俺の恋人


「おはよう、起きて。ごはん出来てるよ。」
 いつもの通り、まゆの声で目を覚ました。
「早く、早く。遅刻しちゃうよ。」
 エプロン姿のまゆは、パタパタと部屋を出て行った。その後を追って布団を出て、目をこすりながら食卓に着く。
「はい、まゆ特製のモーニングセットをどうぞ。」
 焼きたてのホットケーキにメープルシロップの甘い匂いが鼻孔をくすぐる。スクランブルエッグにはケチャップで小さなハートが描かれている。ミニサラダとフルーツヨーグルト、そしてホットコーヒーだけはとびきり苦い。
「今日のお天気は快晴。傘はいらないみたい。スーツとシャツ、ネクタイのコーディネートはあれでどう?絶対、あなたに似合うわ。」
 俺が食事を口に運んでいる間、まゆは今朝のニュースや天気予報、俺の仕事上の予定まで一通り確認してくれた。食事を済ませて洗面所に行くと、歯磨き粉をつけた歯ブラシがスタンバイしている。歯を磨き、顔を洗った。タオルはふかふかで、お気に入りの柔軟剤の香りが心地いい。
 それからトイレに入り、朝のおつとめ。ちゃんと規則正しく生活しているから、今日もすっきり。トイレから出ると、俺の顔を見てまゆはにっこり笑った。
「体調もOKね。」
 着替えを済ませると、見送られて玄関に向かう。
「行ってらっしゃい。今日も一日、お仕事頑張ってね。」
 なんだか仕事行きたくないぜ、と思いつつ、まゆのためにも頑張らねば、俺。

 社宅を出ると、人の流れに乗って駅に向かい、そのまま地下鉄に飲みこまれる。社宅のくせに通勤に時間がかかる。朝から汗と脂と、決してすかっとしない整髪料の臭いにくらくらしながら、おしくらまんじゅう。俺に酸素を……と百八回念じると、職場近くの駅に着く。放り出された朝の駅は湿った空気が沈殿するように濁っていて薄ら寒い。とりあえず酸素を補給して、再び人の流れに身を任せる。
 人の流れから解放されて、だんだん寂しい通りに入っていて、俺の勤務先のある雑居ビルに到着した。
「おはようございます。」
「お、おはようございます。」
 入口のところでばったり後輩の女の子に遭遇して挨拶され、思わず動揺する。山田さんはうちの職場では数少ない若い女性。年下なんだけど、かわいいというより何だか落ち着いていてしっかり者で、隙がない感じがして、こちらが落ち着かない。
「佐藤さん、課長が呼んでいましたよ。」
 遅刻しているわけでもないのに、朝一番で何だろう。通勤でかいた汗でシャツが肌にくっついて気持ち悪い。指でシャツをつまんで肌との間に空気を入れながら、荷物を自分の椅子の上に放り出して、課長のデスクに向かう。
「課長、おはようございます。」
「ああ、おはよう。」
 課長は、こちらも向かず、テイクアウトのコーヒーの紙コップを握って難しい顔でパソコンの画面を見ている。
「お呼びだと聞いたのですが。」
「ああ。」
 短い返事だけしか返って来ず、じりじりと待つ。
「あのーー」
「ああ、まあ。」
「はあ。」
 朝一で呼んで、これはないだろう。俺も席でコーヒーの一杯も飲みたかったんだけど、と思いつつ、課長の言葉を待つ。
「君、昨日、フォーマルドレス返品のお客様に口答えしたね。」
 ……その件か。さっき引っ剥がしたシャツが肌の上にぺったりと冷たくくっついた。
「口答えなどということは……返品・返金だけでは不十分で、別の商品を無償提供しろと言われたものですから、それは応じかねますと申し上げただけで……」
 昨日対応したおばはんの唇からはみ出した赤い口紅を思い出していた。
「相手様は酷くご立腹の様子だ。失礼な対応だったと、●●百貨店の取締役の奥さまから苦情が入った。」
「●●百貨店?そのお客様が商品を買われたのは▲▲百貨店ですが……」
「お客様のお友達のお友達が、●●百貨店の取締役の奥さまだったんだ。」
「はあ……」

 俺の勤める会社は、苦情対応サービスを提供している。いろんな企業が一般顧客から受けるクレームへの対応を委託処理する会社だ。勿論、大概のクレームはその企業内で処理されるが、中には筋金入りのクレーマーもいる。そういう人間は、大概、あっちこっちでやらかしており、横の連絡が大切になる場合も少なくない。そういう調整と処理を請け負うのが我が社だ。
 そして、俺の役割は調整でではなく処理。専ら人間サンドバッグというところ。理不尽なクレーマーのところへ送られて、平身低頭、親には見せられない姿で謝って、御機嫌をとる。かつ、クライアントである企業の利益は守る、というのが原則。
「今日は、まず、ご迷惑をおかけした皆さまのところへ行って、お詫びして来い。誠意を示すことが第一だ。」
「はあ、菓子箱は?」
「持って行った方がいい。」
「では、経理に……」
「馬鹿!君のミスのために、なんで社が菓子代を払わにゃならん。」
 ……また自腹かよ……課長はいいよな、調整ばかりで。下っ端の俺は、身も心も懐も寒い。

