人形

私のもとに一体の人形が届いて……

 小学生の頃、工作の授業で絵を描く時、それも絵の具で色を塗る時。あの時はなぜだかとても緊張した。
 初めは私が小心者だからなのかと思っていた。
 机は掃除の時のように教室の後ろへよせて、床に新聞紙を敷き、各々その上に画板を置き、画用紙に絵を描いていた。
 プラスチックのパレットの上に色を作ったものの、どうしても最初の一筆を紙の上に置けない。なんだか恥ずかしいような、不安ではないドキドキが心の中を占めていた。
 ふと、隣を見れば同じように最初の一筆をためらうクラスメイトの姿があった。
「なんだか始めって緊張するよね」
 言われて、ああ私だけじゃないんだって、安堵した。
 だけど今は違う。
 緊張のあまり過去の記憶がよみがえってきたが「あの頃はよかった」と思うだけで安心も踏ん切りも付かない。背を押すにしてはあまりにも弱い思い出だ。
 私が今手にしているのはあの時の毛がすぐに抜ける筆ではない。小ぶりなノコギリである。
 やはり床の上に新聞紙を敷いて作業しているのだが、新聞紙の上に置かれているのはヒトガタである。

 学生時代に精神を崩してからというもの、ろくな職に就くことができず、唯一できたことと言えば洋裁で、家で細々と洋服を作ってはそれを手作りショップに委託販売をお願いしたり、インターネット上で販売したりと、決して安定した収入が得られるというわけではなかったが、一人で食べていく分と、通院代は賄えるくらいは稼ぐことができた。
 後期がもう少しで終わるという冬のこと、突然の高熱と吐き気で二~三日寝込んでから気が付くと私は拒食症になっていたのだ。三か月で五キロ減り、カウンセリングに行けるようになるまで五カ月、病院に通い始めたのは体調を崩してから九か月も経っていた。
 薬でなんとか拒食の症状は緩和されたが、いまだに鬱と社会不安障害的な部分は抜けていない。
 洋服を作り始めれば作業に没頭するだけの集中力は発揮できるのだが、そこに至るまでの道のりは容易ではない。とりあえず朝起きることが辛い。朝日が憎くてしょうがない。朝日はセロトニンの分泌を促してくれるようだが、私の脳はすでに馬鹿になっているようなものなのでどうやら幸福ホルモンを作ってくれないようだ。あと、次回作を考えるのも鬱である。そしてなにより材料の買い出しである。
 あれこれと布やレース、資材を見ているのは楽しいのだが、買いに行くまでには電車に乗らなければならなかったり、レジが混雑していると貧血を起こしてしまうのだ。
 そんな調子でよくもまあ、今の仕事も続けられていると思うのだが、続けなければ食べていけないのだ。実家に帰ろうとも思ったが、就職できる見込みがなく、ただのニートやひきこもりになってしまうと思い、鞭を打つように動かしているのだ。私が動かしているのはミシンではない。私自身だ。
 そんな中、突然仕事が舞い込んできたのは夏の暑さも峠を越した頃だった。
 インターネットなどで取引をしていると、常にメールをチェックしていなければならない。その中に「仕事のご依頼」というタイトルのメールが紛れ込んでいた。
 人から仕事を受けることはそう珍しいことではない。世の中にはいろんな体格の人がいるのに対して、供給されるサイズの幅が狭いのが日本である。そういった少ないサイズの服を作るというのは少なくはなかったし、今回もそういった内容であろうと思った。
 そうではなかった。

 ノコギリで削ったとして、元通りにできるような自信はなかった。すべては頭の中でシミュレートしただけだ。だが、前金ももらっている以上、「できませんでした」ではすまされないような気がして、膝の皿部分にノコギリの歯を置いた。

