中途半端なものですが、せっかく登録したので以前書いたものを投稿します。

  1 

 教室に戻ると、机の上に薔薇が一輪置いてあった。
 それを学生鞄の端に刺して、椅子に座る。
眠りたい。
机に突っ伏して目を閉じた。

 気が付くと水の上に座っていた。すこしでも動くと、水のなかに落ちてしまいそうな気がして、身体を強張らせる。その緊張に合わせるように水面に波紋が広がっていく。
 いくらか先に、小さな女の子が立っていた。
「ここはどこ」
 声をかけると、彼女は体を震わせたようだった。
「こっちに来てくれない」
 少女は背後を気にしながら、怯えた目つきでこちらを見ていた。
 なるべく水面から身体を離さないように、足を引き摺りながら少女に近づこうとする。
「あっ」
 一瞬、右足が何かに吸い込まれるような感覚。わたしは水中に落ちていく。
 どこまでも、どこまでも、落ちていく。
 落ちながら頭の隅に、息が苦しくないからこれは夢だな、という考えが浮かんできた。しかし、そのすぐ後、水の中にいるのにそれはおかしいな、苦しまないといけない、という考えが浮かび、開けていた口に水が流れ込んできた。

 轟音で目を覚ますと、教室の外を大きな影が滑っていった。あれは何の影だろ。
 机の上には涎が池を作っていた。
 口角が持ち上がっていくのを感じる。なぜ不自然な笑いの発作というのは止められないのだろう。いまはなにも面白いことなどないのに。
「鍵を閉めたいんだけど」
 唐突に発せられた声に、心臓が跳ね上がった。
 寝起きの眼が陽光に慣れると、窓の前に腕組みした女性のシルエットが浮かぶ。
「冴木さん、聞いてる?」
 喋ったのはその女性だった。彼女は訝しげに、わたしを見下ろしている。
「聞いてます。ごめんなさい、遅くなっちゃって」
 頭を下げると彼女は目を細めて言った。
「あなた、どこに行ってたの」
 わたしは彼女から目をそらして、俯いた。
 彼女は返答を待ってしばらくこちらを見つめた後、腕組みを解いた。そして顎で扉を示し、教室を出て行くように促す。それに従って、顔を伏せたまま教室を出た。なぜか、彼女の顔を見ることが出来なかった。
 扉の近くで待っていると、彼女が自分の荷物とわたしの鞄を持って出てきた。憮然とした表情で鞄を差し出される。
「あんまり手間掛けさせないで」
 ありがとう、と慣れない笑顔を作って言うと、彼女は、鍵を閉めながら鼻で笑った。
 わたしたちは、なんとなく一緒に歩きながら一階まで降りた。
 彼女は、自分は鍵を返しに職員室に行くと言った。わたしはそれを聞いても、なんとも答えられなかった。ただ一言
「それじゃあ。また明日」
 と声をかける。それを聞くと彼女は無表情にこちらを見て、手に持った鍵をくるりと回した。
「ええ、それじゃあね」
 そして、わたしたちは別れた。

 下駄箱から靴を出して外へ出ると、顔を合わせたくないクラスメート数名が正門の前に陣取っていた。あれでは、正門からは出られない。
 どこを通ればもっとも早く学校の外へ出られるか考えた。
 裏門へは行きたくない。あっちのルートは、職員室のあるほうだから、いま行くと彼女に見られてしまうかもしれない。クラスメートから逃げている姿を見られるのは、恥かしかった。
 だとしたら……そうだ、プールが良い。
 いまは使われていないし、あんな汚い場所に近づく人間もいないはずだ。
 
 プールに行くと、不思議なことに水が張られていた。それも、薄汚れた水ではなく、きれいな透明な水だった。緩やかな風が水面に小さな波を生み、波が夕日を反射している。
 透明で紅い水。
 それを見ていると、気持ちが落ち着いて、満たされていく。
 心に穏やかなさざ波が起こり、自然と眠りに誘われる。
 
