父の出世

私は
周りのみんなは知ってるのに、私だけ知らなかった
ということが多々あるのです。
例えば自治会で
「昨日は近所の草抜きの日だったのに、なぜあなた、来なかったの?」
と言われたり
「公園の池に金魚を入れないで」
と注意されたり
「豆まきは自分の家の中だけで行ってください」
と郵便受けにメモが入っていたり。
そんなことは知らなかったです。
なんでみんなは知っているのでしょう?
「研修があったのですか?」という、スリムクラブの漫才のネタの一部を
私は笑えない。マジ、私もそんな風に思っているのです。
身内からは
「それは興味の持てるものにしか意識が集中しないからだ」とか
その他の方々からは
「常識がない」などと言われたりするけれども。

最近知った、常識的に誰でも知っている事で
衝撃的だったのは定年退職者の就労先の件である。
それは私がとある午後、近所の大型スーパーの駐輪場
その片隅にあるベンチにて散歩の休憩をしていた時のこと。
「暑い、あっついわ?」と独り言を言いながら
真向かいにある自販機で購入した、なっちゃんオレンジを飲んでいたら
「キミ、それまだ冷えてへんやろ」と自販機から老年男子の声が。
そういえばちょっとぬるいか、な、と缶を見つめた私。
いやいや、そんなことより何?誰?と怪訝な思いで私は声の辺りを見たら。
見ていたら、自販機からまた声がした。
「今日はおっちゃん機嫌ええねん。一本、冷え冷えのんサービスしたるわ」
とまた聞こえて
どんがらがしゃん、と音をたてゲータレードが出てきた。
「えらいすんません」と礼を言って私はそのゲータレードを取り出したけれど再び
「いやいや。あの、だれ?」
自販機に向かって私は問うた。
聞いてみると、昨年度から
自販機、改札機&乗り越し清算機、トイレの手乾かし機
なか卯及び立ち食い蕎麦屋の券売機等は
定年退職者の就労先に指定されたとのこと。
もちろん希望者のみで、食事付き・交通費全額支給・福利厚生などもしっかりとしており
そのおっちゃんの話によるとかなりの高給で
場合によると時給換算で3500円ももらえるらしい。ホステス並みだ。
「まあ、おっちゃんは気楽な自販機勤めやから2000円ぐらいやけどな」
おっちゃんは自分の収入まで見ず知らずの私に話してくれた。
前日給料日だったのでご機嫌なんだそうな。
「中は意外と広くて冷房も効いてて快適。でもいつかは3500円のんに昇格したい。ただの夢だけど」とのこと。
「最近はもう慣れてきて、今なんか寝そべりながらしゃべってんで」と。
そのようなスペースがあるのか。しらなんだ。
「無理せんと頑張ってください」と言ったらおっちゃんは
「わし、無理せーへん」と、なんだかとっつきやすそうな返事だったので
「ゲータレード、あんまり好きじゃないからなっちゃんグレープに替えてください」
と言ったらすぐに出てきた。オレンジは持って帰って冷やしとき、と言われた。

それから数日後
「いろんな仕事があるもんだ。私も自販機勤めがいい」と思いながら
自転車で遠出した。
昔、岡本太郎がデザインしたという太陽のタワーの下まで行ってみた。
ああ、おもしろい顔よね、金ぴかやし。裏側の顔は怖いよね。と後ろに回ってみたら。
見たら、裏の顔の部分に上からロープでつるしたゴンドラに乗った人が
塔の雑巾がけをしている。
「あ、あれは父」
私の父は、定年になってもう何年も経っていた。
定年後は再就職などせず、日々ぶらぶらと暢気に過ごしているのだと思い込んでいた。
そんなことを考えていると、いつしかゴンドラは地上に到着し
そこに乗っているのは父だと、顔を見て確信した。
「うわ、見つかった」と父はふざけながらのけぞり言った。
手にはどろどろに汚れた雑巾。
父の話によると、太陽のタワーの雑巾がけはこの地域での定年退職者の就労先の中でも
一番人気であり、一番の名誉であるとのこと。
もちろん危険を伴うということもあるし、やっぱり見た目が良いのだそうな。大きさ的にも。
自販機のおっちゃんの言っていた「場合によると3500円」がこれらしい。
「俺はこの仕事を誇りに思う」と父。タワーの横のベンチにて。

先日、また近所の自販機に行ってみた。
今度は自分から話しかけた。
「おっちゃん、おっちゃん。おる?」
「おりまんがな。わし、平日は九時五時やねん」と声が。
「おっちゃん、ニュースやで」
「なんや?」
「私の父が、太陽のタワーで働いてた」
ちょっと自慢したくて言っちゃった。
するとおっちゃんは
「…知ってたがな・・・」と、渋めの低音で、いい感じの間を交えて答えた。
「あんたが、あの方の娘さんやと、噂では聞いてたよ。隣の、ヤク自販の源一郎さんから」
ヤク自販とは“ヤクルトの自販機”の略らしい。薬事法違反みたいで怪しげな響き。
「私の父のこと、知ってたんですか」
「あったりまえやがな」
父は彼らの仲間内では憧れであり、手の届かぬ存在であるらしい。
知らなかった。父がそんな高い地位の人になっていたなんて。実際高い所で働いてるけど。雑巾がけやけど。
「父上を、どうぞ大事にしてやっておくんなせえ」
ちょっと高めの声がヤク自販から聞こえてきて、ヤクルトが落ちてきた。2本。

父の出世

父の出世

  • 小説
  • 掌編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-07-29

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