公衆トイレよ。顔を真っ赤にして立ち尽くしている、あの娘の元へ飛んで行け!(7)
七 午後五時二十八分から午後五時四十三分まで トイレットペーパーを愛用する女
白いYシャツに、黒いスラックスを履き、手にはビジネスバッグを持った若い女性が、すごい勢いで、俺(トイレ)の中に入って来た。
ダダダダダ。女は、俺の中に入ると、時間を節約するためか、ズボンと下着を同時に下ろし、便座に座る。待っていましたとばかりに、おしっこが吹きだす。我慢していたせいで額から流れ出ていた冷や汗がようやく止まった。
「はあ」
出る物が出て、落ち着いたのか、女は、今度は、目の前のトイレットペーパーに先をつまんだ。旅館やホテルなどの部屋のトイレは、掃除した後、ペーパーの先が三角形に折られていることがあるが、ここは、公衆用トイレだ。そんな、芸は施されていない。
女の前に使用した人が破り散らしたのか、ペーパーは斜めに垂れ下がり、床には、少し大きめの雪の花のようなペーパーの残骸が散らばっている。
そんなに、慌てなくてもいいのに。前使用者の行為を批判する。だが、女が思った瞬間、トイレのドアが、ドンドンとノックされた。引きつる女の顔。やっぱり、慌てなくてはいけないのだ。
女は思い直すと、軽く中からドアをコンコンとノック返しをする。本来ならば、入っています、と声を掛けたらいいのだが、何だか、声を出すのが恥ずかしい。外にどんな人がいるのかわからないので、声は出しづらい。
とにかく、急がなければ。
出す物を出した後は、拭く物を拭かないといけない。女は目の前のロールを掴む、ぐるぐるぐるぐる。面白いように、紙が出てくる。
ペーパーは、遊び相手が見つかった猫のように、ゴロゴロゴロと喉を鳴らしながら、回転し続ける。おかげで、女は、ピラミッドのミイラに変身できるくらいの紙の包帯をお腹に抱えることができた。
大きいことはいいことだ、と昔、テレビで宣伝していたが、たかがお尻、正確には肛門を拭くのに、こんなにたくさんの量の紙はいらない。しかし、体全体を包む包帯には、少し短すぎる。ミイラには短し、お尻拭きには長し。昔の人はうまい譬えを言ったものだ。
女は一瞬考えた。このまま、さらに、ペーパーを引っ張り続け、ミイラに変身するのか、それとも、お尻を拭くには長すぎる紙の長さを器用に折り畳んで、お尻を拭くか、だ。
再び、ドアがノックされた。先ほどよりも音が強い。回数も二回から四回に増えた。何か、押さえきれない荒い息がしている。足音は短いサイクルだ。ランニングでもしているのか。トイレを待つ人を気遣って、いつの間にか、誰かがルームランナーでも置いたのか。
だが、トイレの外で待たれると出る物も出なくなる。いや、用は済んでいる。でも、落ち着いて拭けない。きちんと拭かないと、下着に染みが付くし、あそこがむずがゆくなり、公衆の面前で掻いてしまいそうになる。それは恥ずかしい。そういうことは、人前でなく、この個室のトイレの中ですべきことなんだ。そのためにも、ゆっくりと拭かせてよ、お兄ちゃん。ええ、外で待っているのは、お兄ちゃんなの?それとも、おじさん?はてまた、おばさん?女子高生?
