安藤さんとわたし

 いわゆる、友達以上恋人未満とはちょっと違います。一度読んでいただけるとうれしいです。

安藤さんとわたし



安藤さんとわたし


 安藤さんに彼女がいるのを知ったのは、いつだったか憶えはない。佐藤くんとわたしが付き合っているのを、安藤さんがいつ知ったのかも分からない。気が付いたらお互いに恋人がいるのが当たり前で、自然なことになっていた。
「まずホテルで食事だなあ」
 わたしがデスクでレーシングスーツのパターンを切っていると、向かいの安藤さんがつぶやいた。安藤さんは朝から何枚もの契約ライダーの採寸表をチェックしていたが、さすがに嫌気がさしてきたようで、少し前からファッション雑誌をめくりだしていた。クリスマスを彼女とどう過ごすのか情報を集めているのだろう。
「そのあとは?」
 わたしがわざと惚けた調子で聞いてやると、安藤さんはにやっと笑って、
「そのホテルに部屋をとっておいて、そこで今度はワインでも飲みながらプレゼントを渡すんだよ」
 と言った。
「相変わらずマメですね」
 ちょっとうらやましそうに続けると安藤さんは、彼女がうるさいからな、とつい口をすべらしたふりの愛想をして、また雑誌に目を落とした。
「で、鈴木さんは佐藤くんとどうするの、クリスマス。ケーキ買ってシャンパン飲みながら、鈴木さんのマンションで過ごすんでしょう?」
「おそらくそうなると思います」
「ふうん、それもなかなかいいんじゃないの」
 でもケーキを買うのもシャンパン買うのもわたしなんですよ、そう言ってわたしはパターンを切る手を止め、ため息をついた。レース小僧の佐藤くんは給料を全部バイクの部品などに使ってしまう。だからいつも金欠なのだ。プレゼントなんてもらったことがない。
「あ、そうそう。ちょっと早いけど」
 安藤さんは急にデスク脇の荷物置き場を探りだした。そしてここにおいてあるんだと言い、大きな茶色い紙袋を大事そうに取り出した。
「これ鈴木さんにあげるよ」
「何ですか?」
「開けてみな」
 開けると黒のトレーナーとジーンズが入っていた。
「ボクのお古だけど。洗ってるうちにちっちゃくなっちゃった。鈴木さんならきっとダボッと着れると思うよ」
 袋の中からは、いい匂いがした。
 紙袋から少し目線を上に移動させた窓のところに、ちょうど安藤さんの頭があった。まるで窓枠が額縁のようで、その中で安藤さんのきちんとセットされた髪が光っている。
 安藤さんはわたしが通っていた服飾専門学校の三年先輩で、この会社では上司である。わたしが他の会社の企業研修で「食堂の昼食がおいしかった」と感想文を書いて内定を取り消され、路頭に迷っていたところを拾ってくれた。
「鈴木さんは素直に『おいしい』って思ったんでしょう。怒るほうがおかしいよね。ボクなら気にしないよ」
 あのとき安藤さんはそう言ってくれた。落ち込んでいたわたしの気持ちがずいぶん晴れたのを思い出す。
 ふいに安藤さんが耳の上の髪の毛を手のひらできゅっと撫でつけた。
「しかし久保さんは目ざといな、さっそくCブランドの新作バッグに買い換えてたよ。それに水野さんがいつもよりきれいに見えたのは、きっと口紅の色を変えたからだな」
 話し出したのは、日課にしている女子社員の観察についてである。今日わたしが着ているのは、日曜日に買ったばかりの白いシャツブラウスだった。駅前の地下街のセレクトショップでマネキンが着ていて一目惚れしたのだが、いざ自分が着てみると服が素敵すぎて、わたしを置いてブラウスだけが一人歩きしているみたいになっていたのである。膝の破れたラフなジーンズを合わせるとなんとか一人歩きはおさまったが、ブラウスの真っ白さですっかりくすんで見える肌は手の施しようがなかった。自分を見られているのが嫌でしかたがない。安藤さんが他の女子社員をほめたのはそんな最悪のタイミングだった。
 わたしは頬を膨らませて口をとがらせた。こういった顔をするとき、安藤さんは決まって大きめの目を向ける。そしてわたしの心の中を見すかしたみたいに、
「あっ、鈴木さん、今日のシャツブラウスよく似合ってるよ」
 と、ネズミのような前歯を覗かせてふふと笑うのだ。
 安藤さんの顔はわたしと同じように癖がある。目が大きく唇が厚めで少し前歯が出ている。わたしがイメージする「イイ顔」とは少し違うが、オシャレで背が高くモデルのようなスタイルをしている安藤さんはよくモテた。いっぽうわたしはというと、お化粧や服の手を借りやっと「かわいい」と錯覚を起こさせるぐらいが精一杯なのである。それなのに安藤さんがときどきこうしてわたしのことを褒めるので、もしかしたら会社で自分が一番かわいいんじゃないか、と密かにうぬぼれていた。
 突然、内線電話の呼び出し音がわたしたちの頭の上を通り抜けた。
「はい、企画室。――あ、石川さん?」
 電話をとったのはデザイナーの高木さんだった。相手は三階の縫製部の女子社員である。思わず、わたしのパターンを切る手が止まった。
 企画室の電話は課長のデスクに一台あるだけで、フロアーの真ん中の大きな本棚が、向こうのデザイン部とこっちのパターン部を仕切っている。小さい会社なのでデザイナーは課長を含めてふたり、広報担当がひとり、パタンナーは安藤さんとわたしだけである。
「そう、あのパターンがね……うん……」
 高木さんが急に声を潜めた。声が不自然に低くなって、聞き耳をたてても聞き取れない。話の続きがどうなっているのか不安になって安藤さんに目をやると、安藤さんもこっちを見ていた。微笑んではいるが目元はゆがんで引きつっている。真似してほほえみ返したわたしの口元と目元の動きも鈍かった。
「ダメだと思ってたんです。そんな気がしてたんです――」
 声に出したとたん、わたしは引きつった笑いさえ保てなくなって、口をへの字にして爪の先を弾き始めていた。シャツブラウスが白なので、今日はローズピンクのマニキュアにパールホワイトのストーンを付けている。 
「まだそうとは限らないでしょう。心配性だなあ鈴木さんは。大丈夫だよ」
 安藤さんはわたしがいじけだすタイミングをよく知っていて、「どうせわたしなんか」と言い出す前になだめるのだ。
「ほんとにそう思うんですか?」
「思うよ」
 つい指先に力が入ってしまい、取れかけのストーンがひとつパチッとどこかへ飛んでいった。あっ――と目で追うと、仕切りの本棚の脇に高木さんが立っていた。
「あのパターンで裁断した革、合わないって言ってるよ。見に行ってあげて」
 そう言う高木さんと目が合い、わたしはきゅっと唇を噛んだ。
「じゃあ伝えたからね」
 高木さんはそれだけ言うとまた仕切りの向こうへ消えていった。
「説明できそう?」
 安藤さんが駆け寄ってきて、少しバツが悪そうにわたしの顔をのぞき込んできた。わたしはその顔をちらっと見返して、すぐうつむいた。――やっぱりダメだったじゃない。
 安藤さんのさっきの気休めの言葉に無性に腹が立ってきた。怒りはどんどん膨れあがってくるし、それにこの窮地を逃れる術など思い浮びそうにない。
 頭の中がパニックになっている最中に、ふと安藤さんの足下が目に入った。安藤さんが履いているのは青いメッシュ地でできたスニーカーだ。まるで素足のような履き心地のそのシューズは、先週わたしが「今買うならどんなのがいいと思います?」と聞いたとき教えてくれたナイキのものである。それをわたしが今日履いてくると安藤さんはとても気に入ってくれ、昼休みに自分も同じ物を買いに行ったのだ。朝履いてきたスニーカーとは靴屋で履き替えてきたらしい。わたしの靴のサイズが二十三センチなのに対し、二十七センチだとか、二十八センチだとかいうのだから、並べて比べなくても違いは一目瞭然である。今日くれた服も、縮んでやっとわたしがダボッと着られるサイズになったと言っていた。背が高いので足も大きいのだ。
「どう、行けそう?」
 安藤さんの声がして、とっさに三階への話に引き戻されていた。
「だってわたし石川さん嫌いです。顔ではにこにこしながら、『ちょっと言わせてね、気を悪くしないでね』って、キツいこと言うんだもん」
 わたしが斜に見上げると、安藤さんは傍目にはわからないぐらいの笑みをほんの一瞬浮かべた。そしてすぐ口を一文字にむすんで「分かった」とうなずき、大きな足でスタスタと四階から出て行った。
 ドアの隙間から、安藤さんがむき出しの鉄の階段を降りていく音が聞こえていた。リフォームだらけの社屋は建て付けが悪く、きちんとドアを閉めてもいつも少しだけ開いてしまうのだ。どうも三階と四階までは手が回らなかったようだ。
 「プロショップ高井」ではバイクに乗るときに着る革製のレーシングスーツ、いわゆる「ツナギ」を作っている。会社を設立した先代社長はY社の専属ライダーだったが、三年前その社長が海外でのレース中に亡くなってしまい、今は奥さんが後を継いでいる。総勢三十人ほどのこの会社は、半分ぐらいが二十一歳のわたしやもう少し年上で、中には学生のアルバイトや近所のおばちゃん、それにわたしの父親ぐらいの職人さんまでがいたりした。和気あいあいとしているが、要するに寄せ集めなのである。
 レーシングスーツのパターンを作っているのは、安藤さんとわたしである。安藤さんが採寸値をパソコンに入力して元型をプリントアウトさせ、それにわたしがデザイン線を入れて仕上げていくのだ。このシステムはわたしが入社すると同時に始まった。ところがすでに九ヶ月が経っているにも関わらず、いまだ軌道に乗りそうな気配がないのである。
 そういうわけで、パターン部が縫製部から呼ばれることは日常茶飯事だった。そのほとんどがわたしが仕上げるパターンへの苦情で、こうして安藤さんが代わりに、石川さんや縫製のおばちゃんや職人さんに怒られに行ってくれる。毎日、少なくて三回、どうにかすると七回も八回も安藤さんは三階と四階を行き来する。そのたびに階段からはカンカンと鉄の音が聞こえてきた。
 安藤さんはパターンをつまみあげて言っていた。ボクたちが悪いんじゃない、だいたいこれが悪いんだ――と。切り刻んで普通の服からかけ離れてしまったパターンが、パズルのピースのように散らばっている。
 だいたいこれが悪いんだ、わたしはパターンをにらんで安藤さんの声をまねた。
 しばらくすると、安藤さんが三階から戻ってきた。
「おばちゃんにずいぶん言われちゃったなあ」
「やっぱり怒られたんですよね――そうなんですよね」
 わたしは安藤さんがイスに腰を下ろすか下ろさないかのうちに問い詰めていた。
「ううん、たいしたことなかったんだよ」
「でも苦情を言われたんですよね」
「型紙が複雑だからしかたないんだよ」
「でも言われたんですよね」
 安藤さんは何も悪くないのに、安藤さんに絡みたい気持ちがどんどん湧いてきて、わたしはどうすることもできなかった。
「石川さんも縫い間違えたことないし、高木さんも変なデザイン描いたことないのに、わたしだけがいつまでたってもうまくパターンがひけない……」
「そんなことないって」
「そんなことあります……」
 わたしはもう安藤さんが何を言っても目を合そうとせず、口もきかなかった。投げ出さずになだめ続けてくれていた安藤さんもいよいよダメだと思ったようで、ついにため息をついて考え込んでしまった。
 安藤さんはそれでもときどき、「あ」とか「うん」などの意味のない声を出したり、咳払いしてみたり、一人笑いしたりして、わたしがせめて目線だけでも合わせてこないものかといろいろ試しているようだった。とりたくてとっている態度ではないが、どうしてもわたしははいそうですかと機嫌を直すこともできないのだ。そしてふてくされればふてくされるほど、安藤さんの働きかけに乗るタイミングを取り逃がしてしまうことになる。
 ふと安藤さんが何か思いついたようにわたしを自分のデスクへ手招きした。だんまりを決め込んでいるわたしに、目一杯楽しそうな顔を向け何度も手招きしてきた。しかたがなくふくれっ面のまま隣へ行くと、安藤さんは「ほらっ」と小さなかけ声をかけて、宝箱を開けるように引き出しを開けた。 
 デスクの一番大きいその引き出しの中には何冊ものスクラップブックが入っていて、それぞれに○年春夏、○年秋冬と文字が書かれていた。安藤さんはその中のひとつを取り出してわたしの目の前に広げた。スクラップブックの中は、すました横顔の女の人や楽しそうに踊ったファッションモデルの切り抜きなどで埋め尽くされている。
「これはボクが仕事の合間にこっそり集めたものなんだよ。本当はパリコレに出られるようなデザイナーになりたかったんだよね」
 安藤さんがぺろっと舌をだして笑った。
 そのときパソコン室のアラームが鳴った。安藤さんは重い腰をあげ、「はいはい分かりました」とパソコン室の機械にも答える。そして
「ちょっと待っててくれる?それ見てていいから」
 と、まだふくれっ面のわたしを残し、ゴメンねと言いつつ今度はパソコン室へ向かって走って行った。
 安藤さんの優しさは手に取るように分かる。それでもこんなときのわたしは、きちんとなだめてもらわないと気持ちがおさまらない。
 早く戻って来て――と心のなかで叫びながら、わたしはちょっと乱暴に、でも破ってしまわないようにスクラップブックをめくった。