 ――私は日本人形専門店で働いている者です。普段はお洋服を作られているそうですが、K子氏から、手が器用で大抵のことならできるのではないか? というお話をお聞きしました。突然の話で申し訳ないのですが、当店に個人作の球体関節人形があります。有名作家が作ったような高いものではありません。むしろ無名です。私が働き始める前からこのお店にあったようで、倉庫の段ボールの中から先日見つけ出しました。ついては、新しい服を着せて店頭に展示しようかと思っているのです。誰かこのような人形の洋服を作れそうな方はいないかということで、探していたところK子氏からあなたのことを教えてもらいました。材料費はこちらで負担いたしますので、どうか作っていただけないでしょうか? お返事はいつでも構いません。急ぎではありませんのでお手すきの際に。

Nより――

 という内容であった。
 K子氏というのは、同業者で何度かメールでやりとりをした人物である。
 K子氏はすでに結婚していて、内職程度で洋服を仕立てているようだが、それなら彼女自身が作ったらよいのではないだろうか? と始めは思った。だが、主婦となると時間が自由にならないのだろうか? よくわからない。
 人形の服の依頼は初めてだった。昔は遊びでビニル人形の服をフェルトなんかで作っていたのだが本格的に作るようになってからは人形の服など作ったことがない。しかも球体関節人形というのはどのくらいの大きさなのだろうか?
 有名人形作家の名前や作品など、たまに本などで見かけたりはするものの、実際の大きさは様々で、一体どのくらいのサイズの人形なのかメールの文面からはわからない。
 さっそくそれも含めて返信してみることにした。
 ――仕事のご依頼ありがとうございます。今まで人形の服を作ったことがないのですが、それでもよければ作らせていただきたいと思います。それにあたって、着せたい洋服のイメージ(ドレスなのか、普通のお洋服なのか、色ですとか)細かい部分を教えていただければと思います。あと、大きさはどれくらいのサイズになりますでしょうか? 子供服程度サイズで大丈夫でしょうか? こちらも急ぎではありませんので、暇な時にでもメールをいただければと思います――

 二日後返事が届いた。

 ――返信が遅れて申し訳ありません。人形の服はあまりゴテゴテにならない程度のドレスにしてもらいたいです(漠然としたイメージで分かりにくいでしょうか?)色もあまり目立たない色でお願いします。人形の大きさについてですが写真を添付しようと思ったのですがそれではサイズはわかりにくいですよね。身長は約一メートルくらいです。ご迷惑でなければ直接人形をお送りいたしますよ。そのほうがサイズもピッタリに作れると思いますし、人形の雰囲気に合ったものが作れると思いますので。送っても大丈夫でしょうか?――

 普段、ネットなどの取引でこちらの住所などは相手に教えたりしているので、住所を教えることに関しては抵抗はなかった。驚いたのは人形の身長が一メートルあることであった。そんな大きな人形と言ったら、デパートなんかの子供マネキンくらいでしか見たことがないかもしれない。
 あれくらいの大きさのものを奥となると少々スペースが心配になったが、球体関節人形であれば動くはずだし、座らせておくことができるだろう。だとしたら、寸法を取り終わって作業してる間はベッドに置いていれば問題はないだろう。寝る時は裁断スペースは広くとってあるのでその上に置いておけばいい。
 さっそく、人形を送ってもらう旨を書いてメールを送信した。

