怨時空
桜庭は広告代理店に勤めるサラリーマンだが、妻がブティックを経営しているおかげで、ゆとりある生活を満喫していた。とはえ、会社から一人一社の新規開拓が求められ、これまで封印してきた交友を復活させることにした。
その日、とある会社の総務部長室のドアを開け、かつての友に微笑みかけると、その友の顔が一瞬にして凍り付いた。そしてうわずるような声で言った。「お前は、死んだはずだ。な、な、何故……」友は後じさりして窓際まで逃げる。そしてあろうことか、窓によじ登り身を投げて自殺してしまう。
桜庭は旧友の葬儀に参列したのだが、若後家・香子の姿に心を奪われてしまう。その後、香子と懇ろになるのだが、当然のごとく妻の存在が重くのし掛かってくる。
桜庭は妻を離婚しようと画策するのだが、妻もまけてはいない。次第に追いつめられてゆく桜庭。そして、その確執が妻への殺意へと変わる。
第一章 悪友
秒針が音もなく時を刻み、熱を帯びた視線がへばりつくようにその後を追う。長針と短針が真上で重なり、桜庭は思わず息を飲む。直後、秒針が何事もなかったように時を刻み続けている。あれほど待ち焦がれた瞬間が、あっけなく通り過ぎて行った。
桜庭はほっとため息を漏らし、煙草の煙を胸いっぱいに吸い込むと、そのまま息を止めた。心に巣食っていた不安から開放されたのだ。頭がくらくらしてくる。そして煙を一気に吐き出す。歓喜が脳を痺れさせた。時効が成立したのである。
心に深く突き刺さっていた矢じりが、まるで日差しに晒された氷のように溶けてゆく。その傷跡にはこそばゆい感覚が残されているだけだ。心の底から笑いがこみ上げてくる。思わず大声を出して笑った。これまでの鬱積をいっきに晴らすように心の底から笑った。
すると、寝室のドアが突然開かれた。高揚し高みに達しようとしていた心が一瞬にしてしぼんだ。そこに見たものは、むくんで膨れ上がった顔、ぶくぶくの首筋、妻、泉美の無残な姿だった。妻が腫れぼったい瞼を上げ、くぐもった声で怒鳴った。
「あんた。いつまで起きているつもりなのよ。もう12時過ぎよ。いい加減に寝なさいよ。明日、私、早いんだから」
「ああ、分かった。もうすぐしたら寝る」
と、吐き捨てるように言って、心の中で舌打ちした。桜庭は立ちあがると食堂に席を移した。もう少し飲むつもりである。しらふであの女の隣のベッドに寝る気にはなれない。まして時効成立の祝杯には、取って置きのブランデーを開けるつもりだったのだ。
しばらくして妻の高鼾が響く。桜庭はふんと鼻を鳴らしブランデーを喉に流し込む。熱い流れが食道を通って胃に広がってゆく。あの事件のことを思い出す度に不安に駆られ、胃がきりきりと痛んだ。それも昨日までのこと。警察が突然尋ねてくることはないのだ。
桜庭は晴れ晴れとした思いを噛み締めた。思えば長い15年間であった。いろいろとあったが、まずまずの人生だ。一つ難を言うとすればあの女房だろう。まったく痛恨の極みである。桜庭は深いため息を漏らした。
3歳年上の女房、泉美は銀座のバーのホステスだった。そんな生業の女と結婚すると知った母親は予想通り狼狽し、そして頑強に反対した。その説得には一月も要したが、母親の言うことも理解出来た。母親はこう言ったのだ。
「お父さんが財産を残してくれたとはいえ、母子家庭ということで大変だったの。だから、貴方には私の期待に、それなりに応えてもらいたいわ。私の期待って過大かしら。普通の女性と結婚してもらいたいだけなのよ」
そう言って、桜庭を睨んだ。
これまで桜庭は母親に逆らったことなどない。期待通りに生きてきたのだ。何故なら、桜庭は母親を心から愛していたからだ。気風の良い親分肌で、頼られるとどんなことでも人肌脱いでしまう。桜庭はそんな母親に愛情と憧れを抱いていたのだ。
だからこそ、自分の伴侶にも母親の面影を求めた。しかし、そんな女性が何処にでもいるわけではない。結局、経験を積んだ年上の女性が一番それに近かったのだ。桜庭は母親にこう言って説得にかかった。
「泉美は母さんに良く似ているんだ。この年になるまで、僕は母さんのような女性を探してきた。そして漸く巡り合えたんだ。泉美は、性質も雰囲気も母さんにそっくりなんだ」
この時、母親は既に68歳になっており、若かりし頃の面影は皺の中に埋もれていたのだが、確かに泉美は母親の若き日を彷彿とさせる何かを持っていた。桜庭は目に情愛を滲ませ、じっと母親の目を見詰めた。
精一杯厳しい顔つきをしていた母親は、一瞬相好を崩しそうになるのをようやく堪えた。もうひと息だと思った桜庭は、最後の台詞を吐いた。
「母さんと結婚するわけにはいかないだろう。だからせめて似た人とそうしたかった。分かってくれよ、母さん」
母親は俯いて、ふーと息を吐いた。しばらくして顔を上げるといつもの優しい顔に戻っている。そして微笑みながら言った。
「あんたには負けたわ。分かった。認めてあげる。そこまで言われたら、反対出来ないものね。じゃあ、認めてあげるから、そのかわり、すぐにでも子供を作りなさい。私、早く、孫の顔が見たいの」
桜庭は母親と視線を合わせ、にこりとしてその手を握った。桜庭が30歳の時である。
結婚当初、泉美は多少肉付きの良い方だが、肉感的で十分魅力的だった。ボリュウムのあるその肉体に桜庭は溺れた。母親のおっぱいをまさぐる乳飲み子のように、桜庭は泉美を片時も離さなかった。しかし、幸せとはそう長続きしないものなのだ。
泉美の妊娠を知って、桜庭は心から喜んだ。と同時ににんまりもした。母親も結婚は許してくれたものの、どこかにわだかまりがあるらしく、それまでと打って変わって、財布の紐をしっかりと締めてしまった。
桜庭はお金にルーズで、独身時代から給料だけでは足らず、母親に小遣いをせびるのを常としてきた。それがぱったりと途絶え、経済的に青息吐息に陥っていたのだ。しかし、もし子供好きな母親に赤ん坊の顔を見せれば、それも一挙に挽回できる。
二人は子供の誕生を心待ちにし、指折り数えた。泉美は幸せの絶頂だった。桜庭はそんな泉美をいとおしく眺め、いたわり、家事までやってのけた。しかし不幸は突然やって来た。流産だったのである。しかも、泉美は子供の出来ない体になってしまったのだ。
勿論、桜庭もがっくりしたが、泉美の落胆ぶりは見ていられないほどであった。その日、二人は病院の一室で抱きあって泣いた。泉美が不憫でならなかった。しかし、子供が出来ないと知った母親がどう出るか。それを思うと暗澹たる気分に襲われたのも事実だ。
「貴方のお母様は私を憎んでいるのよ。子供の出来ない体になった私を追い出そうとしているわ。今日も電話してきて、流産したのは私が仕事を続けていたからだと非難したの。でも、私は先生のアドバイスに従っていた。決して無理をしていたわけじゃないわ」
「分かっている。君に責任なんてない。それにお袋が非難したというけど、そんなことないって。君は言葉に過敏過ぎるんだ。いいか、俺は、君を愛している。たとえ子供が出来なくても一緒だ。お袋が何と言おうと、この俺が守ってやる」
「本当、あなた、本当なのね」
こんなやり取りを何度重ねただろう。確かに、母親は泉美を憎み始めている。そして、嫁姑の仲はそれまで以上に険悪になっていった。泉美の愚痴と涙が桜庭を追い詰める。二人に挟まれ右往左往する毎日が続き、次第に泉美の涙が重荷になっていった。
暗い顔を突き合わせて食事をしても味も素っ気もなかった。そして深いため息。初めのうちこそ優しく慰めようという気持ちも起こったが、四六時中となるとその気も失せる。無視することが多くなり、終いには、うんざりして憎しみさえ抱くようになった。
或る日、帰宅すると家の中は真っ暗である。居間の電気を点けたが、誰もいない。寝室を覗くと、部屋の隅で何かが蠢いている。びっくりして目を凝らすと、泉美がうずくまって泣いているのだ。ぞっとすると同時にうんざりした。寝室のドアを思いきり閉めた。
毎晩銀座で飲み歩き、帰りも遅くなった。憂さを晴らすために浮気にのめり込んだ。職業がら、タレントやモデル志望の女達との接触も多く、若い肉体をむさぼった。二人は口をきかなくなり、互いを無視するようになった。この頃、泉美の食欲が爆発したのである。
ぶくぶくと太って、醜くなっていった。最初のうちはストレスによる過食症かとも思ったが、桜庭を睨みつけるようにして飯を口に詰め込んでゆく泉美を見ていて、それは少し違うような気がしてきた。
しかし、醜く太ることが、美意識の人一倍強い桜庭に対する復讐だと知った時は、呆れると同時に慄然とした。ある日、口喧嘩をして、桜庭が怒鳴った。
「自分のその姿を鏡で映してみろ。俺に相手にされたいのなら、そのぶくぶくの体を何とかしろ。今のお前はトドだ。声までトドそっくりだ。喉がつまったようにゲコゲコ言いやがって、何を言っているのかさっぱり分からん」
これに対し泉美が言放ったのだ。
「あんたになんて、もう相手にされなくってもいい。もっと醜くなってやる。醜くなって復讐してやる。あんたが悪いのよ。私を構ってくれないあんたの責任よ」
そう言って、桜庭を憎悪の眼差しで睨んだ。桜庭はその形相を見てぞっとした。返す言葉もなかった。
離婚は何度も考えた。しかし、それを思い留まらせたのは、或いは、二人が共有した深い悲しみ、そして幸せだった頃の共通の思いに他ならないが、何よりも離婚に伴う財産分与が大きな理由だったのである。
高層マンションの最上階。そこから眺める夜景は世界を独り占めしているような錯覚を起させる。桜庭はそれをこよなく愛した。マンションの頭金は母親が出したが、月々のローンは泉美と折半で、離婚した場合は当然売却せざるを得ない。そのことを思うと躊躇せざるを得なかったのである。
二人の生活に変化が起こったのは、流産から三年後である。泉美は結婚直後からブティックを経営していたが、それまで売上はぱっとしなかった。しかし、太り出したのを機に、店をビッグサイズ専門店に衣替えすると、お客がどっと押し寄せたのだ。
桜庭はその成功に目を見張った。そしてこれが桜庭に経済的ゆとりと、思うままの生活をもたらせた。桜庭はサラリー全てを小遣いとして使えたし、他の営業マン以上の接待で売り上げを伸ばすことが出来たのである。
泉美の方は、生活ぶりが派手になったとはいえ、夜は趣味の油絵に没頭しており、次々と作品を仕上げてゆくし、休みの日にも出かけている様子はない。どうも腑に落ちず、泉美の携帯のメール、住所録、履歴を調べてみたが、それらしい男の影もない。
