4章は番外編です。

前編 砂紋

1.

 砂の神殿で、幼い巫女は夢を見た。

 固く張りつめた肉にきめの細かい褐色の皮膚。乙女の腹の上に銀の鱗を立てた蛇が載っている。男の腕程の太さの蛇はとぐろを解いて、太腿の間に分け入っていく。乙女の顔には紗の布が幾重にも被せられて、その表情をうかがい知ることはできない。蛇が這う動きに合わせるように胴が波打ち、大きく反り返った。膝から下が強ばって痙攣を起こしたように震え、足の指がぎゅっと縮まる。腿の間から延びる蛇の太い胴は下肢に絡みつき、小刻みに伸縮を繰り返す。乙女の全身からは玉のような汗が吹き出していた。蛇が動くたびに白濁した液が寝台の上に滴り落ちる。
「あ……あ、ああ……」
 蛇は、にゅるり、と乙女の陰門から這い出て、寝台の横に滑り降りた。鎌首を持ち上げるように背伸びをし、美麗な若い男に変わる。古風な装束を纏い、布で覆った頭は連ねた玉石で飾られている。男は乙女の顔を覆っていた布を取り払い、再びその上に覆いかぶさった。その眼窩を細い舌で、ぴちゃぴちゃ、音をたてて舐め、口を吸っている。

 見てはいけないものを見た。

 七歳のイェリズはそう思った。何事が起こっているのか判らぬまま、見てしまったものを怖れた。目を覚まさねばと焦るのに、目が覚めるどころか夢の中に色も形も持った自分が入り込んでいく。こんなに近くにいたら、夢の二人に自分の存在が気づかれてしまうのではないか。 覗き見ていることが知られてしまったら……益々焦って、爪で腿を抓ったり、自分の腕を抱きしめたりしてみるが、何の痛みも感じない。

 その時、男は乙女から口を離して言った。
「我は、この都の地下に流れる川の主。太源神のお許しを得て、そなたを娶った。そなたの孕む子は、太源神への贄となるであろう。その子の名はイェリズ」
 男は振り返ると、ずっとそこにイェリズがいるのを知っていたかのように、その顔を見た。
「我が子よ。そなたの肉と血は、この父が太源神に奉じる」
 イェリズが思わず後退ると、男の腕の中にいた乙女が顔を見せた。イェリズの腿の内を生温いものが伝い、流れ落ちて行った。

 イェリズは母を知らない。母デニズも神殿の巫女であった。先王の妹にあたり、王によって太源神に奉じられた。
 砂漠の民である遊砂族は小さな部族ごとに集住しているが、都の神殿に祀る太源神への信仰で一つに結ばれていた。部族長・家長が強い権限をもつ民であり、各部族長が一族の娘を巫女として神殿に奉じる。その頂点に位していたのが王の一族の巫女、すなわちイェリズの母だった。
 しかし、そのような身でありながらデニズは父の知れぬ子を孕んでしまった。当然の如く、母娘ともども聖俗双方の則より見捨てられた。それでも、獄中で産死した母はさほどの屈辱を味わうことはなかったであろう。
 イェリズは望まれぬ子であった。王家の血を引くがゆえに捨てるわけにもいかぬ。一応は神殿の巫女として育てられることになった。巫女はみな血筋の良い娘ばかりであったが、イェリズはだけは蔑まれ、冷たく扱われた。

 十になったばかりのころ、イェリズは深夜になって高位の老神官の私室に呼び出された。部屋は数本の蝋燭が灯るだけで薄暗く、酒の匂いがした。老神官はイェリズに酒を勧め、健やかに過ごしているか、日々の務めに励んでいるかと、いつになく白々しい言葉をかけた。ぎごちない会話がひと段落すると、老神官は人払いをした。下仕えの者たちが退室し老神官と二人だけになった時、イェリズは自分の身に何が起ころうとしているのかを解した。神官はイェリズを敷物の上に押し倒して衣を剥ぎとり、幼い体の上にのしかかった。
 イェリズは抵抗することもなく、ただ自分に近づいてくる醜い皺だらけの顔の中の目を真っ直ぐ見ていた。老人の瞳の中に映る自分の顔は怯えていない。それだけでいいと思った。急に老人の目は光を失い、濁ったように感じられたかと思うと、イェリズの首の横に顔面から突っ込んで倒れた。偶然にも、老人の寿命は事を為す前に終わったのだ。
 イェリズは運命に抗うことにも、人に報復するということにも、全く関心を持たぬ少女だった。しかし、その時は生まれて初めてささやかな復讐を試みることにした。
 息をしていない老人の皺だらけの手に自分の衣を握らせ、何一つ身につけぬままで廊下に飛び出した。大変でございます、神官様が急にお倒れに……ああ、どなたか……全裸の巫女は、その棟に住まう神官たち皆に聞こえるように、息をしていない神官の手当てを求めて喚き続けた。
 こうして老神官の不名誉な最期は、神殿中の公然の秘密となった。あのお方は着衣のままだった、やり損ねてお亡くなりになったのだよ、御気の毒に。神官たちは身分の高い巫女に手を出さないだけで、神殿の自室に遊び女を招き入れるものも少なくはない有様であったから、暴露されねば不名誉でもなんでもないことだった。神官たちは老神官の不行状よりも、殊更に騒ぎ立てた無知な小娘に腹を立てた。
 実際のところ、その時まで、イェリズの同様の欲望を抱いていた神官は少なくはなかった。王家の血を引くとはいえ、お情けで神殿に置かれているような巫女である。遊び女とさほど違いはなかったのだ。高貴な女は月のものが始まれば顔を覆うようになる。神官たちは、いつイェリズが女になるか、誰が一番に手を着けるか……興味本位で見ていた。実のところ、巫女の密通を咎める資格のある神官など、殆どいなかったのだ。
 しかし、老神官の死を機に男たちの態度は一変した。誰一人、イェリズを自分のものにと考えることはなくなった。一人の偉大な神官の死を貶めた巫女。小娘に神官の神聖さを侵されたのだ。事あるごとにイェリズは広間に引きずり出され、執拗に暴力的に罵倒された。指一本触れることなく、神に代わって<不吉>で<汚らわしい女>を言葉で痛めつけることで男たちは奇妙な快楽を共有し、一体感を持った。イェリズは神官たちの連帯感を高揚させる生贄となり、そのかわりに「肉体の純潔」を保ちえたのだった。
 しかし、イェリズは己の「肉体の純潔」の意味が良くわからなかった。
 肉も血も、全てが太源神に奉じられているならば、私の肉などどこにもないではないか。神のものにしろ、人に下げ渡されるにしろ、私が関わることではない……ならば、私は何なのだろうか。
イェリズにとって、肉は纏わされた外皮のようなものでしかなかった。肉が外皮でしかないならば、その中は……イェリズは自分の内を覗き込んだが、そこには大きな虚(うろ)があっただけだった。 身体の成長よりも早く大きくなっていく虚に不安を感じ、イェリズは手あたりしだいの知識を放り込んでいく。学ぶという行為は、自分がここに在ることを肯定してくれる細やかな自傷でもあった。

 外皮と虚の間の痛みで地上に繋がれたまま、イェリズは夢の中を浮遊する。

2.

 草が戦ぐ。風が夜の匂いを運んでくる。

 野営のための幕を張り終えて、火群は顔を上げた。既に辺りには闇が沈殿している。立ち上がり、他の兵たちが食事の支度や馬の世話など慌ただしく動き回っているのを見渡す。

 華国が東夷と呼ぶ地域は遊牧の民の地。大方は国らしい国を持たぬまま部族ごとに暮らしている。華国はこの地域を征ぐことを望み、フォアビン将軍の下、多くの将を各地に送った。火群は、そんな将の一人クォシャン大将の軍に配された歩兵である。しかし、火群自身は華人ではない。北方の属国である邦から徴用された兵だ。
 背を伸ばして顔を上げたその姿は夜目にも、際立っていた。何よりもまず、僅かな光をかき集めるように肌の色が白い。他の兵たち同様、筒袖の短い上着、細身の袴に脚絆という身なりだが、髪、瞳の色が薄く淡い灰色がかかっていて、彫の深い顔立ちは端正だ。黄褐色の肌に黒い髪、黒い瞳を持つ華人とは明らかに異なる。髪は、髷も結わずに短く無造作に切り、顔にかからないように耳に掛けている。粗末ななりだが、すらりと上背がある体躯には優雅すら感じさせる。とにかく美しい男だ。しかし、暗い目をしていた。美しさを台無しにするほど、陰気だ。まだ三十には届かないが、分別臭く冷めた表情が年寄りじみた印象を与える。
 幕を張り終えると、火群は命じられるままに水を汲みに行った。野営地のさほど遠からぬ所で細い流れがちょろちょろと頼りない音を立てている。湿った気が心地良く感じられる。このあたりは雨の乏しい地で、道中は草原か礫の転がる砂漠が続いた。乾いた肌が息を始める。
 二つの桶を水で満たすと、天秤棒に掛けて担ぎ上げた。たぷんと跳ねた水が光る。見上げると、いつの間にか穹天を透き通すが如き丸い月が出ている。
 遥か彼方まで途切れることなく続く空ならば、人は同じ月を見るのだろう。此の地でも、彼の地でも……望郷と呼ぶには殺伐しすぎる思いを抱いて、月明りに顔を向ける。
 野営地に帰り着いた火群は、天秤から外した桶を両手で抱きかかえて、大将のもとへ運んだ。大きな幕が広く四方を囲って視界を遮っている。火群は警固の兵に刀を預けてから、幕の中に入った。二重に張られた幕の奥、大将は下帯姿で大きな盥に座している。大将は三十過ぎの剛健な男で、若い従官がその筋骨逞しい背を流していた。
 火群は幕の中で湯気を盛んに上げている釜に水を注ぐと、一礼して幕の外へ退いた。出入り口の近くに、大将と従官の刀が揃えて置かれているのが見える。天幕の布と薪とをそれぞれに抱えた二人の兵が、火群と入れ違いに幕の中に入って行った。顔は鍋墨を塗りつけたように汚れ、目だけをぎらつかせている。
 一体、何故に斯くも汚れたものか。
 奇異に思いつつ、すれ違う刹那、薪を持つ男の懐に鈍く光るものを火群は見た。渦巻を象った異形の……そう見えた。華国の兵のものではない。夷域の将の刀だ。
「おい、待て」
 思わず幕の中に取って返すと、薪の男が従官の口を塞いで、その胸に夷の刀を突き立てていた。もう一人の賊は大将の刀を手にしている。渦巻刀の男は従官を転がし放つと、火群に向かって来た。咄嗟に身をして賊の背後に回りこんで右肩甲の裏を拳打した。そのまま大将に刀を振り翳すもう一人の賊の懐に潜り、その手首を持ち上げるように両手で掴む。
 火群は、徒手の一歩兵である。そのまま幕の外へ飛び出して、賊の襲来を外の警護兵に伝えればよかったのだ。別に大将がどうなろうと、火群には関係なかった。しかし、幼い頃に叩き込まれた護衛術のままに体が動き、賊と大将の間に自ら割って入ってしまった。この男にすれば、大きな声をだす方が煩わしかっただけなのかもしれない。
 とにかくそのまま捻じ伏せんと力を込めたとき、熱いものがぐっと火群の腹に食い込んだ。先の拳で動きを封じたつもりだった賊が、渦巻の直刀で火群の右脇腹を突いている。
 歩兵たちは腹当て鎧を支給されていたが、野営地では警備以外の雑用をする者は外していた。火群も腹当てを着けていなかったが、右脇に脇楯かわりの漆皮を宛てたままでいた。刃はその皮を貫いたものの途中で引掛り、深く貫くことも、抜き取って再び斬りかかることもできない。文字通り、抜き差しならぬ状態であった。肉を抉られる激痛を感じながら、火群は握った賊の手だけは離さなかった。忠誠心からではない。今、この手を放せば、大将ではなく我が首に刀が振り下ろされる。腹の刃が止まっている間に、掴んでいる方の賊を抑え込まねばならない。いつ死んでも構わないと思っていたはずが、額に脂汗を浮かせて、満身の力を両の手に込めている。腹圧が食い込んだ刃を押し返すように感じられた。
 しかしそれも寸刻。盥を脱した大将は、従官の刀を手にすると、二人の賊を背後から斬り棄てた。
 大将は従官の死を確認してから、屈みこむ火群の傍らにやってきた。労わるようにその背に手を添えて横たわらせる。
「助かった。貴様、名は何と申す」
「邦の国、月の将軍嘉袁の子、火群」
 大将が腹の刃を引き抜くと、その痛みで火群は気を失った。

3.

 蒼い香り。
 イェリズは、長椅子から体を起こし露台に出た。澄み切った空に浮かぶ月が割れている。欠片の一つに手を伸ばすと、ざらついた感触が掌に当たった。
 繰り返し降る夢をイェリズは組み合わせる。
 手に力を入れると、欠片は粉々になり、指の間からこぼれ落ちる。

 夢はいつもそう。夢はいつも。

 淡く儚く、それでいて無関係ではなく、つながっていることだけが理由になる。その曖昧さに不安になりつつ、それが人の世なのだろうとイェリズは思う。

 朝、礼拝の後、小参拝室の掃除をし、法具で荘厳する。日々、繰り返してきた勤めも、どこか愛おしく思えた。楽しいこと、嬉しいこと……何一つ、いい思い出などなかった。それでも、ここでの生活に愛着を持っていた。イェリズは初めてそのことに気付いた。
「……さま…」
 気を取られていたイェリズは、人の気配を感じとれず、びくり、とする。一人の老神官が入り口近くに立っていた。
「イェリズさま、御精が出ますな」
 イェリズは、このケマルという老人が嫌いではなかった。身分は低いが、品があり、何よりも他の神官たちと距離を置いていることが好ましく思えた。
「御老人、何かありましたか」
 水を向けても、言い悪げにしている。天気の話から始まって、当たり障りのないことを話し、話題が無くなると押し黙った。
「祈祷をしなくてはいけないのでしょう。私は巫女ですから、それが務めです」
 老人は眉をひそめて、首を横に振った。
「皆さま、御断りになられたのです。……いつも、私があなた様にお願いするのはそういう時ばかりですが。でも、今回はいつもと違います。相手は、異人で、我々の神を信じてもいません。しかし、華国の将からの依頼で……断ることもできません」
「わたしは、構いませんよ」
「良いのですか」
「ええ、時が決まれば教えてください」
 複雑な表情の老人を横目に、イェリズは銀の鉢の曇りを布で拭っていた。漠としたものが形になっていく。背を這うような不安と、両腹の下に蟠る冷たい塊を抱えて、平静を装う指が微かに震えた。

 あとは押し流されるしかない。夢が終わる。しかし、私がここに在った意味は何だったのだろう。そう思いながら、つかんだ月の破片に手触りがあったように、イェリズは今ここに在るのだった。
 
 その夜、イェリズは最後の夢を見た。手の中にあったはずの欠片は、みるみる白い小さな鳥になって羽ばたいた。
「あ…」
 目で追うと、鳥は月へ向かった。鳥が月に溶けると、欠けていない月の端から砂粒が滑り落ち始める。

 不安と隣り合わせの夢は脳を溶かしていく。天空の砂で残りの時を量りながら、イェリズは甘美な終わりを夢見ていた。

4.

 火群が目を醒ましたのは硬い寝台の上だった。体が思いのままに動かないと気付いてから、漸く助かったことを解する。大将に名を問われた時は、よもや助かるまいと思った。軽輩の身故、遠征の途上での手当など期待しなかった。
 賊の刀など、見過ごせば良かったのだ。邦王のための護衛術で、俺は一体何を守ったものやら。自嘲気味に独り言ちる。
 火群は、北方の小国邦の武人の家に生まれた。邦が華国に屈したのは十三の時。父将軍は斬首された。母や妹が今どうしているかは知らない。囚われて暫く邦都の衛士として使役され、その後、華国軍に徴された。
 恨みや憎しみの心が無かったと云えば、嘘になる。しかし、火群はなぜか執着とは無縁な人間であった。憎むことにすら拘りかねた。いつしか、何かが欠け落ちた。痛みは在るが、欠け落ちて失われたものが何なのかを知る術もない。全てが致し方ないことだった。
 痛みを確かめるように、体の端端まで気を巡らせ、周囲を見渡す。白い土壁の小部屋。杲杲と陽光が満ちている。薫物であろうか、甘い香気が空を漂う。
 人が部屋に入って来る気配がしたが、火群は体を動かせない。
「気が付かれた様にございますよ」
 しわがれた声がして、老人がにゅっと顔を出す。白く粗末な髭が痩せた頬から顎を申し訳程度に覆っていた。彫の深い顔立ちで、僧帽のようなものを頭に載せ、ゆったりした長い上着とズボンを身に着けている。火群は、傷を負った場所が華国に与する遊砂族の都に近かったことを思い出した。
 老人は丁寧な華国語で話し掛けてくる。
「ここは遊砂族の神殿でございます。時折、華国の負傷兵をお引受け致しており……あなた様は酷いお怪我でございました」
 果たして、遊砂族に預けられたのだ。
「大将様のお命をお助けになられたとか。丁重にお世話をする様に申し付かっております。遊砂では、傷の平癒を巫女が祈るのが常でございまして……」
 大将を庇うつもりはなかった。しかし、それ故に厚遇を受けることとなったのだ。老人は目で後ろを示した。其処には頭からすっぽりと白布を被り、目ばかりを露わにした小柄な人物が立っている。
「神殿の巫女でございます。大将様からのお心遣いにて……」
 老人は退き、代わりに巫女が近寄ってきた。両手を翳して歌うように唱え始める。
 若い声。口元を覆っているにも関わらず、まじないの詞は朗々と天井に舞上った。巫女の手首まで隠す袖の内より、甘い香が波立つように吐き出される。知らない花の香。嗅いだ覚えのない香で、火群は遠い日々を思い出す。
 父の軍装の革の手触りや、母の裳裾が床を滑る音、食んだ菓子でべたついた幼い妹の丸い頬。
 蘇ろうとも薄絹を被せたようにどこか他人事だった。甘くもどかしく苦しい。それ以上思い出したいとも思わず、身動きもできないまま居心地の悪さに耐えた。
 呪文が漸く終わる。巫女は翳していた手を患者に向けて動かした。不意に手が迫ったことに驚いた火群は、思わずそれを払い除けた。動けないと思っていたために、必要以上の力が入ってしまった。巫女の長い袖が絡み、装束の彼方此方が引っ張られて鼻から下を覆っていた布がずり落ちる。
 花の顔とでも云うべきか。
 火群は珍しく女の顔に気を取られた。褐色がかる頬は硬質な外郭をなぞり、小さな頤に引き纏められている。濃く長い睫毛に縁どられた大きな瞳は濡れたように黒々と光り、小さな唇はぽってりと柔らかい丸みを帯びていて、妙に生々しい。
 巫女は動じることなく乱れた装束を正すと、何事もなかったかのように再び手を差し伸ばして男の両頬に触れ、真っ直ぐにその目を凝視した。挑むような強い眼差しに、火群も思わず睨み返したが、巫女は目を逸らさない。
「神の御加護を」
 静かで力強い声。呪文はともかく、これは確かかに効きそうだ。悪くない。火群はそう思った。細い指が何度か頬を撫でると、触覚は徐々に輪郭をなくしていく。痛みと疲れと、理由のない安堵。そして、自分とは無縁の異郷の麗人。眠るには丁度良い具合だった。
 
5.
 
 イェリズは、その短い生涯に白い雄獅子の夢を何度も見た。
 獅子はイェリズに全く気付かないようだったが、イェリズは宙に浮いて見下ろしていたり、傍にいて頭を撫でていたりする。いつもそのうちに巫女と獅子は溶け合って、境目がなくなってしまうのだ。
 それは虚のせいだとイェリズは思った。
 その若い獅子の体内にも、イェリズと同じような大きな虚があった。イェリズが衣の前を開き、自分と獅子の虚を合わせるようにして添い伏すと、一つの宙になる。そこには不思議な調和と心地良い均衡があった。その中を漂いながら、夢の中で夢を見るのだった。

 灌木の下、物憂げに体を丸めて蹲っている獅子をイェリズは抱いていた。鬣も生えそろわぬまだ若い獅子だが、牙からも爪からも血を流している。頭を撫でてやっても、ぐったりと目を閉じたままだ。何度も何度も頭を撫でているうちに、イェリズはそのまま獅子になった。
 
 父獅子の声がする。
「背に王を負うのがさだめ。我らが身は王と国を守るためにある。誰よりも強うなれ」
 若い王は異国から取り寄せた毒の酒を飲み、父の背に跨ったまま、太刀を振り下ろす。父獅子の首はごろりと地に落ちた。
 毒の所為か、乱心か。どちらにせよ、もはや王は獅子を必要としない。
 若い獅子は茨に覆われた塔に押し籠められた。毎夜毎夜、王に酒を注いだ臣の娘が餌付けに来る。
「日々の糧を差し上げましょう。わが肉を差し上げましょう。王に、我が父に忠誠を。さすれば、私の産むあなたの御子は月の将軍の名を授けられることでしょう」
 白い顔の娘は衣を開き、肉づきの良い胸を露わにして、褥に潜りこんでくる。追い払っても、追い払っても、知らぬ間にそこにいる。腹が減らぬわけではない。しかし、父の無念を思い、そのようなものは断じて食まぬと歯を食いしばった。
 王のため、国のため、忠を尽くした父は、なぜ王に斬られねばならなかったのか。父が信じたものを信じ、日々励んできた自分は何だったのか。誰を守り、誰に向けるべき牙、爪だったのか。盲信してきたものがとるに足らぬものだと認めれば、父が哀れに思える。いや、それ以上に自分が惨めだ。死んでも、食まぬ。我は月の将軍の子。誇り高い獅子の子なのだ。
 耐え続けた。しかし、三千日目の夜、耐えきれなくなって、目の前に長々と伸びた娘の白い喉を食いちぎった。
 血溜まりに膝を着き、腹から温かい腸を引っ張り出して、無我夢中で貪る。娘の腰に手をつくと、股の間から何か桃色のぬめりとしたものが滑り出た。指先ほどの大きさで、目ばかりが大きい、魚のような肉塊である。か細い声が震えた。
――父よ――
 我が子のはずがない。娘と交わったことなど一度もないのだ。その小さな魚類を踏みつけ、押し潰そうと力を込める。
――父よ――
 ぞっとしてひるむと、小さな魚はけたけたと笑いながら、水の中を泳ぐように部屋の隅へ、闇の中へ、消えて行った。足の裏には赤い膠のようなものがへばりついている。
「どうかなさいましたか。お召し上がりになって下さいませ」
振り返ると、娘が自分の生首を盆にのせて、こちらに捧げ持っている。
「ひもじくていらっしゃるのでしょう。何を躊躇うことがありましょう。私はあなたさまの御子を孕まねばなりません。さあ」
 盆の上の娘は、平然とした表情で喋り続ける。
「あんな魚みたいなものじゃ、どうしようもありませんわねぇ。次は、猛々しい子を。あなたさまの恨みと憎しみを孕み、大きく育んでさしあげましょう。さあ、私を……」
 盆ごと娘を押しのけて、部屋の扉を蹴破った。後ろから茨が伸びてからみついてくるのを振り払い、暗闇の中に飛び出した。
「お逃げになるのですか。逃げれば、もう、戻れませぬ」
 走っても、走っても、娘の声だけは追ってくる。
「忠ですって?気づいていらっしゃるのでしょう。月の将軍が斬られたのは、奥方の兄上、あなたさまの伯父上を新しい王にしようとなさったから。気に病まれることはありません。私を娶れば将軍家は父の下で再興し、その貴い血は私の子に引き継がれます」
 違う、父は身を挺しても王を守れと、それが道だと教えてくれた。そんな父が、未だ若い王を廃して高齢の伯父を王に推す理由などあるものか。
「理由?あるじゃありませんか。あなたさまですよ。将軍は、我が子に王家の血が流れていることをお忘れにならなかったのです。伯父上が王になれば、あなたをその太子にすることができる……あなたを王位につけるのも夢ではない……」
 理由は俺か、俺なのか。本当に、そんなことなのか。俺の中に流れる血が、父を、国を、陥れたのか。
「目を逸らしても、何も変わりはせぬのに、お逃げになるのですか」
 光も見えぬ中、闇雲に、ただ声から逃れるためだけに走った。何度も足を取られ転がりながら、がむしゃらに走った。
「お棄てになるのですか。何もかもお棄てになるのですか」
 たとえそうであっても、ここから逃げることを卑怯者のように言われる筋合いはない。それに、こんなことで何を棄てるというのか。問われるのも不本意だが、今はとにかく気味が悪い。これ以上、娘を食むわけにはいかない。そんなことは考えられない。
「どうしていけないのです。先ほどはお食べになったではありませんか」
 愕然とする。そうだ、一度、娘の肉を口にしたのだった。空腹に耐えきれず、口にした肉は甘く温かかった……美味いと俺は感じたのだ。
「もう、犯したのですよ。何を怖がるのです」
 果たして、自分は何か罪を犯したのか。それは本当に自分の罪なのか。
「逃げ続ければよい。あのできそこないの魚があなたの幼い妹を喰らうでしょう。あなたが逃げたからです。全てあなたの行いの結果。自分を呪い続ければいい」
 逃げないという道はあるのだろうか。戻って、娘を爪と牙で引き裂けばよいのか。それが正しいことなのか。何が正しいことで、何が正しくないことなのか。そして、自分は、何をしなくてはいけなかったのか。分からない。何も分からない。だから、俺は逃げているのか。

 空が白むまで走ると、漸く声は消えた。周囲を見渡すとそこは荒野で、ようやく見つけた灌木の根元に蹲った。疲れ果てて、うとうと眠っていると、誰かが頭をなでる。目を開けると、黒い強い瞳を持つ異国の少年がこちらを覗き込んでいた。
「行きたいところがあるんだ。その白い背に乗せてくれないか」
「自分で勝手に行きたいところに行けばいい」
 疲れていた。眠りたかった。少年の手の動きを感じながら、目を閉じて首を横に振る。
「私の足はさっきあなたが潰してしまったじゃないか、父よ」
はっとして目を開けると、足の萎えた少年はにこにこと笑っていた。
 これが律と言うものなのかもしれない。獅子は少年を背に跨らせ、その指差す方向に向かって歩きはじめた。

6.

