思念の物質性から捉えた心霊現象の解釈
…心霊現象の概念を、否定する積りは毛頭ありません。
寧ろ、それらを肯定する為にこそ、私は科学を、行きつくところの唯物論、いや、これは私なりの定義、狭義な意味で言っていますが、その所謂、唯物論で持って心霊現象を語ろうというのです。
かといって、あまりにロマン的な類のものは、否定、とまではいきませんが、今回の議論の範囲外とさせて頂きたい。例えば私からすれば、特に宗教における絶対神、これらが該当します。あまりに矛盾が多いもので、私にはとても理解できかねる概念です。
…いや、飽くまでも否定はしていません。物事には必ず例外がある、というのが私の信条です。私にとっての例外が、一部の人にとっては絶対的な真理であっても、全くおかしくありません。
ちょうど都合の良い、脱線をしましたね。ここから、話を戻しましょう。私の考える、唯物論から見た、心霊現象の捉え方についてです。
それはすなわち、先述の通り「物事には必ず例外がある」という信条に基づきます。
すなわち、人類の認識外にあるそういった『例外』そのものを『心霊現象』と呼ぶとするならば、それは確かに存在するものです。
また少し脱線しますが、人類というものは、少なくとも私の価値判断によれば、間違いなく地球という惑星の主だと思います。
生物としての思い上がりだ、という批判をする方もおられるでしょう。いえいえ、もちろん、だからと言って人類による環境破壊や生態系破壊を肯定する訳ではありませんよ。それに、先に付言した通り、飽くまで「私の価値判断に於いて」です。これにも例外はあるでしょう。
但し、この世界のあらゆるものに概念を与えたのは紛れもなく人類です。もしも、我々が認識し得ないところで、それらが別途行われていたとしても、現時点で我々がそれを認識できない限り、それらは『例外』のひとつとしてしか数える事は出来ません。
結局、我々は、我々の認識の範囲内でしか語れないのです。その範疇を乗り越えようとする行為は、それ自体にパラドクスが存在します。
その範疇を乗り越えて、俯瞰的にすべてを分かった積りでいる事の方が、よほど思い上がりだと思うのですが…、いや、それも、もちろん「私の価値判断」です。
さて、しかしながら、人類の素晴らしい、偉大なところは、その範疇を『乗り越える事』は出来無いながら、『少しずつ拡げていく事』が出来る、という点です。
かつて霊的とされたものが、現代となっては科学、あるいは認識の範疇へと収められています。例を挙げるときりがないので、その枚挙については割愛いたします。
ですが、ここでひとつ、注意しておかなければなりません。先程、私は人類は認識の範疇を拡げていく事が出来る、と言いましたが、その拡げられた範疇と言うのは、必ずしも絶対的な、永続的なものではありません。人類の誤認や迷信、環境の変動による陳腐化、等々の要因から、それらが突然反転する可能性はどの様な真理においても、あり得ます。
その前提の上で、改めて心霊現象を捉えるべく、『挑戦的な範疇の拡大』に試みようというのが、私なりの唯物論に基づく、心霊現象の解明の手段です。
遠回りしましたが、本題に入りましょう。
キーファクターとして、『質量保存の法則』、皆さんも義務教育の中で、何となく習った事は覚えているでしょう、これがあります。
実は、この法則の有効性については、化学反応の前後で起きる質量保存、元素レベルでのそういった…私も専門ではないので、多少表現が曖昧になる事をご了承頂きたいのですが…そういった考えに基づくもので、単純な概念としての『モノ』が同質量保存され続ける、という意味の法則としては、やや不誠実なものとなった様です。
とは言え、その法則の可用性の議論は別に譲るとして、やはり存在した『モノ』は突然、はたと消滅する様な事は無く、何らかの変容を遂げて別の『モノ』へと変換される事は間違いないでしょう。
