エレナ倒影

     一九八三・五・一  進吾

 ハイキングに出掛ける日の、朝のことだった。
 進吾は、両親と一緒に駐車場へ向かう前に、家の前の木に吊るしてある鳥籠を下ろそうと、一人で外へ出た。
「あれ?」
 鳥籠の中は空であった。背後で飼い犬のポチが吠え出す。懸命に吠えて何かを訴えようとしているかのように、進吾には思われた。
 玄関に戻り、進吾は扉を開けて大きな声を出した。
「お母さーん。エレナが居れへん!」
 白い文鳥のエレナは、約一年前、進吾が八歳の誕生日にプレゼントとして両親から買い与えられたものだった。可愛がっていたのに、誰が外へ出したのだ、と進吾は憤りを覚えた。
 ややあって、父が出て来た。
「エレナ、なんで居れへんねん?」
「知らんやんそんなん。見たら空っぽやってんもん」
 進吾が指差す鳥籠を、父は見た。そして、木の方へ歩いて行く。鳥籠が吊るしてある枝の後ろへ回った父は、「うわっ」と声を上げた。
 進吾は驚いて駆け寄り、父が見ている地面を同じように見る。
「うわああ!」
 と叫んで退いた進吾は、木の根に躓いて尻餅をついた。
 文鳥のエレナが、地面に落ちて死んでいたのだ。腹から流れ出た血が土を赤黒く染めている。
「……なんでこんな……なんで!」
 やがて、二人の声を聞きつけた母が走り出て来た。母は、父と進吾のように驚きはしなかった。
「あの時やわ」
 と呟く母を、進吾は見上げる。
「あの時って?」
「昨日の夕方、ポチが凄く吠えててね、外見てみたら、直幸君がきょろきょろしてたんよ」
「……宮っちが殺したって言いたいん?」
 母は黙って頷いた。
「宮っちがそんなことする訳ないやんか!」
 進吾は立ち上がり、母の両腕をつかんだ。
「ちょっと、聞きなさいよ。……それでね、後でもう一回見たら、足を地面にごしごし擦り付けてたんよ。その時は何してんのか分からへんかってんけど……きっと、エレナを踏んで靴の裏に血が付いたんやわ」
「踏んでるとこは見てないんやろ?」
 母はまた頷く。
「じゃあ、宮っちが犯人やなんて言われへんやん!」
 進吾に両腕を揺すられても、母は落ち着き払っていた。そして、また口を開く。
「……あのね。前から言いたかってんけど……直幸君とあんまり仲良くせん方がいいと思うで。あの子いっつも黙ってるし、あんまり笑わへんし、ちょっと変やろ? 何するか分からへん子やないの」
 進吾の動きが止まった。母の腕から手を離す。
「宮っちはそんな変な子とちゃうで!」
 進吾の肩を両手でつかみ、母は強い調子で言う。
「進吾がそう思うだけ。お母さんには分かるの。今日は一緒に行くって前から約束してあったからしょうがないけど、これからはもう遊んだらあかんで。約束しなや」
 母の手を振り解こうともがきながら、進吾は泣き喚いた。
「なんでや! 宮っちは変ちゃうもん、いい子やもん!」
「お母さんの言うこと聞きなさい!」
 母に一喝されると、進吾は俯き、ポロシャツの袖で涙を拭った。父に頭を撫でられても、なかなか嗚咽は治まらなかった。
(お母さんはいっつも間違ってないけど……でも、宮っちはエレナを殺したりせえへんよな? こないだも一緒に餌やったもんな。なんでこんな日にこんなことになるんや……楽しみにしてたのに。そうや、ハイキングに行く間は何も言わんと一緒に遊んで、帰って来てから宮っちに聞いてみよう。『宮っち、エレナ殺したりする訳ないよな?』って聞けばいいんや。でも、それでもし『殺した』って言われたらどうしよう……どうしよ……)
 母はエレナの死骸を片付け始める。
 直幸の靴の裏を見るのが怖い、と進吾は思った。



     一九九二・一〇・二七  中間試験最終日

 神山和輝は、よく変な夢を見た。
 九年前のゴールデンウィークに皆でハイキングに出掛けた帰り、走っているワゴン車の窓から転げ落ちて死んでしまった幼馴染み・平川進吾が、出てくる夢だ。その時一緒に居たもう一人の幼馴染みである宮谷直幸を、進吾が連れ去る。和輝はそれを追い掛ける。
 途中で諦める時はまだ良かった。追いついた場合が酷いのだ。進吾は、和輝の眼前で、直幸を殴打したり棒で突き刺したりするのである。
 何故、直幸を傷付けるのか。
 ある日の夢の中で、和輝は進吾に問うた。進吾は答える。
「和輝、お前は墓参りに来た時に『僕がちゃんと注意したら良かった、ごめんな』って言うてくれたよな。俺ははっきり覚えてる。でも、今の今まで、こいつが謝るのを聞いたことないんや。そんな奴はこうなる運命にあんねん。ただの夢やと思て馬鹿にすんなよ。俺はこいつを殺す」
 ……あの日、和輝と直幸と進吾が乗っていたのは、進吾の父が運転する車だった。助手席に進吾の母が、後部席に進吾と和輝、直幸が座っていた。父母に咎められながらも、進吾は立ち上がって悪ふざけをやめなかった……
 言わば、自業自得。
 直幸に責任などない筈なのに。

 直幸が進吾によって谷底へ突き落とされた瞬間に目覚めた時、和輝は寝汗すらかいておらず、至って平常であった。いつの間にか悪夢にも慣れてしまった自分が怖くなり、暫く布団の中に潜っていた。
 しかし、いつまでもそうしては居られない。
 その日は二学期中間試験の最終日であった。比較的得意としている古文を残すのみだったので、あまり緊張感というものはなかった。
 それよりも、古文のテストの後の、卒業アルバム用集合写真の撮影の方が重要なことのように思われてならなかった。
 和輝は、いつになく念入りに髪を整えてから家を出た。

