樹海

 私は今、樹海をさ迷っている。
 二十年間、必死で勤めた会社から突然のリストラ宣告を受け、十五年連れ添った妻は、家を出て若い男に走った。唯一の救いであった、大事な一人娘までも妻の元へ去り、私は一人ぼっちになってしまったのだ。
 そして今、私の身に重くのしかかっているのは、あと二十五年も残っている、払うあてのない住宅ローンだけ。

「もう、死のう……」

 生きる希望を失った私は、その言葉を口にすることしか出来なかった。

「世の中、本当にクソみたいだな」

 そう呟きながら、私は樹海の奥深くへと足を進めた。

 死ぬにあたり、私は自殺をする方法というのを考えた。私が死んだということを、人に悟られてはならない。なぜならば、私の“死”により、妻には保険金が支払われるからだ。
 リストラされた可哀相な私を置いて、若い男に走るような女に、そんなおいしい思いをさせてなるものか。
 そう考えた私は、樹海での自殺を思い立ったのである。樹海ならば、死んでも遺体は見付からない。なぜならば、それは樹海であるからだ。一度足を踏み入れたら、生きて帰ることは容易ではない。したがって私が死んでも、死亡扱いにはならず、失踪者扱いになるというわけだ。
 失踪者に対しては、保険金はおりない。それが生命保険。我ながらナイスアイディアだと自負しているところである。

 私が樹海に入って、丸一日が過ぎた。もうどれくらい歩いただろう。足が棒のようになってきた。辺りは闇に包まれ、聞こえてくるのはフクロウのホーホーと鳴く声だけ。こんな所まで人がやってくることは、まずないであろう。
 もうこの辺でいいかと思い、私は頑丈なロープを片手に、枝振りが良さそうな木を探した。
 見ると、目の前に樹齢百年は越えていると思われる、立派な大木がそびえ立っていた。私の死を見届けてくれるのに、最適な木である。私は、その枝にロープを掛けようと、大木をよじ登ることにした。
 だがその大木は、足を掛ける所がなく、容易に登ることは出来なかった。まるで、私の死を拒むかのように。
 しかし、私は頑張った。途中まで、登っては落ち、登っては落ちを繰り返し、私の体力は限界に近付きつつある。

「死ぬのも楽じゃねえな……」

 そう呟き、再び大木に挑もうとしたその時、大木の裏側に、なにやら人影のような物を発見した。

「だ、誰だ」

 恐る恐ると、私は叫んだ。こんな所に、人などいるはずもないのに。
 予想通り、その人影は、私の声にピクリともせずに静かにたたずんでいた。私は、その人影が何であるのかが気になり、精一杯の勇気を振り絞って、その人影に近付いてみることにした。
 人影にゆっくりと近付く私。落ちている小枝が、パキパキと音をたてる。
 すると、厚い雲に覆われていた月が姿を現わしたかと思えば、辺り一面をその光りで照らし、その人影の正体を明らかにしたのである。
 それを見た私は、思わず息を飲んだ。なぜならば、その人影は間違いなく“人”だったからである。違うところといえば、その人は白骨化していたという事だけ。おそらく、私と同じく樹海に迷い込み、この木で自殺をはかろうとした人であろう。
 この白骨死体を見た私は確信した。ここで死ねば、間違いなく発見されることはないと。私の死の決意が、ゆるぎないものへと移り変わっていった。
 とその時、白骨死体の脇に、大きな革のボストンバッグが置いてあるのに気付いた。おそらく、この人の持ち物であろう。興味をそそられた私は、年代物のいかがわしい本が入っているのを期待し、そのバッグを開けてみることにした。冥土の土産というやつである。決して普段から、いかがわしいことを考えているわけではない。
 そして私は、ボストンバッグに手をかけた。長年この場所に在ったせいか、ジッパーが錆び付いている。私は渾身の力を込め、そのジッパーを引っ張った。すると、ジッパーはギギギという鈍い音をたてながら、少しづつ開き始めた。
 もう少しだ。もう少しで、年代物のいかがわしい本とご対面できる。そう思うと、不思議と力がみなぎってきた。これが、スケベ根性というものか。
 そして、ようやく私は、ボストンバッグを開けることに成功した。中は暗くてよくわからなかったが、紙の束のような物がたくさん入っていることだけは確認できた。
 きっと、いかがわしい本である。私は、はやる気持ちを抑えつつ、謎の白骨死体に感謝しながら、その紙の束を取り出した。私にとって、これが最後の“一人よがり”となるであろう。
 だが、その紙の束は、いかがわしい本にしては、かなり小さいようだ。大きさは、ちょうど札束ぐらいだろうか。
 私はまさかと思い、その紙の束を月あかりにかざし、目を凝らしてじっと見た。そして、私の目に飛び込んできた物とは、日本銀行券と書かれた「福沢諭吉」の顔だったのである。
 私は、我が目を疑った。そして、何度も何度も確認し、ようやく確信した。今、私が手ににぎりしめているのは、間違いなく百万円の札束だ。しかも、バッグの中にはその札束が、まだまだぎっしりと詰まっている。
 一億。いや、もっとある。いったい、いかがわしい本が何冊買えるのだろう──。
 いや、そうじゃない。今、考えなければならないのは、この白骨死体の脇に、なぜこんな大金があるのかということだ。
 銀行強盗の成れの果てだろうか。それとも、脱税の処理に困った金や、会社から横領した金ということも考えられる。どちらにしろ、真っ当な金でないことは確かなようだ。
 だが、今更こんな金を手に入れたところで何になる。今の私には、いかがわしい本の方が──。

