祈る男

 その男は今日もまた墓の前で手を合わせていた。来る日も来る日も足を運んでいた。彼は清潔な風のある男で、いつもこざっぱりとした恰好をしていた。年齢はいくつとも知れなかったがおそらく三十は過ぎていることだろう。何をして生計を立てているのか、空いた時間を見つけてはその墓に訪れているようだった。
 私が彼の存在を知ったのは二ヶ月も前のことである。私の家は墓地に近く、二階の窓からはその一部が見渡せるようになっている。それは特筆することのない、どこにでもある墓地だ。無機質な石材が連連と立ち並んでいる。墓参りに訪れる人は少なく、花が供えられていることも滅多にない。私はこれまでその墓地を気に掛けたこともなかった。

 ある秋の昼下がりのこと、私は二階にある書斎で机について書き物をしていた。締切の迫る原稿に身を追われていた。淡々とキーボードを打ちながらコーヒーを啜り、ふと窓の外をのぞくとその男がいた。珍しいこともあるものだと目に留めたが、その時はそれだけであった。私は仕事に戻り、そうして数時間が過ぎていった。
 それから何の気もなしにふたたび窓から墓地を眺めると、男はいまだ墓前に佇んでいた。誰か大切な人を亡くしたのかもしれない。お気の毒なことだ。私は気が散りはじめたので外出の準備をし、長居させてくれる馴染みの喫茶店まで出向くことにした。集中が途切れると私は早々に場所を移動して気分を変える。自宅近くには、いくつかそうした仕事場所があった。どこもコーヒー一杯で何時間でもいさせてくれるのだった。
 入った喫茶店は空いていた。静かでいい。穏やかなクラシックのメロディが奏でられている。入り口近くに座っている若い女の吐き出した紫煙が、薄明かりの照明にぼんやりと漂った。私は席に着くと、パソコンを開いて原稿に向かった。私の指が打つキーボードのかたかた言う音だけが、音楽と共に店の中に響き渡っていた。
 仕事を終え、腕時計を見ると八時を過ぎていた。外に出ると辺りはもうすっかり暗い。私は近くの定食屋で夕食を取り、腹を満たして帰路についた。
 散歩がてら、そのまま家の周りを歩いていると、墓地の目の前まで辿り着いた。まさかあの男はもういるまいと思い足を踏み入れると、彼はそこにいるのだった。わずかな期待を抱いていたにもかかわらず、私はぎょっとした。腕時計の針は夜の九時前を指している。男はじっとしゃがみ込んで動く気配がない。私が知る限りで八時間近く、あるいはそれ以上、この男は微動だにせず墓に祈りを捧げつづけているのだ。なにやら恐ろしくなった私はそそくさと家に帰り、ふたたび窓の外をのぞくことなく眠りに就いた。
 それからというもの二ヶ月のあいだ、ほとんど毎日欠かすことなく男は墓参りへと訪れていた。留まる時間は日によってまちまちで、数十分で帰ることもあれば、一日中墓の前を離れないこともあった。はじめて彼を見掛けてからの一週間ほどは、彼の存在を意識しないよう努めていたが、一ヶ月もすると自然、彼がいることの方が常となり、仕事の手が止まっては窓をのぞき、祈る男の姿をながめた。
 男の様相は変わらない。その男は線香を上げない。花を供えることもない。ただ墓の前で座り込み、じっとその墓を見つめている。あるいは手を合わせて沈黙している。
 一体何が彼の心を突き動かしているのか。彼をここまで祈りの心情に赴かせるのか。私は少なからぬ好奇心を持って男の姿をながめていた。しかし何事も起きない。一向に変化は起こらない。声を掛けに行くのも躊躇われた。それで私は、まるでストーカーか覗き屋のように、いつまでも窓の外の彼を窓の中から一方的にながめているのだった。

