き・ら・め・き


 テスト期間中に、風邪をひいて、熱が出た。
 薬を飲んだら、眠くなった。
 今日はユキに電話する日だから、寝てはいけない、寝てはいけない……そう思っていたはずなのに、机に突っ伏して眠ってしまった。
 目が覚めたら、もう明るかった。今から電話するわけにもいかない。諦めて上体を起こす。ずっと左を向いていたから、首が痛い。頭も痛い。これは、風邪のせい。食欲もない。ろくに勉強していないから、テストでまともな点を取る自信もない。
 夕方にでも電話しよう、きっと怒られるだろう、風邪をひいたという言いわけは聞いて貰えるだろうか、と色々考えながら学校へ向かう。
 テストが始まる時間に合わせて、普段より遅い電車に乗る。何故かこんな日に限って、電車がM駅に入って行く時、ホームを歩くユキと目が合った。ユキは怒った顔をして、小走りで追い掛けて来た。
 準急に乗り換えるために降りた俺の手首を、ユキが掴んで引っ張る。二の腕辺りでも捕まえてくれたら、熱があると分かって貰えるかと思ったのに。
「ごめん」
 ひとまず謝る。
「ずっと寝ずに待ってたのに」
 そんな深夜に電話するわけがないから、零時過ぎれば寝てくれよ、と言いたくなる。
「昨日風邪ひいて……一回ぐらい許して」
 ユキは最後まで聞かずに首を横に振る。
「違う。これで三回目」
 何? ……覚えがない。付き合い始めて四か月弱、その間に二回も? 回らない頭で懸命に思い出そうとしていたら、不意に咳が出た。拙い、このタイミングだとわざとらしくて仮病っぽい。焦って止めようとすると、かえって長く咳き込んでしまった。ユキは腕組みをして俺を眺めている。
「罰として、三日徹夜すること」
「へ?」
「さっき、三回目って言ったよね」
 いつの間にか来ていた準急の、扉が開く。降りて来た客とぶつかってよろめく俺を睨み、舌打ちをして目を逸らし、ユキはさっさと乗ってしまった。
 言い訳も出来なかった。
 分かった、こうなったら、本当に三日徹夜してやる。
 車内は混んでいるのに、熱のせいか、背中の汗が冷たい。
 K駅で降りようとした時、いつの間にか扉近くまで来ていたユキに肘を掴まれた。
「金曜のHパーク行き、十時にアポロン橋の鐘のとこ」
 機械的な声でユキはそう言って、手を離す。数歩行ってから振り返ると、もうユキはこっちを見ていなかった。さっき、遊園地デートの約束を覚えているかどうか聞かなかったのは、俺への優しさ? ――実際、すっかり忘れていた。
 だからって、待ち合わせ場所を橋の上にしなくてもいいのに。
 どうせいつものようにユキは遅れてばたばた走って来る。真夏に、炎天下で、三日間の徹夜明けの俺は待たされる。想像しただけで気が遠くなる。けれど、この約束を破れば、きっとユキはもう許してはくれない。

 テストには全然集中出来なかった。
 家に帰ったところで、テスト勉強をしておこうという気にもなれない。昼に寝て、夜の間ずっと起きておくというのは、徹夜になるのだろうか。そんなことを、二段ベッドの上段で座って考えていた。
 不意に扉の開く音がする。タンスと二段ベッドで仕切られた向こう側に、弟が帰って来た。
「あっちー」
 そう言って弟はクーラーをつけた。その時になってやっと、自分が蒸し風呂のような部屋に居たことに気付く。冷風直撃の上段から降りて、椅子に腰を下ろす。
「あれ? 兄貴、帰ってんの?」
 ……玄関に靴があるのに分からないのか、とつっこみたかったが、声が出ない。弟は、それ以上何も言ってこない。いつもの不機嫌だと思ったのだろう。
 そのうち、何か書く音がし始める。自分が勉強しているのをアピールして大きい音を立てているのかと思ったこともあったが、そうではないと分かり、諦めた……にしても、コツコツと煩い。ヘッドホンで耳を塞ぐついでにCDを聴く。ベースの音が頭に響く。目を閉じると、世界が回り出す。いや、自分が回っているのか。イコライザーで重低音を絞れば済むと分かっていながら、ヘッドホンを両手で押さえて、そのまま聴き続ける。同じCDを延々リピート。今度バンドでカバーする曲が回ってきたら、結構集中出来る。このまま、徹夜出来そうだ。
「おい! ご飯! さっきからずっと呼んでんのに!」
 突然、弟の声がした。一瞬にしてヘッドホンを外されていた。
 その日の夕飯の当番は弟だった。テスト中だから出来合いのものを何か買って来ると思っていたのに、おでんを作っていた。やるな、と言ってやりたかったが、どうも食欲が湧かない。蒟蒻と厚揚げを食べただけで、「もういい」と言うと、弟は箸を止めて俺の方をじっと見た。はいはい、いつもの不機嫌と思っていてくれ。
 そして俺は再びヘッドホンで音楽を聴く。
 夜中に一度CDを入れ替えた。今度カラオケに行ったらこれの三曲目を歌って、と言ってユキに押し付けられたもの。それまでほとんど知らなかったが、じっくり聴けば結構良い曲をやっているバンドだと思えてきた。多分、すぐ歌えるようにはなる。キーも合っているし。でも、カラオケになんて、いつ行くのだろう? テストが終わればHパーク行き、その後は毎日バンドの練習とバイトなのに。
 大人しい曲が回ってくると、自分の咳がよく聞こえて不快だった。
 賑やかな曲に変わってから、弟が何か言ったような気がしたが、ヘッドホンを外して聞き返しもせず、そのまま無視した。遠い声――は、絶対、俺を責めている。
 もう、どうにでもなれ。テストは、あと、物理と古文。……高校最初の通知表はとんでもないことになりそうだ。中間テストの結果だけでも、バンドのせいだとか髪を伸ばしたりしているからだとか、色々言われた。けれど、そんなことは気にしない。親の期待は全部弟の方へ行けばいい。

