起源前 ―Blue Note―
ある日ミナは偶然知り合った男性に吸血鬼にされてしまう。 人間と化け物のはざまで葛藤するミナであったが、ある出来事をきっかけに吸血鬼として生きていく決意をする。人間とは何か吸血鬼とは何かミナは真剣に苦悩することを業として背負わされる。
この出会いが、全ての始まり、その起源。
※宗教批判的な文章がありますが、創作上の設定であり、あくまでフィクションですので、ご拝読いただく際はご留意ください。
第1章 さよなら、人間
【青】
1・色の名。五色の一つ。春の草や樹木の葉の色、濃い緑色、藍で染めた色、黒。
2・希望、清さ、静かさ、若さ、憂鬱や悲しみを現す。
今でこそ、聖母マリアの装束として、最も美しい色と呼ばれている青。空の青と海の青は、太陽があるからこそ生み出される色だ。太陽が大敵である吸血鬼にとっては、悲しみの青、憂いの青。かつて古代ローマでは青は喪服の色で、忌まわしい色とされていた。
ブルーノートはジャズやブルースに遣われる音階で、有名なジャズレコード会社の名称にもなっている。
青が繋ぐ悲憂のリート、その起源。
その人と出会ったのはまだ少し肌寒い春。桜の花びらが身汚く路面を穢す、そんな季節だった。
その日永倉ミナはバイト仲間の歓迎会で飲んでいて、同僚と別れた後も飲み足りず、近くにあったバーに一人で入った。
入ってすぐに後悔した。
身綺麗に着飾ったお客さん達、上品な振る舞いのバーテンダー、心地よく流れるマイルス・デイヴィス。明らかに身の丈に合っていない。Tシャツにデニムで来ていいような場所ではなかった。
しかし、店員に促されるまま席についてしまった。手持ちは多少あるし、たまにはこういうのもいいかと思い直して、ブルーノートに耳を傾けながらカクテルを飲んで、気持ちよく酔いが回ってきた。
「失礼します。隣、よろしいでしょうか?」
話しかけてきたのは綺麗な顔立ちの若い男の人。
高そうなスーツを少し着崩して、控えめだけど、どこかで見たことがあるような、高そうな腕時計。程よく背も高く、すらりと伸びた手足がスタイルの良さを引き立てる。高く筋の通った鼻、大きく見開かれた緑眼、上品に上がった口角、透き通るような白い肌。肩までかかる髪は余りにも艶めいて、黒を超越した色の深さは青くすら見えた。
あまりにも美しい男性の容姿に思わず見とれてしまったが、不思議そうに顔を覗き込まれて我に返った。
「あっ、すいません、どうぞ!」
慌てて椅子を引いて隣を促すと、「ありがとうございます」とにっこり笑って、その人は腰かけた。
「急に申し訳ありません。おひとり様ですか?」
少し申し訳なさそうにされてしまって、また慌てて「おひとり様です!」と馬鹿丸出しの返答をしてしまった。その人はミナの様子にクスッと笑って
「それはよかった。私も一人なんです。折角ですから、ご一緒にどうかと思いまして」
そう言って微笑んだ。
(どうしよう。私ったらこんな身分なのにこんな店に来ちゃって、こんな素敵な男性に声をかけられていいんだろうか。明日あたり交通事故に遭うかもしれないな)
そんなことを思いながら礼を返し、常に微笑を纏っている男性に少し恐縮した。
「あの、私の方が年下ですし、け、敬語なんて使わないでください」
どうも緊張してしまっている。どれだけ男に免疫がないのかと、我ながら呆れかえる。ミナが免疫がないのは、極度のシスコンの弟と娘を愛してやまない父の、鉄壁の防御のせいだ。
「ありがとうございます。ですが、これは私流の女性に対する嗜みですから」
「あ……は、はい。すいません」
「どうか謝らないでください。そういえばお名前伺ってよろしいでしょうか? 私は龍と申します」
あなたは? そう目で尋ねられる。
「あ、り、龍さん私、ミナと、言います」
そう自己紹介するとその人、龍はとても驚いた顔をした。不思議に思い、思わず顔を覗き込む。
「龍さん? どうかしましたか?」
「え、あ、いえ。ミナさんですね。ベタですが出会いに乾杯しましょう」
一瞬たじろいだもののすぐ平静に戻り、龍はグラスを傾けてきた。その仕草があまりにも素敵で、その瞬間に驚かれた事なんか忘れてしまう。グラスをキンッと鳴らすと龍はにっこり笑ってグラスを口にした。
お酒の力を借りながら、龍との会話はだんだんと弾んでくる。バイトのことや自分のこと、家族のこと、小さな悩み事まで話してしまっていた。なぜかはわからなかったが、龍には頼りたくなるような、どこかに導いてくれるような不思議な魅力があった。
ミナが一方的に話して龍は聞き役に徹していた。そうしていると、彼のことを何も知らないことに気付いた。
「龍さんはお仕事何をなさっているんですか?」
彼は一瞬考えたような顔をして、「契約を取ってくる仕事です」と曖昧な返事をした。契約ということは保険か何かの営業だろうかと考えながら、更に重ねて質問してみる。
「そのお仕事に就かれてどのくらいですか?」
彼はまた少し考えて
「そうですね。結構長くやっていますよ。500年くらい」
そう言ってにっこりと笑う。龍でも冗談を言うのかと少しびっくりしてしまった。
「冗談にしてもサバ読みすぎですよ!」
お酒の力で何とか突っ込めた。
なんだか本当に緊張していたのだろう。緊張を紛らわそうとお酒を飲みすぎたようだ。視界がぐるぐると回転する。焦点が定まらない。
「ミナさん? 大丈夫ですか?」
「だいにょうむれす」
自分でも呂律が回っていないとわかる。
(これはヤバイ。おうち帰れないかも)
だんだんと視界が悪くなる。龍が何か言っていたけれど、もう、ミナの意識は酩酊して、なにもわからない……。
目が覚めると軽く眩暈がした。気持ち悪くて、二日酔いになっていることに少し落胆したが、今日が休みだったことを思い出して安堵した。
部屋は薄暗い。かろうじて間接照明の明かりだけで見えるといった感じだ。
まさか夕方じゃないだろうな、と慌てて起き上がって時計を探す。それで初めて気づいた。
(ここ、私の部屋じゃない)
コンクリート打ちっぱなしの窓のない壁、ピカピカのガラスのテーブル、革張りの大きなソファ、のりの効いたシーツがかかったクイーンサイズはあろうかという大きなベッド。
「どこだここはぁ!!」
「目が覚めましたか。おはようございます。ご気分はどうですか?」
叫ぶとともにドアが開き、龍が現れた。まさかと思いつつ、尋ねる。
「あ、あの。もしかしてここ……」
「あぁ、私の部屋ですよ。昨日酔っていらしたようで、ご自宅がわからなかったものですから。不躾かと思いましたが、私の部屋にお連れしたのです。申し訳ありません」
「とんでもありません、ご迷惑おかけしてすみません……」
なぜこうも失態を演じられるのか。しかも初対面の男性にここまで迷惑をかけ、泊めてもらった上に謝罪までさせてしまった自分のアホさ加減を呪った。
そんなミナの様子に気付いてか気付かずか、起き上がっていたミナの前までやって来て、目線を合わせた。
「ご迷惑だなんてとんでもありません。まだご気分がすぐれないようですね。ゆっくりお休みください」
龍はミナの謝罪にそう言って微笑み、部屋を後にした。
(あぁ、もう、本当にどうして私ってこうなんだろう! 私の馬鹿! 恥を知れ! アホ! スットコドッコイ!)
さんざん自分を恨んでいたら、いつの間にか眠りについていた。
再び目を覚ますと、目の前に龍の顔があった。
「うぉあ!」
「驚かせてしまって申し訳ありません。随分顔色が良くなりましたね。ご気分はどうですか?」
失礼な態度をとってもどこまでも紳士な龍。
「気分は、あ、随分良くなりました、というかもう大丈夫です。ありがとうございます」
「そうですか、それはよかった。お腹空きませんか? お食事ご用意しましたので、召し上がってください」
ミナの目に、既に龍は大分神懸っていたが、事ここに来ると後光すら見えた気がした。
龍の用意してくれた食事は、本当に一人暮らしの男性が作ったのかと思う程の腕前で、ほっぺたが落ちて床を突き抜けそうだった。
「そんなに褒めていただくようなものではありませんよ」
そう言ってにっこり笑う龍に、いっそ尊敬の念すら覚える。
(もう、この人はなんなんだ。優しくて紳士で上品で料理が上手できっと綺麗好きだ。龍さんの美しさはずっと見ていても飽きない。世の中にはこんな完璧人間がいるんだなぁ……)
絶品の料理に舌鼓を打って、食後のコーヒーを戴いていると、龍は急に真面目な顔をして「実はミナさんにお願いがあるんです」と、真っすぐこちらを見てきた。
「あ、はい、なんでしょう?」
これだけお世話になったのだ。聞ける頼みなら何でも聞いてあげたい。そう思って龍の目を見つめ返す。
「ここに、ミナさんをお連れしたのは介抱する為だけではないんです」
まさか、と思わず身構えるミナに、なおも龍が続ける。
「少し下心がありまして」
まさかまさか、と動揺するミナに、龍は射抜くような視線を投げかける。
動揺して混乱した頭で、続きを聞くまいと(何故か)ぎゅっと目を瞑った。すると、龍が言った。
「契約をしていただきたくてお連れしたんです」
思わず開いた瞼をパチクリとさせ、脳内で龍の言葉を反芻する。
(……契約。契約ってお仕事の? 保険とかなら一つくらい入ってもいいか。ていうか勘違いして恥ずかしいったらないな。もうホント嫌。私死にたい)
やはり自己嫌悪に陥る羽目になったが、そのお蔭もあってか平静を取り戻すことに成功し、ようやくまともに龍を見上げた。
「あの、契約って具体的になんの契約ですか?」
至ってまっとうな質問をしたはずなのに、龍は考え込むようなしぐさをして、少しすると考えがまとまったのか、こちらに向き直った。
「この際言いますが。血の契約です」
「ち?」
「血です」
「チ?」
「血液です」
いまいちピンとこなかったが、最後のヒントで閃いた。
「献血ですね! いいですよ!」
こういう献血や募金は、ミナは大好きだ。普段自分があまり役に立つことがないので、人の役に立てるなら嬉しい、それで褒めてもらえると尚嬉しいと心底思っている「天性の偽善者」。それがミナと言う女である。
が、龍はなぜか笑っている。
「ハハハ。まぁ献血のようなものかもしれませんね。では、引き受けてくださったところで、契約内容です」
これは大事なことだと姿勢を正す。何CC摂るのか、血液診断を受けるかどうか。そんなことを考えていると、龍は俄かに表情を硬くして言った。
「あなたは私に血を与え、その後私に使役される魔物となります。あなたは契約を受けると受諾した以上断ることはできません。よろしいですね?」
微笑の中に鋭い眼光。
残念なことに、ミナには龍の言った言葉が巧く理解できず、「……はい?」と頓狂な返事をする。
やっと絞り出した言葉に、自分でもがっかりだ。さすがの龍も溜息が零れる。深く溜息を吐いた龍は、面倒くさそうに顔を歪めた。
「いいか、お前は私に血を飲まれて、屍鬼という人を食う化け物として私に使役される。ここまで世話してアルコールが抜けるのを待ってやったのだ。大人しく私に従え」
やはりミナの思考は停止する。数秒前と現在とで、あまりにもキャラが違いすぎる。
(誰このお兄さん!? そしてやっぱり意味がわからないんですけど!)
龍は狼狽し身動きが取れずにいるミナの肩を掴むと「どのみちお前に拒否する権限はない」、そう言ってミナの首に顔を埋めた。
皮膚を突き破るブツッという音とともに鋭い痛みが走る。初めはその痛みに必死に耐えていたけど、徐々に痛みは薄れてくる。というより、体が麻痺してしまったかのように感覚が鈍くなって、体に力が入らない。段々と体から体温が抜けていき、それと同時に気が遠くなっていった。
「お前、かなり美味いな。久しぶりの上物だ。いや、待て、まさかお前!」
龍が何か言っているが、頭が働かない。意識が朦朧としてきた頃、龍が慌ててミナを離し、力なくその場に崩れ落ちる。反動でソファから転げ落ちて床に腰を打ちつけた。打ちつけた痛みに顔を歪めるも、力が入らず起き上がれない。龍が何か言っているのが、朦朧とした意識の端に聞き取れた。
「お……おい!ミナ!」
呼ばれても返事はできない。うっすら開けた目に龍の顔が映る。なんだかとても慌てたような、困ったような、そんな顔。
何故龍がそんな顔をしているのか不審に思い睨みつけると、彼は困惑した表情で尋ねた。
「ミナ、お前処女か?」
急に女性に対して、なんてことを聞くのだろうか。あまつさえこの状況だ、ミナは怒りとも悲しみともつかない気持ちでいっぱいになったが、いかんせん怒る元気もない。
「答えろ」
急に低い声で凄まれて怖くなり、渋々「処女です」と小さく返事をする。それを聞いた瞬間、龍はやっぱりという顔をして
「くそ! 最悪だ、このバカ女! 吸う前に犯しておくべきだった!」
などと信じられないことを言っている。最悪なのはミナの方なのに、何故文句を言われなければならないのか、甚だ不満だ。
なんだかもう泣きたくなってしまって、今日何度目かわからない絶望に打ちひしがれていると、突然、胸が苦しくなった。
「う、はぁ……ぐぅぅ!」
内側から込みあげるように熱に浮かされる。湧き上がる熱は、まるで体中の血液が沸騰しているかのほどに熱く、煮えくり返るような感覚にのた打ち回った。
(熱い! 熱い! これが屍鬼になるってこと!? 吸血鬼に化け物にされたのってあの、映画にでてくるゾンビみたいなやつかな……いやだ、そんなの! いや! いやだ! 苦しい、助けて!)
燃えるほど体が熱くなり、熱を祓おうと無意識に暴れまわる。それでも体内を駆け巡る熱は、その温度を容赦なく上昇させていく。
「あぁああぁあぁ!」
燃え盛るような体温に限界を感じた瞬間、静かに熱が収まってくる。それと同時に体の感覚が変わっていった。空気の感じ方も、床に触れた感じも、音も、光もすべてが違う。
体感する感覚が、これまでと異なるものだと悟ったミナの心の内には、静かに悲哀が溢れだした。
(あぁ、私は化け物になってしまったのかな。あの二面相吸血鬼に使役されるだけの、ただの化け物に……)
「なっていない」
急に龍の声がした。その言葉に一縷の光明を見出し、慌てて起き上がって自分の手と足を見てみる。今までと同じ、ただの人間の手足が、ちゃんとミナの意志に添って動いてくれた。
「り、龍さん! 私! か、顔は!?」
龍にしがみつくように勢い込んで尋ねると、それはそれは深い溜息を吐いて「見た目は何も変わってはいない」と、ものすごく嫌そうに答えられた。
見た目は変わってないという事にひどく安堵したものの、「見た目は」という単語に俄かに疑問を感じて龍を見上げた。
「私……?」
自分はどうなったのか? それとも、どうにもなっていないのか? 意味が分からず龍の顔を覗き込む。
「残念ながら、お前は今からヴァンパイアだ」
龍は先程よりも嫌そうな顔で溜息を吐く。
急にヴァンパイアなどと言われても、創作上の架空の生物でしかない単語に、ミナはやはり理解できずに眉を顰めた。
「なんです、どういうことですか? 普通に今までどおり、ですか?」
この先はできたら聞きたくない。しかし、聞かないわけにもいかない。龍はやはり、少しうんざりした様子で答えた。
「人間ではないし厳密には死んでいるようなものだ。だがお前は不死の吸血鬼となった。日の光に焼かれたり、心臓に杭を打ったりしなければ死ぬことはない。お前も私と同じ化け物だ」
やはり聞くべきではなかった、と落胆させられた。この科学の進歩した現代社会において、そんな絵空事を信じていいはずがない。しかし、自分の身に起きた出来事が、信憑性を物語っているのも事実。
「で、でも私、契約では屍鬼っていうのになるんじゃなかったんですか!?」
混乱した頭で、なおも質問を重ねようと思ったのは、「冗談だ」という一言を期待したのかもしれなかった。しかし、この質問は本当にしない方がよかった。龍の美しい顔がみるみる怒りに支配される。
「それもこれも全部お前のせいではないか! 何故お前その年で処女なのだ! 信じられん! その年まで何をしていたんだ! どれだけ暗い青春を送っているんだお前は! 何と言う事をしてくれたのだ!」
(何もしてないから処女なんです……悪いか)
突然怒り出した龍のあまりの様相に、とても口に出すことは憚られて、心の中で不貞腐れて文句を言う。
「大体お前、何故処女の分際であんな店に一人で飲みに来てるんだ! あのような店には、遊び慣れた大人の女が来るものだろう! 身の程を知れ!」
(だって、あんなお店だなんて知らなかったんだもん)
「しかもお前、簡単に引っかかってノコノコついてきてるんじゃない! どれだけバカなんだお前は!」
(ついてきたんじゃないもん!)
「黙れ! ゴチャゴチャ言うな!」
「ヒィッ! すいません!」
反射的に謝罪してしまった。ほとんど条件反射で土下座しそうになったが、ふと違和感を感じて龍を見た。
「あの、ていうか、喋ってませんけど……あっ、口答えしちゃった」
「さっきから散々口答えしているではないか」
そんな覚えは全くないのに、とんだ言いがかりだと項垂れる。
(もうやだ! この二面相吸血鬼!)
「誰が二面相吸血鬼だ」
その言葉に思わず目を剥いた。
「えー! なんで!? 何も言ってないのに!」
「お前の考えていることはわかる」
「えっ! エスパー?」
「ヴァンパイアだと言っているだろうが。いいか、私はマスター。お前は私の下僕だ。下僕の思考はマスターには伝わる」
「なんだとぉぉ!? プライバシーの欠片もないじゃん!」
「貴様にプライバシーなど必要ない」
「うわっ最悪! ていうか下僕ぅぅ!?」
「そうだ。お前はこれから私には絶対服従。私の為に生きて私の為に死ね」
人知を超えた関白宣言に、ひくっと息を呑んだ。
「私としては不本意この上ないが、そういうことだ」
不本意はこっちのセリフだと頬を膨らませていたら、龍がすごい目つきで睨んでいる。その視線の恐ろしい事と言ったらない。またもや条件反射で謝罪しそうになるのを、ぐっとこらえた。
昨日までの紳士な龍はどこへやら。どうやらこちらの横暴な男が本性のようである。引っかかった自分も悪いのだが、あまりのギャップの激しさに、未だに頭の混乱が沈静化してくれない。とにかく今は、目の前の二面相吸血鬼が恐ろしい。
(わけわかんないけど、とにかく怖いよこの人……。これは、心を読まれない訓練をしないと)
「不可能だ」
「チクショー!」
この日から、永倉ミナの不幸人生は、幕を開けることになってしまったのだった。
第1話 さよなら、人間
「とりあえず、お前はこれで晴れて化け物になったわけだ。これまでと同じ生活をすることは不可能だ。日の光に焼かれれば死ぬ。夜しか生きることはできない。人間の食べ物を私達は受け付けない。私達の食料は血液だ。私達吸血鬼の血液に対する渇望は人間の食欲のそれとは比べ物にならない。腹が減ればところ構わず襲いかかるだろう。友達や家族を餌にしたくないなら縁を切れ。不死身で年を取ることもない。ずっと同じ場所に定住することもできない。今までの人間との関わり、お前の人間としての全てを清算してこい」
龍にそれだけ言われて、家を出された。
とぼとぼと歩きながら龍に言われたことを反芻する。
今後、ミナの食料は血液……人の血がないと生きられない。家族を餌にしたくないなら縁を切るしかない。友達や、家族を餌に……絶対にしたくない。
年を取ることはない。30年後も50年後も年を取らない人間なんて気味が悪いに決まっている。定住は、できない。
龍の言っていた言葉、その意味をよく噛み締める。だけど、ミナは昨日まで普通の人間だった。家族と食卓を囲んで友達と笑い合って、それが当たり前だと思っていた。
(離れたくない、ずっとここにいたい。私の居場所はここしかないのに)
どうしようもなく辛い。悲しい。
自分はもう人間じゃない。でも、その現実を今すぐ受け止める事なんてできない。自然と涙が溢れてくる。自分が馬鹿じゃなかったら、昨日あの店に入らなければ、こんなことにはならなかった。後悔しても今更、遅い。涙が止まらない。
段々と周りが眩しくなって駅が見えてくる。なんだか蛍光灯の光が、すごく眩しく感じる。そういえば夜なのに、特に暗いなんて思わなかった。蛍光灯の明かりが眩し過ぎて気持ちが悪い。これが夜に生きるということだろうか。光は、敵。現実に思考が一歩近づくと絶望も一歩近づき、過去は遠く離れていく。
また涙がこみ上げてくる。こんな人通りの多い所で泣きたくない。必死に涙をこらえて、駅の構内に足を踏み入れた。
その瞬間、女性の悲鳴が聞こえた。
「ひったくり! 捕まえて!」
遠くの方で女性が床にしゃがみ込んで、男がこちらに女物のバッグを握って走ってくる。
(捕まえなきゃ!)
