サーカスが来ない街

1.
「フェルディナン、もうじきこの街に、サーカスが来るそうよ。」
十歳になったばかりのマリアンヌは、その幼さからの脱皮を急いでおり、妙に大人びた口調、声色を心掛けていた。
一方で、同じく十歳になったばかりのフェルディナンは、そういったマリアンヌの大人ぶった態度を疎んじていたが、その情報の内容には素直な童心を隠せずに飛びついた。
「本当かい!?マリアンヌ、君は何でも知っているんだね。それで、それはいったいいつの事なの?」
フェルディナンが思惑通りに興奮する様を確認して、マリアンヌは得意になった。彼女はその大きな瞳をわざとフェルディナンから逸らして、さも自分がサーカスに興味がないと言う体を装った。だが実は彼女も、町議会委員長の父親からその話を聞いた時には、フェルディナンと同じ様に興奮していたのだった。
「なんでも本当は、みっつ隣の街の、ベルモントで来週から催される予定だったのが、ほら、こないだの嵐で…。」
先週、彼らの住む街、カリーナを含むここら一帯は、強い春の嵐によって大きな損害を被っていた。特にベルモントでは、河からほど近い立地であった事から、少なくない死者・重傷者を出していた。
そして、ベルモントで看きれない数名の重体者がこの街の病院にも運ばれてきていた。フェルディナンの父親はこの病院の医者であり、母親は看護師であった。その為、ここ最近は彼の両親は殆ど家に帰らず、病院に泊まりっきりでこの治療に当たっていた。
その間、彼は自宅にひとりきりで留守をしており、隣家に住むマリアンヌの母親が食事などの面倒を見ていた。
世話好きである彼女の母親は、フェルディナンの両親が御礼にと渡そうとした幾らかの謝礼金の受取りを断固として拒んだ上で、善意のみで進んで彼の身の回りの世話をしてくれていた。
フェルディナンとその両親は、マリアンヌ一家の厚意に心から感謝していた。
その一方で、フェルディナンは自身の両親に対して、態度や言葉にこそ出さないよう努めたものの、少しずつ不満を募らせていた。
普段から両親に対し、彼は尊敬の念を忘れなかった。しかしながら、家族そろっての夕食を日課にしていたマリアンヌ一家の食卓を体験する事で、却ってフェルディナンは自覚の外で、静かな孤独感に苛まれた。
特にここ数日間は嵐の影響から、何日も両親と顔すらあわせない状況が続き、我慢強いが故に蓄積された彼の不満が、あと少しで愚痴として誰かにぶつけられようとする寸前にあった。
そんな時に、マリアンヌから聞いたサーカス到来の話題は、幸運な事に、幼さ故にまだ曖昧だったな彼の負の感情を殆ど拭い去った。
敏感なマリアンヌは、フェルディナンのそういった孤独感をどこか感じ取っていたので、嵐の話題を出してしまった自らの軽率さを悔いていたが、最早嵐の話などフェルディナンによって、どうでも良くなっていた。
「…という事は、来週やって来るのかい?随分急だね。あぁ、フラーのやつ、きっと悔しがるぞ。こんな時に限って、あいつ、家族で旅行に出かけているんだぜ。」
フェルディナンが嵐の話題を全く気にしていない事がわかると、彼女はまた気を取り直して、父親から聞いていた情報を自慢げに語りだした。
「そうね。なにせ、そのやって来るのサーカス団って言うのが、今フランスで一番人気の、何だかとっても珍しいショウをするらしいわよ。」
それを聞くと、フェルディナンの興奮は一層高まった。
「フフッ、フラーのやつ、きっと地団太踏むぞ。」
フラーと言うのは彼の同級生で、気の合う反面、徒競走や成績、作文コンクールの賞争い等、何かと張り合う事が多い友人だった。
