自虐的
その日も西尾は、規定の帽子と笛と白手袋を持って、定刻にH電鉄M駅に到着した。
ホームの端にある改札口へと歩いて行き、助役に挨拶をする。
天候の話などしているうちに次の電車が入って来て、客に混ざってもう一人のアルバイト駅員の若林が降りて来る。軽く手を挙げて挨拶を交わし、西尾は先頭車両中央の扉の傍に立つ。
「ご乗車の方はお急ぎ下さい、扉閉まります」
いつもと同じ、朝のアルバイトの始まりであった。
車掌に敬礼をし電車を見送った後で、西尾は駅のすぐ傍の踏切に目をやる。
H電鉄と地下鉄との乗り換えをする人々の群れが、遮断機の上がり切らぬうちから、慌ただしく動き出す。踏切の中央では擦れ違いざまにぶつかる人もある。遮断機が下り始めても、多くの人がそれを潜り抜けようとする。西尾も若林も、ホームの端から激しく笛を吹いて警告する。
笛を吹かれたサラリーマン風の中年男性が、二人を睨みつけてから走り去った。
「何睨んでんねんおっさん」
「轢かれて死ぬぞ」
西尾と若林は、小声で憎まれ口を叩く。
こんなことは珍しくもない。
だが、次に入って来た電車から出て来た客達の様子は、いつもと明らかに違っていた。
何人もの人間が三両目付近のホームで団子になっている。そのうちの一人の女性が声を上げた。
「痴漢なんです、この人! 捕まえて下さい!」
それを聞いた西尾は、扉の端を持っていた手を離し、女性が指し示している男を捕まえるべく、人波を掻き分けて行く。
それまでの三か月間で経験したことのない事件だ。
人々の団子は徐々にばらけて小さくなりながら、改札の方へと流される。
顔を見る限り、男は40歳前後であろうか。取り押さえようとする男性客が次々と跳ね除けられているところを見ると、何か格闘技の経験でもあるのかも知れない、と西尾は思った。
自分に取り押さえられるのだろうか、と不安になりながらも、男の方へ進んで行く。
自動改札機の一歩手前で、漸く西尾は男のカッターシャツの襟を掴んだ。それを振り払おうとする男に頭をはたかれ、帽子が落ちる。
もみ合いになっている最中、西尾の目にはホームの様子が映った。急いでいた筈の客達が、人垣を作っている。その一番前で、叫んでいた女性が立ち尽くしていた。
西尾は、男に何発も殴られながらも、必死で男を押さえ付けようとする。
若林と助役と改札係は、困惑した表情でその周辺に居た。なんとかしたいがどう手を出せば良いのか分からない、という様子だった。頼りない奴らだ、と西尾は腹立たしく思う。
西尾と男は、もみ合ったまま非自動化改札を抜けて行った。次の瞬間に、二人は階段から転がり落ちる。
その時西尾は、次のように考えていた。
(俺はなんでこんな奴にぼこぼこにされてんねん? あの可哀想な姉ちゃんのためにも、絶対にこいつを捕まえなあかん、ていう義務感に駆られて? いや、それにしては自虐的過ぎる……殴られてんのをそこら辺の野次馬に見られて酔ってんのか? ……んな阿呆な!)
気付いた時には、踏切の前で俯せに倒れていた。顔を上げて見ると、遮断機が下りていた。
遂に西尾から逃れた男は、駆け寄って来た若林と助役と改札係にも捕まえられることなく、完全に下り切った遮断機を手で持ち上げて、踏切を走り抜けて行った。
西尾は叫ぶ。
「何考えてんねん、おっさん! 轢かれて死ねや!」
その声は、西尾の眼前を通過して行く特急の轟音に掻き消された。
特急が遠ざかり、遮断機が上がり始めた頃に、西尾は起き上がった。もう男の姿は見えない。
立ち上がった西尾の傍には、西尾の帽子を持って若林が立っていた。それを手渡す若林は、西尾を奇異の目で見ていた。
(おい、お前、自分が捕まえられんかったんはミスやって分かってんのか? 俺が趣味で暴れてたみたいに思てるんちゃうやろな?) 振り返ると、人垣を作る客達の目は、どれも若林のそれと同じであった。
(どつき回されて、おっさん逃がして、情けない奴、とか思われてんのかな、俺……)
西尾は、服に付いた砂を払いながら、人垣の前で佇む女性の口元を見ていた。その口は何も言葉を発しはしない。「ごめんなさい、私のために」、そんな言葉を、西尾は待っていた。
(大体、そんな短いスカート穿いてる方も悪いねん! ほんまに、ええ迷惑や! ……そうや、あんたが俺の努力を認めてくれさえすれば、俺は変な奴扱いされんで済むんや。何か言えよ、言ってくれよ……)
「おい、何か言うことないんか……そこの姉ちゃん、あんたや!!」
自虐的