 昼からも安藤さんはパソコン室と企画室を行き来し、我が社のレーシングスーツとライバルメーカーのポスターを眺めてはうなる、の動作を繰り返していた。
「今日の夕飯はみそカツ定食大盛りで!」
 急に安藤さんが、スーツをにらみながら言い放った。どうやら今日も遅くなりそうなのである。
 わたしたちが定時に帰ることができるのは週に一回ほどだ。ひとり暮らしの安藤さんもわたしも、まず始業前にコンビニで買ったパンとコーヒーを食べ、お昼は会社でとる仕出し弁当を食べ、三時の休憩にはコーヒーを飲み、夜は残業時にとる大衆食堂の定食を食べる。毎夜九時過ぎにやっと仕事を終え、さあ帰ろうかとしたとき、いつも安藤さんは「また明日」と言わず「また十一時間後」と言う。その言葉でわたしたちは、会社で一日の半分以上を費やしていることを改めて認識する。
「会社がボクたちの家みたいだな。いっそ布団を持ってこようか」
 安藤さんが本気か冗談か分からないような顔をしてわたしを見た。わたしもどちらにも取れる口調でそれはいいアイデアですね、と言うと、安藤さんは冗談だよ、と笑った。
 そのとき内線電話が鳴った。それはやはり三階からの電話だった。安藤さんは、もう宿命だな……と肩を落としてつぶやくと、腰を重そうにして立ち上がった。怒られに行ってくれるのは今日はこれで四回めになる。
「行ってもらってばっかでいいんですか?」とわたしが聞くと「女の子は守ってあげないといけないから」と返ってきた。そして「代わりに三時のお茶に、おいしいコーヒーをいれてくれればいいよ」と安藤さんが時計を見上げた。
「スジャータが三時をお知らせします」
 ラジオが一拍おいて時報を告げた。
 給湯室は事務所と同じ二階にある。給湯室の前まで行くと、縫製部の石川さんが誰かに苦情を訴えているところだった。
「ほんとう、大変なんだから。あのパターン間違いだらけで。それでこの前安藤さんが社長から、いつになったらパターンは軌道に乗るのかって怒られてね。パソコンは機械だから間違わないよねー。じゃあ誰がって感じ――」
 石川さんはまだまだ話し続けたかったようだが、そこまで言ったときちょうどわたしと目が合った。彼女はわたしが邪魔だというふうに視線をよけ、それからたまたま通りかかった佐藤くんに「あ、コーヒー入ったから戻ってきてね~」とわざとらしく声をかけた。
 石川さんは十人分のコーヒーとお茶がのったトレーを持って、わたしの横を得意そうにすり抜けていった。彼女はいつも人より自分が有能なのをこれ見よがしに見せつける。
 給湯室にいたのは同い年の珠ちゃんと二歳年下の丹羽さんだった。二階の事務所は全部で十人ほどで、女性社員も複数いるのでお茶当番はふたりずつに決められている。それがだいたい三日に一回まわってくるらしい。今日の当番の珠ちゃんと丹羽さんは、お盆の上にいくつものカップや湯飲みを並べていた。
「事務所はたくさんいれないといけないから大変ね」
 わたしはねぎらうように声をかけた。
「そうなの。その上みんな注文が違っててね。四階はみんなコーヒー?」
 ふたりともさっきの石川さんの苦情を真に受けたふうでもなく、気さくに話してくれてホッとした。
「うん、ブラックだとか、砂糖だけとかそんな注文はあるけどね」
「ふうん、で、安藤さんは?」
「砂糖、ミルク入り」
「あ、私にいれさせて」
 そう言って珠ちゃんがわたしのトレーから安藤さんのカップを取った。すると今度は丹羽さんが「わたしが」と取り上げる。安藤さんはここでも人気があるのだ。
 けっきょく珠ちゃんがこの前いれたのは丹羽さんであることを指摘して、しぶしぶ丹羽さんは譲った。そうしてわたしが他の四つをいれているあいだ珠ちゃんは安藤さんのコーヒーにかかりっきりになり、事務所の分は丹羽さんが全部いれたのだった。
 珠ちゃんがなみなみとコーヒーを入れたので、わたしはこぼさないよう気をつけながら給湯室を出た。佐藤くんは石川さんに声をかけられてすぐ三階に戻ったようで、どこにも姿は見当たらなかった。
 四階まで来たものの両手がふさがってドアを開けられずにいると、安藤さんが駆け寄ってきてドアを開けてくれた。「わたしが来たの、よくわかりましたね」とわたしが言うと、階段を上がってくる音がして、そのあと姿がガラス越しに映ったのだと言った。
 部屋に入って目の前のデスクでタバコを吹かしているのは高木さんだ。ドアの前の彼女が、階段を上がってくるわたしにどうしても気づかないのがいつも不思議なのだ。今日のTシャツの胸にはリンゴをかじる毛虫……みたいなあり得ないイラストがプリントされている。お世辞にもオシャレとも女らしいとも言えない彼女は、お茶の当番を代わってくれた試しがない。複数女子社員のいる部署はみな交替で当番をしているのに、四階だけはわたしがいれるものと決められているのも気にいらなかった。
 わたしはまず課長に砂糖入りを渡し、次に広報の杉江さんにブラックを渡し、高木さんのデスクに少し乱暴にミルク入りを置いた。最後に安藤さんに砂糖ミルク入りを渡すと、安藤さんは「ありがとう」とカップを受け取って自分の席に戻った。
 ところがいつものようにコーヒーを口に運んだ安藤さんが、一口飲んだとたん首を傾げたのだ。
「どうしました?」
 わたしは慌てて聞き返した。
「う~ん、味が違うんだよね。それにこれ入れすぎだよ。あふれそうで飲みにくいな」
「あっ、今日のは珠ちゃんが作りました」
「このまえ味が違ったのは確か三日前だったなあ。あの日は今日と反対に量が少なかったし」
「三日前のは丹羽さんです」
 安藤さんは口の中で一、二度コーヒーを転がしてから飲み込み、「そっか……」とつぶやいて、コーヒーカップをデスクの脇に置いた。
 安藤さんのデスクの上には、今週中に制作しなくてはいけないレーシングスーツの指示書がまだ何枚も置いてある。安藤さんはその指示書を手に取り、一枚目は目を通しただけで、二枚目に「安藤」のスタンプを押した。三枚目にはペンで何かを記入した。スタンプはまっすぐきちんと、少しのゆがみもなく押されているだろう。書いたのはきっと少しとんがった右上がりの文字だ。でも安藤さんの文字は不思議と、とんがっているのに丸いイメージがあるのだ。わたしも一口コーヒーを飲み、デスクの上のパターンを切り始めた。
 パラパラと安藤さんが指示書をめくる乾いた音と、シューというわたしがカッターを走らせる音がふたりを囲んでいた。ときどきデザイン部から笑い声や、外から近所の道を走り去るスクーターの音が聞こえたが、ここだけはふたりだけの別の空間のようだ。
「なるべく鈴木さんがいれてよね」
 ふいに安藤さんの声がして、わたしは顔をあげた。
「は、なにを?」
「コーヒー」
 安藤さんはうつむいたまま指示書を見ている。そしてまたひとつペンで何か記入した。もくもくと作業しているふうに見える。わたしはプッと吹き出しそうになるのを我慢した。
「わかりました」
 わたしが少し声をほころばせて言うと、安藤さんはいらなくなった指示書を握りこぶしぐらいに丸めてぽーんと投げた。紙のボールはわたしのすぐそばのゴミ箱に命中した。
「ボクのお母さん弓道の先生なんだ。的を当てるのはうまいんだよ。だからボクも的をはずしたことないでしょう」
 安藤さんは得意げだった。そしてそばに来てコーヒーカップをわたしのデスクの上に置き、わたしの足の隣に自分の足を並べた。
「同じ靴なのにおもちゃみたいだね」
 安藤さんの声が少し弾んでいた。

