禁足地
一、
――どれ程、眠っていたのか。
苔生した岩の上に引敷を延べて横たわっていた制多迦(せいたか)は、虚ろに目を開けた。
昼なのか、夜なのか。見渡してみても分からない。靄が辺りを満たし、麻の浄衣をしとどにしている。その冷たさに身震いしながら体を起こすと、下肢がぎしぎしと痛んだ。体を立てて懐に手を突っ込み、首から下げた小さな守り袋を確認する。指先に神経を集中して慎重に中身を袋から出した。
掌の上に載せたそれは、薄様紙に包まれている。指の水分を気にしながら紙を剥くと、小指程の玻璃の一石五輪塔が姿を現した。
………お捨てなさいませ………
女の声が聞こえたような気がした。制多迦は目をつぶり、歯を食いしばって、首を横に振る。
再び仏塔を紙で包みなおそうとすると、濡れた薄様紙は思うように扱えない。苛々と掌に押し広げると、小さな紙面は白く光を集め、その中央に墨書された不動明王の種子カーンが浮き上がって見える。
〈我ら、二童子の如く不動に縋り、法に従う。尽未来際の誓願なり〉
かつて兄と慕った男の言葉が空虚に響いた。
――裏切ったのは、矜羯(こんが)羅(ら)兄ではないか。
制多迦は手の中で握るようにして仏塔を包むと、それを再び守り袋に納めた。引敷を体に結わえ、結袈裟を正す。休む際に手にしていたはずの最多角の念珠は、もう何処ぞへ失せていた。
この山を彷徨って、どれ程の時が流れたのか。背にしていた笈も、体を支えるのに頼った錫杖も、気が付けば無くなっていた。
人に盗まれるはずもない。
ここは禁足の地。神仏を怖れる者ならば、足を踏み入れることはない。制多迦とて好き好んでこのような所に入り込んだわけではない。一刻も早く俗界に下りようと歩き続けているのだが、何時まで経っても抜け出すことが出来ずにいた。
――早く父上の下に参上せねば。
歩き始めると強ばった体が軋み、ぎしぎしと音をたてる。苔に滑らぬよう注意を払い、岩に手をかけながら進む。骨折以来、衰えた足の筋力より、腕の逞しさの方が頼りになる。
靄の中の景色は見覚えがあるような気がした。何度も同じ場所を巡っているようでもある。初めてそう感じた時は激しく動揺したが、何度も繰り返すうちに何故か慣れた。今はもうそれすら慣れてしまった。
見知らぬ山で迷い、案内人もおらず、道標もないとなれば、ひたすら尾根を下るしか手はあるまい。動じても始まらぬ。日も射さず、方位もわからぬ。尾根を見誤らぬように心掛けるしかあるまい。
半ば地を這うように岩場を抜けると、森に入った。鬱蒼とした闇が深く覆い被さってくる。木に寄りかかって腰を下ろし、目が慣れて視界が開けるまで時を待つことにした。
「山内は曼荼羅の如し。唯、神仏に身を委ねよ」
ふと、受け売りの言葉が口をついて出た。
出してしまってから、そんな自分を笑った。乾いて引き攣った笑い声が靄の中に吸い込まれていく。
――何故、こんな事になったのか。
制多迦は宙を睨んだ。
二、
制多迦は、生年二十一、聖護院末紀州常光寺の僧である。法名は仁尊。制多迦はただの仮名に過ぎない。
父は後醍醐の帝の血を引く常陸親王。親王が西国に落ちのびて各地を転々としていた際に、身の回りの世話をしていた女房の一人が制多迦の母であった。花山院家の縁者だというが、身元定かならぬものであり、故に、制多迦は生まれて直ぐに小寺に預けられた。その母は制多迦がもの心着く前に病でこの世を去ったという。
天台学僧としての道を歩み始めた制多迦であったが、父の不遇を知るにつれ、早くその役に立ちたいと願うようになった。父母恋しさがその一つの願いに凝り固まっていったのだ。その為には秀でた僧にならねばならぬ。財無く兵動かせずとも、仏法の道を極れば父の役に立てることもある筈。王法・仏法相依る王土故、仏法の権威となることが王法を支える筈。
制多迦は懸命に修行に励み、寝食の時間も惜しんで学問に勤しんだ。しかし、長じるにつれ、秀でた僧とは何か思い悩むようになった。
何を以て悟りを得たというのか。
世の高僧・名僧と称される人々は、真に悟りを得たのか。
考えて答えの出ることではなかった。
また、後ろ盾のある皇子たちが、法を修めたとも思えぬ幼少の身で座主・門跡となることを見聞きするにつけ、あてのない努力をすることに虚しさを感じた。
そんな制多迦が矜羯羅に出会ったのは、十六の時のこと。
矜羯羅は、制多迦より二つ年上の熊野修験で、名は若(にゃく)一(いち)といった。賤しき身なれども、常光寺に出入りしているうちに住持尊誉に気に入られ、弟子に準じた扱いとなった。才もあり快活で、山行で鍛えた鋼のような肉体を持つ若者である。
二人は歳が近かったこともあって、直に親しくなった。義兄弟の契りを交わし、不動明王に侍する二童子に擬えて、互いを制多迦・矜羯羅と呼び合った。
「我は山での行を行うこと三度。回を重ね、臈次に鑑みて、仏の道に進まん」
そう言い切る矜羯羅を見るにつけ、制多迦は修験の教えに魅せられていった。たとえ困難な修行であろうとも、それを成し遂げた先に必ず仏の道があるならば、迷うことなく邁進できる。一度の行を成したものより、二度の行を成したものの方が優れていると見做されるのだ。こんなに明快なことはない。必ず報われる努力ならば、遣り甲斐もある。
師尊誉は、度々、そんな若い二人を窘めた。
