残灯


 ――親愛なる敗者へ。
 夕日、夕日、また夕日、毎日責めながら沈んで行くそれに、階段を転がり落ちる夢を何度も執拗に見せられる。絶望的な渇きを覚えながら、僕は虚構が好きになる。このまま生温い川風に吹き飛ばされて、知らない町に墜落してみたくても、体は浮きはしない! 祈っても。
 頼りない信愛を抱いて明日も生きていく。それが揺るぎない盟約に変わる時、劇的な愉悦はすぐ傍にある。

 夜に行く。空いているだろうから。
 今日は僕にとって三回目の、司法試験短答式試験の合格発表。試験会場だったK大学にそれが貼り出される頃、僕は既に近くのゲームセンターに居た。重大な出来事を目の前にすると、何故かいつもそこへ逃げ込んでしまう。暗く煙たい店内で、次々と百円玉を投入していく。
 両替に立つついでにトイレへ行った。用を足して手を洗っている時、壁の向こうの女子トイレから「ギャ――!」というけたたましい叫び声が聞こえた。何事かと思い、出てみると、若い女が勢い良く飛び出して来た。
「どうしたん?」
 と言いながら駆け寄る連れらしき男の腕をつかんで、女は言った。
「めっちゃでっかいゴキブリ!」
 ……今にも死にそうな声を出すな! 馬鹿女が。暗過ぎてよくは見えなかったが、誰もが僕と同じようにそう言いたげな顔で女を見ていたに違いない。元のゲームの所へ戻ろうと思ったその時、今度は男が「うわ!」と声を上げた。
 指差すその先に、鈍く黒光りする姿。ゴキブリが、女を追い掛けて出て来たのだ。女は再び悲鳴を上げ、つかんでいた男の腕をあっさり離して外へ走り去る。そしてゴキブリは僕の足元にやって来る。
「死ね!」
 思わずそう声に出していた。足元を見る。ゴキブリを潰すと白い液体が出て来るのだということをその時初めて知った。
 いつの間にか例の女が男の背後に戻って来ていた。
「え! 踏んだん? 気持ち悪ぅ……」
 虫を潰すのが趣味であるかのように言いやがる。バイトの店員が、箒と塵取を持って来た。
「そんなんじゃあかん、ティッシュ下さい、ティッシュ! ……や、箱ごと持って来て!」
 どいつもこいつも、どうしようもない。
 靴の裏を拭いて、トイレで念入りに洗って、店を後にする頃には、誰も僕のことなど見てはいなかった。ゲームセンターに平穏を取り戻してやった僕に感謝してくれても良いだろうに。
 僕の望みは伝わらない。足跡をなくして音も立てずに消えていったら、それで良いですか?