 体の痛みの所為か、火群は異教の神殿で得体のしれぬ悪夢ばかり見ていた。何が追って来るのかわからないまま、見知らぬ荒涼とした平野を裸足で逃げ回わった。自分はずっと逃げ続けているのかもしれないと、火群は思った。
 過去は棄てた。恥ずべき行いがあったわけではない、母と妹を守るためには仕方なかった。それでも今の自分を認められない。邦王を守る護衛術で大将を護って、少しは恰好をつけたつもりだったのだろうか。

 考えない方が良い。棄てた。もう棄てたのだ。

 悪夢と現の境界は曖昧で、凝視すればするほど身動きが取れなくなるような気がした。

 傷が癒え、痛みから解放されると、火群は猛烈な無聊に倦んだ。「異人」の身故、勝手も許されず、神殿内の限られた場所で過ごさねばならなかった。何か務めがあるわけでもなく、慰みも楽しみもない。
 初めに顔を見せた老人はケマルという名の下級神官で、この神殿唯一の医者でもあった。華国の負傷兵を預かっていると云ったが、皆が送られてくる訳でもないようで、少なくとも火群が他の兵と顔を合わせることはなかった。火群は、殊更丁重に遇されたのだ。
 遊砂族は砂漠の交易を掌る。華国に服属するとはいえ、遊砂王族の統治下にあった。王宮や神殿がある都は、枯れることのない水源を抱えた交通の要衝。水の不便を感じることもなければ、物資も豊富に見える。兵が傷ついた体を休めるには恵まれ過ぎた場所だった。
 その上、火群の身の回りのことは神殿の下働きの女たちが面倒を見てくれた。交易を生業とする遊砂の人々は華国語を能く話したし、火群も片言なら東夷の詞を解したので、不便はなかった。女たちは異境の美しい男を珍しがって、何かと構ってくる。色々詮索されるのを煩わしくも思いつつ、女たちのお喋りに付き合うのが、火群の退屈凌ぎとなった。
 然し、若い男であるにも関わらず、火群は女に全く興味がなかった。邦で軟禁されていた八年間、父と敵対して華国側についた土の将軍寧安の監視下に置かれたが、その際、世話係として、将軍の妾腹の娘、美峰があてがわれた。将軍は自分の娘に高貴な血を引く子を産ませようとしたのだった。少々年上だったにしろ、美峰は決して醜い女ではなかった。だが寧安将軍にそっくりであり、火群にとって魅力的な容貌とは言いかねた。その上、美峰は目的を果たさねば父に見捨てられると思い込んでおり、形振り構わず必死だった。そんな娘に毎夜強引に迫られた結果、火群が女嫌いになったのも無理のないことだった。必要なのは子種だけか、否、自分が必要とされるのは種馬としてだけなのか。嫌悪感だけが大きく育った。
 しかし、この神殿で火群に構ってくる女たちは、単に物珍しいだけであった。神の違う異人など、色恋の対象にもならないのだ。火群も、どうせ療養中の間だけの事と、気楽に女たちのお喋りに付き合う気になった。気の紛れるような面白おかしい話を女たちが勝手に喋ってくれればいい。 それでも女たちは何かと詮索してくる。身の上話をしたくなかった火群は、それに代わる話題を提供することを思いついた。
 異境の兵は、傷の平癒を祈ってくれた美しい巫女に恋するのだ。手の届かない高貴な異人への恋。なんと情緒的で甘美で……非現実的なことだろう。
 他愛のないことだ。恋の話をすれば、女たちは最早それ以外のことを詮索しない。作り話であろうと実害はないはず故、気も咎めない。半ば監視されて過ごしている異人が巫女に懸想しようとも、それ以上どうなるといったこともなく、且つ、それは周知の事であった。それでも女たちは恋の話を好んだし、かれこれと逞しく当て推量をして勝手な助言をするのも好きだった。そして、火群が聞きもしない話まで色々と教えてくれたのだ。
 イェリズさまとおっしゃるのですよ。神殿の巫女さまたちは、皆、名家の御出身で……異人の兵の祈祷など引き受けないものなのです、気位がお高くて。そういう務めを一手に担うのが、イェリズさま。女たちは声をひそめる。いえね、こんなことを云ってはいけないんですけどねぇ、あの方の母上は……先王の妹君で、一の巫女でいらっしゃったのに、父親の知れないお子をお産みになったのですよ。ええ、ええ、勿論、あってはならぬことです。ですから、イェリズさまは先王の姪御さまなのですが……不吉だとか、汚らわしいとか、神官さまたちから毛嫌いされておられるのです。

 火群は巫女の顔を思い出した。そんな境遇の女は何を思うのか、我が身のそれと似ているのだろうか。そう思ってから、火群は、比べても詮無いものを比べる己を笑った。それらは全く別に在って、重なり合うことのないものだ。

 作り言の恋は女たちの間で広まり、色々と憶測を纏って大きくなっていった。大きくなって、ある日突如、起こり得ぬはずの実害が形を現す。

 朝、火群が食堂でケマル老人と食事をとっていると、物々しく数名の警備兵が室内に入って来た。兵の一人に何かを耳打ちされた老人は駭然とし、息を調えてから、話を切り出した。
「火群殿。何かの間違いかとは存じますが、神殿の宝物庫から盗まれた宝石が、あなた様の寝台の下で見つかったそうでございます」
 火群には身に覚えはなかったが、こういう時は神妙にするしかないことは分かっていた。兵士に促されるまま神妙に神殿の広間へ向かう。
 広間に入ると、その正面には重々しい彫刻が施された大きな龕があった。十人ばかりの神官たちが左右に対面して着席し、数名の巫女や神官の侍者と思われる身形のものが立ったまま隅に集まって居る。手荒に扱われることもなくその場に引き出されたものの、険悪で威圧するような目が一斉に異人に向けられた。
 上座を占める鶏の如き容貌の老神官が立ち上がると、手にした杖で石の床を打った。
「イェリズは既に白状しておる。盗むように頼まれたか?」
 神官は、強い訛りのある横柄な華国語を用いた。
「……有り得ん」
 理不尽さに、火群の口から不用意な唸り声がこぼれる。父の件があってから敬語を使うことを嫌うようになった火群は、口数自体も少なかったが、たまに口を開くと独り言のような不遜な物言いになってしまう。
「何だと?」
 神官は、きりきりとこめかみの血管を膨らませ、怒りを露わにする。
「巫女様とお会いしたのは祈祷の時、一度だけのこと。それは皆が知っているはず」
 火群は神官の気を静めるべく、今度は能うるかぎり丁重に、且つ簡略に応える。
「神殿内、許された場所以外には立ち入っておらぬ」
「貴殿とイェリズは恋仲だと聞いたが」
 火群は漸く自分の戯言の所為だと気付く。このような面倒を引き起そうとは思いもしなかった。イェリズにすれば青天の霹靂。自分の軽挙を悔んだ。
「こちらの懸想に過ぎぬ。巫女様には関わり合いのないこと」
 対座している神官たちは互いの顔を見遣って頷きあい、入り口に近い一人が手を挙げた。扉が開き、両側を兵に挟まれるようにして巫女が入ってくる。頭と顔を布で覆っていても、それがイェリズであることは容易に察しがつく。
「イェリズ、火群は全て話したぞ」
 神官は東夷の詞で決めつけるように云い、巫女は、厭味なほど流暢な華国語で応えた。
「そうでございましょう。この御仁に隠さなくてはならぬことなぞ、お有りにならぬでしょうから」
 若い女らしからぬ強い物云いに一同が騒めく。
「顔を晒してものを云うがいい」
 更に周りが騒めいた。遊砂族の高貴な女は人に顔を見せない。顔を晒せというのは大勢の前での辱めである。それは犯人も定かでないまま、皆の苛立ちを収めるための生贄の如き仕打ちであった。
 イェリズはゆっくりと、しかし、躊躇することなく、頭と顔を覆っている布を外した。無表情のまま、今度は東夷語で云う。
「この方にも私にも、後ろめたいことなど何もございませぬ。私は夢を見ました。神の夢です。変事があれば神宝の所在を検めよと神は申されました。この度のことは神の御示しになられたものであって、人の技ではありません」
 信心のない火群には、巫女が云うことは突拍子もなく思えた。しかし、それは神官たちも同様であった。
「神が御神宝を検めさせるために宝物を隠したと?」
「はい」
「恥知らずにも程がある。自分の盗みを神の所為にするのか」
「私は盗んでおりませぬし、斯くの如く宝石は戻ってきております。御神宝をお検め下さい」
 人を説得できる申し開きではない。しかし、巫女は至って冷静だ。
「何の為に御神宝を検めるのだ?」
「……私の知るところではございませぬ」
 神官は態々露骨に呆れ顔を装い、頭を横に振った。
「二人を閉じ込めておけ。長老衆にお集り頂き御神宝を検分する。皆を退出させよ」
 広間から連れ出された火群は、巫女とともに一室に閉じ籠められた。


7.

 そこは神殿内の普通の一室で、監視の兵は外にいたが、牢獄といった場所ではなかった。イェリズは一応王族であったし、火群も華国から預かった兵であることが配慮されたのだ。
 とはいえ男と一室に籠居させられたこと自体、巫女には懲罰である。顔を覆う布も取り上げられたままだ。神官たちの仕打ちは、事の真偽を求めるよりも、寧ろ巫女を虐げるための行いに火群には思えた。生まれ故に侮られているだけでなく、イェリズ本人の声や姿が神官たちの嗜虐の情を助長しているのではないかとも思った。狭い部屋の片隅で壁に寄りかかるように床に腰を下ろしている巫女は、間違いなく美しいのだが、頑ななまでに毅然としている。火群には、このような年若い女人を蹂躙し屈服させたいと欲する歪んだ気持もわからなくもない気がした。そう思うことを後ろめたく感じながら、できるだけ離れた場所に腰を下ろす。
「申し訳ないことを致した。軽はずみに噂など……」
 片言の東夷語で火群が謝ると、巫女はじっと凝視してから、邪気ない笑みを見せた。
「退屈凌ぎで雑談に興じようにも、あなたには人に話せることがない。話を作るしかない……」
 火群は出鼻を挫かれたような気分になった。表情に反して、巫女の口から出たのは聞かされて気分のいい話ではない。全てを見通したかのような物云いは、小馬鹿にされているようでもあり、強ち的外れでも無いだけに気持ち悪くもある。言うだけ言うと、巫女は悄然と下を向いた。
「ごめんなさい。でも、これでおあいこ。噂など些細なこと。気にはしていない。ただ……」
「ただ?」
「容易ならぬ事態なのです。でも、あなたには何ら関係ないこと。大丈夫。知らぬことは知らぬとおっしゃって、早く元の軍へお戻りなればよいのです」

 最初は申し訳ない、気の毒にと思った火群だったが、年若い巫女は頑なで、ありとあらゆる人の情を拒んでいるように見えた。協力し合うような接点がない。
 厄介なことになった。一体どうなるのか。濡れ衣だと身の証を立てねば罰されるであろうが、火群には何ら手立てが思いつかない。
 
 昼近くになって、二人は再び広間に引き出された。正面の龕がだらしなく口を開けている。神官たちは益々険悪な顔で睨んでいた。先ほどの巫女や侍者たちの姿は見えず、年配の神官ばかりが参集している。イェリズは臆することなく顔を上げて、真っ直ぐ前を向いていた。
「宝石だけでは飽き足らず、畏れ多くも御神宝に手を着けたのか、イェリズ!」
頭から叩きつける神官の怒声を、女の声が切り裂いた。
「笑止。一介の巫女がいかにして龕を開けようぞ。これは神の意思である。御神宝はガラバ石窟の岩寺にある。日を空けずに兵を以て迎えに参れ」
 先程とはうって変わって、神憑りしたような物云いだった。否、芝居掛かっているというべきか。
御神宝は、宝石とは比べ物にならぬほど重大なものなのだ。その御神宝も盗まれ、所在を知っているということになれば、罪を認めたようなものだ。イェリズの態度は神官たちの怒りを益々煽った。
「己が如き巫女に、託宣の真似事など許さぬぞ」
 怒声が幾重にも覆い被さる。
「王族の面汚し」「汚らわしい身で」
 神に仕える者の口からは出たとは思えない詞が、礫のように投げつけられる。異人である火群には理解し兼ねる俗語もあった。しかし、若い巫女は気丈に顔を上げ、表情を変えることもない。
「ガラバ石窟へ兵を。さすれば全て明らかになること。他に御神宝を探す当てもありますまい。御神宝を龕に安置してから、私のことは如何様にでも為されるが宜しいかと」
「ああ、そのように致そう。もはや、王族としては遇さぬぞ。身包み剥いで地の果てへ追い放ってやろうぞ。それまで華国の客人と懇ろに名残を惜しんで過ごすのだな」
 神官は吐き捨てて、手で追い払うような仕草をした。兵士たちが火群とイェリズそれぞれの両脇を抱えた。
「神官様」
 火群は、無駄を承知で訴え出た。巫女がどうであれ、己の過ちは負わねばならない。生来の真面目さが久方ぶりに顔を出す。先程の不用意な発言のこともある。東夷の詞を能うるかぎり丁寧に繋ぎあわせる。
「懸想致したのは、当方の勝手。巫女様に越度なく、その身を責められる所以もござらぬ」
 神官たちは無言の儘であった。ケマル老人だけが小さく何度も肯いている。
 運命など人智の及ばぬところで定まるものなのだ。故に猶のこと、手を尽くさなければここに在ることの事理すら失ってしまう。恐らく今の我が身はその為だけに息をしている。今更、そう気負う自分を火群は苦々しく思った。

 二人は再び同じ部屋に戻されたが、相変わらず巫女は彼方を向いて押し黙ったまま座っている。火群は苛立ちを抑えながら尋ねた。
「巫女様は何か御存じの上で、隠しておられるのか」
 火群の方を向いたイェリズの顔からは、今迄の人を寄せ付けない頑なさが失せていた。
「何かをお知りになりたいのですか」
「知っていれば手の尽くしようもあろう」
 巫女は目線を泳がせてから、ふっと嘆息した。
「知っていてもどうにもならぬことの方が多いとは思いませんか」
「知らないよりましではないか」
「……そうでしょうか」
 巫女は若い女らしからぬ深い諦めをその身に纏っている。それは火群とよく似ていた。
「御神宝というのは?」
「御神宝は、の御神体である玉石の刀。遊砂族の正統な王の聖なる力の源です。王はこれを都の神殿に祀り、民を治めるのです。元々交易と遊牧とを生業にする遊砂族は、血縁で結ばれたもののみで集り住まい、各地に点在して、夫々で暮らしております。唯一、皆が心を一つにするのは太源神への信仰のみ。王権が神への信仰と分かちがたく結びついている以上、御神体を失うことは王の資格を失うことと同じなのです」
 巫女は異国の詞を操っているとは思えないほど、理路整然としている。
「私もあなたと同様、傍より見ているだけの身です。何も変えられぬのに、知っているから辛い。……知る必要などありません」
「何を知っていると?」
「私には未来が見えるのです」
イェリズは軽い口調で云い、半ば呆れて返す詞もない火群を興味深げに眺めている。
「まさか、信じたのですか?」
 勿論、信じるはずもない。火群は、占いや神託など信じたことはなかった。
「望んだことが見えるわけではありませぬ。されど、見えたことは外れないのです。そして……未だそれを信じてくれる方にお会いしたこともございません」
 戯れなのか、妄言なのか、将又、何等かの真実がそこにあるのか。巫女が聡明なだけに、火群には量りかねた。
「俺の未来はご覧になられたか?」
「いいえ」
「ならば、巫女様、あなた御自身のは?」
「勿論」
「それは、狡い」
 火群は珍しく気安げな言葉を口にし、イェリズも笑顔を見せた。
 その顔を見ながら、戯言であれば良いと火群は思った。自分の恋の話は軽挙であったにせよ、戯言で気が紛れたのも事実。何はともあれ、今、この巫女と運命を共にしているのだ。一人だけ取り残されるのは適わない。重ね合わせても致し方ないものを重ね合わせている。火群は己の弱気を自覚せざるを得なかった。

  8.

 一室に閉じ込められることになったイェリズだったが、もともと生まれてから神殿の外に出たことがない。閉じ籠ることには慣れていた。
 神官たちは外出することもあったが、巫女達はほとんど外に出ることを認められない。それでも神殿に仕えて数年もすれば、親元に引き取られ、普通に嫁していくのが常であった。引き取られるあてのないイェリズのような巫女もいないわけではなかったが、そんな女たちは皆、頑なに自室に引き籠り、やがて生きていることすら人々から忘れ去られていくのだった。イェリズも同様の運命を辿るはずであった。
 イェリズの小宇宙は、石造りの神殿という閉じた場所から体内の虚に繋がっていた。イェリズはそんな閉じた世界を支配する神でもあった。

 顔を布で覆うようになった頃、イェリズは小さな鳥を籠で飼うことにした。親と逸れた雛鳥を下仕えの女から貰い受けたのだった。胴体の羽衣が灰褐色で、顔の色は淡く、嘴は薄く朱を差したようだった。愛らしく懐き、餌をやれば手の上に乗るようになった。
「可愛い我が弟よ。一緒にお喋りできたら、どんなに楽しいでしょう」
 世話をしているうちに、小鳥はまるで言葉を解するような仕草をするようになった。イェリズは喜び、せっせと小鳥に話しかけ、ある日、とうとう小鳥は普通の子どものように片言で喋り始めたのだ。
「姉上サマ、オ話シテ」「オナカガ、スイタ」
 イェリズは初めてできた話し相手を愛しんだ。小鳥は成長して賢くなり、イェリズの部屋に飽きて外へ出たがるようになった。
「オ外ガ、見タイ」「イロンナコトヲ、知リタイ」
 自分が勤めで小鳥に構ってやれない時は、人の集まる食堂や広間に鳥籠を置いておくようになった。言葉を喋る珍しい小鳥は、人の興味をひき、神官や巫女、下仕えの者たち……皆が、かわるがわる話しかけた。
 そうしているうちに、イェリズは小鳥の背にこぶのようなものができていることに気付いた。指で触ってみると、どうやら背骨が丸く曲がっているようだった。
「イタイ、イタイ」
 イェリズは心を込めて小鳥を看病した。鳥は曲がった背中のまま、急に醜く大きくなった。籠にも入らなくなって、イェリズの寝台を独占し、だらりと横たわっている。
「姉上サマノ祈祷デハ、ナオラナイ。他ノヒトニ、飼ワレタイ」
 鳥は顔を歪めて、そう訴えた。
「私と一緒にいるのはお嫌なの?お医者様にも見てもらっているのに、どうして他の人に飼われたいの」
「コレハミンナ、姉上サマノ所為。姉上サマノ虚ノ所為」
 イェリズがなだめようとして伸ばした手を、醜い大鳥は太い嘴で噛んだ。皮がねじ切れるような鈍い痛み。イェリズは泣きたくなった。ぽたぽたと赤い血が落ちて、寝台に敷いた布を染めていく。
「キライ。キモチワルイ、虚。キモチワルイ、イェリズ」
 鳥はイェリズを押し退けて、寝台から床に降り立った。
「ここを出てはなりませぬ」
「キライ、イェリズ。キライ、死ンジャエ」
 制止を振り切って、鳥はよろよろと窓に向かい、そこから外へ羽ばたいた。
「ああ、ならぬ……」
 追いかけようとしたその眼前を、轟音と共に銀の稲妻が走る。イェリズは咄嗟に顔を両手で覆って蹲った。胸を押さえながら恐る恐る窓の外をのぞくと、雷に頭を撃たれた弟は、焼け焦げて庭の石畳の上に落ちていた。

9.

 イェリズの抱えているものと己がそれとが似ているのではないかという火群の思いは、その是非を問うような性質ではなかった。寧ろ是非が明らかになることを怖れた。巫女と親しくなることも望まぬ一方で、火群はその一挙一動に気を取られ、勝手な解釈を加えた。
 籠居は長引いたが食事は三度三度きちんと運ばれ、扱いは決して悪くはなかった。ケマル老人だけは、毎日のように顔を出し、気遣ってくれる。火群は若い女人が男と一緒なのは気の毒だと訴えたが、老人にもどうともし難いようで、小奇麗な衝立を持ち込むことのみが許された。
 老人の話では、御神宝はイェリズの云ったとおりの場所で発見され、無事に神殿に戻されたとのことだった。しかし、それによりガラバに於いて現王に対する謀反が企てられていたことが発覚した。兵火の前に事は露顕したのだが、その首謀者は分からぬままであるという。当然、誰が御神宝をガラバへ移したのかが問題となった。御神宝の安置された龕は、王位継承権を持つ者上位十名が保管する鍵のうち少なくとも三つを揃えないと開けられない。乃ち、少なくとも王位継承権を持つ三名が御神宝を移すことに加担していたということになる。移した先に兵を集めていたとなれば、明らかに王位簒奪の企てである。
 最早、神殿の宝石泥棒など瑣末なことだった。異国の下級兵士と後ろ盾もない巫女のことなど、気に止めるものはいなかった。「王族の皆様が疑心暗鬼になっておられるようで……」とケマル老人が零すとイェリズはその枯れ枝のような手を取る。この巫女でも人を気遣うことがあるのだと、火群は意外に思った。
「元々そうでございますよ。皆々様が夫々に思惑の異なる後ろ盾をお持ちなのですから、致し方あるますまい。されど、今は都を混乱させぬことが肝要です。王と王都の警固を怠らぬように……内も外も……」
 そこで巫女は口籠った。
「私が申し上げることではございませんね」
「いえいえ。ただ、私が承っても詮無いことでございますが」
 巫女もケマル老人には柔和な表情を向ける。
「あなた様が御神宝を動かしようもないことは、皆が存じております。早晩、ここから出られましょう。案ぜずにお過ごしなさいませ」
 ケマル老人は火群に視線を向けると、軽く会釈をして部屋の外へ出て行った。老人が去ったのを確認してから、火群は改めてイェリズに尋ねた。
「警固を怠るなとは……まだ、何か起こると思われるのか」
 巫女は再び無表情を装っている。
「……王族の内紛で都の治安が乱れれば、華国が介入する口実になりましょう。……さすれば、あなたは容易に軍に戻れて、却って良いかもしれません」
 慥かに華国は遊砂族王家の弱体化を謀るであろうし、隙があれば介入してくるだろう。火群も目の当たりにしたことだ。邦が華国に服することになったのも内紛に乗じてのこと。父は斬に処され、対立していた一派も力を削がれ……国は潰えた。そして、そのきっかけは……火群はそこで思考を停止する。
「何故、あなた様は御神宝のことを話されたのか。盗人より謀反者と疑われる方が厄介であることは気づいておられただろうに」
「……兵を起こす前に止めたかった。巻き添えにしたことは申し訳なく思っております。されど、あなたはいずれ華国軍に無事に帰る。それに……」
 イェリズの無表情が崩れた。嘆き、哀しみ、痛み。それは刹那に過った。
「今ならまだ止められるかもしれない。見えてしまったことも変えられるかもしれない……」
 いつになく思い詰めた面持ちだったが、神懸りの詞に火群は返しようもない。薄い慰めを口にする。
「受け入れたくないこと、不吉なことならば、信じなければ良い」
 巫女は目を閉じ、首を横に振った。
 
 その後も容易には部屋から出られなかった。調べがあるわけでもなく世の中から忘れ去られているかのようだった。実際、誰も二人のことなど気に掛けていなかったのだろう。辛うじて世話係のケマル老人が職務に勤勉であったが故に、三度の食事に事欠くようなことはなかった。一緒に過ごす日々を重ねていっても、この若い男女はともに打ち解けようとはしなかった。

 ひと月程過ぎた或る朝、ケマル老人が青ざめた顔で現れた。
「大変なことに相成りました。王が退位なさいます」
 老人の話は行ったり来たりと要領を得ず、イェリズが順に話を引き出す。
 王は誰かに毒を盛られ、一命は取り留めたものの退位が決まったという。私兵が小競り合いを繰り返して混乱し、イェリズが案じた通り、東夷攻めのために周囲に配されていた華国の兵が治安維持を掲げて都に雪崩れ込んできたのだ。
「火群殿をこちらにお預けになった大将様も、今はこの都におられます。明日、華国軍の仮営所へ出頭するようにとの御命令でございます。今、こちら側の手配をしております」
 宝石泥棒の件は有耶無耶なまま、火群は遊砂都に進駐してきた華国軍に戻ることになった。
「謀反の首謀者や王に害を為した者のことは判明したのでございましょうか」
 イェリズが顔を引き攣らせながら低い声で尋ねると、老人も云い難そうに声を潜める。
「……エクレム様が昨夜拘束され、尋問を受けておられます」
「……!!」
 イェリズは息を呑んで膝をついた。
 ケマル老人は長話をした割に、支度があるからと慌ただしく去って行った。打ちのめされたようにイェリズは部屋の隅で背を向けて座り込んでいる。
「犯人を知っておられたか」
 華奢な肩が震える。珍しく動揺を隠せない様子の巫女に、火群は残酷に追い打ちをかける。この巫女には人にそういう感情を起こさせる何かがあった。
「捕えられたのは親しい方か。謀反の企ても聞き及んでおられたか」
「いいえ、いいえ……」
「……まさか、庇うために、俺を巻き込んだか」
「違います!」
 巫女は振り返ると、不躾な異国の兵を睨め付ける。
「あなたは、明日、無事にお戻りになるのです。詮索は無用です。エクレム様は未だ十五歳。最年少の神官でございます。あの方の罪……あの方の罪など……一体何がありましょう」
 激しく訴えていた詞は、途中から消え入りそうな嘆きに変わった。
「……止められない。私には何も止められない」
 再び背をむけた。巫女は泣いているようであった。
 傍らで人が悲しみに暮れているのだから、子細を知らずとも、神懸りに付き合えなくても、憐れんでやるべきなのだろう。だが、火群はそんな気にはなれなかった。漠と同じ荷を負っていると思っていた女は、自分の関わり知らぬものを守ろうとしていただけだった。火群は酷く落胆した。それは勝手な感情だった。
ここを出る寸前まで、そうと気が付かなかったのは幸いなことだったのかもしれない。
 火群は自分を納得させた。

10.

 翌日、華国軍の仮営所に出頭すると、火群は再び例の大将の下に配された。大将にすれば、火群は験が良い男なのだ。従官代わりに身近に仕えるよう命じられ、馴れ馴れしく話し掛けられた。火群にとって、こういう相手と会話をすることは甚だ苦痛ではあったが、御蔭で我が身に起こったことの子細を窺い知れたのであった。
 事の発端となった宝石泥棒の犯人は神殿の下働きの少年で、数度にわたって盗みを働いていたらしい。周囲も薄々気付いていたが、発覚を恐れた少年は異人に罪を負わることを思い付いたようだ。神官たちは神官たちで、それを口実にイェリズを辱めようとしたに過ぎない。イェリズが騒いだために、全くの別件である謀反が露顕したのであった。十五歳のエクレムという神官本人に野心があったかどうかはともかく、その母方は有力な一族であり、水面下では王族を二分するような事態となっていた。火群は、大将の口振りから、華国は密かに少年神官を擁立する側と通じていたのではなかろうかと思った。全て華国の策謀とまでは云えないにせよ、虎視眈々とこの機は伺われていたのだ。
 何にせよ、全ては何ら火群とは関係のないことであった。
 間もなく謀反の張本として少年神官が斬に処された。イェリズの云うように、十五歳の少年の罪の有無など問題ではあるまい。華国の後押しで先王の末子が即位した。僅か三歳の幼児だという。
 即位に合わせ代替わりの挨拶として、幼王の代わりに御神宝が華国の都へ上ることとなった。それはさながら、神の人質とも云うべきものであった。
 恐らく全ては周到に準備されていたことであり、火群やイェリズがどう振舞おうとも何ら関係なかっただろう。
 クォシャン大将は御神宝の警固役として華国へ戻る命を受け、火群もそれに従うことになった。奇縁と云うべきか、イェリズも御神宝に奉仕役として同行することとなったのだ。
「然るべき巫女を質に取りたかったのだが、あやつらも、死なれても困らぬ者を出して来おった。王の血筋のものだと云われれば、こちらもそれ以上は云えぬ。まあ、御神宝を持ち出せるのだからよしとせねばなるまい」
 聞きもしないことを大将は自慢げに話し掛けてきた。夕食の給仕の手を動かしながら火群は聞き流す。側に仕える以上は受け答えをしないわけにはいかなかったが、出来るだけ喋りたくなかった。
「貴様に縁のある女人のようだな。異郷の美しい姫となれば、見過ごす手もない。道中、巫女の世話は貴様がしてやると良い。なに、生きて故郷に帰ることもない女だ。遠慮はいらん」
 下卑た戯言だ。火群は、心遣いとも取りかね、調子を合せて軽口を叩く気にもなれなかった。神官たちがイェリズを異人の男と一部屋で寝起きさせたのは彼女の身体を汚すためであり、当然そういう関係になっているだろうと邪推されていた。何しろこの兵は巫女に恋焦がれていたのだから……口は災いの元だと、火群は改めて後悔する。

「縁があったことは確かでございますが、相手は高貴な巫女様故、お気遣い頂くようなことではございませぬ」
 大将は「ふむ」と軽く息を咀嚼した。不愉快ではあっても、むきになって弁明することでは無い。火群は態度に出さないようにさりげなさを装う。
 遊砂の都を立つ前日、火群は神殿のケマル老人のもとへ挨拶に赴き、手当や世話の礼を述べた。神殿の外向きの階段に腰を下ろして暫し話をする。陽の下に座ると、老人は干からびて一回り小さくなったように火群には見えた。
「御神宝を神殿に安置することなく、幼い王の統治が成り立っていくとは到底思えません。私が口を挿むようなことではないのですが……残念です」
「御気持ちは察する」
「遊砂の者が蒔いた種です。仕方ありますまい。……ああ、そう云えば、イェリズ様が御神宝に随行されます。御聞き及びでしょうか」
 ああ、と頷いて思いおこし、老人に問う。
「先だって刑に処されたエクレムという方と巫女様は親しい間柄だったのか」
「イェリズ様が親しくされていた方などはおられませんよ。あの方の所為ではございませぬが、父親知れずということもあって周りがあの方を忌嫌っておりました。エクレム様とは同じ神殿で住まいしていても顔を合わすこともなかったのでは」
 そう云ってから、老人はうーんと唸り、「もしや」と詞を繋げる。
「エクレム様は確か、御年五つで神殿に入られたはず。王族が幼くして神殿に入ると王族出身の若い巫女が世話役を致します。十歳になるまで、遊び相手・話し相手を務めるのです。エクレム様の時も、何人かの巫女が交代でお世話を致したはずですが……イェリズ様も世話役をされたかも知れません。しかし、それも随分前のことで、その後、付き合いがあったなどという話は聞き及びません。何れにせよ、イェリズ様には親しい方はおられませんよ。あの様な方でございますれば、何方かと親しくなればその方に迷惑が掛かると思っておられたのでは」
 ケマル老人はイェリズに同情的であった。
「父君のことはあの方の所為ではございませんが、あの方も誰かの庇護を得ようとすることのない方で……可愛げがないというか……御神宝の一件でも、神官の皆さま方を敵にまわしてしまいましたし……まあ、御覚悟はしておられるのでしょう」
 老人は眩しそうに天穹を仰いだ。砂の混じった乾いた風が吹き、空は少し赤みを帯びている。
「道中、砂漠で独りになることのないよう、お気を付けなさいませ。砂嵐の時は動かぬように。地元の者でも砂漠で迷えば助かりません」
 二人はその後取り留めのない話をして別れた。火群は、随分長い間自分を見送っているケマル老人から痛みを感じていた。老人は途方に暮れているのだ。一つの時代が終わる。その意味を考えるには、遑が無さ過ぎるし、彼の人は親切過ぎる。もう会うこともない異人と別れることすらが、不安を掻き立てるのだ。
 似た空気を嗅いだこともあったと、火群は思う。唯、それは全て流れて過ぎていった。痛みはあるが、欠け落ちて失われたものが何なのかは知る術もない。
 火群は空を見上げた。太陽が黄色い。
 御神宝を奪われる太源神は怒るだろう。しかし、いつしか忘れられ、緩やかに死へと至るのだ。
 鼻先に甘い香が触れたように思った。周囲を見渡したが、香を焚きしめたような女の姿はなかった。

11.