 安藤さんといると、なんだか体がむずがゆくなってくることがある。そんなとき、わたしは立ち上がって言った。
「――ちょっとトイレに行きます」
「あっ、そんな露骨に言っちゃダメだよ、鈴木さん。『ちょっとお化粧を直しに』って言うの。女の子はねえ……」
 案の定、わたしの心はその言葉にまた逆なでされていた。トイレなんて口実なのだ。だがこれでは、本当にトイレのときにもおちおち行けない。わたしは持ち出したバッグをちょっと荒っぽくデスクの上に置いた。すると安藤さんは慌てて口を手で押さえたが、わたしが取り出したポーチを見て、押さえていた手をさっと離した。
「あっ、それツモリチサトだね」
 安藤さんはいつも女の人をチェックしていて、仕草や言葉使いや口紅の色、それにポケットから出すハンカチの模様に至るまで、心の中で細かく注文をつけているのだ。
「でもちょっとカジュアルすぎて夜には持てないな。ああでも、もう買っちゃったもんなあ……」
 他の女子社員にはどんなときにも褒めるだけだったが、わたしには逐一、遠慮のないコメントを入れてくる。嬉しくなるようなことも言ってくれるが、けっこう気に障ることも言う。
 無理して三回払いで買ったのに、とさらにわたしが頬を膨らませると、
「いや、でもとてもかわいいよ」
 と安藤さんはさっと切り変えた。こうして安藤さんは、損ねたわたしの機嫌を結局自分で尻ぬぐいすることになるのに、いっこうにわたしへの無遠慮なコメントは無くなりそうにない。安藤さんほど女の人の感情に敏感だったなら、初めからわたしを怒らさないことなんて簡単だろうにと、イラつきながらもつくづく思った。
 トイレから出て鏡を見ると、少し鼻の頭がてかって前髪が乱れていた。口紅は何も食べていないのにほとんど落ちている。わたしは髪の分け目を少し変え、ファンデーションをはたいて口紅を塗り直した。
「お化粧直し」から帰ってくると、安藤さんはファッション雑誌を片手に鼻歌を歌ってわたしを待っていた。
「鈴木さん、あ、前髪の分け目少し変えたね。いい感じだよ」
 さっきポーチを褒め直したぐらいでわたしの機嫌が直っているとは思っていない安藤さんは、もう一度きちんと褒める。ここでわたしの機嫌はほとんど直るのだが、急に機嫌を直したのを見せるのはやっぱりしゃくにさわるのだった。
「いつもそんなふうに女の人の姿を見てるんですか?」
 わたしは口元が緩みそうなのを我慢してわざとしかめっ面をさせた。するとわたしの機嫌が直ったのを察知したのか、安藤さんの顔はいっきにほころんだ。
「見てる見てる。ボク、女の人が好きなんだよ」
 いったい一日のうちどれだけの時間を女の人の姿を見るのに費やしているのだろう、わたしのわずかな変化にも確実に気づくのだ。確かに「女好き」と自負するように、安藤さんは女ならたとえ三歳の子供でもイスをひいてやり、八十歳のお年寄りにでも先に走っていってドアを開けてやる人だと思う。今までにも色んな女の人と付き合ってきて、ときにはふたりダブったりもしたらしい。わたしの通っていた学校でも、わたしが安藤さんの部下になると聞いてずいぶんうらやましがられたものだ。
「よくモテますよね」
「それが大変だ、好きでもない子に何度も追っかけられてね。でもおかげで相手を本気にさせない技をも身につけたよ」
 本気になられそうだなと思ったら話を変えて、相手の好意に気づかないふりをしてかわすのだそうだ。たくさんの女の人を見てきて目が肥えた安藤さんは、普通の女の人では満足しない。安藤さんの心を動かすのは女性として何もかも揃っている、目も覚めるような美人なのだと思った。そんな安藤さんのお眼鏡にかなった美人の恋人が今、丸の内のアパレルでデザイナーをしている。その人はわたしが通っていた専門学校の、一昨年の「ミスN学園」だった。わたしなどには到底勝ち目がない。
 話をしているうちわたしの頭が急に熱くなってきて、デスクの上のパターンをぐしゃぐしゃに丸めた。丸めながら心のなかで、「ばか、ばか」と自分に向かって浴びせかけ、丸めたパターンをゴミ箱に投げつけた。安藤さんのように命中しなかったので、もうひとつ投げた。今度は縁にあたって落ちた。――うまくいかない。
 少しばかり安藤さんがご機嫌取りに褒めてくれるのをいいことに、天狗になっていた自分がとても情けなくなった。
 わたしが安藤さんに向けている顔を手で覆い隠すと、安藤さんは急にどうしたの?と聞いてきた。けれどわたしは答えなかった。そして今後笑うときは常に、少しネズミのような前歯がのぞくこの口元を手で隠し、髪のセットや化粧も雑誌のモデルのように決まるまで、安藤さんには見せないということを決めた。
 ――そうすればいいんでしょう。と、意味もなく誰かを怒鳴りつけてやりたかった。軽快なミシンの音がまだ響いてきている。パートのおばちゃんはいつも四時で帰るので、あの音をさせているのはきっと石川さんなのだ。だいたいわたしは色んなものに劣等感を持ちすぎる。
「実はねえ……」
 ひとりで怒っていると安藤さんがぽつりと言った。そして、ボクの彼女は美人すぎて何を考えてるか分からないんだよ、と打ち明けるように言い、「それに香水の匂いがきつすぎるんだ。あれにどうもなじめないんだ」と、小さい声で言った。
「鈴木さんはこういうの似合うよ」
 安藤さんが雑誌の中の一枚の写真を向けてきたのはそのあとで、指の隙間から覗くと、緩やかに髪をウエーブさせたモデルが胸元にフリルの付いたスリムな白のTシャツを着て、色落ちしたジーンズをゆったりと穿きこなしているのが見える。
「安藤さんの彼女もよくジーンズ穿きますか?」
「いやあ彼女は絶対穿かないなあ。いつもお嬢様みたいな格好してる。高いブランドの服ばっかでね」
「穿いてって言わないんですか?」
「彼女のポリシーらしいから」
 顔を覆ったまま、わたしはジーンズ結構好きですよ、と言った。すると安藤さんが笑いながら、「いつまで顔を隠してるの」と聞いてきた。「あと少し」と答えたわたしに、安藤さんはふふ、と笑った。
「ぼく、公私ともにジーンズが好きなんだよね」
 そう言えば、安藤さんがジーンズ以外を穿いているのを見たことがない。それでわたしはやっと手を離した。
 ラジオの時報が終業時刻の五時を告げた。
 安藤さんがデスクの上を片づけ始めた。そして片づけ終わったとたん企画室を飛び出していった。今日は週に一回の早く帰れる金曜日だ。安藤さんはきっと、パソコン室にこもって彼女に電話するのだ。
 安藤さんと入れ違いにクレーム担当の佐藤くんがやってきた。
「今日、あとどれぐらいで終わりそう?」
「う~ん、まだ一時間ぐらいかかりそう」
 佐藤くんの、バイクにまたがった姿に一目惚れしたのはわたしだったが、なんと言っても、安藤さんのようにプレイボーイではないという安心さが一番であった。背は安藤さんより二~三センチほど低いが、安藤さん自体が一七九センチだから、佐藤くんも平均より低いわけではない。わたしは当時恋人がいなかった佐藤くんに何度か声をかけていたのだが、反応はすこぶる悪かった。
 そんなある日、わたしは宮井さんから食事に誘われた。宮井さんは安藤さんと同期で、三階の縫製部と四階のわたしたちパタンナーをつなぐ調整的な役割を担っていた。一日に何度も三階と四階を行き来するので、わたしや安藤さんの仕事内容もよく分かっている。
 来るたび安藤さんやわたしに冗談めいた話をして、そのままお茶の時間まで居座ってコーヒーを飲んでいったりした。そんな宮井さんなので、初めのうちは誘われても冗談かと相手にもしなかったがそのうち食事の誘いは頻繁になり、終いには「鈴木さんって可愛いなあ」と露骨な褒め文句まで言い出してきた。
 佐藤くんを狙っていたわたしはそのつど適当にはぐらかしていたが、ある日見るに見かねた裁断職人のオジさんから、「いい加減付き合ってあげなよ。宮井くん、いい子だよ~」と言われ、わたしは少し考えた。相手にもしてくれない佐藤くんより、積極的に「可愛い」と言ってくれる宮井さんと付き合おうかと。
 それよりとにかく、明日には食事のオーケーぐらいならしてあげようと思っていた夜のことだった。なんと佐藤くんがわたしのマンションにやって来たのだ。
 そういうわけで、宮井さんには悪かったが、それからわたしと佐藤くんは付き合うことになった。
「そっか、だったら仕事しながら待ってるよ」
「うん」
 ふたりが話していると、安藤さんが戻ってきた。
「おっと、佐藤くんじゃない。鈴木さんと約束あるの?」
「ああ、ええまあ。でも待ってますので」
「いいよいいよ。帰りなよ。ボクももう帰るから」
 言いながらバッグの中へ携帯電話をしまい、代わりに歯磨きガムを出して口に放り入れた。
 それでもまだ躊躇する佐藤くんに安藤さんは、
「帰りなよ。残業手当つかないんだから。ただ働きすることないよ~」
 と追い打ちをかけた。安藤さんの口癖は「残業手当がつかない」と「給料が少なくて結婚しても子供が死んじゃう」である。結婚のことに関しては、例の彼女からチクチク言われているようである。
「じゃあそうさせてもらおうよ。ぼく、仕事場片づけてくるから」
 佐藤くんはわたしにそう言って三階へ下りていった。
 わたしは切りかけのパターンを急いで机の真ん中にかき集めた。これだけでひと山できそうなぐらい今取りかかっているライダーのスーツのデザインは複雑で、明日にはまたわけが分からなくなりそうな感じがした。するとまた縫製部からの苦情の電話が鳴ることになる。とにかく佐藤くんが来るまでに、パーツにライダー名だけは記入しておこうとわたしはペンを走らせた。
「鈴木さんひとり暮らしだったよね。あの環状二号線沿いの、会社名義のマンションに住んでるでしょう」
「よく知ってますね」
「ボクもこの会社へ入ったすぐは住んでたから」
「安藤さんもひとり暮らしですよね。今はどこに?」
「彼女がオシャレなところじゃないとイヤだってうるさくてね。S通りにマンション借りてる」
 そのあと、安藤さんは首を伸ばしてドアのほうを見て、
「鈴木さん、佐藤くんと結婚する気?」
 と少し声を低めて聞いてきた。
「わたし、自分の名字が嫌いで早く結婚したいんです」
 わたしが言うと安藤さんは、その答えはなんとしても聞きだすぞと言わんばかりに、こっちへ向いてイスに腰掛け直した。
「どうして?」
「どこにでもある名字で、学校や病院でもさんざん人と間違われたし、もう少し『わたし』と分かる名字がいいんです。たとえばこのライダーの『TAIRA』とかね」
 わたしはライダー名の書かれたパターンを一枚取り出して言った。
「へえ~、それでか。でも『佐藤』なんてもっとある名字じゃない。日本一多いらしいよ」
「ですよねえ……」
 ほんとうは結婚するかどうかなんて考えたこともない。わたしの中で佐藤くんの顔がぼやっと揺れた。
「他にはどんなのがいいの?」
 安藤さんは身を乗り出すように聞く。
「あんまり奇抜すぎてもいやです」
「う~ん奇抜すぎなくてあまりない名字ねえ……。奇抜でないっていう点では当てはまってるけど、ボクの名字もどこにでもあるよねえ」
 安藤さんが少し恥ずかしそうに言ったので、わたしはマジックを持つ手を止めた。それからしばらく、わたしは名字のことについて考えた。安藤さんはもう一度イスに腰掛け直し、今度は壁のほうを向いてほおづえをついている。
 ラジオから六時の時報が聞こえてハッとした。見るとわたしは「TAIRA」のライダー名を無意識に「ANDO」と書いていた。
「安藤さんがへんなこと言うから、間違えました」
「まあいいじゃない。明日直せば」
 黒いガス圧チェアがシュッと笑ったような空気を吐いて、安藤さんが立ち上がった。
 帰りがけに机の上にそろえて置いたコーヒーカップをのぞくと、安藤さんのカップにはまだ半分ぐらいコーヒーが残っていた。ミルクが縁で白い環になり、持ち上げるとそれがゆらゆらとコーヒーの中で揺れた。
 ちょうど片づけ終わったとき佐藤くんがやってきて、わたしも帰ることにした。途中、事務所をのぞくと珠ちゃんはもう帰っていなかった。そのあとカップを戻すのに給湯室へ寄って、佐藤くんには気づかれないようそっと安藤さんの飲み残しを含んでみた。濃すぎて甘みが足りない。
「砂糖、スプーン一杯半じゃないとダメなんだからね」
 と独りごとを言いながら、明日もし誰かがいれたいと言っても断ろうと思った。それから残っていたコーヒーを勢いよく流し台に流した。