「なにやってるの」
 静寂を破る声。突き刺すような声だった。
 ついさっき別れたばかりの顔がすぐ側にあり、両肩が強い力でつかまれていた。
「樋口さん、どうして」
 絞り出した声はしわがれていて、とても自分の声だとは思えなかった。
「あなたがふらふらしてるから。大丈夫なの」
 わたしはもう少しで、水の張られていないプールに落ちるところだった。
 
「あなたを見てるとひやひやしてくるのよね」
 樋口さんに引っ張られて正門に戻ると、生徒たちはどこかへ消えていた。わたしたちはあっさり学校の外へ出て、連れだって歩いているのだった。
「なぜ、わたしがプールにいるってわかったの」
 彼女は足を放り出すようにして歩く。なにもない場所を蹴り上げながら。
「え?あなたがプールに行くって言ったんじゃない」
 そんなこと覚えがない。
「急に職員室に来てプールをまわって帰るからって言って、走ってったから、気になって見に行ったのよ」
 樋口さんと別れた後は彼女から逃げるように動いていたのだから、わざわざ自分から行動を伝えにいくはずがない。
「そしたらふらふらにやにやしながら、プールに向かって歩いてるじゃない。あれは、さすがにちょっと怖かったわよ」
 樋口さんはあっけらかんとしていった。
「紅い水が」
 水で満たされたプールの情景を思い出して呟くと、彼女は溜め息を漏らす。
「冴木さんって、普通のお嬢様じゃないのね」
 アスファルトに樋口さんの影が落ちていた。
「わたし、お嬢様なんかじゃないわ」
 彼女はまた鼻で笑う。どうやらそれは馬鹿にしているのではなく、ただの癖らしい。
「でも、すごい家に住んでるじゃない」
 わたしの家は大きい、でも大きいだけだ。数年前までは姉や兄たちが居たので、それなりにきれいにしていたが、いまは母と妹と三人だけなので、日ごろ使わない部屋は埃と蜘蛛の巣だらけになっている。
「あんなの古いだけだよ」
 樋口さんの影が、頭の後ろで腕を組む。
「ふーん」
 自分で振った話題のわりに気のない返事をしながら、樋口さんはわたしの腰の辺りに目を向けていた。
 その視線につられて、自分の鞄を見ると、端から紅い薔薇が一輪覗いていた。それを手に取り、クルクルと回してみる。
「これ、教室に戻ったら机の上に置いてあったの。樋口さん、なにか知ってる」
 樋口さんは、回る薔薇の花から視線を外して素っ気なく、知らない、と答えた。

 家に帰ると、母がそこらじゅう引っ掻きまわして何かを探していた。
「ただいま」
 一声かけて自分の部屋へ行こうとすると、母に呼び止められた。
「おかえり。ねえ、ルル。アルバムってどこにあったかしら」
「アルバムって?」
「写真の、家族で写ってるやつ」
 わたしは、首をひねる。
「家族アルバムなんて見たことないよ。そんなのうちにあったの」
 母は左手で自分の頭をなでながら、なにか思い出そうとしているようだった。
「確かにどこかで見たような気がするんだけど。お父さんが亡くなる前に」
「それじゃ、わたしが覚えてるわけないよ」
 そう言って、階段を昇った。
 二階に上がると、わたしの部屋から出てくる妹とぶつかった。
「あっ。お姉ちゃん、おかえりぃ」
 彼女はそのまま自分の部屋に戻ろうとする。
「ちょっと、あんた。わたしの部屋でなにしてたの」
 わたしが聞くと、妹は悪びれもせず笑顔で答えた。
「マンガ読んでた」
 見ると、本棚から漫画本が数冊抜き出されて机の上に放り出されている。その本を集めて、妹のところへ持っていく。
「貸してあげるから。勝手にわたしの部屋に入らないでよ」
 妹は唇を尖らせた。
「べつにいいじゃん。それにお姉ちゃんの部屋で読むのが面白いんだから、自分の部屋で読んだってつまんないよ」
「漫画なんて、どこで読んだって一緒でしょ」
「違う。スリルを感じながら読むのがいいんじゃない。お姉ちゃんが帰ってくる前に読み切れるかっていう緊張感を楽しんでるわけ」
 わたしは精一杯怖い顔で注意する。
「姉妹だってプライバシーってものがあるでしょう。沙希の部屋にわたしが勝手に入ったら嫌じゃない?」
 妹は少し考えて頭を振った。
「いいや。あたしの部屋には見られて困るようなものないもん」
「そういうことじゃなくて」
 続けて説教しようとするわたしを無視して、沙希は自分の部屋へと戻っていく。
 彼女は自室のドアの前で振りかえって
「本棚以外は触ってないから、安心してよ。お姉ちゃんの部屋に見られて困るようなものがあっても見なかったふりするし、大丈夫」
 と言い残し自室へ引っ込んだ。