しかし、男なしでは生きられない泉美のことだ、何かあると思い、よくよく調べてゆくと、ある符合に気付いたのだ。女友達からのメール、餡蜜屋での待ち合わせの約束が入った翌朝、泉美はシャワーを浴び、念入りにめかしこんで出かけるのだ。
まったく笑ってしまうのだが、蓼食う虫も好き好きとは良く言ったもので、どこでどう知り合ったのか、泉美には恋人がいたのである。しかし、桜庭は見て見ぬを振りをすることにした。或るときなど、そのことで鎌をかけたことがある。
「泉美、先週の金曜日の昼頃、ブティックに電話をいれたら、仕入れに出かけていて今日は戻らないと言っていたが、本当に仕入れに行っていたのか」
その日は、朝、シャワーを浴び、念入りに厚化粧をする泉美の様子でデートだとぴんときたのだ。泉美は一瞬ひるんだが、気を取り直し、きっぱりと言った。
「当たり前じゃない、あの店は仕入れが勝負なのよ。お得意さんが何を求めてるかを見極めて、それを問屋街で探すの。一日仕事よ。足が棒になっちゃったわ」
「しかし、仕入れの日に限って、シャワーを浴びて、厚化粧して出かけるのはどういうわけだ?」
桜庭が、にやにやしながら聞いたのが気にさわったらしい。泉美がむきになって言い返してきた。
「それってどういう意味よ。私が浮気でもしているって言うわけ。そんな言いがかりをつけて離婚しようたって、そうは問屋が卸さないわ。あんたが好き放題やっていることは、こっちだって知っているんだ。もし離婚しようというなら、このマンションは私が貰うからね。いい、浮気をしているのはあんたの方なんだから」
桜庭は、この話題で深入りはしなかった。泉美の言う通りだったからだ。
しかし、或る時、桜庭の遊び相手の女が妊娠し、女房との離婚を迫られるという事態に見舞われ、桜庭は泉美の浮気の証拠と掴むために探偵を雇った。浮気の証拠をつきつけ離婚を有利に運び、泉美をお払い箱にしようと決心したのだ。
しかし、その調査は途中で止めさせた。というのは、その妊娠が嘘だと分かったからだ。この時、ほっとする自分を不思議に思った。泉美との離婚は常日頃の願望ではあったが、自由にお金が使え、遊び放題の生活にもやはり未練があったのかもしれない。
桜庭は広告代理店に勤めている。勤続15年で第一営業部の課長に抜擢された。しかし今期は全社の売上目標未達成で、社長以下経営陣は全社員に新規開拓の大号令を発した。桜庭の課は120%達成率であったが、決して例外というわけにはいかない。
大手企業を担当して長く、新規開拓から遠ざかっていたため、桜庭にはそれが心の重荷だった。しかし、ワンマン社長の命令で一人最低一社がノルマとなり、ボーナスの査定の対象になると言う。桜庭も必死にならざるを得なかったのである。
桜庭は早速大学の卒業名簿を取り寄せ、その中に、中条翔の名前を見出した。大手自動車メーカーの総務部長の肩書きであった。桜庭はすぐさま電話番号を控えた。中条ならば桜庭の期待に応えてくれるはずである。桜庭は思わずにんまりとした。
中条とは大学の演劇部で知り合った。互いに母一人子一人という家庭環境が近いということもあり、知り合って直ぐに親しくなった。或る女性を張り合って、一時険悪な関係になったことはあったが、四年間通じて同じ時間を共有した友人であることは間違いない。
そして、中条は、あの忘れがたい事件の主犯である。桜庭は死体を運んで遺棄したに過ぎない。事件以来、中条とは数える程かしか会ってはいないが、あの事件のことを忘れるはずもなく、ケツの穴の毛を残らず抜いても文句は言えないはずである。
桜庭は秘書に通された応接室でコーヒーを飲みながら旧友の面影を思い浮かべた。どう変わっているか楽しみだった。中条の自分勝手な性格からいって出世するとは到底思えなかったが、それが大手自動車メーカーの総務部長とは畏れ入ったと言うしかない。
秘書が笑顔を作りながら応接室に入ってきた。先客があり、しばらく時間がかかるからと応接に案内されてから10分もたっている。
「桜庭様、お待たせ致しました。どうぞ」
秘書がドアを開け、そのままの姿勢で待っている。桜庭はアタッシュケースを引き寄せ、おもむろに立ち上がった。中条にCM枠の一つくらい買わせるつもりだ。もし言うことを聞かなければ、あのことを匂わせてやってもよい。たとえ時効が成立したとはいえ、やったことの責任は消えないのだから。
秘書が重厚なドアを外側から開け、総務部長室に入るように促している。桜庭も鷹揚に頷き、歩を進める。秘書と目が合った。美人だがどこか冷たい表情が、一瞬、桜庭を不安にさせた。そんな思いを振り払い、桜庭がドアの内側に顔を覗かせた。
中条は昔のままの顔でそこにいた。桜庭はにやりとして室内へ一歩入った。中条の顔が一瞬にして歪んだ。そしてうわずるような声を漏らした。
「お前は、死んだはずだ。な、な、何故……」
絶句したまま唇を震わせた。まるで幽霊にでも出会ったように驚愕の表情のまま固まっている。桜庭は秘書の方をちらりと見て言った。
「おい、おい、俺が死んだなんて誰から聞いた? 俺は確かにこうして生きているよ。それに、こちらの秘書の方に電話して、俺の名前を言ったはずだ」
見る見るうちに中条の顔は、恐怖で引きつってまるで別人のようだ。椅子から立ちあがり、よろよろと桜庭から逃げようとする。足元がおぼつかない。机の上の水差しがガチャンという大きな音をたてて倒れた。桜庭はあっけにとられ、見ているしかなかった。
部長室の物音に驚いて、秘書が桜庭を押しのけ部屋に入って来た。秘書は思わず手を口に当てた。異変に気付き、中条に声を掛けた。
「部長、どうなさったのです。桜庭様です。サンコー広告の桜庭課長です。アポイントは頂いております。部長にもそう申し上げました。……」
中条は、這いつくりばりながら窓に向かった。レバーを握って、窓のガラス戸を開けようとしている。ようやくこじ開けると、そこに右足を上げ這い登った。秘書の悲鳴が響く。その声に振り返り、中条は恐怖に歪んだ顔を桜庭に向けた。
その目は桜庭に救いを求めるかのようだ。その顔が奇妙に歪んだ。頬は恐怖に震え、唇には泡を浮かべている。レバーを握った手の指が一本一本離れてゆく。中条の視線が自らの指に注がれ、絶望がその顔に広がった。
次いで中条の視線は深い谷底へと向けられた。桜庭からその表情は見えない。その体がスローモーションのごとくゆっくりと傾き、奈落の底へ落ちてゆく。「ぎゃー」という悲鳴が次第に遠のいた。19階のビルから、中条が飛び降りたのである。
桜庭は唖然として見ているしかなかった。秘書は悲鳴を上げながら窓に近寄った。窓から下を見下ろしていたが、しばらくして腰が抜けたようにへたり込んだ。
桜庭は咄嗟にここに残るのは得策ではないと判断し、必死の思いで秘書に声を掛けた。
「申し訳ないが、私はこれでお暇するよ。あんたも見ていただろう。私は彼に何もしていない。奴が勝手に飛び降りたんだ。俺はこの事件とは何の関係もない、そうだろう」
秘書は顔面蒼白のまま頷いた。エレベーターでロビーまで降りた。誰も異変に気付かず、何事もなかったように、笑い、話し、或いは黙々として行き交う。ビルを出ると、遠くに人だかりが出来ている。血の海に横たわった中条の姿を想像して鳥肌が立った。
桜庭はその方向に向けて合掌し、そそくさと歩き出した。後を振り返らず、足の裏のみに意識を集中し歩きに歩いた。頭の中は真っ白だった。何故、何故、その言葉だけが宙に舞っている。何の答えもないまま、30分ほど歩き続けた。
ふと、中条の特異の性格を思い出していた。中条は極端に集中力のある人間だった。のめり込むと回りが見えなくなってしまう。意識が一点に集中する様子は、見ていても分かった。演劇にはそういう能力が必要なのかもしれない。
しかし、その才能は、プラスにも働くこともあるが、マイナス面もなきにしもあらずで、総務部長になれたのは、その才能がプラスに働いたからかもしれないが、結局自殺したということはそのマイナスの面が一挙に吹き出した結果とも考えられる。
桜庭は中条の恐怖に慄く様子を思い出し、自らも震えた。中条は何に怯え、何に恐怖したのだ? 桜庭の突然の訪問が彼に異常をもたらしたのか。しかし、アポはフルネームで取ったのだから、桜庭が来ることは分かっていたはずである。
それにしても、最初の一言が気になった。「お前は死んだはずだ。……」とは、どうい
う意味なのか。中条は誰かから桜庭が死んだと聞かされていた。それが生きていたと知って、驚きのあまり気が狂ったのか。しかし、その程度のことが引き金になるとは思えない。
中条はそれ以上の何かに恐怖していた。まして自殺とはいえ何処か不自然さが伴う。あのギクシャクした動きは尋常ではない。まるで操り人形だ。中条を操る黒い影? 想像した途端、背筋に冷たいものが這い上がり、ぞぞっと体が震えた。
その夜、桜庭はぐでんぐでんに酔っ払って家に帰った。飲まずにはいられなかったのだ。真夜中を過ぎており、泉美は寝ているはずだが、居間には人の気配がする。一瞬、恐怖にかられたが、恐る恐るドアを開けると、泉美のでっぷりとした後姿が見えた。
桜庭はほっと胸を撫で下ろし、居間に入ると幾分おどけて「おす」と言って、女房の向いに腰をおろした。
「水をくれ」
泉美は無言でソファから立ちあがった。桜庭は、その背中に声をかけた。
「今日、俺の大学時代の友人が自殺した。俺の目の前で」
泉美は振りかえり、大袈裟に驚いて見せた。
「本当、貴方の目の前で。そんなこと信じられないわ。でも何で?」
「それが分からないんだ。そいつは俺が死んだはずだって言った。つまり、死んだはずの人間が尋ねてきたもんだから、驚いて正気を失ったのかもしれない」
「でも、そんなことで気が狂うほど驚いて、自殺するかしら。誰かから、あいつは死んだと聞かされていても、本人が現れれば、あれー、お前死んだって聞いたけど、とかなんとか言って、それで終わりよ」
「ああ、その通りだ。まったく、何故あいつが自殺したかさっぱり分からない」
こう言った瞬間、ふと、あの事件のことが脳裏をかすめた。あの事件が引きがねとなった可能性は否定出来ない。桜庭と同じように、あの日、中条も時効成立を祝ったであろう。そして忘却の彼方から共犯者が現れ、自制心を失ったのか?