 まだ時間がある、そう思って和輝はゆっくりと自転車を漕いでいた。
 すると、背後から自転車が近付いてきて、肩を叩かれた。直幸だった。
「和輝、今日はキメてるな!」
「『キメてる』って、なんかダサいぞ」
 そう言って直幸を見ると、いつも通り、寝起きのままのぼさぼさ頭だった。
「お前、そんな頭で撮るんか?」
「ありのままの姿やないとあかんやろ」
「よう言うわ。ドライヤーの使い方とか分からんのちゃうんか」
「ほっとけ」
 そんな会話をしていると、和輝は夢のことなどすっかり忘れてしまっていた。
 が、直幸が併走をやめて後ろへ回り、何も話さなくなってから、漸く思い出した。
 約一年前に見た、最初の“その類”の夢のことを。進吾が直幸を連れて和輝の元から逃げ去る、という内容だった。
 ……その夢から醒めた朝、直幸は、自転車で登校中に自動車と接触して転倒した。口の中を切って血を流していた様子が思い出される。和輝は必死でそれを払拭しようとしたが、出来なかった。

 学校の通用門前で自転車から降りた和輝は、すぐに後ろを振り返った。事故にも遭わず無事に和輝の後を走って来た直幸の姿を目にして、溜め息をつく。
 きっと直幸は溜め息の要因を尋ねてくるだろう、説明するのが面倒だ、と和輝は勝手に思い込んで滅入りかけたが、直幸を見て、いつもと何かが違うと感じた。神妙な顔つきで直幸は和輝に近付いて来るのだった。
 自転車置場へ向かう途中で、直幸は口を開く。
「今日、変な夢見てな」
 和輝はどきりとして、直幸の夢の内容を聞く前に思わず言った。
「俺も見たで」
「えっ、どんな?」
 一瞬ためらったが、和輝は答える。
「進吾が、お前を、谷底へ突き落とす夢や」
「……おんなじや!」
 直幸はそう言って立ち止まった。
 和輝は、直幸の顔を見ずに、なんでもない風に言う。
「すげー偶然やな」
 しかし、和輝は心の中で怯えていた。
 一年前、直幸が事故に遭った日にも同じような夢を見たということを、和輝は打ち明けていなかったのだ。小心者の直幸をそんな話で脅かしてはいけない、と思って。
 だが、心の中にしまい込んでいたら、「ただの偶然と思うな」という進吾の声が聞こえてきそうな気がしてくる。それをかき消すように、和輝が笑いを付け足すと、直幸は、
「自分が突き落とされたんじゃないからって呑気に笑いやがって」
 と文句を言った。
 和輝は、実は一年前の事故の日にも同じような夢を見た、と直幸が言い出すのではなかろうかと予想し、直幸の顔をじっと見た。
「何?」
 以前にもこんな夢を見なかったか、と尋ねられることも覚悟したが、直幸は何も言い出さなかった。

 二人は、静かな校内を歩いて教室へと向かった。
 三限の古文の試験開始まで、まだ時間がある。直幸にしては珍しく余裕を持って登校したのは、例の夢のせいで早く目が覚めたからであった。
 直幸のクラスである八組の教室では試験中だったので、和輝のクラスである七組の教室に二人とも入り、適当に前後の席に腰を下ろした。
 和輝が古文の教科書を鞄から取り出して試験範囲のページを開いた途端に、前の席に座った直幸が振り向いた。
「なあ、あの夢、何かの暗示やろか」
「まさか、そんな訳ないやろ」
 和輝は、自分にも言い聞かせるかのように言う。
「そうかなあ。なんか気持ち悪いやんか、おんなじ夢なんて」
「偶然やろ」
「こんな偶然あるか? ……それにしても、なんで進吾が」
「もうええやんけ、夢のことなんか。お前、一学期に古文欠点やったんちゃうんか?」
「そうやけど……」
 直幸は不服そうに呟きながら前を向いた。

                    *

 試験が終わると間もなく、集合写真撮影の順番が和輝のクラスに回って来た。
 校舎から外へ出て空を仰ぐと、全体が暗い灰色だった。風も強まっており、肌寒い空気が満ちている。七組が撮影する間は辛うじて持ちそうだが、八組の時にはひょっとすると雨が降り出すのではなかろうか、と和輝は思った。
 一列目が椅子に座り、二列目がその後ろに立ち、三列目が段上に上り……和輝がカメラの方を向くと、雨粒が一つ落ちて来た。
 既に八組の生徒達が近くまで来ている。直幸の姿もあった。試験が始まるまでのあの不安を忘れたかのように、クラスの者達と馬鹿騒ぎをしている。
 いや、忘れるためにそうしているのかも知れない。
 和輝は、直幸の表情を観察したが、そのいずれなのか判断し兼ねた。
 そんな時にいきなり直幸は和輝を指差した。
「和輝、風でセットが乱れてるぞー!」
「何がじゃ! お前なんか最初っから乱れてるやんけ!」
 斜め前方を向いて大声で喋っていると、
「こら神山、前向いとかんか」
 と、担任に叱責された。
「はは、阿呆やー」
 直幸がそう言って笑っている姿が、和輝の視界内に入る。和輝は、何がおかしいのか自分でもよく分からないまま、カメラを見据え笑いを堪える。
(何が『何かの暗示やろか』や。何とも思てないんちゃうんか!)
 だが、次の瞬間に彼が捕らえた直幸の表情は、明らかに曇っていた。しかしそれは試験の出来が悪かったからなのかも知れない。必ずしも夢のせいだとは断言できないのである。
(もう夢の話はせんとこ、怖がらしたらあかんし)
 そんなことを考えているうちに、雨は止んでいた。
 七組の撮影は無事終了し、八組と交替する。
 擦れ違う時に、和輝は直幸の頭を小突いた。
「ほんまにお前、髪の毛ぼさぼさやな」
「ほっとけっちゅうねん!」
 直幸は笑ってそう言った。