  2

 朝、あわててシャワーを浴びたせいか、学校に着く頃には全身が気だるい疲れに侵されていた。
 正門前の坂を上る途中、長い髪の女子生徒が話しかけてきた。
「おはよう、ルル。昨日どこに行ってたのよ」
 昨日も同じ質問をされたな、半覚醒状態の頭でそう考えていた。その時のわたしは、目蓋に鉛でも乗っているようだった。面倒なので、黙ったまま歩き続ける。
「ねえ」
 彼女がわたしの肩を叩く。
「……おはよう。どこに行こうと、あんたには関係ないでしょ」
 周りの生徒たちに注目されるのがいやで、出来るだけ小さな声で答えた。
「買い物に付き合ってくれるはずだったじゃない」
 そういえば、そんな約束をした覚えがある。すっかり忘れていた。
「でも、あんたなに買うの。それって、わざわざわたしが付いていかなきゃいけないもの?」
「それは」
 彼女は何か言おうとしたが、考え直したようだった。
「まあ、いいや。急ぐものでもないし。今度暇なときを教えてよ。予定空けるから」
 そう言って校舎に向かって走っていく。わたしは、その後ろ姿をなんの思いもなく眺めていた。

 学食で蕎麦を食べていると、同学年の友達の友達がうどんの丼を持って向かいの席に座った。
「それ、不味いの?」
 彼はわたしの丼を指差しながら聞いてくる。
「べつに。おいしくもないし、不味くもない」
「へえ。でも、ずいぶん不味そうに食うね」
 蕎麦の麺が、紅い唇に吸い込まれる。ずるずるずるずる。丼が両手で持ち上げられ、濁って油の浮いた汁が同じ場所に滑り込んでいく。うどんにすれば良かった。
「今朝、ちょっと見かけたんだけどさ。冴木さんって、三島さんと仲良い?」
 中身をほとんど食べてしまった丼の内側を割り箸でかき回す。底のほうに残った短い麺が浮き上がってくる。それを箸の先で摘まんで持ち上げると、両側から伝えられる力に耐えられなくなって麺は切断された。
「幼馴染で、いまでもそれなりに付き合いはあるよ」
「じゃあ。俺のこと紹介してくれない」
 漂っている麺たちにとって、丼の中はちょっとしたプールのようなものだった。
 そうだ、紅いプール。あれは、昨日のことだっただろうか。それとも
「いいよ」
 わたしは丼の中を泳ぎまわる麺の一本になった。

 すぐに慶子の教室へ行った。顔見知りの生徒に彼女を呼んでもらう。
「なに?次、移動教室なんだけど」
 手短に学食で会ったことを話す。
「だから?そいつと会えってこと」
「そう。まあ、わたしがあんたに話しといたって伝えれば、あっちから話しかけてくれるでしょ」
「やめてよ、面倒くさい」
 慶子は顔をしかめる。
「心配しないで、良い人だから」
 実際は良いか悪いか判断できるほど、親しくはないけど。
 それだけ言って立ち去ろうとするわたしを、慶子が腕を掴んで引き留めた。
「勝手に決めるな」
 その手を力一杯振りはらう。
「勝手に決めてるのは、あんたのほうでしょ。わたしがあんたと買い物?予定を空けてやる?なにさまよ。いままで、さんざんあんたのわがまま聞いてあげてたんだから、少しぐらい何かしてくれてもいいじゃない」
 慶子も、教室の中からわたしたちのことを窺っていた生徒たちも呆気にとられていた。自分自身、なぜこんな些細なことで怒鳴り散らしてしまったのか解らなかった。顔に血が上っていく。それを隠すために、わたしは音高く足を踏みならして足早にその場を離れた。

