春眠八つ時を覚えず【完】

春眠八つ時を覚えず【完】

1

 春は短い。
 一雨毎に散る花弁を惜しんでいるうちに、鮮やかな新緑が山を染め上げる。上着はまだ暫く手放せないが、それでも立夏を過ぎた辺りから強い陽射しに辟易する日が増えてくる。この時期は、ただ眩しいのかはたまた眩しい上に暑いのかの判断が難しい。加えて、朝晩と日中の温度差に頭を悩まされ、とかく毎日の服選びに難儀する。季節の変わり目は、何かと苦労が絶えない。
「憂鬱だ……」
 史司(ふみつか)は悠然と流れる雲を吹くように息を吐いた。山の家は空が広く、朝に夕に賑やかである。季節によって地味なものから派手なものまで、実に様々な鳥が目や耳を楽しませてくれる。取り立てて鳥類に興味があるという訳ではない史司でも、小一時間は退屈しない。
 そのような場所にいるせいなのか、あるいは気持ちの問題なのか。膝に載せた本は指がページを繰るのみで、内容などさっぱり入ってこない。
 無駄な労力を消費するぐらいなら、怠惰な午後を過ごした方がよっぽどいい。人目も体裁も気にする必要なんて無いんだし。
 持ち帰りの仕事をあっさり放棄すると、史司は傍らに本を置き、ジャケットを手に床へ寝転んだ。そのままでは若干肌寒いが、上着を掛けると丁度良い。もしここで瞼を閉じてしまったら、心地良い疲労感に誘われるがまま、西日が射すまで眠ってしまうだろう。
 山の家もとい陽出(ひい)邸は、大きな山の中腹にある。一応舗装された道路が家の前を通っているが、山を登る道の常でかなり遠回りになってしまうため、徒歩の際は大抵近道を使う。傾斜が大きく未舗装に限りなく近い道は、ちょっとしたハイキングコースだ。人生において何より好奇心が優先される年頃の子供たちの、格好の遊び場になっている。
 しかし陽出の子供は、そのような遊びとは無縁に見えた。肌は陶器のように白く、手足は細くて頼りない。これでは山道に足を踏み入れた瞬間、湿り気を帯びた枯れ葉に足を取られて転んでしまうだろう。
 一度、史司は年少者の気安さに任せて陽出の当代に尋ねたことがある。大和は、次代としてはあまりにも心許無いのではないかと。庇護欲を掻き立てられこそすれ、この土地の運命を託せるような器には到底見えない。すると、彼は一瞬目を見開き、それから声を上げて笑った。自分のことを棚に上げて、と。
 誠邦は、成人してもなお史司を子供の頃と同じように扱う。その癖、頼りにしているなどと時折真面目な顔で聞かせるものだから、始末に負えない。お陰で、史司はいつまで経っても自らの立ち位置を決められず、振り回されるばかりだ。しかし、ぼやきながらもこの中途半端な状況をどこか楽しんでいる辺り、自分も仕様のない人間なのだろう、と史司は思う。同じような感じで二十年程上手くやってきたことを考えれば、この曖昧な関係を維持するのが良いことは明白である。
 遠く、とてとてペタペタと床を踏む音が聞こえる。次第に近付く足音を背中で感じながら目を開けると、色の薄い黄葉が視界をひらひらと舞っていた。
「ん……大和?」
 手を伸ばして、触れる。小さくて柔らかくて温かい。ひょいと掴むと、声を上げてするりと逃げた。
「つかまんないもんねー」
 とてとてと遠ざかる。しかし、
「うわっ」
残念ながら数歩のところで別の手によって捕らえられたらしく、足音が止まった。
「こーたん、大事な任務を忘れてない?」
 聞き覚えのある声が、なぞなぞを出すように問う。
「にんむ!」
 子供向けヒーロー番組の影響だろうか。台詞こそ舌っ足らずだが、威勢は一人前である。そこでふと『任務といえば、大抵のころは喜んで手伝ってくれるわよ』と姉が話していたのを思い出し、史司はなるほどこういうことかと感心した。彼女は、昔から人のあしらい方が上手い。
 息子どころか旦那まで掌の上で転がしてるんだろうな……。
 人の良さそうな義兄に心の中で合掌しながら体を起こすと、伝令係がとてとてと戻ってきた。
「おやつのじかんです。だよ」
 表情と声色は決まっているのだが、いかんせん舌っ足らずな上に締めが『だよ』である。愛らしくて仕方がない。
「だよ、は要らないんだよ」
 小さな頭を撫で繰り回したい衝動を抑えるのに必死な史司をよそに、後ろから付いて来た大和が笑いながら指摘する。
「じゃあ、もういっかいいう」
 元気に宣言すると、幸世(こうせい)はぴんと背筋を伸ばした。
「おやつのじかんです」
 勇ましくも微笑ましい姿に、思わず目尻が下がる。しかし人間は欲深いもので、史司はすぐに表情を引き締めて、
「んんっ、もうそんな時間か。ありがとう」
 上官役を演じた。いや、微妙な物真似を披露した。ただ一つ、甥の笑顔のために。
「かっこいー! ふみおじって、なにもの?」
 幸世はガラス玉のような瞳をキラキラと輝かせ、全力でしがみついてきた。視界の端では、従弟(いとこ)が笑いを堪えている。
 後でしっかり口止めしておこう。
 心の中で呟きながら、史司は今度こそ小さい頭を撫で繰り回そうと手を伸ばした。しかし寸でのところで力強く掴まれ、ぶんぶんと縦に横に振り回される。まさに、シェイクハンドである。