 当初、着払いで頼んでいたのだが、「仕事を頼むのにそれはできません」ということで送料はNさんが払ってくれることになった。
 人形はそんなやりとりから一週間後に届いた。どうやら送るための箱を見繕うのに苦労したようである。なんせ一メートルの人形だし、こわれものである。慎重にならなければならない。
 私は「一メートル」という概念にとらわれて、長い段ボールが届くかと思ったら、宅配の若いお兄さんが持ってきたのはミカン箱より多少大きい程度で平べったい箱だった。それでいて予想以上に軽い。
 別な品だっただろうかと送り主を見るとNさんで間違いない。
 この時、私は今までしたことのない新しい仕事ということに気をとられて、本当はいたずらではないか? 怪しいものが送られてくるのではないか? という疑念をまったく持ち合わせていなかった。思い返すと身震いがする。
 ガムテープで頑丈に封をされた段ボールを慎重に開けていく。カッターを使ったら中の人形に傷がついてしまうのではないかと手でビリビリと開けて行った。
 恐る恐る蓋を開けると、最初に目に留まったのは白い梱包材だった。割れ物なのだから当然のことである。
 梱包材に包まれたそれを段ボールから抱え上げて裁断用のテーブルの上に置いた。どうやら膝を折った状態――体育座りで包まれているらしい。
 包装紙を解くように、慎重にミラーシートをはがしていく。
 最後の一枚をめくり上げた時、私は沈黙した。声が出なかった。
 切れ長の目が光っていた。その横顔は見慣れた東洋人風で本当の人の生首かと一瞬思ってしまったのだ。
 包みを全部取り除いて、テーブルの上に横たえてみる。
 体つきは幼女らしいが、顔は少し大人びている。目に入っているのはガラスなのだろうか? 常にこちらを見つめてくる。
 髪の毛はどうやら人毛ではなさそうだ。手触り的にナイロンかなにか。人工毛的なものだろう。実際にかつらなど触ったことはないが、自分の髪とだいぶ手触りが違うのでそんな風に思った。ブロンドの髪で、元は巻き毛だったのだろうが今は絡まって寝起きのようになっている。
 胴体部分は二つに分かれている。胸と下腹部。胸はかすかに膨らむ程度。下腹部はそれほど緻密に作られてはいなかった。
 下半身に取り付けられた脚は膝の部分で分割されている。そして足。子供の靴などぴったりな造形だ。
 肩は上腕部分にくっ付いており、肘部分で分割されていた。腕の先にぽっちゃりとした手が付けられていた。
 びっくりしたのは、彼女が全裸の状態で送られてきたからだ。デフォルメされているとはいえ、艶めかしく感じられる。
 それと、人形は確かに古いもので、無数の傷があったのだ。
 まず、顔だが、首との付け根部分から頬にかけてひび割れが生じている。胸部分はちょうど心臓のあたりがひび割れてかけていた。腕と脚はとくに損傷は見られなかったものの――部品部品をつなぎ合わせているものはゴムらしい――ひっかけるための金属パーツが錆びて、錆の茶色が肌に染みだしている。
 そして欠けた左手の小指。
 配送中にこれらの傷が生じたようではなさそうだ。証拠に、取り出す際に欠けたパーツなどが零れ落ちなかったからだ。
 同封されていた手紙にも傷について書かれていた。

 ――倉庫から見つけ出した際、人形の上には大きな段ボールが置かれていて、その重みで箱が潰れて中の人形まで損傷してしまったようです。傷のことは気にしないでください。――

 気にするなと言われても……。
 目線を人形に戻す。
 私はぬいぐるみを大事にしたり、なにかに愛着を抱いたりすることはない。しいて、仕事道具などは、どうしてもこれでなければならないというものがあるので大事にはする。
昔洋服作りに使ったビニル人形も今はどこに行ったのか見当がつかない。
 いくら無名の作とはいえ、この扱いはちょっと可哀想である。洋服で隠せないこともないが、顔のヒビだけでもどうにかならないのだろうか?
 その夜、私は人形を受け取った旨と人形をどうにか修繕できないか? ということをメールで聞いた。
 返信はすぐにきた。
 確かに人形店ではあるものの、工房から仕入れたものを売っているだけで、店には職人がいない。そして、日本人形とまったく勝手が違うので直し方がわからない、と。
一緒に書かれていた内容はこうだ。

 ――どうして節句人形を扱う店に球体関節人形があるのか? 昔から働いている人に聞いてみました。その人もこの人形の存在をしらなかったのですが、今は退職されていますがかつての上司だった方に連絡を取っていただきました。話によると、一時期、球体関節人形を取り扱ってみようということで、工房の方に頼んで半ば無理やり作ってもらったそうです。ですが、あまり売れ行きがよくなかったようで、社内ではあまりいい思い出ではないらしく、売れ残った一体も倉庫の奥に仕舞われていたようです。――

