縄文のビーナス
現代日本が抱える諸社会問題と国宝の関係についての考察
日本には掃いて捨てるほど国宝と呼ばれる古臭い建物や骨董品存在しているという。そもそも、掃いて捨てられるようなものなら国宝と呼べないでないかという、誠に合理的かつ論理的な指摘は読者諸兄の胸の内に留めておいていただきたい。ともあれ、国宝は思いのほか沢山ある。おらが町には国宝なんてありぁせん、と思われた方もいらっしゃるに違いない。こうした著者の勝手な断定は私の最も嫌う108の項目の中に燦然と輝く事柄である。がこうしないと思うように話が進まないのである。今後の小説執筆技術の研鑽が待たれるところである。などという言い訳がましいことを言っていると話が進まない。今後の反省が期待される。
話題を戻そう。
何の話をしていたか失念することもしばしばである。そうだ、国宝の話であった。
日本の市町村で国宝を有する自治体は有しないそれよりも少ない。なんだ、沢山というのは嘘か。そのような早合点は禁物である。何故なら日本には「京都」という国宝の一大保有地が存在しているからである。いうなれば国宝保存庫である。おかげで地方自治体には国宝が少ない。これでは地方の深刻な国宝不足に起因する観光資源の枯渇化やそれに伴う税収の減少、地方経済の停滞、若者の流失と人口の減少そして高齢化さらに過疎化…。現代日本の抱える深刻な社会問題という諸悪の根源は、全て京都ではないか。こういった早合点は禁物である。国宝がないからと言って高齢化は進まないし、わが故郷のように国宝があっても若者は都会に憧れるものであり、故郷を離れていく。そう、たかが国宝なのである。
わが故郷には喜ばしいことに国宝があるのだ。たかが国宝とはいっておきながらもやはり故郷に国宝がある事実は、道端で一万円札を拾った時ようなホクホクした心地よさを私にもたらす。しかし、早合点は禁物である。私は拾った一万円札をネコババするような人間ではないのである。清廉潔白を旨とし、ロペスピエールもかくやと人々から称される、そんな人間に私はなりたひ。のであるから、仮に路傍において長方形の高級和紙に日本の最先端の印刷技術をもって印刷されなさっていなさる福沢諭吉翁を拝見した折には迅速かつ丁寧に、いつ犬にションベンを引っかけられ、その御尊影がおふやけになられるか分からない危険地域から救出し申しあげ、丁重に最寄りの交番に届け出て、警察官の必要性の見出せないうんざりするような質問にも不快な素振り一つにせず紳士的に応じる所存である。
話題を戻そう。わが故郷の国宝の話に。
わが故郷の国宝は縄文時代の土偶である。その名を「縄文のビーナス」という。高さが30㎝ほどのおそらく妊娠中と思われるお腹の大きい女性の土偶であり、なぜか目が吊り上がっている。怒っている時を描写したのもであるのだろうか。縄文時代の日本人は古き良き「狩猟採集民」であったから、
「ただいま」
「おかえりなさい。あら、今日は何も採れなかったの?ほんっとに駄目ねぇ…。私は妊娠中なのよ、食べ物がなくっちゃぁ赤ちゃんだって大きくなれないじゃないのよ!!!!」
「す、すまない。」
「今日はあなたはご飯抜きね。いいでしょ?」
「……。」
などというやり取りがあったにちがいない。(縄文時代に日本語が成立していたとは考えられないが。)私は飯を抜かれた旦那が気を紛らわせるために作ってみただけのような気がしてならないのだ。ともあれ、かの「縄文のビーナス」は怒っているように見える。
何故、目の吊り上がった土偶に「ビーナス」などという繊細で、可憐なイメージの愛称をつけたのだろうか。全くもって謎である。もっといえば何故国宝なのかも謎である。
世界は謎で満ちている。
縄文のビーナス