彼らの年代にとって、この様なニュースに乗り遅れるという事は、コミュニティにおけるある種の勢力競いにおいて、非常に大きなハンディキャップとなる。逆に、その情報をいち早く入手する事は、大きな優位性となる。
「それで、その珍しいショウというのは、どんなものなんだい?」
マリアンヌは、その視線を漸くフェルディナンに戻すと、意地悪な笑みを浮かべた。
「さぁね。私も知らないわ。でもとにかくね、すっごく不思議な出し物みたいよ。お父さんも、その内容まで詳しくは聞いていないみたいなの。」
フェルディナンはもどかしい気持ちでいっぱいになったが、彼女の父親が知らないという事は、きっとこの街の誰も、詳しい内容は知らないのだろう。それを理解すると、今度はそのもどかしさを、やがてやって来るサーカスへの期待感に変換した。
彼らはマリアンヌ一家での夕食後、彼女の家の前でいつまでもそうやって話し合っていたが、やがて通りの向こうから、フェルディナンの両親が揃って歩いて来るのが見えた。
先に子供たちに気が付いた、フェルディナンの父親がかぶっていたフエルトの帽をとり、隠し切れない疲労の中にも優しさのこもった笑顔をたたえながら、声をかけた。
「おや、マリー、うちの息子の子守を、今日もどうもありがとう。さぁ坊主、長らく留守にしてすまなかったな。やっと少し落ち着いたから、明日は一日お休みだ。久しぶりに母さんのうまいシチューでも食おう。」
フェルディナンは『子守』という言い方に対して、感情のままに反論しようとしたが、母親のやつれた表情を見て考えを改め、大人しく頷くだけにした。
母親は、父親とは違い、病院でなにかうまくいかなかった事があると、明らさまにその表情に陰が表れる。『落ち着いた』というのは、ずっと看ていた危篤の患者が亡くなった、という暗示でもあり得るのだ。
フェルディナンはその状況を、そこまで細かく解析出来た訳ではないが、母親を思いやる気持ちがその時点のなによりも優先され、配慮ある言動に代えられた。
「おかえりなさい、あのね、来週サーカスが来るんだって!」
結果、彼なりにせいいっぱい気を遣って、無邪気な振りで両親を迎えた。本当はその時、サーカスよりも母親の元気をいかに取り戻すかという事に、彼の興味は移っていた。
母親も、そんなフェルディナンの気遣いを知ってか知らずか、その無邪気な我が子との三日ぶりの対面を素直に喜び、優しい微笑を取り戻した。
安心したフェルディナンは、すぐさまマリアンヌと軽い別れの挨拶を交わした。マリアンヌは彼のその配慮に勘付いて、密かに感心していた。
彼ら家族はささやかな幸せをその表情ににじませて、何やら笑いあいながら家へと入っていった。


2.
その翌日から、嵐の一件以降の働きづめで体調を崩したフェルディナンの母親は、仕事を休んで自宅療養する事になった。
不幸中の幸い、最近ちょうど新任の看護師がこの病院で雇われたため、彼女の欠勤はこの街の医療にはそれほど悪い影響を及ぼさなかった。
元々身体が強くなかった彼の母親は、普段から度々体調を崩していた。それゆえフェルディナンは母親が体調を崩す事にはある程度慣れていたが、それでもやはりその度に心から不安になり、あらゆる配慮を試みた。
最近の彼の得意は、マリアンヌの母親から教わった、野菜のスープを作る事だった。父親の帰りが遅くなる際には、彼はその唯一のレパートリーを惜しげもなく母親に披露した。
その出来は上々で、何より息子の成長ぶりに感動し、母親はスープをまるで一流シェフのそれかの様に有難がって、ひとさじずつ、大切に口に運んだ。
その様子を見て、嬉しくなったフェルディナンは、新たなレパートリーを得る機会を求めて、マリアンヌに料理を教えてもらう約束もしていた。