或いはあの少女が……。ガラス越しの深い闇の彼方からふわっと少女の面影が浮かんだ。心臓の鼓動が聞こえそうなくらい高鳴った。慌ててその面影を手で払いのけ、頭を強く横に振った。泉美が水を満たしたコップを運んできた。そして言った。
「でも、大学時代の友人なんて聞いたことなかった。そんな親しい人がいたなんて、あんた一言も言わなかったじゃない」
桜庭は恐怖から立ち直り答えた。
「ちょっと厭なことがあってな、卒業後は付き合っていなかった。でも、本当に気の合う奴だった」
「何ていう人、その人」
「中条っていう。中条翔。本当に良い奴だった」
泉美はくるりと踵を返し、台所に消えた。暫く音沙汰なかったが、洗物をしているらしい。こんな夜に、洗物? 不思議に思ったが、気にもとめず水を一気に飲んだ。考えてみれば、女房とこんな普通の会話を交わしたのは久しぶりであった。
台所から声が聞こえた。よく聞き取れず、怒鳴った。
「おい、何て言ったんだ」
ややあって、泉美が大きな声で聞いた。
「その人、何処に勤めていたの」
「三和自動車だ。そこの総務部長だった」
「へー。」
会話はここで途切れた。
第二章 疑惑
桜庭はベッドで煙草をくゆらせながら、この不思議な縁に思いを巡らせていた。香子は桜庭の腕に頬をのせ、静かに寝息をたてている。長い睫、すっきりとした鼻梁、小さな唇。何もかも桜庭の好みだった。その香子を初めて見たのは、中条の葬式である。
その日、お焼香の順番を待つ間、桜庭は喪服に身を包む若妻に目を奪われた。喪服姿の彼女は艶やかな色香を漂わせながら、弔問客一人一人に慎ましやかに辞儀を繰返していた。厳かな雰囲気が更に妖艶さを際立たせるていた。それが香子だったのだ。
再会は、それから一年ほど経ったある夏の日で、桜庭はCM撮影の立会いで江ノ島の海岸にいた。撮影が無事終了し、女性タレントはそそくさと車で引き上げ、製作会社の担当者達が撮影機材を片付け始め、その彼らもいなくなると、桜庭一人残された。
撮影を見学していた人々も、タレントが帰ると潮が引くように消え、夏の海の風景に戻っていた。背広姿の桜庭は明らかに場違いである。桜庭は、くわえ煙草で、ぎらつく太陽を睨み上げた。それが自分では格好良いと思っている。
そこに大胆なビキニ姿の女性が近付いて来た。形の良い胸、くびれた腰、すっきりと伸びた脚、桜庭の視線は再びこぼれんばかりの胸に取って返した。と、その女性がにこりと微笑んで声をかけてきたのだ。
「その節は……」と言って、はにかむように佇んでいる。その顔に見覚えがあった。桜庭はすぐに思いだし、微笑みながら言葉を返した。
「どうも、しばらくでございます。その節は本当に、お言葉をかけるのも痛々しかったものですから、ろくなお悔やみも申し上げられませんで、申し訳ございません」
「いえ、とんでもございません。皆様の、あの演劇部の皆様の、励ましのお言葉は今でも心に残っております。あれから上野さまも、お線香を上げに何度かお見えになられて…」
と言って微笑んだ。桜庭は心の中で舌打ちした。上野の下心はみえみえだ。若後家の隙の乗じてものにしようとしたのだ。しかし、その企みが成功しなかったことは、今の微笑みが物語っている。意外に世慣れした女だと思い、桜庭は心中ほくそえんだ。
その時、三四歳の子供が走り寄ってきて女の脚に絡みついた。女はその子を抱き上げて言った。
「翔の忘れ形見、詩織です。さあ、詩織ちゃん。素敵なおじ様に、ご挨拶しなさい」
思わず頬擦りたくなるほど可愛い子供だった。桜庭ははにかむ子供の頬を指先でつついて挨拶した。
「詩織ちゃん、桜庭と申します。よろしくね」
子供の邪魔にあって、この心時めく再会ははこれで終わりを告げたのだが、自宅も電話番号も知っているのだから、上野と同じように、お線香を上げに行けばよい。別れ際にみせた女のねっとりとした視線は、それを待っていると匂わせているようだった。
そして数日後電話をかけ、自宅に押しかけ、そしてなるようになった。香子は中条の二番目の妻で、あの日は先妻が残した二人の子供と別荘へ行っていたのだという。葬式に訪れ、二言三言言葉を交わした桜庭を覚えていて声を掛けてきたのだ。
中条は最初の妻を31歳の時に亡くし、自殺する二年前、総務部の部下であった11歳年下の香子と再婚した。事件後、香子は旧姓に戻り、中条の残してくれた狛江の600坪の自宅に二人の子供と住んでいる。
着替えをすませるとベッドに腰掛け、安らかな寝息をたてる香子の横顔を見詰めていた。髪を撫でると、香子が目を覚ました。桜庭が声をかけた。
「ご免、起こしたみたいだね」
「いいの、起こしてくれて良かった。そろそろ夕飯の時間だわ。一緒にお買い物に行きましょう。ねえ、今日は何が食べたい」
体を起し、瞳をくりくりさせて問う。
「そうだな、うーん……」
答えなどあるはずもない。家に帰る前に実家に寄って母親から小遣いをせしめなければ今月乗り切れない。
「ねえ……」
「申し訳ない。悪いけど、そろそろ帰らないと。女房には箱根で接待ゴルフだと言ってある。だから、今、ぎりぎりの時間だ」
「だってまだ早いじゃない。奥さんがそんなに怖いの?」
「いや、実家に……、実は母親が寝込んでいる。見舞ってやらないと……」
そんな言い訳など聞こえなかったように反論する。
「それとも、奥さんのところに帰りたいっていうこと?」
「そんなことない。勿論君と何時までも一緒にいたいさ。だけど、それは今のところ叶わないんだ。そこを分かって欲しい」
香子の見上げる瞳が潤んでいる。今にも泣き出しそうだ。
「そんな悲しそうな顔をするなよ。俺だって仕事も接待もあるのに、週2回も機会を作っているし、こうして週末だって泊まりにきている。これ以上、俺を困らせるなよ」
香子の唇が動いた。小さな声だ。桜庭は聞きとれなかった。
「今、何て言ったんだ?」
「……」
俯いたまま目を合わそうとしない。桜庭が顎に手を添え、顔を持ち上げた。涙が一筋こぼれて、桜庭の指を濡らした。小さな唇が開かれた。
「でも、毎日、会いたいんだもの」
こう言うと、背中を向けて肩を震わせている。桜庭は両手で香子をぎゅっと抱きしめた。香子のしっとりとした肌が掌に吸い付く。胸がきゅんとして切なく、可愛さ、愛おしさで胸が一杯になる。その時、女房と別れようと決意した。
そんな或る日、一人の男が会社に桜庭を訪ねてきた。受付で顔を合わせると男は秘密めいた微笑みを投げかけてくる。受け取った名刺を見ると近藤探偵社とある。近くの喫茶店で話を聞くことにし連れ立って会社のビルを出た。
店に腰を落ち着け、コーヒーを二つ注文する。探偵は、コヒーが運ばれ、ウエイトレスが去ると、開口一番こう切り出した。
「中条さんは、あの女に殺されたんです」
桜庭は黙って探偵の視線を受け止めている。中条は、桜庭の見ている前で自殺した。他殺などありえない。心のうちでせせら笑っていた。近藤が続けた。
「中条さんには3億の保険金が掛けられていました」
こう言うと、探偵は視線を真っ直ぐに向け、桜庭の反応を見ている。桜庭は微笑みながら答えた。
「実は近藤さん。中条が自殺するその現場に、私は居たんです。勿論、警察ざたは困るので、秘書の方に断ってその場を立ち去りましたがね」
「ほう、現場にいて、ビルから身を投じるのを見ていたと言うのですか」
「ええ、私と秘書の女性、二人で見ていました。止める暇もなく、中条はあのビルから飛び降りたのです」
「なるほど」
近藤はじっと桜庭の目を見詰めたままだ。すると今度こそとどめを刺すといった調子で、顔を近付け声を押し殺して言い放った。
「彼女が保険金を手に入れたのは、これで2度目です」
桜庭はここで初めて表情を変え、口を開いた。
「ということは、結婚は二度目ってことですか」
「ええ、最初は18歳の時、やはり10歳年上の方でした。その方も結婚して二年後に自殺して、彼女は2億の保険金を受けとっています」
「でも、何度も言うが、中条は私の目の前で自殺した。彼女が殺したわけじゃない」
「ええ、その通りです。前の事件では、彼女、もしくは恋人が犯行に及んで、自殺に見せかけることも出来た。しかし、今回はさっぱり分からない」
桜庭はこれを聞いて漸く胸を撫で下ろすと同時に、絶対に結婚しようと決意した。香子は5億の金を持っていることになる。会社など辞めてしまっても良い。ふと、或ることを思い出した。
「近藤さん。ちょっとお願いがあるんですが、相談に乗ってもらえませんか」
近藤は、怪訝そうに顔を上げた。
桜庭が近藤に頼んだのは、かつて泉美の身辺調査した会社を探し出し、調査資料を入手することだった。実を言うと、桜庭はかつて頼んだ探偵事務所を失念してしまったのだ。
神田であったことは確かなのだが、場所も名前も覚えていなかった。
当時、その探偵は泉美の浮気相手を突き止めていた。しかし、離婚する理由が失われ契約を途中解除したのだ。料金が安くなると思ってそうしたのだが、さにあらず、全額請求された。レポートをどうするか聞かれたが、険悪な雰囲気のまま「ドブに捨ててくれ」と怒鳴ったのだ。泉美の相手など見たくも知りたくもなかったからだ。
数週間後、近藤から会社に電話があった。例の喫茶店で待っていると言う。すぐに駆けつけると、以前と同じ席で待っていた。桜庭が席につくと、近藤が口を開いた。
「こんな偶然があるんでしょうか。奥さんの浮気の相手、誰だったと思います?」
「分からないから貴方に頼んだんですよ。いったい誰なんです」
「そう、急かさずに、まず、写真を見て下さい。幸い同業者が、処分せずに残していました。でも、まさかこんなことが……」
桜庭は笑いながら答えた。
「何が偶然だと言うんです。まさか女房の相手が中条なんて言うんじゃないだろうな」
写真を手にして視線を移した瞬間、その表情から笑いは消えていた。目を剥き、あんぐりと口を開け、写真を見詰める。そして視線を近藤に。苦笑いしながら近藤が口を開いた。
「仰る通り、相手は中条さんでした」
その夜、妻の泉美は、10時過ぎに帰ってきた。ブティックは8時閉店だから遅いわけではない。桜庭は居間のソファにどっかりと座った泉美の前に写真の束を投げた。泉美はすぐさま、写真を手にとってじっと見入っている。その目に涙が滲んだ。桜庭は数年前に思い描いたストーリー通り、ここぞとばかりに叫んだ。
「このあばずれが、よくも俺を裏切ってくれたな。まさか、お前が不貞を働いていたとは思いもしなかった。しかも、相手は俺の親友だった」
桜庭は怒りを込めて睨んだ。しかし、浮気相手が死んでしまっているので、迫力に欠けるが、それはいたしかたない。泉美は写真から目を離し指で涙を拭うと、開き直って怒鳴り返したきた。
「あんただって私に恋人がいたことは知っていたじゃない。でも、あんたが見たとおり、彼は自殺してしまった。あれからもう一年になる」
怒りの顔はしだいに崩れて悲しみのそれに変わった。その目から涙が溢れた。何度もしゃくりあげている。ここで同情してはいけない。桜庭は怒りを奮い立たせた。
「でも、そいつが俺の友人だってことは分かっていたのか?」
「いいえ、貴方が、友人が自殺したって言って帰ってきた時、名前を聞いて驚いたわ。まさか、貴方の前で泣くわけにはいかないし、まいったわ、あの時は」