「ストップ、ストップ。そんなに強くしたら、痛いよ」
「えー、じゃあおしえてよー」
 まっすぐな視線が、揺れに揺れて焦点の定まらない双眸を捉えて離さない。期待に胸を膨らませている幼い子供に嘘を吐くことも真実を告げることも出来ず、史司は
「ご、極秘だ」
羞恥と希望の狭間で無難な言葉を引っ張り出した。すると幸世はぴたりと手を止め、丸い目をぱちぱちと瞬かせた。
「ごくひかー、かっこいー」
「……ありがとう」
 子供らしいとはいえ、あまりの単純さと純粋さに、安堵と共に一抹の不安を覚えた史司であった。
 姉さんのような女にだけは捕まらないでくれよ……。
 そのような叔父心など知る筈もなく、無邪気な四歳児は得意気な顔で駆けてゆく。
「ごくひだって。かっこいー」
「そうだね。かっこいいね」
 膝を突いて受け止めると、大和はにこにこと頷いた。
「やまとにいは、ごくひってしってる?」
「こーたんは知ってる?」
「うーんとねー」
 微笑ましい会話に、自然と頬が緩む。かつての年少者の成長に嫉妬もとい感慨を覚えながら、史司はのんびりと立ち上がった。
「幸がおしゃべりしている間に、おやつ全部食べちゃおうかな」
 寝癖の揺れる小さい頭を背後からぽん、と撫でる。すると、
「だめーっ!」
幸世は勢い良く振り向き、居間の方へ走っていった。
「あっ、こーたん……」
 驚きと焦りの入り混じった声が、小さい背中を追い掛ける。
「元気だな」
「元気なのはいいんだけど、怪我しないか心配だよ」
 静かに立ち上がると、大和は咎めるでも呆れるでもなく息を吐いた。
「大和があれぐらいの時は、どこにいるか分からないぐらい大人しかったからな」
 私も違う意味で苦労させられたよ、と床のものを拾い上げながら史司は軽やかに言った。
「足して二で割ったら、丁度いいんじゃないか」
 すると、大和はゆっくりと目を瞬かせた。
「昔、誠さんが同じようなこと言ってた」
「嵐もかなりやんちゃだったからな」
 屋根裏へ逃げ込んだかつての遊び相手が、力強く頭を振る。
「初めて来た年なんて、色々と泣き付かれて大変だったよ」
「それって……嵐よりも誠さんの方に手を焼いたってこと」
「言い得て妙だな」
 顔を見合わせると、二人はくすりと笑った。
 陽出の家は年に数回、少々風変わりな人間を迎える。例えば、嵐はある条件下で雨を呼ぶ……つまり雨男であり、毎年夏になるとやって来る。出会いは彼と大和が小学生、そして史司が大学生の頃だから、彼此十五年以上の付き合いになる。
「それにしても」
 史司は息を継いで続ける。
「いつの間にかすっかり落ち着いたな、嵐は」
 まさか豆柴が一年会わないうちにドーベルマンに成ろうとは、一体誰が想像し得たであろう。まさに成長期の奇跡である。数年前の出来事とはいえ、今だにその衝撃は鮮烈過ぎて忘れられない。
「大人の階段を駆け上っちゃったよね、凄い勢いで」
 木々がさわさわと揺れ、乾いた竹がからんころんと音を立てる。風韻のある音色に誘われるように、どちらともなく縁側の端に並んだ。
「そういえば」
 隣でふわふわと揺れる癖っ毛に誘われるように、史司は口を開いた。
「この前『お誕生日おめでとうございます。今年こそは紛失物がなくなるといいですね。応援しています』っていうメールをくれたよ……ラジオに」
 彼は、物を失くした際に番組内でネタとして話すことがある。恐らく、それを受けてのものだろう。それにしても、紛失物は言い辛い、と史司は困った時の常で顎に手をやった。
「ええーっ、あれ嵐のメールだったの!? 全然気付かなかった」
 常連リスナーが、弾かれたように顔を向けた。
「ふるさと便に通じる愛を感じたよ」
「お、お母さん……」
「嵐には内緒にしておいてくれよ」
「うん……っ」
 肩を震わせていた大和が、頷いたかと思いきやいよいよ耐え切れずに吹き出した。
 庭先でピュイピュイと鳴きながらじゃれあっていた二羽の小鳥が、空高く飛び立つ。その向かう先を眺めていると、一際強い風が吹き込んできた。絵具の匂いが鼻先を掠める。
「人のことを笑ってるけど、大和こそあれこれ口煩く言われてるだろう」
 ふと湧き上がったくすぐったい気持ちを押し隠すように、史司は笑い上戸を肘で軽く突いた。
「そうなんだよ。『お前はぼけーっとしてるから、色々と心配だ』だってさ。一応、僕の方が年上なのに」
 形の良い指で髪を抑えながら、案の定、大和は不満気な声を聞かせた。しかし、その表情はどこか楽しそうに見える。なんだかんだ言っても、二人は上手くやってるのだろう。
「よくわかってるな、嵐は」
 史司は片方だけ口角を上げてみせた。すると、
「もう……」
 子供よろしく頬を膨らませた大和に、脇腹を突き返された。
 遠く、床を踏む音が聞こえてくる。二人はどちらともなく居間へ足を向けた。
「ねー、まだぁ?」
 居間と縁廊下の間にある柱から、幸世がぴょこんと人待ち顔を覗かせる。
「ごめーん、今行くよ」
 左手首に視線を落とすと、しかし大和は「あ、」と声を上げて足を止めた。
「どうした」