     一九九二・一〇・二九  秋の遠足前々日

 秋の遠足を翌日に控え、神山和輝は飯盒炊爨でカレーを作るのに必要な材料を買うため、学校帰りに遠回りをしてスーパーに寄った。
 買い物を済ませて外へ出ると、ちょうどそこをG女子高の制服の一群が通りかかった。そのうちの一人が立ち止まって振り返る。
「やっほ。かみちゃん」
 時々顔を合わせて言葉を交わす、中学の同級生・尾形さおりであった。さおりは、一緒に居た者達に手を振り、和輝の方へ近付いて来る。
「何買ったん?」
「カレーに入れる野菜」
「ああ、飯盒炊爨って言ってたっけ」
「そう。よう覚えてんな」
「へへ。……かみちゃん、この後暇?」
「うん。なんで?」
「ミスド行かへん? 私、二十パーセントオフの券持ってんねん!」
「へえ、そんなんあるんや」
「いいやろ。行こ行こ!」
 和輝はさおりに半ば強引に引っ張られて行った。

 ミスタードーナツの店内はいつもながら混雑していたが、一階の窓際のテーブルが一つだけ空いていた。
「良かった、座れて」
 さおりは心底嬉しそうに笑顔を見せる。和輝が持っていたビニール袋を膝の上に置き、人参やら玉葱やらを手に取って眺め始めた。
「なあ、かみちゃんとこって、一学年六百人ぐらい居るって言ってたやろ? みんな一辺に飯盒炊爨ってできんの?」
 突然さおりは疑問を投げかけた。
「全員同じとこちゃうねん、各クラスで決めたとこへ行くから」
「え、みんな別んとこ?」
「何クラスかは一緒らしいけどな。宮谷んとこも」
「宮っちか、あははは」
 名前を聞くと、さおりは笑い出した。
「何がおかしいねん」
「宮っちが作ったものって食べれんのかな、と思って」
「あいつんとこ焼肉やから、ただ焼くだけや」
「そうなんや、じゃあ大丈夫やなあ」
 という具合に、二人の会話の中で、いつも直幸は笑いの種となっているのだった。
 しかし、和輝はその時ふと例の夢を思い出してしまった。さおりの顔から視線を逸らし、人々が行き交う窓外へ目を向ける。
「そうそう、俺、こないだ変な夢見てん」
「どんな夢?」
「宮谷がな、進吾に……知ってるやろ? 小三の時に死んだ進吾。そいつにな、谷底に突き落とされる夢やねん」
「何それ! かわいそ」
 さおりが率直に述べた感想は、余りにも一言に集約され過ぎていて妙だったので、和輝は笑いを漏らしてしまった。
「なんで笑うんよ。言うたんねん、宮っちに」
「そんな言い方されたら誰でも笑うわ。……でな、まだ話終わってへんねん」
「何? かみちゃんも突き落とされんの?」
「待てやちょっと。俺まで落とすな」
「あ、それって宮っちは落ちてもいいっていうこと?」
「ちゃうー言うねん。聞けよ、もう。俺の見た夢はそこまでやねんけどな、宮谷が丸っきりおんなじ夢見たって言うねん」
「え――?」
 さおりが甲高い声で叫んだので、周囲の客の冷たい視線が集まった。
「目立つやんけ、もう」
「ごめん……でも、それって絶対何かあるよ!」
「言うと思った。宮谷も言うとったわ」
「怖がってたん?」
「暗示ちゃうか、とか言ってた」
「うーん、でもそういうのってさ、そのとおりのことを暗示してるとは限らんやん?」
「……え?」
 さおりは、神妙な顔を作って見せる。
「ほら、歯が抜ける夢って、歯が抜ける前触れじゃなくて、身内に不幸が起こる前触れ、とか言うやん」
「知らんでそんなん」
「とにかく言うの! だから、ひょっとしたらな……」
「何やねん、早よ言え」
「かみちゃんが落っこちる、とかさ」
「なんでやねん!」
「あー、やっぱり宮っちがおっこちてもいいと思ってんねや!」
「しつこいぞお前はー」
 和輝は呆れて見せた。さおりは口を尖らせる。

 辺りは次第に暗くなりつつあった。ドーナツを食べ終え、話すこともなくなってきて、そろそろ帰ろうかと和輝が思い始めた頃、さおりはコーヒーのおかわりを頼んだ。
「まだ飲むんか」
「うん。だって、見せたいもんあるし。……ほら!」
 さおりが鞄から取り出したのは、中学校の卒業アルバムだった。
「なんでそんなもん持ってんねん?」
「クラスの子らと見せ合いしてん。かみちゃんとこでも、女の子、持って来てたりせえへん?」
 言われてみれば、そういう光景を見たことがあるような気もした。
 さおりは、五組――和輝と直幸とさおりの居たクラス――のページを開いた。
「ほら、この集合写真の宮っち、めっちゃ写真写りいいと思えへん? かっこいいで」
 そう言ってさおりが指し示す集合写真を、考えごとをしていた和輝はぼんやりと眺めた。
「もう、なんとか言ってよ。あ、分かった、『俺の方がかっこええわ』って思ってんねや」
「阿呆か」
「宮っちにしてはかっこ良く見える、っていうだけやで?」
 そう言って笑うさおりの顔を、和輝はまじまじと見る。何故ここまで無茶苦茶に言われているのだろう、と直幸が気の毒に思えてきた。中学の頃もそんな風に扱われ続け、高校に入ってからもそうなのだ。
「宮っちって今でもあんな感じ?」
 和輝は一瞬、心の中を読まれたかと思った。
「そうや。なんか知らんけどおちょくられてる。あいつ、ずっとあんなんで大丈夫かな」
「かみちゃんもおちょくってるくせに」
「まあ、そうやけど」
「かみちゃんって、おちょくり続けて、えーっと、十一年半?」
「数えんな。言っとくけどなあ、小学校ん時はあんまりおちょくってへんで」
「なんで?」
「あいつ、暗かったもん」
「え、そんなん初耳!」
「わめくな。目立つ言うてるやろ」
「ごめん……でも、そんなん聞いたことなかったから」
「そうか?」
「うん。どんなんやったんか聞きたいけど……もう時間ないわ」
 さおりは腕時計を見て言った。
「どっか行くん?」
「うん、家族で外食」
「ドーナツなんか食ったらもう入らんのちゃうんか?」
「いけるよ、まだ」
「へえ、俺は暫く何も要らんわ」
「えー? そんないっぱい食べてたっけ?」
 他愛もない会話をしながら二人は店を出た。
「じゃあ、また」
「うん。また電話でもするわ。……あ、そうそう、宮っちに『気い付けや』って言っといて」
「俺はどうでもいいって?」
「……何言ってんのよ、もう。気い付けて欲しいに決まってるやんか」
「ほんまか?」
「勝手に疑っとき」
 掌をひらひらと振り商店街を歩き出すさおりが、角を曲がって見えなくなる前に、和輝は自転車に跨った。