泉美は悪びれる素振りもみせない。桜庭は沸き起こる怒りを抑えるかのように、大げさに肩で息をし、荒い呼吸を繰り返した。そして、無理矢理、怒りを爆発させた。
「ふざけるな、この野郎。許さん、絶対に許さん。離婚だ。もう沢山だ。お前の顔など見たくもない。出て行け。さあ、早く、この家から出て行くんだ」
不貞の証拠をつきつけられ、離婚を申し渡されたのだから、泉美が出て行くのが当然なのだ。裁判で争っても結果は同じである。
泉美は俯いて、肩を震わせている。どうやら泣いているようだ。桜庭は、既に固く決意していることを示すために、顎の筋を強張らせ、目を閉じて腕を組んだ。その時、桜庭は泉美の異様な視線に気付いた。薄目を開け盗み見ると、その目は笑っている。口が割れ唸るような声が漏れた。
「ずるい男だ。全くずるい男だよ。お前は」
動揺しながら桜庭が叫んだ。
「何だと、ずるい男だって、浮気をした女房が何を言っているんだ。盗人猛々しいとはお前のことだ」
「じゃあ、この写真は何なの」
こう言うと、泉美はバッグを引き寄せ、中から何枚かの写真を取りだした。そして、桜庭がしたようにそれをテーブルにぶちまけた。桜庭は指で一枚の写真の向きを直し、焦点を合わせた。そして、目を剥いて驚いた。香子とホテルに入ろうとしている写真だった。
テーブルに視線をさ迷わせるが、どれも似たような写真だ。泉美を見ると、刺すような目で睨んでいる。
「私の方は過去の過ちで、もう終ってるわ。でも、貴方は、今現在、私を裏切っているのよ。その女はいったい誰なの。今までの演技で、あんたが私と本気で離婚するつもりだってことは分かった。でも、私には全くその気はないの」
「演技だって、それはどういう意味だ」
泉美は含み笑いをしていたが、徐々に声を上げ、最後には笑いころげた。気が狂ったように笑っている。桜庭は苛苛しながら泉美の興奮が覚めるのを待った。ひとしきり笑うと、泉美が冷たい視線を向けて言い放った。
「あんたはずっと前から、私に恋人がいることを知っていた。それを見て見ぬ振りをしていた。それは、稼ぎのある私との生活を捨て切れなかったからでしょう。一銭も家に入れず、遊び放題だ。それも悪くないと思っていたんでしょう」
「そんなことはない。俺はお前を愛し……いや、信頼してていた。だから」
桜庭は、せせら笑う泉美を見て、さすがに自分でも恥ずかしくなった。矛を収める時かもしれない。桜庭は狡猾そうな笑みを浮かべながら言った。
「いやはや参った。まさか写真を撮られていたとは」
鬼のような顔になって泉美が叫んだ。
「誤魔化すんじゃない。いったい誰なんだ。この女は誰なんだ」
桜庭は、言葉に詰まった。どうやら、泉美は香子が中条の妻だったということには気付いていない。泉美はまるで山門に立つ仁王のように、恐ろしい形相で睨んでいる。桜庭は尋常でないその様子に恐怖を抱いた。そして言葉が衝いて出た。
「分かった、もう、あの女とは別れる。だからもう何も言うな」
「本当なんでしょうね。もし別れなかったら、覚悟しなさい。慰謝料だけじゃないわ。こ
のマンションだって奪いとってやる」
「ああ、分かった。本当に別れるって。だから、落ち着けよ。俺は嘘は言わん」
こんなやり取りが30分も続いた。お互いに意味のない会話であることは分かっていたが、少なくとも泉美の興奮を押さえるのには役立った。桜庭は話題を変えようと、おもねるように言葉をかけた。
「まったく中条が、死んでしまうなんて、お前もショックだっただろう」
般若のような顔が、一瞬和んで、泉美は遠い目をして答えた。
「いい人だった。太った淑女が好きで、本当に私を愛してくれた。私の全てを受け入れてくれた。私もあの人を愛したわ」
二人が絡み合う姿を想像し、桜庭はぞっとした。そんなことなどおくびにも出さず、懐かしむように言った。
「本当に、あいつは良い奴だった。大学では一番気が合った」
「本当に良い人だったわ。それを、あの女房が殺したんだ。保険金目当てにね」
桜庭は、はっとして泉美を見詰めた。近藤と同じことを言っている。動悸が高鳴った。息せき切って聞いた。
「女房が殺したって、どういう意味だ。お前にも言ったはずだ。あいつは、俺の見ている前で、窓から飛び降りたんだぞ。香……」
慌てて言い直した。
「奥さんが殺したわけじゃあない。自殺したんだ。俺はそれをこの目で見ていたんだ」
泉美は首を左右に振って、口を開いた。
「中条が言ってたけど、あの女は自分の思い通りに人を動かすことが出来るんですって」
「そんな馬鹿な。そんなこと出来るわけがない」
桜庭は中条の死に行く姿を思い浮かべた。彼は床を這うように窓の所まで行った。そして右足を開け放たれた窓にかけた。そしてからだ全体を持ち上げて飛び降りた。
しかし、どの動作を思い出しても、どこかぎこちないのである。どうぎこちないかを説明するのは難しい。ふと見ると、泉美がどこから出してきたのかピーナッツを次々と口に放り込んでいる。頬を膨らませもぐもぐと噛み砕いている。
恐怖によるストレスが食欲を刺激したようだ。ピーナッツを口に含んだまま、くちゃくちゃと音を立てながら言った。
「二人の子供も、あっという間に継母べったりになって、父親を疎んじるようになったんですって。考えられる、そんなこと。愛情を注いできた子供達との絆が跡形もなく消えてしまって、むしろ子供の視線が怖いって、翔ちゃんは漏らしていた」
「しかし、それだって、こう考えることも出来る。子供は自分を本当に愛してくれる人かどうか本能的に分かるんだ。まして子供にとって母親の存在は大きい。父親との絆って言うけど、そんなもの本人が考える程たいしたものではないんだ」
泉美は桜庭の言葉など聞いていない。
「そうそうこんなことも言っていたわ。奥さんは、例えばお皿洗いをさせようと思えば、翔ちゃんを睨むんですって。その視線には決して逆らえないって。恐ろしい。本当に恐ろしいわ。そんな人間がいるなんて」
「つまり、中条は自殺するように仕向けられたってわけか」
「そうよ、そうとしか思えない。3億の保険証書を見つけて、問いただしたんですって。そしたら、にっこり笑って、これであなたが死んでも大丈夫って言ったそうよ。自殺する前、翔ちゃんの恐怖は頂点に達していたわ」
「中条は、狂っていたんじゃないのか。奥さんの、その言葉だって、仲の良い夫婦であればブラックジョークで済んでいたかもしれない。奴は気が狂って自殺した可能性だって否定出来ない。そうじゃないか」
「ええ、狂っていたのかもしれない。翔ちゃんは、会社でも使い込みがばれそうになっていた。追い詰められていた。それが妄想を生み出したってことも考えられるわ」
「そうだ、そうに決まっている。そんな人を操る力なんてあるはずがない」
「ええ、私もそう思いたい。でも翔ちゃんが言った通りの死に方だったもの。」
「えっ、奴は、ビルから飛び降りるかもしれないって言っていたのか?」
「ええ、何度も何度も夢で見たそうよ。翔ちゃんが寝ている時に、奥さんが耳元で囁いているような気がするとも言っていた。だからあんな夢を何度も見るんじゃないかって」
「しかし、耳元で囁かれたら目覚めちゃうだろう。眠ってなんていられないよ」
「私にだって分からないわよ、何があったかなんて。兎に角、恐ろしくて鳥肌がたつわ。人間の意思を操って人殺しをするなんて、そんな人間がいるなんて信じたくない」
泉美は桜庭にしな垂れ掛かった。その体重を受けとめるのに腰を固めなければならなかった。泉美はふるふると震えている。本当に恐ろしがってる。桜庭はしかたなく分厚い肉の塊を抱きしめた。普段なら嫌悪感に苛まれただろうが、今は訳の分からない恐怖でそれどころではなかった。
第三章 暗い過去
恐怖に慄いた夜、桜庭は有無をいわせぬ泉美の力に抗しきれず、ふくよかな肉体に体を埋めた。太った女に興奮する男の感覚は理解しかねるが、果たして、一瞬の悦楽にどれほどの差があるのか判然としないまま、憮然と煙草をくゆらしていたものだ。
結局、泉美は、香子を魔女にしたて、怯える振りをして桜庭にしな垂れかかり、桜庭を強引に誘い込んだ。そして恐怖に打ち震える女を演じて、桜庭にも香子に対する恐怖を感染させようとしたのではないのか。このように思えてならなかった。
確かに泉美の狙いは、それなりの効果はあったのである。桜庭は香子に忙しくしばらく会えないと電話したが、それは、香子に恐怖を感じたからに他ならない。近藤、そして泉美と立て続けに、中条を殺したは香子だと言われれば不気味に思うのは当然である。
しかし、禁断症状に陥った麻薬患者のように、桜庭の心には、いやもっと正確に言うなら、自身の体内に、如何ともしがたい、じりじりとした焦燥とも渇望とも言えない何かが蠢いていて、桜庭を苛立たせはじめた。
そして、一週間を過ぎたところで、我慢の限界を超えたのだ。桜庭は震える手で香子の携帯番号を押していたのである。携帯から香子のかすれたような声が響く。
「ずっと、ずっと、待ってた。お仕事だから絶対に邪魔してはいけないと思って、ずっと我慢していたの。電話してくれてありがとう」
その声を聞いただけで、既に下半身はぱんぱんに張ってしまって痛いくらいだ。
「ご免、忙しくてどうしても連絡する暇もなかったんだ。今日、会える?」
「勿論よ、ずっと待ってたんですもの。ねえ、お料理作って待ってる。ねえ、何でも言って。食べたいもの、何でも用意するから。肉、それとも魚、ねえ、何か言って、お願い」
桜庭の心には既に恐怖心の欠片も残っていない。愛おしさ、いや、欲望、いやいや、その全てを含んだ熱情であろう。その熱情を前にしては、根拠のないあやふやな恐怖心など吹き飛んでしまう。雌に食われると知ってか知らずか近付いてゆく雄カマキリのように。
既に午前零時を過ぎている。胸の内ポケットが振動し、桜庭は相手に気付かれぬよう携帯のスイッチを切ると、なみなみと注がれたビールを一気に飲み干した。山口先輩は、桜庭のいつもの飲みっぷりの良さに驚嘆しつつ、ホステスの尻をまさぐっている。
今を時めく山口に企画を持ち込めたのは、演劇部の先輩後輩のコネクションがあったからだ。経営陣も桜庭に期待している。もし、失敗すれば期待された分、風当たりが強くなるのは目に見えている。秘密にことを進めていたのだが、上司が会議の席でその場限りの言い逃れのために、この件を上に漏らしてしまった。
桜庭も必死にならざるを得ない。山口先輩は何だかんだと難癖をつけ、企画書を書き換えさせるが、既に一月が経とうとしているにもかかわらず、一向に方向が定まらない。既に最初の企画案など跡形もなく消えうせ、山口の思い込みばかりが一人歩きしている。
そのくせ会議の後の接待では、2時3時まで馬鹿騒ぎを繰り返しているのだ。さすがに切れそうになるのを何とか抑えて、桜庭は男芸者を演じ続けた。とはいえ、この山口も陰に回れば演劇評論家の飯田先生に同じように努めていると思えば、社会の在り様はこん
なものかと妙に納得せざるを得ない。
桜庭は何時開放されるのか分からず、接待用のお追従笑いを浮かべてはいるものの、苛苛と時を過ごしていた。再び携帯が震えて、しかたなく、山口先輩に一礼してバーの外に出た。
「もしもし、桜庭です」
香子の叫ぶ声が響いた。
「助けて、お願い助けて。怖いわ、桜庭さん、早く来て」
「おい、何があったんだ。いったい何が起きた」
「奥さんが、庭のいる。刃物を持っているみたい」
