴だが、笑顔なので怒っているわけではないのだろう。草原で暮らすという事をそのまま表している印象の、ごつい身体に毛織物と皮の衣装、そして顔の下半分を覆っている髭の見事な声のでかいおっさんだ。先に情報が届けられていたのか、唯人らが降りた角馬を舐めまわすように眺めると、ほう、とその分厚い唇から感嘆の声が漏らされた。
「小僧、すごいのに乗っとるなぁ」
「初めまして、ノイタンさん。僕は阿桜 唯人といいます、こちらは友人のアーリット・クラン。先日、スィリニットからギュンカイ山地を通ってエクナス神殿に来ました、彼の治療の為に」
「お前ら二人とも、ユークレン人か」
「はい」
「そっちの藁毛は分かるが、お前は何だ、小憎、作りが全然違うじゃねぇか」
「ユークレンの更に西に群島連合国という島国がありまして、僕はそちらの系統の人間なんです。ちなみに二十歳ですが、ここでは小僧ですか?」
 そんなに若く見えるのか、とここらで釘を刺しておこうとした唯人の言葉は、あっさりと受け流された。
「いんや、歳じゃねえって。この雪細工みたいな馬をちゃんと乗りこなせてるなら、お前はいっぱしの大人だ。だが乗り降りを見ただけで分かっちまうな、お前は馬に乗せてもらってる。そこらの馬に乗ってみろ、あっという間に振り落とされっぞ。小憎、お前の馬が気の毒だなぁ、俺がちゃんと可愛がってやるから譲れよ、ただとは言わんから」
「それは、僕がどう思おうと馬が遠慮すると思います」
「聞いたか!こいつ、やっぱり馬の尻に敷かれて可愛がられてるんだと!」
 この言葉を聞いて、周囲の気押されていた連中の間に一気に安堵の気配が広がった。なんだ、凄いのは馬だけかよ、と言いたげな、唯人の価値が瞬時に暴落した感だ。やっぱり無理に見栄はったらこうなるよ、とミラに苦笑して見せ、唯人は大人しくヘイインについてアーリットと共にテントの中へと招かれた。やはり中も砂漠の天幕に似た感じの、硬い皮を敷いた床に座るとノイタンは客人にまず乳脂(バター)と塩を溶かした湯を出し、唯人にここに来るまでの経緯を事細かに聞いてきた。
「そうか、そんなに〝灰色〟が広がって来てるってのか。アシウントやユークレンのお偉がたが調査にやってきては、なんもできずに帰っちまうからなぁ。んで、その黒のなんとかってのは行方知れず。ま、そっちはいいさ、神殿ぶっ壊したのはすげぇって思ったが、お前らみたいな細っこいのと五分五分なら俺らの敵じゃねぇな。こっちに来たら叩きのめしてやらぁ」
 そんなに単純な相手じゃないのに、と嘆息しつつふとふと気付いた思いを訊ねてみる。
「皆さん……神殿が襲われた時、助けに行かなかったんですか?」
「お前、アハリテケの男を腰ぬけ呼ばわりする気か?冗談じゃねぇ、俺達は季節ごとの移動生活をする民族だ。神殿が襲われたのは湿季の終わり、俺達はまだずっと北にいた。その黒の何とかって奴は、俺達アハリテケの戦士とやり合う気が無かったんだ。俺達と戦ったら勝ち目がねぇって分かってたんで、いない時を狙ったんだろうさ」
 いや、そんな事を考える彼ではない。ただその時にそこにいて、己のやりたいようにする。それが破壊主という彼の在り方だ。闘わずに済んだのが幸運というべきなのだが……それは言わなくてもいいだろう、と唯人は熱い器に伸ばされようとしているアーリットの手をそっと止めた。
「そうか、そっちの事情はおおむね分かった。その女の治療とやらが終わったらお前らは国に帰るんだな?ラバイア王の身分証も持ってるし、怪しい奴じゃねぇってのは認めてやる。うちの若いのがつまらん事をしたのはまあ気にすんな、若さが余ってろくな事しねえ馬鹿どもだが、ああやって縄張りを見張ってる、ってのもあるんでな」
 よし、これで小難しい話は終わりだ、飯でも食って帰れとノイタンに言われ、アーリットが受けられない事をそっとヘイインに耳打ちする。角が立たないよう辞退はできないか、と聞いてみると、もてなしを受ける事で仲間の一員として見てもらえるので、少しでも頂いておくほうがいいと言われた。
「ところで、なんで狼人のガキと狼を連れてきやがった?そんなのは呼んだ覚えがないが」
「それは、彼等の家族である狼の扱いについて、族長である貴方と話し合いたいと彼等から訴えがありましてね。私はまだよく彼等の言葉を理解できていないので、ラバイア語を使えるあの子供、タカンのエファランクスヴァイテュと、ラバイア語とユークレン語を使えるこの阿桜殿に話を繋いで貰おうと思ってお連れした訳です。エクナス神殿を頼ってこられた方は全て私共の家族、家族には出来うる限り心労なく暮らして頂くのがエクナス様の喜びですので」
「へいへい、お優しいこったよユークレンの文化人様ってのは。んで、話ってなんだ」
 馬に乗らないタカン族を蛮族としか見ていないのか、入り口を通してはもらったものの、床に敷かれた皮に上がることは許されず、タッカはハルアジャと共に靴の泥落としの脇に座らされている。ノイタンが自分を見ているのに気付くと、彼は表情を引き締め挨拶し、自分の思いを語り始めた。
「会えて嬉しく思います、偉い馬族の族長さま。俺、エファランクスヴァイテュは今宵、タカン族の思いを知って欲しくて唯人さまの口添えでここに来させて貰いました。俺はまだここに来て日が浅いのでここの事を良く知らないので、よければ教えて貰いたいのですが、あなたの羊をタカンの狼が襲った事があるのですか?」
 タッカのラバイア語を唯人がユークレン語に直し、それをヘイインがよりしっかりしたテシキュル語にしてノイタンへと伝える。面倒臭いことこの上ない作業だが、こういう事に耐性のなさそうなノイタンは、意外にも真面目に耳を傾けてくれた。
「結論を言やあ、まだねぇな。だがここで一番羊を襲って喰うのは草原狼なんだ、お前らが狼を野放しにしてりゃあ俺達には区別なんぞつくわけねぇ、どうしても疑っちまう。だからお互い、無駄な喧嘩をしねえ為の最良の策を出してやってんだ、分かんねぇか?」
「羊を護ってくれる獣はいないんですか?」
「鳴子代わりに大鳴鳥を放してる、獣が来たらでかい声で騒ぐしか能のねぇ奴らだが、いないよかマシだ。アシウントから来た犬使いは手持ちの犬を全部やられて逃げ帰っちまったし、俺がガキの頃狼を飼いならして羊を護らせようとした馬鹿がいたがな、てんでものにならなかったさ。どんなに可愛がって育てても、あいつら生まれたての仔羊の血の臭いを嗅いだら我慢できなくなって喰っちまう、狼ってのはそういう生き物なんだって思い知らされた」
「タカンの狼は違います、それを証明する機会を俺に下さい、族長さま」
 すいと頭を下げたタッカに、ハルアジャも神妙な面持ちで鼻先を下げて見せた。
「何がしたい」
「俺の兄弟が、族長さまの羊を護ります。一日中、一頭たりとも草原の狼には喰わせません。そして俺がちゃんと羊を護れたら、タカンの狼に自由を下さい、せめて神殿の土地の中だけでも」
 ふん、とノイタンは鼻を鳴らし、タッカの言葉を吟味しているようだった。周りの男達は何を言うでもなく、ただノイタンの言葉を待っている。やがてもてなしの料理が次々に運ばれてくると、ノイタンは眼で合図して、タッカの前にも取り分けた肉料理を置かせた。
「そうだな、タカンの小わっぱ、お前が俺の財を護るに値するかまずは試してやるとしよう。明日、ここにお前の兄弟とやらを連れてこい。俺の羊から年寄りを九頭、数日中に仔を生みそうな雌を一頭、計十頭を預けてやる。そいつらを森の狼の縄張り近くで放牧して護れ。雌が仔を産むまで全部護りとおせばお前の言葉を信じてやろう、だが一頭でも減ろうものならその代金は神殿にまわしてやるし、仔や雌がやられたらあの雪白の馬でも貰わねぇと割が合わんぞ、それでもやるか?」
「……」
「僕はそれでいいです」
「ええ、私も家族を信じましょう」
「こりゃあいい具合にボロ儲けが決まったな、よし、気前のいい小僧とガキにたんと食わせてやれ!」
 唯人と神殿に話が及んだ瞬間、タッカの顔が強張ったのですかさず唯人は先に返事をしてやった。ミラは他者に譲れない事を隠した上での取引は、少々ずるい気がしたが仕方がない。もう勝った気になったのか、一気に上機嫌になったノイタンは、並べられたびっくりするくらい肉度の高い料理を山盛りで唯人に勧めてきた。
「そっちの細っこい女も食え、なんで異国の気取った女はどいつもみんな痩せてるんだ?折れちまいそうで見てられん、丈夫で太った子をばんばん産むのが女の役目だろうに」
 さすがに塊肉ではなく、薄く切ったので香草を巻いた料理を差し出され、アーリットは不思議そうな顔でその匂いを確かめている。口に入れる前にはい、ちょうだいと唯人が手を出すと素直に渡す。小鳥の形そのままの串焼きや、色とりどりの豆の煮たのをまるで玩具に接するように一通り手にした後唯人に渡す一部始終を見守って、ノイタンは大分ひどいなと呟いた。
「なんか病でもやったのか?別嬪なのに勿体ねぇ」
「神殿で治療を受ければ、ちゃんと治りますから。それまで食事をさせられないので、今回はすいませんがもてなしを遠慮させて頂く事をお許し下さい」
「おう、治ったらまた来い、うんと肉を食わして太らせてやるぞ」 
 やはり、騎馬の民は本来は陽気で人懐っこい民族なのか、かなり苦しくなるまでご馳走を勧められ続け、残りは全部土産にして持たされるとようやく唯人達はノイタンの住居をおいとまさせてもらうことができた。ヘイインは見るからに小食そうだし、タッカも肉は基本狼のもの、普段は魚と木の実の食生活なので料理が腹にこたえたようだ。でも、明日からは頑張らなきゃ、と意気込んでいる肩を叩き、馬を繋いである小屋に向かうと……そこには、惨憺たる光景が広がっていた。
「な……何があったんだ?」
 言ってはみたが、大体は見ただけで分かった。屍累々状態の男達が、唯人に気付き慌てて蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。ミラの角馬が、唯人みたいな素人を大人しく乗せているのなら自分がもっと上手く扱って従わせてやる、と我先に飛び乗って、残らず振り落とされたのだろう。ミラは涼しい顔で、いい運動になりましたと言わんばかりに耳をぱたぱたさせている。見送りに付いてきたノイタンが、どいつも不甲斐ないぞ、と大笑いした。
「まったく、ユークレンの馬は俺らが知っとる馬ってのとは全然違う、と思わんとしょうがないかぁ。よっぽど人見知りがきついと見える、それか自分は人より上、ど素人を乗せて一人前にするのが役目だと思っとるのか?」
 俺のものになったら一から躾なおしてやらんとな、と眼を輝かせて顎髭を撫でる。それじゃ失礼しますと唯人達が馬に乗ろうとしたその時、草原の暗がりから草を踏む複数の蹄の音が届いてきた。
「あ、君は……」
 ノイタンのテントの篝火に照らされた光の中、数人の騎馬の人影が現れこちらへと近づいてくる。先頭にいるのは、忘れようのないあの青年だった。
「おう、ユンウェイじゃねぇか、見えないと思ったがどこ行ってたんだ。アハリテケいちの大食らいが宴に殴りこんでこないなんてよ、頭のでっけえこぶがまだ痛んでるのかって心配してたんだぞ」
「うるせえよ、あんなのなんかもうとっくに治ったってんだ!」
 そうは言っているものの、頭に被った毛皮の帽子の下、見事な縞の浮かんだ頭髪の隙間から湿布代わりの白い当て布が恥ずかしそうにちらりと覗いている。タカンの皆とこの地を訪れた日、街道で難癖をつけてきた連中、その中心にいて、唯人に鋭月の一撃をくらわされた彼だ。今回は幾分数の減ったとりまきを引きつれて、他の何にも眼をくれず一直線に唯人の元までやってくると、ユンウェイと呼ばれた騎馬の青年は、少しでも自分を大きく見せたいのか爪先立った姿勢で唯人を睨みつけてきた。
「おいこらチビの化物使い、あの時はよくもやってくれたな」
「先に言いがかりをつけてきたのはそっちじゃないか、やり返されたからって怒るのは筋違いだと思うけど。それともう言い返すのも面倒だけど、僕は化物使いなんかじゃない、精霊獣師の阿桜 唯人っていうんだ、覚えられないならしょうがないけどな」
「てめぇ、馬鹿にしてんのか?」
「されたくないなら、ちゃんと呼んでくれればいいだけだ」
 ここでは言いたいことははっきり言った方が後々の為に良い、ともう充分分かったので唯人はきっぱりと言い切ってやった。腹は立つが、なんだかもうちょっと分かり合えれば仲良くなる事もできそうな感触の人物だ。さて、何を仕掛けてくるつもりなのか……。
「ユークレン式のこうるせぇごたくはいい、今から俺と勝負しろ、この間の決着を付けてやる」
 ほら来た、そうくると思った。分かりやすいにも程があるだろ。
「この間の事は、あれでもう決着はついたと僕は思ったけど?」
「違うだろ!ヘイインのおっさんが来たから中断で引き分けたんだ、じゃなけりゃ俺の反撃がそこから始まるとこだったんだよ!」
 うわ、すごいポジティブ思考。唯人は呆れたが、頭の中ではスフィの弾けるような笑い声が響き渡った。
『そうそう、負けを認めないってのも野郎の意地ってもんだよな。こいつ、見どころあるじゃねぇか!』
『まあ、首を繋げて貰っているからこそ吐ける戯言である、という事実は否めませんでしょうがね』
 ではこの際はっきり示しをつけるべく、頭と胴を離して差し上げましょうか、と含み笑いする鋭月にそれはやめといて、と苦笑する。
「分かった、じゃ、君の気が済むようなんでも受けるからさっさとしてくれ。僕は早く帰って連れを休ませてあげたいんだ」
 あからさまに面倒臭そうに言ってやると、ユンウェイの篝火にきらめく黒い眼がしてやったり、とずる賢く細められた。
「族長、俺は今からこいつと正式に勝負する、いいな?」
「おう、食後の腹ごなしにゃいいと思うが、もう夜も更けてる。客人の都合もあるからさっさと済ませてやれよ」
「分かってらぁ、すぐに終わるっての」
 うん、すぐに終わるだろうな。鋭月は二度目の遊びは無い、と言いたげな雰囲気なので使うのはやめておいて、またバレットでもけしかけてやるか……と考える唯人に、ユンウェイは声高々に宣言した。
「〝馬交換〟の勝負をやるぞ!」
「馬交換?」
 結局そこをついてくるか、とちょっと困った唯人に、傍らのミラがいいんじゃない?と言いたげに鼻を鳴らした。
「まあ、俺達にとっちゃガキの頃からの基本中の基本、決まりも単純この上ない勝負って奴だ。互いの持ち馬を取り換えて、より上手く扱えたほうが勝ち。俺がお前の馬、お前は俺の馬に乗ってあそこにある大樹まで往復してここに戻ってくる」
「早い方が勝ちってこと?」
「そうだ、分かりやすいだろ」
「まあね」
「余所者のお前に言っておいてやるが、これはアハリテケの族長が立ち会う正式の男同士の勝負だ。この間みたく、お前の化物こっちにけしかけてずるしたら承知しねえからな」
「ちょっと待て、君、前の勝負の時僕が馬に乗ってないのが恥ずかしいとか言わなかったか?その理屈だと、精霊獣を使えないのは君の都合で僕の知ったことじゃないって思うんだけど」
「うるせーってんだ、馬はお前の努力次第で乗れるようになるだろうが、化物のほうは俺がどう頑張ろうと無理じゃねぇか。そういうのを平気で使っちまうのが、俺達にとっては卑怯ってんだよ!」
 そりゃごもっともだが、ここにいる自分はそっちと同じ混じりっ気無しの男なのに精霊獣を使える。なんだか損をしている気がするんだが、どうしてだろう。
「今度こそ、そののぺっとした手のひらみてぇな間抜け顔に吠え面かかせてやっからな。ま、分かりきった結果だろうが、俺が勝ったらその白くてでっかい馬を……」
「おいユンウェイ、そいつは駄目だ、先に俺の賭けのあてになってる」
 すかさずノイタンに釘をさされ、そうか、なら、とユンウェイの眼が唯人に寄りそうアーリットへと向けられた。
「じゃあ、その別嬪をもらう」
 だから、どうして話がそこへ行く。アーリットの選ぶ権利は無いってのか。
「それは無理だ、アーリットは僕のものじゃないから賭けられない。ここに治療の為に連れて来ただけなんだから」
 ていうか、テシキュルじゃ人身取り引きが認められてるんですか?とヘイインを振り返る。ラバイアのように闇取引される奴隷のような意味合いではなく、強い男が意中の女性を勝ち取る権利がある、みたいな事ですよ、と苦笑いで返された。
「お前のじゃないなら、尚更お前が口出しできる立場じゃねぇだろ。心配すんな、俺のものになれば俺が責任もってその治療とやらを受けさせてやるさ。その後にうんと太らせて、俺好みにしてだな……」
「……もし治療が終わって、自分が君の伴侶になってるって気付いたアーリットがどういう行動に出るか、考えただけで僕は鳥肌がたつよ」
「そりゃあ、自分の女が別の男に惚れちまう瞬間を見せつけられるのは辛いだろうなぁ」
 うん、多分、なんとなくだけど分かる。今のぼうっとしてるアーリットでも、君が何かしようとしたらすぐに骨の一本くらいはへし折るだろうな。その前に銀枝杖の〝拒否〟で瞬殺されるほうが先だろうけど。見たところまだ人生これからって感じだし、ここは僕がうまくやってあげないと。
 唯人とユンウェイの男同士のやり取りが続けられる中、無表情のアーリットはつまらなさそうに視線を神殿へと飛ばしていた。状況判断器官の唯人の苛つきが伝わっているのか、自分ににやにや笑いをくれているユンウェイへの視線はあまりにも冷ややかだ。それがどう眼に映っているのか、いささかも怯む様子なくユンウェイは本物の騎馬の男ってやつを見せてやる、と胸を張った。
「言っとくがな、俺はちゃんと知ってるんだぞ。神殿に出入りしてる知り合いの話だと、お前、その女に全然飯を食わせてやってないそうじゃねぇか、何考えてんだ?」
「それは、食べなくても大丈夫なんだ」
「だから俺は、何も食わずに生きてられる人間がいるって言われても信じられるかって言ってんだ、あのエクナスでさえ食ってんだぞ?お前、本当はその女に食わせないで弱らせて、好きに言う事聞かせてるんじゃねぇだろうな」
「そんな馬鹿な!」
「何を言うんですユンウェイ、ユークレンでは在りうる事ですよ、客人に無礼を言うものではありません」
 勘違いも甚だしい、と眼を剥いた唯人にヘイインもびっくりした様子で声を上げた。
「あの、その方、本当に荒れ地に来た時から何も食べてないけど、ずうっと平気ですよ」
「平気も何も、痩せこけてんのは事実だろうが。このままほっとけばいずれ死んじまうかもって思わねえのか?」
「そ、それは……」
 遠くからのタッカの弁護にも、すかさずのの反論をかえす。にやにや笑いで事の成り行きを見守っているノイタンを背に、ユンウェイはずいと唯人に顔を寄せてきた。
「て言うかお前、やる前からもう自分は負けるって思ってるのか、見た目よりは頭いいんだな」
 嘲りのこもったこの一言には、さすがの唯人もついにかちんと来た
「分かった、もういい、さっさと済ませよう、勝てばいいんだろ!」
 ユンウェイの取り巻きらしい男が引いてきた彼の愛馬というか愛羊は、自分の鼻を噛んで驚かせた唯人をちゃんと覚えていて、絶対許さんといった厳しい目付きで睨んできた。勝負にならねぇってのもつまらないから、乗るまでは待っててやる、と余裕を見せびらかしユンウェイがひらりとミラの背に飛び乗ってみせる。あまりひどい目に合わせるのは無しで、とミラに目配せし、唯人は暴れる相手に閉口しつつ、最後はヘイインとタッカに押さえて貰ってなんとかその背にまたがった。
「あ、そうだ、結局乗り方教わってないんだった……」
 その上、知らない事はすぐその場で教えてくれるミラもいない。ええい、鷲獣と砂走鳥のやり方でどうにかしてやる、と唯人が手綱を引いた瞬間、周囲の景色が背後に吹っ飛んだ。
「うわ!ち、ちょっと!」
 乗る前から腹を決めていたので、一気に振り落とされるのだけはなんとか回避できた。それでも、さっき詰め込んだ胃の中身が飛び出してきそうな勢いだ。羊馬は、なんとしてでも唯人を落としてやろうとロデオのごとく跳ねまわって草原を突っ走ってゆく。だが唯人も鷲獣に乗っていた経験から、手綱を短く持つ事や振り落とされない為の腿の力は充分備わっていた。
「ええい!大人しくしろって!」
 背後を見る余裕などないが、ユンウェイが追いついてくる気配は無い。やはりミラを従わせることは彼にはまず無理だろう、このまま先にある樹をまわって戻る事が出来れば良かったのだが、やはりそう思いどおりにはいかなかった。しばらく暴れまわって疲れると、羊馬はもういいや、と諦めたのか道を逸れ、唯人がいくら手綱を引こうが蹴りを入れようが、知らん顔でどこに向かうのかと思ったら、そのまま持ち主の住処に戻ってしまった。事情を知らないユンウェイの家族が目を丸くして出てきたので馬を下りて謝って、とぼとぼと来た道を歩いて戻っているとアーリットを乗せたミラが迎えに来てくれた。
「唯人ー、ご苦労さま、怪我してない?」
「ミラ、そっちはどうなったんだ?」
「僕が大人しく言うこと聞くわけないの、分かってるだろ?」
 よいしょ、とその白い背に唯人がよじ登るとアーリットが身を寄せてくる。どうやら、またミラをむしる程の不安には至らなかったようだ。
「あいつ、落とされないようすごい力でしがみついてきたから座り込んで、次は仰向けになって背に敷いちゃうよーって脅してやったんだ。それでもしばらく耐えてたんだけど、鞭を使おうとした途端、族長さんに横から蹴り落とされちゃった。お前の下らない意地でこの馬に傷つけたら承知しねぇ、って怒られてたよ」
「それで、結局勝敗はどうなるんだろう?」
「族長さんは、唯人がすぐに落ちるって思ったのが結構頑張ってたから褒めてくれてたよ。神殿長さんも、おチビが普通じゃない状態で勝手に話を進められるのは困るってさりげなく釘刺してくれたし。何より、縞毛くんには当のおチビが悲しそうにしたのがこたえたみたい、すぐに君の後を追いかけようとしたからね」
「そうだった、アーリット、ごめん。君の話になって頭に血が昇ってしまったよ、あんなの真面目に相手しちゃ駄目だった」
 唯人の背に寄りかかって、アーリットは本気で帰りたいと言いたそうな半眼の表情を浮かべている。そのまま急いでノイタンの住処に戻ると、ユンウェイは一切の不正が無かった事をヘイインからしっかり言い含められていた。、きまり悪そうな顔で、それでもがんとして無効試合を主張し、今日の所は族長をたてて勘弁してやると言い放つと彼は肩をそびやかし引き下がっていった。
「ユンウェイ、客人にこれ以上無知ゆえの無礼をせぬように、私達ユークレン国のことわりを色々と教えてあげますから、また訊ねておいでなさい、小さい頃のように。エピレィテも待っているのですよ」
 去り際の背にかけられたヘイインの言葉に、一瞬足を停めるとユンウェイはそれまでとは違う、暗い眼をして振り返った。
「嘘言うな、エピはもういない。神殿にいるのはエピの姿の精霊様だろう、俺の幼馴染じゃない」
 その言葉を最後に草むらに消えてしまった一同を見送って、唯人達も戻る事にした。彼等の集落から離れた神殿への上り坂にさしかかり、唯人はさりげなく、先程のユンウェイの言葉の意味をヘイインに訊ねてみた。
「あのう、ヘイインさん」
「はい?」
「さっき彼が言ってた、エピレィテさんって?」
 はあ、と壮年の神殿護りはちょっと困ったように微笑んでみせた。
「身内の話で申し訳ありませんが、エピレィテは私の子です、というか、かつて私の子でした。今はエクナス様の器として、神殿でそのお声を私達のみならず、全ての人に伝える役に立っております。エクナス様の慈悲でエピレィテが健やかに生きながらえている事を私は感謝しておりますが、幼馴染であったユンウェイにはよくその辺の事情が理解できないようで」
「どういう事なんですか?」
 あの少女じみた神殿精の姿は、やはり本物の人間だったようだ。アーリットに近いのだろうか、と唯人は話の続きを待った。
「エピレィテがエクナス様の器となられたのは、もう十年も前の話です。自慢と言うのではありませんが、あの子は数代前にここの神殿長に輿入れされたユークレンの王族の血が濃く出た、容姿も能力的にもとても質の高い、将来を期待されていた子でした。だのに……」
 ふっと、ヘイインの穏やかな顔が影を帯びる、思い出すと今でも心が痛むのだろう。
「……とある不幸な事故があって頭を痛め、生きてはいるが二度と目を覚ますことのなくなったエピを憐れんだエクナス様が、その身に宿って下さったのです。ユンウェイが言うとおり、あれはもうエピレィテではないのかも知れません。が、それでもその姿で笑い、歌い、私を含めたこの世界の全てを見つめて下さいます、私はそれで充分です」
 薄く笑むヘイインの顔を見て、強い人だ、と唯人は思った。けして己の情に流されない、厳しく自らを律している者だからこそできる表情だ。
「そういう事情があったのなら……もしかしてユンウェイが妙にアーリットにこだわるのは、同じような状態のアーリットがここに来たからでしょうか」
「そうかも知れません、だとすれば彼がおかしな誤解をしないよう、ちゃんと話をしておかなくてはなりませんね」
 唯人でも、ここ数日いただけで騎馬の民の話の通じ無さと頑固さはほとほと身に染みた。ずっと暮しているヘイインら神殿仕えの人達は、よほど気が長いのだろうと頭の下がる思いだ。
「貴血のいない地での精霊獣使いと言うのは、常に異端の存在です。私達がどれほど心を尽くそうと、騎馬の民は裏では化物使いと呼び最小限の付き合いしかしてきません。でも、私は無理をすることはないと思っています。ここで暮らすユークレン人の信条は、門を開いて救いを求めて来られる者を全て受け入れる。それがエクナス様の、太古よりの御慈愛の在り方なのですから」
 神殿に戻り、大聖堂で一人修復作業を続けているエクナスのもとへお土産のお菓子を差し入れると、彼女は大喜びでやってきてヘイインの入れた暖かい香草茶とともにそれを頂いた。無理をしてはいけませんよとたしなめられ、でも、私も早く元の状態に戻りたいんです、と光を振りまくようなあの笑顔を見せる。簡単な部分はミラや銀枝杖が手伝っているので、回路の書き込みは順調に進んでいるようだった。
「神殿が壊れて以来、力が弱まってあまり外に出られなくなっていましたので、日課だった石垣のへりから草原を見渡す事が叶わなくなっていたんです。でも、もうすぐまた見られるんですね、薄桃色と淡紫が滲む夕焼けや、草の海を流れる羊の群れ、そして生き生きと暮らす騎馬の人達を」
「エクナス様は、下の草原に行ったりはしないんですか?」
 アーリットは世界中のどこでも好きに行ってるのに、という意味だったが、何気ない唯人のその一言にエクナスとヘイインはちょっと困った顔を見合わせた。
「私は、ここの敷地より外に出ることはできません。本体は、あくまでこの神殿ですから」
 そうですよね、よく考えたら都市精とかが勝手にうろうろしてるのも見たことないし、と納得する。きっと、アーリットが特別なんだ。
「アリュート様は、定期的に私達各地の神殿を回って、変わった事がないか聞いたりその時々の遠くの国のお話をして下さいます。去年ここが襲われた時も、誰よりも早く駆けつけて混乱する場を治めて下さいました。あれからずっと〝黒の破壊主〟を追い続けていると伺っておりましたが……その方について、何か進展はあったのですか?」
「その事については、僕はまだあまりよく分からないと言いますか。アーリットが元に戻ったら、彼から聞くのが一番だと思います」
「そうでしょうね」
 ここで、ふふっとエクナスは少女じみた愛らしい含み笑いを漏らした。
「それにしても……」
「はい?」
「あのアルが、人に手を引かれてここに来るなんて」
「え、は、はい、すごいですよね」
 何がすごいんだ、と焦りつつ残り少ないお茶を含むと、そろそろおチビを休ませてあげなよ、と頭の中でミラの声がした。同様の意味の事をヘイインもエクナスに言っている。では、と優雅に立ち上がるとエクナスは銀の髪を揺らし唯人に一礼してみせた。
「すごいんですよ、唯人さん、貴方という人間は」



 そうしてまた数日が過ぎ、ついに待ち望んでいた日がやってきた。自らの手で壁一面の模様を全て書き起こし、既存の部分と繋ぎ合わせる作業を終えたエクナスは、神殿全体を巡る己の力を久方ぶりに取り戻した。天井に拡がっていた式を簡略化して床に移したので完全に元通りと言うわけではないが、やりたい事を確実に、不安なくやれる状態には戻れたようだ。
 お待たせしました、今晩、アルが眠ったら〝鍵〟を編む作業を始めましょうと言われ、唯人はこれで見納めになるであろう真っ白のアーリットを連れ、この頃よく二人で過ごす日当たりのいい神殿の庭の一画へとやってきた。
「長いようで、終わってみれば早かったなあ」
「……」
「今晩から〝鍵〟を編んで貰って暗示を解いて、君はちゃんとしたもとの強くて意地の悪いアーリットに戻るんだ。まず最初に何されるかがすごく怖いんだけど、きっちり逃げないで受け止めるよ、僕は君の事……」
 大好きだから、と声にしないで唇の動きだけで囁きかける。
「元の君はなんだってできるけど、僕からこの君の記憶を抜いてしまうのとかは勘弁してくれよ?僕は一生大事に覚えておきたいから、素直で可愛らしい、僕を全身で頼ってくれた君を」
 水でも飲むかい?と頬を両手で挟んでやると、その手は食わないと顔をそむけられる。昼の間は欲しい、と釣られると器に入った水を無理やり押し付けられると思っているのだ。残念、と唯人が笑うと彼も機嫌が良くなったのか、伏し目で唯人の背に身を預けてきた。
「さあ、今日はうんと身体を動かしておこう、そして夜になったらぐっすり眠るんだ。眼を覚ましたら、一番に僕の名前を呼んで欲しいな、その後蹴りが飛んできてもいいからさ」
 えい、と腕をつかんで転がして、起き上がろうとする身体を押さえつけてやる。しばらく子供みたくふざけあっていると、やがてあの心地よい匂いがふんわりと立ち昇って唯人を包み込んできた。
「アーリットって……最初は何か付けてるのかと思ったけど、本当にただの体臭なんだな。汗かいてこんな匂いするなんてうらやましいよ、僕と言うか、男なんてみんな臭いだけだしな」
 花とかの甘さとは違う、どちらかというと美味しい物、質のいい油に玉葱と香辛料を加え、じっくりと香ばしく火を入れたような、思わず口にしたくて堪らなくなる系統の甘い匂い。いくら鈍感な自分でもなんとなく分かる、これは生き物がどこかで自分を探している異性を誘う為の匂い。唯人だけに向けられた、彼の想いそのものだ。
「分かってるよ、アーリット、ちゃんとしてた時の君が絶対口にできない事なんだって。だから僕も君に言わない、君の隣にずっと居させてもらうだけでいいんだから」
 ふっ、と、頭の中で、誰かの溜息が吹きすぎた感覚があった。
『……唯人』
「何?ミラ」
『余計な御世話だって怒られるの分かってるけど、一応言っといてあげる。今だけだよ、おチビを好きにできる最後の機会』
「はぁ?」
 一体何を言い出すんだ、と唯人は思わず片手でアーリットを押さえたままの姿勢で硬直した。
「好きにって……どう?」
『別に、これまでの仕返しに苛めておけ、とか言ってるんじゃないから。唯人、君、そこまで鈍感なのかい?』
「それくらい分かるけど、そんなことできないってのも同じくらい分かってるよ。ミラ、君の本当の目的って、僕を炎竜の火炎で炭にする事なのかい?」
『まさかぁ』
 その小さい〝ぁ〟が怪しい。
「今は良くても、後でただで済まされないって君だって分かるだろ!」
『そうかなあ』
 あくまで呑気に、ミラは蜜のごとき囁きを唯人の耳に流し込んだ。
『おチビは君がちゃんとした男で、自分に気があるって事を自覚してる。その上で無防備な自分を託したんだから、多少の事は覚悟してるって思ってもいいんじゃない?』
「たとえ無防備でも、安易に手を出したらどんなひどい結果が待っているかをしっかり叩き込んであるから、大丈夫だって思ってるんだよ」
『じゃあ唯人、君がただのよく言う事を聞く仔犬じゃないところを、この際おチビに思い知らせてあげないの?』 
「僕には、そんな理由で今のアーリットに接するつもりは微塵もないから」 
 唯人がミラとの会話に集中して動かなくなったので、アーリットは仰向けに押さえつけられたままじっと唯人を見上げている。その、あくまで真っさらな眼差しに笑顔を返してやると、無表情の顔がほんのわずかほころんだ。
『案外、おチビは君を誘ってるとか思わない?』
「なら、それこそ君にそう簡単には垂らされない、って示しておかないとな」
『まあいいけど、そんなに自分の事好きじゃないのか、っておチビをヘコませないようにね』
「アーリットが?そんなわけないよ」
 もうこの話はここまでにしてくれ、と唯人はあえてうんと下世話なほうに話を振ってみた。
「第一、今の感じだと、アーリットってまだどう見たって男じゃないか?なんでアハリテケの連中が女、女って言ってくるのか全然僕には分からないよ、胸は真っ平らだし……」
『そう?唯人の世界にはいないから、両性がが変わっちゃうのってよく分からないだろうけど。最初の時の印象で決めないで、この機会にちゃんと触って確かめてみたら?』
 最後のほうは聞こえなかった事にして、改めてまじまじと眺めてみたら……後の言葉が続かなくなった。
 すごく微妙だが、なんだか〝ある〟ように見えないか?いーやいや、肩と腰まわりが薄くなったせいにも思えるし……毎朝衣装を着せてるのは自分なのに、なんでそこだけ記憶が空白なんだろう。精霊痕に目くらましされてるのか?
「いや、背中側からやってたせいだ」
 そうだ、しっかり確認しておくなら今だろう、後でどうなろうとチャンスは本当に今しかない!と言い放った唯人の内なる邪念と言うか、すこぶる健全な二十歳の思考をすかさずカウンターで叩き返したのは、アーリットでもミラでも自身の道徳心でもない、何気ない過去の記憶の一場面だった。
「……そういえば、見たんだった」
 テルアの兵舎の浴場で、サレの芸術的な全裸を。
 あの時の彼はほぼ完全に男状態で、唯人以上に体格も筋肉もあれやこれやも立派で非の打ちどころのない姿だった。アーリットは最初から痩せ型だったので分かりづらかったが、もしまだそういう状態だったなら……。
「うん、確認はしないほうがいいな、多分、どっちにもいい事は無い気がする!」
 見てしまったことでこれまでの懐かれ生活が唯人の脳内で不健全化して、勝手にヘコんで気まずくなったりしたらアーリットは訳が分からず困惑するだろう。
 もういい、分からないのが一番だって事もある。これに関してはその時になって結論だけ知ればいい、途中経過なんていらない!
 清々しい現実逃避に身を委ね、うだうだと続けられていたふざけ合いを終わらせる。転がって荒い息を宥めているアーリットが、そ知らぬふりで顔を寄せてきた。今日が本当の最後だからいいか、とじっと動かないでいてやると、温かな唇が重ねられる。言葉を発しないぶん、貴重な感情表現のひとつである満足しているときの低い鼻声が、あの香りと混じって唯人の鼓動を一気に速くさせた。
「アーリット……もういいだろ、そろそろ戻ろうよ」
 身を離そうとすると、まだ足りないと言わんばかりにつかんだ肩を引き寄せられ、仕方ないなと溜め息交じりで応じてやる。
 ちょっとだけ、慣れてしまった自分が恥ずかしくなった。



 目覚めたときは、無という自由の中にいた。
 何も考えなくていい、大好きな人は側にいて、ずっと見守ってくれていた。寄りそい、抱きしめ、時々我儘を言って困らせて。好きな時、欲しいだけ柔らかな唇を重ね合った。
 自由、あまりにも長い間、無に等しい状態だった自分。暗くて意固持で理屈ばかりの〝あれ〟は、あの日突然閉じた扉の向こうに消え、固く鍵をかけてしまった。
 これからは、好きにしていいのだ。恐い〝あれ〟がずっと一人占めしていたこの自分を、うんと優しく柔らかく、良いように変えられる。
 嬉しくて、なんだかすごくお腹が空いた。
 大好きなあの人は、まだ何も食べさせてくれないけれど。気付いてくれれば、喜んで充分に与えてくれるだろう。
 あの、いつも何かが足りなくて不機嫌な〝あれ〟を憐れみながら、好きなだけ美味しい思いをしてやるのだ。
 ふっくらとした脂をこの身に纏い、あの人と対の、あの人が求める姿になろう。
 そうすれば、あの人はきっと、この身体に新しい命の種をくれる。
 それこそが、ただひとつの願い。
〝あれ〟には、けしてできない自分だけの特権。
「……?」
 穏やかで幸せな空間に、ふと、何かが入り込んできた。嫌な感じ、恐い感じは無いけれど。するすると伸びて来て、細い帯のように周囲に張り巡らされてゆく。嫌ではないが、落ち付かない、一体何をしたいのだろう。
 その答えはすぐに分かった、あの恐い〝あれ〟の籠った扉にどんどん帯が吸い寄せられ、絡み、覆ってゆく。嫌だ、そこには触れて欲しくない、それが開いてしまったら、恐いのが出てきてしまうではないか。また入れ替わって、奥底に押し込められてしまう。
 音の無い声を張り上げて、傍らにいるはずの人を呼ぶ。
 ここに来て。
 これまでのようにこの手を取って、ずっと、私だけを見つめていて。
 返事が無い。
 まさかそんなはずはない。
 あの人がここにいないなんて、そんな事はあるはずがない。
 でも、いない。
 どうしよう。
 探しに行こうか。
 きっとすぐそこにいるはずだから、すぐにやってきてあの甘い豆の色の眼で見つめながら、ごめんと謝ってくれるだろう。
 瞼を開き、身を起こす。
 周囲は薄暗い、何だか重い自分の身体に眼をやると、どこからか伸びてきている、数え切れないほどの薄く輝く細い帯がくまなくまとわりついている。これは嫌い、取り払おうとするが手ごたえが無く、仕方なく全部引きずったまま床の浅い窪みから這いだして、帯の光に浮かんでいる壁の角ばった穴へと向かう。そこをくぐった時、賑やかな音と共に何かが身体にぶつかってきた。
 ああ、これも嫌、いつも付きまとって来る青白くて小さいさわさわしたの。立てる音が耳障りだし、何よりこれは、あの扉の奥の恐い〝あれ〟の味方なのだ。大きな眼を見開いて、床の窪みに私を押し戻そうとする。嫌だ、言う事なんかきかない、このさわさわは、扉が開くのを待ち望んでいる。
 私の事、好きじゃないんだ。
 それに大好きなあの人を、いつもいじめて辛い顔をさせている、大嫌い。
 引きとめる小さい身体を、振り払って走り出す。どちらを向いても固く冷たい石の壁、この感じは、恐い〝あれ〟を思わせる。とにかく出よう、走って走って暖かな、あの人のような陽の元に出て行こう。
 私を、一人にしないで。
 ……大好きな〝タダト〟



