シュワッチ! イェー!


 小学一年生の双子の兄弟にとって、初めての留守番の日。朝、家を出る時に「いい子にしててや」と母に言われた二人は、「はーい!」と確かに返事をした。
 弟の方は、本当に大人しくしておこうと思っていた。
 が、兄の方は……親の居ないうちにしか出来ないことをやってやろう、そう企んでいた。
 学校へ鍵を持って行ったのは、弟のみ。二人一緒に下校する約束だったのに、兄はそんなことなどすっかり忘れて、ホームルームが終わると、隣のクラスの弟を待たずにさっさと帰ってしまった。弟が教室から出た時には、既に隣のクラスにはほとんど人間が居らず、兄の姿を探すまでもなく弟は「帰ったな」と察したのだった。
「遅ーいぞ――う!」
 家の前の歩道でわめく兄を見付けて、弟は走る。
「一緒に帰りなさいってお母さん言うてたのに!」
「あ? そうやったっけ?」
 兄の頭の中に母の言葉は残っていなかった。
 まず初めにやってみたいと兄が思っていたことは、両親のダブルベッドでのジャンプ。「バネが壊れる!」と引き摺り下ろされることもなく、自由に跳べるのだ。
 おやつもそこそこに兄は二階へ上がって行く。それを追い掛けて行った弟が、両親の部屋に足を踏み入れた時には、兄は鏡台の椅子に上がっていた。
「シュワッチ!」
 そう叫んで兄はベッドに飛び込んだ、次の瞬間、「ぐあ」と言った。
「あーあ、何やってんの」
 弟は四つん這いでベッドに上がる。兄は頭から枕に突っ込んで首をひねったのだ。「いだだだ」と涙目でのたうち回る兄を心配する気にもなれずに、弟はその傍で立ち上がる。背伸びをして、天井からぶら下がるカモメのモビールに――跳ばなくても手が届いた。嬉しくなって、兄に報告しようと振り返ると、
「それ触ったらあかんのにー!」
 兄は飛び掛ってきた。「うわああ」と声を上げ、ベッドの上で引っ繰り返った弟は、頭から床にずり落ちる。弟に引っ張られて、兄も落ちる。
「もう、何すんねん!」
 そう言って相手の頭を小突いたのは、兄の方。
「そっちが悪いんやろ!」
 弟も手を出しそうになるが、踏み止まる。「いい子にしててや」という母の声が聞こえた気がして。兄にも、それ以上弟を責めようという気はなく、立ち上がって両親の部屋から出て行く。次にしておくべきことを思い付いたのだ。
 居間に置かれた真新しいロッキングチェアーに、立って乗ること。いつも、絶対にやってはいけないと両親に言われている。
 兄を追い掛けて、弟も一階に降りる。兄は弟の目をじっと見て、密かに作戦を練る。ここでロッキングチェアーに乗っていきなり立ち上がったらうるさいだろう、と。不思議そうな表情の弟から目を逸らし、何気なくロッキングチェアーに座る。大き過ぎて、揺らそうとしても自分が滑ってしまうだけ。
「一緒に乗ろうや」
 と誘うと、弟はやって来て、兄と並んで座った。幅は二人でちょうど良かった。初めは二人の息が合わずなかなか上手く揺らせられなかったが、次第に理想の動きに近付いていった。心地良い揺れに眠気を覚えた兄は、当初の目的を忘れそうになる。
「イェー!」
 突如兄は立ち上がった。右足へ左足へと重心を移動させ、サーフィン気分だ。
「危ないやん!」
「大丈夫やって。一緒にやろうや」
 弟も、実は一度やってみたいと思っていた。立って乗ってはいけないのは、落ちると危ないからであって、気を付けていれば本当に大丈夫なのではないか、そんな風に考えた弟は、おそるおそる立ち上がる。兄と動きを合わせると、転びそうになることもない。
 しかし、徐々に兄の動きは大きくなっていき、ロッキングチェアーが床の上をじりじり移動し始めた。
「なあ、やり過ぎやで」
「何が? これぐらい別にいいやん」
 これ以上動かすと危ない、と判断した弟は、兄と一緒の動きを止めた――途端に、バランスを崩した。よろめいて背もたれをつかむと、重心が後ろに移動した。兄もバランスを崩し、背もたれに寄りかかる。
「うわ――!」
「え――?」
 ロッキングチェアーは後ろ向きに引っ繰り返った。二人とも床に投げ出される。弟はとっさに手をついたが、力が足りず、胸を打った。兄は頭から落ちたが、肩をついて上手い具合に床の上で一回転し、正座した。奇跡的にやってのけた受け身の誇らしさが、打った頭の痛みに勝った。弟のせいで引っ繰り返ったのだという認識はあったが、もう原因などどうでも良くなった。