 二、三歩進んだところで史司も立ち止まり、振り返る。すると、大和は人差し指で上を指差した。
「その、さ……誠さんを起こしてもらえる?」
 史従兄(にい)さんじゃないと駄目だから、と当たり前のことを特別なことのように言う。
「長い夢をご所望なんじゃないのか、あの人は」
 呆れた、と史司は眉を顰めた。しかしそれはいつものことで、まあまあと宥める大和も慣れたものである。
「史従兄さんが来るって分かってたからだよ」
「……そうでなければ困るよ」
 史司は促されるまま本とジャケットを預けると、視線の先で揺れる癖っ毛を一撫でして二階へ向かった。

2

 縁廊下の突き当たりに程近い障子を滑らせ、ひっそりとした部屋へ足を踏み入れる。ソファーセットとガラスケースが置かれた応接間はかつて祖父が友人を招いては酒を酌み交わしていた場所で、幼い史司はそのささやかな宴をある種の憧れをもって眺めていた。
 この部屋に通されるのは旅行の土産話を請われて招かれた時に限り、史司は土産を片手に旅先の風景や食べ物、そこで起こった出来事などを話しながら、少し大人になったような気分を味わったものだった。遠出の叶わなかった当時の彼にとって、見知らぬ土地の話は魅力的だったのだろう。子供の拙い話にも関わらず楽しそうに耳を傾けていたのを覚えている。
 部屋の端に置かれた棚には懐古的なデザインの置物が並び、その一つひとつに地名と名前らしきものが書かれたタグが添えられている。大らかな文字に、史司はこの地から開放されて余生を楽しんでいる祖父を思った。
 薄暗い部屋を抜け、ドアを開く。隙間から溢れんばかりの光が差し込み、一瞬目が眩んだ。
 廊下を挟んで斜向かいに見える玄関ホールは、吹き抜けで天井が高く、開放的な造りになっている。土間のあった時代の名残りだろうか、大型二輪を置いても余りある広さで、誠邦の絵を飾っていることもあり、ちょっとしたギャラリーの趣がある。
 二階へ続く階段は、その左脇から壁に沿ってゆるやかに延びている。
 思い出に蓋をするようにそっとドアを閉めると、史司は光の射す方へ足を向けた。
 桜はさすがにもう入れ替えだな。
 過ぎゆく季節を横目にホールを抜け、階段をゆっくりと上る。
 売るための絵を管理しているのは画商の跡取りである義兄だが、外に出さないものは史司が保管しており、時節に合わせて絵を出し入れしている。史司が請わない限り、画家は展示作品のラインナップや並び順について一切口を挟まない。
 頭の中で作品を出し入れしながら二階へ辿り着くと、真っ直ぐに延びている廊下を進む。高窓から午後の陽射しが差し込み、反対側に行儀よく並んでいるドアノブの縁が鈍く光っている。
 史司は二番目の扉をノックし、返事が無いことを確認してドアを開けた。
「えっ……」
 空の青と山の緑が視界に飛び込んでくる。よく見ると、バルコニーに続く窓が全て開け放たれ、部屋と外が一続きになっている。床にはスケッチ用の紙が散らばり、そよぐように揺れている。キャンバスは入り口に対して横向きに置かれているため、巨乳の美女が横たわっていたところでそれを目にすることは叶わない。
 その遥か手前、入口にほど近い場所に、二人掛けのソファーが設えてある。くったりとした飴色の革は手触りが良く、味のある表情は温和な老紳士を彷彿とさせる。
 部屋の主は、その上に沈み込むように横たわっていた。収まりきれない足を肘置きに載せ、それでもどこか窮屈そうに見える。
 まるで大きなエビフライだな。
 史司は思わず吹き出しそうになり、慌てて口元を抑えた。
 二階は若干ではあるが下より暖かく、穏やかな風が心地良い。惰眠を貪るにはお誂え向きである。
 しかしながら、この世には二種類の人間がいる。昼寝が許される者と、そうでない者だ。
 ……起こすか。
 ドアを閉めると、史司はソファーの方へ足を向けた。
 その進路上に1本、絵筆が転がっている。
 どうしてまたこんなところに。
 通りざまに拾い上げ、筆を手に頭を捻る。綺麗に揃えられた毛先は小指の爪程の幅で、絵具は付着していないように見える。
 史司は何となく、ソファーから生えている足の裏を一刷きした。適度に硬くて腰があり、擽るにはもってこいの代物である。がしかし、
 反応は……ない、か。
 目の前の足は、微動だにしない。
 それならば、と今度は波を描くように筆を走らせた。
 やはり、目の前の足は微動だにしない。
 ……何してるんだろうな。
 いつの間にか他人の足の裏と対峙していた自分に苦笑すると、絵筆を床の上に置いて立ち上がった。
 足早に反対側へ行き、今度こそいつものように声を掛ける。
「誠さん」
 僅かに身を屈め、ソファを占拠している体にそっと手を伸ばす。しかし躊躇するのは指先が触れるまでで、右肩を掴むとソファーから落ちない程度に揺すった。
 やっぱり駄目か。
 膝を折り、ぴくりとも動かない顔を見やる。優男然とした面差しには幾らか皺が刻まれ、出会った頃から変わらない柔らかな印象はそのままに、年や経験を重ねた人間特有の深みが加わったように見える。憧れとも思慕ともつかない想いは募る一方で、史司は自身に困惑すると同時に今更ながら距離を測りかねている。