そう思って走り出した瞬間、ミナは男の目の前に立っていて、避けられずに男にぶつかってしまい、男はその場に倒れこんだ。
(え? 今の、何? 私、ここまでどうやって……)
動揺している間に男が逃げ出そうとしているのに気付いて、我に返って慌てて男の腕を掴む。
「ギャァァァァ!」
男の悲鳴が構内に響く。
「いっ! 痛! は、離しっ!」
男は必死にミナが掴んだ腕を離そうとする。それは、そよ風のようにか弱い力で。しかし男の顔は必死で、額には汗が滲んでいた。
ミナが男を捕まえている間に、サラリーマンや駅員がやってきて男を取り押さえたので、ミナは腕を離した。
「お嬢ちゃん勇敢だね!」
「姉さん大したもんだね! 柔道でもやってたのかい?」
通りかかる人が話しかけてくるけど、ミナはこの事で、自分が人間ではなくなってしまったという事を実感してしまって、彼らの賛辞は耳に届かなかった。
見つめる先の小さな掌。今までとなんら変わらない自分の掌。それを見つめて戦慄するような事が、自分の力に恐怖するような事が起きるなんて、思いもよらなかった。
この力、これこそが、この暴力こそが人知を超えた化け物の証。風のように早く、海のように強い。この力こそが、今日のことは実は夢で、私は普通の人間なんじゃないか、なんて言う愚かで儚い願望を打ち砕いた。
今が昼間だったら、すぐにでも日の光に焼かれて死んでしまえるのに。人間じゃなかったら、生きてなんかいたくなかった。
あの男性は大丈夫だろうか。大の男をあれほど悶絶させる程の力なら、骨にヒビでも入っているんじゃないだろうか。
そう考えて急に不安になった。今まで他人に危害など加えたことはない。怪我なんてもってのほかだ。女性はお礼を言っていたけど、ミナのしたことは「悪」ではないと言い切れるのか。やりすぎてしまっては、たとえその行いが正義でも、立場が変われば「悪」になるのではないか。
電車の中で悶々と悩み続けていたら、いつの間にか降りる駅についていた。改札を通って家に向かう。
足取りが一段と重くなる。家族になんと言おう。父、母、年の離れた弟。こんな化け物になってしまったら、会う事などできない。化け物が近くにいたら迷惑をかけてしまう。それに、もし錯乱して家族を襲ったらと考えると、恐ろしくて仕方がない。家族の為にも自分の為にも、別れなければならない。
固く決心して、玄関のドアに手を伸ばす。が、玄関を開けることができない。家に拒絶されているような感覚。どうしよう、と玄関先でオロオロしていると、玄関のドアが開いた。
「お姉ちゃん!」
ドアを開けたのは弟の北都だった。
「何してんの? 早く入って?」
そう言われて、ようやく家が開かれた感じがした。玄関で靴を脱いでいると
「お姉ちゃん! 昨夜はどこ行ってたの!? ぼく心配したんだよ!」
くりっとした大きな瞳を少しだけ潤ませて詰め寄ってくる。
「心配かけてごめんね」
そう言って北都の頭を撫でると、少し落ち着いたようだ。
「お父さんもお母さんも心配したんだよ? 早くこっちきて謝って!」
手を引かれリビングに入る。
ミナは決してお金持ちだとか、そういうのではないけれど、両親や北都がとても心配性で、門限付の箱入り娘。ミナに近寄る男がいると知れば、その度に父や北都が「うちの娘(お姉ちゃん)に近づく奴は許さない!」と喧嘩を吹っ掛けるものだから、今までお付き合いすらしたことがない。それだけ大事にされているというのもわかっている。だから、今から別れを切り出すのが辛いし難しい。
リビングに入ると、ソファで父と母が待ち構えている。父は明らかに怒っているし、母なんか泣きそうだ。心配性にも程がある。
「ミナ、ここに座りなさい」
そう言われてソファに腰かける。
「昨夜はどこに行っていたんだ! みんな心配したんだぞ! まさか男じゃないだろうな!」
近からず遠からず。父が真剣に心配してくれている様子を見ると、だんだん言いづらくなる。さようならと言いたくない。でも、言わなければ。
「そのことで、私も話があるの」
すると、みるみる父と北都の表情が変わる。
(あ、絶対勘違いしてる)
と思った瞬間、案の定父が激昂した。
「ミナ! どういう事だ! 結婚なんて許さん!」
「どこのどいつだよ! ボコボコにしてやる!」
まだ何にも言ってないのだが、この手の話になると、いつもこれだ。
「違うよ……お願い、聞いて?」
何とか誤解を解いて、父と北都をなだめることには一応成功した。
準備が整ったので、意を決して口を開いた。
「信じてもらえないかもしれないけど、私、昨夜化け物になったから、もうここにいられないの。さよならなの」
やはりというべきか、三人とも頭上に疑問符が浮かんでいるので、かいつまんで説明することにした。
「私ね、昨夜吸血鬼になったの。このままじゃみんなのこと食料にしちゃうかもしれないし、私、不死身だからずっとここにはいれないの。しばらくしたら出て行かなくちゃいけないの。馬鹿な娘でごめんなさい」
3人とも、だから何言ってんの? という顔をしている。当然だ。ミナ本人だって、昨日までなら信じられなかったと思う。
「お前は、そんなウソが通ると思っているのか?」
父がだんだん興奮してきたようだ。父が拳を震わせて立ち上がる。
「これだけ心配をかけておきながら……ふざけるのも大概にしろ!」
振り降ろされた父の腕を人差し指で止めてみせる。
「ねぇお父さん、これじゃぁ証拠にならない?」
小柄で、決して父には反抗しなかった娘が、父の鉄拳制裁を人差し指で止めてしまう。そんな光景を見せつけられて、3人とも今度は驚いた顔をしていた。もう一押しだ。
「ちょっと待ってて」
そう言って台所へ立つ。ホルダーからフルーツナイフを取り出し、リビングへ持ってきた。
「みんな見てて」
ナイフを手首に押し付ける。母が小さく「ヒッ」と悲鳴を上げて、北都と父は慌てて立ち上がった。
「やめなさい!」
制止の声を無視して押し付けたナイフを一気に引く。切り裂かれた箇所から赤い血が流れ出る。痛みなんて微塵も感じない。流れ出た血は滴り落ちることなく再び戻っていき、映像の巻き戻しのように傷口は静かに塞がった。非現実的すぎるその光景に、誰もが息を呑むのが見て取れた。
「ね? 私がもう化け物だってとりあえず理解してもらえた?」
自分で言っておいて傷ついた。ミナは本当に化け物になってしまった。3人ともまだ呆然としている。こんなものを急に見せつけられて、驚いて当然だ。自分の血に触れた物を使わせるわけにもいかないと考えて、ナイフを新聞紙で包んでバッグに入れていると
「ねぇ、化け物になったからって、どうして出て行かなきゃいけないの?」
目に涙を溜めた北都が縋り付いた。
「ぼくお姉ちゃんと離れるの嫌だよ!」
そう言って涙をこぼす。勿論、ミナだって離れたくはない。しかし、そうしないでいて、一体どうしろと言うのか。
「お姉ちゃんはね、吸血鬼になっちゃったの。吸血鬼は人間の血がご飯なの。吸血鬼はお腹が空いたら人の血を飲むの。それはそれはお腹が空くから、我慢できないんだって。吸血鬼に血を飲まれた人は、映画に出てくるゾンビみたいな化け物になっちゃうし、お姉ちゃんはみんなをそんな化け物にしたくないの。みんなをご飯になんてしたくないの。それに死なないから、私が100歳になってもこのままなの。そんなの気持ち悪いでしょ? だから、仕方がないんだよ」
できるだけ優しく諭すも、北都は腕の中で「嫌だ!」と泣いている。父と母も複雑そうな表情を浮かべていた。きっと、どうしたらいいのかわからないのだ。それはそうだ。家族が決められるようなことではない。自分が強行してしまった方が、きっと家族も諦められるだろう。泣きつく北都を離して
「じゃぁそういうことだから、もうしばらくしたら出ていくね。19年間育ててもらったのに、親孝行できなくてごめんなさい」
それだけ言って自分の部屋に戻った。
部屋は真っ暗なのに、昼のようによく見える。
(そういえば、私はもう太陽の光はダメなんだ)
この家にいるうちは、光を遮断できるようにしなければいけない。明日の日が昇るまであと4時間。早めにやってしまおうと考えて、早速作業を始めた。部屋にあった雑誌を切り取って窓ガラスに張っていく。それでも心配で、クローゼットの中の荷物を引っ張り出して、布団とガムテープを持ち込んで黒いコートを布団の上からかぶせる。ここまですれば大丈夫だろう。
そうこうしている間に深夜になっていた。もう夜中なのに、眠くもなんともない。改めて、夜を歩く生物に変貌してしまったことに落胆したが、何となく手持無沙汰になってしまって、荷物の整理をすることにした。持っていくものは着替えとお財布と定期入れと。あまり大荷物でも龍に怒られること請け合いだ。
纏めようとした時、机の上の家族写真が目に入る。ミナの高校の卒業式の日の写真。花を胸に付けたミナを中心にしてみんなが笑顔で写っている。写真の一枚くらい持ち出しても罰は当たらないと考えて、定期入れに写真をしまった。
(携帯と通帳は解約しなきゃなぁ。銀行にはお母さんに行ってもらおう。私、昼間は外に出る事は出来ないし。明日はバイト先にも辞めますって言いに行かなきゃ。急に辞めるなんて言ったら、みんなに迷惑かけちゃうけど……店長、ごめんなさい!)
今後必要そうな「人間としての人生の精算」を考えているうちに、眠気が襲ってくる。時計を見るともうすぐ5時、もうすぐ―ー日が昇る。クローゼットに入り、隙間をガムテープで目張りして布団とコートをかぶって、深い深い眠りについた。
目が覚めて時計を見ると、夕方の6時だった。この時間だと、アルバイトに遅刻してしまう。慌ててクローゼットを開けると、目張りした窓からうっすらと西日が差している。
(あぁあぁどうしよう。まだだめだ! んもー!)
慌てて開けた扉を慌てて閉める。仕方がないので遅刻すると電話した。
黒いコートを羽織って、注意しつつ部屋から出てみると、リビングには真っすぐ西日が差しこんでいる。それを見てやはりうんざりした気分になりながら、仕方なく階段に座り込むと、下から北都が階段を上ってきた。
「あれ? どうしたの? お姉ちゃんバイトは?」
クラブ終わりらしく、チームカラーの青いサッカーのユニフォームを着たままで、ユニフォームも靴下も泥だらけ。こんな姿を見るのも日常茶飯事だったが、今後見れなくなるのだろうと思うと、途端に郷愁が胸を突く。込みあげてくる物を抑え込んで、何とか笑顔を取り繕った。
「おかえり。まだ日が昇っているから外に出られないの」
すると北都は、不思議そうに首をかしげた。
「なんで日が昇っていると外に出られないの?」
「吸血鬼はね太陽の光を浴びると死んじゃうの。だから日が暮れないと動けないんだ」
それを聞いた北都はなるほど! という顔をして「吸血鬼って大変なんだねぇ」と呟くように言った。北都はすでに姉が吸血鬼だという事を受け入れているようだ。さすがに子供は柔軟性がある。問題は父と母をどう説得するかだ。それを考えているうちに、いつの間にか日は沈んでいた。
「日が落ちたからバイト行くね」
バイバイと北都に手を振ると「いってらっしゃい!」と送り出してくれた。
外は真っ暗ではないが、日が落ちて薄暗い。ここから暗くなるまではあっという間。ミナたち夜族の領分がもうすぐやってくる。ただでさえ遅刻しているので、少しでも早くつかなければと走ると、車より速く走ってしまうことに気付いて、諦めて歩いていく。バイト先の居酒屋に到着すると同僚や店長が「どうしたの? なにかあったの?」と心配して聞いてきた。普通なら怒られてもいいくらいなのに、つくづくミナの周りには心配性ばかりだ。折よく人が集まって来たので、一息ついてみんなを見渡した。
「今日のことも含めて、店長とみんなにお話があるんです」
店長とみんなが「なに? どうしたの?」と身を乗り出してくる。
「今日遅れたのは、病院に行っていたんです。私、ちょっと重い病気に罹ったみたいで、あっ、人に感染するような病気じゃないから、その辺は大丈夫なんですけど。でも、遺伝性光線過敏症とかいう珍しい病気で、専門のお医者様はなかなかいないらしくって、九州の病院に入院しないといけなくなって……。だから、お店を辞めさせて頂きたいと思いまして、急にごめんなさい。すみません」
通勤しながら一生懸命考えたウソ。それなのに同僚たちは、心配顔でミナを見つめ、一番仲の良かった早苗が、泣きそうな顔をして寄ってきた。
「ミナ、ごめんね。あたしのせいで悪くなったのかな」
数日前、一緒に花見をしたから。ミナがウソの引き合いに出した病気が、紫外線を浴びると死んでしまう病気だと、聞いたことがある様だった。
「ううん、違うよ、早苗ちゃんのせいじゃないよ」
昨日エステに行ったら、レーザーで肌が異常な炎症を起こした。それで病院に行ったら、そう診断されてしまった―ーなんて、更にウソを重ねる。
「大丈夫?」
「うん、今の所。ありがとう」
「病気なのに今まで無理させちゃってごめんね!」
「こっちの心配はしなくていいよ! 早く良くなってね!」
「治ったら遊びに来てよ!」
みんなの優しい言葉に熱いものがこみ上げてくる。
(ウソついてごめんなさい。みんな、ありがとう)
「無理しないで帰りなさい。今日まででつけておくから」
店長はそう言ってくれたけど、もう少しみんなの傍にいたかった。
「平気です! 店長お願いします。今日までは働かせてください!」
無理を言って働かせてもらった。仕事上がりにいつの間に調達したのか、大きな花束と「はやく元気になぁれ」とメッセージカードをもらって、ミナは涙ながらにお店に別れを告げた。
家に帰ると、リビングでまた家族会議をしているようだった。ソファには父、母、北都、龍。
「龍さんンン!?」
何してるのこの男! といった表情で龍を睨むと
「ミナさん、お疲れ様です。ご不在とは知らず勝手にお邪魔して申し訳ありません」
と、初対面時の様な、爽やか紳士を装った返答が返ってきた。
(あ、なるほど。外面はA面というわけですね)
と納得していると
(貴様、何がA面だ)
頭の中で龍の声が響いたことに驚いた。慌てて龍を見ると、口角をクイッと上げて厭らしく笑っている。
(吸血鬼ってテレパシーもできるんだ。スゲーや! っておぉぉぉい! どんどん人間離れしていくなぁ……)
ミナの気持ちを知ってか知らずか―ー知っているはずだが、龍には知ったことではないようで。
(お前も私にはきちんとしろ)
(何様よ! チクショー!)
と思いつつ、反抗もままならない。
「あ、いえ、龍さん。わざわざお越しいただきましてご足労おかけします。龍さんからもお話をして戴いていたんですか?」
A面龍なら家族を泣かせるようなことは言わないだろう。が、何を話していたのかは気になる。
「ええ。とりあえずミナさんが吸血鬼になった経緯と、吸血鬼についてのお話をさせて頂きました」
「えぇっ、あの経緯を……」
あの痴態を家族に知られたのかと思うと、割と最悪だ。
「ミナもこっちに座りなさい」
母に促されて北都の隣に腰かけると、父に呼ばれて顔を上げた。
「彼に、吸血鬼になった経緯と吸血鬼のことを聞いて、やっと……理解した」
悲しそうな顔をしながらも、父は続けた。
「昨日からな、ずっと考えていたんだ。お前が吸血鬼でも人間じゃなくても、お前は俺たちの娘だ。ずっと家族として一緒に暮したいと。でも彼の話を聞いてようやく理解した。俺たちと暮らしても辛い思いをするのはお前だと。だから……」
そこまで言うと父は言葉に詰まってしまった。そんな父を見ていると、ミナの目にも涙が溢れてくる。
「彼のいう事をよく聞くんだぞ。元気でな」
父の言葉にとめどなく涙が流れ落ちた。
「おと、さん、ごめ、なさい……」
やっと絞り出した謝罪の言葉。本当は伝えたいことがたくさんある。今まで育ててくれてありがとう。親孝行できなくてごめんなさい。たくさん、たくさんあるけれど、言葉にならなかった。
その時、
「やだよ! 僕は納得できない! 理解もできない! お姉ちゃんと離れるなんて絶対に嫌だ!」
北都が泣きながらしがみついた。
「北都、仕方ないのよ。こんなことじゃなくても、女の子はいつか家からいなくなってしまうんだから」
母が北都を諭すも、北都は首をブンブン横に振った。
「お嫁さんになるならたまにでも会えるじゃないか! でも、今別れたらお姉ちゃんと二度と会えないかもしれないんだろ!? ぼくそんなの絶対に嫌だ!」
北都はミナの首に腕を回して、ギュッと抱き着いて離れようとしない。10歳年下の可愛い弟。愛しいたった一人の兄弟。
(それでも、私は決めたの。私は――)
「北都……」
「じゃぁぼくも吸血鬼にしてよ!」
北都の言葉に、その場の全員が凍りついた。
北都は涙を湛えた目で、ミナを見上げた。
「ぼくお姉ちゃんと同じ吸血鬼になる! 僕も吸血鬼になればお姉ちゃんとずっと一緒にいられるでしょ!?」
子供の純真さは時として恐ろしい。何を言い出すのかと、北都を諭そうとした時だった。パァンと乾いた音がして、北都がミナの膝の上に倒れこんだ。母が肩で息をしながら、振り降ろした掌を握って立っていた。
「ミナがいなくなるだけでも辛いのに、北都までいなくなったら、私……私は……」
そう言って母は床に座り込んでしまい、北都は頬を抑えて起き上がった。
「だって、だって! お姉ちゃんと離れたくないもん……」
母の様子がとても気にかかったが、それと同時に北都の言葉に堪らず抱きしめた。
「北都、ごめんね。いなくなっちゃう事許してね。手紙書くからね」
「ぼくも吸血鬼にしてよ……」
それでも北都は聞く耳を持たない。北都の肩をつかんで目を見つめた。
「北都、吸血鬼になるっていうことがどういう事か、ヴィンセントさんに聞いたでしょう? 人を襲わないと生きられない鬼なのよ。一生友達もできない。お父さんやお母さんにも二度と会えないかもしれない。学校だってもう行けない。子供のまま大きくなれない。太陽の光を浴びることもできないから、外で遊ぶこともできない。北都はそれでいいの? お姉ちゃんは北都にそんな思いしてほしくないよ?」
北都が何と言おうと、吸血鬼になんて絶対にしない。北都は優しい子だ。きっと吸血鬼であることに耐えられなくなって、自ら死を選んでしまうだろう。そんなことは、それこそミナが耐えられない。それに、遺された父や母は、一体これから何を生きがいにすればいいのか。
「北都、お願い。吸血鬼になりたいなんて言わないで。北都は人間として生きて幸せになって。北都までいなくなっちゃったら、お父さんとお母さんがとっても悲しむから。ね?」
北都はまだ納得していないという顔をしていたが、しぶしぶ小さく頷いた。それを見て、母も父も安堵したようだった。
「夜分遅くに申し訳ありませんでした」
玄関先で頭を下げるヴィンセントを見送る。
「いえ、あなたとお話しできてよかったです。ミナをよろしくお願いします」
深々と頭を下げる父とお母。なぜかヴィンセントに向かって舌を出している北都。
少し話したいことがあるからと、ヴィンセントを途中まで送ることにした。
「お前が着いてこなければ、楽に飛んで帰れるんだが」
さっそく嫌味を言われる。もうB面が出現したようだ。
「お前に丁寧にしてやる義理はない」
「女性への嗜みって言ってませんでしたっけ?」
「お前は下僕だろう」
「そうでした……」
どうやら下僕は性別を無視されるようだ。微かに落ち込まされたが、ふと思い立ってヴィンセントを見上げた。
「そういえばヴィンセントさん、この前は家が分からないから自宅に連れて来たって言ってたのに、よく家がわかりましたね?」
ヴィンセントが来てる時から気になっていた。
「何度も言うが、お前は私の下僕で、私は下僕のことはなんでもわかる。お前がどこで何をして何を考えているのか、全て」
改めて、ミナにはプライバシーの欠片もないようである。
「お前にプライバシーなど必要ないと言った筈だ」
そういえば、そんな衝撃的なことを言われた気がする。すっかりしょげて俯いていると
「いい家族を持ったな」
ヴィンセントの言葉に思わず顔を上げた。
「みんな一生懸命お前のことを考えていて。大事にされていたのだな」
ヴィンセントにそう言ってもらえると、とても嬉しかった。
「はい。私も家族が大好きです」
嬉しくて涙が滲んだ。
「お前は泣いてばかりだな」
少し呆れ顔で微笑んだヴィンセントの顔は、今日もやっぱり綺麗だった。
次の日の夜、出ていく準備が整った。携帯は解約してきた。通帳も昼間に母が解約しに行ってくれた。荷物も持ったし、ヴィンセントに言われたとおりに家の庭の土も準備した。なんでも、吸血鬼は産まれた土地の土がないと、力を持続できないらしい。あとはもう一つ、両親に頼みごとをするだけ。
コンコンと部屋をノックする音が響いた。
「お姉ちゃん、入っていい?」
北都がドアを開けて覗き込んでくる。どうぞ、とドアを開けると、北都は妙にキョロキョロした。
「お姉ちゃん、真っ暗で何も見えないよ」
「あ、そうだった。ゴメンゴメン」
慌てて間接照明をつけた。自分が暗くても見えるので、照明をつけることなどすっかり忘れていた。北都は天井の照明が点かなかったことを不思議そうにしていたが、「明るいのダメだったんだねぇ」と、すぐに納得したようだった。
「北都、どうかしたの?」
ベッドに腰かけて、少し遅れて腰かけた北都に尋ねると、北都は少し俯いて「お姉ちゃんいつ出ていくの?」と、口を尖らせて聞いてくる。おそらく、もう別れは間近だと察しているのだろう。
「今夜でていくよ」
また泣いてしがみ付いてくるかと思ったが、相変わらず俯いたままだ。
「北都、今までお姉ちゃんの弟でいてくれてありがとうね。お姉ちゃん北都のことずっと忘れないよ。たまにはお手紙も書くからね。龍さんが許してくれるなら、たまに会いに来られる様にもするよ」
と言った途端、北都が顔を上げた。
「ぼく、アイツ大嫌い! なんでアイツに着いて行くんだよ! アイツがお姉ちゃんを吸血鬼にしたんじゃないか! お姉ちゃんを連れて行っちゃう奴なんか大嫌いだ!」
北都の言うことは確かなのだろう。ヴィンセントに出会わなければこんなことにはならなかった。諸悪の根源はヴィンセントと言っても過言じゃない。
しかし、こうなってしまったからには、ミナはきっとヴィンセントが居てくれないと、生きていける気がしないのだ。例え人間に紛れても、人間じゃない自分と確実に溝が生まれる。吸血鬼としての生き方も知らない、どうやって食料を調達すればいいのかもわからない。これから何十年何百年、大事な人が先立っていくのを、ただ見つめることしかできない人生を、たった一人で生きていく事は、ミナには到底不可能に思えた。共に長くを生き、先導してくれるヴィンセントが必要だった。
「北都、ごめんね。私はもう吸血鬼になってしまったでしょ。昨日も言ったけど、人間の友達もできないし、ずっとこれから孤独に生きないといけないの。だけど、今はもう吸血鬼だけど、私だって人間として育ってきたから、孤独になんて耐えられないの。だけどもう人間じゃないから、人間と一緒にいることはできない。化け物は化け物の傍にいて、支えあって生きるしかないのよ」
この家を出れば、ミナは孤独だ。吸血鬼は人間にとって敵でしかない。ヴィンセントしか頼れない。でも、ヴィンセントは500年以上吸血鬼をして来たと言っていた。彼は500年も孤独に生きてきた。生まれつき吸血鬼だとしても、元は人間だったとしても、きっと孤独は辛いものだ。500年も前なら、迫害されたり追い立てられたりしたこともあっただろう。孤独は、ヴィンセントを変えたのだろうか。
北都は悔しそうに眉根を寄せて、決意したように口を開いた。
「もし、アイツがお姉ちゃんを泣かせたら、ぼくが許さないから。出て行くんなら、お姉ちゃんが笑ってなきゃ嫌だからね。認めないよ!」
北都はそう言って部屋から出て行った。
(優しい北都、可愛い北都。ありがとう、ごめんね)
荷物を纏めて階段を下りると、リビングに父とヴィンセントが座っていた。
今日は一体なんの御用ですか、と思ったが、両親の手前ヴィンセントは既にA面だし、一応会釈しておく。
「こんばんは、ミナさん。準備はできたようですね。お迎えに上がりました」
(わざわざ来なくたって逃げたりしません!)