「大丈夫か?」
 と弟に聞いてやる余裕があった。弟は何も言わない。言えないのだ。胸の痛みが治まった頃、手の平がひりひりしてきたので見ると、床で擦ったらしく皮がめくれていた。なんとなく引っ張ってみる。……血が滲む。
「あ、血! バンドエイド貼ったる!」
 兄はそう言って電話台の方へ走る。引き出しを開けて、救急絆創膏を発見。振り返ると、弟は立ち上がってロッキングチェアーを一人で起こそうとしていた。
「待てよ、待てって!」
 弟を制し、まず絆創膏を貼ってやってから、
「いっせーのーで、で、ここ押して、こっち上げるんやで。……いっせーのーで!」
 二人協力して起こした。元通りに出来たことで兄はすっかり満足し、鼻歌を歌いながら居間から出て行った。弟は、ロッキングチェアーと床に傷がないか調べた。ロッキングチェアーの方は無傷。床の方は、元々無数の傷があるので、よく分からない。これだけどたばたをやればそろそろ大人しくなってくれるだろう、そう期待しつつ階段を上っている時、ばらばら、という音が聞こえてきた。
 子供部屋の床は、玩具だらけだった。一斗缶に入れてあるものを全て、兄がぶちまけたのだ。何をして遊びたいのか明確に決まっていない時、これをやる。その中で目に留まったものを選ぶ。
 兄が手に取ったのは、直径十センチほどの、大きめの缶バッジだった。本物の猫が服を着せられ、楽器を持たされている写真に、“熱狂雷舞 又吉&なめんなよ”の文字。そう言えば夏祭りで買って貰っていた、と弟は思い出す。兄がそんなものを欲しがる理由が分からない。猫が好きだという訳でもない。
「なあ、これってツッパリなんやろ? 横浜銀蝿のまねかな」
 横浜銀蝿というグループは見たことがあるが、あれは人間で、こっちは猫。まねなのかどうか、弟にはよく分からない。兄は時々テレビから流れる曲に合わせて歌っているが、その楽しさも弟には分からない。
 弟は、兄が差し出したバッジを受け取り、裏面に書いてある“なめんなよの心得”を読もうとする。まず、“心得”からして漢字が読めない……顔を上げると、兄が居ない。いつの間にか部屋から出て行ったのだ。隣の部屋から物音がして、また何か変なことをやろうとしているな、弟は察する。
「イェー!」
 大声と共に兄は戻って来た。赤いブレザーを着て、黒いニッカポッカを履いている……どちらもだぼだぼ。母の服を勝手に引っ張り出して着てみたのだ。そして、手には布団叩きを持っている。それをギターに見立て、かき鳴らす格好をする。
「それ、ツッパリじゃなくて、竹の子族ちゃう?」
 弟に言われ、兄は一瞬動きを止める。
「何でもええやん!」
 弟が予想した通りの返答。そして兄は、一斗缶を俯けて置き、更にその横にクッキーの空き缶を置いて、
「なあなあ、太鼓やってえや」
 と言った。弟の手に、バチ代わりにウルトラマンの人形を二つ持たせる。
「こんなんで叩いたらあかんやろ」
「ええやん、もう使ってないし」
 渋々弟はウルトラマンの足で缶の底を叩いてみる。ぼやん、という太鼓らしからぬ音がして、二人で笑った。
「頭で叩いた方が面白いって」
 兄に勧められ、頭で叩いてみる。足よりは良い音がしたように思えた。適当に叩くと、兄はでたらめに踊り、歌い出した。
「ズボンずってきてる!」
 弟がウルトラマンの頭で指して笑った。兄は動きを止める。
「うわあ! 脱げそう! ……やっぱり、ベルトって、なんかややこしいな。もう着替えよ」
 そこでツッパリ或いは竹の子族ごっこは終了。兄は、両親の部屋で母の服を脱いだ。「元通り、元通り」と呟きながら、ハンガーにそれらを掛けて、洋服ダンスの取っ手にぶら提げる。これで完璧、と思ったその時、くしゃみが出た。ランニングとパンツだけで作業していたからだ。今度は「寒い、寒い」と呟きながら自分の服を着る。ボタンを閉めていると、隣の部屋から物音が聞こえてきた。弟が片付け始めたことを知る。
「まだ遊ぼうと思ってたのにー」
「もうええやん、そろそろ宿題せな」
「は? そんなん、すぐ出来るやろ」
「遊んでばっかりやったらお母さんに怒られるで」
 兄は、弟のそんないい子ぶった発言が気に食わない。
「お前阿呆やから、宿題すんの時間かかるんやろ」