 そのような気持ちを知ってか知らずか、眠り姫もとい眠り男は史司が必要な状況を必要以上に作り出す。ただ眠っているだけであれば、目覚めるまで放っておけばいい。しかし、誠邦は自ら覚醒することが出来ない。
 眠りに就くと、精神や精気の大半が一時的に体を離れて山と同化する。これは精気を山と共有している陽出の人間特有の現象で、陽出の血を引いている先代や大和は時が来ればそれらを体へ戻すことが出来る。しかし事故を機に体質が変わってしまった誠邦は、陽出の流れに組み込まれたとはいえ彼らのような力はない。放置しておくと、やがて精神や精気が山と同化して体に戻せなくなるという。
 ……やるか。
 史司はソファーの背面へ回り、空っぽの頭に口を寄せて耳打ちした。それを呼び水に、澄んだ空気が部屋へ流れ込んで来る。山の緑陰を思わせる香りが広がり、一瞬、山の中にいるような錯覚を覚えた。
 程なく、目の前の長身がもぞりと身じろぐ。史司は小さく息を吐くと、ソファーに手を掛けて立ち上がった。そうして、ぼんやりとした顔を仁王立ちで見下ろす。
「……助かったよ、ありがとう」
 半目の男は手の甲で目を擦り、ふああと欠伸をした。
「大和に頼まれたので。私は朝まで放っておいてもよかったのですが」
「辛辣だな」
 足を下ろしてのろのろと体を起こすと、誠邦は恐らく痺れたのだろう、左手をぎこちなく広げたり閉じたりし始めた。
 本当にこの人は……。
 史司は寝起きの顔を一瞥し、隣にどっかりと座った。
「あちらに足繁く通うのは構いませんが、そのうち戻れなくなっても知りませんよ」
 懲りない常習犯に、ぴしゃりと言い放つ。しかし、この年長者が豆腐であり暖簾であることは、誰よりよく知っている。
「……もしかして、心配してくれてる?」
 ウォッシュデニムの袖口を留めながら、誠邦は伺うような視線を向けた。
「形のないものには嫉妬しない主義なんです」
 寝言は寝て言えとばかりに、史司は容赦なくばっさりと切り捨てた。
「嫉妬?」
「……言葉の綾ですよ」
 目を瞬かせる誠邦を横目に、史司は努めて平静に、動揺を隠すように、畳み掛けるように続けた。
「あなたがもし山の美女の豊満な胸に顔を埋めていたら、私はそのまま昇天してしまえと頭を押し付けて後押しするぐらいには、寛容です」
 かんよう、と誠邦が言葉を確かめるように呟く。想像とは異なる反応に、史司は先の動揺も手伝って思わず直球を投げてしまった。
「好きじゃないんですか」
「……美女? それとも、巨乳?」
「巨乳美女」
 木々がざわめき、鳥が飛び立つ。
 鳥のように飛べたらなんて曲があったな。いや、あれは鳩だったか。
 いつか聞いた美しいボーイズソプラノが脳裏に蘇る。しかし、飛べたところで時間を戻すことは出来ないし、自分以外の何者にもなれないことを、史司は知っている。
「どうして、巨乳美女?」
 ブラックデニムの膝に目を落としてしばらく考え込んでいた誠邦が、やはり釈然としないと鹿爪らしい顔で尋ねた。
「好きじゃないんですか?」
「……嫌いな男がいたら、理由を聞いてみたいよ」
 埒が明かないやりとりに、誠邦はいよいよ降参とばかりに答えた。
「あれは全ての始まりであり、ロマンだ」
 淡々と告げ、目で伺いを立てる。史司は遠慮なく眉を顰めてみせた。
「無難な答えですね」
「不惑を過ぎれば、保身の一つもしたくなるよ」
 床の上では、風に煽られた紙が所在無く揺れている。
「保身って……自ら棺桶に入るような真似している人が」
 呆れとも怒りともつかない感情を持て余して、史司は溜め息を吐いた。
 空ろな体とのご対面は、慣れたところで気持ちの良いものではない。慌ただしい日常の中にあっても、否応無しに『死』の存在を意識させられる。人間一度は死ぬとはいえ、史司にはまだ到底受け入れられそうになかった。
「今日のことは、謝るよ」
 誠邦は申し訳なさそうに口を開いた。
「けど」
 近くにあった眼鏡を掛けて徐に立ち上がり、手を差し出す。
「約束は割と守る方だよ」
「何ですか」
 誠邦の顔と手を交互に見ると、史司は訝しげな視線を向けた。すると、誠邦は唇の端を僅かに上げてみせた。
「見れば分かる」
「うわっ、」
 躊躇している間に手首を掴まれ、ぐいと引かれる。史司は思いのほかあっさり引き上げられた。
「ほら、こっち」
 呆然としている史司に背を向けて、誠邦はすたすたと歩き出す。
「……もう」
 史司は掴まれた方の手を握り、足を踏み出した。
 すぐ後ろを追い掛けるのが何となく嫌で、道々紙を拾い上げながら進んでゆく。床に散らばっていたのは白紙で、どれも等しく僅かに角が折れていた。

3

 一足先にキャンバスの前へ辿り着いた誠邦は、しばらく絵を凝視した後、
「前に見せたいって話したのを、描いてみたんだ」
僅かに下がって正面に招き寄せた。
「……もしかして」
 拾い上げた紙を置くのももどかしく、史司は手にしたまま絵の前に立った。