 遊砂の都を出発した華国軍の兵は百余名。道案内の商人の他、遊砂の人間はイェリズのみだった。砂漠の中の集落を繋ぐようにして二十日程進めば、遭難の恐れのある地域は抜けられる。砂馬と呼ばれる背の低い馬を足に用いた。
 隊の半ばよりやや後ろに御神宝を納めた箱を置いた馬があり、その後ろがイェリズ。イェリズの世話を命じられた火群は、その馬の側について進む。巫女は乗り慣れない馬に危なっかしく身を預けているが、深々と布を被っているので表情は見えない。相変わらず交わす詞もなく、馬の鼻息と砂を踏む音が振動に合わせて聞こえてくるだけだった。
「……ください」
「は?」
 呟いた声は覆い被さった布地に吸い取られてよくは聞きとれない。火群が問い返そうとすると、止まれという一声が響いた。
「砂嵐だ」
口々に皆が叫んでいる。
「集まって、離れるな!!」
隊の前へ全体が縮むようにして集まり、皆、下馬して姿勢を低くする。火群もイェリズの側に屈んだ。砂嵐は直ぐにやってきた。商人たちの声がする。
「直ぐに通り過ぎる。砂を吸い込むな!!」
 目を閉じ、鼻と口を布で覆って下を向いた火群の頭の上で、風の唸る音が渦を巻いている。これが砂嵐か。目も開けられず、手探りでイェリズの肩を掴んだ。
「御無事か?」
「ここに居ります。目は閉じていて下さい」
 風で声が切れ切れになっていた。イェリズは火群の上着の胸元の布を掴んで引っ張っている。
 間もなく空気が無くなったように風の動きが止まり、音が消えた。火群は目を開けて様子を見る。イェリズの肩を不自然な姿勢で掴み続けていた右手が痺れている。イェリズも上着を掴んでいた手を離し、パタパタと火群の体の砂を払った。
「目や喉は痛みませんか」
 神殿の外に出ることのない巫女でも砂の民らしく慣れたように振舞うものなのかと、火群は少し笑った。
「あなた様こそ、大丈夫か」
 イェリズは少し不機嫌そうに目を細め、「……常ならば砂嵐は起らぬ時季なのです。だからこそ旅慣れた商人にも風が読めない……仕方がありません」と、独り言つ。
「引き返せるものなら……」
「帰りたかろうが、逃げれば遭難する」
 脅すような云い方はしたくはないが、大人しく従ってくるならば華都までは守ってやれる、と火群は思った。しかし、イェリズは守られる必要などないのかもしれない。
「逃げはしません。参りましょう」
 火群は馬に乗って姿勢を正すイェリズを見ながら、ほんの少し前に上着を掴んでいた手の重みを感じていた。

 誰かを守りたかったか。誰かに頼られたかったか。俺は母も妹も守らなかった。母や妹は俺を頼っただろうか。

 考えまいとしてきた。考え始めたら身動きが取れなくなりそうで、考えたくなかった。

 所詮、何も成し得なかった。そして、何も取り戻しようの無いことだ。

 隊は再び動き出す。終わりの見えぬ砂の果てへ。ざわめきすら砂粒に変わる。火群にはそう思えた。

 季節外れの砂嵐が幾度も繰り返し、行程は大幅に遅れた。遭難者は出ていなかったが、一晩目は集落のある場所まで辿り着けず、取敢えず途上の水場に野営することとなった。其処は大きな岩の裂け目で、各自が平坦な場所を求め、塒を定めた。
 男ばかりの中での雑魚寝故、火群は巫女に自分から離れぬよう重々念を押す。しかし当人は心に留める様子もない。火群は目を閉じてみたものの、闇の中の人の気配に何度も目が覚める。その都度、闇に眼を凝らして巫女の安否を確認した。
「そんなに気になさっていては眠れないでしょう。そちらへ参ります」
 確かに体を寄せていれば、一々気にしなくてもすむ。
「しかし……」
 相手は年若い巫女。ましてや周囲からは邪推されている間柄。火群は躊躇したが、黒い影は滑るように動く。巫女は行儀よく横に座ると幼子のような仕草で膝を抱えた。ぎこちなく並んだまま洞の岩壁に寄り掛かり、各々が顔前の黒い中空を見ていた。
「眠らなければ、明日の旅に差支えます」
 巫女は手で隣の男の袖の布を掴んだ。勝手に離れていくことはないから安心して眠るようにという意思表示であり、そういう配慮を示されたことに男は気を良くした。
「お聞きしてもよいか」
 返事はなかった。
「何故、御神宝のことを口にされたのか。黙していたならば事は露顕せず、少年神官も命を落とさずに済んだかもしれない」
「……そうかもしれません……でも…都での戦は避けたかった……何よりも、私はあの方が逃げて下さることを望んでおりました。時期尚早と一旦引いてくれるのではないかと」
「最初から成らぬ謀反と思われていたのか」
「……私がエクレム様から話を聞いていたと思っていらっしゃるのでしょう。違います。私はあの方から秘密を伺うような立場ではございません。私があの方と話をしたのは、もう随分前のこと。あの方が幼い時に、数度、話し相手を務めただけ。今は挨拶の文を交わすこともない。信じてはいただけないでしょうが、私にはあの方の未来が見えてしまっただけなのです」
「ならば当人に直接助言を……」
「そんな間柄ではありません。それに申し上げたところで、あの方はお信じにならないでしょう。もし、信じていただけたとして、あの方が周りの大人たちを止められるでしょうか。私は離れたところに騒ぎを起こして、早く逃げ出してくれることを願うだけ……詮無いことでございました」
 そう遠くもない場所に大勢が居るはずだったが、窟の中は信じられないぐらいに静かだ。闇が音を吸い込んでいる。深い澱みの中にいるように、僅かに体を動かしても黒い気の塊が動く。
「あなたは、私に懸想をしているかの如く振舞われた……」
「……申し訳ない」
「私も、誰かを大切に思いたかったのです。二度と会うこともない、詞を交わすこともない幼い方を、弟のように思いたかった。長じたあの方とお会いするつもりもなかった。私には、あの方を大切に思う我が身だけが大事だったのです」
 なぜその様な話をするのか。誰のための言い訳か。お互いの境を取り外せば、自分が目を逸らしてきたものを見ることになる。火群は心ない詞を口にした。
「……非難されたいのか」
 一体何を非難するというのか。それは実害のないもののはずだった。苛立ちを感じながら、そのまま巫女にぶつけたことを火群は後悔した。
「もう休んだ方がいい。たとえ、未来が見えるとして、見えたものが我が身で負えると思うのは傲慢だ」
「……ええ、ありがとう」
 イェリズはぎこちなく頭を火群の肩にのせた。唐突な行為だったが、この女なりに精一杯甘えているのだと火群は思った。人に好意を示す術を知らぬのだ。火群も人に甘えられることに慣れていなかった。それでもその夜は同胞の子犬のように頭を寄せて眠った。

 このまま荒ぶる流れに蹴散らされることなく、深い闇の底で沈殿し続けていられるなら、欠け落ちた何かの痛みを反芻し続けなくても済むのではないか。
 夢は夢。一夜限りでも見られるなら幸せだ。
 火群は儚いものを望んだ。

12.
 
 目を閉じたイェリズは、昔見た夢のことを思い出す。

 遊砂ではない。見たことのない巨木がところどころに見える。木造の建物は釉のかかった艶々光る瓦をのせている。異国の景色だ。イェリズはそれを薄い膜越しに眺めている。
 空を突き刺すような茨の塔が見える。
こんもりと緑の葉を茂らせた木の下で、黄褐色の肌の少年が膝を抱えて泣いている。足元には少年には不似合いなぐらい大きい太刀が転がっていた。
「どうして泣くの」
 何処からともなく現れた白い肌の少女は、少年の側に屈んで顔を覗き込む。少年は顔を上げると、自分よりもずっと幼い少女を見て、きまり悪そうに袖で涙をぬぐった。
「何でもないんだ。稽古しなきゃ」
 少年は太刀を掴んで立ち上がり、歯を食いしばって振り始める。しかし、太刀が大きすぎてふらふらしている。
「習い始めたばかりなのね」
「昨日から……」
「私の兄様も小さい時から大きな太刀で稽古したわ。慣れたらできるようになるわ」
「どれぐらい稽古したら慣れる?」
「三年ぐらい……」
「駄目だ、そんなんじゃ、駄目なんだ。明日、試合だから」
 少年は、太刀に振り回されながら、泣きべそをかいた。
「そんなの無理だわ」
 慰めるように、少女は太刀を握った少年の手に触れる。少年は動きを止めて、少女の顔を見た。
「この塔の中に白い男の子がいるんだ。僕より少しだけ年上の……父上はいつも僕とあの子と競わせる。そして、僕が勝たないと許してくれないんだ」
「頑張っても負けることはあるわ。一生懸命やっても……それでも、お許しいただけないの。そんなに負けるのが嫌なの」
「負けちゃいけないんだ。僕だって、一生懸命、やっている。でも、あの子は僕より何でもできるんだ。競馬で負けた時、父はあの子の馬を殺した。歌で負けた時、毒であの子の喉を焼いた。太刀で負けたら……負けてしまったら……」

「兄様が勝つわ」
 
 少女は塔を見上げていた。色の薄い瞳が、光を吸い込みながら彼方を追う。
「仕方がないわ。達人だもの、勝ってしまうわ」
 
 少年は愕然として太刀を取り落とした。白い少女は屈んでその太刀を拾い、少年に向かって両手で捧げ持った。
「兄様の腕、斬り落とされてしまうのかしら」
 少女はあどけなくて、何も分かっていないのか、哀しいのか、その表情からは窺い知れない。
「仕方がないわ。」
 
 イェリズは見ていた。
 受け取った太刀を握ったまま、ふらふらと膝をついた少年の胸を、虚が黒い穴を開けていく。少女は白い蝶になって、その中へ吸い込まれて行ってしまった。
 蝶も夢を見るのかもしれない。もう自分が見ることがなくなった夢を。イェリズは思い返しながら、それを希望と呼んでいいものなのかわからぬままでいた。

13.

 翌日も酷い砂嵐が吹き荒れた。それから丸二日、野営地から動くことも叶わず、無駄に時が過ぎた。食料に余裕はあったが、季節外れの砂嵐が続くことに皆の不安は募っていった。
御神宝の祟り。
 異教の国に御神宝を運ぶことが太源神の怒りを買っている……そういったことが真しやかに広まっていった。
 三日目の朝、大将が自らイェリズのもとにやってきた。
「巫女殿が居ながら、この体たらくか」
 イェリズの顔を見るなり怒声を発する。紳士然と構えていることが多い大将が、あからさまに苛立ち、且つ酷く憔悴している。
「巫女殿が奉仕して、御神宝を御移し申し上げるのだ。祟りを受けるはずがない。祟りだというのならば、巫女殿に何か越度が御有りなのではないか」
 イェリズは、この野営地に籠って以来、頭から布は被っているものの顔は露出していた。怒鳴りつけられても、静かな無表情を崩さない。
「御具合が随分お悪そうですね。商人たちの薬は効きませんか」
 大将はぎょっとした様子で腹を押さえる。
「私の薬を差し上げましょう。痛みは軽くなりましょう。それでも華都へ向かうのは無理なこと。遊砂の都へ戻って医者に診せねば手遅れになります」
 イェリズは懐から小さな包み取り出した。
「何故、私の腹痛を知っているのだ」
「巫女は祈祷を致します。病人は見慣れております」
「薬などいい!」
 落ち着きなく動き回りながら、大将は苛々と怒鳴り続ける。
「引き返せと申すか。それは巫女殿の思う壺だな。自分の越度を棚に上げて!!」
 異教の男と番うことを巫女の越度というならば、イェリズに責められる理由はなかった。
「……神が御神宝を移すことに御怒りなのです。私も怒りを鎮めるよう祈祷いたしますが、それでは足らぬでしょう。都へ戻り、再び神殿へ安置せねば……」
「御神宝を再び遊砂の都に戻すことなどできん!決して、許されんのだ!」
 睨みつける大将を、巫女は突き放すような顔で見ている。罵倒されるのは慣れていた。
「御神宝は持って行かれると良いでしょう。私はここに残り、皆様が次の集落へ辿り着くまでの間の祈祷を致しましょう。それから、ここを立ち遊砂の神殿へ帰り、そこで正式の祈祷を致します。大将様も遊砂へ同行して下されば、手遅れにならずに済むはずです。本隊は副官様に御任せなさいませ」
「それはご立派な助言だな。先ずは今吹き荒れている砂嵐を何とかして頂きたいものだ。そんな神通力があるならば、な!」
「止めましょう」
 静かな口調だったが、声は窟の中に響き渡った。耳をそばだてて、大将と巫女のやり取りを聞いている多くの気配が息を呑む。
「止めてみせましょう。昼過ぎにはここを立てるように致しましょう。さすれば、私の申し上げたことも聞いていただけましょうか」
 大将は暫く巫女を睨んでいたが、「砂嵐が本当に止めば考えてやろう」と、吐き捨てて去って行った。
 火群は憤りを感じた。
なぜ、砂嵐を止めるなど、引っ込みのつかないことを云うのか。なぜ、怒りを買うような態度をとるのか。態々、立場を悪くするイェリズに腹が立った。
 大将が去ったのを確認して、イェリズの両肩を掴み、岩壁の奥に押し付けた。周りに聞かれないように、顔を近づけ声を潜める。
「帰りたいのはわかるが、無理を言うな。大将と諍うな。砂漠を抜けるまで我慢するのだ。良いな」
 イェリズは悪びれることなく真っ直ぐにこちらを見ている。
「帰りたくて云っているわけではありません」
「いい加減に致せ。俺は、俺は、話を聞いている」
 苛立ちが詞を荒くする。
「今まで誰も話を聞かなかったかもしれないが、俺は聞いている。したり顔で、人を小馬鹿にするのは止めろ。殺されるぞ」
「帰りたくて云っているのではないのです」
 肩を強く揺さぶると、イェリズは力なく首を横に振った。
「私は……二度と遊砂の都に帰ることはありません」
「無礼を致した」
 もう、良い、と火群は思った。ぐったりとしている巫女を座らせる。
人の強情さを案じてやるほど、当方は御親切にはできていない。もう、良い。
「私が何かを為すのではありません。何かを為せるはずもございません」
 一礼をして離れた火群の背に、いつになく頼りなげな声が追ってくる。しかし、火群は振り向きたくなかった。身勝手だと思った。差し伸べた手を掴まないなら、それまでのことだ。
 火群は、巫女の側を離れて大将の側に侍した。大将も苛立っていた。見るからに体調が悪そうで、火群の顔を見ると手招きし、人払いをした。
「どう思うか、あの巫女を。なぜ、私の体の具合まで知っておるのだ。誰かがあの女に教えているのではないのか。あの女は誰ぞの手先で、何かを企んでいるのではないのか。遊砂では、あの女は王族とはいえ……後ろ盾もない、とるにたらぬ者と聞いたが……何かおかしくはないか」
 声を潜め、神経質な口調で問い質す。
「巫女様に不審な所は見当たりませぬが……御具合が宜しくないことは、今なら自分が見ても分かるかと……」
 大将は落ち着きなく体を揺すり、頭を何度か擦る。
「……いや、おかしい、おかしいだろう。第一、御神宝が紛失した時も、あの巫女はなぜそれを知り得たのだ」
「巫女様でございますれば……」
「馬鹿げている。そんなこと、貴様だって思ってはいまい。貴様のことも調べたのだぞ。私は貴様を買っている。名家の出ではないか。家を再興しようとは思わないか。力を貸してやらぬでもない。私に忠義を尽くせ」
 これまで火群は、大将には些か好意的な感情を持っていた。今迄仕えた華国の将の中では真面だと思っていた。こんな物云いをする大将は、正直、余り見たくなかった。
「良いか、火群。あの得体のしれぬ巫女から目を離さず、不審な行動はないか見届けよ。出来得る限りあの女に取り入って、何を企んでいるのか聞き出せ。良いな」
「は」
 一応、頭は下げた。
 家の再興など有り得ないだろう。それは火群が一番理解していた。それを餌にする大将という人に忠義を尽くす理由もなかった。

 それから間も無くして、イェリズは一人で岩の裂け目の奥の方で儀式らしいものを始めた。荘厳されてもいないただの岩場で、相応の装束も身に着けていない女が立ったり座ったりしながら、呪文のようなものを唱えている光景は、ただ滑稽だった。最初は興味津々で集まっていた観衆からも失笑が漏れた。
 しかし、昼に近づくにつれ砂嵐が収まっていき、儀式を終える頃には青空に変わっていた。兵たちはもはや巫女を笑わなかった。砂嵐を止めたように見えたのだ。大将は、イェリズの提案を呑まざるを得なくなった。戻らなければ命に関わると云われた大将の腹痛は益々悪化している。
 大将とイェリズ、そして火群も含めて十余名の兵が残り、副官が残りの兵を連れて御神宝とともに先に進むことになった。
 
14.

 昼過ぎに本隊は野営地を立った。二日以上続いた砂嵐は止み、不気味なほどの静寂が広がる。残ったものは、所在無げに大将の側に集まっていた。イェリズは洞の奥まったところで独り祈り続けている。大将に女を見張れと云われた火群は、少し離れたところに控えて居た。皆が巫女を怖れて寄りつかねば、その身を気遣う必要もない。声の届く程度に離れていればよかった。
 イェリズが誰かと図って何かを企てているということは無いと火群は思っていた。砂嵐を操る化け物にも見えない。多分、医学や気象の知識を持っているのだ。女の云う未来が見える力も勘が鋭いといった程度のことだろう。火群は元来そういうものを信じない。気持ち悪いとも、恐ろしいとも思わなかった。
 それでもイェリズから離れているのは、大将とは違う苛立ちがあったからだ。
 この女が嫌われるのは、不思議な力のためではなく、男親が知れないためでもなく、人を寄せ付けないその依怙地さの所為のように火群には思える。味方を作ろうとしない可愛げの無さ、強情さを見るにつけ、化け物扱いされるのも自業自得だと思った。
 しかし、その依怙地さは、振り返ってみれば、我が身にも思い当り、苛立ちや歯痒さを感じるのは他人事ではなかったからではないか。似ているが故に手を差し伸べたいと思う自分と頑ななイェリズとの距離に苛立ちを募らせた。
話は聞いている。分かり合えるはずだ。
 そう思う自分を、火群は何より嫌った。
なぜゆえにこの巫女と分かり合いたいと思うのか。女に何かを求めているのか。
 何かを望めば、叶わないことが苦になる。火群は、何かを望むことなど疾うに止めてきた。故にイェリズから離れた場所に居る。
こんな気持に煩わされるのは御免だ。

 再び砂嵐に見舞われ、遊砂の都に向かうはずが、もう一日野営地で過ごすこととなった。皆が何かに怯え疲れている。大将は、病が悪化しているのか、目の下に黒い隈を作っている。イェリズは何度か薬を勧めたが、大将がその好意を受けることはなかった。
「あの女に不審な行いはなかったか」
 大将は目ばかりをぎらぎらさせていた。痛みが不信や恐れを増幅させているように見える。
「独りで祈っていただけで、不審な点は……」
「そうか、そうか。よく見張っておれ」
 頭を下げて下がろうとする火群を、呼び止めた。
「良いか、私は貴様を本当に買っておるのだ。働きには応えよう。家を再興したくはないか。母と妹がいるそうだな」
 唐突に母と妹のことを持ち出されて火群は凍りつく。
「何て顔だ。貴様でも、母や妹と云われるとその様な顔をするのだな」
 母や妹の消息が気にならぬはずもない。火群が国を棄てたのは、母の謀反が露顕したためだった。母がそんな杜撰な計画を立てていたことなど、火群は全く知らなかった。あれは二十一の時。当時の火群は、まだ家を再興し、父の無念を晴らすことを望んでいた。どのような境遇に置かれようとも、自分が月の将軍の後継に相応しい人間であれば、必ずその時は来る。そう信じていた。
 しかし、母と妹の命を助けるために、身分、出自、家族……ありとあらゆるものを神前で棄てた。武人として生きる筈の己も棄てたのだ。そうするしかなかったと思いながら、全てを自分に棄てさせた二人のことを思い出すまいとしていた。そんな自分を情けなく思いつつ「全てを棄てた」と嘯く。
 うんざりだ。何もかも、うんざりだ。
「どうしているか知りたいだろう。もう、十年以上逢っていないはずだ」
「……十五年です。生きておりますか」
「生きておる。が、幸せということもあるまい」
 生きているだけで良いと思った。勝手かもしれない。しかし、火群は二度と二人の人生に関わってはならないように思っていた。
「貴様が立身して迎えに来るのを待っておるだろう。良いな、分かるな」
 大将は執拗だった。病んでいる、と火群は思った。約束もできぬ餌をちらつかせる、そんな卑劣さを配下に感じさせるほど、この人は愚かではない。本人が思う以上に、大将は恐怖に囚われているのだ。
 怖いのは巫女か、砂嵐か。それとも、蔑ろにしている異教の神なのか。
火群には、冷静さを欠いた人間の本性の方が怖かった。

 翌日、漸く野営地を立って遊砂の都を目指したが、途中、砂嵐に二度巻き込まれた。大した砂嵐ではなかったが、その時点で四名が行方不明となってしまった。今までの行程で初めて砂嵐のために人が欠けたのだ。皆の動揺は大きかった。残ったのは、大将、火群も含めて兵が六名、イェリズ、商人の少年。厄介なことに、道に詳しい年配の商人と逸れてしまった。
 少年は道ならば分かると云っていたが、連日の砂嵐で視界が悪いこともあって頼りなげだ。出発してさほど時も経っていないのに、見る見る焦りが小隊に満ちていく。濁った空気越しに照り付ける太陽が渇きを激化させ、狂気は吹き出す寸前まで内に溜め込まれていた。
「あれは?」
小隊の先導をしていた少年が何かを見つけた。皆が目を凝らす。前方の広い面積の砂の上に点々と文様のような隆起物がある。嫌な予感がした。兵士が走り寄って、一番手前の隆起物の砂を手で払った。
「大将様!」
 兵が上ずった叫声をあげた。
 砂の下にあったのは華国兵の亡骸だった。
「まさか、これは皆……人?」
 広い範囲に点在する砂の隆起を、てんでに確認し始める。
 皆、直ぐに気付いた。
 それらの隆起は、先日別れて華国の都に向かった隊の兵士や砂馬、荷物などであった。本隊は遭難したのだ。目の前に累々たる屍を晒している。そして、華国へ向かった隊の遭難地点に、遊砂の都へ戻るはずの我々がいる。……では、ここは一体どこなのだ。
 道案内をしていた商人の少年は東夷の詞で喚きながら逃げ出して行った。それを誰も止めなかった。大将や兵士たちも……最早、誰も何かを判断しようとはしなかった。
 皆が呆然としている中、イェリズの乗った砂馬が迷うこと無く一つの隆起に近づいた。その不自然な冷静さに引き寄せられて、火群はその後に続く。彼の女は、馬から降りると眼前の砂の隆起に手を差し込み、難なく小さな箱を取り出した。まるで、最初からそこに在るのを知っていたかのような動きだった。
「それは?」
 火群が声をかけるとイェリズは憂い顔を向けた。
「御神宝です。存外、小さいものでしょう」
 箱は手の中に納まるほどで、巫女はそれを子供が玩具を持つかの如く無造作に掴んでいた。

 そんなものが欲しかったのか。

 火群は急に恐ろしくなった。
 もし、この箱を取り返すために全てを仕組んだとするなら……否、そんな力を持つというなら、ここへ至る前にやり様があったはずだ。この砂漠で、隊の大半が死んだのだ。そんなものの為のはずがない。

 イェリズも火群を見ている。物云いたげでありながら、躊躇っている様に見える。周囲の空気が失せたかのような息苦しさの中で、次の言葉も見つけられず、唯互いを見ていた。

15.

 天が圧し掛かってくる。火群はそれに耐えるように前を睨んでいた。舌は苔が生えたように乾いて、口腔に落ち着きなく挟まっている。
 イェリズは火群を見つめたままゆっくりと歩み寄った。火群は後退りすることもでない。互いに凝視し合ったまま、触れられる程の近さになった。
 長い時間そうしていたように思えた。しかしそうでもなかったのかもしれない。上ずった声が、火群を現に引き戻した。
「この化け物め」
 振り返ると、血走った眼をした大将が抜身の刀を持って立っている。
「こんなところで死んでたまるか。成敗してくれる」
「止めろ」
 咄嗟に火群はイェリズを庇おうとした。
 咄嗟、そう咄嗟だった。体が勝手に動いただけだ。巫女に無防備な背中を向ける。しかし、思いがけなくも後ろから斜めに強く押し出されて姿勢を崩し、砂に手をついた。直ぐに体を起こして見たのは、大将が巫女の腹に深々と刀を突き刺している姿だった。大将が刀を引き抜くと、巫女は崩れるように膝を着く。その胸を再び刺し貫こうとする大将の腕に、火群は無我夢中で跳び付いた。何か叫んだ様な気もするが、向こうも何かを喚いていた。揉み合い、何発か殴られ、その後は叩きつけるように殴り続けた。
「止めて」
 イェリズの声で火群が我に返ると、大将は鼻血を出して気を失っている。
「暫く動けないわ」
 イェリズは蹲ったまま、男たちの争いを見ている。痛みで顔を歪めていたが、取り乱してはいない。その冷静さに火群は腹を立てた。
「これが、こんなものが、あなたの見ていた未来か。こんな理不尽なことで死ぬのか。そして、俺はこの砂漠で干乾びるのか。こんな死は馬鹿げている」
「これが私の死。どんなに馬鹿げていても、くだらなくても選べない。でも、私にはあなたの未来は見えない。あなたには私に見えない未来があるはず」
 イェリズは痛みに耐えるように下を向く。火群には云いたいことも色々あったが、とにかく今、目の前の女は深手を負っていた。
「傷を見せて……」
「それより、ここを離れましょう。あなたは大将様を殴ったのですから」
 独りで馬に乗れないイェリズを抱いて、火群は馬に跨った。巫女は顔も上げられないまま、人差し指で行先を示す。
「あの連中は?」
「近くに隊商が居ます。先程の少年が連れて戻るはずです」
 なぜそんなことが分かるのか、それとも気休めを云っているのか。火群には、もうどちらでも構わなかった。
「どこへ行く。道が分かるのか?」
「墨湖へ参ります」
 墨湖は、華国とは国交を持たない地域だ。火群も詳らかなことは知らない。遊砂と同族だが、祀る神が違う人々の都市。地下水脈が表出し、墨湖から海へ水路を成していると聞く。
「墨湖まで行けば、あなたは華国でもそれ以外でも好きな所へ行ける。たとえ華国の兵であろうとも、彼らは砂漠で遭難した者を拒んだりはしない」
 巫女は動揺していなかったが、さすがに苦しげで、やがて押し黙った。
 暫く走らせて、馬を止める。砂馬は屈強だが、大人二人を乗せて長時間走るのは無理がある。大将たちからは十分離れた。イェリズの手当もせねばなるまい。
 女を馬から降ろし、馬の荷を調べる。水と少しの食料、華国の紙幣が少し。しかし、薬や傷の手当てができるようなものは見当たらない。
「傷を見せてみよ」
 イェリズは目で笑い、首を横に振った。
「遊砂の女は、親と夫以外に見せることはない」
「今更……どちらもおらぬのに……未来が分かっていたと云うなら、なぜ変えなかった?」
「変えられるなら、変えたかった。……引き返したいと、私、云ったわ……」
「ああ、そうだったな」
 イェリズの話を聞いているようで聞いていなかったのかもしれないと火群は思った。
「悪かった」
「あなたが謝ることなど、何も……」
 如何することもできず、火群は自分の袖の布で横たわる女の顔についた砂や血の汚れを拭いた。

 手当をすることも、どこかへ運ぶことも、最早適わないだろう。この女は死ぬのだ。今、将に俺の眼前で死んでいこうとしている。
 
 火群は女の顔を見ていた。
「私、もし、自分の未来を変えられたなら……きっと後悔した……エクレム様をお助けしなかったことを……自分が助かるためになら為せることを……して差し上げられなかったら……そんな私だったら嫌。だから、これでいい」
 イェリズは左手をごそごそと動かした。
「どうした?」
「これ……」
腕を持ち上げると大きな丸い飾りのついた腕飾りがぶら下がっていた。
「これ?」
「ええ、外して。それから……内側の袖を外して」
 腕飾りは簡単に外れたが、袖は肩まで捲りあげなくてはならなかった。外した麻布の袖には、墨で何か描かれている。砂の上で広げると極めて簡略な地図だった。
「見せて……」
 顔の前に出すと、イェリズは震える指で「ここ」と一点を指した。今いる場所ということらしかった。
「その腕飾りは、方位磁石というもので、墨湖の人がよく使うものです。北を指してくれます。但し、砂嵐の最中には当てにしないで下さい」
 魔法の道具の様なものがあるとは、火群も聞いたことがあったが、実際見たのは初めてだった。
「恐らく夜までに着けるはずです。砂馬は水を積んでいますから、潰さぬ様に気を付けて連れて行ってください」
 死んでゆく者が、他人の旅の心配をしていた。
「これで良かったのか」
「ええ」
「御神宝はどうする?」
「私と一緒に砂に帰ります。遊砂の巫女として異教の地へ御神宝は渡すのは忍びない」
「俺が神殿へ戻すか?」
「……いいえ、もういい。争いの種になるだけ。所詮、人の作ったものです。私が持って参ります」
「あなたはこれで良かったのか」
「そんなにくだらない死に方でもない…見送ってくれるのが、あなたで良かったと……」
 詞が途切れた。砂を薄く纏って乾いた顔に、滴を帯びた長い豊かな睫毛が揃って伏せられた。

  16.
 
