彼女が残した手紙

彼女が残した遺書

このくだらない世界へ
くだらないとてもくだらない世界は、陽がでたら同じ時間を何度も幾度となく繰り返し、今日もなにも変わらない世界を繰り返すでしょう。

世界の歯車をただ一人の犠牲によって止まることもないでしょう。

うまく噛み合っている世界の歯車の間に私は飛び込んでいく。

流れを止めることもできずに、流れを止めようとしたことも誰にも知られずに、ただ私は赤い陽射しをまた明日に流すでしょう。

くだらないとてもくだらないこの世界へ。

世界は美しい。幾多の人々が歯車に巻き込まれ、赤い陽射しは途切れることなく明日を紡ぐ。

その鮮やかさに人は喜び、また同じ時間を過ごす。

なんて妖しくて美しいのだろうか。

誰にも気づかれず、誰にも知られずに、私はゆっくりとこの世界の一部になる。

美しきこの世界へ、私はここに生まれたことを悦びと思う。

私には誰もいない。なにもない。

雨を流す雲もいなければ、陽を彩る空もいない、大地もいない。

私は赤く染めて暁の空を作り、このくだらないとてもくだらない世界を彩るだけ。

愛し愛すこの世界を彩るのでしょう。誰にも知られずに、ゆっくりと。

もしよろしければ無機質な縦に延びる箱に遮られて見えなくなったあの世界を、いつも足元しか見ることのないそのつまらない顔をあげてご覧ください。

もしかしたら私が赤く染め上げてる頃かもしれません。

もしあなたも染め上げてしまったら大変申し訳なく思います。

その時はまた二人でこのくだらないとてもくだらない世界を知られずに染め上げましょう。

そしたらきっととても素晴らしい世界が広がっているのかもしれませんね。

彼女が残した日常

五月が半分過ぎた。

そろそろ梅雨がやってきて、暑さを運ぶ時期になってくる。日中は陽射しが皮膚を射して熱いのに、朝と夜はいまだ冬のような寒さだ。

その寒暖差の激しさに対応できなかった。体の温度調整を怠り、先週から風邪を引いてしまったようで体が酔っているような感覚がずっと続いている。

菌を移さないように口と鼻をを隠すマスクは嫌いだったため、つけなかったが、如何せん咳が始まると止まることが難しかった。

見かねた友人たちがマスクぐらいはつけろと言われたのでつけ始めたものの、やはり口と鼻につく慣れていない布が当たる感触、いつもは自由に呼吸できていたのに、少しの閉塞感によって更に呼吸を困難にさせ、ふわふわとした酸欠状態が体の具合を助長しているように思える。

自分が発生源にならないように予防することも大事だと自己暗示を掛けるが、やはりどうも慣れない。

マスクをつけるだけで治る風邪であってほしかった。

今日も講義を聞くために大学へ向かう。電車の中で座る席も見つからず、つり革にぶら下がるように掴まった。

ああ、どうも体の自由がうまくいかない。

こんなときぐらい電車の座席に座れれば良いのだけれど、この時間帯は通学途中の学生たちの姿が多く、席はほとんど座られている。

途中で降りていく人もいるが、我先にと座る人が多く、席が空いても頭と体が鈍くなっていて、座ろうと動こうとしたときにはもう席は埋まっていた。

仕方がないので自分の携帯音楽プレイヤーで流している、『セイカ』というインターネット上で活動している歌手の歌に集中して自分の世界に潜り込んだ。

イヤホンから伝わってくるセイカの歌声。話し声やアナウンスなど、周囲の音はだんだんと聞こえなくなり、セイカが自分のために歌ってくれるような、二人だけでいるような気分に陥る。

セイカはインターネットの動画共有サイトで半年前ぐらいから有名になり始めた。

『すべてから逃げたくて』

ただ某笑顔動画で活動している歌い手とは違い、誰かが提供した歌を歌うのではなく、他の楽器と合わせて歌わず、メロディーだけの曲を自分の声だけで歌っている。

『逃げたら私は一人だけ』
その声は高くもなく低くもない、まだ若いけど落ち着いていて凛とした女性の声。音に色はないけれど、もしつけるとしたら、いや、つけることのできない透明が似合う。なにも不純なものはない。スッとまっすぐに声が抜けていくような不思議な声。

『枯れた雨はもう降ることもない』

はじめて聞いたときその声に鳥肌がたった。いつもはこんなゆったりとした曲調の音楽じゃなく、ギターやドラムなどの楽器が激しく主張し合い、負けじとボーカルが声を大きく張り上げる、ロックやメタルのような激しい曲調の音楽ばかり好んで聞いていたからすごく不思議な気分だ。

『艶やかな暁色をして』

それほど彼女の声に惹かれていた。

『頬を染めていく』

恋にも似た憧れのような感覚が渦巻いて、ぐるぐると自分をかきみだす。

『きっとこれは愛しいのね』

とても心地よい時間……

「○○~○○駅です」

……は終わってしまった。

プシューと空気を出す音と共に扉が開き、雪崩れるように人々が外に解放された。

ホームから見えた空は今日も青く光っていた。

彼女が残した手紙

彼女が残した手紙

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-06-10

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