猛女と桃の木
半世紀を生きてみれば、体は老いるが心は熱し人情の機微を深く知る。戦争寡婦で男勝りだった祖母には以外にも、女として全うした側面があった事に、私は五十歳を過ぎて始めて気づいた。彼女を常に支え続けていたのは夫と暮した日々の想い出であった。その蜜月を胸に秘め明治の女は百年の生涯を閉じた。
猛女と桃の木
「ミモザ、沈丁花、こぶし、桃に桜……、あっ、あの桃の木!」
眠れない真夜中に目を閉じたまま春に咲く花を数えていたら、急に、昨年百歳で逝った母方の祖母が、実家の近くの畑に植えた桃の木のことを思い出した。
目覚めると真っ先に実家の母に電話をかけた。
早朝の電話と、「おばあさんが植えた桃の木は今どうなってるの?」という私の唐突な質問に、母は驚きつつも、
「畑は荒れ放題やけど、桃は見上げるほど大きな木になってるで。今年は桜と同じ頃に咲きそうやわ」と答え、「へえーっ、凄いねー。おばあさんみたいに逞しいわ」そんな会話を交わした。
祖母は明治天皇がお隠れになった年に、和歌山県の小さな漁村に生を受けた。
出生届けの提出がいい加減だったと見えて、祖母は自分を「亥年」だと思いこみ、本当は一歳年下の「ねずみ年」だと知ったのは、九十六歳の時、老人ホームのベッドの上でだった。だからか、何事かにつけ、
「あしは亥やさかいに勢いがええんや」
と言うのが、長い間の口癖であった。
少女の頃から、「亥の如く」だったようで、学校をさぼって畑で寝ていたと良く聞かされた。
命名される前からその活発な性格が判るはずもないが、兄や姉には田舎にしては「保」や「操」などと、知的な名前が付けられているのに、次女の祖母には「増子」といういかにも勢いの良い名前がついている。
昭和初期には個人の漁船で和歌山、神戸を往来していたらしく、祖母は父親の船に花嫁道具を積み込み神戸に嫁いだ。
許嫁は親同士が決めた相手、同郷出身の幼馴染四歳年上の「じょうさん」である。写真で見る「じょうさん」は美男子ではないが偉丈夫で意志の強そうな面構えの日本男児である。
祖父は商いで成功する夢を抱いて、数年前に神戸に出ていた。いくつかの商売を営んだが、どれも失敗し、祖母と一緒になってから始めた「豆屋」(今でいうお総菜屋である)がやっと軌道に乗った。
無口で実直な良く働く夫と、口八丁手八丁の妻の組み合わせが功を成したのだろうか。二人は力を合わせ働いたそうである。
祖父は毎日午前三時に起きて豆を炊く。祖母はマヨネーズなども手作りし、流行のお総菜をこしらえた。
「ほら、こうやって玉子に油ちょっとづつ入れていくんやで」
ポテトサラダが目の前でできあがっていくようだった。
「隣は写真館でよう繁盛してねえー」
「着物も近くの呉服屋でようさんこしらえたんよ」
「じょうさんはよう働く賢い人やった」
祖父母の一人娘が私の母であり、またその一人娘が私である。
子供の頃、時折祖母と過ごす時は、神戸時代の話をよく聞かされた。活気のある下町の商店街と、隣の写真館で撮ったと聞く写真でしか見たことがない祖父の姿が目に浮かぶようで、何度もせがんだものだった。
私は嫁ぐまでの十五年間を祖母と暮らした。その間もたびたび神戸時代の話をねだった。その話をするときの祖母は、活き活きと楽しそうに顔が輝き、私まで嬉しくなった。普段は忙しく働き、楽しく話をする祖母の姿は稀であり、私はそんな祖母を見ていたかったのだと思う。
「今度はもう帰れんやろう」
と言い残し、第二次世界大戦真っ只中、昭和十八年に祖父は出征した。支那事変に次ぐ二度目の出征である。そして昭和十九年春。神戸で喫茶店を開きたいという夢を抱いたまま、ニューギニアで戦死。三十八歳であった。
祖父が出征してからの祖母は、食糧不足のため「豆屋」を辞め、生まれ故郷に疎開をした。戦時中は漁港で仕入れた魚を背負い、赤ちゃんに見立てて帽子を被せ、ねんねこ半纏を着込み大阪に行商に通った。巡査につかまりかけ、持ち前の機転を利かせ逃げ切ったことも何度かあったと聞く。