 結局、去年より早くK大の敷地に足を踏み入れてしまった。そして、発表の現場には未だ人が群がっていた。掻き分けて進んで行く気にもなれず、三メートルほど離れた所に立ち、人が減るのを待つことにした。
 と、左の方から一人の男の後ろ姿が視界に入って来た。携帯電話で喋っている。
「……うん、有難う。ほんま、良かったわ」
 合格の報告をしていると思われるその声には、聞き覚えがある。声を張っている訳ではないのに、よく通る……そうだ、相川だ。昨年度、予備校で同じ講座を受講していた男。
 ということは、相手は、荻野美和子かも知れない。相川と荻野は、大学一回生の頃から予備校に通っていて、荻野の方は一昨年既に最終合格を果たしている――のだが、未だ司法修習を受けずに相川の合格を待っているらしい。去年の忘年会で、相川自身がそう語っていた。
 誰かが囃し立てて携帯に保存してある画像を表示させた、それを見てやろうとは思わなかったのに、見えた。よく知った顔だったので、思わず「あ」と声を発したが、誰も聞いてはいなかった。
 画像の女=荻野は、高校三年生の時に同じクラスだった。明朗快活で誰に対しても人当たりが良い少女。こんな僕に対してでも、そうだった。
 そんな荻野と付き合っている相川は、見るからに好青年といった風貌だが、高校から大学一回生までの間は、ややこしいロックバンドでボーカルをやっていたらしい。
 先月、試験終了直後にばったり会った時、相川は、試験直前に人気ギタリストの何やら言うのが自殺したのがショックで、暫く頭の中が空っぽになって、勉強したことが全部抜けて行ったような気すらした、と話していた。僕はそのギタリストを知らなかったので、「誰それ」と尋ねたところ、相川は答えるより先にこう反応した。
「えっ、知らんの……?」
 気の毒そうな顔をするな! はっきり馬鹿にされた方がましだ。
 今ここで僕が掲示板に自分の名前を見付けることが出来なければ、相川はまたあの顔で僕を見て、励ましの言葉をかけてくるのだろう。そう思った時、ある感情が甦った。去年の今頃、既に荻野に遅れを取っているにもかかわらず短答式試験に合格出来なかった相川に、「荻野は彼氏を待ってて健気なつもりかも知れんが、いい迷惑だろう?」と言ってやりたくなった、あの気持ちは何だったのだ。僕自身も落ちたのに、相川の方が憐れであるというような錯覚に陥っていたのは何故だ。僕は誰も待たせていないから気楽なものだ、それは即ち、誰も僕を待ってはいないということであるのに。
 そして僕はゆっくりと掲示板に近付いて行く。
 番号は、ない。
 こうなることは分かっていたのだ。試験直後から。いや、試験の前から。いやいや、もっともっと前から――生まれた時から。今はとにかく相川に気付かれないようにしよう、それだけ思った。
 が、次の瞬間に肩を叩かれた。見付かったか、と顔を上げると、居たのは相川ではなく笹口だった。この男も高三の時同じクラスだった。講座は違うが同じ予備校に通っていて、たまにラウンジで顔を合わせる。高校時代から変わらず鉄道オタクで、講座を休んで青春18きっぷの旅に出掛けてしまうようないい加減な男だ。いつも呑気に「十年ぐらいは受け続けるかもなあ」と言っていたから、こんな奴が受かるはずはないと思いながら、「どうやった?」と聞いてみる。
「あかんかったわ」
 予想通りだ。だが、それに続けて笹口は意外なことを言った。
「もう司法試験は諦めようかと思うねん」
「……なんで?」
「アルバイトで塾の講師してるって前言うたやろ、その塾の本職の先生が一人やめてしもてな……」
 その後も笹口は、聞きもしないことまでべらべら喋った。分かった分かった、就職するのだな。おめでとうおめでとう。しかし、さっきから聞いていると、笹口の口調はどうも敗北者気取りだ。
「水沢はまだ受けるんやろ? まあ、頑張ってえな」
 勝手にそう締め括り、自転車のスタンドを上げ、押して歩き出した――自転車? そう言えば、こいつはサイクリングも趣味としているのだった。大きな川を二つも渡って、長い坂を上って、ここまでやって来たのだ。僕も自転車で来れば良かった、そうすればさっさと漕ぎ出して解散出来たのに、と後悔する。距離は笹口の半分くらいしかないはずだが、僕は、あの坂を上ろうなどと考えもしなかった。
 別れるタイミングを逃してしまった僕は、笹口と並んで歩き出す。駅までの辛抱だ。
 五メートルほど前を、相川が歩いている。大丈夫、こちらに気付いてはいない。
 線路までの長い下り坂の途中で、相川は右手を振った。その先には……荻野! 荻野美和子が居る! 高校時代と少しも変わらない笑顔で、自転車を押して小走りにやって来る――自転車? こんなところまで?
「あれっ? 水沢君に、笹口君?」
 僕のことなど、覚えていないと思っていたのに、荻野はそう言って目を丸くした。相川が振り返る。見付かってしまったではないか!
「え? 知り合い?」
「うん、高三の時同じクラスやってん」
 そんなこと、もう忘れてくれていたら良かったのに。楽しい文化祭前に自殺未遂騒動を起こした迷惑な僕の存在自体、抹消してくれれば。
 ……でも、本当は、会いたかった。
 時が戻る。高三の、ちょうど今頃の季節だったろうか、僕は荻野に告白をした。それに対し、荻野は言った、あくまでも明るく。
「え? 冗談でしょ? 私に付き合ってる人居てるのって、有名じゃない?」
 ああ、冗談だ。どういう反応をするのか試しただけだ。それにしても、その反応は酷過ぎやしないか。
 試したというのは嘘だ。本当に好きだった。振られて、それで、僕は死にたくなったのだ。成績が悪かったから、ではなく。そういうことにしておこう。
 人がいい訳でもなく、気付いていない訳でもなく、ただ面倒なだけ。裏切られたとか、傷付けられたとか、そんなことは引っ張り出さない。何も言わない。会う度にもう二度と会わないように思えて、そう思うことに疲れて、しかし次第に慣れてきて、そんなことをすっかり忘れた頃に、どこかへ旅立ち、居なくなる。きっとそうだ。
 立ち尽くす僕の横で、笹口が荻野と言葉を交わしている。自分の話のついでに僕が滑ったことも喋って、相川と荻野はすっかり気の毒そうな表情になっていた。さすがに笹口も居心地が悪くなったのか、試験の話は早々に終わらせた。
「なんで自転車なん? サイクリングが趣味?」
 と笹口が尋ねると、荻野は「あはは」と笑う。
「違う違う、笹口君と一緒にせんといて! 私、今、K大の院通ってて、このすぐ近くに住んでんねん」
 そう言って、ちらと相川の顔を見る。相川は、口元を緩めて目を逸らす。二人で住んでいるのだと察しがつく――二人で? 合格した人間と、未だ受験生である人間が、一緒に暮らしている? 相川は人間が出来ているから、「頑張ってね」と荻野に言われても、「見下しやがって!」などとつっかかったりはしないのか? 僕ならば、幾ら荻野と一緒でも、そんな生活には耐えられない! いや、相手が荻野であれば、尚更、苦痛だ。
「……荻野。高三の夏のこと覚えてるか?」
「え?」
 荻野は悪気のない顔で僕を見る。そうか、覚えていないのか。
「おれが告白した時、『冗談でしょ?』って言ったやろ? なあ、相川、そんな風に見下されてる気がしたことないか? こいつは先受かって、相川のために家事したりして尽くしてる振りして、『私が居てないとどうしようもない人なんやから』って心の中で嗤ってるんやで、ははは」
 相川も荻野も完全に凍り付いていた。笹口が僕の肩を揺する。
「水沢! 何を言うてるんや……失礼な!」
「どっちが失礼や?」
 僕は荻野から自転車を奪う。突き飛ばされた荻野は、「きゃっ」と言って転んだ。それを相川が起こしてやるのかと思いきや、手を差し伸べたのは笹口で、相川は「ちょっと借りる!」と言って笹口の自転車に跨ったのだ。面白い、そうきたか。しかし僕は捕まえられない。今日こそ死んでやるのだ、相川が荻野に抱くはずの、見えなくなるくらいにまで小さく圧縮された、二度と逃れることの出来ない呪縛の如き思いと、そして、荻野の自転車と共に。
 警報機が鳴る中、踏切を渡り切り、一瞬振り返ると、降りた遮断機の向こうで相川がこちらを睨んだ。僕が南へ向きを変えて走り出すと、相川も向こう側を同じように南下し始める。次の踏切で相川は渡って来るだろう、となると、相川と線路を挟んで併走している限り、まず追い付かれることはない。そう思いはしたが、それでも僕は、荻野の手の温もりが残るハンドルを握り締め、必死に漕ぐ。
「待て! 泥棒!」
 そう喚きながら相川は踏切と橋を渡って来た。追い付かれない自信があったのに、相川はすぐ傍まで迫っていた。連なる車にクラクションを鳴らされながら、カーチェイスならぬサイクルチェイスを繰り広げる僕と相川。最早、何が目的なのか分からない。実に可笑しな光景であろう。もっと昔に、こんな風に、自転車を飛ばしてみたかった。そんな青春に憧れていた。
 青春は、花開くことなく一つずつ死滅していく。初夏の日は落ちて今は宵、僕にしか見えない錯覚の星を、一つ、二つ、三つ……数えるうちに夜を乗り越え、朝が来たならあてのない旅に出る。目指す南の空には妖しい雲、そのまま突き進んで滝の如き雨に打たれてしまえ! ……それが青春だと思い込んでいた。そんなだから、蕾のまま蒸れてしまって腐り果てるのだ。お前も……腐れ!
 今にも僕の左肩に手を掛けようとしていた相川に向かって、左足を蹴り出した。相川は、無言のまま、左側に倒れてガードレールに体を打ち付けた――のではなく、ガードレールが途切れている隙間から、川に転落した。まるで僕が狙ったかのようだった。
「おい! 落ちたぞ!」
 渋滞していた車から誰かが降りて来たのだろう、騒がしくなり始めた現場から、僕は猛烈な勢いで離れて行く。