 目の前に広がっていたのは、史司の知らない風景だった。緑溢れる山の中で、見たことのない動植物が鮮やかに生きている。やわらかな腐葉土に根付いた草花、流れる水で喉を潤す動物たち。澄んだ風が吹き抜け、大きく枝葉を広げた木の下で木漏れ日が揺れる。そこは生命力に満ちあふれた美しい場所で、しかしどんなに強く望んでも足を踏み入れることは叶わない。恐らく、遠い遠い、山の記憶だ。
 いつまでも見ていたい。
 史司はそう思った。
 一体、どのぐらいの間見入っていたのだろう。ふと思い出したように息を吸い、隣に立っている画家を見上げた。
「こんな景色を見ていたんですね」
 誠邦は眼鏡を拭く手を止めると、緊張と不安が入り混じったような笑みを向けた。あまりお目に掛かれない表情に、どこか落ち着かない気分になる。
「どう思った?」
「どうって……」
 言い淀み、史司はもう一度絵と向き合った。
 鮮彩、澄明、静謐……どれも合ってはいるけれど、しっくりこないな。
 顎に人差し指を当てて、言葉を探す。気持ちを言葉にして伝えなくてはいけない。しかし、いくら言葉を重ねたところで、自分の気持ちが伝わらなければ意味がない。
 自分の気持ち、か。
 史司は握っていた手を僅かに開くと、男の目を真っ直ぐ見て言った。
「素人なので、絵の良し悪しは分かりませんが」
 うん、と頷き、続きを促される。
「ずっと見ていたいと思いました」
 自分の気持ちを素直に言葉にする。誠邦に対してそれはもう久しく縁遠かった作業で、言い終えた端からくすぐったい気分が湧き上がってきた。
「……そうか」
 誠邦は蝶番に手を添えて眼鏡を掛け直した。そうして、ふっと表情を緩ませる。目尻にうっすらと浮かぶ皺に心が吸い寄せられ、史司は慌ててキャンバスへ視線を戻した。
 絵を前に溜め息を吐く訳にはいかず、眉間を揉みほぐす。もし子供だったら地団駄の一つでも踏んでいただろうが、三十を過ぎた大人には如何せんハードルが高過ぎた。
 そんな彼の葛藤などお構い無しに、背後からふああと気の抜けたような声が聞こえてくる。この期に及んで、まだ寝足りないのだろうか。いつものように皮肉を繰り出そうとして、しかし史司は当たり障りのない言葉に擦り替えた。
「唐立さんたちには、もう見せたんですか」
 絵が完成すると、誠邦は画商に見せる。互いに納得の出来であれば、ギャラリーに展示して買い手を探したり、ギャラリーカフェに貸し出したりするらしい。
 史司の隣に並ぶと、誠邦は様子を伺うようにちらりと見た。
「これはそういう絵じゃないんだ」
「え……」
 本来、誠邦は自分の絵を外へ出すことにおいてかなり消極的だった。
 陽出の家は、先祖が残した表に出せない文献の管理と解読、そして新たな文献の作成を家業としている。需要はあれどあまり存在を知られていない文献が収入に結び付くことは稀だが、贅沢さえしなければ不動産等の不労収入で十分暮らしていける。絵を請われたところで、誠邦は普段の彼からは想像出来ない程すげなく断っていた。頑なに拒む理由は、恐らく彼が陽出の家に来るまでのどこかにあるのだろう。誠邦の過去をほとんど知らない史司には、説得することも納得することも出来なかった。
 それが、十年程前に届いた手紙をきっかけに、少しずつではあるが絵を画廊に預けるようになった。内容こそ知らないがそれが誠邦の枷を外したことは確かで、史司は暫くの間、何とも複雑な気持ちに悩まされた。
 しかし、史司が惹かれたこの絵は出さないという。一体、何が気に入らないというのだろうか。
 仕事のことについて互いに意見することはほとんどないが、それでも史司は何か言わずにはいられなかった。
「倉庫なら、もういっぱいですよ」
 すると、意図するところを察したのだろう。誠邦は「買い被りもいいところだよ」と軽やかな声を聞かせた。
 初夏の香りを運ぶ風に、タッセルで纏めたカーテンが大きくはらむ。小さな丸椅子の座面から一枚、紙がひらひらと舞い落ちた。
「貰って欲しいんだ、史に」
 いつもよりどこか硬い声を聞かせると、誠邦は窓の方へ向かった。その背に、高鳴る鼓動を抑えながら史司は聞き間違いではないかと無言で尋ねた。
 滑らかにレールを滑るガラスが、山と部屋とを隔ててゆく。それまで聞こえていた鳥の鳴き声や木々のそよぐ音が、ふっと遠くなった。
「巨乳美女じゃなくて申し訳ないけれども」
 ふと思い出したように、風景画家は史司の直球を緩やかに打ち返した。
「それは誠さんの趣味でしょう」
 拾い上げた紙を取り落としそうになり、史司は慌てて手元に視線を落とした。
 その視界の端に、薄い影が差す。
「胸に貴賤無し」
「え」
 史司が顔を上げると、誠邦は最もらしい顔で続けた。
「巨乳はロマンだけど、俺自身にこだわりはないよ」
 その言葉に、史司の視線は非難がましいものへと変わる。
「パイ拓がどうのって言ってたくせに」
「ぱい……たく?」
 誠邦は恥じらいもなく口にすると、「何、それ?」と首を傾げた。史司は復唱するのも説明するのもごめんだと、投げられた疑問をそのままに言った。
「この間、バイク屋で話してたじゃないですか」
「バイク屋で?」