 自分の席に戻って、外出する前にパソコンを立ち上げる。イントラネットのお知らせがやたらと多い。苛々とマウスを動かしていると、さっきの山田さんが紙袋を抱えてきた。
「佐藤さん、これ。」
 山田さんは、紙袋をずいと俺に押し付けた。
「何?」
 周囲を見渡して、声をひそめながら山田さんは言った。
「先日、結城さんが処理した件で、先様が島田屋の羊羹をどかんとくれたんです。無地熨斗付きの贈答品の残りですって。季節限定の品で……」
「え?」
 意味がわからず、山田さんの顔をつくづくと眺めると、彼女はにっこり笑った。
「これで菓子箱は買わなくていいでしょ。」
 袋の中をのぞくと、綺麗に包装された箱が三つ入っていた。
「いいの?」
「社内で分けてと言われたんですけど……たくさんもらったから、大丈夫ですよ。お菓子の分配は、女子の特権ですから。」
 気の利く子だ。偉い。しかし、そういうそつのなさも、できすぎに思えてなんだか怖い。
「頑張ってくださいね。」
 控えめに言うと、彼女は胸元で小さくガッツポーズを作って去って行った。何はともあれ、自腹を切る必要は亡くなったので、ほっとした。
 改めてイントラの掲示板を確認していくと、「パーソナルシステムのメンテナンスについて」という通知が目に入った。何々……パーソナルシステムが本日午後から明朝までメンテナンスのために停止……えーーーっ。これは由々しきことだ。しかし、パーソナルシステムは複雑で繊細な構造になっているから、メンテナンスは重要だ。使えない間は非常につらいが……サービス向上に期待して、我慢するしかない。
 一通り確認を済ませ、訪問先にアポの電話を入れて、社を出た。こんな仕事やってらんねぇ。最新のパーソナルシステム完備の社宅に住めるんじゃなけりゃ、とっくに辞めてる。
 
 ●●百貨店の取締役の奥さまとそのお友だちへのお詫びは簡単に済んだ。なんせ、こちらもプロ。相手を気分よくさせて、「許してあげる私って、なんていい人なんだろう」と思わせればそれでよし。残る問題は、諸悪の根源、ドレスを返品した本人だ。
 大体、性質が悪い。貧乏でもないくせに、恐ろしくがめつく、えげつない。最新の高級フォーマルドレスを買っておいて、「気に入らなかった」と返品する。突き返されたドレスには、香水がたっぷりとかけられ、食べ物や飲み物の染みがついている。どこが「試着してみただけよ」だ。しかし、そんな客は一定数いるのだ。驚くことじゃない。しかし、今回のおばはんは「精神的な苦痛を被った」とのたまい、代金の返還だけでなく、別のドレスの提供を求めてきた。
 そんなものを提供すると約束すれば、クライアントに不利益をもたらすし、それに癖になりかねない。代金の返還のみで納得させるしかない。「口答えした」と言わせないで納得させるにはどうしたらいいのか。