 佐藤くんと一緒に帰る日は、ふたりがわたしのマンションで逢う日だった。途中どこかで外食をし、行きつけのレンタル店でDVDを借りるのが習わしになっている。当然、食事代を出すのもわたしだし、レンタル料を払うのもわたしだった。
 食事を終えてレンタル店に寄ると、入り口正面のおすすめコーナーに安藤さんの言っていた「ティファニーで朝食を」があった。いったい何年前の映画ですか?とわたしが聞いたとき安藤さんは、「あれはねえ、オードリー・ヘップバーンの衣装がいい。初期のジバンシーなんだ。服飾史の勉強になるよ」と言っていた。
「それ借りるの?」
 佐藤くんはもう三つぐらいDVDを持っていて、それを団扇代わりに扇ぎながら横から声をかけてきた。
「安藤さんが一回見ておけって」
「ふうん。でもおもしろそうじゃないよね。やめておきなよ」
 そう言われてもやはり見てみたい。わたしは苦笑いをしながらDVDを小脇にはさんで、レンタル店のカウンターに向かった。
 そのあと寄ったコンビニでは、佐藤くんはカウンターへ缶チューハイとたばこを置きスタスタと店を出て行った。わたしはそこへ焼きプリンを付け足し、全部のお勘定を済ませて後を追った。
 わたしたち二人はいつも部屋のある五階まで非常階段を上る。ここは先代社長が新婚時代に住んでいたもので、今は新しく家を建てて空き部屋になったのを社員に貸し出している。名義は今でも社長で「異性立ち入り禁止」だったから、エレベーターなどで管理人さんに会うとまずいのだ。
 夜風が吹きぬける階段でコンビニの袋がバタバタとはためいた。さっき借りたDVDの袋も飛んでいきそうにあおられる。わたしは袋をぎゅっと握り直した。
 この非常階段は会社の階段に似ている。段と段のすき間から駐車場をのぞくと、ひとくちチョコレートぐらいの大きさの佐藤くんの車が、水銀灯に照らされて青白く浮かんでいた。
 佐藤くんが先に上がって行って、ドアの前に立って早く早くと手招きしている。部屋は会社のものなので彼には合い鍵を渡していないのだ。わたしの前に住んでいた安藤さんがここへ彼女を連れてきたかどうか、ふと気になった。
 部屋に入ると佐藤くんは、着ていたポロシャツとチノパンを床に脱ぎ捨てスウェットになった。このスウェットは付き合い始めて一ヶ月ぐらい経ったころ、彼が持参してきたものだ。洗い替えにもう一着あるがそれはまだ洗濯機に入っている。
 佐藤くんが自分の脱ぎ捨てた服を見ながら、お願いね、と声をかけてきた。お母さんはいつも脱ぎ捨てた服を片付けてくれるらしい。わたしも服をハンガーにかけてやり、はずした腕時計をドレッサーの上に置いてやり、灰皿とライターを用意してやり、そのあとようやく自分もゆったりした部屋着に替えた。もともと几帳面な質ではないので、自分の服は適当にその辺にかけておいた。
「ティファニーで朝食を」は、アクション映画のようにどきどきするものでもなく、壮大なスケールで繰り広げられるストーリーでもないが、淡々と流れる物語がとても心地よかった。横に座っている佐藤くんはジバンシーなどどうでもいいようで、画面を見ているのか宙を見ているのか焦点は定まらず、チューハイをちびりちびりとすすっているだけだった。
 映画が中盤当たりになってきたとき、佐藤くんがわたしの腰のあたりから手を入れて脇腹や背中をなで始めた。そのうち手はだんだん胸のほうへ動いていき、それに合わせてわたしの肌はぷつぷつと粟立ってきた。いつの間にか上になっていた佐藤くんの体がだんだん重みを増してくる。佐藤くんの体がお酒のせいで熱い。
 ふっとその肩越しに、ジバンシーの服が見えた。
「あ、これだ」
 わたしが佐藤くんの体を押し返して画面を指さすと、佐藤くんはこちらを見据えてあからさまにため息をついた。そして振り返ってDVDのスイッチを切り、いいかげんにしてくれよ、と小声でたしなめ、もう一口チューハイを飲んでまたわたしにまとわりついてきた。
 首筋にひっついた佐藤くんの唇から濃厚なお酒の匂いがして、飲めないわたしはそれだけで酔いそうだった。本当は彼もそれほどお酒は強くない。飲むのはわたしの部屋に来たときと、会社で宴会があるときだけである。
 そうして佐藤くんはひとしきり体を動かせたあと、小さいうめき声を発してわたしに体重をのせた。
 佐藤くんは少しの間そのまま荒い呼吸をしていたが、わたしから降りるとすぐにタバコをつかんだ。そしてポンポンと箱をたたいて一本取り出し、ライターで火をつけた。彼はいつもあまり時間をかけない。それに対して特に不満があったわけではなかったが、佐藤くんはどうせそれまで男性経験のなかったわたしには、こんなものだと言っておけばそれで納得するものだと思っているのだろう。
 そう言えば安藤さんは、最初彼女にせまったとき思いっきり背中をひっかかれたと言っていた。「ごめん、ごめん。もうしないよ」と途中でやめて家まで送っていったそうだ。送り届けた帰りの車で携帯電話が鳴って、「いきなりはダメ。この次に」とメールが入ったのだと言う。それはわたしの知らない何年か前のできごとだったらしいから、安藤さんと彼女は今ではそういう関係なのだろう。あれっきりその手の話は持ち上がらないが、安藤さんはきっとわたしと佐藤くんの関係にも気づいているに違いない。
「なに考えてるの?」
 佐藤くんが聞いてきた。
「あ、安藤さんのこと。いろいろ迷惑かけてるなと思って」
「うーん、たしかにあの人、いつも三階でおばちゃんたちに怒られてるな」
 と、佐藤くんは吸い込んだ煙を大きく吐いた。
「でもしかたないんじゃない。鈴木の上司だから。」
 そう言って今度は時計に目配せし、タバコを灰皿に押しつけた。時刻は十時をちょっと過ぎている。ベッドから降りた佐藤くんがハンガーにかけてある服を着始めた。
 佐藤くんがわたしのところに泊まっていくことは絶対になかった。お父さんが単身赴任で、ひとりで家にいるお母さんを放っておけないのだそうだ。最初一度だけわたしは勇気を出して、着替えする服を取り上げたことがあったが、佐藤くんはむっとしただけで、部屋着のまま腕時計をつけて帰ろうとした。それを見てからわたしは、彼が帰ろうとするのを邪魔しなくなった。この時間になったらもうどうやってもダメなのである。
 帰りはいつも、ここでいいよ、と彼が言うので非常階段の踊り場で別れた。そして別れたあとわたしはすぐ部屋には戻らず屋上に上がって、ずっと向こうに続く環状二号線を見るようにしている。
 駐車場を出て側道を走っていた佐藤くんの車がいま本道へ合流し、すぐあと信号が赤に変わった。金曜日の夜はこんな時間でもたくさん車が走っていて、ひとたび信号が赤になると道路はテールランプのオンパレードになる。最後尾の佐藤くんもブレーキをかけている。彼がいるのはまだ手を伸ばせばつかめそうなところだ。
 だがしばらくおくと信号は青になり、車はまた流れ出した。数珠つなぎになったテールランプがするするとほどけていく。佐藤くんの車はすんなりとその流れにのっていき、ついには夜空に吸収されてしまった。
 引き返してきてくれますようにと、佐藤くんの小さなテールランプに向かって繰り返していたわたしの願いは叶わなかった。もしかしたら佐藤くんにはわたしの気持ちは通じていないのかも知れない。
 何台もの車の音が、まるで風が吹き抜けるように耳元をかすめていく。環状二号線のずっと向こうを見ながら、最近わたしの気持ちを分かってくれた人は誰だったろうかと考えた。