 自分は何処から来て何処へ行くのか。
 そんなことは、誰もが知りようのないことだった。それはイェリズも同様であったが、彼女には道筋が必要だった。不条理な物事の全てを呑みこむための鎮痛剤にも似た何かが必要だったのだ。イェリズは夢と現を行き来しつつ、己を保ち、少しずつ確実に壊れていく。自分の行く先も少女の頃の夢が決めていた。

 十六の誕生日の夜のことだった。自分の寝台に横たわったはずのイェリズは、神々の食卓に上っていた。大きな方形の石の卓に魚と共に並べられている。上座正面に長くて白い髪と髭を蓄えた大柄な老人が座し、六人の男たちが左右に対面している。そして、卓の下手には一際美麗な若い男が立っていた。都の地下を流れる川の神、イェリズの父神である。
「太源神よ、そして諸々の神よ。ここに有るは、我が川の産したものばかり。存分にお召し上がり下され」
「これは美しく育ったものだ」
 卓の上のイェリズは神々に覗き込まれた。目を見開いた六人の神々には瞳がなく、そのかわりに丸い虚があった。
「では、太源神には頭を、冥界の神は胸、豊穣の神は腹、地の神、空の神は両の腕、水の神、火の神は両の脚……」
 そう言いながら、父神は細い刀で器用にイェリズの体をさばいていく。痛みもなく、血も出ない。それでも、ばらばらになって神々の皿の上に取り分けられたイェリズには、痛み以外の感覚が残っている。神々に食いちぎられて骨ごと嚥下されても、イェリズはイェリズの意識を持ち続けていた。
「太源神は、またお召し上がりにならぬのか。この度の贄は、食が細くなられた太源神のために特別に用意したわが娘。是非、お召し上がりください」
 太源神は全く手を着けようとしない。イェリズの肉体のほとんどは神々の胃に納まったが、頭部だけが無傷のまま皿の上にあり、大きく目を開いて太源神を見ていた。
「これを食むには、儂は歳を取り過ぎた。儂の時代は終わるのだ。遊砂都の川の神よ、そなたは若々しい姿だが、あの川はもうじき枯れる。このようにもてなしを受けても、たいしたことはしてやれぬ。あと五十年、その流れを絶やさずにおこう。それが精一杯じゃ。川が枯れれば、遊砂の都も滅びる」
 老いた神はごつごつとした手でイェリズの小さな頭を撫でた。
「遊砂に新しい時代が来るのはいたしかたないこと。神々も弱り、飢えておる。儂はこの娘は食まぬ。儂が食まねば、この首より再び胴と手足が生え、しばしの間、飢えた神々の胃の腑を満たすであろう」
 太源神はイェリズの首を掴んで高々と掲げ、神々の方へ向けた。
「この娘は古き祈りと共に砂に眠り、儂の葬送を司る者である」

 この時から、イェリズは、月に一度、神々の食卓に上ることになった。身を食される度に新しい体に生まれ変わり、神々からさまざまな予言が授けられた。百回目の饗応の後、皿の上のイェリズの頭を撫でながら太源神は言った。
「これが最後である。そなたの命は残り一年となった」
 イェリズは、静かに瞬く。もう幾度も、神々から自分の終わりは聞かされていた。
「手負いの若き白獅子……そなたが望むなら、ともに終わらせてやろう」
「獅子には未来がないのですか」
「そなた同様に虚の病に取りつかれておる。あれは先を望まぬのだ。そなたの虚と獅子の虚は呼び合っておる。そなたが誘えば、必ず応える。そなたには良い連れであろう。この砂の地でともに眠るがよい」
 連れ……イェリズが生まれてこの方、それを望まぬ日はなかった。誰かに寄り添うことも、寄り添われることも、望むこと自体が罪なのではないかとイェリズは思っていた。神の許しを得て、それは手の届くところにあった。
「……望みませぬ」
 今まで我慢してきたことだから、自分に耐えられないはずはない。もう少し……あともう少しなのだから……誰も連れて行ってはならない。自分なら耐えられる。
「あの獅子の虚も私が抱いて眠りましょう。どうぞ、先を見せてあげて下さいませ」
 イェリズがもう一度瞬きをすると、つうっと、涙が頬を伝った。

17.

 イェリズは二度と目を開けることはなかった。意識を失うまでは苦しげだったが、それも通り過ぎ、穏やかな表情で最期を迎えた。
火群は呆然と自分の腕の中で死んでいく女を見ていた。それが抜け殻になっても、暫くそのままでいた。
 どこかに安置してやらねば……
 抱いたまま立ち上がると、イェリズの頤が突き出すように上を向き、未だそこだけは命が宿っているかのような唇から赤いものが流れ出た。命の最後の一滴。それは砂に滲みて消えた。
火群は砂を浅く窪ませて巫女を横たえた。衣服の乱れを整えて手を胸の前に軽く組ませ、その手の中に御神宝を納める。
「これで良かったのか」
 眼前でさらさらと砂が流れた。
「これで良かったのか」
 未来が見えるという女は何も答えず、その唇にも砂が溜まっていった。

 砂漠の中で独り、火群はイェリズの生涯を想った。
 そして、なぜか長い間思い出すことの無かったことを思い出した。

――なぜ、朝方早くに鳴く鳥の声は白いのですか――
 あどけない舌足らずな声。丸い頬は菓子の匂い。
――兄様、今日は早く御帰りですか。お戻りになったら、遊んでいただけますか――
 彼れっきり、帰ることはない我が家。

 砂をうっすらと被った亡骸の側で、今しがた亡くしたものと、遥か遠い昔に失ったものを思って、火群は哭いた。砂を掴んで、哭いた。
 暫く哭いて、それから砂馬の手綱を引いて墨湖を目指した。方位磁石と地図を頼りに、ただ砂の海を踏み続ける。地形の違いなど、火群には見分けがつかない。変わらない風景が延々と続く。
もし己の死を事前に知っていたら、淡々とそれを受け入れられるものだろうか。避けることが叶わぬとしても、足掻き続けるのではないか。
 火群には、イェリズがまるで自ら刃の前に身を晒した様に見えた。
 刺されると知っていたなら、逃げようもあったのではないか。どうせ刺される運命なら、人を巻き込みたくないとでも思ったのだろうか。
 もし俺がイェリズなら……嗚呼、そうだと、火群は妙に納得した。
 俺が彼の人なら、決して俺に俺の最期など教えはしない。俺はそんなに強くはない。エクレムという少年の未来が見えていても、イェリズは変えようとした。俺の未来も見えていて、それでも生き延びさせるために懇ろに準備していたとするなら……
 変化のない砂の世界を歩みながら、何かに辿り着けることなど決して無い様に火群には思えてきた。是が俺の死なのか。やがて水は尽き、全身の血が煮えたぎるような渇きに苦しみながら死んでいくのだろうか。
 水を摂っていても体温の上昇は起こっている。 
 火群はふわりと漂う甘い香を感じた。
 花の香だ。嗅いだことがある。そうだ、初めてイェリズに逢った時、祈祷の時に焚かれていた香だ。彼の女が体を動かすと、それに合わせて漂ってきた。
<ナゼ、朝ガタハヤクニ鳴ク鳥ノ声ハ白イ>
 甘い丸い柔らかい頬に手が届きそうだ。手を伸ばすとその頬の持ち主は、今まで見たこともない頑是ない笑顔のイェリズになった。
<白イ声ノ鳥ハ、朝ノ滴ヲ飲ンデ白イ>
 歌うような声が降る中、砂に腰を下ろした。
<ナゼナゼ白イ>
 嗚呼、もういいさ。悪足掻きはしない。この香り、側に居るのだろう。迎えに来ているならば、もう連れて行ってくれ。あなたが逝くときは看取った。ならば、俺の死にも立ち会ってくれ。この虚な身を穏やかさだけで満たしてくれ。
<クスクスクス>
 さざめく笑い声と歌うような祈祷の呪文が混じり合い、波打つ。
<クスクスクス>
<ナゼ、白イ、鳥、ナゼナゼ白イ>
 波打つ詞の中に漂うイェリズの影を、火群は何の疑いも持たず腕に抱いた。
<私の見えない未来、あなたの未来>
 幻の体には、手触りも肉の重さもあった。生きている時には触れようとしなかった女の身体をまさぐる。女は男の頬を両手で挟み、唇を唇で触れた。眩暈がする程の強い香が鼻孔に吹き付け、火群は目を閉じる。香りは徐々に薄れていった。
 右手に握っていた手綱が引っ張られて、目を開ける。砂馬がまるで心配するかの様な目で見ている。幻は消えていた。

 改めて火群は方角を確認する。遠くの空気が揺らめいている。赤茶けた砂の地平に湧き立つような濃い影。郭を象る灰色。疎らながらも深い緑。集落村だ。否、もっと規模が大きい。城都のようだ。地図と合わせてみれば、墨湖の都市であってもおかしくない。
「は……」
 気が抜けた。目で確認できるところに都市がある。イェリズが云ったように、夜までに墨湖に辿り着けるのだ。見えるものを目で追いながら歩ける。随分、気が楽になった。
 歩きながら、漸く先のことを考えた。
 華国の遭難兵と名乗って、再び、華国に帰るのか。それとも……過去を捨てれば、違う未来はあるか。未来。自分の未来。
 歩きながら考えていた。考え続けていた。しかし、歩いても、歩いても、目の前の影には近づけなかった。考えが纏まることがないように、都市への距離も縮まらないのだった。女がくれた未来は、所詮変えることの叶わぬものなのかもしれない。火群は呻いた。
 揺らめく影を追い、縺れる足を引きずりながら、遠のいていく意識と闘っている。

 何かを変えられるものなのか、受け入れるしかないものなのか。
 
 果てしなく砂の海は続く。風が作る文様が則を示すように地表を這う。ここには過去も未来もない。ただ繰り返す現在が幻のように漂っているだけだった。

Interval -残影-

 邦の民が密かに語り継ぐことがある。

 盛大に執り行われた法会での豪勢な剣舞の競演。その中で、一際美々しかった月の舞。月将軍の御子の煌めく姿。

 反華を強硬に主張していた嘉袁将軍が処刑された後、月将軍家は実質取り潰しとなった。王家の血を引く嫡男火群は十三歳という年齢も考慮されて処刑は免れたが、近衛府の所管とされ、厳重な監視下に置かれた。さらには王族である母親をわざわざ商人身分の男に再嫁させるなど、貴種としての値を損ねることが試みられた。
 しかし、それらの仕打ちは、全く本人と関係なく、「悲劇の御子」火群の人気を高めたのだった。

 三十年に一度の大法会の年。王家所縁の寺の境内は、法会の参加者や見物客であふれかえっていた。
 奉納の剣舞は、本来神の前で、月将軍以下、邦を代表する武人が、国への忠誠を示して演じるもの。有力武人たちが王に従い奉仕している様を可視化する催しである。火・水・木・金・土・月・日の七つの星の名を与えられた武人の舞、即ち、七曜舞からなる。最後の日の武人は王その人であるため、欠番となるのが常であった。舞は夫々の将軍家に一子相伝で伝えられるものであり、舞を継承することは家督の継承に等しい。
 この大舞台では、どの将軍家も威信をかけて、舞手を美々しく飾り立てる。錦繍の装束も金銀・玉石の飾りも、白々しいほどに豪華で、肝心の舞に目がいかないほどだ。賑々しく声聞が唱えられ、合間に銅鑼が響く。武骨な将軍たちも、この時ばかりは、皆、粉を叩き、口元目元には紅をさし、神話の中の英雄になりきるが如きである。
 彼方此方で高価な香が焚かれ、酒が振舞われる。夢か現か。異界に紛れ込んだような心持になる。これほどの娯楽はそうあるものではない。参集した人々は熱狂し、うねるような歓声が空に昇る。
 土の演技が終わると、鳴り物が止み、急に静かになる。いよいよ次は最大の見せ場、月の舞。日の最も側近くを守護する月は、七曜将軍の筆頭。月の将軍亡き後、その舞を舞う資格があるのはその正嫡の御子のみ。御子は姿を現すのか。それは如何様か。
 しかし、観客の前に現れたのは質素な白装束の人物。浄衣に飾り帯一つ、手にした刀の拵えも貧相なもの。頭を低くしたまま舞台の中央まで静かに歩くと、正面を向いて顔を上げ、背筋を伸ばす。その顔には、愚王の面をつけている。滑稽な道化役の醜い面。
 これは亡き月将軍を愚弄するための仕掛けか。人々は凍りつく。
 舞手は静かに面を外し、態々、三方に顔を向ける。それは紛れもなく、月の御子火群であった。
 玲瓏たる顔には化粧の跡もない。無駄を削ぎ落としたかのような輪郭の美しさは、研ぎ澄まされた刃の如し。薄い灰褐色の瞳が、その内をのぞこうとするのを拒むかのように光を放つ。鼻梁は高貴さを声高に主張する一方で、小鼻から口元は慎み深く典雅である。
 十分その端正な美貌を見せつけ、それから再び面を着ける。着けても、誰ももはや醜い面など気にならない。観客は息を呑み、水を打ったように静まった。
 鼓で拍子がとられると、固まった空気を切り裂くように舞が始まる。それは、今までの奉納舞とは全く違っていた。簡素な装束を纏った御子の舞は、緩急自在、激しく力強い。幅広の太刀は、振り下ろされ、薙ぎ払われる度に、目に見えぬ禍々しいものを打ち破るかのような響きを放つ。全身、その末端にまで、張りつめた神経。その鋭敏な感覚が波のように伝わると、畏怖の念が体内に湧きあがってくる。一瞬たりとも目を逸らすことなど許されない。神をも断ち切る気迫と、地上を照らす光。まさに、月の舞だった。
 動作が終わり、最後の拍子が響いて一呼吸おいた後でも、誰も声を発さない。完全な静寂を支配したまま、月の御子は静かに姿勢を正し、再び面を外して三方に顔を見せる。
 驕ることなく、誇ることなく。ましてや屈することなく、媚びることなく。冷徹な瞳を真っ直ぐ
 虚空に向ける。未だ、この若者は守るべき何かを信じていたのかもしれない。
 一礼し、また面をつけ、堂々と舞台を降りていく。完全にその姿が見えなくなると、観衆が呼吸を思い出したように声を上げ始める。
 あれぞ、月将軍の御子。神が舞い降りたかのようなお姿。醜い面を着けさせられ、貶められたとて、あの天賦の気品が消せるはずもない。
 あのお方はやはり特別なのだよと、人々の興奮冷めやらぬ間に、欠番となるのが常のはずの次の出し物が、何故か始まる。王が演じるための日の舞。王への敬意を払って誰も舞わぬはずの舞。舞っているのは、よりによって華国人の若者だ。厚く化粧をしていても、それが華国人司令官の息ホン・ロンであることは観客の皆が気づいた。
 見てごらんよ、あの黄ばんだ肌を。化粧をしても覆い隠せない。華人と邦人じゃ、肌の色も目の色も全く違うもの。豪華な装束も、なんと不似合いなことだろう。ホン・ロンさまも華人とすれば見栄えの良いお方と思っていたけれど、やはり火群さまとでは雲泥の差があることだよ。
 傲慢に王役を演じる華国の若者は、邦の舞の作法で最も嫌われる七つの所作、則、七忌のうちの三つを観客の面前で犯す。その無様な態を人々は嘲った。しかし、むしろ申し訳程度の短い舞の間に、なぜこの若者が三つも犯せたのかを考えるべきだったのかもしれない。
 しかし、誰もそれを気に止めることはなかった。ただ一匹の白い蝶だけが訝しげに首を傾げる。

 人々の記憶に残ったのは、邦の高貴な血を引く美しい御子のこの世のものとは思えない舞姿だけであった。強大な華国に呑みこまれていく祖国を救うのは、このお方しかおられまい。あの太刀で切り拓けぬものなどあろうか。
 御子が世を捨て消息を 断っても、国を棄てたとは誰も考えなかった。あの美しい御子は国のために再び戻ってくる。いつか必ず。

 国を棄てた火群が邦に帰ることはなかった。美化された月の御子の記憶だけが人々の中で伝説になった。

後編 墨闇

1.

「妻女を娶られたばかりだというのに、このような僻地へ遣わされるとは、佐官殿も貧乏籤を引かれたものですな」
 砂漠の海が広がる。
 初老の副官ティエンの追従笑いを、佐官と呼ばれた若い将ホン・ロンは突き放すような目で見ていた。身に着けた甲冑は赤漆を多用した副官のものの方が奇抜だったが、目の肥えたものならば、一見地味に見えるホン・ロンの甲冑の細工の贅沢さに驚くであろう。渋好みというわけではなく、この男が気に入ったものを身につけようとすればこうなるのだ。それが許される恵まれた育ちをした男だった。
「式の翌日に婿君が出立では、奥方も随分寂しい思いをしておられることでしょう」
 経験上、自分より若い上官に媚びるには、下卑た馴れ馴れしさで振舞うのが良い。ティエンはそう思っていた。さしたる家柄でもなく特別の才もない男にすれば、当然の処世である。しかし、この若い上官には逆効果だった。
「一度会ったきりだから、寂しく思うこともないだろう。……さあ、行こうか」
 口では鷹揚に受け流したが、その顔にはありありと不快の色が現れている。
 ホン・ロンは華国の武官で、今年二十六になる。父は北方夷域の属国邦で司令官を務める有力な将軍。もの心ついたときからその恩恵を受けて育ったために、上役の顔色を伺うといったことには縁がなかった。取り立てて美形というわけではないが、嫌味のない顔立ちで、意思の強そうな目が好男子という印象を人に与える。骨太な体躯、日に焼けた黄褐色の肌、濃い眉……まさに男らしい外見だ。普段は快活だったが、時々、妙に神経質な表情を見せる。
 父将軍が持ってくる縁談を断り続けたホン・ロンだったが、この度の縁談の相手は自分の上役の息女でさすがに断り兼ねた。婚礼を済ませた花嫁は参列した両親と共に実家へそのまま里帰りした。花嫁はまだほんの子供で、夷域へ派遣される花婿の帰りを婚家で待たせる必要もないだろうと両家で合意したからだ。ホン・ロンが自分の妻に会ったのは、この婚礼の儀の一度だけである。
 ホン・ロンは妻女を持つことを面倒に思っていた。出世には必要なことなのだろうが、利害を考えて選んだ妻を側に置いておくのも煩わしい。それよりも気に入った女ができれば、身分や家柄と関係なく妾にして側に置く方がいい。女が嫌いなのではない。むしろ、自分の側に置く女というものに過度の理想を持っているのかもしれない。
 かつて、実際、妾にしようと思った女もいなかったわけではない。ホン・ロンは妻室に迎えたかったが、家柄に問題があった。この女を妾にし、室を持たなければよいとその時は思ったものだった。その時は若かったから、一途にそう思った。しかし、その女に未練があって今まで妻を娶らなかったわけではない。ただ、それ以来、妻を持つということ自体が、この男には厄介ごとになった。縁談を受けた後も、花嫁から逃げるように東夷派遣の任を自ら望んだ。婚礼など、ただ煩わしいだけだった。
 あまり親しくなりたいとも思えない副官とともに、二百ばかりの手勢を率いて、ホン・ロンは砂漠の中の小集落へ向かっている。その先には、華国に属さぬ墨湖という夷域が広がる。本格的な墨湖攻めに先行して、亜城に居所を構えて準備を行うように命じられていた。本格的な戦が始まる前の状況把握が主な役目であり、戦地に向かうほどの緊迫感もない。有力者の年若い子息が派遣されるには格好の、安全な任である。
 亜城は華国に属するとはいえさほど重要視されておらず、華国の兵は全く配されていなかった。遊砂族系の民が住まうという。湧水を用いた果樹栽培が細々と行われている他、石切りを生業としている寒村だということしか、華本国は把握していない。
やれやれ、気が重い。
 ホン・ロンは頭を振った。軽薄な口をきく副官のことより、式だけ挙げて置き去りにしてきた幼い花嫁のことより、もっと気の重いことが待っている。
 他国の領土を侵す尖兵なのだ。
 東夷への派遣を希望した時は、遊砂都に駐留する将との交代要員のつもりだった。
「華国の領土として、帝の恩恵に浴せ」などということが、何の大義になろうか。領土への野心など持たず、公の行き来を重ねて、富を回すことの方が互いの国にとっての利になるはずだ。ホン・ロンがそう思おうとも、華国は墨湖の背後にある墨海交易を掌ることを望んでいる。墨湖だけではない。華国は外へ外へと終わりない領土拡大のための戦を続けている。そして、その内部には独立の機会を狙っている小領域をいくつも含む。まるで作り上げていく側から波にさらわれる砂の城のようだとホン・ロンは思う。そんなことに意味があるのかと。
 父が実質的な統治者となった邦という北方の小国で、ホン・ロンは少年時代を過ごした。彼にとって、邦は第二の故郷であった。父の下、将の見習いをしたが、邦への愛着が強まるにつれ、他国の領土を侵すということの意味を考えずにはいられなかった。
 それで、嫌になった。
 父の下を離れ、華本国へ戻って中央軍に属したが、今度は東征の尖兵だ。諾々と呑み込んできたものが、今、胸焼けを起こしている。

 一行は亜城の集落に旗を掲げて馬を進めた。日干煉瓦の家々は貧弱だが、遠巻きに見ている村人の身なりは悪くない。男たちはゆったりとした長い上着に幅広のズボンを身に着け、頭に布を巻きつけている。女たちは黒い布を頭からすっぽりかぶっているが、顔は覆っていない。遊砂の女は人に顔を見せないとホン・ロンは聞いていた。この地では遊砂の神も寛容なのかもしれないと、妙に感慨深く思った。
 まずは村長と面談し、墨湖攻略のための助勢を求める。事前に文を送っていたので、取り立てて問題はなかった。亜城は遊砂族系の住民の村だったが、遊砂王の統治下にあったこともなく、華国に服したのも早かった。村長は顎鬚を蓄えた小太りの中年男で、華本国の武人の顔色を窺っておどおどしている。そういう姿を見ると、ホン・ロンは自分が大きな罪を犯しているような居心地の悪さを感じるのだった。
 華国兵のために、村は饗応の支度をしていた。三頭の羊が潰され、串焼きになっている。羊の脳はそのままの形で蒸しあげられ、羊の内臓と一緒に煮込まれた野菜と豆のスープはいかがわしい臭いを放つ。果実で作ったという珍しい透明な蒸留酒もある。呑みなれぬ酒は香辛料の効いた肉によくあった。旅の疲れもあいまって、兵たちは知らぬ間に悪酔いしている。
 副官、村長と一緒の卓を囲んでいたホン・ロンは、ほとんど酒を飲まずに肉ばかり食べている。スープから漂う糞尿臭さに辟易しつつ、焼肉に使われている香辛料の名や産地、効能などを村長に問う。一方、副官は何かと村長に絡む。この副官殿は、背も高くがっちりした体格で口ひげも蓄えた男らしい風貌なのだが、釣り目がちの細い目を瞬かせて村長に因縁をつける様子は、嫁をいびる姑のような女々しい陰湿さがあった。ホン・ロンは村長を気の毒に思った。
「ここで農作物はとれるのか?」
 水を向けると、村長はほっとした顔を見せる。
「果物程度で……穀物などは殆ど下の津から入れています」
「村の者の稼ぎは?」
「砂漠での交易と、津での荷揚げ、あとは石切り場があります」
 稼ぎが生業の中心なら、本国が把握しているより豊かな村なのかもしれない。この地でとれるわけでもない香辛料がふんだんに使われるぐらいだから……とホン・ロンは考えを巡らせる。
「食い物も酒も悪くないが、女が駄目だ」
 副官はまた絡んできた。
「色は黒いし、毛も硬そうだ」
 下品な男だ。ホン・ロンは露骨に眉をしかめた。
「管を巻くだけなら、もう床に入ったらどうだ。遊砂美人は、髪も目も漆黒なのが売りだと聞くが」
 ホン・ロンが適当なことをやんわり言い返すと、副官殿は横を向く。村長は言い出し難そうに話を変えた。
「実はご報告せねばならぬことがございまして……砂漠で行き倒れていた華国の兵を一名、村でお預かりしております。どこかへ引き渡そうにも人手が足らず、こちらに留めておりました」
「そうか。どこの隊のものか。当人は何と申しておる」
「……それが、何もかも忘れてしまったようで……自分が何者なのかもわからぬらしいのです。身なりから華国の兵で間違いないと思うのですが、どうもその、顔が……」
「顔がどうした」
「華国のお人ではないように思います」
「ここへ呼んでくれ」
 村長が何か合図した。
「我が華国軍には、夷域・属国から徴用された兵もいる。全てが華人ではない。華人でないからと言って、不審なものということはない」
 村長は安堵の表情で大きく肯いた。
「こちらでは、石切り場の手伝いなどをしながら、皆とうまくやっております。不審者だとか脱走者だとか、そういうものではないと思っております」
 その時、部屋に男が入ってきた。疲れた顔をしている。かといって、醜いわけではない。寧ろ整い過ぎた顔だ。日焼けはしているが、一見して判るほどに、肌や髪、目の色が薄い。確かに華人ではない。不審がられるのも仕方ないだろう。村人たち同様の服装で、髪は髷も結わずに後ろになでつけている。 
 ホン・ロンはその顔に見覚えがあった。随分前のことだから、確信は持てなかったが、見覚えのある顔だった。

  2.

「名前は?」
「……覚えていない。ここでは、シンと呼ばれている」
 その男は敬語を使わない。ティエンは「こいつ、まともな華国語も話せない」と吐き捨てた。「この辺りでは、名無しの遭難者をシンと呼ぶ慣習があるので……」と、村長がとりなすように申し添える。
「そうか、これを持て」
 ホン・ロンが傍らに立てて置いた刀を投げ渡すと、男は癖のある動作で受け取った。
「構えてみろ」
 腰を落とし、独特の型をとる。
「佐官殿、こいつは夷域から徴用した野蛮人に違いない。こんな屁っぴり腰では使い物にならん」
 それは北夷の国、邦の正統な剣術の構えだった。ホン・ロンは、隣の副官に気取られぬよう素っ気なく言い放つ。
「邦人だ。顔立ちで判る。故郷や家族のことも、全く覚えていないのか」
 男は黙って頷いた。
「身元の分かるものは何か持っていなかったのか」
 また男は頷き、村長がまた助け船を出す。
「助けられた時にはそういったものは何も持っていなかったようです」
 どうしたものか。ホン・ロンは考えあぐねた。しかし、本人が覚えていないというなら、そうしておくのが良い様にも思う。嘘をついているなら、無防備にあんな構えを見せることもないだろう。考えがまとまらぬまま、男のガラス玉のような瞳を見ていると、押し込めてきたものが苦いものが湧きあがってくる。

 父の支配する邦へ移り住んだ少年の日、ホン・ロンは常にこの男を意識していた。自ら邦を離れたのも、この男の影から逃れたかったからかもしれない。
 華国が邦に服従を迫った時、月将軍嘉袁は徹底抗戦を唱えた。華国は、邦の内部分裂を狙って、嘉袁と敵対する土将軍寧安と手を組んだ。そして嘉袁に謀反の疑いをかけ、邦王の手で処刑させたのだ。この後、王家は温存されたものの傀儡政権となり、実質は華国から派遣されたホン・ロンの父が邦の統治者となった。
 月将軍は邦の民に絶大な人気があった。その忘れ形見である火群は、王家の血を引いていることもあって、邦の独立を願う人々の期待を一身に集めていた。
 美しく、賢く、強い。何事にも秀でた王子よりも王子らしい高貴な御子。
 民は火群の登場を待ち望み、ホン・ロンはそれ以上であることを父に求められた。旧王国の象徴たる火群よりも、華国による新しい統治者の後継者たるホン・ロンの方が次代の王子に相応しくあらねばならない。ホン・ロンは様々な資質に恵まれていたし、努力家でもあった。幼い頃より文武に励み、人並み以上だという自信は本人にもあった。しかし、火群とて、当然、然るべき教育を受けていた。ましてや邦の伝統的な歌舞や武術といったものまで、生粋の邦人と競わされるのは、ホン・ロンには荷が重すぎた。
 同時に、ホン・ロンは自分が火群の立場を奪っているのだという思いに取りつかれていた。そのことで父に反発し、仲違いもした。
偶然、火群の母が謀反を企てていることに気付いたホン・ロンは、父に知られぬ前に、出自や身分、ありとあらゆるものを火群から奪い、華本国軍に無名の兵として放出することで国外に逃がした。月将軍の子であることも、王家の血をひくことも、神前で棄てさせた。さもなくば、母と妹を殺すと脅して、棄てさせた。本意でなかろうと、一度国の神に誓約した以上、違えることは許されない。利用する価値も、殺す価値も無い、そんな人間にしたのだ。
 火群を助けるためにやったことだったが、同時に残酷な打算を働かせている自分にホン・ロンは気づいていた。
――これでこの男に脅かされることはない。
 これで火群本人と、その母、妹の命を守れたのは事実。互いにこれで良かったのだと、納得しようとした。しかし、納得しきれなかった。罪悪感は取り返しがつかないほど大きくなり、ホン・ロンも邦から逃げ出すしかなかったのだ。

 今、目の前に自分が全てを棄てさせた男が、自分を過去から逃げさせ続けている男が、いる。

 同じ目をしていた。そうだ、同じ目だ、と思った。

 蛍火はあどけない少女だった。世間知らずで、善良ではあったが思慮深くもなく、無邪気で……まさか妹だとは思いもしなかった。自分の素性を打ち明けても、求愛するまでは、臆することなく振舞っていた少女。まさか嘉袁将軍の娘、火群の妹だとは。偶然知り合った娘に好意を持ち、妻に迎えようとその素性を調べたばかりに、その母の謀を知ることになってしまった。
 ホン・ロンは、辺境の地で巡り合った男に、偶然以上のものを感じていた。自分の尾をくわえこんだ蛇のように、終わりのない因縁の環に取り込まれている。幼稚な感傷だと独り苦笑する。気の重い任務を前に運命などというものを意識するのは、ただ単に己の無力さから目を逸らしたいだけなのかもしれない。
 逃げても、逃げても、逃れられない。何かに絡め捕られるような感覚。ホン・ロンは、ただ恐れた。

 その夜、ホン・ロンは、硬い寝台に敷かれた毛氈に寝そべり、久しぶりに女のことを思い出していた。村長から提供されたのは、調度らしい調度もない、がらんとした清潔な土壁の小部屋。その天井の何もない一点を見つめる。
 あれは寺の二十日講会だった。赤い錦に金の刺繍。美しい装束に身を包んだ舞師が花のように揺れている。胡蝶の舞だ。十八歳のホン・ロンは目深に笠を被って邦の武人になりすましていた。境内の石段に腰を掛け、膝にのせた画板の上でせっせと絵筆を動かす。
 昔は四六時中絵を描いていた。邦の街並みや人々、祭礼や習俗……絵にしたいもの、脳裏に焼き付けておきたいものは沢山あった。雨のにおいが混じるひんやりとした空気。木々の深い緑。木造の塔には甍が連なり、釉が艶やかに光る。どんなにあの地を愛したことだろう。それらを皆、描きとめたかった。
 輪郭を墨で追い、朱を散らす。誰かの無遠慮に覗き込む目を感じて、手を止める。無防備なその気配……小さな子どもかと思って見れば、身なりの良いおっとりした十五・六の娘だ。名を尋ねると「胡蝶」と悪意のない嘘が返ってきた。
 今まで生きてきて、自ら妻に迎えようと思ったのはこの女ただ一人だけだったのだから、何か特別な美徳があったはずなのだが、それが何だったのか、ホン・ロンには今でも思い当たらない。容姿は確かに端麗であったが、他にも美しい女と出会う機会はあったように思う。手に入れることができなかった女だったからかもしれない。妻妾に迎えなくとも、一度でも自分のものにしていたなら、もうとっくに忘れていたかもしれない。
 もともと邦人は華人に比べて肌も髪も瞳も色が薄いが、蛍火の色の白さは特別だった。陽の光の下では透けてしまうのではないかと思うほどで、どこか儚かった。からかうと眉をへの字に寄せて、頬を上気させた。警戒心を持たぬ娘の顔は話をしているうちにどんどん近くなる。何度、抱きしめようと思ったことか。しかし、そうすれば壊れてしまうようでできなかった。
 「胡蝶」の本当の名が蛍火で、処刑された嘉袁将軍の娘だと分かった時、この娘を娶ることで自分も邦の人間になれるのではないかとすら思った。後から考えれば、それはお粗末で短絡的な打算であった。王家の血を引く蛍火の母は、火群を擁立する一派に担がれて、杜撰な謀反の計画に加担していた。ホン・ロンが思っている以上に、その恨みは深く……当然と言えば当然のことであった。
 ホン・ロンは、火群にも蛍火にも国を棄てさせた。自分が見逃しても、早晩、父に知られる。父ならば、それを口実に嘉袁将軍の縁者を一掃するだろう。自分のしたことは、彼らの命を助けるためだったのだ。そう自分に言い聞かせながらも、納得できない。目の前から火群を消し去りたかっただけではないのか。蛍火だけなら……妾一人守ることぐらいはできたはずだった。結局、自分は火群を怖れ、その妹を側に置くことを怖れたに過ぎない。
 考えれば考えるほど、ホン・ロンは自己嫌悪に陥った。耐えられず、自らも邦を離れ、華都へ上り、父の下から帝直属の中央軍へ移り……何もかも忘れたかったのだ。

3.