 わたしは自室のベッドに寝ている。しばらくすると大きな人型の影が部屋の隅に現れる。それはじっとしたまま動かない。座っているのか立っているのかもはっきりしない。
その影はいつの間にか、わたしの布団のなかに潜り込んでいる。そして、それはわたしの体の上を這い回った。くすぐったくて笑いそうになるのを必死にこらえる。声を出してはいけない。声を出すと息が出来なくなるような気がして、わたしは声を上げられない。

 目の前が白い。わたしは白い物に包まれていた。体を動かして、掛かっている物を剥ぎ取ると、そこは保健室のベッドの上だった。
 ベッドを囲うカーテンを開けると、樋口さんが保健室のソファに座って文庫本を読んでいた。彼女が顔を上げる。
「気分はどう?」
 わたしは、まあまあだ、と答えた。
「まだ休んでいたほうがいいかな」
 彼女の、日に焼けた細い指が組み合わされた。その些細な動きに惹き付けられる。樋口さんは立ちあがって大きく伸びをした。薄いシャツ越しの、胸から腰へのラインが達筆な書のように艶めかしかった。
「樋口さん」
 自分でもつかみ切れない感情に突き動かされて彼女の名前を呼んでいた。
「なに、どうしたの」
 彼女は、ぎょっとしてわたしのほうを見る。
 なにか言わなければいけない。それなのに、言葉が続かなかった。どうすればいいのか解らなくなって、隠れるように布団を頭から被った。
「なんでもない。勘違いだったみたい」
 布団の下から、くぐもった声で言い訳の言葉を口にする。
 しばらくして、彼女の気配がベッドに近づいてきた。それはベッドの横まで来ると、わたしの頭がある辺りに顔を近づけて囁いた。
「ねえ、冴木さん」
 わたしは体を縮こまらせる。
「元気出して」
 樋口さんはそれだけ言ってベッドを離れ、カーテンを閉めた。