 弟の手が止まる。実際、一学期の成績は兄の方が良かったのだ。特に算数に差があった。兄は五段階評価の五で、弟は三だった。それを見た時の悔しさを思い出し、弟は手に持っていたウルトラマンを兄に向けて投げた。
「痛っ! 何すんねん!」
 仮面ライダーも飛んで来る。兄はそれらを投げ返す。部屋は結局また散らかった。が、喧嘩として始まった玩具のぶつけ合いは、いつしかスポーツのようになっていき、二人とも原因も忘れて、笑い合った。
「ちょっと待て、暑い暑い。窓開けよう」
 兄が窓を開ける。
「今度こそもう片付けよ」
 弟のその言葉に兄が振り返って頷くのと同時に、弟が窓を指差して「うわっ!」と叫び声を上げた。「何?」と兄が振り返る……大きな蜂が窓から入って来たのだ。二人は絶叫しながら子供部屋から転がり出て、一階へ降りるだけでなく家の外へまで飛び出した。走って来た自転車とぶつかりそうになり、兄は歩道に尻餅をついた。
「いってえ……」
 と痛がっている間、弟は二階の窓を見上げていた。
「蜂、まだ中に居てるかなあ」
「……さあ、どうやろ。何か投げたらびっくりして出るかもな」
「そんなことしたらし返しに来るんちゃうん?」
 弟がそう言い終わらないうちに、兄は家の中へと戻って行った。追い掛けるのをためらい、家の中と二階を交互にちらちら見ていると、兄は両手に大豆を持って出て来た。それを歩道の上にばらばらと置く。
「え、これ投げんの?」
 兄は答えもせず豆を投げ始めた。一個目、玄関の表札に当たる。二個目、壁の一階と二階の中間辺りに当たる。三個目、どこにも当たらず弟の頭に落ちる。兄はそれを見てげらげらと笑った。
「全然届いてへんやん!」
「あかんなあ。もっと重たいもんでないと。あ、そうや、それ貸して」
 弟はウルトラマンを二つ持ったまま飛び出していたのだ。
「二人で一個ずつ投げよ! まず、お前から」
 言われるがまま、弟はウルトラマンを二階めがけて投げた――届かない。窓の三十センチほど下に当たって落ちた。
「惜しい、もうちょっと。よし、俺が決めたるぞ! シュワッチ!」
 兄は大袈裟に振り被って、投げた……
「あ――っ!」
「しまった!」
 大きく外れて隣の平屋の屋根に乗ってしまった。
「どうすんの!」
「二階の窓から降りて取れるかな」
「そんなん危ないって! それに、部屋にまだ蜂居るかも知れへんやん!」
「あ、そうか。忘れてた」
「どうしよう……」
 二階を見上げて二人が途方に暮れているところへ、自転車のベルの音が近付いて来た。母親だ。
「あー、何あれー」
 自転車から降ろされた三歳の妹が、玄関先に転がっているウルトラマンに駆け寄る。
「二人とも外出て、何してんの?」
 母に尋ねられ、兄弟は顔を見合わせる。兄が口を開いた。
「窓開けたら急に蜂入って来て、それで、びっくりさして外出したろうと思って……豆とか投げてた」
 それを聞いて母は「あははは」と笑った。二人にとっては笑いごとではない。
「わー、こんなとこに豆いっぱいばら撒いて! ははは、あんたらがぎゃーぎゃー言うてる間に出て行ってるって! ……で、このウルトラマンも投げたん? あははは……」
 子供が蜂に刺されたらどうしよう、と心配にはならないのか? 笑う母を見て、二人は思った。
 そして、おそるおそる子供部屋へ上がった二人は、隣家側の窓を開けて屋根を見てみた。ウルトラマンが、両手を上げた状態で樋にすっぽりはまっていた。
「あそこに入ってんのって、あかんと思うな……」
 弟は不安げに呟く。
「なんで?」
「あそこ、雨の水が流れるとこちゃうん」
「へえ、そうなんや。じゃあ、雨に流されて、そのうち落ちるんちゃう?」
「詰まって水溢れるんちゃうの」
「溢れたら面白いやん。ここから見れるで。……でも、お母さんには内緒な」
「うん。言わんとく」
 ウルトラマンが樋にはまったことだけでなく、ベッドのこともロッキングチェアーのことも横浜銀蝿ごっこのことも玩具の投げ合いのことも、全て、母には話さない、二人はそう誓ったのだった。

シュワッチ! イェー!

シュワッチ! イェー!

設定:1981年

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-07-30

Copyrighted
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