そんな矢先に、思いがけず彼の母親が危篤に陥ると、彼の落胆ぶりは、友人たちが容易に言葉をかける事の出来ない程に顕著であった。
母親はその夫を主治医とし、急遽入院する事になった。検査の結果、命に関わる類の病ではなかったが、念のために暫く入院する必要があった。
フェルディナンは落胆しつつも、最愛の母親を少しでも励まそうと、毎日学校が終わると、片道三十分ほどの道を歩いて、見舞いに通った。
見舞いに通う度に母親が少しずつ快復に向かっている事が分かったので、彼の気持ちも少しずつ上向きつつあった。
しかし、また別の思わぬところで、とある出来事が彼に形容しがたい悲哀を植え付ける事となった。
その日、いつも通り見舞いを終え、彼はたまたま仕事が早く終わった父親と病院を出て、帰路につこうとしていた。すると、病院の門を出ようとしたところで、門の前で立ち尽くす、黒い服を着た夫人と遭った。
フェルディナンは特に気にせず、通り過ぎようとしたが、彼の父親は立ち止り、表情を一変させた。
「これはどうも…この度は、本当に、私の力が及ばず…。」
いつもひょうきんな父親が、今まで見た事の無い程真剣な表情で、必死に謝っている状況に、彼も何かを察して咄嗟に目を伏せた。
「いいえ、先生、どうか謝ったりなどなさらず。今日は改めてお礼を言いに来ただけですわ。先生はよくよく手を尽くして下さいました。ただ、あの子は、運が悪かったのでしょうね…。」
そう言うと、夫人はその寂しげに潤んだ瞳をフェルディナンに向けた。彼はそれに気付いていたが、気付かない振りをして父親の足元に視線を逃がしていた。
「先生、先生はどうか、お子さんを大切に…本当に大切に、なさって下さいませね。」
語尾に涙声が混じっている事がフェルディナンには分かった。これに対して彼の父親はかろうじて返事をしたが、厳しい表情で固く唇を結んだまま、他に何も言えずにいた。
「では、先生自身も、お身体にはお気をつけて。」
そう言って、涙が遂に落ちようとするのを隠す様に、夫人はそそくさと立ち去って行った。
ずっと夫人の背中を見送っていた父親であったが、その姿が完全に見えなくなると漸くフェルディナンの方を向き直り、普段の優しい表情を取り戻した。しかし、そこにはどこか陰を纏わせていた。
「いいか、坊主。お前は医者になんか、なるんじゃあないよ。お前はお母さんに似て、優し過ぎる。母さんも優し過ぎるのに看護師なんていう仕事をしているから、すぐ体調を崩してしまうのだろう。医者って言うのは、ある程度鈍感なくらいがちょうどいいのさ。俺も、そういう意味では、あまり医者に向いていなかったのかもなぁ…。」
父親の仕事に関する愚痴を聞いたのは初めてだった。フェルディナンは返事すらする事が出来なかった。
困り顔で黙り込んでしまったフェルディナンに気付くと、父親はハッとして、自分が今しがたついこぼしてしまった愚痴を取り消す様に、慌てて話題を変えた。
「あぁ、ところで、明日は、いよいよサーカスだったなぁ。俺は母さんの事もあって連れて行ってやれないが、マリーの親御さんにお願いしてあるから、いい子にしてるんだぞ。聞いた話じゃあ、なにやらすごく珍しいショウがあるって言うじゃないか…。」
フェルディナンも、たったいま起きた出来事と、母親への心配とがあって、さすがにすぐには気を取り直すことは出来なかったが、徐々にサーカスを楽しみにしていた感情が再沸してきた。
家に着くころには、フェルディナンはすっかりその不思議なショウへの期待に胸を膨らませていた。
期待はやがて妄想に転化し、留まる事の知らない十歳の想像力は、彼の睡眠を妨げるほど膨張し続けた。


3.