「よぉし、交渉成立だ!」
 でかい手にばん、と思い切り背を叩かれて、唯人は痛さの苦笑いを浮かべつつ、差し出された包みを受け取った。手の中にあるのは、袋に入ったラバイア産の紅茶。スィリニットではそう珍しい物ではなかったが、このテシキュルでは年に数回巡り会えるか会えないかの商隊から買うしかない、超貴重品だ。
 アーリットがエクナスの最深部に籠ってから数日が経ち、唯人は目覚めた彼が喜ぶような事が何かできないかと考えた結果、彼が興味を示すごくわずかな事柄の中で一番実現可能そうな、上等のお茶を用意することにした。この世界のあらゆる事柄に精通している彼が、毎晩飲むお茶に関しては特に楽しそうに語ってくれた記憶がある。その彼が言うにはテシキュルの茶はほとんど〝草〟で、本当の茶と言ったらやはりラバイアの紅茶、ユークレンの香草茶、そして群島国マリュカタイ産の緑茶で決まりらしい。ミラの鷲獣に乗って数日がかりでスィリニットに戻る事も考えたが、アーリットがいつ眼を覚ますか分からない今、遠出をする気にはなれない。唯人を角馬の持ち主として見て、ちょっとだけうち解けてくれたアハリテケの娘達に何気なくその話をしたら、族長がラバイア産の紅茶を持っていて、特別の客人だけに振る舞っていることをこっそり教えてくれた。
「残念よねぇ、あんたの馬がもう賭けの担保になってなきゃ、族長と交渉できたのにさ。他にはもう何も持ってないの?異国の珍しいの」
 そう言われても、保存食の類いや干しウナギはもうタカンの人と食べてしまった。神殿に戻って使いこまれた自分の旅の荷入れを探ってみたが、金果樹の欠片は精霊獣と関わりの無いノイタンには無用の長物だし、スフィの整備用具は無いと困る、身分証は……譲っちゃ駄目だ。
 あとは最初から持っていた旅道具だけか、と諦めかけたその時、きっちりと縛られた葉製紙の小さな包みが荷の奥から転がり出てきた。ああ、そういやこれ、買ってたっけ、ひょっとしたらいけるかな?
 おそるおそるその包みを持って交渉に行くと、一目見るなりノイタンは金の塊を目にしたような顔をしたが、そ知らぬ風ですぐ駆け引きにかかってきた。
「ラバイア産の香辛料か、これを、俺の茶と換えて欲しいってのか?」
「はい」
 武骨な指が丁寧に包みを開けて、広がる香りを吟味する。
「こいつは肉用じゃねぇぞ、俺達にとっちゃ肉に使えるのが一番有難いんだがな」
「そうなんですか?店の人は何にでも合う万能の香辛料だって言ってましたけど」
「ラバイア人は鳥肉食いだ、俺達とは食い方も違う」
「じゃあ、駄目なんですか」
「おいおい、そうじゃねぇって、気の短けぇ奴だな、もっと話を詰めようって言ってんだ。俺にとっては茶だっていつ手に入るか分からん貴重品なんだからな、どれだけよこせって言いたいんだ?」
「この包みの三倍、両手いっぱいくらいは欲しいです」
「そうか」
「はい」
「よし、交渉成立だ!待ってろ、持ってこさせる」
 快諾されたという事は、かなりこちらが損をした結果となってしまったようだ。でも別にそれはいい、寝起きのアーリットにたっぷり飲ませてあげられる量さえあれば、後はゆっくりどこにでも買いに行けばいいのだから。
 ミラの角馬に乗って神殿に戻る途中、ふと、随分と遠くから自分を見ている視線に気付き、唯人は一面の草原が続いている彼方に眼をやった。草の間にぽつりと一人、羊馬に乗った人影がじっとこちらを見つめている。髪と帽子の色であれはユンウェイだ、と分かった。
 あの勝負以来、家畜を追う仕事もあるのだろうが彼は頑なに唯人を避け、近寄る様子も見せてこない。どこかに向かっている最中なのか、食料を入れる小さな籠を背に負ったその姿は、すぐに駆け出すと草原の向こうに消えてしまった。
「彼、笑ってた?何があったんだろ」
 特に気にせず坂を昇っていくと、本神殿の入り口でエクナスが出迎えてくれた。お茶を貰ってきた話をすると、それならちゃんとした茶器が必要ですね、ユークレン製のうんと古いのがあった気がします、探してみましょうと地下の収納庫へ案内される。二人で手分けして、ほどなくつる草みたいな優雅な曲線の注ぎ口の陶製のポットと揃いのカップを見つけ、それを持ち返る道すがら、ふと、エクナスが奥の通路の何かを眼にして足を止めた。
「……?」
「どうかしましたか?エクナス様」
「まさか!」
 一動作で手にした茶器を唯人に預けると、小柄な姿が奥へと駆け去って行く。慌てて茶器を床に置き、唯人もその後を追いかけた。
「やっぱり!阿桜殿、大変です!」
「どうしました、エクナス様」
「アルが……アーリットが、神殿から出て行ってしまったみたいなんです!」
「えっ!?」
「見て下さい、これは、私の鍵の術式の切れた残骸、この下にある深部から外へと続いています」
 通路の石壁には、繊細な光を放つ蜘蛛の糸で編んだような幾筋もの帯があるものは切れ、別のものは延々先へと伸びていた。
「鍵の術式に包まれていれば、目を覚ます事などないはずでしたのに。力づくで引きずって外に出て行かれたんでしょうか……複雑な式が切れるような事があれば、鍵穴の方、つまりアルが自身に施した暗示が更に複雑に変質してしまう恐れがあります。一刻も早く連れ戻さないと!」
「銀枝杖は?いないんでしょうか」
「もしアルが本当に外に行ってしまったのなら、あの子は傍らで術式を切らないよう、全力で伸ばし続けていると思います」
 エクナスに連れられ通路をたどって行くと、きらきらと夕陽に輝く細い術式の帯は外に出て、石の垣を越え下に伸びていた。ヘイイン殿も呼んできますと身を反したエクナスに頷いて、迷わず唯人は石垣を飛び越えた。
「唯人殿!」
「はい、必ず連れて戻ります!」
「お気をつけて、陽が暮れた草原に一人でいたら狼に目を付けられます。陽の落ちるまでに見つけて下さい!」
「大丈夫です、術式が続いていますから、たどっていけば見つかるでしょう!」
 神殿の下にある森に降りると、光る帯の束は一本、また一本と切れみるみる細くなっていった。それでも輝きを放っている残りの帯をたどり、やがて麓の草原に出る。おかしい、いつ出て行ったのか分からないが、少なくとも昼、唯人がノイタンの元に出向く前には何も起きていなかった。それから考えても、ぼんやりしているアーリットが一人でこんなに長距離を移動できるとは思えない。 
 その時、ふとある光景が頭の中に甦った。神殿に帰る途中、自分を見ていたユンウェイの顔、口の端を上げた変な笑顔を浮かべていた。今分かった、あれは、まだ気付いてない、馬鹿な奴、の顔だ。かなり低くなっている夕陽を睨み、唯人はミラの角馬にまたがると微かに続く帯を傷つけぬよう、注意深くその先へと進んで行った。
「阿桜殿!見つかりましたか?」
 しばらく行くと、エクナスに事の次第を聞いたヘイインと数人の神殿仕えの人達が追いついてきた。この先は小高い丘に周囲を囲まれたすり鉢状の地形になっていて、そこに沢山の羊を追いこみ柵で囲ってある。一目で、アハリテケの民の重要な場である事が理解できた。
「ヘイインさん、どうやらアーリットはこの先にいるみたいです」
「そのようですね、鍵の術式が続いています。ただ、この先の地はアハリテケ族の共有の羊囲いになっていて、無断で入り込むと私共でさえ羊泥棒の疑いをかけられてしまいます。使いの者がすぐに立ち会い人を呼んできますから、しばらくお待ち下さい」
「駄目です、待てません!」
 僕は絶対羊を盗む気などありませんから、馬族の人には黙っていて下さい、と言い切り唯人はミラに姿を隠して貰って先に進んだ。。そこここにいる羊にできるだけ近づかぬよう、距離を取りつつ更に奥、丘に埋まるようにある年季の入った掘立小屋へと進んて行く。もう片手に余る数になってしまっている術式の帯の終点は、どうやらその小屋のようだった。
「アーリット、すぐに行くから!」
 土と石を押し固めて造っている壁の木戸の隙間から中を伺うと、沢山の乳製品らしき塊が並べられた棚の前、枯れ草を敷いた床の上にアーリットがちょんと座っているのが見えた。あの白の精霊獣師正装衣はあちこち破れたままだったので今は軽衣に着替えているのだが、柔らかそうな毛織りの肩掛けにくるまっている。
 それより唯人が衝撃を受けたのは、彼が上機嫌の顔で湯気の立つ器から何かをつまんで口にしていた事で、床にはまだ数個の器があり、もう空いているものもあった。
 ……食べてる、だって!?
 思わず木戸をぶち割ってしまいそうになり、ぐっと辛抱する。と、その気の昂りが伝わったのか、ふいに姿を現した銀枝杖が転がる勢いでこちらへとやってきた。
「駄目蟲、やっと来たんですか!い、いえ、今はそんな事言ってる場合じゃありません、駄目蟲でも貴方が頼りです。早くアルを止めて下さい、私は式を持たせるのに手一杯で、あの罰あたり下等生物に制裁をくれてやる余裕が無いんです!アルがこのまま食べてどんどん女性化が進んだら、暗示が解けてもこれまでのアルが揺らいでしまう、そうなったら誰がユークレンを、この世界の秩序を護るんです!」
 ユークレンとか世界の秩序とか、そんな事は今の唯人には申し訳ないがどうでも良かった。誰も来ないと確信していたのか、つっかえもしていない扉をひと蹴りでふっ飛ばし小屋の内へと踊りこむ。驚いて眼を丸くしたアーリットに駆け寄ろうとしたその時、脇から飛び出してきた影が勢いよく体当たりをくらわせてきた。奥の棚近くまで飛ばされて、すかさず起き上がろうとした上体にのしかかられる。
「てめぇ、いつの間に入ってきやがった!ここは俺達の羊囲いだぞ、この盗っ人が!」
 そんな事どうでもいい、と唯人は負けじと相手を突き飛ばして跳ね起きた。
「ユンウェイ、やっぱり君か!いい加減にしろ、何でそんなに僕とアーリットに絡んでくるんだ。僕が嫌いでもアーリットには手出しするな、君が何かするたびに、アーリットの治療が邪魔されてるんだ!」
「お前が何言おうと、この女は神殿から逃げ出して来たんだよ、だから俺がここにかくまってやったんだ!見ろ、あんなに嬉しそうに飯を食ってるじゃないか、お前がろくに食わせてやらなかったからだろ!」
 互いの胸倉をつかんで転がり合ったあげく、腹に膝をくらわされ思わず床にうずくまる。やはり、本気の肉弾戦ではそもそもの鍛え方が違っている。詰まった息を絞り出していると、胸倉をつかまれぐいと顔を持ち上げられた。
「本当の事、言えよ」
「……何?」
「お前ら、エクナスの器をこの女に変えようって魂胆なんだろ。壊れた神殿を直したら器も新しくして、エピを使い捨てにしようってんだろ!」
「何を言って……」
「ヘイインのおっさんにわざわざ聞かなくても分かってらぁ、ユークレンの奴らは、人より見えもしない精霊様大事、なんだ」
「そんな事!」
「神殿の奴らは、誰一人俺に本当の事を言わない。嫌ってるからな、俺を」
 唯人の胸倉をつかんだままの拳が、震えている。
「俺が、エピを遠乗りに連れ出して、落馬させた張本人だから!」
「……え?」
 驚いて眼を見開いた唯人に、ユンウェイはもう止めようの無くなった勢いで言葉を浴びせかけた。
「エピがもう一生目を覚まさない、って分かったあの日、俺は自分が一生面倒見る、だからエピを俺にくれって頼みに行ったんだ、だのに、おっさんらはエクナスに捧げた方がこの子の為だとか言って、俺からエピを取り上げた。エピから俺の記憶を全部消し去ってしまったんだ!」
 唯人を睨むユンウェイの眼にみるみる光る滴が湧きあがり、頬を伝って流れ落ちた。
「おっさんは、顔には出さないがあれ以来ずっと俺を嫌ってる。そりゃそうだろう、騎士気取りでしょっちゅう小さいエピを神殿から連れ出して、あげく馬から落とし壊しちまったんだから。ならこれ以上どれだけ嫌われようがどうってことない、この女は俺が国に送り帰す、エピと代えさせてたまるもんか!」
「馬鹿野郎!」
 思いの全てをぶち込んだ、唯人の渾身の一撃がユンウェイの顎にめり込み床に叩きつけた。
「そんな話、誰がした!」
 全身を駆け巡る怒りに、中の連中が同調を始め敵意の焦点を前にいる人間に据えようとする。だが、その辺りは奇妙な程冷静に、唯人は手を出すなと荒れる存在を己の内だけに押さえ込んだ。
「そんな……そんな、勘違いっていうか妄想だけで判断して、こんな事したってのか?なんで一言でも本気でヘイインさんや、エクナス本人と話そうとしなかったんだ。自分の意気地の無さを僕に押し付けて、勝手にアーリットを被害者に仕立てて自分を正義の味方にしようとした、お前は……最低だ!」
「なんと言おうが、痩せて何もできない憐れな女に食わせてやるのは間違ってない!おかしいのはてめぇだ!」
「僕は物知らずだけど、知らない事を勝手に判断して他人に押し付けるような馬鹿じゃない!」
 本気の殴り合いなどやったことないので、全く加減の分からないもう一発を浴びせるとこっちの拳が痛くなった。そのまま倒れた相手に馬乗りになって押さえつけて……ふと周囲が眼に入った唯人は、その時やっと視界のどこにもアーリットがいないという事に気がついた。 
「アーリット……?」
 呼んでみても、返事が無い。
「アーリット、どこに行ったんだ、銀枝杖!」
 ユンウェイを放りだし外に飛び出すと、辺りにけたたましい大鳴鳥のわめき声が響く中、小高い丘になっている裏手の草の中から角馬のミラが呼びかけてきた。
「唯人、こっち!」
 知らぬ間に身体にダメージが蓄積されていたのか、走る足に力が入らず速度が上がらない。唯人が追いつくのを待てず、ミラは身をひるがえすと丘の反対側を駆け下りて行った。丘の頂に上がって見下ろすと、少し行った先の草原にぽつりとアーリットの白い姿が浮かんでいる。そこに駆け寄ろうとしているミラと、正反対の方向からこちらも一直線にやってくる黒い影を捕えた瞬間、唯人は身体の痛みも忘れ、下り坂を転がる勢いで駆け降りた。
「戻ってくるんだ、アーリット!」
 こんなに離れているのに、荒い息使いや唸り声が唯人の耳まで届いてきた。狼などではない、熊の大きさと豹のしなやかさを併せ持った巨大な獣。どう見てもアーリットに狙いを定め、その牙で襲いかかろうと向かっている。構えた銃から一気にあるだけの七発を放ったが、闇に紛れる毛色と皮がかなり頑丈なのか、獣の勢いは止まりそうにはなかった。
 間に合うか否か、そのぎりぎりのタイミングでミラがアーリットの背後に迫る。、その時、突っ込んでくる黒い獣の傍らの草が割れ、数頭の影が飛び出した。
「……ハルアジャ、サイスックは前へ、イリティ兄さんは足を!」
 夜の空気を震わせたのは、タッカの叫び声だった。行く手を阻まれた黒獣が威嚇で立ち上がろうとした瞬間を狙い、狼の一頭が足に喰らいつく。すかさずもう一頭が喉を狙ったが、分厚い掌に弾き飛ばされた。
「アーリットさま、早く逃げて……うわっ!」
 獣の振りまわした爪が自分をかすめ、タッカが草に転げこむ。黒い獣は獣と思えぬ賢さで、狼を指揮しているのがこの小さい人間だとすぐに気付いたようだ。タッカの前に戻り吠えたてるハルアジャを、獣はびりびりと響く唸り声で威嚇した。
「……」
 アーリットは動かない、じっと、ねじの切れた玩具のようにただ立ちつくしている。身体から垂れているほんの数本残った光の帯が、不規則な明滅を続けている。
 ふと、顔が上げられ緑の眼がゆっくりと周囲を見渡した。獣と人、響き渡る声、向けられている悪意なき殺意と、それに立ち向かっている〝護る〟という意思。
 その薄い唇から、吐息のような言葉が漏れた。
「……クーロ・キィ、潰せ」



 あの人を、怒らせてしまった。
 なんでこうなったんだろう、分からない、何ひとつはっきりしない頭で必死に思いを巡らせる。
 暗い場所から外に出た、
 そうしたら、石の囲いの向こうに誰かがいる気配がした。
 あの人だと思って囲いを乗り越えて、そしたら……そのまま下に落ちてしまった。
 地に打ちつけられると思って硬くした身体がすっぽりと抱きとめられた感触があり、そのまま何も分からなくなって。
 眼が覚めた時には、狭い場所にいた。
 てっきり、元の場所に帰れたんだと思った。
 大好きなあの人が、連れて戻ってくれたんだと安心した。
 だから、目の前に出された美味しそうな物を喜んで食べた。
 あの人が、ちゃんと分かってくれた、それが何より嬉しかったから。
 だのに。
 飛び込んできた、すごい勢いで、見た事の無い怖い顔。
 怒っている、私に怒っている?
 何がいけなかった。
 分からない。
 もしかして、食べてはいけなかったんだろうか。
 ちゃんと、その手から渡されなかったから。
 怖い、あんなに怒っているのなら、もう私を嫌いになってしまったんだ。
 嫌われた。
 また、一人ぼっちになる。
 気の遠くなるほどの時間の一人ぼっち。
 嫌、寂しいのはもう嫌なのに。
 満たされた心地よさから一気に突き落とされ、刃物が胸を貫いているように痛い。
 気付いた時には、その場から逃げだし暗い草原を駆けていた、
〝いい夢を見たら、覚めた時が辛いって分かったか?〟
 あの、暗くて不機嫌なもう一人の自分の声がした。
〝何百年生きても懲りない奴〟
〝お前は、自分の事しか考えていない、相手の事を微塵も考えられない〟
 ……ダカラ、アノ人ヲ死ナセテシマッタンダ
〝あいつは、俺が護ると決めた〟
〝お前のただひとつの望みという我儘は、間違いなくあいつを殺す。もしあいつを死なせたら、俺は絶対お前を許さない〟
 許さない。
 果ての見えない一生、自分を許さない。
 この気持ちには、何だか覚えがある。
 やっと足を止めた時、遠くに、心の中の漆黒がそのまま凝り固まったような黒い影が見えた。血に飢えた牙が、一直線にこちらへと向かってくる。恐怖が、思考を遮った。
 怖い。
 でも、助けてと叫ぼうとする喉は閉じていて、あの人には何も届かない。もう一人の自分が塞いでしまっているのだから。
〝あいつに助けを求めるような奴は、あいつを護る事なんてできやしない〟
 護ってもらっては、駄目なのか。
〝駄目だ、それが分からないから駄目なんだ〟
 心の奥深くに繋がっているあの光の帯は、ほんの数本になりながらもまだ懸命に作業を続けていた。鍵は、もう鍵穴に入っている、後は回して引くだけだ。
〝これは、最初から俺がお前に委ねた事だった。お前が、自分の無力さを自覚して俺に全てをあけ渡すためにな〟
〝今後何があろうと、けして俺の邪魔をさせないために〟
 うるさい、嫌い、大嫌い。
 世界で一番大嫌い、扉の奥に居る自分。
 大好きな人を、受け入れる事の出来ない硬い身体と冷えた心のアーリット。
〝ああ、俺もだ、お前と気が合うなんぞ無理なことだ〟
 ……なら、ここで約束して、私のあの人を、何があっても死なせないと。
〝無論だ、俺はお前とは違うからな〟
 そうか、やっぱり違うんだ。
 心の中の指先が、輝く小さな鍵に触れた。



「……クーロ・キィ」
 かっ、と草が地から発した赤い輝きに浮かび上がった。音もなく、一気に突き出してきた鈍い赤色の巨大な腕が、その開いた手で獣を鷲掴みにし地に押さえつける。その瞬間を逃さず三頭の狼は一気に獣に跳びかかると、喉に深々と鋭い牙を喰い込ませた。タッカも振りかざした短刀を、同様に獣の眉間の急所に突き立てる。
「いいぞ、みんな!」
 がっちりと押さえられ身動き一つできないまま、ごぼごぼと血と唸りの混じった音がやがて低くなり、獣の身体が呼吸を止める。興奮さめやらぬ様子の狼達も、やがて獣から離れるとタッカに駆け寄り勝利の喜びを分かち合った。
「おーい、皆さん!」
 やっと、羊のいる奥のほうから数人の人間がこちらへとやってくるのが見えた。ヘイインと、大柄なのはなんとノイタンだ。大鳴鳥が騒いだので彼が見に来てくださったんですよ、とヘイインが話す間に、ノイタンはこりゃあたまげた、と地に横たわる黒獣を覗きこんだ。
「黒豹熊じゃねぇか、こいつは普段は遠くの森にいるんだが、腹が減ると草原に出て来る猛獣だ。こいつをお前みたいなチビが一人でやっちまったってのか?気が向きゃあ馬に乗った人間だろうが平気で襲ってくるんだぞ、とんでもねぇな」
「一人じゃないです、兄弟みんなで頑張ったから。あ、羊が産気づいたんで姉さんに付いてもらってるんだ、見てこなきゃ!」
 慌てて戻るタッカの後に付いて行くと、雌狼は小さな羊の傍らにいて、赤く汚れた口で舌舐めずりをしていた。一瞬やってしまったと思ったが、よく見ると狼は黒獣に怯え腰の抜けた母羊に代わって、仔羊を舐めていただけだった。
「ナビア姉さんは、どんな獣のでも仔が大好きなんです。俺とハルアジャも赤ん坊の頃は一日中舐められてました」
 よろよろと、頼りない脚で仔羊が立ち上がろうともがいている。それを見た狼は、へたり込んでいる母羊に近づくと鼻面でせっつき乳を与えられるよう立ち上がらせた。
「こりゃあ、負けを認めねぇわけにはいかねぇな」
 頭をかきながら、ノイタンが豪快な笑い声を響かせる。
「仕方ねぇ、なんか一目で分かる首輪でも付けときゃタカンの狼どもは草原におっ放していいぞ。他の連中には俺から話をつけておく、まあ、これが知れ渡りゃあ羊の護りに来てくれってみんなが押しかけるかも知れねぇがな!」
 唯人を通してその言葉を聞いたタッカは、本当ですか、とぱっと顔を輝かせた。
「その熊はお前のもんだ、煮るなり焼くなり好きにしろ。だが毛皮を取って帽子を作っておくのだけは忘れるなよ?それを被ってりゃあお前が年頃になる時にゃ、タカンの小娘に取られねぇよう、アハリテケの女どもは奪い合って夜寝かさんだろうなぁ」
 小首をかしげて愛想笑いしているタッカには、後半の大人の冗談は伝えないでおいてあげた。
「さ、僕達も帰ろうか、アーリット」 
 皆の輪に加わらず、ミラに付き添われ一人離れてうずくまっている彼の元へと歩み寄る。精霊獣が復活したのが見えたから、もう元のアーリットに戻ったのかと思ったら、上げられた顔はまだ怯えた子供のままだった。
「アーリット?」
 触れると、びくりと身を固くする。ああ、僕が大喧嘩したからびっくりさせたんだな、ごめん、とその肩を抱いてやる。君を怒ってるんじゃないよ、連れ戻しに来たんだから、と囁く唯人にふ、と泣き笑いみたいな表情を浮かべると、アーリットはそのまま気を失って唯人の腕の中へと倒れ込んでしまった。
「唯人、用が済んだのならさっさと神殿に戻ったほうがいいよ、銀枝杖ももう限界だろう」
 分かった、と唯人が頷くと、賭けはカタが付いたからもういいだろ、とミラは皆の見ている前でいきなり鷲獣に変じ、二人を乗せて飛び立った。ぐんぐん離れてゆく暗い草原の中、羊に混じってぽつりと立ちつくしているユンウェイの姿が唯人の視界を一瞬かすめて消えた。 



「今回は、流石におめぇが全部悪いぞ、ユンウェイ」
 今まで、少々のやんちゃは大目に見てきてくれた族長だが、真顔の言葉は避けられない重みがあった。それでも、一応話を聞かせて下さいと訊ねる神殿長に、腫れた頬を押さえふて腐れた顔で知らねぇ、とそっぽを向く。すかさず、ごつい拳が飛んできて反対側の頬を張り飛ばされた。転がる身体を避け周囲の羊があたふたと散る。
「おい、マジで口が利かなくなる前に神殿長殿にまず謝れ、そんでこんな事しやがった説明しな。ちゃんと話さないと、お前、本当に女さらいの癖があるんだって皆に思われちまうぞ?そうなったら一族から爪はじきされて、いずれ出て行かざるを得なくなる。お前の親まで肩身の狭い思いしなきゃならなくなるんだ」
「……」
「てめぇ、いい加減に……」
「おやめ下さい、ノイタン殿」
 再度振り上げられようとした腕を、抑えた声が止めた。
「話したくないのを、暴力で無理に聞き出そうとしても仕方ありません。分かっています、私と話したくないというのなら、また後でノイタン殿を通じてお伝え願えれば結構です。今晩は、もうここまでに致しましょう」
「いいさ、言ってやる」
 起き上がり、投げやりに口を開いたユンウェイに、ノイタンはガキか、拗ねやがってと呆れ顔で溜息をついた。
「最初から言ってるだろ、俺は、あのアーリットって女を助けたかった。神殿が壊れてからエクナスが全然神殿の外に出てこなくなったから、器のエピも調子が悪くなって、その代えにあの女を連れて来たんだって思ったんだ」
「ユンウェイ、エクナス様は神殿が壊れた後、本殿の中でずっとできる範囲での修理を行っていたのです。確かに万全とは言い難い状態でしたが、それが理由で器を変えるなどと言うことはありえません。エピが歳を取って普通の人と同じように召されれば、エクナス様はまた神殿に還られるのですから」
 穏やかに、諭すように語りかけられてもユンウェイの暗い瞳は逸らされたままで。しばらくの沈黙の後、ふっ、とヘイインが深く息をついた。
「貴方は、あの時私がエピを貴方に委ねなかった事を、今もまだ恨んでいるのですか?」
 青灰の瞳が、ふいと夜空を振り仰ぐ。ぽつりと浮かぶ白点が、ちょうど神殿の前に舞い降りるところだった。
「私は、エピレィテの親とエクナスの神殿長という立場の両方の立場から考えて、あの時はどんなに貴方がエピを想っていたとしても、貴方にエピを託す事が良い結果を生むとは到底思えませんでした。貴方はまだ十三歳で、残りの一生全てを動く事も話す事もしない伴侶に捧げさせるということはあまりにも酷い、一時の感情で決めていい事ではないだろうと。今でも、その判断を間違っていたと後悔する気はありません。それがどうしても貴方の気にそぐわない、許せないというのなら、私は今後も貴方の怒りをこの身に受け止めましょう。ただ、今後一切、私を困らせると理由で何も事情を知らない客人を巻き込むのはやめて頂きたい。エクナス様の慈悲を求めて来られる方の邪魔をなさるなら、そこに仕える私達は、それが何であれ取り除かなくてはならないのですから」
「畜生……」
 くるりと背を向けるヘイインに、食いしばった口から絞り出すような呻き声が漏らされた。
「そんな言葉が聞きたいんじゃねえ!」
 弾けるように突っ込もうとした身体は、ノイタンのごつい腕に引きとめられた。
「何で俺に言わないんだよ、そんな悲しそうな顔してないで。好きなだけいえばいいじゃないか、お前のせいだって、お前がエピを壊したんだって!」
「ユンウェイ、よせって!」
 すまん、もうこいつ持って帰る。落ちついたらまた謝りに行かせるから、と力任せにノイタンがユンウェイを担ぎあげる。放せ、まだ話は終わってねぇんだ、とユンウェイは滅茶苦茶に暴れ腕を振り払おうとした。
「自分が壊しておいてまだ、しつこく付きまとう気かって思ってるんだろ。ああそうだよ、どんなにおっさんが俺を嫌おうが、俺はエピが好きだ、諦めない、認められなくても一生エピを見守ってやるからな!」
「なら、ちゃんと正面から会いにおいでなさい、物影から見ていないで。私達はいつでも待っていますから」
 輪郭だけが月明かりに淡く霞んでいる、霊獣の角馬の脇に立ちヘイインが穏やかに笑む。ユンウェイは眩しい物を見るように眼を細め、言葉を失いその顔を見た。
「私は、一度も貴方に怒ったことなどありませんよ」
 歩み寄ってくるその足元で、月光に浮かぶ草が揺れる。
「貴方は、エピの幼馴染で私の変わらぬ小さな友人なのだから。エピの運命を貴方のせいなどと言う者は、私を含めてどこにも居はしません。もし居るとしたら、それは只一人。そう、貴方を責めているのは貴方自身なのでしょう」
「……」
「できるなら、もう許してあげなさい。私に何かできる事があるのなら、何でも言ってくださってよいですから」
 淡青の衣の袖が上がり、まるで拗ねた子供に接するように前にある頭を優しく撫でた。それでは、と衣をなびかせた背が見えない獣に飛び乗り夜のとばりに溶けて消える。すっかり大人しくなった肩の上の身体から、ノイタンに向かってぼそりと声がかけられた。
「……なあ、族長」
「んあ?」
「今の話、内緒にしてくれねぇかな」
「口止め料次第、ってとこだな」
「おい」
「当たりめぇだ」
「分かったよ、いくら欲しいんだ!」
「そーだな、あのタカンのチビが値打ち物の熊の毛皮と肝を狼に喰わせちまう前に、お前んちの羊と交換させるってのはどーだ?あのガキは相場なんて知らねぇから、年寄りを何頭かくれてやりゃあ喜んで応じるだろ、それ以外の肉と臓物は不味いからいらねぇしな」 
「あんた、本当にがめついな!」
「おかげで族長をやってらぁ」
 分かったらさっさと行け、と担いでいた身体を投げ落としてやる。凄い目つきで睨んだ後、よろよろと駆けて行く背を見送って、ノイタンはてめぇも若いんだよ、と高笑いした。
「お前がばれてないって思ってる事なんざ、知らねぇのは先週生まれた俺の十六番目の孫くらいだってんだ!」



 再度エクナスの懐に戻ったアーリットが眼を覚ましたのは、それから丸一昼夜過ぎた二日目の朝の事だった。今度はその階上の部屋でずっと待機していたので、エクナスから声がかかり手早く茶の用意を済ませると、唯人は蛍翅と共に真っ暗な地下の一室へと降りて行った。
「アーリット」
「……」
「起きてるかい?」
「……ああ」
 あの、低くぶっきらぼうな声が返ってきた。
「そっちに行っていい?」
「ん」
 そんなに広くない石室の、ありとあらゆる場所から光る帯が生え、それが中央の人の大きさ程の窪みに集まりまばゆい輝きで周囲を照らし上げている。その輝きに身を浸しているのは、白い肌に美しい柄を纏った裸身のアーリット。帯の隙間を潜りながら近づいた唯人に、彼は半身を起こして向き合った。
「気分はどう?」
「普通だ」
「もう、暗示の術式は解呪されたのかい?」
「見て分からないか?」
「うん、そういう言い方するんならもう大丈夫だな」
 話している間にも、細い術式の帯が次々とアーリットの身体から抜け落ちて、はらはらと霧散して消えて行く。溜まり水のような光がゆっくりと湯気のように薄れていくのを眺めながら、アーリットはふと傍らの唯人を振り仰いだ。
「唯人」
「なに?」
「喉が渇いた」
 はい、ともう条件反射で顔を寄せかけて、違う、と我に返る。このアーリットはそうじゃない、違うんだ。
「そう言うと思って、上にお茶の用意をしてあるよ。ラバイア産のお茶だから、きっと君の口に合うと思……」
 言葉の途中で、伸ばされた手にぐいと胸倉を引かれ、思わず倒れそうになり慌てて唯人は膝をついた。もう一方の手が後頭部にまわされて、逃げられなくした唇を有無を言わさず塞がれる。もう慣れかけていた行為なのに、みるみる顔に血が昇ってしまった唯人の困惑を楽しむように存分に喉を潤すと、アーリットは軽く舌を覗かせた唇で意地の悪い笑みを浮かべて見せた。
「やっぱり、群島の地下水は質がいいな。お前には勿体ない」
「だから、ちゃんと沸かしてお茶にしたらもっと美味しいとか思わないかい?僕、お茶を手に入れるのに結構苦労したんだよ、君に飲んで欲しいって思ったから……」
「茶が欲しければ、住処に帰って棚を漁れば好きなのをいくらでも飲めるが?」
 ああ、そういう人だったなぁ、君は。
「だが、この上質の水はそこらには無い、お前からじゃないと飲めないからな」
「アーリット……?」
 しんなりと意気消沈した唯人を宥めるように、頭に添えられていた手が背に降りてきた。ゆるく抱き締められ、耳に柔らかな吐息が触れる。まるで周囲に聞こえるのを恐れるような喉声で、アーリットは唯人に囁きかけた。
「……猶予は、あと半年ってとこだろうな」
「何が?」
「お前が俺の言いつけをちゃーんと護ってくれたおかげで、俺はどんなに足掻いても、よく持って半年後にはお前と対の身体になる」
「えぇ?」
 なにが〝えぇ?〟なのか分からないまま、唯人はぴったりと身を寄せているアーリットを振り返ろうと身じろぎした。
「お前の為に生まれ変わる、お前の為だけの俺だ、嬉しいか?」
「う、うん、そりゃあ」
「この助平、ミミズ程度は考えてから物言え」
 つい口からでた唯人の本音に、アーリットは呆れた声で溜息をついた。
「俺に何も食わせないよう、努力したってのはまあ認めてやる。だがな、お前臭い水を始終俺に流し込んでりゃ、そんなの何の意味も無いってのが分からなかったのか?」
 だってそもそも最初にそっちから求めて来たんだし、飲ませないと怒ったし。よく考えたらアリュートにいた時半月くらい飲まず食わずだったのを思い出したし、そうか何も飲み食いさせなくて良かったんだって今気付いたし。それは銀枝杖の言い方が悪いとか、なんでミラが教えてくれなかったんだって責任転嫁しようとしている自分に嫌気がさしてしまったし。
「ごめん、本当にごめん、考えが足りませんでした……」
 深々と土下座をしたかったが、しっかりと抱きすくめられていてそれは叶わなかったので代わりに肩の綱手が垂れてくれた。
「今でさえ、俺の頭の一部分はこう思ってる。お前がいなくなる前に、せめてガキの一匹でも頂かないともう我慢できないってな。これで半年たって頭の中がすっかり女になってみろ、もう俺はお前を離す事なんて絶対にできなくなる。何百年も抑え込んできた本能が、理性をねじ伏せちまうだろうな」
「アーリット……」
「〝僕はそれでいい〟とか、口が裂けても言うなよ。テルアの王城でミラが口を滑らしたのを、俺はちゃんと覚えてるんだからな。理由は分からないが、元の世界に戻らないとお前は確実に死ぬんだろう。異界の女につかまって、一生二人で仲良く暮らしました、なんてのは馬鹿の考える御伽話だ」
「……うん」
「お前を手放せなくなって、その挙句に死なせたらまず間違いなく俺は壊れるだろう。壊れた俺は、俺を生み出し孤独にさせてこき使い、欲しいものが手に入れば微塵の容赦も無く取り上げてしまうこの世界そのものに愛想を尽かし、牙を剥く。溜めた禁呪を解き放ち、破壊主なんかよりよほど無慈悲に躊躇無く、世界を自分の道連れに滅ぼすんだ……」
 そうさせない為に、彼はもう既に一度自分を引き裂きアリュートに封じている。誰かを好きになるたび、世界と引き換えにその想いを丸ごと埋めなくてはならない運命に繋がれている彼。
「そうなるのは、誰の為にも避けた方がいいだろう」
「……そうだけど」
「よし、半年後までには全てのケリを俺がこの手でつけてやろう。今後は本気出すぞ」
「ケリ?」
「お前を、ちゃんと元の世界に戻すんだ。こっちの世界も続く手段を見つけて、破壊主は叩き潰す。お前は創界主の役を果たし、お前の世界に戻ってお前にとっての平凡な一生を平凡に終えろ、変な夢はさっさと忘れてな」
「……アーリットは?」
「俺の事はどうでもいい、お前がいなくなった、ってこの身体が納得すりゃあまた落ちつくさ。衝動が抑えられなくなって、そこらの奴に見境なく手をつけちまうなんて事はありえないからな、両性って種と俺の人生数百年をなめてんじゃないぞ」
 いつしか唯人の衣の隙間から下に潜り込んできて、肌の上を這いまわっていた指がふと止められた。そのまま勢いよく引いた手に、あっさり上衣を解かれてしまう。身動きできない唯人の懐にあの香りを残し、アーリットは素早く立ち上がると奪った上衣を纏ってその横を通り過ぎて行った。
「俺がテルアを出てからの情報が欲しい、ユークレンとテシキュルの国境のタリエティ領まで移動する、お前もさっさと準備しろ」
 は、速い、唯人の返事など聞く気もないのか、どんどん離れて行く背を慌てて追いかける。やっぱりアーリットはこうでなきゃ、と思いつつ、唯人はたった今自分の懐にあった感触を必死で脳に刻みつけようと反芻した。
 アーリットは、どんどん変わってゆく。
 随分と細くなった首と腕、鋭角的できつい印象だったのが、滑らかになって角がなくなった顔の輪郭。うっすらとだが、確かに存在を示し始めている胸。
 それが、僕の為、なんだ。
 両性ってすごい。
 ふいに、頭にあの〝火炎の竜婦〟のとんでもなく肉感的な肢体が浮かんでしまい、そこまで行くな、とじたばたする。
 アーリット。
 僕はいつか、僕が生き延びるための道を見つけ出し、自分の世界に戻るだろう。
 でも、僕の為に変わってくれる君を一人残して忘れ去るような事はけしてしない、何としてでも戻ってくる。どんな手を使っても、たとえ一生かかったとしても。
 君は変わらず、ここにいてくれるだろうから。
 寂しがりやの君が、暗い夜中に眼を覚ましても安心して穏やかな眠りに戻れるように。
 僕のこの命が、君の長い夜をひと時でも照らす灯りになれるなら。