 そんな話、してたかな、と腕を組んで唸る。
 バイク屋の店主と誠邦は長い付き合いで、史司とも顔見知りである。常連客曰く、客の方が心配になるほど商売っ気の無い人で、良くも悪くも豪快な性格の持ち主らしい。片や山の家篭りの独身中年、片や思春期の娘を持つ父親と境遇は違えど、同世代かつ共通の趣味を持つ二人は気の置けない友人といったところなのだろう。店に立ち寄ると、大抵主婦の井戸端会議よろしくおしゃべりに興じている。
「……バイタクじゃないかな」
 ぼんやりとした口調で告げると、誠邦は伺うような視線を向けた。
「バイ、タク?」
 今度は史司の方が首を傾げた。すると、誠邦は大きく頷いた。
「バイクタクシー。高谷さんが家族でベトナムに行った時に見たって」
「バイクタクシー……」
 史司は力無く繰り返した。
「そう、バイクタクシー」
 滑舌よく明瞭に繰り返される言葉に、史司は心の中で頭を抱える。
 穴があったら、入りたい。無ければ、自分で掘るまでだ。
 そんな史司の苦悩と後悔などお構い無しに、唯一の趣味がバイクという男は異国の地を走る乗り物について語って聞かせる。史司は二度と口にしたくない言葉を彼が忘れてくれることだけを願って、静かに相槌を打った。
 そうして一段落着いた頃、誠邦は史司を真っ直ぐ見て言った。
「ところで、『ぱいたく』って」
「自分で調べてください!」
 今日一番の勢いで払い落とすと、史司はきっと睨み付けた。墓穴を掘ったのは自分だが、背を押したのは確実にこの男である。
「史……」
 そうとも気付かず、当の本人はしきりに目を瞬かせている。
「……すみません」
 満身創痍で這い上がった史司は、ちくりと痛む胸を抑えながら目を伏せた。
 床の上に、うっすらと影が延びている。ふと引っ掛かりを覚えて、癒えぬ傷の痛みを感じながら壁の時計をちらりと見た。
「そういえば、二人共呼びに来ないですね。おやつの時間だと言っていたのに」
 言葉にした瞬間、不可解な点が次々と浮かび上がってくる。
 今日は普通に起こされたな……普段なら飛び乗ってくるのに。それに、幸世のことに関しては心配性な大和が、今日は追い掛けずに放っていた。そういえば最近、姉さんはよく陽出の家に幸世を預けてるような……。
 答えを求めるように向けたその視線の先では、誠邦が今にも鼻歌を歌い出しそうな顔をしている。
「知ってたんですね、あの二人……いや、三人も」
 史司は近くにあった丸椅子に座り込んだ。
「幸い、大和に懐いているからね。静華ちゃんの許可もあっさり下りたし、色々と協力してもらってたんだよ。君、幸が一緒の時はこの部屋に入って来ないだろう」
 緊急事態を除いては、ね。
 誠邦は自嘲気味に笑った。
「そこまでして……」
 心が揺れるのを感じながら、史司は感慨とも呆れともつかない気持ちを零した。
「実のところ、緊張に堪えかねていっそ言ってしまおうかと何度も思ったんだけどね。完成したところで、要らないって突っ返される可能性だってあるし」
 まるで呼吸をするように、残酷な言葉を紡ぐ。その横顔は、史司に空っぽの彼を彷彿とさせた。
「ありません!」
 思わず、声が大きくなる。
「ある訳ないじゃないですか、そんなこと」
 顔が羞恥で熱くなるのを感じながら、史司は尻すぼみ気味に続けた。
「史……」
 史司の顔を真っ直ぐに見ると、誠邦は目を瞬かせた。その顔には、驚きと、そして控えめな喜びの色が浮かんでいる。
「絵、ありがとうございます。大事にします」
 様々な感情がごった返している心の中から、史司は感謝だけを取り出して渡した。
 徐に椅子から立ち上がり、キャンバスの前に向かう。気持ちが落ち着いたところで、思い出したように不安がひたひたと押し寄せてくる。
 しかし、本当に受け取ってもいいのだろうか。
 普段の彼からは想像出来ないが、誠邦は有名画家を多く輩出する家の出で、彼も学生時代から注目されていた画家だ。以前遣いを頼まれて画廊に行った折、『私も彼の絵に魅せられた一人だ』と、オーナーが古い美術雑誌やパンフレットを見せてくれた。雲隠れする以前に発表されたものは数える程しかなく、稀に市場に出たところですぐに買い手が付いてしまうという。そのため私立美術館に展示されている2点を除いてはこうして紙面で楽しむしかないのだと、残念そうにページを繰っていたのを憶えている。
 『売るよりもたくさんの人に見てもらいたいというのが、正直なところなんだよねえ』
 誠邦の絵を扱うようになってからすっかり商売気より画家愛が強くなってしまったというギャラリストは、肝心の家業を息子に任せて個展の準備だのキュレーターへの紹介だのと日々奔走しているらしい。さすがに商売そっちのけとまではいかないようだが、それでも随分と力を入れているであろうことは義兄の忙殺ぶりから容易に察することが出来る。
 彼の努力を思うと、自分だけが独り占めしてしまうのは何となく気が引けてしまう。それに、と史司は人差し指の側面で顎を撫でながら考える。ごく普通の男が一人で暮らしている狭くて雑然とした部屋に置かれるよりも、ラグジュアリーなホテルや邸宅で多くの人に鑑賞され、そして賛辞を受ける方が、作品にとって幸せなのではないだろうか。