「馬鹿、それならちょうど良い。すぐに警察に電話しろ」
「もうしたわ。でもパトカーがまだ来ないのよ」
「子供はどうした」
「みんなで屋根裏部屋に隠れているの」
「そう言われても、今、大事な接待の真っ最中だ。抜け出すわけにはいかない」
「だって、今、貴方の奥さんがナイフみたいな物を持って、庭をうろついているのよ。私たち親子が殺されかけているのよ。それより、接待が大事だと言うの」
そう言われれば断るわけにはいかない。分かったと言って電話を切った。ディレクターの望月が今夜は徹夜だと言っていたのを思い出したのだ。すぐさま会社に電話を入れた。
「おい、望月、すぐにシャンテに来てくれ。三丁目のシャンテだ。どうせ、仕事は部下に任せて遊んでいるんだろう」
「あれ、桜庭さん。今日は山口先生の接待じゃなかったの」
「その接待中だ。お袋が急病で病院に担ぎこまれた。俺はすぐに駆けつけなければならない。シャンテにいる山口先輩のお守りはお前に任す。頼んだぞ。繰り返すが、山口先輩には、俺のお袋が緊急入院したと言うんだ、分かったな」
桜庭は、山口先輩が売れていない頃、お袋が何かと面倒をみていたのを知っている。売れた今では、そんなことおくびにも出さず、知らん顔を決め込んでいる。そのお袋のことを持ち出せば、急に帰ったと知っても怒らないと踏んだのだ。
桜庭はその場でタクシーを拾った。バーに引き返せば、入院先を聞かれる。運転手に一万円札を握らせ、狛江まで急がせた。さすがに零時を過ぎているものの、首都高に乗るのまで思いのほか混んでおり、いらいらとして何度も時計に目をやった。
タクシーを降りると、3台のパトカーの点滅するライトが桜庭の目に飛び込んできた。ちょうど、泉美が警官に引かれて一台のパトカーに乗り込むところだった。桜庭は、泉美に気付かれぬよう電柱の陰に隠れた。
パトカーが去っても、隣近所の住人が鵜の目鷹の目で玄関のあたりを窺っている。城島は煙草を取り出し、煙草に火をつけた。取り返しのつかない事態なら、警官が立ち去るはずはない。香子も子供も無事だと確信した。次第に野次馬達も諦めてねぐらに戻り始めた。
桜庭がドアベルを押し、家の中に入ると、香子は玄関に立って待っていた。その腰に、二人の子供が抱き付いている。桜庭の出現に、香子は子供の存在を忘れたようだ。一人、飛ぶように桜庭に抱きついてきた。そしておいおいと泣いている。
二人の子供はあっけにとられ、戸惑っている。桜庭は、微笑みかけ、そして手招きした。二人の子供も桜庭に抱き付いてきた。怖かったのであろう。
「よしよし、もう心配ない。おじさんが来たのだから」こう言うと子供はしゃくりあげながら泣き始めた。
その日、子供達を寝かせつけ、二人は愛し合った。今までにない激しい抱擁だった。香子は狂ったように桜庭を求め、桜庭はそれに応えた。異常な興奮が二人を包んでいる。ライトの点滅がまだ二人の網膜から消えてはいなかったのだ。
呼吸を整えながら、桜庭が言った。
「あいつは墓穴を掘った。刑事事件を起こせば、離婚には不利だ。たぶん」
「そうね、離婚届に判を押させるには良いチャンスかもしれない。嬉しい。これであなたと一緒になれるかもしれない」
「ああ、明日、弁護士に相談してみるよ」
「ええ、そうして」
「ところで、二人とも可愛いじゃないか。確か上の子は小学4年生だったよね」
「ええ、香織っていうの。下の子はまだ3歳、詩織よ。二人とも可愛いの。女の子でよかった。私、男の子は嫌い」
「しかし、子供って本当に可愛いな。詩織ちゃん、僕になついて、膝を離れようとしなかった。子供達ともうまくやれそうだ」
「ええ、私もそう思うわ。ふふふふ」
しばらくして香子が聞いた。
「ところで、中条は、どんな学生だったの。大学時代のことは少しも話してくれなかった」
「うん、いい奴だった」
こう言って、桜庭は目を閉じた。過去の厭な思い出に触れたくなかったのだ。びくびくして次の質問を待ったが、香子は黙っている。ふと、耳を澄ますとすーすーと寝息が聞こえた。桜庭も睡魔に襲われ、夢現(ゆめうつつ)のなか、あの事件の情景が浮かんでは消えた。
共犯者の中条翔とは大学の演劇部で知り合った。桜庭がずぼらで大雑把な性格であるのに対し、中条は几帳面で神経質、どう考えても水と油だった。しかし不思議な縁で結ばれていたのか、或いは互いに片親だという共通項があったからか二人は妙に気があった。
大学の4年の夏休み、最後の公演も終わり、二人は九州に卒業旅行に出かけた。その目的はナンパである。桜庭も中条もそちらの方は経験豊富だったが、今回の趣向はナンパした女性の数を競うというものであった。
ルールは簡単だ。駅で降りると二手に分かれる。女性をゲットしたか否かは、ディナーに同伴して互いに確認しあうという方法だ。肉体関係が出来れば、当然態度に出るし、ディナーの後にホテルに行く場合もそれと分かる。
成果は上々だった。何度も失敗はあったが、中条は一週間で三人、桜庭は5人の女をものにし、勝負は桜庭が勝ち、中条から10万円をもぎ取った。いずれにせよ、東京から来た学生というフレーズが、九州の女性には魅力的に聞こえるらしい。
最後は熊本の海辺のホテルに宿泊した。お互い、女に気を使うナンパに疲れ果てていたし、終いには数を稼ごうと、顔やスタイルなどお構いなしでナンパしたため、女に辟易していた。ゆっくりと残りの休暇を過ごすことにしたのだ。
久々に夜更かしもせずに寝たため、二人は朝早めに目覚め、海岸を散歩しようと部屋を出た。エレベーターを降りるとラウンジには誰もいない。桜庭はソファにどっかりと腰を落とすと新聞を広げた。中条はフロントのカウンター内に入って、中を物色していた。
その時、自動ドアが開いて、一人の少女がおどおどしながらホテルに入ってきたのだ。水玉のワンピースに運動靴を履いている。体は細く華奢なのだが胸はたわわに実っていた。顔にはあどけなさが残っている。中条がようやく少女に気付き、少し躊躇していたようだが、カウンター越しに声を掛けた。
「やあ、おはよう。君も早目に起きちゃったの。ここに泊まっているんだろう」
少女はしばらく俯いていたが、小さな唇を動かした。蚊の鳴くような声だ。
「いいえ、家出して、歩き続けて、昨日、眠っていないんです」
予期せぬ返答に、中条はうろたえ、次ぎの言葉を捜していたのだが、なかなか思いつかない。桜庭が引き取った。煮え切らない女には高飛車に出るに限る。
「家はどこなんだ」
「八代です」
「お前、高校生だろう」
この言葉には有無を言わせぬ響きを込めた。少女は消え入るような声で答えた。
「えっ、ええ……」
桜庭は中学生だと踏んでいたのだが、それはこれから起こるかもしれない火遊びの言質を取って置きたかっただけのことだ。これで、まさか中学生だとは思わなかった、という言い訳が出来たことになる。
「後悔してるんだろう。家出したことは」
「はい……」
少女は俯いたまま答えた。恐らく、母親と喧嘩でもして家を飛び出してきたのだろう。そして今は、それを後悔している。そんな雰囲気だ。桜庭は電話番号を聞き出し、少女にキー を渡すと、こう言った。
「家に電話しておいてやる。それに疲れているんだろう。俺達は散歩に行ってくるから部屋で休んでいろ」
桜庭は出口に向かった。少女が深深と頭を下げた。
海岸の波打ち際を歩いた。二人とも黙って歩き続けた。あの少女も、今までものにしてきた女達と変わりはないはずだった。誰もが言葉で拒否しながら、下半身は濡れていた。やってしまえばこっちのものだ。そんな思いが、この旅で得た二人の共通認識だった。
それでも桜庭には躊躇があった。幼過ぎるのである。不安はそこにあった。中条は押し黙り歩いていたが、突然立ち止まって振り返った。そして言った。
「本当に家に電話するのか。やっちまおうぜ、桜庭」
桜庭も立ち止まった。二人は見詰め合った。そして頷きあう。桜庭はくるりと踵を返し、ホテルに向かった。暫く歩くとやはり迷いが生じ、桜庭は中条を振り返った。と、後に続く中条の半パンの前がもっこりと膨らんでいる。もう後戻りは出来ないと思った。
部屋の鍵は掛けられていなかった。二人はこそ泥のように部屋に入っていった。少女はぐっすりと寝入っている。ワンピースの裾がまくれ白いパンティが剥き出しになっていた。そしてその部分がもっこりと膨らんでいる。二人は思わず生唾を飲み込んだ。
二人は目で合図するとそっと近付いていった。桜庭がそっと耳打ちする。
「口説くといっても、こいつはまだ子供で、到底合意に持ち込むなんて無理だ。無理矢理やっちまうしかない」
中条が血走った目で桜庭を見て大きく頷く。
「で、どうする」
桜庭が囁いた。
「お前は脚を押さえろ。脚をばたつかせられたんじゃ、たまったもんじゃない。先ず俺がやる。いいな」
中条は「ああ」と返事したつもりだが、喉がからからに渇いて声には出なかった。
桜庭はそっとベッドに這い上がり、いきなり少女の両手を掴んだ。同時に中条が脚を押さえつける。少女がかっと目を見開いた。そして息を呑んだ。桜庭は一瞬微笑んで少女の顔に唇を寄せた。
「止めてー、お願い、やめてー 」
少女の悲鳴に度肝を抜かれた桜庭は焦りに焦った。中条が声を振り絞る
「桜庭、手で口を押さえろ、手で押さえるんだ。隣に聞こえちまう」
桜庭は「黙れっ」と押し殺した声を発し、少女の唇を手で覆った。少女は顔を左右に振って尚も声をあげようとする。と、中条が脚で蹴られて仰向けに倒れた。壁に頭を打ちつけた中条は、起き上がると少女の臀部を蹴りつけた。少女が苦悶の表情を浮かべ呻く。
桜庭の手から唇がはずれた。少女が声を張り上げる。
「この、獣ー」
桜庭は、今度は「黙れっ」と声を出して言うと、拳で少女の頬を殴りつけた。一瞬、顔が歪んで、少女の顔が横向きとなった。ふくよかな頬がゆらゆらと揺れている。桜庭の獣性に火がついた。そして尚も殴り続けた。
「おい、やめろ、もういい」
中条の声に我に返った。桜庭は血だらけの少女の顎を掴みこう言い放った。
「おとなしくしろ、いいか、おとなしくするんだ。すぐに済む、ちょっとの我慢だ」
少女は体をだらりとさせ抵抗する気力を失っている。少女の頬に一滴涙が零れた。
少女は泣き続けた。ベッドには少女の処女の痕跡が残されている。二人はさっさと用をすませると、ここをどう切り抜けるかを思いあぐねていた。途中で合意をとりつけようと必死になったが、すべて徒労にに終わった。重く暗い現実がそこにあった。
先ほどからため息を繰り返していた中条がおずおずと口を開いた。
「まさか、中学1年生だなんて思わなかった。君だって言ったじゃないか、高校生だって。それに部屋で寝ていたってことは、誘いに乗ったってことだろう。大人の世界ではそれが常識だ。いきなり暴れるからこっちも驚いちゃって……つい……」
桜庭がベッドから立ちあがりながら口添えした。
「そうだよ、男二人の部屋でパンツ丸出して寝ているんだもの、誘っているとしか思えなかった。だから、最初に微笑みかけただろう。あれは、許してくれるんだね、仲良くしようねっていう意味だったんだ。まさか暴れるなんて思わなかったんだ」
桜庭の言葉は少女の軽率さを非難するような響きがある。これを聞いて少女が泣きながら抗議した。
「そんな言い訳、通りわけないじゃない。最初から二人して押さえつけていたじゃない。それって、強姦でしょ。犯罪ってことよ」