                    *

 その日の夜、和輝は小学校の卒業アルバムを取り出し、ベッドに寝転がってめくってみた。
 二年生の遠足の集合写真に、進吾の姿がある。体育座りをしている進吾の横で、和輝はドッジボールを持って立っていた。
(そう言や、遠足にクラスのボール持って行ってたっけ。いつも俺がボールの係してたような気がするな。ドッジとか、好きやったからなあ……)
 和輝は、進吾や直幸とボール遊びをしていた遠い日々を回想しながら、うつらうつらし始めたのだった。


     一九八三・四・三〇  和輝

 ハイキングの前日、昼過ぎに和輝と直幸は翌日のおやつを買いに出掛けた。そのついでに河川敷公園へ行ってみると、遊具が増えていた。そこで二人は五時の音楽が鳴るまで遊んだ。
 帰り際、堤防の階段を上がりながら、和輝は言った。
「しんちゃんも来たら良かったのにな」
 独り言のようなつもりだったが、それについて直幸に質問された。
「なんで来えへんかったん?」
 堤防の上に辿り着いた和輝は、町を見下ろす。すぐそこに進吾の家がある。
「おやつはもうおばちゃんが買って来たんやって」
「買わんでも、一緒に行ったら良かったのに。そしたら後で遊べたのに」
「『明日一日遊ぶんやから今日は勉強しなさい』っておばちゃんに言われたんやって」
「ふうん……」
 直幸も、和輝と並んで下を見る。進吾の部屋の窓は、大きな木に隠れて見えない。
「しんちゃん、頑張ってんねんなあ」
「頑張ってんのはおばちゃんちゃう? ああいうお母さんを『教育ママ』っていうらしいで」
 そう言って和輝は笑った。
 が、心の中では笑えないでいた。進吾とは幼稚園時代からずっと一緒に遊んできたのに、三年生になってからは、誘いに行っても二回に一回の割合で「ごめん、今日は勉強の日やから」と断られる。
「勉強って、そんなにいっぱいせなあかんのかなあ……」
 などとぶつぶつ言う直幸に「帰ろ」と声を掛けたが、直幸は指のささくれをめくるのに熱中していて、歩き出そうとしない。
「もう、帰るで」
 和輝はそう宣言して、町の方へ階段を降り始めた。
 犬のわんわん吠える声が聞こえてきて、半分降りたところで足を止めて進吾の家の方を見ると、誰かが木の幹にドッジボールをぶつけて遊んでいた。
(何してんねん……)
 急いで階段を降り、最後の四段は飛んだ。着地したその時、「がしゃん」という音が聞こえた。ドッジボールが幹ではなく枝に吊るされた鳥籠に当たったのだ。鳥籠は大きく揺れる。それを見てげらげらと笑う声の主は、見たことのある顔だった。一つ下の学年の男子二人だ。
「こらー!」
 何してんねん、と続けて言おうとしたが、それより先に二人が逃げ出していた。ポチの前に放置されたボールを見てみると、“2ー1”と書いてあった。クラスのボールではないか。和輝はそれを拾い上げ、二人を追い掛けた。
「これ、教室の奴やろ! 学校へ返しに行けー!」
 二人はなかなかすばしこく、あっという間に堤防へ登って行く。
「宮っち! そいつら捕まえてくれー!」
 堤防の上に立っている直幸に向かってそう叫んだが、
「へ?」
 と言って和輝の顔を見るだけで、動こうとしない。逃げる二人は、直幸の目の前で左右二手に分かれた。
「もう、宮っち! あっちの奴頼んだで!」
 和輝は、ボールを持っている方を追って左へ行った。
 真っすぐ百メートル程走ったところで、漸く追い付いた。
「犬苛めんな! 学校のボール持って来んな!」
 と言って腕を引っ張る。二年生はあっさり転んだ。
「返しに行くよ……」
 と弱々しく言う二年生は、尻餅をついたのが痛かったのか、涙目になっていた。和輝が手を離すと、ボールを持って堤防を降り始めた。その後に続いて、和輝も降りかけた。
(あ、もう一人はどうなったかな)
 と思い出し、二手に分かれた地点を見やった。……もう誰も居ない。
(宮っち、あの調子じゃ、追い掛けてないな。勝手に帰ったんやろ)
 和輝は、二年生がボールを返すのを見届けたら、直幸を探しに川の方へ戻らず、そのまま帰ることにした。散々遊んだ後でまた思い切り走って、疲れてしまったのだ。