(さっさと別れの挨拶を済ませて家を出ろ)
(わかってますー!)
心の中で悪態をつき、その心情が顔に現れていたのを慌てて取り繕い、家族に向き直った。
「お父さん、お母さん、北都、今までお世話になりました。たまにお手紙書くからね。元気でね」
そう言って深く頭を下げる。父も母も涙を流しながら「気を付けてね。元気でね」と送り出そうとしてくれる。が。
「おい! お前!」
北都がヴィンセントを睨みつけて仁王立ちしていた。
「お前、お姉ちゃんを泣かせたらぼくが許さないからな! 寝てる間に日当たりのいいところに放り投げてやるからな!」
顔から血の気が失せていくのが分かる。ヴィンセントにケンカを売るなんて、北都は大した狂犬だ。ミナと一緒に母や父も慌てた。
「ほ、北都! なんてこと……」
「もちろんです」
言い終わらないうちにヴィンセントの声が降ってくる。
「私にはミナさんを吸血鬼にした以上、彼女を守る義務があります。彼女を泣かせたりはしません。北都くん、君に誓います。彼女の笑顔は私が守ります」
そう言ってヴィンセントは北都の前に跪く。その様子に北都も一瞬狼狽えたが、すぐにキッと視線を向けた。
「言ったからな! 破ったら承知しないぞ!」
と言うと、フン! とそっぽを向いてしまった。そんな北都が可笑しくて、思わず笑みがこぼれた。
そろそろお別れの時間だ―ーと、忘れていたことがあった。
「お父さん、お願いがあるの。私が家を出たら、役所に私の失踪宣告を出してほしいの。そうすれば私は7年後には法的に死んだことになるし、その方が、色々、都合がいいから……」
戸籍が残ったままだと、将来的に動きづらい。人に譲って悪用されるくらいなら、抹消してもらった方がいい。父は少し考えたようにして
「わかった。とりあえず捜索願を出してから、捜索証明をもらって失踪届を出すよ。だから、警察には見つからないように気をつけろよ」
と言ってくれた。余計な手間をかけてごめんなさい、と頭を下げると、「ミナ、これを」と、母が銀行のマークの入った封筒を差し出してきた。
「今日通帳解約したでしょう? 口座の残金とお小遣い、少し入れておいたから。使いなさい」
その封筒は、明らかに2センチくらい厚みがある。もちろんミナはそんなにたくさん貯金していない。
「お、お母さん、こんなにたくさん貰えないよ!」
返そうとしても受け取ってもらえない。
「餞別だ。大人しく受け取りなさい。無駄遣いするなよ」
結局、父に押し切られた。もらった封筒をギュッと握りしめる。
「お父さんお母さん、迷惑ばっかりかけてごめんなさい。お手紙いっぱい書くから。ずっと忘れないから。今まで本当にお世話になりました。ありがとうございました」
心から、心の底からの感謝の言葉。今まで言えなかった両親への思い。それから北都との約束。
「北都も元気でね。お勉強もクラブも頑張るんだよ。お姉ちゃんのことは心配しなくても大丈夫だよ。北都、ありがとうね。元気でね。北都は私の自慢の弟だよ」
そう別れを告げて、笑顔で玄関のドアを開けた。ミナはヴィンセントに掴まって一緒に空を飛んで家を後にする。
北都との約束。笑顔でお別れ。涙に気付かれないように。みんなはミナ達が見えなくなるまで手を振っていた。
2 こんにちは、吸血鬼
カードキーを差し込んでランプの色が変わり、開いた自動ドアからエントランスを抜け、エレベーターに乗り込む。ドアを開けると薄暗い部屋。ミナにしてみれば無駄に広く、無駄に高級なオートロックマンション。ミナはとりあえずヴィンセントのマンションに腰を据えることにした。
「お邪魔します……」
先日も来たが、やっぱり緊張する。ヴィンセントはソファにドカッと座りネクタイを緩めている。ミナもヴィンセントの反対側に荷物を置いて腰かけようとすると「何をしている。さっさと飯を持ってこい」と、さっそく命令が下った。
(そうだった。私はこの人の下僕だった。悲しい……フリーターの方がまだマシだよ……)
しぶしぶキッチンへ向かう。綺麗に磨き上げられた、水垢ひとつない流し台。絶対にヴィンセントは潔癖症だ。
さて、食材は……と冷蔵庫を開けると、食材らしきものは一切入っていない。代わりにギュウギュウに詰められた赤黒いビニールのパック。パックを一つ取り出して見てみると、なんだかラベルが貼ってあって、「BLOODTYPE:A」と書いてある。食材なんか冷凍庫にも一切入っておらず、それどころか水すらもない。成程道理で、キッチンも綺麗なはずだ。
なんだか複雑な気分になりながらトレイにパックを3つと、ストローを乗せてヴィンセントの許へ持っていく。トレイをヴィンセントの前に置くと、パックにストローを指して飲み始めた。
「なんだ、お前は飲まないのか」
そういえば吸血鬼になってからまだ一度も血を飲んでいない。どのくらいの量でどのくらい持つものなのだろうか。
「あの、私、お腹すいてないし……遠慮しときます」
まだ若干受け入れられない部分はある。やはり人の血を飲むのには抵抗がある。ミナの様子を睥睨しながら、ヴィンセントは素っ気なく言った。
「お前がどうしようと私は構わないが、腹が減ってその辺の人間を、手当たり次第に襲うような真似はするなよ。そうなると、私が迷惑する」
そう言われてドキッとした。それはミナ自身避けたいし、間違いなくヴィンセントにも迷惑をかけてしまうだろう(そしてひどく怒られそうだ)。
でも、まだ心の整理ができない。血を飲んだら、本物の化け物になってしまいそうで。心だけは人間のままでいたい。
「輸血用の血液なら、さして抵抗もなかろう」
ヴィンセントの言っていることもわかるが、今はまだ無理だ。
「すいません。お腹空きそうになったら頂きます」
そう断ると、ヴィンセントはフンとだけ息を吐いて何も言わなくなった。
沈黙が流れると、だんまりが息苦しくて気になったことを聞いてみることにした。
「ヴィンセントさんって、日本国籍あるんですか?」
素朴な疑問。戸籍がなかったら部屋なんて借りられないはずだし、大体輸血用血液なんかどこから調達してきているのだろうか。それに高そうなマンションに住むのにお金だって必要だが、働いているようには思えない。無職―ーニート吸血鬼。何よりこの人は外人だ。
ミナの質問にヴィンセントは「お前には関係ない」と、まさかの一蹴。
(関係ないはないでしょう! どうせ説明するのが面倒なだけのくせに!)
と心の中で文句を言うと「わかっているならくだらない質問をするな」と言われてしまった。
怒りをどこにぶつければいいかわからずにイライラしていると「私くらいになると、人の心を操ることもできる」と、ヴィンセントは言った。
人を操れるなら戸籍がなくても、大家を丸め込めれば何とかなりそうだ。血液も金も操る人を選べばどうにでもなる。
(なるほどね。つくづく恐ろしい化け物だ。ヴィンセントさんくらいになるとってことは、私にはまだ無理ってことか。ん?)
ふと、疑問が浮かんだ。
「ヴィンセントさんくらいにってことは、他にも吸血鬼ってたくさんいるんですか!?」
「私くらい」という事は比較対象がいるということ。世界中に吸血鬼伝説があるのは、どうやらただの伝説ではないのかもしれない。
「当然だ。お前のようにうっかり吸血鬼にしてしまった奴もいるし、私とは違う発生源の吸血鬼もいる。たくさんとは言わないが、一国に1~5人くらいの割合で、いるのではないか」
「それって結構たくさんじゃないですか?」
「それでもずいぶん減った方だ」
500年以上前――。日本でなくても、どの国でも戦争に明け暮れていた時代。罪人は手当たり次第に処刑された時代。魔女狩りがあったのだ。吸血鬼やほかの化け物も粛清されたに違いない。なんだか少し悲しいような寂しいような気持ちになる。
「化け物は、本物の人間には打ち勝つことはできない」
遠くを見るような眼をしてヴィンセントは言った。
これほどの力を有していながらも、化け物が人間に勝つことはできない? 確かに、寝ている間に襲撃するとか、物量を投じれば化け物退治も出来るだろうが、俄かには信じがたい言葉だ。
大人しくしておけば人間に狩られるような事はないだろうが。
「あの、“本物の人間”って、どういう意味ですか?」
偽物の人間と言われても意味が分からないが。
「己の意志で私の前に立つ者だ」
「え? どういうことですかぁ?」
「うるさい、自分で考えろ」
詳しく説明するのが面倒臭いらしい。一応大人しく引き下がったが、ミナにはまだまだ聞きたいことは山ほどある。
「あの、もう一つ聞きたいことがあるんですけど……」
おずおずと尋ねると、「なんだ」と、凄く嫌そうに睨まれる。その剣幕に、「やっぱいいです」と逃げようとしたら「私が質問を受け付けようとしているのに、いいとはなんだ」と言われてしまった。
「あの、なんでヴィンセントさんは家に入れたんですか?」
これも気になっていた。ミナは自分の家に最初入ることができなかった。でもヴィンセントは入れたので、不思議に思っていたのだ。ヴィンセントは思い出したように口を開いた。
「そういえば、招かれた家の話をしていなかったな」
「招かれた家?」
ヴィンセントの話によると、吸血鬼は、招かれなければ人の家に入ることはできない。たとえそれが、かつての自宅であったとしてもだ。招待のない家は閉ざされた家として、足を踏み入れることはできない。招待のあった家は開かれた家として、好きなように入り込むことができる。
「お前の家には弟を操って招待させた」
「あーなるほど。だから家に入れなかったのか! そういえば北都に上がってって言われた瞬間に家に入れたなー……って」
言いながら聞き捨てならない台詞を拾ったことに気付いた。
「北都を操ってってなんですか!?」
思わず大声を出してしまって、ヴィンセントはうるさそうに顔をしかめる。
「心配することはない。招待させるために一時的に操っただけだ。人の心を操るといっても、一時的なものだ。すぐに効果は解ける」
それを聞いて、ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、この男はやはり化物だ。
「操って利用するにも、北都は子供過ぎて使いものにならん」
「何だとぉぉ! この化け物! 鬼畜!」
「それがなんだ」
(ぐぐぐ……くっそー!)
やはりミナは、まともに反論もままならなかった。今後も常に白旗を揚げさせられるのだと思うと、早々に白目を剥いた。
「さて、質問はもう終わりだ。出かけるぞ」
突然ヴィンセントは立ち上がって出かける支度を始める。何となくそれを眺めて、見送りの姿勢を取っていると、「何をしている? さっさと片付けて出かける準備をしろ」と、イラついた様子で命令されて、慌てて輸血パックを片付ける。バッグに財布を入れてヴィンセントを追って玄関に行くと、やはり睨み下ろされる。
「チッ愚図め」
酷い言われようだ。質問タイムが余程お気に召さなかったらしい。
(私絶対、その内挫けるよ)
ヴィンセントは何も言わずにさっさとマンションを出ていく。さっさと前を歩くヴィンセントを必死に追いかける。どこへ行くんだろう? なにするの? 聞きたいが、質問したらまた怒られそうなので我慢だ。
しばらく着いて行くと、どんどん裏の路地に入っていく。奥に行くにつれて人影も薄れていく。人気のない建物の前で足を止め、建物に入っていく。建物の入り口には看板がかかっているが、外国語の為にミナには読めず、更にミナは、さっき聞いた通り入れない。が、中から「いらっしゃい」と声が聞こえてやっと入ることができた。
そこには、燭台やシカの頭の剥製や、猫足のテーブルや椅子なんかが並んでいた。ゴシック調のアンティーク屋のようで、ミナも案外アンティークは結構好きだが、なんだか不気味な雰囲気だ。キョロキョロしていると、ヴィンセントに腕をつかまれ引っ張られた。
「ミラーカ、今日は頼みがある。こいつに合ったサイズの棺桶を作ってもらいたい」
ミラーカと呼ばれた人に目を向けると、すごく綺麗な女の人だった。白くて滑らかな肌、ストロベリーブロンドのウェーブがかった艶のある長い髪、くっきりした顔立ちに映える大きな鳶色の瞳。ボディコンシャスで露出度の高い黒のロングのワンピースを着ているのに、どういうわけか全く下品に見えない。むしろ品格を感じるような女性らしいスタイル。目の前にハリウッドセレブでもいるかのような錯覚に陥るほどの、完璧美女。
さすがにヴィンセントの周りにいる女性は格が違う。こんなに見ごたえのある美女には、そうそうお目にかかれない。
(綺麗な人ぉぉ! 私が男だったら、今の時点で3回はプロポーズしてるわぁ)
ミラーカに見惚れていると、彼女はヴィンセントの言葉に目を丸くした。
「あら珍しいわね。あなたが吸血鬼を作るなんて。また、可愛い娘を血族にしたものね」
カウンターから出てきたミラーカは、ミナを頭の先から足の先までジロジロ見回す。
「こいつがヴァンパイアになったのは事故だ。私とて好きで傍に置いているわけではない」
それを聞いたミラーカは笑い始めた。
「うふふ。不死の王と呼ばれるあなたもまだまだねぇ。この娘はどこから見ても、男の肌を知っているようには見えないわよ」
それはモテなさそうということだろうか。確かにモテたことはないが、失敬な。ミナもヴィンセントもブスッとした顔になる。それに気付いたのか、ミラーカは可笑しそうに微笑んだ。
「あらあら、二人ともごめんなさいね。メジャー持って来るからちょっと待っていて頂戴」
そう言うとミラーカは奥に行ってしまった。
「あの、ヴィンセントさん、棺桶ってもしかして私の寝床ですか?」
映画で見たことがある。吸血鬼は棺桶で寝起きしていた気がする。ヴィンセントは「珍しく察しがいいな」と、少し驚いたような顔をしていた。失敬だと思う。
「お待たせ」
ミラーカが奥から戻ってきた。
「もう、棺桶作りを依頼されるの100年ぶりくらいだから、メジャーをどこに置いたかわからなくって、ドンキホー○で買ってきちゃったわ」
最近の日本って便利よね! と言いながら、ミラーカは新品のメジャーのパッケージを開ける。この店からドン○ホーテは結構遠いし、帰ってくるには早すぎる。
「え? ていうか100年ぶり? もしかしてミラーカさんも吸血鬼ですか?」
ミラーカは相変わらずニコニコしながら「そうよ。ヴィンセントとは発生源は違うけど後輩みたいなものね」と答えた。やはり結構吸血鬼はいるようだ。ミラーカはさっそくミナの身長や肩幅を図っている。ミナと同年代くらいに見える美しい女性。
「ミラーカさんって何歳ですか?」
思わず聞いてしまったが、女性に対して年齢を聞くんじゃなかったと、すぐに後悔した。それでもミラーカは笑顔で「今年で338歳になるわ」と答えてくれた。
「さて、寸法も図ったし、ヴィンセントの血族の棺桶なんて初めて作るし、サービスしてあげるわね。大体1週間くらいでできるはずだから、業者さんに直接ヴィンセントの自宅に届けてもらうことにするわ。代金は10万円ポッキリでいいわよ」
どこまでも陽気で美人なミラーカ。彼女も悠久の時を一人で過ごしてきたのだろうか。それとも、彼女がヴィンセントの傍にいたのなら、相互に支え合ってきた友人か――もしかして、と思い立ってヴィンセントを見上げた。
「もしかしてミラーカさんって」
「違う」
恋人なんですか、という質問はバッサリ切り捨てられて、ヴィンセントは華麗に質問をスルーした。
「サービスでも10万はぼったくりではないか」
「そんなことないわよ」
ミラーカですらミナの質問はアッサリスルーだ。
「日本は仏教が主流だから、西洋の棺桶作れる業者さん中々いないのよ」
そう言われてみればそうだと、聞いていたミナも納得した。スルーされた質問はもう諦めた。
「そう言えば、あなた」
呼ばれて少し上の目線のミラーカを見上げると、これでもかと美しい微笑で微笑まれる。
「折角だからお店の商品あなたに一つプレゼントするわ。好きなの選んでいいわよ」
「本当ですか!? でも、どれも高そうなアンティークなのに……いいんですか?」
「もちろんよ。ヴィンセントの血族なんてそうそうお目に掛かれないもの。そういえば、まだお名前も聞いてなかったわね。ねぇ、私と友達になってくれない? 友達になってくれたら何でも好きなものを差し上げるわ」
交換条件を出されて逆に安心した。というか逆にありがたい。
「私、ミナと言います。よろしくお願いします」
自己紹介をしてミラーカに握手を求めると、何故かミラーカは驚いたような顔をしている。
「あの、ミラーカさん……?」
不思議に思って覗き込んだが、すぐにミラーカは平静を取り繕った。
「あ、ミナちゃんね、こちらこそよろしく。これから仲良くしましょうね」
すぐに気を取り直したミラーカは微笑んで、差し出した手を握り返してくれた。少し気にかかったものの、ミナは促されるままにはしばらく店内をうろついて、お言葉に甘えて透き通ったコバルトブルーの髪飾りをもらうことにした。
「ミナちゃんってお目が高いわね。また遊びに来てね」
ミラーカに投げキッスを連発されながらお店を後にした。吸血鬼になって初めての友達。初めて地元を出て、高校で友達ができた時のような気分になった。凄く嬉しくてワクワクしてしまう。隙あらばミラーカのお店『カルンシュタイン』に顔を出してしまいそうだ。
「それは困る」
突然ヴィンセントの声が上から降ってきた。
「お前は私の眷族で私の下僕だ。勝手に出歩かれては困るな」
「あの、でもヴィンセントさんと同伴なら問題ないですよね?」
ヴィンセントの様子を窺いながら尋ねると、一瞬目が合ったもののすぐに逸らされてしまった。
「同伴なら構わないが、私はミラーカにあまりお前を近づけたくない」
少し困ったような顔をしてそう言った。どうしてミラーカに近づかない方がいいのだろう? やはりミラーカも吸血鬼だし、猟奇的な性格だったりするのだろうか? と、頭を悩ませていると「ミラーカは」とヴィンセントが口を開いた。
「拷問が趣味で、レズビアンだ」
「な、えぇぇぇ!?」
「特にお前の様に、若くて美しい女が大好物だ。勿論アイツは美少年も好きだがな」
道理でヴィンセントを対象に入れないはずである。
「お互い吸血鬼だからといって油断するな。気をつけろよ」
そう言うとヴィンセントはミナの頭にぽん、と手のひらを置いた。ヴィンセントなりに一応ミナの事を心配してくれているようだ。
(嬉しいけどなんか照れちゃうな!)
考えるとなんだか面映くなってしまって、照れ隠しで、「ヴィンセントさん、私のこと若くて美しいと思ってたんですね?」と、聞いたら突然、顎を掴まれた。
「お前という奴は……私の話をまともに聞かないとはいい度胸だな」
ヴィンセントは笑っているが、目が怖い。
(あああ怒らせちゃった! ご、ごめんなさい! 出来心だったんです! ちゃんと聞いてます! 気を付けます!)