二人は押し黙った。何をどう言い繕うと強姦に違いないのだ。この場を何事もなく収めるなど神様でもできやしない。ではどうする。二人は口をつぐむしかなかった。頭を垂れ、反省した振りをして謝るしかないのか。少女の涙声が二人を襲う。
「いい人だと思った。いい人にめぐり合ったと思った。お母さんに電話するって言ってくれた。だから私は安心して寝ていたのに。それをいきなり襲うなんて最低よ。絶対に訴えてやる。警察に訴えてやる」
中条の肩がぴくりと動いたかとおもうと、突然はいつくばり、土下座した。そして声を張り上げた。
「申し訳ない。本当に申し訳なかった。この通り謝る。だから、警察沙汰だけは勘弁してくれ。お願いだ。この通り謝る」
その変わり身の早さに、桜庭は唖然としたのだが、しかたなく桜庭もその横に並んで、頭を床に着けた。突然、少女がドアに向かって走った。中条は、すぐさま立ちあがると後を追って、少女の髪を掴み引き倒した。少女は仰け反って倒れた。
中条が仰向けになった少女に馬乗りになる。両手で首を押さえ込み搾り出すような声を発した。
「殺されたいのか。強情を張ると殺すぞ。本当に殺すぞ」
桜庭には、それが街で喧嘩になると、中条がしょっちゅう言葉にだすこけ脅しだと分かった。しかし、二人にとって不幸だったのは少女がその言葉を本気にしたことだ。恐怖に顔を引き攣らせ、少女が叫び声をあげた。
「誰か助けて、人殺しー、人殺しー。誰かー 」
桜庭が慌ててベッドから飛び降り、少女の口を両手で塞ぐ。少女は激しく首を左右に振る。体全体で抵抗を試みる。両拳で二人の顔を、胸を打ち、爪を立てて肌を裂く、脚は覆いかぶさる中条の後頭部蹴る。口を塞いだ手がずれて、「人殺しー」と叫び声が漏れた。二人の目と目が合う。二人の手は知らず知らず力が入っていった。
少女は死んだ。ぐったりと身動きしない遺体を前に、二人は途方に暮れた。沈黙を破って中条がうめくように言った。
「自首しよう。それしかない」
桜庭は黙っていた。これまでの苦労を思い出していたのだ。受験戦争に勝ち抜いてきた。厳しい就職戦線も何とかクリアした。その苦労がすべて水の泡になってしまう。そんなこ
となど考えられない。桜庭が答えた。
「今までの苦労をふいにしろって言うのか。俺達とは縁もゆかりもない犯罪者と同じ牢獄に入れって言うのか。俺は厭だ。俺はそんな奴等と一緒になるなんて絶対に厭だ」
「だってしょうがないだろう。俺達は犯罪を犯してしまったんだ」
「捨てよう。死体を捨てるんだ。幸い彼女をホテルで見た人間はいない。俺達が彼女を殺害したなんて誰も想像だにしないだろう。ここから少し距離はあるが、自殺の名所となっている崖がある。その崖の上から海に放り込むんだ」
そう言って、中条を睨んだ。中条は目の玉をぎょろぎょろとさせ、うろたえた。桜庭が声を押し殺して言った。
「ここが正念場だ。ここで決断を誤れば、俺達の人生は台無しだ。冷静になれ、冷静になるんだ。誰も見ていないって」
中条はめそめそと泣き出した。深くため息をつき、桜庭が諭すように言った。
「中条、お袋さんのコネでようやく就職が決まったんだろう。お母さんも、喜んで泣いていたって言ってたじゃないか。女手一つで大学まで出してくれた、お母さんのことも少しは考えろ」
そして、桜庭は低いドスの効いた声で言った。
「たとえ崖から落しても、遺体があがれば、その首の痣で、自殺でないことはばれてしまう。万が一、捕まっても、いや、こんなことはありえないけど、お前が殺したなんて、絶対に、口が裂けても、言わない」
中条はうな垂れ、涙ぐんだ。桜庭は、この一言によって、負うべき全責任が中条にあること認識させた。自分のしたことを思いだし、中条は泣き崩れた。そして助けを求めた。
「桜庭君。俺は殺すつもりなどなかった。気がついたら首を絞めていた。まさか、まさか、死ぬなんて。あれは事故だった」
泣き崩れる中条の様子を見て、桜庭はようやく胸を撫で下ろした。
少女の死体はレンタカーのトランクに隠した。そして、その夜、2時間がかりで崖に
たどり着いた。トランクから少女の死体を引きずり出し、二人で崖の上まで運んだ。何度も躓き、死体を放りだした。中条は泣いていた。桜庭は泣きたい気持ちを抑えた。
崖上に立ち、底を覗き込んだ。真っ暗で何も見えない。少女の運動靴とバッグを岩の上に置いた。死体が上がらなければ自殺と判断されるだろう。桜庭が言った。
「さあ、やっちまおう。これで全てが終わる」
「桜庭、これで本当に全てが終わるのだろうか。俺にはそうは思えない」
「もう何も言うな。今朝あったことは、今日かぎり忘れるんだ。それに、いいか、俺たちの部屋に少女がいたことを知っているのは、俺たちだけだ」
「分かった、分かったよ」
こう言って、桜庭は少女の脚を掴んだ。待っていると、中条がのろのろと立ち上がり、両手で少女の頭を持ち上げた。二人は崖の上から、声を合わせ死体を放り投げた。鈍い音が何度も響いた。肉がひき裂かれ、骨が砕ける音なのだ。二人はその場にしゃがみこんだ。
しかし、遺体は一週間後に海岸に打ち上げられた。新聞の片隅に載った捜査本部設置の記事を東京で見て、二人は震え上がった。しかし、捜査の手はとうとう二人には及ばなかったのである。
第四章 決意
泉美が不法侵入で警察に逮捕されたことは、桜庭にとって離婚を有利に運ぶのには好都合に思えた。まして凶器を持っていたとすれば、うまくいけば殺人未遂になるのではないかなどと、桜庭は素人判断を口にしたりした。
しかし二人の甘い期待は裏切られた。泉美が手に持っていたのは凶器ではなく、携帯電話だったのだ。桜庭の携帯に電話し、壁に耳をあて、その呼び出し音を聞こうとしていたらしい。遠目でみれば握っていた金属光沢の携帯はナイフに見えないことはない。
桜庭は香子の親戚を名乗って警察に電話したのだが、その事実を知った時、桜庭はがっくりとうな垂れた。もし、凶器さえ持っていれば、離婚に向けて一歩近付く、そう思っていたのだ。その晩、桜庭は家に帰ると、泉美を怒鳴りつけた。
「貴様、いったい何を考えているんだ。恥ずかしいとは思わないのか。人の家に不法侵入して警察に逮捕されるなんて、何て馬鹿なことをしでかしたんだ」
泉美も負けてはいない。声を押し殺してはいるが、怒りの度合いが数段上だ。
「あの女と別れたなんて嘘だわ。私には分かっているのよ。昨日だって、あの家の中にいたんでしょう。えっ、どうなの、あの中にいたんでしょう」
確かに、泉美が連行された後に、あの家に入ったのだが、その前は銀座にいたのだ。
「馬鹿言え、俺は銀座で接待していたんだ。あの山口先輩を接待していた」
「嘘よ。それなら、何で警察に引き取りに来てくれなかったのよ。とうとう連絡がとれなかったって警察の人が言っていたわ」
「しかたないだろう。山口先輩が3軒目に行きたがった。接待相手を置いて帰ることなんて出来ない。接待が終わったのは午前3時だ。しかたないから、会社で寝たんだ」
泉美が押し黙った。大きく肩で息をしている。桜庭もこれ以上何を言っても無駄であることは分かっていた。泉美は心のバランスを崩していた。桜庭に対する執着は尋常ではない。あの晩、泉美の誘いに乗ったのは間違いだった。眠った子をおこしたようなものだ。泉美がぽつりと呟いた。
「絶対に離婚なんてしてあげない」
桜庭は深い溜息で応えた。泉美が桜庭を睨みすえ、唸るように言った。
「あんなお屋敷に住んで、美人で、あんたが飛びついた理由が分かり過ぎるから、絶対に離婚なんてしてやらない。もっと醜くなって、あんたの奥さんでい続けてやる」
桜庭がかっとなって立ちあがった。殴ってやろうかと思い泉美を見下ろした。肉が歪んで、顔が変形していた。一見したところ、泣きそうなのか、怒っているのか、判然としなかった。しかし、笑っていると知って、桜庭はぞっとしたのだ。悪意に満ちた目は明らかに笑っていたのである。
それからというもの、香子の家に無言電話が日に何回とかかるようになり、注文していないピザや寿司が届き、また男の声で子供の事故を知らせる電話まであったと言う。明らかに泉美の仕業であり、その行為はまさに常軌を逸していた。
或る晩、桜庭は会社を一歩出たとたんぴんときた。見張られている。泉美か、或いは泉美の雇った私立探偵か。そのまま、香子の家に行く予定をすぐさま変更した。下請けの製作会社に電話して担当を呼び出し銀座のバーに直行した。
その店のトイレで香子に電話を入れた。香子はうんざりしたような声で言った。
「貴方の奥さんは異常よ。今日だってお寿司が10人前届いたわよ。何とかして、もう耐えられない。警察に調べてもらったけど、携帯はプリペイドカード式を使っているらしくって、証拠がつかめないらしいの」
「分かった、しかし、『香子が言っていたけど、とんでもない嫌がらせをしていって?』とは聞けないよ。いったい何と言って、あいつを問い詰めたらいいんだ」
「簡単よ、既に別れたけど、元恋人から相談されたって言えばいいじゃないの。私とは別れたんでしょう、一ヶ月も前に。だったら、その人から電話で相談されたって言えば問題はないはずよ」
「そんな嘘を言っても始まらない。恐らく、俺とお前がまだ続いていることを知っていて、意地になって嫌がらせをしているんだ。お前が疲れ果て、俺を諦めるよう仕向けている」
「そんな事出来ない。貴方を諦めるなんて考えられない。何とか離婚できないの。お金なら私が都合つけるわ」
「いや、無理だ。いくら金を積んでも、マンションを譲るといっても絶対に離婚届に判は押さないだろう」
「それじゃあ、どうするの、私はどうすればいいの。一生、日陰者で、あの人の嫌がらせに耐えていかなければならないの」
「分かった、何とかする。だからもう少し待ってくれ。何とかするから」
「何とかするって、何をどうすると言うの。ずっとその繰り返しじゃない。一向に事態は変わっていないわ。何とかする、待ってくれ。その言葉をもう何度聞いたと思っているの」
「そう責めないでくれ、まさか殺すわけにはいかないだろう」
こう言った瞬間、桜庭はごくりと生唾を飲み込んだ。殺すという言葉にリアルな響きがあった。香子も黙り込んでいる。桜庭は頭を激しく振ってその思いを心の奥底に閉じ込めた。
そして自分でも驚くほど苛苛した声で言った。
「とにかく、今日は行けそうもない。それに、何とかする。何とかするつもりだから、もうこれ以上何も言うな」
一瞬、香子は息を呑み、桜庭の怒りをやりすごした。そして静かに言った。
「分かったわ。今日は会えないのね、そのことは諦めるわ。それに、今日は貴方を責めすぎたみたい。本当に、御免なさい」
そう言うと、受話器を置いた。桜庭は携帯を見詰め、大きなため息をついた。見ると便器に吐しゃ物がこびりついている。泉美に対する憎悪がむくむくと膨らんでゆく。
その日から、桜庭の心に殺意が芽生えた。仕事中にも、桜庭の心に住み着いた悪魔が囁く。そうだ、殺してしまおう。それが一番だ。しかし、完全犯罪でなければならない。警察に捕まって、刑務所暮らしなんてまっぴらだ。香子だって愛想尽かすだろう。
泉美の横に座っていても、その囁きは聞こえる。とにかくアリバイだ。それを何とかしなくては。まして香子に俺が殺したと疑わせるのも、今後の幸せな家庭生活の障害になる。香子をアリバイ工作に使うなんてもってのほかだ。では、どうする?
