記憶の欠片

 アブラゼミの声が運動場の焼けた地面を煎り付け、地表の空気がゆがむのが見える。

 遠い夏の記憶。
 それは確かに自分の記憶なのだけれど、どこか他人事のようでもあった。失ったものが本当にあったのかも定かではない喪失感。神経の麻痺した掌に一つだけ残った痛点の錯覚。

 私は、鼻の下に汗の玉を浮かべた小さな女の子。息を切らせて一人運動場を走って抜ける。母が切りそろえたおかっぱの髪は汗で撫でつけられていた。伸びたゴムの顎紐で背中にぶら下げた麦わら帽子。ワンピースはブルーのギンガムチェック。白い合成皮革のサンダルを脱ぎ捨てて、べたつく手で木の幹に取りついた。木登りはそんなに得意ではない。しかし、その時は無性に高く登りたかった。高く、高く、形の見えない太陽を手づかみできるぐらいに。
「レディがそんなことしちゃ駄目です。」
 急に声が降ってくる。顔を上げると、登ろうとした木には先客がいた。
「スカートで木に登るなんて、お転婆さんだなぁ。」
 枝の上から、浩志お兄ちゃんがにこにことこちらを見下ろしていた。
 
 私の記憶はここで曖昧になる。

 その後、お兄ちゃんと一緒に遊んだ記憶はない。小学校二年の時の話だから、思い出せなくてもそんなものなのだろう。ただそれだけの記憶。しかし、私はそれだけを覚えていた。生まれて初めてレディ扱いされた、そんな記憶。

 お兄ちゃんは、私より五つ年上の従兄だった。私はいとこの中では一番年少で、その上がこの浩志お兄ちゃん。親戚の集まりがあると、お兄ちゃんはいつも私と遊んでくれた。お兄ちゃんには年子の兄がいたけど、私と遊んでくれるのは浩志お兄ちゃんだけだった。
「あの子は育ちが悪いし、頭も賢くないから、気をつけなさいよ。」
 母はいつもそう言った。母が叔母にいい感情を持っていないことは分かっていたから、私は黙って頷いた。気を付けるも何も、浩志お兄ちゃんと遊ぶのは親戚の集まりがあった時だけだったし、母はただそういうことを言いたいだけなのだった。私にすれば、たまにしか会わない優しい親戚のお兄ちゃんだった。

 ポプラの樹皮の手触り、葉の間から降り注ぐ強い日差し。なぜか口の中まで汗の塩っぽい味がした。じっとり背中に張り付いた木綿の感触、両腿の皮膚を引き寄せるようなべたつき、足の爪に噛んだ砂粒……そんなものは思い出せるのに、懐かしいお兄ちゃんの顔はのっぺらぼうだ。

 どうもお兄ちゃんの顔は思い出せない。

 思い出そうとすると、代わりに紙コップのジュースが目に浮かぶ。細かいクラッシュアイスがたっぷり入ったそれは、色もなく味もなく、唐突にストローが刺さっている。その光景は灰色で、病院の匂いがした。

 父と母に連れて行かれた病室は、薄汚くごみごみとした六人部屋だった。各ベッドの横には簡易ベッドが折りたたまれて、付添人の布団がだらしなく舌を出している。天井には紐が張ってあり、あちこちに洗濯物がぶら下がっていた。浴衣がハンガーにかかったまま申し訳なさそうにうなだれている。
 そう、あれも夏だった。窓は開け放たれていたのに、部屋の中には風が流れ込んでこない。湿気とカビの陰気な臭いが、饐えた獣臭さと消毒薬の冷やかさに重なる。
 無遠慮な入院患者の目が、異物を排除するように集まってくる。父のきちんと折り目のついたズボンも、母の飾り金具のついたベージュのハンドバッグも、私の紺のワンピースの白い襟も、この病室には不似合いだった。私はなぜここに来たのかを知らなかった。ただ両親に付き合わされていただけだったから、どう振舞えばいいのかもわからず、お行儀よく空気になる努力をした。
 父は何も言わず一人離れてつかつかと部屋の奥へ入って行ってしまい、窓から外を見ている。母は一番手前のベッドに向かい、病人の付き添いをしている「老婆」に当たり障りのない季節の挨拶をする。
 その人は「老婆」としか言いようがない外見だった。
 叔母はもともと人相が良くなく、歳よりも老けて見えたが、久しぶりに会ったその人は一見して叔母とわからないほどの容貌になっていた。
 病人は髪が抜け落ちた少年。点滴を繋がれて、上半身を起こすこともできずに横たわっている。ようやく、私は自分が従兄の見舞いに来たのだということを理解した。

 叔母は父の妹だったが、もともと兄妹仲は悪かった。それは、長男であった父が祖父母の家を出た理由の一つでもあった。
 叔母が離婚して二人の子供を連れて実家に戻り、祖父の財産に頼って生活するようになると、私が浩志お兄ちゃんに遊んでもらうようなことはなくなった。父母が私の前で叔母一家の話をすることもなかったから、病気のことは全然知らなかった。
 