 いや、待てよ。

 この金があれば、人生またやり直せるのではないか。住宅ローンも一気に返せるし、また妻と娘と三人で──。
 いや、あんな妻はもう要らない。妻とは別れて、娘と二人で──。
 いや、あんな女について行った娘など知らん。そうだ、新しい家庭を持とう。金に物をいわせ、若くて可愛い女と再婚するんだ。そして、裸エプロンで毎日料理を作らせよう。そうだ。裸エプロンは男のロマンだ。
 私の自殺願望は、一瞬にして消し飛んでしまった。

 そうと決まれば、いつまでもこんな所にいるわけにはいかない。私は、この樹海から脱出しなければならなくなった。もちろん、この数億円は入っているであろう、ボストンバッグとともにである。
 私は謎の白骨死体と、熱い熱い包容を交わした。その際に、骨がバラバラに砕けてしまったが、まったく気にしない。なぜならば、私はまだ生きているからである。親から授かった大事な命を、粗末にしてはならない。そう気付かせてくれた運命に、私は心から感謝したい。


 そして、丸二日が経過した──。
 私はまだ樹海をさ迷っている。歩いて来た道のりを、真っすぐに引き返したつもりだったのに、さすがは樹海。そう簡単には、脱出させてくれそうにない。歩き疲れて、私の体力は限界に近かった。腹も減り、もう一歩も歩けそうにない。
 この重たいボストンバッグが、私の体力を大幅に奪っていることは間違いないのだが、置いて行くわけにもいかず、私はその場にへたり込んでしまった。
 だがその時、私の行く先に、一瞬の小さな光りがチラリと見えた。

「で、出口だ」

 そう叫んだ私は、最後の力を振り絞り、ボストンバッグをズルズルと引きずりながらも、その光りを頼りに、再び歩きだした。すると、木々のすき間から道路がはっきりと見えた。それは、樹海の出口であることを示している。

「た、助かった……」

 そう思った私は、久しぶりに見るアスファルトへと、慌てて飛び出した。
 だがその直後、キキーッというタイヤの音とともに、私の身体は宙を舞い、固い道路にたたき付けられた。どうやら、走ってきた車に、はねられてしまったらしい。
 幸か不幸か、命に別状はないようだが、足を骨折したようで、身動きがまったくとれないでいた。

「だ、大丈夫ですか」

 私をはねた大馬鹿野郎が、心配そうに駆け寄ってきた。見たところ、まだ二十代半ばの若造のようだ。

「足の骨が折れてるから、病院に行ってくれ」

 その若造を睨みつけながら、私はそう言った。

「わかりました。じゃあ、僕の車でお運びします」

 そう言うと若造は、私を運ぼうと肩に手を掛けた。だがその時、若造の手がピタリと止まり、ある方向へと視線がくぎづけとなっているのに、私は気付いた。嫌な予感がした私は、若造の視線の先を目で追った。
 見ると、私の予感通り、若造の目は、ボストンバッグから散乱してしまった札束をじっと見ていたのであった。

「い、いや、これは……」

 私は若造の手を払い、慌てて札束の元へと向かおうとした。だが、骨折により自由を奪われた身体は、言うことをきいてはくれない。
 すると、若造はニヤリと笑い、私を置いて車へと戻った。そして、けたたましいエンジン音を響かせながら、明らかに私の方へと突っ込んできたのである。
 白いヘッドライトの光りに包まれながら、私は呟いた。

「世の中、本当にクソみたいだな」

 数日後、妻に保険金が支払われた。

樹海

樹海

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-06-13

Copyrighted
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