サーカスの当日、学校はショウの話題で持ちきりだった。
クラスの約半数がサーカスを見に行く事になっており、彼らを中心に、行く予定の無い者たちまでも、そのショウの予測について議論を交わした。
フェルディナンの妄想の結論は『宙を自由に飛ぶピエロ』だった。しかしこれはまだまともな方で、『ゾウの様に大きなライオン』だとか、『とんでもない怪力で、テントごと観客を皆持ち上げてしまう大男』等、彼らの想像力は、それ自体がまさにサーカスの体を成していた。
そんな彼らを尻目に、マリアンヌはすました顔でそれらを常識と言う武器でもって批判していたが、内心ではそれらの想像に対して少なからぬ期待を抱きながら接していた。
五時限目の授業終了のチャイムが鳴り響くと、はじける直前のポップコーンの様になっていた生徒たちが、一斉に騒ぎ出した。制止しきれなくなった担任は呆れて、下校を赦すと、サーカスに行く予定のある生徒たちは、我先にと教室を飛び出した。
そんなに急がなくとも、開演時間には間に合うはずであったが、その時間の計算がもどかしいほど、彼らの心は躍っていた。
勿論、フェルディナンも飛び出す様に教室を出た。この時ばかりは興奮のさなかにあって、さすがのマリアンヌも例外ではなく、駆けださんばかりに家路を急いだ。
マリアンヌの家まで、二人は殆ど小走りに近い早足で並んで歩いて行った。マリアンヌの家に着き、すぐさま勉強道具の入ったカバンを玄関に放り置くと、付添い役とされてしまったマリアンヌの母親の手を二人がかりで引っ張って連れ出し、早速サーカスのテントがある広場へと向かった。
子供たちは、その広場へ向かう道すがら、彼らの妄想を更に膨らませていた。既に彼らの頭の中では奇想天外な妄想サーカスが幕を開けていたのだった。
夕方過ぎ、ほんのり闇色が侵食し始めた空の下、普段は痩せた雑草が幾らか生えているばかりの空き地に、まるで以前からあり続けた様に堂々と設置された黄色と赤の縞模様のテントからは、オレンジ色の灯りが毀れている。
テントの周りは既に街中の子供たちと、その付添いの大人たちとで長い列が出来ていて、少しずつその列の先頭からテントの中へ入っていく有様は、まるで巨大な蛇が少しずつテントに飲み込まれていくかに見えた。子供たちの興奮は更に燃え立った。
「あら、こんなに並んでいたら、もしかしたら入場規制なんて事にならないかしら。」
列を見たマリアンヌの母親が何気なくこんな事を言うと、二人の子供たちは、猶更その付添い役の手を強く引き、急いでその最後尾につこうとした。
「まぁまぁ、サーカスは一週間もここにいるんでしょう?」
付添い人の、そんな言い訳はもう二人の耳には入らなかった。子供たちにとって、噂のショウを初日に、一番に確かめることの重要性は、一日遅れのそれとは決定的な差があった。
最後尾についた彼ら三人を、奇抜な衣装で、派手などぎつい化粧をした列整理係の女が出迎えた。
「ようこそ、ゴダール・サーカス団へ。ちょうどよかったわねぇ、坊やたち。」
そう、言ってにやりと笑うと、少し間を空けてから、尚も列の後ろにつこうと此方へ向かってくる客に向かって、声を張り上げた。
「ごめんなさいねーみなさん!本日はここで定員いっぱいなのよ。明日またいらっしゃいな!今日から来週の水曜日まで、我らがゴダール・サーカス団はこの場所で、みなさんをお持ちしておりますわ!」


4.