「おいてめぇ、いーかげん覚悟決めろってんだよ。小娘みたいにびくついて、恥ずかしくねぇのかってんだ」
「う、うるせぇよ!あんたに何が分かるってんだ」
「てめえがいい歳こいて、心ん中でおかーちゃーん、て泣きべそかいてるくらいは分からぁな」
「違げぇ!」
 あーあ、縮みあがってやんの、と目に見えて背が丸くなっているその姿に溜息をつく。今朝、神殿の客人がまた別の地へと旅立つという知らせがタッカから伝えられたので、別れの挨拶くらいはしてやろうとノイタンは神殿へと向かうことにした。常に行動を共にする兄弟と、途中、草影から物言いたげな眼でこっちを覗いていたユンウェイをとっつかまえて無理やり同行させる。テシキュルでは、族長の言う事は絶対なので逃げ出すのは諦めたようだが、まるで今から斬首の場に連れて行かれる罪人のごとき暗い顔で、ユンウェイは近づいてくる神殿の建物を恨めしそうに眺め上げた。
「まあ、族長さま、いらっしゃい」
 石柱の門をくぐると、神殿前の広場にもう主要な人達はみんな集まっていた。タカンの民が総出で唯人を取り囲み、尽きぬ感謝と別れの言葉を送っている。少し離れてそれを見守っているアーリットやヘイイン、神殿仕えの人達がいて、その中から現れた小柄なエクナスがアハリテケの一団に歩み寄ってきた。
「俺達も一言挨拶しといてやろうと思ってな、来てやったぞ」
「ええ、どうぞ、お二人とも喜ばれるでしょう」
 幾重にも群れている小柄な連中をかき分けて、中心にいる夜毛に歩み寄る。あ、族長さん、とやっぱり若く見える顔が微笑んだ。
「もう発つのか、もっとゆっくりしていくんだと思ったが。まだアハリテケの女の味も知らねぇだろうによ」
 最近、毛色の違うのが好みな女達が揃ってお前をつまみ食いしようって算段してたんだぞ、とつまらなさそうに言われ、はあ、と返した笑顔を引きつらせる。ま、仕方ねぇや、とノイタンは持ってきた重そうな包みをその懐に投げ入れた。
「俺んちのとびきりできのいい干し肉だ、道中あの痩せ女に食わせてやんな。ったって、あいつ、随分とまたきつい顔つきになっちまったなぁ、まるで野郎だ」
 寸分の隙もなくぴっちり着こなした精霊獣師正装姿のアーリットは、いつまでもたもたしてやがるんだ、と言いたげな不機嫌顔でこちらを睨んでいる。その緑の瞳が、ふと別の方向へと逸らされた。
「……ん?」
 眼に留まったのは、同行者の陰に隠れて逃げてゆくユンウェイの姿だった。ああ、自分をダシに散々唯人を困らせた馬鹿だ、もうこれで最後だし、ひとつ挨拶でもしておいてやるか。
 ふん、と鼻を鳴らし、アーリットはさりげなくその後をついていった。
「おい」
 ひと気の無い神殿の裏にたどりついてほっとしている背に、おもむろに声をかけてやる。大袈裟にびくっとなった後、振り返り、声の主が分かるとユンウェイはあからさまにきまり悪そうな顔をした。
「あ、ああ、お前か、そんな声してたのか」
「そうか、初めてだったな」
「アーリット、だったか?ちゃんと治ったんだな、良かった」
 ぎくしゃくと言葉を繋ぐユンウェイを見つめるアーリットの端正な顔に、、ふっ、と本心とは真逆のあの愛想笑いが自然に溢れ出た。
「まあな」
「これからは、あいつにちゃんと食わせてもらえよ」
 それ、まだ言うか、と苦々しく思う分だけより表情は明るく、朗らかになってゆく。もし唯人が見ていたら、怯えて膝が笑うほどのレベルだ。
「その事についてだが、回円主界全ての両性は、ごく当たり前に何らかの食事制限をしている。食って太れるこの辺りの人間とは根本的に違っている事を、神殿仕えの連中にでもしっかり聞いておいてくれないか?」
 あくまで、軽い調子で話を進める。鋭く研ぎ澄ました爪を、その無防備な喉元に押し当てるのはゆっくりでいい。
「ところで、お前を呼びとめた理由なんだが。今、いいか?」
「お、おう」
「実は、ここを発つ前に、お前にどうしても頼んでおきたい願いがひとつあってな。それを伝える為に追って来た」
「なんだ?俺にできることなら聞くが」
 若干逃げ腰の相手の様子に、何、たいした事じゃないと笑みをくれる。そう、俺にとってはこれは別にたいしたことではない。
「お前、先日俺に飯を食わせたそうだな」
「ああ、その事か。確かにそうだ、お前、そりゃあ嬉しそうに食ってたからな。なんであのアサクラってのがあんなに怒ってたのか、今でもよく分かんねぇんだ」
「そりゃそうだろう、お前自身の命にかかわる事だからな」
「……は?」
「口で言って通じないガキには、殴って言い聞かせるしかないってやっと思い知ったんだろ。それでも律義に格下の位置まで降りてやって、拳で勝負するあたりまだまだあいつは甘い、甘ったるくて……最初の頃はそれが鼻についてしょうがなかったが、今となってはその甘さが堪らなくなっちまった、あいつの粘り勝ちってとこだな」
 と言う訳で、と上げられた腕に、すらりと銀の長杖が現れた。
「頭がぼけてたとはいえ、お前の飯を食っちまった以上、俺はお前を伴侶の候補として受け入れなきゃならん。だが本来の俺は、今後も含めてあの甘ったれ以外は必要ない。なら、俺のやる事、分かるよな?」
「な、何……を?」
「消えてくれ、迅速に、跡形も残さずな」
 事もなげな笑顔を崩さないまま、杖が地をこん、と突く。ふわっ、と空気が揺れ、何かが現れた気配が起きた。
「俺の持っている霊獣の過半数は、人を喰らう事など造作もない連中だ。余計な飯の礼に、せめて獲物にあまり苦痛を与えない奴を選んでやるよ」
 その言葉が終わるより速く、ユンウェイの身体は襲ってきた見えない長蟲状の獣に絡め取られていた。太い胴が地に倒れた身体の手足をしっかり締めあげて、ざわざわと波打つ毛の束が目や耳を塞いでかかる。やめろ、と叫ぼうとした声は、口一杯の毛の感触に封じ込められた。
「お、おい……まさか、ほんき……で……!」
「自分からひと気のない場所に行ってくれて手間が省けたな、同族の奴らは、居づらくなって逃げたくらいに思うだろうさ」
「た、頼む、やめ……!」
「断る、俺にとっても結構深い事情なんでな」
 どうってことのない口調で、表情ひとつ変えずに言い放つ。騎馬の民の眼にはどう見ても痩せて弱々しく映る精霊獣師という人種は、必要とあれば何の躊躇もなく、呼吸程度の容易さで人の命などひねり潰す事が出来る。このまま一気に絞め落とされ、全身の骨を砕かれた挙句頭から丸呑みされて終わるのか。ユンウェイの混乱する頭の中に、ふと、神殿の石壁を霊獣で直していた唯人と、自分に殴りかかってきたときの彼なりの精一杯の拳の威力が呼び起こされた。
 俺、あいつに、どれだけ手加減……されてたってんだ!
「分かったか?圧倒的な力の差を、卑怯だからって理由で封じてくれる道理は本来霊獣使いには無いんだ。お前は運が良かった、逝っちまう前にそれくらいは理解しておけよ」
「お、おい、待て!!」
 最後まで見届ける気もないのか、転がってもがくしかできないユンウェイを捨て置きアーリットは身を返すと去って行った。周囲が静けさを取り戻し、どんどん絞められる一方で身じろぎさえできなくなったユンウェイが観念しかけたその時、神殿の壁伝いに茂っている灌木の茂みが揺れ、中から慌てた様子の二つの影が飛び出してきた。
「いた!あんなところに!」
「まあ、ユンウェイ!」
 足早に駆け寄ってきたのは、唯人とエクナスだった。
「ああもうアーリットったら、なんて事するんだろ!」
「早く、早く助けてあげて下さい、唯人さん!」
「分かってます、綱手!」
 唯人の肩からするりと伸びた綱手が、霊獣に近づき大口開けてその首筋へかぶりつく。あからさまに本気の攻撃ではなかったが、とり付いていた霊獣はびっくりした様子であっという間にほどけると一目散に藪の中へと逃げ去っていった。真っ青な顔でぜいぜいと息を荒げているユンウェイの背に、心配そうな面持ちでエクナスが身を寄せる。ごめん、と唯人もとりあえず頭を下げた。
「僕が言っても信じられないと思うけど、本当に、アーリットってこういう事を冗談でやる性格なんだ。彼にしたらちょっとした意地悪って言うのかな……僕も最初はよくやられたから、今ではもう割り切ってるんだけど。霊獣が見えない相手にやっちゃいけないよな、こんな事して僕の仕返しをしてやったつもりなんだろうか、全く!」
 多分、二人が自分を探してこちらに来ようとしていた事も分かっていたのだろう。ユンウェイが絞めつけられて覚悟していたアーリットの霊獣は、唯人も見た事がある、彼が野宿時にたまに毛布代わりにしている大層大人しい獣だった。人懐こく絡んでくる習性はあるが、とどめを刺すほどの力は無いしそもそもが草食だったりする。玉子色のもさもさした毛並みと眼のぱっちりした愛嬌のある顔付きが見えてさえいれば、それに巻きつかれている状態がとても微笑ましいものだと分かっただろう。
 傍らのエクナスも若干笑いを押し殺している表情なのに気付き、ユンウェイが気分を持ち直した後、怒りの矛先をまたぞろ自分に向け噛みついてこられたら堪らないな、と唯人は後はエクナスに任せ、さっさとこの場を去ることに決めた。
「じゃあ、僕はもうこれで本当に発ちますから。お世話になりました、エクナス様、タカンの人達のこと、よろしくお願いします」
「はい、唯人さんもお気をつけて。お二方に世界主様の加護がありますよう」
 ひょいと軽く頭を下げた、夜毛の後ろ姿が先程消えた人物の後に続き去ろうとする。その背に投げつけられた捨て台詞に、一瞬彼はこちらを振り返った。
「てめえ、忘れるんじゃないぞ。俺との正式な勝負は……まだついてないんだからな!」
「うん、分かってる。いつかちゃんと決着付けよう、アーリットのいない時に」
 一言を返し、軽く口の端を上げた顔がふいと向き直り茂みの向こうに消える。エクナスの華奢な手に背を支えられたままの、ユンウェイの口から低い自嘲の笑いが洩れた。
「全く、最期まで、俺をガキみたくあしらって行っちまうのかよ……」
「唯人さんは、きっと本気でそう思っているんですよ」
 傍らで微笑むエクナスに、ユンウェイは今初めて気付いた、と言わんばかりの表情で目を向けた。慌てて身を離そうとして、足をもつらせ不格好にじたばたする。立てますか?となおも近づこうとするほっそりとした少女の姿が、まるで触れたら霧散してしまうと感じているかのごとき素振りで、ユンウェイは跳ね跳ぶように立ち上がった。
「い、いいから!俺に寄らないでくれ!もう帰るから、じゃあな!」
「そんな、今会ったばかりではないですか。私、ようやくあなたと話せる時が来た、ととても嬉しく思っていましたのに」
「俺は、あんたと話すなんてこと……」
 随分と久しぶりに近くで見た姿は、やはり少しも褪せることなく輝きを放つがごとく美しい。眩しくて、正視できない程に。互いにあの日より背が伸び、顔つきも変わったがむしろより素晴らしくなる彼女と、いじけて歪んでゆく自分とでは真反対に離れ続けているように思える。
 そう、地平線に覗いていた月を、触れられるものだと勘違いしていた。天に昇ってやっと気がつき、唖然としている地蟲だったんだ、俺は。
 ふらふらと足を運び、神殿の外周に築かれてある石垣に寄りかかり息をつく。ああそう、と嬉しそうにエクナスがその隣に駆け寄った。
「あなたは、草原に季節の花が咲く度にこの石垣の上に届けて下さいましたでしょう?南の商人が訪れるたび、異国の輝石の玉や鳥の羽根なども添えて頂いて……私、全部大事に持っています」
「それはエピにやったんだ、あんたにじゃねぇ」
「あら、それは残念なこと。では、私はどうすればいいんでしょう?お返しするのも何だか違う気がしますし」
 濃紫の瞳が伏せられると、額飾りの銀細工が揺れ涼やかな音を響かせる。い、いや、そういうつもりじゃなくて、と言うが、後が続かず沈黙が二人の間に続いた。
「分かんねぇ、あんた偉いんだから自分で考えられるだろ」
「偉い、ですか……」
 ふいに、華奢な腕を伸ばし胸の高さほどの石垣にとり付くと、エクナスは脚をばたつかせながらその上によじ登ろうとし始めた。おい!と仰天して見守るユンウェイを尻目に、御世辞にも身軽とは言いづらい動きでそう幅のない上に立ちあがる。纏っている薄絹の衣装が、吹く風に大きくはためき白い脚を見え隠れさせた。
「こ、こら、何考えてんだよ、降りろっての!」
「あら、小さい頃は二人してこの上を走りまわっていたじゃありませんか?」
「小さい頃、って……」
「敷地の中の事なら、私、全部見知っていましたし覚えていますから。小さなエピレィテ・カリーア・ナシェルは大人の前ではとてもいい子でしたけれど、本当はとても気が強く自信家で、あなたを日々草原から呼び付け、振り回して好き放題に振る舞っていましたよね」
「そ、そりゃあ、王家の末裔のお姫様なんだから。そういうのが普通なんだろ」
 そうでしょうか、少なくともアルから聞いたユークレンやアシウント王家の直系の方々とは大分違うようでしたけど、とエクナスは喉声で呟いた。
「あの日も、今日と変わらない良い晴れの日でした」
「あの日……?」
「こんな風にここに立って、上からあなたに」
 銀の髪が、穏やかな陽を浴び優しく揺れている。そう、あの日そのままの光景だ。
「〝どんなに偉くても、ここから一歩も動けない神殿精様だもの。私にはこのちゃんとした一対の足があるのよ、正式に神殿長の修行を始める前に、一度でいいから山を越えて海を見たいの、ユン、連れて行きなさい〟そうせがまれたんですよね?」
「……ああ」
「海を、見る事はできたのですか?」
「何で、そんな事……聞くんだよ」
 その問いかけには答えずに、エクナスは笑顔で返事を待った。
「……行ったさ、事故が起きたのは、帰り道で、だ」
「そうでしたか」
「長居し過ぎて遅くなって、暗くなり始めたから近道しようってエピが言い出した、それを俺は止められなかった。森に入ったら、狼がいるかもしれないって分かってたのに。分かってて、狼の気配に怯えて暴れた馬からエピは落ちた。俺の腕から、石に撃たれた小鳥みたいに落ちていったんだ、俺の眼に全部焼きつけて」
 なんでそれを今聞くんだ、と低くもう一度呟き見上げようとしたユンウェイに向かって、ふわり、と一輪の花のごときたおやかな身体が揺らめいた。そのまま、何の恐れも躊躇もなしにこちらに倒れ込んでくる。おわぁ、と仰天して差し出された腕の中に、しっかりとその華奢な身体は受け止められた。
「な、な、何しやがんだてめぇ、なに考えてんだよ!エピをまた壊す気か?一体俺になんの恨みが……!」
「そんなに心配ですか」
「お前じゃなくて、エピがな!」
「なら、ちゃんとついていてくださいな。今までみたいに、石垣の向こうからではなくてちゃんと神殿の中、私のそばで」
 無邪気に囁かれた一言に、ぎょっとなってユンウェイは腕の中の悪戯っぽく笑うもと幼馴染の顔を見下ろした。こいつは、一体何を言ってるんだ?
「貴方の声を聞くと、エピレィテが安心できるのです」
「お前、何を言って……?」
「彼女は、私の中でずっと夢を見続けているのです、あの日の姿そのままで。記憶の中の草原を駆け、羊を追い、海で波と戯れる…時々本や空想の世界にも入りますが、あの海は本物だったんですね。その後ろからは、いつもちょっと困った顔の男の子が付いてきて……だから彼女は安心して、いつまでも自由に遊び続けていられるのでしょう」 
「エピは、消えてしまったんじゃ……そうじゃないなら、辛い思いや、悲しんでは、いないのか……?」
「そうですね、あえて言うなら。いつまでも、幼馴染が困った顔をしているのが気がかりでしょうね。たとえ夢の中にいても、その子の笑い声が聞こえたら、笑ってるんだと分かれば彼女も嬉しいと思うのですが」
 ユンウェイが何か言葉を返そうとした、その時、神殿の正門の方でひときわ大きな歓声が上がった。どうやら、客人はつつがなく旅立ったようだ。力強い羽音が響き渡り、風が森の木々を揺らす。狼達が興奮して吠えたてる声がそこらじゅうにこだまして、今にもこちらまでやってきそうに感じられた。
「私達も、戻りましょうか」
「あ、ああ」
 腕の中の身体を下ろし、すたすたと歩き出した背をぼんやりと見ているユンウェイを、足を止めたエクナスが振り返った。
「どうしました?」
「俺は後から行く、いいからさっさと行けって」
 ぷいと顔を背けたユンウェイに、紫の眼がちょっとだけ細められる。こほん、と小さな咳ばらいが漏らされた
「〝ユン、あなた、私の言う事が聞けないっていうのかしら?〟」
 その一言が耳に入った瞬間、ぎく、と、ユンウェイのうなじの縞毛が逆立った。い、いかん、なぜこんなに動揺が……出会って間もない頃、年下の生意気な女の子に見える相手に普通に逆らって、里リスの霊獣をけしかけられて髪をむしられハゲを作られたり服を穴だらけにされ泣かされた記憶がまざまざとよみがえる。毛穴という毛穴から、一気にどっと汗が噴き出してきた。
「俺は……この先ずっと、こうなのか?」
 目が定まらなくなってしまったユンウェイに、エクナスは含み笑いで背を向けた。
 いつまでたっても不器用な子。
 でも私には、それが愛おしい。
「貴方が逃げずに、ちゃんと私の中のエピレィテに向き合っていればいつか彼女は目を覚ますかも知れません。その時、逃げなかったと胸を張って言えるよう、後悔しない自分になっておきなさい」
「うるせぇんだよ、余計なお世話だってんだ!」
「その乱暴な物言い、改めないと、さっき糸繰りみたいに霊獣に巻かれていた姿を神殿の皆や族長さんに言いふらしますよ」
「てっ、てめえ……!」
「〝すいません、口を慎みます〟」
「慎み……ます、慎みますから!」
「よろしい、今後は色々と役立つユークレンの勉学も基礎から教えて差し上げますから、神殿で一緒にお勉強しましょうね」
「え、ええっ?」
「知識とは、いくらあっても邪魔にはなりません。草原で羊を追う暮らしでも、数学や交渉術は身につけている方が良いでしょう」
「勘弁してくれ……」
 小さなエピ、感じていますか?あなたの後ろの少年は、ずっとあなたを追いかけているのですよ……。
 ぎくしゃくと動きだしたお供を満足げに従えて、銀糸の髪を揺らし、神殿精の少女は皆の元へと戻って行った。

山砦国へ


「アーリット!」
「なんだ」
「タリエティまでは、どれくらいかかるんだい?」
「ここからだと、二、三日ってとこだな。ずっと晴れてくれればいいんだが」
 ニアン・ベルツの前脚に乗っての空の旅、吹きすぎる風の音に負けないよう声を張り上げて会話しつつ、唯人は移り変わる眼下の景色に見とれていた。エクナスから飛び立ってしばらくの間は、緑の草原が延々続くのみであったが、一日を過ぎるとひとつ大きな山を越え湿地帯になり、それも越えると今度は一面の銀世界が広がってきた。雪ではない、これがミラの言っていたテシキュルの名勝、銀穂の草原だ。
 まるで地から天に逆行する雪花のごとく穂綿が舞っている光景は、ここだけのものと言う訳ではなく季節によって場所を変える。半月後には、エクナスの地がこうなるらしい。
 目を輝かせ、眼下の景色に夢中になっている唯人の様子を見て、ま、いいかと言いたげな表情を覗かせるとアーリットはニアン・ベルツに合図した。すぐに真っすぐ進んでいた翼がぐん、と角度を変え、大きく円を描きながら高度を下げてゆく。銀の絨毯の中に数本立っている灌木の枝に降りると、翼の風で白い穂綿が一気に舞いあがった。
「ここで休憩かい?アーリット」
「ああ」
 枝にとまったニアン・ベルツの脚から飛び降りて、ここだけ草のない土の上に立つと、およそ見える範囲全てが丈の低い枯れ草で覆い尽くされている。どこもからからに乾いていて、火がつきでもしたら一気に燃え広がってしまいそうだった。
「うわー、綿毛すごいよ。上から見てると綺麗だけど降りると大変だ、鼻にまで入ってくる!」
「そりゃそうだ、草どもはなんとか種をお前にくっつけて、遠くへ運んでもらわなきゃならんからな。上から見ても、およそ見える範囲にテシキュル人の一匹も見あたらなかっただろう。こんな乾ききった、羊の餌にもならない状態の草原には誰も寄りつきゃしない、お前はこの景色が面白いのか?」
「面白いっていうか、綺麗だと思う」 
「へぇ」
 あくまでつまらなさそうに呟かれた一言で、唯人はアーリットが自分の為だけにわざわざここに降りてくれたのだと理解した。
『どう?いい眺めだろ、唯人』
「うん、ミラの言ったとおりだよ。草原が季節でこんなに表情を変えるなんて、すごいな」
『唯人のそういう若い反応っていいよねぇ、おチビなんて何百年も生きてるから大抵のものは見慣れちゃって、感動なんてないんだよ。見た?あのしらけた顔』
「でも、僕が喜んでるのにはちゃんと気付いてくれる、そういうとこ優しいんだ」
『多分それって、ちっちゃい子がその辺の虫拾ってはしゃいでるの見て、微笑ましく思う大人の気分だと思うんだけどな』
「それ、言わなくていいから」
 とりあえず、時間的にもちょうど良かったので、アーリットに断って唯人はここで昼の食事をとる事にした。ノイタンとの約束どおり、貰った干し肉を切り分けて焙ろうと注意深く火をおこしているうちに、アーリットがふいとどこかに消えてしまう。慌てて後をミラに任せ、標と一緒に探しに行くと、彼は少し離れた場所で枯れ草に埋まり横になっていた。
「アーリット、どうしたんだい?」
「別に、さっさと食って終わったら呼べ、俺はいいから」
「そう言わずに一緒に食べよう、そんなに痩せてたら、いざってときに力が出ないだろ。馬族の人みたいに太れとは言わないけど、せめてもう少しは身体に肉を付けてた方がいいって思うよ」
 テルアでさんざんサレに言われたこの言葉を、まさか自分がアーリットに言う日がこようとは思わなかった。干し肉、脂の多いとこ僕が食べるから、と食い下がる唯人をうっとおしそうに上眼の視線で見つめると、アーリットは意地の悪い笑みを返してきた。
「うまいこと言いやがって、お前の目当ては俺の胸か?」
「は?」
 一瞬思考が停止し、綱手みたくぽっかりと口が開いた。
「俺と別れたら、臆面もなくラバイアなんぞに向かいやがって、絵の話なんかしてやるんじゃなかった。で、どうだったんだよ、ラバイア稀代の傾国の毒婦様の御姿は」
「え?え、えーと、胸が……じゃなくて、首都の人、あの絵の事はちゃんと救世の竜婦って呼んで崇拝の対象になってたよ?」
「そうか、二百年もたつと色々と解釈が加わって変わっちまったんだな。もっとまめに訊ねて悪評ばらまいておきゃ良かった」
 砂漠の連中は品が無い、あんなけばけばしい情婦のどこが有難いんだ、と呟くアーリットに、そういうのって民族性の差だね、と唯人は微笑んだ。
「ラバイアの人達にとっては、上品で神々しい竜人様より、派手で色っぽいほうが人間臭くて親しみが持てたんだよ。その辺があの絵はよくできてた、顔があまり分からなかったから、みんなが好きに想像できたんだと思う」
「まあな、あれは当時俺が一切自分の絵姿を残させなかったから、宮廷画家が遠目に顔を見せた俺を印象だけで描き起こしたものだ。ただの偶像、本物に似てるかどうかなんてどうでもいい代物だってのに。よくまあ砂の竜にまで喧嘩売って、お前って奴は」
 思い切り小馬鹿にした表情は、だが、唯人の次の言葉で固まった。
「あ。じゃあ、やっぱり、釣り書きの絵のほうが本物に近かったんだ、僕もそう思った」
「……何の話だ?」
「どうしたんだい?そんな顔して。スィリニットの王城の工房にあった、板描きの美人画のことだよ。アッセンのアレイト、って記名してあったけど一目で君だって分かったんだ」
「王城の、絵師の工房だな?」
「え?な、何?」
 むくりと起き上がったアーリットの表情に、しまった、と唯人は幾度目かの己のうかつっぷりに唇を噛んだ。
「あの地方役人の野郎、小金くれてやって全部始末するって約束させたってのに。やっぱり隠してやがったのか、俺が直接やらないと結局二度手間になるってのに、どうして任せようって思っちまったか……畜生、二百年前じゃ殴る事も出来やしない」
「えーと、アーリット?」
「ああ、お前には関係ない、気にするな、なんでもない」
「だって、その顔って……まさか、あの絵、処分する気なのか?」
「はあ?」
「やめてくれ、それだけは!頼むから、あの絵だけは!」
「なに熱くなってんだ、そもそもお前のもの、ってんでもないくせに」
「そ、それはそうだけど!」
 必死の形相ですがりついたところで、ひとすじのそよ風が肉の焼ける香ばしい匂いを二人の元へ運んできた。真剣に説得しているところだったのに、駄々っ子のごとく唯人の腹が恥ずかしくも健康的な主張を響かせてしまう。半笑いの表情を隠しきれない様子のアーリットを引っぱって、唯人はミラの待つ焚火の元へと戻ってきた。
「お帰り、お二人さん、ちょうど肉がいい感じになってるよ。今からソバ団子も焼くからね、熱いうちに食べて」
「ありがとう、ミラ、美味しそうだな」
「俺はいいと言ったからな」
「おチビ、大丈夫だって。ちょっとくらい食べときなよ、これは僕の手料理だから」
「それ、どういう意味だよ?僕が作っちゃ不味いみたいじゃないか」
 言っとくけど、ラバイアに入ってからテシキュルに移動する間、結構自炊は経験したんだから。それくらいできるさ、と息まいた唯人にそうじゃないよ、とミラは苦笑して見せた。
「両性が女性化を進めるひとつの要因に、大好きな人にうんと食べさせてもらうってのがあるんだ。君が手に入れた、最高に栄養たっぷりの肉って食材を君自身が料理してお腹一杯食べさせてくれる。おチビがこの世界のごく普通の両性なら、この上もなく望むべき状況なんだろうけどね、今のおチビはそれがちょっと困るんだ」
「まあ、最高に気にくわないお前の作った飯だってんなら、まだマシだろうってことだ」
 じわっと顔に赤みが差してしまった唯人はほっといて、アーリットは火の前に腰を下ろすと、小枝の先でいい匂いをさせている肉の中から本当に脂身の少ないのを選んで口にした。ソバ団子も合わせて食べた量は唯人の半分以下、幼児並みだったが普段のむっつりした表情を緩ませて、脂の付いた指を舐めている顔は随分と子供っぽく、可愛らしく見えた。
「肉なんて、本当に久しぶりに食ったな」
「あれ?ユンウェイにご馳走された料理の中に、肉入ってなかったっけ?」
「そんなのは俺の知ったことじゃない」
「じゃ、覚えておいて、まだ三日前だよ」
「うるさいな、知らんって言ってるだろ!」
 分かったよ、むきにならないでくれ、と焙り肉の残りを綱手の口に押しこんでやる。なんだか落ちつかない様子なので振り返ってみると、干し肉の残りをニアン・ベルツが包みから引っぱりだしたと思ったら、ひょいとひと口で丸呑みにしてしまった。分かった、街に着いたらまた何かおいしいの買ってやるから、と悲しげに襟元に押しつけてきた頭を撫でてやる。
「じゃ、それは無しとして、その前はいつ食べたんだい?」
「忘れたが、多分ユークレン十五世成婚式典の宴だ。招待されたアシウント王家側の親族のチビがあーん、って出してきたから、仕方なく食った。後でティアス(十五世の愛称)が心配して様子見に来たが、あれくらいはどうってことない」
「それ、何年前の話?」
「二十年くらい前だな」
「僕が生まれた頃じゃないか……」
「そうか、お前はあの時まだ小脇に挟めるくらいな赤ん坊だったのか。湿季の雑草みたくすぐにでかくなるもんだな」
 鼻で笑われ、それが普通なんだよ、と心の中でツッコミを入れておく。遥か遠くに霞んでいるアシウント国のレイオート大山脈を眺めながら、唯人はミラが淹れてくれた食後のお茶に容赦なく入ってくる穂綿をつまみ出す作業に精を出した。
「……アーリット」
「ん?」
「タリエティに入る前に、一応聞かせて置いてもらえるかい?君がテルアを出る前に、何がどうなったかってこと」
「ああ、そうだな。お前にも全くの無関係じゃないし、話しておこう」
「頼むよ」
 湯気の立つ茶を口にしつつ、アーリットは廃地に現れるまでのいきさつを簡単に唯人に話してくれた。
「群島国から添王子やサレと一緒にテルアの王城に戻ると、見つからないお前に業を煮やしたのか、アシウントのセルバンダってやり手の将軍が送り込まれてきていてな。こいつ、北のトリミスに疎開してた主王子を隣のアシウント領に引っぱっていっちまいやがった。王族分散法に協力するという名目だが、本心はテルアにいた時のお前の情報を洗いざらい欲しいって事だろ。勿論俺達は、群島にいた時の事は口裏合わせて知らんふりしたが、添王子がひどく責任感じたみたいでな。元々の予定ではあいつがトリミスに行って、主王子はこれから向かうタリエティ領に滞在する予定だったから。あいつも結構酷い目にあわされたばかりだから、ゆっくり休むべきだとは言ったんだが。どうしてもじっとしていられない、アシウント王族だったレベン・フェッテ添王の実子である自分がアシウントに行くのが道理だろうって、あいつ、アシウント王家に親書を送ったんだ。で、その返事待ちの時に、俺の頭に糸の切れた凧野郎がギュンカイ山廃地に流れて行って、腐れ暴れん坊とぶつかるだろうって予感が届いてきたってわけだ」
「そんな大変な時だったんだ……ごめん」
「お前に謝られる理由はない、今現在の俺、テルア軍属一級精霊獣師アーリット・クランの最重要任務は破壊主の拿捕、あるいは討伐だからな。回円主界のどこにいようが、存在を感じ取れば即座に直行して叩かねばならん。まあ、場所が廃地だっただけに、これまでの俺ならできるかぎり離れた場で闘う策を練っただろうがな。お前を見捨てるのも勿体ない気がしたし、思いきって入ってみたせいで俺にも色々と得られたものがあった」
「それ、何?」
「大したことじゃない、予測はついてた事だ、お前は知ってるんだろう」
「……それは分からないよ」
「聞いても、答えないぞ」
「うん」
 器の茶を干し立ち上がったアーリットに、木の上のニアン・ベルツがおもむろに大きな翼を開くと軽く羽ばたいた。白い穂綿が一気に舞い、渦を巻きつつ青い空に吸い込まれてゆく。
「一応俺の方からも聞いておくが、唯人、お前はエクナスの後、どこかに向かう予定だったのか?まだここらをうろつく気だったなら、とりあえずタリエティまではついて来い。テシキュルは、元々アシウントを含む北の小国群の南部地方だったせいで、アシウントの連中が好きに行き来してる国なんでな。ユークレン領にいてくれるほうが、まだ俺の権限が利くからマシだ」
「僕には、自分で決めた目的地なんてないよ。行く先々で何かがあって、どんどん流されてここまで来たんだ。後はどうせなら、アシウントって国も見てみたいって思うけど、やめたほうがいいのかな」
「やめておけよ、この無鉄砲。まあ今のお前なら、アシウントの雑魚兵くらいは蹴散らして逃げ出す事も容易いだろうがな。お前に国民の権限を許したユークレン王の立場を、これ以上悪くするのは望まないだろう」
「勿論だよ」
 それから再度空の移動を続け、眼下の騎馬民族の小集落を幾つも越えて飛び続けるとアーリットの言ったとおり、陽の落ちるぎりぎりにユークレンの東の国境の街、タリエティ領ライレムに着いた。というより実際は、少し手前の人気のない街道のはずれに降り立ったのだが。
「俺がテルアを出る前には、もうアシウントの探索兵が街中にうようよしてやがったからな。よりアシウントに近いここに、素のお前がぶらぶら入って行ったらあっという間に見つかって追いまわされるはめになる、最低限の変装をここでやって、夜になってから中心街に入ろう」 
 俺も、お前を隠してるんじゃないかって薄々奴らに疑われてるんだ。しっかりと情報を仕入れるまでは素姓を伏せさせて貰うとする、と唯人に告げ、白い精霊獣師正装衣の上から唯人の外套を羽織る。ここで待っていろ、絶対動くんじゃないと言い聞かせ、目付役に自分の精霊獣までつけるとアーリットは街はずれのほうへと消えて行った。
「あーあ、君も僕も完全に信用無くなっちゃったみたいだな」
 いつもの小さな獣の姿で唯人の肩に乗っているミラが、去っていくアーリットの後ろ姿を見送りつつ溜息をつく。監視役として彼に手のひら大の蟲みたいなのを頭の上に乗っけられたので、いない隙に手に取って見ようとしたらやめといたほうがいいよ、と止められた。
「君に乗っかってるの、千足弁蟲っていう多分君の趣味に全然合わない蟲くんだよ。触ろうとしたり下手に動くと刺されて身体が痺れて動かなくなる、せいぜい向こうの草原から気まぐれな狼が出てきて君に目を付けないよう祈ってよう。逃げようとしたら、その瞬間刺されて動けなくなって後は彼等の夕御飯の御馳走だ。その蟲、そんなに頭のいい奴じゃないから臨機応変ってないからね」
「いや、そうなったら綱手もいるし、ミラだって助けてくれるだろ!」
「僕としては、こんな子供だましのやり方で大事な主を拘束しようとする輩には、最悪の結果をもって己の浅はかさを思い知らせてあげたいんだけどさ」
「……ミラ、言ってる事がもの凄く無茶苦茶だって気がしないかい?」
「まあ、冗談はともかく、たとえ君が麻痺しちゃったとしても、僕がどこへでも連れていけるって気付いてないおチビじゃないと思うけど。ひょっとして僕、泳がされてるのかな?」
「え?」
「僕が何か企んでたとして、君を連れて行方をくらますとしたら今がその好機だろう。おチビは、わざと隙を見せて僕が動くのを伺ってるのかもね」
「そんなこと……」
「ちなみにその頭の可愛い蟲くんは、僕と君の会話をちゃんと聞き耳たてて覚え込んでるよ。ならここはひとつとびきりののろけ話でもして、おチビをうんと照れさせてやるとしようかな。唯人、君、荒れ地を旅してた時、あの子に一日何回唇をせがまれて……」
「わーーっ!それは言うな、言わなくていい!」
 思わず勢いつけて唯人が身を乗り出した途端、ぽそっ、と頭上から何かが滑り落ちた。下げた視線の先に、あえて言うなら〝河童のヅラ〟と形容したくなるような、平べったい暗緑の皿の縁を黒い針金状の脚がぐるっと取り巻いているとてもとても気味の悪い蟲がいる。もう変生物には相当慣れたという自負はあったのに、うえぇ、とか叫んで思わず怯んだ唯人と入れ違いに、ミラがひょいと肩から降りると緑部分の上に飛び乗った。
「よぉし!上手いよ唯人、毒牙はこの体部の下っかわに付いてるんだ、こうしちゃえばただの敷物さ」
 慌てた様子でこちらに再度這い寄ろうとした蟲を、ミラは上からぎゅっと押さえつけ、動けないようにして嬉々として脚を一本ずつもぎ取る作業に取りかかった。
「全部無くなっちゃうまでに、おチビは間にあうかなぁ?えい」
「ち、ちょっと。ミラ、何してるんだ、やめろって!」 
 蟲の脚は数え切れないほどあったので、当分もつようには見えたがそれでも次々とむしられて、残ったのを必死にじたばたさせている姿を見るといたたまれない気分になる。その後唯人がどんなに言葉を尽くし説得しようとも、ミラは断固として聞き入れてはくれなかった。
 結局、わりと早くアーリットが戻ってきたその時には、蟲の脚はもう円周の四分の一を残す程度の有様になってしまっていた。しかもきっちり端から順に抜いていったので、解放されじたばたと主の元に逃げ帰るその様は、言ってはなんだが前髪部分だけ残ったヅラを彷彿とさせた。
「こりゃなんだ、よくもやってくれやがったなこのど腐れ鏡!」
「いや、そう言われても。僕にだって大事な主を護る義務ってのがあるし、君にむしられた僕の羽毛のぶんのお返しだと思ってくれないかい?」
「そんな事、俺は知らん!」
「怒鳴ったって、その件に関しては僕には唯人と銀枝杖っていうちゃんとした証人がいるよ」
『何言うんですか、私は、あの件についてはアルに非があるとは微塵も思ってません!』
「唯人、いい加減こいつを何とかしろ!」
 はい無理です、と喧騒を背中で受け流し、さっさとアーリットが仕入れてきた変装用衣装一式の包みを開いてみる。
「アーリット、どれが僕の?」
「ちょっと待て、俺がやってやるから勝手するな!」
 その後も延々ミラと口喧嘩を続けつつ、アーリットは唯人の精霊獣師正装衣を脱がせ、ユークレンのありふれた旅装束の上からテシキュルの毛織物を重ね着した暖かそうな服装に変えさせた。頭には赤っぽい毛皮の帽子をすっぽりと被ったので、ぱっと見には夜毛だと分からない。履物をしっかりした獣皮製の長靴に履き替える最中、唯人はある事に気が付いた。
「なんで、下履きの裾の長さが左右で違うんだい?」
「ああ、アシウントの手配書には〝肩に空青石持ちの群島人〟とだけ記されてるからな。脚の凍練獣の精霊痕を覗かせておけばいい目くらましになる、もしお前がアシウントのお貴族様だったら片足全部晒して見せつけるくらいやるだろうが、お前には無理だろ」
「うん、この歳でそれはちょっと恥ずかしい」
「だろうな、その点ではユークレン人も群島生まれの連中も、お前に同意してくれるだろうさ」
 この辺りをうろつく西系人は、ユークレン軍の霊獣使いか同じく王都の学術院の放浪学者くらいしかいない、お前は今から放浪学者だ、と言われ自分も衣装替えを始めたアーリットを目にした瞬間、唯人は言葉が出なくなった。
「……え?」
「なんだ」
「えええ?」
「なんで女装してるんだ、とか言うつもりか?」
「いいい、いや、けして、そんな……」
 アーリットが、その細腰に今まで着ていた赤染めの布を巻きスカート風に纏っている。ただそれだけの事なのに、あっけなく鼓動が早まってしまった。いつも梳いてはいるが流しただけの髪を綺麗に頭に添わせてピンで留め、垂らした三つ編みもくるくる丸めて襟足で固定する。テシキュルでは主に既婚女性が身につけるたっぷりとした毛織のショールを頭から肩に巻きつけると、あっという間にちょっと長身で見目のいい、東国系の御婦人が出来上がった。
「ちなみに俺は、お前っていう学者の助手という名目だが、まあ大抵はその伴侶だ。放浪学者って人種はたとえ世界でただ一人の生き残りになろうと困らないくらい万能か、己の研究の対象以外は全く何もできん無能者に二極化してるからな。お前は言うまでもなく後者だ、堂々と胸張ってぼさっとしてろ」
「は、伴侶って……群島国に行ってた時みたいな?」
「そうだな」
「今度はぎ、逆なんだ、あ、あはは……」
「何がだ、俺もお前も立場は両性、何も変わる事なんかないだろう」
「そ、そ、そうだよね、ごめん、アーリット、ぼ、僕、物覚えが悪くって……」
 しどろもどろが治まらない唯人を眺めつつ、薬指で落ちついた色の紅を唇にひくとアーリットは艶然と微笑んでみせた。
「忘れないで、街に入った後はアルって呼びなさいな、あなた」
「え?僕が〝あなた〟!?」
「当たり前だろこのミミズ頭、それともうんとこっぱずかしい愛称付けてやろうか?」
「い、いや!いい!」
「無難なのなら〝ターダ〟とか、〝ティディ〟はアシウントっぽい。〝クラン・ハーティミ〟(私の蜜蜂ちゃん)てのも流行った事あったな、何十年か前に」
「すいません僕が悪うございましたもう言いませんお願いですからどうかそのへんで勘弁してください……」
「いーやいや、あなた、ご遠慮なさらずに」
 わりとこの辺で茶々を入れてくるミラが、このあまりに完成度の高いいけずに聞き惚れたのか何も言ってこようとしない。
 いつまで続くんだろうな、このレベル無視の精神攻撃……。