 今日は朝から社長が社員をひとりずつ呼んでボーナスを渡している。給料は振り込みだったが、ボーナスだけは社長のこだわりで手渡しなのだ。そのときついでに色々と注文をつけられる。安藤さんが戻ってきたので次はわたしの番だった。
 気の強い社長と面と向かうのは夏のボーナス以来で、少し緊張しているわたしに安藤さんは「気楽にしてハイハイ言っていればすぎていくから」と助言してくれたが、行ってきますと立ち上がったとき、勢い余ってイスを倒してしまった。
「鈴木さん乱暴だなあ。女の子はねえ……」
 いつものわたしならその一言で機嫌をそこねるが、今は社長に気をとられているせいかあまり腹が立たなかった。わたしは安藤さんに見せるように丁寧に四階のドアを閉めた。
 二階の事務所の奥にある社長室のドアを開けると社長が上座に座っていた。わたしの声に気づいて応接セットを指さしたとき、その手の動きにあわせてきつい香水の臭いが舞ってきた。
 センターテーブルの上の灰皿に、口紅のついたタバコの吸い殻が何本も横たわっている。彼女は社長に就任する前はスナックのママでヘビースモーカーだ。会社の宴会や慰安旅行でもタバコを離したことがない。ただ身なりはタバコの臭いとは不釣り合いにエレガント
で、するするとした素材の清楚なジャケットはまぶしいほどに白く、合わせている黒地のタイトスカートには細かい金糸が編みこまれている。スカートとおそろいの生地のコサージュもときに胸元で光ったが、煙がこもった社長室ではそれが鈍って見えていた。
「ご苦労様。まず、これが今期のボーナスです」
「ありがとうございます」 
 わたしはお辞儀をしながらそっと指先で厚みを測った。やはりそんなに厚くない。これなら学生時代に部屋を借りるために銀行からおろしたときの敷金と大差ない。あれは学生向けのワンルームだったから、確か十万ぐらいだったはずである。一年目のボーナスなので期待はしていなかったが、毎日続く安藤さんとの残業のことを考えると少し不満に思った。
「会社には慣れましたか」
「はい、だいたい……」
「何か仕事上で問題などはありませんか」
「はい、特に……」
 目を合わさずそう答え、石川さんや三階のおばちゃんとの軋轢を片づけてくれている安藤さんの顔を思い浮かべた。
「そう。ところで鈴木さんは安藤くんとパターンを担当していましたね」
「はい」
「今回少し人事異動をします。来月から安藤くんはデザイン部門に行ってもらいます」
 一瞬、得体の知れない言葉が通り過ぎたように感じた。
「はい、もう行ってよろしい」
 社長はそれだけ言うと、わたしがいるのも忘れたようにポケットからタバコを出した。 わたしはからっぽになった頭で必死に考えた。社長は金色に光ったライターを握り、今にもタバコの先に火を点けようとしている。ハイハイ言っていればすぎていくから――。安藤さんの声がよぎったが、でも、ハイハイ言っていたらこのままになってしまうに違いない。それだけは防がなければならない、と思った。
「それはまずいです」
 無意識に言葉が出ていた。
「なにがまずいの?」
「わたし、安藤さんがいないと仕事ができないんです」
「……それはどういうこと?」
「その……色々と……。職人さんからの苦情を代わりに聞いてもらったり、怒ってくる縫製のおばちゃんをなだめてもらったりしてるんです……」
 このまえ石川さんに仕返してもらったなどとは言わなかったが、
「そして…その代わりにわたしがおいしいコーヒーをいれているんです……」
 と、コーヒーをいれる手振りをして付け加えた。するとわたしに向ける社長の顔が急に険しくなり、
「いったい何を言ってるの、コーヒーなんて誰がいれても一緒でしょう。とにかく、安藤くんは異動です!」
 もともとヒステリックな社長の声が、さらに甲高くなってわたしの耳にキンと刺さった。
 四〇代半ばをすぎた社長の顔が脂で光り、唇から口紅が滴り落ちそうになっていた。そしてこってりとマスカラをつけた二重の目で、ぎらぎらとわたしをにらみつけている。
「社長、わたし、会社を辞めさせていただきます」
なんの前ぶれもなく自分の口から出た言葉に、思わず驚いた。そのうえわたしの目は、逸らそうとしても彼女を見据えたままみじんも動かないのだ。
 だが険しくにらみつけていた社長の顔が急に穏やかになった。
「実は我が社は今期業績が落ちてこのままではやっていかれそうにないの。経費削減のため人件費カットも考えていて自主退社を募っているところよ。分かりました。では退職届けを課長に出しておいてください」
 声と一緒に香水とタバコの臭いがまとわりついてきて我慢できなくなった。
「あ、次、宮井くん呼んでくれる?」
 返事もそこそこに社長室を飛び出そうとするわたしの後ろで声がした。
 目の前には二階の事務所がある。四階の二倍以上もありそうで、使っているイスやデスクも企画室より高級なものだった。窓際では珠ちゃんが丹羽さんと封筒の中身を見せ合っていた。外を見ると隣の民家の屋根が迫っているせいか、窓からの景色はずいぶん息苦しく感じる。さっきのことでまだ胸がどきどきしていた。
 途中三階に寄って宮井さんに社長室へ行くように伝えると、宮井さんは嬉しいような嬉しくないような笑い方をした。そして四階に上がっていくわたしを見上げ、「スカートの中が見えるよ」とふざけて言ってきた。わたしはいつものようにそれを無視してやったが、宮井さんがなんとなく馬鹿に見えた。
 企画室に戻ると、机の上をパターンだらけにした安藤さんがわたしを待っていた。
「どうだった、ボーナス」
「少ないです」
「でしょう、ほらボクのも。こんなに薄い」
 そう言ってパターンをガサガサと払いのけ、埋もれた自分の封筒を出してわたしに厚みを触らせた。安藤さんのはわたしのより心持ち厚い気がする。
「ゴメンね。ボクがしっかりしてたらもっともらえるのに……」
 わたしはあわてて首を横に振った。
「悪いのは安藤さんじゃなくて社長です。社長ったらなんかとてもクサい香水つけてました。スーツもまるで取って付けたようにぷかぷか浮いてたし」
「知ってる?あの香水すごく高いんだよ。それにあのスーツもシャネルかなんかで、何十万するとか。噂ではボクたちのボーナス分が使われてるってことだ」
「へえ~、辞めたくなっちゃいますね……」
 社長はわたしがいなくなっても平気そうだったし、きっと縫製のおばちゃんたちも石川さんも、間違ってばかりいるわたしはいなくてもいいと思っているに違いない。
 わたしは安藤さんから少し目をそらし壁のポスターを見た。バイクにまたがるライダーはライバル社のレーシングスーツを着ているが、なるほどどこにも変なしわはできていない。これに近づけ追い越せと皆が一所懸命になっているなか、わたしだけが失敗ばかりしているのだ。そんなことを考えていると、安藤さんまでがおばちゃんたちと同じことを思っているような気がしてきた。
 この会社を辞めます、と言ったら、安藤さんはどうするだろう――。
 わたしは安藤さんをじっと見つめ直した。安藤さんはイスの背もたれにもたれて天井を向き、おでこに左手を当て、天井を見たまま何かを数えているように右手の指を順番に折り、あれとあれと……でもあれはちょっとムリか……と口を小さく動かしている。そしてしばらくおいて、あ~あと大きくため息をついた。何かボーナスで買う予定があったようだ。
そのうち安藤さんが何をするでもなく、座ったイスをぐるぐる回しだした。無気力な顔なのに脚には力が入っていて、イスが止まりそうになるとデスクの脚を蹴って勢いをつける。その回転が五回目に入ったとき、わたしは思い切って声を出した。
「――さっきわたし、社長に辞めさせてくださいって言ったんです」
 とっさに安藤さんがイスの回転を止め、体を乗り出してきた。
「え、ほんとうに言ったの?」
 机の端から勢い余ってシャープペンシルが転がり落ち、床でカシャッと音をたてた。そばにあったボーナスの袋もはらりと床に落ちた。
「言いました」
「どうしてそんなこと、ボクに相談なしに言ったの」
「でも社長は、三階からのわたしへの苦情を安藤さんに片づけてもらって、その代わりにコーヒーをいれていると言ったら怒ったんです」
 同時に安藤さんがデザイン部に異動だと言ったときの社長の顔が浮かんで、喉が詰まってきた。鼻の奥がつんとして、泣けそうになってきたのが分かる。すると安藤さんはわたしの顔をじっと見つめて言った。 
「そんなことが理由なの?」
「だって……」
「だめだよだめだよ!ボクが社長に話す」
 安藤さんが立ち上がり、駆け寄ってきてわたしの手をつかんだ。
「一緒に来て!」
 安藤さんの手はわたしよりはるかに大きい。指先は硬いのになぜか手のひらはスポンジのように柔らかかった。爪は深爪をしない程度にきちんとそろえられていて、佐藤くんの手より暖かい。わたしはその安藤さんの手を、ちょっとだけ握り返した。すると安藤さんは驚いたようにわたしの手を離したのである。
 わたしが、なによ――と、膨れっ面を向けると、安藤さんは少し困ったような顔をしていた。
「まあ鈴木さんの進む道だからな」
 安藤さんはときどきこうして、わたしを突き放す。わたしが安藤さんに相談なしに何かをしたときに「鈴木さんが決めたことだから」と言ったり、安藤さんと話をしているのが楽しくなって帰りたくなくなってきたときに「さあ帰ろうか」と帰り支度を始める。今も肝心の「会社を辞めたい本当の理由」を聞こうともせず、ついさっきまであんなに強くつかんでいたわたしの手をもう触れようともしないのだ。こんなときわたしは、一番知りたい一番大事なことをぼかされたような、もどかしい気持ちになるのである。
「辞めるって言ったの、怒ったんですか?」
 わたしが上目使いで小さく聞くと安藤さんは
「怒ってないよ」
 と、いつものやさしい声で言った。こうなるとわたしには、安藤さんの心がさっぱりつかめなくなる。
「よし二人でお別れパーティーをしようか。ボクのおごりだ」
 安藤さんが目尻にしわを寄せて微笑んだ。
 わたしはふと思い出した。それは安藤さんに会う、もうずっと前から気になっていたことだ。
「わたし、分からないことがあるんです。食事で口紅が取れるでしょう。それってどのタイミングで化粧直しするんですか?」
 安藤さんはしばらく口をつぐんで考えていたが
「そうだなあ、ボクの彼女の場合だけど。食事が終わってデザートが来る前に化粧直しに行って、それでもうそのままデザートを食べないなあ」
 と言った。
「なるほど、その手がありましたね……」
 わたしが感心すると安藤さんは、変なの、と笑った。ふたりの間はもうすっかり元通りに戻っているようだった。
 そんななかへドアの開く音が割り込んで、宮井さんがやってきた。
「どうだった、ボーナス」
 そこそこ満足のいく結果だったのだろう。宮井さんの声は少し調子づいている。わたしと安藤さんは揃って宮井さんに目を向けた。いや、もしかしたらにらみつけていたかも知れない。けれど宮井さんは、そんなわたしたちを見比べてぷっと吹き出したのだ。
「安藤くんと鈴木さんってさあ、なにかすごく似てない?」
 ふたりがなんとなく似ているとはわたしも以前から思っていたことで、敏感な安藤さんはそのことには触れようとしなかったが、ふたりが似ているとは少なからず思っているようだった。宮井さんのこの言葉にわたしはなんだかあきらめたような、それでいてすんなり受け入れられるような変な気分になった。
 わたしが苦し紛れに笑い飛ばそうとしたときだ。
「なに言ってるの!宮井くん、おかしいんじゃない!」
 当然安藤さんも笑いながら返すと思い込んでいたわたしは、その顔を見て驚いた。それは今までわたしが知っている安藤さんとはまるで別人で、顔にはひとつの笑みも含んでいなかったのだ。
「なんだよ安藤くん?いきなり」
 宮井さんも安藤さんの思いがけない反応に驚いたようだった。他に話を逸らそうにも、そんな余地など微塵もない様子で安藤さんは宮井さんをにらみつけている。宮井さんはもうそれ以上言葉を出せず、すごすごと企画室を出て行った。
「宮井くんなに言ってるんだろうね!」
 安藤さんは手元にあった指示書をぐしゃぐしゃに丸めて、裁断机の脇のゴミ箱へ向かって投げつけた。しかし丸まった指示書は的をはずしゴミ箱の縁に当たって床に落ちた。
「宮井くん、なに言ってるんだろうね!」
 と、もうひとつ丸めた指示書を投げた。だが百発百中を自負していた安藤さんがまた的を外した。