テントが漸く行列をすべて飲み込み切り、フェルディナン達はついにサーカスのテント内へと足を踏み入れた。見渡すと、二百程ある観客席は既にいっぱいだった。
案内に従って、ぎゅうぎゅうに詰めこまれて、なんとか最後部の席に座った。傾斜は付けられていたものの、前の席に座る人々の頭の隙間を縫って、やっとステージが見えるという状態だった。
それでも、待ちに待ったサーカスである。
膨れ上がった期待が破裂寸前のところで、客席の照明がすっと暗くなった。
先程までざわついていた客席があっという間に静まり返ると、コツコツとわざとらしく音を立てて、客席から見下ろす真っ暗なステージの中央に誰かが向かって行くのがうっすらと見える。
大人たちも含め、観客の皆がその靴音に必死で耳を傾け、その音の主が何か声を発するのを、妙な緊張感を持って待っていた。
パッとスポット照明が、見下ろすステージの上に当てられたが、そこには直径五フィートもない、円状の小さな台が置いてあるだけで、人影らしいものはどこにも無い。
観客席はざわざわとし、そのうちの多くは、どこかにそれらしき人影が無いか、ステージ上をくまなく見渡した。
そういった状況が数分続いた後で、再びスポットライトが落とされた。観客席のざわめきはピークに達し、どこからか悲鳴をあげる者すらいた。
しかしまた次の瞬間、再びスポットライトが付くと、その円状のお立ち台の上には派手な衣装を着たピエロが立っていた。
なんてことは無い、そのお立ち台の中か、もしくは影に隠れていたピエロが数秒の隙をついて現れただけの仕掛けであったが、その見事な演出もあって、観客たちは素直に驚き、そして歓声で彼を迎え入れた。
歓声を浴びて、両手を挙げてそれに応えていたピエロは、やがて落ち着きつつあった歓声の合間に声を張り上げた。
「ようこそ!我が、ゴダール・サーカス団へ!」
その掛け声を合図に、テントの中にはレコードのパレード音楽が大音量で流された。そのパレード音楽に合わせて、また拍手と歓声がひと盛り上がりし、いよいよサーカスは華々しい開演を迎えた。
開演の演出が素晴らしかった為に、その後に続いた各種の演目は非常な盛り上がりを見せた。ひとつひとつの芸について、サーカスの芸としては特異なものは無かったが、どれも質は高いもので、さすがフランスで今一番人気、と噂されるだけの事はあった。
フェルディナンとマリアンヌ、そしてその付添い人も例外ではなく、そのひとつひとつの演目に感動を惜しまなかった。
しかし、フェルディナンだけに限らず、多くの子供たちは噂に聞いていた、ゴダール・サーカス団の『珍しいショウ』とやらを心待ちにしていた。いわば、それ以外の演目は彼らにとって良質の前座に過ぎなかった。
そしていよいよ、司会を務めていたピエロから、彼らが待ちに待った言葉が聞かれた。
「さぁさ、みなさまお待ちかね。最後となりましたが、ゴダール最高の摩訶不思議な見世物、噂に名高いショウを、これからご覧いただきましょう!」
そうピエロが言うと、一番最初にステージの中央に置かれ、いつの間にか撤去されていた円状の台が、再び設置された。
ピエロはその台上にあがると、元々わらっている道化の化粧の下で更ににやりとわらい、突っ立った。
「本日は我がゴダールサーカス団へお越しくださいまして、誠にありがとうございます。えー、これにて、本日の演目は全て終了でございます。お気をつけてお帰り下さいませ。」
両手を軽く拡げ、なおも不気味ににやりと微笑んだまま立ち、佇んでいるピエロの唐突な閉幕の言葉に、会場は騒然とした。
やがて当然と言える野次が飛び始めた。
「おい!ふざけるな!たった今お前が言ったゴダール最高のショウってやつはどうしたんだ!」
「それを観に来てるんだ!やらないなら金を返しやがれ!」
そんな様な野次が幾つも無数にあがっている中、尚もピエロは平然と、『佇んでいるかのように見えた』。
そのうちに、異変に気が付いた観客の一人がひときわ大きい声を上げた。