「古の百万塔陀羅尼より、そのように数に頼る風潮はあるものだが、そればかりが正しいとは思えぬ。仁尊よ、若一よ。一度の祈念や念仏が、百度の行の功徳にも勝ることもないとは言えぬ。数をこなせば必ずそこへ行きつけるといった常道など、仏の道に在りはせぬ」
しかし、制多迦にはそれは厳しい山の行を忌避する師僧の言い訳のように思えた。自分ならば、決して厭いはしない。身分や地位、年齢ではなく、努力した者だけが努力した分だけ仏に近付けるのだ。その方が理に適っており、平等であるように思えた。
師に山行を許されなかった制多迦は、悶々と寺内で修行に励み、旅をしては戻ってくる矜羯羅に憧れた。
「我らは共にある。この身が諸国霊峰の抖擻を成す時は、そなたも山上にあるが如きもの」
矜羯羅はそう言って制多迦を慰めた。
時は流れ、制多迦は二十歳の春を迎えた。寺内の修行に励む一方で、山駆けに備えて身体を鍛えることも怠らなかった。しかし、励めども、励めども、何も変わらない日々が延々と続く。少なくとも制多迦にはそう思えた。そんなある日、突然、父常陸親王からの使者が常光寺を訪れた。
尊誉の同席する場で対面した使者は鈴木仁右衛門と名乗り、父親王の文を携えていた。
「これは父上の御筆であろうか」
「御真筆と伺っております」
生まれて初めて見る父の手跡。今まで話にしか聞いたことがなかった父親王が、急に身近に感じられる。文には紀州常光寺仁尊を我が子と認める旨が記されていた。
「親王様は、今、何故にこの文をお遣わしになられたのか」
心躍らせる弟子を余所目に、尊誉は静かな問いを放つ。問われた仁右衛門は初老の実直そうな男で、小領主の家人といった今一つあか抜けぬ風采である。
「御存知の通り、親王様は四国や山陰・山陽の武士たちの旗印となっておられますが、苦戦を強いられております。信頼できる御身内を少しでも御自分のお側に置かれたいのです。成長された御子様が馳せ参じて下されば、御心強く思われることでしょう」
「では、仁尊を西国に下らせよと」
「はい。伴をしてお連れするように仰せつかっております。住持さまの文を頂いて、身元を明らかにしてお連れせよ、と」
則ち、常陸親王が仁尊を我が子とする文と、常光寺住持尊誉が身元を証する文、その二通の証文を携えて、親王の下へ参上せよ、ということである。
制多迦は父に招かれたことが嬉しかった。忘れ去られていたわけではない、必要とされているのだ。そう思うと、居ても立ってもいられないほどに心が逸る。しかし、尊誉は不安な表情を隠そうとはしなかった。
「鈴木殿、親王様の御意志に拙僧が口を挿むことは何もござらん。されど、赤子の時より我が弟子と定めて二十年、仏の道に進むよう導いてきたつもりにございます。これより先、いかなることになろうとも粗末に扱って下さいますな」
尊誉の物言いは穏やかだったが、武士をも威圧する強さがあった。仁右衛門は黙したまま神妙に頭を下げた。
制多迦はすぐさま出立の準備にとりかかった。偶々寺に居合わせていた矜羯羅に事を打ち明け別れを告げると、矜羯羅は己も同行すると言い出した。
「そなたの一世一代の大事なり。ならば、我が大事に等し。同道し、そなたのために力を尽くそう。そなたの一の従者になろう」
生まれて初めて寺から離れ、見知らぬ地に向かおうとする制多迦にすれば、只々頼もしい申し出である。
出立の直前、制多迦は一人、尊誉の室へ出向いて暇乞いをした。早朝の白々とした陽光が板の床を清めている。尊誉は上半身を真っ直ぐに立てたまま目を閉じて合掌していた。制多迦はその正面に座して両手をつき、深々と頭を下げた。体を起こしても、眼前の師は未だ同じ姿勢を崩さない。暫し張りつめた気が師弟の間を満たす。ゆっくりと目を開けた師の眼光は、弟子が今まで目にしたことのない鋭いものだった。
「お世話になりました」
気押されながらも短く挨拶をし、頭を再び下げると、師は漸く柔和な表情を見せた。
「うむ。道中、気をつけて参られよ。鈴木殿は、お人柄の良さそうな方とお見受けしたが、あの方も御主君の命に従うだけの身。必ずしもそなたのために働くわけではない」
「心得ております」
「うむ」
尊誉は文箱をそっと制多迦の前に押し出した。制多迦は頭を下げると、その中を検める。そこには尊誉の用意した文と古い守り袋があった。
「これは」
「そなたの母上よりお預かりしていた守り袋じゃ。その中にある五輪の塔を模した水晶は、母上が親王様より頂いたものだと聞いておる。身の証になるであろう。他言せず、肌身離さず身につけておくがいい」
躙り寄り、手づから守り袋を弟子の首に掛ける。
「御身愛しやのう。この寺にて心安らかに一生を過ごすよう願っておったが……」
「お案じ下さいますな。それに、若一殿も同行して下さるとのこと」
「若一が」
尊誉は急に訝しげな顔になった。
「若一が同行すると……」
「私も心強うございます」
「若一が」
独り言のように繰り返して、答えの出せぬままに制多迦の顔を見た。
「若一は頭も良い。そなたよりも世の中を知っておる。……しかし、それがそなたにとって吉となるかは分からぬ。人の心には闇がある。そなたにも、若一にも……勿論、この老いぼれにも……じゃ」
制多迦に言い聞かせているようで、やはり独り言のようでもある。制多迦は返答に困り、合掌したまま深々と頭を下げる。