心の中で祈るように叫んだら、ヴィンセントは盛大に溜息を吐いて、またさっさと歩きだした。あれを言わなければ、いい感じのフワフワした雰囲気で帰れたのに、うっかり調子に乗るのがミナの欠点だ。
マンションに着いて、とりあえずお部屋を賜った。まさかのクローゼットだった。
「うぅ……ヴィンセントさん、せめて廊下とか……」
涙ながらに懇願するも「他の候補にはトイレもあるが」と言われたので、クローゼットで即決してしまった。
しぶしぶクローゼットを開けると、ミナ一人が寝る分には困らない十分な広さだった。思ったよりドラ〇もん生活も悪くないかもしれない。でも、まだ棺もないし寝具もない。もしかして、これは床で寝る羽目に陥るのかと肩を落としていたら「棺が届くまではベッドで寝ていい」と言ってくれた。
「あ、ありがとうございます。でも、ヴィンセントさんはどこで寝るんですか?」
首を傾げて尋ねてみると、ヴィンセントは黒い棺を指さした。
「この棺がヴィンセントさんの棺ですか?」
黒い棺には赤い血のようなもので鷹のようなマークと、魔方陣のようなものと文字が書いてある。書いてある文字はどうやら英語でもないようで、何が書いてあるかはさっぱりだ。
「そうだ。棺と言うのは重要なのだ。人間としての私はここで死に、吸血鬼としての私はここで生まれた。この棺が、私の最後の砦だ」
「へぇ……」
この黒い棺が最後の砦であり、ここで生まれてここで死ぬ。吸血鬼にとってそれがどれほど重要な事なのか、この時のミナにはイマイチわからずにいた。
それからお風呂を掃除して、お湯を張ってヴィンセントに先にお風呂に入ってもらい、その間に荷物の整理とベッドメイキング。一通り終わった頃にヴィンセントが上がってきて「お前も入れ」と言ってくれたのでお風呂に入ることにした。
脱いだ服を洗濯機に入れてお風呂に浸かる。広い浴槽で目一杯手足を伸ばす。
洋風の大きなバスタブと隣にはシャワールーム。
本当に豪華なマンションだ。ここに定住できないなんて惜しいこと山の如しだが、ヴィンセントならこのくらいのクオリティの住処なら、どこに行っても確保してきそうな気もした。
しばらく湯船に浸かっていると、突然猛烈に眠気が襲ってきた。浴室には小さな窓がある。このまま寝てしまえば、明日の朝には灰になっている事に気付き、慌てて立ち上がろうとするも、眠すぎてうまく体に力が入らない。
眠気と戦いながらも困り果てて、心の中で必死にヴィンセントを呼ぶと、ヴィンセントは既に脱衣所に来ていた。
「全く、少し待っていろ」
ヴィンセントは脱衣所で何やらバサバサやっている。浴室の扉が開いたのを見届け、強烈な眠気に抗うことができず、ミナはそのまま眠りについてしまった。
翌日目が覚めると、大きなベッドのシーツにくるまれて全裸のままだった。自分の様相にびっくりして起き上がり、すぐに昨夜のことを思い出して恥ずかしくなり、羞恥心で死にたくなった。
「起きたか」
ヴィンセントが腕組みをしてベッド脇に立っていた。当然のようにお怒りの御様子だ。
「お、お、おはよぉございます。あの、昨日はすみませんでした……」
「全くだ。今後こんな迷惑は金輪際御免だ。私までびしょ濡れになったんだからな」
「すみません……」
「だから血を飲めと言っただろうが。普通の人間でも、一日飯を食わないだけで体力が持たないだろう。それをお前は、何日飯を食わずにいる気だ? ガミガミ……」
恥ずかしいやら申し訳ないやら。もう謝る以外に喋りたくない。本当に申し訳ないと思っているのだが、是非ともヴィンセントには早めに部屋から出て行って欲しい。しかしヴィンセントは、そんなミナの気持ちを知ってか知らずか……知っているはずだが知ったことではないようで、延々とお説教が続いている。ふと、ヴィンセントが覗き込んできたのでギョッとした。
「おい、貴様、聞いているのか」
「き、聞いてます聞いてます! 聞いてますけど、あの、そろそろ着替えさせていただきたいんですけど……」
ああそうだな、と言う反応を期待したのだが、まんまと裏切られ、ヴィンセントは思い切り眉根を寄せた。
「ふざけるな。今は私が話している。聞け」
(う、うわぁぁぁ)
ミナの様子など、どうでもいい模様。それ以上に不満と怒りが爆発しているらしく、今はお説教をしたいらしい。
「安心しろ。お前ごときに興味はない」
「ご、ごとき……」
改めて言われると結構ショックを受けた。
仕方がないのでそのままガミガミとお説教を受けていると、しばらくするとヴィンセントも落ち着いてきたようだ。ようやく着替えられる、説教から解放されると安堵して、ヴィンセントの説教を聞きながらミナなりに反省した。
何とかヴィンセントに部屋から出て行ってもらって、着替えを済ませリビングに行くと、ヴィンセントはソファに座って映画を見ていた。何の映画を見ているのか、ヴィンセントの趣味に興味が湧いて背後から覗いてみると、昔のヨーロッパの戦争のシーンだった。見たことがある。ベートーヴェンの映画の序盤だ。ミナもこの映画は結構好きだが、戦争のシーンはなんだか妙にリアルで、とても悲しい。と言ってもミナは戦争を経験したことはないから、戦争のリアルなど知らないが。
「着替えが済んだなら飯を持って来い」
急に話しかけられてビクッとして、「はい! ただいま!」と反射的に返すと「中々従順になってきたではないか」と、なんだかご満悦だ。機嫌がいいならそれに越したことはない。
今日もトレイにパックを3つとストローを乗せて、ヴィンセントの許へ運ぶ。ヴィンセントはその一つを手に取りストローを指して、ミナに突き付けてきた。
「飲め。そろそろ腹が減ってくる頃だろう。力を使わずとも生きているだけで生命力は消費されるのだからな。昨夜お前が急に眠くなったのもそのせいだ」
言われてみると確かに、少し気怠い感じがした。例えるなら、仕事が終わって疲れて、血糖値が足りていないような倦怠感。
「そのまま捨て置けば何れ人を襲う。正真正銘ただの化け物に成り下がるが、お前はそれでいいのか」
ザワッと心が波打ち、激しく拒絶する。ただの化け物になどなりたくはない。恐る恐るパックに手を伸ばす。受け取ったのはいいものの、どうしても心が拒絶する。でも、体はこの血液に吸い寄せられそうだ。
強い渇望。これを飲めば至上の恍惚が得られる期待。心と体が激しく葛藤する。パックを持ったまま固まっていると、急にそれをヴィンセントに取り上げられた。驚いて顔を上げると、ヴィンセントが膝の上にまたがってきた。びっくりして固まっているミナに、ヴィンセントが言った。
「そんなに輸血用血液が気に入らないのなら私の血を飲ませてやってもいい」
そう言って首筋を露わにする。
「私もお前と同じ生き物なのだから抵抗は少ないだろう。飲め」
余計に抵抗感を感じたので、やんわり遠慮して断り、ヴィンセントの手から輸血パックを再度強奪して素直に呑んだ。それはそれでヴィンセントには腹が立ったようだが、目の前で血を飲んだので、それ自体には安心してくれたらしく、大人しく退いてくれた。
一応ミナも、ヴィンセントのお説教を聞いてミナなりに反省したのだ。いつまでもヴィンセントに心配や迷惑をかける気にはなれないし、風呂場で昏睡するなど、自分だって金輪際御免だ。誰彼かまわず人を襲うような化物になりたくもないし、それに比べれば輸血用血液は幾分も我慢できる。いくらなんでも、ヴィンセントに噛みつくなど恐れ多いが。
「私の血を飲めばお前は本物の眷愛隷属に、本物の吸血鬼になることができるのだがな」
改めて血を飲み終えたらしいヴィンセントが言った。
「眷愛隷属ってなんですか?」
「そのくらい辞書で調べろ」
「えぇ……。本物って? 私は偽物なんですか?」
「私の血族に偽物などいるものか」
「え、えぇ?」
さっぱり意味が分からない。首を傾げていると、ヴィンセントに血液の味を尋ねられた。と同時に、驚くほど平気でジュースの様に味わっている自分に気が付いて、二重に驚いた。
「そういえば、コレ血の味しないんですけど!」
「そうか? こういうものではないか」
「イヤイヤイヤ!」
ヴィンセントは500年以上主食が血液だったので、本来の味など忘れてしまったようだ。明らかにミナが口にするものは血液だが、知っているような鉄臭さやしょっぱいえぐさなど微塵も感じない。それどころか血はワインに例えられるように、それ以上に甘美で芳醇な味わいがした。人間の頃は鉄の味しかしなかった血液が、吸血鬼にはこれほどの美味。血を飲んで美味しいと感じる日が来るとは思わなかった。
改めてその現状に感嘆し、なるほど吸血鬼は血を飲むはずだと納得していると、ヴィンセントが目の前に手を差し出した。掌にはわずかに切り傷が出来ていて、そこから見る間に泉のように血液が溢れ出てきた。
「飲んでおけ」
本物の吸血鬼のくだりのようだ。この状態で飲めと言われても、ヴィンセントの掌から啜って飲まなければいけないのか。躊躇して狼狽えていると、ヴィンセントが溜息を吐いたと思ったらいきなり顎を掴まれた。掴まれた顎関節の隙間に指が差し込まれて、口を閉じようとも閉じることが出来ない。
「あがが、あんえふか!」
「開けておけ」
と言われたと思ったら、血が溜った掌を口に押し当てられて、一先ずその血液が口の中に入ってきた。口を塞いだことをヴィンセントが確認した途端、更に血液が流れ込んできて、ミナはなかばむせそうになりながら、必死にそれを飲んだ。ようやく血が止まって、ヴィンセントが手を離してくれたので、涙目になりながら睨んだ。
「けほ、けほ、なにするんですかぁ」
「飲ませてやったんだろうが」
「もっとこう、グラスに入れるとかしてくれたら、自分で飲みますから……」
無理やり液体を大量に摂取させられるのは、イジメや拷問に近い光景だ。それもあながち間違いでもないらしく、何やらヴィンセントはご機嫌である。ニヤニヤ笑っているのが憎らしいと言ったらない。
「これでお前も一人前の吸血鬼だ。これでお前も本物の眷愛隷属だ」
そう言ってヴィンセントはミナの頭を撫でてくれた。ヴィンセントに喜ばれるのは素直に嬉しいし、普段のヴィンセントの様子を考えると、やはりご機嫌ならそれに越したことはないので、一応礼を言っておいた。勿論、若干癪ではあるが。
ヴィンセントはさっさと映画を見始めてしまって、そんなヴィンセントの姿を横目で見ながら、コッソリ撫でてもらった頭に触れた。すると何やらベトベトしていた。不審に思ってベトベトが付着した手を見ると、掌に付着していたのは、ヴィンセントの血液と自分のヨダレだった。
(手ェ拭いただけかい!)
ガックリと肩を落として、少し泣いた。
目が覚めると、珍しく話し声がした。リビングに出るとヴィンセントとミラーカがお茶(血)しながら談笑している。
「ミナちゃん血飲んだの? よかったじゃない」
嬉々として話すミラーカに、「まぁな」とヴィンセントは小さく相槌を打っている。
「ヴィンセントはミナちゃんの血飲んだのよね? 美味しかった?」
ミラーカのセリフを聞いて思い出した。吸血されたことは割と最近のなのに、随分前のことのように感じる。
「あぁ、まぁ美味かったな」
なんだか今日のヴィンセントは歯切れが悪い。
「いいわねぇ。私もミナちゃんの血飲み」
「ダメだ」
ミラーカの声を遮って拒絶するヴィンセント。そんなに嫌なのか、とドアのガラスから覗いてみると、案の定嫌そうな顔だ。そんなヴィンセントに、なおもミラーカは食い下がる。まるで美女がプレゼントをおねだりしているかのような光景だが、おねだりされている方は、実に鬱陶しそうだ。
「ちょっとくらい良いじゃ」
「ダメだ」
「何もしないから! ちょっ」
「ダメだ」
何を言っても途中で遮られてダメの一点張り。なんだかミラーカが哀れだ。
(ていうか何もしないからってなんだろ……。なんか怖い)
ヴィンセントからの前情報が功を奏して、何かする気だったのかと怯えた。今は出て行かない方がよさそうだと思い、引き返そうとしたらお約束。スリッパを踏んで転んでしまい、ドアを派手に開け放ってリビングに倒れこんだ。
「エヘヘ。おはようございマース」
泣き笑いしているミナに、ミラーカは驚き、ヴィンセントは蔑みの視線をぶつけた。。さっきの話は何も聞いていないと自分に言い聞かせ、ノソノソと起き上った。
「ミラーカさん、今日はどうしたんですか?」
尋ねながらミラーカに近づくと、腕を掴まれ引かれた。その拍子にミラーカの膝の上に倒れこんでしまい、慌てて起き上ったが、ミラーカはミナの脚に自分の脚を絡ませ、髪と頬を撫でながら「ミナちゃんに会いたくて……」と瞳を潤ませている。
ミラーカの熱っぽい視線と言葉に思わず血の気が引いた。
「ミラーカは拷問が趣味でレズビアンだ」というヴィンセントのセリフが頭の中でこだまする。どうしたらいいかわからず、混乱状態のミナを助けてくれたのはヴィンセントだった。
「棺配達についてきただけだろう」
助かったことと、棺政策を頼んでいたことを思いだし、即座に起き上がった。
「もう届いているんですか!?」
目を輝かせてミラーカに尋ねると、ミラーカはいささか残念そうにしたものの返事をした。
「ええ。ヴィンセントの部屋に置いてきたわ。それよりミナちゃ」
「わーい! ちょっと見てきます!」
ミナまでミラーカの言を遮り、脱出成功。すぐに立ち上がり駆けだして、ヴィンセントの部屋のドアを開けると、ヴィンセントの黒い棺の隣に、一回り小さい棺が置いてある。
「ミナちゃんの為に特注で可愛いの作ってもらっちゃった」
後からミラーカとヴィンセントが入ってきた。近くに寄って見てみると、全体にモールで豪華な装飾が施され、フューシャピンクとピンクゴールドのツートーンで塗装されている。一見したら棺桶には見えない、インテリアにできそうな代物だ。
「本当に可愛い! ミラーカさん、ありがとうございます!」
嬉しくて思わずミラーカに抱き着いた。
「いいのよ。喜んでくれて嬉しいわ。ハァハァ……ミナちゃん……いい香りね。柔らかくて……美味しそう……」
ミラーカの様子に、慌てて我に返った。これが飛んで火にいる夏の虫と言う物である。
再び大混乱に陥っていたら、またしてもヴィンセントが「鬱陶しい」と言いながら、ミナとミラーカを引き離して助けてくれた。
(ヴィンセントさん私、一生貴方に着いて行きますッ!)
助かったことで一人心の中で感動していると、来ると思っていなかった返事が返ってきた。
【その言葉忘れるなよ】
【え、あ、はい】
一応肯定の返事をしておいたが、なんだか念を押されると、ちょっと嫌だった。
「ミナちゃん、今度は一人でうちに来てね!」
と投げキッスを連発するミラーカを無理やり外に押し出して、やっと静かになった家で、ヴィンセントは盛大に溜息を吐いた。
「言った通りだろう? やはりちゃんと聞いていなかったな」
呆れ顔で言われた。
「すいません。次回から肝に銘じておきます」
本当に気を付けないと、なんだか貞操の危機を感じた。
「さて、棺も届いたことだし、出かけるぞ。動きやすい服に着替えろ」
言うが早いかヴィンセントは、ミナをクローゼットに押し込んだ。言われたとおりに着替えクローゼットから出てくると、ヴィンセントはTシャツにデニムというラフな格好だった。
(ヴィンセントさんでもこういう格好するんだ)
と呆けていると、さっさと出て行こうとするので慌ててバッグを掴んだ。
「荷物は邪魔になるからおいて行け」
と制されたので、そのまま放り投げて玄関へ走った。
「どこ行くんですか?」
相変わらずヴィンセントはサクサク歩く。
「暇潰しだ」
「暇潰しって?」
尋ねても、一々説明するのが面倒臭いらしく、無視だ。この無視にも徐々に慣れてきた。
しばらく着いて行くと、またしても路地に入っていく。奥へ進んで、角を曲がったところで「うっ」と男性の呻き声が聞こえた。不思議に思って覗いて見ると、男性が複数の男たちに囲まれて、暴行を受けているではないか。
「ちょっと! アンタ達! 何してるのよ!」
思わず出て行ってしまった。男たちは突然現れたミナに怪訝そうな顔をしているが、出てしまったものはしょうがない。
「寄ってたかって何してんのって聞いてるの!」
男達は男性への暴行をやめてこちらににじり寄ってくる。
「あ? んだテメェ? 関係ねぇだろ」
「確かに関係ないけど。大勢で一人を殴るなんて卑怯じゃない! 弱虫のやることよ!」
負けじと言い返す。
「んだとテメェ! コルァ!」
「やんのかチビ女! コルァ!」
男達がキレてしまった。
「やれるもんならやってみろ! コルァ!」
ミナもキレた。
男達がナイフや鉄棒で襲いかかってくる。それはまるでスローモーションのようで、ミナはその動きを捉えることに、何の労も必要ない。軽々と躱し、男達の手から武器を叩き落とす。軽い裏拳一発で吹き飛ばされるヤンキーを見て、ミナの脳裏にある映像が流れた。
(今ならできるかも! あの映画で見たあのポーズが!)
なかばワクワクしつつ、狼狽える男達の前に右手を差し出し、指をチョイチョイと引いてみせる。「かかってこいよ」の合図。
それを見た男達は「なめんなよ! コルァ!」と一斉に襲いかかってきた。襲いかかる男達を躱し、鳩尾に膝蹴りを入れて、次の男には後頭部に手刀を落とし、次々とその場に鎮めていく。最後の一人は「覚えてろ! コルァ!」と逃げてしまった。
その頃のヴィンセントは殴られていた男性を介抱していた。
「大丈夫ですか? あぁ心配しないでください。彼女は空手の有段者ですから。立てますか?」
相変わらず外面はA面だった。ミナもその人の許に駆け寄る。
「大丈夫ですか? 災難でしたね! とりあえず一旦表の通りに出ましょうか」
彼を表通りまで連れて行って、ヴィンセントが近くの公園に連れて行っている間に、コンビニで絆創膏等を買う。公園に着くと、彼はしきりにお礼を言っていた。
「なんとお礼を申し上げて良いか。助かりました。ありがとうございます」
よく見るとスーツを着た初老の男性。なんとなく課長さんといった感じだ。
「差支えなければ、何があったかお話しいただけますか?」
手当てをするミナの隣で、ヴィンセントが男性に問いかける。男性は少し迷ったようだが、口を開いた。
「大したことではないのですが、会社の同僚と飲みに行った帰り道です。私も酔っていて、彼らの一人にぶつかってしまって……それで因縁をつけられてあんなことになってしまって」
そんなクズ野郎なら、もっとぶちのめしておけばよかったと考えていると、男性はミナとヴィンセントに改めて向き直った。
「でも、あなた方に助けていただいて……本当に感謝しています。ありがとうございます。良かったらお礼を受け取ってください」
そう言って彼は財布を取り出そうとしたが、すかさずヴィンセントはその手を制して微笑んだ。
「いいえ、礼には及びません。困った時はお互い様ですから。人として当然のことをしたまでです」
ヴィンセントは何もしてないし、自分達は人ではない……と、心の中で突っ込んでいる間も、男性は中々引こうとしなかった。
「ですが……ほんのお気持ちですから」
「そのお金で、奥様に遅くなったお詫びのお土産でも、買って帰られてはいかがですか?」
ヴィンセントに諭されると、彼は深々と頭を下げた。
手当も終わって、ミナ達は男性を駅まで送って別れを告げた。ヴィンセントは時計を見ると「まだ時間はあるな。もう一度裏路地に行こう」と言って歩き出した。
「あの、ヴィンセントさん暇潰しって……まさか……?」
ヴィンセントは足を止めてニヤリと笑った。
「悪党狩り」
ヴィンセントはそれだけ言うとまた歩き出した。
思っていた以上に素敵な暇潰しに、ミナは目を輝かせた。
「ヴィンセントさん! やっぱり私、一生ヴィンセントさんに着いて行きます!」
そう叫んでヴィンセントの後を追った。
再び路地に戻ると、先程のヤンキーが舞い戻っていた。ヤンキー達はミナを見つけると「テメェコルァ! 覚悟しろよコルァ!」と、ぞろぞろと大勢の仲間を引き連れて近づいてくる。
「ヴィンセントさん! どうしましょう! なんだかわくわくしてきました!」
妙に高鳴る鼓動。どういうわけだか、楽しくて仕方がない。
「私は手を出さないから、お前一人でやれ」
ヴィンセントは壁に寄りかかって傍観スタイルを決め込んだようだ。
彼を見ながら、実は面倒くさいんだろうと思っていたら、ガァンと耳元で金属音が鳴り響く。どうやらヴィンセントに見惚れている間に、鉄パイプで殴られたようだ。が、痛くも痒くもない。
「アンタ達! 女の子の頭を殴るなんてどういう教育受けてんのよ!」
平気で立ち向かおうとするミナに、ヤンキー達は動揺を隠せない。
「アンタらみたいなクズ野郎は、この私が成敗してやるわ!」
(ヤバい私超カッコいい)
自分の決め台詞に満足したところで、「ざけんなコルァ!」を合図に、ヤンキー達が一斉に襲いかかってきた。
(出でよ! 私の中のブルー〇・リ―!)
ミナの中のブルースは男達をバッタバッタとなぎ倒していく。殴り掛かってきた男の腕を引いて、鳩尾に膝蹴りをお見舞いし、鉄パイプを振るってきたのを躱して顎に一発。後方から振り下ろされた鉄パイプを躱すと同時にしゃがんで足を払い、そこにローキックを入れてきた男の足を掴んで放り投げる。
まるで自分の生きる天地が、今まさにここであるかのように思う。気分が高揚して胸が高鳴り、細胞一つ一つが目覚めたように意気軒昂する。
しかし、うっかり悦に入っていたらお腹にチクリとした痒みが走った。一人の男がナイフをミナのお腹に突き立てていた。ジワリと服に血が滲んで、自分の皮膚と肉を割いて突き刺さるそれを見た瞬間に、キレた。
「アンタ……女の子の体を傷物にするなんて……責任取れェェェ!」
男の頭を掴みそのまま壁に叩きつける。ほかの男達も首を掴んでは叩きつけ、蹴り飛ばし、殴り飛ばし。ヴィンセントが「やりすぎると死んでしまうぞ」と止めに入らなければ、本当に危なかった。
我に返ったミナは、血を流してのた打ち回る男達を目にして、自分のしでかした所業に狼狽えてしまったが、「最後のシメを見せてもらおうか」という言葉に正気を取り戻した。
(最後のシメ……か。ヴィンセントさんならどうするんだろう)
手元にはさっきの男性の手当ての為に買ってきた絆創膏と消毒液と鋏。それを見ながらしばらく逡巡して、閃いた。
早速鋏を手に取ったミナは、芸大生が悪ふざけをしたような、前衛的な髪型にセットし、消毒液で頓珍漢に髪色も脱色し、「これに懲りたら二度と無駄な因縁つけるんじゃないわよ!」と捨て台詞を残して、その場を後にした。
帰り道、ヴィンセントはニコニコだ。
「ヴィンセントさん、なんでそんなにご機嫌なんですか?」
尋ねると、相変わらずのご満悦顔で振り向き、ミナの頭を撫でる。
「お前が思った以上に見込みがあるからだ。さすがは我が愛しの下僕だと感心していたのだ」
そう言ってミナの額にキスを落とす。
(ヴィンセントさんに褒められた! 嬉しい!)