あらゆる『モノ』は絶えず、こういった変化の中に晒されているのです。人間の感情を含め、不変に見えても、あるいは結論が同じであたっとしても、原子以下のより詳細なレベルでは絶えず変化が起きている筈です。
何が言いたいか…、つまり、さり気なく「人間の感情を含む」と言いましたが、人間の思念についてもこういった法則が当てはまるのではないかという事です。
思念は、言うまでも無く、人間の脳内で起きている現象、及びその結果生まれる『モノ』であると考えます。前衛的な身体論を鑑みれば、例外も認められるでしょうが、ここでは『思念』という単語をその様な概念で使用します。
つまりその思念、結果として『モノ』たる思念は、形には残らないものの、確かにそこに存在した『モノ』として、何らかの別の形の『モノ』へと変容を遂げている筈です。
それは単なる忘却や、アイデアを形にする、アートで表現する、というレベルに留まらないのでは、というのが私の意見です。
つまり、我々が容易に認識できる地球、世界そのもの。その何億倍もの規模を持つであろう、人類の思念、それが単純に何の変容も伴わず、消滅するという事はあり得ない様に思うのです。
それが微々たる要素、あるいはその更に小さな、現在の人類の認識の範疇外にある、何か。それらに変容しているはずです。
さて、初めに申し上げた通り、認識の範疇外にあるものが、人類にとっての例外、すなわち私が『心霊現象』と呼んでいるものです。
これらの何かしらの結果で変容を遂げた『モノ』、普段我々の認識外にある『モノ』が稀に突如として眼前、あるいは認識のもとに現れる体験、これは必然であり、その形は恐らく、一定では無い筈です。
その一定ではない『モノ』の姿かたちを伝聞の為に、表現するには、それを一旦我々の認識の範疇へ引き込む必要があります。恐らくその段階で、近代以前の様々な伝説、怪談等々が、我々に分かり易い形で伝聞されたのでしょう。
さて、突然ですが、たった今、あなたに語りかけている私の姿が、あなたにはどの様に映っていますか?
当然、ここで言う『私』とは、この文章の作者ではなく、この文章の中、創作上の『私』、つまり架空の演説者です。
「どの様に映っているか」と言うのは、当然ながら、あなたの脳内で、どの様な映像が、『モノ』として浮かんでいるか、という質問です。
人間を想像しましたか?はたまたフクロウ?異形の生物?もしくはラジオ等、機械かも知れません。いや、論者を特定しないで読んでいる、つまり、その言説だけを捉えて、何もその様な論者の事など気にしていない、と主張する方が殆どかも知れませんね。
事前に、あなたが想定したかしないか、に係わらず、作者によって、創作としての『論者』が設定されている以上、『論者』は『モノ』として、一種の実存性を認められた事になります。
それは他の創作にも同じ様な形式で共通する事ですが、私の言う『存在』とは、創作者の『モノ』としての思念を、文章と言う媒体で表現した『モノ』でしかないのですが、存在の証明は、それがいかなる形でも『モノ』となった時点で成立するのです。
ここでまた、煩い様ですが、注意して頂きたいのは、例えば「論者が存在する」という思念が『モノ』として存在したら、すなわちその『論者』が実存として存在する訳では無いという事です。
…あ、いや、この説明は、言うまでも無い事を、却ってややこしくしてしまいましたか。
さて、これで「論者が存在する」という思念としての『モノ』の存在を認めて頂けましたでしょうか。もし反論があるという方も、一度、騙された積りで、次の文章に従うか、それが叶わないのであれば、どうぞここでお引き取り下さい。
では、今一度、問いかけます。
あなたに語りかけているこの私、論者の姿が、あなたにはどの様に映っていますか?