犯罪の臭いのしない事故死が理想的だ。まてよ、などとあれこれ思いを巡らせ、そして最終的に思いついたのが自殺にみせかけた殺人だった。考えに考え抜いたのだ。
「何、考え事しているのよ」
泉美の声に驚いて、桜庭は我に返った。その日は、いつものように遅く帰ったのだが、めずらしく泉美は起きていた。桜庭は素面で寝室に入る気がせず、ソファーに腰掛けウイスキーを飲んでいた。その横で、泉美はピーナツを口に放り込みながら、テレビを見ていたのだ。
「いいや、何も考えてはいない。ただ、ぼーっとしていただけだ」
泉美がにやにやしながら言った。
「この女、死んでくれねえかな、なんて思っていたんじゃない。どお、図星でしょ。ねえ、いっそ殺したら。包丁持って来てやろうか、台所から」
「馬鹿なことを言うんじゃない。俺を犯罪者にしたいのか、お前は」
憎悪と怒りが頭の中で渦巻いているが、そんなことおくびにも出さず答えた。殺意を気付かれては完全犯罪なんて出来るはずもない。桜庭は立ち上がりながら、言った。
「少し夜風にでも当たって酔いを醒ましてくる。先に休んでいなさい」
泉美のこめかみに血管が浮く。
「あんたに言われなくても寝るわよ。ふん」
あれを期待して起きていたのは確かだ。桜庭は、だぶついた肉を揺すりながら歩いてゆく後姿を眺め、背筋に悪寒が走った。ドアを閉めるバタンという音が二人の居た空間を引き裂いた。
15階建てのマンションの屋上から下を眺めた。深夜だというのに、春日通りはヘッドライトの流れが川のように暗闇に帯をなす。交通量はまずまずだ。ドライバーは、誰かが歩道に落ちてくれば、気付かないはずはない。
問題は泉美を屋上に何と言って呼び出すかだ。「おい、屋上に来て見ろ。星が綺麗だぞ、なんて言おうものなら、すぐさま見抜かれて「私をそこから突き落とすつもりなの」などと厭味を言われかねない。まあ、それはいい。それより、問題は上野のことだ。
既に上野と接触し、泉美殺害の手はずは整えてある。上野は大学の演劇部の後輩で、資産家の一人息子だったが、バブル期に不動産に手を出し、今は零落している。問題は上野の口の軽さだ。絶対に秘密は守ると言っているが、これが信用ならないのだ。
上野は気が弱く、力もない。もしかしたら力なら泉美の方が強いかもしれない。その上野が脅迫者にならないとも限らないのだ。報酬の一千万円など、すぐに使い切ってしまうだろう。その後が問題なのだ。
巷で話題になっている、4、50万で殺しを請け負う東南アジア系の殺し屋とのコネクションはないが、いずれ手蔓を探す必要がある。上野が脅迫者に豹変する前にコストの安い殺し屋見つけ出し、そして上野も殺す。桜庭はそう決意した。
実行の日は、来週の金曜日だ。手はずはこうだ。桜庭はいつものように午前零時に帰宅する。そして、今日のように屋上で酔いを醒ますといって部屋を出る。屋上には行かず1Fの24時間営業のジョナサンに入る。そこで酔い覚ましのコヒーを飲む。
桜庭が携帯で泉美を屋上までおびき寄せる。屋上には桜庭の靴が揃えて置いてあり、それを見て泉美は桜庭がビルから飛び降りたと思い、手すり越しに下を覗きこむ。上野はその後ろから近付き用意したブロックで後頭部を殴打し、靴を脱がせ、屋上から突き落とす。そして桜庭の靴を泉美のそれに置き換える。
桜庭は、今か今かと窓越しに春日通りを見詰めている。そこに、どさっと人間が降ってくる。そこで「おい、人間が上から降ってきた」と騒ぐのだ。何人ものアリバイの証言者と店を出て、遺体を取り囲む。ふと、気付く振りをして遺体にすがりつき、「何故だー、泉美― 」と泣き崩れる。これほど完璧なストーリーはない。桜庭は自殺の目撃者なのだから。
その日はとうとうやってきた。朝から何も手につかず仕事どころではない。時間をもてあまし、苛苛と過ごした。仕事が終わり、飲んで帰らなければならないのだが、行く先はいくらでもあるのに、今日に限ってどこも気が進まない。
桜庭は、気を静めるために歩くことにした。東銀座から晴海へ、晴海から銀座へ、どこをどう歩いたか記憶にない。酒の自動販売機を見つけると、ワンカップを買って一気に飲んだ。へべれけになるまで飲みまくった。
自宅のある後楽園まではタクシーを利用した。泉美は起きているだろうか。起きていればそれはそれでいい。寝ていれば酔った振りをして起こす。前後不覚になって、もしかしたら抱いてくれるかもしれないと期待を抱かせるのだ。
そして、いつものように屋上で酔いを醒ましてくると言う。今日は泉美を誘うか台詞も考えていた。ドアベルを鳴らす。どさどさという泉美の足音が聞こえる。どうやら起きているらしい。ドアが開き、ふてぶてしい泉美の顔が覗く。
桜庭は、叫んだ。「おい、俺の人生もこれで終わりだ。福岡支店に左遷が決まった。ラインから外されたんだ。もう、終わりだ」
泉美が素っ頓狂な声で答えた。
「どうして、何か失敗でもしたの。いったいどうしたと言うのよ」
「山口先輩に、してやられた。俺の企画を蹴って電通に鞍替えしやがった。俺は赤っ恥をかかされたんだ。ちくしょう、山口の野郎。殺してやりたい」
「それで左遷というわけ? 」
「ああ、その通りだ。経営陣も期待していた企画だ。もう、俺は死ぬっきゃない。福岡支店なんて真っ平だ」
「私は福岡行ってみたいわ。福岡に支店を出すのよ。いい考えだわ。違う所で生活するのも悪くはないもの」
「冗談じゃない。九州に左遷されて戻ってきた奴なんていない。支店とは名ばかりの10人たらずしかいないし、それにもましてせこいビルだ。生きがいも糞もない。小さな仕事を御用聞きみたいに取ってくるだけだ。くそ、冗談じゃない」
桜庭はカバンを投げ捨て、玄関に取って返した。エレベーターに乗って一階のジョナサンに直行だ。動悸が高鳴る。上野はどうしているだろう。そのことばかりが気になって呼吸が苦しくなる。ジョナサンでコーヒーを注文する。そして携帯で上野にサインを送る。
呼び出し音を三回鳴らして切る。ジョナサンで席を確保したという合図だ。そして、
泉美に電話を入れる。
「もしもし、俺だ」
「どうしたの、もう酔いが冷めたの」
「いや、そういうわけじゃない……。そうじゃない……。と言うか……俺はもう駄目だ。このまま、死ぬ。この屋上から飛び降りて死ぬ」
「あんた、冗談言っているんでしょう。いい加減にしてよ。もう眠るんだから」
「ああ、分かった。あばよ、またいい男を捕まえろ。じゃあな」
そこで電話を切った。後は待つだけだ。じっと春日通りに面した窓に目を凝らす。
じりじりと待った。目を凝らした。塵一つ落ちては来ない。20分ほど経ったろうか、ふと、上野がジョナサンの入り口に立っているのを見て、桜庭はぎょっとなった。上野が桜庭を見つけ近付いてくる。凝視する桜庭の目には、その歩みは、まるでスローモーションのように映った。「いったい何が起こったというのだ」桜庭が心の内で叫んだ。
席に着くなり上野が声を殺して言った。
「桜庭、お前の女房は屋上に来なかった。俺は15分待った。だが、これ以上待ったところで来るはずもない。だから非常階段で降りてきた。だがな、桜庭」
ここで言葉を切り、桜庭の目を覗き込みながら続けた。
「約束は約束だ。金は返さん。お前はこう言ったはずだ。不慮の事故が起きて殺せなかったとしても、それはそれで仕方がないってな。お前の女房が来なかったというのは、これは不慮の事故だ。お前の女房は、自分で考えているほど、お前のことを心配していなかった」
俯いたまま、弱弱しい声で答えた。
「ああ、分かっている。金のことはそれでいい。兎に角、もう一度、計画を練り直さなければならない」
緊張の糸がぷつんと切れるとともに、落胆は桜庭の思考力をねこぞぎ奪ってしまったらしく、何の考えも浮かばない。そして次に続く上野の一言は、桜庭に計画の頓挫を思い知らすことになる。その言葉とはこうである。
「俺は、やることはやった。だから、もうご免だ。もし別の計画をたてるのだったら、別の男を捜せ。兎に角、俺は、やることをやって、お前との約束は果たしたんだ」
マンションの部屋に戻ると、泉美の壮大な鼾が天井を揺るがしていた。
翌朝、桜庭は何事もなかったように新聞を読み、トーストを齧る。泉美が淹れてくれたコーヒーを一口飲み、
「おい、濃すぎるぞ。苦くて飲めねえよ」
と言って、いつもの重苦しい沈黙を振り払い、会話のきっかけを作った。
「私は濃い目が好きなの。苦いと思うなら、少しお湯で割ればいいでしょう」
「それより、お前は冷たいな。俺は本当に自殺するっきゃないと思っていたんだぞ。屋上の手すりを越えて、何度も春日通りにジャンプしかけたんだ」
「あんたが自殺するだって?冗談言っているんじゃないわよ。あんたはどんなに間違っても自殺するような男じゃないわ。それより、いつから行くの、福岡へ。私、先に行って良い物件を探そうと思っているの」
「おい、お前、本気なのか。冗談じゃねえぞ。福岡支社に行くくらいなら、俺は会社を辞める。だってそうだろう。あそこは言ってみれば姥捨て山なんだ」
うだうだと言葉を発しながら、桜庭は、福岡支社左遷という嘘をどう収めるか考えていた。
泉美が自殺したのは頓挫したあの殺人計画から一月ほど経ってからだ。マンションの屋上から飛び降りたのである。帰宅の遅い夫に苛立って、発作的に屋上に駆け上ったらしい。階段で擦れ違った隣の主婦が、「自殺するだ」と口走ったのを聞いている。
桜庭は、その日は、深夜まで山口を接待した後、タクシーで香子の家に行って泊まった。そして、翌日、帰宅して泉美の死を知ったのである。警察で遺体と対面した。顔が潰れてぐしゃぐしゃだった。主婦の証言から、自殺しか考えられず、取調べもなかった。
しかし、どう考えても納得出来ない事実が二つあった。一つは、泉美が言ったという「自殺するだ」という言葉である。泉美は出身こそ宮城県だが、東京の暮らしの方が長く、そんな方言のきつい言葉を吐くとは思えないということである。或いは、かっとして思わず出てしまったとも考えられるが、多少疑問が残る。
今一つは、泉美の自殺そのものだ。桜庭は、その性格を知り抜いていた。他人を責めても決して自らを責めたり省みることのない女。絶望より先に、その原因がたとえ自分にあったとしても、そのきっかけを作った人間に怒りを爆発させる人間。それが泉美だからだ。自殺など考えられなかった。
桜庭はマンションを売って、香子の屋敷に移り住んだ。木の香りに満ちた豪華な屋敷、若くて美人の妻、まるで夢のような生活だった。子供はすぐになついた。香子との新婚生活は刺激的で、屋敷の門をくぐった時から下半身が心地良く疼く。
泉美の言っていたことも経験した。香子は家事が嫌いだった。食事はつくるものの、後片付けと皿洗いを桜庭にせがんだ。
「お願い、ねえ、お願いよ」
そう言って哀願する香子には、確かに逆らい難かった。何度か繰返して、とうとう後片付けは桜庭の仕事になったのである。
哀願する香子の顔を思い浮かべ、思わず吹き出した。あれが、泉美の言っていた人を自由に動かす不思議な力なのだと分かって可笑しかったのだ。桜庭は皿をスポンジで洗いながら声を出して笑った。居間の方で声がする。
「ねえ、何を笑っているの。ねえ、どうしたの」
「何でもないよ。ちょっと思い出し笑いをしていたんだ」
「何よ、気持ち悪い」
「それより、先に子供達を風呂に入れたら。さっき、風呂のスイッチを入れておいたから、もう沸いているぞ」
「何言っているのよ。食べたばっかりでお風呂に入ってはいけないのよ。お風呂に入ると血液が体全体に回って胃の方が手薄になって消化不良になってしまうの」
「ほう、そうかいそうかい。分かりました、分かりました。ゆっくり休んでから入って下さい、お、く、さ、ま」
そう言いながら、桜庭は幸せを噛み締めていた。心の中で泉美に語り掛けた。死んでくれて有難う。お前の分まで生きてやるよ、と 。
最終章 復讐
忙しい一日が終わろうとしていた。会議を終え部長室に戻ると、コンピュータ画面を開き、今日のスケヂュールをチェックする。4時半に山口の紹介だというカメラマンが作品を持ち込むことになっている。約束の時間まで30分ある。桜庭は部屋を出た。
桜庭は制作室が好きだった。そこには自由な雰囲気が漂っており、皆、仕事をしているのか遊んでいるのか判然としない。制作マンは発想が全てであり、それには自由が一番というわけだ。実を言うと、桜庭は入社当時、希望が叶い制作マンとしてスタートした。
ここには、失われた青春の苦い思いが未だ漂っていた。入社2年目で営業にまわされた時の悔しさは忘れられない。いっそ辞めようかと思ったほどだ。そこで歯を食いしばったおかげで、今は営業のトップ。目を閉じ感慨に耽っていると、突然、大きな笑い声が響いた。見ると、一角で、志村が回りを巻き込んで騒いでいる。
志村は大手製薬メーカーの会長の孫で、コピーライターとして縁故採用された。どう読んでも独創性のないコピーに辟易しながら、それを誉める自分にうんざりしていたのだが、相手が有力者の孫ではどうしようもない。
お追従を言おうと近付いた。満面の笑みを浮かべて、話しかけた。