 家の前まで来ると慶子の姿を見つけた。
 自分のことを無視して家に入っていくわたしの後を、彼女は当然のように付いてきた。
「こんばんは」
 玄関に来ると、彼女はじつに気持ちのいい挨拶をした。わたしは、いつもそれを聞くと気分が悪くなる。
「なんなのよ。何か用」
 我慢できなくなり振りかえって詰問すると、慶子は立ち止って頬を掻いた。
「あのさ。昼言ってた、ルルの友達のこと」
 腕を組んで彼女の顔を見つめながら、頷く。
「私、会おうと思うんだ」
 いかにも嫌々といった感じで言う慶子を見ていると、無性に苛立った。
「べつに嫌ならいいのよ。わたしが友達と気まずくなるだけなんだし」
 本当は最初からたいして仲良くないけど。
「……なんでそういう言い方しかできないんだよ」
 おそらく、わたしと仲直りしようと思って家の前で張っていたんだろうけど、思い通りにはいかないよ。
「ルル、最近おかしいよ。やっぱりなにかあったの」
 左脚の太ももがムズムズしたので右足で掻く。
「やっぱりって。勝手になに想像してんだか知らないけど、迷惑。それに、気安くルル、ルルって呼ばないで、わたしが自分の名前嫌いだって知ってるでしょ。それともなに、嫌がらせのつもり」
 慶子は困ったような呆れたような顔をした。
「だったら、なんて呼べばいいのよ。いまさら冴木さんなんて呼べるか」
「そんなこと、わたしが知るか。ちりちり赤毛のヒステリー女とでも呼べば」
「なにそれ」
 わたしの言葉に今度は本当に呆れたようだった。
「なんでもいいでしょ。友達のことだって、わたしはどっちでもいいんだから。嫌なら、わたしから断っとくよ」
 彼女はわたしと同じように腕を組んで、考え込んだ。
わたしは慶子を無視して、台所へ向かった。わたしたち以外居ない家の中は静まり返っている。
 冷蔵庫から出した牛乳の瓶を持って、玄関に戻ると、慶子はまだ黙って立ちつくしていた。
「本当に、どっちでもいいよ。昼間のこと気にしてるのかもしれないけど。あれは、わたしのほうが」
 そこまで言って、口をつぐむ。慶子に対して、自分のほうが悪かった、などと言うのは抵抗があった。誤魔化すように、手に持った瓶の蓋を開けて、中身を一口飲む。
「とにかく、さっさと決めてよ。玄関に居座られたら迷惑なんだけど」
 つい、憎まれ口が出てしまう。
「会うよ。元々、それを言いに来たんだし」
 慶子は妙に抑揚のない声で答えた。わたしは少し気圧された。
「ああ、そう。じゃあ、お願いね」
 彼女に背を向けて、歩いていこうとする。慶子は無言だった。なんとなく不気味に思って振り向くと、彼女はじっと玄関に立って、靴箱の上に置かれた花瓶を見ていた。それには、昨日持って帰った薔薇が飾られていた。彼女は呆けたように、紅い一輪の薔薇を見つめている。
「それ、昨日学校でわたしの机に置いてあったんだ。誰が置いたのか知らないけど、綺麗だから持って帰って、まあ、そこに飾ったのはお母さんだけど」
 わたしの言葉に、慶子が反応する。
「綺麗なら、送り主がわからなくても受け取るのか」
 わたしに聞いているというより、まるで薔薇に向かって呟いているような感じだった。
「そんな大袈裟な。薔薇の一輪くらい、いいじゃない」
 早口でそう言いながら、牛乳を口に運ぶ。慶子の深刻そうな姿を見ていると、なぜか自分が後ろめたいことをしたような気分になってくる。
 わたしたちが、黙りこくって立ちすくんでいると、立てつけの悪いガラス戸が風に吹かれて悲鳴を上げるのが聞こえた。
 慶子は、わたしのほうを一瞥して、薔薇に手をかけようとする。黙ってそれを見ていると、彼女は薔薇をつかもうとする手を止めて、苦い顔をした。
「じゃあ」
 ぶっきらぼうに言って、肩を落とし玄関の外へと出ていく。
 わたしは、残っていた牛乳を飲みほした。

 郵便局から帰る途中に、樋口さんと行き会った。彼女はセーターとジーンズだけの、着の身着のままといった服装だった。
 樋口さんはわたしに気付くと、笑顔で駆けてくる。
「冴木さん。ちょうど良かった」
 わたしたちは一緒に歩きだす。身長はたいして変わらないはずなのに、樋口さんと並んで歩いていると、自分が小さくなったように感じた。
「ちょうど良かったって。どうしたの、なにかあった」
 そう聞くと、彼女は両手を身体の後ろで組んで、笑った。
「ええ。ちょうど、冴木さんに会いたい気分だったの」
「会いたいって、なにか用事?」
 樋口さんは、足元にあった小石を蹴る。
「あの後気になってたんだ、どうしたかなって」
「保健室で、しばらく付き添ってくれてたよね。ありがとう」
「冴木さん、午後の授業も出なかったし」
 本当はひと眠りすると、授業に出られるくらいにはなっていたけれど、サボれるチャンスだと思ってそのまま保健室で寝ていたのだった。
「心配かけてたんだ。ごめんね」
 わたしが謝ると、樋口さんは気にするな、という風に手を振った。
「元気そうだから、安心した。どこ行ってたの」
「姉さんへの手紙を出しに、郵便局」
 彼女は歩くのが速いので、わたしもそのテンポに合わせて速足になる。
「へえ、仲良いのね」
 樋口さんは感心したように頷いた。
「たまに出すだけで、たいしたことは書いてないけど。うちの家族は、そういうの好きだから。樋口さんは?」
 彼女は自然と、わたしとの距離を縮めた。なんでもない動作だった。わたしも、さりげなく彼女に身体を寄せる。
「冴木さんの家に行ったんだけど、誰も居なかったから。コンビニでも寄ろうかと思って、ぶらついてた」
 どうやら、入れ違いになったらしい。