 寝苦しい夜は、拍子抜けするほど穏やかな朝を連れてくる。それは暫くの事であったが、気持ちを切り替えるには十分だ。ホン・ロンは自分の職務に専念することにした。
 辺境の地図ほど、あてにならぬものはない。他者に目を向けさせたいものしか記されていないからだ。華国から持参した地図には、亜城の村人が物資を入れる津の存在すら記されていない。陸路・水路を押さえずして戦は勝てない。ホン・ロンは正しい地図を作ることから始めねばならなかった。
 村長から地の利を知る男を一人借り、数名の兵を連れて周辺を回った。副官ティエンに留守居させ、シンを連れて行く。案内させても村の男が全てを見せてくれるとは限らない。肝心の交易の場所や相手について聞き出そうとすると、男は華国語が解せないふりをする。やり取りを聞いているシンは、時々、怪訝そうな顔をみせた。
「とりあえず、津へ案内してほしい」
 男は曖昧な返事をして、動こうとはしない。黙っていたシンが口を開いた。
「今日はこれまでにされたらどうか。皆、日頃の仕事で疲れている。代わりに自分が佐官殿を石切り場へ案内しよう」
 石切り場か。この男、何を考えているやら。
横柄で、投げやりな口利き。ホン・ロンは、恐れながらも、この男に興味を持たずにはいられなかった。村から連れてきた男がその場を去るのを見送ると、シンは馬の首を返す。
「ここに来てどれぐらいになる?」
「一年ちょっと…」
「土地勘は?」
「まあ、多少」
 口が重い。話を続けるには、忍耐が必要だった。
「石切り場で手伝いをしていたのだったな」
「ここでは、野良仕事は女子供がすることだ」
 礫の目立つ荒地から岩場に抜けた。赤っぽい砂岩の洞窟の入り口にたどり着く。背面はそそり立つ灰色の岩しか見えない。
「あの崖の向こうには行ったことがない」
 そう言うと、シンは洞の中へ入っていった。ホン・ロンも後に続いて入る。中は外光をとる窓が幾つもあって明るかった。柔らかい砂岩は切り出しが容易なのだろう。洞はかなり人の手が加わっているようで、十分な広さがある。まるで倉庫だ。さらに進むと、一見して石切りの現場とわかる所に出た。
「で、ここで石を切り出して、どこへ運ぶのだ?」
 ホン・ロンが声をかけると、前を歩いていたシンは振り返ることもなく「石を運ぶには船が一番だ」と言いながら木製の分厚い扉を両手で押し開いた。
 開けた視界の奥は薄暗く、ホン・ロンには何も見えなかった。息を止めると水の音が聞こえる。暫くすると目も慣れ、岩を刳り貫いて引き込まれた地下水路と船着き場が薄らと姿を現す。
「ここが津か?」
「ここも、だ。多分」
 船着き場へ降りてみると、繋がれた船はさほど大きくない。水路が地上に出る場所で船を乗り換えるのだろう。
「どこへ通じる?」
「自分は石をここまで運んだだけだ。この先は知らない」
 水路だけ見ていても、どこにつながるのか、方角すらもよくわからない。しかし、水路は亜城のような村には生命線のはずだった。亜城と墨湖の交易は本国も気づいているが、その実態は把握されていない。
 船で漕ぎ出してみようとホン・ロンが纜を解きかけると、シンが手で制止した。
「砂漠で倒れていても、華国の兵は衣服で判る」
 持って回った言い方をする。華国の兵が水路を利用している姿が見られるのはまずい、ということか。ならば、どうしたものか。ホン・ロンは考えあぐねる。シンは無表情のまま水路の向こうの闇を見ている。
「私の任は下調べに過ぎない。大した権限を持たされているわけではない。しかし、華国に武力で強引に墨湖を蹂躙させたくはないのだ。墨湖に利のある形で交渉の席に着かせたい。ことを大きくせずに、良い方向に物事を進めたいのだ。シン、貴様ならどうする」
「そういうことは佐官殿が考えること。自分ならどうもしない」
 態々、自分からをここへ案内しておきながら、えらく素っ気ない。不貞腐れているというのとも一寸違う。興味がないといったところか。ホン・ロンは恐る恐るシンという男を見極めようとしていた。もし、この男が自分ならば……
 どちらにしろ、水路は押さえねばならない。ホン・ロンは饗応の食卓を思い出した。ふんだんに用いられた多彩な香辛料。彼等は交易の民、商人なのだ。恐らくは、墨湖とも外海とも繋がっているに違いない。どうしたらこちらの物資の補給路が確保でき、そして、相手の補給路を断てるのか。村の者が口を閉ざすなら、別の手段を考えなくてはいけない。
この周辺を押さえている「魁星」は誰なのか。ホン・ロンは、急に思い立った。
 華国全土を覆う商人の組織はと呼ばれている。広域で活動する商人たちがよりどころにする相互扶助の組織だ。そこには海賊・山賊といった輩まで含み、隠然たる力を有していた。地域ごとに「魁星」と呼ばれる元締めが存在するという。
この際、魁星の協力を得られないものだろうか。今、砂岩を一番必要とするのは……確か、砂漠に隣接する華の小都蕊では大々的な寺院造成をしていたはずだ。蕊なら、二・三日でなんとかなる。
 仕切り直しが必要だとホン・ロンは思った。華都では、亜城は砂漠の寒村だという話しか聞こえてこなかった。しかし、このどこにつながるかわからない水路を見ると、この地域一帯への見方が変わる。此処は点でしかない。
 この日は、これで村に戻った。村長は「石切り場を見られたとか」とおずおずと探るように尋ねて来た。
「ああ、見た。石切り場など初めて見た。面白かった。私の墓石はここで誂えよう」
「折角ですが、ここの石は墓石には向きません。やわらかすぎるので、風化が早い」
「それは好都合だ。墓石など早く朽ちるのがよい。華都に帰るときに、馬に引かせて持って行こう」
 村長は、安堵の表情を見せた。安心しただろう。船とは言わず、わざわざ馬に引かせると言ったのだから。そんな村長の表情に気付かなかったように、ホン・ロンは「飯にしてくれ」と言葉を続けた。

 明朝、四人の兵を連れて蕊へ向かうことにしたホン・ロンは、その中にシンも入れた。亜城に残る兵の管理を副官に委ねると同時に、陸路に作る要塞の場所とそのために必要な資材を書き上げておくように指示した。ティエンは、蕊行きの理由を知りたがったが、「有能な貴殿がいれば、ここは事足りるだろう」と言われて、片眉を少し上げた。
 蕊への道は礫砂と岩場が続く。地下水脈があまり深くない場所を通っているのか、点々と水の湧いている場所があり、厳しい道のりではなかった。馬の脚は早く進み、空は青く天は高い。シン以外の兵たちは上官がいないかのように、後ろで軽口を叩いている。
「墨湖の兵は、どんな感じかな」
「そりゃ、色黒で髭の濃い大男で……」
「見たことあるのか?」
「遊砂の兵なら見たことがあるぞ。針金のような毛むくじゃらの…」
 見たことのないものには、恐れが先行する。知識は不安を和らげるだろうと、ホン・ロンは知っていることを少しばかり話してみる。若輩の身でも、上役としての配慮は示さねばならない。
「墨湖の民は遊砂と同じ故、外見はさほど変わらない。神が違い、戒律が違う。遊砂の男は勇猛果敢で、馬上から振り下ろすのに都合のいい、反った幅広の長刀を使う。墨湖の軍がどんなものなのかは想像がつかないが、似たり寄ったりではないか」
 知識は不安を増幅することもある。兵たちは黙り込んでしまった。実際、勝手の違う相手と戦うというのは、妖怪退治のようなものだ。ホン・ロンも剣術は学んだが、馬上で斬り結んだ経験はない。華兵なら、まず遠射・長弓、それから長柄のもの、最後に刀。騎馬のまま抜刀し突き進んで来るという東夷の兵と戦うことには不安を感じる。
妖怪退治ならば、まだ良いが。
 ホン・ロンが振り返ると、シンが何か遠くを見ていた。鳥だ。小さくもない白い鳥が低い空を飛んでいる。
砂漠を飛ぶ鳥もあるのだ。見なければ、砂漠に生きている物がいることなど、気付くこともなかっただろう。些細なことでも知ってしまったら見過ごすことができなくなるものなのだろうか。
 シンは目で追い続けている。ホン・ロンはそんなシンを見ている。シンは鳥を見送ると、何かを否定するように首を振った。それから見られていたことに気づき、露骨に無表情を作った。

 蕊の街へ辿り着いたのは、燃えるような赤い夕陽に包まれる少し前だった。寺院の建設だけでなく、街路の修繕が彼方こちらで行われていて、街は活気がある。ここまで来ると行き交う人は華人が多く建物も華国風だ。ホン・ロンは少し安堵した。


4.

 宿に入ると、ホン・ロンは兵たちには朝迄の暇が与えた。一人で街の守備責任者であるペイフュン少将の屋敷を訪問するつもりだった。しかし、他の兵のように飲みにも行かず宿に籠ろうとしているシンを見掛けて気が変わった。
 こいつ、巻き込んでやる。
 離れたところから他人事のように見ているその目が気に食わない。私と同じ場所へ立たせてやる。私と貴様と何が違う?批判したいなら、言ってみろ。
 ホン・ロンは、腹の中で罵っていた。ガラス玉のような色の薄い瞳を見ると居たたまれなくなるのだ。あってしかるべき憎悪すらも見えない、虚空のような……苛立ちに背を押されて、シンを連れ出す。
 少将の屋敷では、暫く控えの間で待たされた。椅子に腰を掛けると、添机の上に多色刷りの木版画の束が無造作に置いてあった。シンは、それを手に取って興味深げに見ている。芝居絵の類だ。おどろおどろしい鬼形の女が見得を切っているように見える。華国流の技巧の絵だが、鬼女は東夷の装束を纏っていた。「砂鬼大明神」と題がついている。
「シン、それは何だ?」
「知らん。芝居の出し物ではないか」
 そこへ、ペイフュン少将が入ってきた。
「ようこそ、ようこそ。ああ、それ、良かったら持って行って構わないよ」
 対面に座した少将は四十前の長身の痩せた男だった。位階はさほど変わらず、家柄はホン・ロンの方が上だが、気さくな口のきき方をする。ホン・ロンには、それがかえって小気味良かった。
「ここ一年ほど流行った芝居で、その刷り物はお守り兼お土産として、旅客によく売れているんだ。嵩張らず値段も手ごろで、蕊土産に最適」
 少将は饒舌だった。武人と言うより、商人を思わせる柔らかい物腰。しかし、どこか侮れない鋭い目をしている。分をわきまえた上で賢く立ち回る器用さ。ホン・ロンは、少将に自分の持っていないものを感じ取る。
「妖怪の芝居の刷り物が、お土産でお守りとは……」
「ふふ、ご時世のあだ花というところでね。遊砂の情勢は耳にされているだろう」
 遊砂族は、華国に服していたが、王族による自治が認められており、一国の態を保っていた。しかし、華国は王族の内紛に付け込んで介入し、傀儡の幼王を立てることに成功する。
「さほど血も流さずに王をすげ替えたのだから、大したものだ。王権の根拠となる神宝も華都へ移されることになった。神宝に奉仕する王族の巫女も一緒に連れて、小隊が砂漠を渡ったんだが、季節外れの砂嵐が吹き荒れて……小隊の殆どが砂漠で命を落とした。小隊を率いた将と数名が隊商に助けられたが、それぞれが後でいろんなことを喋った」
 ペイフュン少将の語りは、だんだんと怪談めいてくる。
「神宝を奪われまいと、巫女が砂嵐を操り、大暴れ。そして、巫女は神宝を掴んで砂嵐に乗り、天に駆け昇っていった。芝居になって、こういった絵も作られた。これを持って砂漠を渡ると砂嵐除けになるんだそうだ」
「はぁ、それで『大明神』と?」
「語呂がいいからな。御利益がありそうだろう」
 目を剥き、禍々しく耳まで裂けた口から炎を吹き出し、大きく開いた手の指にはとがった長い爪が伸びている。人はこういうものに御利益を求めるものなのか。ホン・ロンはつくづくと眺める。
「まあ、可哀想と言えば、可哀想なんだ。季節外れの砂嵐とはいえ、調べてみれば、百年には一度か二度そういうことは起こるものらしい。しかし、巻き込まれた者たちはそうは思わないだろうし、後ろめたいことがあれば尚更だ。生き残った将は正気を失っていたが、他の生き残りの話では、どうやら彼が巫女を斬り捨てたというのが本当のところらしい。こうして遊砂王族の巫女姫君は、今では見知らぬ街で鬼の大明神さまになっているというわけだ」
 少将はシンに目を止めて、「それ、何枚でも、好きなだけあげるよ」と言った。シンは首を横に振り、手にしていた刷り物を元の場所に戻す。
 少将は別室に二人を案内し、夕食を饗した。卓の上の料理は華国と東夷が混じりあう、多彩で豊かなものだ。異国の珍しい酒もある。ホン・ロンの表情を見て、少将は軽口を叩いた。
「地方官は実入りが良くて結構だ、と、顔に書いてある」
「私の父も北方の邦に長いので……」
 地方に赴任して財を蓄えるものは少なくないことは、ホン・ロンも知っている。自身も邦では随分贅沢な暮らしをした。
「邦か。ならば、あがりはここと比べ物にならないだろう。それで、邦人をお使いか」
 少将は顎をしゃくってシンを指す。少将はシンに興味があるようだった。単に邦人が珍しいだけかもしれないが、シンの美貌なら興味を持たれるのも仕方ない。
「……邦からずっと連れ歩いてきたわけではなく、偶々、この任務で配属されただけです」
「ふむ。邦の男というのは、作り物のような顔をしているものだな。整いすぎている」
 少将の露骨な視線を無視するように、シンは手掴みで骨付き肉に喰らいついていた。少将は血のような色の酒を注いで寄越す。
「さてと、亜城に滞在されているとか。愈々、本国は、遊砂を押さえた今、墨湖を目指す、ということだろうか」
「そういうところです」
「で、何を聞きたい」
「蕊に亜城の石材が入っているはずです。誰がどのように運び込んでいるのか」
「なるほど、それで蕊に来たというわけか。水路について聞きたいのだろう」
 ペイフュンという人物は頭の回転が速い。形にこだわらず威厳を示すこともなく、抜け目なく。武人というより商人の雰囲気がある。
「水路の地図はない。恐らく墨海から墨湖へ続く太い水路があり、他に、枝別れした小水路もある。魁の商人が荷を動かしているが、水路の支配は魁ではなく墨湖の商人が行っている」
「ならば、このあたりを管轄する魁星と会えば、墨湖の商人の動きもわかるはず……」
「魁星は君に会わない」
 少将は即座にきっぱりとした口調で返してきた。其処には明確な意思が込められていた。
「私が知っていることなら教えるし、魁星に伝えたいことがあれば伝える努力はしよう」
――この人は魁と関わっている。もしかしたら、この人が魁星かもしれない。
 ホン・ロンは、ペイフュン少将を味方につけねばならないと思った。
「この街は華国と墨湖・遊砂の交易の上に成り立っている。華国と墨湖が戦になって、物の流れが止まれば、この街も終わる」
 迷惑気な少将を見ながら、本音を打ち明け、自分を曝して、協力を乞うことを選んだ。思いばかりが迸るように言葉を押し出す。
「私の裁量で戦を回避できるはずもない。回避できないなら、被害を少なくしたいのです」
「……遊砂のように」
 石を投げ込むような無遠慮さで、シンは会話に口を挿む。手についた肉の脂を布で拭い、卓の上の料理を見ながら独り言のように続ける。
「遊砂の民は、さぞかし幸せなことだろう」
 その物言いが無性に癪に障った。ホン・ロンは立ち上がりざま、シンの喉輪に手を押し込み、椅子ごと足を払う。体は抵抗なく派手に跳び、受け身をとって床に転がった。
――なぜ、こんな些細なことで、私は手を出してしまったのか。
 ホン・ロンは手の中の鈍い感覚を握りしめる。シンは、わざとらしくのろのろと体を起こし、相変わらず他人事のような顔のまま、椅子に座りなおす。
「その辺にしておいたらどうかね。言いたいことはわかるよ。他国に情けをかけられるほど、我々武人に権限はない。軽々に人の心配などせぬことだ」
 そう言うと、少将は平然と椅子に腰かけたまま倒れた盃を空け、新たに酒を注いだ。
「水路の河口を押さえ、魁の商人を遡上させなければ、墨湖への穀物供給は八割方断たれる。外海を使って対岸と直接的に船の往来ができるのは、一年の間にひと月だけだ。しかし、そういう手段をとることが誰のためになるのかは、私は知らん。知らんが、華の武人である以上、本国からの命であるなら従わざるをえない。まあ、突っ立っていないで、飲め」
 突き出された盃の酒は赤く濁っていた。

  5.

 穀物がとれない墨湖を落とすには、水路を確保して、魁の商人を止め、備蓄の尽きるのを待てばいい。魁に属する商人は複数いたが、ホン・ロンはペイフュン少将を介して、武器と食料の流れを止めるように、魁星と話をつけた。いずれ墨湖の商人とも話をせねばなるまい。どちらにしろ、少将とよい関係を築くことが大切だと考えた。
――物の流れを一時止めるだけだ。すぐに元通りにできる。少しずつ全体を和平に誘導する……
 戦功をあげて成し遂げられるようなことに、ホン・ロンは興味がなかった。
遊砂でも、本国は最小限しか兵は動かさなかった。たかが佐官の先走りであっても、被害を出さずに成し遂げてしまえば、結果自体をひっくり返そうとはしまい。
 良くも悪くもホン・ロンの父は有力者だった。少々のことは大目に見てもらえたし、ちょっとした手柄ぐらいでは「親の七光り」と言われるだけだ。どちらにせよ、ホン・ロンは人の評価というものを軽んじていた。自分がどう評価されるかということに無頓着だった。
本国には、陸上の要所数か所に堡を新設することと水路の確保による兵糧攻めを進言し、最小限の人員と物資の補給を要請した。本国から与えられた猶予は一年。この間に墨湖との間で話がつかなければ、本国から大軍が送り込まれることになる。本国は墨湖戦を楽観視していたが、それでも被害を出さずに恭順の意を示させるという若造の意見には乗ってきた。そのためにも、最小限の補給で最大の効果を出さねばならない。 
 飢えで犠牲者を出すのが目的ではない。多少屈辱的であっても交渉の席に着かねばならないと、墨湖側に思わせるのが目的だ。時間はあまりない。人員も限られている。だからこそ、こちらの策が徹底していることを示さなくてはならない。河口側から五か所の津については、力ずくで墨湖の警備兵を排除した。戦闘らしい戦闘にもならなかったが、このことで魁に属する華国の商人と墨湖の関係は一気に悪化した。

 このような強硬な措置をとったが、密かに小水路を利用して墨湖へ物資を運んでいるものがいるらしかった。ホン・ロンは、ペイフュン少将のもとへシンを使いにやって探りを入れさせる。シンは少将に気に入られており、連絡役には最適だった。
 シンは誰に対しても敬語を使わなかったが、見るからに華人ではないため、華国語が不自由なのだと周りが勝手に解釈した。実際のところ、北夷の国々は早くから公の場で華国語を用いているので、名家の出身であるシンが流暢に話せないはずはなかった。シンはもとより周囲を小馬鹿にしているところがあり、そして、どうもそういうところが少将に好かれているようだった。
 何はともあれ少将は協力的であったし、シンはいつも必要な情報を得て戻ってきた。
「女、らしい」
 シンは、ぼそっと言った。
「魁に属している商人だが、通達を無視して墨湖に食糧を運んでいる」
 奥歯に物が挟まったような言い方をする。
「その女の素性は?」
「はっきりしたことは……自分と同じような北夷の人間らしい。本名ではないだろうが、通り名は胡蝶」
 ありふれた名だった。北夷では女の名前はさほど種類が多くない。花鳥風月や人が愛でる小動物と言ったものの名を便宜上つけるだけだ。同郷の女故に口が重いのかと、ホン・ロンはシンの様子を注意深く見る。
「通達が守れないなら船荷を押さえるしかない。その女が利用しそうな水路を探し、捕縛する」
 シンもそのつもりで少将から水路の略図を預かってきていた。ホン・ロンには水路の地図はないと言っていた少将だったが、シンには提供したようだ。
「罰する必要はないのだ。暫くの間、商いは他でやってもらえばいい」
 北夷の女ということでホン・ロンは気を使ったつもりだったが、シンは、黙ったまま、図面に線を引いている。
「なぜ、女は魁に従わずに、商売を続けているのだ。商人は、多かれ少なかれ、強引でなければやっていけないのだろうが……」
「……女は、墨湖の有力者イル大人のお気に入りだ」
 同じ年頃の娘を失ったばかりだった大人は、商談に現れた女を娘分として遇するようになったのだという。大人とその女の間には利害以上に親子のような絆があるらしい。
 利害以外で動いているなら、女には大人を裏切るわけではないということを説くしかない。納得はしないかもしれないが、これ以上、荷は運ばせない。ホン・ロンは、気負い立った。

 場所を選び、罠を仕掛けて時を待った。
 灌木の茂みでも、闇が深ければ身が隠せる。深夜、小水路が幹水路へと合流する場所に兵を潜めさせていた。川の流れる音の中に、時折、鳥の気配が混ざる。
 長い緊張に飽きて、今宵はもう来ないかと諦めかけたとき、水音が変わった。船を目視してから、合図し、進行方向に仮設した水門を閉めさせた。松明を持った兵士が陸上で船を囲み、それから後方の水門も閉じる。船乗りたちは武器を手にして兵士とにらみ合っている。
「船荷を墨湖に運ぶなと、聞いていなかったのか」
 声をかけても、返事はない。
「おまえたちの頭に話がある。出てこい」
 船乗りたちはざわつき、やがて立派な体躯の中年男が前に出た。
「頭は北夷の女だと聞いているが」
 すると、荷の上に座っていた子供が立ち上がった。他のものが肌脱ぎしたりしている中、全身の殆どを暑苦しいぐらい布で覆っている。筒袖の上着、細い袴、手甲に脚絆。頭巾を外すと、それは女だった。ホン・ロンが、もう二度と逢うこともないと思っていた女だった。

「武器は積んでいません。墨湖の命の糧を運ぶことが罪ならば、どうぞご随意に」
 松明の揺れる明かりに照らされた女の顔を見ながら、これは幸運なのか、不運なのか、ホン・ロンは判じかねていた。
 自分の知っている胡蝶なら、説き伏せることもできるのではないか。「胡蝶」と名乗っていることにも希望を感じた。しかし、この女が邦を出た後、どう生きてきたのか、ホン・ロンは知らない。
――私のせいで、国を棄てたのだ。今更、何を話す。
「佐官殿、御指示を」
 シンの声でホン・ロンは我に返る。シンの顔を見たが、無表情のままだ。
「北夷の女だ。見覚えはないか」
 シンは首を横に振った。見覚えがないのか、十五年以上も会っていないから顔が分からないのか、それとも……
「佐官殿、御指示を」
 過去から逃げてきたはずだった。ホン・ロンは唇を噛む。
――動じている場合ではない、今は……
 当初の予定通り、船と船荷を没収し、船乗りを河口の津に留め、女は亜城に連れて行くことにした。
 女が墨湖の大人と懇意だというならば、やってもらわねばならないことがある。
 割り切れるものと割り切れないもの。諦めていた何かが自分の中でせめぎ合い、うねるのを感じる。冷静に慎重に事を運ばなくてはならないのは分かっている。それでも内側から抗いきれない何かが波のように押し寄せてくる。
 大事を成しとげるだけの冷徹さを。そう欲しながら、何か得体の知れないものに引き込まれていくような無力さを、ホン・ロンは感じていた。

  6.
 
 胡蝶は、邦の武人嘉袁将軍の娘で、真の名を蛍火という。火群の五歳下の妹である。
 将軍が斬首された後、再嫁した母に伴われて商人の養女となった。一家の不幸は、あまりこの娘の心に傷を与えなかった。幼すぎたのだ。自分を可愛がってくれた兄は少し思い出せても、家に寄りつかなかった父将軍については明確な記憶がなかった。
 養父烏鵲は嘉袁将軍が目をかけていた商人で、将軍の失脚とともにその商いも傾いていった。それでも妻という形で身柄を保護した嘉袁将軍夫人には臣下の礼を取り続け、援助を惜しまなかった。将軍夫人には隔てを以て接した烏鵲であったが、幼い蛍火との間には父娘の温かい関係を築いた。養父に愛されて、蛍火は比較的恵まれた少女時代を過ごす。
 蛍火は実父とのかかわりの薄い娘だったが、さらに、実の母親との関係は険悪と言ってよいものだった。母が自分に流れる王家の血を誇り、手元にいない嫡子火群を盛り立てることを望めば望むほど、養父との穏やかな生活を愛する蛍火との溝は深まった。蛍火は商人の娘として分相応に生きていきたかったのだ。
 十六の時、寺の二十日講に通い、蛍火は奉納舞の絵を描いているホン・ロンと出会った。顔を上げるまで華人だと気付かずに、その手元を覗き込んでいた。魔法のように滑稽な戯画が筆から滑り出てくる。ホン・ロンは一枚描き終るとそれを突き出し、蛍火は咄嗟に眼前のそれを掴んだ。
「貰ったら、有り難うと言って名前ぐらい教えてくれるものだ」
 顔を上げた男が華国人であったことに驚きつつ、感じの良い若い異性だということに蛍火は動揺した。
 思わず絵を受け取ってしまったものの、名を教えるような軽々しい振る舞いもできない。その時の舞の演目が「胡蝶」だったから、とりあえず胡蝶と名乗った。
「胡蝶ね、ふふん」
 ホン・ロンは鼻で笑った。書物の中でしか恋を知らなかった世間知らずの娘は、その悪童のような笑顔であっけなく恋に落ちた。
 それが恋であったのは間違いなかっただろう。しかし、少女は恋に恋していたのも事実であった。相手が自分の親の敵とも言うべき相手だと知ると、ますます自分の恋を運命的なものと思いこむようになった。諦めねばならない理由がはっきりすればするほど、自分の感情がゆるぎない劇的なものに思えた。
 ホン・ロンの側に上がる話もあったが、受け入れられるはずもなく、そうこうしている間に母の謀反が発覚する。ホン・ロンの計らいで、蛍火は養父とともに邦を逃れ出た。
 蛍火にとって、ホン・ロンは命の恩人となり、思いは体内で結晶のように固まっていった。邦を出て、養父の商売を手伝って辺境を旅しながらも、蛍火は過去の思い出に恋したまま、時を過ごしていたのだった。耐えること、思い続けること……それが世間知らずな娘の恋の証となった。

7.