 マンションに帰ると部屋は朝でかけたままで、食器や脱ぎ散らかしたパジャマなどが散乱していた。
「宮井くん、なに言ってるんだろうね」
 昼間の安藤さんの怒った顔がまだ頭から離れないでいる。わたしがカバンを投げ出しベッドにどさっと腰掛けたとき、カバンの中で携帯が鳴った。
――木曜日、7時にマンションに迎えに行きます
 安藤さんからの食事の誘いのメールだった。佐藤くんとのデートに気を遣ってくれたのか、それとも先約があるのか、その日は金曜日をはずした木曜日だった。今日は火曜日なので二日後である。
――嬉しいです
 携帯電話の送信のボタンを押すとピッと音がして、『送信しました』と表示された。ときどき真下を走る車の音が二重ガラスを通して聞こえてくる。なんとなく心が弾んだ。  ふと顔を上げると目がクローゼットで止まり、突然安藤さんにもらったトレーナーとジーンズに触れてみたい衝動にかられた。今すぐ着たいような、それでいて着ずにとっておきたいような、矛盾した気持ちになる。しばらく考えたあげく、ついにわたしは近寄っていってトレーナーとジーンズを引っ張り出した。
 散らばっている服や雑誌を押しのけて床の上に広げてみた。黒いトレーナーの胸には金糸でブランドのロゴが刺繍されていて、それがときにちらっと光る。ジーンズはほどよく履きこなしてあって色落ち具合がとてもいい。何気なく置いただけなのに、まるで人が入っているように軽くポーズをとっているようだった。
 わたしは誰もいないのに周りを見渡してからおもむろにトレーナーに頭を通した。   ――あ、この匂いだ。
 会社でも安藤さんの近くに寄るとこの匂いがした。
 トレーナーはすこし肘の位置が合わず、ジーンズは裾を三つも四つも折り返した。でも不思議と膝の位置はそれほど下にない。
「へえ~、安藤さんってこんなに膝下が長くて、脚も細いんだ」
 鏡に自分の姿を映しながら呼びかけて、そしてスーパーで野菜を手に取り独りごとを言うおばちゃんのようにそれを何度も繰り返した。
 鏡の前でポーズを取っていると玄関で呼び鈴が鳴った。佐藤くんがやってきたのだ。相変わらず合い鍵は渡していなかったので彼はドアを開けられない。わたしはトレーナーとジーンズのまま走って行って玄関のドアを開けた。
「なにしてるの」
「うん、安藤さんにもらった服、試着してるの」
 それだけ言い、わたしは鏡の前へ駆け戻った。あとからついてきた佐藤くんがわたしを上から下まで眺め、興味深そうに「オレにも着させて」と言った。
 わたしは真っ先にどうやって断るかを考えていたが、よく考えてみれば断る理由など全くないのだ。わたしは渋々トレーナーとジーンズを佐藤くんに渡していた。
「鈴木はさあ、どうして会社辞めるの?」
 佐藤くんはトレーナーを受け取りながら語りかける。
「誰から聞いたの?」
「安藤さんだよ」
 佐藤くんがトレーナーの衿ぐりから顔を覗かせて言った。そのあと、くい、とあごを動かして脱いだ服を指し示す。それを見てわたしは、反射的に佐藤くんの服をハンガーに掛けた。
「わたしね、自分の間違いで三階の人や安藤さんに迷惑かけていると思うの」
 そうは言ったものの、毎日残業しているのにボーナスが少なかったことや、社長の服が高そうで、社長室がたばこ臭くて、安藤さんの人事異動が気に喰わなかったことや、珠ちゃんと丹羽さんが安藤さんのコーヒーをいれたことなどが入り交じって、本当のところは自分でもよく分からない。
「それだけ?」
「うん……」
 わたしの返答に佐藤くんは、それなら自分が間違わないように注意すればいいだけだと反論して、すぐあとに
「いいねえ、これオレにもらうよ」
 と、自分が着ている安藤さんの服に視線を向けた。佐藤くんが安藤さんの服を試着したのを見ると、袖丈もズボン丈もぴったりだ。それを見て「う~ん」とうなったわたしは、きっと顔を引きつらせていたのだろう。佐藤くんは少し冷めた目をして
「冗談だよ」
 と付け加え、ベッドに腰掛けてタバコを出した。
 佐藤くんは人差し指と中指でタバコを挟んだまま体をひねったり膝を曲げ伸ばした。そして小さく「うん」とうなずいたりした。冗談だと言ってはいたものの、佐藤くんはおしゃれな安藤さんの服に満足して、このまま着ていってしまうかも知れない。
「これはあげられないよ」
 わたしは佐藤くんに飛びつくようにしてトレーナーとジーンズをはぎ取った。
「じゃあ代わりに……」
 服を脱がされてほとんど裸になった佐藤くんが、ふざけてわたしに抱きついてきたのと、わたしが佐藤くんを突き飛ばしていたのはほとんど同時だった。
「なにやってんだ、お前」
 佐藤くんが吐き捨てるように言ったのがわたしの耳に入った。
 佐藤くんがにらみつけている。ふとわたしは、彼のこんな目を見るのは初めてじゃないように感じた。今までも佐藤くんはときおりこんな目を投げかけ、さっと元にもどしていたのではなかっただろうか。 
 わたしが佐藤くんのその目から顔をそらすと、佐藤くんはハンガーにかかった服をつかみ、引きちぎれるほどに自分の服に袖を通してチノパンを穿いた。そして跳ね返らんばかりの勢いでドアを閉め、部屋を飛び出していった。ドアの閉まった音は耳鳴りのようにじーんと残り、つい意固地になってしまったわたしをしかりつけているようだった。
 しばらくしてわたしは、はぎ取った服をかかえて外に出たが、もう彼の姿はなかった。通路の小さな照明がそろそろ寿命を知らせるようにチカチカと点滅している。そのまま非常階段へ行くと、踊り場から今にも本道に入る佐藤くんの車が見えた。わたしは急いで屋上に上り車を探したが、佐藤くんをみつけることはできなかった。
 会社を辞めるとこのマンションを引き払わなければならなくなるが、わたしはそれを彼に言いそびれたのだ。環状二号を見ながら、会社を辞めると言ったのはちょっと早まったかな、とも思った。それでもやはりわたしの心は何か大きなものを下ろしたように軽やいでいたのだった。
 わたしはふーっと大きく息を吸って吐いた。あさっては安藤さんとの食事会である。
 あくる日の水曜日、わたしが部屋の明け渡しのことを経理課長に聞くと
「あれねえ、経費削減で解約するって社長が言ってるけど、正規の家賃を払ってくれたらそのまま貸しててもいいよ。どうせ今後新入社員もとらないから」
 と言われた。わたしは即座にそれをお願いした。これで部屋探しをしなくて済み、佐藤くんにも新しい住所や電話番号を伝えなくてもいいと、ホッと胸をなで下ろした。
 翌日の「お別れパーティー」の木曜日は、いつもの残業を取りやめにして、安藤さんもわたしも早めに退社した。
 支度をして約束通りマンションの前で待っていると、安藤さんは時間より三分早くやってきた。流線型のモスグリーンの車は時々会社の駐車場で見かけたが、乗るのは初めてだった。わたしがドアに手をかけると安藤さんがいきなり車の中で首を振った。意味が分からずドアに手をかけたまま立っていると安藤さんが降りてきて、まるでよく見るドラマのワンシーンのように、助手席側のドアを開けてくれた。車の中からラベンダーの香りが漂っている。
「靴のまま乗っていいんですか?」
「なに言ってるの。いいよ」
 緊張しているわたしに安藤さんは笑い声を上げた。一瞬わたしは、こんな安藤さんは初めてなのに、まえからよく知っているような、不思議な感覚に陥った。
 ダッシュボードの下に、グレーのカバーのかけられたボックスティッシュと市内の地図が置いてあったが、後部シートには何もない。そっとドアのポケットを覗くと、ガソリンスタンドのレシートが一枚入っているだけだった。もっと安藤さんの彼女の名残があるものだと構えていたのに、なんだか肩すかしを食らったようである。ちらっと横を見ると、安藤さんと目が合った。とっさにわたしはごまかし笑いをした。
 三〇分ぐらい走って着いたのは、以前「一度連れて行ってあげるよ」と言ってくれていた軽いフレンチのお店だった。
 店の中はそれぞれのテーブルに、間接照明の薄ぼんやりした赤やオレンジやグリーンのキャンドルが置かれている。形もバラの花だったり貝殻だったり様々で、安藤さんはその中の一番左側の貝殻の形のキャンドルの席へわたしを招いてくれた。
「もう料理もオーダーしてあるからね」
 わたしの耳元で、安藤さんが小声で言った。
 向かい合って座ると安藤さんの肩越しに、背後のテーブルのキャンドルがちらちらと揺れているのが見える。それは誰かがしゃべることでも揺れる繊細なもののように思えた。
 まもなく前菜が運ばれてきた。わたしはなるべく唇につけないようにして料理を口の中に入れた。安藤さんとはいつも向かい合っているのに、今日はなぜかとても緊張する。前菜のコショウがきいていて口の中が少しヒリヒリした。
「車で三〇分もかかるなんて遠いんですね、このお店」
 とにかく何かをしゃべりたかった。
「そんなことないよ、会社の近くだよ。反対方向からグルっと来たから遠回りになっただけさ」
「えっ、そうなんですか」
 そのときわたしは本当に驚いていた。安藤さんがその様子に笑いを合わせこう続ける。
「もしかして鈴木さん方向音痴なの?それじゃあ帰り道も分からないねえ」
「ええ、おそらく分かりません」
「方向音痴の人って、同じものが反対向いてるだけで分からなくなったりするらしいね」
 安藤さんの声がさらに優しくなった気がした。わたしはいくらか安心してもう一度料理を口に入れた。するとさっきまでコショウがききすぎていた料理がまろやかに感じ始め、酔っ払ったような気分になっていったのだ。
「そうなんです。わたし、簡単な道でもすぐ迷うんです。道に迷うってとっても怖いんですよ。いったい自分はどうなってしまうのかって。方向音痴が直ったら道に迷うことがなくなるんでしょう?それってとってもいいですよね。」
 自然と言葉が出ていた。やっとなにかをつかめたときのような嬉しい気持ちだった。
「すんなり目的地に行けるって、どんなのかしら?」
 すると安藤さんはじっとわたしの顔をながめ、なにかを見つけたような顔をして、
「鈴木さんのそういうとこ好きだな」
 と言った。
 ウエイトレスがメインディッシュのチキンソテーを運んできて、わたしと安藤さんの前に置いた。皿の左側でにんじんが、タマネギを枕にゆるりと寝そべっている。隣でラディッシュが楽しそうに転がっていて、その上にベビーリーフがふわっと二、三枚踊っているのだ。右側ではきつね色になったチキンが、ソースにからまって誇らしげにわたしを見ている。安藤さんがどうぞと促した。
 わたしはチキンにナイフを入れ一口食べた。
「安藤さんって、彼女のことどれぐらい好きなんですか?」
 いきなり出したわたしの質問に、安藤さんは目を自分の皿に落とした。
「うん……そうだなあ……」
 と、言葉を止め、今度は隣のテーブルのキャンドルのほうに目を移し、そして口ごもったように反対に訊いてきた。
「鈴木さんも、佐藤くんのこと好きでしょう?」
 わたしも安藤さんのようにいったん隣のキャンドルに目を移してから「ええまあ……」と言葉を詰まらせ、メインディッシュの皿を見た。皿の中は、チキンでソースをぬぐった跡の淡いオレンジ色の筋が曖昧な曲線を描いている。惜しいことにこの料理はソースの味が先に立って、メインのチキンの味が負けてしまっているのだ。
「ちょっとソースが濃すぎるのかな」
 安藤さんはわたしのほうを見てから、自分の皿のソースをフォークでなぞって言った。安藤さんの皿にもわたしと同じような模様ができている。
 キャンドルの火が揺れ、目の前にコーヒーとデザートが運ばれてきた。
「安藤さん、お砂糖」
 わたしがシュガーポットを差し出すと安藤さんは「ありがとう」と受け取り、スプーンできっちり一杯と、もう一度スプーン半分を入れた。そしてピッチャーをぐるっと回しながらミルクを流し込んだ。――やっぱり砂糖一杯半とミルク。コーヒーは薄めなんだ。頭の中で砂糖とミルクが渦になってとろけていく感じがする。安藤さんが一口飲んで、カップをことん、とテーブルに置いた。
 その夜、ベッドに入ってもなかなか寝付くことができなかった。
 安藤さんはプロショップ高井に来る前どうしていたのだろう、彼女とどうやって知り合ったのだろう。しかしわたしの知らない安藤さんは考えても考えても想像ができず、頭の中でフォークで描いた螺旋がぐるぐる回る。
 わたしは勢いよく布団を頭の先までかぶった。その拍子に羽毛布団から舞いだした細かな羽根を吸い込んで、少し咳き込んでしまった。