そして機嫌がいい時はスキンシップが過剰。ヴィンセントは外国人なので普通なのかもしれないが、慣れないミナには少し恥ずかしい。
が、ミナの心中は複雑な感情がぐるぐる渦巻いていた。
「私、力の制御がまだ全然出来てないですね……」
危うく殺しそうになった。ミナは化け物だ。ヤンキーなんかがミナに敵う筈はない。本気を出せば紙細工のように殺してしまうだろう。そのことがとてもショックだった。
「この暇潰しはその修行でもある」
少し息を吐いたヴィンセントが言った。
「この世にお前の大嫌いなクズなど、掃いて捨てるほどいる。危なくなったら私が止めてやるから、お前のやりたいようにやればいい。その内制御の仕方もわかってくるだろう」
ヴィンセントはそこまで考えてヴィンセントを連れ出してくれていた。その事に小さな感動を覚えていると、それに、と話を続けた。
「最初に助けた男がとても喜んでいただろう。クズに蹂躙される善良な市民も掃いて捨てるほどいる。お前は自分も成長しつつ、そういった者どもを救うこともできるのだ。お前にはぴったりの修行だろう」
ヴィンセントは本当にミナのことを考えてくれている。ミナも成長できて困った人の役に立てる。こんなに嬉しいことはない。
「ヴィンセントさん! ありがとうございます!」
嬉しさのあまり抱き着いたら「鬱陶しい」と引きはがされてしまったが、ミナは密かに、このマスターに恒久の忠誠を誓った。
家に帰って夜食のご用意。
「今日はお前も力を使ったからしっかり飲んでおけ」
とパックを手渡された。確かに少し疲れた感じはする。でもやっぱり少し戸惑いはある。
「では私の血を飲んでも構わないぞ」
折角の申し出だが、仮にもマスター。そんなことはできない。
「いえ、いただきます」
しぶしぶストローに口をつける。心がどんなに拒絶しても体が狂喜する。血を頂く感覚に酔いしれる。ミナが血を飲むとヴィンセントが喜ぶ。彼が喜んでくれるのは嬉しい。しかし、まだ心が着いてきてくれない。
お風呂を掃除してヴィンセントに先に入ってもらい、その間にパックを片付けたり掃除をする。ヴィンセントが上がった後お風呂に入った。
今日はいろんなことがあった。これからミラーカの誘惑には気をつけなきゃいけない。悪党征伐は頑張りすぎない程度に頑張らないと――一人反省会。お風呂から上がると、ヴィンセントがまだリビングでお茶(血)を飲んでいた。
「あ、ヴィンセントさんお風呂いただきました。お休みなさい」
そう言って部屋のクローゼットに戻ろうとしたら、ヴィンセントは急に立ち上がってミナの手を掴み無理やり引き寄せて、その反動でソファの背面に激突した。
「ちょっとォォ! 何するんですか!」
どうせならちゃんとソファに着地させてほしいものだ。ミナの目の前で仁王立ちしているヴィンセントは、さっきまでのご機嫌とは打って変わって、ものすごくご機嫌斜め。この短時間の間に何があったのか、ミナは何かしたのか、必死に頭を悩ますが覚えがない。
「あ……あのヴィンセントさん?」
返事がない。ただの屍のようだ、と思っていたら睨まれた。
「燃やすぞ」
「ヒィ! すいません!」
なんなんだ一体。怯えてヴィンセントを見上げると、何故だか溜息を吐かれた。
「あぁ、つい」
つい、で投げ飛ばされてはかなわない。一体何なんだとヴィンセントに向き直ると「腹が減った」と噛みつかれた。
ブツッと皮膚を突き破る音がして、でも、前回のようには痛みは感じなかった。それ以上になんだか、どちらかというと気持ちいい。これは一体どういうことだろうか。
さまざまな疑問と快感に囚われつつも、とりあえずヴィンセントのご機嫌斜めは、栄養失調だったようだ。
少ししてミナの首から顔を離したヴィンセントは「相変わらずお前の血は極上だな」と言い残してさっさと部屋に入ってしまった。
以前は痛みと喪失感しか感じなかったのに、今の感覚はなんなのか? 相手がマスターだったから? ミナがヴィンセントの眷属だから?
いや、これ以上は考えたって無駄だ。どうせわからない。もう、さっさと寝てしまおう。そう考えて、その日、初めて自分の棺で眠りについた。
『――伯爵、愛しています。でも、わたくしは……』
ミナ、私のミナ。なぜお前が――
夢を見た。今更、なぜこんな夢を――
「ヴィンセントさん? おはようございます。珍しいですねー、私より遅いなんて!」
ヴィンセントの棺の前に座って覗き込むミナ。何故かヴィンセントより早起きして、ヴィンセントの寝ている様子を窺えたことが嬉しいようで、にまにましている。
が、ふとミナの思考が流れ込んできた。
(どうしたのかな、怖い夢でも見たのかな? って、この人自体がホラーじゃん。ウケる!)
ミナは自分の思考が伝わっているという自覚が未だにない。失礼な呟きを漏らした後、ヴィンセントの様子を思い出したのか、ミナの表情は心配そうに曇った。
(でも、ヴィンセントさん、どうして泣いてるんだろう……?)
ミナの言葉を聞いて、目元に手をやると涙の跡ができていた。泣くなんて我ながら情けない。女々しい。己の弱さに吐き気がする。
心配するミナを「飯の支度をして来い」と部屋から追い出して、顔を洗いに行く。
洗った顔を鏡で見ようとも、その姿が映ることはない。500年前のあの日から長くの時間を経てしまい、ヴィンセントは自分の顔など忘れてしまった。
それなのに、未だ彼女を忘れられないというのか。ヴィンセントの心を占めるのはミナなのかエリザベートなのか、わかりもしないのに。
こんな日は、つくづく自分が弱い化け物だと思い知らされる。不死王と呼ばれようとも、強い化け物など存在しない。
リビングに戻るとミナが待っていた。
「ヴィンセントさん! 昨日はイッパイ飲んだから今日は腹八分目ですよ! お腹壊しちゃいますよ!」
何故こんな馬鹿を同族にしてしまったのか、不手際を果てしなく後悔する。
「馬鹿者。吸血鬼が腹を壊すか」
ソファに腰かけパックを手に取る。その間もミナは不可解な思索にふけっているが、最早突っ込むのも面倒だ。しかし、ミナのバカっぷりのおかげで気が楽になるのも確かだ。
ミナは相変わらず血を飲むのを躊躇っている。今日はどれほど強要しても飲もうとはしない。せっかく眷愛隷属にしてやったというのに。ミナのこういうところは、飼い主としては腹立たしい。
ミナはいつまで人間であることを貫き通すのか。
(だが、それこそが――……いや、どうかしている。あんな夢を見たせいだ)
邪念を祓う様に溜息を吐くと、その様子を見たミナがまた何か考え出す。
(それよりも、なんで泣いてたんだろう? 気になるー! けど、聞いたら絶対怒られる。最悪燃やされる。気になるけど忘れろ! 忘れるんだミナ!)
頼むから思考が伝わっていると自覚してほしい。
ヴィンセントさん? 食べ終わったなら片付けますよ?」
見るとパックはもう空になっていた。軽く返事をしながら空になったパックをミナに渡すと、またしてもミナは首を傾げている。
(なんか本当に今日は様子が変だな。どうしたんだろ? 変なヴィンセントさん! あ、元から変だ!)
そろそろいい加減に殴りたくなってきた。
(はっ! まさか昨夜、私の血を飲んだせいかな!? なんか変な成分でも入ってたのかな……ってそんな訳ないだろ!)
ヴィンセントが突っ込まないせいか、一人で突っ込み始めた。ある意味ミナといて退屈はしない。
さて、今日はどうするか。また悪党狩りにでも行くか――と考えたが、正直今日は少し面倒くさい。ソファに身を沈めたまま瞑目して考えていると、片付けの済んだミナがリビングに戻ってきた。
「あの、お買い物に行きたいです! 洗濯の洗剤が昨夜でなくなっちゃいました」
浮かれた様子のミナは、遠慮がちではあったが今にも飛び出していきそうだ。初めての普通のお出かけに少々わくわくしている模様。
「じゃぁ行って来い」
そう言って財布をミナに投げて寄越すと、案の定憤慨したようで眉根を寄せた。
(ひどーい! こんな時間に女の子一人で外出させるなんて! 鬼畜!)
化け物のくせに何を言っているんだか、と呆れる。
「ヴィンセントさんと私は二人で一人じゃないですか! 一緒に行きましょうよ!」
「半人前はお前だけだ」
「行きましょうよー! お願いしますー!」
「何故そんなに同伴させたがるんだ。鬱陶しい」
「私一人じゃ迷子になっちゃいます!」
ミナならそう言う事をやりかねない。1週間以上経つというのに、まだ道も覚えていないらしい。つくづく馬鹿な娘だと、嘆息させられる。
「仕方ない、行くぞ」
そう言って立ち上がるとミナは嬉しそうに「はい!」と返事をしてついてくる。犬かお前は、と思う。
ミナはヴィンセントの後ろを一生懸命ついてくる。ミナは根っからの犬体質だ。なんだかんだ文句を言いつつ従順だし、ものすごく気まぐれに喜ばせてやると、予想外に大喜びする。そう言う様を見ると、“飼い主”とはよく言ったもので、ミナが段々健気な飼い犬に見えてくる。
ふと思いついて、背後を見やった。
「遅いぞポチ。さっさと歩け」
そう言うとミナはショックを受けたような顔をして「えっ!? ポチって私ですか!? 私のことですか!?」と、心底勘弁して欲しいと言わんばかりの顔で反抗する。
「お前のような駄犬はポチで十分だ」
ミナは今にも泣きだしそうだ。からかうのは面白い。
24時間営業のスーパーに入り、日用品を見て回る。洗剤1ダース、石鹸、ティッシュ4ダース、ストローを手に取りミナに持たせる。これだけ買えば、しばらくは買い物に来る必要はないだろう。
「ヴィンセントさぁん! 前が見えません! ギャァァ!」
ドサドサと何かが倒壊するような音が聞こえた。何やら騒がしいが無視して進む。
「ヴィンセントさーん! ヴィンセントさんってばー!」
後方では通行人たちのヒソヒソと話す声も聞こえるし、いい加減ミナがうるさい。渋々振り返ると、ミナは崩れたトイレットペーパーの山の下敷きになっていた。ほとほと呆れを通り越して眩暈すら覚えたが、仕方がないのでトイレットペーパーをどかしてやる。
「全く何をやっているんだお前は。本当に使えない犬だな」
文句を言いながらトイレットペーパーを元の位置に積みなおし、山の中から引きずり出すと、半べそをかきながらトイレットペーパーを元に戻すミナ。通行人がそれを見てクスクス笑っている。
「ヴィンセントさん、笑われてます」
「お前のせいでな!」
こういう時は衝動的に燃やしてやりたくなる。
また前が見えなくて事故が起きると面倒なので、荷物を半分持ってやる。
「ヴィンセントさーん!」
また声がかかる。あまり放っておいても事故の元なので、渋々「なんだ」と振り返ると、ミナは異様にニヤニヤしている。
「ヴィンセントさんお財布持ってたりしませんよねー?」
まさか、と思う。ミナの思考は確かに頭に流れては来るが、先程から聞こえてくるのは(ヤバイヤバイ)だけだ。厳密には流れてくるのは思考だけで、直感とか感覚とか、感情などは流れてくることはない。そこまで把握していなくても平気だろうと思っていたが、ここまでアホだとは思っていなかった。誤算だ。
「来る前にお前に渡しただろう」
ポチは目を泳がせて「で、ですよねー……」と曖昧な反応だ。ミナのせいでヴィンセントの溜息の数は倍増だ。
「忘れたんだな」
言及すると、いよいよシュンとして「ごめんなさい…」と項垂れた。ミナが寝ている間に、棺桶をベランダに移動してやりたい。
「取ってこい」
「そんな! ご無体な!」
「なにが無体な物か。忘れたのはお前だろう」
「うぅ……」
「グズグズするな、取ってこい。犬なら取ってこいは得意だろう」
そう言うと、なにやら喚きながら走って出て行った。いよいよ通行人に爆笑された。
それから店内で待たされる事1時間半。
(遅い、遅すぎる! 何をしているんだあいつは!)
とりあえずミナの思考を聞く限りは、案の定迷子になったようだった。途中で(待ってて子羊ちゃん!)と聞こえたと思うと、(腹立つ!)とか(最悪!)とか聞こえてくるので、また妙なトラブルに首を突っ込んでいる模様だ。普段なら構わないが、待たされている方の身には非常に迷惑だ。
イライラが頂点に達したころ「お待たせしました!!」とミナが帰ってきた。
「遅い! 私を待たせるとはいい度胸だ!」
怒りに任せてミナを怒鳴りつけたが、よく見ると服がボロボロだ。ミナはヴィンセントが怒鳴った為に恐縮してしまった。フーッと一息ついて「何かあったのか?」と、今度は落ち着いた口調で尋ねてみると、ミナはその様子で少し安堵したのか、戸惑いながら口を開いた。
「ま、迷子にもなってたんですけど、と、途中で女の子がヤンキーに絡まれてて、助けに入ったら、そいつらの一人に車で轢かれちゃいました。それで、骨折しちゃって、修復に時間がかかって……ごめんなさい」
なるほど、どうりでボロボロなわけである。
「そうか。怒鳴って悪かったな。お前、野良犬みたいだぞ」と言って笑うと、改めて自分の格好を再認識したミナは恥ずかしそうにして俯いた。単純な奴だと思う。
「ところで財布は持ってきたのか?」
「はい! 持ってきました!」
元気良く返事をしたものの、ミナはポケットを叩いている。
(ヤバ……ポケット叩いても、ビスケット一枚出てこない……)
「お前は常にビスケットを携帯しているのか」
「い、いえ……すすすいません。轢かれたときに落としたかもしれないです。拾ってきます!」
すぐさま走り出そうとするミナの首根っこを掴んで引き留めた。とくに根拠はないが、更に面倒事が上塗りされそうな気がした。
「もう待たされるのは御免だ。私が行く。お前は待っていろ。轢かれたのはどの辺りだ?」
問うとミナは申し訳なさそうにして、3丁目の裏通りだと答えた。3丁目の裏通りだと、ここと家からは逆の通りだ。何故そんなところで轢かれたのか甚だ疑問ではあったが仕方がない、その通りまで向かうことにした。
それらしい場所まで行くと、その付近で若い男がたむろしていた。
「うぉーめっちゃ入ってるじゃん!」
「ラッキー!」
男達が漁っていたのは、ヴィンセントの財布だった。
「悪いが、それは私の財布だ。返してもらえると助かるんだが」
これで返してくれたら楽なのだが、大概上手くいった試はない。
「はー? なんだテメェは? 落としていったのは女だったぜ。外人がなんだよ、ウソついちゃいけねーなぁ」
やはりこうなる。
「なるほど。ならば、あいつを轢いたのは貴様らか」
問うとヤンキーたちは顔色を変えた。
「は? 外人、もしかしてあの女の彼氏かなんか? 悪かったねー。でもあの女が悪いんだぜ。調子こいて出しゃばってくるからさ~こっちだって怪我してんだからおあいこじゃん?」 瞬間、血が沸き立った。
一気に歩を詰めて、男の首を掴み締め上げる。
「あいつを虐めていいのは私だけだ。貴様らに許可した覚えはない」
男は苦しそうにタップしている。それを見て仲間を助けようとでも思ったのか、掴みかかろうとする他の男を蹴り上げて遠ざけた。
「貴様らのような者がいると、私が遠慮する羽目になるだろう。非常に迷惑だ」
「わ、わかりました! もうしません!」
そう言いながら男は必死だ。男を離し、「さて、財布を返して貰おうか」というと素直に差し出してくる。「ついでに貴様らの有り金も寄越せ」と言っても素直に差し出してきたので、「素直でよかったな。反抗すれば殺そうかと思っていたんだが」と脅すと目を白黒させていた。
とりあえず、動けなくなる程度までヤンキー達を痛めつけてその場を後にした。
店に戻ると、入り口でミナがしゃがみこんでいた。ヴィンセントを見つけると、駆け寄ってきて「本当にごめんなさい」と頭を下げた。
「構わん。むしろ所持金も増えた」
そう言って男達から貰った(?)財布をミナに手渡す。
「ヴィンセントさん……もしかして」
(敵を討ってくれたの?)
こういうところは察しがいいようだ。
「勘違いするな。お前の為にやったわけではない。私の金を取ろうとしたから、逆に取ってやっただけだ」
間違ってはいないが、素直になれないヴィンセント。
(まーたまた! 照れちゃって! もう! ヴィンセントさんはツンデレなんだから!)
折角尻拭いしてやったというのに、結局腹を立たされる。とりあえず拳骨をお見舞いしてやった。
買い物を済ませて店を後にする。先ほどの言動で非常に腹が立ったので、荷物は全てミナに持たせた。
「ううう、ヴィンセントさん……前が見えないです。また事故ったらどうするんですかー?」
無視。
「ヴィンセントさん、また私車に轢かれちゃうかもしれないですよー?」
無視。
「ヴィンセントさんの大事な下僕は泣いちゃいますよー?」
無視、したい所だったが堪忍袋の緒が切れた。
「さっきからやかましい! 鬱陶しい! 少しは黙って歩け!」
荷物を半分奪い取って早歩きで家に向かうが、後方から何やら聞こえてくる。
(ウフフ、もうヴィンセントさんって本当は優しいのに、ツンデレなんだから!)
いつか絶対、ミラーカに全裸で引き渡した後に、直射日光に当てて殺そうと思った。
家にたどり着いても怒りが収まらないので、とりあえず飛び膝蹴りをお見舞いしてソファに腰かける。
「いった! 急に何するんですか!」
ヴィンセントには急ではないし、今まで我慢してやっただけ、あり難く思って欲しいものである。
「私何もしてないのに……」
バカを通り越して病気の心配すらする。
「ヴィンセントさんの愛しい下僕なのに……」
少なくとも今は憎らしい。
無言でソファに座るヴィンセントを見て、本気で怒っていると察したのか、段々とミナは焦ってくる。
(ど、どうしよう。やっぱりさっきのこと未だ怒ってるんだ)
御名答だ。
(でも私謝ったのに! いつまでも根に持って)
腹が立って睨むと、途端に慌てた。
(心読まれてるんだったー!!)
今頃思い出したようだ。
(あ、じゃぁ財布忘れたことよりツンデレって言ったことを怒ってる可能性が高い!)
御名答。
(にしても、怒るほどの事かなぁ。ヴィンセントさんって案外小っちゃいな)
思考を読まれているを折角思い出したというのに、既に忘却の彼方に追いやったらしい。いい加減に腹が立ったので、ミナを睨んで立ち上がった。
「貴様……調子に乗るとどうなるか教えてやろう」
久々に本気で腹が立つ。ミナは慌てて謝っているが、謝罪だけでは収まらない。一体どうしてくれよう、と床に突き飛ばす。ドサッと倒れこんだミナは勢いよく懇願しているが、聞く気にはなれない。右手を振り上げると涙を湛えた目で、ヴィンセントの目をまっすぐに見てくる。その目が彼女とかぶった。
思わず手を引いてしまった。何故こんな娘と彼女を重ねてしまうのか。自分に腹が立ち、その場にいるのが嫌になって、そのまま手を下すことなく、逃げるように風呂に入った。
(今日は寝起きから最悪だな。死ぬこともないこの体で、私は一体いつまで――……)
若干鬱になりながら風呂に入っていると、脱衣所にミナの姿がガラス越しに見えた。何だか今は、誰とも話したくない気分だった。気付かないふりをしてやり過ごそうとしたが、ガラスの向こうからミナが口を開いた。
「あ、あの、ヴィンセントさん、本当にごめんなさい。私、ヴィンセントさんが、その、敵を討ってくれたのが嬉しくて、でもなんだか照れくさくて……なんか、素直にお礼言えなくて……あの、ありがとうございました。本当に嬉しかったです。ごめんなさい」
そう言って脱衣所から出て行った。その言葉を聞いて、苛立ちも怒りも消え去った。ミナの言葉を聞いて、そうか、と納得してしまった。怒っていたのはただ、ミナに喜んで欲しかっただけなのか。自分の愚かしさに、思わず吹き出してしまいそうになった。
風呂から上がるとミナはまだリビングにいた。
(あぁヴィンセントさん出てきちゃった! どうしよう、未だ怒ってるかな……もう一回謝ろう! でも許してくれなかったらどうしよう……)
狼狽えて困っている姿が、なんだか愛らしく思えた。
「ミナ」
声をかけると、ぱっと振り向いた。
「すまなかったな」
ヴィンセントの言葉を聞いた途端に、ミナは「ありがとうございます」と言って泣き出した。
(ヴィンセントさんが名前で呼んでくれた。許してくれた。良かった……!)
ミナは馬鹿だが、本来は従順なヴィンセントの「愛しい下僕」だ。ヴィンセントに嫌われたり、彼がいなくなってしまったら困るのはミナ。だからいつも尻尾を振って、ご主人様を追いかける、健気な忠犬のような。ミナの隣に腰かけて頭を撫でた。
「お前が私の愛しい下僕でいてくれれば、嫌いになどならない」
そう言ってミナに笑いかけると「頑張ります!」と言ってミナも笑った。
「その汚い面を洗い流してこい」とミナを風呂場に押し込む。その間に一人で食事を済ませ、先に棺に入る。しばらくすると棺を指先で叩く音がした。
「ヴィンセントさん。今日はヴィンセントさんの傍で寝てもいいですか?」
「ダメだ」
「どうしてダメなんですか?」
「鬱陶しい」
しばらく沈黙が続いたと思ったら、何かを引きずる音がする。音は棺のすぐそばで止まって、「ヴィンセントさん、お休みなさい」とミナが言って、ミナの言葉の後にパタンと音がすると静かになった。どうやら勝手に棺を隣に持ってきたようだ。
(あいつ、私の制止を無視しやがった。全く、鬱陶しくて仕方のない犬だ)
結局最後まで溜息をつかされる羽目になった。
この日は余程疲れたのか、夢も見ないほどに深く眠った。
出会いから、もう一月近く経とうとしていた。
あれからもヴィンセントと連れ立って、悪党征伐という名の修行をして、血を飲み、棺で眠る。
悪党征伐も、それこそ初めのころは割とノリノリだった。ミナは元々正義感の強い方だし、困った人がいるのなら役に立つことができたら嬉しい。今もその気持ちに変わりはない。
だけど、いまだに力の制御が下手なミナは、どうしてもやりすぎてしまうことがあって、相手に無用な怪我を負わせてしまうことがある。最近は少し、辛くなってきた。
自分のことにしても他人のことにしても、平和を勝ち取るのに流れる血は少ないほど価値がある。ミナが守った人の中にも、ミナに対して恐怖や嫌悪感を抱いた人もいただろう。最初に力を使った時に同じことで苦悩した。やりすぎたら意味がない。たとえ正義でも立場が変われば悪になる。
それに、戦闘の時になると、妙に精神が高揚することに気付いた。とても好戦的で激しい闘争心が生まれてしまう。これは吸血鬼の性なのだろうか?