「佐官殿の馴染みの女で?」
 亜城の村へ戻ると、副官が意味ありげに小指を立てた。「そうだ。大事に扱え」というと目を丸くする。
――下品な男だ。
 ホン・ロンは、眉間にしわを寄せた。
 自室へ連れて行き、改めて良く見てみると、胡蝶の顔にはさすがに昔の少女らしさはなかった。しかし、年相応の色気とか、女らしいふくよかさとか、そういったものとも無縁で、陶器の人形のように硬く熟していない感じがする。髪を小さな髷にしているので、とても頭が小さい。
 胡蝶は、ここまで別に反抗するわけでもなく言われるままに従っていた。途中で顔を出したシンの顔を見て少し驚いていたが、それについての感想を口にすることもなかった。面差しは良く似ている。シンが見るものに緊張感を強いるほどに整い過ぎていて、かつ陰気であるのに対し、胡蝶の顔にはどこか親しみを感じさせるような大らかさがある。シンがさっさと部屋を出て行くと、胡蝶は硬い表情に戻った。
「お義父上は、烏鵲殿は、お元気か。今、どこにおられる」
「元気にしております。どこぞの空の下で」
「こちらでの商いは長いのか」
「いえ、さほど」
 ホン・ロンの中で残酷な感情が頭を擡げる。
「私のことは、恨んだか」
 胡蝶は固まった表情のまま、長い沈黙の後で「いいえ」と応えた。
「では、忘れたのか」
「はい」
「そうか」
――恨みもせずに、忘れたか。
 過去の重さの違いを知ることは、ホン・ロンを傷つけた。ホン・ロンにとって、胡蝶は単純でわかりやすい少女のはずだった。
「なぜ、通達を守らなかった?」
「荷を運ばねば、墨湖の民が飢えます。貧しいもの、弱いものから飢えていきます」
 こんなことを言う女ではなかったとホン・ロンは思った。正論を振りかざすような物言いはしなかった、と。
「なぜ、墨湖を従わせたいのですか。もう、沢山の国を従えてきたではないですか。地上の全ての国を従わせなければ、満足できないのですか」
「私になぜかを聞くな」
「あなたは卑怯です」
 女の色の薄い目が真っ直ぐホン・ロンを見ていた。
 同じ目だ。
 ホン・ロンは苛立つ。
 卑怯者と呼ぶ側の人間の方が、むしろ幸せなのではないのか。怨嗟を向けられようとも、好きでこの場に立ったわけではない。どのように罵られようと、自分は何一つ、自ら欲したものを力で手にしたことはないのだ。
 それでも、卑怯だと。
 やり場のない怒りで、目の前がぐらぐらと動いた。
「私にできることは、墨湖の被害を小さくし、尊厳を守って交渉の場に立たせることしかない」
「お情けで守ってもらうようなものは、尊厳ではありません」
 責められるほどの罪を自分は犯したか。飲まねばならない毒を飲んできただけではないか。
 震えが止まらなくなった。
 女の白い喉に手を伸ばした。ペイフュン少将の前でシンを引き倒した時と同じ感覚だ。色の薄い目は大きく見開き、怯えた表情を見せる。
 危うさを目にしたとき、その崩れる時を待つ緊張感に耐えられずに、自ら破壊することを選んでしまう人間もいる。ホン・ロンにはそんなところがあった。
 力で人を支配するということがどういうことか。どうせ責められる身ならば、手を汚し、他を蹂躙して欲するものを手にすればいい。
 女は、力なく形ばかり抵抗した。悲鳴を上げたり、助けを呼んだりはしなかった。そうしたところで、誰かが助けに来ることもなかっただろう。
 長い間、大切に思っていたものを、ホン・ロンは自分で踏みにじった。守ってやる必要のない尊厳だったのか、自分に問うことも放棄した。思考を停止して、手に入れたものを見た。
 記憶の彼方でどこか美化してきた思いは薄汚れたただの欲に成り下がり、偶像は木偶になった。それでも手の中にあった。
「私になぜかを聞くな。私に何ができる」
 ずっと見開いたままだった女の目が、閉じた。
――これで、その目で責められても納得できる。私は正真正銘の卑怯者だ。
 胡蝶はその背中を静かに柔らかく抱いた。まるで子供が捨て犬を抱くような、愛も思慮もない、ただの柔らかさだとホン・ロンは思った。

  8.

 なぜ、御自分を傷つけるのです。
 胡蝶は言葉を飲みこむ。今、この仕打ちを受けた自分がそう言っても、さらにホン・ロンを傷つけるだけ。ホン・ロンは、決して自分に見せようとしない大きな暗い虚のようなものを胸に抱えている。埋めることなど、自分には到底出来ない。そんな気がした。
 あの時もそうだった。
 叶わぬ恋で傷つきたくない。無理やり終わらせるしかないと思っていた恋が、終えられないものだと知ったのは、相手が自分に払った犠牲の大きさに気付いた時だった。
「なぜ、あんなこと、なさったのです」
 二度と逢ってはならないと思っていたにも関わらず、直接、顔を見て問わずにはいられなかった。立ち寄りそうな場所に足を運び、小さな寺院の祭礼で稚児行列の絵を描いているホン・ロンを漸くつかまえた。邦の国では比類なき権力を持つ男を父に持つはずのその人は、無心に絵筆を動かしている。まるで、目の前のものを必死に描きとめることで、それ以外を見ないようにしているかのように。そんなホン・ロンに、蛍火は思ったままの言葉をぶつけてしまった。
「何のことだ」
「剣舞です、あの奉納舞です。貴方様は邦のことをよく御存知です。邦の者より、深く御知りです。なぜ態々、人に笑われるように舞われたのですか」
「私が下手くそだっただけのことだ」
 軽薄さを装い、自分を悪者に仕立てる。それがこの男の習い性なのだと気付いても、なぜそこまでと思わずにはいられない。
「いいえ、貴方様は」
 兄を貶めぬために、泥を被られたのでしょう、それはなぜ。
 乱暴な言葉が問いを遮る。
「そなたのためだとでも言わせたいか。自惚れるな」
 問うても答えてはくれまい。自分のためだけではないのかもしれない。胸に空いた大きな虚がそうさせるのかもしれない。それでも、蛍火は確信した。もはや恋は終えられまい。自分は一生、「胡蝶」として生きるのだ。傷つくのが嫌でも、再び相見えることがないとしても、これは運命。
 男が民の前でわざわざ笑いものになることを選んだのを見た時、それは逃れようのないものだと思った。
 国を捨てることになった時も、男は言った。
「私は、そなたを利用した。だから、恨んで、忘れろ。」
 いつもそうだ。そうやって、いつも、いつも……
 埋められなくても、せめて胸の虚ごと抱きしめることができるなら。
 しかし、今、胡蝶は、実際、どう振舞えばいいか分からなかった。異郷での再会はあまりにも突然で、何の心の準備も出来ていなかった。誇りを忘れた慎みのない女と思われてしまえば、軽蔑されるのではないか。恩ある養父や大人に迷惑をかけて平気でいるような厚かましい女とも思われたくない。ただでさえ、ホン・ロンは、以前にも増して大きな虚を抱えているように見え、もはや自分のような女には何の価値も見いだせないのではないかとも思う。
 心を乱すのはそれだけではない。ホン・ロンの傍に仕える邦人らしい兵。あの兵は何なのだ。自分の顔を見ても眉一つ動かさない。兄のはずがない。冷淡なほど、自分に全く関心を示さなかったではないか。そう思いながらも心が騒ぐ。
 自分の置かれた状況と立場と感情とに折り合いをつけられぬまま、胡蝶は混乱していた。

9.

 武人が現地で女を調達するのはよくあることだ。
 皆がそれを普通に受け入れ、二・三日も立たぬ間に、胡蝶は妾としてホン・ロンの身の回りの世話を受け持っていた。
 シンと胡蝶が互いを兄妹と気付いているのかどうか、ホン・ロンには判断できなかった。他の華国兵や亜城の村人は、二人が似ていても、北夷の民はこんな顔立ちなのかとしか思わないだろう。しかし、邦人を見慣れているホン・ロンにすれば、二人が他人には見えない。二人も互いを意識しないはずはないと思うのだが、どちらも気付いているようなそぶりを見せない。
 ホン・ロンは、胡蝶に解ってもらいたいとか、許されたいとか、心を開いてほしいとか、もはや、そういうことは何も期待していなかった。配下の者たちの身柄を押さえられている以上、胡蝶一人逃げ出すわけにはいかないだろう。恨み言をいうこともなく、淡々と過ごしていること自体が、自分への無言の批判のように思える。心の伴わない腕の柔らかさに痛みを感じつつ、それでも執着する。
今まで自分に許さなかったことを踏み越えて、堕ちていく感覚にホン・ロンは襲われた。
 人から見たら自分はどう見えるのか。シンは自分をどう思うだろう。どう思われても仕方のないことだ。自分で踏み越えたのだ。そう思いながらも、シンの顔はまともに見られない。見る必要はない。自分はこの隊の将、シンは兵にすぎない。恐れる理由はない。
 貴様の妹を犯した。何か問題があるか。
 頭の中でそう口汚く弁ずる自分を嫌悪する。
 しかし、シンの態度に変わったところはなかった。むしろ、以前より丁寧な応対で、突き放すような物言いが減った。思い切って、
「魁の女の扱いを、どう思う」
と、尋ねると、
「別に」
と言い、珍しくその後に言葉を続けた。
「女の扱いと、墨湖の扱いは、分けて考えた方がよいかと」
 ホン・ロンは、胡蝶を使うつもりだった。
 胡蝶は、もはや一方的な愛玩物でしかないような気がした。この女に愛されることはなく、利用することでしか繋がることができない。だから、必要なときには利用する。利用するしか、この女を自分のものにしておくことはできない。
 ホン・ロンは自分を痛めつけ続けていた。
「女に、墨湖の大人との交渉をさせる」
 シンは顔色を伺うように見ている。ホン・ロンも、シンの顔に軽蔑の色が浮かばないかを見ていた。
「私の女だ。問題ない」
 シンは特に表情を変えることはなかった。
 堕ちていく。
 罪悪感と焦燥と孤独。ホン・ロンはもがいていた。

10.

 砂嵐だ。
 目を閉じていても分かる。体の周りの空気が暴れ、切れるような音を立てる。やがて耳がおかしくなって、わんわんと詰まったような耳鳴りだけになる。
 誰かが俺の上衣の胸元を引っ張っている。俺も手放してはいけないかのように、不自然な姿勢のままで何かをつかんでいる。
 華奢な女の肩。誰だ。
 俺には妹がいたはずだ。いや、こんなところにいるはずはない。どこかで幸せに暮らしているはずだ。そのために棄てた。もう関わってはいけない。
 風が静まって、耳鳴りが止む。恐る恐る目を開けると、俺は何もない砂漠に一人で屈みこんでいるだけだった。俺を引っ張っていたものも、俺がつかんでいたものも、そこにはない。感覚は残っているのに、何もない。
 これはいつもの夢だ。繰り返し見る、意味のない砂漠の夢。
 遭難した自分は砂嵐を怖れているのだ。だから、こんな夢を見る。いや、解せぬ。この夢は決して怖くない。この砂のどこかから何かが俺を呼んでいる。それは漠として思い出せないが、間違いなく自分の失くしたもので、体内の中の何かと引き合うように懐かしい。
 いつもの夢と同じように、俺はその何かを探し始める。そして、いつもと同じように砂に埋もれて眠る女を見つけるのだ。女だと分かるのに、何故か顔は見えない。妹や母ではない。もっと生々しい女。見えもしないのに、そう感じる。
 この女に恋焦がれたことがあったのか。だから、こんな夢を繰り返し見るのか。俺が失くした何かというのは、女の事なのか。俺は女に惚れたことがあったのだろうか。どうもしっくりこない。第一、惚れた女なら、なぜ、顔が分からない。
 砂を払っても、払っても、女の顔は見えない。掻きだした砂は見る間にさらさらと滑り落ちてきて、きりがない。
 その時、一つ、異国の名が思い浮かんだような気がした。
「イェ……」
――いけません――
 一瞬浮かんだ名は、消えてしまった。甘ったるい花の香りがする。砂で顔を隠したまま、女が泣いている。思い出してやらねばと思うが、花の香に包まれると次第に夢から引き離されてしまう。
 香りを振り払い、無理に夢にしがみつく。再び砂を掘り返そうとすると、後ろから誰かが俺の袖を引っ張った。振り返ると、そこには華国人らしい少年が立っている。黄褐色の肌、太い濃い眉、黒々とした強い目。十歳ぐらいだろうか。簡素な装束だが、麻は見るからに上物で、見事な細工の飾り帯をつけている。しかるべき武家の子だ。こんな夷域の砂漠にいるような子供ではない。
「どうした、何だ?」
「助けて。砂が街を呑みこんでしまう」
 少年の指差す先には、ぼんやりと都市の城壁らしい灰褐色のものが浮かんでいる。
「心配はいらぬ。蜃気楼だ。惑わされねば、畏れる必要はない」
 指差したまま、何か言いたげに、じっとこちらを凝視している。
「父上、母上はどこにおられる。送ってやろう」
 少年は蜃気楼に目を向けた。
「帰る場所はない。貴方と同じ」
 急に、この少年を知っているような気がしてきた。もしや、この少年が帰れないのは自分の所為ではないのか。妙に不安になり、少年の両肩を掴んで、その強い目の高さまで屈む。
「坊が言うように、砂があの街を呑みこむなら、猶更、あそこに行ってはいけない。それに、人が砂を止めることなどできない。家の者と逸れたなら、とりあえず、俺と一緒に来い」
「嫌だ、あそこへ行く。一緒に来てくれないなら、一人で行く」
 駄々をこねるように体を捩って俺の手から逃れると、少年は蜃気楼の方へ歩き出した。ひょこひょこと右足を引きずっている。
「あれは蜃気楼だ。追いつけるものじゃない」
 強引に捕まえて、肩に担ぎ上げるが、手足をばたつかせて派手に暴れる。
「おい、いい加減にしろ」
 急に肩が軽くなった。砂が舞いあがり、視界が急に悪くなる。
――クスクスクス――クスクスクス―――
 誰かが笑っている。子供の声。あの少年か。いや、女の子の声もする。
 誰なんだ。誰でもいいから、蜃気楼など追うな。戻ってこい。
――クスクスクス――クスクスクス―――
 笑い声と一緒に、甘い香が周囲を満たしていく。全身の感覚が溶けていく中で、意味のない夢に意味を探す。外側から形を失っていく俺は、一瞬、冷たく濡れた柔らかい唇が耳朶に触れるのを感じた。

11.

 ホン・ロンは、本国から補充した兵を要所に配置し、墨湖への食糧輸送を止めた。この状態で、何としても話し合いに応じさせねばならない。本国に介入させないためにも、出来る限り目立たぬように水面下で……ホン・ロンは、ペイフュン少将を頼りにして交渉の相手を探ってもらっていたが、少将自身の腰は重い。
「墨湖は、有力商人などから選ばれた代議員の評議会が最高決定権を持つ。王がいるわけではないから、遊砂のような首のすげ替えではすまない。代議員を根こそぎ味方につけねば、事は動かない。まあ、君が頑張るのだな」
 少将の言うことはもっともだった。少将は、ホン・ロン程、楽観的ではなかったし、自分に火の粉がかかるようなことは避けたいと思っていた。その一方で、どこかこの若者の行動を後押ししたいという気持ちもあった。あくまでも、自分に不利益にならない範囲でということではあったが。
 何はともあれ、少将がこの地域の魁を抑えてくれたことの意味は大きかった。それだけでも感謝せねばなるまい、とホン・ロンは思っていた。
 胡蝶を利用することは、思い切りがつかぬまま、先延ばしにしてきたホン・ロンだったが、手持ちの時間が尽きる前に、然るべき相手と交渉を始めねば、意味がなくなる。墨湖を戦火で蹂躙したくない。味方の被害も最小に抑えたい。胡蝶に納得させるしかなかった。

 ホン・ロンが自室に戻ると、胡蝶は衣服をたたんで片付けていた。手を止めて立ち上がり、茶の支度を始める。
「茶はいい。こちらへ来て、座れ」
 ホン・ロンは長椅子に座り横に招いたが、胡蝶は正面に来て膝を着き、頭を下げた。
「そなたの知っている墨湖の話をしてくれ」
「……商いの国ですが、皆、誇り高く、絵や音楽、詩を好み、街は美しい。対岸の異国とも定期的な交流をし、砂漠に咲く碧の花と称えられています」
 陳腐な言葉だと、ホン・ロンは思った。邦も美しい国だった。祭礼には、花のように色とりどりの衣装の舞師が、典雅な音楽に合わせて揺れた。しかし風土や人にどれほど愛着を持とうと、自分は異物でしかなかった。胡蝶が墨湖を思おうと、墨湖の人間になれないのと同じに。
「私が、本国の命に背いて兵を退いたとしよう。どうなるか、わかるか」
「あなたやあなたのご家族が華国に罰されるでしょう」
「そうだな。本国の父母、兄弟姉妹、妻も、無事ではすまない」
「わかっております」
「わかってはいない。私が退き、家族が罰されても、この地には次の将が軍を引き連れてくる。その将が墨湖を落とせなければ、次の将と兵が差し向けられる。私が兵を退いても、少しの時間が稼げるかどうかだけの問題だ。私が退かなければ、墨湖の民に配慮ができるかもしれない」
「そのようなこと」
 胡蝶は両手で顔を覆って蹲った。ホン・ロンは強引に左腕をつかんで体を起こさせた。胡蝶は暴力を振るう時のホン・ロンを見るのが嫌だった。自分が苛立たせているのだと感じ、どうしていいのかわからなくなるからだ。眉をしかめ、目を閉じて顔をそむけている。
「私に手をかせ。墨湖のために」
「できません、御恩のある大人を裏切るようなことは」
「そなたが色仕掛けでつかんだ商売相手を、か」
 大人との関係を揶揄された胡蝶は声を上げずに暴れた。しかし、つかまれた腕を振りほどくこともできず、ただじたばたしているだけだった。
――なぜ態々侮辱してしまうのか。
 ホン・ロンは、非力な女を力で押さえつけている自分に苛立った。
――なぜ、私はこんな言い方をする。
 左腕をつかんだまま軽い体を床の上に引きずり倒し、暴れる足の上に腰を下ろし、両腕を完全に床に押し付けた。
「私とともに手を汚せ」
――大切に思うものに憎まれる痛みを、そなたにもくれてやる。
 自分の中の醜いものが噴き出す。
――壊してしまえ。何もかも、壊してしまえ。
「それは、本当に墨湖のためになるのですか」
「ああ」
「大人のお命は守っていただけますか」
「約束する」
 押さえつけていた体から力が抜けた。手を離し、腰をあげた。見下ろすと、女は離されたままの姿勢で、宙を見ていた。
――なぜ、こんなことを繰り返してしまうのだろう。
 感情の箍が外れる。自分が女に暴力をふるうなど、思いもしなかった。なぜ、冷静でいられないのか。望んで女を痛めつけている残酷な自分がいる。これが私なのか。
 
 ホン・ロンは部屋を出た。頭を冷やす必要があった。
――やろうとしていること自体はさほど間違っていないはずだ。冷静さを欠くことが問題だ。あれが私をどう思おうとも、それは大したことではない。そうだ、今更、もう……それは大したことではない。
 馬で集落を離れて、石切り場に向かった。目的があったわけではない。地下水路は封鎖しており、兵を配置していた。石切り場の入り口にはシンがいた。腰を下ろし、柔らかい岩肌に小刀で何かを彫っている。
「何をしている」
 声をかけるまでホン・ロンに気が付かなかったようだった。
「……暇つぶしを」
 見られたくなさそうに、彫っていたものに手で影を作った。手を掴んでどかせると、粗々とした人の顔のようなものがあった。
「何か思い出せるかと思ったが、駄目だった」
「全く何も思い出せないのか?」
「遭難する前のことは何も覚えていない。ただ…」
「ただ?」
「女が砂の中で眠っていた」
「女?」
「だが、顔がわからない。気味が悪いから思い出したいと思うが、出てこない」
 シンは小刀で石の顔の真ん中を打った。
「貴様の女か」
「たぶん、違う」
 二人は洞窟の入り口の側で腰を下ろし、岩壁に寄りかかって高い空を見ていた。
「自分が誰かわからないというのは、どんな感じだ」
「自分が誰かということに囚われずに済む」
「私は囚われているのか」
「辛ければ、囚われているのだろう」
 無関心を装いつつ、シンもホン・ロンを観察している。
「女はどこかに囲っておけばいい。墨湖とは無理に交渉せず、本国から将軍が大軍を率いて来るまで待てばいい。……と、ペイフュン少将は言っていた」
「貴様なら、そうするか」
「……わからん。佐官殿がこだわっていることもわからんではない。ただ、俺には思い出せない女の顔程の意味もない」
――意味がない、か……。
「女に、墨湖の大人と交渉させる」
 シンは、珍しく、悲しげな顔をした。
「それは前に聞いた。決めたなら、迷うのはやめたらいい」
「貴様には全てが他人事か」
「自分には何かを変えることはできない。そう思っている。それが、佐官殿と俺の違うところだ」
――私と貴様は、そんなに違うか。
 遥か彼方、遮るもののない開けた視界の中を白い鳥が通過する。何か目印になるものがあるのだろうか。ホン・ロンは一瞬、気をとられた。シンもそれを放心したかのように目で追っている。見送った後、我に返ったようにこちらを見た。
「迷われるな。力になれることがあれば、手を貸す」
 思いがけない言葉だったが、ホン・ロンには強ち上辺を取り繕ったものとも思えなかった。

  12.
 
 ホン・ロンは、副官に知らせることなく、会談の準備を秘密裏に行った。場所は、ホン・ロンが掌握済みの領域で一番内陸に位置する津に設定する。捕えておいた胡蝶の配下の船乗りたちを放ち、大人と連絡を取らせる。胡蝶には文を書かせた。もはや抗うことはなかったが、酷く憔悴して見えた。それでも、物事は動いているとホン・ロンは自分に言い聞かせる。

 会談の当日、ホン・ロンは僅かな手勢を連れて、津で待った。胡蝶も伴い、シンを側に置く。約束の時をやや過ぎて、船が下ってきた。武装した男たちが、ぞろぞろと船から降りてきて、その後ろから武具を身に着けていない恰幅のいい老人が現れる。
「大人様っ」
 駆け寄ろうとした胡蝶の腕を、シンが無言のままつかんで乱暴に引き戻した。
「イル大人。ご本人のようだな」
 ホン・ロンは本人が出てくるかを一番危惧していた。老人は胡蝶を一瞥し、真っ直ぐ威圧するような目をホン・ロンに向けた。
「話があって呼んだのだろう。聞こうではないか。まずは、私の娘を離しなさい」
 シンが手を離すと、胡蝶は大人の側へ駆け寄り、足元に伏して許しを乞うた。
「そなたのせいではない。何も関わってはいけない。あちらへ行って耳を塞いでいなさい」
 大人は胡蝶を抱き起こし、シンの方へ押しやった。その時、大人はシンの顔を見て、「ああ、君か」と言った。
「この者を御存じか」
 大人は感慨深げに大きく頷いた。
「砂漠で死にかけているのを私の隊商が拾い、墨湖へ連れ帰った。服装から華国兵と判ったから亜城に送った。墨湖と華は国交がないが、華の遭難者などは亜城に帰している」
 座を指すと、大人は黙ってそちらに向かった。大人の手の者と、華国の兵が一定の距離を置いて向かい合う中で、会談を始まった。
 華国を宗主国として藩属してもらわねばならない。従ってくれれば、国は残せるはずだ。従順であれば、攻撃される理由は減らせる。……説得力のないことを言っているという自覚は、ホン・ロンにもある。
 大人は目を閉じて聞いていた。そして、「服従するぐらいならば、滅んだ方が良い」と言い、目を開けた。
「そういう考え方も、ある。華国は強い。墨湖を攻め落とすことなど容易いだろう。それでも我々にも誇りはあるのだ。……しかし、私の命運は尽きている。半分死んだような身になってみれば、誇りよりも、より多くの者の命の方が惜しいと思う。皆を説得してみよう」
 意外なほど、あっさりと受け入れられたことに拍子抜けしつつ、ホン・ロンは手を差し出す。分厚い手で握り返されても、何か狐につままれたような気がしていた。
「佐官殿は、運命というものを信じるか?少し、不思議な話をしよう」
 そういうと大人は語り始めた。

 彼是、十五年ほど前のことだ。私は商用で密かに遊砂の都に行った。墨湖と遊砂は断交しているから、滅多に足を踏み入れることはない。しかし、遊砂の装束を身に着けてしまえば、もともとは同族だから、外見から墨湖の民とは気付かれることはない。
 墨湖と遊砂の一番の違いは信仰だ。せっかく遊砂の都に来たのだから神殿の見学をしていこうと考えた。我々の神ではないから、拝むためではない。どんな建物で、どんなふうに祀られているのか、といった興味からだった。物珍しさで神殿をうろついていたら、不思議な娘に会った。
 白い衣を着た、十にも満たぬ娘だった。美しい容貌だったが、なぜかかわいらしいとは思わなかった。むしろ大人びた表情は不気味ですらあった。娘は私の左手の腕飾りをくれという。磁石を付けた特注品で貴重なものだったから、私は断った。
 すると、その娘は、「私に下さったら、一人の命が助かり、その者があなたの大切なものを助けるでしょう」と言った。それでも躊躇していると、「あなたは下さいますよ。それに、これはいずれあなたの手に戻ります」と言う。気持ち悪くなって腕飾りを渡すと、娘は礼を言い、「あなたは大切なものを失うでしょう。しかし、あなたはその代わりを見つけられるでしょう」と言った。
 高価なものを寄進したのだから、代わりではなく、大切なものを失わないようにすることはできないのかと尋ねると、できないと言う。そして、この腕飾りが巡り巡って戻ってきたら、その時には命の終わりが近いので心穏やかに過ごすようにと言った。喜捨した人間に対して、あんまりな予言ではないかと思ったが、娘は「全ては環の一部に過ぎず、全ての結果は何らかの原因となります。あなたの命も、私の命も、善きことを生み出すためにあるのです」と言う。訳の分からないまま、頭を下げ、再び頭を上げた時にはもう姿はなかった。
 奇妙な出来事だった。それでも十年近く何事もなく時間がたって、忘れていた。娘が子を産み損なって死んで、嘆き悲しんでいる時に胡蝶と出会うまでは、奇妙な予言を思い出すことはなかった。私には、息子は何人もいるが、娘は末子の一人だけで、何物にも代えがたい宝だった。息子たちも、妹を可愛がっていた。
 胡蝶の外見は、決して娘とは似ていなかった。しかし、早く一人前の商人となって父親の役に立とうと懸命に振舞っている様が娘を思い出させた。これが、代わりなのだと私はすぐに気付いた。
 そして、一昨年、砂漠で拾った男の腕にこれがあったのを見て、私は自分の運命を悟った。

 大人は、腕をめくって玉石のついた腕飾りをホン・ロンに見せた。
「胡蝶を娘分としたのも運命、あれが佐官殿を連れてきたのも運命、そして私の腕飾りを着けて砂漠から生還した男がここにいるのも。私はそれを受け入れて、次へ繋げよう。私の尽きる命が、善きことを生み出すように」

 大人との会談は、無事終了した。不思議な話は、なんとも言い難かったが、大人がそう信じていることで穏便にことが進んでくれるならば、それでいい。ホン・ロンはそう思った。大人が墨湖の有力者の意見をとりまとめてくれることを期待した。

 ホン・ロンが亜城へ戻ると、ティエンが待っていた。この件では、ティエンに話をしていなかったので、露骨に嫌な顔をしていた。「自分を差し置いて、どこの馬の骨ともわからぬ卑しいものを重用されている」とブツブツ言っている。
「貴殿のことは尊重している。シンは歳が近いから、使い走りをさせるのに勝手がいいのだ」
「佐殿は、邦でお育ちだから、北夷の人間が好きなのはわかっております。華人より夷域の人間の方が、心が通じるのでしょう」
 ホン・ロンは、内心、この副官を軽んじていた。言わせておけばいいと、気にも留めなかった。無能な人間程、人の足をひっぱることに労力を注ぐものなのだということなど、ホン・ロンには思い及ばぬことであった。

 何はともあれ、会談は無事済んだ。ホン・ロンは軽い疲れを感じた。部屋に戻ると、先に部屋に入っていた胡蝶が灯りを点けずに寝台に伏している。
「これで済んだ。もう、何もしなくていい」
 珍しく優しい言葉が出た。
「悪かった」
 できることでも、やってはならないことがある。勢家の息として、属国に住まいしたからこそ、決して自分に許さなかったこと。それを踏み越えた自分を悔いながら、胡蝶を手放すことができない。
囚われているのは、胡蝶でなく自分なのだ。
 言葉で償える筈もない。髪を、背を、撫でた。
 随分長くそうしていて、それから、そのままホン・ロンは胡蝶の横で眠った。疲れで押し寄せてくる眠気の中で、ただ柔らかいだけの腕が自分を抱くのをホン・ロンは感じていた。



13.