「行くがよい。仏の御心の儘にお任せするより他あるまい」
今の制多迦には、身の危険に対する不安よりも、父に望まれているという喜びの方が大きかった。師の心配を有難く思わないわけではなかったが、そのようなことを案じている場合ではないと逸る気持ちの方が遥かに勝った。
制多迦は、仁右衛門に連れられ、矜羯羅を従えて、父の居所を目指した。
旅を始めてみると、制多迦は如何に自分が世俗のことを知らずにいたのかを思い知らされることとなった。今迄寺の外へ出してくれなかった師を恨めしくも思ったりもした。しかし、仁右衛門は誠実な人柄であったし、矜羯羅も今迄通り親身になってくれた。連れに恵まれて、直に旅にも慣れることができた。
常陸親王の居所は、仁右衛門にもはっきり知らされていないようである。仁右衛門は宿々で連絡を受けて、次の目的地に進むということを繰り返していた。
「こんなことで、父上の御許まで辿り着けるのか」
制多迦は不安を感じた。仁右衛門とはぐれでもしたら、次はどこへ向かえばいいのかも分からない。
「親王様の居所を敵方に悟られぬようにしておるのです。敵味方は入り混じっております。その上、昨日の敵が今日は味方……その逆もございますが。お心細くとも御辛抱下さいませ」
確かに従うより他ない。矜羯羅は独自に宿や市、津や泊で顔を合わせる修験仲間から風聞や噂を集めているようだった。しかし、制多迦自身にできることは何もない。
事件が起こったのは、梅雨の長雨の合間、臥龍山の峠越えの時。周囲は昼だというのに薄暗く、人影を見かけることも稀であった。道なりに進み、幅一間程の狭間に入り込んだところ、両脇の斜面から十余人ほどの不穏な輩が滑り降りてきて、あっという間に三人は取り囲まれてしまった。
それは見るからに賊と言った態で、弊衣蓬髪、異形の長柄を手にしている。下帯に大きな太刀をぶら下げただけのものもいた。誰も彼もがぎらついた目をしている。
「物盗りか。御子、逃げられよ」
仁右衛門は腰刀を抜くと、大きな動作で賊を払うように威嚇する。矜羯羅は、右手に抜刀、左手で制多迦の右腕を掴んだ。
「走るぞ」
後ろで賊を引きつける仁右衛門を残し、矜羯羅は制多迦の手を引いて、周囲を刃物で薙ぐようにしながら先ほど来た道を駆け戻る。しかし、賊は他にも潜んでいたのか、じきに追いつかれた。
「行け。走れ」
矜羯羅は制多迦を放ち、自らは賊に向かっていく。
「矜羯羅兄」
「走れ」
制多迦は、声に押されて我武者羅に走った。道を外れ、斜面を駆けあがると、急に視界が開ける。
「は……」
そこで大地は大きく断ち切られていた。絶壁の崖である。覗き込むと暗い淵が口を開けている。方向を変えようとして振り返ると、もうそこまで賊が来ていた。三人の男が薄ら笑いを浮かべながら槍先をこちらに向けている。
「その背の荷を渡して貰おうか」
背の笈には父親王と尊誉の書があった。渡すわけにはいかない。渡したところで助かるとも限らない。
――我が志、神仏の思し召しに適うならば……
制多迦は跳んだ。
岩壁にぶつからぬよう、出来るだけ遠くへ跳び、そして淵へと落ちていった。
三、
熱と痛みの波に溺れる。
もがくように制多迦が目を開けると、見知らぬ若い女の白い顔が前にあった。
「ここは……そなたは……」
「何も案じずに、お休み下さい。」
女の肩越しに天井を見て、制多迦は自分が屋内に寝かされていることに気付いた。
「熱い……いや、寒い……」
「熱がお高いのです。何かもっと掛けるものをお持ちしましょう」
女はどこかへ出て行った。制多迦は体を起こそうとしたが、左の下肢に激痛が走る。痛みの範囲が広く、足のどこを痛めたのかは自分でも分からない。
「動いてはなりません」
女の慌てたような声が飛んでくる。はたはたと足音が駆け寄ってきて、少し黴臭い夜着が制多迦の上に掛けられた。
「腿も膝下も、骨が砕けているのです。心得のある者に手当してもらったのですが……骨がつくまでは、添え木を外さずにそっとしておかねば……今、我慢なさらなければ、一生不自由な思いをされることになります」
熱に喘ぎ震えながら、制多迦は女の言葉を聞いていた。この女は自分を助けてくれたのだ……そう確認して、再び意識を失った。
制多迦が次に目を覚ました時は、熱も下がったのか、意識もはっきりとしていた。額の上には干せた手拭いが載せられている。夜の闇が周囲を満たし、土師の灯明皿の上でぽつんと小さな火が灯っていた。背骨が痛んで、寝返りはうてない。首を回して横を見ると手の届きそうな近くで、先程の女が臥せっている。制多迦より少し若いだろうか。磁器を思わせる硬く整った小さな顔には、未だ少し幼さが残っている。
自分の下半身の状態を確認しようと首を起こしたが、背に針金を通しているように持ちあがらず、盛り上がった夜着が見えるばかりだった。
「お目覚めになりましたか」
女が夜着に手を添えて覗き込んだ。
「ここは、貴女様は」
「臥龍山七社の一つ岩倉社の末、光社の境内の屋です。私はこの社の祀りを行う者の娘です」
制多迦は自分が未だ女に礼を言っていないことに気付いた。
「色々とご面倒をお掛けして忝い。私は紀州の修験、制多迦と申す」
咄嗟にそう名乗る。実際、旅の間は素性を明らかにせず、修験のふりをしていた。その方が何かと都合が良かったのだ。