ミナがうまく力と感情をコントロールできれば、すべては解決するのかもしれないが、最近悩んでいる。
しかし、目下の課題はたまの修行よりも、毎日の食事だ。正直、毎日飲む必要はないと思う。
以前、お風呂で寝てしまったことがあったから、ヴィンセントとしてもその予防策で飲ませようとしているのだとは思う。でも、少しひっかかる。ミナがしぶしぶ血を飲んでいるのを見て、ヴィンセントはいつも楽しそうにする。
ミナがいう事を聞いたのが嬉しいのか、それとも嫌々口にした割に美味しそうにしているのが面白いのか。後者の可能性が高いが、そうだとしたら正直腹立たしい。ミナはこんなに悩んでいるというのに。所詮他人事だと言われたら、お仕舞なのだが。
大きな悩みと言えば、今のところこれくらい。驚いたことと言えば、思ったよりも棺ベッドが快適だったことだ。寝起きで土だらけにはなるけど、それを差し引いてもあの安眠効果はすごい。
毎回、よく寝た! というスッキリ爽快感を味わえる。ちゃんと休養を取ったぞ! という感覚が絶対にある。起きている間どれほど過激な運動をしても、食事をとらなくても、ある程度の睡眠さえとれば、ほぼ完全回復。棺ベッドの味を知ってしまえば、普通のベッドに戻れない。
後は、悩みというか少し困ったことがある。ミナがヴィンセントの眷愛隷属になった為に、バミューダトライアングルにはまってしまった。
話は三日前に遡る。
なにやら、紙を見ていたヴィンセントは急にそれを握りつぶして立ち上がった。
「出かけてくるから、お前は大人しくしていろ」
言うだけ言って、急に出かけてしまった。
ヴィンセントと離れるのはその時が初めてだったから、妙に落ち着かない。
(ヴィンセントさんどこ行ったのかな? 何しに行ったのかな? それくらい教えてくれてもいいのに! ケチ!)
と一人悪態をついた。
一人だと本当に暇で、ミラーカのお店に行こうかとも思ったが、「大人しくしていろ」と言っていたし、身動きが取れない。仕方なしに、面白そうなDVDがないかとガサゴソ漁っていると、ピンポーンとインターホンが鳴り響いた。この家のインターホン初めて聞いた! と、どうでもいいことを思いながら玄関に走り、ドアを開けた。
「ヴィンセントさんお帰……?」
「ヴィンセント! 会いたか…?」
「どちら様?」
ドアを開けると立っていたのは、見知らぬ女性。和服を着て膝程まである長い黒髪。白い肌によく映える、パッチリと開かれた漆黒の瞳と紅い唇。和服だというのに、なぜか妖艶な雰囲気を醸し出す、和風美女。
一瞬戸惑ったものの、ヴィンセントの知り合いのようだし、とりあえず上がって戴いてお茶(血)を出して、二人でソファに腰かけた。
「ヴィンセントさんのお知り合いの方ですか? あの、今、ヴィンセントさん外出してて……すぐ戻るとは言ってたんですけど……」
なんとか間を取ろうと話しかけるものの、彼女の方はうんともすんとも言わない。無視されたことに驚いていたら、「そなた」と話しかけられたので、パッと顔を上げた。
「はい、なんでしょう?」
彼女はどうも不機嫌そうに眉をひそめて、お茶(血)をテーブルに置く。
「そなた、何者じゃ? ヴィンセントの何なのじゃ? いつからここに?」
一つじゃないの? と思ったが、すぐに返事を帰した。
「あ、私ミナと言います。ひと月前にヴィンセントさんの眷愛隷属になりました」
彼女はミナを真っ直ぐ見て、ふーんと呟く。
「して?」
「えーと? あの、それだけなんですけど……」
ミナの言葉を聞いたその人の目に、少しイラつきの色が窺える。
「ミナと言うたか。そなたはただの眷愛隷属かえ? それとも、本物の眷愛隷属なのかえ?」
と言われても、ミナにはいまいちよくわからなかった。
「すいません、勉強不足なもので、本物とそうで無い物の違いが分からないんですが……」
「チッ! 互いに血を飲みかわし、何度も吸血されていれば本物よ」
舌打ちされたことにショックを受けつつも、「では、本物の眷愛隷属ですね」と言った瞬間、乱暴に玄関のドアが開きヴィンセントが帰ってきて、思わず玄関へ走った。
「お帰りなさい、お客様がお見えです」
そう言ってヴィンセントに駆け寄ると、なんだか慌てた様子で「遅かったか……」とリビングに入る。
ヴィンセントがリビングに入った瞬間その人は立ち上がって、掴み掛った。
「ヴィンセント! せっかくわらわが出向いて来たというのに、これはどういうことなのじゃ!」
どういうこと、それはミナが一番聞きたかった。彼女が喚くので、段々とヴィンセントが苛々して来ているのが分かって、慌てて間に入った。
「あ、あの、二人とも落ち着いて……とりあえず座りません?」
なんとか二人をなだめて、座ってもらうことができた。正直この二人の会話を聞いていたくもないし、混ざるのも嫌だったので、二人分の血を用意しようと思い立ちに台所へ行った。
しかし、所詮は同じ家の中だ。吸血鬼の聴力は聞きたくもないのに聞こえる。
「あのミナという女はなんなのじゃ!」
彼女のキャンキャンが台所まで響いてきた。
(あぁ、嫌だな。ていうか、もしかして私、無関係じゃないのか)
あぁ関わりたくない。しぶしぶ二人の前に血(茶)を持っていくと、ある程度は覚悟していたが、さっそく火の粉を浴びる羽目になった。
「ミナ! そなたはなんなのじゃ!」
先程の自己紹介は、無かったことにされたようだ。
「突然現れて! わらわはずっと待っておったのに! ずるいではないか!」
全然話が見えないので、弁護も反論も出来ない。
「すいません、どっちでもいいんで、どういうことか話していただきたいんですけど……」
困ったように顔を向けると、ヴィンセントがそれもそうだな、という顔をして口を開いた。
「あぁ、彼女は」
「わらわは誘夜姫いざやひめ。そなたよりずーーっと前に、ヴィンセントの眷愛隷属になると契約していたのじゃ! それなのに、いつまで経っても眷愛隷属にしてくれないものだから、わらわの方から来たというのに!」
話を遮られえたヴィンセントは少しイラついたようだったが、誘夜姫の話を聞いているうちにおとなしくなってしまった。
「えーっと、そうなんですか?」
一応確認のためにヴィンセントに問いかけると、「まぁ、な」と微妙な返事。その返事を受けて、誘夜姫はどうもヒステリックになっているようだが、これは、と思いヴィンセントを見た。
「ヴィンセントさんが悪くないですか?」
「何を戯言を! そなたが誑かしたのではないのかえ!?」
ヴィンセントに言ったはずなのだが、なぜか誘夜姫がキレた。誑かすなんて人聞きの悪い、それどころか、むしろ騙されたのはミナなのに。これは正直話にならないので、個別に事情聴取をとろうと考えたのだが、先に誘夜姫が立ち上がった。
「とにかく! 折角出てきたのじゃから、しばらく世話になるぞよ」
誘夜姫はそう言って、荷物を持ってベッドルームに入ってしまった。誘夜姫の背中を見送ったヴィンセントが、深い溜息を吐く。
「あのーヴィンセントさん、お疲れのところすいませんが、一から説明をお願いします」
ミナも無関係ではないみたいだし、聞いてもいいはずだ。
「面倒くさい」
あっさり断られた。ヴィンセントはそのままお風呂に行ってしまったので、仕方なしに誘夜姫の許へ向かうことにした。
ベッドルームのドアをノックする。入室許可を取ろうと話しかけると、即答で「嫌じゃ」と返ってきた。仕方がないので、このままドア越しでの質疑応答を願うと、これまた即答で「嫌じゃ」と返事が来た。
なんだか段々腹が立ってきたが、このまま放置しても面倒くさい時間が引き伸ばされるだけだ。そう考えて、勝手に質問を投げかけてみることにした。
「誘夜姫さん」
「気安く名で呼ぶでない」
ミナは心の中で地団太を踏んだ。ハンカチを持っていたら、引き裂いているところだ。
「あの……姫様」
「なんじゃ」
合格したようである。安心して、なんだかんだお返事を返してくれるので、本格的に質問に移った。
「姫様が契約をしたのはいつですか?」
「50年ほど前かの」
「なぜ契約をすることになったんですか?」
「ヴィンセントと出会った時、契約してくれと言われたからじゃ」
それは少し疑問に思う。ヴィンセントの方からセールスしたのに、契約不履行とはどういうことか。
「それから50年間、一度も契約に関する話はなかったんですか?」
「そうじゃ。そなたはどう思う?」
ドアの中から話しかけられる。ミナも情報がこれだけではさっぱりわからない。
「すいません、情報量が少なすぎてまだわかりません……姫様のこと、教えてもらえますか?」
問うと、中から溜息をもらす声が聞こえて、少しすると誘夜姫が語り出した。
「わらわは、古くから日本の山奥に住む妖怪で、いわば日本版女吸血鬼とでもいうのか、そういう妖怪じゃ。たまに普通の人間に化けて里に下りることもある。ヴィンセントとは里に下りた時に出会ったのじゃ」
日本に吸血鬼がいたことも驚きだったし、変身できることにも驚いて、素直に感心しながら話を聞いた。
「ヴィンセントはとても紳士的で、わらわはすぐに惹かれたわ。だから契約の話を持ち出して来た時も、二つ返事で引き受けたのじゃ」
どこかで聞いたような話である。
「なのにヴィンセントは、いざという時になって無理じゃと言い出して……そのままよ」
急展開に首を傾げた。
「んん? 無理って言われたんですか? 理由は教えてくれましたか?」
気のせいだろうか、部屋の中からすすり泣く声が聞こえる気がする。
「わらわが吸血鬼の始祖だから、駄目じゃと。なぜ吸血鬼の始祖だとダメなのじゃ?」
そう言われても、ミナはキャリアが低い為に吸血鬼の掟もまだよく知らない。
「そこは教えてくれなかったんですか?」
尋ねたのだが、何故か誘夜姫は沈黙してしまった。
一応大人しく返事を待っていると、少し衣擦れの音が聞こえた後に返事が来た。
「教えてくれたのじゃが、意味が分からなくて……契約は破談だと言われて、そのままよ」
意味が解らなかったのなら、納得できないのも無理はない。
「姫様はその理由を知りたいんですか?」
ボスッボスッと中から音が聞こえる、暴れてるようだ。
「それもじゃが、ちゃんと眷属にしてほしいのじゃ! わらわだってヴィンセントの傍にいたいと、50年間願ってきたというのに!」
姫がご乱心じゃ。慌ててフォローを試みた。
「そ、そうですよね。じゃぁ私からヴィンセントさんに話を聞いて交渉してもいいですか?」
ピタッと中の騒音が止まった。
「よいのか?」
「私でよければ」
そりゃ面倒事がさっさと片付くなら協力する。
しばしの沈黙の後、「さっきは悪かったわ」と誘夜姫が言った。声から察するに少し反省の色が窺える気がする。恐らくこの人は悪い人ではない。
なんだか誘夜姫がとても可愛らしい人に思えたので、ドア越しではあったがにっこりと笑って言った。
「じゃぁ今日は疲れたでしょうから、ゆっくりしてください。お休みなさい」
「お休み」
とりあえず誘夜姫の情聴取はできた。問題はヴィンセントだ。面倒なだけならご機嫌とりをすれば話してくれそうな気もするが、そうじゃない場合は難しい。
ひとまず重要な点は「始祖は眷属にはなれないのか?」。
おそらくヴィンセントも始祖だろうから、始祖同士なら同等の階級と言えるだろう。「始祖だから」という事は、吸血鬼自体を眷属にすることはできるという事だ。もしかしたら階級が、誘夜姫の方が上なのか、始祖同士でできない絶対的な理由があるのか。そのどちらかだ。
ミナでは吸血鬼の知識は乏しくてわからない。ヴィンセントが教えてくれなかったら、ミラーカに聞いてみよう。彼女なら知っていそうな気がする。そう考えていると少しして、ヴィンセントがお風呂から出てきた。
「誘夜姫に話を聞いたのか」
「はい。話してくれますか?」
ヴィンセントは唸って、困ったように首をひねる。
「概ね彼女の言う通りなんだが、なぜ理解できないのかが分からない」
そう言われても、ミナにはもっと意味が分からない。どういう事か尋ねると、教えてくれた。
吸血鬼の世界では、真祖が他の吸血鬼の眷愛隷属になることはできないというのは常識だ。ルールで出来ないのでなく、構造上不可能と言う意味でだ。真祖同士だと、吸血鬼と言うカテゴリは同じだが、種族が違う。同じネコ科の動物でも、チーターとトラがつがいにならないのと同じだ。この国が海に囲まれて、他の吸血鬼の侵入を阻んでいたことを差し引いても、知らないはずはないのだが。
「そうなんですか。もしかして、姫様が始祖ってどういうものかわかってないとか?」
「始祖ではない。真祖だ」
言われて首を捻った。
「シンソ? シソじゃなくて?」
「誘夜姫は真祖だ」
始祖と真祖の違いがわからなかったので尋ねると、またしても懇切丁寧な説明。
吸血鬼になる方法はいくつかある。大別すると、自ら魔を引き寄せて吸血鬼になる場合と、吸血鬼に吸血鬼化される場合との二つ。前者の方法で吸血鬼化したものが真祖だ。この国は海に囲まれているから、他の吸血鬼が入りにくい。つまり、誘夜姫を祖とした吸血鬼のみしかいない。誘夜姫は山姫という種の、吸血鬼勢力の頂点と言える。よって、誘夜姫は真祖の中でも、最上級の吸血公主となる。
「なるほど。それで始祖との違いはなんですか?」
「始祖は簡単に言えば、支配下に自分で吸血鬼化した眷愛隷属がいる者を言う」
「あぁ、なるほど。じゃぁ始祖と真祖は似ているようで全然違うんですね」
「階級で言えば誘夜姫の方が上。彼女は伝説級の吸血鬼だ」
つまりヴィンセントも誘夜姫も真祖であるし、誘夜姫が下階級のヴィンセントの支配下になることはあり得ないわけだ。要するに誘夜姫は、自分は始祖だと勘違いしていて、なおかつ真祖だから眷愛隷属にはなれないと、そういう事のようである。
真祖云々については、話を聞いて納得できた。しかし納得できない点もある。
「でも、それならなんで契約話を持ち出したんですか?」
「……それは……色々あってだな……」
ヴィンセントはその質問を受けると、さっと視線を外す。なにか怪しい。
「色々ってなんですか?」
ヴィンセントは目を合わせようとしない。
「もしかして姫様が吸血鬼って気付かなかったんですか?」
ヴィンセントは尚も目を合わせてくれない。
「姫様、人間に化けてたって言ってましたもんね」
なんだか楽しくなってきた。
「いざって時になって姫様の瘴気しょうきに気付いたわけですか」
ヴィンセントは冷や汗をかいてる。
「真祖なら変身も気配を消すのも、かなり高等な技術持ってそうですもんね」
鬼の首取るというのは、こんな感じをいうのだろう。
「それで話を聞いたら真祖だったから、契約締結したにもかかわらず破談したわけですね」
ちょっと得意満面で言ってみると、とうとうヴィンセントがミナを睨んだ。
「うるさーい!」
さすがに怒ったヴィンセントに、思わず怯んだ。
「黙って聞いていれば調子に乗りおって……お前、この私にそんな態度を取って無事でいられると思うなよ!」
(怖ッ! ヤベッ調子こきすぎた!)
怒って立ち上がったヴィンセントに、壁に向かって吹っ飛ばされた。彼は体罰教育派なので、最近ちょっと慣れて受け身が取れるようになってきた。しかし、ヴィンセントがそれに気付かないはずもなく、今度は鬼の形相で歩み寄ってきたヴィンセントに、壁際から離されて床に叩きつけられる。そのままヴィンセントはミナに馬乗りになった。
「さぁ、楽しいお仕置きの時間だ」
「ヒィィィ!」
マウントを取られたことで、一方的に滅茶苦茶に殴られると猛烈に恐怖を感じて、ジタバタと暴れながら「イヤー! 姫様助けてー!」と叫ぶと、誘夜姫が寝室から飛び出してきた。
「ミナ!? どうし……なにをしておるのじゃ?」
誘夜姫の目に映ったのは、マウントを取られたミナと、マウントを取ってミナを押さえつけるヴィンセント。この構図はまずかったかもしれないと、呼んでおいて後悔した頃にはもう遅かった。
「ミナが協力してくれると言うから信じておったのに! もうそなたなぞ大っ嫌いじゃ!」
そう叫んで寝室に引き返してしまった。何とか誤解を解こうと叫んでも、返事は返って来ない。彼女がヴィンセントに好意を持っているのはわかっているのだから、どうしても誤解を解いておきたくて、必死に弁解をしていた。すると馬乗りになったままのヴィンセントが溜息を吐いた。
「この状況で誘夜姫の心配とは余裕だな」
上からヴィンセントの声が降ってくる。その言葉に堪忍袋は破裂した。
「そもそもヴィンセントさんが悪いんじゃないですか! 姫様が50年間待ったのも! 私がこんなことになってるのも! 姫様に勘違いされて嫌われちゃったのも! 全部ヴィンセントさんのせいじゃないですかー! どうしてくれるんですか! バカマスター!」
そう叫んで上に乗っているヴィンセントを張り倒した。
「お前、この私をバカ呼ばわりして反抗するとは、大した度胸だな」
ヴィンセントは起き上がりながらギロリと睨む。その視線に一瞬怯みかけるが、負けてはいられない。
「だってそうじゃないですか! どれもこれもヴィンセントさんがちゃんと計画性のある契約を結ばなかった結果じゃないですか! 私の時も姫様の時もヴィンセントさんのうっかりミスじゃないですか!」
言っていることはミナの方が正論だ。ヴィンセントの様子を窺っていると、彼は聞いているのかいないのか、睨みながら立ち上がった。それを見てミナは完全に怯んだ。
(あ、だめだ実力行使に出る気だ)
三十六計逃げるにしかず。
「もうヴィンセントさんなんか嫌い! ダメマスター!」
捨て台詞をはいて全力で棺に逃げた。棺の蓋を閉めて、興奮したのを落ち着かせながら心の中で悪態をついた。
(全く! 自分で適当なことしといて責任も取らないなんて、男の風上にも置けないよ! 風下にだっておいてやるもんか! 姫様とは日本人同士仲良くしたかったのに! ヴィンセントさんのバーカ! バーカ!)
棺の蓋を閉めて、興奮したのを落ち着かせながら心の中で悪態をついていた。その時、棺の隙間から光がさして、ガタンッとふたが開けられた。
「それで逃げたつもりか?」
普通に開けられた。ジタバタ暴れてみても、抵抗むなしく棺から引きずり出される。
「お前は私に嫌わないでと言うくせに、私には嫌いと言うのか?」
最後のセリフは余計だったと落胆していると、ヴィンセントにギュッと両肩を掴まれて、真っ直ぐにミナを見た。
「ミナ、私を見ろ。私とて、お前に嫌われるのは辛い」
ヴィンセントは少し悲しそうな顔をしてそう言った。ヴィンセントの口から出たとは思えない、意外過ぎるセリフ。もしかして、傷つけてしまったのだろうか、そう考えて暴れるのをやめて、ヴィンセントに向き直った。
「ヴィンセントさん、私……」
ヴィンセントを見つめ返した刹那、さっきまで悲しそうにしていたヴィンセントは、表情を変えた。
「――なんて思うか! バカ下僕!」
「ギャァァァァ! 嵌められたァァァ!」
気付いた時には遅い。結局、ヴィンセントが眠くなるまでお仕置きされた。
それからはもう最悪だ。目覚めから3人とも険悪ムードで、全員が全員と仲が悪い。ヴィンセントとは話したくないし、誘夜姫には話しかけても完全無視で、完全泥沼状態。ヴィンセントはリビングでテレビを見て、誘夜姫はベッドルームに引きこもり、ミナは家の掃除で気分を紛らわしているものの、誰か助けてくれと思いながら今日に至る。
こういう時は第三者が欲しい。雰囲気が最悪すぎて家出してしまいたいくらいだ。
(もうこの際新聞の集金のおっさんでもいいよー。あーヤダヤダ)
その時だった。マンションにこだまする、インターホンの音。
神 降 臨 ! 元気良く返事をして、全速力で玄関へ走っていく。玄関を開けると「ミナちゃんお久しぶりね」と、にっこり微笑んだミラーカが立っていた。
「ささ、上がってください!」
前置きもなく、恭しくミラーカをリビングにお通しする。勿論、居間に連れて行ったのでわかっているはずだし、喋りたくないからヴィンセントへの案内はナシだ。キッチンでお茶の用意をしてミラーカにお出しして、ミラーカの隣に座る。ミラーカはミナ達の様子をチラチラと窺っている。
「ヴィンセント、ミナちゃん、喧嘩でもしたの? いっつも二人でくっついてるのに」
今言われたら少々ダメージを食らう。というよりも、そんな話を誘夜姫に聞かれたら、余計に嫌われてしまうと恐々として、「ところで、ミラーカさん今日はどうしたんですか?」と、慌てて話題を変えた。恐らくバレバレだが、ミラーカは少し間をおいてにっこり笑うと、ミナに身を寄せて頬を撫でてきた。
「もちろんミナちゃんに会いに来たのよ。最近ミナちゃんに会えなくて寂しかったのよ?」
と言いながら、ミラーカはミナの頬にキスをしてくる。
「うぉっちょ、私日本人だから、そういうの慣れないんですけど……」
「西洋では普通よ?」
知識として知ってはいるが、実践となるとやはり慣れない。ミラーカが同性な分まだマシだが、ヴィンセントもミラーカも結構スキンシップは多いので、慣れる必要があるのはミナの方だ。気が付くとミラーカのキス、というかリップサービスは首筋にまで下りてきている。なんだかくすぐったい様な不思議な感覚がする。
「う……ミラーカさん、あの、ちょっと」
「ミナちゃん、いい香り。美味しそう」
ミラーカがそう呟いて口を開いた瞬間、ドキッとした。
(あ、だ、ダメ! 私の血はヴィンセントさんの……!)