 後ろを振り返りもせず、川沿いの暗黒の道をひたすら漕いで行くと、自分がどこに居るのか分からなくなってきた。その川はいつしか線路から逸れており、やがて大きな川への合流点に達した。訳の分からぬまま橋を渡り、知らない町を走りに走って、線路に突き当たる。知らない町だと思っていたそこは、六年前に僕が自殺未遂を図った、駅の裏手だった。
 駅の明かりに吸い寄せられるようにふらふらと金網の傍まで進むと、止まっている列車のマークが見える。
「あれは、寝台特急あかつき。寝台料金なしで乗れるレガートシート車を連結しとってな……」
 という笹口の声がして、辺りを見回したが、誰も居ない。ついに幻聴まで始まったか。
 やはり僕は六年前のあの日に、ここで、死んでおけば良かったのだ。
 こうなることは、分かっていたのだから。
 それなのに、僕はずっと生きていた。
 誰か、あのゲームセンターのゴキブリのように、僕を一瞬にして潰してくれればいい。原形も留めず、何なのか分からない液体になって、滝の雨に洗い流されて、すっかりなくなってしまえば。
 そんな言葉を、口にするだけ。自堕落を楽しむ自分が居る。無性に聖人になりたい夜がある。名前も知らない橋ですれ違った、運命の影法師、運命の軌条、運命の暗中模索……全て、無に還れ。
 気が付けば、特急あかつきの最後尾がホームから出るところだった。
 「ああ、行ってしまった」と言えよ、笹口。
 「もう、俺はお前を許さん」と言ったか? 相川。
 「ほんとは告白されて嬉しかった」と言ってくれよ、荻野。
――あーあ、何もかも終わった。
 一人呟く僕は、特急が残すかすかな灯火ほどの価値もない、敗者であった。

残灯

残灯

設定:1998年

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-07-31

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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