「父上は神主様であろうか、御礼を申し上げねば」
女は、歳に似合わぬ落ち着いた静かな笑みを浮かべた。
「父は熊野を巡る修験にございます。年に数度の祭りにしか戻りませぬ。日々の勤めは私が致しております」
助けてくれたのは、父の修験ではなく、娘本人のようだった。
「貴女様が助けて下さったのか」
「磨崖仏を……時折、詣でに参るのですが、その近くの淵に貴方様が浮かんでおられて……驚きました。偶々、その場に居合わせた猟師に頼んで、手車でここまでお運び致しました。ここは普段、私一人が守りをする小さな社。ごく近くに岩倉社がありまして、いつも何かと世話になっているのですが、この度もそちらへ手当の人などをお願い致しました。」
「忝い。娘御は我が命の恩人、不躾ながら御名をお教え頂きたい」
今まで静かな表情を変えなかった女が、少しはにかむ。
「迦楼(かる)羅(ら)と申します。仰々しい名で……」
名乗るのが恥ずかしかったのであろう。確かに女に不似合いな気はしたが、父が修験ならばそういう名をつけることもあろうと制多迦は思った。
「迦楼羅殿か。暫く迷惑をお掛けすることと思うが、宜しくお頼み申す」
挨拶めいたことを済ませると、激しい口の乾きを感じた。自分では体を起こすこともできず、上半身を支えてもらって水を口にすると一息ついた。一息ついた途端、大切なことを思い出した。
「私の荷は、笈は」
「はい」
女は部屋の隅からごそごそと笈を引っ張り出し、制多迦の見える場所に置く。
「中は」
「失礼だとは思ったのですが、身元が分からないかと……」
「見られたのか」
「はい」
申し訳なさそうに頭を下げる。
「いやいや、それは致し方ないこと。気に召さるな。中に漆塗りの文箱があるはず。見せて下さらぬか」
平静を装って尋ねると、女は小首を傾げた。
「塗の文箱……でございますか。さて……」
女は目の前で笈を開き、手を入れて中のものを取り出し始める。制多迦が見えるように床の上に全部並べて、それから空の笈の中を見せた。
「これで全てでございますが、文箱と言うのは……私は見ておりませぬ」
制多迦は血の気が引くのを感じた。
「そんな。誰か荷に手を触れたものは他に……」
「手伝いの者が出入りしていた時も、笈は私の見える所にありました。盗んだ者がいたとも思えません」
「だが……」
女の言葉を信じるなら、淵に飛び込んでから女に救われるまでの間に、誰かが笈から文箱を盗み出したということになる。
「もし盗人がいたとするなら、私以外には考えられませぬ」
女はそれ以上の詮索を許さなかった。
体が動くなら、無駄であろうと、自分の通った場所、飛び込んだ淵から女の家までの全ての道のりを探したい。二通の文がなければ、父親王に対面できたとしても自分が仁尊であるという証は立てられない。
「大切なものだったのですね。されど、今は何ができるでしょう。お体をお休め下さい」
確かに女の言う通りであった。
大切な文を失ったことも辛かったが、何より矜羯羅や仁右衛門のことが気がかりである。しかし、訳ありの旅ゆえ軽々に捜索を人に頼むこともできなかった。この辺りで山賊に襲われた旅人の遺骸が見つかったというような話は最近耳にしていないと女は言う。
「そういうことがあれば、私の耳にも入って来ると思うのですが……この辺りは岩倉の修験が仕切っていますから……見聞きしたことがあれば教えてくれるように頼んであります」
生き延びていてくれ、そして自分を探し出してくれ。制多迦は希望を持つことにした。
何にしろ、制多迦の骨折の程度は酷かった。頑丈な添え木で腰から左下肢を固定されたために、一人で起き上がることもできない。飲食をするのも、身体を清めるのも、それこそ、用を足す時すら女の介添えが必要だった。女は苧績みをしながら、制多迦の側に侍るのが常となり、夜も隣で休んだ。
若い女人が常に側に侍し、身体に触れる。介護の為とはいえ、寺で育った制多迦は心穏やかでいられなかった。
「このような世話まで、忝い」
「お怪我されているのですから、お気になさいますな」
女はそう言いながら顔を赤らめる。制多迦には女の指の触れた部分が熱く感じられた。
骨は簡単に元通りにはならなかったが、体が回復していくにつれ、横になってばかりいるというのも退屈になった。そんな様子に気付いてか、迦楼羅は岩倉社から少しずつ書を借りて来るようになった。
「貴重な書は私のようなものには持ち出せません。目新しいものではないかもしれませんが」
女の心遣いは有難かった。臥龍山における儀軌や作法など修験の入門書のようなものが多く、かえって制多迦には新鮮だった。ちょっとした疑問を口にしてみたところ、意外なことに迦楼羅から納得のいく答えが戻ってきた。父が修験だというだけでなく、本人もかなり修験の法に通じている。冗談半分に、修験になられるおつもりだったのかと問うと、女は学問をしたところで修験にはなれませぬ、父の後職すら長吏様にお許し頂けないのです、と淋しげに返された。
最初は女と二人で狭い一室にいることが気まずかったが、神仏について語り合ううちに、気にならなくなった。徐々に体が動くようになっても、何となく女の世話に身を任せたままでいる方が心地良かった。