「本当に、いいんですか」
 もし『やっぱり駄目だ』などと返されたら、恐らく落胆するだろう。それでも、史司は尋ねずにはいられなかった。
「貰えるのは嬉しいです。でも……受け取る理由が見つからない」
 好意を素直に受け取ろうとしたところで、自ら掻き集めた不安が足枷になる。それは、特別な才能を持たない人間が持つものに対して感じる、年を重ねても埋めることの出来ない人としての差に起因するのだろう。どうすることも出来ないことに、史司はもう随分と振り回されている。
 誠邦は史司の手から紙の束をそっと受け取ると、机の上に置いた。
「理由なら、ちゃんとあるよ」
 史司の肩をぽんと叩き、部屋の入り口へ足を向ける。ソファーの傍で立ち止まったと思いきやしばらくきょろきょろしていたが、やがて
「あった」
床に座り込んで何かを拾い、足取り軽やかに戻ってきた。
「これ、覚えてる?」
 彼が差し出したのは、先の絵筆だった。
 史司は口から飛び出しそうになった心臓を抑え込み、そろそろと手を伸ばした。
 ただの……筆、だよな。
 まじまじと見るも、何の特徴もない筆であることに変わりはない。
「描きたいなら、描けばいい」
 唐突に投げられた、そのらしくない口調に、思わず筆を取り落としそうになる。誠邦は『昔の君の真似だよ』と眼鏡を外しながら小さく笑った。
「そう言って君がこれをくれたから、僕はまた絵を描くことが出来た」
「……え、あの時の!?」
 史司は目を瞬かせ、自分の手元にあるそれと誠邦の顔を交互に見た。
 大和が小学校に上がるか上がらないかぐらいの頃、彼の遊び道具にと使わなくなった水彩絵具一式と筆のストックを陽出の家に持ってきたことがあった。恐らく、その時に渡したものだろう。
「久々に出したけど、新品みたいだよね」
 誠邦はしみじみと言った。
「眺めてたら、手に持ったまま寝ちゃったみたいで……大事な筆をうっかり踏まなくてよかったよ」
「大事なものなら、落とさないでください」
 その大事なもので足の裏を擽ったなどとは、口が裂けても言えない。
 筆を手渡すと、誠邦は『気を付けるよ』と頭を掻きながら机の引き出しに仕舞った。
「で、何だったっけ……そうそう。『この絵は君への感謝の気持ちだから、受け取ってくれ』っていうことが言いたかったんだ。ケーキやお菓子の方が喜ぶかなとも思ったんだけど、大和に『誠さんの気持ちは、ふわっふわのシフォンケーキみたいに軽いんですか』って言われて、じゃあもう絵しかないだろうって」
 肘付き椅子に座る誠邦につられて、史司も再び丸椅子に座る。丸椅子の方が座面が高く、二人の視線が同じぐらいの高さになる。
「……何かものすごく恥ずかしくなってきた。気持ち悪い」
 目を逸らすと、誠邦は両手でがしがしと頭を掻き、天板に突っ込む勢いで机の上に突っ伏した。
 その様子を眺めながら、そうだ、と史司は静かに思う。
 この人は吃驚するぐらい普通で、普通より不器用な人なんだ、と。
「顔、上げてください」
 史司は立ち上がると、風にふわふわと揺れる寝癖へ手を伸ばした。指先で摘み、軽く引いてぱっと離す。それを幾度か繰り返したところで、誠邦はのろのろと顔を上げた。
「早速持って帰りたいのですが、今日は歩きなので……明日持って帰ってもいいですか」
 指に残る感触に胸がそわそわするのを感じながら、史司は椅子に座った。
「勿論、と言いたいところなんだけど」
 誠邦は言い淀み、徐に眼鏡を外した。
「何か問題でもあるんですか」
「あ、うん……いや……」
 彼らしくない歯切れの悪さに、見えない不安がひたひたと押し寄せてくる。それを察したのか、誠邦は「そうじゃなくて」と思案顔をそのままに手を振ってみせた。
「その、梱包するのも運ぶのも大変だし、だから、ここに一緒に住みませんか……なんてね」
「冗談……」
 気付けば、言葉が勝手に零れていた。
「前々からずっと思っていたことなんだけど、言うタイミングが掴めなくてさ」
 テンプルが忙しなく開閉している。史司は小さく息を吸うと、努めていつもの調子で告げた。
「出来損ないのプロポーズみたいですね」
 金属のかち合う音が、空気を静かに震わせる。
「出来損ないでも、受けてもらえたら大成功だよ」
 誠邦は眼鏡を弄ぶ手をそのままに続けた。
「ここに住んだら、気兼ねなく昼寝が出来るよ」
「っ」
 まさか、と史司は弾かれたように顔を上げる。すると、誠邦は目を瞬かせた後、ぷっと噴き出した。
「誰も咎めやしないよ」
「別にそんなんじゃ」
 自分の子供じみた言葉に、史司ははっとして口を噤む。
「いいんじゃない、時には肩の力を抜いてもさ」
 眼鏡を掛けると、誠邦は机に左肘を置いて頬杖をついた。そうして、ぽん、と史司の右肩を叩く。
「先はまだまだ長そうだし、気楽にいこうよ」
 山を背に悠然としている様は少し眩しく、僅かに目を眇めた。
 柵に捕らわれることなく、自分らしく生きなさい。