 大人の尽力で、墨湖との交渉が可能になり、正式なやり取りが進められた。墨湖国内の反対勢力がなくなったというわけではないが、彼らにとっての国家とは相互扶助のためのものであって、忠誠を尽くすようなものではなかった。武力でなく交渉で優位に立つことを志向するのは自然なことでもあったから、墨湖側も交渉の場を持つことを望んでいた。誰がそこで主導権を握るかの方がができた連中には重要だった。
 何にせよ、ホン・ロンには物事を決められる場ができたことがありがたく思えた。墨湖との交渉内容については本国に報告し、武力での制圧は不要であることを主張し、その上で上級指揮官の指示を仰いだ。
 自分の階級では、この地の責任者ということにはならないことは、ホン・ロンも分かっている。本国から派遣されてくるのは将軍相当のはずだ。そうなれば、墨湖の運命はその将に委ねられる。それまでにできる限りの手は打ちたかった。
 ホン・ロンは、細心の注意を払っているつもりだった。

 しかし、ある日、予告なく華国軍が大挙して出現し、墨湖を包囲した。
 まだ猶予はあったはずだった。
 今、兵を送り込まれるような手抜かりはなかったはず。兵を率いてきたフォアビン将軍を亜城に迎えると、ホン・ロンはすぐさま面会を求めた。
「貴殿がホン・ロン殿か。今までご苦労だったな」
 将軍は熊のような立派な体躯で、豪快な口髭と顎鬚を蓄えていた。
「予定よりも早いお出ましかと存じますが、何か不都合でも」
「うむ、貴殿が夷狄の人間に情を通わせ過ぎで、華国の利益が損なわれている、という声を漏れ聞いたのでな」
「そのようなことはございません」
「まあ、予定より少し早く着いただけのことだ。これからの指揮は私が執る。いろいろと情報を整理したいから、貴殿の副官を借りたい」
「はっ」
 ホン・ロンは頭を下げながら、思わぬところで副官に足をすくわれていたことに気付いた。慥かに、あの男は好きではなかった。距離を置きつつも配慮してきたつもりだったが、不満を抱いて本国の将軍に注進していようとは。

 ホン・ロンは亜城の留守部隊の責任者に留め置かれた。フォアビン将軍は大軍を誇示して墨湖を包囲し、強引に交渉を終えた。将軍の下で、墨湖は新政府を樹立したのだった。
 ホン・ロンは完全に蚊帳の外となった。それでも下交渉があったからこそ、穏便に事がなったとホン・ロンは思いたかった。欲しかったのは手柄ではない。流れる血が少なく済んで、墨湖の民の手に政が残れば、それでいい。
 フォアビン将軍は、墨湖内に華国兵を連れて入った。ホン・ロンは、亜城と墨湖を行き来していたが、落ち着くに従って墨湖に住まいすることが多くなった。その役目は、専ら今までの後始末であり、それが終わりしだい任を解かれて華都へ戻ることに決まっていた。
 武人としては不遇な扱いだが、やることはやれたとホン・ロンは思っていた。

 墨湖との交渉が自分の手から離れたことで、ホン・ロンはようやく胡蝶と向き合う余裕もできた。墨湖や華、邦を話題にする必要もない。胡蝶に案内させて墨湖の街を歩き、昔のように戯画を描いた。それを見て胡蝶は笑った。笑う胡蝶の顔にもう無邪気さはない。笑っていても、昔のままではない。変わって当然なのだが、ホン・ロンには、全てが自分の償うべきことのように思えた。
「もうじき、私は華都に帰る。そなたは連れて行きたい」
 胡蝶は何も答えなかった。それでも、こうして時を積み重ねれば、いつかはとホン・ロンは思った。

 そんなある日、不穏な動きがあると、ペイフュン少将から曖昧な警告の手紙がホン・ロンの元に届いた。真意を問うべくシンを蕊に送り出した直後、大人一家・使用人とその家族までが連行されたという知らせが入り、事情が呑み込めないまま、急いで将軍のもとに向かう。
 将軍が司令部兼住宅として使っているのは接収した豪商の別邸で、街の中央の広場に面して、豪華な作りを存分に示していた。大理石の柱やタイルが艶やかな光を放つ中に、無粋な兵士の姿が幾重にも映り込む。慌ただしく駆け降りる兵とすれ違いながら、将軍の執務室へ向かった。
 扉を叩き名乗ると、入室の許可が出た。中に入ると、将軍とその配下の者、そしてかつて自分の副官だった男がいた。
「都に戻る準備が済まれたか」
 将軍は、上機嫌で、昼から一杯ひっかけているようだった。目の端に朱を指したように見える。ティエンがにやにやしながら言った。
「いやいや、折角ですから、面白い見世物が済んでから御帰りいただくのが良いかと」
「面白い見世物?それより、なぜ、今、イル大人を捕える理由があるのか、教えていただきたい」
 取り巻きが露骨な嘲笑を見せる中、将軍はそれをなだめるように言った。
「理由など、問題ではない。佐官殿はお若い。属国を服従させるにはいくつかやり方があるが、これもありふれたことだ。貴殿の父上も、邦ではさほど変わらないことをされたと聞いているが」
「イル大人は反対派ではなく、我々に対して極めて協力的でした」
「ああ、だが、もっと協力してくれるものもいる。それに、あやつは人望がありすぎる」
「それが理由でしょうか?」
「理由など問題ではない、と言ったであろう。三日後に広場で処刑を行う。ここで、盛大に見物の宴を催し、華国の威を墨湖の民に知らしめる機会とするから、貴殿もそれを見物してから都に帰られるとよい。父上からも舅殿からも、宜しくと文を頂いておる」
 教え諭すような言い方が、ホン・ロンには不快だった。
「いずれ貴殿も人の上に立つ身になるのだから、覚えておくのだな。あやつには欲がない。欲がない人間というのは扱いにくいのだ」
 愚弄しながらも、ホン・ロンの父と舅殿の手前、言葉を取り繕っている。ホン・ロンは、それが今まで自分が必死にやってきたことの結果なのだと思い知らされた。

 ホン・ロンが宿所に戻ると、蕊へ行ったはずのシンが帰ってきていた。途中、少将の使いと出会い、墨湖へ戻るようにいわれたとのことだった。その際にシンが使者から聞き出したことと、将軍の言ったことと併せて考えれば、ホン・ロンにも何が起こっているのか理解できた。将軍は、大人に対立する一派を手なづけて、この機会に旧保守派を一掃するつもりなのだ。同時に、戦いがなかった分、派手に処刑を行うことで、墨湖の民に華国への恐れを植え付けようとしているらしい。
 血を流さぬために戦を避けた。なぜゆえ血を流すことに拘る。
 あまりに理不尽だとホン・ロンは思うが、全く策が思いつかない。もはや将軍を止めるには、上位の者へ働きかけるしかない。しかし、父のつてを頼るにしても、三日では、文すら届けられない。
 ホン・ロンは頭を抱えた。
「もう、術はない。諦めたほうがいい」
 シンが珍しく気遣う言葉をかけて寄越すが、ホン・ロンは諦めきれない。
――誰か頼れないか。少将の進言では軽い。遊砂はどうだ。遊砂の幼王を動かせないか。シンを蕊に送り、駄目元で、少将に遊砂王へ働きかけてくれるように頼もう。水路を利用すれば、蕊への行き来は二日。蕊から遊砂へは……駄目だ、やはり間に合わない……
 それでも諦めきれず、ホン・ロンはシンを再び蕊に送った。自分の手札がない以上、情けないことだが、他人の見えない切り札をあてにするしかない。シンは「女に気をつけろ」と言い残し、直ぐに立った。 
――何かないか。俗世の理で止められないなら、あとは神だ。
 この処刑が、墨湖の神の怒りに触れるような忌があるなら、民の暴動を招きかねないとごねる理由にもなる。将軍が知らなくても知れば従わなくてはならないと思うような理由があればよいのだ。ホン・ロンは、早速、墨湖の神官を呼んで話を聞いてみるが、何も理由を見つけられない。それでもこじつけられるような何かないか、探させてみる。……しかし、最早、何かしているということで、自分を慰めているにすぎなかった。

 食事をしていなかったことを思い出し、ホン・ロンが自室に戻ると、胡蝶の姿が消えていた。荷物を持ち出した様子はなかったが、部屋はきれいに片づいている。誰も出かけたのを見ていないという。
 もう、帰ってくる気はないのだろうとホン・ロンは思った。
――恨み言も別れの言葉もなく、あれは出て行った。
 引き出しを開けると、ホン・ロンが買い与えた装身具がきれいに並んでいる。胡蝶が欲しがったのではなく、商人が持ってくるものをホン・ロンが片端から買い求めたのだ。こんなもので機嫌がとれると思ったわけではなかったが……引き出し一杯の愚行を見下ろす。
――大人の命は守ると約束した。その約束を守れない私の側にいる理由はないのだ。
 昔の胡蝶は自分に対して特別な感情を抱いていたと思っていたが、それはあの時に終わってしまっていたのだとホン・ロンは思った。
――いつも、そうだ。空回りして、一人で疲れ果てているだけだ。
 ホン・ロンは酷い眩暈に襲われた。自分のしようとしたことは何だったのか。胃の腑から何かを引きずり出されるような感覚を覚え、何も口にしていないにも関わらず、嘔吐した。

14.

 万策尽きた。ホン・ロンは大人との面会を頼んだが、叶えられなかった。叶えられたとして、今更、何を大人に語りかければよいのか、本人にもわからなかった。
 思っていたより早く、シンが帰ってきた。ホン・ロンには、シンが戻ってきてくれたことは心強く思えた。ホン・ロンの顔を見ると、シンはまず首を横に振った。落胆することでもなかった。
 少将はあまりこの件には関わりたくないというのが本音であったが、ホン・ロンにも情が移っていたので、大人のことは助けようとせずにやり過ごして早く華都へ帰れという助言をシンに託していた。
「一応、少将は帰り際にこれを持たせてくれた」
 シンが取り出したのは、以前に少将の家で見た「砂鬼大明神」の刷り物の束と、それとは別の刷り物数枚だった。
「なぜ、これを?」
 別の刷り物の方は、生きているように精緻な肖像画だった。遊砂風の美女が神々しく描かれている。文字も書かれているが、古式な遊砂文字で判読できない。
「一昨年、砂漠で死んだ巫女だ。華国の人間は鬼の大明神と面白おかしく芝居にしたが、遊砂では神宝を華国から守った聖女として崇めるようになった。華国からの独立を望む遊砂の民はこんなものを作って、巫女をもてはやしている。遊砂王も無視できなくなって、神宝と巫女が砂漠に消えた月を聖女の月と定めた。このひと月の間、遊砂では、華国への不服で投獄された者の恩赦が行われ、ありとあらゆる刑の執行が禁じられている」
「今が、遊砂の忌月だということか」
「そうらしい。……そんなことぐらいしか思いつかないと少将は言っていた」
 遊砂の忌月。墨湖と遊砂は、もともと同族にしろ、神が違う。遊砂の忌を持ち出しても、説得力に欠ける。しかし、ホン・ロンはこんな無理やりなことまで考えてくれた少将を有難く思った。それは、東夷に詳しい少将にも密かに隠し持っているような手札はないということでもあった。
 ホン・ロンは、嘆息した。
 二種の刷り物を見比べると、同じ巫女の姿を描いたものとは到底思えない。鬼気迫る恨みの形相の大明神と、静かに慈愛に満ちた微笑を浮かべた聖女。どちらも本当の姿ではないだろう。そうあってほしいと願う人の心の中の姿を描いたに過ぎない。
「遊砂の王は、聖女の月に凄惨な処刑が行われれば、不快に思うだろうな。王が不快であっても、墨湖のことに口を挿むわけにもいくまい。また、将軍がそれを気に留めないとなれば、意味がない」
 悪足掻きだ。自問自答するホン・ロンの傍らで、シンも刷り物の女の姿を見ていた。ホン・ロンは、まるで長年自分の片腕だったかのように深刻な顔で絵を見ているシンに気が付いて、不思議な気分になった。
「何かいい案は思いつかないか?」
 シンは頭を振って、刷り物を私に渡した。
「いい女だ。だが、策は思いつかない。なるようにしかならない」
 こんな時に、シンのような男が、刷り物を見て「いい女」などと言うとは。冗談一つ言わない男だが、それなりに気遣ってくれているのか。
 ホン・ロンには不思議だった。シンが自分に寄り添おうとしているように思える。まるで保護者のように。自分も気が付けばそんなシンに頼っている。シン、いや火群が自分を恨んでいないはずはないのだ。本当に全く覚えていないのだろうか。記憶がないふりをして自分に取り入り、密かに復讐の機会を狙っているといったことを想定するべきなのかもしれない。しかし、ホン・ロンにはどうもそうは思えなかった。
 いずれにせよ、なるようにしかならない。そう覚悟するしかなかった。

 為すすべなく処刑の日を迎えた。それでも、ホン・ロンはぎりぎりまで説得を試みる。将軍やその取り巻きに刷り物を見せながら、今が聖女の月であることなどを説明したが、一笑に付された。少将からもらった刷り物のうち、肖像画風のものは見向きもされなかったが、砂鬼大明神の芝居絵の方は皆の興味を引き、束で持って行った絵があっという間になくなった。
「砂漠の鬼女か」
「これは面白い。国元に送ってやろう」
「土産話になるな」
 説得できると思っていたわけではなかったホン・ロンだったが、やりきれない気分になる。
「佐官殿、心配召さるな。遊砂の神が怒り、鬼女が出たら、我らが成敗してやる」
「おうおう、そのために腰の刀があるのだからな」
 あからさまに腰抜けと嘲われながら宴の間に入る。広場に向いた大きな出窓があり、将軍以下ぞろぞろとそこへ並ぶ。正面には処刑台が準備されていた。
 広場は民衆で埋め尽くされていた。大人はすでに処刑台の上に立たされており、その家族、家の者、使用人などが手足を縛られた状態で、丸く一か所に集められているのが見下ろせた。悪趣味に仰々しい銅鑼が鳴り、それを合図に、将軍が出窓から民衆に手を振った。
 大人は堂々としたものだった。儀式めいた作法で華国兵が大人を跪かせ、木の台に首をのせた。
 此の地に神が在るというならば、ただ我が罪を赦せ。
 ホン・ロンの心の臓は鉄の爪で握りつぶされるような悲鳴を上げる。断頭人が細い刀を振り下ろしたその瞬間、全ての音が地上から消えた。わんわんと頭の中で揺るぎだけが共鳴する。ホン・ロンは、丸いものが桶に転がり落ちるのを見た。
 再び、銅鑼や様々な鳴り物が賑々しく雑音を放つ。
「さあ、宴にしよう」
 将軍は室内に戻り、着飾った墨湖の女たちが料理や酒を運び始める。後の処刑は酒を飲みながらじっくり見物する、ということらしかった。ホン・ロンは大人の首が台の上に晒されたのを見届けてから、最後に室内に入った。
 自分の席につくと、扉が開いて酒器を奉げた女が一人入ってきた。他の女たちよりも仰々しく着飾っており、威儀を整えるための太刀を模した飾りを腰に下げている。それは、墨湖で最も格式ばった正装であり、宴席に侍る女人の装束ではない。女は抱えていた酒器を胸の高さまで降ろし、顔を上げた。それは胡蝶だった。
 邦人である胡蝶が墨湖の正装をしているというのは奇妙な光景で、皆が異様なものを感じて、辺りはざわついた。何をしに来たのか。ホン・ロンは連れ出さねばと焦るが、既に人目が集まっている。
「将軍、あれが佐官殿の例の女で……」
 ティエンが厭味をこめて、態々周りに聞こえるように将軍に御注進する。
「ふうむ、北夷の女とは血の通わぬ人形のようだな。肌が白すぎる。だが、それもまた一興。佐官殿御執心の女の顔をよく見せてもらおう」
 将軍が盃を突き出すと、胡蝶は酒器を再び高く掲げてそのまま前に進み、丁重に頭を下げた。何かをやらかす前に止めねば。ホン・ロンは益々焦るが、止める術がない。その時、胡蝶はごろりと酒器を落とした。拾ってやるふりをして、ホン・ロンが前に出ようとした、その一瞬のことだった。
 胡蝶は前に屈み、腰の太刀飾りの鞘に仕込んでいた一尺ほどの直刀を取り出した。前のめりになって低い姿勢のまま、将軍に体当たりする。胡蝶が悲鳴に似た声を上げて刀を引き抜くと、将軍はその場にずるずると崩れ落ちた。
 全身に鮮血を浴びた胡蝶は、手を震わせながらも、周囲を睨みつけていた。時折、威嚇するように刃物を振り回すが、武術の嗜みがないのは明らかだった。このままでは斬り捨てられる、取り押さえねばとホン・ロンは身構えるが、なぜか他の将も兵も手を出さずに遠巻きに見ている。不思議なにらみ合いの時間があった。

「砂漠の鬼女だ…」
 誰かの呟きが、不自然なぐらい大きく響いた。

 ホン・ロンは、皆が手を出さない理由に気付いた。
 先ほど土産にと各々が手にした「砂鬼大明神」の刷り物と違わぬ姿の女がそこにいる。ぎらぎらと光る色素の薄い瞳、血の気の感じられない白い肌。血まみれの異形。自分たちの知らない夷域の鬼神の姿に、皆が恐れを抱いたのだ。
 周囲を見回すように睨んでいた胡蝶の目が、ホン・ロンに止まった。
――ああ、そうだな。
 将軍を手にかけた今、そなたが差し違えてもと思う相手は一人しかいない。

 不器用に刀を握り直し、引き裂くような声を上げて向かってくる女の顔を、ホン・ロンは呆然と見ていた。
 もし、砂漠で死んだ巫女が鬼になったとすれば、今の胡蝶のような顔をしていたのかもしれない。そう思いながら。

15.

 目前に迫る女の顔を見ていた。体がぶつかる衝撃を感じたが、痛みはない。
「……蛍火…」
 唸るような低い声がごく身近から聞こえた。
 シンが体で女を止めていた。ホン・ロンの体にぶつかっていたのはシンの体だった。兵が長槍で脇から突き、シンと揉みあっていた胡蝶の体が床に崩れ落ちる。シンも膝を着き、血で汚れた顔をこちらに向けた。
「……女は死んだ。祟りがあるぞ。早く遺骸をここから出さねば」
 下賤な兵の言葉ではあったが、諸将、誰も異議を唱えない。血まみれのシンは鬼女とよく似ていた。まさに、異形の一類。その言葉は禍々しく、有無をも言わせぬ雰囲気があった。他の将が言葉を発せずにいることを良いことに、ホン・ロンはてきぱきと目の前の怪異の始末を差配した。戸板で女を自分の宿所まで運び出すよう兵に命じ、シンもともに下がらせる。

 胡蝶の一突きで将軍は死に、この後の処刑は急遽、中断・延期となった。

 勿論、将軍を手にかけた犯人がホン・ロンの女である以上、彼の立場は非常に厳しいものとなったのは間違いないことだった。しかし、それ以上に、皆は目の前に示された「怪異」に動揺していた。状況に対して有効な説明がなされることを期待し、それを東夷をよく知るホン・ロンに求めた。
 ホン・ロンは、今回のことで民が遊砂の巫女を連想することのないように、極力、事件の詳細を伏せるように提言した。女の遺骸は、後の障りが無いよう、人目につかないように処分すると請負う。また、遊砂王に巫女の神託を求めるなどの協力を得ることが望ましい……など、都合のいいことを至極もっともらしく語った。
 ホン・ロンは、女が大人の娘分であり、監視するために手元に置いていたこと、数日前から行方知れずになっていたことのみ弁明し、自分の処分については次に赴任してくる将の手に委ねると申し述べた。
 残った将は皆、得体のしれないものに決断を下すことを恐れ、とりあえず問題を先延ばしすることを選ぶ。誰もホン・ロンの言うことに異議を申し立てることはなかった。

 ホン・ロンは慌ただしくその場を収め、宿所に戻った。皆が怪異に目を奪われている間に、冷静さを取り戻す前に、やっておかなくてはならないことがあった。ホン・ロンは自分の配下に、今日もし何かあればシンに従うように指示しておいた。それでも、動揺している様子が見て取れた。
「どうか」
「傷は深いですが、御命にかかわるようなものでは」
 ホン・ロンが控えの部屋に入ると、簡易な寝台に横たわっていたシンがうっすらと目を開ける。
「女は無傷だ。自害しないように、拘束した」
「器用なことを」
 胡蝶の刀を右手で、兵の槍は右脇腹で受けたらしかった。激しくもみ合うことで周囲の目をごまかし、怖がって誰も側に寄らないのをいいことに、気絶させた女を「死んだ」と運び出させたのだ。自分は深手を負いながら、胡蝶の血で汚れているだけのように振舞い、あの場にいた皆を欺いた。
 シンは問いに答え終ると、うつらうつらとし始めた。
 その顔を見ながら、ホン・ロンは、邦人である武術の師の言葉を思い出していた。師は、月の武を褒め称えていた。「日を一番近くで守るのが月。身を挺し、我が肉を断っても守り抜くのが月の将の武」と。月の武は、守りの武。鉄壁の防備がその本質なのだと。
出自を捨て、名を捨てても、シンはやはり月将軍の唯一の後継。守りにこそ、その本領を発揮する。あの時、慥かにシンは「蛍火」と呼んだ。でなければ、こんな無茶なことができるはずもない。しかし、シンが守ったのは妹だけではなかった。記憶が戻ったなら、ホン・ロンが何者かも思い出しただろう。王を守るべき武でシンが守ったのは、妹と、敵ともいうべき男。ホン・ロンには、それが解せなかった。

 16.

 血を流し、痛みを抱えながら、荒れた土地を歩いている。前にもこんなことがあった。意味もなく、歩き続けている。もうここで休んで、終わりを待てばいいのに、何故か歩き続けている。
 気が付くといつの間にか礫の目立つ場所から砂漠へと変わっていた。砂漠……益々、歩くだけ無駄ということか。自然と、口から乾いた笑いがこぼれた。やり残したこと、思い残したことがあるわけでもない。望むことなど、とうに諦めていた。それでも、こうやって歩いている。
 なだらかな隆起を上りきると、足がもつれて反対側に転げ落ちた。はいつくばって顔を上げると、砂の中に小さな箱のようなものが半分埋もれているのが見えた。
 ああ、ここか。
 確信を持って、砂を掘った。全てを忘れたわけではない。全てを思い出したわけでもない。だが、彼女がここにいることは分かった。箱は手の中に納めたはずだった。しかし、箱を掘りだしても指は見えない。そこから更に三回、両手で砂を掻きだした。現れたのは手ではなく、石を彫り出したような硬い女の顔だった。深い眼窩に溜まった砂をそっと払う。ずっと思い出せずにいた顔が、そこにあった。
「貴女はこれで良かったのか。俺にはそうは思えん」
 頬を手で撫でると、まるで眠りから覚めただけのような穏やかさで女は目を開ける。それは驚くことでも、畏れることでもないように思えた。
 夢を見続けているように潤んだ瞳が宙をさまよう。額に残った砂を指で払うと漸くその焦点が定まる。
 以前、この目を真っ直ぐに見つめた。陽光の射し込む白い部屋。甘い花の香り。薄い絹の手触り。眠りにつく前の満ち足りた呪文。褐色の肌、黒い髪。美しく頑なな巫女。
「教えてくれないか。これで良かったのか」
「ええ、これで良かった」
「どうしてそう思える」
「私も貴方と同じ。逃げることで精一杯だったのかもしれない。でも、私は貴方を生かせた」
「俺を生かして、何か意味があったか」
 終わらせることもできず、意味もなく歩き続けている。逃げ続けているだけの俺を生かして、意味があったか。俺の命にそれだけの価値はあるか。
「あなたも生かそうとしているでしょう」
「俺が?」
「助ける筋合いのない人。でも、貴方はそうしたかった。戦功や政事で世を変えるような大人物でもない。貴方もわかっている。でも、生かしたいと思ったのでしょう。そうやって、人はつながっていく……ほんの少しずつ……血を流して何かを無理に変えても、世に合わないものは、また元に戻ってしまう。命を超えて、長い時を辛抱強く待つしかない。誰かを生かすことだけが未来につながる。私は貴方を生かせた。だから、こんな私の命でも無駄じゃなかったと思えるもの」
 女は幸せそうに笑っていた。

  17.

 胡蝶は、奥の部屋で、手足を縛られ猿轡をかまされて床に転がされていた。大人以外の処刑が延期となったことを告げられても、全く反応しない。視線一つ動かさず、起こしてもされるままになっている。
 ホン・ロンは、そんな胡蝶を見下ろしていた。
 大それたことなど何も考えない、平凡な娘だった。実父が死んでも養父に愛され、イル大人にも可愛がられた。穏やかに、幸せに生きていくことができるはずだった。
 自分が追いつめた。自分が壊した。
 悔やもうとも、もはや何かで償えるということはないのだと、ホン・ロンは思った。

 恐怖からその場の雰囲気に流された将たちも、いずれは冷静になる。冷静になれば、ホン・ロンやシンの小芝居に疑問を持つだろう。隠し果せるはずもない。今のうちに、胡蝶を養父の元へ逃がすしかない。この地から遠ざければ、魁が彼らを守ってくれるだろう。
 ホン・ロンは胡蝶の色の薄い細い髪をつかみ、腰刀で切り落とした。着こんでいた装束を脱がせ、下着だけにして、顔や手足、首に鍋墨を塗りたくる。この地では目立ちすぎるその白い肌を少しでも隠すために、何度も重ねて塗りたくった。自分で体を動かさない女の着替えは厄介だったが、誰にも手伝わせなかった。
 上着で体を包み、腕を持ち上げ、袖を通し、紐を結ぶ。筒袖の長袖と細袴を着けさせて、手甲と脚絆を巻いた。少しでも隠れるように、少しでも動きやすいように。祈るように胡蝶の支度を調えた。
「兄上は……一緒に逃がしてやりたいが、あの傷ではまだ馬に乗せられない。それに、二人一緒では目立ちすぎる。後で、必ず、兄上も逃がしてやるから、今は気をしっかり持って一人で烏鵲殿のところに帰るのだぞ」
 胡蝶を空の酒樽に押し込み、中身の入っている酒樽と一緒に、荷台だけの馬車に乗せた。正式な届けを出したうえで暗くなってから墨湖を発ち、亜城を目指す。ホン・ロンは亜城の留守部隊の責任者だったから、届出さえしていれば、さほど不審な行動ではないはずだった。亜城へ着くと石切り場に向かい、そこで馬から樽を下ろした。足が萎えたように立とうとしない胡蝶を肩へ担ぎ上げて、船着き場を目指す。
 繋がれていた小舟に胡蝶を座らせ、猿轡と手足の縄を外す。舟には、華国軍の過所船札を下げ、懐に魁星あての書面を挟む。
「このまま水路を下って河口まで行け。魁に保護を頼んである。少しでも、ここから遠く離れてくれ。顔はできるだけ人前に晒すな。言葉はわからないふりをしろ。頼むから……」
 生き延びてくれ、と、先の見えない真っ暗な水路に放つ女に向かって言えなかった。
「いつかどこかで、もう一度逢おう」
 胡蝶は、最早、何も反応を示さない。壊れた人形のように、そこにあるだけだった。これ以上、壊さないように、ホン・ロンはそっと舟を水面に押し出した。舟は滑るように抵抗なく流れに乗り、やがて、ゆっくりと墨のような闇に吸い込まれていった。
 
 地上のどこかでなくとも、いつか分かり合えるところで、もう一度逢おう。憎んでも恨んでも構わないから、もう一度巡り逢おう。光のない闇でも、その時をただ待つ。ホン・ロンは、残りの時間を静かに計り始めた。

18.