 新しい会社へ移って三ヶ月が経っていた。
 今度は純粋にレディースの服を作っている会社なのだ。週に何度かはチーフデザイナーと組んで市場調査に行き、そこでこっそり携帯電話で写真を撮ったり、可愛い服があったら買ってサンプルにすることもある。そのあとどこかのカフェでお茶をする。そこそこ自由で、それなりに楽しい仕事だった。帰ってきたら早速課長を交えてミーティングに入ることが多かった。
「こういう仕事がしたかったんだよね」
 わたしは給湯室でひとりごとを言いながらコーヒーをいれ、ミーティングする人数分のコーヒーを会議室に運んだ。
 ミーティングでは決まって、課長の岡田さんがホワイトボードの脇へ座る。岡田さんは佐藤くんより八歳上の三十一歳で、安藤さんよりは四歳上だ。仕事での物言いは安藤さんと違って厳しかったが、いつもわたしの失敗をフォローしてくれるところは安藤さんと変わりない。そして岡田さんは、わたしがコーヒーを配り終えると必ず向かいに座るように言った。
 仕事場でも会議室でも、いつもわたしを真向かいに座らせるのは安藤さんと同じだった。だが安藤さんがたいてい黒っぽいトレーナーと色落ちしたジーンズだったのに対し、岡田さんはいつも衿のある白っぽいシャツにカーキかベージュのチノパンを合わせている。こうしてわたしの目の前は、黒から白に様変わりしていたのだった。
 岡田さんと初めて仕事以外の話をしたのは、この会社に入って二週間目の新入社員歓迎会だった。プロショップ高井のざっくばらんさに慣れていたわたしが、この会社の幾分オシャレな人たちになかなか溶け込めずにいたときである。そんな様子に気遣ってか、岡田さんはわたしの隣に座って話し出した。とっかかりは「趣味はなに?」ぐらいの他愛のない内容だったがそのうちなんとなく意気投合し、帰りに送ってもらってうち解けた。
 やがて何度か「仕事」を口実に食事に誘われるようになり、新しくできたレストランへ行った先週の金曜日のことだった。
「付き合わない?」
 岡田さんがマリネの生ハムをひとくち頬ばったあと言った。いきなりだったのでわたしが答えられずにいると、岡田さんは口をナプキンで押さえてから言葉を続けた。
「好きな人がいなかったらの話だけど」
 岡田さんは、ババ抜きをしていて一枚カードをひいたあとのような顔でこちらを見ていた。
「彼が、います……」
 と、わたしが硬い口ぶりで答えると、
「そうか、じゃあしかたないなあ」  
 と岡田さんは少しバツが悪そうに笑いながら言った。もしかしたらいつかこんな話がでるんじゃないかとうすうす予感はしていたが、いざそうなると、こうして一緒に食事をしていることがいけないことのように思えた。
 部屋に帰ってきて一息ついたとき、玄関の呼び鈴が鳴った。玄関を開けるとちょっと冴えない顔の佐藤くんが立っていた。例の人事異動で佐藤くんも他の部署に回ってからというもの、いつもこんな顔をしてやってくる。来るのも以前より一時間も二時間も遅く、来るだろうと待っていると来ないし、もう来ないかと思えば来たりする。
 来るなり着替えもせず、佐藤くんはベッドに腹ばいになってバイク雑誌を開け、「灰皿」と言った。
「安藤さんはどうしてる?」
 わたしは灰皿を渡しながら佐藤くんの横へ座った。
「べつに……。ひとりでデザインしてパターンも作ってるよ」
 佐藤くんがタバコに火をつけた。そして大きく吸ってふうっと煙を吐いた。煙は頭の上で霧のように薄れていく。
「いいよな鈴木は。さっさと辞めていって。あとに残された者は大変だぞう」
 どうやらプロショップ高井の経営が大変だったというのは本当だったようだ。会社の誰かが「スナックの経営みたいにやってもらっちゃ困る」と言っていたのを思い出す。
 他にも会社のことを聞こうと思ったが、最近の佐藤くんは口を開くとこうした愚痴しか言わない。そのあとも佐藤くんは「疲れた」と言いながら、何度もタバコを吸っては煙を吐く仕草を繰り返した。
 あまりに煙を吐くので部屋の中が霞がかかったようになって、熱があるとき見るように、ベッドに横たわっている佐藤くんが遠く小さく見えた。
「佐藤くん?」
 呼んだが佐藤くんは返事をしなかった。
 もう一度「佐藤くん」と呼ぶと佐藤くんはこちらを見ず、ああ、と生あくびか返事か分からないような声を出した。
 タバコの先から灰が落ちた。マフラーが壊れたようなすごい音をさせて、真下の道を一台のバイクが走り抜けていく。佐藤くんがうるさいな、とつぶやいて落ちた灰をはらった。その灰はさらにベッドのシーツに落ちた。横でわたしがシーツの灰をはらってやったが、佐藤くんは雑誌の誌面から目をそらす気配さえなかった。ここにいるのはよく知っている佐藤くんのはずなのに、なんとなく実感がない。
「佐藤くん、わたし好きな人がいる」
 わたしの口からぽろっと言葉がでた。
 佐藤くんはもう一度煙を吐き、タバコを灰皿に押しつけた。火は指先でじゅっと小さな音をたてて消えた。そのうち佐藤くんはひん曲がった吸い殻でタバコの灰をかき集め、灰皿の真ん中に小さな山を作り始めた。
「それって、だれ?」
 灰の山がパラッと崩れる。
「上司」
 わたしが言うと佐藤くんは、上司ってあいまいな言い方だな、と崩れた灰を見つめて小さく言った。それから少し腰を浮かせてタバコをポケットに入れ、ポロシャツの裾を伸ばした。
「わかったよ」
 いきなり枕を殴りつけた佐藤くんはベッドから飛び降り、そしてわざと大きな足音をたてて部屋を出ていった。
 玄関でせわしなく靴をひっかける音がしていたが、次の瞬間にはその音が乱暴に閉めたドアの音にかき消された。コンクリートの通路を踏みしめる足音がかすかに耳の奥に届き、それがだんだん遠のいていく。少し霞んだ天井の木目がバームクーヘンのようで、思わず口の中が甘ったるくなった。
 わたしはキッチンへ行って水切りカゴのコップを取り、冷蔵庫から出したお茶をいれて一気に飲み干した。あまりの冷たさに耳がキーンと鳴ったが、佐藤くんの足音はもう聞こえてこなかった。そっと玄関ドアを開けると通路の照明はもう薄暗くなっている。この前までかろうじてチカチカしていた電球は、今にも切れる。
 ゆっくり非常階段の踊り場へ近づいて行き、駐車場を覗いてみた。すると水銀灯の下でいま、佐藤くんが車を出したところだった。いったん部屋を出た彼が戻ってきたことは一度もなかったから、おそらくこのままになるだろう。
 わたしは一段一段非常階段を上がって行った。屋上へ着くと、手すりの向こうから車のライトの光がわき上がってきていた。車の行き交う音が風と一緒に吹け飛んで、わたしの髪をかき混ぜる。手すりに近づいたとき爪先に何かがあたって足下を見ると、それは佐藤くんと知り合った年の夏、彼を待ちながら飲んだウーロン茶のペットボトルだった。
 くもったボトルにはまだ少しウーロン茶が残っている。わたしはそのペットボトルを持ち上げ、環状二号を走る車のライトに透かしてみた。いつもコンビニで見るのとは違ってずいぶん濃い色をしている。その中になにかふわふわとしたものが浮かんでいた。
「好きな人がいる」
 さっき佐藤くんに言った言葉が思い浮かんだ。手すりを境にしてすぐ向こうに環状二号線が見えている。佐藤くんの車はどれか、もう全く分からなくなっていた。
 ふと安藤さんのことが頭に浮かんだ。
 わたしは安藤さんに言われたとおりデザートの前に化粧直しをしたが、口紅を塗り直したあと思わずそれを食べてしまったのだ。たっぷり塗った口紅と、とろとろに溶けたトッピングのチョコレートが混じって、デザートのケーキはおもちゃをかじったような味だった。あれでは結局食事中にトイレに立ってしまったのと同じである。恥ずかしくて、もう二度と安藤さんと食事に行けない。
 眼下を走る車のライトが、あのときのキャンドルのようにゆらゆらと揺れている。夜風もそれほど強くないのにひんやり感じてきて、部屋へ戻ることにした。、