 子供の時分事あるごとにそう言った祖父は、齢七十を過ぎて旅の人となった。一箇所に半年以上滞在するため、旅というよりも転居という方がしっくりくるような気もするが、年に数回、思い出したように帰ってきては土産話を聞かせてくれる。その度に応接間は時間を取り戻し、賑やかになる。しかし、棚の置物が増えることはもうないだろう。
 歳の取る速度が普通の人間より少し遅い分、悲しいことも多いが、楽しいことも多い。足し引きゼロだと笑うその顔は、陽出の人間のみならず史司にとってもまた、希望である。
「誠さんは、もう少し色々と気を付けてください。そうでないと、私より……」
 思い出に導かれるように、亡き祖母の口癖がするりと出る。しかし、
「いや、何でもありません」
途中で言葉を切ると、俯いて緩々と首を振った。
 祖父母の間で交わされた約束は、ここには無い。無いものを求めるのは、おかしい。
 それは当然のことなのに、心の奥底で息を潜めている微かな寂寥感がふっと顔を出した。
「それより、本気ですか。その……一緒に住もうって」
 密やかな気持ちを振り払い、史司は自分に許された距離に恐る恐る手を伸ばしてみた。程なく、自分より少し大きな手がその膝にぽんと触れる。一瞬重なった手は、部屋の暖かさに反してひんやりとしていた。
「夏至の大仕事が終わったら、アトリエを下に戻そうと思ってるんだ。そしたらここが空くから……どうかな」
 顔を上げると、誠邦は「強制はしないけれども、来てもらえると嬉しい」と目尻に小さな皺を寄せた。
「……マンションの契約が切れたら」
 努めて素っ気なく返し、腰を上げる。その視界の端で、誠邦が幸せを食むように頷いた。
「待ってる」
 持て余している気持ちをそのままに、部屋をぐるりと見渡す。
 壁には絵具の付いたエプロンが掛けられ、床には画材が点々としている。一見雑多な空間に見えるが、ここにはソファーと絵を描くのに必要なものしか置かれていない。構成しているものは、至ってシンプルだ。しかし、その一つひとつにこだわりや想いや時間が詰まっていることを、史司は知っている。
 キャンバスの前に立ち、遠い景色を眺める。溢れんばかりの緑は色鮮やかで、しかし今に寄り添うようにやわらかな光を返している。
 本当に、ずっと見ていたい絵だ。
 先程とは違う表情に心が惹かれるのを感じながら、史司はそっと視線を外した。
 先の丸椅子にすとん、と座り、手持ち無沙汰に床を眺める。ふと、年季の入ったイーゼルの脚下に、何時のものだか分からない絵具がこびりついているのを見つけた。もしや、と自分の足下を見ると、床はくすんでいるだけだったが椅子の脚に埃が付いていた。
「部屋、綺麗にしてくださいね。絵具とか」
 いつの間にか机に向かっている背中に、遠慮がちに声を掛ける。すると、
「ストリッパーで全部取れるかな……」
 誠邦はぼやきながら左手を床に伸ばし、頻りに擦り始めた。よく見ると、絵具は机の周りにも点々とこびりついている。
「よろしくお願いします」
 史司は指の腹を擦り合わせて埃をまとめると、ゴミ箱へ入れた。
「……善処します。それより」
 面倒な問題は後回しだとばかりに体を起こすと、誠邦はふっと口角を上げて手元の紙を差し出した。
「これ、どうかな」
 そこには、美大在学中、それとも、予備校時代だろうか。遠い日に鍛錬した痕跡のようなものを総動員して描かれたであろうロマンが広がっていた。
「……もういいですって!」
 ひったくるように取り上げると、史司は使われていない作り付けの棚の、一番高い場所にある引き出しに押し込んだ。そして、
「『たく』は、沢山の『沢』ではなく、魚拓の『拓』です」
巨乳祭りはもううんざりだとばかりに吐き捨てた。そもそものきっかけが自分の聞き間違いにあることなど史司は指摘されるまでもなく分かっているが、対峙させられる度に自分の人生そのものが内容の薄っぺらいギャグ漫画のように思えてきて……辛い。
「魚拓……ああ、なるほど。そういうことか」
 誠邦は得心顔でぽんと手を打ち、新しい言葉を繰り返す。しかし
「それって、需要あるの?」
 幾度か口にしたところで首を傾げた。どうやら嗜好という点にまで考えが及んでしまったらしい。
 不可解だと言われたところでそれこそ自分の知るところではないと、史司はいよいよ心の中で思う存分地団駄を踏みながら努めて静かに告げた。
「……私に聞かないでください」
 空高く浮かぶ雲が、風に乗って悠然と流れてゆく。緑萌える木々の梢では鳥たちが代わる代わる羽を休め、歌を歌い、やがて飛び立ってゆく。そうして少しずつ変わりゆく景色に寄り添うように、山の家はこれまでも、そしてこれからも、新しい季節を迎えるのだろう。山と共に今を歩みながら。

春眠八つ時を覚えず【完】

春眠八つ時を覚えず【完】

草の輪シリーズ。大和の従兄弟、史司のとある五月の午後の話。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-06-11

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