     一九九二・一〇・三〇  秋の遠足

 昼下がりの川で、直幸は嫌々バーベキューの網を洗っていた。
 ある時、手を止めて辺りを見回した。同じ班の笹口が居ない。立ち上がって探すと、他の班のところに居た。
「おーい、笹口! 何してんねーん」
「ここの班、肉いっぱい残ってるから、食べてくれって言われてん」
「お前も洗いもんしろよ」
「さっき飯盒洗たやん。その間に宮っち、どっかあっちの方行っとったやんか」
「そうやったっけ?」
「宮っちもそれ洗たらこっち来いよ」
 笹口はそう言うと向きを変え、肉を引っ繰り返し始めたのだった。
 網を洗い終えた直幸は、言われた通り、肉を食べに向かった。笹口に飯盒の蓋を渡される。
「ほら、どんどん食べな。はいよ」
「おい、これまだ焼けてないぞ」
「大丈夫やって」
 そんなことを言いながら、二人は近くの石に腰掛けて食べ始めた。
 そこは洗い場の近くだった。川でなくこちらで洗うべきだったのか、と直幸はその時気付いたが、よく見ると洗い場の水は川に流れ込んでおり、裏切られたような思いがした。川原に形成された水溜りは、洗剤の白い泡に覆われている。
 ふと横を見ると、笹口も同じ方向を見ているのだった。
「なんちゅうこっちゃ。川で洗たらあかん思てわざわざあっちで洗たのに。無意識で罰当たりなことしとったんやな、僕は」
 直幸は、川で飯盒を洗っていることを笹口に咎められはしなかったが、内心では「罰当たりめ」と非難されていたのだろうか、などと考えた。
 罰当たりと言えば、あの夢……と、直幸は思い出す。
(俺、何か罰が当たるようなことでもしたんやろか)
 幾ら考えても、思い当たる節はなかった。
「宮谷、なんでまた食ってんねん?」
 頭上で声がした。見上げると、川より二メートル程上の道の際に和輝が居た。和輝は身軽にぴょんぴょんと岩を跳んで、直幸の元へ降りて来た。
「おおっ、素晴らしいフットワーク。さすがバスケ部」
 笹口が称える。和輝はそれについては何も言わず、笹口に聞いた。
「お前も卓球部でフットワーク練習とかしとったんちゃうん?」
「まあなあ」
「じゃあおんなじようなもんやろ」
「ということは、やってないのは宮っちだけか」
 直幸は、笹口を睨んだが、
「宮っちが睨んでも全然怖ないで」
 と言われて返す言葉もなくなり、膝の上に頬杖を突いて溜息をついた。
「なんかお前のその座り方、中学の部活ん時みたいやぞ」
 和輝の言葉に、笹口は驚きの表情を見せた。
「え? 宮っち、クラブ入ってたん?」
「和輝、要らんこと言うな!」
 直幸の喚き声を遮って和輝は言った。
「陸上やで!」
「……ほんま?」
「大体、サボって座ってるだけやったけどな」
 和輝に明かされ、直幸はもう一度溜息をつき、言った。
「だから、鈍臭くても負けといてくれ、っちゅうことや」
 それを聞いて、和輝と笹口だけでなく、傍で聞いていた女子らまで笑い出した。
 直幸は皆が思っているほど運動神経のない奴ではないのだが、何故か和輝はそれを口に出しては言えない。
 直幸は、いじけるような口調で言った。
「どうせ俺はあそこからは降りられませんよ」
 その時には、例の夢のことを忘れていた。

 いつしか空に雲が広がり出し、風が強まっていった。巨大な岩の上で脚を伸ばして座り、空を仰いでいた笹口が、ある時、
「雨や」
 と呟いた。
 すると急に風の勢いが増し、大量の枯れ葉が空中を舞い始めた。
「凄い光景や! 写真撮っとこう! 宮っち、そこのリュックの上のカメラ取って!」
 笹口は叫んだ。直幸はカメラを手渡しはしたが、
「うわ、むっちゃ降って来たやんけ! ほって行くぞ!」
 と叫ぶように言い、笹口を待つことなく荷物を抱えて走り出した。
 屋根のある所に辿り着き、川の方を見ると、笹口はまだカメラを構えていた。
「おーい! ええ加減にしとけよ!」
 直幸に大声で呼ばれ、笹口は漸く腰を上げ、走って来る。その様子を直幸はぼんやりと眺めていた。
 すっかり濡れてやって来た笹口は、リュックからタオルを取り出しカメラを拭きながら、直幸に尋ねた。
「宮っち、網返しに行った?」
「え?」
「僕が飯盒返すから、宮っちは網な、って言うたやんか」
「そう言えばそうやったな」
「あ、あそこにある! あの岩の横っちょ!」
「ほんまや」
「ほんまやとか言うてる間に取って来いよ」
「……むっちゃ降ってきたのに……」
 直幸は再び雨の中を走り出した。
 網を持ち上げると、また走った。打ち付ける激しい雨音に急き立てられて全力疾走するうち、中学時代の部活動の時間、まれに死に物狂いで走っていた際の、ある種自己犠牲的な充実感が甦ってきた。そして、走りながら一瞬見上げると、和輝と目が合った。中学時代にもそんなことはあった。走っている時に視線を感じ、校庭の端を見ると、バスケットボールのコートに居る和輝と目が合ったのだ――と、直幸は一瞬述懐した。それがいけなかった。
 岩場を少し登り掛けた直幸の足は、濡れた岩の表面でつるりと滑ってしまった。
「うわああ!」
 網は手から離れ、直幸が引っ掛かって止まった所よりも下へ落ちていた。頭上で級友達の笑いが起こる。
 直幸にとっては笑いごとではなかった。左足を捻ってしまったのである。這いつくばるようにして上がる直幸の手を笹口が引っ張って、道まで上げた。
「おい、大丈夫か」
 和輝が声を掛ける。
「あかん、完全にぐねた」
「マジか。……ほんま鈍臭いなあ、お前は」
 落ちた網は笹口が取りに行った。
 和輝が直幸を負ぶって、笹口が直幸の分も荷物を持って、連れて帰ることとなった。
 足の痛みよりも、落ちる夢が現実になったということが、復路において直幸を無口にさせたのだった。