 直せる人がいない、ということか。
 その日は、全裸状態では可愛そうなので人形の服に使うつもりでいた布を巻きつけてやり、彼女を眺めながらどんな服を作ろうかデザインを考えていた。
 デザインラフを書いていて気付いたのだが、いつものような憂鬱感がまるでなかった。
 布団に入って人形の傷を直すにはどうしたらいいか、と考えると同時に、ふと「傷有りで倉庫に入れられて、私と一緒だ」と考えている自分がいた。
 病気で、実家に帰れなくて、いつまでも安いアパートに籠って洋服作って。自分もいつか忘れ去られるのではないだろうか?
 それもまたいいかもしれない。忘れ去られればいっそのこと踏ん切りがつくかもしれない。

 翌日、インターネットで人形の直し方について調べた。しかし、なかなか見つからない。
市販されている人形についてのページはたくさんあるのだが、個人製作の人形については作り方のページのほうが圧倒的に多い。修理を請け負ってくれるような記事も見当たらない。
 こういった個人製作の球体関節人形は石膏粘土で作られているものが多いようだ。塗装は水性ニスに絵の具を混ぜたものらしい。
 体のパーツをつなぎ合わせているものは一般的なゴムで、足と手の球体部分にS字フックでひっかけるだけのようだ。
 構造はそれほど難しいものではないし、材料も画材屋などでそろうようだ。
直せる人がいないなら、自分で直すしかないよね。
Nさんへのメールを書き始めた。

Nさんからのメールが待ち遠しかった。働いていないので一日一日が長くて仕方なかった。返事が来たのは二日後。人形を直すことを快く承諾してもらえた。その上、修理代金とそれにかかった材料費も別途で出してくれるそうだ。
連絡をもらってすぐに街へ出た。いつものような重い気分ではなかった。とにかく早くあの人形を直してあげたかった。それだけでこんなに気持ちが軽くなるのだろうか。

家に帰ってきてまず始めにやらなければならなかったことは、人形をバラバラに分解することだった。
心の中で「ごめんね」と言いながらゴムを切った。
その途端、一気に体は弛緩し、床の上にただ置かれるだけの状態となったパーツがが「ゴロゴロ」と鳴った。
そして次にやるべきことはひび割れた部分と金属パーツを取り除くためにパーツを切断することだった。金属パーツ部分は半球部分を取り除き、中から金具をとる。ひび割れた部分はたぶん、負荷がかかったことによるものだから、ヒビを隠すだけではまた割れてしまう可能性がある。なので、大幅にヒビを切り取り、新たに粘土を盛る必要がある。
ゴムの切れた人形は未完成のパズルのようなものなのに、なかなかノコギリの刃を入れることができなかった。
そう、初めては緊張するんだ。
ここまでやってしまったのだから後には戻れない。そう思う。
一思いに顔にノコギリを入れた。

その後、ひび割れや金具の交換などは済んだものの、今度は顔立ちに違和感を持った。
細くて深いヒビが入っていた頬部分は大幅に切り落とすことになった。左右の均等が取れてないのだろうか? いや、定規でちゃんと測ったはずだ――そうだ、目が少し小さいんだ。もう少し大きくしよう。だけど大きくしたら今付いている目玉は使えない。新しいのを買いに行かなければ。
新しく作った小指を欠損部分に付けたらなんだか親指が不恰好に見えてきた。こちらの手は最初から作り直してしまおう。
ああ、やっぱり髪の毛は取り換えた方がいいかもしれない。巻き毛はすぐに絡まってしまうから今度はストレートの髪にしよう。
肌の色がイマイチだ。髪の色に似合わない。あれ? どっちのを優先すればいいんだろう。
この子、だんだん私に似てきたような気がする。
人形はいいよね。ただ座ってるだけだもの。食べなくてもいいし。病気になることもないよね。外傷なんて心の傷に比べたら微々たるもの。だってこんなに綺麗に治ったじゃない。
人形がどんどん私に近くなってくる。
いや、私が人形に近くなってるのかな?
 気付けば本来の洋服よりも人形を優先して作業していた。粘土が乾くのを待つ間でさえ時間が惜しかった。
 この人形が直れば、私も治る。そんな気がした。
 もうすぐ壊れた冬がくる。

人形

人形

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-06-17

Copyrighted
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