 悩んでいるうちにおばはんの家に着いた。門のある立派な家だ。チャイムを鳴らすとお手伝いさんという感じの人がドアを開けてくれた。応接室に通されて立ったまま待っていると、間もなくおばはんが入ってきた。凄い化粧をしている。何となく総毛が立つような、嫌――な予感がした。
「まあ、お座りなさいな。」
 案内してくれたお手伝いさんはお茶をテーブルに並べるとさっさと部屋から出て行った。おばはんと二人っきりになった応接間は、狭くもないのに化粧品と思われる悪臭が充満していた。俺はできるだけ冷静に誠実に丁重に、従来の主張を繰り返した。
「全然、誠意が感じられないわ。あなた、謝りに来たんでしょう。誠意をお見せなさいよ。」
 おばはんの声は妙にねっとりとしていた。おばはんは立ち上がると俺の座っているソファーに大きな尻をねじ込んできた。げげげ、まずい。
「誠意を見せて、ね。」
 不気味に品を作った顔が顔面に迫ってくる。
「いや、ですから、あの……」
 悪寒が走る。
「どうしたの。可愛いわね。震えちゃって……」
 席を立とうとするが、おばはんはしなだれかかってきた。体の上にどんどん体重が乗ってくる。まずい、食われる。しかし、これを拒否するとどうなるんだ、俺。
「あなた次第で許してあげるわよ。ねぇ。」
 貞操と職を天秤にかけてみる。いやいや、そんなことは冷静に考えられない。まずい。非常にまずい。今までに裸踊りまではしたことがあるが、其の先は未知の領域だ。
 蹴っ飛ばすわけにもいかないから、じりじりと自分の体重の重心を動かして移動しようと試みるが、相手もうまく一緒に体重を移動してくる。ソファーからずり落ちて毛足の長い絨毯の上に落下したが、おばはんは腰にしがみついてきた。グレコローマンかよ。場外へ逃れるべくおばはんを引きずったまま匍匐前進するが、敵は俺のズボンのバックルに手をかけている。思わずズボンのウエストを押さえたら、そのままずるずると場内へ引き戻された。
「奥さま、こういうことは……」
「照れなくっていいのよ。可愛がってあげるから……」
 可愛がって要らないです。心の中で悲鳴を上げつつ、必死でズボンを押さえた。おばはんは布の上からまさぐりつつ、俺の手をウエストから離そうとしている。仰向けにされまいと必死で絨毯に顔を押し付けると、鼻の穴にもけもけした絨毯の毛が無遠慮に入って来る。まゆ、ごめんよ。こんなおばはんに食われるなんて。情けなくて、涙が出そうだ。
「強情ね。楽しませてあげるって。」
 絶対、楽しくない。助けて!!もう駄目だ、食われる。
「やめてくれよ、母さん。」
 声と共に、俺の体を押さえつけていたものの動きが止まった。顔を上げると、体も動かせた。目の前に、おばはんの息子らしい人物が立っていた。俺より年上、落ち着いた感じで、そのくせ顔そのものはおばはんに似ていた。
 おばはんの息子に救出され、その家のキッチンに連れて行かれた。さっきのお手伝いさんが熱いお茶を入れてくれた。必死で踏ん張ったせいか、体のあちこちが今になって痛んできた。
「……どうもすみません。」
 おばさんの息子は沈痛な面持ちだ。こちらが事情を説明していないのにこの対応。きっとおばはんは常習犯だと確信する。
「母のクレームの件は、もう気にしないでいただいて結構です。ドレスは正規の代金で買い取ります。▲▲百貨店には私が出向いて話をつけてきますので……」
 良かった、息子は常識人だった。
「今日の母の行為については、何卒、御他言されませんよう……どうぞ、お願いいたします。」
 何だか息子が可哀想になってきた。無事、解決したようだし、貞操も守れたので、こちらはそれで問題ない。いや、他に犠牲者が出ないように、おばはんは社内のブラックリストに載せるけど……
 俺は、もう一杯お茶をもらって落ち着いてからその家を後にした。息子は俺が持参した菓子に金一封を添えて返してきたが、菓子だけを受け取った。
 
 職場に戻ると、自分の机の上に荷物を投げ出して、椅子にどっかりと腰かけた。課長に報告する前に、まず一休み。無茶苦茶、疲れた。体もまだ痛む。
「お菓子、役に立ちました?」
 気が付くと山田さんが隣に立っている。
「ああ、助かった、助かりました。」
「課長なら、外出されましたよ。今日は直帰されるそうです。報告書は週明けでいいと仰っていました。」
 机の上に可愛いメモ用紙が貼ってあるのに気付いた。
「あら、お菓子、余ったんですか。」
「……ああ…事足りました。また社内で何かに活用してください。」
 俺は菓子を山田さんに返した。山田さんはにっこり笑って受け取った。真面目で地味な印象しかなかったけど、こうやって見るとなかなか可愛い。いやいや、あのおばはんと遭遇した後では誰を見ても可愛く見えるだけだ。やっぱ、まゆが最高。
「話は違うんですけど、佐藤さん、今度、合コンしません?私の大学時代の友人が誰か紹介しろってうるさいんです。佐藤さんのお友達で、そういうのに付き合ってくれそうな方、いませんか。」
「あ、いや……俺、そういう飲み会苦手だし……」
 仕事で人の機嫌を取ってるのに、プライベートまで女の機嫌は取るのに使いたくない。でも山田さんにそういうわけにもいかないので、もごもごと口ごもって、お茶を濁した。