                    *

 解散後、和輝と直幸の最寄り駅まで笹口も同行した。
 駅前で二人が自転車の鍵を開けたり籠に荷物を載せたりするのを、直幸は花壇の縁に腰掛けて待っていた。
「あれ? 宮っち」
 という声がして、顔を向けると、さおりが駆け寄って来ていた。
「あ、尾崎」
「久し振りぃ! 今日、遠足やったんやろ? ……なんでそんなとこ座ってんの?」
「……足、ぐねてもうてな」
 そう言いながら、また「相変わらずドジやなあ」などと笑われることになるのだろうと思ったが、返ってきた言葉は
「ひょっとして、正夢?」
 というものだった。
 さおりからそんな言葉が発せられると考えもしなかった直幸は、訳が分からず呆然としていた。そこへ自転車を押して和輝と笹口がやって来る。
「あ、かみちゃん! あの夢、ほんまになったん?」
 さおりはその場でじたばた足踏みをしながら言う。
「たまたまや」
 和輝は適当にあしらい、自転車を止め荷台に座らせるべく、直幸を立ち上がらせる。
「夢て、何?」
 笹口がぽつりと言った。直幸は、和輝の顔を見る。説明するのも面倒だ、と目が訴えていた。しかし、話さなければ笹口は「何? 何?」としつこく聞いてくるであろうと思われたので、簡潔に喋ろう、と直幸が意を決したところ、
「この前、宮っちが谷底へ落っこちる夢を、かみちゃんも宮っちも、二人とも見やってんて!」
 と、笹口とは初対面であるさおりが、あっさり話してしまったのだった。誰に落とされたか、というのは言わなかった。
「え、二人とも! そら正夢にもなりますわなあ」
 笹口はそんな感想を述べた。
「でも、ぐねた程度で済んで良かったね。奈落の底に落ちてたら死んでまうもん」
「勝手に奈落にすんな」
 直幸が言い、皆が笑う。が、すぐにさおりは真顔になった。
「笑ってる場合じゃないかもよ。二人とも、あの……シンゴ君、やったっけ? その人に悪いことしてない? お墓参りに全然行ってないとか」
 直幸と和輝は顔を見合わせた。また要らんことを言い出したな、と考えていると、やはり、
「シンゴ君って誰?」
 と笹口が尋ねてきた。が、それには構わず、さおりが更にこう付け加えた。
「行ってないんやろ。すぐにでもお墓参りした方がいいって!」
「……まあ、行ってみてもいいけど、足治ってから」
「あかんって、すぐ行き! 日曜にでも!」
 さおりは直幸の言葉を遮り、強い調子で命じる。和輝ならそんな非科学的な話は笑い飛ばしてくれるだろう、と直幸は期待したが、意外にも、
「ここんとこ行ってないし、一回行ってみるか」
 と言うのだった。
 これから整骨院には行かなければならないし、二日後に墓参りに行くならその予定も組まねばならないし、それよりも先に笹口に進吾のことを説明しなければならないし、まずはさおりを納得させて甲高い声を出させないようにしなければならない……という事柄たちが、直幸の頭の中で渦巻き始める。
「しゃあないな、行ってみるわ」
「うん、絶対それがいいって。気い付けて行っといでな!」
 さおりは直幸の肩をぽんと叩いた。
「じゃあな」
「うん、バイバイ!」
 話が一段落し、和輝が直幸を載せた自転車を漕ぎ出す。
「おっと、ちょっと待ってえな、僕の疑問は解消してくれへんのかいな? さっきから聞いてんのに」
「その話は後や」
 笹口がぶつぶつ言いながら追って来るのを見ながら、直幸は深い溜め息をついた。



     一九九二・一一・一  墓参

 日曜日、直幸と和輝は、進吾の墓参りに出掛けることになった。
 二日前、結局笹口は整骨院にも一緒に行って、「シンゴ君て誰?」と執拗に尋ねるので、二人が説明したところ、笹口までもが墓参を強く勧めてきたのだった。
「分かった分かった、行けばいいんやろ」
 と直幸は面倒臭そうに笹口に言っておいたのだが、実際のところ、何故かその時には、行くべきだと思うようになっていた。
 行って、進吾と話をしなければならない、そんな気がしていたのだ。
(死んだ人間と話するって、どんなんや……出来る訳ないよな……)
 電車に揺られ、窓の外を過ぎる風景を眺めながら、直幸は考える。
 あの時、事故がなければ、進吾も同じ高校へ通うことになっただろうか? という疑問が、ふと脳裏を過ぎる。もしそうなっていれば、自分につっこみを入れる人間がもう一人多かったのだ、と思うと、笑いが込み上げてきた。
「何笑ってんねん?」
「いや……」
 直幸は、進吾について考えても悲しみという感情がもう余り湧き上がってこなくなっていることに、その時漸く気付いた。
 事故から、九年半が過ぎたのだ。