女は妙齢なので、トイレを出た後で、若くてかっこいい男性に出会ったら、恥ずかしくてたまらない。もし、排出の際の自分の臭いが残っていたらどうしよう?トイレから出る前に、この空気を臭いと一緒に全て吸いこんでしまわないといけない。もちろん、外にいるのがおっさんでもいやだ。若い女性のトイレの後を狙う、変態性格のフェチかもしれない。そんな奴だったらどうしよう。少々臭いがしても、やはり、この空気を全て、肺の中に吸いこんでしまうしかない。
もしかしたら、おばさんかも知れない。むやみにドアをノックしたり、ドアの前で足踏みしたり、トイレの中にいる人を威圧するような行為をするのは、おばさんに決まっている。そうだ、おばさんだ。おばさんに間違いない。
女も、将来的には年を取り、年齢的にはおばさんになるが、公衆トイレの前で、地団太踏むようなおばさんにはなりたくない。反面教師ならぬ反面おばさんだ。
そんなことよりも、いつまでもトイレの中に閉じこもっているわけにはいかない。仕事の途中だ。女はバッグから手帳を取り出した、今日の訪問予定だ。午後六時に訪問を予約している。今は、何時?ポケットから携帯電話を取り出し、確認する。午後五時四十分だ。後、二十分だ。お得意さんは、ここから歩いて十分の距離だから。遅れることはないにしろ、いつまでも、便器に座っている訳にもいかない。外で待っている人のことよりも、まずは、自分のことだ。
トイレは思う。ようやく、物語に登場できたことを喜んでいるわけではない。しかしながら、ようやく参加できたことは少なからず嬉しいと感じている。
女は、ようやく、自分が今、しなければならないこと、つまりお尻を拭くことに気が付いたみたいだ。と、言いながらも、これまで、自分勝手な妄想で、時間を費やしたため、既に、ウォッシュレットで洗われたお尻は自然乾燥している。もう、拭かなくたっていいだろう。紙を使わなくたって、きれいに洗い流されているのだから。紙を使うなんてもったいない。ええ、やっぱり、紙でお尻を拭くの?ええ、やっぱり、俺の出番がもう終わっちゃうの?
女は、目の前にあるトイレットペーパーの先を掴むと、今度は、消防士が火事の際、ホースを地面に転がすかのように、ペーパーを引っ張り始めた。ぐるぐるぐるぐる。先ほどと、同じ光景だ。ペーパーを折り畳むことなどしない。引き出されたペーパーは、縦・横・高さと二次元から三次元へと変形し、世界をビッグバンさせてやると息まいている。
女は、ペーパーを無造作に掴むと、陰部に押し当て、そのまま便器の中に落とし。「何だ。俺の役割はこれだけか。この世界を変えようという俺の野望はどうなるんだ」と叫んでいるようなペーパーは、天敵の水の前で意気消沈し、二次元の世界へと戻っていく。
そんなペーパーの思いを露とも知らない女は、腰を横に二回くねらせて、パンツとスラックスを同時に持ち上げると、水洗トイレのレバーを回し、先ほどの、空気を全て吸いこんでやるという気宇壮大な計画は忘れてしまったのか、そそくさとトイレから出ていった。
再び、トイレの登場。トイレは、登場できたことに喜びを感じながらも、使用者に対する怒りも感じている
「おいおい、用が済んだらおしまいかよ。ごはんを食べ終わった時に、手を合わして、「ごちそうさまでした」と挨拶するように、手までは合わさなくてもいいけれど、「お世話になりました」のお礼ぐらい言ってもらいたいものだ」トイレは女に聞えないように呟きながら、舞台からフェードアウトしていった。
憤慨する公衆トイレ。だが、得てして、人間は勝手なもので、その勝手を引き受けるのが、公衆の仕事なのである。その点を理解していない公衆トイレは、まだまだ若いとしか言いようがない。不満はあるだろうが、がんばれ、公衆トイレ。この物語の語り手だけが、お前のことはわかっている。臭くても、腐らずに、がんばるんだ。きっと、いいことはある。と、言いながら、さっきの女の次に、順番待ちしていた男がトイレに駆け込んだ。
女が予想していたように、おばさんではなかった。心配していたような、若くて爽やかな青年でもなかった。中年のおっさんであった。おっさんではあるが、服装は短パンに、Tシャツ。靴はランニングシューズ。背中には、サブザッグ。顔には、ランナー用のメガネを掛けていた。
公衆トイレよ。顔を真っ赤にして立ち尽くしている、あの娘の元へ飛んで行け!(7)