「おい!おーい!よく見てみろ、ピエロの足もとを…!」
その呼びかけをきっかけにして、より一層ざわめきは大きくなったが、そのざわめきは先程とは全く異なる性質のものに変わった。
人々がそのピエロの足もとに注目し、やがて全員がその異変に気が付いた。僅かに、ピエロの両足と台との間に、隙間がある様に見える。
ピエロは先程以上に勝ち誇ったような顔をして、口上を続けた。
「先程からお見せしている、これこそ!ゴダールの真骨頂、反重力ショウでございます!これでけでは分かりにくいというお客さま方のご不満もごもっとも!これでは、ゴダールの名が廃りますな。それでは最後に、皆様の不満を払拭して御覧に入れましょう!」
そう言うと、徐々にピエロの足先がゆっくりと、しかし着実に、台から離れていった。最終的には七フィート程は上昇し、観客たちが見上げるまでになった。ゆっくりと上昇していく間、観客たちは様々な反応を見せ、呆然とする者、歓声をあげる者、超自然的な現象に恐れおののく者等いたが、共通して皆がその演技に対して素直に感動していた。
フェルディナンやマリアンヌも、他の観客と同様、感動を示し、空中でなにやら抽象的なパントマイムを披露するピエロに見入っていた。
ふと、フェルディナンはテントの中を見渡した。この『反重力ショウ』のトリックを見破ろうという意図が全くなかったわけではないが、どちらかというと、トリックが無い事を確認して、この素晴らしいショウの素晴らしさを裏付けたいという気持ちからだった。
幸な事に、結局彼はトリックを見付ける事は出来なかった。しかし一方で、不幸な事に、彼はある女性の姿を発見してしまった。
それは昨日、病院の前で出会った、黒い服の夫人だった。
昨日とは違って黒い服ではなかったが、その悲哀に満ちた顔だけは照明の暗い観客席にあっても、すぐにフェルディナンに昨日の暗い印象を思い出させた。
勿論その夫人の普段の顔、つまり彼女の息子が生きていて、幸福にあったであろう頃の夫人の顔を、フェルディナンが知る由もない。しかし何故だかフェルディナンには、今の夫人の顔は、単にそういう表情をしているというよりは、件の悲劇にあって既にすっかり顔が変わってしまった様に思えた。
ピエロの反重力と、その夫人との表情とが、フェルディナンの頭の中に混沌を引き起こした。
「ねぇ、フェルディナン、どこ見てるの?ちゃんと見てよ、ほら!あなたの言った通り、ピエロが空を飛んでいるのよ!」
マリアンヌの声で、フェルディナンはその混沌からやっと抜け出した。再びピエロに目を戻すと、ピエロは空中でさかさまになっていて、それでもなお、余裕のある表情を浮かべている。
「これは本当にタネもシカケも無いわね!だって、もし見えない糸で吊るされていたりしたなら、あんな恰好出来ないもの!」
マリアンヌの興奮を余所に、フェルディナンはもうピエロの演技に殆ど集中出来なくなっていた。
横目でまた、夫人のいる方を確認すると、夫人はピエロの演技を眺めていたが、それは他の客が呆然としていたのとは全く違い、『虚ろ』と言った方がが似合う様子だった。
彼は夫人が何故ここにいるのかを考えてしまった。
先日の嵐で息子を亡くした夫人は、きっとその亡き息子と、本来は自分が住むベルモントに来る予定であったこのサーカスを、一緒に観に行く約束をしていたのだろう。それが叶わなくなった彼女は、どんな気持ちで、このサーカスを観に来たのだろうか。
フェルディナンは非常な居心地の悪さを感じていた。
まるで自分自身も反重力の中に居るかのように、じっと席に座っているのが何だか落ち着かなくなっていた。
彼がふわふわと意識を漂泊させている内に、ピエロはいつの間にか台の上に戻っており、満場の拍手と歓声が起きた。彼はそこで再び我に帰った。
ピエロ以外の、ゴダール・サーカス団の演者たちも次々とステージに現れ、鳴り止まない声援に応えていた。