 砂漠や荒地とはうってかわった、心地よい湿度を含んだ夕暮れのそよ風が吹きすぎる中、穏やかな夕陽の光に照らされ唯人とアーリットはユークレン国東部、タリエティ領ライレムの街の中心部へと入った。一応国境の街なので、中心部の外周にはそれなりの石の防壁が設けられているが、随分と年季が入って古びている感は否めない。過去、度々略奪の為この地に攻め込んできた馬族対策に築かれた防壁だが、アシウントとユークレンが同盟を結ぶとアシウントは街に圧倒的兵力を差し向けて、あっという間に荒くれ者達を捕えた後、強制的に定住の酪農従事者へと鞍替えさせてしまった。
「……と言う訳でライレムの石壁は、今はもっぱら草原の獣対策だ。昔はとっ捕まえた馬族の首に縄をかけ、壁の上から蹴り落として吊るしてたから〝昇天壁〟なんて洒落た名がついてたがな。建物も人と同様、年が経てば丸くなるってか」
 その若干くたびれた感の防壁に開けられた門には、一応門兵がいて行き来する人達を眺めていたが、アーリットが向けた秋波に気を取られたのか、唯人はいたってどうということなくすんなり街に入る事ができた。目の前に広がる、懐かしい石造りの建物が延々と並ぶ景色。行きかう人々の肌は白く、交わされている中央の言葉も耳に心地よい。
 これからどうする?と自分を振り返る唯人に、情報集めの時間はこれからだ、とアーリットは迷いのない足取りで街の中心、繁華街に向かうと賑わっている一軒の店に入って行った。
「ここは……酒場?」
「そうだ、飯食う間に周りの奴らの雑談聞きわけて、噂話好きなのを探し出す。こっちが物知らずのふりしてうまくおだてりゃ、洗いざらい聞かせてくれるからな」
 そういう仕事は俺がやるから、お前は久々の中央国の飯でも堪能してろ、と言われるが、出された懐かしい麦のパンや暖かな湯気を立てる具たっぷりの汁を食べていても、周囲の話が気になって落ちつかない。アーリットは、膝を閉めた女性らしい仕草で腰かけ唯人の器から根菜や芋の欠片をのんびりつついたりしていたが、やがてある方向へ視線を向ける間が長くなってきた。
「……てぇワケでよ、遠からずアシウントとユークレンは戦をおっ始めちまうぜ、間違いねぇ!」
「まさか、そんな事ありえないだろう。湖山協定でこの回円主界で一番古くに同盟を結んだ二国だぞ?互いの王族同士も度々結婚されてるいるというのに」
「それに、うちの首都には値千軍の一級精霊獣師様がおられるじゃないか。あの御方がいる限り、あいつらが攻めて来たってあっさり追い返されるって」
「その一級精霊獣師殿がまたぞろとんずらこいて行方不明なもんだから、あの馬鹿でっけえ兵士どもが調子づいてんじゃねぇか。全く、お前らはいつだって能天気で危機感が足りねえってんだよ!」
 ごわごわした口髭を指でねじりながら、少し離れた卓に数人で陣取っていた男の一人は意味ありげな眼でふとこちらを盗み見た。どうやら、アーリットがさっきからちらちらと自分に視線をくれていたのに気付いたようだ。卓の陰で唯人の膝をぽんと叩き、知らん顔してろと指示するとアーリットはすいと立ち上がって男の卓へと近づいて行った。
「……その話、もっと聞きたいわ」
「よぉ、別嬪さん、俺に用なのか?」
「まあね」
 ふふん、と含み笑いでショールを下ろし、男の隣の席に腰かける。薄暗い店内に、金のおくれ毛を纏いつかせたほの白いうなじが浮かび上がって見えた。
「私達、テシキュルのハ―ロン高地の辺りから今日やっとここにたどりついたの。故郷のテルア南部に戻る前に、情勢の事で聞ける話は全部聞いておきたいわ。教えてもらえるかしら?物知りな紳士さん」
 その低さがかえって仇っぽく聞こえるアーリットの囁き声に、ぎりぎりの横目で伺っている唯人でさえも、男の鼻の下がだらしなく伸びたのが見てとれた。
「そ、そんな事言われてもよ、そこにいるあんたの旦那は嫁さんが他の男の席に着くのを許してくれるってのか?」
「ああ、あの研究馬鹿」
 明らかに周囲にも聞こえるように、アーリットは小馬鹿にした口調で言い放った。
「自分の仕事のこと以外は、たとえ竜が目の前横切ろうが気にしないわ。ほっといて大丈夫、私がいなくても気にせずに考え事にふけってるから。見た目はああなんだけど、干からびた年寄りみたいな人なのよ」
 だから貴方とちょっと楽しみたいってこと、どう?と緑の瞳に匂わせられたら、もう男に迷う理由は無かった。
「よ、よし、じゃあ店を替えるとしよう。俺の馴染みのいい店があるんだ、そっちで二人きり、たっぷり話を聞かせてやるぜ!」
 有頂天の男と彼に寄りそうアーリットが店を去り、店内が何事もなかったように落ちつきを取り戻すと、唯人はなぜか男のいた卓の方から複数の視線が自分の背に向けられているのを感じ取った。ガタンと椅子を立つ音がして、足音が近づいてくる。緊張しつつ表面は知らぬふりで食事を続けていると、背後から声が降ってきた。
「おい、兄ちゃん」
「……はい?」
「ここ、いいか?」
「どうぞ」
 人影は二人、アーリットを連れて行った男と先に話していた男達だ。ユークレン語を使っているが、片方は着ている物や顔付きの印象が明らかにテシキュル人に見える。乾燥した香草を細い煙管に詰めて吸う草原式の煙草の煙を漂わせながら、男二人はなんとも言えない憐れみのこもった眼で唯人を眺めてきた。
「飯、うまいか」
「はい」
「お前、歳は幾つだ」
「二十歳です」
「へえ、その歳で学者さんやってんの、お利口なんだな」
「どうも」
「嫁さん、行っちまったぜ、いいのか?」
 唯人の隣に座った優男風の赤毛の男が、二人の去った扉を顎で示す。正面に陣取った、アハリテケ族を彷彿とさせる壮年の縞毛男も、唯人がまだ食事を続けているのが信じられないと言いたげな表情を浮かべていた。
「さっきの奴な、生粋のライレム民でマカドってんだが、ここらじゃある事で有名な野郎なんだ」
「なんですか?」
「女に手が早い、そりゃあもう呆れる程な」
 ふう、と煙混じりの溜息が卓上を白く霞ませる。縞毛男は合いの手担当か、主な説明は赤毛が全てしてくれた。
「あいつはこの街で長年情報屋をやっていて、ネタを集める腕はそこそこある。だが、そこにありえない尾ひれをつける致命的な悪癖があってな、まともな時事誌屋には相手にされねぇ。だから自分でうんと過激な内容の薄っぺらい情報紙を作って物好きに売って、小銭を稼いで暮らしてるんだ。おかげで口が達者、話が巧みなもんでたまにころっとはまっちまう女がいるわけで……分かるか?奥さん、僻地が長くて刺激的な噂話に飢えてんだろ。ヤバい事になっちまう前に、連れ戻しに行った方がいいんじゃねぇか?」
「そうなんですか」
 ひと欠片残したパンで器の汁をきれいに拭き取って、袖口からちょっぴり頭を覗かせている綱手に食べさせてやる。ご馳走様でしたと茶を啜ると、唯人は二人に苦笑じみた表情を浮かべて見せた。
「お気使いどうも有難うございます、でも大丈夫ですから。あの人の好きにさせてあげるのが、僕が唯一あの人にしてあげられることなんです。気が済んだら戻って来ますから、僕はここでゆっくり待ってますよ」
 唯人のこの事もなげな一言で、男二人はそれこそ異界人を見るような眼付きになった。
「おいティルク、学者とは、これ程までのものだったか……?」
「い、いや、テルアの生まれの俺にもよく分からねぇ、グリヴァ。でも、こんなんじゃ尚更ほっとくわけにはいかねぇだろ」
 薄い愛想笑いの下で、ほっといて下さい頼むから、と祈る唯人の心の叫びも空しく、おせっかいな二人は何とか唯人に伴侶を取り戻しに向かわせようとやっきになってかかってきた。
「兄ちゃん、名前なんていうんだ?」
「あ、えーと……その、サクラタ・ダトアです……」
 秘技、一字ずらし!とっさに頭に浮かんだ〝蜜蜂ちゃん〟を回避すべく出た名に、思わず耳が赤くなる。しかし当然のことながら、初対面の二人にはそんな事情は伝わるはずもなく、しごくあっさりと受け入れられた。
「ダトアか、俺はティルク・センバー、乳製品の商人をしてる。あんたと同じテルアの出だぜ、よろしくな。そっちは取り引き相手のグリヴァ・ラン・シュミエってんだ。こう見えて、シロナエム族いちの家畜持ちなんだぞ」
「こう見えてとか言うな」
 赤毛のほうが、手首どうしをつかむユークレン式の握手を向けてくる。縞毛で煙管持ちの男も、家畜相手に鍛えられたごつい手を差し出してきた。
「シロナエム族を知ってるか?ここらじゃ先進的な牛を飼ってる一族だ。牛の乳の乾酪(チーズ)や乳脂(バター)は王都でもかなりの贅沢品だからな、親父の代から付き合いをさせてもらってるおかげで、俺もこうして人並み程度の暮らしにありつけているってことだ」
「俺だって、お前が質の良い麦や街の物を仕入れて来てくれるからここまで牛を増やせたわけで……ティルク、こんな話、学者殿にしたところで興味など無かろう」
「あー、そうか?とにかくよ、テルア南部までまだ道中長いんだぜ?一緒になってどのくらいか知らねぇが、尻の軽い嫁さんにじっと我慢して旅するなんて面白くねぇじゃないか。あんたの仕事がどれ程大事だろうが、惚れて手に入れた相手なんだから浮気すんな、ってちゃんとはっきり言ってやれよ。それで聞かねぇってんなら、その結婚は間違ってたんだ、なあ?グリヴァ」
「都会の道理は知らんが、俺の一族では既婚の女が浮気をするのは亭主の責になる、妻に不満を持たせた罪だ。お前は己の過ちを自覚して伴侶の不満を打ち消す事に身を尽くすか、どうしても消せぬものならば、諦めて手放して自由にしてやれ。なに、もしそうなったとしても、あの女はまだ歳も過ぎてなさそうだし器量が良いから別に困りはせんだろう。で、テルアのダトア、お前は……」
 ばさばさの灰色がかった毛色によく合っている、暗灰色の眼がじっと唯人に据えられる。おもむろに煙管を叩いて灰を捨てると、グリヴァはそれを懐の合わせにしまい込んだ。
「……もしどうしても駄目な時は、俺が責任持ってシロナエムの女から世話好きで身持ちの堅いのを世話してやる。探せば物好きが一人くらいは出てくるだろう、贅沢言わず子持ちや未亡人でもいいというなら、この街でも見つけられると思うぞ」
「よし、話は決まったな、行くぜ」
「は、はあ……?」
 この超展開に頭がついてゆけず、ただ口を開けて聞くしかできなかった唯人を引っ張って、二人は意気揚々と店を出て夜の通りに繰り出した。
「マカドの馴染みと言えば、〝月の雫〟か?」
「いや、あそこはツケをため過ぎて出入り禁止になっちまってる、今は〝王様の隠れ家〟か〝金の竜〟だろうな。けど金の竜には女は連れ込めねぇぞ、ガラの悪いのが多すぎる」
「じゃあ、隠れ家の方に行ってみるか」
「妥当だな」
 正直、本気で探したいのなら標に頼めばすむ事だったが、アーリットが情報を得る邪魔をしてはいけないと思い、唯人は大人しく二人のあてずっぽうの探索に付き従った。マカドと言う男は普段どんな生活をしているのか、二人の推測のままにあちこちの酒場を巡った後、ついにティルクが癇癪をおこして夜の街に吠えた。
「あーもう、一体どこに行きやがったんだよあのど助平野郎!ひょっとして、一気に最終目的に持ち込んじまったってのか?まさかそこまでの奴とは思ってなかったが……」
「だが、ここまで探して見つからんのなら、本当に後は自宅か〝花びらの館〟くらいしかなかろう。もし後者なら、テルアのダトアよ」
「はい?」
「諦めて、今晩何があったかは一生考えないでおけ。万が一お前の伴侶がもうお前の元に戻らずとも、自分にも責のあった事だと反省してな」
「はあ」
「よし、最後にあいつんちに行ってみて、そこにもいなかったら花びらの館の場所教えてやる。行くならついていってやってもいいし、その後朝まで飲み明かすなら喜んで付き合ってやるぜ!これも何かの縁ってやつだ、な?ダトア」
「すいません、お手数かけます」
 もう夜も更けたというのに、あまり人通りの量は変わらない繁華街の裏道を行く間、唯人はこっそり標を呼びアーリットの居場所を指し示してもらった。肩の上のぴんと張った尾羽根は、ものの見事に進行方向の反対、斜め後方に伸びている。マカドが自宅にいないなら、花びらの館とやらで決定か。
「なあ、ちょっと聞いていいか?」
 標を戻し終わったそのタイミングで、ティルクが声をかけてきた。
「はい?」
「ダトア、お前、なんの研究してるんだ?差し障りなけりゃ聞かせろよ、その歳で学術院から資格が貰えるなんてよほどのことだろ。しかもハーロン高地まで行って戻ってその上嫁さんまで貰ってるって……俺の十代なんて、親父に任される仕事覚えてこなすだけであっという間に過ぎちまったんだぞ?そんでやっとこの歳になって嫁探しする時間と蓄えができたってのに。お前、ありえねぇだろ!」
 うわ、来た、と唯人は頭にあらかじめ用意してあった仮設定の引き出しを開けた。アシウントの探索兵に捕まった時怪しまれないように、すらすらと話せるよう何度も頭で繰り返して叩き込んだ。探索兵相手の本番の前にここは練習させてもらおう、と唯人は平常を装いつつ、どうという事も無さそうな口調で説明を始めた。
「僕の研究は、世界を蝕んでいる廃地の調査です。これを選択したからには、学術院の教師について研究室に籠っていてもなんの成果も望めません。とにかく世界をまわり、少しでも多くの現地をこの眼で見てあらゆる情報を自分のものにするしかないんです。若くて体力のあるうちに五国全ての廃地の資料をまとめたい、そう思ってテルアを出ることを決めたら、それを知った幼馴染のアルが僕に付いてきてくれました。僕は一人で身を護る事も、狩りとかも満足にできないからユークレンを出たら草原の入り口くらいで野垂れ死にするだろう、それを分かってて行かせるのは後味が悪いって」
「まあ、すまねぇが俺もお前見てるとそれは否めねえって気になるな」
「草原には飢えた狼が常にたむろしている、お前のように鈍そうな奴を無駄に野垂れ死にさせることはないだろう」
「そういう話じゃねぇっての」
「アルは、いい精霊獣を持ってるし僕と違って何でもできる。でも僕は、自分の事だけで精一杯で……本当の事を言うと、まだちゃんとつがいになったって誓ったわけじゃないんです。アルが僕をいらないって思えば、そこで終わる関係ですから」
 しみじみとした架空身の上話が終わる頃、グリヴァはふむ、と感じ入った様子だったが、人の良さそうなティルクの表情はもう完全に〝こいつ可哀想過ぎる、ほっとけねぇ!〟へと変わっていた。
「あー、それでようやく分かったぜ、そんな身の上じゃ奥さんがいくら好き勝手しようがとがめられねぇよなぁ……てか何で、そんなできた嫁さんが異国の僻地にまで付いてってお前の面倒みてくれてんだろうな」
「俺には、分からないでもない。何でもこなす人間は、同じように万能な相手とは衝突せずにはいられないのだ。こいつのようなぼんやりしたのを手のかかる大きな子供扱いで世話をして、その稼ぎで食わせてもらって別の男と遊ぶのは自由だというなら、遊び好きの女には悪くない選択だろう」
「うーん、俺達、ひょっとして余計な事やっちまったか?」
 唯人が彼等と出会って瞬時に思った事柄に、今ようやく彼等自身がたどり着いてくれた。と同時に薄汚れた下町の一画にあるマカドの住居にも到着し、窓から明かりが漏れていないのと本当に人の気配がないことから戻っていないと結論が出る。もう二人の事は諦めて、どっかで飲み直すか?と気を使われ、唯人はまあ大体予想は付いている〝花びらの館〟とは何ぞや、の疑問を一応確認のつもりで訊ねてみた。
「あーそりゃ、若くてお堅い学者さんに通じるかねえ、連れ込み宿、っての」
「マカドが、まさか会ってその晩に、そんな所へ女を誘う男だとは俺もティルクも思っていなかったのだがな。お前の細君は堂々と悪びれもせず、自分のほうから誘いをかけて来た。あいつが舞い上がっても仕方がない」
「どうする?行ってみるか?もしかしたら寸前で間に合うかも知れねぇぞ?」
「だが、止めたら止めたでこいつが見捨てられる怖れがあるからな……」
「……僕、行ってみます」
 おお、と二人の視線が同時に唯人に向けられた。
「行ってどうするんだ?」
「とりあえず行ってみて、それから考えます」
 二人は多分全く違った展開を頭に巡らせているだろうが、唯人の本心は、最近のアーリットが突然他人に凶暴性を向けるので、後から被害者の状態を自分の眼で確かめてフォローしておかないと、であった。
 今日はどうも、僕の為に色々有難うございました。このご恩は忘れません、と頭を下げ、花びらの館までの道順を教えてもらう。心配そうな二人とその場で分かれ目指す場所へと向かうと、街灯の中浮かび上がっている、一面薄桃色の灯りで照らし上げられた分かりやす過ぎる建物が眼に入ってきた。
「標、ここなのか?」
 ひょっとしてまだこの向こうの場所とか、と周囲をぐるりと巡ってみたが、標の尾羽はぴたりと建物から離れない。そういう方面の場なら一人じゃ入れないな、ミラにでも頼むか……と普通に考えていると、出入り口とおぼしき扉から賑やかな男の声が届いてきた。
「いやぁ、すげぇ!本当にすげぇよあんた、こんなに興奮したのは久しぶりだ、最高だ、あんたって女は!」
 すぐにぴんと来た、この響くだみ声は、さっき聞いたばかりのマカドの声に間違いない。慌てて近づこうとした唯人より先に、中から勢いよく扉が開かれた。
「じゃあな、王都の美人さんよ、道中気を付けてな!」
 飛び出してきた勢いで、唯人にぶつかりそうになりおっと、と身をかわす。危ねぇだろうがこの野郎、とか言いかけて、相手が唯人だと気付くとマカドは一気に満面の笑みを向けてきた。
「よぉ、奥方を迎えに来たのかこの幸せ者。あんな天下一の女、せいぜい大事にしてやれよ?ほら、行った行った!」
 なんなんだこの状況、なにがどうなったと疑問符の山を背に、道を駆け去って行った背を見送った後、開け放たれた扉の奥を覗き込む。酒場になっているその場の奥、塗料のはげた階段の手すりにもたれ、上からアーリットが笑顔で手を振っていた。見たところ着衣はそのままで、特に乱れた様子は無さそうだ、ほっと胸をなで下ろす。
「アル、ここにいたんだ」
「あら、あなた」
 入れ替わりに入ってきた唯人を見て、子供は入ってくるなと追い返そうとした給仕の一人に、アーリットはその子私の連れよ、と作り笑いで呼びかけた。
「待っていろって言ったのに。こんなところに来てしまったのね、困った人」
「マカドさん、どうしたんだい?」
「どうって、ここで二人、沢山の話をしたのよ。聞かせてもらうだけじゃ悪いから、代わりにこの前のテルア襲撃のくだりをちょっとだけ話してあげたんだけど……彼、すごく興奮してしまって、今から記事に仕上げたいって帰ってしまったわ。宿代は一晩分払いこまれてるから、今日はここで泊まることにしましょう、〝私の可愛い蜜蜂さん〟」
 うわー、来た来た来た!一気に顔が火を吹きそうになった唯人と上のアーリットを見比べて、完全スル―されている酒場の女将がこの女、なかなかやる、と言いた気な剣呑な視線を向けている。そ知らぬ顔で受け流し、もうまるっきり女性としか思えない身のこなしで腰を揺らせ階段を下りてくると、酔客の視線を浴びつつその間を抜け、アーリットは倒れ込むように腕を唯人の上体に絡めてきた。
「……ああもう、安酒と下衆な野郎の臭いが鼻に染み付いて吐きそう、気持ち悪い」
 襟足に顔を埋め、しばらくそのまま動きを止める。やがて満足したように大きな溜息をつくと、アーリットはそのままの姿勢で唯人の耳に唇を寄せてきた。
「で、だ」
「うん?」
「ひとつ聞いておきたいんだが、そこの扉の陰から覗いてる野郎共は、お前と関係あるのかないってのか。後者なら、何かけしかけて追い払ってやるんだが」
 目線を追って肩越しに振り返ると、開け放たれたままの扉の枠の両端に二つの頭が素早く引っ込んだのが見えた。ああ、やっぱりついてきてた、そんな気はしてたけど、と溜息をつく。出てくるなら早い方が身の為ですよ、と呼びかけてやると、ばつの悪そうなにやにや笑いでまずはティルクが指を降参の印にして這い出してきた。
「おいグリヴァー、お前も出て来いって。嫁さんすげぇ顔で睨んでるぞ、こりゃ逃げられねぇって」
「断る、これ以上は他人がしゃしゃり出る事ではない。俺達の役目は、あくまでダトアが辛い目にあいそうなら庇ってやることだったからな」
「要約すると、おっかねぇから出たくないって事だろが!」
 ティルクが渋るグリヴァを引っぱってくる間に、何を思ったかアーリットは唇の紅をぬぐい、一気に眼付きのきつい男の顔に戻ってしまった。
「あー、俺達さ、マカドの知り合いなんだ。あいつがまた旅の女と悶着起こしそうに見えたんで、こりゃなんとかしないとって思っただけで。つい、な?相棒」
「そう、マカドはこれまで五度、結婚詐欺で騙されている。そのうち四度は相手が両性だった、だから勘ぐってしまったのだ。まあ、ダトアの話を聞いていたら、お前達がそうではない事はすぐに分かったが」
「見たところ、仲は良さそうじゃないか、心配して損したぜ」
「ああ、似合いの二人だ、これからも末長く幸せである事を祈ろう」
「……おい、この研究バカ」
 必死に釈明を続ける二人の言葉など一切耳に入っていない、という表情で、アーリットが唯人を振り返る。声が、今まで聞いた範囲での最低音、地鳴りかと驚くほど重く響いた。
「はい……」
「俺は、酒場で待ってろって言ったよな」
「ごめん、久しぶりに人の多い場所に戻ってきて、ちょっと緊張してたのが顔に出てしまったのかな。この人達親切だから、アルがいつも言うように突っぱねるなんてできなかったんだんだよ」
「お前は、一匹にすると寂しくて死んじまう仔羊か?」
 向けられた手が、ぐいと襟元を締め上げる。毛皮の帽子がずれそうになり、慌てて唯人は帽子を目深に引き下ろした。
「俺が、てめえの為にこうやってせっせと雑用こなしてやってるのに、なんでちょっと離れてただけですぐにそこらの野郎を垂らし込んじまうんだよ。いつもいつも、無防備にも程があるだろうが!この際言わせてもらうが、お前、ここまで付き合わせといて、まだ俺をただの世話好きのお友達とか思ってるんじゃねえだろうな?お前の仕事の為と思って辛抱してやってたが、ここらでいい加減、俺の方からはっきり思い知らせてやらないといけないってことなんだな!」
「な、何……?んっ…!」
 怯えた声を漏らす間も与えず、真正面から唇を塞がれる。周囲から歓声が上がる中、見せつけてやってるぞがありありの威嚇じみた視線を傍らの二人に向け、アーリットはみるみる真っ赤になっていく唯人の顔を隠すよう懐に押さえ込んだ。
「覚悟しとけよ、もう我慢なんてしてやるか。これからテルア南部に着くまでに、俺が遠慮も容赦もなくお前を仕上げてきっちり孕ませてやる。なんならそのままつまんねぇ調査もきっぱりやめて、残りの人生家で俺のガキまみれになっちまえ。てめえとガキが何人増えようが、まとめて一生、俺は余裕で食わせてやれるんだからな!」
「い、いや、それは、アル……すまない、ぼ、僕が…悪かった……よ」
 小芝居だと分かっているのにそうは思えない迫力で、額に汗がどっと浮く。これは下手に庇えば庇うほど状況が悪化するな、と悟ってくれたのか、ティルクとグリヴァの二人は、互いに顔を見合わせるとまばゆいばかりの愛想笑いでこの場からの離脱を図ってきた。
「ど、どうやら俺達、お邪魔みたいだな、もう帰らせてもらっていいか?」
「そうだな、夜も遅い。ダトア、今夜は諦めて、あまり旅に差し支えん程度に可愛がってもらえ」
「余計な世話だ、とっとと消えやがれ!」
 アーリットが叩きつけた最初で最後の怒声に追われ二人が去り、好奇心丸出しで全てを見届けた客らにはやしたてられながら唯人はアーリットに引っぱられ、階段を上がり二階の一室へと連れ込まれた。野宿よりはずっとましだが、そう清潔そうには見えない狭い室内には部屋のほとんどを占める寝台と、飲みかけの酒瓶と杯の乗った小卓、そして身支度用のすすけた大鏡しか置いてない。空気には安物の香と寝具に染み付いているらしい甘ったるい化粧の匂いが満ちていて、いかにもな感じをひときわ際立たせていた。
「一応、ここがどういう場なのか説明しておくか?」
「い、いや、分かってるからいいよ。僕の世界にもある」
「そうか、じゃ、俺達がここで今から何をするかも分かってるな」
 え?えええええ?
 さっきまでの煮えくりかえっていた様相をころりと切り替えて、可笑しそうにアーリットが口の端を上げて見せる。とっとと腰布以外の着衣を脱ぎ散らし、無駄に大きい寝台の上に転がると彼は明らかにこちらを誘うような眼差しで、薄暗がりの中、唯人を見上げてきた。
「ぼさっと立ってないで、さっさと来いよ」
「あ、ああ、うん……」
 心に嵐を巻き起こしつつ、傍目にもはっきりと分かるぎくしゃくとした動きで上着をほどく。唯人の緊張しきっている顔つきに、ガキをからかうのはこれだから、と言わんばかりの表情をアーリットは細めた目の奥に覗かせた。
「嫌なのか?」
「いや、嫌なんて、そうじゃないって……」
「面倒臭がってんじゃない、今後の対策会議はやっておかないとまずいだろ。ガキじゃないんだから、眠くたって付き合えよ」
 はい、ごもっともです。分かってたはずなんだけどな、君がそういう性格だって。
 ちょっと涙ぐみそうになりながら、床に置いた荷物の上に丸めた服を乗せ、気持ちアーリットから距離を取り唯人は寝台の端に腰かけた。 不自然に小さい窓を覆う埃っぽいカーテンの隙間から、外の薄桃色の灯火の光が線のように寝台に射している。起き上がり、それをきちんと閉め直すとアーリットは部屋の明かりを数匹の夜光蝶のみにした。
「あれから、ずっとここで話してたのかい?」
「ああ、往来で話すには少々やばいネタもあったからな」
「アーリット、その……さ」
「ん?」
 ほのかな明かりに浮かび上がる白い肌、隙間なく紋様に彩られたその身体は、やはり生きて動いている存在とは思えない程美しい。一度でも目にしてしまえば、誰だろうと心奪われずにはおかないだろう。
「今まで、ずっと……」
「ん」
「マカドと……いや、やっぱりいい、何でもない」
「なんだ、聞きたい事があるならはっきり言え」
「いいよ、ごめん、本当にいいから」
 胸の内を言葉にできず俯いた唯人に、アーリットは横目使いで近づくとぐいと顔を覗きこんできた。
「言いかけてやめたら気になるだろ、ちゃんと話せ、俺の顔を見て」
「いいって言ってるんだ」
「あいつと俺が、どこまでやったのかが気になってるのか?」
 こちらが言いづらくて困っている事を、事もなげに言い放ってくれる。相変わらず、悲しくなるくらい察しがいい。
「そうじゃないよ」
「言葉と顔が合ってないぞ、そのいじけたツラは何だ」
 何と言うか、自分が大人に向かってぐずって駄々をこねている子供のような気がして眼が合わせられない。と、伸びてきた手に顎を取られ、顔が強引に向き合わされた。
「いいか、よく聞け。こんなのは俺にとっては飯を食うよりも慣れた、ごく日常の行動だ」
「うん、分かってる」
「それをとやかく言われても困る」
「分かってる、言ってないって」
 消え入りそうな声で繰り返した唯人を放し、卓の上の小杯を取る。飲みかけだった安酒を干し、アーリットはやっぱり不味い、と顔をしかめて見せた。
「なんだろうな、この困ってるって感じが妙だ。俺にはどうってことないはずなのに、お前がそんな顔するのを見たら居心地が悪くなっちまう」
 口直しさせろ、の一言と共に顔が迫ってきて、唯人は慌ててスフィを取り出すと二人の間に割り込ませた。こんな所でまたそんな事されたら、とても冷静でいられる自信が無い。つとめて何事も無い表情で、空けた杯に水を注ぎ差し出しでやる。なんだよ、とあの頭が空白の頃と同じ表情で睨み、杯の水を黙って干すとアーリットはそのまま再度寝台の上に丸めた身体を横たえた。髪を留めていたピンを抜き、猫のように伸びをする。
「……頬と、腰と尻を触られた。衣の上から、それだけだ」
「え?」
「安心しろ、胸は許さなかったぞ?」
「あ、う、うん…」
 ありがとう、と言うべきなのか。生返事した唯人を無視しアーリットは言葉を続けた。
「ひと握りの情報を得る為に、そこらの奴といちいち最後までやっちまう程お安い身体じゃないってんだ。その上お前のせいで、ひとっかけらの興味もない野郎の臭いが鼻について耐えられなくなっちまいやがった、どうしてくれるんだよ」
 ふう、と軽く溜息をつき、横目の視線が向けられる。
「たとえ臭いごときでも、入ってくるのはお前でなきゃもう嫌なんだとさ、この身体は」
 本人がどう思っているのか分からないが、あっさりとすごい事を言う。そうか、さっき下で身を寄せて来たのはこういう理由だったのか。唯人が彼の甘い香りを実感しているのと同様に、アーリットもまた、自分に何らかの嗜好性を感じているらしい。なんだかどんどん自分が彼に枷を繋いでいるような気になって、唯人は嬉しいと同時にすまない気分にもなってそっと近づくと眼下の顔を覗きこんだ。
「ごめん、アーリット、僕の事で苛つかせてばっかりで」
「そんなのは、お前がこの世界に来てからずっと、って気がするんだが。今更言われてもな」
 手が伸びてきて、髪をもさもさと乱される。こっちに来てから思ったより伸びないな、とか考えていると、ふいにアーリットが身をひねり、こちらへ向き直ってきた。
「で、俺のほうからも改めて聞いておきたいんだが、お前が引っかけてきたあの二人、何なんだ?」
「何なんだって……本当に、ただ酒場にいた人だよ。夕毛(赤毛)がテルアの商人で、縞毛の人はその商売相手だって言ってた。あんなに突っけんどんにしなくてもさ、ちゃんとお礼言って帰ってもらったら良かったのに」
「お前、本当に心底緩いな。こうなると物知らずというよりそういう民族性なんだな」
 別に怒っても呆れてもいない口調だが、その表情には若干の苛立ちの色があった。
「夕毛のほう、あいつは多分両性だ。あの髪色は染めている、アシウントの密偵が素姓を伏せてユークレンに潜りこむときよくやる手だ。縞毛の野郎も俺達より少し上背があっただろう、北のアシウントとの国境近くに住む北系騎馬民族だな。奴らは自分達をテシキュル人とは思っていない、アシウントの騎馬民族だと自負してる。お前、ひょっとしたらもう目を付けられたかもしれないぞ」
「え?」
 そんな、あんなに頑張って架空設定立ちあげて、同情してもらったつもりだったのに。がっくりと肩を落とした唯人に、まだ全部バレちまった訳じゃない、疑われてるのは確実だろうが、とアーリットはおもむろに杖を出し、薄汚れた天井に差し向けた。杖の先が天井に届くより少し下で、ふわりと虹色の膜が一瞬輝き具現化する。
「レイブ・ルーク(腹の7)、こいつは湖岩大貝の霊獣で、中に収まれば何も外に漏れないし、外から盗み聞きしようとする奴も防いでくれる。お前とこの部屋に入った時から出しておいたから、もしあの夕毛が密偵で自分の目や耳代わりをここに潜り込ませたとしても何も漏れることはない。それくらい潰しておいてもいいんだが、疑惑を確定させちまっても面倒だしな……おい、ミラ」
「なに?」
 ひょいと現れ唯人の頭に飛び乗った獣のミラに、アーリットは表情一つ変えずとんでもない事を言い放った。
「お前、俺とこいつの声色使えるよな」
「うん、それが?」
「今から今後についての作戦会議をやる、だが室内が全くの無音ってのも不自然だ。そこで外野に怪しまれないよう、俺達がご期待どおりの夜を過ごしているふりを障壁の外でして、盗み聞きしてる阿呆に流しておけ。しばらくすりゃ馬鹿らしくなってあっちも退くだろうから適当にな」
「分かった、おチビが妬いて唯人にお仕置きしてる、って設定にしとくよ」
「気に入らんが任せる」
 ミラが虹色の障壁を出て外の窓枠に飛び乗ると同時に、アーリットが夜光蝶を呼び戻し周囲を暗闇にした。窓が分厚いカーテンに覆われているのを確認し、二人して肌触りはいい毛布の中に潜り込む。まるで恋人に寝物語を聞かせるように肘をつき、アーリットは自分に顔を向けない唯人にそ知らぬ風で身を寄せてきた。
「ミラの奴、どんな濡れ場ほざいてやがるんだろうな」
 虹色の膜越しに、いるのは分かるが何を言っているのかはここからは聞こえない。聞こえないほうがいい、と唯人はこの状況でアーリットを直視する事の気恥かしさに顔を背け、壁に掛けられてある小汚いタペストリーをひたすら凝視した。
「それじゃ、まずは俺が聞きだした今のユークレン周辺の状況の説明だ。結論から言うと、あまり良くはない。俺が出てすぐにアシウントから王子交換の申し出に対する返答が来たらしく、添王子はアシウントに向かった。代わりに主王子がテルアに戻って来るはずだったんだが、トリミスに入る直前に何者かに襲われて行方不明になっちまったらしい。そいつとやり合ったアシウントの護衛の連中がとんでもない名を出しやがった、誰だと思う?」
「え?僕が知ってる人なのかい?」
「公表された名は、黒の破壊主、だとさ」
「ええっ?」
「どう考えてもおかしいだろ、あいつは街や遺跡を壊した回数は数知れずだが、一人の人間、ましてや王族をさらってどうこうしたなんて話、今の今まで聞いた事がない。だが何をするか分からないと言われればそうだし、重要なのは、これまで何度か奴の名を語った小悪党が現れた時、奴自身がそのつどすぐにきっちり制裁を食らわせている事実があるという事だ。今回の誘拐の件では、まだそういう報告は出ていないから本人の犯行説が否定できないらしい」
「もしかしたら、破壊主は誘拐犯じゃないけれどその後ギュンカイ山での闘いがあって、今も動けないのかも知れない」
「そうかもな、誘拐を知らされたユークレン王は添王子に戻るよう護衛の兵の増援を送ったが、その時点でもうアシウント領に入ってたんで、アシウント側は王子の身辺保護と言う名目のもとに、そのまま添王子を取り込んじまった。俺は不在、その上破壊主に負わされた傷もまだ癒えないテルアより、アシウント側に護られたほうが安全だってのはまあ筋の通った理屈だからな。主王子の捜索にしても、自国の捜索は自国の兵に任せろってんでユークレンの兵はトリミスから北には一歩も入らせて貰えていないそうだ。そのせいでトリミスを含む北ユークレン、ハルクライ領領主とここタリエティの領主もあからさまな不快感を示している。テルアでさえ、国じゅうに入り込んでいるアシウント兵を追い出せって声が日に日に大きくなっているそうだ。マカドの言い分はあながち根も葉も無い妄言とも言い切れない、このままユークレン国民の不満が膨れ上がって万が一アシウント兵に手を出すようなことがあれば、両国の関係はかなり面倒なことになる。戦まで発展するのはなんとしてでもレベン・フェッテ添王が抑えるだろうがな」
「主王子を、探さないといけないんだな」
「ああ、差し当たってはそれが一番重要だ。後は添王子の様子も押さえておきたいところだが」
「……アーリット」
「なんだ」
 いつしか話に集中して、唯人はアーリットの薄明るく光を含んで見える緑の眼としっかり向き合っていた。
「先に言っておくけど、サイダナの時みたいに僕には関係ないからどこかに隠れてろ、なんて言われても僕はもう聞かないから。何か邪魔してしまう不安はあるし、足手まといだって言われてもしょうがない。でも、僕は君といたい。だから帰れ以外の君の命令には絶対従うし、できる事はなんだってやるよ、君の手駒扱いしてくれていい」
「……馬鹿が、俺がどんな思いでギュンカイ山の廃地に向かったと思ってるんだ」
「え?」
「何でもない、それより、これはあくまで俺の勘ぐりだが、ひょっとしたら奴ら、これでユークレンに揺さぶりをかけてお前か、お前を隠している俺を焙り出そうとしているのかも知れないぞ」
「なんだって?」
「ミラが何をたくらんでやがるのか未だ俺には分からんが、とりあえずもうこれ以上お前を野放しにしておくわけにはいかなくなった。黒の破壊主、軍事大国、そして俺、この世界を仕切る大きな力のうちの三つがお前を巡って睨み合ってる。今一度聞いておくが、お前が望む未来にお前を導くのが俺だという確証は俺には無い。それでも俺と共に、俺の立場でこの世界にかかわるか?」
「先の事なんて、その時にならないと分からないよ。僕が後悔しない選択をさせてくれるなら、それはアーリット、君だ。あの千年樫の森で僕を拾ってから、ずっと騒ぎばっかり起こし続けた僕を怒りながらも面倒見てくれた君なんだ」
「俺が、お前の中のミラの情報が欲しい、その為にお前を手なづけようとしていたと分かってもか?」
「うん、それくらい、君の立場が理解できたら普通に考える事だって思うよ。ミラにはミラの考えがあるから僕は彼に強要するつもりはないけど、全て片がついたら教えてくれるって言ったし。なら、出来るだけ早くそうなるよう頑張ればいい」
「……お前」
 その言葉の続きを、アーリットは声にはしなかった。もういい、今日の話はここまでだ、続きはまたそのつど考える、と霊獣の殻を消すと、ごく自然に唯人の傍らに身を横たえる。こちらに向けた背が微かに上下しているのを、唯人は黙って見守った。
 やっぱり、綺麗だとしか言いようが無い。薄暗い中でもひときわ眼を引くのは、背の中心から不定形に拡がる紅輝炎竜の轟炎の印、左肩を覆うように印されてあるのはニアン・ベルツの翼状紋だ。乳白色の滑らかな肌一杯に、力と存在がひしめいている。最初眼にした時は衝撃さえ受けた美の具現が、いつの間にか無防備に自分に晒されている不思議。
「……アーリット、もう寝たかい?」
 喉声で囁きかけてみたら、寝息の音だけが返ってくる。草原を旅していた頃は、唯人が寝付いただろう頃合いを見計らい必ず水分補給で迫られていたが、エクナスを出てからは当然ながらそういう事も一切ない。
 両性だからこんな風なんだろうか、それともアーリットだからなのか。
 くるくると、まるで別人みたいに態度を変える。最初の頃は意識させもしないくらい男同士の関係だったのに、群島でちょっといい感じになったと感じたら、荒れ地からエクナスまでの道中は親子のようにべったりで、その後は妙によそよそしく、今はまたこうして傍らで無防備に眠っている。
 僕はまた、彼にとって手のかかる子供に戻ってしまったんだな。
 あの甘い匂いは、少しも変わらず自分を誘い続けているというのに。
 薄目を開けて、飽かず美しい精霊痕をじっと眺め続けていると、寝る寝る、と綱手が顔に被さってきて視界を覆い隠してしまった。分かったよ、と大人しく従い今度こそ本当に柔らかな寝台に身を委ね眠りに落ちる。
 暗闇の中、二つの規則正しく深い呼吸音が響き合う。だがしばらく過ぎた後、ふと寝台の一方が身じろぎした。もう一方に気付かせないようそうっと身を起こし、寝入っている顔を覗きこむ。脱ぎ散らかした衣服を集め、細心の注意で寝台を下りようとするその背にささやかな声がかけられた。
「どこ行くの?おチビ」
「どこでもいいだろ」
「やっぱり眠ってなんかなかったんだ、ま、分かってたけどね。そもそもお前は毎晩眠る必要なんてない、動ける間は起きてて、用がなくなったら一気に何日も寝るって体質だから。エクナスで充分休養は足りてるんだろ」
「そうだ、分かってるんならいいだろ、黙れ、唯人が起きちまう」
「大丈夫、起きないよ。ちゃんとした寝台って久しぶりだし、綱手が被ってるから」
 調子の強い小声、という器用な発声を使いこなすアーリットに、人型のミラはほら、と嫌そうな綱手の胴を引っぱって見せた。
「結構、朝までちゃんと寝かせておけよ」
「朝には戻って来るのかい?」
「さあな」
 投げやりに呟くと、ふと何かに思いを巡らせた顔になって眠る唯人の元へ身を返す。え、またやるん?と困惑気味に緩んで鎌首を持ち上げた綱手を有無を言わさず押しのけて、ごく自然な動作でアーリットは眼下の懐に顔を寄せた。
「……ん」
 微かな鼻声が漏れるものの、目を覚ましはしない。乳飲み子を抱く母のごとく、ちょうど寝入った頃合いに甘えられ、唇を塞がれるのが習慣になってしまった憐れな仮親は、いちいち覚醒していたら身が持たないと思ったのか、それとも意識してしまうのが辛かったのか。好きにしたらいい、と言わんばかりに眠りこけている。顔がさりげなく横に向いたのは、仰向けのまま水を求められると溺死の恐れがあるからそれだけは避けよう、という精一杯の自己防衛の表れだ。そこまでしても、起きない。
 お前、俺がいくら言い聞かせてやってもこうして無防備に寝ちまうんだな、俺になにもかも委ねきって。
 暗闇の中、探り当てた相手の唇を己のそれでそっと塞ぐ。生まれたての雛鳥のように温かく、そして柔らかなこの感触。頭の芯が痺れるような、甘く、そして無性に怖しい。無反応と言う、完全に許され受け入れられているという実感が身体の隅々まで広がり、浸み渡ってゆく。
〝そう、好きにしていいんだよ、アーリット〟
〝子供みたいに甘えて、自由に我儘、やりたい放題で大丈夫。皆の強い象徴で在り続けるしかなかった君を、僕はよく知らないんだから〟
〝こんなのは君じゃない、って思えるほど、僕は君をまだ知らない〟
〝どう振る舞っても、僕にとってはそれが君なんだ〟
 そう、別に最初から、喉が渇いていた訳じゃなかった。望んでいたのはただ純粋にこの行為、これに意味を持たせた方がうぶで奥手な相手が寛容になる、そう読んだ無意識の自分の悪知恵、策略だっただけなのに。
 全く、その程度の事さえ読めないんだ、この、ただぼさっと生きてきた坊ちゃんは。
 その無知が、嫌になるほど心地よい。心を任せてしまえば、抗えないのはもう分かっている。
 最後に、あの頃は毎晩好きなだけ満喫していた匂いを深々と呼吸し体内に染み込ませると、名残惜し気な様子を悟られないよう素早く身を離し濡れて艶を放つ双方の唇を指で拭う。もう好きにするといーです、な様子の綱手を引き戻し、元通りに唯人の頭に乗せてやるとアーリットはまるで壊れ物に接するように、そっと寝台に戻し毛布に埋めた。離れかけた手が、もう薄くなっている肩の傷に触れ、慈しむように指で軽くなぞる。
 一部始終を、多分呆れた沈黙で見届けていたミラがついに我慢できなくなってきたのか、やんわりとたしなめにかかってきた。
「ちょっとおチビ、いい加減にしなよ、いくらなんでも起きちゃうって」
 その言い方が癇に障ったのか、急に表情を変え不敵な笑みでアーリットは声の方を振り返った。
「かまわないさ、そうだな、頃合いだ。ほっといて他の奴に手出しされちまう前に、いっそこの機会に俺のものにしてやろうか?もう何したって怯えるって仲でもなくなっただろう」
 緑の眼が、探るような視線を白い姿に向ける。ミラは、それを微笑という無表情で受け流した。
「おやおや、さっきの二人の前で唯人に言った言葉、結構本音だったのかい?」
「知るか」
「この子は必死でお前に認めてもらえる人間になろうって頑張ってるのに、他人にちょっとちょっかいかけられたのが気に障ったってだけでなし崩しにものにされちゃうって、男としてあんまりだと思わない?」
「男の道理なんぞ知ったことか、俺の物を俺が好きにして何が悪い。それより止めるんならさっさとしろよ、本気でやっちまうぞ」
 挑発的な声音と共に、伸ばされた手が傍らに横たわる懐にかけられる。え?まじ?と綱手のほうがおろおろと困った様子でミラを振り返ったが、白い顔は変わらず落ちつき払ったままだった。
「いいや、おチビ。お前はやらないよ、自分の渇望がどんなに深くて危険なのかちゃんと分かっているんだから。このとびきりのお菓子は、食べて無くしてしまったらもう二度と手に入らない。それが怖いから、ちょっと舐めては我慢してるんだ。偉いよ、お利口さんだ」
 この言い草に、噛みつくかと思えばアーリットはかえって胸の内を言い当てられた表情で、ふいと顔を背けて見せた。
「言ってくれるじゃないか、このど腐れ鏡」
「僕もいつか言おうと思ってたんだけどさ、鏡って腐るものじゃないよ、そこは錆び鏡、だろ」
「腐ってんのはてめぇの性根だってんだ!ああそうさ、悔しいがお前の言うとおり、ってわけだ。どうせこの状況はお前の筋書どおりなんだろう。俺に禁断の実の味を教えてどうするんだ、最悪の頃合いで取り上げて泣かせるのか?それともなにか、たちの悪い取り引きでも仕掛けてこようってのか」
「まさか、そんな意地悪しやしないよ、お前じゃあるまいし」
「嘘つけ」
「そう、僕は君には嘘をついてもいい、分かってるじゃない」
「じゃあ、ちょっと正直になる式でもぶち込んでやろうか?」
「いいよ、鏡に向かって、って分かってるならお好きなだけどうぞ」
「ああ、いつかとびきりの奴をくれてやる」
 凄みのある笑みをくれた後、おもむろに衣服を身につけ寝台を下りる。毛布に埋まった顔は、相変わらず無心に眠りこけている。
 こいつは、俺のもの。
 この世界に在るうちは。
 俺が見つけて、手に入れて、護ってやろうと心に決めた。
 あっという間に散って枯れてしまう花だからこそ、手折って手元におくよりそのままを傍で見届けよう。
 暖かな陽を浴び色鮮やかに輝く花弁を愛で、心地良い香りで癒されたい。
 だからこそ。
 強い雨風が来れば庇ってやり、蟲が付けばたとえ小さくても払い落して踏み潰す。
 俺のものには、出来うる限りの長期間俺のものであり続ける為、俺の加護を受ける義務があるのだから。
 この手から、いつか離れて消えるその時まで。
「なあに、山狐と草原狼の二匹、仕留めるのにそう時間は必要ない」
 事もなげに呟くアーリットに、こちらも別にどうということもなくミラが言葉を返した。
「あの二人、始末しちゃうの?」
「山からの密偵ならな」
「唯人は、事情が分かってても悲しむだろうね」
「だから秘密裏にやるんだ、お前もばらしたら承知しないぞ」
「はいはい、ありがと、おチビ。でさ、行っちゃう前にちょっとだけ、時間あるならひとつ聞いてもらいたい事あるんだけど……」
「却下だ」
 言葉尻に被る勢いで返されて、はあ、と溜息が洩れる。
「聞くぐらいいじゃない、そんなに意地にならなくてもさ」
「じゃあ話せ、手短にだ」
「この、霊素の石の中の術式の事」
 白い手に乗せられた、ちっぽけな首飾りの光に暗い室内がほんのりと照らされた。
「ああ、そいつか」
「この唯人って本当に変わってる子でね、ほんの数カ月前に精霊獣師になったとは思えないくらい。精霊獣師に最も必要不可欠な素質で、でも慣れるのが難しい〝心に他者が触れてくる〟って状況に鈍感でいられるんだ。だからこそおチビ、君の支配の術式がどんなに恐ろしいものなのか、この子は全然理解できていない」
「……だろうな」
「もういいよ、唯人は君と僕、どちらも選べないって結論をくれた。なら僕は、大事な主が君っていう悪者にいいようにされないよう、ちゃんと護ってあげないとね。おチビ、僕の秘密が欲しいなら、僕と直接駆け引きしようじゃないか、いつでも僕は受けてたつよ。だから唯人を巻き込むのは勘弁してくれない?お前だって今はもう、使い捨ての器みたいにこの子の心を壊してあっさり捨てる気は無いんだろ。お前の力作には申し訳ないけど、これ、解呪するかせめて条件つきの凍結状態にしてくれない?」
 言葉が終わった後、しばらく沈黙が続いた。薄暗い室内にほんのりと浮かんでいる端正な顔が、わずかに口の端を上げた。
「嫌だ、と言ったら?」
「じゃあこれ、僕が壊すよ。ミストから貰った唯一の品だし、惜しいけどね」
「お前も、主が寝ている間に好き勝手やっちまおうってのか?」
 皮肉っぽく掛けられた言葉は聞き流し、石を見つめるミラの様子にやれやれ、と溜息を洩らすとアーリットは仕方なさそうにもう行くぞ、と腰を上げた。
「一応、言っておくが、そこに入れたのは泳風連魚の鱗一枚、それを核にしたそいつと俺をつなぐだけのありふれた共鳴術式だ。しかもそっちから俺に向かってしか開かないよう組んである。俺に助けを求めたのも、空白の俺の為に自分を繋いだのもそいつが望んでやった事。嫌ならそっちで勝手に閉じればいいだけだ、俺にはどうしようもないからな」
「え?じゃあ、支配の術式は?」
「そんな違法禁呪、冗談でも俺が組むわけないだろう。この馬鹿を安心させて、ちょっとだけ奮起させる為のはったりだったってことだ」
「信じろ、っての?」
「よく考えてみろ、そいつが本当に支配の術式だったなら、どれだけこれまでの事が楽に片付いていたか、ギュンカイにだって行かせないようできたはずだろう。逆に俺のほうが、見せたくも無い過去をさんざそいつに覗き見されて我慢してるんだ。まったく、遠慮の欠片もないんだから、こいつときたら」
「……おチビ」
「分かったらならもう行かせろ、大体お前のこと、俺は心底嫌いなんだっていい加減気付けってんだよ」
 そのまま音をたてず扉を開け、部屋を出て行こうとする背を駄目押しの一言が引きとめた。
「いや、アリュート」
「……」
「可愛いよ、お前」
「うるさいぞ」
「思った以上の斜め上を行っちゃう尽くす性格だったんだ、寂しがりの甘えん坊、うんと硬くて重い鎧の下にいるのは、大好きになった人の為ならなんだってやってあげちゃう一途な子だったんだね」
「黙れってんだ、腐れ錆び鏡!」
「テシキュルでいた時みたいにさ、もう少し、肩肘張らずにその可愛いところを見せてあげればいいんだよ。何にも気がねしないでただ想い人だけを見て、甘えて絡んで我儘やって困らせる君を……」
「……無力で無用で無責任な、ただの屑だったな!」
 死ねと言わんばかりの眼付きだったが、ふいと身を返した背のこちら側で扉は叩きつけられることなく、軋み音ひとつたてずぴったりと閉ざされた。
「この子には、どっちの君も変わらない、ちゃんと一人の人間として見た上で好きなんだよ。それが尚更苛立つんだろうけどね」
 ねえ、と傍らに横たわる顔に呼びかける。
 うん、と鼻声を漏らし、毛布に埋まった頭はこっくりとうなずくように枕へと沈みこんだ。