浮かべていた方は、それを更に明確にしてください。申しわけないのですが、今回は飽くまで、ひとつの形として、後に容易に変化し得る柔軟性を出来る限り排除して下さい。不特定多数の選択は、この問いかけの答えとしては不適切です。
元々、その姿を浮かべていなかった方は、何かしらの形を明確化して下さい。
どちらにせよ、それは結果として、あなたの中で思念を形作り、ひとつの『モノ』を象る作業です。
どんな形でも構いませんので、その作業を終えてから、次の改行以降の文章へ進んでください。
よろしいでしょうか。
その『モノ』が、どんな形の物か、私には知る由もありませんが、これからする大変失礼な発言に関して、前もって謝罪させて頂きます。
あなたが描いた、その『モノ』は、全くの見当違いです。私はあなが描いた『モノ』とは性質を完全に異にする別の『モノ』です。
ですから、あなたが一度象ったその『モノ』を今度は抹消して下さい。
とは言え、一度でも存在を認められた、あなたの中のその『モノ』は、もう無かった事には出来ません。思念と言えど、存在とは、例え忘却する事は出来たとしても、抹消する事は不可能なのです。
ですから、あなたが象り、一度存在を認めたその『モノ』を、「その『モノ』を抹消する」という思念で塗り替えてください。
塗り替える、と言うと、まるで取って代えられる様ですが、飽くまでもそれは、新しい『モノ』を古い『モノ』の上に重ねるというだけの事です。
だいぶややこしくなってきましたが、ご理解頂けますでしょうか。
ご理解頂けなくても、構いません。我ながら、解説が非常に複雑かつ、冗長になっている事は自覚の上です。
とにかく、先程お願いしました作業でうまれたあなたの中の『モノ』を、叩き潰すなり、手品のごとく消すなり、タワシでこすり落とすなり、何らかの方法で『抹消』して下さい。
抹消頂けましたでしょうか?
これは前項にお願いした作業よりも、幾段か難しい作業だと思います。なので、もし出来なったら、今回はそれでも構いません。
…続いて、模範解答の発表です。
一度象って、抹消を試みた、そこに残っている『モノ』こそが、私の『正体』です。
もしくは、こういう言い方も出来るでしょう。その一連の、作業とその成果物、それがすなわち私なのです。つまり思念の紆余曲折、その経路、それ自体が私という『モノ』だったのです。
それはこれを素直に読み進めて頂いた方々の、それぞれの『モノ』となって、様々な形で、複数『存在』しています。
しかしながら、これもまた『模範解答』でしかありません。私の認識の範疇外に属する、超越的な思念があったかも知れません。もしそうであれば、私にとってそれは喜ぶべき事です。
それこそが、私にとっての心霊現象の、ひとつの実証体験となる訳です。
実存の無い、思念の産物である『モノ』としての私が、心霊現象を体験する事が出来たとすれば、それは現象の連鎖的な発生、半永久的な輪廻の中で、やがて質量保存の法則を遥かに超越して、膨張する事でしょう。
しかし、その無限の膨張ですら、一人の人間の体内、その枠内に収斂されて、ひとつの小さな『モノ』の体験として完結されているのが実際です。
果てしない、この無限の膨張と収斂が、体内で繰り返されているのであれば、すべての物事の核心は、やはり心霊現象であると言えます。
つまり、心霊現象は、思念による『モノ』として、その実存性を一切無視して膨張し続ける事が出来るのです。
持続的な膨張というものは非常に恐ろしいもので、それは例えば幾つかの応用化学兵器でも活用されるほか、この宇宙の原始現象になり得た程の大きな力量を持っています。
しかしながら、その膨張を、地球上に溢れている人類が、各々あまねく持っているというのに、何故秩序が成立しているのか。
あるいはこの秩序ですら、思念による実存の無い『モノ』であるのかも知れませんが、今の我々の認識の範疇で考えるのであれば、その仕組みを留めているものこそが、人間の持っている認識の範疇外の、心霊的な能力。
すなわち、『いい加減さ』。
いま、この混沌として、収拾のつかなくなった文章自体を不意に投げ出してしまえる、偉大なる人間の『いい加減さ』が、辛うじてこの秩序を保っているのです。
では、『モノ』としての、世界の秩序を保つ為に、ここで断筆させて頂きます。
思念の物質性から捉えた心霊現象の解釈
僕が普段脳内に抱えている混沌とした哲学もどきを吐露しつつ、何とかエンタテイメントとして昇華させようと、苦心して実験小説風に仕立てようとしたものの、うまくいかなくなってきた為、その失敗自体を実験性のオチにした、という愚劣な発想の小説です。
非常に申し訳ないのですが、この小説における僕としての目的は、読者の理解を拒み、脳内を混沌とさせる事なのです。ごめんなさい。