そう思って、ミラーカを押しのけようとした時だった。
「ミラーカ!」
ヴィンセントが叫んだと思ったらミラーカを引き離してくれて、ミナを隣に座らせてくれた。ミラーカはそれを見て、ふぅっと溜息をついた。
「ヴィンセント、止めに入るのが遅いわ。私は別にいいけど」
柔らかく微笑んでダメ出しをした。ミラーカは仲直りさせるためにわざと行動したようである。
「あなた達にはいつも仲良くしてもらわないと。その方が私が燃えるのよねぇ。いつもの様に仲直りのチューしちゃいなさい」
「したことないですよ!」
外人は仲直りの際、いつもチューするのかと首を捻っていると、急に上からヴィンセントの言葉が下りてきた。
「さっきミラーカに吸血されそうになった時、何を思った?」
言われて記憶を探ると、思い出した。
(ダメ! 私の血はヴィンセントさんの…!)
ヴィンセントのものなのに。反射的にそう思った。
「そうだ。お前が私以外に血を与えることは、許さん」
そう言ってヴィンセントはミナの首に顔を近づける。皮膚を突き破る音がした直後から、体中が快感に支配された。しばらく吸血するとヴィンセントは顔を離して、「今お前が感じていた感覚を私にも味わわせろ」と言って首筋を露わにした。
「飲め」
そういうと、ヴィンセントはミナの頭を掴んで首まで引き寄せる。まだ、一度も自分から他者に噛みついて吸血したことがない。なんだか、怖い。
「で、でも、あの……」
どうしても戸惑っていると、ヴィンセントは「大丈夫だ」と言う。大丈夫って何が? と、疑問に思ったけど、何となくその言葉に安心した。
傷一つないヴィンセントのきれいな肌。躊躇いつつも口を開き、その肌に牙を立てる。
ヴィンセントが一瞬小さく身を震わせたので、痛かったのかと心配になったが、「さぁ、飲め」と言われてゆっくりと牙から血液を吸い上げる。少しして口を離すと、ヴィンセントはにっこり笑って「よくできました」と頭を撫でてくれた。
ヴィンセントの首を見ると、ミナの噛み跡ができていた。
「ヴィンセントさん、きれいな肌なのに、跡ができちゃいましたね。ごめんなさい」
白い肌にほんのり赤く残った噛み痕を撫でてみた。
(多分、すぐ元通りになるとは思うけど)
そう考えていると、襟元を整えながらヴィンセントが言った。
「吸血痕は消えないぞ」
「え? そうなんですか?」
「お前の痕もずっと残っている」
「あ、そうなんですか。でも、じゃぁどうしてヴィンセントさんには噛み跡がないんですか?」
長い時間経過すると消えたりしないのだろうか。そう考えているとヴィンセントは首を横に振った。
「あるはずがないだろう。誰にも吸血させたことはないからな」
思わずのけぞった。
「えぇー! そ、そうなんですか!? わ、私、なんか、ごめんなさい……」
なんというか、恐れ多いことをしてしまった。
「謝る必要はない。私がそうしろ、と言ったのだ」
「それはそうだけど……」
「素直に喜べ」
正直、すごくすごく嬉しい一番乗り。もしかすると、ミナははじめての眷愛隷属なのかもしれない。今までヴィンセントが吸血鬼化した人はたくさんいるだろうが、誰にもそれをさせなかったということは、眷愛隷属はミナしかいないということなのだろう。そう考えてヴィンセントを見上げて、敬虔な調子で言った。
「あの、凄く嬉しいです。ありがとうございます」
ヴィンセントはにこっと笑って「私の大事な眷属だからな。当然だ」と言って頭を撫でてくれた。
仲直りも出来た事だし、ヴィンセントに頭を撫でられて有頂天になった。
「ゴホン! 二人とも私の存在忘れてないかしら?」
すっかり忘れていた。咳払いをして笑うミラーカに頭を下げると、影が差した。
「わらわの事も忘れておるようじゃな」
声がした方を見ると、誘夜姫がそこに立っていた。
大変な人を忘れていた。今のヴィンセントとのやり取りを見られていたら、余計にこじれそうな気がして恐々とした。案の定誘夜姫は憮然としながら、ミラーカの隣にドサッと腰かけた。
「ミラーカに会うのは久しぶりじゃ」
「姫様、本当にお久しぶりですわね。いつからいらっしゃってたんですの?」
「3日前じゃ」
それを聞いたミラーカは、得心がいった顔をしている。ケンカの原因を察したようだ。
「姫様はこの二人がイチャついているのが、お気に召されませんでした?」
別にイチャついてはいないし、それを聞いてしまうのかとハラハラした。やはりというべきか、誘夜姫は更に機嫌を損ねたようだった。
「気に喰わぬ! ぽっと出の小娘に、わらわの場所を奪われたのじゃ!」
小娘。ここまで嫌われるといっそ清々しい。
癇癪を起す誘夜姫に、ミラーカは子供を諭すように優しく微笑んだ。
「でも、姫様は逆立ちしてもヴィンセントの眷愛隷属にはなれませんわ」
そうミラーカが静かに言うと、怒りの矛先は彼女に向く。
「何じゃその言い方は! そもそもヴィンセントは自分から契約してきたのじゃぞ! できないはずがないではないか!」
「そこはきちんと謝罪しないヴィンセントも悪いと思いますわ。ですが、あなたはただの始祖ではなく真祖ですもの。あなたやヴィンセントがどんなに頑張っても、覆すことはできませんわ」
誘夜姫のの顔に疑問符が浮かんでくる。元はと言えばヴィンセントのうっかりミスと、誘夜姫の勘違いが原因のトラブルだ。この際はっきりさせておくべきだ。
ミナとミラーカ二人がかりで、真祖と始祖についての講義を試みた。誘夜姫は理解しているようだが、段々納得できないと言う顔になってきた。
「つまり、姫様は吸血公主ですから、一介の吸血鬼の下に着くなんてあり得ないってことみたいです」
そこまで話すと、誘夜姫は考え込んで沈黙している。
「……わかった。わらわが眷属になれないということは、理解できた。ならば何故」
誘夜姫は俯いていた顔を上げて、ヴィンセントに視線を向けた。
「何故ヴィンセントはわらわにその話をもちかけたのじゃ? その話をされなければ、わらわは50年も待つ必要はなかったというのに」
彼女の言葉を聞いて、嘆願するようにヴィンセントの腕を掴んで見上げた。
「ヴィンセントさん、姫様にちゃんとお話ししてあげてください」
このままでは誘夜姫が可哀想だ。50年も待たされて、ほったらかされて、結局ダメでした、なんてあんまりだ。せめて謝ってあげてほしい。周りの雰囲気に押されてか、一つ息をついて、意を決したようにヴィンセントは口を開いた。
「初めて会った日のことを覚えているか?」
誘夜姫は少し宙を仰いで考えるようなしぐさをして、すぐに答えた。
「覚えておる。確か、人間に化けて反物を買いに里に下りた時に、町でヴィンセントに声をかけられたのじゃ」
ナンパのようである。
「その後のことも覚えているか?」
ヴィンセントのお顔がだんだん苦々しくなってくる。
「二人で茶屋に入ってしばらく話して、茶屋を出たら契約してくれと言ってきたじゃ。それから、わらわが引き受けて人目につかないところに移動して、いざとなってからヴィンセントがちょっと待てと言って、わらわのことを色々尋ねたと思ったら、契約は破棄だと言ってそのまま帰ってしまった……」
誘夜姫の話を聞いて思わず「ヴィンセントさんって最低ですね」と言ったら拳骨が落ちてきた。
ミナをひと睨みした後、ヴィンセントは改めて誘夜姫を見た。
「そうだな……私は……誘夜姫が吸血鬼だという事に、直前まで気付かなかった」
言った。何故か嬉しくなって、よくできましたとヴィンセントを見上げたが、彼はまだ誘夜姫に向いて、少し所在無さげに視線を泳がせた。
「人間に化けていただろう。人間だと思い込んでいた」
誘夜姫は信じられないという顔をして驚いている。
「私が契約の話をしたときに、お前が、ならば自分を眷愛隷属にしてくれるのかと聞いたときに、少しおかしいなとは思ったんだが……」
普通の人間なら、そんなことは言わない。
「いざ、契約を結ぶときになってお前が変身を解いただろう。そこで初めて気が付いた。別に吸血鬼を眷愛隷属にしても問題はなかったが、変身していると同族に見破らせない程の技量をもった吸血鬼なら、私より格上の可能性が高いと思って、話を聞いた」
状況が理解できたらしく、聞きながら誘夜姫の表情がだんだん強張ってきている。
「それでお前が真祖だとわかって、契約を取り消した」
全部白状した。あとはラストスパートだ。
「私が気付かなかったせいで、お前を傷つけてしまってすまなかった。その後も誠意のない態度を取ってしまって、本当に悪かったと思っている。本当にすまなかった」
ヴィンセントはそう言って頭を下げた。
(よーし! ヴィンセントさん頑張ったよ! ヴィンセントさん男だよ! これで、姫様がが許してくれ……)
そうにない。目の奥が怒りの業火で爛々と光っている。長い髪の毛は逆立って、なんだか誘夜姫のサイズが大幅にアップしている。彼女ははどんどん大きくなって、普段の姿の倍くらいの大きさになった。
「うおぉぉぉ! 怖ェェェ!」
「これが誘夜姫の真の姿だ」
誰のせいだと思っているのか、ヴィンセントは解説を始めてしまった。しかし誘夜姫の怒りと、ミナの混乱状態ではそれどころではない。
「何落ち着いてるんですか!? ちゃんと謝ってぇぇぇ!」
と叫んでヴィンセントの頭を掴みテーブルに叩きつける。
「姫様どうか御静まりください! ヴィンセントさんもこの通り謝ってますから! 落ち着いて!」
一生懸命誘夜姫を宥めていると起き上ってきたヴィンセントに吹っ飛ばされた。起き上ってすぐにヴィンセントに詰め寄った。
「なにすんですか!」
「それは私のセリフだ!」
「私のセリフですよ! だって悪いのはヴィンセントさんじゃないですか! ヴィンセントさんが最初から説明して謝ってれば、こんなことになってないじゃないですか!」
「貴様、下僕の分際で口答えするとは1000年早いわ!」
「そりゃ口答えもしますよ! ヴィンセントさんもう一回ちゃんと姫様に謝ってください! そしたら私も謝ります!」
「バカ犬の分際で私に命令するな!」
「元はと言えばヴィンセントさんのせいでしょ!」
ギャーギャー喧嘩する二人に、ミラーカが止めに入ってきたが、ミラーカは無視されてギャーギャーやっていた。
「せっかく仲直りさせてあげたのに……」
少しうんざりした顔でミラーカがソファに腰を下ろすと、誘夜姫はスルスルと元のサイズに戻っていく。
「ミラーカ、なぜあの二人はわらわを無視して喧嘩しておるのじゃ」
「ヴィンセントが最低だからですわ」
誘夜姫は、吹っ飛ばされては掴みかかるミナを見つめる。
「それで、あの子はわらわの為に、あんなに怒っておるのかえ?」
ミラーカは呆れたように溜息を吐いた。
「ミナちゃんはヴィンセントに騙されて眷愛隷属になったから、姫様の気持ちが分かるんですわ」
本当にヴィンセントって馬鹿ね、とミラーカは溜息を吐く。
「……あの子に酷い事を言ってしまったわ」
そう言って誘夜姫は俯いてたが、それを見てミラーカはふっとほほ笑んだ。
「とりあえず、私では手に負えませんの。姫様、あの二人止めていただけません?」
誘夜姫は小さく笑って「そうじゃな。近所迷惑よ」と言って二人の許に近寄った。
「ヴィンセントさんは失敗ばっかりのくせに反省しないからでしょ! このダメマスター!」
「貴様に文句を言われる覚えはない! クソ下僕!」
「私のことだって事故ったって言ってたくせに!! バカマスター!」
相変わらずギャーギャー喧嘩をしていると、急に目の前からヴィンセントが消えた。一瞬ぽかんとしてしまったが周りを見渡すと、ヴィンセントは壁に激突したようでもたれかかっている。見ると誘夜姫が手のひらをパンパンと払っていた。
「大嫌いなどと言って、悪かった」
突然の謝罪に驚いて見上げると、誘夜姫は前方を見たまま呟くようにつづけた。
「ミナはわらわを助けようとしてくれておったのに、無視したりして……悪かったと思っておる」
「え? 許してくれるんですか?」
「そなたのことは嫌いではないし、怒ってもおらぬ」
「ほ、本当ですか? 私の事嫌いじゃないですか?」
縋るように問うと誘夜姫ははにこっと笑って「本当じゃ。これからは仲良くしてくれるかえ?」と言ってくれた。嬉しくなって満面笑顔で頷くと、誘夜姫が白魚の様に綺麗な手を差し出してくれた。それを握り返して、仲直りの握手。
安心した様子のミラーカが見つめる中、二人で微笑みあっていると、「貴様ら……仲良しごっことはいいご身分だな」と、コンクリートをパラパラと払いながらヴィンセントが起き上がってきた。
「ヴィンセント、まだ寝ていてもよかったのじゃぞ?」
誘夜姫が言葉のナイフをグサリ。
「貴様ら、鬱陶しいから離れろ」
「離せるものなら離してみればよかろう?」
「誘夜姫! お前はあんなにミナのことを嫌っていたではないか!」
ヴィンセントは女心が分かっていない。
「ミナはわらわの味方じゃからな?」
「はぁい!」
誘夜姫と腕を組んで、隣でべーっとヴィンセントに舌を出す。
「ヴィンセントさんが最低なんだから仕方ないんじゃないですかぁ?」
ミナのこの言葉を皮切りに、2対1の大喧嘩になってしまった。
「余計うるさくなってるし……付き合ってられないわ」
両手はWのミラーカであった。
起きてすぐヴィンセントはご飯も食べずに「出かけるぞ。さっさと支度しろ」と突然急かす。慌てて後を追ってマンションから出ようとすると、外はまだ西日が差している。そんな中、ヴィンセントは日の光を浴びながら普通に歩いていく。西日なら大丈夫なのかと、恐る恐る出てみるとジュッと音を立てて手の甲が焦げた。
「あっつ!」
焼け焦げた手の甲を抑えて、慌てて日陰に入って、サクサク行ってしまうヴィンセントに叫んだ。
「ヴィンセントさーん! 待ってください! 私まだダメです!」
それを聞いたヴィンセントは足を止めて、あぁそうか、と言って引き返してきた。
「うぅ……ヴィンセントさん、痛いですぅ……」
日焼け(?)した部分は修復していっているものの回復が遅い。太陽の光はやはり敵だ。空を見ると雲一つない。きっと今日はいい天気だったに違いない。
ミナはもう光の下で町を散歩することも、公園で鳩に餌をやることもできない。吸血鬼になって得た物も大きいが、失った物の方がはるかに大きい。そのことを今更思い知る。
傷が完治したと時を同じくして日が沈む。これでやっと出れる。なるほど、正真正銘の「日陰者」だ。薄暗がりをビクビクしながら歩くことしか許されない。なんだってこんなに吸血鬼は、神様に嫌われてしまったのだろう。
いつものように目的地を告げずにサクサク歩くヴィンセントを一生懸命追いかける。しばらく歩くとコンビニに入っていく。着いて行こうとしたら「待て」を言いつけられて店の外で待った。ヴィンセントはすぐに出てきて、また歩いていく。
次は雑貨屋に入って、紙袋を買って出てきた。どこに用事があるのか全く分からないが、ミナは本当は行きたい所があった。だけど起きてすぐ出てきてしまったから言い出せなかった。出来るなら今日は実家に帰りたい。それが難しいのもわかっているけど。
ヴィンセントは駅に向かって、そのまま電車に乗り込む。しばらく電車を走らせてある駅に着くと、ヴィンセントは席を立った。
(あれ、ここ……)
ヴィンセントを追って電車を降りて、後をついていくと、どんどん見慣れた景色が広がってくる。
「ミナ、インターホンを押せ」
たどり着いたのはミナの実家。
「ヴィンセントさん、なんで……」
なんだか泣きそうになってしまった。そんなミナの様子にヴィンセントはクスッと笑った。
「泣き顔で家族に会うのか?」
「いえ、ちゃんと笑顔で会います」
目に堪った涙をぬぐってそう言って、インターホンを押した。
実家に帰っただけなのに、なんだか緊張する。トトトと廊下を歩く音が聞こえ、玄関のドアが開かれる。
「はーい、どちら様?」
そう言って顔を出したのは母のあずまだった。玄関先で驚いた顔を見せるあずまに「ただいま」と笑顔を向けると、満面の笑顔で「おかえり」と迎えてくれた。
「もう! 来るなら連絡してくれたら良かったのに! ヴィンセントさんまでご一緒させちゃって、ごめんなさいね!」
あずははそう言いつつも、とても嬉しそうにした。
「うふふ。お父さんも北都も、びっくりしちゃうわね!」
リビングに向かって「素敵なお客様がお見えよ!」と、勿体つけて、あずまがリビングのドアを開けた。
「ただいま!」
「お邪魔致します」
ヴィンセントと二人でリビングに入ると、父のセイジも北都もとても驚いたが、すぐに笑顔になって駆け寄ってきてくれた。
「お姉ちゃん! お帰り!」
「北都! 会いたかったよ! ただいま!」
抱きついてきた北都をギュッと抱きしめ返す。
「ミナ、お帰り。ヴィンセントさんもいらっしゃい」
「お父さんただいま!」
「お邪魔しております」
セイジも優しい笑顔で迎えてくれて、さぁさぁ座ってと恭しく促されてソファに着いた。
「ヴィンセントさんまで付き合ってもらって悪いね! でも、嬉しいよ。ありがとう」
「お姉ちゃん! 今日来てくれるなんて、ぼくすっごく嬉しい! ありがとう!」
北都はメチャクチャ上機嫌だ。
「ぼくのお祝いに来てくれたんだね!」
そう。今日は北都の10歳の誕生日。ヴィンセントには言い出せなかったけど、今日は実家に帰りたいと思っていた。偶然にも今日帰れるなんて思わなかった。しかし、まさか今日帰れると思っていなくて、プレゼントを買っていない。
【ミナ、これを北都に渡せ】
そう言ってヴィンセントは、さっき買った紙袋を差し出す。まさか、と思いながらも受け取った紙袋を「お誕生日おめでとう」と言いながら北都に渡した。
「わぁ! ありがとう!」
受け取った袋を即座に開ける北都。開けた瞬間、笑顔がさらに満面の笑顔になった。
「わぁ! ぼくが欲しいって言ってたカード! お姉ちゃん覚えてくれてたんだね! こんなにたくさん! ありがとう!」
北都はよほど嬉しかったのかすぐに紙箱を開けて、カードの袋を破りだした。
【ヴィンセントさん! 私何も言ってないのに! どうしてわかったんですか!?】
ヴィンセントは寄ったコンビニでカードを箱買いしてくれていたらしい。
【お前は昨夜何度も、北都の誕生日だから帰りたいと考えていたからな】
【あーそっか! 本当にありがとうございます!】
思考が流れていることを一々忘れるミナだったが、この時ばかりはとても嬉しかった。ヴィンセントは時々怖いけど、こういう時は本当に優しい。
「ミナとヴィンセントさんは仲良しねぇ! 見つめあっちゃって!」
テレパシーで話をしているときは見つめあってるように見えるようだ。
みんなで仲良くテーブルを囲んで食卓に着く。もちろんミナとヴィンセントはご飯は食べられないから会話しているだけだけだ。「お姉ちゃんもご飯は血なの?」と北都が聞いてくるが、食卓で血液の話題を出すのはどうだろう。
「あ、うん。まぁその話はまた後でいいじゃない。それより北都、学校やクラブはちゃんと頑張ってる?」
「うん! ぼくちゃんと頑張ってるよ! こないだなんか算数のテスト100点とったんだから!」
ささっと話題を切り替えると、北都はあっさり乗ってきて、更にはどうだ! と言わんばかりの顔だ。
「北都は偉いのよ。次にミナに会った時に褒めてもらえるようにって、前よりもうんと頑張ってるのよ」
なんで言っちゃうんだよー! と北都は膨れているが、本当に自慢の弟だ。
「本当に北都は偉いねぇ。北都が頑張ってるのお姉ちゃん嬉しいよ。100点とるなんてすごいね。頑張ったね」
そう言って頭を撫でると、北都は嬉しそうにエヘヘと笑った。
「ところで、ミナは最近どうしているんだ?」
セイジが少し赤らめた顔をして、お酒を注ぎたしながら尋ねてきた。
「うーんと、そんなに大したことはやってないけど、家事とたまに修行してる」
そう言うと、「修行?」とみんなは身を乗り出してくる。
「うん。私、力の制御がまだ下手で、しょっちゅう物を壊したりしちゃうから、上手くコントロールできるようにって、ヴィンセントさんが考えてくれたの」
「ほぉ、修行って具体的には何をしてるんだ?」
それを聞かれると少々困る。当然の質問だが、悪党征伐をしているなんて言って喜ぶのは北都だけだ。「え、えーっとねー」と返事に困っていると、ヴィンセントが助け船を出してくれた。
「人助けをしてるんですよ。ミナさんは正義感が強く優しい人ですから、修行を始める前からよく困った人を助けていました。その時には、私に迷惑がかかると思ったようで遠慮していたこともあったんです。ですからそれを修行にしてしまえば、人の役に立ちたいというミナさんの思いを無駄にすることはないだろうと思いまして、それを修行として課しました」
思わずヴィンセントの言葉に感動した。同じ事なのだが、言い方を変えるだけで随分違って聞こえる。勉強になった。
(すごいなヴィンセントさんは。よく口が回るもんだなぁ。私、遠慮なんてしたことないぞ)
しかし家族はまんまと引っかかる。
「あなたはそこまでミナのことを考えて……ありがとうございます」
「本当に。ヴィンセントさんは素敵な方ね」
「お前いいとこあるじゃん」
ヴィンセントの株はうなぎ登りだ。
食事が終わってみんなでリビングで談笑していると、さっきの話をあずまが蒸し返してきた。
「ミナ、さっき北都も言ってたけど、ご飯はちゃんと食べてるの?」
人間に、しかも家族の前で血を飲んでいるということをあまり話したくなくて、「え、あ、うーん。たまに……」と、目を泳がせながら小さく言うと、あずまは怒ったような顔になった。
「ダメじゃない! 3食ちゃんと食べなきゃ!」