 遠くから、犬の遠吠えが聞こえてくる。
 わたしはバレリーナになったつもりで、回転しながら先にたってポーズを取った。すると、樋口さんは自分の手を差し出す。彼女の手を取って、そのまま二人で円を描きながら滑るように歩いていく。最初は、二人とも相手に合わせる力加減が解らないで、無様なものだったが、しばらくすると、互いが互いの一部であるかのような、一つの運動体であるかのように上手く踊れるようになっていた。
 自転車に乗った中学生らしい男の子が、歩道をはみ出して踊っているわたしたちにぶつかりそうになって舌打ちをし、暗い眼を向ける。手押し車を押している老婆が、胡乱な眼付きで睨む。塀の上で、緊張しながらわたしたちの動きを窺っている猫に手を伸ばすと、毛を逆立てながら威嚇されて左手の甲を引っ掻かれてしまった。
 それを合図に、わたしたちは、繋いでいた手を離して歩きだす。
「どうしたの、急に」
 息を切らせながらそう尋ねられて、わたしは一瞬何のことか解らなかった。樋口さんがわたしが急に踊りだしたことについて言っているのだと理解したときには、わたしたちは目的地に着いていた。家の中は暗く、妹の沙希はまだ帰っていないようだった。
「急に踊りだしたくなる時ってない?他には、とにかく叫びたい、とか。全力疾走したい、とか」
 赤い頬をした顔を見ながら、興奮してそう言うと、彼女は何度も瞬きをして答えた。
「たまに、そういう気分になるときはあるけど。本当にやっちゃう人ってあまりいないと思う」
 冷静に返されて、高揚した気分が萎えていく。確かにそうかもしれない。わたしは、なにをやってるんだろう。また樋口さんに、おかしな姿を見せてしまった。でも、彼女だって乗ってきて、一緒に踊ってくれたのに。気落ちしながら、鍵を取り出して玄関の扉を開けようとしていると、玄関に明かりが点いて扉が内側から開かれた。
 出てきたのは、沙希だった。
「お帰り」
眠たそうに眼を擦っている。
「寝てたの?」
 妹は欠伸をしながら、首を縦に振る。
「お母さん、明後日まで帰らないから」
「知ってる。だから、おねえちゃんとゆっくり出来ると思ったのに」
 そう言いながら、わたしの背後にいる樋口さんを見て、頭を下げる。なんだか、引っかかる言い方だった。
「あと、ケイさんから電話があったよ。なんか薔薇のことで用があるから、8時頃にまた行くって」
 仏頂面で沙希は続ける。
「薔薇?」と樋口さんが呟いた。
「昨日、学校から帰るときに見せたでしょ、あの薔薇。なんでか知らないけど、それに興味持ってる人がいるらしいわね」
 慶子が来ることを考えると頭が痛くなった。
「いま何時」
 わたしが聞くと、沙希は腰に手を当てる。
「外に出るときくらい、携帯電話持ってったら」
 持っていかないわけではなくて、ちょっとした外出の時などには、部屋に置いたまま忘れてしまうのだ。今日もそうだった。
「6時半くらいじゃない」
 樋口さんが言った。
「はあ、そうですね。正確には6時40分ですけど」
 沙希は小さな声になって、わたしの陰に隠れる。意外と人見知りをするのだ。
「どうしてわかったの」
 驚いて樋口さんに訊くと、彼女は空を見上げながら答える。
「日の傾き方を見れば、だいたいわかるよ」
 わたしも彼女と同じように、上を向いて見る。そんなふうに空を見たことなんて、ほとんどなかったので、わたしにはただ薄暗いということしかわからなかった。
 顔のすぐ側を、虫が飛んでいく。
「とにかく、中に入ろう。樋口さんもどうぞ」
 樋口さんを促して家に入る。妹は先にたって、リビングの電気を点けに行った。そういえば、昨日樋口さんに薔薇を見せたときの反応はすこし不自然だった。玄関の花瓶を見てなにか言うかもしれないと思ったが、彼女は薔薇の入った花瓶に気づいても特になにも言わなかった。
 リビングに行くと、ティーカップを出してお茶の用意をする。
「コーヒーで良いかしら」
 ソファに座った樋口さんは、「気を使わないでいいから」と言ったが一応二人分準備して、やかんを火にかけた。
 上着を脱いで、ソファに座る。キッチンをうろうろしていた沙希が隣に来て、わたしに頭を預けるようにしてソファに寝転がろうとした。
「沙希、自分の部屋にいっててよ」
 彼女の身体を押し止める。
「あんた、どうしたのよ。もう、小さい子じゃないんだから」
 樋口さんの眼を気にしてそう言うと、沙希は不服そうな顔でわたしを睨んで、リビングを出て行った。
 その様子を見ていた樋口さんが困ったように笑う。
「今日は私、邪魔だったみたいだね」
 手を振ってそれを否定した。
「そんなことないよ。あの子、中学生になっても子どもみたいなんだから」
「名前、沙希ちゃんっていうの?」
「うん。なんか、たまに変に懐いてくるのよね」
 わたしは頭を掻く。
 