 一応、一晩中起きていたつもりだが、本当に眠りに落ちていなかったかどうか、自分でもよく分からない。
 オレンジジュースだけ飲んで、パンを食べずに立ち上がったら、目眩がした。壁に手をつくと、弟が
「いい加減にしろよ」
 と言う。何をどうしろと? 聞き返すのも面倒臭い。
 その日はずっと、雲の上に居るような、何とも言えない心地だった。シャワーを浴びた後で、髪を一つに結ばずにそのまま学校へ行くと、誰かと思った、と何人かに言われた。教室の窓に映っているのを見て、自分でもそう思った。髪だけのせいだろうか。自分が自分でなくなっていくような……そんな感覚の中、テストは終わった。
 なんとか家に辿り着いた俺は、机に体を預けて、電気スタンドの横で倒れている写真立てを手に取り、眺めていた。
 ゴールデンウィークに出掛けたまつりの時に一枚だけ撮った、ユキの写真。胸にハートの描かれた白のトレーナーに、灰色がかったピンクのキュロット。髪はポニーテール。そんなユキと、川辺に並んで座って、クレープを食べた。どういう風に話を持って行ったかもう忘れたが、とにかく、家族が全員旅行に出掛けていて留守だということを喋った。水上バスを眺めていたユキが、こっちを向いた。
「で?」
「うち来いよ」
「命令されるの嫌」
「……頼むから、来て」
「……いいよ」
 ここで立場が逆転した気がする。元はと言えば、ユキの方から告白してきたのに。何故そうなったのだろう?
 写真立てを隅に戻して、机に突っ伏した。ポニーテールをほどいた瞬間のユキの憂いを帯びた顔と、立ち上がったユキの腿を伝い落ちて行った赤い滴……断片的なその二つの映像が頭の中で繰り返される。俺が頼んだことだから、もう俺はユキの言いなりになるしかないのか? あの、天使のような顔をしたユキは、俺の三歩後ろをついて来ているようにみんなに思われているはずだ。
 違う、俺が先に行かされているだけだ、俺はラジコンカー。操縦しているのがユキ。時々暴走して、そこら辺にぶつかって止まると、ユキはそれを拾い上げ、「まだ新しいのに、もう故障?」と言って無闇やたらと叩いてみる――そのうち、本当に壊れる。まさに、今かも知れない。
「何やってんの? しんどいなら、寝ればいいのに」
 頭の上で弟の声がして、現実に引き戻される。
「晩ご飯作れんのか?」
 そうだった、今日の当番は俺だった。
「無理」
 弟が溜め息をついて、姿を消したその後で、もう一度写真立てに手を伸ばす。この間ユキが熱を出した時、俺は見舞いに行ってやったのに、俺が風邪をひいても、ユキは来ない。もうユキの高校もテストは終わったんじゃなかったか? 何をしているのだろう。友達と、カラオケにでも行っているのだろうか。街に繰り出して、ナンパされたりしているだろうか。
 このまま放っておいたら、俺は、完全に壊れるぞ。それでいいのか、ユキ。