マリアンヌとその母親も、他の観客たちと同様に絶賛の拍手を送っていたが、呆然としたままのフェルディナンの異変に、またもマリアンヌが何かを感じ取った。
「フェルディナン、どうしたの?具合、悪いの?」
フェルディナンはこの時ほど、この種のマリアンヌの敏感さに感謝した事は無かった。
「うん、実は、すこし頭が痛くて。これからちょっと病院へ行って薬をもらってくるよ。今日は父さんも遅くまで仕事だから、まだいると思うしね。」
この会話に気付き、母親も口を挟んだ。
「あら、それはいけない。それなら、私たちも病院まで一緒に行くわね。」
仮病を悟られまいと、フェルディナンは、その言葉に慌てて立ち上がった。
「いや、全然、大したこと無いんだ。ほんのちょっと頭が重いだけだよ。それに、母さんの見舞いの序もあるから。」
言い終わると、マリアンヌたちを振り切る様に、彼は混雑する客席を縫ってテントの外へ向かっていた。漸くステージ上の出演者たちが舞台袖に捌けかけていた。期せずして、ピエロが最後に、ステージを去ると同時に、フェルディナンもテントの外へ出た。
テントからの脱出の間、フェルディナンは意識して夫人の姿を見ないようにした。

5.
サーカスのテントがある空き地は、ちょうど病院からそう遠くない位置にあった為、十分も歩けばたどり着ける道程だった。
フェルディナンは早足で歩きながら、何故自分がこんなに急いで病院へ向かおうとしているのかを、解釈しようとしていた。
結局、彼の頭の中では反重力のピエロや、子供を亡くした夫人の哀しい表情が浮かんでは消えるばかりで、答えの出ないまま病院へ到着した。
顔見知りの受付の看護婦に、軽い挨拶を交わすと、行き慣れた母親の病室までまっすぐに向かって行った。
夜九時過ぎの病院内は、暗く静かで、十歳の彼にとっては恐ろしいものであったが、まるでなにか強い使命に促される様に勇敢に足が進み、彼は母親の病室へ辿り着いた。
母親は暗い病室の中、窓際のベッドの上でぼんやり外を眺めていたが、フェルディナンの足音に気が付くと、彼の方を振り向いた。
最初、驚いた表情を見せたが、すぐに優しい笑顔を湛えて、フェルディナンを迎え入れた。
「どうしたの?坊や、こんな遅くに、急に。お見舞いに来てくれたのかしら?」
この世界の、どんな音よりも、母親のその声は彼の耳を優しく震わせ、感動させた。
すると突如として、フェルディナンの目から熱い涙があふれ出た。どうしていいかわからなくなった彼は、母親の元へ駆け寄り、母親の手元、布団に顔をうずめた。そして他の病室の患者に憚って、声を殺しつつも、幼子の様に泣きじゃくった。
戸惑った母親は、最初その原因を探ろうとしたが、それよりも今はこの泣き虫の我が子を、ただ抱き寄せる方が先決である事をすぐに理解した。
フェルディナンを抱き寄せながら、母親は彼の背をさすった。
「…そう言えば、今日はサーカスだったわね。行ってきたのね?どう、楽しかった?」
フェルディナンはただ、「うん、楽しかった」とだけ言おうとしたのだが、それすらもとても不格好な発声が出来ただけで、聞き取れるようなものではなかった。
しかし、母親はそれを聞き直す様なことはせず、まるでその体温を確かめる様に、ただ彼の背をさすり続けた。
「フェルディナン、あなたはきっと、優し過ぎるのね。」
全てを悟っているかの様に、母親はそう呟いた。
フェルディナンは、布団に顔をうずめたまま、ただ母親の温もりにすがっていた。

サーカスが来ない街

今まで書いた中で、一番一般向けなのじゃないかなと思っています。
家族愛とかっていう感じです。
それとサーカスで、ちょっと不思議な世界観出せればなっていう期待。

サーカスが来ない街

サーカスが来る街、来ない街

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-06-18

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