 さっきまでチーフデザイナーのデザイン画に食い入っていた岡田さんが、わたしのいれたコーヒーを口に運んだ。
「だれ?これいれたの?」
「はい、わたしです」
「薄いよ。それに僕はブラックだよ」
 ミルクと砂糖が入った薄いコーヒーを、岡田さんはひとくち飲んで横にのけた。
「鈴木さん、このまえのワンピース、サンプル見たけどなんか形が変だったよ」
 今度はわたしのデザイン画を見ながら言った。
「前身頃の分量が少ないし、やけに袖が前に振ってたよ。すぐパターン修正しておいてね」
 わたしが小さく返事をするのを聞き、じゃあ今日はここまで、と岡田さんはファイルを閉じた。
 ミーティングが終わって、サンプルのラックからさっき指摘されたワンピースを出してみると、ハンガーにかかったワンピースは胸幅が狭く背幅が広かった。それが原因なのか袖が前に引っ張られ、まるでお辞儀をしているようなのだ。試着してみようとしたわたしが、周りにだれもいないのを見計らってTシャツを脱ぎワンピースを羽織ったときだった。ふいに後ろから声をかけられた。
「不用心だなあ。ぼくだからいいけど、他の誰かだったらどうするつもりだ?」
 岡田さんの声は少し怒っているようだった。
 わたしはあれから岡田さんと付き合っている。岡田さんは佐藤くんのように部屋に来てもわたしに「灰皿」などと言わないし、服もハンガーに掛けさせたりしない。安藤さんのようにポーチを相談なしに買ってもなにも言わなかったが、髪型を変えても口紅の色を変えても、気が付かないのである。
「のぞきなんて、悪趣味ですよ」
「僕は最初からいたんだよ。まあいい。ここへきてごらん」
 岡田さんはにやっと笑って、ワンピースを着たわたしを鏡の前に立たせた。隣に並んで映った岡田さんの肩は、わたしより一〇センチぐらい上にある。
「ほら、おかしいでしょう」
 まっすぐ立つと息を吸い込む胸が突っ張って苦しくなった。背中のほうは猫を背負ったようになり、後ろ袖が余って皺になっている。ところがわたしが少し前屈みになって手を前に出すと、とたんにその皺は消えて背負っていた猫も消えたのだ。
「いったい、どういう風にひくとこんなパターンになるの?これじゃあ商品にできないよ」
 岡田さんはあきれ顔で訊いたが、わたしは説明ができなかった。岡田さんの言うことはいつも正論で、それに対してわたしがうまく彼に説明できた試しがない。なんとなく……では彼に伝わらないのだ。
「鈴木さんそれは明日でいいから。直したら工場に投入しておいてね」
 岡田さんがわたしに指示書を手渡した。指示書の左端の余白には、ボールペンで何かが書かれていた。
『今夜仕事の話をしながら食事など……。携帯へメールください。』
 少し尖った右上がりで、曲げるところは曲げ、はねるところははねる、というしっかりした文字である。わたしはそれを見てとたん吹き出してしまった。
「なにかおかしいの?」
「いえ、これに似た文字を見たことがあって。安藤さんという人の字なんですが」
「安藤さん?」
「あ、いえ、前の会社の人です」
 ああなんだ、と聞き流した岡田さんの声を聞きながら、わたしはもう一度指示書の文字を見直していた。似ている……でも少しだけ、どこかが違うような気がする――。
 自分の席へ戻り、スケジュール表を見てメールを送った。
 ――今夜、オーケーです
 と、メールを送るとすぐ返ってきた。
 ――じゃあ七時に駅前のロータリーで。車で迎えに行きます。それと、文の終わりには「。」を付けるように。
 そう言われメールの履歴をさかのぼってみると、わたしは今まで「。」を付けてなかったようなのである。安藤さんの履歴もさかのぼってみたが、やはり「。」は付いていなかった。でも岡田さんはどんな文の最後にも「。」をきちんと付けるのだ。それに携帯メールの数字が漢数字なのにも気づいた。
 わたしが駅前で岡田さんの車を待っていると、いきなりクラクションが鳴った。振り返るとすでに岡田さんが、もう車を歩道に横付けしていた。
「今、全然違うほうを向いてたよね」
 岡田さんが言った。無理もない。わたしは岡田さんの車が来るのは反対方向からとばかり思っていたのだ。
「方向音痴?」
「ええ、グルっと体を一回転させただけで、もう全く分からなくなるんです」
「う~ん、それは困るなあ。これからナビを頼みたいのに」
 岡田さんは口を尖らせて答え、道に迷わないコツは特徴的な目印を見つけておくことだと言った。そして店に着くまで街中を観察しておくようにと、仕事中の顔で付け加えた。仕事で言われたとおりにできてないときの岡田さんは怖い。わたしは言われたとおり公園や目立つビルなどを注意していたが、結局どこをどう走ったか分からないまま車は店の駐車場に停まっていた。
 テーブルにつくと岡田さんはメニューを見せ、すでに料理は頼んであることを告げてタバコをくわえた。わたしはそれに合わせて気を落ち着かせるのにグラスの水を一口飲んだ。
「仕事、分からないところある?」
「少し……今まで携わっていたパターンとずいぶん違うものですから」
 グラスの冷たい水が口の中でキンと凍みて、かすかにレモンの香りがする。
「学校で習ってきたのはレディースのパターンなのにどうして」
「それがよく分からないんです……」
 そう言うと岡田さんはしかたないなというふうに片方の口角を少し上げ、タバコを灰皿に置いた。おもむろにカバンから紙の束を取り出す。並べられたいくつもの紙には、それぞれ一〇センチ角ぐらいの布切れが貼り付けられてあった。
「こういうの好きでしょう」
 と、その中から五枚ほど抜き出してわたしの前に並べた。一瞬、岡田さんの袖口からなにかの匂いが漂った。わたしは生地を見ながら、もしかするとこれがこの人の匂いなのかと思った。するととたん、袖丈の長いトレーナーといい感じに色落ちしたジーンズの匂いがわたしの鼻先をよぎった。思わずつかまえようと少し手を伸ばしたが、匂いは一瞬のうちに消えていった。
「どう、イメージ湧かない?」
 再び岡田さんの声がした。
 こんな仕事がしたかったはずなのに、どの柄を見てもスリッパを左右反対に履いたような違和感がある。なぜだろう、とわたしはグラスの氷をひとつ口に含んだ。それから口の中で氷を転がし、わたしはいつの日かこの岡田さんに部屋の合い鍵を渡すことがあるだろうか、と考えた。
 食事の途中わたしが、「口紅とれてません?」と聞くと、岡田さんは空になった皿を横にずらし、腕を組んだ手をテーブルに置いて、
「うん、少しとれてるね」
 と言った。
「食事でとれてしまった口紅はいつ直すべきだと思います?」
「ハハ、そんなの、考えたことないな。食事が全部終わってからだろう?」
「わたし安藤さんにもそのことを聞いたことがあるんです。そしたら食事が終わってデザートが来る前に化粧直しすればいいと言われました。それでもうデザートを食べなければいいと。岡田さんはどう思います?」
 岡田さんは、う~んとうなったきり黙ってしまった。
 近くに来たウエイトレスが岡田さんの皿を見て、「お下げしましょうか」と声をかけた。岡田さんはちらっとウエイトレスを見て「はい」と答え、すぐこちらに向き直ってわたしに聞いた。
「安藤さんってだれ?」
「前の会社の上司の人です」
 わたしはそれだけ言っていきなり立ち上がり、化粧室へ向かった。岡田さんの視線が背中に当たっているのが分かった。唇がカサカサしているような感じがする。
 化粧室の鏡にちょっと冴えないわたしの顔が映っていた。口紅を出したポーチには、いつ放り込んだのか部屋の鍵が入っていた。鍵を横目に口紅を塗ると、カサカサしているはずの唇は食事の脂でベトベトだったらしく、口紅がまだらについてしまった。ふと安藤さんの、こんなときはティッシュでおさえてもう一度塗り直せばいいと言っていたのを思い出した。
 戻ってくるとデザートとコーヒーがテーブルに置かれていた。
 岡田さんがカップの取っ手に指を入れたので、わたしがシュガーポットに手を伸ばすと、
「いらないよ。ちなみにミルクもね」
 と遮るように言った。そうだ岡田さんはブラックなのだ。
「ちょっと薄いな」
 釣られて口に含んだわたしには、コーヒーは少し濃く感じた。そう、岡田さんは安藤さんのように薄いめでじゃなく濃いめを好むのだ。そういえば佐藤くんのコーヒーの好みは今でも分からない。
「デザート食べないの?」
「ええ、口紅が取れるので」
 わたしが少しすまして答えると、
「そう」
 岡田さんはぽつりとつぶやいて、まるで得体の知れないものが入っているようにコーヒーカップの中を見つめ、一気に飲み干した。
 ふたりで出かけた帰りはいつも岡田さんが車でわたしを送ってくれる。彼の車の中には常に仕事の書類とサンプルの服が積まれていて、今日も後部座席を振り返ると角張った黒いバッグと一緒に昼間話しあったデザイン画が乗っていた。
 助手席に乗って一段落したら口紅が気になり、口紅の入ったポーチを出そうとバッグを覗いたが、車内は真っ暗でどこにあるか分からなかった。ようやく一番底にあったポーチを探り当てたのは、走り出して五分ぐらい経ったころだった。
「ごめん、今日は今から用事があって送れない。電車で帰ってくれないか」
 岡田さんが言った。彼は会社で淡々と仕事をこなしているときのようにまっすぐ前を見て運転している。
「それとね」
「え?」
「僕がブラックだってこと、早く覚えてね」
 岡田さんがデザートを食べないのかと聞いたときと同じ口調で言い、わたしは黙ってうなずいた。あとは駅に着くまでふたりとも何も話さなかった。
「じゃあ」
 岡田さんはひとことだけ言うとわたしを最寄りの駅のロータリーに降ろし、わたしとは反対のほうへ首をひねった。首にシャツの衿が食い込むように貼りついている。じっと駅前の大通りを見つめ、必死に走りだすタイミングをうかがっていた。次の瞬間、車は白っぽい排気ガスを辺りに舞い散らした。わたしがあっと目を閉じ、もう一度開けると岡田さんの車はもう本道に合流していた。
 降ろされたのは初めての駅で、構内に入って路線図を見ると五駅向こうでわたしのいつも乗る電車と乗り換えと書かれてあった。ひとりでは心細かったが、どうしても駄々をこねられなかった。しかしわたしたちは、もうそれぐらいのわがままを言える仲になっているはずではなかったか。
 わたしはちらっと大通りに目を向けたあと、もう一度時刻と乗るホームを確かめた。隣の時刻表は照明がチカチカしている。見にくいので目を細めたとき、走り去る岡田さんの車のテールランプが浮かんだ。
 それらしいホームで待っていると、一台の電車が滑り込んできて目の前に止まった。大きく開かれた扉に本当にこの電車でいいのか不安が走ったが、後ろにいた年配の男の咳払いに追い立てられ、そのまま電車に乗った。
 二つめの駅で、部屋の鍵の入ったポーチを岡田さんの車に置き忘れたのに気づいた。時計は夜の一〇時を回っている。さっそく岡田さんの携帯に電話をかけた。
「今、どうしてもはずせないんだ。マンションの管理人さんにマスターキーを借りなさい。じゃあ知り合いと会ってるから切るよ」
 岡田さんの車は高速道路を走っているような音がしていた。電話は少し聞き取りにくかったので、わたしはもう一度電話をかけた。だが今度は電波が届かないか電源が入っていないという女性のアナウンスが流れてきた。繰り返す機械的で澄んだ声は、いくら待っても絶対わたしに口を挟ませようとしない。そして岡田さんの携帯電話はそれ以降、何度電話しても彼女がでるようになった。あるとき女性の声がふと岡田さんの声に変わった気がして話かけたが、やはり女の声だった。いったい、岡田さんは本当に存在する人なのかどうなのか、だんだん分からなく思えてきた。
 電車の窓に額を押しつけて外のネオンや民家の灯りを見ていると、揺れに合わせて額が右左した。振動でときどきごつんと窓ガラスにあたるので痛い。五回目に窓ガラスが額にあたって電車がホームに停まったとき、わたしは安藤さんに電話をかけた。
「どうしたの」
 安藤さんは三回目のコールででた。
「あの……特になんでもないんですが、電車へ乗ってて……」
「うん?」
「周りが暗いんです。乗った電車も合ってるかどうか……それで……」
 ――わたしをひとりにする男の人がいるんです――と言いかけ、喉がつまって涙がでそうになった。
「今どのあたりにいるの?」
 ベルが鳴って電車は扉を閉めて、ゆっくりと走り出していた。わたしは目を凝らして駅のホームの表示板を探した。
「はい、あの、S駅と書いてあります」
「じゃあ次のJ駅で降りな。ボクが迎えに行ってあげるから」
 安藤さんが言った。
 わたしは話し終えたあと携帯電話をポケットにしまい、ポケットの上からそっと触った。丸っこいパワーストーンを撫でているようですごく気持ちいい。さっき押した安藤さんの電話番号のボタンが浮かんできて、少し眠くなった。
 J駅に着くとわたしは構内の自動販売機で、ミルク砂糖入りの缶コーヒーを二つ買った。かつて安藤さんが、缶コーヒーの中では一番口に合うと言っていたジョージアのヨーロピアンブレンドだ。
 駅前ではすでに安藤さんが待っていた。
「すみません」
「いいよ」
 安藤さんが降りてきてドアを開けてくれた。相変わらずラベンダーの香りがする。わたしは大きく深呼吸して助手席に座った。背もたれに当たった背中とシートに座ったおしりがじんわりとした。
「安藤さん、これ」
 安藤さんはわたしが差しだしたコーヒーを受けとると、さっそくプルタブに指を引っかけて開けた。ふわっと湯気が出てコーヒーの香りとラベンダーが車内に漂った。
「うん、おいしいね」
 一口飲んだ安藤さんを見ながらわたしもプルタブを開け一口飲んだ。
 車は、オレンジや赤や青のネオンが瞬くビルの谷間をすり抜けて行く。安藤さんはハンドルを軽く握って、ルームミラーを覗いたり行きすぎた店を振り返ったりする。わけもなくわたしの心臓がどきどきし始め、前を向いて二回深呼吸をした。
 次の瞬間、前の車のブレーキランプがパアッと光った。安藤さんの顔もハンドルを握った腕も、彼女がデザインしたらしいトレーナーの胸のAのロゴも赤く染まった。
 ふと安藤さんの頬にひっかき傷があるのが見えた。
「安藤さん、頬、どうしたんですか」
 すると安藤さんは目尻を掻きながら、
「ハハ。鈴木さん、鈴木さんっていったい誰?ってやられた」
 わたしが首をひねってあきれ顔をしていると、安藤さんは恥ずかしそうにちらっとこちらを見た。そしてすぐ前を見直し、「それよりさ」とトレーナーとジーンズの着心地を聞いてきた。わたしが抜群ですと答えると、じゃあスニーカーはと訊ね、それも重宝していますと言うと、安藤さんは顔に皺をよせて満足そうに微笑んだ。
「そうだ、ほらマンションの鍵」
「え、どうして安藤さんが持ってるんですか」
「だって、ボク、前にあの部屋に住んでたじゃない」
「でもあれはもう四年以上も前ですよね」
「そうかあ……?」
 安藤さんはやっぱりまだ微笑んだままで、惚けて首を傾げた。
「わたし、安藤さんのそういうとこ好きです」
「どういうとこ?」
「う~んだから、そういうとこです」
「それじゃあ分からないよ」
 安藤さんはそう言いつつも何か分かったようにうなずいた。そして二言三言言葉を出しかけてやめ、髪をさっと撫でて前を向き、しゅっしゅっとハンドルをこすった。信号が青になり前の車が走り出す。次第に車のスピードが上がっていった。
 安藤さんの車は流れに乗って走っていた。気がつくと周りの景色が見覚えのあるものになってきている。
「あれ?ここ、わたしのマンションの近くですね。この道、環状二号線ですよね」
「そう。反対側から回ってきたのによく分かったね」
「わたし少し方向音痴が直ったようです」
「まあ少々方向音痴でもボクの助手席に乗っている分には支障はないけどね。でも名のごとく、環状線って市内をグルっと環のように回ってるだけだから、方向音痴でもいつか戻って来られるんだよ」
「グルっとね……ああ、そういうことですよね」
 わたしはどうしてそんな当たり前のことに今まで気づかなかったのか、おかしくてたまらなかった。
「何がそんなにおもしろいの?涙まで流して」
 そう言って安藤さんはウインカーを出し、交差点を左に曲がった。

「五階まで階段だとけっこうきついね」
 安藤さんはときどき踊り場で立ち止まり、後ろを振り返った。そしてわたしの手を取るか迷うように中途半端に手を伸ばした。けれどわたしはもしその手をとるとそのまま五階まで負ぶさってしまいそうで、「けっこうキツいんです」と手をとらずに階段をあがった。
 安藤さんはわたしを部屋の前まで送ってくれると「じゃあこれで」と言い、手を振って非常階段を降りていった。通路の小さな灯りが安藤さんの背中を照らしていた。しばらくすると、どきどきしていたわたしの心臓が少し静かになっていた。
 わたしはいったん部屋に入り、冷蔵庫からウーロン茶を出し、それを持って屋上に上がってきた。そのとき携帯電話に着信メールがあった。岡田さんからだった。
 ――無事に着きましたか。今どこにいますか。
 ――はい、ご心配なく マンションの屋上です
 返信を終え携帯電話を閉じるとわたしを照らす灯りは一気に失せて、手すりが薄ぼんやりと浮かんでいるだけになった。
 夜風が拭き抜けていた。屋上から環状二号線を見渡す癖は直らない。わたしはここから見る風景がとても好きだ。ずうっと向こうまで、環状二号線が続いている。赤いランプと、白いライトが二列ずつ、お互いが今にも混じり合いそうで混じらない。安藤さんの車も、もうあれに混じってしまったのだろうか。わたしはペットボトルの蓋を開けウーロン茶を一口ふくんだ。車の音と夜風の混じった味がする。とんがっていても丸く、口紅と一緒に食べたデザートのケーキのような懐かしい味だ。
 そのとき駐車場の水銀灯の下で何かが動いた。小さすぎてよく見えないが、目を凝らすとモスグリーンの色をしている。そしてそれがグルっとわたしのほうへ向きを変えた。
 

安藤さんとわたし

 登場する会社や人物は、当時の実在するものを使っていますが、もう25年以上もたっているので、どうかお許しください。

 (安藤さんが私に気があるように書いてスミマセン)

安藤さんとわたし

初めて入った会社は、倉庫をリフォームして作られた間に合わせのような会社だった。30名そこそこの社員のこの会社は、ライダースーツを作っている。安藤さんはここの先輩だ。 お互い彼女、彼氏はいるけれど、安藤さんはいろいろ私を気遣かってくれるし、私もずいぶんなついている。そして好きなのか単なる先輩なのか、自分でも分からない。でもなぜか心から離れない。 ほんとうに一人になったとき、彼を思い出す?それとも安藤さんを思い出す?

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-06-15

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