「おや?そこにおいでなのは……」
 夜半を過ぎても人通りの絶えない繁華街を離れ、静まりかえっている寂れた裏通り。そこを一人行く人影が、ふと、石の壁に彫像のごとく浮きあがっている姿に気付き足を止めた。そのまま通り過ぎようとした視界を横切った人物に、ん?と再度振り返る。洒落た感じにまとめられている赤毛が、頭を巡らせたはずみで軽く揺れた。
「ひょっとして、ダトアの奥さんかい?」
 暗がりで獣のごとく光る緑の眼が、返事の代わりに薄い笑みで細められた。寄りかかっている壁からすいと身を起こし、含みのある表情を浮かべて見せる。なんだよこんなとこで、ダトアといるんじゃなかったのか、と人懐こい笑顔を返すが近付いてくる様子は無い青年に、すいと痩身の両性は自分から足を向け歩み寄った。
「ティルク……と言ったか?」
「あ、ああ、ティルク・センバーだ。お見知りおきを、奥方さま、美人の知り合いは大歓迎だ」
「俺は他人の伴侶だが、それでもいいのか?」
「おいおい、俺とマカドを一緒にするなよ。俺は会ったその日に相手を、しかも人妻を押し倒そうなんて、そんな野暮なこと考える助平じゃない。グリヴァやダトアと同じ、いいお友達になれりゃあ嬉しいね。えーと、アル、さんだったっけ?」
 互いの手が届くぎりぎりの位置で足を止め、石畳の上、向かい合う。そのほんの数歩の間に、一方の手にはするりと現れた、細くて長い銀の杖が握られていた。
「アル、でも別にいいが、一番使われている名はアーリット・クラン、だ」
「へえ?それって、どこかで聞いたような名前だな……あれ?どこでだったっけ」
 つとめて陽気に、腕組みで頭を巡らす仕草をしてみせる。ごくありふれた通りすがりの二人のやり取りなのだが、そこには何やら張りつめた緊張感のようなものが忍び込みつつあった。さりげなく半歩進めた足の先で、もう一方の身体が同じだけ退く。だしぬけにひゅっ、と音をたて杖を振り、思わずびくりと身体を震わせた相手を真っすぐ見据えると、アーリットはくるりと回した杖を肩に乗せた。
「まだ、茶番を続けたいのか?」
「え?え?」
「俺はもう飽きてきた、そもそもそんなに気の長い性分じゃないんでな」
「な、何を言って……」
「この口からアーリット・クランの名を聞いたからには、もう自分の今後が見えてるんじゃないか?つまらない時間稼ぎで一体何が変わるってんだ」
「あ、そうか、思い出したぞ!アーリットて、マカドの言ってた王都の一級精霊獣師様じゃねぇか、ほ、本物か?もしそうならそんなお偉いさんが俺みたいな乳商人に、何の御用で……って!」
 若干汗の滲んできた愛想笑いの正面に、ぴたり、と何かが突きつけられた。細い銀の杖、その先端にごく小さな羽蟲が数匹、薄く輝く光球の中に閉じ込められている。アーリットが口の中で何か呟き光球が消え去ると、蟲たちはふらふらと飛び立ちティルクに向かってきた。
「うわ、む、蟲!なんで俺に!あっちいけって!」
「見えてるのか、ならやはりお前は貴血ってことだな」
 振りまわした腕で払われ、またもふらふらと蟲が周囲に散る。その次の瞬間、まるで見えない糸が切れたように一斉に蟲は羽を止め、ティルクの周囲に次々と落ちていった。石畳の上でもがく蟲、その身が音もなく食い破られ、内からほっそりとした糸細工のごとき別の蟲が頭を覗かせる。極細の糸で編んだような繊細な翅を広げると、光を纏ったかのごとき蟲達は皆、杖持つ主のもとへと舞い戻っていった。
「お前のじゃないならどうでもいいだろうが、こいつらは今喰った〝覗き蟲〟の情報を全部引き継いでいる。この街に、一級精霊獣師を出しぬける気でいる馬鹿がいるようだから、ちょっと確認させてもらうとするぞ」
 上げた手のひらに蟲を集め、そのまま身に戻す。何かに耳を傾ける顔になった後、じんわりとその白い頬に赤みが差した。
「……ミラめ、あの野郎、よほど俺にへし折られたい、ってのか……」
 んー、と聞き続けるか否か、困惑の表情で眼を逸らす。その一瞬の隙を見逃さず、赤毛がふわりとなびいたと思ったら、一瞬でティルクのすらりとした身体は大きく跳躍し、後方に離れると路地を駆けていた。
「おい、どうした、商売の急用でも思い出したのか?」
 そのまま塀から屋根へと飛び上がり、消えてしまった背に可笑しそうにアーリットが呼びかける。すかさず両眼から飛び立った緑光に、傷つけるなよ、と呼びかけるとすぐに二つの光は一直線に目標を追っていった。
「草原狼の野郎とは別行動か、ま、あっちは本当に只の牛飼いって気がするがな」
 街灯などという気の利いた物など置かれていない、月明かりのみの石畳の上を特に急ぐでもない歩みで進んでゆく。すぐに、更に細くなった路地の奥、あまりにも局地的な状態で渦巻いているつむじ風が現れた。その見えない〝風の檻〟に赤毛の獲物は成す術も無い様子で封じ込められ、黙して追跡者を待っていた。
「待たせたな」
「くっ……」
「できのいい間者なら、最後の最後まで、とことん相手を言いくるめる言葉を考えろ、嘘だと分かっても納得するくらいのな。逃げたらそこで終わりだ、その背に〝俺は嘘つきです〟と刻まれてるんだから」
「……いや、一級精霊獣師様相手に、冷静に嘘を続けられる相手なんていませんよ」
 苦笑した顔には、最初からこうなるのは分かっていた、と覚悟した色があった。ただ単に、予想を確信に変えるべく、その圧倒的な力を見定める為の行動だった。ご期待通りにそれを思い知らせてやったところで、アーリットは風の縛めを解き、改めて眼下の相手を見下ろした。
「お前は、どこの配下の狐だ」
「立場上は、アシウント王兵、セルバンダ将軍に属する下っ端間者です。が、本当は北ユークレン、ハルクライ領トリミスの出で、領主様の諜報員として向こうの情報を盗んでこちらへ流す、その任を預かっております」
「本当か?」
「一級精霊獣師様の御技で、いかように調べて頂いても構いません」
 ふん、と鼻を鳴らし、だが特に何もせずにアーリットは質問を続けた。
「俺と連れのことは、もうあちらに漏れてるのか」
「いえ、今のところ言葉を交わした者でアシウントがらみの人間はおらず、もしかしたら、って思ったのは俺一人だけでしょう。グリヴァはマカドと同じ一般市民の情報源、間者ごっこがしたいだけの田舎者です。テシキュルの情報が欲しい場合に便利だから時々使ってる、その程度の奴なんでどうかお目こぼしを願います。あいつを締めあげても何も出ません、保証します、だから……」
「お前、諜報員なのにぬるい事言うんだな。おまえらにとって情報源なんて、ただの消耗品でいちいち肩入れするもんじゃないだろう。そんなだから俺に嗅ぎつけられてこういう目に合っちまうんだ」
 アーリットの呆れたふうの一言に、唇を噛んだティルクは気丈にも言葉を返してきた。
「なら、俺にもお聞かせ願います。一級精霊獣師様、あのダトア、って名乗った西国人は、二国が捜索中の〝異界より訪れし竜の器〟なのでしょう?ユークレンの両王子がアシウントの手中に在るかも知れない今、一刻も早く我らアシウントの間者の目を避け、領主なり王都へと連れ帰らねばならないのは分かっておられるはず、こんなところで一体何をなさってるんですか?」
 思わず声を荒げたティルクの表情に、若いんだな、とアーリットは目を細めて見せた。
「あいつを連れ帰って、そちらに差し出しますから王子を返して下さいって言えってのか?馬鹿馬鹿しい、そもそも王子の件とあいつの事は表面上は全くの別問題だろうが、どんなに向こうがそれをこちらに匂わせたとしてもな」
「それを、分かっておられるなら……」
「添王子はこの俺、ユークレンの護り人、一級精霊獣師アーリット・クランが責任を持ってアシウントに赴き、力添え感謝の意を伝えた上で正々堂々道中護衛し、連れ帰る。面倒なのは主王子のほうだ、ここで明言するが、黒の破壊主は断じてその事件にかかわっていない」
「なぜ分かるんですか?」
「俺達自身がここに来る前、テシキュルのギュンカイ山脈でそいつとまみえ、深手をくれてやったからな。それ以前に王子をかどわかしていたのなら、無駄口好きなあいつが黙っているはずないし、それ以後はとてもそんなことをできる状態じゃないはずだ。で、王子はどの辺りで誘拐されたんだ?詳しい位置を聞かせろ」
「それは、アシウント南西部、ディプケース森林地帯です。トリミスまであと数時間の位置でした」
 その地名を聞いた途端、アーリットの表情がそれと分からない程度に強張った。
「で、未だユークレンからの探索は受け入れられてないんだな」
「はい、場所が〝あの〟ディプケースである事や、王都の復興もまだ成っていないユークレンにこれ以上の負担は酷、などともっともな理由を述べて兵は皆丁重に追い返されている次第です」
「アシウント兵が捜索を行っている様子はあるのか?」
「それは勿論、しかし相手が相手なだけにどうすればいいか、正直対策に困っているのは否めないようで。一級精霊獣師殿が戻られたら真っ先に知らせるよう、そこはユークレン側に要請しておられます」
「分かった」
 重々しく、アーリットが呟いた。
「狐、今からお前の忠誠をハルクライ領主からユークレン国に移せ。拒めば、お前の身の自由はここで諦めてもらうが」
「の、望む所であります!もとより自分はユークレン国民であり……」
「そうか、すまんな、聞きわけがいいと手間が少なくてこちらも助かる」
 あの糸切れ凧もこれくらい言う事を聞く耳があれば、と軽く嘆息する。
「……また、忙しくなるな」



 最初は、夢だとは気付かなかった。
 眠りに落ちた時そのままの周囲の雰囲気に、てっきり眼を覚ましたのだと思った。
 暗い室内、ほんのりと窓を浮かび上がらせている外の灯明、まとわりつくような甘い脂粉の香りを含んだ空気。
 そして、傍らに横たわる背。
 薄暗い中でもはっきりと分かるあの褪せた金髪、白い肌と違い、ごく先だけ金色の黒髪と浅い褐色の肌。一面に描かれている美しい紋様も、暗がりの中では分からない。
 あの絵を見ていなければ、けして気付けなかっただろう。
〝傾国の妖婦〟
 ラバイアの王都スィリニットを支配せんとした呪術使いをたぶらかし、野望をくじいた炎竜の化身。
 完璧だ、と半分寝ている状態の頭がぼんやりと賛美した。
 こちらに背を向けていても、そのプロポーションの素晴らしさがはっきりと見て取れる。滑らかな曲線で構成されたうなじから背の輪郭、引き締まった腰、毛布に隠れてはいるが丸く豊かに盛り上がったお尻のあたりと片方だけ覗いているすらりと伸びた脚。
 何も考えず、絵か彫刻に接する感覚で唯人は手を伸ばし、その背に触れた。温かな肌がぴくり、と反応し、髪に編み込んでいる鈴の微かな音と共にゆっくりとうねりこちらに向きなおる。やはり、そこだけは変わらない。身体を売る生業の女らしく濃い化粧を施しているが、明晰そうな顔の造りとほのかに輝く緑の双眼。ことさら意識させる仕草でうなじを掻くと、ゆらりと彼女は唯人に顔を寄せてきた。
「え……?」
「また欲しくなっちゃったの?」
「い、いいや、そんな!」
「相変わらず、見かけよりずっと元気いいのね。男って歳とってもこっちは別物だって言うけど、貴方は格別だわ」
 はすっぱな物言いが、低い声と相まって凄まじく色っぽい。まさにどぉん、の勢いで一糸まとわぬボリュームたっぷりの胸を押し付けられ、夢の中でも瞬時にパニック状態に陥り唯人は泡をくってじたばたした。確かに好きだ、こうなりたいという最終目標はあるにしても、今は心の準備が一ミリたりともできてない!でも夢なんだから、そんなに深く考える事もないんじゃないか……?という思考を投げ飛ばし、無我夢中でとび起きると必然的に相手を組み敷く体勢になってしまった。
「あん、乱暴にしないで」
「ごっ、ごめん!」
「もう、はしゃぎすぎて本当に昇天しちゃったらどうするのよ。もう少ししたらこの国どころか、世界が貴方のものになるんでしょう?せいぜい頑張って儲けて、私にたっぷりいい思いさせてちょうだいな」
 まるで鎌首をもたげる大蛇のように、起こされた半身が首筋に絡みついてくる。成す術も無く引き倒され、腹の上に馬乗りになって押さえつけられた挙句顔に迫ってきた唇に、もうこれは覚悟するしかないのかと息を飲んで硬直していると、ふと、ごくささやかな声が頭に響いてきた。
『……まだヤル気かよ、この助平ジジイ』
 これは間違えようがない、呆れているときのアーリットの声だ。
『さすが、ニアン・ティアッソ(背の15)にさんざ精を吸われても持ちこたえてるだけの事はあるな、野望に燃えたぎってやがる。だがあの淫獣野郎、獣だけあって加減ってものを知らないから気をつけてないとこいつを喰い尽くしちまいかねない。後少し、こいつが王宮にしかけた呪法と、闇取引してる連中を全て焙り出すまでは生きてて貰わないとな』
「さあ、遊びましょう、私を楽しませて」
 こっ、怖すぎる、この二重音声。寄せられた唇が予想に反し軽く額に触れた後、なぜかすいとしなやかな腕が上げられた。と思ったら、いっそ小気味よい程の音を響かせ唯人の横っ面が張り飛ばされた。
「な、何……!」
 驚きに言葉が出ないまま、返す手でもう一発浴びせられる。別の意味で度肝を抜かれつつ、唯人は立ち上がったアーリットがどう見ても顔を踏んづけるべく降ろしてきた足を紙一重で避けた。
『お、逃げやがったぞ、こいつ』
 一瞬興味深そうに眼を細めて見せたものの、あっさりと、避けようのないきつい一撃を言いたくない箇所に沈められてしまう。息がつまり、丸まった背を覆うように柔らかな感触の肌がすり寄せられてきた。
「どうしたの?私の奉仕を避けちゃ駄目じゃない」
 なんだか、随分と声が遠い。吐息は首筋に熱っぽく吹きかけられているというのに。
「どうかこの足に口付けさせてください、って言いたいんでしょう?この下品な家畜以下の色ボケジジイ!」
 ちゃんと言えるまでじっくりお仕置きしてあげるから、との空恐ろしい囁きがなぜかどんどん遠ざかり、尋常でない勢いの荒い息が浴びせられる。何とか振り向いた眼に入ったのは……。
「え?」
 闇の中に浮かぶ、獲物に舌舐めずりしている朱と紫の入り混じった人外の瞳。
 まるで手品かと思うほどに、背中からぴったり身を寄せてきている相手はもう既に入れ替わっていた。暗闇の中でそれと分からない程度には人型であるが、発している気がもう完全に〝獣〟だ。主に許された獲物を前に、存分に味わう喜悦に眼を輝かせている。
 身動きできなくされたら終わりだ、と絡んでくる腕をなんとか引きはがそうとしていると、ふと、寝台の端が微かに揺れ、誰かがそこを離れたのが伝わってきた。
『じゃあ、俺は城に戻って調査を続けるから、いつものように朝までたっぷり可愛がってやれ。何度も言うが、くれぐれも調子に乗って喰い尽くすんじゃないぞ、しくじったら無人の弧島に封印してやるからな』
「ちょ、ちょっと、待ってくれ、アーリット、アーリットってば!」
 唯人がどんなにその喉をからして叫んでも、彼には届いていないのか一瞬空気が動いた後、その気配は消えてしまった。唯人の渾身の抵抗をも楽しむように、人型の獣はがっちりと四肢を絡め身動きを封じると、首筋にぬらりとやけに長い舌を這わせてきた。
「きっ、気持ち悪い!よせ!」
 ちょっと待て、夢だろう。
 たとえ夢でも、ここから先は無理だ。
 誰か、頼むから起こしてくれ!
 必死の叫びが闇に吸い込まれる、それに応える天からの啓示のように、ふと、つまらなさそうな響きの声が唯人のもとに降ってきた。
 ……嫌ならそっちで勝手に閉じればいい、俺だってそうしてくれたほうが有難いってんだ……
「え?閉じるって?なんだ、どうすればいいんだよ!」
 唯人の思いが届いたのか、暗闇に緑の光輝をひいた小さな何かがすいと空を飛んでやってきた。素早い動きで縦横無尽に飛びまわり、唯人の前に緑の光糸で複雑な紋様を描きあげる。知識ではなく無意識の動作で伸ばした指先がそれに触れた瞬間……。
 


