判決

約束の時間に遅れてきた友人を駅に残し、僕は一人で裁判所に向かった。

 約束の時間に遅れてきた友人を駅に残し、僕は一人で裁判所に向かった。途中、喫茶店でコーヒーとトーストを注文することにした。裁判まではまだ時間があったし、その喫茶店は裁判所までの道に面していた。僕は窓際の席に座って、友人が来たらその場で合流して、裁判所に向かうのも悪くないと考えたのだ。結論から言うと、彼は来なかった。来る気配さえ感じられなかった。ウェイトレスが僕のテーブルに注文を取りに来たので、当初考えていた通り、コーヒーとトーストを注文した。ウェイトレスは手にしていたメモにボールペンで注文を書きつけると、小さくお辞儀をしてカウンターの向こう側に歩いていった。僕は窓の向こうを見つめて、友人が通り過ぎないかと待っていた。先に述べたように、彼は来なかった。喫茶店には小さな音量で音楽が流れていた。昔流行ったポップソングだった気がしたが、誰のなんという曲だったか思い出せなかった。よく整理整頓された和音の羅列に、なんとなく響きそうな言葉がたくさん散りばめられた曲だった。ウェイトレスはトーストとコーヒーとともに僕のテーブルにあらわれた。彼女とコーヒーとトーストだけがその日僕の元にあらわれてくれた。コーヒーは少し水っぽかったし、トーストはコルクボードを食べているようだった。

 会計を済ませ、僕は裁判所に続く道を歩いた。裁判所までは徒歩で五分ほどしかかからない場所に喫茶店はあったので、僕は胃袋にコーヒーとトーストを感じながら裁判所に到着することになった。裁判所に友人が先に来ていないかと少し考えたが、彼は来ていなかった。受付で手続きを済まし、僕は午後に行われる裁判の対審を傍聴できることになった。僕が傍聴することになった裁判は小さな刑事事件についてだった。刑事事件といっても、大きな刑事事件と違って死傷者がたくさん出た、という物騒なものではなかった。内容はあまり覚えていない。とにかく小さな刑事事件だった。それだけだ。周りに記者らしき人の姿はほとんど見受けられず、メモを持った人が二人だけ確認できただけだった。とにかく小さな事件だったのだ。

 やがて裁判のはじまる時間が近づいてきた。僕は指定された部屋に入り、後ろの席に座った。特別な理由はなかった。ただ、昔から前より後ろの席に座るのが好きだった。それだけだ。まだ僕が席替えで喜ぶことができた頃、僕はなるべく後ろの席に座りたいと思っていた。この時も、それと同じだ。ただなんとなく後ろの席の方が気持ちが落ち着くから後ろに座ったのだ。椅子に座って黙って待っていると、だんだんと傍聴席は埋まっていった。受付の周りにいた人数から推定して、僕は空白の多い傍聴席を想像していた。だが実際は、全ての傍聴席はきちんと座られていた。一つの空席もなければ、一人の立ち見もいなかった。全員が傍聴席のスペースにきっちりとおさまっていた。僕は突然裁判所までの道の途中で立ち寄ったあの喫茶店のことを思い出していた。コーヒーの味もトーストの固さも、ずっと遠い昔のように感じられた。

 やがて裁判官が入室してきた。それから検察官と原告人が入室し、弁護人、被告人が少しの間を経て入室してきた。傍聴人は裁判官の入室とともに示し合わせたようにみな立ち上がり、裁判官の着席の合図を待った。僕はこれまでの人生で、何の練習や準備を経ることなく、かつ一切の言葉を持つこともなく、ある種の集団が美しく団体行動を取る光景を見たことがなかった。裁判官は静かに着席の合図を打った。その場にいた全員が、同時に着席した。

 裁判は淡々と進んだ。あまりに淡々としていたため、僕はそれが裁判であることを忘れそうだった。それは裁判を見るというより、授業を聞いているような感覚だった。だが、それは授業には静か過ぎた。僕が受けてきた授業は、黒鉛が紙をこする音や、誰かが姿勢を直すときに生じる小さな音、少しずつ打たれていく時計の針の音が、じっとしていられない子どものように絶えず空間を走り回っていた。この裁判には、僕が今あげたものは一つも存在していない。ただ静かに検察から裁判官、裁判官から弁護人、弁護人から裁判官への質疑応答が繰り返されている。それはとても機械的な響きを持って、僕の目の前を何度も往復していた。沈黙は言葉の有無で生まれるのではなく、言葉の持つ流動性によって決定されるのだ。僕はとても居心地が悪くなってきていた。

 突然、言葉が床に叩きつけられた。裁判官が手に持っていた木の槌を打ち鳴らしたのだ。裁判官は静かに、証人に入廷してもらいます、とだけ言った。その言葉はその裁判がはじまってから僕が聞いた言葉で、唯一誰のためでもなく放たれた言葉だった。あるいは全員に向けられた言葉だったのかもしれない。多くの人間に放たれた言葉は、かえって誰にも届かないことがある。むしろ、届かないことの方が多い。僕は喫茶店に流れていたあのポップソングを思い出していた。あのポップソングは誰かに届いたのだろうか。

 裁判官が槌を鳴らした合図で、法廷の奥にあるドアが開いた。ドアの向こうの人影はゆっくりと部屋に入ってきた。

 その証人には、皮膚らしい皮膚がほとんど残っていなかった。全身に火傷を負った証人は、足をひきずるようにゆっくりと証言台を目指した。僕は思わず呼吸をするのを忘れてしまった。血管の中を流れている血液が一瞬、方向の感覚を失って、別々の方向に流れていった。僕は自分の体が震えているのを感じた。その場にいた僕以外の人たちは、ただ沈黙していた。その沈黙の中で、僕の有機的な響きだけがやけに大きく反響していた。あるいは、そのように感じただけかもしれない。いずれにせよ、その沈黙は無機的な響きを携えていた。無音であることで、別の響きを生み出していた。やがて証人は証言台に立った。もし彼が立つ姿を遠くから見たなら、僕は彼が人間であることを認識することができなかっただろう。僕は、自分やその他の人間の薄い皮の向こう側に、あんなに赤々としたうねりが存在していることを知らなかった。裁判官は静かに証人を見つめると、やがて静かに尋ねた。

 「あなたをそのような姿にしたのは誰ですか」

 証人は静かに右手をあげ、それを肩と水平にまであげると、ゆっくりと体を回転させ被告人が座る右側を向いた。その姿は大砲がゆっくりと標的を狙い回転する姿に似ていた。そして、その大砲は被告人の座る席を通り過ぎ、沈黙に包まれた傍聴席を向いた。赤いうねりが、一箇所に集まり、そしてその先はまっすぐ僕を狙っていた。それを合図にしたように、裁判官が僕を向いた。原告が、検察官が、弁護人が、被告人が僕を向いた。傍聴席に座る人々が、今一度無言の意思を共有し、同時に僕を見つめた。僕は後ろの席に座っていたため、法廷中の視線を確認することができた。僕は、傍聴人たちの目が、顔から無くなっていることに気がついた。傍聴人の顔には黒い空洞がぽっかりと空いていた。何十もの空洞が僕を見つめていた。僕は目を閉じた。どこかであのポップソングが流れているような気がした。

判決

判決

  • 小説
  • 掌編
  • サスペンス
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-06-11

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