 その日、いつもと同じように窓から墓を見下ろすと、墓の前には二人の人間がいた。あの男と、私の家の近所に住む中年の女性だ。男はしゃがみ込んだままで、女はその側に立って話をしている。男は女の言葉にちゃんと反応しているように見える。
 しかし傍から見てなにやら滑稽な図だった。それを滑稽と思うのは、あまりにも風景と溶けあわない二人だったからだろう。どこか場違いな違和感が感じられ、下手くそな喜劇でも観ているかのような感覚を私は覚えた。
 しばらくすると中年女性は頭をかしげて、その後さらに二、三言喋ってから男の元を去っていった。男は墓に手を合わせると、再びぴくりとも動かなくなった。
 私は急いで一階に駆け下りてコートを着込み、家の外に出た。あの中年女性に話を聞くためだ。墓地の前まで向かって走っていくと、途中で姿が見えた。普段話をする相手でもなし、唐突に男の話を持ち出しても不審に思われるだろうから、偶然に出会った風の挨拶をすることにした。
「こんにちは。」
「あら、こんにちは。珍しいわね。」
 中年女性は意外そうな顔で挨拶に応えた。私は近所では無口な人間として通っている。それもそのはずで、私は散歩しに外出するときは大概ものを考えながら歩いているため、悪気はないのだが人とすれ違っても気がつかないことが多いのである。
「珍しいわね、ってのも失礼かしらね。こんにちは。」
 中年女性は改めて言った。
「いえ、失礼なんてことはありませんよ。私の方こそ普段から挨拶を欠いてしまっていてとんだご無礼を。」
「あなた、作家さんなんでしょう。」
「ほんの物書きの端くれですよ。」
「すごいわ。ちゃんとそれで生計が立っているんですもの。」
「作家なんてのはごまんといますからね。そんな肩書きはどうだっていいんですよ。要は私がどんな人間かってことが重要なのであってね。まあ私がどんな人間かなんてことは、私以外の人間にとってはそれもまたどうでもいいことですがね。」
「おもしろい方ね。」
「どこへ行かれていたんです?」私は聞いた。
「ええ、ちょっと買い物に。」中年女性は言った。
「そうですか。」
「どこへ行かれるんです?」中年女性は聞いた。
「ええ、当てもなく。」私は言った。
「そうですか。」
「時に、最近よく墓参りに来ている人を御存知ですか。」
 早々に会話に飽きた私が本題を切り出すと、中年女性はにやりと不適な笑みを浮かべて言った。「あら、やっぱり作家さん。」
「はい?」
「変わったことにはご興味をお持ちなのね。」
「変わったことだかどうだかはまだ知りませんけれど。」
「変わったことなのよ、それが。あの男の人、どなたをお参りしていると思う?」
「さあ。」
「作家さんの想像力で、ほら。」
「そんなことを言われましてもね。肉親とか恋人とか、せいぜいそんなものでしょう。あれだけ長い間来ているのだから、よほど大切な人なんでしょうね。」
「大切と言えば大切かもしれないわね。」
 じれったい問答に付き合う必要はなかった。私は苛々しながら聞いた。
「それで、誰の墓なんです?」
「自分の墓なんですって。」
「はい?」
「自分の墓を建てたんですって。まだ生きているのに。」
「それに向かってあんなに祈ってるんですか。」
「ええ。」
「一体何に対して?」
「知らないわよ。亡骸も何も入っていないのに。変な方でしょう。」
 私は礼を言い、中年女性とはその場で別れた。そしてそのまま家に帰った。
 書斎で私は頭を抱えた。窓からは男の姿が相変わらず見える。何をしているんだ、あの男は? ああ、またなぜ私はこんなことで煩わされているのだ? 仕事に向かおうにも、男のことばかりが頭をよぎりまったく仕事にならなかった。あの男の姿が脳裏にこびりついて離れなかった。
 誰のためでもなく、自分のために祈りを捧げている男。それもあれだけの長い時間を掛けて。私にはその真意が図りかねた。贖罪か、それとも絶望か。男が何を思って今のこの状態に至ったのか、私はもはや単なる好奇心とは言えぬほどの関心を抱いていた。
 私は次の日こそ男に話を聴きに行くことを決めた。すると、翌日は申し合わせたように男は墓地を訪れて来なかった。