 目を覚ますと、また一人になっていた。
「……アル?」
 ひどい夢だった、と寝ぼけまなこで身を起こし、薄日の射しているすすけた室内を見渡してみる。脱ぎ散らかしていた衣類が無い、ということはどこかに出て行ったんだなと欠伸をひとつつき、眼をこすりつつ唯人は小さな窓を覆っているカーテンを引き、眼下の路地を見下ろした。
「……あ」
 眼に映った光景に、瞬時に頭が覚醒した。昨日の二人連れ、その片割れの縞毛のグリヴァが宿の入り口が見える曲り道の角にいる。何かを待っているのがありありな、ちらちらとこちらを覗き見しているその様子に慌ててカーテンを引くと、最悪のタイミングで背後の扉がいきなり大きな音を響かせた。
「お客さん、もしもし、お客さんってば!起きてますか!」
「は、は、はい!何ですか?」
「申し訳ないです、そろそろ掃除させてもらいたいんですが、いいですかねぇ!」
 掃除と言うのは、もう時間だからとっとと出て行ってくれという連れ込み宿の業界用語のようなものなのだが。そんな事全然知らずとも、慌てて身支度を整えて唯人は部屋を飛び出した。扉を開くと背の低い、良く言えばぽっちゃりな体形の中年女がふて腐れたような表情でこちらを見上げている。そのまま掃除に入るのかと思ったら、女はぴったり唯人の後を追い下の受付まで付いてきた
「女将さーん、波百合の間のお客さん、もうお出かけだそうでぇす」
 朝なのでひと気のない酒場の卓には、昨日と同じ、世慣れした印象の女主人が座り煙管をふかしていた。
「あいよ、坊ちゃん、宿代は貰ってるから酒代と杯の貸し賃だけ払っとくれ、これだけだよ」
 はぁ、杯の使い賃までとるのか、と呆れつつ石貨を数えて伝票ぶん台に乗せる。唯人に横目の視線をくれ、眠たそうな表情の宿の女主人はふふん、と妙な笑みを向けてきた。
「……坊ちゃん」
「はい?」
「あんな別嬪とこんなとこ来て、指一本触れさせてもらえなかったってのかい?随分よく寝ました、って顔してるじゃないさぁ」
「いいじゃないですか、別に」
「そりゃそうだけど、ま、別嬪さんにこれだけは言っときなよ。うちのご贔屓様になんだけど、マカドなんて相手にするなってね」
「分かってます」
 後、うちの優待券とお勧めの娼館のちらし。次は一人でおいでよ、ひと声かけてくれりゃあすぐに可愛い娘っ子をいくらでも呼んでやるからさ、と営業スマイルで言われ、唯人はこの瞬間アーリットが戻ってきやしないか、と冷や汗もので周囲を伺いつつ支払いを終えた。
『ミラ、アーリットがどこに行ったか知ってる?』
『うーん、夜中に出て行ったのは見たけど。もうちょっと情報を集めに行ってるんじゃない?』
『なんで一人で行くかな、僕、そんなに邪魔ってことなのかい?』
『そりゃあ、君は夜は寝ないとすぐ体調にひびいちゃうし。おチビだって、得意技の色仕掛けやるたびに半べそかいちゃう連れ子が側にいたら仕事にならないよ。この件に関しては、唯人、君は精一杯働いて気分悪くして戻ってくるおチビを癒す、極上の嗜好品になればいいだけのことじゃない?』
「それって、愛玩動物の役目って気がするんだけど……」
『可愛い伴侶の役目だって』
 そんな無駄話をしつつ、唯人は宿の外に出て、グリヴァに見つかる前に速やかにミラの術で姿を消した。宿をぐるっと取り巻いている生垣に身を寄せて、まだじっと見張り続けているグリヴァを避け建物を逆回りし街の中心街のほうへと足を向ける。
 さて、これからどうしたものか、アーリットはいつ戻ってくるんだろうと思案しつつ、何やら路上にかたまっている人垣を避けようとして、唯人は驚きに目を見開いた。
「……え!?」
 集まった人々は、我先にと路店にある、唯人の世界で言うところの新聞である時事誌を買い求め、その場で読みふけっていた。店先では売り子の男が、ことさら皆の心をあおるように一番の記事のあおり文句を叫んでいる。それが、唯人の耳に届いてきたのだ。
「一級精霊獣師、アーリット・クラン様がお戻りになられた!今朝、タリエティ領主の城に到着されたそうだ、破壊主は討ち取られたのか、主王子の捜索の交渉について頂けるのか?詳細は買って読んでくれ、さあ!」
 せっかく習ったユークレン文字がしばらくの中央離れでまた頭から消えかけているのも忘れ、唯人は思わず人混みに突入し、残りわずかの中の一部を買い求めてしまった。
「えーと、い、一級……精霊獣師、アーリット・クラン、が、タリエティ……の……」
『唯人、僕が読もうか?』
「う、うん、頼む、ミラ」
『……ユークレン国軍一級精霊獣師、アーリット・クランが今朝、タリエティ領主スカイン・ラグウェイヴ・タリエティの居城を訪れ、滞在している。黒の破壊主を追って東に赴いたのは周知の事実であったが、今回もその討伐は成らなかったようだ。今後は速やかにテルアに戻り、ユークレン主王子(オルン・ティエリ)の捜索に加わると推測される……』
 なおもミラの言葉は続いていたが、唯人の頭にはもうそれ以降は入ってこなかった。なんで、なんで何も言ってくれない。風に舞う木の葉のごとく、眼の前にあったと思ったら、一瞬後にはひらりと高みに舞いあがって行ってしまう。落ち付け、いつだってちゃんと事情はあるはずなんだから、と冊子をたたみ顔を上げた唯人のもとに、ひどく慌てた様子の足音が迫ってきた。
「うん?」
 しまった、姿を現していたのでグリヴァにでも見つかったか、と音の来る方を振り返る。しかし予想に反し、こちらに勢いよく駆けてきたのは長身に厚手の長衣を引っかけ、淡灰色の髪をふり乱した壮年の男性であった。
「う、うわあああっ!」
 ふいに、唯人の見ている正面で、男は石畳のほんのわずかの段差につまずくとものの見事にすっ転んだ。服に留めてあった鼻眼鏡が鎖ごと吹っ飛んで、唯人の足元に転がってくる。大人の転び方じゃない、と一部始終を口半開きで見届けた後、慌てて眼鏡を拾うと唯人は男のもとへ駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ、ありがとう、大丈夫だ。こいつは私専用に特別丈夫にあつらえてるからな、ほら」
 手渡された眼鏡を取り巻くごつい木枠を見せて、はは、と苦笑する。あ、それどころじゃない、とやおら男は飛び起き唯人の背後にあった時事誌の屋台に向かっていった。
「え?売り切れ?なんでそんな!」
「おいおい旦那、朝一の号外を今頃買いに来て文句言える立場じゃないだろ。こちとら夜明け前から死ぬ気で刷って、多めに用意はしてあったんだっての。次の夕方の部を待ってなって、また新事実も載ってるだろうから」
「だって自分は、北区のはずれに住んでいるんだぞ?そんな騒ぎが起きてるなんて、朝一番でどうやって気付けって言うんだ。君達時事誌屋は、もっと情報をこの街全体にまんべんなく行き渡らせる努力をするべきであって……」
 この言葉は、もう屋台の片付けにかかっている売り子に向けられたものではなく、とぼとぼと引き返してくる間の独り言だった。あ、ああ……じゃあ、と力なく横を通り過ぎようとするその姿に、思わず唯人は手の冊子を差し出していた。
「あの、これ良かったら。僕が読んだ後で申し訳ないけど、それでいいならどうぞ」
 向けられたくすんだ灰緑の眼が、びっくりしたように見開かれ唯人と冊子を行き来した。
「いいのかい?」
「はい、内容はもう分かりましたから」
「本当に?」
 ちょっと面倒くさい人だな、と思いつつ表情には出さず、にっこりと微笑んだ唯人の手から素早く冊子が引き取られる。ああそうだ代金、と懐を探ろうとした手をいいですよ、と遠慮した。その唯人の顔がやっと今脳に届いた、と言わんばかりの表情を浮かべ、男は動きを止めるとまじまじとこちらを眺めてきた。
「ちょっと、伺いたいんだが」
「はい」
「君は、ダトア君かな?」
「は?」
 思わぬ、全く無防備だった隙からの衝撃に全身が固まった。な、なんで、初対面のこの人の口からその名が。瞬時に周囲の人間全てがアシウントの偽装兵に転じたような気になって、慌てて逃走経路を探し周囲を見回した唯人の様子にうん?と不思議そうに首をかしげると、男はくったくのない笑顔で手を差し出してきた。
「ああ、そうなのか、やっぱり!会えて嬉しいよ、今朝、家に乳を届けてもらってるグリヴァ君から君の事を教えてもらってね、中央の学者で専攻が廃地調査だって?その若さで、優秀なんだな!」
「あ、は、はい、どうも……」
「ああ、警戒しないでくれ、怪しい者じゃないんだ。私は君と同じアシウントの廃地研究者、ワイシャルク・エデルネアという。知っての通り、アシウントでは廃地の研究は国家事業で、個人での調査は認められていないものでね。でも私は地質学者としてどうしても廃地への興味を抑えがたく、こうしてユークレンの地に移り細々と独自に研究を続けているという訳さ。研究費も出ないし、あまりおおっぴらに行動するとうるさいのにばれて強制送還されるから、行動がままならないのは事実なのだが」
 これだけの長説明を、ワイシャルクという男は途中からちらちらと時事誌に目を向けながら語ってみせた。なんだかすごく頭のいい人だな、というのは分かるのだが。あまりにも学者然としていると言ったらいいのか、ちょっとした常識や生活感が見事に抜け落ちている。目はしっかり冊子に据えたまま、ぜひとも君の調査結果と見解を聞かせてくれ、と彼は唯人の肩を取ると当然の面持ちで大通りを歩き出した。
「あ。あの、足元、気をつけた方が……」
 さっきの大転倒を見た後では、その一点集中っぷりが恐ろしくてしょうがない。ああ、アシウント人は骨格がしっかりしてて頑丈だから少々のことは平気だよ、と事もなげに言われ、とにかく巻き添えをくうのだけは避けよう、と唯人はそれなりに骨太の彼の手をそっと肩から引き離した。
「君がいつこの街を発つか分からないので、その前にぜひとも会いたいと言ったらグリヴァ君が様子を見て来てくれると言ったんだが。その様子では出会えなかったみたいだな」
「あ、はい、すれ違いになったんでしょう」
 そういうことにしておこう、彼もまだ、唯人の中ではアシウントの密偵疑惑が解けてはいない。アーリットのことがまだ頭の中で整理できてない上、この街に長居すればするほどアシウント兵に見つかる危険性が増しているというのは重々分かってはいるのだが。悲しい日本人の性という奴で、唯人はこの強引な誘いを拒む事が出来ず、ずるずると街の外れの高台にあるワイシャルクの家へと招き入れられた。
 ここまで来て改めて悩むのも馬鹿らしいが、そもそも自分は学者ではない。相手が専門的な話をしたがっているのにどう応えたらいいのやら、と雑然とした室内で呆然としていると、奥に引っ込んでいたワイシャルクが山のような資料を抱えやってきた。
「うん?立っていないで座ってくれたまえ、どこでもいいから」
 いや、そう言われても。結構広い部屋なのに見渡す限り眼に映るのは壁一面を埋め尽くす地図と資料の山に箱の峰、どこに腰を下ろせるのか全然分からない。仕方なく、床に落ちている紙のたぐいを押しのけ唯人は空いた隙間にちょこんと体育座りした。
「テシキュルから来たということは、ギュンカイ山地を調べてきたんだな。どうだった?あの辺は。私が二年ほど前に行ったときは、もう随分と廃化が進んでいたが」
 ワイシャルクが、持ってきた資料の中からギュンカイ山地の景色を写した絵を数枚出して見せる。唯人が見た時より、絵の中の山肌はずっと緑が多く残されていた。
「かなり変わってますね、僕の見た山は、灰色の中に緑が散在している程度でした」
「君は、資料を作らん主義なのか。荷物は増えるが同じ分野を歩む同志の為に、そこはやっておいたほうがいいと思うがな」
「は、はい、すいません」
「で、小難しい事を語り会う前に最初に聞いておきたいんだが、君はこの廃地と言う現象にどういう仮説を立てている?この回円主界で初めて廃地を研究したビュリント卿の〝大地逆転説〟か、それともユークレン学術院リリアイン博士の〝物質総寿命説〟を信じているのかね。私はあれは精神論で、地質学的にはどうかと思っているのだが」
 はい、どっちも知りません。
『ごめん唯人、僕も話に聞いたくらいで、しっかりとは知らないな』
『うん、気にしなくていいから、ミラ』
「え、ええと、僕は、何らかの理由で世界主様がこの世界を組み上げる御力が弱まってきているのではないか、という考えで……」
 唯人の苦し紛れの返答に、ほらやっぱり、とワイシャルクは鼻白んだ表情を見せた。
「ああ、君はやはりユークレン人の学者だなあ、まずそちらから入るか。そんな解決法の糸口さえ断ち切るような結論に飛び付くまえに、もっと現実的な、地に足の付いた研究をだね……」
 この後、薄々分かってはいたが、正午を過ぎる頃あたりまで唯人はちんぷんかんぷんの地質学の講義に延々付き合わされるはめとなった。熱意は十分過ぎるほど伝わるのだが、いかんせんさっぱり分からないから面白くない上、こちらの意見はほとんど聞いてもくれない。まあ一言で言えば〝地下に廃地と言う謎の地層が存在しており、何らかの理由でそれが地上にせり出してきているのだろう〟という彼の地味な仮説に心の中で欠伸して、さて、この場からどうやって逃げ出させてもらおうかと策を練り始めた唯人に、ああもうこんな時間か、とワイシャルクは慌てて厨房に入ると簡単な食事を持ってきてくれた。
「通いの家政婦さんが夕食を作ってくれるんだが、いくら言っても私の体格を見て多めに作ってしまうんだ。だから、残りをこうして翌日の昼に頂くことにしている。堅焼きは買い置きがあるから好きなだけ食べてくれ」
 確かに、自分でも言っているようにけして筋肉質とは言いづらいが、ワイシャルクは長身だ。外見的にはユークレン人とほぼ差はないが、猫背気味なのにそれでも明らかにサレくらいはある。考えてみれば生粋のアシウント人に会ったのはこれが初めてだな、と唯人は話に聞いたとおりの〝色が薄くて大柄〟に納得した。唯人の世界で例えるなら、北欧系といったところか。この体格でしっかり鍛えた大勢の兵士に向かってこられたら、これまでのようには行かない気がする。
 そんな風に唯人にじっくり観察されているとは露とも気付かぬ様子で、ワイシャルクはユークレンではありふれた家庭料理である、ふかした芋を潰して数種の具材とあえた物を堅焼きに添えて食べながら、ふと、目を細めた含みのある表情を窓の外へと向けた。
「ダトア君」
「はい?」
「ありがとう、随分と久方ぶりに話が合う人間と楽しい時が過ごせたよ。礼と言っては何だが、同じ道を歩む同志である君に大事な秘密を教えてあげよう。これは同じ廃地研究をしていても、多分アシウントの学者のみに知らされている重大な事実だ。私は口外するのはこれが初めて、ゆめゆめ君とそれ以外の国の研究者に漏らさぬよう、そして私が語ったという事は秘密にしてくれたまえ」
「はい、世界主に誓います」
「よろしい、窓の外を見なさい、何が見える?」
「街並みと、遠くに山が見えますね、アシウントのレイオート大山脈でしたっけ」
「そう、山砦国アシウントの名の所以である、国の中心たる父なる大レイオート。南に難攻不落の城塞都市ザイラルセンをそなえ、北はけして人を寄せ付けぬ万年氷土と凍結海の広がる地だ」
「そうなんですか」
「これは、初めて聞いたみたいな顔をするな?いくら中央の出でも、学術院の初等科で習うはずの事だろう」
「は、はい、思い出しました」
 慌てる唯人に、特に気にするでもなくワイシャルクは話を続けた。
「実はだな、この大レイオート北部の地が、かなり前から大掛かりな廃化を始めているらしいんだ。アシウント国以外の学者が知る廃化の地は、一番大規模なのが君の見てきたギュンカイ山地周辺、次にラバイア南部の人の住まない砂漠の地、後はユークレンや群島国の僻地にごく小規模のが散っている。しかしアシウントの研究者は皆知っている、恐らくレイオート北が最も大規模で、廃化する速度も速い地だという事実を」
「えっ?それ、本当なんですか?」
「残念なことに、私もこの眼でしかと確かめた訳ではない。私と同じ学び家で過ごした親友が国の研究室に入り、そこで見知った事実を図書館の棚越しの独り言という形で私に漏らしてくれたんだ。私は地質学者としてレイオート山北部の調査申請を何度も出したが、一度も受理された事は無かったし、気象学者の仲間も、毎年吹き荒れていた雪嵐が最近とんと吹かなくなったという間接的な事柄からそれを疑っていた。いたんだが、いざそうやって友の口からそれを告げられると、衝撃は余りあるものだったよ」
「それなら、早く廃地をどうにかする術を見つけないと、南にある都市が危険なんじゃ……」
「そのとおり、まさにそういう事なんだ、ダトア君。アシウントが廃地の研究を国の事業にして、けして外に漏らさない理由がそれなんだ。私はしがない一学者の意見として、もうこの研究は秘密にするべきではない、他国、特に智の国と呼ばれるユークレンと協力し、全ての資料と知恵をまとめるべきだと思っているのだが。残念なことに、我が国は軍事国家の面も持ち合わせている、弱みをむざむざ他国にさらけ出す愚を犯すわけにはいかないらしい、たとえ同盟国であったとしても」
「でしょうね、その言い分は僕にも分かります」
「しかしだな、今、君が教えてくれたギュンカイ山の廃地の広がる勢いを聞かされて、私は急に恐ろしくなってきた。こんなところで呑気に研究を続けている間に、あの山の向こうはどれほどまで灰色に変じてしまっているのだろうか。できるものならこの眼で確かめてみたい、学者の興味もあるが、国の危機を憂うアシウントの一国民としてな」
 すでに、彼の心は大山脈の向こうへと飛んでいるようであった。
「ワイシャルクさん」
「なんだね?」
「アシウントへは戻れないんですか?今まで集めた資料を持って、国の研究機関に思いを伝えることはできないんですか?」
 唯人の真っすぐな物言いに、灰緑の瞳はふいと困惑の色で伏せられた。
「国に戻る事、それ自体は容易いだろう。この街に駐留しているアシウントの兵の元に赴き一言〝アシウントから出て、個人で廃地の研究をしています〟と告げればいい。すぐにでも彼等は私を王都へ連れ帰り、資料は残らず没収されるだろう。その後は、常によく冷えた狭い格子の個室でしばらく過ごさねばならんだろうがね」
 その時はこの料理が王城の御馳走にも思えるだろうな、と芋料理の残りを綺麗に匙ですくって空ける。学者にとって一番辛い、興味の対象に思う存分のめり込めない辛さが全身から滲み出しているようだった。
「そんな事しないで、こっそり普通に歩いて戻ったら……」
「ダトア君、君はアシウントに行った事がないんだな。まあ君のような他国の若い廃地学者には、無用の地であることは分かるが」
「はい」
「〝山砦国アシウント〟我が母国がそう呼ばれているのは知っているだろう。砦と言うのは、人が築いた物だけではない、王都であるザイラルセンを抱くレイオート山そのものが、古よりの防壁として国を護り、外敵、賊、不審者の侵入を厳しく拒んでいるんだ。私が国を出た時は、まだ若く無謀だったこともあり、わずかばかりの資料と観測器具と共に雪渡り(スキー板)をはいて斜面を一気に滑り降りた。しかしその逆、同じ道程を登る事はまず不可能。国内を移動する者は、要所要所に関所のある主道を通らねばすぐに遭難の危機にさらされる。君が霊獣持ちで空を飛ぶ霊獣を飼っていたとしても、アシウントは山のほとんどが鷲獣の生息地、空は野生の彼等と軍に属する彼等にきっちり仕切られている。そうだな、君が廃地研究などしていない、只の商売人か旅人として訪れるなら王都は少しよそよそしく、慇懃に君を迎え入れてくれるだろう。君は西国人にしては珍しく精霊獣を持っているようだから、あまり無礼な扱いはされないさ」
 唯人の下履きの裾から覗いている、薄荷の精霊痕に気付いたのかワイシャルクが興味深そうな目を向けてくる。アシウントは軍事国家で回円主界最大規模の軍を擁し、最強を自負している。だが遥かな過去、同盟を結ぶ前のユークレンの体格も規模もあからさまに劣る軍に、精霊獣で痛い目にあわされた事が幾度もあったらしい。それを教訓に、同盟後は積極的に貴血を王族や有力貴族の血筋に迎え、そちら方面を充実させるべく力を入れているようだ。
「そういえば、今朝、君に譲ってもらった号外に一級精霊獣師殿の事が載っていたな。あの方は、たとえ害敵……えーと、なんていったかな?」
「黒の破壊主です」
「ああそうそう、その破壊主とやらを追う目的がなくとも世界を自由に、なんの制限もなく巡る。私のような凡俗にとってはうらやましい限りだな」
「その分、責任も大きいんだと思いますよ」
「それはそうだ」
 はは、とワイシャルクが力なく笑う。なんとなく再度窓の向こうの山に目をやって、唯人はふいにある事実に思い当たった。
「ワイシャルクさん、ちょっと教えてもらいたいんですが」
「どうしたね?」
「すいません、研究に関係ないから分からないかも知れませんが、黒の破壊主がこれまで壊してまわった街とか史跡の場所ってどこなのか、資料とかありませんか?できれば全部知りたいんですが」
「なんだ、唐突に。あれが暴れ出したのは十年程前からだから、君も知ってるんじゃ……ああ、勉学に忙しくてそういうのにはかまけていられなかったのか、分かるよ。で、何が気になるんだね」
「はい、僕がこれまで見知った経緯では、黒の破壊主は群島国エリテア諸島、ラバイアの首都スィリニット、テシキュルのエクナス神殿、そしてユークレンの王都テルアに直接、もしくは間接的に災厄をもたらしています。でも、あくまで聞いた範囲では、アシウントにはいまだ被害が及んでいない。それは僕が知らないだけで、過去にアシウントのどこかが被害を受けていたのだとしたら確めておきたくて」
「ふむ、そう言われれば、確かにアシウントにあれが現れたという話は聞いてないな。軍が睨みを効かせているせいだと言われてはいるが、はっきりさせたいのなら、奥の部屋にここに来てからの十五年分、時事誌の号外を買い溜めてあるから調べてみるといい。時々買い逃してはいるが、その時はすぐ次の夕刊を買ってあるから大丈夫だ」
「え、本当ですか?有難うございます、助かります!」
「いやいや、何かの役に立つかと思って取ってある物が、いざ必要とされるのは嬉しいものだよ」
 物で溢れている室内に、獣道のように通っている隙間を抜けて隣の部屋に導かれると、唯人の目当ての資料はきちんと整理され年ごとに棚に並べられていた。部屋の片づけはできないのにこういうのはまめなんだ、と感心しつつ十年ほど前のから調べてゆく。大事件の時にのみ発行される号外なので、そう量がないおかげでわりとすぐに全て目を通す事ができた。やはり、アシウントは山岳地帯とはいえ広い国土をごく辺境、西の群島国との境い目辺りの一箇所しか荒らされていない。ユークレンはテルアとキント、その他を入れてもう五回も襲われているというのに。国の事情を知らない自分がこれを不自然だと感じるのは、おかしいのだろうか。
「ワイシャルクさんは、なんでこれを取っておこうと思ったんですか?」
「うん、そりゃあ、地質の調査に行こうと思った時、行き先がどういう状態なのか知っておく必要があるからな。ほら、この九年前の群島国ペイジュ島遺跡が壊されたのは、丁度私もそこに赴こうと準備をしていた時だったんだ。その後、この島は立ち入り禁止になってしまったよ。なぜかあの害敵は人の多い大都市か、その反対の誰もいない地、すなわち廃化の地付近に現れそこを滅茶苦茶に荒らしていく。こんな事を言っては何だが、もしかして廃地研究者に個人的な恨みでもあるのかね……?」
 ワイシャルクの何気ない一言に、唯人は思わず振り返って彼をまじまじと見据えてしまった。
〝この世界は、常に騒がしく在り続けねばならぬ。でなければ退屈という滅びに呑まれ消える運命なのだから〟
 ギュンカイ山地で聞いた、彼の言葉がはっきりと思い返された。彼は、本当は好き勝手に気の向くまま振る舞ってなどいないのではないだろうか。確固とした信条のもと、目的の地を訪れ破壊行為を行っているのだとしたら。アシウントの北部が廃化を起こしているというのが事実なら、彼がそれを見過ごすはずはない。
 何か理由があるのか、それとも単にまだ順番がまわっていないというだけのことなのか。
 彼が、アシウントの軍を怖れているとは思えない。一国の軍と対等にやりあえるであろうアーリットを圧倒する力が彼にはある。
 ……これは。
 行った方がいいのだろうか。
 自分を捕え、実験動物のように扱う気でいる国。そして明日にも圧倒的な暴虐にさらされるかも知れない国に。
 到底敵わない相手とまみえる為に。
 その思いが浮かんだ瞬間、同時にアーリットの精霊獣にがんじがらめにされどつかれている自分の姿が垣間見えたが、いや、と唯人はわざと思考をもう一回ねじ曲げた。先に、自分に何の相談もなく消えたのはアーリットのほうだし。特に指示をくれないなら、ここで待っていろという事かも知れないが、それでは遠からずアシウントの探索兵に見つかってしまう。
 なら、ここはあえて彼等の懐に飛び込んでやるという手もありだ。向こうもまさか、追っている相手が自国に入ってくるとは思わないだろう。
『ミラ、僕の考え、どう思う?』
『うーん、危険じゃないとは言わないけどさ、唯人の思うとおりここでじっとしててもね。どうせおチビもアシウントに向かうのは間違いないだろうから、唯人が行きたいならそれでいいんじゃない?』
(はっかは、きたにもどれるならうれしい、はっかはきたでうまれたから)
『そうか、凍練獣って北が故郷なんだな。そうだ、もし山の北側に行けるようだったら、薄荷をそこに還してあげよう。無理やり連れて来られて辛かっただろ、もと居た場所でまた自由に暮らすといいよ』
 この唯人の申し出に、霊獣は意外な言葉を返してきた。
(それはいやだ)
『え?なんで』
(いまがじゅうぶんいごこちがいい、はいいろはこわい、はいいろがいるところにはかえりたくない)
『薄荷も、廃地のこと知ってたのかい?』
(はいいろは、とおいとおい、こおったうみのむこうからやってきた。のぞいたり、おしかえそうとしたなかまはみんなとけてきえてしまった。はっかはまだちいさかったから、やまをこえてまちのそばまでにげていたらそこでにんげんにつかまった)
『そうだったのか……』
 これで、規模は分からないか確実に北の地が廃化を起こしていることの確証が持てた。なら、取るべき道はただひとつ。
「ワイシャルクさん、ものは相談なんですが」
「うん?なんだね」
「僕、アシウント国に行ってみたくなりました」
「だろうな、廃地を研究する者なら、今の話を聞いてそう思わないはずがない。君は若いが本物だな」
「それで、もしよろしければワイシャルクさんも一緒に同行してもらえませんですか?行く先の事情をよく分かっている方がいて下さると、有難いのですが」
「おいおい、君はさっきの話を全然聞いていなかったのかね。私は無理だと言っただろう、最近なぜか急にこの街にアシウント兵が増えてきて、時事誌を買いに出るのも冷や汗ものだったんだ。これからもこの状態が続くようなら、グリヴァ君に頼んで街の外のシロナエム族の集落に住まわせてもらおうかと思っているくらいなんだから」
 そりゃあ戻りたいさ、戻れるものなら戻りたいよ、本当に……と諦め顔で溜息をつく。そのワイシャルクに、唯人はとっておきの秘密を披露する子供の顔で近づいた。
「大丈夫ですよ、ワイシャルクさんに秘密があるように、僕にもそういうときの奥の手があるんです。誰にも言わないって約束してくれますか?」
「は?奥の手?それは何だね」
「先に口外しないのを誓って下さい」
「あ、ああ、分かったよ、どうせ私と話す機会のあるのは家政婦のラニエさんとグリヴァ君くらいだからな。誓う、アシウント王の側近を務めあげた私の曽祖父と世界主に誓うよ」
「ありがとうございます、では、まばたきせずにじっと僕を見ていて下さい」
 うん?と小首を傾げたワイシャルクの前で一礼し、唯人はミラに頼んで一歩も動くことなくその場から姿を消して見せた。なんと!と呟き周囲を見回すその背後にこっそりとまわり、ぽんと肩を叩いてやる。すかさず振り返った顔をそのままに、元の位置に戻ると唯人は再度姿を現した。
「い、今のは……?ダトア君」
「僕の持っている鏡の精霊獣の特技です、何かを背にしていればこういう風に姿を隠してくれるんです。これなら、ワイシャルクさんも関所をやり過ごしてアシウントに戻れると思うんですが」
「ダトア君、君は……」
「お願いします、僕、初めての国に一人じゃ心細くて。ワイシャルクさんしか頼れません!」
 ああ、今ここにアーリットが乗り込んできたら今度こそ力づくで孕まされるな、と自覚してしまうくらいの媚を含んだ声で唯人は上眼使いの視線をワイシャルクに向けた。しかし流石に筋金入りの学者、唯人のなけなしの色香より、本心はとても戻りたかった故郷への道が開けたという期待で、みるみるその眼に輝きが溢れてきた。
「分かった、分かったよダトア君!若い君のこれからの為だ、このくたびれた先達が役に立つならいくらでも頼ってくれたまえ!そうと決まれば準備をしなくては……とりあえず明日の朝出発ということで、それまで待ってくれるかね?」
「あ、はい、僕はそんなに急ぎませんから」
 どうやら、ワイシャルクは一見アーリットの言うところの〝無能者〟に見えそうだが、身体は丈夫だし話を聞けばどうして、荷物ひとつで大山脈の雪の斜面を滑り降りるなど、人並み以上の行動力とそれを実行できる素晴らしい判断力を持っているようだ。ちゃんとサポートしてあげさえすれば、頼れる道連れになってくれるだろう。
 もう完全に心が飛んでしまった表情で、大きな鞄を引っ張り出し資料を選んでいる。彼の邪魔にならないようささやかな前庭に出て、外を眺めていた唯人の眼に、ふとこちらに向かってやってくる人物の姿が入ってきた。
 ワイシャルクの住居は、街の外れのひときわへんぴな高台にぽつんと建てられており、道をやってくるのはここに用がある人間だけだ。そう近づいてこないうちに、唯人にはそれが誰であるのかが分かった。濃灰を基調とした縞毛に皮の衣装、昨晩と変わらぬ姿のシロナエム族のグリヴァ・ラン・シュミエその人だ。
 とりあえず室内に引き返したものの、唯人はなんとなく彼は大丈夫だろうという確信を持つに至っていた。彼がもしアシウントの隠密探索兵だったなら、ワイシャルクはもうとっくにアシウント兵に通報され、国に送り返されているだろう。そ知らぬ風で物だらけの部屋の奥にもぐり込み、唯人は彼がやってくるのを待った。
「エデル、いるか?」
 軽いノックと呼びかけ程度では、準備に夢中な彼の頭に届くのは難しいようだった。しばらく呼びかけを続けた後、窓の方へとまわりこんでくる。中でごとごとやっている音が聞こえたのか、やれやれといった表情を浮かべると彼は出入口に戻りそのまま入ってきた。
「また片付けを始めたのか、やればやるほど床が見えなくなってゆく気がするんだがな。そろそろ、何か捨てようという気にはならないのか?」
「お?おお、グリヴァ君、来ていたのか」
「すまん、朝、頼まれた相手を探していたが、どうにも見つからなかったのでそれを伝えに来た。それとついでに、今月の乳の代金を貰えればと思ってな」
「分かってる、ちょっと待ってくれ、今取ってくるから。それでだが、すまないが乳は今日まででいい、明日からしばらく出ることになってね。急な話なものでラニエさんに言伝ておこうと思っていたが、君が来てくれて良かった」
「ほう、またどこかの土地を調べに行くのか」
「ああ、ちょっと長い旅になるだろう、素晴らしい道連れが現れたんだ。な、ダトア君!」
 まるで少女漫画ばりに眼をきらきらさせたワイシャルクに呼びかけられ、はぁ?と言いたげなグリヴァの前におずおずと唯人は顔を覗かせた。眼に映った瞬間、何かもの凄い心の葛藤があったのか、渋い表情のグリヴァがこの紙だらけの室内でおもむろに煙管を取り出し香草を詰め火を入れる。ふーっ、と紫煙を吐きゆっくり歩み寄ってくると、彼は懐から一通の封書を出し唯人に差し出してきた。
「……事情は知らんが、朝一でティルクからお前に渡せと頼まれた。随分探したぞ、テルアのダトア」
「すいません」
「あの、美人の伴侶はどうした?」
「昨晩、僕がまだ子供は欲しくないって説得したら怒って先に街を発ってしまいました。ここからなら、何とか僕一人でもテルアに戻れますから」
「そうか、子がいないなら独り身に戻るのも気楽で良いだろう」
 ええと、僕まだふられたとは言ってませんが。とにかく受け取った封書を開き中を読み取ると、唯人は手早くそれを丸め待ちかまえている綱手の口に投げ入れた。
 ふふ、と抑えきれない笑みが漏れる。
 手紙は、アーリットから。今の自分の状況と、唯人への指示が記されてある。戻れでも隠れていろ、でもない、アシウントの王都に向かう為の具体的な道程と手段が書かれてあった。
 お前なら、もうこれくらいできるだろう。
 俺はお前と繋がっているのがばれたらまずいから、今後は別行動になるが、機会を見てまた連絡を入れる。
 機が熟せば合流だ、それまでは、道中もしヘマをやっても自分でなんとかしろよ。
 俺も、お前を探す人員に駆り出されないという保証は無い。俺達の関係はテルアでの湖水下牢時の状態だ、もし見つけたら本気を出す、お前も本気で向かって来るなり逃げるなりしろ。
 一応言っておくが、俺の心配はしなくていいからな。というかするな、お前はそれでいつもおかしな事になるんだから。
 以上だ、お前の世界の神とやらに幸運を祈る、〝私の可愛い蜜蜂さん〟
「分かった、アーリット。君の期待に応えられるよう頑張るよ」
 やっと、ここまで辿りつけた。
 手をひかれて護られるだけの幼児から、言いつけをこなせる子供の域に。
 そして、いつかは君を護る〝男〟になる。
 蟲とかガキ呼ばわりされたら、ちゃんと胸を張って言い返せるように。



 薄暗がりの石造りの宮殿、しんと静まりかえったその中を、音もたてず人影が進む。やがてひとつの扉の前に立ち、手に持つ杖を向けると扉は人の手を借りることなくゆっくりと開かれた。
「ただ今戻りました、王よ。長きの不在、申し訳ありませんでした」
「おお、よくぞ無事戻られた、一級精霊獣師殿よ。此度も一筋縄ではゆかなかったようですね」
「恥ずかしながら」
「よろしい、謙遜せずとも、たとえ相撃ちであろうがあの災厄を押し返せる者は、この地上には貴殿しかおられぬ事を皆分かっています。彼の客人は、貴殿を支える為に世界主が遣わした救世主であればと思いましたが、もう見極めは付いたのですか」
 顔はそのままで視線だけ逸らし、返答をしないその表情にユークレン十五世王はまあお掛けなさい、と片膝をついている相手を促した。全智の城の最奥部の一室、上質な香草茶の香気に満たされた室内は、最上位の霊獣で寸分の隙も無く護られており、塵ほどの蟲でさえ入り込めぬよう外と遮断されている。見た目は年下に見えようが、赤子の時からずっと面倒を見られている相手に敬意を表し、ユークレン王は相手の言葉を待って温かな茶を一口含んだ。
「確かに、あの者は、ここに現れてからの短期間に常人にはあらざる勢いで強大な力を身に備えました。ギュンカイ山の闘いで、あれはついに己の手で黒の破壊主に手傷を負わせ、退けた。今、彼と私が最高の状態で全力を持って望めば、あの害敵を打ち倒す事も可能かもしれない、しかし……」
 口ごもるその顔が、切なそうに伏せられる。こんな顔を見せた事がないだけに、昔から自分達が近寄りがたく思っていたのをどう思っていたのか。ユークレンの守護者、国の心臓と呼ばれし唯一無二の一級精霊獣師、アーリット・クランは褪せた藁の色の髪を揺らし、香草茶の器にじっと眼を据えた。
「物事とは、人が望むよう、全てが容易く最適の道を行けるようにはなかなか成らぬようで」
「それは、そうでしょうね。私達短き生の者はともかく、貴殿のように長き時を過ごす方にとっても手に余ることでしょう」
 それで?と言葉を促す王にもう分かってるでしょう、とアーリットはわざと椅子の背もたれに身を預け、若干胸を反らして天井を振り仰いだ。
「自身でも気をつけてはいたつもりだったのですが、何せ向こうが信じられない程の物知らずだった訳で。気付けばまんまと隙をつかれ、入り込まれてしまいました。己にそのような機能と感情が備わっていた事に、自身が一番驚いています」
 ふて腐れているような物言いに、思わず笑みを漏らしてしまう。笑いごとではない、と睨むその表情に、尚更可笑しさがこみあげてしまった。
「お気に召されたのですか、あの無邪気で眼の離せぬ御方が。確かに、この界で貴殿に懸想なさろうなどという気を起こせるのは、幼児の知識と老人の許容と、今を盛りの青年の情動をまとめて持ち合わせておられぬと無理でしょうからね」
「冗談抜きで、困っています」
「でしょう、分かります、私もレベン・フェッテ殿に見染められ、ディプケース大森林の古城にお招きという名目の軟禁をされてしまったときはどうなる事かと思ったものですよ。あの時、城に忍んでこられた貴殿は助けに来てくれたと思った私に向かって、それは身も蓋も無い言葉を下さいましたでしょう」
「そのようなつもりは無かったのですが」
「私としては、今、貴殿にその言葉をそっくり返せる事であの時の気分を思い知ってもらう事ができるのがそれはもう愉快ですよ、アーリット」
「……」
「〝何も考えることはない、国も、民も、将来も。貴殿の人生だ、貴殿が真に望む道を選ぶのがいい、そうすれば後の面倒はどれ程あろうがそれ以下の事なのだから。己を殺してつまらない道をとれば、真の欲求はきっと大きな不満となって永久に後悔を生み続ける〟細かい部分は忘れましたが、こんな風だったでしょうか」
「私は、この国の護り人です。何百年もの長きに渡り、ずっとそれを心の支えに、誇りに思い果ての見えぬ生を長らえてまいりました」
「その献身、歴代より到底言葉にできぬほどの感謝を持って受け止めさせて頂いております」
「なればご理解頂けるはず、この身は、けして人のように凡庸な営みの為に弱くして良いものではないという事を」
 その言葉に、王はふいと黄昏の濃紫の瞳を細めて見せた。
「……アーリット殿」
「はい?」
「私、ユークレン十五世は貴殿から見て、弱くなりましたか?」
「……」
「望む相手と結ばれ子をもうけ、私は弱くなったでしょうか」
「いいえ、けしてそのような」
「護りたいと思う存在は、確かに枷となりその身を縛るやもしれません。しかしそれを心の底より護ろうと思ったならば、人は己の器を容易く超えた力を発揮する事ができましょう。貴殿程の御方が、それに気付かぬはずはありますまい。私の眼には、貴殿を弱くしているのはむしろ、その迷いのように思われるのですが」
「そう……ですか、そうでしょうね……」
「若輩めが、差し出がましい事を申しました、御容赦を」
「いえ、こちらこそ、見苦しい面を披露してしまいました」
 おもむろに伸ばした手が、すっかり熱の引いてしまった香草茶を取る。
「アーリット殿、もしあの客人の身を案じ不安が生じておられるのであれば、この全智の城はいつ何なりと客人をかくまう杜屋として、貴殿のお役に立てますが?貴殿も存じているでしょうが、ここにはまだまだ他国の預かり知らぬ不知(知らず)の間が幾つも備わっておりますから」
「その杜屋に大人しく納まって、只待つ事を是とせぬのがあの者の思う〝男〟なのだそうで。側にいて、たとえ己より強い相手であっても全力をもって護らねばならぬ、と。貴血のこの身には、性別と力の役割など全くもって計りかねますが」
「では、客人は今後も貴殿の為に尽力して頂けるというわけですか」
「不本意ながら、流石に大袈裟に行動を共にするわけにはいかないので、なるべく穏便に別行動するよう、旨は伝えておきましたが」
「大丈夫でしょうか」
「この後、北部軍の報告に目を通したら、私は主王子の捜索に加わります。客人には添王子のほうを任せる事にしました、双界鏡と竜もついておりますし、〝彼〟に預けておけば悪いようにはならないでしょう。主王子の件に関しては、場所とこの頃合いで私にひとつ思い当たる者がおります。もしそれが当たっているとすれば、これは私の問題、私が赴かねば成らぬ事態かと」
「その、思い当たる存在というのは…?」
 器の茶を干すと、緑の眼は物憂げな光をたたえ傍らへと逸らされた。
「元アシウント国南部ディプケース領主、その技量と知識の格ゆえに〝深森の超術士〟と呼ばれた北の精霊獣師」
「ああ、あの……ユークレン戦歴にも大きく取り上げられている」
「もう二百年を越す程になりましょうか、かつて私を手に入れる、その為に二国を陥れ、戦火を起こした痴れ者です」
 この世が不安定だった頃、己が関わる事のない戦など、そのほうが珍しかった。
 回円主界統一歴百と九十五年の年、ユークレンとアシウント、両国の間に戦の炎が燃え上がった。
 きっかけは、両国の間にあったほとんどが森林の特別自治区、ディプケース領から始まった。何よりも知識を求め、この世の理を全てものにすると公言し、政事も民を治める事もせず変わり者の名を欲しいままにしていた当代の君主の居城が、ある夜突如何者かの闇討ちにあい、半焼する事件が起きたのだ。かなりの規模の惨事にもかかわらず、犯人の姿を目にした者は一人としておらず、そのあまりに不可解な状況、それによりひとつの噂がまことしやかに人々の間に広まった。
〝これは、人の成せる所業ではない〟
〝あまりにも、人の技とはかけ離れている。こんな事ができるのは……〟
〝……あの方、くらいだろうか〟
〝そう、あの方は、炎の竜を宿している〟
〝西の島国での戦いは、それは凄まじいものであったそうな〟
〝人の姿をして、人あらざる力持つ智護の国の護り人〟
〝いいやまさか、あの方がそんな事をする理由が無い〟
〝しかし、他にやれる存在が見当たらない〟
〝あの方のみが知ると言われる、千年の君より預かりしこの世の秘密、それに深森の領主が辿りつこうとしている事に危惧を抱いているという話もどこかで聞いた〟
 噂話が膨らむ中、自国に被害が及ばぬよう、また国の守護者の汚名を晴らす為、犯人捜しをする両国を嘲笑うようについにディプケース近隣の、アシウント側の小集落が次々と降ってわいた業火に包まれた。その炎の中に確かに竜の姿を見たという証言があがり、ついに両国はまみえる事とあいなった。
 検証の為、当代の知恵者であったディプケース領主の進言のもと、一級精霊獣師の身柄引き渡しを迫ったアシウント、それに断固として応じぬ姿勢を返したユークレン。
 実際のところ、国同士が本気でぶつかりあったのは一季にも満たない間であった。戦の合間に一級精霊獣師自らが動き、全てがディプケース領主の謀、精霊獣使いであった自身の自作自演であった事実を突き止め白日の元に晒したのだ。
 両国共に、損害はほとんど無かったと言っても良かっただろう。しかし、終わった後、あまりにも大きな犠牲がひとつ残された。
 ユークレン九世王の死。
 八世王の後継ぎとして、ふさわしくある己を知らしめるべく初陣に立った若き王は、経験も浅く、不慣れな森での戦いでたやすく体調を崩してしまい、あえなくその命を散らした。この結果を重く受け止め、アシウント国は事態が解決、沈静化した後正式にユークレン国に謝意を述べ、ディプケースを自国の領土に組み入れ二度とこのような事が起こらぬよう首都直轄の厳しい管理下に置くこととした。
 その七年後、両国は話し合いの上湖山協定を結び、以後、表面上は共に手を取り合い発展してゆく事となる。
 俺は、もう思い出す気は無かった。
 俺なんかを求めた、あの一国の王たる稀代の馬鹿のために。
〝おお、全能なる世界主の、秩序の御技よりこぼれい出し異端の結晶よ。世に二つと無き生ける秘宝〟
〝その、吐息さえも秘術で編まれし御身、回円主界のあらゆる知識を極めたこの儂に、捧げてはみようとは思わぬか?くだらぬ世俗の調停にかまけ、奔走するなど貴殿のやる事ではないだろう〟
〝儂に、全てを委ねるがよい。世界が貴殿に封じた秘密、儂が解き明かしてやろうではないか!〟
 うるさいジジイ、寝言は寝て言いやがれ。
 お前の貪欲で下らない、鼻折れ豚も食わない知識欲のせいで銀のユークレンの末、麗しき月光の九世王、タッシは死んだ。
 その罪科、つまらぬ人の身ひとつごときで購えるものではない。
〝なんと、儂を裁くだと?〟
〝世界の知識の具現化たるこの我を、野蛮な貴様らの稚拙で愚かな法で裁くと言うか〟
〝認めぬ、断じて認めはせぬ!〟
〝お主がこの世に留まる限り、儂もこの身を呪いと化し、共に在り続けようぞ!〟
 そう言い残して、あの馬鹿ジジイはあっけなく処刑台の塵と消えた。
 ある意味、あいつも俺を本気で求め、挙句身を滅ぼした被害者の一人だったんだろう。
 たかが百歳にもならん鼻垂れ小僧の分際で、俺自身にも分からん事を解き明かせると胸をそびやかしていた、その慢心っぷりは才能の一つと認めてやっても良かったが。
「まだ、あの森に……お前がもぐり込んでいた僻地に、人知れず溜まっているというのか?自惚れ馬鹿ジジイ」
 名を思うことは、けしてない。
 俺にとってはお前ごときなど、記憶に刻む価値さえありはしないのだから。