  3

 他愛無い話をしながら、コーヒーを飲んでいると、インターホンが鳴った。時計を見ると、すでに8時をいくらか過ぎている。
「うわ、慶子が来たみたい」
「慶子って、5組の三島さんだよね?冴木さん、彼女と仲良かったんだ」
「仲がいいっていうか、なんていうか。樋口さん、慶子のこと知ってたの」
「結城くんが前に話してたのを、ちょっと聞いたのよ。そんなによくは知らないんだけど」
 結城くん?ああ、わたしに慶子を紹介してくれって頼んできた奴か。
「あの人、樋口さんの友達だったんだ」
「友達、の友達ってところかなぁ」、わたしと同じだ。
 樋口さんが腰を浮かせた。
「私、そろそろ帰ろうか。三島さん何か用事があったんでしょ」
 慌てて彼女を止める。
「いや、どうせたいした用事じゃないから。そんなに気を使わないで。とにかく、ちょっと待ってて、ね」
「そう?じゃあ」
 樋口さんはソファに座りなおす。慶子の言う薔薇のこと、というのも気にはなっていたものの、このまま彼女と過ごす時間を終わらせてしまうのは、忍びなかった。
樋口さんを残して玄関に出ると、右手に小さな袋を提げた慶子がいた。陰気な声で軽いあいさつをすると、こちらの返答を待たないで上がり込む。
「バカ。いきなりなに、図々しい」
 慶子はわたしを無視して、玄関に脱いである樋口さんの靴を見ていた。
「誰か来てるの」
「友達。用があるなら、さっさと済ませてよ」
「すぐ済む」
 一言言って、小袋の中から何か出す。そして、わたしの左手を取って、それを薬指に嵌めようとする。指輪だった。銀色で何の装飾もないシンプルなデザイン。
「なにこれ、どういうこと」
 そう言うと、慶子は捨てられた猫のような眼でわたしを見る。慶子の手を振り解く。指輪は彼女の手から廊下に落ちて無機質な音を響かせた。そして、二、三メートル転がって、止まる。
 わたしは慶子を睨みつけた。
「止めてよ」
 自分でもはっとするほど、冷たい声が出る。慶子の目に涙が浮いて、彼女は無言で指輪を拾うと、薔薇の花瓶の横に置いた。そして、そのまま玄関を出て、後ろ手で扉を閉めた。わたしは扉に寄って鍵を掛ける。
「薔薇なんて関係ないじゃない」