 結局、私が男と話すことができたのはそれから一週間後のことである。それだけの長い期間、男が墓参りに来ないことはここ二ヶ月で初めてであった。私は二度と男が墓に来ないのではないかと、気が気ではなかった。あの日中年女性が気に障ることでも言ったのではないか。それが原因で男は墓を参る意欲を失ったのではないか云々。
 話し掛けると、男はからっとした様子で返事をした。
「ああ、もう必要なくなったんですよ。」
 私は何のことやらわからなかった。
「いや必要なくなったと言うと違うか。とにかくこれまで二ヶ月掛けてしてきたように、膨大な時間を投じる必要はなくなったということです。僕は生まれ直したので。」
 男の話を聞けば聞くほど、私の混乱は増していった。この上なくマイペースなこの男は私の聞きたいところをあえてずらすかのように、自分の話ばかりするのだった。
「ご自分を変えるための苦行のようなものだったということでしょうか。」
「僕はね、思うのですけれど、人間、内面を見つめることが必要なんですよ。自分の内面を見つめるということが。時折僕は僕を見失うんですね。そうすると僕は僕が誰だか分からなくなってしまう。僕が僕ではなくなってしまうんだ。わかりますか、この感覚。僕はそういう事態が起こったとき、内面を見つめることによってこれを克服したいと考えるわけです。」
「つまりご自身の墓を建て、そこに祈りを捧げることが……」
「僕は死ぬんです。死ぬことで生きるのです。また新たに生き直すことができるのです。」
「はあ。」
「あなたはどうも見誤っている。見つめるという行為は燃やし尽くすことです。それは苦行とは違います。苦行の真髄は耐えることによって我を無くすところにあります。祈りは違う。祈りは、ひたすら待つことによって我を無くすのです。ただ燃やし尽くされるのを待つのです。そうして燃やし尽くされたとき、僕は灰の中からふたたび生まれ直すんです。さながら不死鳥の羽ばたきのようにあたらしく。」
 それだけだった。男との会話はこれで終わった。その男は、墓と私に向かってそれぞれ一礼すると、威勢よい歩き方で颯爽と去っていってしまった。私は男の言った言葉が何を意味しているのかもわからず、呆然と墓の前に立ち尽くしていた。
 私には男の言葉を要約することはできない。また解説することもできない。私はこのように生きている風変わりな男と出会ったという話を、体験したままに書き記したにすぎない。不思議なことに書かずにはいられなかったのだ。今では私はあの男の言っていたことがすこしだけ、本当にすこしだけ理解できるような気がしている。
 男はその日、初めて墓に花を手向けていた。その墓の中に亡骸はないが、すでに死んで抜け殻となった男の霊が確かに葬られているのだろう。その過去の己の霊に、生まれ直したその男は哀悼の意を示し、祈りを捧げた。私たちが初めて会話を交わしたあの日には、そういう意味があったのだ。つまり男が事実上、この墓地に墓参りに来たのはあの日が最初で最後だったというわけである。それにしてもやはり骨や肉体の埋められていない墓ではあるのだけれど。
 それでもよくよく考えてみれば、元来墓とはそういうものではないか。肉体を離れ去った霊を祀るものが墓ではないか。だとするならば、あの男の一連の行為も、そう異質とは言い切れない。それが、たとえ自分の霊であったとしても。私は誰にたいするでもなく、男の擁護をみずから買って出るような考えを抱いた。
 その男は二度と墓前に訪れることはなかった。葬った過去は静かに眠らせることにしたのだろう。しかし今日もまた、男はどこかの墓地で新たに墓を建て、そこで祈りを捧げているのかもしれない。じっと手を合わせて、なにかが燃やし尽くされるのを待ちながら。


   了。

祈る男

4726文字。2013年6月13日筆。

祈る男

その男は今日もまた墓の前で手を合わせていた。来る日も来る日も足を運んでいた。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-06-13

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