「いやぁ、すごいものだなあ、自分の眼で見ても、正直信じきれてるわけじゃなかったから冷や汗ものだったよ!」
 あはあはと大笑いしている背に、本当に素は子供っぽい人だなあ、と苦笑する。唯人とワイシャルクの一行は、ライレムを旅立って途中二つほど田舎の集落を通り過ぎ、順調にタリエティ領からハルクライ領へと入る事ができた。ユークレンの北東の国境を預かるハルクライ領トリミスは、王都テルアに次ぐ二番目の規模を持つ都市で、頑強な石造りの門にはライレムとは段違いの数の門兵がおり厳しく出入りする人々に目を配っている。霊獣師の国らしく、普通の守備兵に加え霊獣で何か不正をしようとする輩も見逃さぬよう、専属の精霊獣師までもがきっちり配備されていた。
『ミラ、大丈夫かな?』
『うん、あれくらいなら充分ごまかせるよ、僕をあっさり感知できるのはおチビくらいじゃないとね』
 その言葉を信じ、ワイシャルクと二人、ぴったり石壁に寄りそい息を殺して門をくぐってきた。張りつめていた気が緩んだのか、一気に饒舌になっているワイシャルクを宥めつつ、唯人は門前広場でもう一人の同行者が追いついて来るのを待った。
「あ、来ましたよ、おーい!」
「おお、こっちだ、グリヴァ君!」
「おう、上手くいったようだな、二人とも」
 あの日、ワイシャルクに有頂天で己の里帰りを告げられた彼、テシキュル人の牛飼い、グリヴァ・ラン・シュミエはなぜかそのまま、当たり前の顔で旅に同行してきた。家畜の世話はもう親族の若いのにほぼ任せてあるし、交渉相手のティルクがテルアに戻ったのでしばらくは暇だ。たまには旅もいい、アシウントの馬も見たいし荷物持ちでもやってやろうというのが言い分だった。が、唯人は、一度はこの申し出をやんわりと断った。素姓の分からない人間に同行されるのは嫌だったし、荷物持ちなら伝道師協会に紹介してもらったという事にしてミラに頼んだ方がいい。しかし彼と付き合いの長いワイシャルクが、確かに荷物は多いし馴染みの君がいてくれれば安心する、と申し出を受け入れてしまったので、あまり嫌がるのも不自然になるかなと唯人はこの場は諦めることにした。
「なあ、すごいぞ、国境とはいえここはどこの国だといいたくなるくらい、門にもアシウント兵がぎっしりだ。ユークレン主王子の捜索に来てここで足止めされている王国兵と、何とも言えない緊張を交わしている。あまり長居せずに、さっさとアシウント側に入ったほうがいいと俺は思うがな」
「自分もそう思うのにやぶさかではないな、ダトア君、君の見解は?」
 二人の視線を浴び、うーん、と唯人は困った鼻声でそれに応じた。実は、二人には言っていないがアーリットの手紙にこの街に着いた時の指示があって、それは〝貴人の一行がこの街を訪れる、会っておいて損は無い〟というものだった。とりあえず付近で日々営業している出店の主人にその貴人の一行とやらがもう来たのかどうかを訊ね、まだそれらしいのは見ていないとの答えを得る。
 とにかく一日だけ小休止という理由をつけ、宿を取ると唯人はワイシャルクに言われ、目立たないよう表通りから一筋奥まった小路へしっかりした防寒衣を買い揃えに向かった。ちゃんとミラが護ってくれているのでそんなに気温の事を気にする必要はないのだが、やはり周囲に合わせた格好をするのは悪目立ちしない為にも必要だ。店の主人にすすめられ、毛皮の帽子に後付けする顔覆いを選んでいるとふと、耳に遠くから流れてくる楽の音が届いてきた。
「あれ?この音……」
 なんとなく、聞き覚えがある。びょんびょん震える弦の音と、手と足首に付けた細かい金属片の鳴子を舞いで奏でる、鼓膜に浸みいるような繊細な響き。やがて、一本弦を指で弾いて鳴らすその楽器の姿が頭に甦り、ついでそれをどこで聞いたのかも思い出し唯人は慌てて音のするほうへと向かって行った。そう、あれは、彼の地でいろんな事が全て片付いた後の宴の席、あの美しい人が優雅な指使いで奏でてくれた……。
 太い通りに飛び出して、周囲を見渡してみる。すぐに通りの向こうからやってくる、それなりに人眼をひいている集団が見つかった。異国の地位の高い人物の一行なのか、派手に飾られた大きな黒牛が引く東国ではまず見ない様式の輿の周囲を、これも異国情緒たっぷりの衣装をまとった従者達が囲み楽を奏でながら練り歩いている。
 貴人の一行ってこの人達なのかな、と唯人が思っていると、輿の両側にいた武人らしき装いの二人のうちの一方がふとこちらを向いた。遠いのと、変わった飾りの兜を被っているせいでその顔はよく分からない。でもこの人だけ随分背が高いな……などと思っていたら、突如、彼はありえない勢いで唯人に向かって突進してきた。
「わ、い、一体何!」
 つい反射的に逃げようと踵を返し、駆け出そうとした襟首があっけなく取られそのまま抱え上げられてしまう。この腕の感触、高さ、何か覚えが……と必死でもがきながらの既視感に捕らわれた唯人に、朗らかな声が浴びせられた。
「おお、遠地の同胞よ!」
「……え?さ、サレぇっ!?」
「よくぞ待っていてくれた、会えて嬉しい、久しいな!」
「な、な、なんで!?」
「詳しい話は落ちついてからだ、さあ、乗ってくれ!」
 ぐりぐりと宙で子供みたくこねまわされ、ちょ、ちょっと、降ろしてくれと叫んでみるものの、そのまま成す術も無く輿へと運ばれてしまう。横開きの戸から素早く中に放りこまれ、唯人は眼を白黒させ、輿の中で唖然としているもう一人と向かい合った。
「え?」
「……唯人?」
「え、え?」
「ほ、本当に唯人だ……」
「そっちこそ、なんでこんなとこに……シイ!」
「しっ、声が大きい」
「あ、ああ、ごめん」
 豪華なエリテア貴族のお仕着せを着せられて、輿の中に鎮座していたのはなぜかキントにいるはずのシイだった。少し伸びた髪を綺麗に結われ、元々整っていた顔を西国風に化粧されていると、本当に生まれながらに育ちの良い貴族の若君に見える。それでこれは一体何がどうした、分かる範囲でいいから聞かせてくれと詰め寄った唯人に、詳しい話は後で外の本物の皇子に聞け、とシイは外を睨むと小声で自分のこれまでを語ってくれた。
「あんたがキントを訊ねてくれた後(これはミラ)俺、バセイ爺さんちで本格的に薬師の仕事を始めることにしたんだ。畑を作りたいって相談したら、崩れた領主の花壇が放棄されたからそこを使えって言われて。で、手入れしてしたらそれを見てた兵がやってきて、国発行の免許を持ってるかって聞いてきた。持ってないって言ったらその場で逮捕されて、王都に連行されたんだ」
「ええ、逮捕?」
「うん、爺さんやラトがびっくりして随分かけあってくれたんだけど、無理だった、もう薬も結構売ってたし」
「でも、そんなに重い罪じゃなかったんだろう?」
「ああ、俺にはユークレンの法の事は良く分からないけど。正直刑に処せられのかどうかもよく分からない、変だった。王都に着いて調書を取った後、サイダナの養護施設よりもっと小奇麗な牢に入れられて。どういう罰が待ってるのかと思ったら脚が悪いから重労働は免除、昼はずっと城のごみ焼き場の番や肉用獣の解体、獣舎や用水路の掃除とか普通の仕事をやって……」
「それ、普通じゃないよ、テルアの人にとっては汚ない嫌な仕事だ、だから罪人にやらせるんだ」
「そうなのか?俺にとってはあんなの、ごく普通っていうか楽だったんだけど、だって……」
 そこで何か色々と嫌な記憶が浮かんでしまったのか、少し言葉を切ると彼はぶんぶんと思いを払うように頭を振った。
「まあそれはいいとして、本当に驚いたのは夜のことさ。信じられるか?俺みたいな無免許違反の罪人の牢屋には専属の司書がいて、頼めば必要な書物を持ってきてくれる。なんで、夜は薬師の資格を取るための勉強をやれって命じられたんだ。幸いユークレン語は分かるし、覚えないといけないのは薬草の西と東での呼び名の違いくらいだったからすぐに免許取れたんだけど。それが半月前の話、牢番が言うには俺みたいなのの刑期って、資格が取れるまで、なんだと。変だろ?あれじゃ牢屋じゃなくてただの学術院の寮だ」
「うーん、何か分かる気がする、ユークレンってそういう国だ」
「刑期が明ける寸前に、爺さんから脚ができた、持って迎えに行くって便りが届いた。俺は嬉しくて、今後はとっととキントに戻って今度こそちゃんとした薬師としてあの地に根を張ろう、爺さんにも面倒かけたから、ちゃんと稼いで金払って……って思ってたら、突然街じゅうの西国人に集まるよう王命が下ったんだ。俺はここの者じゃない、キントに帰るって一応説明したんだけど、どうも薬師の資格があったのが俺一人だったみたいで、礼はするからって無理やりこの一行に加えられちまった。まあそれも百歩譲って薬師ならいい、けど見ろよ、俺が義足だからとか輿が重いと牛がぐずるとか、挙句にこういうのには替え玉が乗るもんだろってあの皇子、俺にこんな格好させて押し込めて、自分は外で知らんぷり決めて!」
「シイ、で、これ、何の一行なんだい?」
 唯人の問いに、一応シイは横の小窓を開くとサレに眼で何かを問いかけた。うん、と頷いて返されこれは秘密だぞと念を押し、小声で耳元に囁かれた。その言葉を聞いた途端、唯人はまたもやええ?と耳を疑うはめとなった」
「群島連合国エリテア群島領、陽皇帝皇子陽虹様が、ユークレン十五世王添王子殿下にご求婚なさる、その為にアシウント国王都ザイラルセンに向かう旅の一団さ。側近、護衛、下仕え、牛まで丸ごとユークレンの王城で調達したにわかごしらえの偽物だ。でも何より間違いなく陽虹様は本物だし、ミーアセンで賊にさらわれた添王子を助けた皇子が親しみを感じられて求婚を思い立たれた、って流れは別におかしくない。とにかく俺達の目的は、添王子の状況を知る事と、あわよくば求婚を認めてもらって穏便にアシウントから連れ帰ること。こんな破天荒な案を思い付いて、実行してしまうユークレン王ってすごいな。陽虹皇子を通じてエリテアに文を飛ばして、この輿の図面や衣装の縫い方も全部送ってもらって半月で形だけは完璧なのを仕立て上げて。自国の文化をほとんど知らない俺達西国人連中には、資料と一緒に来たあのお姫様が皇宮のしきたりや作法を一からみっちり叩き込んだんだ」
 シイに示され反対側の小窓から外を覗くと、輿の横に腰かけあの弦楽器を爪弾いているのは懐かしい星族公主ハルイであった。エリテア本島にいた時のしとやかな印象とはうってかわった若干派手な衣装を身に纏い、、品のある、しかし朗らかな笑みで楽の音を振りまいている。そのまわりを、四肢に鳴子の飾りをつけた踊り子がくるくる回って演奏に華やぎを添えていた。沿道の子供がこの珍しい一行に見とれたのか、おずおずと歩み寄り手にした花を差し出してくる。それをうやうやしく受け取ると、踊り子は芝居がかった身振りでシイのいる小窓へと駆けより花を捧げてきた。
「はいな、皇子さま、恰好良く受け取ってよぉ」
「うるさい、トウア」
 それも仕込まれた作法なのか、手の甲を上にした指先で優雅に花を挟みにっこりと笑みを返す。少し身体を傾けた、その衣装の裾から覗いた足が、以前の竹の棒から見た目普通の足に変わっていた。
「シイ、脚、付いたんだ」
「うん、爺さんが王都に迎えに来てくれたんだけど、しばらく帰れないって謝ったらこれだけは、って付けてくれた。本当はちょっと試して調整しないといけないんだけど、このとおりあんまり歩かなくていいから不自由はしてない。芯の杖が助けてくれるから周囲の事も良く分かるし、生活が随分楽になった。ありがとう、唯人」
「それは僕じゃなくて、小野坂さん……その杖が望んだことだから」
 それにしても本当にいい出来だな、普通の足にしか見えないよ、と褒める唯人にシイは足袋を脱ぎ、ちゃんと五本の指に分かれ爪まで彫刻されてあるつま先を見せてくれた。土踏まずの所に丸く図案化された木食い蟲の刻印が刻まれてあるが、(木食い蟲は木工職人の象徴)これは職人が満足した出来の作品に付けるお墨付きのようなものらしい。急がせたせいで、スフィには付けてもらえなかったようだが。
「それで、何で僕がこの街にいるって分かったんだ?」
「そんなこと、俺はこれっぽっちも知らなかったけど?皇子がどうだったかは知らないが」
 そんな話を続けていたら、今日の宿に着いたのか緩やかに楽の音が治まった。少し年かさの、いかにも年季の入った侍従です、といった顔立ちの人物がうやうやしく引き戸を開け、シイを外へ先導する。唯人も付いてきて、と腰を上げ、ふと振りかえるとシイは、あの侍従は城で一番洗濯が上手な下働きの人、と喉声で囁きなんとか笑いを飲み下した。



「……で、ダトア君、話から結論づけるに、ここの皆様方は君の旧知の友ということなんだな?」
「はい、そうです」
「まったく、なぜ一言私に言っておいてくれなかった。通りの人に君が異国人に連れ去られたと聞かされて、気が気で無かったんだぞ!」
「はあ、やはりそう見えてしまいましたか。私共西国の民の振る舞いは、この辺りではいささか馴染みが薄いようでして」
 にこにこと、外交モードの笑みを張りつけたサレに頭を下げられて、ワイシャルクはいや、私は別に人種によって対応を変えるような俗な振る舞いはしないからな、と出された茶を鷹揚に啜って見せた。宿に着いて、さあ説明してもらおうとサレに詰めよりつい話し込んでしまい、(サレが唯人の事を知っていたのは、やはりアーリットから一報があったようだ)顔色の変ったワイシャルクが宿に押しかけてきたのがつい先程の事。ぼろが出ないよう会話は全部本物の皇子に任せてるから、の顔でつんと無口なシイを奥に祭り上げ、サレは板上の魚に向ける眼付きでワイシャルクを言いくるめにかかってきた。
「それで、聞いたところによると、ワイシャルク殿もザイラルセンへ向かっておられるとか」
「ああ、ダトア君から聞いたのかね」
「では、もしよろしければ我等と共にご一緒してはどうですか?こちらは数人増えてもどうということはないですし、人数が多いほうが安心でしょう。実を言うと、いまだ我々の一行には、彼の地を知る信頼できる案内人がいないのです。この街で雇えればと思っておりましたが、貴方のような博識な北の方が力添えして頂けるならこれほど有難いことはない、どうでしょう?」
 どうでしょう、と被せ気味にその場にいた全員の西国人、シイやハルイ公主やお付きの連中に微笑まれ、ワイシャルクは明らかに当惑した表情で唯人を伺った。西国の皇子とまでお知り合いとは、君はその歳で本当に顔の広い人間だなあと感心され、まあ、とぎこちない笑みを返す。
「ダトア君」
「はい」
「君はいいが、私がこの一行に加わったとして、少々浮きはしないかね。私としてはできれば目立つのは避けたいのだが」
「でも、西国人の一団に案内人の北方人がいる、というのは別に不自然じゃないですよ。沢山荷物があるからワイシャルクさんの荷も、ほら、目立たないように……」
「その様子だと、君はもう決めているんだな」
 ふっと苦笑し、分かった、とワイシャルクはサレに向き直った。
「ダトア君がそこまで信頼しているのなら、私もそれを疑いはしない。ただ、私もちょっとした口外し辛い事情がある身でね。場合によっては急においとまさせてもらう事になるかもしれない。事と次第によっては君達にいささかの迷惑をかけてしまうかも知れんが、それでもいいのかね?」
「まあ、唯人殿のお知り合いになられる御方なら、そのくらいの事はありでしょう。我が主は変わらぬ日常にいつも倦んでおられまして、唯人殿が持ち込む騒動は、格好の退屈しのぎであられるのです」
 なんて言い草だ、と唖然とした唯人にワイシャルクはやっぱりな、と言わんばかりの眼を向けた。上座ではシイが、我慢の限界の顔を虹鳥の羽根のうちわで優雅に隠している。これ以上サレがおかしなことを言えば、確実に吹き出してしまいそうだ。
「分かった、そこまで言ってもらえるのなら有難く世話になるとしよう。世界主と、この若くとも顔の広い友に感謝する」
「こちらこそよろしく、ワイシャルク殿。そうだ、もしもの為に、拙いながらこちらにアシウント語の使える者を用意しておりましたが、それを貴方付きの小間使いにいたしましょう。おい、トウアを呼んで来てくれ」
「え?こ、小間使い?そんな者は私は別に……」
「はーい、なんか用ですかぁ?ナナイ小隊長」
 ひょっこり顔を覗かせて、踊りが日常になっている人間の、なんというかゆらゆらした足取りでやってきたのは先程鳴子の飾りを付け、楽の音に合わせ舞っていたあの踊り子だった。この王都で捏造された偽のエリテアご一行は、ハルイ公主を除き全ての人間が両性なのだがそれでは両性否定の国としておかしいので、全員男か女のふりを装っている。このトウアという若者も、完璧な化粧を施しほっそりした体つきも女性的だが、胸は残念ながら詰め物だ。頼むから勘弁してくれといわんばかりのワイシャルクをじいっと眺め、事の次第をサレから聞かされた彼女は分かりましたぁ、と満面の笑みで頭を下げた。
「どーぞ、よろしくおねがいしまぁす。群島国エリテア領第五島、コルチケのトウアともうします」
 群島国の人間は三百種族もいて容姿も本当に千差万別だが、ここにはサレを基準に似通った者を集めたのか、トウアも浅い褐色の肌にややくせのある黒髪というごく普通のエリテア人の容貌だ。ただ、その眼はサレよりもっと赤味の勝った紫色、華やかで透き通るような薔薇色だった。他者、主に男が見惚れるであろうその美しい瞳で艶然と笑み、上下が離れた衣装から覗く丸出しの腰を揺らしワイシャルクににじり寄る。ライレムでのアーリットを見ていたおかげで、唯人にはそれが彼の役職的な振る舞いであることがなんとなく感じ取れた。
「んふ、エデルネア様って素敵ぃ、ふわふわの雲毛にマリュカタイの乾葉磁器みたいな眼の色して。あたし、そういうのすごぉくきちゃう」
「わ、私は本当にいいと言っているのに!」
 ではそろそろ宿に戻らせてもらおう、また明日こちらに伺うから、と焦り顔で席を立ったワイシャルクにじゃあ、今夜のうちに荷物をこちらに預かっておきましょう、とトウアがひらひらと後に従った。明らかに女性慣れしていなくてあたふたしているワイシャルクの様子に大丈夫かな、と唯人が漏らすとまかせておくといいさ、とサレは笑って見せた。
「身辺警備が必要な人物なら、トウアで大丈夫。王都で俺とは別の小隊の副官やってるくらいだから腕のほうは保障できる、それに……」
「それに、何?」
 ん、と振り返るサレの表情に、ああ、あの彼も、同じ生い立ちなんだと理解する。
「あいつさ、なぜか北方人に格別の好意っていうか、すごい憧れを持ってるんだ。サイダナからテルアに来た時からずっと、いつかはあそこに移住するんだって色々勉強して言葉もきっちり学んだし。あの学者さんに気に入ってもらえれば、後々何かと面倒見てくれそうじゃないか?そういう下心があってこそ、仕事にも身が入るって奴さ」
「うーん、でもワイシャルクさんって、ああいう色っぽいのって通じないというか、困るだけだと思うな。もう四十過ぎてるんだし」
 どちらかというと、僕みたいな頼りなさそうなほうが庇護心がかきたてられるタイプだと思うんだけど、とこれは心の中で呟いておく。
「海の魚は、長生きすればするほどでかいし脂ものって食いごたえがある。四十代なら、男は盛りだろ」
「そんなもの?」
「そんなもの、男の唯人が俺に聞くなって」
 だって本当に見てて呆れるくらい純粋培養の研究一筋だし、最低十五年間は女の人で会話したのライレムの家政婦のおばさんだけだろうし。悪いけど、それ以前も女の人に縁があった人生とはとてもとても思えないし。そこまで考えて、なんでこの間知り合ったばかりの四十代の異性経験値をこんなに自分が案じているんだろう、と唯人は深く溜息をついた。
「それにしても、添王子に求婚ってさ……よく思いついたしそれにまた乗ったよ。後で全ては作戦でした、無しにしますってできる話なのかい?」
 ワイシャルクが手を付けなかった茶菓子をいそいそと口にしている綱手を横目に、呆れ口調で呟いてやる。そこに新しいお茶を持ったハルイ公主が入ってきた。
「ユークレン王は、王子殿下に受ける気があるなら別にこのまま事を進めても良いと申されましたそうですよ。あちらには王子の婚約者候補が何人もおられますから、先手を取られないよう急ぎなさい、とも。私は陽虹様のもうひとかたの妃があの愛らしい御方なら、とても嬉しく思いますが」
「ふうん、じゃあ、ハルイ公主はもうお妃様決定って事なんだ」
 唯人の無神経な一言で、ハルイ公主は瞬時に耳まで真っ赤になって固まってしまった。いよっ、お似合いのお二人さん、とかキャラに合わないヤジを飛ばしてみる。が、すかさずお前とアーリット程じゃないけどな、と強烈なカウンターをあっさり食らわされ、唯人は成す術もなく椅子の背に沈みこんだ。
「いや、そう簡単に決めていい事でもないんだって。いくら俺が皇位を継ぐとしても、貴血の国で最も由緒正しい王子様だしな。普通に考えれば、いくらなんでも格が合うわけない。それに今の群島国に迎えることになったら、嫌な思いや苦労をさせてしまうのは目に見えてる。陽雷も随分体調が良くなったみたいだし、いっそこのままってのもありかなって思ってるんだが」
「陽雷様の御調子がよろしいのは、皇子に後を任せられると安心されたゆえの事でございます。それを願ってこそ、こたびの策の為の資料全てを自ら手配し用意させ、私に持たせ送りだしたのですから」
「ほお、なら、俺が行方をくらませたらどうするのかな。あいつとエリテアのちゃちい島兵くらいなら、つかまらずに逃げて暮らせる自信はあるけど」
「その時は、一級精霊獣師様に頭を下げてでも、連れ戻していただくとおっしゃられておりました」
「そりゃつかまるよ、サレ」
「つかまるな、しかも確実にあの石牢につながれそうだ」
「そうなれば、わたくしが誠心誠意を込め、何不自由なさらぬよう世話を預からせて頂きます」
「でも石牢だしな」
「しかも真っ暗だよ、何するんだか」
「唯人、お前も言うようになったなぁ」
「もう、いい加減にして下さいお二人とも……ところで唯人さん、今宵の夕餉は干し鰻の汁で麺をご用意するつもりですが、ご一緒でよろしいですね?」
「うん!エリテアの料理美味しいから嬉しいよ、またしばらく食べられるんだ」
 こういう旅の常識として、同行しているお付きの者は宿や食事処で自由に済ませるが、一番高位の人物は持参している食材を連れの料理人に調理させてそれを頂くしきたりになっている。万が一にも食当たりをおこしたり、最悪毒を盛られるのを避けるためで現地で食材を買って調理する事があっても、けして出来合いの料理は口にしない。ここの調理担当はハルイだが、出来上がった料理を食べるのはまず毒に詳しいシイ、そしてその他、最後にサレと厳格に順序が決められている。あの脂っこく濃厚な鰻の味を思い出し、唯人は思わず湧いてきた唾を飲みこんだ。
「お、そうだな、久しぶりに唯人が〝男並み〟に食えるようになったか見てやるか。言っておくが、群島の両性は結構どいつも量を食うぞ、みんな身体を使うからな」
「ハルイ公主よりは食べるって」
「分からないぞ、こいつもこう見えて……いてっ!」
「知りません!もう、失礼します!」
 サレの耳を思い切り引っ張って、ぷりぷりと可愛らしい怒気を発しながら去ったハルイ公主の背を見送って、なあ、見た目よりは随分とお転婆だろ?と嬉しそうに耳打ちする。
 あの、彼にとって重く厳しかった島での記憶を、こうやって冗談混じりで話せるようになった。
 もう、彼の故郷は厳しく彼を拒み、否定し続けた二度と戻れぬ地ではない。
 帰れる家がある、それは意識せずとも人を安堵させ、心のよりどころとなってくれる。
 サレの笑顔に応えながら、唯人は今はもうない祖父母の家に思いをはせた。両親が離婚して、里帰りした母と共に暮らした田舎の古家。木造でかなり傷んでいたのを祖父がこつこつ手直ししていたが、その祖父も他界し唯人が独り立ちした後、祖母は伯父夫婦の住まいに移り、家は取り壊されて駐車場になってしまった。
 伯父夫婦は穏やかな優しい人達で、唯人が祖母を訊ねると笑顔で迎えてくれるが、当然あの家は自分の戻る場ではない。
 僕もいつか、ささやかな、自分の居場所を自分自身で見つけられるかな。
 大好きな物と大好きな人、全てが温かく迎えてくれる小さな我が家。
 うっとりと妄想に浸りかけ、いや、と脳内風景が上書きされた。もしあの人とそういう関係になれたなら、温かい料理を用意してうちで待ってるのは僕の方だろう。うん、お仕事ご苦労様、とか言って。
 まあ、別にそれでもいいんだけどね。



 その後、唯人、正式な案内人としてワイシャルク、そしてなぜかしつこく食い下がってきたグリヴァの三人を加え、エリテア皇子の一行は更に北を目指すべくトリミスの街を発った。唯人はライレムで衣装替えした今の旅装束を、サレが用意していたエリテアの衣装に替え皇子の護衛の霊獣使いという立場にしてもらった。
 そうすると不思議なもので、かなり厳重そうに見える関所でも、ユークレン王のお墨付きがあるおかげでほとんど身辺検査も無く通してくれる。ワイシャルクも、最初はかなり緊張して顔が引きつっていたが、大事な資料は皇子の輿の奥にしまったので、門兵がそこを開けて覗きこむような事態はサレが上手く立ちまわって防いでくれた。
 トリミスを出てすぐに、うっそうとした木々が茂るディプケース大森林に入る。現在この森では、ユークレン主王子の探索がアシウント軍の威信をかけて行われており、主道である一本道は兵に厳しく監視され、少しでも道を外れ森に入ろうものなら瞬時に不審者として捕えられてしまうらしい。アシウント兵はまだいいが、アーリットがもしここに来ていたら万が一にも出くわす事のないよう唯人はサレに頼み、森を抜けるまでシイと一緒に輿の中で隠れさせてもらうことにした。
「いっそのこと、唯人が皇子の替え玉になってここにいればいいんじゃないか?」
「それはちょっと……肌の色、僕のほうが薄いからおかしいってばれちゃうよ」
「それくらい、トウアに頼めば上から色粉塗ってすぐに濃くしてくれるって。ついでにばっちり化粧もされるけど」
 とにかくもうこの中は飽き飽きなんだ、結構揺れるから本も読めないし、みんな見てるんで寝るわけにもいかない。唯人がいないと話もできないし、とぼやくシイにほんとサレって勝手だよな、とか話を合わせていると、ふいに牛車の動きが止まった。
「なに?サレ」
「唯人、後ろで隠れてろ、早く!」
 前を向いたままのサレの囁きに、唯人は一動作で身を返すと輿の奥へ逃げ込んだ。これまでに二度、森に入ってからアシウント兵に止められ念入りな取り調べを受けた。その度に唯人は輿の奥に身を寄せ、ミラの目くらましの障壁に隠してもらっていたのだ。サレが慣れた様子でユークレン王の身分証明と渡航許可証を出し、すらすらと読みあげる。それを聞いているとふと、正面から、淡く発光している板状の光がすーっと迫ってきた。こちらに背を向け座っているシイをシャボンの膜のようにふわりと抜け、迫ってくる。これは、精霊獣師が使う探査の術式だ。これもさんざんやられたが、今のところミラにかなう術者はいないのかきっちりやり過ごせている。自分の真下にワイシャルクの資料を置いて、一緒に護ってもらっているからそちらも安心だ。
 光の膜が、ゆっくりと近づいて来る。いつもなら唯人をもそのまま抜けて行ってしまうそれが、なぜかふよん、と柔らかに揺れた。
 引っかかった?
 ふよんふよんと波打つ膜が、ゆるりと唯人を包み込んでくる。反射的に、唯人は鋭月を出すと脇に抱え込んだ。
『唯人、いつでも飛びだせるよう、力溜めといて!』
 ミラの緊迫した声音に、そっと背後の扉ににじり寄ると掛け金を外す。できることなら、サレ達に迷惑はかけたくない。皆の知らないうちにこっそり自分が紛れ込んでいた、という事にしないと。
 それにしても、アーリット程の実力が無いと見抜けないミラの障壁を、感知できる精霊獣師がアシウント側に居るなんて。ちょっと甘く考えてたな、と輿の背後の覗き窓から外を伺ってみる。
「……ええっ?」
 思わず、腰が砕けかけた。
「来てたんだ……」
『ありゃー、これじゃしょうがないね。ま、考えられない事じゃなかったけどさ』
 アシウントの兵は、たとえ精霊獣師であっても皆いかめしい鎧を身に付けている。その只中で、ほとんど無防備に見えるあの白地に赤い染め模様の精霊獣師正装を纏い立っているのは、他ならぬアーリット・クランその人であった。もう既に唯人の事は感づいているのか、伏し目の視線がぴったりこちらに向いている。
 さあ、どう出るべきか。
 ライレムで手渡された彼からの指示、そこにあった〝俺達の関係はテルアの夜の状態だ、見つけたら本気出す〟の言葉が思い起こされる。
 もう、互いに存在を認めている。彼は、どう出てくるのか。
 唯人は、自分の周囲でうようよ揺れている探査の術式に目をやった。糖蜜のごとくねっとりと取り囲んでいるものの、拘束してくる様子はなさそうだ。
 僕を、ここで問答無用で生け捕りにする気はないらしい。
 このまま、ここをこっそり出て行くべきか、それとも息をひそめてやり過ごそうか。
 とりあえず、すぐに動けるよう立て膝の姿勢を取って唯人は外の会話に意識を集中した。この軍の指揮者らしい、がっしりとした大柄の身体に大層な鎧を纏った武人がつまらなさそうにアーリットと話している。アーリットがとてもいい笑顔なので、相手の事をあまり気に入っていないのがよく分かった。
「まあったく、自国の王子が行方知れずというこの時に、下の王子への求婚者を送るなど、歴史ある国の王のやる事は我々凡人には計りかねますなぁ、一級精霊獣師殿?」
「その凡人の不手際で、由緒あるユークレン王族の世継ぎの安否が知れぬからこそ、今一人の王子に一刻も早く身を固めてもらおうと我が王は案じておられるのでしょう?セルバンダ将軍殿」
 笑顔と共にきっちり叩き返された嫌味に、将軍と呼ばれた男の兜の内の顔が一気に赤らんだ。
「まっ、誠に。それに関しては、いかなる弁解もできませぬ。何せ、この界に敵なしと言われる貴殿でさえ手に余る相手ですからな。我々とてどうしたものかと……」
「おやおや、北にその名轟く軍事大国を支える将軍殿が何をおっしゃるやら。主王子の捜索について、全て請け負うとそちらが公言なさったからこそ私はこうして独断行動もせず、貴方がたに付き合っているというのに」
 容赦ない言葉の棘を相手に浴びせつつ、アーリットはやる気は無いが一応は、という素振りでぶらぶらと唯人の潜む輿の後部へと近づいてきた。唯人が鍵を外していた扉をばん、と開け、振り向いたシイにすぐに済ませますから、と笑顔を返す。差し伸べた杖で輿の中をこつこつとつついてまわると、返した手が一瞬、しっかりと唯人の身をかすめその存在を確かめた。
 結構結構、ちゃんとやれてるみたいだな……。
 その手を取って握りしめたい欲求をどうにか押さえつけ、息を殺す唯人をあのふわりとした香りが容赦なく押し包む。パタン、と扉が閉められ、身を返したアーリットはもうこちらを一瞥もしなかった。
「将軍殿、こんなものが」
「何?なにか不審な荷が見つかったというのか!」
「不審というか、壁に異国から付いてきたらしい虫が一匹張り付いておりましたが。どうなさいます?拘束して尋問いたしますか?」
「も、もうよい、行くぞ!」
 アーリットの細い指に挟まれてじたばたしている甲虫を差し出され、苦虫を噛みつぶした顔でセルバンダ将軍がきびすを返す。小馬鹿にした薄笑いを崩さぬまま、アーリットはサレに歩み寄ると、甲虫と懐から取り出した小さな包みを手渡した。
「我々の品の無い振る舞いを、その西海のごとき広き御心で許された皇子殿下に感謝します。つまらぬ物ですが、詫びの代わりにどうぞお収め下さいませ」
 アーリットと共にアシウントの兵が全て去ると、探査の術式も流れおちるように消えてしまった。牛車が再度進み始め、サレから包みを貰ったシイがそれを唯人にくれる。それ自体はテルアの高級な飴菓子だったが、包んでいた紙に一見地模様にしか見えない細かさで、びっしりと文字が書き込んであった。
「……添王子は、アシウント王族の分家であるフレンケルシュ家の居城に身柄を預けられている。向こうはもう王子を伴侶に迎えたつもりで、公式に宣言するべく着々と準備を進めているそうだ。当の本人はあからさまに困ってるし、ユークレン王もそのつもりはまだない、とか書面で諌めてはいるんだけど、断れる大きな理由も無いからどうしようもないらしい。とにかく、急いだ方がいいみたいだ」
「よし、森を抜けたらザイラルセンまでそう大きな街はない、ちんたら道中はここまでにして一気に行くぞ!」
 アーリットの手紙にもあったが、アシウント軍の警備はディプケースが一番重くなっていて、そこを越えれば以降はユークレンの国内並みにゆるい検問ばかりだった。街というより小さな集落を出入りするときだけ皇族御一行の体裁を整えて、後はさくさく進んでゆくと数日後には遠くに霞んでいたレイオート大山脈が、そそり立つ壁のごとく迫ってきた。
「おお、懐かしきかな我が故郷、北の偉大な父たる大レイオートよ。ダトア君、君は運がいい。今日は雲が切れている、山の中ほどに覗いている王城の鋼の円蓋が見えるかね?」
「はい……あの、金色に輝いてるお椀みたいな飾りのついた尖塔ですね」
「そう、王都ザイラルセンは一年の四分の三が雲と雪に閉ざされた地だからな。王の住まう尖天宮の天蓋は太陽を模してあるんだ、白一色に閉ざされた日々でも、国の民が憂いに浸る事の無きように」
 あんな所からスキーを履いて滑り降りたなど、唯人には到底考えもつかない、命知らずだとしか言いようが無い目の前の光景だった。あまりにも大きく広がった山の中腹に、はっきりと存在を示しそそり立つダムのような黒い巨大な城壁。そこから麓近くまで、流れるような扇状に耕作地や街並みが拡がり、裾にもうひとつ縁取り状に城壁が設けられている。テルアは湖畔に拡がるほぼ真っ平らな都だったが、このザイラルセンは途中に雲がかかるほど、高低差の激しい大都市だった。
「さて、ザイラルセンまであと少しというところだが。どうする?唯人、ともかくまずはフレンケルシュ家の居城を探さないとな。王族の傍系なら、それほど街から外れたとこには住んでないだろう。下手すると、このうんざりするような上り坂の街の頂上近くまで行かないとしれないな……」
 サレの言葉に、周りにいる連中から本気かよ、こりゃ大変だな等、旅の疲れ込みの悲鳴が漏れる。もしかして、城のある場所を知っておられますか?とサレに視線を向けられたワイシャルクは勿論だとも、と頷いて見せた。
「ここからは私に任せてくれたまえ、大丈夫、こう見えて、この地ではそこそこの家柄の出なのでね。まず最初に言っておくが、たとえ傍流であれ王族の居城にいきなり押しかけては、ユークレン王の紹介状があったとしても門前払いされて当たり前だ。まずは嫌でもこの街の最上部にあるアシウント王のおわす尖天宮を訊ね、正式な許可を貰わねばならん。なに、全員でぞろぞろ行く必要はない、まずは私の実家に腰を据え、少し休んでから充分な支度をしよう。今は義兄が継いでいるだろうが、私が誠意を持って詫び、客人も連れているとあればあまり無下にされはしまい。広いから、離れでも充分皆で泊まれるさ」
 流石にここまで来ると、周囲がこの一行に向ける目はもうはっきり異質な対象へのそれへと変わっていた。こちらも寒いので、エリテア様式の衣装の上からてんでに防寒衣を着けているが、浅黒い肌と艶を含んだ夜毛の集団はやはり浮く。牛も、毛布を被せてやっているが鼻水を垂らし見るからに寒そうなので、ここは地元の人に素直に頼ろう、と唯人達はワイシャルクの好意に甘えさせてもらうことにした。
「ワイシャルクさんの実家は、どの辺りなんですか?」
「ああ、街を抜け、奥の砦の中に入った場所だ。牛くんも、もう少しだけ頑張ってくれたまえ、すぐに暖かい小屋でゆっくり休ませてあげるからな」
 ええ?とワイシャルクが放ったその何気ない一言に、唯人とサレは無言で顔を見合わせた。この遠目に見ただけの印象でも、砦の壁を境に手前は平民、奥は貴族とはっきり建物の様相が違っている。
 ひょっとして、今の今まで思いが及ばなかったが、ワイシャルクさんって結構いいとこ育ちの人だったのかな。そう言えば、先祖が王様の側近だったとか言ってたし。
 これまで通りに輿の奥で門の検問をやり過ごし、もういいぞとサレから合図を貰って唯人は王都ザイラルセン、その中心部である砦内区域に立った。テルアの淡灰色の雲石と対照的な、黒褐色の石と金属で築かれた街。そこを色の薄い、大柄な人々がせわしなく行き交っている。
 どういう仕組みか分からないが、街じゅうに張り巡らせてある細い鋼管に蒸気が通っているらしく、そこここで白い湯気がたち上っていて空気は砦の外とうってかわって湿気を含み暖かだった。一年のうち数カ月の雪融け季以外は大体こんなものさ、と呟き、懐かしい故郷の景色に目を細めると、半円状の通りを何本も渡り、やがてワイシャルクは一軒の年代がかった立派な建物の前に一同を連れてきた。
「うん?おかしいな、表札が義兄上じゃなくまだ父…ワイシャルク・ローダン・バッセンビュルトのままだ。普通に考えれば、もう代替わりしているべきなのに……もしかして、私の事で何かお咎めでもあったというのかな」
 いささか色を失った感のワイシャルクが緊張の面持ちで呼び鈴を引くと、しばらくの間の後、彫刻の施された巨大な一枚板の扉が仰々しくもゆっくりと開かれた。背筋にぴんと一本芯の入っているような、隙の無い雰囲気の老いた執事が無表情にこちらを見下ろし、落ちついた足取りで降りてくる。若干目が泳いでいるワイシャルクの前までやってくると、老執事は慇懃に頭を下げた。
「お帰りなさいませ、エデルネア様」
「あ、ああ、ただいま、オクスネル、変わりないな、元気にしてたかな?」
「エデルネア様もお変わりなく、それで、後ろの皆様方は、エデルネア様のご客人でございますか?」
「ああ、帰ってきた早々すまないんだが、この人達をしばらくここに滞在させてもらいたいんだ。義兄上には私から説明しよう、この時間は王城に出向いているのかい?」
 まるでいたずらを言い訳する子供のように、目を合わさずもそもそと喋るワイシャルクに、あくまで表情を変えることなく老執事は流暢に主人の言伝を言い放った。
「イスクリオ様は、現在王立療養院に入院中、ローダン様と奥様は王命により、そろって西地へ農業指導に赴いておられます。エデルネア様が戻られれば、当主として家を継ぐ旨を伝えるよう旦那様より賜っております。書類は全て用意してございますので、すぐにでも王城へ出向かれますよう」
「え?ええええ?」
「わーお、ひょっとして、このお屋敷全部貰っちゃったってことぉ?」
 背後で、トウアがまん丸な眼を猫のように輝かせた。