女の所作はどこか優美で、その癖、無駄がなかった。制多迦は自分の体が満足に動かない代わりに、迦楼羅が立ち働くのを目で追った。高い位置で束ねた長い髪は白く細い首を際立たせ、肩の華奢な骨格を思わせる。長い睫毛に縁どられた切れ長の目、紅を差したように朱く、ふっくらした唇。褶を巻いた腰の細さ、まくった腕の透き通るような白さ。
迦楼羅は、美しい女だった。
女は夜になると小弓を鳴らした。
「梓弓か。東国の習いと聞くが……」
相手が年下の女ということもあり、制多迦の口のきき方も、その頃には随分馴れ馴れしいものになっていた。
「東国からの旅の方に弓を頂いたのです。やり方は自己流で……」
闇に向かって唸るような響きが走る。その震えが収まると、また細い指が弦を弾いた。
びゅん……
びゅん……
特に作法は気にしていない様子で、鳴らす数も日によって違う。
「魔を払うのか」
「いえ……我流でやっていることで……こうしていると、行く末が見えるのです」
「行く末が。占うのか」
「お笑い下さいますな。これでも外れたことはないのです」
女は笑えないことを軽く言う。
「外れたことがないとは、それはまた。まことならば、国をも動かせるな」
「全てが見えるわけではありませんし、予見したところで何か出来るわけでもありませぬから……」
制多迦が軽口でからかっても、女はけろりとしている。
「では、何か私のことを占ってみよ」
「私の占ったことは誰も信じないのですよ。昔から、たった一人も」
女は弓を片付けると、制多迦の側に座って知らぬ顔で苧を績み始めた。
「信じよう。占ってみよ」
催促すると、女は手を動かしながらただ笑った。その気安さに、ふざけて制多迦は女の手をつかむ。力を入れたつもりはなかったが、女は体ごと制多迦の方へ倒れこんだ。上体を起こして座る制多迦の腹の上で女は仰向けになった。
「すまぬ」
「……いえ。押してしまって……痛くはございませんか」
制多迦は、握っていた手首を引っ張って女を起こそうとしたが、そうすると息がかかる程に顔が近くなる。
「……すまぬ」
思わず、息をつめた。女はもう笑ってはいなかった。じっと制多迦を見ている。
「私は貴方様の手にかかって死ぬさだめにございます」
制多迦はぎょっとした。
「そんなことは起こるはずもない。そなたは私の命の恩人だ」
女の手が制多迦の背に回る。促されるように、制多迦は女の上半身を抱いた。
「貴方様もお信じにはならないでしょう。されど、覚えておいてくださいませ。私の申し上げることは決して外れぬのです」
女の胴が制多迦の腕の中で言葉に合わせて膨らみ、萎む。意味を成さぬ言葉は続く。
「如何なろうと、貴方様をお恨みすることはありません。只、そうなったら、その時は貴方様が大切に身に着けておられるものをお捨てになるのですよ。それが貴方様の救われる唯一の道になりましょう」
女を殺めることなどあるはずもなかった。だから、女の忠告についても気に留めなかった。
「馬鹿なことを」
制多迦はそう言ってから、女を抱いていることを気まずく思った。腕を緩めると、女もしがみついていた腕を放し、制多迦の胸に手を添えて真っ直ぐに見つめた。
「時期が来たら……思い出して下さいませ」
何事もなかったかのように身を離し、迦楼羅は再び苧を績み始める。制多迦には何が何だかわからなかった。ただ女の胴体を抱いた感覚だけが妙に生々しく残っていた。
四、
ひと月程経つと、制多迦は杖をついて自分で動けるようになった。しかし、女は制多迦が外出することを嫌がった。
「訳がおありなのでございましょう。岩倉の修験たちが色々勘ぐっております。ここは彼らが仕切っているところ。旅を続けられる程に回復するまでは、大人しくしていて下さいませ。そうでなければ私もここでは生きていけなくなります」
そういう風に言われると我儘も言えない。しかし、矜羯羅や仁右衛門の消息は聞こえて来ず、ただ女の家で時が過ぎていくことに焦りを感じた。
また、志半ばの僧の身で、女に対して愛着を持ってしまったことにも戸惑いを感じ始めていた。杖を頼ってでも女の家を出て然るべき宿まで足を延ばそうかとも考えたが、朝になると体が痺れ夕刻になると回復するということが続き、思い切りがつかない。
「焦らずに、時をお待ちなさいませ」
女はそう言って、相変わらず岩倉社から書を借りて来たり、修験から薬を貰って来たりと、甲斐甲斐しく制多迦の世話を焼き続ける。
そのうちに半年が経った。一人で歩けるようにはなっていたが、体の痺れは治らない。その間、女の父親の修験の顔を見ることもなかった。古びた社の境内で女としか接することのない生活が続く。
もはや失った文を取り戻すことは絶望的である。仁右衛門や矜羯羅が生きていたとて、自分がここに居ることに気付くことはないだろう。自力で父親王の下へ向かうか、常光寺の師の下へ帰るか……
「このまま、ここで何も為すことなく終わるのではないだろうか」
人をあてにしてはいけない、自分で何とかせねばと思いつつ、痺れる体は如何ともし難い。
「ここで何も為すことなく終わるのは、お嫌ですか」
夜、制多迦の手足をさすりながら女は言った。
「ここで私と一緒に住まうのは、お嫌ですか」
「そういうことではない。そなたには良くしてもらって感謝しておる。しかし、為さねばならぬことがある。その為にこの世に生を受けたのだ。それに……」
「それに」