 課長もいないことだし、疲れたし、体も痛いから、今日はさっさと定時で帰宅することにした。まじ、体が痛い。普段、使わない筋肉を無理して使ったという感じ。こんな日は早く家に帰って、まゆと過ごすのが一番。
 とっとと職場を出て、地下鉄に乗って、自分の部屋に到着。入り口のドアのプレートに手を当てた。
「あれ。」
 いつもなら開くドアが開かない。俺はイントラで見た「パーソナルシステムのメンテナンスについて」という通知を思い出し、気分が一気に重くなった。鞄から普段ほとんど使わない鍵を取り出してドアを開けた。
 中に入るとぼんやりと暗い。明かりをつければいいだけなのだが、自動照明に慣れているから、妙に侘しく感じる。
「ただいま。」
 静まり返った室内に俺の声だけが虚しく響く。オーディオ装置をマニュアルに切り替えて、とりあえずBGMを流した。それから空調を設定し、冷蔵庫の中をのぞいた。レンジにセットするだけで食べられる調理済みフードは十分入っていたが、食欲が湧かなかった。久しぶりにクローゼットを開けて、クリーニング済の衣服の中から下着とTシャツとジーンズを引っ張り出した。シャワーを浴びて着替えしてもなんとなく居心地が悪く、腹もすいていたから、何かを食べに行くことにした。
 ぶらぶら歩いて街に出ても、行きたいと思う店も思い浮かばない。思えば仕事で外回りするとき以外は、ほとんど外食はしない。就職して社宅に入ってから、家事は全てパーソナルシステムにまかせっきりだ。単に自動的に処理するだけでなく、個人の好みや体調も把握してかゆいところに手が届くように万事こなしてくれるのがパーソナルシステム。我が社は苦情処理というメンタル的に厳しい業務を扱っているため、社員の福利厚生の一環として常に社宅には最新のパーソナルシステムが適応されるようになっている。メンテナンスでも行われない限り、会社と社宅の往復で何の不自由も感じないのだ。
 その分、メンテナンスの間はすこぶる不自由。しばらくの間とはいえ、嫌になる。
 そう思いながらふと前を向くと、つぶれそうな小汚いラーメン屋が目に入った。こういう店は、時々、大当たりだったりする。スープで煮こまれたような暖簾をくぐって店内に入った。予想に違わない小汚い店内で、予想もしない人物がラーメンをすすっていた。
「あら、やだ、こんなところ見られちゃった。」
 山田さんは、カウンターで、肩より少し長い髪を後ろで結んで、チャーシューとメンマが大盛りのラーメンを抱えていた。餃子はダブルサイズだった。
 離れて座るのもわざとらしいので、緊張しながら山田さんの隣に腰を掛けた。
「ここ、美味しいですか?」
「結構、イケますよ。」
 山田さんと同じものを注文し、先にビールをもらった。
「よく来るんですか、一人ラーメンに?」
「そうでもないですけど、私、一人ラーメンは平気ですよ。」
 山田さんはラーメンをほぼ完食して、パステルグリーンのハンドタオルで顔の汗を押さえた。俺は彼女の前のコップに自分のビールを注いでやった。
「あ、ありがとうございます。」
 彼女はすぐさまビールに口をつけてごくごくと飲み、餃子をぱくっと口に入れた。
「あ、佐藤さん、餃子、たくさんあるので、おつまみにどうぞ。」
 何だか、おっさんみたいな子だ。しかし、悪い感じはしなかった。
「パーソナルシステムがメンテで、こんな時ぐらい自炊すればいいんですけど……ミミちゃんがいない部屋にいるのが寂しくて……」
「ミミちゃん?」
「ええ、私のルームメイトです。見てください。」
 山田さんは携帯電話で写真を見せた。白いやわらかそうな毛の小さな猫だった。
「可愛いでしょう。この子といると癒されるんですけど、メンテナンスの間は立体映像が立ち上がらないから……部屋にいても寂しくてしょうがなくて。」
 山田さんは携帯を愛しそうに撫でてハンドバッグにしまった。
「佐藤さんもルームメイト設定してるんですか?」
「あ、うん、まあ。」
「ペットタイプ?それとも恋人タイプ?……それともお母さんタイプだったりして。」
 きゃは、と笑う山田さんを前に、俺はしどろもどろになる。
「まあ、まあ……想像におまかせします。」
 言えないよな、恋人タイプ、それもツインテールのミニスカ女子高生だなんて。
「でも、私、もうじき社宅を出るつもりです。じゃないと、自分でご飯も作らなくなってしまいそうだし。なんだか会社に飼育されているみたいでしょ。」
 山田さんは飲むと陽気になるタイプのようだった。ビールを俺のグラスに注いで、勝手に自分のグラスにも注ぎ足した。
「ペットの飼えるアパートってなかなか手が出ないけど、ハムスターぐらいだったら何とかなりそうだし……パールホワイトのジャンガリアンでも飼おうかなって。何だか、考えただけでわくわくしてきちゃった。」
 山田さんは勝手にビールを追加注文した。
「佐藤さん、飲みましょ!パーソナルシステムのメンテナンスに乾杯!」
 まゆのいない夜に職場の後輩と小汚いラーメン屋で飲んでいる俺。案外悪くないなと思った。ごめん、まゆ。

俺の恋人

俺の恋人

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-06-09

Copyrighted
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