 その後、偽エリテアの一行は、それだけで西国の一軒屋より大きいバッセンビュルト邸の客用離れへと通された。お客様を迎えるのも随分と久方ぶりの事ゆえ、最低限の管理しかできておりません。今は使用人の半分に暇を出しておりますが、少し呼び戻しましょうと言われ、いえ、おかまいなくと頭を下げる。牛も農耕用の老馬数頭と老鷲獣が一頭のがらんとした獣舎に入れてもらい、皆でほっと一息ついたところで、分厚い書類の束の入った鞄を下げたワイシャルクが半ベソの顔でやってきた。
「うーん、やっぱりいくら駄目息子でも、年に一度くらいは便りを出しておくべきだったなあ。地質学などという不変の存在を相手にしていると、自分の家もつい変わらないと思ってしまっていた。まさか義兄上が事故にあい、両親が地方に飛ばされていたとはな」
「お兄さんの具合はどうなんですか?ワイシャルクさんに跡を継いでもらわないといけないってことは……」
「ああ、登城を終えたら面会に行こうと思っている。オクスネルの話では、もう半年程寝たきりで起きられないそうだが」
「それは心配ですね、なんなら僕も……」
 何気なく言いかけた肩は、背後からのサレの手にがっしと引きとめられた。
「唯人、城での用事は俺とシイとで行ってくる。分かっているだろうがここはアシウントの首都だ、お前はくれぐれも変な騒ぎを起こさないよう、ここで大人しく待っててくれ」
「分かったよ、サレ」
 そりゃそうだ、と慌ただしく出て行った三人を見送って、離れで寝具の用意や暖炉を掃除しているテルア在住群島人の手伝いに向かう。バッセンビュルト家の使用人達は、過去の栄華の衰退をまざまざと示す超年季の入った年寄りばかりなので、力仕事は自分達でやったほうがずっと迅速かつ安心なのであった。重い敷布団を窓枠にかけ、ばんばん叩いていると下から呼ぶ声がする。
「おーい、タダト、手ぇ空いてる?」
「うん、トウア、何?」
「芋掘りしたから運ぶの手伝ってよ、よれよれのじーさんになんか任せてたら腰やっちゃうって」
 足早に降りていくと、雇われ小作の一人らしい北国人なりに日焼けした老人もいて、へらへらしているトウアに手伝いなどいらん、とわめいていた。
「うるさいわい小娘!なんと無礼な奴なんじゃ、ワシはこの家の耕地で働かせていただく事五十五年、たかが芋運びごときで……!」
「だからさぁ、ぽっくり逝くまで腰は大事にしましょうっては・な・し、ね?」
「馬鹿にするでない、お前のようなひょろひょろの小娘に言われる筋合いなど!」
 はいはい、堅物な年寄りをからかわない、とくすくす笑いのトウアを引っぱって、掘りだされて山になっている芋をザルに積む。唯人達偽エリテア一行は、この屋敷の正面本宅だけで結構度肝を抜かれたが、奥に入るとその広大すぎる敷地にどれだけなんだと本気で言葉が出なくなった。この小作人の老人の話では、バッテンビュルト家とは作物の品種改良で財を成し、地位を上げた一族。山岳地でろくな作物が採れず自給できるのは芋と家畜ぐらい、よって領地拡大と略奪に明け暮れていた北方民族の小国の中で、アシウントをその頂点へと押し上げた重要な立役者であったらしい。ただ今となっては、改良された収穫量が多くて味の良い作物も充分国じゅうに行き渡り、国が軍備増強に方針を据え、まつりごとを仕切る大臣に貴血の重用が増えてからはその波に取り残され、衰退の一途を辿っているらしい。
「ご長女であられるエミレイナ様も、婿殿を迎えるのに随分難儀なされたでなぁ。今や、血統の中に何人貴血がいるかで側近の地位も決まるという時代なのに、小作人と一緒に土をいじっておるというだけでバッテンビュルト家の人間は、お偉い貴族のお嬢さんからはモグラ扱いじゃ。引く手あまたの貴血など、うちに鼻もひっかけやせん!いったい誰のおかげで毎日うまい野菜を食えているのか、この国の馬鹿どもは忘れちまったんじゃわい!」
 唯人とトウアと老人、三人並んで芋の皮を剥いている間、延々と続けられる老人の懐古的愚痴をトウアは神妙な面持ちで聞いていた。さっきとはうって変わって、変な軽口も叩かず神業級の速さで次々と芋を裸にしていくその手技に、最初は失礼な小娘、としかめ面だった老人が気が向いたならいつでもここで雇ってやるぞ、と皺だらけの顔を緩ませる。
「不幸にも、エミレイナ様の坊ちゃんが病で早くに亡くなられてしまったんで、ローデン様は外に出られたエデルネア様が良き伴侶を得、立派なご子息を連れて戻ってこられる事を期待しておられたんじゃが。やはり無理だったみたいじゃなあ……小作のワシらから見ても、幼少の頃より地味で奥手なお人じゃったから」
 初等学術院に上がられる前は、土いじりが大好きで城務めよりは農業研究者になりたいと言うておられたがなぁ。一体何があったのか、卒業したら地面の下に興味が移ってしまわれた、と老いた顔が溜息をつく。そこで蒸しかまどの用意ができた、とそちら担当の老婆から声がかかったので、唯人は剥いた芋を運ぼうと腰を上げた。
「トウア、もう終わるかい?」
 ひときわうず高い剥き芋の山を前に、トウアは黙々と手を動かしている。その表情が、心ここにあらずという風に見えた。
「トウア……?」
「代々筋金入りの生産者、そんで子供みたくうぶな上こんなおっきいお屋敷持ち……ああもう、ますます好きになっちゃったじゃん、どうしよ」
 誰に聞かせるともなく呟いて、目の前の芋の山を一気に持ちあげる。そのまま、足取りだけは変わらないゆらゆら歩きでトウアはかまどの方へと去って行った。
「なんと、よく分からん娘っ子じゃな。あの細腰でなんという力持ちなんじゃ、あれならいい小作になるじゃろうに」
 すいません本陣狙ってますよあの人、と口にはできず苦笑する。まあ貴血という、その点だけは推せるが。どうしても、ぼさっとして隙だらけの雲毛の羊に狙いを定め舌舐めずりしている島犬の図、が頭に浮かんでしまう。ワイシャルクさんが襲われる前に、サレから釘でも刺しておいてもらったほうがいいのかな。
 そんなこんなで大量の芋の下ごしらえが終わり、久方ぶりらしい大きな肉の塊が炭火で焙られている香ばしい匂いが立ち込める頃、疲弊しきった顔のワイシャルクがサレ達と共に戻ってきた。本宅ではなく真っすぐ客用離れにやってきて、椅子に沈みこむと執事の差し出す鎮静効果のある薬酒を一気にあおる。随分時間かかったね、とサレに聞くとあっちのほうが段違いに手間だったんだ、と囁かれた。
「まず、ここでの俺達の後見人になってもらうって事で、ワイシャルク殿に付き合ったんだが。それはひどいもんだったよ、みんな隠しもせずに百姓貴族が来た、百姓貴族の最後の跡取りが来たって半笑いでさ……そこらじゅうたらいまわしされて、通路ですれ違っただけで土臭い、肥やし臭いとか囁かれるし。あれじゃあ家業を継ぐなんて、よほどの精神力と覚悟がなきゃ無理だったろうな」
「思い知ったよ、両性だって普通の人間と同じだってこと、ちやほやされればちゃんととびきり嫌な奴になる。俺の目には、腹とか尻に窓の開いた、いかれた服を着てすまして歩いているここの貴血のお貴族様連中よりは、あの人の方がよほど正気の人格者に見えたけど」
「服に窓?」
 唯人の問いかけに、シイはおもむろに裾をまくり、義足の付いている方の腿に印されている小野坂さんの印を覗かせた。
「布を切って穴をあけて、そこから肌の精霊痕をちらつかせてるんだ。見た感じ、どいつもこいつもあんたの凍練獣にも及ばない程度のだってのに。それが流行りなのか、両性じゃない連中まで真似してるときた」
「あれで笑うなっての、キツすぎるよ」
「だからって笑っちゃ駄目だって、皇子」
「大丈夫、愛想してるように見せたから」
「そう見えなかったから言ってるんだけど」
 意外と粘着質に口答えするシイに、話が進まないんだけど、と唯人はそっと割って入った。
「それで、こっちの話はついたのかい?」
「ああ、それはびっくりするくらいそっけなくってさ、ユークレン王の書状の写しを取って、こっちには許可印ぽんと押してはい終わり。後は全てバッテンビュルト家に一任するって……相当どうでもいいみたいだな、俺達」
「何かあったら、尻ぬぐいは全てバッテンビュルト家に押し付ける気でいるんだろう。あちらさんにとっては厄介者同士がくっついた、共倒れ上等の状況なんだろうな」
「みんな、行動に充分気を付けような、ワイシャルクさんの迷惑にはならないように」
「ありがとう、明日には私のほうから、フレンケルシュ家に事情を説明する書状を送っておくよ。返答が来たら一緒に訊ねよう」
 あまりに疲れ果て動けないワイシャルクにこれ幸いと、トウアがすかさずすり寄っている。肩でもお揉みしますぅ、との鼻声の囁きに、それまで鉄壁の無表情だった老執事の眉がわずかに寄った。
「ともかくも、エデルネア様、これで名実ともに貴方様はこのバッテンビュルト家の正式な当主と成られました。アシウント王国バッテンビュルト家第二十代当主、ワイシャルク・エデルネア・バッテンビュルト様。王の御為、そして全ての国の民の為、初代の志を違えぬようご精進なされませ」
 深々と頭を垂れた老執事の態度に、その場に居合わせた全員も思わず、代理皇子のシイまでがへたりこんでいるワイシャルクに頭を下げた。
 今宵は当主様ご着任の宴、客人様も存分にくつろがれますよう、とあまりにも古めかしく格調高い大広間に通され、圧倒的芋尽くしのもてなしの御馳走を有難く受ける。だが招待客の気分でいたら、久しぶりに呼びだされたらしい年寄りの給仕連中があたふたしているのが見ていられなかったのか、元々はテルア城の下働きだったこちらの面々が動き出してしまい、ほどなく宴はちょっとしたホームパーティー状態になってしまった。
「こんなことになってしまって、君には本当に詫びの言葉もないよ、ダトア君」
 意外にも、唯人は含んだ瞬間吹き出すしかなかった芋製のきつい酒を平気でぐいぐい空けながら、ワイシャルクは心底すまなさそうに唯人に向かって頭を下げてきた。
「こうなると、ちょっと周囲が落ちつくまで廃地調査など無理そうだな。最低、エリテアの皇子殿の用向きだけでも片付けないと。うちには気の済むまで滞在してくれていい、全て面倒見させてもらうから、もう少しだけ待っててもらって良いだろうか?」
「あ、はい、それはお気になさらずとも、なんなら僕一人で調べますから」
「それはやめておきたまえ、以前ライレムで話した私の旧友に連絡がつけば紹介してあげるから。ここでは、くれぐれも廃地の研究者という事は内蜜にしておきなさい」
「はい」
 それで、お兄さんの具合はどうだったんですか?と訊ねた唯人にうん、とワイシャルクは隠しようのない様子で若干言葉をつまらせた。
「可哀想に、私の覚えていた頃より随分と痩せてしまっていた。姉上が世話をしているが、背を痛めているせいでまだ完治には当分かかるらしい。勝手に家を出た私に苦言をする事もなく、後を頼むと言われてしまったよ」
「どうして、そんな怪我を?」
「姉上から聞いた話では、年初めの国の予算審議会で農産部が支給額をごっそり減らされそうになり、それに義兄が必死で食い下がって抵抗したのを軍の連中が煙たく思ったらしい。ある夜、城からの帰り道で酔った下級兵数人に絡まれて、暴力を受けた義兄は打ちどころが悪く今の状態になってしまったんだ。勿論やった連中は捕えられたが、酔って判断が鈍っていたと言う理由で減刑され、もう刑期を終え出所しているらしい。軍備増強に力を入れているこの国にあっては、農産担当の大臣より兵士の方が必要、義兄は運が悪かった、という事で片付けられてしまったんだ」
「それは酷い……」
「まあ、王立療養院に入れて、国費で治療してやってるだけでも有難く思えと言いたいんだろう」
 今後は私も注意したほうがいいのかもな、と暗く呟くワイシャルクに、お任せ下さい、わたしにまかせて!とトウアがキラキラまなこでアピールを放っている。当の本人は、一発くらいはたかないと周囲に意識が向かない状態のようだが。
「大丈夫です、お兄さん、きっと良くなりますよ。ワイシャルクさんが戻ってきてくれて、安心できれば元気もでます」
「ありがとう、ダトア君、私も一日も早く君の研究に報いられるよう努力しよう」
 無心の笑みに、いや本当にそこはもういいですから、こっちも合わせるの結構疲れるし、と心の中で呟いて、宴のシメの甘味を口にする。テルアの洗練されたそれとは雲泥の差の感の、こってり甘い果実の蜜漬けはお茶で流し込まないととても喉を通りそうにない。食感はさっくりしているが、どっちかというと自分的にはほぼ羊羹か。今まで経験してきた中で、一番食べ物全てが〝重い〟国だ。寒いから、熱量が高い物を食べないと身体がもたないというのは理解できるが。やはりユークレンや群島の食事を知ってしまった後では、少々見劣りがする感は否めない。アーリットなら、まず手をつけはしないだろう。
「そうだ、アーリットはちゃんと食べてるのかな」



「はい、どうぞ、お口に合うか分かりませんが」
 喉声の囁きと共に、携帯食の欠片が差し出される。いらない、と断ろうとして、ふと思いなおすとアーリットは受け取ったそれを懐にしまい込んだ。
 アーリット、ちゃんと食べてもうちょっと身体に肉を付けようよ、いざってときに力が出ないだろ……?
 お前に言われたくない、何よりお前のせいだってのに。
 いつもの白い衣装の上から肩に巻き付けてある、淡青の布に顔を寄せる。これは、唯人がエクナスにいた間ずっと身に付けていた上衣。ライレムで着替えさせた後、別れ際にこれだけ持ってきた。
 自分の奥底が求めるものが、これに染み付いている。今となっては、何より心を落ち付かせてくれるもの。
 まるで、獣みたいだな。
 周囲には、すました顔で如才なく振る舞っているが、これがないと、これを感じていないとあの屑な部分が騒ぎたてて苛々する。
 早く、用事を済ませよう。さっさと事を片付けて、彼の元へと戻ろう。あの笑顔を向けられ、甘い実の色の瞳に見つめてもらい優しい声で耳をくすぐられたい。
 はいはいそうだね、分かった分かった……寝てろ、馬鹿。
 投げやりに自答して、ふいと視線を上げる。目の前には、鬱蒼とした森に溶け込むような巨大な廃墟が建っている。
 この森を統べていた、今は亡き領主の城。数百年前の火災の後、修繕される間もなく立て続けに戦と主が処分という憂き目にあったので、今はもう大部分は石の壁しか残っていない。唯一、領主がこもり研究に明け暮れていた塔のみが、誰も入る事が出来ずそのまま蔦に絡まれそそり立っていた。
 開けた瞬間封印された禁呪が解き放たれるとか、憤怒の形相の領主がまだ彷徨っているとか。その手の噂は充分な程周囲に伝わっているが、少なくとも当時アーリットが調べた限りでは、そのような反応は感じられなかった。なので、放置し今に至っている。アシウントがここを預かる事になってからは、周辺ごと立ち入り禁止にされているようだ。
「いやぁ、気味悪いですねえ。さっさと調べて戻りましょうよ、セルバンダ将軍に不在がばれたらそりゃあもううるさいでしょうから」
 隣で携帯食をぽりぽりやりながら、ティルクが肩をすくめてみせる。軽く周囲を伺った後、二人は塔の入り口である分厚い金属製の扉の前に立った。
「流石に〝人間〟の中では当代随一と言われた術者だけのことはあるな、二百年を経てなお、揺るぎの無い封印術式が仕込まれている。あの時、四の五の言わせずここをユークレンが分捕ってりゃあこんな塔、さっさとバラして土に還していたものを」
「アシウントの精霊獣師には、ここは手に負えなかったんですね。でも、ユークレンに任せて中をとことん調べられるのも嫌だった、ってとこですか」
 こん、と扉を打った銀の杖に応えるように、扉にびっちりと精密に刻まれた術式の印が浮かび上がる。それを読み、数体の霊獣を呼びだすとアーリットは杖から印へもぐり込ませた。
「いけそうですか?アーリット様」
「ああ、今、蟲が食い荒らしてる……いけたか?」
 輝きを明滅させている扉の取手にアーリットの手が伸ばされる、その指先が触れた瞬間、ぶわっと煙のごとく揺らめく濃密な影が二人に向かって吹き出してきた。思わず飛びのいたティルクが見上げる宙で、影がゆらゆらと凝り青白い顔の老人の姿を形作る。もう半分逃げ腰なティルクに対し、アーリットは憎悪の表情で影を睨み返した。
「脅かしてるつもりか?ジジイ、しなびた顔向けんなよ、うっとおしい」
「こ、これが、ディプケース領最後の領主、ルノ……」
「言うな!」
 ぶん、と杖の一振りで、老人の虚像はかき消えた。後に残った取っ手をつかみ、そのまま、まるで家畜小屋に対するごとく気負いも溜めもなく扉を開くと中へ入る。夜光蝶を飛ばし光に浮かび上がった塔内でまず目に入ったのは、仕切りも何も無い広い部屋の中心に、頭上の階の床がすべて崩れ振りそそいだらしい石塊の山だった。
「こりゃあ酷いさまだな、これで屋根が落ちてりゃこの塔、立派な煙突になってたろうに」
 ティルクが、壁一面に造り付けられている棚の本にふうっと息をかけ、返ってきた埃にしかめ面をする。アーリットは周囲の物にはかまわず瓦礫の山に飛び上がると、数体の霊獣を周囲へ放った。まるで水を泳ぐ魚のように、半透明の獣が塔の内部を隅々まで潜り、嗅ぎ分け調べ上げてゆく。やがて、しばらくの後、その一体が床のある部分に何かを感じ取った様子で動きを止めた。散っていた他の霊獣も、すぐに集まりその一点で鼻を突き合わせる。よし、よくやったと霊獣らを身に戻し、アーリットはその場を念入りに調べにかかった。
「……地下に空間があるんだな、最近開いた痕跡が残っている。しかも、入り口よりまだ重い式で封じてやがるときた。あっちは格下が触れても脅かされるだけだが、こちらは……」
「何です?」
 傍らに近寄ろうとしたティルクを、アーリットは素早い動きで制した。
「何かはっきりとは分からんが、かなりの大物が仕込まれてる気配がある。十中八九は二値以上の禁呪だろう、こいつは、紅輝炎竜でやっちまうのが一番だ。封印を解き、出てくる奴を竜で仕留めて瞬時に中の様子を見極める。何が起こるか俺にも予測しかねる、危険なのは分かってるからお前は一旦外に出て、下っ端兵が近寄ってこないか見張っていろ。少々、派手になるかも知れん」
「大丈夫ですか?」
「出来うる限り、事は迅速に処理する。もし俺の反応が途絶えたら、お前はそのままアシウント軍に戻らずトリミスに向かい、どうにかしてユークレン王に事の次第を報告しろ、任せたぞ」
「は、はい!お気をつけて!」
 一礼し身を返した赤毛の背中が扉の向こうに消えたのを見届けて、アーリットはおもむろに背の紋に指を添え眼下の床に杖を向けた。触れた先が複雑に編まれた式をなぞり、読み解きそして隙を見つけ、自身の式を送り喰い込ませる。ほころびができ、精密な機械のごとくかみ合っていた式がやがてずれを生じ、どんどん不安定になってゆくのを見届け最後は杖のひと打ちで打ち砕く。四散した式の残骸の下、隠されていた地下の空間から、重く濁った気が緩やかに溢れてきた。
「やはりいたか、自分の研究成果を、こんな地下に隠していやがったな……」
 眼下で蠢く霊獣は、アーリットでさえ、今までに見た事のない姿をしていた。並はずれた技術を持ったここの主が、禁忌の技で編み出した生命を次々とここに溜め込んだのだろう。そのまま彼の死と共に忘れ去られて幾星霜、閉じられた空間に何体もいたであろう彼等は、糧の無い場で互いを喰らい、時には混じり合い、凄まじい飢えと怨念の集合体と成り果てていた。まるで創造主の悪ふざけのように、あらゆる生物の部分が滅茶苦茶に繋がれ、びくびくと蠢いている。よく見ると、中には明らかに人としか思えない部位もある。指、触手、繊毛……その全てが、ただ、渇きを癒さんと獲物を求め怪しく揺らめいていた。
 その目前にやっと現れた、柔らかそうな獲物へずるり、と粘液まみれの身が伸ばされようとする、だがそれは全て、瞬時に立ち上った炎の壁に遮られた。
「輝華、やれ!」
 ごうっ、と壁が渦を巻き、かっと口を開いた竜の姿を形作った。火柱を叩きつける勢いで、竜の顎が肉塊を捕え、燃え盛る炎に包みこむ。もとより痛覚や怖れなど備わっていないのか、轟炎に焙られながらもなお獲物しか目に入らぬ様子で伸ばす身を全て焼き尽くされ、禁忌の産物は見る間に小さく崩れていった。
「おい……?ちょっと待て、輝華!」
 どろどろと燃え落ちる塊の中に、一瞬、何かが見えた。素早く回した杖が、床を打つ。
「クーロ・キィ、取れ、左の奥だ!」
 伸ばされた赤い腕が、がっ、と塊の中から何かをつかみ出した。人程の大きさのそれは、黒っぽい半透明の膜状の物に包まれ中がうっすらと透けて見えている。腕がそっと床に下ろした塊を見たアーリットの喉から、驚愕の叫びがあがった。
「主王子!」
 一動作で飛び付き、生き物の内臓を思わせる感触の膜を手で破ると中の身体を引っ張り出す。顔を近づけ、微かだが息をしている事を確認し安堵するとアーリットはそっと肩を揺さぶった。
「主王子、起きろ!」
 かなり強くしてみても、蒼白の顔のぐったりと閉じた瞼は開きそうにない。そうだ、狐、と振り返ろうとした……。
 その表情が、凍りついた。
「……?」
 一切の音も気配も無く、そこに一人の人物がいた。一瞬気を呑まれたものの、すぐに性懲りもなく、とアーリットの顔が嫌悪に歪む。
「ジジイ、いい加減にしろ。お前の幻など、いくら出そうが俺にとっては壁の染み以下だ」
 ふいと顔を背け、外へ向かうべく腰を上げる。アーリットに向け、黒衣の老人はゆっくりと片手をあげ、突きつけた。
「どけ、邪魔だ、消すのも面倒臭い」
 一歩踏み出そうとした、その足は……床に届く前に、宙を泳いでいた。
「なっ……!!」
 突き飛ばされた、や吹き飛ばされた、より感覚としては吸い込まれた、が近かった。ひゅん、と風が身体を捕え、焦げた塊の脇を抜け暗い穴へと落とされる。とっさに突き出した杖の先が、穴の縁、そのわずかに下の積み石の隙間に突き立った。
「畜生、まだ、こんな術式が……」
 ジジイの影といい、この俺、アーリット・クランが微塵も感じる事ができなかったなど……吹きつける突風に歯を食いしばりつつ、もう一方の指、そして爪先をかける隙間を探す。輝華、と呼ばわろうとしたその声が、穴の上にゆらりとやってきた相手を見て止められた。
「ジジイ、何たくらんでやがる、なぜ主王子がここにいる!」
 床に付くほどの長い白髪、痩せた身体、満たされぬ知識欲に憑かれた青白い顔。そして何より、自分にのみ向けられた妄執の暗い炎に燃えあがる眼……。
「死んで何年たったと思ってやがるんだ、世界主に門前払いされて迷ってるのか?だろうな、でももうこっちにだっててめえの居場所は無いんだよ!誰だ、誰がお前を語ってこんな事をしでかしやがった!」
「さあのう」
 はっ、とアーリットが息を飲んだ。頭上から覗きこんでいる皺の刻まれた老人の顔が、透明な面のごとく薄れるとその奥には赤毛の青年の姿があった。
「ティルク……貴様!」
 先程までの年相応な、ちょっとおどけた雰囲気とはがらりとうって変わった冷たい、人形のごときその表情。懐を探り、取り出した紙片をひらりと飛ばすと背後に迫っていた炎竜の姿が、まるで水を浴びせられた篝火のごとく瞬時にかき消えた。
「お前が気付かぬとも無理はない、我の事は、この若者本人でさえ気付いておらぬからな」
「何をした、ジジイ」
「万界の英知を宿すお主に聞かせる程の事でもないが、乞うのであれば喜んで教えてやるとも」
「誰が乞うか!」
「その前に、久々の再会なのだから、互いの名を呼ばわりこの邂逅を称えようではないか。我が深淵の不思議の具現、地を這う者にとっての降りそそぐ光、陽の金と地の緑のアリュートよ」
「やめろ、そのうざったい前置きで俺を呼ぶな!」
「どうかこの憐れな崇拝者めに、ただ一言、名を読んで頂く光栄をば授けて頂かん事を……」
「死んでも言うか!この死に損ないの腐れ苔ジジイ…」
 アーリットの怒鳴り声に、ティルクの顔の上を靄のごとく覆っている老人の顔がふう、と苦笑した。
「おお、変わらず頑固なことよ。仕方ない、ここは儂が折れてやるとしよう。まず語っておくべきは、このトリミス生まれの若造の祖が、ディプケースにあったという事だ」
「ディプケース……貴様、まさか!」
「そう、ご察しのとおり。我はこの屋敷からそなたの手で引き出される前に、全ての領民に支配の術式の種を仕込んでおいた。子ができれば、式は自らを株分けししっかりと受け継がせる。我に必要となるその日その時まで、この者らは何も知らず己の生を過ごしておったという訳だ」
「突然のお前の支配に、拒否は起こらなかったというのか?」
「それはもう、母親の腹から出る前から血肉の一部として在る術式だからのう。手足以上に馴染んでおろう」
 言葉と共に、ティルクが操り人形のごとく腕を意味なくかくかくと振って見せる。隠そうともしない嫌悪の表情でそれを見上げつつ、アーリットはなんとか探り当てた石積みの隙間に爪先をかける事に成功した。
「もういい、それで、肝心のてめえは何者だ。数百年前に死んだジジイだと言い張りたいならそれでもいいが、あまり俺を挑発しやがると、ちゃんとした裁きを受ける前に手足を全部もぎ取ってやるぞ」
「おお、おお、現し身とて持たぬこの身に手足などなんの意味があろう。信じられぬのも無理は無かろうが、世界主に誓って我は正真正銘、この地、この城の主たるル・ノウェイン・ディプケースよ。我が英知は、ついに貴殿と同じ高み、すなわち永劫の時を手に入れるに至ったのだ。あの日、北の山上の神殿で見つけた稀代の宝、偉大なる杖のおかげでな」
「偉大なる、杖……?」
「お前も知っておるはず、この界において最高位、千年の君の持ち物であり、彼と共にいずこともなく姿を消した漆黒の杖」
「それは……」
「持ち主と、お前のみが知り得ておった名〝エウ・リサーシェ・アウィ・サン・マイス(この世に在らざる黒)〟。そのまごうことなき実物を、我はこの手中に得たのだ」
「嘘をつけ!」
「頭ごなしとは頂けぬな、嘘ではない、ほうら」
 差し出した手の中には、普通のそれよりはずっと短い、腕に余る尺の棒が握られていた。飾り気も何も無い、ただの黒い棒。
「それがミストの杖だと?いい加減にしろ!この地上にあればたとえどこにあろうが俺が気付くはずだ、この距離で何も感じないはずが無い!」
 ぐっ、とアーリットの身体がしなり、壁の縁に手が伸ばされた。もう少し、あとわずかで指がかかる。
 すまん、銀枝、耐えてくれ……。
 随分減ったとはいえ、それでも人ひとり分の体重をかけられた細い杖が今にも折れそうに大きくたわむ。全身の力を込め、ついに縁にかかろうとした指先が、ふと凍りついたかのごとく停止した。
「杖は、新しい主を得たのだ。主が変われば帯びる気もまた変わる、千年の君の気を追っておれば気付くことはできぬだろうて」
「なん、だと……?」
 緑の眼が、驚愕でこれ以上は無いほど見開かれる。杖をつかんでいた方の手からも一瞬力が抜けたのか、ずるり、と体勢が崩れそのまま両手で杖にしがみつく。周囲の闇から抜け出たごとく姿を現した今一人の人物に、アーリットは声も出せず、ただ相手を見つめるだけしかできなかった。
「……お前」
「変わらぬな、と言いたかったが……随分と変わったようだな、翆眼鬼」
「やはり……てめえだったのか、黒の!」
 かっ、と全身が火がまわったように熱を帯びた。一か八か、無理をすると砕け散る負荷を覚悟で杖を握る手に力を込める。
「お前じゃねぇって言っちまった俺の言葉、どうしてくれやがんだよ!……クーロ・キィ、出ろ!」
「無駄だ」
 凛と呼ばわる声の響きが消えた後、ぼそりと言葉が降ってきた。何も起こらない、驚愕に見開かれた眼が周囲と下に向けられる。深い、底の見えない漆黒の穴。ゆらゆらと、無の霧が立ち昇ってくるように見えたのは気のせいか。
「お前を捕える為、数百年の時を要してしつらえた鳥籠よ。気に入ってくれると良いのだが」
「なんだ……どうして、精霊獣が…」
 みし、と杖が微かな音をたてた。びくり、とアーリットがそれに反応する。更に幾つかの術式を開こうとしてみたものの、結果は同じだった。
「この状態は……もしや」
「そう、それで合っている」
 漆黒の仮面の下から、乾いた声が漏れた。
「この男は、貴様を得る為、己の領地の深部に廃地を創り上げたのだ。世界を巡り、廃地の砂を収められる器を探し出し、この地下深くに砂を振り巻き後は数百年、ただ侵食するに任せた。貴様も気付いているだろうが、廃地の砂はこの回円主界の一切全ての物質を侵し、同じ砂へと還す。この砂に触れて尚存在を保てるのは異界の物、それのみだ。それを確かめる為、貴様は万策講じギュンカイの廃地に赴いたのであろう」
「ああ、おかげで確証が持てた。俺もお前もここで生まれ、この地に紡がれた存在じゃない、異界の者なんだってな」
「そう、創界主は言うまでもない、そしてお前は産み親の素材ともう半分、異なる存在で編まれた命。廃地にあっても一切その身に危害が及ぶことは無い」
「なんで……何故、お前がそれを知っている……!」
 燃えあがる炎のごとき緑の眼を向けられ、老人の影がまるで最高級の宝物を眺めているかのように目を細める。その隣で、漆黒の仮面はおもむろにその顔から覆いを取り外した。
 その下にあるのは、眼下の穴にぶら下がり唇を噛んでいる相手と寸分たがわぬ同じ顔。いや、眼の色だけが淡い金に透けている。
 見る者が、心の奥底で一番恐れる存在を写す顔。
 その唇が、ゆっくりと開かれた。
「知っていて当然だ、我は……」
 お前が生まれた時からそこに在った、それより以前、遥かな古(いにしえ)よりずっと。
「我が真名は……貴き主より授けられし名は〝この世にあらざる黒〟」
「……嘘」
「双界鏡に並び立つ、この大地に二つと無き存在。千年の君、ミストフェルの杖」
「嘘だあっ!!」
 悲鳴じみた叫びと同時に強い風が吹きつけて、アーリットが首に巻き付けていた淡青の布が吹き飛ばされた。眼を見開き、まるで腕をもがれたような顔で闇に吸い込まれる布を見届ける。血が出るほどに唇を噛みしめ、俯く姿にもう諦めろ、と老人が気持ちの悪い猫なで声をかけた。
「誇り高いお前にこの上、棒でつつき落とされるような辱めを与えたくはない。素直に籠に入り、心を護る暗示に身を任せるが良い。さすればこの我が、永劫の時を存分にそそぎ毛の一筋に至るまで徹底的に調べつくしてやろう、お前の求めるこの世界の秘密の全てをな!」
 頭上から降り注がれる、棒突きよりずっと屈辱的なその言葉をアーリットは聞いてはいなかった。
 道は二つ。
 一を助け、二を捨てる。
 あるいは、二を助け一を捨てる。
 どうあっても、この状況で三は救えない。なら、この三それぞれの生存率を考えよう。
 捨てられても、生きていられる可能性のあるもの、そうでないもの。
 おもむろに、ほとんど無いに等しい石積みの壁の隙間に指をこじ入れる。たった一瞬、その間だけでいい。
『アル、何をするつもりです?手を離さないで下さい!』
 すまない銀枝、本当にお前には辛い思いばかりさせる。悪い主、俺に持たれたのが運だと思って諦めてくれ。
 指先と爪先のわずかな部分で全体重を支え、抜いた杖を振りかざす。ひゅん、と軽い音と共に銀光が宙に投げ上げられた。
「世界主の神殿の徒、アリュートがここに命ず。リスキュイ、ニアン・ベルツ、我が支配を解き、ティルク・センバーに移れ!」
 頭上から降ってきた杖を、伸ばしたティルクの手が反射的につかんだ。同時に〝拒否〟をくらわされ、崩折れる身体の下に開いた紋から有翼の獣が踊り出る。開いた鉤爪にティルクと、傍らに倒れた主王子をつかむと鷲獣の霊獣は翼を広げ、扉を体当たりで破って一気に空へと飛びたっていった。
「俺の最後の命令だ、エクナスへ!」
 闇の底へと遠ざかってゆく声が、塔の内にこだまする。やがて周囲が静寂に包まれて、寄り代を抜かれまた霞のごとき状態に戻った老人は何をしておる、とまた仮面を戻した黒衣の人物を苛ついた表情で振りかえった。
「さっさと追わぬか、若造はともかく、主王子は処分しておく算段であったのに。ここで少しだけ研究に使っておったのがまずかったのう、早く取り戻してこい!」
「いつから、我に命じられる身分になった」
「命じておるのではない、儂ができぬ事は、貴様がやると言っただろう!」
「あのような者、潰そうと思えばいつでもできる。それよりは籠に入った小鳥が馴染んで羽を閉じるまで、己を傷つけぬよう見守るのが先だと思うがな」
「おお、おお、そうであった。なに、半日ほど封じておけば耐えきれず暗示に心を任せるだろうが。暴れて怪我などされては勿体ない、丁寧に、優しく、真綿でくるむがごとき扱いをしてやらねばな……」
 もやもやと薄れ、老人の姿が闇に溶け消える。それを見届けず、黒の破壊主は手に持っていた杖をアーリットが消えた床の穴へと差し向けた。印が広がり、燃え崩れた合成獣もろとも元通りに床の下に隠してしまう。その時、遥か地下から遠く、微かに獣が吠えるような叫び声が響いてきた。
「出せ!出しやがれ!出して……ここは嫌い、助けて……嫌だ、恐い、恐い……嫌ぁぁ!」
 声が、低い男性のそれから段々、甲高い女性、そして身も世もない子供の絶叫へと移り変わる。嫌だ、嫌だ……と続けた後、意味の分からない叫び、そしてある人の名を繰り返し繰り返し呼び続け、喉が裂けたように咳き込むと声は低い嗚咽になった。
「世界主よ、これが大地、そこにある生命全ての声だ、聞こえているか?」
 ぐっと、杖を握る破壊主の、その手に力が込められる。
「耐えるのだ、翆眼鬼、後少し……」
 ふいと身を返し、その黒一色の姿も闇の奥へと消え去った。

鏡の向こうと僕の日常 4

 ふふふ、今回も読み終えてしまったのですねいけないお方だ。全く、人が三年もかけたものをひと月足らずで……ありがとうございますありがとうございます、心の底からありがとーございますううっ!!大人指数(エロ度とか)上がってごめんなす、だって大人だから。

鏡の向こうと僕の日常 4

様々な国をめぐり、ついに唯人は、最後にして最も危険な国、山砦国へと赴く。認めてくれたあの人の、期待に応えたいから。その彼が陥った危機を、唯人はまだ知るよしもない。 4だからして、願わくば1からお読み下さい。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • 青年向け
更新日
登録日
2013-06-21

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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  1. 草原の民と神殿と
  2. 山砦国へ