 リビングに戻ると、樋口さんが心配そうにしていた。
「なにか、大きな声がしたけど」
 彼女は所在なげに、両手の指を組み合わせては開いてを繰り返している。
「これ、くれたの」
 テーブルに慶子が持ってきた指輪を置く。本当になんの面白みもない指輪だった。樋口さんはそれを摘まんで、試す眺めつしながら、首を傾げる。
「プレゼント?古そうな指輪ね」
 たしかに、表面に傷が多くて輝きが鈍い。
「どういうものか訊かなかったの」
「いいのよ。そんなもの」
 それを見るのは、辛かった。
「シンプルで良い指輪じゃない。貰っておいたら」
 樋口さんが慶子の指輪を褒めるのを聞いていると、気分が重くなっていく。
「明日返すよ。そんなの貰う理由がないもん」
「なにかわけがあったんじゃないの」
 わたしは、頬を掻きながら、指輪を見る。
「たしか、薔薇がどうとかって」
 言い訳するように言って、わたしは口籠もった。なぜ慶子は、薔薇のことで用事があると言っておいて、古びた指輪なんか持ってきたのだろうか。
 樋口さんは、黙りこんだわたしを不思議そうに見つめる。
「返すにしても、一度つけてみたら」
 彼女はそう言ってわたしの手を取り、指輪を左手の薬指に嵌めた。サイズはぴったりだった。左手で鈍い銀色が光る。わたしは掌を返したり、顔の前に近づけたり離したりしながら、樋口さんに言った。
「あんまり、似合わないと思うけど」
 樋口さんは眩しいみたいに目を細める。
「そうかな。結構似合ってるよ」
 指輪を外して、内側を見てみた。よくドラマなんかであるみたいに、なにか刻まれていないかと思ったのだ。しかし、指輪の内側はつるりとしているだけで、なにも見つけられなかった。
 気落ちしたわたしは、樋口さんの手に目を向ける。
「樋口さんも嵌めてみたら。わたしがつけてあげる」
 彼女は軽い調子で「良いよ」と言って、右手を差し出した。その指に指輪を嵌めようとしたけれど、上手く嵌まらない。何度か試した後、樋口さんは諦めて、手を離した。
「サイズが違うみたいだね」
 わたしは諦めきれず、彼女の左手を取る。人差し指、駄目。中指、駄目。親指、は駄目に決まってる。薬指、抵抗なくするりと入った。
「入ったわ。樋口さん」
 はしゃぎながらそう言うと、樋口さんは子どもみたいに喜ぶわたしの様子に呆れたようだった。

 しばらく、指輪を肴にしてお茶を飲んでから、樋口さんは帰っていった。帰るときに、彼女は玄関の薔薇を見て言った。
「これ、昨日の薔薇と違うみたい」
「え?そんなはずないと思うけど」
 そのとき彼女の目は死んだ魚のように濁っていた。それを見たわたしは、なにも言えなくなり、樋口さんはそのまま、操り人形のようにぎこちない動きで玄関を出ていった。

 樋口さんを送り出して、二階の自室に上がると、沙希がわたしのベッドで寝ていた。妹を揺り起こす。
「沙希、樋口さん帰ったよ。遅くなったけど、ご飯にしよ」
 二、三度うーうー唸って、沙希は目を覚ました。
「もう9時過ぎてるじゃん。いいよ。食欲ない」
 目を瞬かせながら、時計を見てそう言った。
「じゃあ、わたし一人で食べるからね。あと、寝るんだったら自分の部屋に行きなさい」
 腕をつかんで彼女の身体を立ち上がらせようとする。
「うるさいなぁ。あーあ」
 沙希は自力で立ち上がって、腰に手を当て、二三度叩いた。そして、わたしの部屋から出て自分の部屋に向かう。気になって彼女の後ろ姿に一声かけた。
「本当に、夕飯食べないの」
 沙希は自室のドアを強い力で閉めた後、部屋の中から怒鳴る。
「いらない」

夕飯を食べ終わると、食器を片づけて、自室に戻った。事前に用意しておいた着替えを確認して、服を脱ぐ。風呂に入っていないのに気付いたが、もう疲れ果てていた。寝間着に着換えて、布団に潜り込む。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-06-14

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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