「何を騒いでいるんです。またインターネットで何か面白いものでも見つけたんですか?」
志村が振りかえり、答えた。
「これ見てくださいよ、部長。このコピー勉強になりますよ。いいですか、『女の園にようこそ。女のアレの成長をご覧にいれます。ゼロ歳から70歳まで。人生そのものです。』どうです、絶対に見たくなりますよね」
「どういう意味だ。女の成長って何なんだろう? 」
「あれって言ったら、あれしかないでしょう。ようし、クレジットでOK」
志村はクレジットカードをリーダーに通した。画面が変わり、赤ん坊の顔が映し出された。
それが徐々に成長してゆく。志村が叫んだ。
「何だよ、これ、期待させやがって。アレってのは女の顔じゃねえか。なんだよー、がっかりかりさせやがって。……。しかし、すごいな、これ実写じゃん」
禿げ頭のデザイナーの福田が答えた。
「いや、いくらなんでも実写なんてあり得ないよ。絶対にコンピュータグラフィックだって」
志村は画面を食い入るように見詰め、頭を振った。
「いや、これは実写だ。製作者は狂人だ。同じ場所に毎日子供を固定して同じ角度から撮っている。こいつは気違の作品だ」
桜庭も目を奪われた。どうみてもコンピューターグラフィックとは思えない。誰が何故こんな馬鹿げた実写を撮り続けたのか。桜庭は子供の顔が徐々に変化してゆくさまを眺めた。日々成長してゆくのが分かる。顔の大きさも徐々に大きくなってゆく。
その顔に見入っていた桜庭は、思わず後ずさりして、へたりこんだ。脚の力が一瞬にして抜けてしまったのだ。志村が桜庭に視線を落として声を掛けた。
「どうしたんです、部長。大丈夫ですか?」
桜庭は肩で息をしながら立ちあがった。
「大丈夫だ。ちょっと目眩がした。もう、大丈夫」
そう言うと逃げるように制作室を後にした。
ようやく部長室に辿りつき、どっかりと椅子に腰掛けた。息が苦しく、動悸が高鳴った。ショックで息がつまるかと思った。しかし、他人の空似に違いなかった。そんなことはあり得ない。そう思うことで、自分を納得させた。
秘書がインターフォンで来客を告げた。桜庭は気を取り直し、ネクタイを直した。コンピューター画面に見入る振りをする。ドアが開かれ、訪問者が顔を覗かせた。画面から視線を訪問者に向ける。そこで鷹揚に……。
桜庭の背筋の芯に慄然が走った。死んだはずの中条が顔を覗かせ、にんまりとして微笑んでいるのだ。桜庭は呆然として唇を震わせながら言った。
「お前は死んだはずだ、な、な、何故……」
と、絶句し、まるで幽霊にでも出会ったように驚愕の眼で中条を見詰めた。次第にその顔は恐怖で引き攣り、体はがたがたと震え出した。中条は桜庭の反応に途方にくれ、秘書の方を向いて言った。
「おい、おい、俺が死んだなんて誰から聞いたんだ。それに何故そんなに驚いているんだ。こちらの秘書の方に電話して、俺の名前を言ったはずだ。ねえ、秘書のお姉さん、名前を名乗ったよね」
桜庭に話しかけられ、秘書は不審そうに立ち上がると部屋に入って来た。秘書は思わず手を口に手を当てた。桜庭の異変に気付き、声を掛けた。
「部長、どうなさったのです。中条様です。サンコー産業の中条課長です。アポイントは頂いております。部長にもそう申し上げました」
桜庭は椅子から立ち上がり、狂ったように叫ぶ。
「貴様は死んだはずだ」
そして、よろよろと中条から逃げようとするのだが、足元がおぼつかない。はずみに机の上の水差しを倒し、水差しは床に落ちて粉々に砕けた。その瞬間に水を打ったような静寂が訪れたのだ。
この時、全てが止まったのだ。秘書も、中条も、ぴたりと動かなくなった。桜庭は何事かと、あたりを見回した。窓から外を見下ろすと、全てが止まっている。人々の踏み込んだ足は途中で止まり微動だにしない。黄色信号を走りぬけようとした車は交差点の真ん中で静止したままだ。静寂が世界を支配していた。
その世界でただ一つ動き出した人間がいる。中条である。最初ぴくりと体が動いた。そして両手で顔を覆う。体全体が震え出した。注視すると中条の顔が膨張している。両手で押さえつけるが、全く無駄な足掻きだ。ぴしっ、ぴしっと肌が破れ、血が滲む。
「ぎゃー」
絶叫が部屋全体にこだました。ぱっと血が散って肉片と砕けた骨が飛んだ。風船が破裂するように中条の顔がぱかっと破裂したのだ。唖然と目を剥く桜庭の視線が捉えたのは、小さな顔である。よく見るとそれは赤ん坊の顔で、それは大きな体の上にちょこんと乗っている。
両の手がゆっくりと動いてその顔にこびりついた血を拭う。小さな顔は皺だらけで産毛が蛍光灯の光に反射してうっすらと浮かび上がった。生まれたての赤ん坊にしては大きな目が桜庭を睨んでいる。その小さな唇がゆっくりと動いた。歯はまだ生えていない。
「どうした、桜庭、何をびくついている」
老婆のようなひび割れた声が響いた。
驚愕に眼を剥き、恐怖が歯を鳴らす。さわさわという感覚が体中に飛び火し、体ががたがたと震えていた。桜庭が絶叫した。
「これはいったいどうなっているんだー 」
赤ん坊はただ笑っているだけだ。桜庭は声を張り上げたが、殆ど泣き声になっている。
「いったい、何が起こったたんだ。どうなっているんだ」
小さな唇が僅かに開かれ、奈落の底から響いてくるような不気味な笑い声が聞こえてくる。それが次第にけたたましい笑い声に変わった。桜庭のうろたえ恐れる様子を心から楽しん
でいるようだ。突然、赤ん坊の怒鳴り声が響いた。
「何故、志村が探し出したインターネットの映像を最後まで見なかった。顔が成長していたはずだ。詩織、香織までは見たんだろう。えー、お前もそこまではみたはずだ。何故、最後まで見なかった。現実を認めたくないのだろうが、これが現実なんだ。見せてやろう」
赤ん坊の顔は見る見る成長してゆく。徐々に大きくなって、目鼻立ちがしっかりとしていった。最初、詩織の顔になった。次ぎに香織、そして、桜庭は悲鳴を上げた。恐怖で気が狂いそうだった。身の毛がよだった。
あの少女だ。熊本で殺したあの少女の顔がそこにあった。桜庭が中条と二人で、抱きかかえて崖上から海に投げ込んだ、あの少女だった。少女がにやりとして、あのしわがれた声で言った。
「私の世界にようこそ、桜庭。この瞬間がくるのを待っていたよ」
桜庭は恐怖で失禁してしまった。涙と洟で濡れた唇を動かした。
「ここはどこなんだ」
「ここは、私が死んだ場所だ。あのホテルはとうに取り壊され、今は別のホテルが建ち、ここはその壁の中、地上1メートルの所だ」
「地上1メートルだって」
「そうだ、空に生じた歪み、塵ほどの大きさもない、亜空間だ。現世と来世のちょうど境目に出来た私の城だ。境目にはあやふやな領域がある。私の憎悪と復讐心がその領域の空を歪ませて、この世界を作った」
「何を言っているんだ。さっぱり分からない。私はこの世の人間だ、こんな訳の分からぬ世界には用はない。さあ、帰してくれ。お願いだ、元の世界に俺を戻してくれ。頼む」
「いいや、お前はこの世界の住人だ。私とお前、そしてここで私の胴体を形作っている篠田。この世界には、この3人しかいない」
「馬鹿な、そんな馬鹿な、俺は40年も生きてきた。それがすべて幻とでもいうのか。この目の前にある俺のこの手も幻とでも言うのか」
「なにー、お前の手だって、手がどうした」
目の前にかざした手が、指先から砂が零れように崩れていった。
「ぎゃー」
世界が崩れてゆく。桜庭が40年生きてきた世界が一瞬にして崩壊したのだ。桜庭は気が狂ったと思った。目を閉じ、ひくひくとと震えながら狂気が去るのを待った。こんな現実などありあえない。悪い夢だ、幻覚をみているのだ。
十分に落ち着いたつもりで、恐る恐る目を開けた。目の前には自分の手が見える。ほっとして視線を上げて、再び桜庭は悲鳴をあげた。まだ少女が憎悪を剥き出しにして睨んでいたからだ。絶望とともに桜庭が叫んだ。
「俺の人生は何だったんだ。40年の俺の人生は幻で、あんたの復讐のために、この瞬間のためにだけあったとでも言うのか」
「お前の人生なんて私が吹き込んだ記憶に過ぎない。今回、お前の人生の始まりは、あの時効成立の時だ。あの時計が零時をさした瞬間から始まったに過ぎない」
「それじゃあ、この会社の連中も存在しないのか。志村もデザイナーの福田も幻なのか。」
「そうだ、お前の記憶を借りて、お前の心に映し出した幻だ」
「泉美も、香子もそうなのか」
突然、少女の顔が目まぐるしく動き、成長していった。動きが止まって、女が桜庭に微笑んだ。桜庭は悲鳴をあげた。香子だ。香子もあの少女が歳を重ねた女だったのだ。
またしても顔が動き、徐々に太り出した、ふくよかな顔になってゆく。少しづつ印象が違ってきた。そして止まった。銀座のバーで出会った頃の泉美だ。それを見て、桜庭は一際大きな声をだして泣きだした。
顔は急激に太っていった。その変化は桜庭も知っていた。一緒に暮らしていたからだ。突然、顔がぐしゃっと潰れた。桜庭は正視できずに、顔を両手で覆った。そして迷子になった子供が母親を捜して泣くように、しゃくりあげながら母を呼んだ。
「お母さん、お母さん。助けて、助けて、お母さん。こんなの現実じゃあない」
「桜庭、見ろ、私を見るんだ。現実を見せてやる」
見ると、泉美の顔が急激に動いて痩せてゆく。皺が増えて、最後には桜庭の母親になった。我を忘れて叫んだ。
「お母さん、助けて、ここから連れ出して、頼む」
桜庭の一縷の望みは、裏切られた。母親の口からあのしわがれた声が響いたのだ。
「私はお前の母親ではない。本当の母親の記憶は消してやった。お前がこの世で唯一愛した女だったからな」
こう言うとけたたましく笑い続けた。
桜庭は体中の力が抜けた。もはやこの現実を受け入れざるを得ない。ハンカチを取り出し涙と洟を拭い、心を静めた。あのしわがれ声の主に交渉するしかないのかもしれないと覚悟を決めた。桜庭は震えながら聞いた。
「本当の私の人生はどうなってしまったんですか」
「お前は、6年前に死んだ。本来であればあの世に戻って次ぎの出番を待っていればよかった。だが、私がそれを阻止した。中条も同じだ。中条はもう少しで自分の創った地獄から抜け出す寸前だった。それを私が掻っさらった。私の創った地獄に引き込んだ」
「私はどんな人生を送ったのです」
「社会的に成功し、老後は孫達に慕われ、好々爺を演じきった。幸せな一生だった。葬式の時は、みんな泣いていた。死して後、そんなお前を待っていたのが、この地獄だったとは、誰一人想像だにしなかっただろう」
桜庭は糸口を探していた。何とかこの世界から逃げ出さなければ。
「ところで、さっきから言っている、空って何です。」
「全てを包み込み、全てを生じさせている本源だ。宇宙そのものだ。私はその空の一部を我が世界に変えた。死んでも死に切れなかったからだ。お前たち二人がのうのうと生きて行くことをどうしても我慢がならなかったからだ」
桜庭は、やはりという思いを抱いた。やはり、少女の怒りや恨みを解消するしかないのだ。そうとなれば話は早い。
「お嬢さん、あれは事故だったんです。それに私は貴方に手をかけていません。あの時、貴方の首を絞めた中条なんです。私はただ口を塞いでいただけです。もしそれで貴方の気が済むのであれば、謝ります。本当に申し訳ありませんでした」
そう言って桜庭は土下座した。大きな溜息が聞こえた。その溜息の意味を探ろうと視線を上げた。桜庭はその光景を見て、恐怖に打ち震え悲鳴を上げた。
5人の女達が桜庭を睨んでいる。詩織、香織、香子、泉美、そして母親である。桜庭が心から愛した女達だった。全員が口を揃えて言い放った。
「お前は、まだこの世界から出られない。今一つ試練が残っている。私が味わった死の恐怖が残されている」
母親が大股で近付き桜庭の左肩つかむと、窓辺まで引きずっていった。桜庭は必死で抵抗を試みたが、その力はこの世のものではない。桜庭の右手つかみレバーを握らせ、窓のガラス戸を開けさせた。
詩織は机に駆け上りぴょんと飛んで桜庭の首にしがみついた。香織は桜庭の右足を持ち上げ、香子と泉美が尻を押し上げた。桜庭は一瞬の出来事にあっけにとられた。首が窓の外に出た。15階から見下して、恐怖に身の毛が弥立った。
首にしがみ付いていた詩織が両手に力を込めて首を後に向けた。桜庭は中条に向かって涙ながらに助けを求めたのだが声はでない。中条が呆然と見詰めている。秘書が叫んだ。
「どうなさったのです、部長。止めて下さい。……」
必死で握っていた窓のレバーを香子が指の一本一本剥がしてゆく。レバーから手が離れた。桜庭は奈落の底を見た。女達が桜庭の体をビルの外に放り出したのだ。地面に向って落ちてゆく。悲痛な叫びも、何かをつかもうとする努力も空しく、桜庭は奈落の底に落ちていった。
へたりこむ秘書に向って中条が言った。
「申し訳ないが、私はこれでお暇します。あんたも見ていただろう。俺は何もしていない。あいつが勝手に飛び降りたんだ。俺はこの事件とは何も関わりはない」
秘書は、顔面蒼白でただ頷いていた。中条はその場から必死で逃れた。その後姿を見送りながら、秘書がにやりとして呟いた。あのしわがれた声だ。
「中条、今度は、また、お前の番だ」
怨時空