 私は目の前の少年が浩志お兄ちゃんだとは思えずにいた。お兄ちゃんは、随分と酷い顔をしていたように思う。顔は思い出せないのに、その顔を見た時に感じたことは覚えている。木乃伊のように干乾びていて、命が感じられない。私は顔がこわばり、見舞いにきたのに微笑みかけることすらもできずにいた。
 その時、お兄ちゃんは何かを言った。それは口から出たとたんに蒸発していくようなぼやけた音だった。叔母がその口元に耳を寄せると、また何かを言った。
「浩ちゃんな、せっかく来てくれたんだから、朝子ちゃんにジュースあげてくれって。」
叔母は私たちに向かってそう言った。それは大仰な言い方で、息子がそういう優しい配慮をしたことを病室中に自慢しているようだった。
「わかった、わかった。今、お母さん、買って来るから……」
叔母は上機嫌で病室を出て行った。
 父は相変わらず窓の側から動かず、母も誰に向けるわけでもない愛想笑いを浮かべたまま病人の側にもよらずに立っている。
私はベッドの側の椅子に腰かけると、恐る恐るお兄ちゃんの横顔を眺める。しかし、どれだけ見ていてもその顔に命を見つけられず、また自分と遊んでくれたお兄ちゃんにも思えなかった。お兄ちゃんは目を合わすこともなく上を向いたままで、私はそれを長い時間、冷めた目で見ていたように思う。
 十歳の私は、目の前の人が死にかけていることを確信していた。悲しいという感情は湧かなかった。たまに会うだけの親戚のお兄ちゃんだったから、自分の世界から消えていなくなってしまうこともそんなに切実ではなかったのかもしれない。私は、記憶の中のお兄ちゃんと目の前の生きながら朽ち始めているような病人との接点を求めて、何の感情も伴わない観察を続けていた。
 間もなく、叔母が紙コップのオレンジジュースを一つだけ買って戻ってきた。誰も飲食していないのに、自分だけがジュースを飲むのは嫌だった。同室の患者たちの視線を感じつつ、渡された紙コップに口をつける。その時、目の前の病人がまた何かをうめいた。叔母は耳を寄せてその言葉を聞き取り、芝居がかった身振りで言った。

「レディにストローも出さないのは失礼だって。」

 当たり前のことが、こつんと音を立てて私の頭の中に収まった。
 この人は、やはり浩志お兄ちゃんなのだ。
 
 お兄ちゃんはいつも小さな私を御姫様のように可愛がってくれた。そう信じていた。
 私を「レディ」と呼ぶことが、お兄ちゃんと叔母の間で共有されているなどとは思ってもみなかった。叔母の口から、揶揄をこめて私に向けられるまでは。

 仰向けのままこちらを見ているように思えないお兄ちゃんが、私を見ている。それが急に怖くなった。
 お兄ちゃんだけど、私の知っているお兄ちゃんではない。私はお兄ちゃんのことを何も知らなかった。
 紙コップ越しに手に伝わる冷たさに身震いし、尿意を催す。

 叔母は、テレビ台の下の引き出しから、紙で個別包装されたストローの束を取り出す。それは起き上がれない病人のために買い置いたものだったのだろう。
「まあ、この子は……はいはい、母さんはそんな上品なことは気が付かなかったよ。お嬢様にはストローがいるんだね。今、出してあげるから。」
 叔母は乱暴な動作でストローの紙を剥くと、私の持つ紙コップにそれを突っ込んだ。細かいクラッシュアイスの中に直立したストローは、あまりにも場違いで、あか抜けないものに見えた。叔母のあまり衛生的には見えない手でじかに触られたストローに嫌悪を感じながら、私はそれを浅く咥える。
 味のしない冷たさだけが喉を通り過ぎ、アイスを染めていたオレンジの光は褪めていく。吸い込むことを終え、唇からストローを浮かせたまま、色のなくなった氷の粒を見つめた。
 ここで私の記憶は暗転する。

 お兄ちゃんが亡くなったのはそれから間もなくのことだった。

 暗闇に読経が響く。間延びした音と音の間に、香だけが生真面目な息を吐いている。私は母の横にくっつくようにして、寺の本堂の床に敷かれた座布団に座っていた。
 通夜・葬儀には参列したものの、私の両親と叔母の関係はさらに悪化していた。叔母は、弔いの客を一人一人捕まえて、離婚して貧乏し、更に子供を失ったわが身の不幸を語り続ける。それは高給取りである私の父が経済的な援助をしてくれないという皮肉をこめたものだった。
 父は押し黙り、母は片隅で悔し涙を流していた。この時既に、父は叔母のために親の財産の相続を放棄していたが、それは父の兄弟姉妹しか知らないことだった。
「自分の娘には贅沢させて……」
 聞こえよがしな言葉が背に突き刺さる中、私はお兄ちゃんの死を悼んでいる人を目で探し、すぐに諦めて下を向いた。下ばかり見ていたせいか、その時の光景はあまり思い出せない。どんな遺影が飾られていたかも覚えていない。
 闇の中の単調な読経の中に、私の意識は落ち込んでいく。向けられた悪意ごと、深い澱みに落ち込んでいく。それはどこか後悔と似ていた。

 大学進学とともに私は故郷を離れた。親戚と顔を合わせることもめったにない。故郷も幼い時の思い出も、どこか私にはよそよそしく、他人事のように思えた。古びたわら半紙のようにかさつく手触りのする断片。淋しいわけでも哀しいわけでもなく、痛みの残像だけがある。それは夏の日差しの中で、時折、輪郭を浮かび上がらせる。

 そして、お兄ちゃんの顔は、今ものっぺらぼうのままなのだった。

記憶の欠片

記憶の欠片

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-06-17

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