「いや、でも、普通のご飯なら3食食べるよ……私のご飯って血液だし……なんかイヤっていうか……勿論、毎日飲む必要ないっていうのもあるけど……」
あずまの剣幕に圧倒されながらそう言うと、今度は顔を青ざめさせた。
「血液! ミナ! あなた人を襲うなんてダメじゃない!」
何を言っても怒られそうな気配だ。。
「私そんなことしてないよ……血は飲んじゃったけど、人は襲ったりなんかしない。それに、ヴィンセントさんも血をくれるし……」
誰にも迷惑をかけてないと言いたくてそう言ったのに、やっぱり話を真に受け過ぎる母は怒る。
「ミナ! 自分の上司の血を吸うなんてもっとダメじゃない!」
さすがに言い返すこともできずにシュンとしていると「お母様、ミナさんは何も悪い事などしてはいませんよ」とヴィンセントが優しくフォローに回ってくれた。
「ミナさんは今でも血を飲むことを拒否することがあります。自分が許せないのでしょう。それでも飲まないわけにはいきませんから、普段は輸血用の血液を飲んでいます。それでも、渋々には変わりありませんが。私の血を飲むことも吸血鬼の世界では別段珍しい事ではなく、むしろ必要なことでもあります。ミナさんも、お母様方もそのことに関して気に病むことは何一つございませんので、ご安心ください」
その言葉を聞いたあずまは、幾分か安心したようだった。本当にヴィンセントには頭が上がらない。
「ねーねーお姉ちゃん」
北都が身を乗り出してくる。
「血って美味しい?」
正直、あまり答えたくない質問だ。「え、うん、まぁ」と、適当に返事をすると、北都は驚いたような顔をする。
「でも鉄みたいな味がしてしょっぱくて不味いじゃん!」
「うーん、確かに人間の頃はそうだったんだよね。吸血鬼になったら味覚が変わっちゃうというか、ジュースっぽい……かな」
「人によって味違ったりするの?」
「う、うーん? どうかなぁ……よくわかんないな」
そんな事を聞いて一体どうするというのか。というより、あまりこっちの世界のことを北都に知ってほしくなくて、適当に答えをはぐらかすと、代わりにヴィンセントが口を開いた。
「人それぞれ健康状態によっても違いますし、血液型によっても味が違いますよ」
知らなかった。むしろミナの方が興味を惹かれて、ヴィンセントの話に聞き入る。
「ちなみに病気の方や薬物を服用している方の血は、不味くて飲めたものではありません。是非とも人間の皆様には健康でいて欲しい、というのは我々にも共通した願いです」
ヴィンセントは腕を開いて首を横に振ってみせる。そうなんだ~とみんなでフンフン頷く。
「個人的にはA型の血が好きなのでこの国に滞在しているというのもありますが、最近は輸血用が手に入りますので飢えることも人を襲う必要もありません」
そう言う理由で日本にいたようだ。
「ていうかヴィンセント、お前何人?」
ミナもそれは一回聞いて見たい質問だったが、その聞き方はない。間違いなくイラッと来ているであろうヴィンセントは少し考えて「ヨーロッパですよ」と答えた。もちろん、北都は納得しない。
「ヨーロッパのどこ?」
「内緒です」
にっこり笑って秘密にしてしまったヴィンセントに北都はムッとしてしまった。
「ていうかお前外国人なら、絶対不法入国だろ!」
そう言われてみればそうだ。今頃気づいた。
「そうでもありませんよ。昔は切符さえ買えば、船でどこへでも行けましたから」
「いつ来たの?」
「日本へ来たのは太平洋戦争の真っただ中でしたね」
「その前はどこ?」
「アメリカですね」
「その当時なら思いっきり不法入国じゃんか!」
「あっ、そうですね」
結局不法入国していたヴィンセント。ふと疑問に思って尋ねた。
「そういえばヴィンセントさんは、A型が好きだから日本にいるって言ってるけど、そもそも日本に来た理由ってなんですか?」
日本は吸血鬼には入りにくい国だろうに、わざわざ来るなんて理由があるに違いない。
※一般的な吸血鬼は流れる川や海を踏破することはできません。
ヴィンセントが過去を探りながら話す。住んでいた家がパールハーバーにあって、真珠湾攻撃の際家を爆撃されたらしい。それで腹が立って戦闘機を拝借し、日本軍に仕返しに来た、と言うのが当初の目的だったようだ。
「ですがあの当時、日本人の国民性は非常に面白かったですね。まるで中世の宗教戦争を見ているようでしたよ」
「なんだかヴィンセントと話してると、社会の勉強になる気がするよ」
随分長生きしているのだ、ヴィンセントは歩く歴史書だ。
「大義の為に死ぬ事も厭わず、死ぬ事に美学を見つける者が大勢いました。私にとっては衝撃でした」
ふと「武士道とは死ぬ事と見つけたり」と言う言葉が浮かんだ。北都がヴィンセントを覗き込んだ。
「結局、仕返ししたの?」
「基地を一か所攻撃しましたが、それで満足してその後は普通に暮らしていましたよ。あの頃の日本人は本当に面白かったので、殺すのは惜しいと思いまして」
「なんで?」
北都が問うと、ヴィンセントはミナに振り向いた。
「ミナさんには以前、化け物が人間に勝つ事は出来ないと話しましたね」
そういえば、前にそんな話をしていた。
「化け物とは弱い存在です。人間として生きることにも、死ぬ事にも耐えられなかった弱い生き物。自分の野望を果たせないまま、死ぬという事実を受け入れることができなかった。私も含め、自ら吸血鬼という道を選択した者は皆、そういった弱い人間だったのですよ。ですから美しく死ぬ事に意義を見出す人間たちに、少なからず感動を覚えたのです」
化け物が弱い存在と言った意味が分かった。何だか触れてはいけないことを聞いたようで、申し訳なく思った。
「ヴィンセントさん、無神経な質問してごめんなさい」
「いいえ。大したことではありません。気になさらないでください」
ヴィンセントはそう言ってくれたが、なんだか落ち着かずにその場の雰囲気はお通夜のようになってしまった。ふと、セイジが口を開いた。
「野望を果たせないまま死ぬとは、ヴィンセントさんは病気か事故だったのですか?」
驚いた。つくづく永倉一家は無神経だと思った。
(お父さん会社で嫌われてないといいけど……)
さすがにその質問には「内緒です」と笑って答えた。また微妙な雰囲気。このままではお通夜どころか火葬場だ。
「そういえばね! 私、ヴィンセントさんのおかげでお友達ができたのよ!」
必死に話題を転換すると、雰囲気を嫌っていたのはみんなも同じだったのか「へぇ! どんな人?」とすぐ話題に乗ってきた。
「あのね、一人はミラーカさんっていう金髪でナイスバディの美女だよ。ヴィンセントさんのお友達なんだけど、いつも私を気遣って会いに来てくれたりするよ!」
金髪美女にあずまの鼻の下が伸びる。エロおやじ。
「それに、すごく気遣いのできる人で優しくて大好き。お嫁さんにするならああいう人がいいなーみたいな」
「ミラーカはレズですしね」
突然ヴィンセントが口を挟んだせいで両親が青ざめる。狼狽える両親の隣で北都は「レズってなに?」と頭を悩ませている。
「ちょ! ヴィンセントさん! 余計なこと言わないでくださいよ! ちょ! 私は違うよ! ただの友達だってば!」
なんだかもう必死だ。
「本当にただの友達だって!」
力説してなんとかその場は収まった。
「お姉ちゃんレズって何?」
悪いけど北都は無視だ。
「あと、もう一人お友達ができたんだけど、その人は日本に昔からいる妖怪なんだって! 姫様――誘夜姫っていう人で和風美人だよ」
両親は「日本にも吸血鬼っていたのねー」と感心している。北都は「だからレズってなんだよ」と、まだ言っていた。
「最初はね、色々誤解があったりしたんだけど和解してからすごく仲良くしてくれて、純粋で情が深くて大好き! しばらく家にお泊りしてたんだよ」
「その間私は女性2人にのけ者扱いされました」
また口を挟む。さっきから何だというのか。
「ミナ、ヴィンセントさんにお世話になっておきながらのけ者とはなんだ!」
「あなたやっぱり……」
ほらこうなった。
「もう! ヴィンセントさん勘弁してくださいよ! だからお母さん違うってば! それに私のけ者なんて……」
あ、と思う。してた。ミナの表情で察したのか「ミナ、お前をそんな薄情で自分勝手な娘に育てた覚えはないぞ!」と、セイジがいよいよ怒りだした。
ヴィンセントを見ると「ざまぁみろ」と言いたげな顔でニヤニヤしている。さてはさっきの仕返か。
「た、確かにのけ者みたいにしたかもしれないけど……」
その理由を話したら、帰ってから酷い目に合わされそうだ。
「ヴィンセントさん、ごめんなさい……今度からはヴィンセントさんをのけ者にしたりしません」
なんだろう、この敗北感。
「ミナ、ヴィンセントさんに失礼なことをするんじゃないぞ!」
セイジはあれだけミナに男が寄り付くのを嫌っていたのに、なぜそんなにヴィンセントのことを信用しているのか、買収でもされたのか、それとも催眠でもかけられたのかと疑問だ(正解)。
「ヴィンセントさんは仲間外れにされてお辛かったわね。ミナ、愛の形はそれぞれっていうから反対はしないけど、程ほどにね……」
あずまはミナの話を聞いてないし、もう味方は北都しかいない。
「ぼくヴィンセントのことは嫌いだけど、仲間外れにするとかイジメでしょ。そういうことしちゃだめじゃん」
北都まで敵に回って、実家なのに居場所がなくなった。結局、謝罪と弁明を繰り返す羽目になってしまった。
もう時間も遅い。普通の人は活動を停止する時間だ。
「遅くまでお邪魔して申し訳ありませんでした」
ヴィンセントが頭を下げるので、つられて頭を下げる。
「いやいや! こっちこそこんな時間まで引き留めて申し訳ない! ミナ、わかってるな!?」
さっきの件で釘を刺された。
「うぅ…わかってるわよぅ」
チクリやがって、と不貞腐れていると、北都が駆けてきた。
「お姉ちゃん! 今日は来てくれてありがとう!」
名残惜しそうに、北都が抱き着いてきた。本当のことを言ってしまおうか。北都はどんな顔をするだろう。
「本当はね、ヴィンセントさんが今日北都の誕生日だって聞いて、行こうって言い出したんだよ」
こっそり耳打ちすると、北都は驚いてぱっとヴィンセントを見るも、すぐに目をそらして「ふーん」と目を泳がせた。素直じゃないなぁと思いつつ、そんな北都も可愛いと思うミナはブラコンかもしれない。
「じゃぁ、帰るね。次はいつになるかわからないけど、また、来るから」
「いつでも遊びに来なさい。ここはお前の家なのだから」
優しく微笑んでくれる家族に手を振って、実家を後にした。
帰り道。
「お前北都に喋っただろう」
やっぱり気付いていたようだ。ヴィンセントの性格とプライドを考えると、言わない方が良かったのかもしれない。
「ごめんなさい。でも……」
北都にもヴィンセントは優しい人なんだとわかってほしかった。ヴィンセントは小さく溜息を吐いて「まぁ、いい」と言ってサクサク歩く。ヴィンセントにはミナの考えていることはわかっている。もしかして照れ隠しかもしれないと思って、笑って隣まで駆けた。
「ヴィンセントさん、今日は本当にありがとうございました。北都も両親も喜んでくれたし、私も嬉しかったです」
そう言うと、ヴィンセントは小さく微笑んだ……気がした。
「とりあえず帰ったらお仕置きだな」
前から思ってはいたが、ヴィンセントは根に持つタイプだ。やっぱり微笑んだように見えたのは気のせいだ。
誕生日会の後、家に帰って恐怖のお仕置きタイムかと戦々恐々としていたが「ミナ、飯」と言われたのでホッとした。
いつものごとくヴィンセントにパックを渡すと、いつものごとく「飲め」と返される。いつものごとく渋っているといつものごとく怒られる……かと思いきや「好きにしろ」と言われた。今日家で血の話をしたせいだろうか。もしかして気遣ってくれているのかもしれない。
本当にヴィンセントは優しい。怖い事もあるけど、いつもミナのことをちゃんと考えてくれている。ふと、疑問が浮かんだ。
(なぜヴィンセントさんは私を大事にしてくれるのだろう?)
まだ出会って2か月と少し。普通ならこんな短い期間でこんなにお互いを信頼することなんかあり得ない。信頼してると思っているのはミナだけかもしれないけど、でもヴィンセントは最初から優しかった。
ミナがヴィンセントの眷愛隷属だからだろうか? でも、まだまだ未熟だし、ただの下僕だし、たまに反抗したりもする。正直信用を得られるほどのことなんかしてない。ただの眷愛隷属でただの下僕で、出会ったばかりなら尚更、気にも留めなくたっておかしくない。
もう一つ気になることもある。ミナが自己紹介したとき、ヴィンセントもミラーカも驚いたような顔をした。あれは一体なんだったのか。ミナに何かあるのか聞いてみたいけど、聞くのが怖い気もする。
それに、ヴィンセントはたまにミナのことを遠い目をしてみることがある。なんとなく、違和感のある視線。見ているのはミナじゃない、誰か……?
突然ガンッと大きな音がした。驚いて音のした方を見ると、ヴィンセントがテーブルを殴っていた。殴られたテーブルは粉々に割れてしまっている。
(あ! そうだ……私の考えてることヴィンセントさんはわかるんだった!)
致命的なミスに気づきサァッと顔から血の気が引いていく。
「ミナ、余計なことを考えるな」
その声はとても冷たい。氷のような視線。どうしよう、どうしようと狼狽えることしかできなかった。ヴィンセントを怒らせた。傷つけてしまったかもしれない。
「下らないことに気を取られるな。お前には関係ない。お前は事故で眷愛隷属になっただけの「ただの」下僕だ」
ヴィンセントはそう冷たく言い放ってリビングから出て行った。
ヴィンセントを怒らせてしまった。きっと踏み込んではいけないところに踏み込もうとして、逆鱗に触れたのだ。涙が溢れてくる。
(どうして私ってバカなんだろう。いつもヴィンセントさんを怒らせてしまう。私はいつもヴィンセントさんに助けてもらっているのに……ヴィンセントさんが私を大事にしてくれていたのは事実だ。違う真実があったとしても、それでいいじゃないか。なのに私は……)
“お前には関係ない。お前は事故で眷属になっただけの「ただの」下僕だ”―――――
―――――――お前なんか別にいらない、そう言われた気がした。
気が付くと、知らない場所にいた。ヴィンセントのマンションを飛び出して、走って走って、どこを走ったかもわからなくなって。ヴィンセントを怒らせて傷つけて、会わせる顔なんかない。ヴィンセントは少し前までは一人だった。ミナがいなくてもきっと困ることなんかない。
(そうだ。今まで一人だったのに、どうして急に下僕を作る気になったのだろう。何か理由が……?)
考えたが、首を横に振って考えを消した。考えたって仕方ない。考えちゃいけない。ミナには関係ないのだから。
小さな公園を見つけてブランコに腰を下ろす。キィと言う音が耳につく。甲高い金属音が余計寂しさを増長させる。
こんな風に出てきてしまって、実家にも帰れない。今更ヴィンセントのところに戻っても、ヴィンセントに面と向かっていらないと言われたら立ち直れない。それに、ここがどこかもわからないし、いっそのこともっと遠くへ行こうか、なんて考えた。
ヴィンセントだって500年も生きているのだ。嫌なことだってたくさんあったに違いない。そこにミナなんかが踏み込もうなんて、おこがましいにもほどがある。嫌われても文句は言えない。謝ったって許してもらえる自信もない。謝りもしないで逃げるのは卑怯だってわかっている。だけど、ヴィンセントに嫌われたという事を、ヴィンセントの傍で実感するのだけは嫌だった。どうしても、それだけは嫌だった。
首筋に触れてみる。膨らんだ噛み痕。一生消えることのない、ヴィンセントの残した痕。涙が溢れてくる。
(馬鹿な下僕でごめんなさい、ごめんなさい。ヴィンセントさんの顔を見て謝るべきだった)
今更後悔しても遅いし、許されるかもわからない。もし、このままミナが遠くに行ってしまえば、その内ヴィンセントは新しく下僕を作るだろう。ヴィンセントにもきっとその方がいい。役に立たない下僕なんか、存在する意味なんてないのだから。
しばらく泣き続けて、少し落ち着いてきた。やっと、逃げる決心がついた、と思って今更だと自嘲した。自分の馬鹿さ加減には苦笑するしかない。
とりあえず、ここを出よう。ブランコから立ち上がろうとした瞬間、頭上に影が被さった。
不思議に思って空を見上げると、そこには月明かりを遮って佇むヴィンセントがいた。ヴィンセントは静かにミナの前に下りてくる。
「ど、して……」
驚きのあまり言葉が出てこない。そんなミナにヴィンセントは平手打ちをした。
「痛……」
ここまで嫌われたとは、ちょっと計算外だった。もう自嘲するしかない。
「勝手に出てきてごめんなさい。最後にどんな罰でも受けます。でも、できたら殺さないでください」
いつも怒らせたときはお仕置きが待っている。きっと、今回ばかりはヴィンセントもそうしなきゃ気が済まない。さすがにヴィンセントに殺されたら悲しすぎて悪霊になる自信があるが。
ヴィンセントは怒りをにじませた目で、真っすぐミナを見下ろして言った。
「ミナ、最後かどうか決めるのは私だ。私を無視して独断専行することは許さん」
ヴィンセントの言っている意味が良くわからなかった。
「私はお前を必要ないと言った覚えはないし、出て行っていいと許可した覚えもない」
確かにそうだ。でも、ヴィンセントの傍で邪険に扱われるのが怖かった。自分はヴィンセントを傷つけておきながら傷つきたくないなんて、卑怯者だとわかっているけが、どうしても怖い。
「出て行ったとして、行く当てがあるのか? 無いだろう。お前の居場所は私のところしかないし、私はお前を手放す気などない」
「え? でも、私……ヴィンセントさんを傷つけたのに……」
「勝手に出て行って殺さないでだと? 私を傷つけて嫌われただと? ふざけるのも大概にしろ。余計なことを考えるなと言った筈だ」
ヴィンセントが何を言っているのか、意味が分からない。
「私をなめるな。さっきは確かに腹が立ったが、こんなことでお前を嫌いにはならないし、手放す気もさらさら無い。お前は私の下僕だろう。私の傍で私に一生仕えるのがお前の仕事だ。出て行くことは絶対に許さない」
涙が出そうになった。
「本当に? 本当に私はヴィンセントさんのところにいていいんですか?」
「いい悪いではない。私がいろ、と言っているのだ。お前は下僕のくせに私の命令が聞けないのか?」
ヴィンセントがいいと言っているのに、それを断る理由は無い。
「でも、ヴィンセントさんは何故私を傍に置くんですか? 私は未熟だし、役立たずだし、ヴィンセントさんを怒らせるのもしょっちゅうだし。自分でも出来た下僕ではないってわかってます。それなのに、どうしてですか?」
ヴィンセントは面倒くさそうに大きな溜息を吐いた。
「全く、お前は何度言ったらわかるんだ。余計なことは考えるなと言っただろう……お前を傍に置くのは、私にはお前が必要だからだ。お前が私の愛しい下僕だからだ。それでは不満か?」
ヴィンセントは少し悲しそうな眼をして問い詰める。愛しい下僕……今まで何度か言われた言葉。なんとなく、この言葉で何かをはぐらかされた気がした。
でも、それでも。ヴィンセントはミナが必要なのだと言ってくれた。傍にいろと言ってくれた。それで、いいじゃないか。何も不満などない。ヴィンセントが必要としてくれている。その事に間違いはないからそれで、十分だ。
「いいえ。ありがとうございます。私、いつもヴィンセントさんに迷惑をかけてばかりで、嫌われてもおかしくないって思って、必要とされてないような気がして卑屈になっていました。迷惑かけて本当にごめんなさい。ヴィンセントさんが許してくれるのなら、一生お仕えします」
そういってヴィンセントを見つめると、ヴィンセントはさっきよりも大きな溜息を吐いた。
「何度も言うが、私はお前を手放す気はない。お前は何か勘違いしているようだが、お前を傍に置くのに他意はない。お前の帰る場所は私のところだけだ。お前の居場所はこの私だ。二度は言わない。よく覚えておけ」
そう一息に言って「帰るぞ」と手を差し伸べてきた。本当のことがどこにあったとしても、ヴィンセントが必要としてくれる。それが事実だということが素直に嬉しかった。自分の居場所はここにある。ここに一生いよう。そう誓って、ヴィンセントの手を取って一緒に空へ舞いあがった。
家に帰ると、ミナはすぐ風呂に入った。
「ヴィンセントさん、今日のことは本当にごめんなさい。もう、余計なこと考えたりしません。これからはちゃんとします。卑屈になる必要もないように努力もします。本当にごめんなさい。今日は疲れたから寝ますね。お休みなさい」
そう言って先に眠ってしまった。
ミナはずっと謝ってばかりだ。ヴィンセントを怒らせて傷つけたと、とても後悔していた。だが、謝らなければならないのはヴィンセントの方だ。
ミナにウソをついた。
ミナを傍に置くのは、大事にするのは、本当はヴィンセントの、弱さのせいだ。ミナには真実を知られたくない。ミナにだけは知ってほしくない。そのせいで、ヴィンセントが弱いせいで、ミナを傷つけた。本当はミナがヴィンセントから離れられないと知っていて、利用している。ミラーカに嘲笑されたことを思いだして、嘆息した。
(ミラーカの言う通り、私は本当に最低だな。嫌われて当然なのはむしろ、私の方だ)
嘆息して、一人になった広い部屋で、ミナの寝ている棺に向かって呟いた。
「ミナ……すまない」
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