戦後は観光旅館で従業員のまかないの職について、昼も夜も働き通して一人娘を育てた。
神戸では「ぼんさん」と呼ばれる丁稚さんと女中さんが仕えてくれ主の立場であったのに、戦争は立場を逆転させた。随分と情けない心境だったと思うが、「豆屋」で磨いた料理の腕を生かせ、きれい好きで、その上口八丁手八丁と来たらそれ以上の適職は見つからなかっただろう。美味しく安い料理をふるまい重宝がられたと聞いている。
最後の仕事も同じまかないの職だったが、還暦を過ぎてから新しい職場に七十六歳で腰を痛めるまで働いていた。
昭和六十年当時、一人分のおかずの予算は十円だった。五十人ほどの従業員にいかに美味しいものを提供できるか、毎日、献立作りに奮闘していた姿をよく覚えている。今さらながら、ものすごい体力気力である。
こう書くと男勝りの猛女だけの印象だが、全く違う一面をも持ち合わせていた。祖母の隣で眠るとよくうなされ、私は怯えたものだ。
「おばあさん、おばあさん。」と声をかけて揺り起すと、「じょうさんがニューギニアで殺される夢を見た」と。それは私が成人してからも続いていた。一生睡眠薬を手放せない人だった。
本来は、繊細な面を持ち合わせていたのに、状況がそこを出して生きることを許さず、「亥年」だと思うことで己を叱咤激励していたのではないか。いつも気丈夫にしていたが、どこかで弱音を吐ける場所があったのだろうか、心が痛む。
戦争の時代を生きた女たちは誰もかれも猛女に変わらなければ生き抜くことができなかった。戦地に行かざるを得なかった男達、家族を守った女達。命をかけて戦いぬいた人々がいたからこそ、今の日本があることを忘れてはならない。
祖母は喜寿を前に退職し、実家の近所に借りた畑で花や野菜を作り始めた。そこに知り合いから譲り受けた桃を、挿し木したのである。
あれから早二十五年の年月が流れた。
桃の木は根付き少しづつ大きくなり、毎年花を咲かせていたが、祖母が九十四歳で老人ホームに入居した折、畑は継ぐ人がいなくなり雑草だらけの原っぱになった。私も桃の木の存在すら忘れ去っていた。
老人ホームに入居し五年目、祖母は九十九歳で痴呆が始まった。頭脳明晰な人だったが、とうとう老化に負けた。たった一人の孫の私の名前も顔もわすれる時があったが、危篤に陥った時でさえ、励ますために、「旦那さんの名前は?」と聞くと、「じょうさん」と答えた。
童女に戻った顔で、「賢い人やった」と満面の笑みになった。
うかつにも私は五十歳を過ぎるまで、女性としての祖母を考えたことがなかった。あの猛女と恋や愛などを結びつけて想像することすら、したことがなかったのだ。
ほとんどの記憶をなくしかけていたのに、どんな時にでも、あれだけ亡き夫を思い出せたのは、愛していたからに違いない。二人は信頼し合い、愛し合っていたのだと思う。祖母の語る神戸時代が輝きに満ちていたのは、彼女の人生の中で、唯一、女として幸せな時間だったからであろう。
祖母が「帰りたい、帰りたい」と願った我が家にやっと戻れたのは、お葬式の時だった。出棺の際、私は、
「天国でじょうさんに逢うんやで」
と声をかけて送りだした。
四月上旬、母から桃の木を描いた絵手紙が届いた。
「今年も、おばあさんの桃の花が咲きました」
という言葉が添えられていた。
私の故郷は和歌山市の東南端、紀伊水道にのぞむ岬の麓にあり、風光明媚なところだが、風が強く吹く。台風の時はもちろんだが、冬の北風は恐ろしいほどである。そんな中で自然と同化し逞しく育った桃の木。私には桃の木が祖母に思える。
ポット咲く桃色の花は祖父への思いの証しであろうか。
この世では猛女になって生きざるを得なかったが、あの世では可愛い女に戻って満開に咲いて欲しい。
猛女と桃の木