女は手を止めて制多迦を見た。迦楼羅は、時々、全てを見通すような目をする。その目で見られると、制多迦は自分が取り込まれてしまうような不安に益々駆られてしまうのだった。
「妻帯はせぬ。こうしてそなたの厄介になり続けるわけにはいかぬ」
つい語気が強くなる。
女は、唐突に、つっと立ち上がった。隣室に行き、煎じ薬を椀に注いで持って来る。制多迦のために修験から分けてもらっているといういつもの鎮痛と滋養強壮の薬だった。しかし、女は椀を持ってきたものの、制多迦に手渡すことを躊躇し、あろうことか自分でごくごくと飲み干してしまった。
制多迦は呆気にとられた。自分の言葉が女を傷つけたのだろう。そう思った。
薬を飲み干した迦楼羅は、感情を露わにすることもなく、椀を片付けると、何も言わずに弓を鳴らし始める。
びゅん……びゅん…
闇が震える。制多迦は迦楼羅に声をかけることも憚られるような気がした。
びゅん……びゅん…
何時になく、その夜は女が弓を鳴らす回数が多かった。規則正しく繰り返される音の震えを制多迦は数える。其の内、知らぬ間に眠りに落ちていった。
翌朝、目を覚ました制多迦は、自分の体が何時になく体が軽く、自由に動くことに気付いた。末端を凍らせていた痺れが嘘のように消えている。
「まさか……」
慌てて迦楼羅を探したが、見当たらない。近くに侍っていることの多い女だったが、食事の支度をしている気配もない。
身支度をして、改めて社の外をぐるりと見て回ったが女の姿は見えない。更に足をのばして女を探していると、簡単に淵の側に出た。自分が助けられたのはこの辺りに違いない。周囲を見渡すと対岸のそそり立つ崖が目に入った。その時、磨崖仏と思しき岩の側で手を合わせている武士の姿を見つけた。
「お」
その武士はこちらに気づくと、目深に被っていた檜笠を持ち上げて顔を晒した。見覚えのある顔だった。
「仁右衛門殿」
「御子様、御無事でいらっしゃったか」
仁右衛門は破顔一笑し、良かった、良かったと繰り返した。肩に手を置いて制多迦をその場に座らせ、自分も横に腰を下ろす。
「お探しせねばと思っておりましたが、深手を負ったために身動きできず、山の麓の知り合いのところで養生しておりました。そのうちに事情が変わって……」
一気に早口でここまで言うと、仁右衛門はつくづくと制多迦の顔を見た。
「御子様は、若一とご一緒でしたか」
「いや、賊に襲われた時に別れて以来、行方は知らぬ」
「証拠の文は」
「実は、それも行方知れずじゃ」
仁右衛門は嘆息した。
「この半年で、色々と事情が変わり申した。まず、非常に申し上げ難いことではございますが、我が主は常陸親王様の下を離れました。親王様は旗色が悪くなり、一先ず、九州へ向かわれたのです。御子様を父親王様の下へお連れするということは、最早、私の役目ではなくなりました」
「そ、それは」
制多迦は言葉を失う。
「今は主より新たな役目を申し付けられ、この地を離れる前に、もう一度、この辺りを見ておこうと立ち寄ったに過ぎません。……我が役目でなくなったとはいえ、尊誉様とのお約束もあり、御子様の身を案じておりました。ここに銭が少しばかりございます。麓の龍明寺は聖護院末に連なる寺。無下にされることもありますまい。頼られませ。寺々の縁を頼って、常光寺へお帰りになるのです。宜しいですな」
仁右衛門はさし銭を腰から外すと、制多迦に握らせる。
「宜しいか、常光寺に帰り着くまで、御名を名乗ってはなりませぬ。二月ほど前に、常陸親王の御子仁尊と名乗る人物が幕府方に捕縛され、毒で害されました。その話を聞いた時は、てっきり貴方様が亡くなられたものとばかり思っておりましたが……御子様の名を騙った者は、害される直前に自分は仁尊ではない、若一だと大暴れしたそうでございます」
制多迦はその意味を考えていた。銭を握ったまま、ぶるぶると震える。
「証拠の文を持った御子仁尊様は亡くなられたのです。身を隠したまま、無事、常光寺へ、尊誉様の下へお帰り下さい。九州におわす親王様とて、今は身を隠すことで精一杯。御子様はもはや亡くなったものと思っておられるでしょう」
仁右衛門は制多迦の肩を抱き、あやすように少し揺すった。
「しっかりなさいませ。私はもうお側に仕えるわけには参りません。父上様からのお迎えもないでしょう。若一が、何故、御子の名を騙ったのかは分かりかねますが、今は尊誉様の下へ無事にお戻りになるのが一番です」
仁右衛門と別れて、制多迦は呆けたように光社へ戻った。
父の下へ向かいたいという気持ちは変わりないが、こうなれば確かに常光寺の師の下に帰るのが得策であろう。ふらふらと屋の入り口に差し掛かったところで男の声がした。制多迦は、咄嗟に身を潜めて物陰から聞き耳をたてる。
「一体、何時になったら、若一は残りの金を払ってくれるのだ」
「そんなこと。私の知ったことではない」
「迦楼羅殿、おまえ様の匿っている男は金になるのだろう」
「詮索は無用じゃ」
「若一に隠れて、その男と宜しくやっているのではないのか」
「くだらないことをお言いでない。亡き父者はそなたら岩倉神人の頭。この私に無礼な物言いは許しませぬ。それより、次の祭礼の清目の籤を……さっさと長吏様の所に使いに行って来ておくれ」
迦楼羅が声を荒げると、男は屋から出て行った。蓬髪で汚い身なりをした屈強そうな男だった。