 胡蝶を送った後、私は亜城で幾つかの用事を済ませた。自由がきく間に少しでも後始末をせねばならない。淡々と手を動かす。
再度、蕊の少将に協力を求めた書簡を送り、今度は遊砂の人間との橋渡しを頼んだ。
 それから、邦にいる父に宛てて、文を認めた。自分は華国の将として恥じることは何もしていないということと、妻を不名誉でない形で離縁してほしいということを伝えた。父は、きっと、共感はしてくれないだろうが、理解はしてくれるだろう。ずっと反発し続けた息子のことだから、諦めもついているかもしれない。私は心のどこかで父を信頼し、頼りにしていた。父が邦に赴任しなければ、良い息子でいられたのかもしれない。言い訳をしても始まらぬ。永の別れを認めた文で、最初で最後、不孝な我が身を素直に詫びる。

 墨湖に帰り着いたときは、再び日が暮れていた。さすがに疲れを感じたが、街の中が割に平穏なことに安堵した。ことはまだ何も動いていない。宿所に戻り、自室で不在中の報告を受けてから、シンの休む部屋に向かった。
 寝台に横たわるシンは、子供のように幸せそうな寝顔を見せている。無表情なことが多いだけに、こんな顔もするのかと思った。こんな時にこんな顔をして寝ている男と、それを見て面白がっている自分とがいた。案外、人は図太くできている。
 昔、この男の剣舞を見たとき、張りつめた緊張感と威圧感に圧倒された。遭難した兵として現れた時は、一切を背負うのを止めたように見えた。忘れた、と全てを他人事のように言える立場が羨ましかった。私が将軍の息子としてぬくぬくと暮らしている間、火群は屈辱的な扱いを受けていたはすだ。それでも、羨ましいと思った。勝手なものだ。
 もし貴様が私だったら、どう生きたか。問うてみたいという気もしたが、語る人間でもなかろう。もっと、貴様とは話をしたかった。恨み言の一つも、その口から聞きたかった。

「戻って来なければ、良かったものを」
 目を開けるより先に、シンは呟いた。
「気が付いたか。具合はどうだ」
「問題ない」
「横になっていろ。落ち着いたら、蕊へ逃がしてやる」
 シンはいやいやというように手を振って、上半身を起こした。
「女と一緒に逃げたかと思った」
「ああ、そうだな」
 まるでシンの口ぶりはそれを望んでいたのかのようだ。それでは、シン一人を見殺しにするということになるのだが。
「もう、逃げ出すのは難しいぞ」
「ああ」
 寝台の横に椅子を引っ張りよせて腰を下ろす。
「シン、都にいる私の妻は、今年十三になる。母親が代筆したような文が時折来る。私が上官殺しに関わって、そのまま行方をくらましたのでは、不憫だろう」
 大人の関係者の処刑も、延期になっただけで取りやめになったわけではない。まだ逃げ出すわけにはいかない。ここで私は自分が負わねばならぬものを負う。それが私の最後の戦となろう。たとえ何一つ良い方に変えられないとしても、最後まで義を通したい。
「そうか」
 シンはいつになく穏やかな表情を見せている。私のしたことは許されることではないのに、不思議とシンからは憎悪を感じない。
「いい夢でも見たか? 寝ながら、にやけていたぞ」
「にやけて? まさか」
「うれしそうだった」
 シンは口元だけで笑みを作る。
「砂で眠る女の夢を見た」
 前もそんなことを言っていた。やはり、馴染みになった忘れられない女がいるのだろう。
「女の顔はわかったのか」
「見ようとしても、いつも顔に砂を被っていてわからなかった」
「何だ、わからずじまいか」
「さっき、初めて顔を見た。……笑っていた」
「笑っていた?」
「幸せそうに笑っていた。なぜか、泣いているではないかと思っていた。しかし、笑っていた」
「それだけか」
「ああ……」
 シンはねじって体を起こそうとし、苦痛で顔を歪める。視線の先には水注があった。碗に水を汲んで口元に寄せてやる。
「女が笑って砂漠で待っている。だから、蕊にはいかない。俺もここに残る」
 何を言い出したものか。シンは知らぬ顔で水をすすっている。
「貴様が胡蝶を庇ったのは諸将が見ている。今、逃げ出さねば、逃げられんぞ」
「それは、俺がさっき言った」
 シンが笑った。見たことのない明るい笑顔。まるで悪戯っ子のような笑顔だ。なぜ今そんな顔をするのか。
「女は笑っていた。怒っても、悲しんでもいなかった。だから、それでいい」
 独り言のように呟く言葉の意味は分かりかねる。
「残る理由は、女なのか?」
「そうだ」
「……無茶苦茶だな」
 無茶苦茶だが、そんな理由も悪くない。そんな気がした。
 シンはどうやら、最後まで私につき合ってくれるつもりらしい。何かを成し遂げることなどはできなかった。女一人、幸せにできなかった。それでも、孤独ではない。それだけで、惨めではなかった。
 女が待っている……そう思えば、もう少し頑張れるかもしれない。胡蝶は私を許す時が来るのだろうか。

 砂の海にさざめく光は、何もかもを飲みこんでいくだろう。
 聖女の月はもう満ちる。


                                                                         (終)

残照


一、
 イェリズさまの話をお聞きになられたいと。

 まあ、それは、それは……一の巫女さまが私のような者をお召しになられるとは思いもいたしませんでした。確かに、あの方と付き合いらしい付き合いをしていたのは私だけでございましょう。とはいえ、それは私が下医者であったからで、親しかったかと言われると、それは何とも。

 前王アイディンさまのご即位の後、セダさま、あなたさまはお部屋に籠もられて、近年は儀式なども神官たちのみで執り行うことになっておりましたから、いかがなされているものかと僭越ながら案じておりました。こうやってお目にかかれて、ようございました。いえいえ、私のようなものにも思うことはいろいろございますよ。
長い時が流れたものです。あなたさまの双子の妹君、先々代のオズギュル王の妃でいらっしゃったサネムさまは、もう亡くなられて10年にもなりますでしょうか。兄上であるアイディン王も御子に位を譲られました。何もかも昔のことでございますな。

 イェリズさまのことでございますか。まだお許しにはなられませんか。いえいえ、苦しい思いをされているのは、セダさまの方でございましょう。イェリズさまは何もご存知ではないし、それに今は天に召されて、もはや何もおつらいことなどおありにはならないはずでございます。それでも、あの方のお話をお聞かせした方がよろしいでしょうか。

 そうですね、あの方は人を恨むことのない方でした。人間ができているというのではないでしょう。他人が眼中になかったのかもしれません。それがあの方の処世でもございました。
 あのお方は……本当に、依怙地で可愛げのない、人の同情や共感を全く拒んでいるかのようなお人で、それはお生まれの不幸のせいでもありましょうが、もう少し何とか、人様から可愛がられるような術を身につけたらよいのではないかと、傍目からいつもそう思っておりました。木で鼻をくくったような、とでも申しましょうか。されど、もともとお立場がお悪い方でありましたから、誰ぞに愛嬌良くするということは我が身を貶めること、人におもねることと思っていらっしゃったのかもしれません。気位の高さがご自身を不自由にさせていらっしゃるようにも見えました。そんな方でございましたよ。

 イェリズさまと最後にお話をしたときのことは、今もよく覚えております。

 あれは夕刻、いやまだ早い……少し日が傾き始めたころ。私の診察用の部屋にふらりとやってこられました。粗い麻の衣を身に付け、その上に頭から背まで布で覆っておられましたが、顔はあらわで、紅をさし、珍しく玉石の額飾りもつけておられました。儀式のとき以外はあまり身を飾ることをなさらない方なので、その変わりぶりに私は一瞬ぎょっといたしました。
「これは、これは。どうされましたか」
 声をかけると、無理に作ったようなぎこちない笑みを浮かべて会釈をし、
「お願いがあります」
 と言われます。
 その笑顔を見て私はほっといたしました。なぜならば、前夜にイェリズさまは神婚の儀を受けているはずで……神官さま方には、私から意見を申し上げさせていただきましたが、ご配慮いただけたのだろうと察することができたからです。
 セダさまはご存知でいらっしゃいますでしょう。神殿の巫女が、巫女の任を解かれることなく他国に赴く際には、その純潔を異教の民に奪われる前に神婚式が執り行われます。神前で神の代行者である神官さま方と交わり、その後で女陰を縫い合わせてしまう。それが掟なのです。私は医者……それも卑しい下医者でございますから、事前に縫合の命をいただいたのですが、お断りさせていただきました。そのついでに、イェリズさまにはその必要がないことを申し上げさせていただいたのです。
 神官さま方は何もご存知ではなかったのですね。あなたさまとサネム妃、お二人でお決めになられたことなのですね。大変驚いておられましたよ。それでも式は形だけでも行わねばならないと言われましたが、私は当日、手術や薬の準備を命じられることはありませんでした。きっと、イェリズさまの身体を傷つけるようなことは儀式で行わなかったのだろうと思いましたが、それでも、もしかしたら……と案じておりました。お顔を拝見して、この方はまだ未通女のままなのだと……ほっといたしました。このようなことは、神殿に仕えるものが申し上げてはいけないのでしょうけれども。

「お薬は用意出来ておりますよ」
 私はイェリズさまに問いかけたものの、来訪の理由は見当がついていました。薬でございます。私はイェリズさまが幼いときよりずっと薬を処方しておりました。異国へ旅立たれる前に当面の分を御持たせせねばと私も心配りしていたのです。
 イェリズさまはお薬なしではいられない体でございました。月の障りの度に脂汗を流して苦しまれ、その痛みを和らげるために私は大麻の煙を薬として吸引させていたのです。夢現の様になられるので、私も処方する量に気をつけておりました。
「旅の途中、人前では煙は吸いにくいでしょう。下働きの女に頼んで、粉と牛の脂で練って、菓子のように焼いてもらいました。硬うございますし、食べておいしいものではございませんが……」
 小さな壷から硬貨のような塊を取り出し、木の皮を編んで作った筆入れほどの箱にきっちりと詰めこむと、菓子を知らぬ貧しい子どものように、物珍しげにイェリズさまは見ておられました。
「菓子にしても効くものなのですか」
「それはご心配なく。大丈夫でございますよ。煙草の方が手間はかからないので、今まで試しませんでしたが……むしろ菓子の方が良いことも多いのです」
「そうですか」
 イェリズさまは一瞬何か言いたげな、ちょっと甘えた表情をお見せになられました。
 不思議なものです。私はイェリズさまを幼いころより見ておりましたが、そんな隙のある顔は見たことはありませんでしたよ。異国の美しい若者と時をともにしたからなのかと、微笑ましい気持ちにもなりました。

 お聞き及びでございましょう。あの頃、神殿では華国の負傷兵を一人お預かりしており、その祈祷をイェリズさまがお勤めになられたのですが、心無いものが二人は恋仲だと噂したのです。折悪しく宝物の盗難があったこともあり、イェリズさまにはあらぬ疑いがかけられました。神官さまたちはイェリズさまをその兵と一室に閉じ込めてしまわれたのです。
 いえいえ、イェリズさまが神に背いてあの若者と神殿の中で……などということはありますまい。イェリズさまのお体では、とても、とても。それはセダさまやサネムさまがお望みになられたとおりの結果でございましょう。
それでも、年頃の娘が美しい青年と一部屋で何日も過ごせば、心が動かぬこともないでしょう。それは、それは、神のように美しい若者だったのですから。火群という名のその若い兵は、どこかイェリズさまと似た雰囲気のある……私などから見れば、似合いのお二人でございました。私にはイェリズさまの物腰が、年頃の娘らしく、少し柔らかくなったように思えたのです。
「ケマルさま、昨夜、私は神婚の儀を授かりました」
「……ほぉ、それは、それは。お体はお辛くございませんか」
「神官さまたちが交互に杖で私を撫でました。三世王のときの神婚の儀の記録を読んでいたので、それなりの覚悟をしていたのですが、拍子抜けするほど簡単で」
「長旅を控えた方が直前に正式な神婚の儀式をお受けになられるのは、お体の負担が大きすぎると神官さま方もお考えになられたのでしょう」
 ふと思ったのです。イェリズさまは薬を取りにこられたのではなく、私に何か言いたいことがあってきたのではないかと。神婚のことだけではなく、自分の話を私にしたいのではないかと。
 いえ、イェリズさまというのは、そういうことをなさらない方でしたから。しかし、生まれ育ったところを離れるにあたって、誰かに自分のことを知っていてもらいたい、覚えていてもらいたいとそういう気持ちになられるというのも無理からぬことです。私は椅子を勧めて、お茶を入れました。バラの香りの茶。なぜあんな気の利いたものが私の手元にあったのか思い出せませんが、湯を注いだだけでまるで香を焚いたようになります。
 小さな卓を挟んで向かい合って座りました。イェリズ様は香りを楽しむように碗を顔に近づけましたが、口はつけずにそのまま卓の上に置き、懐から一冊の本を取り出されました。
「覚えていますか」
「『オズギュル王年代記』でございますね」
 イェリズさまは本をよく読まれる方でした。神殿の書庫でお姿をよく見かけましたよ。好んで読まれるのは物語や詩の類ではなく、医学・薬学や異国の地誌、気象・天文学、兵学……学者にでもなろうかというほどでございました。書庫の本は読みつくしておられたのではないでしょうか。しかし、イェリズさまには読むことが許されていない本が何冊かありました。母上であるデニズさまのことが記されているものです。
オズギュル王の同母妹であり、王の即位とともに神殿に入られて一の巫女になられたデニズさまは、神殿でイェリズさまを身ごもられました。下医者の私が神殿勤めをすることになったのも、オズギュル王に人知れず堕胎を行うように命じられたからで……それは、もちろんもうご存知でいらっしゃいますね。王は秘密裏に胎児を処理して、デニズさまをお守りになるおつもりだったのですが、デニズさまはそれを拒み、自ら懐妊を曝露して罪人になられました。
 その後に一の巫女になられたのが、当時二の巫女でいらっしゃったあなたさま。王に一番近い巫女が一の巫女として王を助けるのが決まりですから、王とはいとこ同士で、双子の妹君が王妃というあなたさまが次の一の巫女になられるのは必然でございました。……当時のことは、私のような下賎の者がお話しすることではございませんな。
 とにもかくにも、イェリズさまは母上であるデニズさまのことが記されている書を読むことを禁じられておりました。ですから当然、『オズギュル王年代記』は読んではいけなかったのです。あの本にはデニズさまの記述があるだけではなく、何枚かの肖像画もありました。
私はそれがどうも気の毒で……お分かりいただけますでしょう、私はイェリズさまには負い目がございます。神官さまにお願いして、デニズさまの記述を塗りつぶした『オズギュル王年代記』の書写本を作る許可をいただきました。そして、わざわざ私の診療室のイェリズさまの目に留まる場所に置いておいたのです。イェリズさまが私の薬に頼るようになられて一年ほどたったころのことでした。本は自然に消えていましたよ。
「随分長い間、勝手に拝借しておりました。……言い訳ですね。盗んだのです」
「お貸ししたのですよ。薬が効いていて、覚えていないだけでございましょう。もしよければ、持っていていただけませんか」
 机の上に出された本は、私が安い材料しか準備できなかったために、実際経過した年月よりも古びて見えました。
「……ありがとう。でも、もう私には必要ないのです。ありがとう」
 そう言うと、イェリズさまは席を立ち、部屋を出て行かれました。何かお話をされたかったのではないかと思ったのですが……まあ、結局、イェリズさまは、ご自分の話を誰かにするという習慣がなかったのでございましょう。
 それが最後でございます。特にお聞かせするような特別のこともありません。それでもお話した方がよろしかったのでしょうか。

二、
 ケマル、そなたはいつも穏やかな口ぶりだけれども、何か私に物を言いたいのであろう。私が苦しんでいると……自業自得だとでも?
 私は病を得、間もなくこの世を去ることになるだろう。それでも、デニズよりも、オズギュル王よりも、イェリズよりも、長く生きた。サネムはオズギュル王の後を追うように死んだが、私はイェリズが死ぬまで生きてやった。
 苦しんでなどいない。私は勝ったのだ。

 あのふしだらな女の娘を王族として扱うなど言語道断。されど、オズギュル王はイェリズを自分の養女として神殿で育てると決められた。未通女であらねばならない巫女が生んだ父無し子を、姪とはいえ王族として認め、よりによって巫女にするとは。母と娘と、神殿に二人も汚らわしい巫女を奉じたから、オズギュル王は神罰を得たのだよ。

 オズギュルさまは、若くして武功を立てた才ある方で、父王の信任も厚く、臣の期待も大きかった。皆を魅了する方であったから、多少のことは大目に見られていたが、少々破天荒なところもあられた。しかし、神を軽んじてよいわけではない。わが妹サネム以下、妃を多く蓄えながら、跡継ぎの男子に恵まれることなく、三十前に亡くなられた。それも、酒におぼれ正気を失って、この神殿に幽閉された上での惨めな衰弱死であった。

 そうとも、惨めな死であった。言い過ぎと申すか?あれは惨めな死以外の何物でもない。何もかもあの女が悪い。デニズ、あれが全ての災いの元なのだ。

 私は七つで神殿に入った。前の年に流行り病が流行ってね。私と妹は双子でいつも一緒に遊んでいたのに、私一人が病にかかり、命は助かったものの、ひどい痘痕になってしまった。もともとオズギュルさまの許嫁はこの私だったのだよ。私が妃になるはずだった。しかし、あまりに醜い姿になったために、妹サネムに替えられ、私は神に嫁ぐことになった。
 初めてオズギュルさまにお会いしたのは、妹の婚儀の席のこと。あの方は二十歳、私たちは十五だった。正直、あのような方を夫にできる妹が妬ましかった。サネムも一目でオズギュルさまに心奪われたようで……巫女の私がこのようなことを言うのはどうかと思うが、何とも魅力的な殿方であった。悔しくなかったわけではないけれども、己の醜い顔を思えば、自分もやがて一の巫女としてオズギュル王をお助けするのだと納得するしかなかった。
 それでも嫁いだ妹からは幸せそうな文が届くと、私は正直、複雑な気持ちだった。でも、私だって妹は可愛い。サネムが幸せならそれでいい。しかし、だんだん妹の手紙には不安や寂しさが綴られるようになっていった。オズギュルさまの第一妃はサネムだが、他にも多くの妃がいる。有力な家からそれぞれ娘が嫁いでいるからしかたのないことなのだ。心をこめてお世話をすれば、きっとお心がそなた一人に向くことであろう。私はそう返事を認めた。
 しかし、サネムが気に病んでいたのは、他の妃のことではなく、オズギュルさまの同母妹であるデニズのこと。兄妹仲が良すぎることを気にしても仕方あるまい、妹君をそれだけ大切に扱うのは情が深い証拠と私は最初取り合わなかった。
 オズギュルさまが二十六で王位に就かれると、それに合わせて妹は王妃となり、私も王の一の巫女となる……はずだった。私は王に相応しい巫女であるために、日々精進に努めた。デニズが神殿に入り、一の巫女になるのだと知ったときの驚きと落胆は今も忘れられない。
 あの女は……神に仕えるような女ではない。派手な顔立ち、装束の上からも分かるほどの豊満な胸と細い腰。あれは男をたぶらかす商売女にうってつけの下品な外見だ。しおらしく振舞ってみせても、そのみだらな本質は外見に表れている。そんな汚らわしい女が、長年神殿で修行をしてきた私を差し置いて一の巫女になるとは。怒りに打ち震えた。
 オズギュル王はデニズを一の巫女にすえると、神殿内に王の間を整えて、そこに滞在することが多くなった。王宮よりも神殿で過ごされるようになり、デニズが王の身の回りを妃のように取り仕切っているような有様だった。
 私やサネムは、王とデニズにないがしろにされたのだ。こんなことが許されるはずはない。いつか神が御意思を示されるだろう。見逃されるはずはない。そう思っていた。

 そうしたら案の定、あの女はあろうことか神殿内で父親の知れぬ子を孕んだ。その上、ずうずうしくも神の子だと妄言を吐いて堕胎を拒み、出産した。
 同じ王家の血を引く女とは思えぬ。恥を知れ、恥を。
 急遽、一の巫女に任じられた私は、王にデニズを厳罰に処すよう強く申し出た。しかし、王はデニズを牢に入れただけで、子堕しのために雇ったおまえに産後の世話をさせる有様。

 若くして武勇で名を遠くに知らしめ、父王の片腕としてその才を発揮し、即位の際には「獅子王」と称えられたオズギュルさま。しかし、たった一人の同母妹の不行状には全く優柔不断だった。神にその権力を授けられている王ならば、神を軽んじるものは断じて許すべきではない。だが、ずるずるとデニズに死ぬまで治療を施してやり、生まれてきた赤子は自分の養女にしてしまった。王もまた、デニズ同様に神を愚弄するような行為をとったのだ。

 神罰はすぐに下る。
 王は狂気にとりつかれた。ご自分を遊砂都の地主神の化身とのたまって、傍若無人なお振る舞い。酒色に溺れ、王宮に多くのいかがわしい女どもを囲い込み、有力者の娘である妃たちには殴る蹴るの暴力をふるう。第五妃を臣下の前で辱め、懐妊した第三妃を階段から蹴り落とす。この二人の妃が命を絶ったことで、家臣たちももう黙ってはいなかった。オズギュル王は神殿に押し込められ、わが兄アイディンが王の病が癒えるまでの摂政と定められたのだ。

 何と嘆かわしいことであろう。
 私もサネムも、兄が王位に就くよりも、オズギュル王が正気を取り戻すことを心から願った。
 全ての元凶はあのデニズなのだ。あの女を厳罰に処せなかったが故に、王もまた神罰を蒙っている。神に生贄を捧げて許しを乞い、二度と巫女たちが同じ過ちを繰り返すことがないことを誓わねばならない。
 私は一の巫女として決断した。そうだ、この王の危機にこそ、一の巫女として決断せねばならない。
 デニズの生んだ娘を神に捧げよう。あの娘が母親と同じように悪魔の誘いに乗らぬよう巫女に相応しい体にするのだ。
 私は決めた。そして、心神喪失の王の代わりに、王妃であるサネムの同意を得た。サネムは、王妃として、王の養女であるイェリズの養母でもあったからだ。これで誰にも異論は挟めまい。
 大昔、反逆者の娘を神に捧げるときに施したという術をイェリズに行うのだ。ちょうど良い具合に、王の雇い入れた下医者が神殿にいるではないか。そうであろう、ケマル。おまえが腹の子ごとデニズを始末していたら、王が神の怒りを蒙ることはなかったのだ。おまえには自分の失態をその手で挽回してもらわねばならぬ。
 私は、一の巫女として正しい判断を下した。それは今も後悔しておらぬ。苦しんではおらぬし、自業自得と言われる筋合いもない。
私はイェリズという悪魔の娘が災いを起こすことがないように、ずっと神に祈り続けて生きてきた。そして、ついにあれが死に、私は一の巫女としての務めを終えることができる。私は勝ったのだ。

三、
 お勝ちになられたと思われるなら、それは結構なことでございます。されど、何にお勝ちになられたのか、私には分かりかねます。

 私は下医者でございます。
 遠い先祖が遊砂王に服従して以来、わが一族は賤業に携わってまいりました。堕胎と嬰児殺し、去勢、罪人の処刑、死病の看取り……普通の医者が忌み嫌うことのみが下医者の役目。私の仕事でした。

 セダさまがおっしゃるように、私がデニズさま母娘を手にかけていたなら、王は罪を蒙ることがなかった……のか、それは、私には分かりません。
 分かりませんが、結局、私はデニズさまの堕胎のために神殿に召され、何故か、デニズさま、イェリズさまのお世話をすることに相成りました。王はちゃんとした医者にデニズさまを見せたかったのでございましょうが、世を憚って私に任せるしかなかったのです。おかげさまで、私一代に限り、神官の末につながる身分をいただき、神殿の医者として生きてこられました。ですから、イェリズさまのお体に刃物を入れるように命じられたときも、そうするしかないのだと諦めもつきましたよ。

 まだ二つにもならぬイェリズさまの性器を切り取り、膣を縫い合わせる……まだ小さいお体でございましたから、切った部分はほんのわずかでしたが、体が動かぬように若い子守娘に押さえつけさせて、泣き叫ぶ声に耳をふさぐこともできず……酷いことでございました。

 術後、熱を出して、声を上げずに泣き続けるイェリズさまをしばらく看病いたしました。何せ、ずっとお世話をしていた唯一の子守娘は、突然泣き出したり、わめきだしたりと情緒不安定で、全くあてにできる状態ではなかったのです。あの子守娘はデニズさまに使えていた下女の一人でしたが、あの後、少々おかしくなりまして、イェリズさまは神の子だと口走るようになり、やがて暇を出されました。あまりにも酷いことでございましたからね、無理もないことでございます。ですから、イェリズさまのお世話は私がするしかなかったのです。灰で止血し、傷が開かぬように足を揃えて布でぐるぐると巻き、お小水を恐がるので時間を決めて便器に座らせるようにしました。しばらくは付きっ切りでございましたね。
 
 セダさまやサネム妃は王のためになさったことでございましょう。されど、王は回復なさらず、神殿で浴びるように酒を飲み、吐血されるようになりました。身の回りの世話をしようとするものには容赦なく暴力をふるわれるので、屈強な男たちもお側仕えをすることを嫌がりました。医者も寄せ付けず……ということで、駄目元で私がご機嫌伺いをするように命じられました。
 オズギュル王は私には何故か乱暴なことはなさいませんでした。お諌めしても不摂生はやめてくださいませんでしたし、薬も口にしてくださいませんでしたが、私が王の部屋で掃除をしていても、身の回りの品をお届けしても、暴力をふるうようなことはなかったのです。イェリズさまの看病がひと段落したころでしたが、今度は王のお世話が私の仕事になりました。

「私は、遊砂都の地主神の化身なのだよ」
 王は機嫌が良いときは、そうお話を始められるのです。
「地下を這うときは大きな蛇になり、地上を走るときは白い獅子になるのだ」
 王は身を変えて、遠くまで旅をするのだそうです。
「月の明るく輝く砂丘に私のような白い獅子が蹲っていた。それは遠い昔に会った友のようだった。何をしているのかと尋ねると、それが分からなくなったのだと言う。何をしにきたのだと問われたが、私も分からない」
「なぞなぞのようでございますな」
「間もなく答えは出る」
「そうなのですか」
「デニズの歌声が聞こえる。古い子守唄だ」
 古めかしい装束を身につけて化粧をし、芝居のような仰々しい動作をされることもよくありましたね。地主神になりきっておられたのでしょう。
「イェリズが獅子の子を撫でている」
 王のお心はもう遠くに旅立ってしまっていたのでしょう。何度か同じ話を聞かされましたが、私には何がなんだか分かりませんでした。

 王が亡くなられたのは、それから間もなくのこと。朝一番でお部屋にうかがうと、古めかしい装束で正装し、やつれた顔に厚く白粉を塗りたくり、寝台の上に横たわったまま、こときれておられました。厚化粧のせいか、かえって五十にも六十にも見えましたよ。
 惨めな死。そうかもしれません。そうでないのかもしれません。私にはよく分かりません。

 オズギュル王が亡くなられて、アイディン王が即位されると、セダさまは引き続き一の巫女でいらっしゃいましたが、人前に出られることなく、お部屋にこもりきりになられましたね。兄上が王になられたのに、なぜ一の巫女として王の補佐をされなかったのですか。

 私は神殿で働くことを許されていましたが、イェリズさまとはあまりご一緒する機会もありませんでした。イェリズさまと再び関わるようになるのは、あの方が初潮を迎えた頃のことでございます。辛抱強い方なのですが、ひどい頭痛と腰痛、腹痛に耐え切れずに私の診察室に来られたのです。
 切ったところが癒着しているのではないかと思いました。経血は体外に出ているようですが、体内にも多くとどまっているのではないか。早く切開して、経血が普通に体外に出せるようになれば、痛みから解放されるだろう。長年放置すれば、やがて子どもを生むこともできない体になる。問診をしてそう思いました。
 しかし、私はあの方にそれを申し上げることはできませんでした。あの方は施術を記憶していないようでした。女人は体の構造上、自分の陰部を目にすることはありませんし、人と比べる機会もなかったでしょう。恐らくは自分の体が傷つけられていることを知らず、この私がそんな体にしたのだとは思いもせずにいらっしゃったのです。
 とりあえず内診させて欲しいと申しましたが、イェリズさまは拒絶なさいました。相手が医者であろうと、親と夫以外には見せないとおっしゃられて。私は年々悪化していくイェリズさまの症状を見ながら、痛みを抑えるための麻薬を処方するしかできなかったのです。

 セダさま、イェリズさまはあなたがお望みのとおりのお体にお育ちになられたのですよ。女王蜂のようなデニズさまとは全く似ていらっしゃらない。美しい若者と一部屋で過ごしても間違いを起こすこともない。ご存知でいらっしゃいましたか。あなたさまの望みどおりでございました。

 「私が、父と母を殺したのですか」
 本当は、それがイェリズさまから聞いた最後の言葉。申し上げるべきことかどうか、迷いましたが。それがイェリズさまでございます。
 私は返事ができませんでしたが、あの方はまるで私をいたわるような目で見て頭を下げ、そのまま部屋を出て行かれました。
 あの方には、他人などどうでもよかった。ご自分が罰せられるべき罪人なのかどうか、犯した覚えのない罪を償わねばならないものなのか、それだけがあの方の関心事でございました。

 あなたさまとサネムさま、そしてこの私が、もう随分昔に神に生贄に捧げたお方でございます。あなたさまは一の巫女として、サネムさまは王妃として、私は下医者として、役目を果たしました。そして、イェリズさまは御神宝に侍す巫女としての役目を全うされました。

 イェリズさまはもうおつらい事などおありにならないでしょう。あの方には、人生の終わりによい巡り会わせがございました。神のように美しい異国の若者でございます。よい夢を見られたのではないでしょうか。あの方の短い生涯の半分は夢。夢と現を彷徨いながら、最後は夢の中へ帰っていかれたことでしょう。

 なぜ、今更イェリズさまのことをお聞きになりたいのですか。苦しい思いをされているのはあなたさまの方でございましょう。
 デニズさまは本当に美しい方でした。どのような頑なな心を持つ男の心も溶かしたことでしょう。持って生まれたあの方の女人としての資質でございます。神は決して人を等しくお作りにはならなかった。
 もう許してさしあげなさいませ。長いときが流れました。あなたさまも私も、もうさほど長くは生きられませぬ。もうこれ以上、お苦しみになられるのはおやめなさいませ。

 間もなく答えが出る……オズギュルさまのお気持ちが、今なら分かるような気がするのです。

  • 小説
  • 長編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-06-09

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 前編 砂紋
  2. Interval -残影-
  3. 後編 墨闇
  4. 残照