                    *

 進吾が眠る墓地の最寄り駅周辺は、非常に賑やかである。飲食店が軒を連ねる商店街を抜けて行くと、静かな道に出て、長く続く塀に突き当たる。そこが広大な墓地だ。
 二人は、その少し手前で、よたよたと歩く老犬を連れた少年と擦れ違った。その直後、直幸は思わず振り返った。
(……進吾?)
 その少年は、進吾に似ていた。正確に言うと、進吾が高校生にまで成長すればこんな風になるだろうと思われる顔をしていた、のである。
 そんなことを和輝に言えば笑われるに違いない、進吾のことを考えていたからそう見えただけ、気のせいだ、と直幸は自分に言い聞かせ、前へ向き直る。
「お前、桶に水汲んで来てくれな」
 入口でそう言って、供花を持った和輝は先に奥へ入って行った。
 手桶と柄杓を借り、水を汲んでいる時、視線を感じて直幸はまた振り返った。
(さっきの……!)
 少年が中を覗いている。直幸は、急ぎ足で進吾の墓へと向かった。
「なあ、和輝」
「ん?」
 その後が続かない。もしそこに立っているのが進吾の亡霊であったら、和輝に言った途端に消えてしまいやしないか、と不安になったのだった。
「あそこに立ってる奴の顔、分かるか?」
 和輝の目が悪いことを配慮しているかのような聞き方をした。誰も居ないと言われることを覚悟しつつ。
 しかし、和輝はすぐに言った。
「……進吾っぽいな」
「やろ? 進吾に見えるよな? 進吾やと思わん?」
「進吾な訳ないやろ」
 和輝は前へ向き直り、線香の準備をし始める。少年は、未だ二人の方を見ていた。少年の連れた犬が、地面の臭いを嗅いでいる。
「なあなあ、あの犬、ポチちゃうんか?」
「え?」
 確か、小学校入学の時からポチは飼われていた、と直幸は思い出す。老犬になっていてもおかしくはない。
 和輝は、手を止めて再び入口に目をやった。
「そう言われてみればそれっぽい気もするな」
 和輝がそう呟いた直後、犬は突如顔を上げて、歩道を歩き出し、少年共々塀の向こうへ消えた。わうわう、と喜んでいるような声が聞こえる。
「おおー! ポチ!」
 誰かが確かにそう言った。
「元気にしてはりましたかな?」
 その声を聞き、直幸は和輝を顔を見合わせた。よく知った人間の声だ。
 二人とも、何も言わずに入口へ向かって歩き出した。
 塀の外へ出てみると、少し離れたところに、少年と犬と、そして、笹口が居た。犬は笹口に懐いている様子で、尻尾をぶんぶん振っていた。墓地から現れた二人に気付いた笹口は、犬を撫でる手を止めた。
「あれ? ……ひょっとして、例の人のお墓って、ここなん?」
 二人が近付くと、犬はわんわん吠え出した。
「どないしたんや、ポチ。宮っちが気に入らんのか?」
 と犬に尋ねる笹口の言葉を遮って、直幸は聞いた。
「この犬、ポチ、なん……?」
「そうや。で、こちらはポチの飼い主で、うちの米屋のお得意さんとこの息子さん」
 という笹口による説明を、今度は少年が遮った。
「ひょっとして、“かず君”と“宮っち”じゃないですか?」
 直幸と和輝は、同時に「え?」と言った。少年は続ける。
「平川進吾の従弟の、義啓です。夏休みとかにようしんちゃんの家行ってたから、何回か遊びましたよね。覚えてないですか?」
 直幸の中で古い記憶が呼び覚まされ始める。
「ああ、思い出した」
 和輝は笑顔で言った。直幸は、
「そうか……さっき、そっくりやから亡霊かと思ってびびったわ……」
 と思わず呟いていた。それを聞いて義啓は笑う。
「よう似てるって言われたことはあるけど、亡霊っていうのは初めてですね」
「酷いなあ、宮っち。大体なんで霊が成長してんのんな」
 笹口が言う。それもそうだ、と納得し、直幸も笑った。
「で、なんで今頃来はったんですか?」
 という義啓の質問に対し、笹口が「実はやね」などと語り出すのではないかと恐れた直幸は、すぐさま
「なんとなく」
 と答えた。が、笹口は黙ってはいなかった。
「夢で『墓参りに来い!』って言われたんやんな」
「そうそう」
「へえ、催促されたんですか」
 ……その話はすぐに終わり、思い出話が始まったのだった。
「しんちゃんの家はおもちゃが多かったから、面白かったですよ」
「そう言やそうやったな」
「一人っ子はいいなあ、とか思ってたな」
 というより、金持ちで羨ましいと思っていたような気がする、と直幸は振り返る。その根拠を、玩具が多かったこと以外で考えてみる。ポチがすっかり落ち着き、後ろ足で頭を掻く様子を見ていて、閃いた。
「ポチだけじゃなくて、他にもなんか動物いっぱい居ったよな」
「幼稚園の頃やったか、猫も居ったな」
「玄関に水槽があって、金魚もいっぱい居ましたよね」
「ああ、居った居った。夜店の奴な。金魚以外にも、兎とか亀とか」
「ひよこも居ましたよ。うっじゃうじゃ居たのに、持って遊び過ぎて、死んでもうたらしいですね」
「子供って酷いよなあ」
 ひよこが死んだという話で、直幸は、忘れ去ってしまっている重大な出来事を思い出さねばならないような気がしてきた。それは、夢で進吾が訴えていたことのように思われてならないのだった。
 そんな時、和輝が言った。
「進吾んとこって、家の前の木に鳥籠ぶら下げてなかった?」
「ああ、文鳥が居ましたね」
 文鳥、という言葉に心臓が反応し、鼓動を速める。直幸は義啓に尋ねた。
「その文鳥って、エレナっていう名前じゃなかった?」
「なんかそんな感じでしたっけね。はっきり覚えてないけど」
 そこで笹口が割って入ってくる。
「そういう昔の要らんことを覚えとくので脳を使い果たしてしもて、今勉強が頭に入らんねんわ。宮っちも僕も」
「またまたー。K高校入れたら十分じゃないですかー」
 そうして話は逸れていく。
 しかし、直幸は、文鳥・エレナに関する記憶を辿り続けた。
 ――エレナは、進吾が事故で死ぬ前の日の夕方に、死んだ。
(俺が、この左足で踏んだんや……)