制多迦は、男が十分に遠ざかったのを見計らって、屋内に入った。迦楼羅は疲れた顔をして板の間に座り込んでいる。
「……若一を知っていたのか」
女は驚いた様子も見せず、ただ目を伏せた。
「若一は、我が夫でございます」
制多迦は唖然とした。
「……臥龍山で生まれ育った岩倉神人の子、我が父に仕えていたこともございました。今は父の後職を継ぎ、この社の守職でございます」
この一帯は、云わば、矜羯羅の故郷だったのだ。そこで賊に襲われ、その女に世話をされていたというのは如何いうことなのか、制多迦にもぼんやりと解ってきた。
「若一は死んだぞ」
「はい」
「驚かぬのか」
どこと言うことなく下を見ていた迦楼羅は、ゆっくりと顔をあげる。
「あの男の行く末は見えておりました。貴方様と御身分を取り替えて、貴方様の代わりに死ぬさだめでございました」
さだめ……そう口にする迦楼羅に、制多迦は憤りを感じ、低い声で唸った。
「ずっと謀っておったのか」
「はい」
女は表情を変えることなく落ち着いた様子で立ち上がると、真っ直ぐに制多迦の方を向く。制多迦は胸の中で怒りがじりじりと膨らんでいくのを感じた。
「あの薬は」
「痺れ薬にございます。若一の邪魔にならぬよう、貴方様をここにとどめておくための」
「襲ってきた賊は」
「若一が手配した者たちにございます。大方が岩倉神人でしょう」
「では、全て若一の計画だったと……」
女は頷くように、再び下を向く。
「若一は強欲でございました。岩倉神人を配下に置くために、この屋に押し入って、私を娶った男でございます。……病で臥せる父のいるこの屋で私を……全ては、父の後を襲うために……強欲な男でございました。貴方様の御血筋が良いことを知って、立身出世の機会を狙っていたのです」
身分を越えて、兄弟の如き絆で結ばれていると信じていた矜羯羅は、自分を立身出世の足掛かりとしか見ていなかった。そう思いたくはなかった。
「旅の途中、色々と策を巡らせていたようです。そして、あの峠で貴方様を殺めて、成り代わるつもりでした」
「殺すつもりだったのか」
「……貴方様を妬んでおりましたから」
頭を殴られたような気がした。矜羯羅が自分を殺すほど妬んでいた、そんな人間だったとは。とても信じられない。
「淵に浮かんだ貴方様は気を失っていただけ。若一は貴方様の首に刃物を突き立てようとしました。ですから、私があの男に言ったのです。……憎いとお思いなのでしょう、ならば生かして、長く苦しめておやりなさいませ、と」
諦めたように静かに語っていた迦楼羅の声が急に激しく震えた。声を呑みこむように暫く押し黙った女は、顔を上げ、目を見開いたまま瞬きもせず、ぼろぼろと涙を溢した。その瞳を真っ直ぐ制多迦にむけたまま、掻き口説くように言葉を続ける。
「私がそういうと、あの男は河原の大石を抱えてきて貴方様の足の骨を砕きました。何度も何度も打ちつけて……あの時の若一の顔、鬼のような形相が忘れられません。残忍な男だとは知っていたつもりでしたが」
「何故、早くに話してくれなんだ」
「さすれば、貴方様は若一を追って、父上様の下へ向かおうとなさったでしょう。それでは御身に危険が降りかかります。私は決めたのです。若一に、貴方様の代わりに死んで貰おうと」
迦楼羅は制多迦の胸にしがみついた。
「若一に貴方様の悪しきさだめを背負わせて、私は貴方様とここで穏やかに暮らしたかった。私の夫として、ここに住いする修験として、生きて下さいませ。常陸親王の御子仁尊様は最早、この世にはいないのです」
女は制多迦に体を押し付ける。
「抱いて下さいませ」
迦楼羅は制多迦を見上げ、涙を押し出すように瞼をぎゅっと閉じる。制多迦は、女の白い顔の中で、唇が赤い花のように濡れ濡れと光るのを見ていた。引き寄せられるようにその口を吸うと、無我夢中で頭を抱き、それから頭の輪郭をなぞるように手を滑らせていく。そして、細い首へ、華奢な肩へ。まるで熱を持った毒が口から吸い上げられたように、制多迦の体を駆け巡っている。得体の知れぬ毒が制多迦を突き動かした。
顔を離すと、迦楼羅は制多迦を見つめながら胸元を緩めた。制多迦には、白い肌が体温で匂うように感じられた。
制多迦はゆっくりと迦楼羅を横たわらせて、その上に跨った。迦楼羅は恍然と目を閉じる。制多迦は首から胸の肌の白さをもう一度確認するように指で撫でてから、両手の指を広げ、細い首をぐっと上から押さえつけた。
矜羯羅は自分を利用していただけだった。
迦楼羅は何もかも知っていて自分を騙していた。
そればかりではない。
迦楼羅は矜羯羅をも騙して、破滅させた。
許せなかった。
迦楼羅は矜羯羅から自分を助けてくれた女でもあった。しかし、矜羯羅に抱かれていたのだ。その幼さの残る楚々とした顔で。
迦楼羅は抵抗することなく、さほど苦しむ姿も見せず、そのまま簡単にこと切れた。制多迦は木偶の如く動かなくなった迦楼羅を、細い腰の上に跨ったままで見下ろしていた。
膨らんだ舌が半開きの唇からこぼれ、僅かに眉をよせている。その姿は苦悶しているようでもあり妙に艶めかしく、制多迦は激しい衝動に襲われた。だらりと動かなくなった女の体を抱き起こすと、少し肌蹴た小袖の胸元に顔を埋める。まだ温かい体は優しく制多迦の頬を受けとめた。
