密かな復讐

 蝉の声の響き渡るマンション群の敷地内を、時々訳もなく歩いてみたくなる。
 汗を拭いながら騒々しい音の洪水の中を潜り抜け、外へ出る。時計を見て、いい加減家に帰らねば、と、速足で歩き出した。
 「何をうろうろしてんのよ、あんたは」
 帰宅した成治に向かって母親はそう言ったが、別段怒っているという口調ではなかった。
 顔を洗ってから二階へ向かおうとすると、今度は、
「もうご飯やねんから上がらんといて」
 という声がした。
 台所の中は暑過ぎた。温度計の針は三十五度を指していた。成治はシャツを脱ぐ。ランニング一枚になっても未だ暑いことに変わりはなかった。
 母親は、成治の左肩を見ると、眉間に皺を寄せる。
「跡、なくなれへんな。もう五年も経つのに」
 そんなことを言われると、いつもながら己のみっともなさに恥じ入る。

 成治は、中学一年の六月に、不良達のシンナー吸引を通報したとして、復讐の名目で酷い目に遭わされたのだった。
 が、実際に通報したのは成治ではなかった。確かに目撃はしたが、シンナーを吸っている奴が居る、それがどうした、勝手に吸っていれば良い、とすら考えていたのだ。
 退院して学校へ行くと、教師には英雄視され、生徒達には蔑視され、その時には既に通報したのは自分ではないと言えない状況だった。居心地の悪いことこの上ない状態で過ごした日々のことを、母親はしょっちゅう思い出させる。
 成治が黙っていると、母親は更に付け加える。
「よう生きとったこっちゃ」
「もうええやんその話は」
「何がええのんな。そんなんやからあかんのや。人が良過ぎんの、あんたは」
 母親は勝手にそんな風に思っているのだった。しかし、否定したところでどうなるわけでもないので、沈黙しておくしかなかった。
 母親も、通報したのは我が子であると未だに誤解したままなのである。
 病院に駆けつけた母に、成治は朦朧とした状態で訴えたのだ、僕は通報してない、と。だが、母親はこう言った。
「もういいから、喋らんとき」
 何が、もう良かったというのか。

 五分で昼食を平らげ、二階へ上がった。頭の中から空しい記憶を消そうと、部屋でラジオをつけて横になる。
 ラジオからは嫌いな曲が流れ出した。その曲はクラシックであるということ以外、題名も作曲者も分からない。短調で、独特の憂鬱な雰囲気を醸し出している。
 うとうとしかけている時、夢のような夢でないようなものが頭の中に浮かんだ。あの夜の光景である。成治を取り囲む不良中学生達の眼差しは決して真剣と言えるものではなかった。成治を襲撃することは、通報により補導された仲間達の仇討ちでも何でもなく、捨て身のゲームだったのではないか、と振り返る度に思う。
 成治は、起き上がってラジオの電源を切った。
 そして、部活の合宿からの帰りにケーブルカーの駅で押してきたスタンプのことを思い出し、鞄からノートを引っ張り出した。……何故こんな物をいつも押すのだろう。常にノートを持ち歩いて、スタンプがあれば、義務であるかのように押す。
 記念に。
 ――何の記念? 頭の中から消えてしまいそうなことでも、物で残しておけば、ぼんやりと思い起こせるからだろうか。
 あの夜の記念スタンプは、左肩に残った大きな傷跡。
 そんなことを自分で考えておいて、成治はいたたまれなくなった。それではまるで喧嘩でもしたみたいではないか。一方的に殴られただけなのに。
 しかも、間違われて。

 成治は、殴られるはずであった人間を知っている。
 中学一年の二学期始業式の日のこと。
 式が終わり、学校を出て少し歩いた所で、名字を呼ばれた。女子の声だった。普段女子と交流のない成治は、聞き間違いだと思って振り向かずにそのまま歩いた。赤信号で立ち止まると、声の主は追い付いて来た。同じ小学校出身の女子であった。
「あの……ごめんなさい!」
「え? 何が?」
「実は……シンナー吸ってる人が居るって通報したん、私のお兄ちゃんやねん。私んとこあのマンションの三階で、私、洗濯物入れてる時に笹口君が下で絡まれてんの見てて……後でお兄ちゃんが通報した時に、私、つい『笹口君の名前使えば』って言ってしまって……お兄ちゃん前にあの連中に関わってたことあって、ばれたら怖いって言い出したもんやから」
 信号が変わった。
 成治は、どう反応すれば良いのか分らず、思案に暮れていた。三か月も経って、今更謝られてもどうしようもない。だからといって、「別にいいよ」と言うわけにもいかない。少しも良くはないのだ。頭の中を色んな言葉でいっぱいにして、黙ったまま歩くしかなかった。女子はそんな成治の隣を、俯きながら並んで歩く。
 不意に、道の真ん中でその女子が立ち止まった。振り返って見ると、すすり泣きし始めていた。
 慰めるわけにもいかず、かと言って見捨てるわけにもいかず、ただ、泣いている横顔をずっと凝視していた。
 それが、成治の密かな復讐であったのか。

密かな復讐

密かな復讐

設定:1987年 / 1992年

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-07-30

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