 あの日の全てが甦ってくる。

 誰かがボール遊びをしていて籠にぶつけた時、エレナは土の上に落ちたのだ――堤防の上から見ていた直幸には、それが分からなかった。
 近寄って行っても、鳥籠の中にエレナの姿は見えなかった。鳥籠にボールをぶつけた子供らが走って逃げてからも、ポチは激しく吠え続けていた。
(どうしたんやろ、ポチ。……こんなに吠えてんねんから、しんちゃんかおばちゃんか、誰か見に出て来たらいいのに)
 そう考えながら二階の窓を見上げていると、一階にも明りが灯った。
(おばちゃんが降りて来たんかな。じゃあしんちゃん呼ばんでもいいや。もう帰っておやつ詰めよ)
 と、向きを変えた時、左足の裏に嫌な感触があった。
「ひっ」
 直幸は、小さな声を上げた。足を上げると、潰れたエレナの姿があったのだ。大声で進吾かその母を呼ぼうと一瞬思ったが、声を飲み込む。
(しんちゃんのお母さん、きっと、僕がわざと落として踏んだと思うやろなあ)
 自分が進吾の母に良くは思われていないということを、直幸は子供ながらに察知していたのだ。
(早く行かな、おばちゃん出て来るかも!)
 靴の裏に付いた血を慌てて土に擦り付け、走り出す。
 ポチの声が、遠くなっていった。
(踏むまでは生きてたんかも知れん……俺が殺したんや……そのこと、進吾にまだ謝ってなかった! 進吾、ごめん!)

「どうしたん? 宮っち、ぼーっとして」
 笹口の声で、直幸は我に返った。
「俺、墓んとこ戻る」
 そう言って、左足を引きずって歩き出す。気付いた和輝が、それに続く。
「おい、待てよ宮谷。何やねん?」
 ポチと義啓と笹口を塀の外に残し、二人は墓地の中へ入って行ったのだった。



     一九八三・七・三  直幸

 ある日の放課後、直幸と和輝は、ポチに会いに進吾の家へ向かった。
 歩きながら小石を蹴る直幸に、和輝は話し掛ける。
「宮っち、夏休みになったら算盤習いに行くやろ?」
「……」
「行くって、前言うてたやん」
「……分からん」
「なんで?」
「……分からん」
「はっきりしろ!」
 和輝は立ち止まって怒鳴った。直幸は驚いて和輝の顔を見る。
(この頃かず君、機嫌悪いなあ……しんちゃんが死んでからずっとやなあ……)
 などと考えていると、和輝は何も言わずにくるりと向きを変え、路地へ入って行ってしまった。
「ポチ見に行けへんの?」
 と背中に向かって呼び掛けても、和輝は振り向かず、そのまま角を曲がって見えなくなった。
 仕方なく、直幸は一人で行くことにした。特に犬が好きというわけでもないが、放課後にすることと言えばそれくらいしかなかったのだ。
 進吾の家の傍の道路に、大きなトラックが止まっていた。家から次々と荷物を運び出す作業着の人間達に向かって、ポチが頻りに吠えている。
「もう、静かにし!」
 久々に聞く声。進吾の母が外へ出て来たのだった。直幸の姿を見付けると、進吾の母は疲れたような微笑みを見せた。直幸は歩み寄って挨拶する。
「こんにちは。……おばちゃん、引越するの?」
「そう」
 答えはその一言だった。進吾の母は引越業者と何やら話をし始めたが、直幸は依然その場に立っていた。一段落した頃を見計らって、再び尋ねる。
「どこへ行くの?」
「遠い所」
 また一言で済まされた。その時、ポチが静かになっていることに気付き犬小屋の方へ目をやると、ポチは尻尾を勢い良く振っていた。
「ポチはね、そんな遠い所へ行かへんのよ。川の向こうの、進吾の従弟の家で飼われることになったから、直幸君もいつかそのうち会えるかも知れへんね」
 進吾の母がそんなに長く一度に喋るのを初めて聞いた気がした。
(今なら分かって貰えるかな)
 家へ入ろうとする進吾の母を見ながら、そう思った。
「おばちゃん」
 と声を発したが、聞こえなかったのか、返事はなかった。
 玄関まで行って中を覗こうとして、荷物を持って出て来た引越業者の従業員とぶつかった。
「邪魔せんといてくれよ」
 そう言われても、ここで帰る訳にはいかないと思い、直幸は靴を脱いで勝手に家に上がり込んだ。
 台所に、進吾の母は居た。
「おばちゃん」
「あら。どうしたん?」
「……エレナを落としたのは僕じゃないねん」
 進吾の母は、無表情で数秒間直幸の目をじっと見た後、微笑んだ。
「進吾のお墓参りに行ってやってね」
 そう言って台所から出ようとする進吾の母を、直幸は追い掛けた。
「エレナが」
「もうええのよ、そのことは。怒ってないから。心配せんでもええのよ」
 直幸はもう何も言えなかった。聞いてくれない。何を言っても信じて貰えないのだ。そう悟った時、直幸はこの上ない脱力感に襲われた。
(あの時言えば良かったんや……エレナが落ちてたっていうのは信じて貰われへんかったかも知れんけど、でも、あの時言ってたら、おばちゃんが『直幸君がエレナ殺したんよ』って言って、しんちゃんがそれ信じて怒って、『もう宮っちなんかと一緒に遊ばへん!』って言って、ハイキング中止になってたかも知れん……そしたら、しんちゃんは死なへんかったのに)
 一人残された台所で、直幸はがくりと膝をついていた。
(なんで僕はいつも言おうとしたことを言うのやめてしまうんやろ……これからは何でも言おう。思ったその時にすぐ言おう!)
 直幸は人知れずそう決意すると、急いで玄関へ出て靴を履き、進吾の母にもポチにも挨拶することなく、走り出した。

エレナ倒影

エレナ倒影

設定:1983年 / 1992年

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-07-30

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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