「迦楼羅殿。おられぬのか。使いに行ってきたぞ」
屋外から響く男の大声で、制多迦は我に返った。自分の笈を抱えると物陰に隠れ、男が屋に入りきったところで、外へ飛び出した。
「た、大変じゃ。迦楼羅が殺されておるぞ。穢れじゃ」
大騒ぎをしている男の声を背に聞きながら、制多迦は逃げ出したのだった。
こうして、制多迦は社の境内地を死で穢した罪人となった。祭礼を控えた時期に末社を穢された岩倉社の怒りは大きく、一山をあげて大々的に捜索が行われ、修験・神人たちによって山狩りが始まった。
制多迦は禁足地に逃げ込むしかなかった。
五、
――どれ程の時がたったのであろう。
靄で白く濁った宙は時間をも飲みこんでいく。水しか口にしていないのに、餓えも感じない。肩に掛けていた結袈裟と腰に結わえた引敷が、知らぬ間に失せていた。
罪を犯した自分は、寺に帰るのだろうか。父の役に立ちたいとここまで来て、僧としての道も踏み外し、神の庭を彷徨っている。今までやってきたことの全てが意味を失ってしまった。
――仏の道を外れてしまったなら、せめて父上の下で何かの役に立ちたい。
再び立ち上がろうとすると、仁右衛門の声が聞こえた。
〈証拠の文を持った御子仁尊様は亡くなられたのです。身を隠したまま、無事、常光寺へ、尊誉様の下へお帰り下さい〉
「違う。仁尊は私だ。私が仁尊なのだ」
〈父上様からのお迎えもないでしょう。今は尊誉様の下へ無事にお戻りになるのが一番です〉
「父上には私など必要ないと言うのか」
大声で喚くと、自分の言葉が自分の耳に入った。
「父上には、私など必要ない……」
不自然な木霊が何度も打ち寄せて、耳の底にこびりつく。
「父上には、私など必要ない……」
「父上には、私など必要ない……」
「……必要ない……」
認めたくなかったことではあったが、それはどこかでずっと前から気づいていたことのように思えた。父に必要とされたくて、仏の道で抜きん出ようとしていたに過ぎない。努力しただけ認められたかった。誰よりも、一度も会ったことのない父に。何かを成し遂げたかったわけではない。それだけのことだったのだ。
………お捨てなさいませ………
何故、自分を助けてくれた女を殺してしまったのか。
女は、自分から仁尊のさだめを奪った。もし、仁尊として害されたなら、自分は父の役に立てたと満足して終われたのだろうか。
自分に成り代わった男のおさがりの女と、寂れた社で穏やかに暮し、満足してしまうかもしれない自分が許せなかっただけではなかったのか。
幼き時より仏道修行をしてきたはずの自分は、所詮、それだけの人間だったのだ。厳しい山行をしなかったからではあるまい。自分も矜羯羅も、世俗の欲に囚われた心を持ちながら、形通りの行の数をこなしたことで、仏に近づいたはずだと人に吹聴したかっただけなのだ。
女と暮らす道も、師の下で再び仏道修行に励む道もあった筈だった。しかし、自分はそのどちらも選べなかった。父に認められる自分に囚われていたからだ。
………お捨てなさいませ………
父に認められる人間になることが、賤しい修験の女と夫婦になることよりも意味のあることだったのか。
――何と浅ましい。この手を汚し、境内を穢し、神の庭を侵し……
靄の中、立ち上がると再び歩き出した。もう尾根を探しはしなかった。山を下りることなどできまい。神の怒りを買い、この地に閉じ込められたのだから。己の愚かさを、犯した罪を、一歩一歩踏みしめながら歩き続けるしかない。
そうだ、最早、言い訳はしまい。
眼前に迦楼羅の白い肌が示された時、その肌に手を這わせる矜羯羅の姿を見てしまったのだ。だから手にかけた。それだけのことだ。迦楼羅を抱かなかった自分が、迦楼羅を抱いた矜羯羅と、矜羯羅に抱かれた迦楼羅を憎んだ。そんなものはこの手で消してしまいたかった。
一生不犯の誓願など笑わせる。自分を突き動かしたのは、肉への欲望以外の何物でもなかった。
………覚えておいてくださいませ。それがあなたさまの救われる唯一の道になりましょう………
制多迦は懐から守り袋を取り出した。そして、中から仏塔を取り出し、守り袋と紙はその場に捨てた。仏塔をじかに握りしめ、目を閉じて「ノウマク サンマンダ バザラダン カン」と口内で短く呪してから、平板な岩を探し、その上に安置した。
「我、出自を捨て、俗世を捨て、煩悩を断ち、唯、仏弟子として御許に参る。山内は金剛界・胎蔵界、両部の曼荼羅の如し」
仏塔から離れて盤上に立ち、バン・アークの二つの種子を揃えた二本の指で虚空に書いた。儀軌などどうでも良かったが、自分で区切りをつけたかった。智拳印を結び、目を閉じると、足元の岩が揺るぎ始める。
足元の岩が揺るぐ。
大地が根底からひっくり返る程に激しく。
それが、そんなことが、こんなにも穏やかに感じられるのは何故なのだろうか。
制多迦は目を閉じたまま、自分の体が岩と共に落下していくのを感じていた。何かをしようとは思わなかった。何処に落ちていくのか、自分が如何なるのかも考えなかった。そんなことは、最早、如何でも良いことであった。
――我が志、神仏の思し召しに適うならば……
何が如何であれ、草木に宿る仏性の如く、この曼荼羅の一部に昇華するだけの事であった。
制多迦は、心地よい温もりに包まれていた。穏やかな光を抱いて、暗く深い淵へと落ちていった。
禁足地