 空想なのか夢なのか分からない映像が頭を巡る夜を乗り越えて、眩しい朝を迎える。
 手摺りを両手で掴みながら、下へ降りる。
 誰も居なかった。咳をしても一人、という自由律俳句がこの間テストに出たっけ、と思い出す。種田山頭火、と書いてしまった。間違えた。
 時計を見ると既に十一時を過ぎていた。時間が経ち過ぎている。ということは、俺は、やはり、眠っていたのだろうか。
 喉が渇いていた。水でも飲もうと冷蔵庫を開けると、毒々しい緑色が目に留まった。瓶入りの見慣れない飲み物だった。手にして、額に当てる。冷たい。
 それを飲んでみることにした。なんとなく移し変えて眺めてみたくなって、洗いかごにあったコップを取った。栓抜きを握る手にも力が入らず、一苦労した。それでもどうにか開けて、コップに注ぐ……春休み、二人で初めて行ったファミレスで、ユキがメロンソーダを飲んでいたのを思い出す。たった四か月前のことなのに、随分昔のような気がする。
「メロンソーダ好き?」
「うん、私、飲み物でこれが一番好きかも」
「そうか」
 会話が続かなかった。沈黙の後で、ユキが言った。
「飲んだことないの?」
「ないこともないけど、あんまり」
「じゃあ、飲んでみる?」
 コップをこっちに寄せて、ストローの向きを変えた。言われるままに、一口飲んだ。甘かった。
「どう? 美味しい?」
「……うん」
 待てよ、これでは、初めから全部ユキのペースだ。
 そんなことを考えながら、緑の液体を暫く見ていた。調理台に置いたコップの表面を水滴が伝い落ち始めた頃、持ち上げて口へ運んだ。
 ――甘い。甘過ぎる。喉を刺すようなその甘味に噎せ、流しに吐き出してしまった。無性に腹が立ったので、コップも瓶も流しの方へ向けて薙ぎ倒して、台所を出る。
 メロンソーダのせいで、咳が止まらなくなった。もう徹夜のことはどうでも良いか、とも思ったが、だからと言って眠ろうとして眠れるものでもなく、ヘッドホンをしてひたすら曲を聴いておくしかなかった。
 でも、ずっとそうしていたら、帰って来た弟にまた小言を言われるだろう。
 俺は、ふらふらと外へ出る。
 空は曇っていて、蒸し暑かった。日が照っているよりはましだ。
 高速道路の下の公園を通り抜ける時、落ちていた空き缶を蹴飛ばしたら、ベンチに繋がれたハスキー犬の脚に当たった。猛烈に吠えるハスキー犬は、ベンチごとこっちへ移動して来そうだった。飼い主がその場に居ないのをいいことに、「うるさい」と怒鳴っておいた。
 うるさい。何もかも。堤防を走って来る中学の野球部員の号令が、河川敷で練習している高校のラグビー部の掛け声が、聞こえる音が全てうるさい。
 西の方は雲が薄くなっているのか、沈んでいく楕円の夕日が見える。河川敷に降りて、なんとなく吸い寄せられるように西へ歩き始めた時、目の前にラグビーボールが飛んで来た。受けられそうだった。が、無視した。
 そうこうするうち、大きな公園にたどり着く。急に雲行きが怪しくなってきたかと思うと、大粒の雨が落ちて来た。雨宿りをするためにすぐ傍の橋の下に座ったら、もう、動きたくなくなった。
 雨音がうるさい、逃げ惑う子供らの声がうるさい、自分の咳がうるさい。
 何もかも、頭に響く。
 稲光が見えた。雷鳴が轟く。その、繰り返し。俺の作り出した幻か?
 やがて、音もなくなる夕立。見えないところで太陽は沈んで行って、襲い掛かる夕闇が、俺を動けなくする。動かないといけない、明日はHパークに行く約束をしているから。立たせてくれ、手を伸ばして掴もうとしても、ユキはそこには居ない。
 雨が運んで来た風の、川の下流の臭いに、吐き気がする。
 どこからか溢れ出す廃液に世界が溶けて、長過ぎる夢から覚めることは、もう、ない。
 今日も、明日も……

 それでも俺は、諦め切れない。
 朝になれば、宙に浮いたように体が軽くなり、待ち合わせ場所に向かって進み始めた。自分の足を踏み出しているという感覚がないまま。
 歩いて行くには、M駅は遠過ぎた。国道沿いの歩道で、排気ガスにどうしようもない息苦しさを覚える。こんなに空気の悪い街だったか?
 最後の角を曲がってから、切通しの橋の下で、一度、うずくまる。駅はもうすぐそこに見えているのに。あれを潜れば、向こう側にはアポロン橋。
 どうせHパークになんて行けない。だが、せめて鐘の下にはたどり着きたい。希望の鐘、という名のついた、あの鐘の所まで行かなければ――何が希望だ。
 希望なんて、どこにあるのか言ってみろ。
 橋の階段でつまずいて、暫く動けなかった。何人も人は通り過ぎたけれど、誰も心配して声を掛けてはくれない。ひょっとして、俺の姿が見えないのだろうか。
 アポロン橋に上がった。希望の鐘に目をやる。思った通り、ユキの姿はない。十時と言ったから、多分、来るのは十時二十分だ。あいつの遅刻癖は、一体何だろう。学校に遅刻したことはなさそうなのに、俺との待ち合わせには遅れる。待たせておけばいいや、とでも思っているのか。
 今日くらい、早く来い。
 頼むから、早く来てくれ。
 十時を告げる鐘の音が、頭上で鳴り響く。うるさい、うるさい。
 見上げると、真夏の太陽に照らされて、希望の鐘はきらめいていた。無数の光が、星の瞬きのようだ。きらめきの集合体が、見えない手で俺の首を絞める、きらめきが、首を……
「……ナオ! ナオ! ……大丈夫!?」
 早かったな、鐘が鳴っている間に来るなんて。今度目が覚めたら、褒めてやる。褒めてやるから、今は、早く、俺を抱き起こしてくれ。
 希望の鐘が鳴り終わらないうちに。

き・ら・め・き

き・ら・め・き

設定:1990年

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-07-31

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